日本仏教史と再臨摂理への準備シリーズ04


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 こうした修行をして仏教が目指したのは何かというと、解脱であり、涅槃寂静という境地に至ることです。これが仏教の目指している究極的な理想であり、目標です。仏教以前からインドには「六道輪廻」という考え方があって、人間は死ぬと次の世である「来世」に行くわけですが、それが6つの世界に分けられています。いま人間界にいるとすると、その上には天上界というより高い世界があって、人間界の下には修羅、畜生、餓鬼、地獄という世界があるわけです。そして、生きているときの行いによって、次に行く世界が決まって、この6つの世界をぐるぐる輪廻しているというわけです。この「六道輪廻」という世界も、まだ迷いの世界なので、ここから脱して仏の世界に入ることを「解脱」と呼んだわけです。つまり仏の世界というのは、この6つの世界をさらに超越した上の世界であって、その世界に入ることを「解脱」と呼んだのです。

 お釈迦様が説かれた「根本仏教」がどんな宗教かということを分析すれば、まず極めて「自力型」の宗教であるということが分かります。つまり、仏教とはどんな宗教かといえば、「修行によって悟りを開くこと」を目的とした宗教だということになります。ですから、神様に救ってもらおうというタイプの宗教ではないわけです。お釈迦様の当時、バラモン教は「呪術」を行っていました。「呪術」とは、おまじないのことです。これは呪文を唱えて災いを除き、幸福を招く行為であって、「大学に受かりますように」とか願いをかけて護摩を焚いたりするのは、呪術と呼ばれる行為です。お釈迦様は、仏教の僧侶に対してこれをやってはいけないと言ったわけです。普通は、世俗的な願いを果たすために呪術をするわけですが、仏教の目的はそういう欲望を捨て去って悟りに至ることにあるわけですから、呪術などやってはいけないとお釈迦様は教えられたわけです。

 お釈迦様は常に「自燈明」「法燈明」ということを教えられました。これは、「自らを燈明とし、自らを頼りとして、他人を拠所とせず、法を燈明とし、法を頼りとして、他を拠所とせずに修行しなさい」という意味です。つまり、誰がこう言った、彼がこう言ったということに惑わされることなく、自分で悟って、法を頼りにして生きなさいと言ったという意味では、かなり自力型の宗教であると言えます。

 さらにもう一つ言うと、仏教は個人主義的な現世否定の宗教であると言えます。例えば、因果応報という教えがあります。「善因善果」「悪因悪果」と言って、善なることをすれば善なる結果が現れる、悪なることをすれば悪なる結果が現れる、ということで非常に合理的ですね。さらに「自業自得」ですから、自分の行為の結果は自分に跳ね返ってくるということですので、個人主義ということになります。

 ですから、お釈迦様の説いたオリジナルの仏教は徹底した個人主義の教えであって、その究極的な目的は生死輪廻からの解脱、言い換えれば、どこまでも個人の安心立命の境地にあるわけです。これを「涅槃寂静」と言います。したがって、仏教本来の理想社会は家でも家族でもなく、まして国家でもありません。それは出家求道者の集団である僧伽(サンガ=僧の集団)であったのであり、むしろ家庭は愛欲煩悩の場として、相対的に否定されるべきものであったとさえ言えるわけです。これが、お釈迦様の説いた仏教の本質ということになるので、仏教の理想は出家してお坊さんになることなんです。

 それでは、お釈迦様が亡くなった後にどうなって行くかというと、お釈迦様が入滅されて100年くらい経ったころに、「根本分裂」と呼ばれる大きな分裂が起きるようになります。これは信徒として守るべき「律」を巡って、保守派と改革派が対立することにより、仏教自体が大きく二つに分かれたわけです。保守派の方を「上座部」と言います。これは、上の方の席に座っていた偉いお坊さんたちの派ということで「上座部」と呼ばれたわけですが、これは伝統に従って戒律を厳格に守らなければいけないと主張しました。上座部仏教の理想は、「阿羅漢(あらかん)」と言って、最高の悟りに達した聖者のことです。彼らは阿羅漢になるには出家しなければならないと主張し、修行を重要視し、自己の解脱を最高の目標としました。こういうタイプの主張をする派であったわけです。

 それに対して改革派の「大衆部」は、「そんな基準の高いことを言っていたらみんな救われませんよ」ということで、在家信徒でも守れるように戒律を緩和することを主張しました。そして、自分が解脱することよりも一切衆生を救うことがもっと重要な目的であると主張したのです。修行をすることよりも、仏様を信じる信仰の方が大事であると主張し、在家信者でも悟りに到達できると説きました。これが大乗仏教の始まりです。

 これは初期の統一教会の構造とちょっと似ているところがあって、昔は統一教会といえば若者の宗教で、「親泣かせ原理運動」と言われたくらい、大学生くらいの若い人たちが入教して、献身しなければ救われないくらいの勢いであったわけです。しかし、結婚していた場合にはなかなか献身できませんから、その後に「壮年壮婦」と呼ばれる層が現れてきて、ホームで共同生活をしながら献身的な生活をしなくても信仰を持てるようにしましょうということになったわけです。それは仏教でいえば「大乗仏教」に近いわけです。
 
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 皆さんはよく、「大乗仏教」と「小乗仏教」という言い方をされると思いますが、この「小乗」というのは、修行を熱心にすることのできるごく少数の者しか救われないという意味で、上座部仏教のことを大乗仏教の人が批判して呼んだ言葉なんですね。つまり、あなたがたの教えでは本当に一握りの人しか救われませんよ、という意味で用いた蔑称ですので、自分たちのことを「小乗仏教」と呼ぶことはないわけです。ですから、これは「上座部仏教」と呼ぶのが正しいわけです。

 イメージとしてはこうなります。「大乗仏教」の人たちは、「私たちはみんな救われる大きな船に乗っているんだ。あの人たちの船は一人しか乗れない小さな船なんだ」と考えていて、「大きな乗り物」と「小さな乗り物」という意味で、バカにして言った言葉が「小乗」という言葉なので、あまりこの言葉は使わない方が良いということです。

 このようにして「根本分裂」によって大乗仏教と上座部仏教に分かれていくわけですが、さらに「密教」と呼ばれるものが出現するようになります。これは基本的にはインドに出現して中国で発展していくわけですが、なぜこの話をするかといえば、この「密教」の伝統がやがて日本にもやって来るからであります。これを相続した二つの大きな宗派が天台宗と真言宗ということになります。

 5世紀ごろになると、大乗仏教は次第にヒンドゥー教がもともと持っていた呪術の要素と混ざっていき、「密教」が生まれることになります。真言宗でいうところの「真言」とは、サンスクリット語でいうマントラのことで、儀式のときにつぶやく「呪文」を意味します。「マントラ」というとオウム真理教を思い出すかもしれませんが、これはもともとヒンドゥー教や仏教にあった呪文のことなんですね。

 密教の特徴の一つは、ヒンドゥー教的な呪術の要素が仏教に取り入れられたということです。これはお釈迦様が禁じたものであったため、本来は原始仏教にはなかったものでした。それが時間とともに入り込んできたということです。二つ目の特徴は、神秘主義と秘密主義です。例えば、曼荼羅の前で印を結びますが、これを「身密」と言います。心に大日如来を念じることを「意密」と言います。そして、口に真言を称えることを「口密」と言います。これらを合わせて「三密の行」と言い、それによって大日如来と一体化し、現在の身体のままで成仏できると教えました。これを「即身成仏」と言います。これはいわゆるミイラになる即身仏とは意味が違います。肉体を持ったままで成仏できるという意味です。これらの儀式は師から弟子に秘密裏に伝えられたので、「密教」というわけです。

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 密教の三つ目の特徴は象徴主義です。真言宗のお寺に行くと、必ずこの二つの曼荼羅がかかっています。左側が「金剛界曼荼羅」で、右側が「胎蔵界曼荼羅」で、仏を中心とする宇宙を象徴的に表したものです。こういう神秘的な仏教が出現するようになるわけです。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』44


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第44回目である。

「第Ⅰ部 統一教会の宣教戦略 第4章 統一教会の事業戦略と組織構造」の続き

 本章の最後に当たる「五 統一教会とはいかなる宗教組織なのか」は、これまでの議論のまとめに当たる。櫻井氏は統一教会の特徴を、事業の多角化とグローバルな事業展開の二点にあるとみており、「宗教団体でありながらも、多種多様な事業部門を有する多国籍コングロマリット」(p.164)と表現している。そして、教団設立当初からこのような要素を抱える教団は稀有であると評価している。

 櫻井氏は、草創期の統一教会は新宗教運動であり、D・O・モバーグや森岡清美が提示した付加価値過程の教団成長論が妥当である(p.164)としている。この内容に関して櫻井氏は129~130ページで説明している。これは、外的環境や社会状況に対応するべく教団組織が徐々に変化していくというモデルであり、モバーグによれば、①萌芽的組織(カルト・セクト的熱狂)、②公式的組織(リーダーシップの正統化、セクトの体裁)、③最大効率(デノミネーション、社会への適応、組織整備)、④制度的(官僚制の確立、既成社会への同調、モラルの弛緩)、⑤解体(名ばかり会員の増加と内部改革運動の勃興)というプロセスを経るとされる。

 櫻井氏は、このような教団成長モデルが統一教会に当てはまるのは韓国と日本では創設期から10年程度にすぎず、統一教会は早々に次の段階に成長していったと主張する。韓国で世界基督教統一神霊協会が創立されたのが1954年であり、日本に宣教されて教会が創立されたのは1959年である。それから10年後といえば、1964~1969年ごろまでということになる。教会創立からこの時期までの出来事と言えば、梨花女子大事件、米国への宣教師の派遣、リトルエンジェルスの創設、統一教会の韓国での財団法人認可と日本での宗教法人認証、『原理講論』の出版、文鮮明師の世界巡回、国際勝共連合の創設、韓国と日本での勝共大会、原理大修練会、光言社の設立などを挙げることができる。

