第二章 反宗教的心理学者の検証


本章においては、「洗脳」や「マインド・コントロール」といった理論を振りかざして新宗教バッシングに加担する心理学者たちを、宗教学や社会学の視点から検証することにする。前章の第三節では精神科医による宗教迫害の歴史を概観したが、この章では現在反統一教会運動を展開しているスティーヴン・ハッサン氏、高橋紳吾氏、西田公昭氏の三人をそれぞれ検証することにする。

 

 

第一節 『マインド・コントロールの恐怖』の著者スティーヴン・ハッサン

 

日本で「マインド・コントロール」という言葉が頻繁に使われるようになったのは、一九九三年に山崎浩子さんが統一教会を退会した事件からであり、米国の元統一教会員であるスティーヴン・ハッサン氏の著書『マインド・コントロールの恐怖』(恒友出版 浅見定雄訳)がこの言葉を広める中心的役割を果たしたと言えるであろう。彼は専門的な心理学者というよりは、統一教会を含めた新宗教信者の改宗工作を請け負う「プロの脱会屋」と言うべきであるが、彼の著作は日本の反宗教的な心理学者たちにも大きな影響を与えたため、あえてここで取り上げることにする。

ハッサン氏の著作に対する詳細な批判としては、既に鮮文大学・神学大学院院長の増田善彦氏による『「マインド・コントロール理論」その虚構の正体』(光言社 一九九六年)が出版されているので、この問題に関心のある人は同書を読んでいただくことにして、ここでは内外の宗教学者たちがハッサン氏の著作をどのように評価しているかを紹介してみたい。

 

政治的主張にすぎないマインド・コントロール理論

まずアメリカの宗教学者の評価としては、米国宗教研究所のゴードン・メルトン所長が一九九五年六月十八日付の「Sunday  世界日報」で、インタビューに答えて次のように述べている。

 

ハッサンは反カルト活動家だが、彼の本は洗脳理論を提唱しているマーガレット・シンガーの内容を大衆に受け入れやすいような形で繰り返しているだけで、オリジナルな内容はない。書評にも値しないものだ。

 

メルトン所長は、いわゆるマインド・コントロール理論なるものは米国の学界では既に否定されている理論であり、現在では反カルト活動家の間だけで信じられている理論であると指摘している。それは「科学的理論ではなく政治的主張にすぎない」のであるが、問題は洗脳やマインド・コントロールといった概念が大衆的運動の一部となり、米国民の感情にアピールするものとなっている点だと言う。そしてマスコミが商業目的でこの言葉をセンセーショナルに使うため、それを信じる一般人が多くなっているというのである。この辺の事情は日本でも同じである。

 

敵対する集団を批判するための武器

それでは日本の宗教学者たちはこの「マインド・コントロール」なる概念をどのように受け止めているのであろうか。この問題を扱った宗教学者の論文としては、元日本女子大学教授・島田裕巳氏の「宗教とマインド・コントロール」(『季刊AZ』33、一九九四年十一月 一二四〜一二九ページ)と、東京大学教授・島薗進氏の「マインド・コントロール考」(『こころの科学』56 一九九四年七月 八〜一三ページ)がある。この二人はどちらも新宗教の研究で有名な若手の宗教学者である。

島田論文は、基本的にマインド・コントロールなるものの存在を否認している。

 

洗脳が批判の対象とされたとき、洗脳そのものが問題にされたわけではなかった。ある集団が洗脳を行っていると批判したのは、その集団とイデオロギー的に対立している側の人間たちであった。つまり、洗脳は敵対する集団を批判するための道具ないしは武器として使われたことになる。これは、マインド・コントロールについても共通している。マインド・コントロールの疑いをかけられるのは、社会的に問題があるとされている教団であり、そういった非難を浴びせるのは、教団からの脱会者や脱会工作に従事している人間たちだからである。彼らは、マインド・コントロールの事実によって、その教団を批判しているわけではなく、教団に対する批判を広く社会に受け入れさせるためにマインド・コントロールが行われていると告発しているのである。

実際にマインド・コントロールが行われているかどうかが問われる前に、まず、教団についての評価が前提とされている。問題があるとされている教団が説いているのは、まちがった教えであり、普通の人間はそれを信じたりはしない。にもかかわらず、そういった教団に入信する人間が生まれるのは、その教団が巧みなマインド・コントロールによって、勧誘の対象となった人間の心をあやつり、だますようにして入信させているからだというのである。脱会工作が正当化されるのも、マインド・コントロールの存在が前提とされている。(一二六〜一二七ページ)

 

マインド・コントロールということが事実として存在するのか。それは、洗脳以上にあやしい。ハッサンなどのように、マインド・コントロールの危険性を訴える人間たちは、問題となる宗教団体では人間の心を支配する巧みな方法を開発しているかのような印象を与えようとしているが、実際にそれほど効果的な方法が開発されているようには思えない。

破壊的カルトとして批判されている宗教団体であっても、信者を入信させるため行っている研修会などのプログラムは基本的に単純である。教団の教師や先輩の信者が行う教義の講義が中心で、途中に歌や祈りがはさまれる。教える側はきわめて熱心であり、それが勧誘の対象となる人間に伝わることはあるが、それ以外に特殊な方法が用いられるわけではない。(一二八ページ)

 

