書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』59


櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第59回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

櫻井氏は本章の「4 イベントの時間的経緯」の中で、統一教会信者の信仰に関わる主要な出来事を、①伝道を受けてから入信し、回心へ至るまでの過程、②信仰を強化して祝福を受けるまでの過程、③祝福後の信仰生活――に三分して分析している。この分類自体は妥当なものであり、この部分は客観的な事実やデータの記述が多いのではあるが、ところどころに櫻井氏自身の主観的コメントが書き加えられているので、不適切な部分に関しては指摘したいと思う。

図6-5 櫻井氏は調査対象となった信者たちの「初めて伝道された年」を棒グラフにした図6-5を示し、「裁判資料にある元信者は伝道を受けた年が一九八〇年代、筆者の聞き取り調査を受けた元信者は一九九〇年代が主である。一九八七年から九一年までに伝道され、入信した元信者が多い」(p.209)と分析し、1980年代末と1990年代初頭が統一教会で伝道が進んだピークだったと認識している。脱会者と現役信者の伝道された年が分布的に一致するかどうかは疑わしいが、既にこのブログ(第25回)でも検証したように、統一教会の伝道のピークがほぼこの時代であったことは事実のようである。図6-5に示された「初めて伝道された年」は、1979年から1997年まで18年間にまたがっており、筆者から見れば先輩と後輩の両方がいることになるが、ピークの部分は筆者よりもすこし後輩にあたる。

櫻井氏はここで、統一教会との邂逅に関する次のような興味深い逸話を披瀝している。
「ちなみに筆者の教え子が札幌郊外の支笏湖の施設でツーデーズに参加し、直後に筆者にどうしたらよいかという手紙を書いてよこしたのが一九九二年だった。」(p.209)
宗教学者である櫻井氏が、それまで統一教会について全く知らなかったということはないであろう。事実、櫻井氏は著書の中で大学のキャンパス内で活動する原理研究会のメンバーを目撃したと書いている。しかし、自分の教え子が伝道されるという最初の具体的な出会いが、櫻井氏の統一教会理解に大きな影響を与えたことは想像に難くない。客観的な研究対象としての統一教会ではなく、「教え子をカルトから救い出さなければならない」というより具体的な問題解決の対象としての統一教会に最初に出会ったということである。このことに関して、櫻井氏は別の著作である『大学のカルト対策』(2012年、北海道大学出版会 )の中で以下のように述べている。
「私がカルト問題に取り組むきっかけとなったのは、北星学園の短大で学生に教えていて、その短大を離れた後に、教え子が統一教会に入ったという連絡があり、どうしたらよいだろうという相談を受けたことです。私は社会学や倫理学という授業科目において宗教関連のことを教えていましたし、学生は必修科目としてキリスト教学を履修し、出席を取る礼拝や講話においてキリスト教の素養を持っていたはずなのですが、こうした学生がなぜ統一教会に入っていったのかと非常に気にかかったことがあります。・・・公立大学よりもミッション系の大学でカルトに入る学生は少なくないですね」(「大学のカルト対策」p.218-219)。

1992年は3万双の国際合同結婚式があり、マスメディアを通して統一教会が非常に有名になった年である。その年に教え子が統一教会に伝道されるという経験を櫻井氏はしている。その翌年には3万双で祝福を受けた山崎浩子さんが統一教会を脱会し、記者会見で「私はマインド・コントロールされていました」と発言した。こうした身の回りに起きたさまざまな出来事が重なって、櫻井氏は研究者として統一教会に対する関心を高めていったと思われる。櫻井氏は1996年9月に國學院大学で行われた日本宗教学会の「第55回学術大会」において、「変貌する新宗教集団と地域社会ー天地正教を事例として」と題する発表を行っており、同じテーマの論文を「新宗教教団の形成と地域社会との葛藤――天地正教を事例に――」と題して1998年に学術誌『宗教研究』317号に掲載している。テーマが「天地正教」とはいえ、統一教会について詳しく知っていなければ書けない内容である。1992年に教え子が伝道されるという事件をきっかけに、櫻井氏が統一教会問題に本格的に取り組むようなった流れが理解できるであろう。

図6-6 櫻井氏は調査対象となった信者たちの「入信時の年齢」を棒グラフにした図6-6を示し、「入信時の年齢は高校生からが一名いるほかは、大学の初年度か短期大学の学生時代であり、その後は社会人になった後の二〇代が多い。二〇代後半から三〇代には子育て時期の主婦が壮婦として入信した事例がある。男性は二〇代前後で入信しなければその後あまり入信する機会はない。社会人になると仕事で多忙になるからだ。」(p.210-11)と分析している。ここまではほぼ客観的なデータの分析といえるが、これはあくまで櫻井氏の調査対象となった元信者に関して言えることであり、「こうしてみると統一教会の信仰というのは若い世代特有のものだということがわかる」(p.211)というような、統一教会全体の分析として一般化できるかどうかは疑問である。