 教団が法人として認証されたり、伝道や教育のやり方が体系化されたり、教典が出版物として印刷されたりするのは、宗教団体の「制度化」の典型的な要素であると言える。したがって、ここまではモバーグの教団成長論の②の段階を終えて、③に入りかけた段階と見ることができるであろう。しかし、この時代の統一教会は日本においても韓国においてもまだ規模は小さく、教勢が大きく伸びるのは1970年代から80年代にかけてである。にもかかわらず、文鮮明師は教会創設後10年程度の時期から、かなり野心的で多角的な活動に着手していることは注目に値する。統一教会がこの時期に世界に宣教師を送ったり、リトルエンジェルスや勝共連合など宗教以外の社会運動に着手している点に着目すれば、櫻井氏の言うとおり、稀有な宗教団体であると言えるだろう。ある意味では、宗教団体としての成長を十分になしていない段階で、事業を多角化しすぎたと言えるかもしれない。そして、これらは収益をあげる事業ではなかったため、その活動を経済的に支える役割を日本が担ったというのも事実である。

 しかし、これをもって統一教会はコングロマリットの段階に入り、教団成長論では説明できなくなったというのは言いすぎであろう。「統一運動」としてさまざまな事業や活動に着手したとしても、本体である「統一教会」は宗教団体であり続け、その発展過程には教団成長論が適用できると考えられるからである。そしてグローバルで多角的な活動の展開も、本体であり中心である宗教団体としての活動があってこそ可能なのであり、その逆ではないので、あくまでも宗教団体としての統一教会を見つめる必要があるのである。文鮮明師が2012年に聖和(逝去)したことは、統一教会にとって大きな転換点となったことは疑いがない。今後、統一教会(家庭連合)がモバーグの教団成長論の④や⑤の段階に入っていくかどうかは、引き続き観察することによって初めて明らかになるであろう。私は、統一教会の発展過程は純粋に宗教団体の成長論で分析可能であると考える。

 さて、櫻井氏はここにきて「統一教会は宗教としては稀有な多角的事業展開をなす教団なのか、それとも宗教組織を擬装した経済集団なのか」(p.167)という問いを投げかける。ここで櫻井氏は三つの理由を掲げて統一教会は宗教団体であると結論する。私はこの結論に同意するが、その理由に関しては必ずしも同意しない。彼が挙げている三つの理由を分析してみよう。(いずれも167ページ)

(1) 統一教会は経営体としては破綻している。摂理の実現に向けて各種事業を展開しているが、ほとんど収益を生み出していない。
 これは嘘である。統一運動の中に収益をあげている部門とそうでない部門があることは事実だが、全体としては経営破綻状態とは程遠く、経営はちゃんと成り立っている。櫻井氏は2009年に統一教会信者が特定商取引法違反で逮捕されたことを強調するが、それから8年経ったいまでも日本の教会は健在であり、世界的組織の運営も問題はない。櫻井氏の著作は2010年に書かれたものだが、「まもなく破綻する」という櫻井氏の願望を書いたのに過ぎなかったのであろう。何度も述べたように、そもそも統一運動の事業の大部分は地上天国建設のための先行投資のようなものであり、直ちに収益をあげることを目的としたものではなかった。それを「破綻している」と一般企業のように見ること自体が間違いなのである。

(2) 統一教会は企業のように就労の機会を提供しているわけではない。・・・信者であれ、一般市民であれ、統一教会に関わる人々は生活の基盤を失っていく。これが金のなる木の実態である。
 これも嘘である。ここで櫻井氏は「グローバルなコングロマリット」としての統一教会について論じているのであるから、そこには韓国やアメリカの諸団体も当然入るはずである。韓国の統一教会は財団法人であり、その下に多くの企業を抱えている。その職員たちは給料をもらって働いているので、彼らに就労の機会を提供している。清平のような宗教施設においても、多くの職員は有償で働いている。アメリカのワシントン・タイムズには統一教会の信者よりもむしろ非信者の方が多く働いている。彼らは有償で働いているので、就労の機会を提供されている。
 櫻井氏は、それは外国だけであり、日本だけが搾取されていると言いたいのであろうが、それも事実と異なる。ほとんどが統一教会員で構成される株式会社であるハッピーワールド、世界日報社、光言社などは、すべて有償で働く社員によって構成されており、彼らは就労の機会を提供されている。教会本部で働く職員だけでなく、地方の教会の牧師(教会長)は全て統一教会に雇用されているし、総務部長や会計などの職員も給料をもらって教会の仕事をしている。これらも立派な就労機会の提供である。さらに、国際勝共連合、世界平和教授アカデミーなどの諸団体は、宗教法人とは独立した運動体であるとはいえ、やはりその職員は有償で働いている。したがって、日本においても統一運動全体でカウントすれば、相当の人数が就労の機会を提供されていることになる。

(3) 統一教会の信者は、地上天国の実現、霊界の解放という宗教的理念のために世俗的生活を犠牲にする。
 これはある意味で本当だが、犠牲の度合いは個人によって大きく異なり、「一般市民にとって重要な生活の安定、家族の扶養、老後の保障といった問題を一切度外視して」(p.167)というのは言い過ぎである。宗教団体である以上、宗教的理念のために世俗的生活を犠牲にするのは当たり前である。しかし、それはあくまで個人の自由意思に基づいて、納得して感謝できる範囲で行っているのであり、櫻井氏の強調するような悲惨な姿が統一教会信者の一般的な姿ではないのである。
 櫻井氏は最後に、「統一教会の多角化した事業展開や世界宣教の戦略は経営戦略論から分析可能だが、統一教会それ自体はまさに宗教的な団体である。」(p.168)と述べている。私はこの結論を否定するつもりはなく、大枠において同意するが、率直な感想として、こんな当たり前のことを言うために膨大なページを費やしてきたのかと思ってしまう。

 最後に私の意見を整理しておく。統一教会それ自体がまさに宗教的な団体であることは疑いがない。しかし、統一運動はグローバルで多角化した事業を展開しているために、それらは宗教団体としての分析だけでは不十分であり、経営戦略論から分析することも必要だという主張は一応認めよう。しかし、櫻井氏の分析は的を射ておらず、世界的な統一運動を正しく分析しているとはお世辞にも言えない。世界的な統一運動は、地上天国実現という文鮮明師の理想を実現するために収益や採算を度外視して展開された事業であり、根本目的が宗教的なものであるため、世俗的な経営戦略論だけでは正しく分析できない運動なのである。櫻井氏は、本体である統一教会の宗教性を認めながらも、世界的な統一運動全体を支えている宗教的な理念や目的を正しく理解できなかったので、世俗的な経営戦略論をやや杜撰に当てはめて分析することにより、その本質を見誤った、と結論することができるであろう。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

日本仏教史と再臨摂理への準備シリーズ03


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 さて、仏教の基本的な世の中に対する認識とは何であるかというと、世の中は苦に満ちているんだということで、「一切皆苦」(いっさいかいく)ということが世界認識の出発になります。よく「四苦八苦」と言いますよね。これは仏教の用語でありまして、まず基本的な「四苦」があります。これは、生きる苦しみ、老いる苦しみ、病の苦しみ、死の苦しみのことを言います。

 さらに、「愛別離苦」(あいべつりく)は愛する者と別れる苦しみ、「怨憎会苦」(おんぞうえく)は憎んでいる対象と出遭ってしまう苦しみ、「求不得苦」(ぐふとっく)は欲しいものを得られない苦しみ、「五蘊盛苦」(ごうんじょうく)は心身機能から盛んに起こる苦しみ、すなわち煩悩が心から湧いてくることによる苦しみのことです。これらを合わせて「四苦八苦」ということで、人生は苦悩に満ちているということが教えの出発点なんですね。

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 それに基づいて、仏教の基本認識である「四諦」(したい)というものが出てきます。一つ目が「苦諦」(くたい)でありますが、これは問題提起に当たりまして、この世界は苦しみの世界なんだということです。「四苦八苦」と言われるように、世の中は苦しみに満ちているということです。

 その次に「集諦」(じったい)というものがあり、それでは苦しみの原因は何かというと、それは執着することであり、煩悩があるから苦しむんだということになります。これが集諦の段階です。

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 その次が「滅諦」(めったい)で、苦しみの原因が煩悩にあるのだから、その煩悩を滅すれば、苦は断たれるんだということです。このようにして解決方法を示すわけです。それではその煩悩を断つにはどうすればよいかと言えば、これが「道諦」(どうたい)ということで結論になります。それは実践が必要だということです。正しい修行をして悟りに至ることによって、苦から解放されるということです。この流れは、極めて合理的としか言いようがありません。

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 その実践方法を具体的に示したのが、この「八正道」(はっしょうどう)と呼ばれるものです。これも非常に有名な仏教の根本的考え方です。①正しく見る、②正しく考える、③正しい言葉を語る、④正しい行いをする、⑤正しい生活をする、⑥正しく努力する、⑦正しく反省して決意する、⑧正しい目標に集中して精神統一する――というのが八つの正しい道なのだというのですが、どれもごく当たり前のことですよね。なにか神秘的なこととか超自然的なことは一切ない、正しく生きればいいんだということを教えているわけです。ですから、これは本当に宗教なのかなと思うくらい、合理的で、哲学的で、英語でいうと、とてもシステマティックな教えであることが、お釈迦様本人の説いた内容を勉強してみると分かるわけです。

