札幌第二次「青春を返せ」裁判の控訴審判決を評価する


昨年10月31日、札幌第二次「青春を返せ」裁判の控訴審判決が、札幌高裁で下されました。この裁判は、統一教会を脱会した元信者とその親族ら63人が、教会を相手取り約6億6500万円の損害賠償を求めた訴訟で、地裁判決(2012年3月29日)では統一教会に対して、原告らに2億7800万円の損害賠償支払いを命じる判決が下されました。これを不服として統一教会側が控訴していた裁判で、判決が下りたということです。

この高裁判決の概要を簡単に説明すると、同裁判では統一教会の元信者らの親族も損害賠償を求めており、一審判決では親族らの請求も認められていたのですが、高裁判決では「不法行為が成立しない」ことを理由に親族らの請求を棄却し、また既に時効が成立しているケースに関しても、一審判決を覆して請求を棄却しました。これによって損害賠償を支払う対象と金額が減ったという点で、統一教会側の主張を一部受け入れた判決と言えるでしょう。

しかしながら、この高裁判決において損害賠償の減額よりも重要な部分は、地裁判決における、著しく信教の自由を侵害し、憲法違反の疑いの濃い部分が、数多く削除された点です。このブログでは、地裁判決の問題点を14回にわたって扱ってきたので、その部分が高裁判決でどのように扱われたのかを分析してみたいと思います。

 

札幌地裁判決は、「第4章 被告の損害賠償責任」において、以下のように述べています:

一神教の信仰は、神秘に帰依すること、すなわち、神秘なるもの(神が授けたとされる教えなど)を絶対に信じこれに自分を任せきることを意味する。このような信仰は、科学主義(合理主義)の対極に位置する神秘主義に属しており、人は、言葉による論理的な説明を理解して信仰を得る(神秘に帰依する)のではない(p.240-241

 

神秘に帰依するときの選択は情緒を大きく動かされて初めて可能であり、そうであるが故に、一旦、人が信仰を得た場合、その信仰がその人の心や行動を支配する力は絶大である。信仰は、人を教義や宗教的権威に隷属させる力を持っている。(p.241

 

一神教の信仰を得る、すなわち、神秘に帰依し教義に隷属するとの選択は、(親が幼い子に家庭内で宗教教育を施す場合はともかくとして)あくまで、個人の自由な意思決定によらなければならない。個人の自由な意思決定を歪めるかたちで行われた、信仰を得させようとする伝道活動や信仰を維持させようとする教化活動は、正当な理由なしに人に隷属を強いる行為であり、社会一般の倫理観・価値観からみれば許されないことである。そのような伝道・教化活動は、社会的相当性の範囲を著しく逸脱するものとして違法とされなければならない。(p.242

地裁判決の上記文言は、高裁判決では全面削除されました。この部分は、私のブログでは『札幌第二次「青春を返せ」裁判の判決を検証する<第2回>』(2013年8月7日)と『札幌第二次「青春を返せ」裁判の判決を検証する<第3回>』(2013年8月14日)で二回に分けて詳細に批判していますので、関心のある方はご覧ください。

 札幌地裁判決は、「第4章 被告の損害賠償責任」において、以下のように述べています:

信仰を得ること、すなわち神秘に帰依するとの選択が上記のようなものである以上、教義や宗教的権威の言葉が間違っていることを言葉により論理的に証明してみせても、人の信仰を揺るがすことができない。(p.241

地裁判決の上記文言は、高裁判決では全面削除されました。この部分は、私のブログでは『札幌第二次「青春を返せ」裁判の判決を検証する<第4回>』(2013年8月21日)で批判していますので、関心のある方はご覧ください。

 

札幌地裁判決は、「第4章 被告の損害賠償責任」において、以下のように述べています:

ビデオセンターでは、旧約聖書を題材にした講義ビデオや霊界に関する講義ビデオにより、人間が原罪を受け継ぎ堕落した罪深い存在となったことが歴史的事実として説明され、また霊界というものが実在し、先祖の犯した罪が因縁となって現世に生きる子孫に悪影響を及ぼしていることが事実として説明される。原罪や霊界・因縁などは神秘に属する事柄であり、宗教教義の説明であるはずなのに、事実として原告らに提示されるのである。(p.244

