第三章 献金返還訴訟について


世界基督教統一神霊協会(統一教会)に対する献金返還訴訟とは、統一教会やその信者の団体に対して献金した後、心変わりした元信者らが献金返還を求め、「自分は先祖の因縁等を語られることによって不安に陥れられ、違法な勧誘行為によって献金を強制された」と主張して統一教会を訴える民事訴訟である。

このような訴訟は福岡、高松、奈良、東京などで起こっているが、いずれも献金返還を求める原告側の主張が認められ、統一教会側の主張が退けられる判決が出されている。特に福岡地裁、高裁および東京地裁、高裁で出された判決は最高裁でも支持され、判決が確定している。これらの判決は、宗教団体の信者による献金勧誘行為の「社会的相当性」の基準がおよそどの辺にあるのかを法廷が示したものであると理解できるが、判決の正当性については多くの疑問が残った。また本件は信教の自由の問題とも密接に関わってくる重要な問題であるため、今後これらの判決が拡大解釈されて信教の自由を侵害することのないように、本章においてこの問題の本質を掘り下げていきたい。

 

 

 

第一節  献金返還訴訟の本質

 

司法権の及ばない宗教的価値判断

まず第一に、ある宗教の信者が宗教上の信念に基づいて献金した場合、その後心変わりしたとか、その宗教教理が間違いであることに気づいたと主張して、事後的な返還や損害賠償請求を求めたとしても、通常はその主張は認められない、ということを確認しておく必要がある。これは宗教的な教義の真偽について裁判所が判断することは政教分離(憲法第二〇条)の原則に反するため、宗教的な事柄に関する判断が訴訟の中核を占める場合にはそこには司法権は及ばず、「法律上の争訟」に当たらないからである。

このような事例の代表的なものとしては、いわゆる「板まんだら事件」(最判昭和五六年四月七日)がある。これは、創価学会の元信者であった原告らが、総本山に「正本堂」を建立寄進するための「供養金」の募財に応じ、寄付をしたが、後になって寄付金拠出行為に錯誤があったので無効であるとして、供養金の返還を請求(不当利益返還請求)したものである。この訴訟における原告らの主張の内容は、正本堂に安置された本尊(いわゆる「板まんだら」)は、「偽物」であることが本件寄付の後に判明したので、要素の錯誤があったというものである。

第一審は、原告らの主張する錯誤は内心の信仰に直接かかわるものであるとし、本件訴訟の核心がすぐれて宗教的信念の争いに基づくものであると認め、請求自体が裁判所が審判すべき「法律上の争訟とは到底いい得ない」として、訴えを棄却した。しかし控訴審では一転して、本件請求は錯誤に基づき交付した金員の返還を求めるものであり、不当利益返還請求権の対象となるので、その前提として主張する錯誤の内容が宗教上の信仰に関わるからといって法律上の争訟に該当しないとは言えない、との判断が示された。

ところが最高裁では再逆転し、これは法律上の争訟とは言えないという第一審の訴え棄却の判決が支持されたのである。これは信仰の対象についての宗教的価値判断、宗教上の教義に関する判断は、裁判所が成し得るものではないということを明らかにした判例である。

統一教会に対する献金返還訴訟も、本質的にはこれと同じ内容である。統一教会の信者による献金勧誘行為においては、すべてのケースにおいて実際に献金を勧誘する前に統一原理の教えが教育され、統一教会への入会申込を済ませた後に、献金の意義と価値を教えられた上で、本人の同意に基づく献金がなされていた。このようにして統一教会の新しい信者たちは信者の組織を通じて教育され、その後もしばらくは感謝して信仰生活を送っていた。ところが後日、家族や知人から「だまされたんですよ」と言われ、統一教会についての悪いうわさや一方的な批判を聞かされた結果、心変わりして献金の返還を求めるようになったのである。その際、弁護士による説得も大きく作用していたと思われる。したがって、ことの本質は、「統一原理が真理だと信じていたが信じられなくなった。文鮮明師がメシヤだと信じていたが信じられなくなった。だから献金を返して欲しい」ということなのである。

ところが「板まんだら事件」の判例からも分かるように、宗教的信念が争いの中心となった場合には、法律上の争訟とはなり得ず、裁判所も判断できない。そこで献金を勧誘されたときに虚偽や脅しなどの違法行為があった、したがって献金によって失った金額を損害賠償として支払え、という形で訴えてきたのである。

すなわち教義の内容そのものではなく、勧誘の方法に問題ありという訳である。政教分離の原則下においては、国家はあらゆる宗教に対して中立的立場を取らなければならない。国家が特定の宗教を支援したり、逆に特定の宗教に対して抑圧的行動を取ることは許されないのである。したがって裁判所は特定の宗教の教義が違法であるという判断を下すことはできない。そこで統一教会を相手取った訴訟においても、その献金勧誘行為を「外形的に」のみ見て、その目的、方法、結果において社会的相当性を欠く場合には民法上の不法行為に該当すると判断する、というのが原則になっている。

 

優先された消費者保護的観点

しかし外形的な行為のみを問題にすると言っても、信教の自由との関連では難しい問題が提起される。それは信教の自由とはある宗教を信じる内面における自由だけを意味するのではなく、自己の信じる宗教を宣伝し、その教義を広める自由、すなわち布教の自由をも含むからである。そこで教義を広めようとする立場からすれば、少しでも効果的で説得力のある宣教技術を磨き、多くの人々を勧誘しようと積極的に努力する訳であるが、説得を受ける立場の人からすれば、それによってだまされた、洗脳された、マインド・コントロールされた、強制された、などと主張することによって損害賠償を求めることになる。こうなると裁判所としては、どうしても消費者保護という観点からくる被害者救済と、布教の自由をも含む信教の自由とを調整する必要に迫られるのである。そして最近の状況を見ると、信教の自由以上に消費者保護の観点が優先されているのが実状と言うことができるであろう。統一教会に対する献金返還訴訟で原告側の主張が認められたのは、このような時代の流れによるものと考えられ、今後宗教の布教活動に対する社会的な規制はますます厳しくなる恐れがあると思われる。

その最近の動きとしては、日本弁護士連合会(日弁連)が一九九九年三月二十六日に発表した「反社会的な宗教的活動にかかわる消費者被害等の救済の指針」という意見書を挙げることができる。これは日弁連消費者問題対策委員会の下部組織「宗教と消費者部会」が原案を作成したもので、もともとは「反社会的な宗教的活動等による人権侵害についての判断基準∧反社会的宗教活動などがもたらす消費者問題や人権侵害についての判断をするための指針∨」と呼ばれ、宗教活動やそれに類似した活動を事実上規制してしまおうとする「判断基準」を意図して作成されたものである。

この「宗教と消費者部会」(以下、「部会」)は、統一教会を相手取った献金返還訴訟に深く関わってきた平田広志弁護士(部会長)や山口広弁護士をはじめとして、宗教団体とトラブルを起こしている元信者や家族の弁護に当たっている弁護士によって構成されている。そのためこの「判断基準」は宗教に対して極めて懐疑的な内容をもっていると同時に、統一教会に対する献金返還訴訟において原告側が主張している内容と極めて類似している。

この「判断基準」の作成を推し進めてきた「部会」は、九八年三月ごろから水面下で宗教界と接触し、この判断基準に対するコンセンサスを得ようとしてきたが、宗教界からの予想外の反発や、宗教ジャーナリストの室生忠氏による痛烈な批判に遭ったため、トーンダウンを余儀なくされた。その結果、唐突に「判断基準」から始めるのではなく、前後にこれまでの経緯や判例などを加えた「意見書」という形で発表することになったのである(しかし、その判例は自分たちにとって都合の良い勝訴した判例がほとんどで、敗訴した判例はほとんど取り上げないという偏向ぶりである。とりわけ海外の判例紹介においてはその偏向ぶりは著しい)。さらに、日本弁護士連合会の小堀樹会長は、この「判断基準」について、「宗教団体のあり方や活動のあり方を規制しようとする意図に出たものでないことはもとより、団体としての性格を判断する指標となるものでもありません。宗教的活動にかかわる消費者被害等救済のための判断基準であって、決して宗教団体の是非などを判断するためのものでないことを念のため申し添えます」という但し書きまで付けている。これによってもともとの「部会」の意図はかなり薄められたかに見えるが、これは裏を返せば、そのようなものとして誤解され、拡大解釈される危険を十分にはらんだ「判断基準」であることの証左である。したがって、今後そのような誤用がなされないように厳重に監視する必要がある。事実、「意見書」の中に織り込まれた「判断基準」の内容そのものは、「部会」が作成したオリジナルとほとんど変わっていないのであり、今なおその中に作成者たちの意図が息づいていると言ってよいであろう。

この意見書に対し、教派神道連合会、神社本庁、全日本仏教会、日本キリスト教連合会、新日本宗教団体連合会の五団体でつくる日本宗教連盟は、意見書発表と同じ二十六日、打田文博事務局長名で、次のようなコメントを発表した。

「本意見書の目的は、消費者被害等の救済の指針としているが、将来的に被害予防の観点に立った『宗教活動の指針』と捉えられ、基本的な宗教活動の問題にまで発展しかねず、危惧している。いずれにしても、無用な社会混乱を招かぬよう、慎重な取り扱いに心掛けて欲しい」(「新宗教新聞」九九年四月二五日付一面)