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 仏教の結論は、修行すれば解脱できますよ、悟りの世界に至れますよ、ということなんですが、その修行にも、こういう方法でやれば解脱できますよ、という方法論まできちっと整理されているんです。それを「三学」と言います。

 修行の第一段階は何かといえば、「戒(かい)」です。戒めをまず守らなければなりません。あれをしちゃいけない、これをしちゃいけない、という戒めがあります。欲望の赴くままに生きていたのでは解脱できないですから、最初に戒めを守りなさいということです。仏教の戒めには、五戒、八斎戒、十戒、具足戒などがあります。こうした戒めをまず守りましょうということです。それを守ることで、次のステップである「定(じょう)」の修行に入る準備が整うということになります。

 次の段階は「定(じょう)」ですが、これは瞑想のことです。ヨーガとか禅と同じ意味です。精神を統一し、心を乱さず、寂静の境地に入ることで、瞑想をすることが修行の重要なステップになっています。その瞑想をしているうちに、ステップ3の「慧(え)」の段階に進んでいきます。これは、段階を踏んで智慧を完成させることを言います。仏教でいう智慧とは、一切の現象や、現象の背後にある理法を知る心の作用のことをいいます。

 つまり、欲望から解放されて、瞑想をして、深く心が澄んでくると、世の中がどういう原理によって動いているのかが悟れるようになるということです。このようにして悟りに至りましょう、ということをお釈迦様は教えられました。
 
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 それではステップ1の「戒」なんですが、この戒にどのようなものがあるかと言うと、在家信者であるか出家信者であるかによって違い、段階的に戒が厳しくなっていくんですね。最も根本的な戒を「五戒」と言います。①酒を飲んではならない、②嘘をついてはならない、③邪淫をはたらいてはならない、④盗んではならない、⑤無駄な殺生をしてはならない――の五つです。この五つを完璧に守っていらっしゃる方はこの中にいますか? これが出来なかったら仏教徒になれないわけでありまして、それぐらい厳しいものです。

 八斎戒になりますと、⑥快適なところで起居してはならな、⑦歌、音楽、踊り等の娯楽をしてはならない、⑧身を飾りたててはならない――とあるわけですが、ここまでは在家信者が守る戒なんですね。在家信者でもかなり基準の高い信仰生活を要求されていることになります。さらに出家信者になると、⑨金銀財宝に関わってはならない、⑩決められた時間以外に食事をとってはならない――が加わります。当時の修行僧というのは、午前中に一回食事をするだけだったんですね。他の時間はずーっと食事をしなかったわけです。

 そのような禁欲的な生活をして、その上にさらに「具足戒」というのがあってですね、比丘(男性の正式出家者)の場合には250の戒律を守らなければならず、比丘尼(女性の正式出家者)の場合には348の戒律を守らなければなりませんでした。これぐらい厳しい出家者の戒があって、これを守ってはじめて、次の段階である瞑想に入って、最終的に悟れるということでありますから、すごく基準の高い宗教ということになりますね。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』43


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第43回目である。

「第Ⅰ部 統一教会の宣教戦略 第4章 統一教会の事業戦略と組織構造」の続き

 櫻井氏は本章の「四 摂理のグローバルな経営戦略」の中の「2 摂理システムにおけるグローバル化戦略」において、グローバルな摂理戦略の中で日本の統一教会が置かれている状況の特殊性を強調した上で、以下のように述べている。
「以上、各国ごとに宣教戦略が異なり、統一教会に世界標準的な宣教方針や事業方針があるのではない。そうであれば、信者の入信過程、統一教会の事業展開と該当国政府や一般社会との対応関係を一律に考えるのは不適切である。従来の欧米における統一教会研究は、負け犬や問題児としてホスト国で扱われた特殊な『カルト』教団の事例にすぎないのであり、そこから花形スターや金のなる木となった韓国や日本の事例を考察することは全く的を射ていない研究であることが明らかになったと思う。」(p.157)

 櫻井氏が日本統一教会の特殊性をことさらに強調する動機は、統一教会への回心が自発的なものであるという結論を出した海外の先行研究を相対化し、その価値を引き下げるとともに、自らの研究を彼らの上に位置付けたいからであることは、既に先回述べた。しかし、彼の主張を批判するためにはこうした動機を分析するだけでは不十分であり、上記の主張の細かい問題点にも触れなければならない。彼の主張はかなり乱暴なものだが、問題となる点を逐一列挙してみよう。

 そもそも、各国ごとに宣教戦略が異なるのは何も統一教会に限ったことではなく、キリスト教をはじめとして世界に宣教に出かけていく宗教には普遍的にみられる現象である。それは伝えようとする宗教に対して宣教国の文化が親和的であるか敵対的であるか、宣教国が豊かな先進国であるか貧しい開発途上国であるか、宣教国の政府が信教の自由を尊重しない独裁的な政府であるか、それとも信教の自由を保証する民主的な政府であるかによって、宣教方針はおのずと異なるのであり、どの国にも同じ宣教教方針を立てるということ自体が不合理で非現実的なことなのである。キリスト教に世界標準的な宣教方針があるとすれば、それは「神とキリストを宣べ伝えること」であろう。しかし、宣べ伝える方法は国ごとの事情によって異なるので、各国の宣教状況を一律に考えるのは不適切である。同様に、統一教会の世界標準的な宣教方針も「神と真の父母を伝えること」であり、具体的には統一原理の教えを宣教地に根付かせることであると言えるが、その伝え方は国ごとの事情によって異なる。この点はキリスト教と全く同じである。

 したがって、ある新宗教が特定地域に宣教された際には、その地域で得られた知見は基本的にその範囲にのみ当てはまるというのは、いわば常識であって、いまさら櫻井氏に教えてもらうほどのことでもない。アイリーン・バーカー博士の「ムーニーの成り立ち」は、自身の研究がイギリス、ヨーロッパ、アメリカの統一教会に関する研究であり、その結果がアジアの統一教会にそのまま当てはまるわけではないことは十分に自覚しているし、またそのことははっきり表明している。

 にもかかわらず、特定地域における統一教会の研究は、一つの独立した研究として客観的な価値を持ったものであり、櫻井氏が言うように「負け犬や問題児としてホスト国で扱われた特殊な『カルト』教団の事例にすぎない」などと切って捨てることのできるものではない。これは先行研究に対する極めて傲慢で失礼な態度であると言えるだろう。先行研究に言及する際には、その知見のどこが日本や韓国の統一教会にも当てはまる普遍的な部分であり、どこが西洋にしか当てはまらない特殊な状況なのかを、自分が調査したデータと比較しながら客観的に分析するのが学者としての作法であって、櫻井氏のように一方的に蔑んで価値を否定する態度はおよそ学問的とは言えない。

 なぜ櫻井氏はこのような学問的比較をしないのであろうか? それは彼が西洋の統一教会研究者たちのように、直接統一教会と関わって調査することを意図的に避けているからである。自分で調べた実証的なデータがあれば、それを先行研究と比較して客観的で冷静な分析が可能であろう。しかし、彼には自ら調べた実証的なデータがないので、比較のしようがないのである。そのような研究における「負い目」を、宣教戦略や「摂理的役割」が違うというような主観的で実証不可能な概念を振りかざしてごまかしているので、彼の記述は学者のものとは思えないような感情的な表現になっているのである。

 そもそも櫻井氏は、韓国、アメリカ、日本、その他の国々に対する宣教戦略や「摂理的役割」が異なることが、入信過程を分析する上でどのように影響するのかをまったく説明していない。入信過程の分析は、アイリーン・バーカー博士がテーマとしたような、「洗脳」や「マインド・コントロール」なのか、自発的選択なのかを問題とするわけだが、これに関して国ごとの違いを強調するためには、各国における伝道プロセスの違いを事実に基づいて説明しなければならない。筆者が「ムーニーの成り立ち」を通して知ったことは、西洋にせよ日本にせよ、道端で声を掛けられるか縁故関係から紹介されるかして教義を学び始め、泊まり込みの研修会に参加して統一原理について説明する講義を受講し、それを受け入れた者は入信するという点では、西洋も日本も伝道されるプロセスに大差はないということである。さらに、受講した者のうちで最終的に信者になる者は数パーセントにすぎないという点も極めてよく似ている。

 日本における唯一の参与観察による実証的な研究である塩谷政憲氏の論文も、原理研究会の修練会は洗脳ではなく、原理を受け入れるかどうかは本人の選択であったという結論を出しており、アイリーン・バーカー博士の主張を裏打ちしている。入信過程に関しては、国家や文化の壁を超えた普遍的な事実が存在するという多くの証拠があるのである。にもかかわらず、国ごとに宣教戦略が異なるから入信過程に関する知見も他国の情報はまったく参考にならないとする櫻井氏の主張は、どのような事実を根拠として言っているのであろうか? 彼自身が直接統一教会の入信過程を観察し、宗教社会学的な方法論に従ってデータ分析し、日本や韓国における入信過程は西洋における入信過程と比較して明らかに洗脳的で自由意思が抑制されているという証拠を提示して初めて、彼我の違いについて論じることができるのであり、それが学問的態度というものである。そうした根拠の一切ない彼の主張は、主観的な思い込みによる決めつけとしか評価することができない。

