はじめに


はじめに

 

本書は、世界基督教統一神霊協会(統一教会)にまつわるさまざまな社会問題、とりわけ民事訴訟において争われている問題について、一研究者の視点から検証しようとするものである。いわゆる「青春を返せ」訴訟、「献金返還」訴訟、「婚姻無効」訴訟と呼ばれているのが、それである。

私は宗教一般に関する社会学的な研究を続けている統一教会の一信徒であるが、本書を書き上げるに当たっては、統一教会広報部から右記の問題に関する数多くの資料の提供を得、それらの資料をもとにして、裁判上の法理、社会学、心理学、宗教学、神学など、さまざまな視点から問題の本質に迫ろうと試みた。

我が国における統一教会に対する批判は、しばしば冷静な分析に基づく客観的なものではなく、感情的であったり、イデオロギーに基づく敵意を背景とした攻撃である場合が多く、そこで取り上げられる個々の問題がマスコミ等によって針小棒大に宣伝されたり、不当に歪曲されたりすることが少なくない。これはもはや「批判」という範疇を超えて、「宗教バッシング」と呼んでいいほどである。

これらのバッシングは、通常自分の本意を「社会的正義」などという仮面で隠し、大義名分を装って巧妙に世論に訴える。したがってよほど物事の裏表を見抜く目をもった人か、宗教の本質を理解している人でなければ、マスコミなどによって広められている統一教会に関するうわさを鵜呑みにしてしまうことになりかねない。本書は、こうしたイデオロギーに基づく反対や恣意的な感情を取り除いた、冷静で客観的な目をもって、統一教会を見詰め直す視点を提供しようとするものである。

既成のキリスト教信仰や、左翼イデオロギーに基づいて統一教会を批判している人々は、客観的に事実を見詰める前に、自らの信仰や思想は絶対善であり「統一教会=悪」という先行判断が働いているために、事態を冷静に見詰めることができない。そこで本書は、特定の信仰を擁護する立場に立たず、すべての宗教を公平かつ客観的に見ることを心掛けている宗教学者や社会学者の視点を導入して、統一教会に対する「価値中立的な視点」とはいかなるものであるかを理解してもらえるように努めた。こうした視点から個々の事例を丹念に見詰めていけば、統一教会をめぐる問題の本質はそれほど単純ではなく、日本社会と宗教団体との関わり合いという、複雑で歴史的な問題がそこに横たわっていることを知るであろう。

新宗教に対する人々の拒絶反応が、「異物」は除去してしまおうとする傾向の強い日本社会独特の構造に由来するものであるということは、多くの宗教学者や社会学者の指摘するところである。また、ある特定の宗教が多くの人を引きつけるのは、その背後に社会が抱える解決されなければならない問題があり、新宗教にそれなりの答えがあるからであるというのも、宗教学者たちがもつ一貫した考え方である。このような視点に立てば、その宗教の主張は社会が抱える問題点に対して何らかの問い掛けを行っているものとして理解することができる。ところが、そのような宗教と社会の弁証法的な構造には目を向けずに、宗教の奇異な部分のみを攻撃し、未解決の社会問題に関しては無反省であるのは、一方的な視点ということになる。

神学的な観点から見る統一教会存在の根拠は、あくまで「神の摂理によって立てられた」のであり、それは人間的な社会事情を超越したところにある。しかし、この見方は統一教会の信仰をもたない人にとっては理解し難い内容であるのは当然である。したがって、統一教会についての客観的な視点をもつためには、まずは教会を外側から見詰め、現代社会が抱えるさまざまな問題点に対して、統一教会は何らかの批判や代案を提示しているのかもしれないととらえるのが妥当であろう。そして教会の主張と現代社会が抱える問題をセットにして、その存在意義や問題点について冷静な考察をする必要がある。

とりわけ統一教会のすすめる国際合同結婚式は、現代社会における「家庭の崩壊」に対して激しく警鐘を鳴らし、夫婦や家庭のあり方という問題について、鋭い問い掛けをしている。この現象に対して、単に奇異だ不可解だといったワンパターンの反応を繰り返すのではなく、それが現代社会との関わりにおいてもっている意味を深く掘り下げた分析がそろそろ出てきてもいいのではないだろうか? これがまず「外側からの視点」として、統一教会を見詰める上での重要な視点である。

こうした「外側からの視点」は、統一教会問題を取り扱う世間一般の著しく偏った視点を是正し、より冷静で客観的な視点へと移行させる上において役立つであろう。しかし一つの宗教のあり方について理解する方法には、この「外側からの理解」の他に、それを「内側から理解する」という方法があることも忘れてはならない。そして、統一教会とは何かということについてより深く正確な理解をするためには、この内側からの理解、すなわち「内在的な理解」というものが必要なのである。

「外側からの理解」が、ある宗教を第三者的に突き放して眺めるのに対して、「内在的な理解」は宗教的な生を生きる人々に感情移入をし、その宗教的な生を追体験することによって、その核心を把握しようとする。すなわち、その宗教を信じ実践している当事者にとって、それらが何を意味するのかを共感的に受容しようとする姿勢をもつということである。このような内側からの視点と、外側からの視点が合わさって初めて、その宗教の姿が立体的にとらえられるのである。その点で、従来の統一教会批判の視点は、その信仰をもっている人々の内面世界については何らの理解も示しておらず、外側からの見方も奇異に見える面のみをクローズアップしてきたという点において、明らかに偏っていると言える。

わが国においては、このような内在的な視点から統一教会を扱った学問的研究は皆無に等しい。そこで本書は、統一教会を外側から分析的に見る視点と、内側から共感的に見る視点とを合わせた「複眼」をもって、統一教会を取り巻く問題の本質を立体的に描き出そうと試みた。これによって従来の視点の偏りが是正され、恣意的な感情を取り除いた冷静な分析によって、統一教会についての公正な理解がなされることを望むものである。

一九九九年七月                           著者