なぜなら、櫻井氏の調査対象者においては、横浜、札幌、新潟、東京、奈良、福岡などで「青春を返せ」裁判を起こした原告が66名中53名を占めているからである。しかも、そのうち89%が成年信者であり、11%が壮婦である。これが統一教会全体の人口構成と一致しているのか、もしずれているとすればその原因はなぜなのかを分析しない限りは、社会学的にはこのデータを母集団として統一教会全体の年齢分布についての結論を下すことはできないはずである。しかし櫻井氏はそれを全くせず、脱会した元信者のデータをもとにして統一教会全体についての分析を行っているのである。それでは櫻井氏の調査対象者の何が問題なのだろうか?
「青春を返せ」裁判というのは広報のためのニックネームであり、裁判上は「損害賠償請求訴訟」であるから、法的には年配者であってもこうした訴訟を起こすことは可能である。しかし、「青春を返せ」という裁判を年配になってから統一教会に入信した人が起こすのは、ネーミングからすればはばかられるであろう。若い時期に伝道されたからこそ、「青春を返せ」という訴えができるのである。しかも、裁判の原告のほとんどは親から反対を受けて脱会を決意した人々である。宗教の問題に親が干渉してやめさせるような年代層というのは、やはり20代くらいまでの若い世代となるのではないだろうか。すなわち、櫻井氏の情報源となった母集団自体が、青年層にある程度限定される本質的特徴を持っているのであり、統一教会全体のデータから見れば「はずれ値」である可能性が極めて高いのである。こうした偏ったデータをもとに、「統一教会の信仰というのは若い世代特有のものだ」というような結論を出すのは、社会学者としてはデータの分析の仕方が甘いとしか言いようがない。

彼はこうした偏ったデータをもとに、さらに敷衍した分析を行っている。櫻井氏は、通常は信仰には加齢効果が認められ、日本の既成宗教や新宗教においては青年期よりも中高年期に信仰を持ち始めるのが一般的であるにもかかわらず、統一教会の信仰は若い世代特有のものである点を強調する。それを根拠に、「壮婦の事例は統一教会系列会社の商品を購入した人が信者になるとい副次的なコースであり、統一教会はあくまでも祝福に連なる若い人達を求めていた。しかし、これは近年変化し、伝道と資金調達を一挙に行うために中高年主婦を対象とした姓名判断・家系図鑑定の伝道方法にかなり力がそそがれるようになった。」(p.211)と論理を展開するのである。

ここでも櫻井氏は、統一教会の青年信者と壮年壮婦の間に価値的な序列をつけ、壮年壮婦には価値がない副次的なものであるかのように論じているが、これは事実に反する。このことに関しては、次回詳しく論じることにする。

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ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳05


第1章(3)

長年にわたって宗教と社会と性の関係について調査した結果、私は宗教が持つ非常に重要な社会機能のひとつが、結婚生活が人間の共同体のさまざまなニーズに役立つように、結婚生活における性的表現を形成する役割であるという確信を持つようになった。この「形成」が、個人をグループに適合させ、「真正な」メンバーとしての彼または彼女の活動をコントロールするプロセスを促進するのである。性と社会の関係に関するオーソドックスなフロイト的視点を選ぶのではなく、私は以下のことを主張する。そしてこれらは本研究の基本的な前提となっている。
(1)そのメンバーの性や結婚に関する生活をコントロールすることのできる社会やグループは、彼らの生活全般をも相当にコントロールすることができる。
(2)歴史的にみて宗教的信仰の形成は、共同体がそのメンバーの性と結婚に関する活動を規制するための最も効果的な手段であることが証明されている。(注10)

性的規範に根拠を与えるために宗教を用いることはすべての主要な文明において観察することができるが(注11)、社会学的および社会心理学的な力学は、19世紀のアメリカに出現したユートピア的共同体において最も顕著である。これらのグループのうちの三つを大まかに観察するだけで、いかに宗教が各共同体の性と結婚に関する規範に根拠を与えていたかを示すには十分であろう。それは、続いて行われる統一運動の調査のための歴史的背景をも提供するであろう。

19世紀のセクト主義者たちは地上に神の国を実現するための彼ら自身の独特な方法を追求したため、彼らはより広いアメリカ社会から極端に逸脱していた。彼らの生活の革命的指向性のために伝統的な拘束力を剥奪してしまったので、彼らはグループの一体性、そして究極的には生き残りにとって不可欠な強い献身を獲得するために、自身の宗教的イデオロギーに強く依存した。ローレンス・フォスターは洞察力のある方法で、問題となっている三つのグループ(シェイカーズ、オナイダ完全主義者、およびモルモン)のすべてが、ルカ伝20章27~40節を彼らの結婚に対する非正統的なアプローチの聖書的根拠として引用している点を指摘した。(注12)その聖句そのものは、サドカイ人によって提起された仮定の状況に関する問題を扱っている。ある女性の夫が死に、彼女はモーセの律法による「レビレート婚」(訳者注:子がなくて夫と死別した妻は、血筋を絶やさないために夫の兄弟と結婚するという古代イスラエルの慣習)に従って義理の弟と結婚したが、彼もまた死んでしまった。レビレート婚は夫の弟が死ぬたびに何度も繰り返して適用され、その後に女自身も死んでしまった。イエスに対する質問は、来世においてその女は誰の妻になるのかというものであった。彼の答えは巧みであると同時に曖昧であった。
「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、かの世にはいって死人からの復活にあずかるにふさわしい者たちは、めとったり、とついだりすることはない。」(注13)