 櫻井氏は、従来の欧米における統一教会研究は、「負け犬や問題児としてホスト国で扱われた特殊な『カルト』教団の事例にすぎない」ので、当該国政府や一般社会との対応関係も一律には考えられないと主張する。ここでいう「負け犬」や「問題児」は(彼の解釈した)統一教会側の宣教戦略上の位置づけなので、当該国政府や一般社会が統一教会をどのようにみているかとは関係がない。統一教会側の各国家に対する位置づけがどうあれ、どの国においても統一教会が政府や社会から受けてきた扱いには、さほど大きな違いがあるわけではない。一言でいえば、統一教会は韓国においても、日本においても、アメリカにおいても、ヨーロッパにおいても、奇妙な新宗教として社会から白眼視され、政府から少なからず迫害されてきたという共通点がある。韓国では梨花女子大事件で文鮮明師が逮捕されている。アメリカでは文鮮明師は脱税容疑で有罪判決を受けてダンベリー刑務所に服役している。また、ディプログラミングと呼ばれる強制改宗も行われたし、教会を相手取った訴訟も起こされた。日本では「霊感商法」が問題視され、特定商取引法違反で信者が逮捕されたり、献金返還訴訟や青春を返せ訴訟などで不利な判決を受けている。統一教会側の宣教戦略上の位置づけがどうあれ、どの国においても統一教会に対する政府の態度や社会的評価は厳しく、それらの偏見や迫害を克服するために努力しているという点では共通しているのである。

 もちろん、国や文化圏によって迫害や偏見の理由や性格は異なるかもしれない。韓国における迫害は、宗教上の異端正統論争を背景としたキリスト教会からの反対が強いし、アメリカにおける迫害は白人至上主義者たちによる黄色人種に対する差別や偏見という社会的背景があるであろう。日本においては、日本人の韓国人に対する差別や偏見、さらには「霊感商法」に代表されるような経済活動が社会の反感を買ったという側面が強いであろう。私自身は「カルト」という言葉は曖昧で多義的なレッテルにすぎないので使わない方が良いと思っているが、韓国においても、アメリカにおいても、ヨーロッパにおいても統一教会が「カルト」や「セクト」などと呼ばれて迫害され、主流の文化や政府から白眼視されてきたことは共通の状況であって、櫻井氏が強調するほどには各国の事情は異なっていないのである。

 以上により、欧米における統一教会の先行研究が韓国や日本の統一教会を分析するにあたってまったく参考にならないという櫻井氏の主張は、あらゆる観点からみて根拠のないものであることが明らかになったと思う。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

日本仏教史と再臨摂理への準備シリーズ02


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 ここで、お釈迦様の教えのポイントの一つを理解することができます。いたずらに体を苛める、たとえば断食し続けるとか、いろんな難行苦行をすることによって悟れるというものもないということです。だからと言って、飲んで食って快楽に浸っていて、悟れるというわけでもないということです。悟るということは、この「苦」と「楽」の中道にあるんだということです。極端から離れて、正しい見解を持つこと、これがお釈迦様の教えられた「中道」ということです。

 お釈迦様は、菩提樹の下で悟りを開かれた後に、約45年間にわたって、自分が悟った真理を伝える人生を歩まれるようになります。5人の修行仲間に初めての説法を行ったことを「初転法輪(しょてんぽうりん)」と言います。当時、お釈迦様は身分や職業で人を差別することなく、誰にでも求める人には真理を教え広めたので、非常に多くに人々がお釈迦様のもとに集ってくるようになりました。

 当時のインドの宗教であるバラモン教は、どうしてもカースト制度に縛られていて、一番高いカーストの人々を優遇して、賤民を差別していたので、旧来のバラモン教に飽き足らなかった大衆の心をとらえ、出家者だけでなく在家信者も増えてゆきました。当時、マガタ国のビンビサーラという王様がお釈迦様の教えに感動して帰依し、首都・王舎城郊外の竹林を寄進しました。これを「竹林精舎」といって、林の中で修業を行ったわけです。ここにお釈迦様のコミュニティが出来上がって、ここで長らく教えを説かれたということです。そして、80歳で亡くなられるわけですが、これを「入滅」と言います。その時まで、生涯にわたって法を説かれました。これがごく簡単にまとめたお釈迦様の生涯であり、仏教の出発点になります。

 皆さんに仏教の原点をお話しするのはなぜであるかというと、実はこのお釈迦様の説かれた仏教と、いま日本に存在している仏教の間には、ものすごく大きな違いがあるからなんですね。お釈迦様の説かれたもともとの仏教がどんなものかということを知って初めて、そこから日本の仏教がどれほど遠くに来たかが分かるので、私なりに仏教の本を読んで、「仏教とはこんな宗教だ」と思ったことをいくつかポイントでお話ししたいと思います。

 一言でいうと、お釈迦様が解明された仏教の教えというのは、とっても哲学的で合理的な教えです。お釈迦様は菩提樹の下で悟ったというのですが、何を悟ったのかというと、「縁起」の理法を悟ったと一般的には言われています。それでは「縁起」とはどういう意味なのでしょうか? 日本人は縁起が良いとか悪いとかよく言いますが、もともとの縁起の意味は、いかなるものごとも独立して存在しているのではなく、つねに他のものとお互いに関係し合っていおり、そして、条件しだいで変わりつづけていくものであるということです。これを「無常」というわけですが、こういう真理を悟ったというのです。これ自体が非常に哲学的な表現じゃないですか。原理でいうと、二性性相、相対基準、授受作用に近いようなことを言っているわけです。

 そして、この世のものは、すべて「因」(直接的原因)と「縁」(間接的原因)によって発生すると教えています。この「因」と「縁」を合わせて「因縁」と言います。日本人は「因縁」というと、ちょっとおどろおどろしいイメージがあるんですが、もともとお釈迦様が言った「因縁」というのは、原因があって結果が生ずるんだという、極めて合理的な話なんですね。すなわち、「因」+「縁」=「生起」(結果)ということで、これを「因縁生起(いんねんしょうき)」というわけです。

 次に「諸行無常(しょうぎょうむじょう)」ということを説いておりまして、世の中の一切の現象、万物は、つねに変転してやむことがないという意味です。このような、極めて哲学的な教えなんですね。それが後に発展して、「空(くう)」という教えになります。この「空」の教えあたりになると、一般人では理解できるのかなというぐらいに哲学的な教えになります。

日本仏教史と再臨摂理への準備挿入PPT02-2

 これは非常に有名な「般若心経」一節です。これを丸暗記してそらんじることができる方も多くいらっしゃいます。その中から一番本質的な部分を二か所取ってきました。

 「色不異空 空不異色」(しきふいくう くうふいしき)で、「色は空に異ならず 空は色に異ならず」と赤い文字で書いてあります。これはもともとあったサンスクリット語の原典を三蔵法師が訳した結果、この漢字になったということです。日本の読経ではこれが一般的に用いられています。赤い文字の下にある黒い日本語は何かというと、中村元(なかむら・はじめ)という現在仏教学の大家が、サンスクリット語の原典から現代日本語に訳すとこういう意味だということで、訳したものです。

 「色不異空」とはどういう意味かというと、「この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある」ということです。なんか、ものすごい哲学的ですね。そして「空不異色」とは、「実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない」という意味です。何を言ってるのかよく分からないですね。おそらく、物理学を学んで量子力学などを極めた人は、「これは真理だ!」と分かるんではないかと思われるくらいに、哲学的な内容です。

日本仏教史と再臨摂理への準備挿入PPT02-3

これが一番有名な「色即是空 空即是色」(しきそくぜくう くうそくぜしき)です。「色はすなわちこれ空 空はすなわちこれ色なり」ということですが、これを現代日本語に直せば、「(このようにして、)およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである」となります。一般人の感覚からすれば、どっちなのかよく分からないということになるだろうと思います。これを通して何を言いたいかというと、実は「諸行無常」ということが言いたいわけです。われわれが普段執着している物質的現象というものも、実は人間がこだわるほど堅固なものでも、永遠のものでもないから、そういうものに対するこだわりを棄てましょう、ということが要するに言いたいわけです。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』42


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第42回目である。

「第Ⅰ部 統一教会の宣教戦略 第4章 統一教会の事業戦略と組織構造」の続き

 櫻井氏は本章の「四 摂理のグローバルな経営戦略」の中の「2 摂理システムにおけるグローバル化戦略」において、グローバルな摂理戦略の中で日本の統一教会が置かれている状況を以下のように分析している。
「日本は韓国を植民地下においた罪深い国家であり、韓国民に対して贖罪が要求される。・・・日本で調達された資金は日本の事業部門拡張のために再投資されることはなく、日本ではひたすら労働コストを削減し、特定商取引法等に抵触する経済行為だけで収益を上げている。」(p.155)
「日本は人的・資金的資源の宝庫であり、宗教・経済活動が共に社会的統制を受けないので事業の収益性が高い。競争力はあるが、統一教会の摂理上、日本の教会や信者には価値は認められていない。教会の基盤整備や人材育成への先行投資は認められず、金のなる木として利用されるままである。」(p.156)

 これが櫻井氏の統一教会批判の中心的ポイントであるため、今回はこの部分を徹底的に検証してみたい。日本の統一運動が、韓国やアメリカをはじめとする外国の統一運動の基盤整備のために多額の資金援助をしてきたことは事実である。それは「母の国」としての日本の使命感に基づくものであり、統一教会の主流の信者たちはそれを誇りに思いながら活動してきた。しかし同時に、日本国内に基盤を造成することも同じくらい重要な価値を持った「天の願い」であると日本の教会員たちは考えてきたのであり、「日本の教会や信者に価値は認められていない」というのは櫻井氏の穿った解釈に過ぎない。日本社会に統一運動の基盤を造成するために文鮮明師がどれほど投入してきたかを簡潔に説明しよう。