マインド・コントロールの問題について議論する際には、どの教団が対象となっているかが重要である。マインド・コントロールの有無よりも、その教団に対する社会的評価の方がはるかに重要な意味を持っている。社会に定着した既成教団の場合には、信仰の選択が制限されたとしても、マインド・コントロールの批判が寄せられることはない。むしろそれは、信教の自由として保護の対象とさえ見なされるのである。

マインド・コントロールということばは、結局のところ、きわめて便宜的に使われていると考えざるをえない。マインド・コントロールの方法も効力もあいまいなうえ、多くは特定の教団を批判するための道具として使われる傾向がある。(一二九ページ)

 

恣意的に使い分けられた理論

一方、島薗論文のほうは「マインド・コントロール」なる概念の是非については煮え切らない態度を示している。ハッサン氏によるこの用語の定義は複雑で分かりにくく、その主張に対しては同意しかねるが、その啓蒙的意義は認めるといった論調だ。どうやら島薗氏は、「マインド・コントロール」が確立された科学的概念であるとは信じていないようであるが、その科学性を云々するよりは、この言葉を一種の「流行語」としてとらえ、このような概念が提示されるに至った社会的な背景を探る、というところに主たる関心を置いているようである。

とはいえ、彼はハッサン氏の提示するマインド・コントロールなる概念の問題点は実に鋭く指摘している。それは、ハッサン氏がこの概念に二重の意味をもたせて恣意的に使い分けているという点である。そもそもハッサン氏はマインド・コントロールを他律的で自発的意志を伴わない人格転換として定義し、これを人権侵害であると非難している。そして彼の言う「破壊的カルト」は、このマインド・コントロールを行うがゆえに非難されるべきだと主張しているのである。しかし、別のところでハッサン氏は、この概念をより広い意味で用いており、同じマインド・コントロールでも目的によっては善にも悪にもなり、目的が正しければその技術を使ってもいいと言っているのである。このように彼は自分の好みに応じて「善なるマインド・コントロール」と「悪なるマインド・コントロール」という区別を設け、後者のみを狭義のマインド・コントロールと呼んで非難するという恣意的な使い分けを行っているのである。

島薗論文は、ハッサン氏の言う「善なるマインド・コントロール」と「悪なるマインド・コントロール」の区別が極めて曖昧なものであり、ご都合主義的に解釈されていることを次のように指摘している。

 

ハッサンがしようと試みたように、好ましくない∧マインド・コントロール∨が何かを示していくことは意義あることと思うが、それを明快な基準として述べることが容易でないのである。改宗教育の受け手が他律的でなく自発性を保ちながら回心へ進んでいくことは一つの要件であろうが、どこかで「自己を捨てる」ことも深い回心にとっては必要であろう。欺瞞的でないことも重要な要件だが、欺瞞と方便の区別も容易でない。さらに非倫理的でないことも「倫理的」の規準を定めるのが容易でない。(前掲論文「マインド・コントロール考」一〇ページ)

 

ハッサンは非倫理的で批判に値する∧マインド・コントロール∨があると考え、その定義に苦心しているが、なかなか容易でないことがわかる。たとえば、「教育的配慮」や「方便」が必要という考えにもとづいて、教育者や宗教家や心理療法家が、本人の意志に反して組織的に何かを教え、本人を変えようとしたとする。これは悪しき∧マインド・コントロール∨であろうか。倫理的に正当と思われる意図によるものなら、好ましい∧マインド・コントロール∨ということになりそうである。たとえ本人が自発的にそれを望まなくても、である。事実、ハッサンらが試みる∧救出カウンセリング∨は、心理学的な洞察にもとづくさまざまなテクニックを用いて∧破壊的カルト∨の信徒に再度人格転換を引き起こさせようとするものである。そこに∧マインド・コントロール∨の要素があることをハッサンは十分自覚している。(前掲論文九ページ)

 

また島薗氏は、ハッサン氏の提示する「マインド・コントロール」の概念と「破壊的カルト」の概念が互いに互いを定義し合う循環論法的な関係にあることを見抜いて、その恣意的な概念定義を次のように批判している。

 

∧マインド・コントロール∨の概念と∧破壊的カルト∨の概念は明らかにつながりあっている。好ましくない∧マインド・コントロール∨を行なうカルトはすべて∧破壊的カルト∨である。逆に∧破壊的カルト∨のすべてが好ましくない∧マインド・コントロール∨を行なうのかどうかはわからない。しかし、∧破壊的カルト∨に入信させられてしまった人は、みな被害者であり、∧救出カウンセリング∨の対象となる。ハッサンが好ましくない∧マインド・コントロール∨を行うカルトと∧破壊的カルト∨の区別にあまり関心を払っていないことは確かである。(前掲論文一〇ページ)

打ち砕かれたハッサンの希望的観測

結局、ハッサン氏の説く「マインド・コントロール」なる概念は、自分が善だと思う目的のために使われれば善であり、その逆であれば悪であるというように、個人の価値観や好みと密接に結び付いたものになってしまっている。ハッサン氏は自分が敵対視している団体が行っているものは、すべて「悪なるマインド・コントロール」と判断し、それを狭義のマインド・コントロールと呼んで非難する。しかし自分自身が行う心理的操作は目的が善であるから「善なるマインド・コントロール」ということになり、それはあえてマインド・コントロールとは呼ばずに「救出カウンセリング」と呼ぶ、という独善に陥っているのである。「マインド・コントロール」が真に価値中立的な科学的概念であるならば、このようなダブル・スタンダードは許されないはずである。したがって、それは自らが敵対視する宗教への弾圧を正当化するための、プロパガンダ用語であるとしか言いようがないのである。前出のゴードン・メルトン氏がマインド・コントロールは「科学的理論ではなく政治的主張にすぎない」と言ったのは、このような理由によるのであろう。