また「中外日報」(同年四月三日付)では、「宗教学の領域では批判も出始めているマインドコントロール概念が有力な論拠とされているなど、依然として内容的には問題が残っている」と、内容に踏み込んだ批判もなされている。

ところで、いわゆる「マインド・コントロール」にまつわる海外の判例として意見書で挙げている「モルコ対統一協会事件」の米カリフォルニア州最高裁判所一九八八年十月十七日判決に対してなされている解説は、「統一協会の正体を隠した詐欺的伝道行為が違法とされた事例」となっているが、これは明らかな間違いであり、公的な性格を持つ日弁連の意見書が世間を誤導するものであるために看過できない。

この「モルコ対統一教会」の裁判は、伝道の初期段階に教会の名前を正直に述べなかったこと(不実表示による詐欺)を主な訴因として、二人の元統一教会員が、教会の伝道行為によって被害を受けたと訴えた民事訴訟であるが、一審と二審においてはこの訴訟自体が法廷を宗教問題に踏み込ませるものであり、米国憲法修正第一条に抵触するという理由から「略式判決」によって原告の訴えが棄却されてきた。カリフォルニア州最高裁の判決は、この「略式判決」を破棄して、たとえ宗教団体による伝道行為であっても、不実表示は伝統的な詐欺事件として扱うことができると判断して、陪審員による事実審理をするようにと差し戻したものである。つまり「訴訟を起こすことは禁じられていない」という判断をしたのに過ぎず、実質的な内容を審議して教会の勧誘行為が違法であるという判断を下したわけではない。そして、その後教会と原告は和解しているので、教会の勧誘行為の違法性が認められた判決は結局のところ出されていないのである。

しかもこの判決は全員一致によるものではない。同裁判の担当判事の一人であるアンダーソン判事は一審と二審の「略式判決」による訴え棄却を支持しており、これを破棄することは合衆国憲法修正第一条の〔宗教〕活動の自由条項に反し、法廷を宗教的信条の真偽を判断するという領域に不必要に投げ出すものである、とする反対意見を提出しているのである。また学界でも、心理学者のディック・アンソニー氏や社会学者で弁護士のジェームズ・リチャードソン氏らが、このアンダーソン判事の少数意見こそ良識に基づいた判断であり、多数意見による「略式判決」の破棄は「不幸な判断」であったとする論文を発表している。

この判決文の日本語訳は「青春を返せ」訴訟の原告側の証拠として提出されており、その担当弁護士である「部会」の弁護士たちが、このような基本的な事実を知らないということは考えられない。にも関わらずこのような「不実表示」がなされたということは、事実を曲げてまでも宗教活動を社会悪として規制しようとするイデオロギー的な動機がその背後にあると見てよいのではないだろうか。

室生忠氏は、雑誌『大法輪』(第六五巻 一九九八年九月〜十一月号)において「日弁連の宗教理解への危惧」と題して三回シリーズでこの「判断基準」を批判しているが、彼は「そもそも、宗教団体と信者(会員)の関係を、業者と顧客の関係に置き換えて、宗教トラブルを�消費者問題�として一括してとらえる視点に無理がある。現在の宗教状況は、それほど単純なものではない」(『大法輪』十月号二三ページ)と述べている。

また、室生氏は「この『判断基準』は単に日弁連内部にとどまらず、広く社会に提示されて、宗教全体を規制する機能をもっている」(『大法輪』十月号二八ページ)とした上で、次のような激烈な口調で批判している。

この「判断基準」の基本的な疑問点のひとつに、そもそも、いったい誰に「反社会的な宗教活動」を判断する権能があるのか、という問題がある。「部会」は「弁護士が判断する」と言明したうえで、「判断基準」でこう宣言している。

∧ここに列挙された基準に反する活動をしている宗教団体や精神世界に関わる活動をしている団体は、法的・社会的問題を生じる余地がある。市民がこの基準に反する問題のある活動をしている団体に近づくとたいへんな被害を被り、人生を大きく誤ることになりかねない。(中略)今後、この基準に即した判決や解決事例が集積されてより確固たる社会的コンセンサスが形成されることが望まれる∨

要するに、「部会」が�悪�と判断した団体は危険だから市民は近づくな、「部会」が作った判断基準は�社会的コンセンサス�にならなければならない、というのである。

弁護士はいったい、いつから、そして誰から、宗教団体の善悪や安全性などを判断し、その判断を�社会的コンセンサス�として市民に押しつける権能を与えられたのだろうか。(『大法輪』十一月号三二〜三三ページ)

 

「弁護士の役割は、現実に起きているトラブルに対処して、摩擦や対立を具体的に調整することにあるはずだ。ところが、『部会』が作る『判断基準』は、市民一般に対して�この基準をクリアしていない団体には危険だから近づくな�と警告している。また、宗教に対して�活動をこの範囲内におさえろ�と命じている。これは、明らかに弁護士の分限を越えている。法曹ファッショではないか」(同三三ページ)

 

それにしても、「判断基準」と「解説」が、宗教や「精神世界」があたかも�社会悪�であるかのような姿勢で一貫しているのは、やはり異常なことといわなければならない。……

この異様さの原因は、まず、「部会」の構成にある。自ら信仰を実践している弁護士は、ほとんどいないものと思われるうえ、メンバーの中心が、霊感商法被害対策弁護団、オウム被害対策弁護団をはじめ、各種の宗教トラブルの元会員(信者)や家族側の弁護に当たっている。つまり、「部会」が�利害関係者�で構成され、しかも、宗教や精神世界の�悪�を強調する仕事にたずさわっている弁護士で構成されているのだ。(同三九ページ)

 

この「判断基準」の個々の内容に対する室生氏の批判は、そのまま統一教会に対する献金返還訴訟における原告側の主張に対しても当てはまる内容なので、その具体的な問題点を検討する際にも参照してみることにする。

 

献金の違法性主張の内容

さて、一連の献金返還訴訟に共通に見られる原告側の主張と裁判所の判断には、ある程度妥当であると思われる部分と、疑問を感じざるを得ない部分があるが、以下これらについて細かく検討していくことにする。

統一教会の信者らが行った献金勧誘行為については、およそ次のようなことが原告側によって主張されている。

 

1.「万物復帰」の教えの下、多額の資金を集めることを目的とするものである。予め対象者の財産の把握がなされ、これに基づいて献金額およびスケジュールが決められていた上、執拗に献金の勧誘が行われている。

2.対象者がある一定レベルに到達するまで、「万物復帰」の教えはもちろんのこと、統一教会や文鮮明師のことを秘匿あるいは明確に否定して献金勧誘行為が行われている。

3.個人の抱える悩み等を十分聞き出した上で、これに応じた因縁話等をすることによって不安感を生じさせ、あるいは助長させるという方法を取っている。

4.受講していることを他言してはならないと禁じられている。

5.対象者の生活基盤自体を奪うような高額の献金がなされている。

6.各種マニュアル等により勧誘方法が全国的に共通していて、組織的に行われている。

7.統一教会にはカイン・アベルという上命下達の組織体制が存在する。

 

これらのうち1は目的に関するもので、献金勧誘の目的が専ら利益獲得にあり、宗教本来の目的から逸脱した不当な目的であるということを主張している。2、3、4は方法に関するもので、献金勧誘システムを総合的に判断すれば、不実のことを述べたり不公正な方法を用いて対象者を恐れさせ、拒否できないような心理的状況に追い込んで献金させるものであり、違法と評価するのが相当であると主張している。5は結果に関するものであり、実質的には金額の大きさと被害者の経済能力のバランスによってその社会的相当性が判断されていると言ってよい。6、7は違法性そのものの根拠ではなく、その背後に統一教会が働いていることを推論しようとするもので、信者による献金勧誘行為に対する宗教法人の使用者責任等を追求するための主張である。これらの一つひとつについて検討を加えたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第二節  万物復帰の教義について

 

一連の献金返還訴訟における原告の主張では、統一教会の「万物復帰」の教えを経済活動を支える理念としてとらえ、いわゆる霊感商法もこの教義に基づいて統一教会が行っていたとされている。この原告側の主張は、最終的な判決では無視されている場合が多いが、奈良地裁判決のように受け入れられている場合もある。しかしながら、特定宗教の教義の意味が裁判所によって判断され、それが違法性の根拠として認定されるということ自体、外形的な行為のみを見て判断するという原則から外れており、これは裁判所が宗教の教義という「聖域」を侵害する行為であると言わざるを得ない。宗教の教義の意味を決定する権利は、どこよりもその宗教団体自身にある。したがって統一教会の「万物復帰」の教えの意義は、他のいかなる組織や個人によっても規定されることはあってはならず、ただ統一教会のみがその正しい意味について説明し得るのである。そこでしばらくの間、統一教会側の説明する「万物復帰」の教えの意味について概説することにする。

 