 日本の保守系日刊紙である世界日報は、1975年に創刊されている。言論機関を設立することは文鮮明師の世界平和戦略の一つであるが、アメリカのワシントンタイムズの創刊が1982年であり、韓国の世界日報(セゲイルボ)の創刊が1989年であることに留意すれば、日本は世界に先駆けて統一運動の日刊紙が創設された国であるということができる。新聞社の経営はとかく儲からないものであり、その価値は収益性よりも社会的影響力にあるといえる。日本の世界日報も常に赤字経営であり、収益を上げているわけではない。そのような日刊紙を韓国よりもアメリカよりも先に日本に作ったということは、メディアを通して日本社会に影響を与えることを文鮮明師が重要視していたことにほかならない。櫻井氏の言うように日本が「金のなる木」に過ぎないのであれば、赤字の新聞社を40年以上にわたって存続させてきたことは説明できない矛盾であり、不合理である。

 世界平和教授アカデミー(PWPA)は、1974年に韓国に続いて日本で創設された。PWPAは1980年代に日本の保守派の学者を動員し、日本の国家目標についての研究、「ナショナル・ゴール(国家目標)研究」というプロジェクトを推進し、その成果を『国際化時代と日本―10年後の国家目標』として出版した。こうした学術活動も収益を上げるわけではないが、既に40年以上にわたって継続されている。これも日本が「金のなる木」に過ぎないのであれば必要のないものである。

 国際勝共連合は文鮮明師が創設した反共主義の政治団体であるが、これは1968年1月に韓国で創設され、同年4月に日本で創設されている。日本の初代会長は統一教会の会長でもあった久保木修己氏である。共産主義をあからさまに批判する政治団体の創設は、左翼勢力からの攻撃を受けることを覚悟しなければならず、単に信者を増やしたり、献金の額を上げるという目的からすれば、マイナスの影響さえもたらすものであった。それでも共産主義の脅威から日本を守ることは「天の摂理」という観点から重要であったため、勝共運動は日本の統一運動の重要な柱であり続けた。こうした政治活動も、日本が「金のなる木」に過ぎないのであれば必要のないものである。櫻井氏はアメリカでのロビィング活動に日本から多額の資金が流れたことを強調するが、日本における政治活動のためにも勝共連合を通じて多額の経費が使われたのである。

 東京都豊島区に1978年に開設された一心病院は、 上崎道子医師ほか6名が1970年に発足させた「基督教医療奉仕会」が前身であり、これは教勢を伸ばしたり献金の額を上げることとは無関係の純粋な医療奉仕活動であった。一心病院は、「為に生きる」という文鮮明師の教えを医療の分野で実践しようというビジョンに基づいた事業であり、西洋医学と東洋医学の融合などの野心的テーマに取り組んでいる。こうした病院の経営も収益性という観点では説明がつかず、むしろ地域社会に対する貢献を主たる目的として運営されているものである。

 世界平和女性連合(WFWP)は1992年に創設されたNGOで、海外では開発途上国において①女性の自立支援・地位向上、②子供の教育(学校建設・里親)、③医療・保健指導、④エイズ予防教育のプロジェクト、の4つの項目の活動を展開してきた。その実績をもとに、1997年には国連・経済社会理事会の総合協議資格(カテゴリーⅠ)を有するNGOに認定された。それ以来、4年ごとの活動実績が認められて総合協議資格が更新されてきた。日本国内では、これらのプロジェクトを支える支援活動のほかに、留学生支援活動、教育再建のための草の根ボランティア活動を展開している。

 日本の女性連合が世界に対してなした貢献は、何といっても女性派遣員を開発途上国に送って、現地の具体的な支援を行ってきたことである。こうした奉仕活動は、信者を増やしたり収益を上げたりすることとは無関係であるばかりか、それらの女性派遣員のほとんどが同時に統一教会の信者であったため、海外への人材の流出であり、「金のなる木」としての目的には完全に反するものである。また、こうした開発途上国は櫻井氏の分析によれば「負け犬」の国々であり、投資する価値のない対象であるにもかかわらず、多くの人材と資金が投入された。女性連合の活動は、「為に生きる」という文鮮明師の教えを、純粋な奉仕活動として表現したものであり、櫻井氏の描く日本の国家的役割の枠には収まらない性質の活動であるといえる。

 1981年11月、韓国のソウルで開催された第10回科学の統一に関する国際会議において、文鮮明師は人類一家族実現の基盤にするために全世界を高速道路で結び、経済や文化交流を促進するための「国際ハイウェイプロジェクト」を提唱した。その「国際ハイウェイ」の最初の起点となるものとして、「日韓トンネル」の建設を提案した。その後、技術者の西堀栄三郎氏、地質学者の佐々保雄氏などが中心となって研究が始まり、日韓トンネルの推進団体として1982年4月に「国際ハイウェイ建設事業団」が、翌1983年5月に「日韓トンネル研究会」が設立された。2009年1月には、一般財団法人国際ハイウェイ財団が認証され、同財団会長に統一教会会長(当時)の梶栗玄太郎氏が就任した。こうしたトンネル事業を日本で展開することも、日本に対する投資であり、櫻井氏のいう「金のなる木」としての目的には完全に反するものである。

 また、2000年以降に日本各地で統一教会の礼拝堂の建設が進められてきたことは、日本の教会の基盤整備のための先行投資であると言え、日本は一方的に搾取されるだけで自国のためにお金を使うことが許されなかったという櫻井氏の主張は根拠がない。このように筆者が思いつくままに挙げてみただけでも、日本に対する「摂理的投資」は相当な規模でなされてきたのであり、それは統一教会の世界観において日本が重要な国であると認識されてきたことの証左である。実際には、統一教会において日本は櫻井氏の描く像よりもはるかに「誇り高い国」であり続けたのである。

 さて、櫻井氏が日本統一教会の特殊性をことさらに強調する目的はどこにあるのだろうか? それは以下の文章に集約されている。
「以上、各国ごとに宣教戦略が異なり、統一教会に世界標準的な宣教方針や事業方針があるのではない。そうであれば、信者の入信過程、統一教会の事業展開と該当国政府や一般社会との対応関係を一律に考えるのは不適切である。従来の欧米における統一教会研究は、負け犬や問題児としてホスト国で扱われた特殊な『カルト』教団の事例にすぎないのであり、そこから花形スターや金のなる木となった韓国や日本の事例を考察することは全く的を射ていない研究であることが明らかになったと思う。」(p.157)

 既にこのブログの第30回で述べたことだが、櫻井氏が日本統一教会の特殊性をことさらに強調する動機は、統一教会への回心が自発的なものであるという結論を出した海外の先行研究を相対化し、その価値を引き下げるとともに、自らの研究を彼らの上に位置付けたいという点にあるといえる。イギリスやアメリカの統一教会に関する研究は、日本には全く当てはまらないと言いたいのである。彼の主張は欧米の宗教社会学者たちに受け入れられなかったわけだが、それに対してことさらに「日本の特殊性」を示すことによって、留飲を下げたいという動機があったと思われる。こうした歪んだ動機に基いた「グローバルな摂理戦略」の分析は、ビジネスの理論を無理やり宗教団体に当てはめて主観的な決めつけを行う、極めて杜撰で非学問的なものとなってしまった。

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日本仏教史と再臨摂理への準備シリーズ01


 今回から、「日本仏教史と再臨摂理への準備」と題する新しいシリーズの投稿を開始します。家庭連合(統一教会)の信仰はキリスト教の流れをくむものであり、『原理講論』の内容もキリスト教の組織神学の体裁を取っていますが、日本において最も影響力のある宗教といえば何といっても神道と仏教であるため、統一原理と仏教の教えのかかわりは、日本宣教においては一つの重要なテーマとなります。

 私が地方に出かけて行って講義する中でリクエストされた内容の中に、日本の仏教史と再臨摂理の準備はどのように関わるのか教えて欲しいとか、日本の仏教には多くの宗派があるけれども、それぞれどんなことを信じているか知りたい、といった要望がありました。そこで私なりにいろんな本を読んで勉強してまとめて、講義した内容を起こしたものがこのシリーズになります。仏教の本といっても、あまり難しい教学の本を読んでも分かりやすく解説することはできないので、入門用の易しい解説書を中心に調べました。

 また、統一教会の中で「仏教の権威」といえば竹内清治先生です。竹内先生の書かれた『統一原理と仏教』は、ちょっと古い本なんですが、こうした本も読みながら、仏教信仰と私たち統一教会の信仰が最終的にどのようにつながるのか、ということを明らかにすることを目指して、お話しさせていただきたいと思います。

 仏教についていろんな本を読むと、仏像の話とか、お寺の造りの話とか、宗派によるお仏壇の違いとか、戒名や作法の話の違いなど、実にいろいろなテーマが扱われているのですが、そういうことはちょっと置いておいて、信仰の本質が何なのかということに焦点を当ててお話をしてみたいと思います。

 では、仏教とはそもそもどんな宗教かということなのですが、このパワーポイントに示されているのは基本中の基本です。仏教を開いたのはお釈迦様と言われていますけれども、いわゆる本名は、ゴータマ・シッダールタということになります。釈迦牟尼というのは、釈迦族、インドの言葉でいえば「サーキャ族」の聖者という意味です。いつ頃の人かといえば、紀元前4~5世紀頃の人というのがいまの学問上の定説になっております。ところがこの定説にも100年くらいの幅がありまして、学問的にも、本当にいつ頃の方なのかということは分かっておりません。もっと古い伝承には、紀元前9世紀くらいの人だったというものもあり、かなりいろいろな説があるということになります。ですから、イエス様よりも生誕の年に関しては諸説あるということになります。

