札幌地裁判決は、「第4章 被告の損害賠償責任」において、以下のように述べている:
また、宗教教義の実践をさせるという教化活動においては、不安や恐怖を煽ってどのような宗教教義の実践をさせても良いと考えることはできない。
もともと、旧約聖書の神(ヤハウェ)は、祈りの放棄や棄教といった裏切りに対し苛烈な罰を課する神であるから、旧約聖書に基づく一神教において、このような信仰の怠りに対する罰(救済は否定され永遠の地獄で苦しむことになる等)を教えること自体は、いわば当然の帰結となる。
その結果、信者が罰を恐れて祈りを実践し思いとどまり、そのことが信仰を維持させる力となっていることは否定できないが、そのような罰の教えにとどもあるものであれば、現代社会でも不当なものとすることはできない。
しかし、金銭拠出の不足を信仰の怠りとする教化活動の是非となると問題は別である。祈りをするしないは純粋に人の内面にとどまる問題であるが、金銭拠出の不足を信仰の怠りとした場合、これによって生ずる問題は人の内面にとどまらない。信者は、救済が否定されてしまう不安や恐怖に煽られ、金銭拠出に不足が生じないよう、貴重な蓄えを宗教団体に差し出して経済的窮地に陥るかもしれないし、どのような手段を講じてでも金銭を手に入れようとするかもしれず、社会的に看過できない事態が生じるおそれが強いからである。
したがって、金銭拠出の不足を信仰の怠りとし、そのことが救済の否定につながるとの教化活動は、その程度が行き過ぎとみられる場合には、やはり不正なものと言わざるをえない。(p.258)
この地裁判決は、信教の自由を「内面の自由」にのみ限定し、「宗教的行為」の自由を過度に制限しようとするものであると言える。献金を勧める行為は布教や伝道と同じく、宗教的行為の重要な構成要素となっている。献金する行為そのもの、そして献金額の多寡が個人の信仰の表れであるとする考え方そのものは宗教一般にみられるものである。にもかかわらず、地裁判決は金銭拠出の不足を信仰の怠りとし、そのことが救済の否定につながるとの教化活動を不正なものとしている。新約聖書の使徒行伝第5章には、以下のような記事がある。このような聖句が礼拝で読まれた場合、それは違法行為に該当するのか?
「ところが、アナニヤという人とその妻サッピラとは共に資産を売ったが、 共謀して、その代金をごまかし、一部だけを持ってきて、使徒たちの足もとに置いた。 そこで、ペテロが言った、「アナニヤよ、どうしてあなたは、自分の心をサタンに奪われて、聖霊を欺き、地所の代金をごまかしたのか。 売らずに残しておけば、あなたのものであり、売ってしまっても、あなたの自由になったはずではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人を欺いたのではなくて、神を欺いたのだ」。
アナニヤはこの言葉を聞いているうちに、倒れて息が絶えた。このことを伝え聞いた人々は、みな非常なおそれを感じた。 それから、若者たちが立って、その死体を包み、運び出して葬った。 三時間ばかりたってから、たまたま彼の妻が、この出来事を知らずに、はいってきた。
そこで、ペテロが彼女にむかって言った、「あの地所は、これこれの値段で売ったのか。そのとおりか」。彼女は「そうです、その値段です」と答えた。 ペテロは言った、「あなたがたふたりが、心を合わせて主の御霊(みたま)を試みるとは、何事であるか。見よ、あなたの夫を葬った人たちの足が、そこの門口にきている。あなたも運び出されるであろう」。 すると女は、たちまち彼の足もとに倒れて、息が絶えた。そこに若者たちがはいってきて、女が死んでしまっているのを見、それを運び出してその夫のそばに葬った。 教会全体ならびにこれを伝え聞いた人たちは、みな非常なおそれを感じた。」
これは献金額をごまかしたことによって2人が死んだという話であり、読み方によっては脅迫ともとれる内容である。しかし、そのことをもって直ちにこれが違法であるとは言えないし、国家の法律よりも古い歴史を持つ聖書の記述に対して、削除を求める権限は国家にはない。したがって、こうした考え方そのものは、信教の自由の範囲内にあるものと理解されなければならない。地裁判決には、「その程度が行き過ぎとみられる場合には、やはり不正なものと言わざるをえない」という条件が付いているが、統一教会信者の行っていた献金勧誘行為は、基本的に献金の意義と価値をきちんと説明し、個人の自由意思に基づいて献金することを勧めるものであった。地裁判決は、多額の献金を決意したのは脅されたに違いないという先行判断に基づき、事実をことさらに歪めて認定してものであり、著しく司法の公正をねじ曲げるものであると言える。