第六章 婚姻無効裁判について


第一節  反統一教会運動家による拡大解釈

 

婚姻無効裁判とは、合同結婚式への参加を自ら希望し、文鮮明師ご夫妻による祝福を受け、婚約者との間で家庭をもつことを決意して入籍したにもかかわらず、反対牧師らに教唆された父兄たちによる拉致・監禁を伴う強制改宗によって一方が信仰を失い、婚姻届自体が自分の意思に基づいて出されたものではなかったと主張して、婚姻を無効とし、戸籍から婚姻歴を抹消するために起こす裁判である。これら一連の裁判は、基本的に既に信仰を失っている妻または夫が、まだ信仰を保っている夫あるいは妻を相手に争っている裁判であり、統一教会はこれらの裁判の当事者ではない。この問題はあくまでその夫婦の問題であるため、基本的にプライベートな問題であり、その審議は家庭裁判所で出発する。教会としても、婚姻は当事者同士の問題であるために、当人の意思を尊重し、これらの裁判には干渉してこなかった。

 

 

訴訟を利用する統一教会反対運動家

しかしながら一九九六年四月二十五日に、福岡高裁が下した婚姻無効判決に対して、不服を申し立てていた信者の上告を最高裁判所が棄却する判決が下された際、一部報道で反対派弁護士の「両性の意思による婚姻の自由を定めた日本国憲法に真っ向から反する合同結婚式の違法性が、最高裁で認められたのは非常に意義深い」などというコメントが公表され、婚姻という基本的にプライベートな問題を、統一教会に反対するというイデオロギー的な目的のために利用する姿勢が認められたので、教会としてもこの問題を看過できなくなった。また一九九七年九月三十日発行の『統一協会合同結婚式の手口と実態』(全国霊感商法対策弁護士連絡会、日本基督教団統一原理問題連絡会、全国原理運動被害者父母の会編著)においても、この最高裁判決や各地方裁判所の判決について、「合同結婚式に基づく婚姻について統一協会のやり方そのものについて、その反社会性を認定したものと言えます」(六三ページ)と解説し、これらの判決を反統一教会運動に利用しようとする姿勢を鮮明にしている。

ところが最高裁の判決は、合同結婚式自体が違法だなどとは一言も言っていない。むしろ原審である福岡高裁は、「本件は、宗教や信教に深く関わった事件であり、統一協会の教義その他の宗教的価値を尊重すべきことは当然であり、教義の解釈にまで踏み込むものではないことは勿論のことである」と判示しており、最高裁もこうした原審の判断を踏襲しているのである。したがって反対派弁護士団のコメントは、判決にかこつけて合同結婚式に対する誤った認識を国民に植え付けようとする全く不当なものであると言わざるを得ない。

そもそも合同結婚式で結ばれたカップルは日本だけに限っても六万組に達するのであり、婚姻の無効が認められたケースは二十〜三十件あるというが、そのほとんどが拉致・監禁を伴う強制改宗によって信仰を無理矢理捨てさせられ、その結果として相対関係が破綻した特殊なケースである。それ以外のカップルは皆、時が来れば家庭を出発し、通常の夫婦と何ら変わりのない結婚生活を営むようになるのである。したがって婚姻無効の判決が出されたごく少数の例を根拠に、合同結婚式そのものに対する判断が下されたかのように主張するのは不当な拡大解釈である。

そもそも、合同結婚式において文鮮明師や教会は仲人的な役割を果たすが、それを受け入れるかどうかはあくまで当人同士にゆだねられているのであり、結婚を強要している訳ではない。したがって合同結婚式によって結ばれたカップルも、両性の合意に基づいて結婚しているのであり、憲法に抵触するようなことは何もないのである。

また、政教分離の原則から言っても、裁判所が特定宗教における結婚の宗教的価値を否定したり、その結婚のあり方を違法であると判断したりすることはできない。裁判所が下した判断は、合同結婚式によって結ばれて婚姻届を提出したカップルのうちのごく一部のケース、しかも既に破綻しているカップルの婚姻について、その「法的な有効性」を否定したのに過ぎない。したがって、最高裁の判決と言えども、決して統一教会における祝福行事の宗教的意義を否定するものではないことを確認しておく必要がある。もとより、結婚に宗教的な意義を見いだし、それを儀式によって表現するという人間の営みは、現行民法よりもはるか以前から存在するものであり、それは民法上の婚姻の効力とは全く別次元の問題である。