アン・リー(1736‐1784)

アン・リー(1736‐1784)

シェイカー教徒たち

シェイカー教徒たち

伝統的なキリスト教の解釈に従って、アン・リー(訳注:シェイカーの女性リーダー:1736~1784)とシェイカー教徒たちは、復活した状態では性的関係も結婚もないであろうということをイエスは意図していたと解釈したが、彼らはその上に、真のクリスチャンは天国のモデルに従い、地上では生涯独身生活を実践すべきだと主張した。この後半の洞察がシェイカー共同体に対して、メンバーが利己主義と罪を克服した勝利の主要なシンボルとしての独身生活というモデルを提供した。フォスターは以下のように説明している。
「彼らの独身システムを定めるに当たって、シェイカー教徒たちは自身を神の拡大家族の一員であるとみなした。彼らは『ファミリー』と呼ばれる共同体を作って生活し、そこでは約30~150名からなる男女が一つ屋根の下に住みながらも、すべての活動において注意深く分けられていた。階層的で少数独裁の家庭型の父権主義によって統治され、シェイカーは通常の家庭生活から性的で個人主義的な愛着を取り除いてしまい、彼らの共同体と神に対して完全な忠誠を捧げることができるようにしたのである。」(注14)

ジョン・ハンフリー・ノイズ(1811-1886)

ジョン・ハンフリー・ノイズ(1811-1886)

1865~1875年頃のオナイダ・コミュニティ

1865~1875年頃のオナイダ・コミュニティ

シェイカーと同様に、オナイダ完全主義者たちも「ジャクソン流民主主義」(訳注:米国大統領アンドリュー・ジャクソン<任期:1829~1837>とその支持者の政治哲学のこと。資産階級よりもあらゆる白人男性に参政権を与える政策を打ち出した。)の時代の国家を特徴づけた個人主義に対して否定的な反応を示した。しかし、アン・リーとは異なり、ジョン・ハンフリー・ノイズ(訳注:オナイダ・コミュニティの創設者:1811~1886)はルカ伝20章34~35節においてイエスは復活した状態において結婚が廃止されるであろうということだけを意図したのであって、性的関係そのものの廃止を意図したのではないと主張した。この世の結婚における律法主義的で私事化された関係は天国には存在せず、ノイズの見解においては、そのような絆はすべての聖人の間にみられる普遍的で平等主義的な愛の表現に反するため、この地上にも存在すべきでないものであった。さらに、ノイズの全体的または完全な愛という概念は、天国においても地上においても、肉体的表現の可能性をも包含しなければならなかった。この理想を実現するために、オナイダは物議を醸しだしたが組織的には成功した「複合婚」を実行したのである。
「彼らの『各自が全員と結婚するコミュニティ・ホーム』においては、すべてのメンバーが一つ屋根の下に住み、共に食べ共に働き、日々の宗教および事業のミーティングに参加し、すべての排他的な性的愛着を排除してしまったのである。さまざまな非公式でありながら厳重な制御機構によって生じた制度が、メンバーの主要な忠誠心を共同体および神に集中させ続けることを保証していた。」(注15)

ジョセフ・スミスと初期のモルモン教徒

ジョセフ・スミスと初期のモルモン教徒

「現代の啓示」から生じた、ルカ伝20章34~35節の第三の解釈は、ジョセフ・スミスの指導に従った初期のモルモンに見出すことができる。彼らは、いかなる結婚も来世においては「承認されない」であろうということをイエスは意味したに過ぎないと解釈した。天国において持続する唯一の結婚は、モルモンの司祭職によって公認を受けた結婚だけだということである。このグループにとっては:
「最善の男たちの家庭において多くの義なる子孫を育てることが、結婚の主要目的であった。ヘブライ人の族長たちの慣習に基づいた一夫多妻制は、モルモンの家父長的な指導者たちが最も大きな家庭を持つことを可能にし、それによって彼らは、地においても天においても、最高の地位と権力を手にしたのであった。この複雑な家庭イデオロギーにより、モルモン教徒たちは結果的に多くに西部山間部に入植することに成功し、彼らの共同体および神に対する忠誠心の具体的な証拠を示したのである。」(注16)

(注10)マックス・ウェーバー「宗教社会学」(ボストン:ビーコン・プレス、1964年)pp.236-242の、この現象に関する短いが説得力ある分析を参照のこと。
(注11)最も良い単一の資料は、ジオフェリー・パーリンダ―「世界の諸宗教における性」(ニューヨーク:オックスフォード大学出版、1980)
(注12)ローレンス・フォスター「宗教と性」pp.15-17
(注13)ルカ20:34-35
(注14)ローレンス・フォスター「宗教と性」pp.16
(注15)前掲書p.16
(注16)前掲書p.17