人間の内的資質を取り戻すこと

そもそも統一原理における「万物」とは、経済行為の対象となる財貨のみを意味するのではなく、人間を除くすべての被造物を指すのであり、究極的には宇宙全体をも包含する概念である。したがってその万物を復帰するということは、経済活動などという狭い領域の事柄を意味するのではなく、全被造物を神のもとに取り戻すという、神の復帰摂理の最終的な目標を意味するのである。しかも「復帰する」という言葉の意味は、世俗的な意味において所有権を取り戻すということではなく、人間の万物に対する主管性を復帰するという宗教的な概念であり、人間自身の内的な姿勢に関する概念なのである。

万物復帰の教えの根拠は、『原理講論』の後編第一章 第一節�の「アダムの家庭におけるメシヤのための基台とその喪失」の中の「象徴献祭」の教えとして説かれている。それによれば、この「象徴献祭」を捧げる目的は、一つは「万物を復帰するための蕩減条件」を立てるためであり、もう一つは「人間を復帰するための象徴的な蕩減条件」を立てることにあるという。この象徴献祭という行為は、具体的には旧約聖書においてアベル、ノア、アブラハムなどの中心人物たちが、羊、箱舟、三種類の動物などの供え物を神に捧げたことを指すのであるが、これらの供え物は全天宙を象徴するものであり、その縮小体であった。したがって堕落によって失われた宇宙万物のすべてを神のもとに返すことを表す象徴行為として、全天宙を象徴する供え物を神に捧げたのであり、これが「象徴献祭」と言われる第一の理由である。

またその供え物は、人間自身をも象徴するものであった。本来人間は神の子として、神に最も近い存在であり、神の代身として万物を主管する立場にあったのであるが、堕落することによって万物よりも偽り多い、低い存在にまで落ちてしまった(エレミヤ書一七・9)。そこでこのような人間が神の前に出るためには、自分よりも神のほうにいっそう近い存在である万物を通じるようになったのである。したがって人間が神に捧げる万物は自分自身の身代わりであり、万物を通じて象徴的に自分自身を神に捧げることにより、自分自身が神のもとに帰るための条件を立てる、ということになる。象徴献祭の目的の二つ目が「人間を復帰するための象徴的な蕩減条件」を立てることにある、というのはこのような意味であり、これが「象徴献祭」と言われる第二の理由である。

このような蕩減条件を通じて人間が神のもとに帰るようになれば、人間は神の子としての本来の位置を取り戻し、主人としての立場から万物を主管することができるようになる。そのとき人間の主管下にある万物は、神の子としての公的精神に立った人間に主管されることによって、神の主管下に取り戻されることになる。これが「万物復帰」の本来的な意味である。したがって万物復帰に欠かせない要件は、人間が神の子としての愛と人格を取り戻し、「究極的にはすべての万物は神のものである」という公的精神に立って万物を主管するという、人間自身の内的な資質を取り戻すことなのである。

統一教会には収入の十分の一を神に捧げるという十一条の伝統があるが、これは全収入を象徴する十分の一を神に捧げることによって、究極的にはすべての万物は神の所有であるという、万物に対する公的な意識を徹底させるのに役立っている。そして教会に献金されたお金は人類の救済のために使われるのであり、それは自己の生活費の一部を犠牲にして他人を救済するという愛の実践にほかならない。したがって「象徴献祭」は現代においては個人による教会への献金という形で実践されているのであり、このときそれを捧げる内的な姿勢が何よりも重要視されていることは言うまでもない。

このように「万物復帰」の教えは、基本的に信仰者が個人として神に供え物を捧げることによって、神と人間と万物の創造原理的な関係を復帰していくという教えである。したがってそれを経済活動を行ってお金を儲けたり、ましてや詐欺的な手段を用いて他人の財産を奪い取るような行為を正当化するための教義として解釈できる余地は全くないのである。もし「万物復帰」の教義をいわゆる霊感商法等の経済活動の根拠であると解釈する者がいるとすれば、それは教義の曲解・誤解に基づくものであるか、または意図的に統一教会の信仰と経済活動とを結び付けようとする「こじつけ」である。

 

「万物復帰」と「資金稼ぎ」は全く別

また、もし日本の統一教会信徒の一部に「万物復帰イコール経済活動」であると理解している者がいたとすれば、それは教義とはかけ離れた解釈であり、世界的に通用する普遍的な解釈ではない。アメリカの統一教会においては教会の維持運営のために花売りなどの経済活動が行われることがあるが、これは�Fund Raising�と呼ばれており、その正確な訳は「万物復帰」ではなく「資金稼ぎ」である。そしてこの�Fund Raising�という言葉は、統一教会のみならず他の宗教団体や政治団体などでも使われる言葉である。したがって�Fund Raising�は統一教会の特殊な教義の実践ではなく、教会維持のためにどこでも行っている経済活動に過ぎない。そしてアメリカではこのような経済活動を�restoration of all things(万物復帰)�と呼び習わすことはない。また韓国においても、統一教会の信者が教会の設立および維持の目的で鉛筆などを販売することがあるが、このような活動を�      (万物復帰)�と呼び習わすことはない。

日本の法律では、宗教法人は自らが規則で定めた収益事業を行うことが許されている。日本統一教会は一九六四年七月十六日に東京都庁から宗教法人として認証されたが、当時の規則の第四章事業(収益事業)第二十八条には、収益事業として出版業のみを行うと規定している。したがって統一教会は出版事業以外の収益事業を行ったことはない。さらに一九八三年一月二十二日にはこの出版部門をも株式会社光言社として分離独立させたため、現在では日本統一教会は一切収益事業を行っておらず、教会の維持運営は信者の献金のみによってまかなわれている。したがって、日本においてはアメリカや韓国のように宗教法人の維持運営のために物販等の経済活動をすること自体がないばかりか、それを「万物復帰」という教義の実践として位置づけることもあり得ないのである。

 

 

 

第三節  献金の目的について

 

原告側は統一教会信者の献金勧誘が資金獲得のみを目的としたものであり、社会的相当性を逸脱するものであると主張している。これは献金勧誘の目的自体が資金獲得というもっぱら世俗的なものであり、宗教的な目的ではないということを主張するものである。これは驚くべき主張である。なぜなら宗教団体は基本的に信者の献金で成り立っているのであり、特に収益事業をいっさい行っていない統一教会においては信者からの個人的な献金が唯一の財源となっているのである。したがって信者から献金を募ることは教会存立のためには必要不可欠な行為であり、教会が宗教的な目的で存在する以上、その維持のための献金も当然宗教的な目的でなされていることは自明の理である。したがって献金を個人資産に流用したり、世俗的な乱用をしていたという事実がない限り、献金勧誘の宗教的な目的を疑う余地は皆無である。この点、平成九年十月二十四日に東京地裁で出された判決は、「○○らは、被告(統一教会)の教義の伝道の過程において原告に献金を求めたと認められ、このような献金の勧誘の目的自体には違法とすべき点はない」として、問題があったのはその方法のみであったと判断している。

統一教会総務局長の岡村信男氏は、東京地裁における証言で献金の目的について以下のように説明している。

統一教会になされる献金は、当然のことながら宗教的な目的で捧げられ、宗教的な目的のために使用される。主な支出内容としては、

①国内の教会本部及び地方組織(教区・教会)の人権費等を含む維持・管理費、

②伝道と教育活動のための経費、

③その他特別なプロジェクトや行事のための支出、

④国外に対する特別宣教費等、である。

特に四番目の海外宣教のための経費は、実に日本統一教会の支出の約六割を占めるものであり、信者献金の半分以上が全世界に神のみ言葉を述べ伝えるために使われていることになる。このお金は日銀を通していったんアメリカの Unification Church International (以前の「世界宣教本部」)に送られ、そこから全世界の統一教会支援のために割り振られるということである。

 

 

 

 

 

第四節  統一教会であると明言しないで伝道することの是非

 

原告側は献金勧誘の対象者がある一定レベルに到達するまで、自らの正体を隠し、統一教会や文鮮明師のことを秘匿あるいは明確に否定して献金勧誘行為が行われたことをもって、欺罔行為であると主張している。これに対して、被告側は憲法二〇条における信教の自由は、思想・良心の自由と同じく、それを告白する自由つまり話す自由だけでなく、告白しない自由すなわち話さない自由(沈黙の自由)をも含むのであるから、当初から自己の信仰する宗教について明らかにしなかったとしても、それは違法とは言えないと主張している。いかなる教団に属する信徒といえども、そもそも自分が宗教を信仰しているか否か、自分が信仰する宗教が何か、所属している教団名は何か、自分が今話そうとしている考えが信仰する宗教と関係があるのか否かなどについて、話す話さないの判断は自由であり、また話すにしても、いつどの程度の内容を話すかについては個人の自由に任されているという訳である。さらに、新しい宗教や思想・良心については社会的偏見や弾圧が付きまとうことが多く、そのため当初から明らかにすることができず、対話ができる状況や環境づくりがなされた後に明らかにする場合が当然にある、と主張している。ただし被告側も、少なくとも伝道される人が入会申込や献金といった重大な決断をするときまでには団体名が明かされているべきである、ということは認めている。そして自分たちの活動はそれをきちんと守っており、決して騙して入会させた訳ではないので、それは「不実表示」には当たらないというのである。

「青春を返せ」訴訟を含めて、原告側の主張する「不実表示」は必ずしも違法性の根拠として認定されているわけではない。むしろ法廷はこうした問題を「道義的問題」としてとらえる傾向にあるようである。実際問題として、初対面の人にいきなり「私は○○教の信者です。教祖の名前は○○と言います。これからあなたを○○教に回心させるという意図に基づいてお付き合いさせていただきたいと思います」と、断ってから伝道する人はむしろ稀であると言えよう。

 

伝道活動に開示規則は課せられるのか?