 お釈迦様は、インド北部にあるサーキャ族の首都カピラヴァストゥというところで、第一王子として誕生したと言われております。ですから、小さな国とはいえ、王宮の王子様だったわけです。しかし、生まれて7日目にお母さんがなくなってしまいます。母がいなかったので、小さい頃は叔母さんに育てられたそうです。それもあってか、お釈迦様は小さいころから人生をはかなんで、けっこう厭世的な子供だったと言われています。第一王子でありますから、王位を継がなければならないのに、お釈迦様は子供のころからどこかこの世離れしたところがあったので、国王であるお父さんは、お釈迦様が出家してしまうのをなんとか防ごうとして、王宮で飲めや歌えの大騒ぎをして楽しくしながら、なんとか王位を継ぐように仕向けたということです。そして、16歳でヤソーダラという名前の美しい娘と結婚させます。そして、29歳のときには子供も生まれています。

 しかし、彼にはもともと宗教的な感性があったんでしょうね。これは非常に有名な話でありますが、王宮に四つの門があって、遊びに出かけなさいと言われたものですから、東の門から出たら、老人がいたわけです。それを見て、「ああ、誰しも老いるんだ」と思って絶望的な思いになったというわけです。今度は南から出たら、病人がいました。それを見て、「ああ、みんな病気になるんだ」と思って絶望的な思いになります。西から出たら、誰かが死んでいました。「ああ、みんな死ぬんだ」と思って、また絶望的な思いになります。そして北から出たら、立派なお坊さんがいて、「ああ、この人は素晴らしい、自分も出家したい」と思うようになったという話です。お父さんとしてはお釈迦様に王位を継いでほしかったようなのでありますが、お釈迦様の心の中には、「出家したい、出家したい」という思いが高じていくわけです。

 そして、ついに29歳のときに白馬にまたがって、カビラ城を出てしまいます。決意としては、「最高の真理をつかむまでは城に戻らない」という覚悟をして、反対を押し切って出家しました。ちょうどこの時は、子供が生まれたばっかりでした。ですから、愛する妻もいて、生まれたばかりの子供もいる状態で、王子として暮らしていた城を出て、真理探究の道に出たということになります。

 その後、6年間にわたって修行の生活をするわけでありますが、近隣の国に「マガタ国」という国があって、その王舎城というところに入って行って、先生を探し求めます。当時のインドの宗教は「バラモン教」というのでありますが、いろんな先生がいて、たとえば瞑想のやり方を教えてくれる先生がいました。当時からヨガのように、「禅定」(座禅瞑想)という習慣はあったわけです。禅定の目的は、全ての執着を捨てることにありました。そこで釈迦様は禅定を行う先生のところに弟子入りするわけですが、やはり天才的な宗教者だったんでしょうね、すぐに無執着の境地に到達してしまって、先生の境地に簡単に到達してしまうものですから、これ以上学ぶことはないということで、誰にも師事することなく、自ら苦行の生活を始めます。

 これは超人的な苦行の生活であって、後にお釈迦様は、自分は断食をはじめ、「他の誰よりも苦しい修行を行った」と語っています。すなわち、難行苦行ということで、一生懸命自分の肉体を苛めて、修行をしぬいたということです。でも、どんなに修行をしても悟れなかったということなんですね。

 そこでお釈迦様は6年近くにわたる苦行生活をやめて、禅定、すなわち深い瞑想に入ったわけです。6年近くにわたる苦行をやめたときに、スジャータという少女が「乳粥」をお釈迦様に出して、それが断食で傷んだ体を癒してくれたので、非常に良い供養になったというのは有名な話です。お釈迦様が菩提樹の下で瞑想をしているときに、次々に恐ろしい悪魔が現れて、お釈迦様に悟りを開かせまいとして誘惑しました。あるときは恐ろしい形相で、「お前なんか悟る資格はない」と脅したり、あるいは美しい女性の姿で誘惑したりしたそうであります。そのようなさまざまな雑念、悪魔の誘惑を打ち勝って、瞑想に入って8日目の12月8日の朝に、ついに真理に目覚めて「仏陀」となられたわけです。これを「成道」(じょうどう)されたと言います。このようにして、長年の修業が恐らく蕩減条件となったのでしょう、その土台の上に瞑想をして、真理を悟られて、それから説法の旅に出発されたということになるわけです。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』41


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第41回目である。

「第Ⅰ部 統一教会の宣教戦略 第4章 統一教会の事業戦略と組織構造」の続き

 櫻井氏は本章の「四 摂理のグローバルな経営戦略」の中の「2 摂理システムにおけるグローバル化戦略」において、「統一教会の摂理的国家役割観」(p.155)について分析している。実はこの部分が櫻井氏によるグローバルな統一運動分析の結論部分に当たり、中心的な主張となっている。彼の摂理分析によれば、「メシヤを生み出した韓国が世界の中心であり、アメリカはメシヤの露払いを行う世界の指導的国家であるとされる。日本は韓国を植民地下においた罪深い国家であり、韓国民に対して贖罪が要求される。・・・日本で調達された資金は日本の事業部門拡張のために再投資されることはなく、日本ではひたすら労働コストを削減し、特定商取引法等に抵触する経済行為だけで収益を上げている」(p.155)というのである。

 そもそも統一教会の信徒が行った経済活動の中で、特定商取引法が適用されて問題となったケースはごく一部であり、「特定商取引法等に抵触する経済行為だけで収益を上げている」という表現は明らかな間違いであると同時に悪意に満ちた中傷であると言えるが、この表現は分析の本質ではないので簡単に指摘するに留め、分析の中身に入っていくことにする。櫻井氏が統一教会の各国別の経営戦略をグローバル市場ポートフォリオによって描くと、下記の【図4-7】のようになるらしい。

156ページ

 ここで櫻井氏が分析に用いている「プロダクト・ポートフォリオ・マネージメント」(PPM)とは、1970年代はじめにボストン・コンサルティング・グループが提唱したものである。これは複数の商品を販売している企業が、戦略的観点から事業資金をどのように配分するかを決定するための経営・管理手法を指す。「相対的市場占有率」、「市場成長率」を軸に、以下の4つのカテゴリーに分類される。

①問題児:導入期・成長期にある製品。成長を促し花形にするために大きな投資が必要な製品。
②花形商品:成長率・占有率共に高いため、多くの収入が見込める製品。しかし、市場が成長している場合、シェアの拡大・確保のため、それなりの投資を行う必要がある。
③金のなる木:成長率が低いため、大きな投資は必要のない製品。しかし、ある程度の市場シェアを確保しているため、安定的利益が見込める製品。
④負け犬:成長率・占有率共に低いため、撤退などの検討が必要になってくる製品。

PPM

 これは本来なら商品に対して分析するものだが、櫻井氏は「国家ごとの統一教会の事業展開全体」(p.155-6)を分析対象としている。そして「相対的市場占有率」を「現地の競争力」に読み替え、「市場成長率」を「戦略的重要度」に読み替えて分析している。この読み替えには根本的な無理がある。「市場成長率」は客観的な数値であるのに対して、「戦略的重要度」は主観的な価値判断であるため、必ずしも一致しないからである。宗教団体における宣教を経済論理で分析するなら、「市場成長率」は「伝道の成長率」と解釈して、上記の4つのカテゴリーは以下のように読み替えられるべきであろう。

①問題児:宣教成功の可能性はあるが、まだ宣教の歴史が浅く基盤のない国。献金はあまり上がってこないので自立は難しい。多くの宣教師を送ってテコ入れする必要がある。
②花形商品:宣教国に盤石な基盤があり、伝道の成長率も高い国。更なる発展のために力を入れて伝道活動を行う必要がある。
③金のなる木:長い宣教の歴史があるため基盤はあるが、伝道の成長率の低い国。安定した献金が上がってくる。宣教師を送ってテコ入れる必要はない。
④負け犬:基盤もなく、伝道の成長率も低い厳しい国。宣教中断の可能性もあり。

 このように、「プロダクト・ポートフォリオ・マネージメント」の分析手法を素直に適用すれば、世界で最も宣教基盤があり、成長率も高いのはこれまで日本であったことから、日本を「花形スター」に分類すべきである。世界の統一運動で、盤石な基盤があって成長率の低い国は事実上存在せず、強いて言えば伝道のピークを過ぎて停滞期に入っている最近の日本が「金のなる木」に当てはまるかもしれない。韓国の統一教会は、長年の宣教によって一定の基盤はあるが、成長しているとは言えない。その意味で「花形スター」とは言い難く、「金のなる木」に近いのだが、残念ながら経済的に自立してこなかったので、「金のなる木」とは呼べない状況にある。

 「問題児」は、むしろ宣教の歴史は浅いけれども成長率が高いフィリピン、タイ、モンゴル、アルバニア、そして一部のアフリカの国々が当てはまるのではないだろうか? こうした国々に宣教師を送って投資すれば、将来大きく発展する可能性がある。初期のアメリカは多くの宣教師が投入されて一時期は成長率が高かったので、この期間だけは「問題児」と言えただろうが、最近の成長率は高くない。「負け犬」は宣教の著しく困難な国で、中国、ロシア、イスラム圏の国々など、信教の自由が制限されている国がこれに該当するだろう。しかし、統一教会はこれらの宣教国から撤退することはせずに、忍耐強い宣教活動を継続している。

 「プロダクト・ポートフォリオ・マネージメント」は市場占有率と市場成長率という客観的なデータを用いて、事業資金をどのように配分するかを決定する経営手法という点では、経済的合理主義に基づくものである。その中で用いられる「問題児」「花形スター」「金のなる木」「負け犬」といった言葉は、称賛や誹謗といった感情が込められた言葉ではなく、商品の性格を示す比喩的表現に過ぎない。特定の企業において「金のなる木」に該当する商品が蔑まれたりバカにされたりしているわけではないだろう。会社全体の収益からすれば、重要な位置を占める商品だからである。

