札幌第二次「青春を返せ」裁判の判決を検証する<第12回>


札幌地裁判決は、「第4章 被告の損害賠償責任」において、以下のように述べている:

信仰の維持を強制するため、人の情緒面での変化をもたらす家族や友人・知人との接触を断ち切り、歪んだ形で情緒を形成させ、信仰を維持させることは、不正な教化活動であるといわなければならない。(p.257

米国版の「青春を返せ」裁判と言える「モルコ・リール対統一教会」の民事訴訟において、米国キリスト教協議会(NCC)がカリフォルニア州最高裁判所に提出した法廷助言書は、宗教的教化の過程における家族との断絶の問題に関して、以下のように述べている。

シンガー博士は、統一教会が家族との接触を断ち、会員に「無力感」を与え、その無力感が「洗脳」を促進する、と説明する。しかしそのような解釈とは対照的に神学者たちは、家族との絆を弱めること、さらには断絶することさえも信仰を受け入れるために不可欠な過程であるかもしれない、と論じてきた。キリストはマタイによる福音書10章34~37節で、次のように述べている。「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。そして家の者が、その人の敵となるであろう。わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない」。

この聖句を解釈して、神学者ポール・ティリッヒは「家族は決して究極存在ではない」(『新しい出発』)と述べた。神を真剣に知ろうとする者は「父母兄弟姉妹から自由になることの悲劇的罪悪の危険を冒さなければならない」(同書)というのである。生まれ育った家族を愛の絶対的焦点と考えることは、クリスチャンが捨て去らなければならないこの世との協調なのである(ティリッヒ『永遠の今』)。例えば、メノナイト派は、真のクリスチャンは「キリストの十字架を自分自身が担う準備をし、神の名誉と栄光を必要とするならば、キリストのみ言葉を伝えるため父母、夫、妻、子供、所有物、自分自身を捨てる準備がなければならない、と定めている(ウェンガー『メノナイトの歴史と教義』)。

家族を超越することは困難で心の痛みを伴うものだが、時に自由をもたらし行動能力を賦与することでもある。シンガーは反対にこれが「無力感」をもたらす、と信じ、その「無力感」の結果としての信仰には信頼性がないと信じている。家族から離れることは明らかに困難であり、つらい過程である。人生の中では多くの場合、成長のために解放ということが必要であるが、特に信仰に到達する過程では、それがより重要である。シンガーは多くの宗教に共通する条件、即ち信仰への路程において時に痛みを伴うが、必要であると認識されている段階の条件について批判している。(以上、引用終わり)

宗教への入信による家族との葛藤は統一教会に特有のものではなり。むしろ、回心者を求めて活動する宗教集団は、本来的に家族と対立する契機を含んでいるのである。上記のマタイ伝の引用からも分かる通り、イエスによって選ばれたごく少数の弟子たちからなる原始キリスト教団は、万人への普遍的な愛のためには、家族への個別的な恩愛のしがらみを超克しなければならなかったのである。これは、新たな価値の再編をめざす宗教運動としては当然のことであり、宗教集団のライフサイクルの初期の段階においては、ごくあたりまえの事実である。

釈迦にしても家族生活をすてて家を出たのであり、出家ということそのものが家族の否定である。道元は、老母への孝養とおのれの出家遁世との矛盾に悩む僧に対して、「このこと難事なり」と言いつつも、「老母はたとひ餓死すとも、一子出家すれば七世の父母得道すと見えたり」と答えている。(正法眼蔵随分記第3の14)

地裁判決は、こうした宗教伝統に対して一切の理解を示さず、世俗的な価値観のみを宗教活動に押し付けて違法性の判断をしているという点で、明らかに偏見に満ちたものであると言わざるを得ない。

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