 

宗教婚主義と民事婚主義

いかなる時代においてもいかなる民族のもとでも、婚姻が結ばれるときには、常に何らかの挙式行為もしくは儀礼が催される。というのは、婚姻の挙式ないし儀礼は、その婚姻が社会規範の上で有効に成立したことを社会的に確認し、かつこれを公表するという意味をもっているからである。そして宗教が大きな影響力をもつ社会においては、婚礼の儀礼は当事者が結ぶ婚姻に対して宗教的な祝福を与えるという意味をもつようになる。この最も典型的な例がキリスト教における結婚式である。

キリスト教においては、結婚は神が人間を創造したときに定めた秩序であり、相互の出会いは神が合わせるものであるととらえている。また、カトリック教会においては夫婦の関係をキリストと教会の関係にたとえ、キリスト者同士の婚姻による結婚生活をキリストと教会の関係を表す秘跡(サクラメント)と見ている。この「婚姻の秘跡」は、キリスト者間の婚姻契約によって相互に授けられる。その際、司式者は教会共同体を代表してキリスト者の婚姻契約に立ち会い、これを公に認証して祝福する。統一教会における合同結婚式も、このような伝統を相続していると言えるであろう。

キリスト教世界では、中世を通じて、婚姻の統制は世俗的な権威ではなく宗教的権威の任務と考えられてきた。したがって、十七世紀まではヨーロッパのすべての国で、婚姻は明らかに宗教的な出来事であった。ヨーロッパにおいて民事婚が確立するのはフランス革命によってであり、それがベルギー、ルクセンブルグ、スイス、ドイツなどの国に広がっていったのである。具体的には一七九一年九月三日の革命憲法第七条によって、「法律は婚姻をただ民事契約としてのみ認める」と宣言されたことによって、宗教婚主義が排斥され、これに代わって民事婚主義が確立されたのである。これ以後、西欧社会においては婚姻は純粋に民事的行為となり、十九世紀になってフランスをはじめとして近代民法典の中で、つぎつぎと法律上の婚姻の成立要件が規定され、当事者が身分管掌者の面前で宣誓し、登録簿に記載するという方式が採用されるようになり、すべての国民に対して民事婚を課すようになった。かくして、世俗の公務員の面前で行われる市民的儀式が、宗教的な儀式に取って代わったのである。

このように、近代の市民国家においては「法律は婚姻をただ民事契約としてのみ認める」と宣言され、婚姻の成立は宗教的な統制から分離された。したがって、今日では宗教的な儀式以外に有効な結婚は成し得ないとする立場は、ギリシア、イスラエル、バチカン市国などの一部例外を除いて、ほとんど見られなくなっている。これはある意味では「婚姻の世俗化」と言うことができるであろう。しかしながら、これをもって市民的な婚姻儀式が宗教的な婚姻儀式を完全に駆逐したと誤解してはならない。なぜなら、婚姻を神聖視する観念は今もなお人々の心中に深く根づいており、今日でも婚姻締結の民事的手続きと並行して、結婚のための伝統的な宗教儀礼が行われることが多いからである。

婚姻成立のための儀式が世俗的なものでよいのか、宗教的なものであるべきかという問題は、とりわけヨーロッパやラテン・アメリカの国々では教会と国家の論争の種になるほどの深刻な問題であった。市民的儀式が義務づけられている国々でも、宗教的儀式の挙式が禁じられているわけではない。ただ、そこでは宗教的儀式には民法上の効果が何ら認められていないだけである。アメリカ、イギリス、スカンジナビアの国々では、婚姻しようとする当事者の信念と希望に反するような儀式挙行を義務づける理由は存在しないという根拠で、当事者が世俗的儀式と宗教的儀式のどちらかを自由に選ぶことができる。つまり宗教的儀式も民法上の効果を発揮する国もあるということである。