したがって、出会ったその瞬間から即座に教会名や教祖の名前を述べなければ違法だ、などという主張は行き過ぎであろう。教義や教会に関する情報の開示は各教団が自主的に定めて守るべき倫理であって、あたかも消費者保護のために商品に課せられる「開示規則」のようなものとして規定された場合には、過度に宗教活動を規制する足かせとなってしまうのである。なぜならある伝道者が最初に声をかけたときに教会名や意図をはっきり言わなかった場合、一度その教団に入って離教した者がそのことを訴訟理由として損害賠償を請求できると主張するようになるからである。

この点に関しては、アメリカにおいてモルコとリールという二人の元統一教会員たちが、マインド・コントロールを受けたとして統一教会を相手取って起こした裁判上、一九八七年に米国キリスト教協議会(NCC)などが提出した法廷助言書でも同様の見解が述べられている。この法廷助言書は、増田善彦氏の著作『「マインド・コントロール理論」その虚構の正体』(光言社)に全文訳で掲載されているが、宗教団体の伝道活動に開示規則を課そうという考え方に対しては、次のように述べている。

 

こうした規則が受け入れられると、宣教するクリスチャンは話しかけられるたびごとにすべて開示の義務を追うのだろうか。会話、講義などでその開示をいつすべきなのか。どんな情報を開示すべきなのか。教会名なのか、主要な信条なのか、指導者名なのか。こうした不確実な内容は宗教行為に「消費者保護」の詭弁を持ち込もうとする誤りを示唆している。(二五〇ページ)

 

伝道活動を行う際に、当初からいかなる宗教であるかを述べることにより、頭ごなしに対話自体が拒否される場合がある。このような場合には、こちらの信じる宗教的な教えそのものを相手に伝える機会自体が全く失われてしまう。このような事態を避ける方法として、双方がある程度対話できる状況をまずつくり、その上でこちらの宗教を明らかにし、説明をしたほうが良いという場合もある。

NCCの法廷助言書が提出された裁判においても、原告側は宣教者が統一教会員であり文鮮明師の信者であることを直ちに正直に述べなかったことを、一種の詐欺行為であると主張している(前掲書二〇六ページ)。しかし原告自身が述べているように、入会の決断をする時までには、既に統一教会に入会することがよく分かっていたわけであるから、決してだまされて教会に入ったわけではないのである。これは日本の献金返還訴訟においても同じである。この点に関してNCCの法廷助言書は、「上訴人たち一人ひとりが統一教会に入会したのは、教会自身の本当の名前を知らせなかったとか、文鮮明師との関係を明らかにしなかったなどということには全く無関係な個人的理由によるもの」であると判断している(同二一六ページ)。同法廷助言書はさらにこう述べている。

 

もし法廷が、こうした詐欺の申し立てを認めるとするならば、入会を後悔する人は誰でも、入会の動機とは関係なく、教会員であった当時の数カ月または数年間のすべての話の内容を詮索して「詐欺的」な話の内容を拾い上げ、損害賠償を請求する可能性がある点を、法廷助言者たちは真剣に危惧するものである。入会動機は複雑であり、個人的なものである。上訴人たちの「詐欺」の訴えは、宣教師が「改宗させる意図」を明確に被伝道者に伝え、被伝道者から「情報開示後の同意」を取りつける義務を求めるものであり、これは憲法に違反して、宗教の規制を計り、成人の入教者が自分の決定に責任逃れすることを可能にしようとするものである。(同二一六ページ)

 

そして、このようなことを認めれば「損害賠償を防ぐために教会であれ他の団体であれ、個人の入会同意を信頼できなくなるし、個人の入会を同意する能力にも信頼をおけなくなる」(同二二一ページ)として、宗教団体そのものが成り立たなくなってしまうことを危惧しているのである。

 

一律規制は過度の干渉

実際、一般的なキリスト教の宣教においても、最初は「個人的な」関係を強めたあと宗教の話題に入るのが、より説得力があると考えられている(同二〇五ページ)。日本で発行された『クリスチャン生活事典』にも、「クリスチャンの日常生活を通して行なわれるあかし伝道は、『関係』に立つほど効果的です。見ず知らずの人に伝道すること。これも確かに大切です。しかし、ほんとうに実りある伝道をしようと思ったら、まずその人との間に、心と心の通う関係をつくっておくことがたいせつです。つまりそれは、日常生活のあらゆることを通して、ひとりでも多くの友達を得ておくということです」(島村亀鶴、長島幸雄、船本坂男監修『クリスチャン生活事典』教会新報社、二六四ページ)という記述がある。さらに勧誘のプロセスは宗教ごとに異なり、同じ宗教でもその教えを受け入れていくプロセスは個人ごとに異なるものであるから、そのプロセスに長い時間がかかる場合には最初から教会のすべてのことが明らかにされるとは限らない。ある人は教義の内容がよく分かるだろうし、ある人はすぐに理解するのが難しいのでゆっくりと説明を受ける必要があるかもしれないからである(増田前掲書二一四ページ)。

そして一人の人を回心させるという作業は、偏見やうわさによってつくられた宗教に対する誤解を解くという大変な作業を伴う。NCCの法廷助言書は、統一教会の勧誘者が後になるまで教会名やその目的を明かすことを延期しなければならなかったことについて、以下のように同情的に理解している。

 

上訴人たちは本件の宣教者が、統一教会員であり文鮮明師の信者であることを直ちに、正直に述べなかった、ということを大きな問題にしている。理想的世界においては、彼らもそのようにできたであろう。しかしパウロも、歴史上の数多くの宣教者もそうであったように、最初に自分の正体を明らかにしようとしなかったのは、受け入れられやすい方法で、伝道対象者に対応する必要があると感じたからであった。統一教会員が最初に自分の正体を明らかにしようとしなかったのも、「ムーニー」と呼ばれ、マスコミから悪く言い立てられて形成された偏見に対してそうせざるをえなかったのである。統一教会員には話を始める前からでさえも、そうした乗り越えなければならない反感が存在した。もしそうでなければ、知り合いになってさらにあとになるまで教会名やその目的を明かすことを延期する必要を感じなかったであろう。(同二〇六ページ)

 

ここで法廷助言書が使徒パウロの名前を挙げているのは、彼の書簡の中に以下のような表現が見られるからである。

 

わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。律法のない人には——わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが——律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。(コリント人への第一の手紙、第九章一九〜二三節)

 

この記述は、彼は最初から自分がキリスト者であることを告げるのではなく、その文化圏において受け入れられやすいような形で、間接的に福音を述べ伝えていたことを示すものである。この�パウロの宣教方法�に倣い、実際多くの宣教師たちが、土着の文化に適応しながら抵抗の少ない形でキリスト教を伝えることに努めてきた。とりわけ迫害の激しい地においては、最初から自分がキリスト者であることを言明しないのは常識である。

世界教会協議会(WCC)の世界宣教・伝道委員会(CWME)がエキュメニカルな立場からの宣教と伝道についての基本的な方向性・視点を指し示すために一九八三年に発行した『宣教と伝道 エキュメニカルな主張』には、「教会には、それぞれ違った環境の中にある違った人たちに福音を宣べ伝えるのに、最善と考えられる方法を選ぶ自由がある」(WCC世界宣教・伝道委員会編、松田和憲訳『現代の宣教と伝道』新教出版社、一〇〇ページ)という記述がある。そして、この「自由」の中には一定の人間関係を築くまでイエス・キリストの名を告げるのを保留しておくことも含まれることが、以下のような記述によって示唆されている。

 

伝道は、聖霊が信仰を奮い起こすという人格的な関係の中に置かれた時、可能になるのである。福音は、人々を、人生の痛みも喜びも、共感し合う中で、理解され、伝えられていくのである。

しばしば、基本的段階の告白者たちは、はっきりと公表されない、センセーショナルに騒がれたりしない人々であるが、彼らは、小さな、共に配慮し合う共同体の中で、しっかりとした信念を持って集まり、生活をしている。そして、彼らの生活は次のような問いを起こさせるのである。「あなたの生活の意味についての源は何か」。また「あなたの無力であることの力は何を意味するのか」。実に、こうした問いが出た時には、主イエスの名を紹介する最善の時になる。(同一〇一ページ)

 

NCCの法廷助言書は、宣教者とその伝道対象者の間の会話の微妙で複雑な性質にかんがみて、法廷はその過程の一つひとつで規制を課すことはできないと結論している。それはもし法廷がそうしたことをやれば、ただでさえ社会の世俗化という大きな障害に直面しながら困難な道を歩んでいる宣教者に対して、さらなる負担を負わせることになるからだ、と主張しているのである(増田前掲書二〇七ページ)。これは消費者保護の名目のもと宗教活動におけるスピーチに過度の規制を課せば、自由な宗教活動を萎縮させ、宣教の妨げになるという危惧を表明するものである。そしてまさしくこのような状況に、現在日本の統一教会は直面しているのである。