「マインド・コントロール」なる概念の科学性については、ハッサン氏は自著の中で次のような希望的観測を述べている。

 

ある人がマインド・コントロールにかかっているのかどうか決めることは、科学的には長いこと不可能だった。どんな評価も、主観的でないわけにいかなかった。しかし科学は、年とともに、測定可能な機能障害があるという具体的証拠を示せる方向へと向かっている。二一世紀へ移る前に、マインド・コントロールの作用の結果として「脳波の型が変化している」という測定可能な証拠が得られるようになると私は確信する。……ある人の正常な機能がマインド・コントロールによって損なわれているということを正確に特定し、それを法廷で証明できるのは、時間の問題だと私は思う。(三四五ページ)

 

しかし、現実はそれと全く逆の結果になった。米国では「科学的宗教研究学会」(SSSR)が、一九九〇年十一月の協議会で、マインド・コントロール理論の非科学性を再確認する決議を満場一致で採択しているし、マーガレット・シンガーは法廷での発言権を失ってしまった。そして、日本の法廷でも一九九八年三月二十六日に名古屋地裁で下された「青春を返せ」裁判での判決、そして同年六月三日と翌年三月二十四日に岡山地裁で下された同種の判決によってこの概念の有効性は否定された。したがって、今や世界的なレベルでハッサン氏の著書の信憑性が否定されるに至ったと言っていいであろう。

 

 

 

 

 

第二節 「日本脱カルト研究会」設立者・高橋紳吾

 

精神科医で東邦大学助教授の高橋紳吾氏は、かねてより統一教会に対する批判キャンペーンで活躍してきた人物であるが、一九九五年十一月に「日本脱カルト研究会」なる組織を設立し、その代表理事におさまった。彼は以前から「日本にもCAN(カルト警戒網)のような組織が必要だ」と力説してきた人物であるが、いよいよそれが現実のものとなり、本格的な反宗教キャンペーンを展開するためのネット・ワークを構築した感がある。そこで、この節では高橋紳吾氏の洗脳およびマインド・コントロール理論を検証する。

 

「洗脳」という言葉の乱用

高橋氏の洗脳およびマインド・コントロール理論を検証する上で基礎的な資料となるものとしては、著書の『洗脳の心理学』(ごま書房、一九九五年)、論文では「マインド・コントロールの精神病理」(『臨床精神病理』16 一一五〜一二四ページ 一九九五年)などが挙げられる。

『洗脳の心理学』を読んでまず気がつく点は、スティーヴン・ハッサン氏や西田公昭氏が「洗脳」と「マインド・コントロール」を明確に区別し、前者が身体的拘束を伴うもので、後者がそれを伴わないものであると定義しているのに対して、高橋氏はこの二つの概念の区別にほとんど関心を払っていないということである。ハッサン氏や西田氏が少なくともマインド・コントロールを科学的概念として確立しようと努力し、それを彼らが「破壊的カルト」と呼ぶものが用いている説得術に限定しようとしているのに対し、高橋氏は「洗脳」という言葉をほぼ無制限に乱用している。

『洗脳の心理学』の中には、「人は知らず知らずのうちに洗脳されている」「度の過ぎるマーケティング戦略は洗脳そのものだ」「テレビCMは、もっとも効果的な洗脳ツールだ」「社員研修は企業ぐるみの洗脳だ」「研修や教育を突きつめていくと、今回のテーマである洗脳と見分けがつかなくなる」といった発言が矢継ぎ早に登場し、最終的には部下の操り方や女性の口説き方までが一種の洗脳として説明される。これでは「洗脳」はわれわれの日常生活のどこにでも転がっている、ごくありふれたものだということになってしまう。だとすれば、それを宗教団体が使ってはいけないという法はどこにもないわけで、宗教団体が行っている伝道・教育活動だけをことさら「カルトの洗脳」などと呼んで警鐘を鳴らすのは、明らかに偏見であると言わざるを得ない。

 

新宗教に対するあからさまな偏見

しかし『洗脳の心理学』は�宗教団体による洗脳�の説明にかなりのページを裂き、そこから信者を救出するための手法を紹介するために「『脱洗脳』マニュアル」という特別な章を設けて詳しく解説している。その中には多くの問題発言が含まれているので、それらを一つひとつチェックしてみたい。

 

たとえば歴史的伝統があり、社会にも認知されている正しい宗教に洗脳されたのなら、それは憲法に保証された信教の自由であって、何の問題もない。しかし、異常な教義によって信者たちが支配され、反社会的な行為を繰り返すようなカルト教団に洗脳されたということになると、ことは重大になってくる。今度はそうした人びとを元に近い状態に戻す、�脱洗脳�がなんとしても必要になるのだ。(九三〜九四ページ)

 

これは高橋氏の「カルトは基本的に麻薬などとおなじ社会病理現象である」(前掲論文「マインド・コントロールの精神病理」一一六ページ)という発言と同様に、新宗教に対するあからさまな偏見を吐露したものである。彼は「社会的に認知されていない」ということと「反社会的である」ということを同一視しているようであるが、両者は全く別の概念であり、極めて乱暴な論理の展開である。彼の言うように社会的に認知されている宗教にしか信教の自由がないのなら、そのような信教の自由は事実上ないに等しい。まだ社会的な認知を得るに至っていないマイノリティーの権利を保護する、という信教の自由の原則を彼は全く理解していないのである。また「正しい宗教」などという稚拙な表現も、彼の宗教問題に対する見識の低さを表している。ましてや、その「正しい宗教」が「洗脳」をすると言うのだから、これは宗教一般に対する彼の偏見を吐露したものに他ならない。

