Moonism & Pausキリスト教講座シリーズ03:2021年8月号


 私がこれまでに「キリスト教講座」と題してWorld CARP-Japanの機関誌『Moonism』および『Paus』(連載途中で雑誌名が変更)に寄稿した文章をアップするシリーズの第3回目です。World CARP-Japanは、私自身もかつて所属していた大学生の組織です。未来を担う大学生たちに対して、キリスト教の基礎知識を伝えると同時に、キリスト教と比較してみて初めて分かる「統一原理」の素晴らしさを伝えたいという思いが表現されています。今回は、2021年8月号に寄稿した文章です。

第3講:キリスト教と日本人①

 「キリスト教講座」の第3回目です。今回から日本基督教史をひもときながら、キリスト教と日本人がこれまでどのように出会い、関わってきたのかを考えてみたいと思います。今回は切支丹時代を扱います。

 これまでの歴史で、日本にキリスト教が広まることのできるチャンスは大きく分けて三回あったと言われています。一回目が切支丹時代で、1549年から1638年までの約百年間です。二回目が明治維新から第二次世界大戦の終戦までの期間で、三回目が終戦後ということになります。日本においてキリスト教の人口がいまだに1%以下であるという事実は、これら三回のチャンスがいずれも失敗に終わったということを意味しています。

 切支丹時代は、1549年にイエズス会のフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸して、キリスト教の宣教を始めることによって幕を開けます。日本に対してイエズス会がとった宣教戦略は「状況適応型のアプローチ」と呼ばれるものでした。アジアにやってきた宣教師たちは、アフリカや南米の未開の民族とは異なり、既に高度な文明や宗教を持った人々と出会います。彼らを一気にキリスト教化できるような状況ではなかったため、宣教地の土着の文化や宗教を否定するのではなく、なるべく摩擦の少ない形でキリスト教を広めようとしたのです。

 ザビエルは鹿児島や山口、大分などに2年余り滞在して宣教した後に日本を離れていますが、彼がその間に蒔いた種はやがて花を咲かせることになります。1563年に来日した宣教師フロイスは織田信長に気に入られ、信長の保護のもとで活動しました。イエズス会の宣教師たちは日本民族を非常に高く評価し、日本の宣教に対しては非常に楽観視していました。1579年にははキリスト教に改宗した者たちの本拠地として長崎の街を建てることに成功し、1587年には20万人の改宗者と240の教会の存在が報告されています。

 また、大村純忠、大友宗麟、有馬晴信など、九州を中心に多くの切支丹大名が出現しました。切支丹になった人々は必ずしも庶民だけではなく、武士や大名などの指導者階級も信仰を受け入れていたのです。日本の切支丹人口の最盛期は1600年ごろで、約60万人いたと言われています。これは当時の日本の総人口の2.4%に達していたので、かなりの成功を短期間で成し遂げたことになります。

 この時代の宣教の成功の要因としては、有力な切支丹大名の保護を受けたこと、イエズス会の「適応主義」により、日本の土着の文化と摩擦を起こさずに宣教したこと、さらに戦国時代の混乱の中で、既存の仏教勢力は宗教的生命を失っており、人々は精神的な救済を求めていたことなどが挙げられます。1582年には「天正遣欧少年使節」がヨーロッパに派遣されるなど、キリスト教の未来は明るいものと思われていました。

天正遣欧少年使節

1582年に派遣された天正遣欧少年使節

 しかし、天正遣欧少年使節がローマに行って帰ってくるまでの間に、キリスト教を取り巻く日本の状況は大きく変化しました。1587年5月に大村純忠と大友宗麟という有力な切支丹大名が亡くなると、その年の7月に豊臣秀吉は突如として「バテレン追放令」を出しました。秀吉は早くからキリスト教に対する警戒心を持っていましたが、切支丹が多い九州を平定するまでは彼らを手なずけておいて、九州を平定した後には手のひらを返したように弾圧を開始しました。秀吉は宣教師たちが日本を侵略しようとしているのではないかとの疑念を持ち、キリスト教の背後にはポルトガルなどの西洋の国々があるので、これが天下統一を妨げる勢力になるのではないかと危惧したのです。

日本二十六聖人の殉教の記念碑

日本二十六聖人の殉教の記念碑(長崎県)

 秀吉が切支丹に対してなした過酷な迫害の一つが、長崎での二十六聖人の殉教です。1596年に起きた「サン・フェリペ号事件」をきっかけに、当時日本にいた切支丹の中でフランシスコ会の人々を中心に京都や大阪で捕縛し、長崎まで連れて行って、見せしめとして十字架の刑で26名を殺したという事件です。これが日本において、キリスト教に対して最初に大きな「NO!」を突きつけた事件となりました。

 徳川家康は秀吉以上に徹底的にキリスト教を迫害した人物であり、多くの殉教者を出しました。しかし彼は殉教者が称えられ、それが切支丹の信仰に栄誉を与えるものであることを知ると、拷問によって信仰を棄てさせる「棄教策」に重きを置くようになります。具体的には、水責め、俵責め、焼き印、穴づりなどの拷問により、すぐに殺さないで、信仰を棄てるまでじわじわと痛めつけるという手法を取りました。切支丹であるかどうかを見極めるために「踏み絵」という道具を使ったことも有名です。最終的には、宗門改、寺請制度、五人組の連座制によって江戸幕府の切支丹禁制は完成します。これによって一時期は60万人いたキリスト教徒は、表面上は絶滅してしまいました。

 日本のキリスト教史に残る人々の中に、「潜伏切支丹」と呼ばれる群れがいます。殉教者が断固棄教を拒否し、自分の生命を捧げるという形で信仰を表現した人々であったとすれば、別のやり方で信仰を表現した人々もいたのです。すなわち、踏み絵を踏めと言われたときに、その場では踏み絵を踏んで、生き延びて、子供に信仰を伝えていくという道を選んだ人たちが「潜伏切支丹」です。

 そして驚くべきことに、隠れてキリスト教の信仰を伝えながら、7代・250年にわたって信仰を維持していったグループが存在するのです。カトリックの信仰は、司祭がいて典礼を行ってくれないと保てないタイプの信仰であるにもかかわらず、バテレン追放令で司祭がいなくなってしまったので、信徒だけでキリスト教の儀式を守りながら、信仰を維持してきたというのは、キリスト教の歴史上、他に類例のないことです。

「信徒の再発見」が起きた大浦天主堂

「信徒の再発見」が起きた大浦天主堂(長崎県)

 やがて、1853年7月にペリーが浦賀沖に来航して日本が開国すると、それまで潜伏切支丹として密かに信仰を守っていた人々が、来日した宣教師によって発見されました。この話は「信徒の再発見」と呼ばれ、キリスト教宣教史上における一つの奇跡として世界中に伝えられました。

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