 櫻井氏の分析では、本来は「市場成長率」という客観的な指標であるべき縦軸が、「戦略的重要度」という主観的な価値判断に読み替えられている。統一運動では、事業資金の分配が客観的なデータに基づいで合理的になされるのではなく、「天の摂理」という戦略的価値観によってなされるということが言いたいのであろう。そもそも、そのような性格の団体であれば、「プロダクト・ポートフォリオ・マネージメント」を適用すること自体に意味がないのではないか? ビジネスの事業資金分配は、全体としての利益を上げることを至上目的として合理的に行われるが、宗教団体の宣教活動はそれとは違った価値観で行われるからである。ここでも、ビジネスモデルを宗教団体に当てはめるという櫻井氏の手法は成功しているとは言えないようである。

 櫻井氏がここでやっているのは、合理的なビジネスモデルによる世界的な統一教会の分析といったものではなく、統一教会を批判しようという彼の強い感情の表出に過ぎない。その際に、日本に対して与えらた「金のなる木」という位置には、極めてネガティブな感情が込められている。櫻井氏の表現によれば、以下の通りである。

「日本は人的・資金的資源の宝庫であり、宗教・経済活動が共に社会的統制を受けないので事業の収益性が高い。競争力はあるが、統一教会の摂理上、日本の教会や信者には価値は認められていない。教会の基盤整備や人材育成への先行投資は認められず、金のなる木として利用されるままである。このことに不満を持つ信者や批判的な幹部もいるが、保身を図る者が大半であり、不満を抱いた分派(・・・)も教勢拡大の兆しはない。」(p.156)

 これに比べて、韓国では教勢誇示のために様々な事業が展開され、アメリカでは種々の政治的ロビィング活動に資本投下されていることが強調され、日本の教会だけが搾取される構造になっているということが言いたいのである。それが言いたいのであれば、わざわざ「プロダクト・ポートフォリオ・マネージメント」を持ち出すまでもなかったのではないか? 彼がこれを持ち出した理由は、「金のなる木」という言葉にある種の魅力を感じたからであると思われる。日本を「金のなる木」に位置付けることに、彼なりの快感やエクスタシーがあり、それを一見洗練された経営戦略理論に乗せて説明することに、彼なりの美学を感じたからではないか、というのが私の分析である。それは学問的な分析というよりは、ある種の情念の表出と考えた方がよいだろう。

 「プロダクト・ポートフォリオ・マネージメント」を用いた櫻井氏の分析は、せいぜいこの程度の内容であり、真面目な批判に値しないものではあるが、次回はその内容面にまで踏み込んで批判を試みることにする。

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質疑応答(3)

質問:カトリックの神学は、福音派と自由主義のどちらに近いのでしょうか?

回答:カトリックの神学はバランスのとれた見解ですね。たとえば自然神学を支持するという点ではリベラルに近いですけれども、倫理観はとても保守的です。他宗教に対する態度や、科学に対する態度は、昔はかなり頑なだったわけで、極めて排他的であり科学の成果と真正面から戦ったこともありましたが、時代とともにより寛容になり、科学の成果も認めるように変化してきました。神学や伝統を守りながらも、時代の流れに対して柔軟に対応しようという態度があります。カトリックというのは長い伝統があるので、奥行きと幅を持った教会でありまして、結構バランスがとれているんですね。プロテスタントはリベラルと福音派に分かれていますが、その両方を合わせ持ったような性質をカトリック教会は持っています。

質問:カトリックからプロテスタントが出てきた理由と言いますか、何が違ったので分かれるようになったのでしょうか?

回答:カトリックとプロテスタントの違いというのは結構複雑でありまして、そんなに単純には表現できないんですけれども、それを敢えて単純化して説明するとどうなるかというと、プロテスタントの基本原理というのは、「信仰の純粋化を求める」ということなんです。すなわち、初代教会の精神に帰ろう、イエス様の教えに忠実であろう、聖書に忠実であろう、純粋な信仰を持とう、というのが動機なんですね。

 キリスト教会の中にもいろんな人がいるわけですよ。あんまり信仰心のない人もいれば、世俗的な人もいれば、信仰熱心な人もいるわけです。その中で極めて信仰熱心で、神を強烈に求めている人がカトリック教会の姿を見ると、「なんでこんなに妥協しているんだろう。もっと純粋であるべきだ!」ということで改革運動をするわけです。そして、この妥協して世俗化されたカトリック教会から分裂して、一つの教団を作るわけです。これは純粋に神を求めていこうとする運動ですから、教えの性質は極めて極端になるわけです。ところがその教団が人をどんどん伝道していくと、その教会も大きくなるわけです。すると、教会が大きくなればなるほど、その中にいろんな人が入ってくるわけです。純粋な人もいれば、中途半端な人もいれば、あまり信仰的でない人もいて、教会が大きくなっていけばだんだん世の中と妥協しなければならなくなるわけです。

 そのようにして、最初は純粋だった教会がだんだん妥協して巨大化していくようになるんですね。その中に、「こんなことじゃいけない。原点に帰らないといけない。私たちの信仰は純粋でなければいけない!」という人が一部現れてきて、その巨大化して腐敗堕落した教会を批判して、また分派をつくるわけです。その人たちが純粋性を追求して、また一生懸命に伝道するわけです。そうするとまたそれが大きくなっていくわけです。そうするとその中にはまた、熱心な人もいれば、中途半端な人もいれば、世俗化された人もいるようになる、という同じことをくり返しながら、教派分裂が起こっていくわけです。だいたいこのようなシステムで、カトリックからプロテスタントの分離、そしてプロテスタント内部の教派分裂というのが起こっていったんです。キリスト教の歴史を振り返って、分かりやすく説明するとそういう感じになります。

質問:自由主義のキリスト教徒は、福音派の人々のようにイエス様の再臨を実際に起こるとは信じていないということでしょうか?

回答:一言でいえば、本気で再臨を信じていないということになるし、再臨を心から待ち望んでいるわけでもないということになります。そういう意味では自由主義の人たちは再臨待望というのは極めて薄いし、再臨がなければ救われないともあまり思っていないということです。カトリック教会にも再臨というのは概念としては存在しますが、カトリック全体が「再臨!再臨!」と言って待っているかというと、実はそうでもありません。そういう意味で、再臨を強く意識して待望しているのはキリスト教の中でも極く一部であるということになります。原理講論を読むと、クリスチャンは全員が根本主義者で、全員が再臨を待ち望んでいるかのように思うんですが、実際には、世のクリスチャンの多くはそんなに切実に再臨を待ち望んでいるわけではありません。再臨を否定しているわけではなかったとしても、再臨の待望を中心として日々の生活を送っているかといえば、そうではないということです。

 人間というのはかなり自己中心的な存在でありまして、終末論を信じる人々というのはほとんどが、いまの世の中に対して不平や不満を抱いている人たちなんです。「天変地異が起こってこんな世の中滅びて欲しい!」と思っている人々は、一種の破壊願望も伴って、「終末よ来い、メシヤよ来い」と待ち望むわけです。ところが、教会が成長してきて、カトリック教会のように立派な礼拝堂をいっぱい立てて、その宗教が社会を完全にコントロールするようになったら、逆に終末が来たら困るじゃないですか。自分たちの世が終わるわけですから。再臨なんか来てもらって、私たちの教会にいろいろ命令なんかしてもらっても、自分たちは既にこういう盤石な組織を持っているんだから、逆に来られても迷惑だということになってしまうわけです。ですから、再臨主を待ち望むとか、終末を待ち望むというのは、どちらかと言えば現状に不満を抱いて、世の中の改革を望んている群れの中に多く見られる現象だということになります。完全に主流派になって確立された教会の人々が世の終わりや終末を待ち望んでいるかというと、実はそうではありません。

質問:つい最近、新しく伝道されてきたメンバーの両親が反対牧師につながってしまって、説得によって離れてしまったという事件があって、とても悔しい思いをしました。それと同時に、私自身がきょう学んだような
内容を全く理解していなかったなと思いました。人を導いていくリーダーとしてどうあるべきかということについて、何かアドバイスがあればお願いします。

回答:ちょっと抽象的な質問で、うまく答えられるかどうか分かりませんが・・・。最近は監禁されなくても、反対牧師に会って説得されただけで離れてしまう人が結構多いんですよね。これは教会全体が抱えている課題です。昔は監禁しないと食口は離れない、監禁した場合でも相当説得しないと離れないと言われていたんですね。ところが最近ある反対牧師は、「監禁しなくても喫茶店で3時間話せば落とせる」と豪語しているんですよ。それぐらい、私たちのみ言葉による武装能力と言いますか、自分をみ言葉によって守る能力というものが、教会全体で低下してきているのではないかという、とても由々しき問題があるわけです。壮年壮婦の場合には、きちっと原理教育をされていなくて、むしろ周辺のいろんなことで伝道されてきて、原理がよく分かっていないままに信仰歴10年から20年という人もいるわけです。そういう人が反対牧師の説得で一発で引っくり返るような事件が起こっているんです。