前出の日弁連の「判断基準」を批判した室生忠氏も、この法廷助言書とほぼ同じ主張を述べている。

 

∧2、信者の勧誘について∨、つまり布教についての認識にも首を傾げざるをえない。その第一項で、「判断基準」は医療問題におけるインフォームド・コンセント(説明と同意)の法理を援用して、∧勧誘にあたって、宗教団体等の名称、基本的な教義、信者としての基本任務(特に献金等や実践活動等)を明らかにしているか∨

と迫っている。

そもそも、布教とは単なる説得行為ではない。全人格的な影響行為であり、日常生活のなかで出会う全ての人間に対して、初めて目を合わせた瞬間から自然に開始されるものである。「判断基準」は「勧誘にあたって」と述べているが、いったい、いつ、どんな状態を指して、「勧誘」つまり布教のはじまりと認定しているのだろうか。

初対面の相手に、自分が所属する教団名をことさらに名乗らなければならないと考えること自体、布教というものの本質を理解していない証左といえるだろう。「判断基準」が「解説」で否定する、∧勧誘される側が気付いた時に、特定の宗教団体の教理や組織活動に精神的にまた人間関係等の面で抜き差しならない状態になっている∨というのが、むしろ優れた布教のあり方なのである。(『大法輪』十月号二六ページ)

 

このように、伝道の過程においていつ教団名や教祖の名前を明らかにするかということは、各教団や個々の伝道者が状況に応じて個別的に判断すべき問題であり、一律に規制をかけようとするのは宗教活動に対する過度の干渉であると言わざるを得ないのである。

 

 

第五節  因縁や地獄について語ることは脅しか

 

原告側は統一教会の献金勧誘システムは、カウンセリングや「個人路程」と称する告白文のようなものを通じて個人の抱える悩み等を十分聞き出した上で、これに応じた因縁話等をすることによって不安感を生じさせ、献金せざるを得ないように追い込んでいくものであり、人の弱みに付け込んで金銭を喝取する違法なものであると主張している。

 

信頼関係の上に成り立つ人生相談や信仰指導

統一教会の信者らが伝道対象者から人生の悩みを聞いたことは事実であろう。しかしそれが伝道対象者の弱みを把握して金銭を奪うための手段であると解するのは、純宗教的な活動に対する不当な言いがかりである。牧会やカウンセリングは信者の教化育成には欠かせないものであり、相手の人生の悩みを聞くことは伝道の基本である。カウンセリングの目的は、あくまで教義の教育と対象者の恨みを解くことにあるのであって、献金の強要のためではない。

いわゆる「牧会権」事件判決(神戸簡裁 昭和五十年二月二十日)において、牧師が自己を頼ってきた二人の少年(建造物侵入等の罪で警察の追及を受けていた)の魂を救済するために彼らをかくまったことが、形式上犯人秘匿の罪に当たるとしても、牧師の正当業務行為として違法性を阻却するという判決が出されたように、牧会やカウンセリングは宗教行為の中核に位置するものであり、その意義は最大限に尊重されるべきである。統一教会の信者が伝道の際に行っている牧会やカウンセリングは、カトリックにおける「告解の秘跡」のように神父だけが行い得る守秘義務を伴った厳密な告白ではない。それはむしろ日本の新宗教における「法座」や「座談会」のように、先輩の信者が新しい信者の生活上の悩みを聞き、教義を分かりやすく噛み砕いて教える場として機能していると言えるだろう。しかしその目的がもっぱら求道者や新しい信者の信仰指導という純宗教的なものであることは言うまでもない。

通常、人は自分のプライバシーに関することや、自分の罪に関することはたやすく他人にしゃべらないものである。それをあえて詳しく相手に話したということは、とりもなおさずその人の人格を信頼していたということであり、自分の魂に対して責任をもってくれると信じたということである。そのような人格的な交流の中で心の傷を癒し、神のみ言葉を伝えていくことは伝道活動の最も中核的な部分であり、不可欠なものである。そして牧会が魂の核心に触れるためには、どうしても個人的な罪の部分にも触れざるを得ないのである。これについてNCCの法廷助言書は、有名な牧師の著作を引用しながら次のように述べている。

 

回心には罪意識と自分の犯したいろいろな罪に対する自覚が重要な要素となる。「罪が意識させられる。そしてそれによって引き起こされる痛みは切実に解放を求める」(ジャンシー『宣教成功の心理学』)。「キリストについて説教するということは、逃れがたく気を重くさせる罪の問題について直接話すということである。罪を強制的に感じさせる必要はない。人々はすでにそれを感じている」(グラハム)。(『「マインド・コントロール理論」その虚構の正体』二二九ページ)

 

魂の救済に不可欠な心理的危機体験

原告側は統一教会の伝道活動によって不安に陥れられたと主張しているが、回心の際に不安を伴うのは多くの宗教に共通した現象である。宗教心理学の草分け的存在であるウィリアム・ジェイムズは、『宗教的経験の諸相』において、回心、神秘主義、聖者性などの宗教現象を経験科学的に扱っているが、彼がその中で展開している理論に「健全な心」と「病める魂」という二つの性格類型論がある。それらはそれぞれ次のような特徴をもっているという。「健全な心」の持ち主とは、日々の生活において常に充足感と喜びが優位に働いており、いつも神の実在による幸福感に浸っているタイプである。そして不幸を感じることを断固として拒み、人生は善であるという感じに情熱的に身を委ねている。彼らは世界の暗い面や自分の不完全性に思い悩むことがほとんどない楽観主義者である。他方、「病める魂」をもつ人間は、生まれながらにして悪の存在に悩まされるような宿命をもった人々である。世界や自己の悪い面ばかりが彼らにはきわめて切実に感じられ、悪と向き合ってこそ人生の真実があらわになったと思うタイプであるという。

ここで重要なのは、ジェイムズが宗教的回心を体験する者の典型が「病める魂」の持ち主であると主張していることである。つまり、悪に取りつかれた末に魂の死を体験した者こそ、救われて新たな生に 甦 るという体験をもつことができる、と述べているのである。悪や苦難を必然的なものと認めた上で、それらを含んだトータルな生を受け入れるようになるのが典型的な回心である。したがって「病める魂」は「二度生まれ型」とも呼ぶことができる。他方、このような魂の「死と再生」の体験を経ることなく、すなおに神や根源的存在の恵みを信じているのが「一度生まれ型」、すなわち「健全な心」であるという。

ジェイムズの考えでは、「一度生まれ型」の精神は世界の矛盾に拘泥しない自然人的な態度を表している。これに対して「二度生まれ型」の精神は古代的な自然主義の段階から一歩先に進んだものであり、救済宗教の段階に対応しているのだという。つまりジェイムズの言う「病める魂」は、宗教的回心を体験するためには必要不可欠な心性であり、特に魂の救済を説く宗教においては絶対的に必要なものなのである。ここには宗教的回心の本質に迫る慧眼がある。統一原理を聞いて回心を体験する場合も、同様にさまざまな不安や�藤を経験することになる。それは過去の人生を清算し、新しい人生を出発するための生みの苦しみなのである。このような宗教的感情を「不安に陥れられた」とか「脅された」と主張するならば、宗教的回心のすべては不法行為によるものであるということになってしまう。NCCの法廷助言書も、回心を経験するとき、人は心理的危機を通過することを認めている。

 

ジョナサン・エドワーズは、新生していない罪人は「荒野に出されなければならない」、と考えたし、牧師として信徒たちを心理的危機に追い込むのがその責任と感じていた。その心理的危機を通過して罪人はそれまでの罪の生活を悔い改め、信仰を受け入れることができるのである(ウィリアムズ、『馬、鳩、回心の治療』)。(前掲書二二三ページ)

 

世界宗教における地獄観

また多くの宗教が地獄の観念を有しており、その教義は信者たちに少なからぬ恐怖を与えている。有力な世界宗教の経典には、例外なく地獄の描写が含まれており、それらは極めて恐ろしく生々しいイメージで描かれている。燃え立つ火、煮え湯、身を切るような寒さ、あるいは体が押しつぶされる、切断される、手足をばらばらにされる、踏みつぶされ、焼かれ、生きながらにして食われる、といった具合である。そしてこの不幸な魂を休みなく苦しめ続ける不快な感覚は、絶え間なく続くのである。このような聖句は、世界の主要宗教に限ったとしてもすぐに以下のような例を見つけることができる。

 

しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である。

(キリスト教 ヨハネの黙示録二一章八節)

 

かかる者のあとは地獄があって、けがらわしい水を飲まされるであろう。

かれはそれをすするのだが、なかなか飲み込めぬ、また死はあらゆる方向から迫るが、かれは死にもせぬ。なおかれの後ろには容赦のない刑罰がある。

(イスラム教 コーラン一四章一六〜一七節)

 

まことに地獄は、待ち伏せた所であり、

法外な者にとって、帰り着く所、

かれらは長い年月、その中に住むであろう。

そこでは涼しさも味わえず、煮えたぎる湯と膿のほかには、どんな飲物もない。

かれらのためふさわしい報奨である。

まことにかれらは、その行いに対する清算を希望しないでいた、

またかれらはわがしるしを虚偽だとし、強く拒んだ。

われは一切のことを、書冊にとどめている、

それでなんじらは自分の行いの結果を味わえ、われは刑罰を増加するばかりである。

(イスラム教 コーラン七十八章二一〜三〇節)

