2012年3月29日に札幌地方裁判所で下された、「第二次青春を返せ訴訟」の判決は、545ページに及ぶ膨大な内容だが、その中で法的に見て重要なのは、「第4章 被告の損害賠償責任」(p.240~277)である。ここに裁判所が認定した「違法性の根拠」が示されているが、そこから垣間見られるのは、日本の裁判官の宗教に対する驚くべき無知と傲慢である。今回からシリーズで、判決文の一つ一つを吟味しながら批判を試みたい。
札幌地裁判決は、「第4章 被告の損害賠償責任」において、以下のように述べている:
一神教の信仰は、神秘に帰依すること、すなわち、神秘なるもの(神が授けたとされる教えなど)を絶対に信じこれに自分を任せきることを意味する。このような信仰は、科学主義(合理主義)の対極に位置する神秘主義に属しており、人は、言葉による論理的な説明を理解して信仰を得る(神秘に帰依する)のではない(p.240-241)
神秘に帰依するときの選択は情緒を大きく動かされて初めて可能であり、そうであるが故に、一旦、人が信仰を得た場合、その信仰がその人の心や行動を支配する力は絶大である。信仰は、人を教義や宗教的権威に隷属させる力を持っている。(p.241)
一神教の信仰を得る、すなわち、神秘に帰依し教義に隷属するとの選択は、(親が幼い子に家庭内で宗教教育を施す場合はともかくとして)あくまで、個人の自由な意思決定によらなければならない。個人の自由な意思決定を歪めるかたちで行われた、信仰を得させようとする伝道活動や信仰を維持させようとする教化活動は、正当な理由なしに人に隷属を強いる行為であり、社会一般の倫理観・価値観からみれば許されないことである。そのような伝道・教化活動は、社会的相当性の範囲を著しく逸脱するものとして違法とされなければならない。(p.242)
地裁判決のこの論理展開は、要するに一神教の信仰を得させるための伝道や教化活動は、非科学的・非合理的・非論理的なものであり、情緒によって人を隷属させるものであるがゆえに、その信仰の性質からして、個人の自由な意思決定を歪めるかたちで行われる伝道・教化活動は違法である旨を述べている。ここであえて「一神教」の性質を述べているのは、その他の信仰との比較において言っていることは明らかであり、一神教の信仰はその他の信仰に比べて「隷属的」であり、それを広める活動は「人に隷属を強いる行為」であるため、人が自由な意思決定によってその信仰を得たかどうかは、その他の信仰よりも厳格に判断されなければならないことを示唆しているのである。このように、一神教であるかないかというような信仰の内容にまで踏み込んで裁判所が違法性を判断することは、宗教活動を外形的にのみ見て、その目的、方法、結果において社会的相当性を判断するという裁判所のとるべき立場を大きく逸脱し、信仰内容そのものを違法性の根拠の一つとし、結果的に一神教を差別することになっているのである。これは事実上、裁判所が宗教を法の下に平等に扱わず、一神教か多神教か、キリスト教か神道かといった信仰の内容によって差別することになるので、政教分離の原則に違反し、憲法違反となる。
次に、一神教の信仰が神秘主義に属しており、科学主義(合理主義)の対極に位置しているとの見解が、違法性を判断する上での前提として述べられているが、これはキリスト教をはじめとする一神教に対する無知と無理解に基づくものであり、前提として間違っているが、それを以下の5つの各項目に分けて論じることにする。
- 神秘主義について:『キリスト教大事典』(教文館)の「神秘主義」の項目は、その意味について「神的なもの(超越者)が直接無媒介に直観され、その臨在が自覚される体験」としており、「ここにおける体験の内容は、時間・空間の現実的規定を超越し、したがって言語や論理による表現を拒否する」(p.576)と解説している。したがって、地裁判決の神秘主義そのものに対する理解は妥当である。しかしながら、『キリスト教大事典』の解説は、キリスト教信仰と神秘主義の関係についてはこれらを完全に同一のものとみなしてはおらず、むしろ以下のように否定的な見解を示している:「新約聖書とくにパウロとヨハネの文献に神秘主義的な要素を認めることはできるにしても、彼らを神秘主義者と同一視することは正しくない」(p.576)「古代教会は、パウロ的ヨハネ的なキリスト神秘主義を許容したが、神人合一の神秘主義を異端視した。神との関係がつねに啓示のことばを媒介としていたからである」(p.577)「プロテスタント教会は、最初から義認の信仰ゆえに神秘主義に反対した」(p.577)。このように、キリスト教信仰の中には神秘主義と一線を画し、それに反対する傾向があるのであり、「一神教の信仰=神秘主義」であるとする地裁判決は誤りであり、宗教に対する無知に基づくものである。したがって、そのような誤った前提に基づいてなされた違法性の判断は無効である。
- 科学主義と一神教の関係について:『キリスト教大事典』(教文館)の「科学とキリスト教」の項目は、「近代自然科学は西欧キリスト教社会のなかから生まれた」とした上で、科学の発達の背景にキリスト教信仰があったことを以下のように述べている:「古来、物質や人間が容易に神格化される汎神論的な世界観のもとでは自然科学は生まれてこなかった。キリスト教信仰は天地万有の創造主なる神を示すことによって、自然を究めて、その創造主なる神の御業をあがめる意欲を人々のうちに起した。中世末期の近代科学の創始者たちは、そのような意欲にもえた人たちで、その多くは聖職者であった」(p.202)。このように、近代自然科学がキリスト教文化圏である西欧から生まれたという歴史的事実から見ても、一神教の信仰が科学主義の対極にあるという地裁判決の決めつけは根拠のないものである。地裁判決は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教に代表される一神教の信仰を、一概に非科学的なものに分類し、世界の人口の半分以上を占める一神教の信徒を冒涜している。これは同じ一神教に属する統一教会の信仰を、ことさらに非科学的であり、信じるに値しないものであると前提し、そのような信仰を得るためには、本人の自由意思を歪めて正常な判断力を失わせたに過ぎないという推論を展開するためになされた根拠なき主張であり、一神教の信仰に対する不当な偏見と差別に基づいた判断であると言える。<次回に続く>