 これは、み言を学び、み言によって生きるという、初期統一教会には強烈にあったものが、だんだんと失われてきているということです。最近は「監禁しなくても落とせる」と反対牧師に言わしめているくらい、私たちの教育力が低下しているという、非常に深刻な問題です。最もバカにされているのが『現代のエスプリ』という雑誌の、「カルト」に関する特集号の中で、ある反対牧師がこんなことを言っているんです。「昔は、原理講論の矛盾点を指摘して説得すれば食口は離れた。しかし最近は原理講論すら理解していない食口が多いから、まず原理講論の内容を教えてから、それを否定して離れさせないといけない。」と言っているんです。(笑)これは最高にバカにされていますね。しかし、それが現実だとすれば、原理で人を生かすという信念と教育というものが、私たちの運動の中で退化してきていることではないでしょうか。ですから皆さんは、原理をしっかりと学び、原理によって人が生きるという信念を保持していただきたいと思います。外的な小手先のテクニックや方法論ではなくて、み言の伝統を立てて頂きたいと思います。原理が信念として入ったら、ちょっとやそっとの説得では揺るがないというくらいの伝統を立てていただきたいと思います。

 直接的な答えになっているかどうか分かりませんが、原理に対する信念というものが最終的には人を救うし、反対牧師の説得に打ち勝つ力になるわけです。それは理論ではなくて、自分自身が神様と出会った体験に裏打ちされていなければならないし、それプラス、きょう学んだような、反対牧師が攻めてくる内容に対する研究をすることも必要です。それによって武装をして、兄弟たちを守っていかなければなりません。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』40


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第40回目である。

「第Ⅰ部 統一教会の宣教戦略 第4章 統一教会の事業戦略と組織構造」の続き

 櫻井氏は本章の「四 摂理のグローバルな経営戦略」の中の「1 グローバル化戦略と組織の編成」において、統一教会を「国際的なコングロマリット的宗教団体・事業連合体」と位置付け、規模の経済性、範囲の経済性、連結の経済性という三つの観点から分析を試みている。先回は規模の経済性を扱ったが、今回は範囲の経済性と連結の経済性に関する櫻井氏の分析を評価する。「範囲の経済性」とは、企業が複数の事業活動を持ち、経営資源を共有することによって、より経済的な事業運営が可能になることをいう。この理論を日本の統一運動に当てはめて、櫻井氏は次のように分析する。
「範囲の経済性に関しては、布教経路の複数化を指摘できる。統一教会の場合、宗教法人の教化部門と資金調達の経済事業部門、及び政治活動・市民運動的な事業部門が相互に連携し合って、どこからでも統一教会の信者養成へと接続される。典型的な例として、街頭の勧誘や訪問販売においてなされる手相・家相の鑑定、家系図診断は、布教にも資金調達にも用いられる。女性の人権団体や国際平和のNPOへの加入が統一教会の研修につながる例もある。どこからでも布教や資金調達が可能な事業体制というのは効率的である。」(p.154)

 この分析は一部しか合っていない。既にこのシリーズの第34回で述べたことではあるが、国際勝共連合に関わった政治家、世界平和教授アカデミーに関わった学者、世界日報やワシントンタイムズの読者、鮮文大学校に入学した学生、ユニバーサル・バレーやリトルエンジェルスの公演を見た観客、龍平リゾートの宿泊客が宗教的回心をして統一教会の信者になったかといえば、そうしたことはほとんどなかった。唯一、教勢拡大に貢献した例があるとすれば、ハッピーワールドの商品を販売していた「全国しあわせサークル連絡協議会」が、顧客のケアーと「統一原理」の教育を目的として全国各地にビデオセンターを設置し、顧客を伝道していたことである。これは商売を入り口として顧客が伝道された例だが、それ以外の事業が伝道につながることはほとんどなかった。

 統一運動が広範な分野の活動を行ってきたのは、リスクの分散や採算性といった経済的な理由や、多様な窓口から伝道して教勢を拡大するためというよりも、地上天国実現のために必要な各分野に組織を創設していったというのが事実であろう。櫻井氏が紹介する広範な統一運動の組織は、そのほとんどが経済的利益を生み出さず、教勢拡大にも貢献しないような活動を行っており、地上天国実現のための先行投資に近いものであった。したがって、「範囲の経済性」は統一運動全体には当てはまらず、収益を生み出す部門と、そこから資金援助を受けて社会活動を展開する部門の二つに分かれていたと見るべきである。

 世界中で多角的な事業を展開することによって、統一運動全体として収益性が上がったかどうかに関しては、上がらなかったという結論が正しいであろう。世界の統一運動で収益を上げていたのは日本だけであり、日本が生み出した資金は韓国、アメリカ、そして世界の統一運動の運営資金に回され、日本以外の国で収益を生み出すことはほとんどなかった。それは世界中の統一運動の目的がそもそも収益を上げることにはなく、地上天国実現という文鮮明師のビジョンを実現することにあったためであると考えられる。そのための資金調達の役割を日本の統一運動が一手に担っていたのである。

 さて、最後の「連結の経済性」に関してだが、前述の「規模の経済性」と「範囲の経済性」が単一企業に於けるものであるのに対して、「連結の経済性」は異なる企業間における経済性のことを言う。情報・ノウハウを核に異なる企業が結合して、情報・ノウハウ・技術の共同利用等によって経済性を高める手法である。具体的には、企業間の連携やネットワークを通じて互いの得意分野を強化したり、不得意分野を補完したりすることにより実現される。

 これを統一運動の事業体が一般社会の事業体と連携したりネットワークを結んだりして経済性を上げることと解釈すれば、そうしたことはほとんど起こらなかったと思われる。一方で、統一運動内の多様な団体が情報・ノウハウ・技術の共同利用等によって経済性を高めることができたかと言えば、純然たる「経済性」という点ではそれは起こらなかったと思われる。統一運動は、同じ信仰と志を持った信者がそれぞれ専門化された集団を形成して運営している組織群であるのだから、それらが共通の目的のために有機的な協力関係を結ぶことはあった。しかし、それは利益を上げるという意味での経済性を追求したものではなく、地上天国実現というより大きな目的のために協力したのであった。

154ページ

 この図4-6は、櫻井氏が「統一教会におけるグローバル化の経済性」というタイトルで、本文を補足するために掲載している図である。この図は、表題と中身の関係においても、図と本文の関係においても、さまざまな齟齬が生じている杜撰な図である。

 まず、「規模の経済性」において櫻井氏は本文中で教化システムを大規模化することで信者養成のコストを低下させることができたと解説しているが、これは日本国内の分析にすぎず、グローバルなレベルでの経済性の解説はない。しかも、本文では教団の教化システムについて解説しているのに、図では「NPO」が書き加えられている。櫻井氏が本文でNPOに触れているのは「範囲の経済性」の部分だか、それが図においてはここに位置付けられているのである。

 次に「範囲の経済性」に関しては、本文では布教経路の複数化を指摘しているにもかかわらず、図においては「資金調達システム」の説明に入れ替わっている。さらに、図に描かれている姓名判断、借入、各種献金、物販、修練会参加などは日本にのみ当てはまる内容であって、グローバルな範囲の経済性になっていない。
 最後に「連結の経済性」に関しては、韓国、アメリカ、日本、南米、北朝鮮などの国々が「摂理システム」によって連結されている図が描かれている。本来の意味での「連結の経済性」は、異なる企業間でネットワークを形成することによって経済性をあげることをいうのだが、それが国家間の役割分担の話にすり替えられている。しかも、これらの国々がどのように情報・ノウハウ・技術を共有し、互いの得意分野を強化したり不得意分野を補完したりして経済効率を上げているのかについては、一切説明がない。されに、南米や北朝鮮は本文中で一切触れられていないのに図には表示されている。

 このように、櫻井氏の頭の中は混乱しているようである。彼の杜撰で混乱した分析の原因は、宗教的な運動の展開を無理やり経営学の概念で説明しようとしたところにあったと私は思う。そもそも「摂理システム」なるものは、神の啓示によって演繹的に提示されるものなので、経済効率やマーケット調査を基準として構築される経営戦略とはまったく異なるものだからである。文鮮明師の推し進めてきた世界的な統一運動を、こうした視点で分析したところであまり意味をなさないのではないかと思われる。

 櫻井氏は、統一教会を「国際的なコングロマリット的宗教団体・事業連合体」と位置付けている割には、世界的な統一運動の広がりについての詳細を一切記述しておらず、それらの有機的なつながりにも言及がない。まず、統一教会はアジアの各国で教勢を伸ばしており、特にフィリピンとタイにおいては多くの青年が伝道され、祝福を受けている。ネパールでは伝道と共に渉外活動が進んでおり、家庭連合の会長が国会議員に当選し、大臣も歴任している。マレーシアでもUPFの活動を通して多くの国会議員が統一運動に賛同している。ヨーロッパでも、スイスのジュネーヴを起点として国連渉外が進んでおり、UPFと世界平和女性連合が国連欧州本部を拠点に国連NGOとして活発な活動を展開している。イギリスでは貴族院の議員がUPFの活動を積極的に支持しており、国会議事堂として使われているウェストミンスター宮殿で何度も国際会議を開催している。アフリカやオセアニアでもUPFの活動は活発で、多くの国家元首や大臣クラスがUPFの国際会議に参加している。南米ではパンタナールやレダの開発を日本人が主導して行っており、社会基盤を造成している。北米にはワシントン・タイムズなどの言論機関のほかに、米国聖職者指導者会議(ACLC)のようなキリスト教指導者たちの超教派的な活動が活発に行われている。中東では宣教活動は困難だが、「中東平和イニシアチブ」と呼ばれる平和運動がイスラエルを中心に行われてきた。ロシアや中国でさえ宣教活動は地道に行われている。

 ざっと世界を見渡しただけでも、これだけの活動が行われており、さらにそれらの成果がUPFの主催する国際会議で紹介されて、平和運動としての統一運動の評価を高めているにもかかわらず、櫻井氏の記述にはこうした統一運動のグローバルな活動に関しては一切記述がない。このことは、櫻井氏のいう「グローバル」な視点が口先だけのものであり、本当の意味で世界の統一運動を調査・分析したことがないことを物語っている。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』