 

地裁判決の上記文言は、高裁判決では全面削除されました。この部分は、私のブログでは『札幌第二次「青春を返せ」裁判の判決を検証する<第5回>』(2013年8月28日)で批判していますので、関心のある方はご覧ください。

札幌地裁判決は、「第4章 被告の損害賠償責任」において、以下のように述べています:

 多くの日本人なら、宗教性が秘匿されようがされまいが、旧約聖書を題材にした原罪の話など「古事記」同様の神話にすぎないと考えるであろうし、霊界・因縁の話などは迷信にすぎないと考えるであろうと思われ、また受講を秘密にするよう告げることにも胡散臭さを感じるであろうから、宗教性を秘匿されたまま講義を受けたとしても、原罪や霊界・因縁が実在するとは感じないと思われる。

 しかし、宗教性が秘匿されたまま原罪や霊界・因縁の話を聞かされた場合、これを神話や迷信にすぎないと突き放すことができず、それらが実在するのではないかと感じる人は必ず一定割合でいるはずである。

 このような人が家族や友人に内緒で受講を続け、繰り返し、原罪や霊界・因縁に関する講義が「真理」であると告げられた場合、それら害悪が実在し、それら害悪こそが人間社会の不条理の原因であると納得したい、そう信じたいとの強い感情に陥ること、そして、その感情がその人の内面を支配した場合、その人は原罪や霊界・因縁の実在を信じて疑わない状態に陥ることが容易に想像される。

 原罪や霊界・因縁の実在を信じて疑わないことは信仰を受け入れたに等しいが、ここでは神秘に帰依するという選択を経て信仰を得たのではなく、神秘と事実を見誤って信仰を得たのである。このような信仰の伝道は、非常に不公正なものである。(p.246

 

地裁判決の上記文言は、高裁判決では全面削除されました。この部分は、私のブログでは『札幌第二次「青春を返せ」裁判の判決を検証する<第6回>』(2013年9月4日)で批判していますので、関心のある方はご覧ください。

 

札幌地裁判決は、「第4章 被告の損害賠償責任」において、以下のように述べています:

 特異な宗教的実践(自分の人生と財産を差し出し、経済活動に従事すること)が要求されると予め分かっていたなら、多くの人は、その信仰を得ることに疑いを抱くであろうし、伝道は功を奏さないことが多いと思われる。

 逆にいうと、できるだけ多くの人に特異な宗教的実践をさせようとすれば、その内容は、後戻りできない状態の信仰が植え付けられた段階まで秘匿する必要がある。統一協会の信者が行う伝道・教化活動は、信仰を得ることによる内面的救済が主目的ではなく、出来るだけ多くの人に特異な宗教的実践をさせることが主目的となっているが故に、その内容が秘匿されているものと解される。このことは、宗教性の秘匿と同様、あるいはそれ以上に、不公正である。(p.250

 

地裁判決の上記文言は、高裁判決ではそのまま残されました。この部分は、私のブログでは『札幌第二次「青春を返せ」裁判の判決を検証する<第7回>』(2013年9月11日)で批判していますので、関心のある方はご覧ください。

それにしても、同判決の「特異な宗教実践」の認定には不満が残りますし、統一教会の信者の伝道活動が「信仰を得ることによる内面的救済が主目的ではなく」などと勝手に断言しているところは極めて不当ですが、やはり「情報の秘匿」に対する裁判所の心証は良くないのだということが分かります。

 

札幌地裁判決は、「第4章 被告の損害賠償責任」において、以下のように述べています:

統一協会においては、教化活動の一環として、原告ら全員に対し、家族は、サタンとつながっており、サタンの支配下にあるため、信者を「拉致監禁」して無理矢理に棄教を迫る存在であると教え込み、そう信じ込ませていた。(p.251

