札幌第二次「青春を返せ」裁判の判決を検証する<第9回>


札幌地裁判決は、「第4章 被告の損害賠償責任」において、以下のように述べている:

統一協会が求める宗教的実践は、人生と財産を差し出し、経済活動に従事するという非常に特異なものである。何の拘束もなければ、隷属を嫌う人間の本質からみて、普通の人は、このような宗教的実践に疑問を感じ、それから逃れようとするはずである。それが分かっているから、統一協会においては、信者が特異な宗教的実践から逃れようとすることを阻止するため、教化活動において、心理的及び物理的に社会から信者を隔離しようとするものと考えざるをえない。(p.252-3

地裁判決は、統一教会の信者らが教化活動において信者を心理的及び物理的に社会から隔離した理由を、「特異な宗教的実践から逃れようとすることを阻止するため」と判断しているが、宗教における伝道・教化活動において対象を一般社会から隔離することは多くの宗教において一般的に行われていることであり、特異なことではない。

米国版の「青春を返せ」裁判と言える「モルコ・リール対統一教会」の民事訴訟において、米国キリスト教協議会(NCC)がカリフォルニア州最高裁判所に提出した法廷助言書は、宗教的教化の過程において信者を一般社会から隔離する実践に関して、以下のように述べている。

シンガー博士は上訴人たちが回心させられた環境は、回心自体を無効にする、と主張する。入門者を通常の文化から引き離して、妨げられずに宗教的事柄に精神を集中できる場所に引きこもらせることの優れた効果を認めない宗教を見いだすことはまずできない。もしシンガー博士が正しいとすれば、おそらく数百万の宗教的回心は無効であり、そうした回心者の信仰と生活は詐欺の結果であり、無駄であったということになる。僧院や修道院がすぐに思い浮かぶが、そのほかカトリック教会経営学校、クリスチャン・スクールなどはカトリック教会や他の教会の信仰、即ち世俗文化からの隔離は「周囲の文化を支配するシンボルとは異なった種類の聖なるシンボルを中心にして生活を立て直すことを助ける」(ストローメン『宗教発達の研究』)という信仰を反映している。

19世紀の米国西部の開拓地では、参加者の回心のみを目的にした「キャンプ集会」が開かれた。その集会はキャンプの設置場所から説教のやり方、参加者間に許されている相互交際の内容に至るまで、すべて回心を目的に計算されたものであった(ブルース『みんなハレルヤを歌った』)。これは、未回心者が、通常の環境を離れ、宗教団体によって維持され統制(コントロール)されている別の環境に行く多くの具体例の一つにすぎない。別の環境で日常の生活の影響を忘れて、信仰を受け入れることができるように組織立てられた経験を他の参加者と共にすることができるということである(デマリア『宗教的回心の社会心理分析』、ブライアント、リチャードソン『熟考の時』参照)。上訴人たちは本法廷がそうした隔離環境施設を違法であり、「強制的」であり、詐欺であると宣言するよう求めているが、そのような結論は米国の宗教的伝統とは明らかに相反するものであり、深刻な憲法修正第一条問題を内包したものである。

多くの宗教で、隠遁生活が特別な地位を占めてきた。仏教では、僧侶は宗教の要諦を維持保存するものとされてきた。世俗の中では一般人が救済を達成することが事実上できないと考えられたからである。米国では隠遁する修道女は信仰に生涯をささげ、清貧、純潔、従順の徳目を守り、聖バジル、聖アウグスチヌス、聖ベネディクト、アシジの聖フランシス、聖イグナチオなどにより幾世紀も前に決められた修道院規律を守り、詳細に生活が規制されている献身的修道院生活を送ってきた(レクソー『僧院生活』)。

19世紀のアメリカでは、「シェーカー」と呼ばれるキリスト再臨信者合同協会が世俗環境からの完全な隔離を主要信条とする生活共同体をつくり、規律厳正な独身共同体生活を要求した(メルチャー『シェーカー・アドベンチャー』)。そうした共同体は周囲の世俗的環境での生活とは明確に異なるようにつくられており、規則によって生活が規定されているという意味で実際に「統制されている」といえる。

上訴人たちの専門家の見解では、禁欲的生活や質素な環境は「統制されている」証拠であり、そのような「統制(コントロール)」は統一教会員自らの決定行為が本物かどうか疑わしいものにしていると見ている。実際には、そのような環境は多くの宗教が求めているもの、即ち神との一体化を一心不乱にめざすための質素で純潔な生活という理想像を代表したものである。(以上、引用終わり)

この法廷助言書の記述からも分かるように、宗教的教化の過程で参加者を一般社会から一定期間隔離することは、古来より実践されている宗教的活動であり、統一教会においても、「信者が特異な宗教的実践から逃れようとすることを阻止するため」ではなく、あくまで神の教えに集中するためという純宗教的な目的である。こうした一般的な宗教実践に対して、統一教会に対してのみ特異な理由付けを行うことは、差別であり偏見である。

 

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