このように、「法的な効力を発揮する婚姻」という意味においては、全体的には宗教婚主義から民事婚主義に移行してきているということが言え、すべての国民が民法の定める婚姻手続きを踏まなければ法的に正当な結婚として認められない、というのが現状である。しかしながら、個人が結婚に対してどのような宗教的意義を見いだし、どのような宗教儀式に参加することを望むかという問題は、民法とは全く別の次元の「信教の自由」に属する問題であり、裁判所はこの分野にまで踏み込んだ判決をすることはできないし、また実際にもしていない。

婚姻無効判決の意味するもの

日本においては、西欧社会に見られるような婚姻締結のための市民的儀式は存在せず、婚姻は戸籍法上の届出によって法律上の効力を生じる(民法七三九条)ことになっており、この届出をしない限り、たとえ結婚式を挙げても、法律的には婚姻は効力を生じないとしている(届出婚主義)。したがって、統一教会の合同結婚式によっては法的な婚姻の効力は生じないので、各カップルは家庭をもつ前にそれぞれ役所に婚姻届を提出することになる。大部分のカップルはこのような過程を通じて名実共に夫婦になっていくわけであるが、ごくまれに婚姻届を出してから実際に家庭生活を始めるまでの間に夫婦のどちらか一方が拉致・監禁され、棄教することによって相対関係が破綻してしまうケースがある。

婚姻無効裁判は、基本的にこのような場合に起こされる。相対関係が破綻したといっても、実際に家庭をもって夫婦関係を結び、子供まで設けているような場合には、婚姻の意思はおろか事実まであるわけであるから、婚姻が無効だと主張すること自体がナンセンスである。したがってこのようなケースで婚姻無効裁判が起こされることはない。しかし一方で、婚姻届は出したものの、実際に家庭生活を始める以前に破綻してしまった、さらには相対者との間に親密な関係を築くことができなかった、というような場合には、実際の夫婦関係や同居した事実がなかったということを根拠に、婚姻が無効とされる場合が多い。微妙なのは、親密な交際を重ね、三日行事(家庭を出発するための儀式)を行った後に、家庭をもつ準備期間中に妻あるいは夫が拉致・監禁されて信仰を失ってしまった場合である。先に述べたように、婚姻無効という最高裁判決が出されたのはまさにこのようなケースであった。

貞操観念の堅固な統一教会の女性信徒が、結婚する意思のない相手と性関係を結ぶなどということは、およそ考えられないことである。しかも三日行事は家庭を出発するための儀式であるという明確な宗教的意義づけがなされているのであるから、このことからしても本人に相手と家庭を出発する意思があったことは明白である。しかしながら裁判所は婚姻届を出してから実際に同居するまでの期間が長いという極めて世俗的な常識だけを基準として、この女性信徒が婚姻届を提出したときに「確定的な婚姻意思」があったことを否認してしまったのである。

「婚姻意思」というのは、婚姻の実質的要件を構成する六つの要素の一つであり、これらのうち一つでも欠けていると判断された場合には、婚姻の無効・取消しということがあり得る。「婚姻意思」とは社会通念に従って夫婦生活に入るという意思のことである。したがって、肉体関係を絶対に結ばないという意思(約束)でなされた婚姻には婚姻意思があったとは認められないし、二年間だけ夫婦生活をするというように期間を区切って婚姻生活に入ったり、子を生まないという約束をして婚姻に合意した場合であっても、それは社会通念に基づいた婚姻意思があったとは認められない。

統一教会における結婚の場合、夫婦の性的結合は神聖なるものとして奨励されており、また子供を生むことも奨励されているので、その結婚観が社会的通念から外れることはない。しかしながら、統一教会には「聖別期間」という教義が存在し、カップルは祝福を受けてから一定期間は夫婦関係をもたないという合意のもとに結婚する。これは基本的には四十日間なのであるが、さまざまな事情によって何年間にも延長する場合がある。このような長い期間にわたって夫婦関係をもたないことを前提にして婚姻届を提出するということは、社会通念における婚姻意思があったとは言い難い、というのが裁判所の判断なのである。つまり、世俗的な社会通念からは「聖別期間」のもつ宗教的な意義が理解できなかったために、婚姻意思が認定されなかったのにすぎない。