 

拉致・監禁の教唆

しかし問題は、彼がこのような偏見をもっているということ以上に、その偏見に基づいて新宗教信者の�脱洗脳�を実践しているということである。彼の「『脱洗脳』マニュアル」は、違法な拉致・監禁の要素に満ちている。彼は脱洗脳の第一ステップを「本人の保護・救出」としているが、これは要するに拉致・監禁のことである。彼自身の言葉でその様子を描写してみよう。

 

第一のステップとしてまず、物理的にカルト教団からの情報がはいらないような場所に、本人を保護・救出するのである。……もちろん、カルト教団側にその居場所を知られないようにすることは言うまでもない。もし居場所を突き止めたら、彼らはあの手この手で連れ戻し作戦にでてくるので、ただちに居場所を変えなければならない。

さて、保護・救出したら、こちら側の情報だけをどんどん与え、逆にカルト教団側からの情報をいっさいシャットアウトする。こんどはこちら側が情報をコントロールすればいいのだ。…カルトへ連絡しようとするので、極端に言えば部屋から一歩も出られないような状況に置くことが肝心である。(前掲書一〇三〜一〇五ページ)

 

なお、脱洗脳させるために本人を保護・救出する場合、ときにはある程度強引にしなければならないことも覚悟しておく必要がある。彼らは、連れ戻されたときは瞑想しなさいとか祈祷しなさいとか、あるいは絶対に口をきいてはいけないとか徹底的にたたき込まれている。人によっては泣き叫んで抵抗する場合もあるだろう。だが、たとえば親がほんとうに脱洗脳させようと思っているのなら、子どもがかわいいからとかかわいそうだからといった親心は禁物である。ここは多少強引なことをしてでも、まずは当人を保護・救出するのが先決なのである。(前掲書一〇五ページ)

 

これはもう立派な拉致・監禁の教唆であり、違法行為の奨励である。この記述は彼自身が違法な拉致・監禁行為を是認しているばかりか、それを自ら積極的に指導し、監禁現場に赴いて、身体の自由を奪われた信者に対して、信仰を捨てるように説得するためのカウンセリングを行っていることを窺わせるもので、倫理的にも法的にも極めて重大な問題であると言わざるを得ない。彼は同書の中でも「一日も早く、アメリカの『カルト・アウェアネス・ネットワーク(通称・CAN)』のような団体の設立が待たれるところだ」(一一九ページ)と述べているが、彼が設立した「日本脱カルト研究会」が日本版のCANだとすれば、非常に恐ろしいことだ。なぜならCANはアメリカであからさまな誘拐や、被害者の意思に反しての拉致・監禁を行ったために、その活動家たちが無数の逮捕、検挙、裁判起訴、禁固刑に至っている、いわく付きの組織だからである。このCANは、アメリカでは強制改宗に失敗した被害者から損害賠償を求める訴えを起こされた結果、既に一九九六年に破産しており、逆に宗教的人権を守ろうとする人々によって買い取られたが、強制改宗を行っていたかつてのCANの亡霊が日本で  甦  ったものが「日本脱カルト研究会」だとすれば、戦慄を禁じ得ない。

 

科学者としての堕落?

高橋氏の著書『洗脳の心理学』は、「部下・恋人・妻を意のままに操る技法」というサブタイトルが示すように、科学とは程遠い俗物的な内容の本であり、表現も論理展開も驚くほど稚拙で底が浅い。私は高橋氏の宗教観を知るために、一九九三年に出版された彼の著書『きつねつきの科学』(講談社)を読んでみたが、約二年後に出版された『洗脳の心理学』と比べてみると、ある種の驚きを禁じ得ない。それは『きつねつきの科学』が反宗教的な臭いはするものの、一応科学的でそれなりに面白い本であるのに対して、『洗脳の心理学』はおよそ学者が書いたとは信じられないほどレベルの低い本であるためだ。果たしてこれはブルーバックスとゴマブックスという、体裁の違いによるものなのか、それとも高橋紳吾氏の学者としての堕落なのか。とにかくこの間に何かがあったと考えなければ、この二つの本の学問的レベルの違いはとても説明がつかない。

この問題についての私の解釈はこうである。高橋紳吾氏はもともと「きつねつき」に代表されるような憑依現象を精神医学的に扱うことが専門であった。彼は早くから憑依現象を自分の研究テーマとして選び、この問題に関しては地道な臨床経験を積みながら研究を行ってきた。しかし彼は「洗脳」や「マインド・コントロール」の問題に関しては素人であり、にわか専門家に過ぎないのである。その証拠に、このテーマについての彼の論文「マインド・コントロールの精神病理」における理論説明は、西田公昭氏のモデルをそっくりそのまま拝借しており、オリジナルなものはほとんどない。

そしてこの研究に際しての彼の�臨床経験�は、拉致・監禁された新宗教信者の脱会工作の手助けであった。それは自分のクライアントが洗脳されているという「信仰」がなければ、とてもできるものではない。こうしたきわどい活動に手を染め、のめり込んでいくうちに、彼の科学者としての良心はむしばまれ、もはや「洗脳」や「マインド・コントロール」の問題を客観的・科学的に扱うことができなくなってしまったとしか考えられない。このような彼の学者としての堕落が、『洗脳の心理学』のデキの悪さに直結しているのではなかろうか。