 

愚かな輩は人間界で死んだのち堕ちて、幾劫かを満了するあいだ、阿鼻地獄に住む者となり、その後さらに幾小劫のあいだ、かれらはそこで堕落を続けるのだ。

地獄界で死んだ後、かれらはさらに畜生界にさまよい、

かれらは痩せこけた犬や豺となって、他の人々のなぶりものとなろう。

余の勝れた「さとり」を嫌う輩は、そこで色が黒くなり、斑色となり、

皮膚に腫瘍が生じ、また疥癬となる。かれらは頭髪が抜け落ち、さらに痩せ衰えよう。

かれらは人間たちの間で常に嫌厭され、土塊を投げつけられて悲鳴をあげ、

そこで棒で嚇され、飢餓に悩まされ、四肢はやつれはてるのだ。 (仏教 法華経譬喩品第三)

 

罪深い者達の内である者は薪のようにのこぎりで切られ、またある者は大地に投げ捨てられたり、斧でズタズタにされたりする。ある者は身体の半分を穴に埋められ、頭を槍で刺し貫かれる。またある者は絞り機の真ん中に固定されて、砂糖きびのように圧搾される。ある者は燃えさかる炭に囲まれ、たいまつに包まれ、鉱石の塊のように精錬される。ある者は熱いバターに、またある者は熱い油に押し込められ、フライパンに投げ込まれたケーキのようにひっくり返される。ある者は巨大な狂った象が群れなす道に投げ込まれ、またある者は手足を縛られて逆さまにされる。ある者は井戸に投げ込まれ、ある者は高い所から投げ落とされ、またある者は虫のたくさんいる穴に押し込まれ、それに食べられる。……正当な秩序に従って下界の拷問を経験した後、彼は清められて再びここに帰って来る。(ヒンドゥー教 ガルダ・プラーナ三章四九〜七一節)

 

教義の是非は法廷で判断できない

宗教の礼拝において、これらの聖句を朗読したり、これらをテーマとして説教を行った場合、その宗教団体は信者を脅したことになり、それは違法行為を構成するのであろうか? だとすれば国家の法は何千年という歴史をもつ宗教の経典に対して、人々に恐怖を感じさせるような部分に関しては削除を求めるのであろうか? そして地獄の苦難を避けるために信仰し、お布施や献金を捧げた人々は、後に棄教した場合、その教団に対して損害賠償を請求する権利を有するのであろうか? それは明らかに国家による宗教に対する不当な干渉であり、政教分離の原則に反する無分別な行為である。

したがって伝道活動の際に先祖の因縁や地獄の話をすること自体は違法行為を構成しないことは明らかである。福岡地裁の判決(平成六年五月二十七日)は、「一般に特定宗教の信者が、存在の定かでない先祖の因縁や霊界等の話を述べて献金を勧誘する行為は、その要求が社会的に見ても正当な目的に基づくものであり、かつ、この方法や結果が社会通念に照らして相当であるかぎり、宗教法人の正当な宗教的活動の範囲内にあるものと認めるのが相当」であると述べている。また東京地裁の判決(平成九年十月二十四日)は、次のように述べている。

 

特定の宗教を信じる者が、当該宗教を広めるため、他人を説得し、その過程において、人類一般に生じうる過酷な運命の到来を警告し、それを克服するため、当該宗教の教義が信じるに足りる所以を説明すること、教祖又は宗教上の指導者が過酷な運命から人類を救う超能力を備えることなどを説明すること、更には、当該宗教活動を維持するために献金を求めることは、その方法が市民法の許容するものである限り、法律上の責任を生じることはない。永年にわたって確立された宗教に例を取って見ても、その定着及び拡大の過程において、帰依することによって心の平安が得られることを説くのみにとどまらず、人類の滅亡の危機が迫っており、当該宗教に帰依することによって救われると説くもの、更には、指導者が人智を超えた能力を備えていることを説くものがあったことは、歴史上明らかなところである。得られる心の平安が主観的なもので、他人の理解を超えるものである場合や、保有すると標榜される指導者の超能力が、病気を癒す等の人類に幸いをもたらしたり、精神的安定や心の安らぎをもたらしたりするものである場合はもとより、およそ人類の利益や幸福にはかかわりがなく、そもそもそれを備えていると信じることが確立した科学的知見に照らして荒唐無稽であるようなものである場合であっても、当該宗教に帰依する者が、それを信じ、それをもよりどころに宗教的結束を維持し、信者を拡大するためなどの活動をすることも、民主国家においては、何人からも、容喙を受けることはない。

 

また、いわゆる「青春を返せ訴訟」で一九九八年六月三日に岡山地裁で下された判決では、

 

一般に、宗教活動に伴う献金勧誘行為にあたって、多少なりとも吉凶禍福や先祖の因縁話・霊界の話等が説かれる場合が多く、そのような言を用いて献金を求める行為一般を違法であると断じることは宗教に対する過度の干渉となるので許されないものと解すべきであり、…

 

と述べている。

これらは宗教的な教義そのものの是非を法廷は判断できないことを改めて確認した判決として評価できる。したがって因縁や地獄を説くこと一般が不法行為を構成するものでないことは明らかである。

 

 

日弁連の「判断基準」の危険性

にもかかわらず、前出の日弁連の「判断基準」は、これを反社会的な行為として一律に規制しようとしている。同「判断基準」の∧1、献金等の勧誘活動について∨には、次のように述べている。

 

献金等の勧誘にあたって、次の行為によって本人の自由意思を侵害していないか。①先祖の因縁やたたり、あるいは病気・健康の不安などを極度にあおって精神混乱をもたらす。②本人の意思に反して長時間にわたって勧誘する。③多人数により又は閉鎖された場所で強く勧誘する。④相当の考慮時間を認めず、即断即決を求める

 

これに対して室生氏は次のように述べている。

 

宗教界がそろって強い懸念を表明しているのは、「先祖の因縁やたたり、あるいは病気・健康の不安」の強調が、一刀両断のもとに否定されていることである。

ひとつの世界観も、それを信じる者と信じない者では、正反対の価値評価がうまれる。先祖供養・崇拝を土壌とする日本の宗教風土のなかで、歴史的に違和感なく受けいれられてきた「先祖の因縁やたたり」も、信仰世界を認めない者にとっては、人心を惑わす単なる迷信になってしまう。また、宗教への入信動機のひとつになってきた「病気・健康の不安」の癒しも、近代医療を軽視する無知で危険な思考ということになってしまう。

今年三月に「部会」(「宗教と消費者部会」)と会談した創価学会の西口浩副会長(広報室長)は、「判断基準」をこう批判した。

「『先祖の因縁やたたり』を強調することが駄目だというなら、ほとんどの仏教はなりたたないでしょう。寺院が葬式に際して戒名料を受けることも許されないわけですからね。『病気や健康の不安』だって、日本の宗教動機のひとつです」

「部会」と新宗連などとの間でも、

「『先祖の因縁やたたり』は、日本の宗教が古来からもってきた考え方です。『病気・健康の不安』も、日常の信仰実践のなかでごく自然に話題にされている。それをいけないことと規定するわけですか」(宗教側)

「いや、そのこと自体が問題なのではなく、それを『極度にあおって』が問題なんです」(「部会」側)

「では、『極度にあおる』とはどんな態様ですか。『極度に』とはどの程度ですか。すべて曖昧なまま、布施や喜捨の動機を否定してしまっているではないですか」(宗教側)(『大法輪』十月号二四〜二五ページ)

 

このように「先祖の因縁やたたり」を強調することを一律に規制してしまおうとすれば、それは日本の宗教の大部分の信仰実践を否定することになるため、宗教界の猛反発を招くことは必至であり、それが違法行為の根拠とされるようなことになれば、宗教の存在そのものを否定することになりかねない。したがって統一教会の信者が伝道や献金勧誘の際に仮に先祖の因縁の話をしたからといって、そのこと自体が違法行為の根拠となることはあり得ないのである。

 

統一教会反対の「シナリオ」に基づいた訴訟

それでは何が問題になるのだろうか。これまでの判例を見るかぎりにおいては、特定の金額の献金を捧げなかった場合、本人または身近な親族の身に具体的な害悪が生じると告げ、それによって献金を決意させたような場合を違法としているようである。統一教会の献金返還訴訟において原告側が勝訴している主な原因は、「献金しなければ死ぬ」といった社会通念を逸脱したトークがなされた、と原告側が主張しているからである。しかしこの点に関しては、ほとんどすべてのケースで原告側の証言と実際に献金を勧誘した信者の証言が大きく食い違っている。すなわち、原告側は献金しなければ「事故に遭う」「早死にする」などと言われたと主張し、勧誘した信者の側は「そんなことを言った事実はない」「献金の額も本人が自分で決定したのである」と主張しているのである。