しかし、これらはいずれも既に破綻してしまったカップルについて、後からその婚姻の法的な無効性を争う裁判であり、統一教会における結婚のあり方一般を否定するものではないことは、重ねて強調しておく必要がある。たとえ聖別期間が長くとも、ほとんどの祝福されたカップルはその後夫婦生活を出発し、理想的な家庭を築こうと努力しているのであるから。

 

 

 

 

 

 

 

 

第二節  悲劇を生む拉致・監禁による棄教・退会

 

 

われわれ統一教会の立場からすれば、裁判所が二人の婚姻を無効と見なしたということ以上に、祝福を受けて永遠の伴侶となることを誓い合った二人が、強制的に引き裂かれてしまったということのほうが、はるかに大きな悲劇である。なぜこのような悲劇が起こるのか? それは拉致・監禁を伴う強制改宗のプログラムの一環として、祝福を受けた相対者との関係の清算が強要され、それに伴って離婚訴訟や婚姻無効訴訟を起こすということが組織的に行われているからである。これこそまさに、両性の意思を踏みにじる非人道的な行為である。

 

踏み絵として迫られる離婚

一九九一年四月七日に職業的な「脱会屋」である宮村峻らによって拉致・監禁され、八カ月にわたって拘束されながらも、奇跡的に脱出した鳥海豊氏の著書『監禁二五〇日・証言「脱会屋」の全て』(光言社)には、彼が偽装脱会(監禁から逃れるために脱会を装うこと)をしている間に離婚訴訟を起こすことに同意せざるを得なかったことが書かれている。監禁から逃れるためには信仰を棄てたことを表明するほかはなく、それを証明するための「踏み絵」として、相対者との関係を清算させられるのである。そのときの様子を鳥海氏は次のように描写している。

 

宮村はこうも言った。

「いいか、お前たちは命懸けで原理を信じてきた。そして、好きだ、嫌いだという感情までコントロールされてきたんだ。その中で、理想相対(理想的な結婚相手)だと信じこまされて、祝福を受けたんだぞ。そうすれば好きになるさ。そうやってお前の好き、嫌いという感情まで、支配してきた統一教会を憎いとは思わないのか」

いろいろごねてみたりもしたが、結局、

「相対者と会わせてくれ」とか「一緒になりたい」とか私が言っている間は、絶対に自由がないということがハッキリした。(「監禁二五〇日・証言『脱会屋』の全て」八六〜八七ページ)

 

父親は、

「絶対に相対者とは会わせない。どうしても会いたいなら、おれが死んでからにしろ。悪い女と手を切るためには『もう絶対に会わない』と心から決心することだよ。

大体、犬や猫みたいに勝手にくっつけられて、好きになったなんてよく言えたものだ。大体下半身でくっついているだけの話じゃないか」(本当にこう言った)

「愛情に対して禁欲状態をつくっておいて、結婚するまで管理することで、統一教会をやめられないようにしているんだ。統一教会に利用されていたんだ。だまされていたんだと思えば、分かる話じゃないか」

と言う。本当によく宮村たちの「教え」が入っていた。(同八四〜八五ページ)

 

このようにして鳥海氏は、宮村氏によって添削された統一教会の脱会届けと相対者への別れの手紙を内容証明郵便にして、日本の統一教会本部と、韓国の所属教会、そして相対者の所へそれぞれ郵送させられたのである(同一〇五ページ)。

さらに驚くべきことに、鳥海氏の相対者が妊娠しているらしいという情報が入ったとたん、宮村氏は次のような発言をしているのである。

 

「今までは、統一教会をやめるのも、相対者と別れるのものんびりやってきたが、これからはそうはいかない。相対者に、早く自分が統一教会をやめたと伝えないといけない。あとで相対者が子供を連れてきたりすると、お前も困るだろう。結婚の意志のないことを示して中絶させたほうがいいよな」(同九八ページ)

 

また、事態の深刻さに気づいて高揚した鳥海氏の父親との間には、次のような会話がなされている。

 