 

 

 

 

第三節  �本格的�な「マインド・コントロール」研究者・西田公昭

 

社会心理学者で静岡県立大学講師の西田公昭氏は、日本で最も�本格的�に「マインド・コントロール」について研究している学者である。彼は「日本脱カルト研究会」のメンバーとして積極的に新宗教信者の脱会カウンセリングを行うかたわら、「マインド・コントロール」についての著作や論文を幾つか発表するなど、この概念を科学的に確立することが自分の使命であると自負している人物である。そこで、この節では彼のマインド・コントロール理論の欠陥を徹底的に検証したい。

西田氏のマインド・コントロール理論を検証する上で基礎的な資料となるものとしては、著書では『マインド・コントロールとは何か』(紀伊國屋書店 一九九五年)と『「信じるこころ」の科学』(サイエンス社 一九九八年)がある。著者本人によれば、前者は一般の読者を対象としているのに対し、後者は社会心理学を学んでいる人々を対象にしていると言う。そのためか、これら二つの本は同じような内容であるにも関わらず、前者に見られるイデオロギー的なアジテーションが後者では幾分トーン・ダウンしている。また、論文では「ビリーフの形成と変化の機制についての研究(3)——カルト・マインド・コントロールにみるビリーフ・システム変容過程——」(『社会心理学研究』第9巻第2号、一九九三年、一三一〜一四四ページ)「ビリーフの形成と変化の機制についての研究(4)——カルト・マインド・コントロールにみるビリーフ・システムの強化・維持の分析——」(『社会心理学研究』第十一巻第一号、一九九五年、一八〜二九ページ)などが挙げられる。

 

偏向した情報源による方法論の欠陥

これらの文献でまず注目すべきことは、西田氏自身は決して自分が取り上げている教団名を明記しないものの、明らかに統一教会を研究素材としているということであり、しかも違法な拉致・監禁を行ういわゆる「反対牧師」のネット・ワークの協力を得て、元統一教会信者たちに面接やアンケート調査などを行い、それをもとにして自らの理論を構築しているということである。

まず西田氏の著書『マインド・コントロールとは何か』の冒頭には、「東北学院大学の浅見定雄教授、全国霊感商法対策弁護士連絡会の方々、全国各地で活躍されている脱会カウンセラーの方々、そして元破壊的カルトのメンバーたちには、多くの貴重な資料を提供していただいた」(一〇ページ)という記述がある。また雑誌『社会心理学研究』に掲載された二つの論文には彼の研究方法が記されているが、彼が資料として用いているものは、統一原理のテキスト本やビデオなどのほかは、元信者の体験手記(四十篇)、元信者への面接(二十人)、元信者二百七十二人へのアンケート調査など、すべてが元信者から集めた情報である。この論文で彼は「調査地点は札幌、東京、静岡、名古屋、新潟、神戸、岡山、福岡であり、それぞれの地点で弁護士や離教協力者の協力で集合調査を行なった」(前掲論文各一三二ページ、二一ページ)と述べているが、これらの都市は山本光一氏、パスカル・ズィヴィ氏、宮村峻氏、斎藤幸二氏、戸田和信氏、杉本誠氏、森哲氏、内村サムエル氏、松永堡智氏、高沢守氏、高山正治氏、中村勝彦氏、志村真氏、青木研甫氏、といった統一教会信者の拉致・監禁を行う活動家の拠点である。しかも彼はアンケートの項目作成に当たって、浅見定雄氏、川崎経子氏、田口民也氏などの著作を参考にしたと述べている。西田氏が彼らから情報だけでなく思想的影響も受けていることは十分考えられる。

このように元信者からの情報にのみ頼って、その教団の伝道方法一般を論じようとする誤りは、マインド・コントロール理論の信奉者に共通する重大な欠陥である。これは米国の心理学者マーガレット・シンガーと精神病理学者サムエル・ベンソンが主張した「強制的説得」理論にも言えることであり、この欠陥について米国心理学会(APA)を代表する学者らによる法廷助言書は、次のように指摘している。

 

シンガー、ベンソン両博士は二つの情報源に依存している。一つは元統一教会員で、そのほとんどが教会から強制的に引き離されたものである。二つ目は元会員の家族・友人などである。このどちらの情報源から提供された証言にも偏向がある可能性が大変強いので、こうした情報源のみに依存する結論は有効と考えるわけにはいかない。(増田善彦『「マインド・コントロール理論」その虚構の正体』光言社 一三八ページ)

 

説得力があり、終始一貫している最近の一連の実証的研究によると、シンガー、ベンソン両博士が結論を得たデータには、もう一つの体系的偏向があることが明白になった。二人の原告を含み、原告側の専門家がインタビューした対象者の大部分は教会を自発的に離れたのではなく、誘拐拉致され、強制改宗、離教カウンセリングを受けた人々である。最近の幾つかの研究では強制改宗を受けた人は、自発的に離れた人と比較して、その人数ははるかに少ないが、元の組織に対してはるかに強い敵意を抱き、「洗脳」や強制的説得の被害をはるかに多く主張することが分かった。(同一三九ページ)

 