 

地裁判決の上記文言は、高裁判決ではそのまま残されました。この部分は、私のブログでは『札幌第二次「青春を返せ」裁判の判決を検証する<第8回>』(2013年9月18日)で批判していますので、関心のある方はご覧ください。

「家族はサタン」云々はさておき、統一教会信者に対する親族による拉致監禁と脱会の強要は、複数の民事訴訟で認定された客観的事実であるにも関わらず、こうした事実を教えることがなぜ違法性の根拠となるのか、まったくもって理解に苦しむ判決です。

札幌地裁判決は、「第4章 被告の損害賠償責任」において、以下のように述べています:

統一協会が求める宗教的実践は、人生と財産を差し出し、経済活動に従事するという非常に特異なものである。何の拘束もなければ、隷属を嫌う人間の本質からみて、普通の人は、このような宗教的実践に疑問を感じ、それから逃れようとするはずである。それが分かっているから、統一協会においては、信者が特異な宗教的実践から逃れようとすることを阻止するため、教化活動において、心理的及び物理的に社会から信者を隔離しようとするものと考えざるをえない。(p.252-3

地裁判決の上記文言は、高裁判決ではそのまま残されました。この部分は、私のブログでは『札幌第二次「青春を返せ」裁判の判決を検証する<第9回>』(2013年9月25日)で批判していますので、関心のある方はご覧ください。

詳しい批判内容はアーカイブに譲りますが、判決のこの部分は「宗教的事柄を世俗の法で裁く」という行為の恐ろしさと傲慢さを感じさせる部分です。この裁判官はよほどの宗教音痴なのでしょう。宗教的価値観と世俗の価値観の間には、深い溝があることが分かりますが、そうであるならばなおさら、法廷はその溝を踏み越えて宗教の領域に土俗で踏み込んでくるのは慎んでもらいたいものです。

 

札幌地裁判決は、「第4章 被告の損害賠償責任」において、以下のように述べています:

信仰を得るかどうかは情緒的な決定であるから、ここでいう自由な意思決定とは、健全な情緒形成が可能な状態でされる自由な意思決定であるということができる。したがって、宗教の伝道・教化活動は、自由な意思決定を歪めないで、信仰を受け入れるという選択、あるいは、信仰を持ち続けるという選択をさせるものでなければならない。(p.256-7

 

地裁判決の上記文言は、高裁判決では全面削除されました。この部分は、私のブログでは『札幌第二次「青春を返せ」裁判の判決を検証する<第10回>』(2013年10月2日)で批判していますので、関心のある方はご覧ください。

 

札幌地裁判決は、「第4章 被告の損害賠償責任」において、以下のように述べています:

 伝道活動についてみると、信仰を受け入れさせるという宗教の伝道活動は、まず第一に、神の教えであること(教えの宗教性あるいは神秘性)を明らかにした上で相手方に信仰を得させようとするものでなければならないとすべきである。神秘と事実を混同した状態で信仰を得させることは、神秘に帰依するという認識なしに信仰を得させ、自由な意思決定に基づかない隷属を招くおそれがあるため、不正な伝道活動であるといわなければならない。

 次に、入信後に特異な宗教的実践が求められる場合、その宗教の伝道活動においては、入信後の宗教的実践内容がどのようなものとなるのかを知らせるものでなければならないとすべきである。信仰を得させた後で初めて特異な宗教的実践を要求することは、結局、自由な意思決定に基づかない隷属を強いるおそれがあるため、不正な伝道活動であるといわなければならない。(p.257

地裁判決の上記文言は、高裁判決では全面削除されました。この部分は、私のブログでは『札幌第二次「青春を返せ」裁判の判決を検証する<第11回>』(2013年10月9日)で批判していますので、関心のある方はご覧ください。

 札幌地裁判決は、「第4章 被告の損害賠償責任」において、以下のように述べています:

信仰の維持を強制するため、人の情緒面での変化をもたらす家族や友人・知人との接触を断ち切り、歪んだ形で情緒を形成させ、信仰を維持させることは、不正な教化活動であるといわなければならない。(p.257