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』58


櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第58回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

櫻井氏は本章の「3 入信の経緯と信者のライフコース」の中で、青年信者と壮婦の大きく二つに分けてそれぞれのライフコースを簡略に示しているが、同じ未婚の青年でも、「大学のキャンパスにおいて原理研究会に勧誘された学生の場合、青年信者と異なる点は、大学卒業まで統一教会の事業専従者になることが引き延ばされている点と、経済活動(訪問形式や各種展示会の物販)に従事させられることが少ないという点である。」(p.206)と述べている。筆者は「大学のキャンパスにおいて原理研究会に勧誘された学生」に属するわけだが、これは学生時代に教会で伝道された青年でも同じであろう。草創期ならともかく、1980年代以降において統一教会の信仰を受け入れた大学生が学業を放棄するように勧められたり、実際に放棄したりした例がそれほど多いとは思えない。筆者の場合にも大学は無事に卒業したが、教会の青年部では大学を中退しているという話は当時も今も聞いたことがない。原理研究会であるなしに関わらず、学生は大学を卒業するまでは進路の問題は引き延ばされているのが普通である。そして大学を卒業した際に、一般企業に就職して信仰を継続するか、統一運動関連の企業に就職するかは、最終的には個々の信者の判断に任されている。

実は原理研究会を通して教会に出会った者と、櫻井氏の提示している青年信者のライフコースの間には、卒業するまで進路の問題が先延ばしにされていることのほかにも、かなり大きな違いがある。櫻井が典型的なライフコースの中で提示しているさまざまな出来事を、筆者は体験していない。「ツーデーズセミナー」は原理研究会にもあったが、「上級ツーデーズセミナー」「ライフトレーニング」「フォーデーズセミナー」「新生トレーニング」「実践トレーニング」などのプロセスは、原理研究会には存在しないものであった。したがって、筆者はこれらがどのようなものであるかを実体験では知らないが、そうしたものが存在したことは知っており、櫻井氏の調査対象となった元信者たちがそれらを体験したことは事実と認めてよいであろう。ただし、これらを通過しなければ統一教会の信者になれないということはないし、祝福が受けられないということもない。これらは日本統一教会全体の典型的なパターンというよりは、ある時代のある組織におけるイベントの記述と考えた方がよさそうだ。

青年信者のライフコースに出てくるこうしたイベントが存在することは事実としても、櫻井氏の記述には多くの表現上の問題と事実の誤認がある。表現上の問題とは、要するに受動態の表現を敢えて多用しているという点にある。例えば、「アンケートをとられる」「面会約束を取り付けられる」「受講することを勧められる」「献身を迫られる」などの表現だが、これらは別に「アンケートに答える」「面会約束をする」「受講することを了承する」「献身を決意する」でもよさそうなものだ。それを敢えて受動態で表現しているところに、本人の主体的な意思で決断したという表現を極力避けたいという櫻井氏の異常なまでの神経の使い方が伺える。事実の記述にまでイデオロギー的な含意が盛り込まれていると言えるだろう。

代表的な事実誤認は、「⑪本部教会員となり、教団から指令された任地へ向かう。」(p.207)という部分である。櫻井氏の調査対象となった元信者たちが、統一教会の本部教会員となったのは事実であろう。しかし、そのことと教団から指令された任地へ向かうこととの間には論理的な関連性はない。宗教法人の教会員として登録されるということは、信者になったということ、すなわち信仰上の所属を決定したということであって、職業上の雇用関係が発生したり、指揮命令関係が生じたということではない。事実、札幌「青春を返せ」裁判の原告となった元信者たちの中で、統一教会の職員として雇用されていた者はいない。教団が彼らを任地に派遣したと主張するのであれば、宗教法人が発行した辞令や人事発令の公文を示すべきであろう。

櫻井氏の調査対象となった元信者の人数は66名だが、青年信者のライフコースとして示されている①から⑬のイベントのすべてを経験した元信者は2名のみであるという。たった2名で典型的なパターンと言えるのか疑問ではあるが、そもそも祝福を受けた者が66名中24名しかいなかったということであるから、彼らは信仰の比較的初期の段階で脱会したために、すべてを経験していない者が多いという解釈は可能である。こうした初期の頃には、教会の組織や実態に関して幅広く正確な知識を有していない場合が多い。彼らの証言に価値がないとは言わないが、極めて限定された知識と理解を持った調査対象から得た情報をもとに、統一教会全体を分析しようとする櫻井氏の手法には限界があり、一面的で偏った描写となっていることは指摘しておかなければならない。

一方、壮婦のライフコースに関する櫻井氏の記述は偏見に満ちている。まず、入口を手相・姓名判断、家系図鑑定などに限定しているが、実際の位置口はもっと多様であり、時代や地域によって入り口はさまざまである。吉相の印鑑、高麗人参茶、高麗大理石壺、多宝塔、弥勒像、あるいは宝飾品・絵画等の商品の販売は統一教会の事業ではなく、連絡協議会の傘下にあった企業が販売していたものだが、いずれもかなり古い時代のものである。こうした商品の購入をきっかけに信仰を持つようになった人がいたことは事実であろうが、それを典型的なライフコースと位置付けるのは言い過ぎであると思われる。

