札幌第二次「青春を返せ」裁判の判決を検証する<第7回>


札幌地裁判決は、「第4章 被告の損害賠償責任」において、以下のように述べている:

特異な宗教的実践(自分の人生と財産を差し出し、経済活動に従事すること)が要求されると予め分かっていたなら、多くの人は、その信仰を得ることに疑いを抱くであろうし、伝道は功を奏さないことが多いと思われる。

逆にいうと、できるだけ多くの人に特異な宗教的実践をさせようとすれば、その内容は、後戻りできない状態の信仰が植え付けられた段階まで秘匿する必要がある。統一協会の信者が行う伝道・教化活動は、信仰を得ることによる内面的救済が主目的ではなく、出来るだけ多くの人に特異な宗教的実践をさせることが主目的となっているが故に、その内容が秘匿されているものと解される。このことは、宗教性の秘匿と同様、あるいはそれ以上に、不公正である。(p.250

ここでいう「特異な宗教的実践」とは、「自分の人生と財産を差し出し、経済活動に従事すること」と定義されているが、これは数多い統一教会の信者の中でも、連絡協議会の行っていた経済活動を専従的に行っていた、ごく一部の信者にのみ当てはまる現象であり、統一教会のすべての信者に当てはまる普遍的な姿ではない。その意味で、「統一協会の信者が行う伝道・教化活動は、信仰を得ることによる内面的救済が主目的ではなく、出来るだけ多くの人に特異な宗教的実践をさせることが主目的」であるとする判断は、現実を無視した不当な判断であると言える。さらに、伝道の過程で95%以上の人が何らかの実践活動を行う前に離脱していくのであるから、特定の人に対して、「あなたは将来このような活動を行うことになる」と言えば、それは95%以上の確率で外れることになってしまう。

基本的に、統一教会の信者らが行っていた伝道・教化活動においては、何らかの実践活動が行われる前にその意義と価値が説明され、それを受け入れた者のみが実際に活動を行っていたのであり、その都度、それをやるかやらないかについては自由意思による判断が可能であった。その際に、これを行わなければ具体的な体罰が行われる等の脅迫がなされたことはなく、あくまで信者らは実践活動の意義と価値を理解して、納得の上で行っていたのである。伝道の過程において、特定の人がどの程度の実践活動を行うようになるか否かは、その時点では予測できない不可知の事柄であるため、それに関する情報をあらかじめ開示することも不可能である。したがって、ごく一部の信者たちが「特異な宗教的実践」なるものを行っていたことがたとえ事実であったとしても、そのことを最初から告げなかったことが秘匿に当たるとは言えない。また、宗教的教義の実践は、まずは教義を知的に理解して初めてやってみようという決断ができるものである。したがって、まず教義の知的説明を先に行い、その次に宗教的実践の内容と意味を教えることは、何ら不当なことではない。

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