「相対者が妊娠しているというじゃないか。一体どうするつもりなんだ。お前の考えを言え」

「宮村さんとも相談して決めたんですが、統一教会の脱会届けを出したり、相対者に離婚届けを送ったりして、できるだけ中絶させたいと思っています」

と不本意だが答えた。

すると父親は体を怒りに震わせながら、

「なに、できるだけ! なんでできるだけなんだ。絶対に、何がなんでも中絶させなければいけないんだ。なんで、お前の態度はそんなに煮え切らないんだ。まだ相対者にも未練がある、統一教会にも、未練があるっていう顔をしやがって」(同一〇〇ページ)

 

このとき、実際には鳥海氏の相対者は妊娠していなかったが、これは、彼らが自分たちの目的のためには愛し合っている二人を引き裂くばかりでなく、胎児の生命さえも犠牲にしようとしたことを物語る貴重な証言である。もし鳥海氏が奇跡的に監禁状態から脱出することができなかったならば、最終的には彼の相対関係も破壊されていたに違いない。

同じく拉致・監禁を経験した小出医師は、自分と同じ状況で監禁されたS君が、相対者との関係を清算させられていく様子を次のように記している。

 

その後、伝え聞いたところによると彼も悩みながら、心の中では愛している相対者との仲を、弁護士を間に入れながら清算しているようであった。

教義うんぬんは別にしても、彼は彼女を愛していた。それを弁護士を通して交渉せざるを得ないのは苦痛以外の何ものでもないだろう。それが本人の本心からしていることなのか。

監禁から逃れるには脱会の意思表示と、それに伴う祝福の解消や統一教会を提訴するなどの�踏み絵�が要求される。彼の相対者の間の清算が踏み絵でなければいいのだが。(『人さらいからの脱出』一九一ページ)

 

小出医師の場合には、監禁された当時はまだ祝福を受けていなかったので、幸いにも相対者との関係を清算するように強要されることはなかった。しかし彼は監禁された信者たちの相対関係が次々と破壊されていくのを見てきたのである。

 

イデオロギーのために利用される訴訟

いったいこれらの婚姻無効訴訟の目的は何なのであろうか? 実際に家庭を出発する前に相対関係が破綻してしまった場合、結果的に実体を伴わなかった婚姻届によって自分の戸籍に離婚歴が残ってしまう。それが自分の将来にとって(例えば結婚したいときに、それが再婚であるか初婚であるかが重要であるような場合)不利益になる可能性があるからそれを抹消したいというのなら、そのような動機は理解できる。しかしそれが目的ならば、婚姻無効判決が出たことをことさらに宣伝する必要はないのである。事態が公になることが本人の将来にとってプラスになるとは考えられないからである。

したがってこの婚姻無効訴訟の動機は、どうやらそれとは別のところにありそうである。前出の『統一協会合同結婚式の手口と実態』にも「婚姻無効の判決を求めることによって統一協会の合同結婚の結果がいかに非人道的なものであるかを社会的に明らかにし、一日も早くこのような合同結婚をやめさせたいという願いをもって次々と訴訟や調停が起こされました」(五九ページ)と書かれているように、実はこの訴訟は、統一教会に反対するというイデオロギー的な目的のために行われているのである。そして、この訴訟の原告らは、婚姻という本来プライベートな問題を反統一教会運動家に利用されているのである。

婚姻無効訴訟を起こしている元信者たちは、あたかも自分は本意でない結婚を強制された被害者であるかのように主張している。しかし、真の被害者は原告側の元信者ではなく、この訴訟によって一方的に相対関係を拒否され、心ならずも裁判の場に引っ張り出され、婚姻の無効を宣告された被告側の信者である。原告側の元信者においては、自分が絶縁状を叩きつけた相手のほうがはるかに大きな精神的苦痛を味わったのであるということを認識すべきであろう。原告となった元信者がもし拉致・監禁されて信仰を棄てるようなことがなければ、彼らは結婚して幸福な家庭生活を営むつもりであった。しかしその希望は、一方的な通達によって破壊されたのである。

そして何よりも、原告となった元信者らを背後で操っている反対牧師や改宗請負人、そして一部弁護士たちの人権侵害こそ、この悲劇の元凶である。このような違法極まりない強制改宗事件が、今なお年間二百も引き起こされているのである。