事実としてのライフコースよりも、壮婦の信仰生活の価値に対する櫻井氏の記述はほとんど侮辱とも言えるほど問題の多いものとなっている。以下に引用する。
「壮婦の場合は、青年信者と異なり、祝福後新しい家庭を出発することが実際にないので、信者としてのライフコースに大きな転換はない。統一教会の献身者という身分で専従職員の業務を担うこともなければ、祝福家庭という評価(原罪のない子を生めるという特権等)を得ることもなく、従来通りの奉仕する信仰生活を生涯求められることになる。あがりのない双六のようなライフコースともいえる。しかも、世俗の交わりをした罪深い身にもかかわらず、文鮮明の恩寵によって祝福に加わることが許されたのだからということで、青年信者よりもいっそうの献身と奉仕が求められる。」(p.208-9)

これほど誤解と偏見に満ちた「壮婦」に対する理解があるだろうかと、あきれてしまうような記述である。統一教会の壮婦が青年信者に比べて価値的に劣る存在であり、特権や評価を得ることがないという櫻井氏の理解は根本的に間違っている。統一教会では結婚してからみ言葉を聞いて伝道された壮年壮婦を価値ある存在として認識しており、青年信者との間に優劣は存在しない。むしろ、社会経験が豊富で実力のある壮年壮婦は教会の発展に貢献する存在として大切にされているのである。

実際には壮婦のライフコースには大きな転換点が存在する。それは「夫復帰」と祝福である。女性が最初に伝道されるケースが多く、統一教会における究極の救いは「祝福」にあるので、信仰を持った壮婦は誰もが自分の夫を伝道することを決意することになる。必ずしもすべての夫が妻の信仰を受け入れるわけではなく、実際には厳しいケースが多いのであるが、粘り強く夫に自分の信仰を説明し、最終的に夫を伝道する壮婦は多数存在するのである。夫婦が信仰を持つようになれば、一定の「聖別期間」(夫婦生活を自粛する期間)を経て「既成祝福」を受けるというのが壮婦の理想的なライフコースなのだが、櫻井氏の記述にはこれが完全に欠落している。さらには祝福前に生まれた子供たちも伝道して祝福に導くことや、祝福後に子供を生んで「祝福二世」を生み出すことなど、壮婦の信仰生活も多くの価値あるイベントに満ちており、それが信仰の励みになっているのである。こうした道を順調に歩んだ壮婦は、祝福家庭としての評価を受け、原罪のない子供を生み、さらには婦人代表として牧会者を支えたり、婦人信者のまとめ役をしたりして生き生きと活躍している者が多い。統一教会の壮婦は極めて元気でパワフルな人々であり、櫻井氏の描写するような虐げられた悲惨な信仰生活を送っているわけではない。

櫻井氏は「奉仕する信仰生活を生涯求められる」とか、「献身と奉仕が求められる」という、またしても受動態の表現を壮婦に用いて、それが悲惨なものであるかのように描いているが、そもそも壮婦であると青年であるとに関わらず、献身と奉仕こそが信仰生活の基本姿勢であり、理想である。それは強いられてやるのではなく、宗教的な動機に基づいて主体的に行うものである。献身と奉仕という宗教的な美徳に対してこのような表現しかできないということは、櫻井氏は宗教学者でありながら、根本的な宗教音痴なのではないかと疑いたくなってくる。このような歪んだ表現しかできない理由は、櫻井氏が現役の統一教会信者の壮婦に会って調査を行うという基本的な作業をしていないからである。「悲惨な壮婦」は現実の姿ではなく、裁判資料の歪んだ描写を素材として櫻井氏の頭の中で生み出された想像の産物に過ぎないのである。

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ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳04


第1章(2)

10.聖書。旧約聖書と新約聖書は、神の人類に対する漸進的な啓示の記録である。聖書の目的は我々をキリストへと導くことにあり、神の心情を明らかにすることにある。真理は唯一、永遠、不変であり、したがって神からの新しいメッセージはすべて聖書と一致しているであろうし、それをより深く理解させるであろう。しかし、終末である今日においては、人類がいまだ成し遂げていないことを成就できるように、新しい真理が神からもたらされなければならない。

11.完全な復帰。神学の正しい理解は、人間の神との(縦的)関係と、人間の隣人との(横的)関係に、同時に集中する。人間の罪はこれら両方の関係を破壊したのであり、この世界のあらゆる問題はそれに起因している。これらの問題はキリストを通して人間が神に復帰されることによって、また正しい道徳的規準と実践を開始すること、真の家庭の形成、すべての民族と人種(東洋、西洋、黒人)の統一、科学と宗教の葛藤の解決、経済的・人種的・政治的・教育的不正の是正、そして共産主義のような神を否定するイデオロギーの克服――などの手段によって解決されるであろう。