これについては会話が録音でもされていない限り真実は知る由もないが、考えられることは自分自身の過去や家系について語ったり、先祖の因縁についての話を聞いているうちに、宗教的な感性が刺激されて、このままでは自分自身や家族に何か不幸が起こるに違いないと感じるようになった、ということである。この場合、因縁や地獄の話はそれを触発するための間接的な要因に過ぎないのであり、それによって具体的な害悪が及ぶと感じたのはあくまで本人の主観である。しかし後日振り返ったときには、あたかもそれが人から言われたことのように想起されるということは、経験上よくあることである。勧誘者の法的な責任を問う場合、実際に害悪が起こると言って脅したのか、害悪が起こるような印象を与えたに過ぎないのかは重大な問題である。しかし、このような事実関係について、今までの裁判では十分に究明されず、一方的に原告側の主張が受け入れられてきたというのが現実である。

宗教的な言説がどの程度にまでなれば「脅し」と言えるのかは、実は難しい問題である。それは献金返還訴訟においては違法と判断されたのと全く同じような行為が、岡山地裁における「青春を返せ」裁判の判決(九九年三月二十四日)においては、以下に引用するように、それは脅しとは言えず、違法性の根拠ともなり得ないという判断がなされているからである。

 

本件においては、前記認定のとおり、原告に対して、姓名判断と家系図による運勢判断がなされているが、前者においては何ら畏怖の対象となるような事柄は告げられていない。後者においては、①原告の家系が女性中心の家系で、絶家に向かっていること、②殺傷因縁があって身体を切られたり身体に傷が入るような困縁があること、③原告が努力をしないと原告の弟の命が危ないことが告げられている。このうち、①は、原告が女三人と男一人の兄弟で末子が男である旨、原告自身の説明によって作成された家系図を基にして話がなされているのであるから、女性中心の家系であることも、まだ若い弟に将来子供が産まれるか否かは分からないことも、いわば当たり前の事項であり、絶家といっても、「家」の継続にどのくらいの意味を見出すかは各人の価値観によって大きく異なることである上、養子制度の存在を考慮すれば、害悪を告知されたというほどのものとは認められない。②については、原告自身は、告げられた事実を父親の手術歴と重ね合わせて解釈しているが、これも、将来生じるであろう家族に関わる具体的な不幸を告げたものとまではいえない。③については、あまりに抽象的で、この際の状況を述べた甲第一二号証の原告作成の陳述書の該当部分の記載を読んでもその内容は極めて淡泊なものであって、これをもって果たして原告に実際上どれだけの畏怖感を生ぜしめたものか甚だ疑問といわざるを得ない。

 

このように全く相反する二つの判例が存在するということは、宗教的言説の「社会的相当性」を判断するということが、いかに難しい問題であるかを物語っている。どれほど具体的で断定的なものの言い方で害悪を告知したかということが判断基準になるのであろうが、この点に関してはどの裁判でも原告側と被告側の主張が大きく食い違っている。

そもそも一連の献金返還訴訟の弁護士たちの頭の中には、個々のケースとは関係なく、統一教会の献金勧誘方法とはこのようなものだという「シナリオ」があらかじめあり、それに基づいて原告を徹底的に教育しているのである。それによって「あなたはこのようにして脅されたんだ」と繰り返し教育されれば、実際には言われていないことまでも言われたかのように証言するようになってしまう。また、拉致・監禁によって棄教・退会し、教会に対する敵意を植え込まれた元信者が、ある種の復讐心に基づいて、たとえそのシナリオが自分の実際の体験とは異なっていたとしても、それに添った虚偽の事実を証言するということもあり得る。そこへ教会を離れた元信者が「私はこのようにして献金を勧誘していました」と同じシナリオを繰り返せば、その効果は抜群である。したがって原告側の主張が実際に献金勧誘のときに起こった事実を正確に反映しているとは、とても信じ難いのである。

しかし、一信仰者として自ら反省してみるときに、一連の裁判は統一教会の正統的な伝道方法とは何かということについて、改めて考えさせられる良い機会となった、と言える。その点で大きな教訓を残すものであった。

 

 

 

 

 

 

第六節  献金の額について

 

一連の献金返還訴訟の判決では、捧げられた献金が高額であることが社会的相当性を欠き、不法行為を構成することの理由として挙げられている。しかし古今東西を問わず宗教、信仰の世界では全財産を献金することは決して特異なことではない。そもそも献金を勧める行為と献金をするという行為は、信仰に基づいて行われる宗教的行為であり、これについて裁判所が社会通念から判断を下すということは、宗教行為に対する裁判所の不当な介入であると言わざるを得ない。本人が納得して献金した場合には、それは外部から何ら批判を受けるいわれはなく、「金額が多すぎる」などという世俗的な判断を、宗教的行為に押しつけるべきではない。したがって裁判所は金額の多寡に関わりなく、本人が信仰に基づいて自発的に捧げたものであるかどうかということのみを、献金が行われた当時の状況を厳密に検討することによって判断すべきであろう。この点、現在までの判決においては、金額が多額であるということだけをもって既に社会的相当性を欠くものであるという先行判断が働き、それが事実を厳密に見極める眼を曇らせていたのではないかと思えてならない。

 

日弁連の「判断基準」に内在する問題点

前出の日弁連の「判断基準」も、捧げた金額がその人の一生を左右するほどに高額な場合には、宗教団体は返金要求に応じるべきであるとしているが、この点について室生氏は次のように述べている。

 

∧献金等勧誘活動について∨の第三項が、

∧一生を左右するような献金などをしてその団体の施設内で生活してきた者がその宗教団体等から離脱する場合においては、その団体は、献金などをした者からの返金要請にできる限り誠実に対応しているか∨

として、信仰者の自己決定責任を一律に軽視しているのも気になる。

これはオウム真理教やヤマギシ会など、コンミューン(生活共同体)を営んでいる教団や運動体を想定したものと思われるが、一人の人間が熟慮の末に自らの意志で共同体に参加し、そのなかで自己の精神世界を変容させる努力を続けた�意味�、そして、自らの意志でその共同体から離脱しようと決意した�意味�がまったく理解されていない。

�意味�を�機能�で測るほど非人間的な行為はない。「判断基準」は宗教問題における自己決定責任を認めないことが、どれほど人間の尊厳を損なうかに気づいていない。(『大法輪』十月号二六ページ)

全財産に匹敵するような巨額の献金を捧げるには、その人なりの深刻な動機や決断があるはずである。それをただ金額が多額であるとか、「一生を左右するような」額であるというだけで社会的相当性を欠くと判断し、返還要請に応じなければならないという主張は、その本人が献金をした時点での信仰的決断と、その自己責任とを否定することになる。つまり裏を返せば、「そのような多額の献金をすること自体がばかげたことであり、だまされたということの証左である」と言っているのに他ならない。

しかしながら、献金する人の経済能力から判断して、その人の生活基盤自体を脅かすような高額の献金を受け取ることについては、良識に基づいて自粛することもまた必要である。また、高齢者や生活保護者などの社会的な弱者から多額の献金を受け取ることに対しても、慎重であるべきである。一般に信仰者が精神的に高揚している際には、後のことをあまり深く考えずに惜しみなく全財産を捧げるというようなことが起こりやすい。しかし、献金を捧げたことによって生活が苦境に陥るようなことがあれば、後に信仰がゆらげば献金そのものに対する感謝の念が失われることにもなりかねないので、今後の生活に支障をきたさないように配慮すべきであると思われる。

 

 

 

 

 

 

第七節  統一教会の責任について

 

教会と信者間には適用できない「使用者責任」の概念

福岡地裁、高裁の判決では、信者が行った献金勧誘活動に対して宗教法人が「使用者責任」を負うことを認めた判決が出されており、これが最高裁においても支持された(平成九年九月十八日)。他の献金返還訴訟においても、この「使用者責任」が統一教会による献金返還責任の法的根拠になってきた。本来、法律上の使用者責任とは、「会社法人などで会社と社員が雇用関係にあって、その社員が会社の事業を遂行する上で不法行為があれば、その会社自体が責任を負わなければならない」というものである。したがってこれを雇用関係にない宗教法人と信者の関係に適用することは本来不自然なことであり、極めて異例の判決であると言える。なぜなら通常、宗教法人というものは信仰指導上における責任は負うとしても、信者の行為に対する法的な使用者責任まで負うとは考えられていないからである。

「信者」というのは本来法律になじまない極めて曖昧な概念であり、どこまでを信者と考えるかは各教団ごとに異なっているために、その範囲は法律によって一律に決定されるものではない。したがって信者の行為に対する宗教法人の責任といっても、その範囲は定かではない。さらに単位宗教法人の場合、一つの法人が何十万、何百万という信者を抱えることになるのであるから、これら信者の一人ひとりの行動に対してすべて宗教法人が法的責任をもたなければならないというのは極めて不合理である。したがって法的に見て法人の指揮・監督の及ぶのはその法人の被用者(教区長、教会長、その他職員)に対してと考えるのが妥当である。その意味で一連の献金返還訴訟においては、「使用者責任」の概念が極めて拡大されて解釈されており、今後宗教界全体に大きな影響を与えることが心配される。

しかしこれはある意味では、信者の行動に対してもっと指揮監督を徹底してほしいという、宗教団体に対する社会的な要求の反映でもあると考えられる。特に現在裁判となっているケースに限って言えば、献金を勧誘した信者たちは私腹を肥やすために一連の活動を行ったわけでは全くなく、教会に貢献したいという純粋な動機に基づいて活動した訳であるから、その結果について教会が何らかの道義的責任を負うのは当然とも言える。しかし教会の指示に反して行った行動や、あきらかに教会の伝統に反するような行動にまで、教会が責任をもつべきだとも思われない。したがってわれわれ信者は自らの公的な立場を自覚し、伝道や献金勧誘の方法に関して、教会の伝統から外れるようなことがなかったかどうか、十分な検討と反省をするべきであろう。