ちょうど離婚した人に対するインタビューが結婚観やそれまでの配偶者の倫理性について中立的証拠をもたらさないのと同様に、強制改宗された元会員に対するインタビューは教会の回心行為について中立的証拠をもたらすことはできない。(同一四二ページ)

 

同法廷助言書は、シンガー、ベンソン両博士の用いた方法論は、学術研究の基本的原則を満たしておらず、社会科学の分野においては拒否されているものであると批判している。このような情報源における体系的偏向は「選択の問題」と呼ばれており、これはさまざまなグループを比較研究することによって結論を導き出すという科学研究の第一原則を、シンガー、ベンソン両博士が無視していることを意味している。

この批判が、そっくりそのまま西田氏の研究にも当てはまることは明らかであろう。日本においても「自然退会者」は数の上では強制改宗による脱会者よりもはるかに多いのであるが、自然退会者が教会を相手取り、だまされた、脅された、不法行為に従事させられたとして損害賠償を請求するようなケースはほとんど存在しない。したがって一連の「青春を返せ」裁判が、拉致・監禁による強制改宗の中の一つのプログラムとして組織的に起こされていることは明らかであり、まさにそのように教育されて訴訟を起こしているような人々が、西田氏の調査研究の情報源となっているのである。

こうした欠陥はさすがに西田氏自身も気づいていて、彼は論文の最後に「なおまた、本研究において行われた調査は、すべて元信者を対象に過去の想起を求めたものであった。彼らが何らかの理由で退会しているという点でネガティブ・バイアスが作用する可能性がある」(前提論文『社会心理学研究』第9巻第2号 一四三ページ)と認めている。しかし彼はすぐさま「しかし、現役の信者にしても、内集団に対するポジティブ・バイアスが作用する可能性もある」と言ってかわすことにより、彼の情報源の重大な偏向をごまかしてしまうのである。

もし彼が本当に中立的な研究を目指しているならば、統一原理の修練会に参加した人々の中でも、①結局入会には至らなかった人、②入会して今も信仰を保っている人、③入会して自然退会した人、④入会して拉致・監禁によって離教した人、というグループ分けを行い、それぞれの結果を比較検討してから結論を下すべきであろう。もちろん、①や③のタイプの人を探し出してインタビューを試みるのが困難であることは理解できる。しかし反対牧師の協力を得て、そこに群れている元信者を面接したり、アンケート調査をしただけで、その結果を学術的な成果として発表するというやり方はあまりにも安易ではあるまいか。

 

アンケート調査の皮肉な結果

しかしながら、このように当然ネガティブ・バイアスが予想されるような調査結果から浮かび上がってくる統一教会の伝道方法においてさえ、何ら違法行為や損害賠償の根拠となるような要素を発見することはできない。むしろ、西田氏が行った一連のアンケート調査の結果が示していることは、統一教会が非常に誠実で熱心な伝道活動を行う団体であり、被伝道者は自分を伝道してくれた人々に対して極めて好意的な印象を抱いていた、ということなのである。この点で、このアンケート調査は、統一教会の伝道方法を攻撃しようとする者たちの意図に反しており、大変皮肉な結果となっている。

確かに被伝道者たちは、最初から宗教団体に入会しようという動機で伝道者と関わるようになったのではないかも知れない。しかし、たとえ最初は統一原理の内容がよく理解できなくても、被伝道者をしてさらに学んでみようと思わしめたものは、「伝道者の誠意や賛美などの手厚い対応」や「この集団には何かがあるのではといった高い好奇心と期待」であり、また「講師の信憑性や魅力の高さ」であったという。これら自体が何ら悪いものでないことは明らかである。そして彼らは次第に講義内容自体に魅力を感じるようになり、その内容に納得し、周囲の人々にも影響されて統一教会の教えを信じるに至ったのだという。

要するに彼らは最初は宗教にあまり関心がなかったかもしれないが、統一教会の人々の人間的な魅力や、教えの素晴らしさに心を引かれて入会するに至ったというだけのことである。それをあえて「カルト・マインド・コントロール」と名づけてみたり、「説得的コミュニケーションの体系的な技術応用」などという小難しくてもったいぶった解説を加えるたりするのは、現実を素直に見られなくなった学者の空虚な妄言であるとしか言いようがない。

 

理論的欠陥と実証性の欠如

それでは次に、その空虚な妄言である西田氏のマインド・コントロール理論そのものを検証することにする。西田氏のマインド・コントロール理論は、彼の著書『マインド・コントロールとは何か』(紀伊國屋書店)にまとめられている。彼はスティーヴン・ハッサン氏と同じく、「洗脳」と「マインド・コントロール」の概念を明確に区別し、前者が物理的・身体的拘束を伴うものであるのに対し、後者はあからさまな拘束を伴うことなく人の心を操作する技術であると定義している。「洗脳」とは、一九五〇年代に中国共産党の捕虜となったアメリカ人に施された思想改造に代表されるように、あからさまな虐待を用いて個人の信念を強制的に変化させる技術のことである。しかしこれらの人々を後に研究して分かったことは、中国での「洗脳」の実態が、単なる行動上の服従であって、信念や価値観の変容に成功していたわけではなかった、と彼は述べている。(西田公昭『マインド・コントロールとは何か』三五ページ)