12.再臨と終末論。キリストの再臨は我々の時代に起こり、現代は初臨のときと非常によく似た時代である。キリストは以前と同じように、肉体を持った人間として来られ、肉体を持った女性である花嫁と結婚することによって家庭を築き、彼らは全人類の真の父母となるであろう。我々が真の父母(再臨のキリスト)を受け入れ、彼らに従順に従うことにより、我々の原罪は取り除かれ、我々は最終的に完成するであろう。神の理想を実現する真の家庭が始まり、神の国が地上と天上の両方に実現されるであろう。いまやその日はすぐ近くまで来ている。(注4)

統一運動の組織構造は、ほとんどのメンバーによって第一に共同体的性格を持つものと理解されている。これは、彼らがそれを自分の「ファミリー」と呼んだり、お互いに兄弟姉妹と呼び合っていることからも明らかである。この家族的次元は、このグループと共に時を過ごしたものにとっては、誰にでも明らかである。ジェームズ・A・ベックフォードが正しく観察したように、「『横的な』関係は・・・顕著であり、(西洋の修道院生活と同様に)個人の能力の完全な発揮は、個人が告白共同体に完全にどっぷり漬かっているときにのみ起こるものであると信じられている。(注5)自発的組織である統一運動を理解する上で共同体的次元が重要であることは確かだが、同様に重要なのが縦的指向性をもつ権力と権威のヒエラルキーである。多くのメンバーはこの骨格的構造にあまり気付いておらず、リーダーたちはその重要性を最小限に評価する傾向にあるが、それは統一運動の目標設定において、その多数で多様な活動を導く上で、そしてメンバーを指導者の位置に任命する上において、重要な役割を果たしている。この運動のアメリカ支部の「公式的な」ヒエラルキーは、地方のセンターのリーダーから始まって、州や地域の指導者へと上昇し、最終的には全国の会長職に至る。地方のセンターは原則として少なからぬ自立性を持ってはいるが、彼らの強力なリーダーたちは通常、統一運動への献身に基づいて選ばれており、したがって実際にはセンターはより高いレベルで決定された政策を支持する傾向にある。

公式的なヒエラルキーは、非公式の霊的な指導者の集団(ほとんどが東洋人からなる一種の「長老会議」)に対して、そして最終的には文師に対して説明する責任があるようだ。たとえば、アメリカにおける統一運動の「会長」は、会員によって選ばれるのではない。むしろ、彼は霊的な指導者たちによって選ばれ、文師の意のままに仕えているように見える。その平等主義的な家族主義にもかかわらず、統一運動は公式及び非公式のヒエラルキー構造によって特徴づけられる。このグループの性と結婚を理解する上での、霊的な基礎を持つヒエラルキーの重要性については、この研究の後の部分で議論されるであろう。

1970年代に、主としてより多くの若いアメリカ人を回心者として引き付ける努力が次第に成功を収めるようになった結果として、統一運動は主要な三つの論争に巻き込まれるようになり、それらはすべてマスメディアにおけるネガティブなイメージを獲得する要因となった。国際クリシュナ意識協会、神の子供たち、およびその他いくつかの「新宗教」と共に、この運動の急速な成長は高度な「洗脳」テクニックの使用によるものだと反対者たちによって指摘されるようになった。そのテクニックは、会員候補者たちの自由意思を奪って、グループの全く異なるライフスタイルに献身するよう強制したのだというわけだ。メンバーは洗脳されているのだという告発は、彼らの両親およびその他の懸念を持つ部外者たちによる拉致とディプログラミングを正当化する主な理由として用いられるようになった。

二つ目の論争は、政治における統一運動の役割に関するものであり、もともとは韓国のロビイストが違法な手段によって米国の外交政策に影響を与えようとしたという報告に対する議会の調査の結果として生じたものである。(注6)ドナルド・フレーザー下院議員が議長を務める下院国際機関小委員会は、統一運動がこの違法な陰謀に関わっていると主張し、そのような嫌疑を立証することはできなかったものの、この告発ならびにその他のメディア報道は多くのアメリカ人をして、文師とその弟子たちは究極的には政府の乗っ取りを謀っていたのであると確信せしめることとなった。(注7)統一運動が巻き込まれたもっとも最近の論争は、国家の経済生活への参加に関わるものである。世界の救済者としての目標に対する十分な財政基盤を提供するため、路上での募金勧誘よりも信頼できる手段として、グループはさまざまな企業を設立しようとしている。それは既に水産と健康食品の産業に浸透しており、その他の市場にも入り込む計画を持っている。これらの冒険的企てによって引き起こされた葛藤は通常、地域経済のコントロールを失うのではないかと恐れる住民たちを抱える小さな地域社会を中心としている。(注8)