 

 

「カイン・アベル」の教義について

さて、一連の訴訟における原告側の主張の中で、「カイン・アベル」という統一教会の教義が上命下達の組織体制の根拠として主張され、末端信者の行為はすべて教会本部からの命令によるものであると主張されているが、これは完全に曲解である。このような原告側の主張は、やはり宗教団体の教義そのものに関わる内容であるので、最終的な判決においてはことごとく無視されているが、彼らがカイン・アベルの教えを、「カイン(一般信者)がアベル(上司)に対して絶対服従しなければならない」という教えであるかのように曲解して宣伝しているのは看過することができない。カイン・アベルの教えは、彼らが主張するような人間を強制的に組織が縛り付け、自由意思に反した方向に駆り立てるような教えではない。この教義の意味についても、「万物復帰」の教義についてと同様に、正しく説明し得るのは弁護士でも裁判所でもなく、ただ統一教会のみである。そこで統一教会側の出版物に見られる記述に基づいて、この教義の意味について解説をすることにする。

原告側がカイン・アベルの教えを間違って主張しているのは、カインとアベルという二つの存在が「お互いのために生き合う」という教義の全体像を正確にとらえようとせず、その一方向のみを抽出して曲解しているからである。統一教会には「為に生きる」という教えがあり、例えば「夫は妻のために、妻は夫のために」というように、お互いが相手のために生き合うことを勧めている。このうち「妻は夫のために生きるべきだ」という一方のみを抽出すれば、それは男尊女卑の教えに聞こえるし、「夫は妻のために生きるべきだ」という一方のみを抽出すれば、逆に女尊男卑の教えに聞こえる。したがってこの両方をバランスよく理解しなければ、その本質を外れた理解になってしまうことは明らかであろう。

実は彼らはカイン・アベルの教えに関して、これと同じ一面的主張をしているのである。日々の信仰生活において、ある者がアベルの立場、ある者がカインの立場に立つことはあるが、その際ただ一方的な服従と従順がカインに対して要求されているのではない。むしろアベルのほうがカインのために生き、犠牲となって、カインの信頼を勝ち取るように努力することが求められているのである。このことについては文鮮明師ご自身が再三にわたって語っておられる。

 

アベルを立てた理由はカインを救うためである。

カインを救うためには、神様から受けたその愛を全部与えると同時に自己の愛までも合わせて与えなければならない。(『御旨の道』光言社 三六四ページ)

 

アベルは、そのサタン世界の底辺に住む僕のような人たちに仕えるようにして、感化させなくてはならないのですから、僕の歴史にいま一つの僕の歴史を積み重ねなくてはならないのです。しかしその場合、サタン世界の僕たちと、天の世界のアベルのどちらがより悲惨な道を歩んだのかを問われる時に、アベルがアベルとして認定されなくてはならないのです。その時にサタン世界の僕たちは、「何の希望ももてないどん底の中にあっても、あなたは希望を捨てることなく、力強く私を支えた」と認めるのです。アベルは「いかに耐え難い時も、信義の理念をもち、愛の心情をもち、天国の理想をもっていたから、最後まであなたを信じて尽くすことができました」と、言えるのです。そこで「地上で自分の生命も惜しまず、愛と理想をもって犠牲的に尽くしてくれたのはあなたしかいません。私は誰よりもあなたを信じ、国よりも世界よりも、あなたのために尽くします」と、なるのです。その認められた事実でもって、初めて「自分はアベルであり、あなたはカインである」と言うことができるのです。アベル・カインの関係はその時から始まるのです。(『摂理から見たアベルの正道』光言社九〜一〇ページ)

 

アベルは、カインに尽くしたあとにアベルとなるのです。互いに相手を尊重しなければなりません。尊重されるためには先に、カインとなる人に尽くすのです。誰よりも信仰心が篤く、誰よりも愛の心情が深く、誰よりも理想的であるという模範を示し、自然屈服させたあとに、カインたちのほうから、「我々の代身となって指導してください」と願われた時、「はい」と答えてアベルになれるのです。(同三七ページ)

 

カインのメシヤはアベルであり、アベルのメシヤはカインであるということを知らなくてはなりません。(同一二ページ)

 

このようにカインとアベルは、兄弟間の心情関係の在り方、すなわちお互いに尽くし合い尊重し合う人間関係として教えられていることが、文鮮明師の直接の説教から理解できるであろう。また文鮮明師の弟子である李耀翰牧師の著書『信仰と生活』第一集(現在は『心情開拓』に改題)は、一九七四年に初版が発行されて以来多くの統一教会信徒たちの信仰生活を導いてきたロング・セラーであるが、そこでもカインとアベルがお互いに尊重し合うべき存在であることが強調されている。

 

だから、カイン・アベルは、お互いが神の立場です。アベルの神様はカインであり、カインの神様はアベルです。(『心情開拓』二四九ページ)

 

また李耀翰牧師の著書の中では、アベル・カインという立場は固定された組織原理ではなくて、人に接するときの内的な姿勢であることが強調されている。

 

言ってみれば、アベル・カインという立場は、いつも決定していないのです。……教会でいえば、経済的に責任をもった人がアベルになる時もあるし、伝道の時には説教する人がアベルになる時もあるし、要は、その仕事においてだれが中心になるかという問題になるのです。

家庭に帰ってきても、物事の責任をもった人がアベルになるのです。ですから、その時間はそのアベルに対して謙遜に喜びながら侍って、その人を慰めなくてはいけないのであって、食事の時でも、いつも自分が上であるという立場には立てないのです。

その時々の仕事によって、中心となる兄弟がアベルの立場で苦労するのです。そこに平和があるのであって、「一人だけがアベル」というように決まった考えをもったなら、その教会は苦しみ、家庭にも苦しみが来るのです。(同二七ページ)

 

カイン・アベル(の問題)は、みなカイン、みなアベルと思ったらいいのです。自分を自分で、カインと思ったらいい。いわゆる謙遜で人を自分より貴重に思う素性を持てば、失敗はありません。(同二一六ページ)

 

文鮮明師ご自身も同様のことを語っておられる。

 

堕落性を脱ぐ道は千万人を全部アベルとして侍ることである。(『御旨の道』光言社 三七一ページ)

 

したがってカイン・アベルとは、自己の罪深さを深く感じて他者の中に宿る神性を貴重に思うときには、その人にとって万人がアベルとなり、また自分自身を神の愛を伝える使命を帯びた者として自覚するときには周囲の者すべてがカインとして認識されるという性格のものであり、個人の主観によって誰がアベルで誰がカインであるかが決定される、極めて流動的な概念であるということが分かる。このようにカイン・アベルの教えの本来の意味を理解すれば、「アベル=上司、カイン=一般信者であり、指示命令系統を構成する上命下達の組織論である」という原告側の過った主張は、真実からほど遠いということが分かるであろう。

 

「カイン・アベル」の教義の誤解

しかし統一教会の一部信者の中には、そのようなものとしてカイン・アベルの教えを誤解していた者がいたこともまた事実である。このような間違ったカイン・アベル観に対して、文鮮明師は激しく叱責しておられる。

 

このような原則があるにもかかわらず、今日の統一教会の信者の中には、自分は不信仰であろうと、不心情であろうと、不天国であろうとどうでもよく、「ただ先に入ってきたからアベルであり、お前はカインだから屈服しなさい」と言う者がいます。そんな法がどこにありますか!(『摂理から見たアベルの正道』一〇ページ)

 

今後、われわれ統一教会の信者としては、文鮮明師ご自身が説かれるカイン・アベルの教えを再度正確に理解し、それに基づいた実り豊かな信仰生活を送るように努力すべきであろう。

カイン・アベルの教えはもとより組織論ではなく、信仰生活上の人間関係を通して自己の内面を成長させていくための宗教的な教えである。このような教義の是非については裁判所が判断を下せないものであることは言うまでもなく、ましてや宗教法人の信者の行為に対する「使用者責任」を問うための根拠になどならないことは自明の理である。

 

日本人に要求される神と個人との関係

日本人はキリスト教信仰とはなじみが薄く、個人と神との関係が希薄であるために、人間信仰に陥りやすく、「カイン・アベル」の教義をあたかも主従関係を意味するかのように誤解した信者がいたことは否めない。統一原理においては、「カイン・アベル」という関係は、あくまで個人と神との関係(「信仰基台」と呼ばれる)が確立された上に成り立つ兄弟関係なのである。キリスト教信仰が根づいていない日本人には、このような高度な人間関係を理解することが難しかったために、信者間の人間関係に大きな問題を残したことが反省されている。統一教会においても一般社会においても、日本人が諸外国の人々と交流し、国際社会に出て行く機会はますます増えつつある。神との縦的な関係に基づいて個を確立し、その基盤の上にすべての人々と「神を親とする兄弟姉妹」の関係を結べるような資質を身につけることは、教会の内外を問わずすべての日本人に求められている内容である。