 

地裁判決の上記文言は、高裁判決では全面削除されました。この部分は、私のブログでは『札幌第二次「青春を返せ」裁判の判決を検証する<第12回>』(2013年10月16日)で批判していますので、関心のある方はご覧ください。

 

札幌地裁判決は、「第4章 被告の損害賠償責任」において、以下のように述べている:

 

 また、宗教教義の実践をさせるという教化活動においては、不安や恐怖を煽ってどのような宗教教義の実践をさせても良いと考えることはできない。

 もともと、旧約聖書の神(ヤハウェ)は、祈りの放棄や棄教といった裏切りに対し苛烈な罰を課する神であるから、旧約聖書に基づく一神教において、このような信仰の怠りに対する罰(救済は否定され永遠の地獄で苦しむことになる等)を教えること自体は、いわば当然の帰結となる。

 その結果、信者が罰を恐れて祈りを実践し思いとどまり、そのことが信仰を維持させる力となっていることは否定できないが、そのような罰の教えにとどもあるものであれば、現代社会でも不当なものとすることはできない。

 しかし、金銭拠出の不足を信仰の怠りとする教化活動の是非となると問題は別である。祈りをするしないは純粋に人の内面にとどまる問題であるが、金銭拠出の不足を信仰の怠りとした場合、これによって生ずる問題は人の内面にとどまらない。信者は、救済が否定されてしまう不安や恐怖に煽られ、金銭拠出に不足が生じないよう、貴重な蓄えを宗教団体に差し出して経済的窮地に陥るかもしれないし、どのような手段を講じてでも金銭を手に入れようとするかもしれず、社会的に看過できない事態が生じるおそれが強いからである。

 したがって、金銭拠出の不足を信仰の怠りとし、そのことが救済の否定につながるとの教化活動は、その程度が行き過ぎとみられる場合には、やはり不正なものと言わざるをえない。(p.258

 

地裁判決の上記文言は、高裁判決では全面削除されました。この部分は、私のブログでは『札幌第二次「青春を返せ」裁判の判決を検証する<第13回>』(2013年10月23日)で批判していますので、関心のある方はご覧ください。

 

札幌地裁判決は、「第4章 被告の損害賠償責任」において、以下のように述べています:

 

原罪や霊界・因縁が実在する害悪であり、統一原理が教義ではなく真理であると信じ込ませる手法で行われている。(p.258

 

地裁判決の上記文言中、「統一原理が教義ではなく真理であると信じ込ませる手法で行われている」の部分が削除されましたが、「原罪や霊界・因縁が実在する害悪であり」の部分は残されました。

 

札幌地裁判決は、「第4章 被告の損害賠償責任」において、以下のように述べています:

以上の通りであって、統一協会の信者が原告らに対して行った伝道活動は、宗教性や入信後の実践内容を秘匿して行われたもので、自由意思を歪めて信仰への隷属に導く不正なものであるし、統一協会の信者らが原告らに対して行った教化活動は、家族等との交流を断絶させ、金銭拠出の不足が信仰の怠りであり救済の否定につながると教えて信仰を維持させ、特異な宗教的実践を継続させようとするものである。(p.260

 

地裁判決の上記文言は、高裁判決ではそのまま残されました。これら二つの部分は、私のブログでは『札幌第二次「青春を返せ」裁判の判決を検証する<第14回>』(2013年10月30日)で批判していますので、関心のある方はご覧ください。

 

さて、以上を総合してカウントすると以下のようになります。

全面削除された部分:10か所

そのまま残された部分:4か所

一部削除された部分:1か所

 

10勝4敗1分けは、大相撲で言えば大関くらいの成績でしょうか?(相撲に引き分けはありませんが・・・)野球なら7割1分4厘の超高打率になります。私の指摘した箇所がこれだけの高確率で削除されたということは、やはり地裁判決は常軌を逸した「トンデモ判決」だったと言わざるを得ないのではないでしょうか?

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