これら三つの論争は重要であり、さらなる学問的探究を必要とすることは確かだが、統一教会信徒の生き方には、「ムーニーたち」自身にとって極めて重要であり、社会学的機能主義(注9)の視点から、統一教会の信徒であることの意味について重要な洞察を提供する可能性のある、もう一つの側面がある。グループの会員獲得や、政治的・経済的な試みのように公衆の注目を受けてはいないが、統一運動の性と結婚に関連する信仰と実践は、アメリカの宗教史においてユニークであるだけでなく、全般に敵対的なアメリカ社会に直面しながらも、そのようなグループがいかにしてメンバーの献身を維持し築くことができるのかをも示唆しているのである。

(注4)フレデリック・ソンターク「文鮮明と統一教会」(ナッシュビレ:エイビントン、1977年)pp.102-105.
(注5)ジェームズ・A・ベックフォード「セクト的組織の二つの対照的タイプ」、ロイ・ワリス(編)『セクト主義:宗教的および非宗教的組織の分析』(ニューヨーク:ジョン・ウィレイ・アンド・サンズ、1975年)に掲載、p.77
(注6)合衆国政府「韓米関係の調査:米国下院外交委員会・国際機関小委員会報告書」(ワシントンDC、米国政府印刷所、1978年)
(注7)言論報道は全般に、文師がフレーザー小委員会の前での証言を拒否したことを強調している。これが、リチャード・ニクソンのウォーターゲートにおける役割を弁護したことと共に、アメリカの政治における統一運動のネガティブなイメージを作り出した。この現象に関する文献としては、デビッド・G・ブロムリーとアンソン・D・シュウプJr『アメリカのムーニー:カルト、教会、および十字軍』(ビバリーヒルズ、カリフォルニア:セージ出版、1979年)、p.160-164を参照のこと。
(注8)最も報道されたケースはマサチューセッツ州グロスターのものである。ここでは統一運動はかつてローマカトリック教会が所有していた水産加工工場、地域のレストラン、および別荘を購入したことを住民から批判されてきた。
(注9)機能主義の立場から宗教を扱う古典的研究としては、J・ミルトン・インガー「宗教、社会、個人:宗教社会学概論」(ニューヨーク:マクミラン・カンパニー、1957年)を参照のこと。

カテゴリー: ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』57


櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第57回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

櫻井氏は、自らの研究の調査対象について、以下のように述べている。
「統一教会の布教形態は未婚者対応のものと既婚者対応のものに二分される。教義上の中核的儀礼が祝福なので、原罪のない子を生める可能性がある未婚者と、それができない既婚者とでは信者としてのライフコースが異なる。もちろん、既婚者であっても、さらに夫が統一教会に反対していたとしても、信者である妻は合同結婚式に参加し、既成祝福というカテゴリーの儀礼を受けることができる。しかし、これは教団の資金調達が逼迫して、教説を多少転換しても信者からの献金(祝福献金)を増やしたいという背景から出てきたものと解釈される。」(p.204)

この解釈は間違っている。このような初歩的な誤りは、櫻井氏の祝福の歴史に対する無知から来ている。「既成祝福」は教団の資金調達が逼迫した結果として生じた教説の転換ではなく、祝福そのものの歴史と同じくらい古くからあるものである。まず、文鮮明師から最初に祝福を受けた3家庭のうち、金元弼先生の家庭は既成祝福であった。そして、その3家庭を含む36家庭が祝福の歴史の中では最も古い家庭に属するが、その3分の1に当たる12家庭が既成祝福である。日本人としては初めて祝福を受けた久保木修己会長の家庭も、統一教会に出会う前に既に結婚していた既成家庭であった。そして日本で最初に祝福が行われたのが1969年5月1日であったが、このときの22組のうち12組がマッチングによる祝福であり、10組が既成家庭であった。これらの事実から、文鮮明師は統一教会に出会う前に結婚していたカップルに対しても、初めから既成祝福という救いの道を準備していたことが分かる。

さらに、既婚者は原罪のない子を生めないという櫻井氏の解説も間違っている。統一教会に出会ったときに既に結婚していたとしても、そのカップルが子供を生むことができる程度に若ければ、原罪のない子供を生むことは可能である。祝福を受ける以前の子供は原罪を持った子供で「信仰二世」と呼ばれているが、祝福を受けた後に生まれた子供は原罪のない「祝福二世」として、マッチングカップルから生まれた子供と同じ扱いを受けるようになっているからである。櫻井氏は現役の統一教会信者を直接調査していないので、こうした初歩的な誤解や間違いが多い。

櫻井氏は、自身の調査対象となった元統一教会信者の社会的背景について、以下のような特徴を明らかにしている。
「信者の家族構成を見ると、ほぼ標準的な家庭であることがわかる(表6-2)。青年は両親健在であり、壮婦は配偶者がいる。特に家族的問題を抱えていたとか、不幸な生い立ちだたっという人は少ない。青年信者の教育歴に関してみると、専門学校・短期大学を含む高等教育を受けたものは半数を超え、同世代の高等教育修了者より若干高い程度である。もちろん、女性が多いために、専門学校・看護学校・短期大学だけで二四名(三六パーセント)もいる(図6-3)。」(p.206)