ところが「マインド・コントロール」なるものは、中国で行われた「洗脳」よりもはるかに洗練された技術であって、それはあからさまな身体の拘束を伴わずに、しかも本人に自分が他者から影響を受けていることすら気づかせることなく、強力な影響力を発揮して個人の信念を変革させてしまうものであるという。すなわちそれは「グループ・ダイナミックス」と呼ばれるごくありふれた社会的影響力の集大成によって、いとも簡単に人の心を操ることのできる技術だというのである。(同五三〜五七ページ)

それではどんなに洗練された技術なのかと、期待しながら彼の本を読み進んでいったのであるが、最終的にはとんだ期待外れに終わってしまった。それはまず第一に、彼の理論はスティーヴン・ハッサン氏の理論をほぼ踏襲していて、あまり目新しいものがなかったからであり、第二には彼の言う「強力な影響力」なるものの正体があまりにも貧弱なものだったからだ。

ハッサン氏の理論と比べて、彼の独自性が表れている点と言えば、「一時的マインド・コントロール」と「永続的マインド・コントロール」の区別を設けたことぐらいであろうか。彼の言う「一時的マインド・コントロール」とは、勧誘の初期段階において相手をその気にさせるためのさまざまなテクニックのことであるが、これは彼自身が言っているように、「優秀なセールスマンが多用する方法であったり、プロパガンダの常套手段」(同八七ページ)に過ぎないものである。彼はこの分野における社会心理学の実験データを逐一引き合いに出しては、それらさまざまなテクニックが説得力を向上させることを説明した上で、「破壊的カルト」も同じテクニックを使っていると力説する。

しかしこの議論には二つの難点がある。まず第一に、新宗教の伝道者がこれらのテクニックを用いているという主張は、ただ単に方法が外形的に似ているということだけを根拠とした彼の牽強附会にすぎず、彼らが心理操作を意図しているという証拠はどこにもないということだ。実際、統一教会の信者たちが心理操作を目的として高度な社会心理学を学び、それを伝道の現場において応用・実践しているなどという事実はない。この点については彼も、「もちろん、破壊的カルトが、このような社会心理学的研究を学んでいるとか、その成果を応用した技術で説得しているかどうかは、もとよりわかるものではない」(同六七ページ)とか、「破壊的カルトがこれらの研究成果を用いているとはいいがたいが、彼らは経験則の中でその原理や要因を理解し、応用してきたといえよう」(同六三ページ)と言って逃げている。彼の掲げるテーゼが「現代の破壊的カルトのマインド・コントロールは心理学や社会心理学の応用技術だ」(同二三四ページ)というものであり、このような危険な技術を野放しにしておくのは問題だと警告を発している以上、現代心理学のテクニックが新宗教によって悪用されている事実を証明しなければならないはずである。しかしこの点に関する彼の議論はあまりに貧弱であると言わざるを得ない。誰にも教わらずに日常的な経験だけで習得できるような技術であれば、それは高度な現代心理学の応用とはとても言い難い。

そして第二に、一歩譲って新宗教の伝道者がこうした心理学的なテクニックを使っていると認めたとしても、それがセールスやプロパガンダの常套手段ならば、非難されるいわれは何もないということだ。西田氏が引き合いに出す実験データはセールスの事例が非常に多い。それが合法的なものであるならば、テレビのCMやセールスマンが使っているテクニックを宗教団体が使ってはいけないという法はない。これは彼の著書に一貫して言えることだが、彼はマインド・コントロールが巧妙だとか恐ろしいとかさんざん言っておきながらも、それが違法であるとは一言も言っていない。それはやはり根拠がないからであり、彼の言う「マインド・コントロール」なるものは、日常のどこにでも転がっている合法的な説得術に過ぎないからである。

一方、彼の言う「永続的マインド・コントロール」なるものは、ビリーフ・システムと呼ばれる意思決定の装置を入れ換えることによって、人を永続的にコントロールする技術であるという。彼は自著の五、六、七章でこれについて扱っているが、これは基本的にある人が新宗教に出合い、その教えに共鳴して、教団の中で徐々に自分のアイデンティティーを確立していく過程を、悪意をもって表現したものに過ぎない。彼はAさんがもっていた独自のビリーフが、X組織との接触を通して、徐々にX組織のビリーフと入れ替わっていく様子をモデル化して説明しているが、これはウィリアム・ジェイムズによる回心の描写に非常によく似ている。ジェイムズは回心の経過を「今までは、当人の意識の外囲にあった宗教的なものが、いまや中心的地位を占め、宗教的目標が当人の精神的なエネルギーの中心として習慣的にはたらくようになる」(小口偉一 堀一郎監修『宗教学辞典』東京大学出版会 一九七三年 八四ページ)と説明している。たとえこれが伝道者の働き掛けによって引き起こされたとしても、それはどこの宗教においても日常的に起こっていることであり、あえて「永続的マインド・コントロール」などという仰々しい名前を付ける理由はどこにもないのである。

そしてこの「永続的マインド・コントロール」の説明における最も大きな欠陥は、社会心理学者を自称する者ならば絶対に避けて通れないはずの数値的なデータによる裏づけが欠如している点である。彼は自説を補強するために、さまざまな実験データを引っ張り出してはいるが、そのほとんどが宗教とは直接関係のないセールスの事例ばかりであり、肝心の彼が「破壊的カルト」と呼ぶ宗教団体の説得術がどのくらい効果的であるかを、数値に基づいて検証したデータは一つもないのである。

彼はただ単に「もちろん、破壊的カルトの操作者は、すべての人を例外や失敗もなく完全に操作して内面の変化を引き起こしてしまうと考えることはできないかもしれない。しかし、ここで述べてきたような理論をもとに、システム化されたマインド・コントロールの手続きが個人に組み込まれていくと、その影響力は測り知れない大きなものになるだろう」(同一四二ページ)というような情緒的で漠然とした憶測をしているに過ぎない。

 

実証的データが示すこと

この点に関しては、実は社会学者たちによるもっと実証的なデータがある。既に第一章において述べたように、アイリーン・バーカーの著書『ムーニーの成り立ち』によれば、統一教会の研修会に参加した者たちが入会に同意する割合は平均で一〇%以下であり、二年後まで残る者は四%以下であるという調査結果が出ている。

また日本で原理研究会の三日修に参加した塩谷憲政氏は、「修練会最終日の夜、次の七日間にわたる修練会参加者を募った際、これに応じたのは男子二名にすぎなかった。参加者十五名の反応は人それぞれだったのであり、ひややかな観察者もいれば、自分なりの判断でもって修練会をとらえた人もいたし、また次の修練会に参加することを表明しないまでも、その三日間の体験を有意義だと感じた人もいたのである」(塩谷憲政「宗教運動への献身をめぐる家族からの離反」森岡清美編『近現代における「家」の変質と宗教』新地書房 一九八六年 一五九ページ)と描写している。だとすれば、統一教会の修練会が人に特定の意志決定をさせる上においてかなり効果的な力を発揮するというのは嘘だということになる。

こうしたデータによって、「マインド・コントロール」について西田氏が用いている「洗練された技術」とか「測り知れない影響力」といった形容が、いかに実際とは異なる空虚なものであるかが分かる。名古屋地裁における「青春を帰せ」訴訟において、稲田龍樹裁判長が下した結論は、「原告らの主張するいわゆるマインド・コントロールは、それ自体多義的であるほか、一定の行為の積み重ねにより一定の思想を植え付けることをいうと捉えたとしても、原告らが主張するような強い効果があるとは認められない」というものであった。実に的確な判断であると言えよう。岡山地裁の判決においても、ほぼ同様の判断が下されている。

経験からも分かるように、どんなに優秀なセールスマンであっても、人の自由意思を奪ってすべての人に自分の商品を買わせることはできない。普通のセールスマンと優秀なセールスマンの違いは、前者が百人中一人を説得できるのに対して、後者は百人中三〜四人を説得できる、という程度のものでしかない。つまり、説得力を向上させるテクニックといっても、その効果はあくまで相対的なものに過ぎないのである。

このように「効果的な説得術」という域を出ないものをあえて「マインド・コントロール」と名づけて違法行為の根拠とすれば、世の中のあらゆる社会的影響力を損害賠償の根拠として追求できるという結果をもたらすことになる。そんなことになれば、自己責任の原則に基づいた現行の法体系は崩壊してしまう。「青春を返せ」裁判においてマインド・コントロール理論が否定されたのは、まさにこのような理由によるものである。

確認された自己責任の原則

米国版の「青春を返せ」裁判とも言える「モルコとリール対統一教会」の裁判において、一九八七年に米国心理学会の代表的メンバーらが提出した法廷助言書は、次のように述べている。

 

原告の主張する損害賠償理論で重要なのは、原告の統一教会入会決定について本人が責任を負うべきでなく、その入会の結果発生したいかなることにも本人が責任を負うべきでないという判断である。この主張を受け入れると、これまでの法理学を大きく転覆させる可能性がある概念を導入することになる。ごくまれな例外を除いて、人は自分の行動に対して責任を負うべきであるというのが刑法学と民法学の両者の基本的前提である。(増田善彦『「マインド・コントロール理論」その虚構の正体』光言社 一五六ページ)

 

西田氏の「マインド・コントロール理論」が現行の法体系と相容れないものであることは、実は彼自身が証言している。彼が一九九五年八月二十七日に岡山県で開かれた「日本国民救援会」と称する会合で語った講演には、次のような発言がある。

 

それじゃあ、社会心理学者が中心になって考えているこのマインド・コントロールに対する説明、考え方を少しお話ししたいと思います。

まず大前提から入ります。人間を捉える大前提というのは、日本の法律なんかとは相いれない部分を持ってしまっている—というところから入らなければなりません。つまり、特に法律なんかは「人間は理性的で、自由意志というものを持っていて、何でも理性的に行動するんだ」というふうな前提をとられているようですが、私たちの立場では、全然そういう立場はないんですね。(「青春を返せ裁判」のホームページより)

 

すなわち、西田氏のような社会心理学者の人間観というのは、理性や自由意思といったものをもたず、ただ外的環境に影響されて自分の行動を決定する主体性なき機械のようなものなのである。こうした人間観からは、自分が自由意思によって主体的に決定した行動の結果に対しては、自分自身が責任をもつという発想は出てこない。

身体的拘束や、物理的力の行使による脅迫によって行動を強いられたのなら、その行動に対する責任が免除されるのは当然であろう。しかし、単なる社会的な影響力に過ぎないものによって自由意志と判断能力が失われ、自己の行動に対して責任が取れなくなったと主張するのは、人間としての主体性を放棄した「甘え」にほかならない。前出の名古屋地裁と岡山地裁の判決は、その点を明確に指摘したものであったと言えるだろう。

西田氏の著作は、社会心理学の理論や実験データなどを引き合いに出して、一見科学的な分析を装っているが、その内容は、ひと皮むけば実証を伴わない独り善がりの空論に過ぎないことが明らかになる。