こうした櫻井氏の調査結果は、アイリーン・バーカーによるイギリスのムーニーの調査結果とほぼ一致していて興味深い。彼女は、ムーニーは貧困または明らかに不幸な背景を持っているという傾向にはなく、むしろ比較的幸福な幼少時代を過ごした人が多いという結果を公表している。また、ムーニーが基礎的な知識に欠けるがゆえに説得を受け入れやすいのだという証拠はほとんどなく、むしろムーニーは国民の平均よりもはるかによい成績を上げているという結果も報告している。櫻井氏の調査対象は、裁判の原告となった人が中心であるため、統一教会の平均的人口分布よりも女性の割合が高い。したがって、統一教会信者の一般的な学歴よりも短大や専門学校の割合は高くなっていると思われるが、それでも統一教会信者の学歴が同世代の若者よりも若干高いというのはイギリスの調査結果と一致していて興味深い。イギリスにおいても、日本においても、統一教会信者となるような人は、特に不幸な背景をもった人や無知な人ではなく、比較的恵まれた環境で育った、平均よりも知的に優れた人々であることが分かる。櫻井氏はこのことを簡単に報告しているだけだが、こうした信者の属性は、統一教会信者は不幸や無知に付け込まれて伝道されたわけではない、ということを示している重要な証拠の一つである。

さて、櫻井氏は本章の「3 入信の経緯と信者のライフコース」の中で、青年信者と壮婦の大きく二つに分けてそれぞれのライフコースを簡略に示している。櫻井氏の指摘するような「青年信者」と「壮婦」の間の価値的な序列は統一教会には存在しないが、伝道されたときに結婚しているかしないかによって、信仰生活のあり方やライフコースが異なることは事実である。こうしたことは統一教会以外の宗教団体でも存在し、年齢層や未婚・既婚の区別によって布教のあり方や信仰生活のスタイルが異なるのは、ある意味で当たり前と言えるだろう。ただし、統一教会においては「祝福」という結婚に関わる儀礼が救いの中心となっているために、未婚者か既婚者かでライフコースが異なるのは、教義的な必然と言える。

櫻井氏は冒頭で、「調査対象の中で自ら統一教会の門を叩いたものはない。」(p.206)と述べている。これは単なる事実の記述というよりも、統一教会信者の信仰は主体的に獲得したものではなく、勧誘と説得によって受動的に植え付けられたものであるという含意があるように感じられる。しかし、求道者が自ら訪ねてくるのを待っているような教団と、熱心に伝道活動を行う教団では、入門の仕方に大きな違いがあるのは当然であり、これ自体は善悪・優劣の判断基準にはならない。人から声をかけられて結果的に信仰に至る信徒が多いのは、伝道熱心な教団の特徴であると言えるが、勧誘されて信仰を持つようになったからといって、その人の信仰が主体的なものではないとは言えないであろう。勧誘や伝道はあくまで本人が主体的な信仰を持つようになるきっかけにすぎないからである。

櫻井氏が強調したいのはむしろ次の記述であり、「最初の時点で統一教会の布教活動を受けていることを認識していたものは皆無である。」(p.206)という部分であると思われる。これは伝道の初期における「不実表示」の問題である。これに関しては、いくつかのポイントを押さえておく必要がある。

1.統一教会の信徒たちが行っていた伝道活動において、最初から正体を明かさずに統一原理の内容を聞かせていたケースがあったのは事実である。しかし、これは限られた時代における現象であり、初期の頃は最初から宗教であることを証しし、教会の名前を明示して伝道活動を行っていたし、最近は基本的に行われていない。

2.統一教会信者全員が正体を隠した伝道活動を行っていわけではなく、いつの時代にもきちんと教会名を明示し、宗教であることを告げて伝道を行っていた信者は存在した。櫻井氏の調査した「青春を返せ」裁判の原告を中心とする元信者たちの中には、最初から正体を明かされていたものは皆無だったというが、実際には「青春を返せ」裁判の原告の中にも、最初から自分が統一教会に関わっていたことを知っていた者は存在する。

3.特に2009年以降は、統一教会本部の信者たちに対する指導により、伝道活動を行う際には最初から教会の名前を目的を明示して行うように指導がなされており、正体を明かさない伝道方法は過去のものとなっている。

4.出合った最初の段階から原理を一通り聞いてしまうまで、伝道対象者に対して、「自分は統一教会員であり、いまあなたが学んでいるのは統一教会の教義である」と正直に告げない「未証し伝道」と呼ばれるものは、一種の「欺き」と言える。この問題に関しては、アイリーン・バーカー博士が自著「ムーニーの成り立ち」の中で、その倫理的な評価はさておいて、「騙されること」が人がムーニーになるための前提条件としてどの程度機能しているのかを分析している。彼女は、①騙されたからといって全ての人がムーニーになるわけではなく、後から事実を知って去っていくものが多数存在する一方で、②騙されずに最初から統一教会だと知っていても入会するものがいる――という二つの事実から、「騙されること」は人がムーニーになるための必要条件でも十分条件でもないと分析している。次に、出合ったときに統一教会であると知っていた人の方が、知らなかった人よりも最終的に入会する割合が高いことから、「未証し伝道」は結果的に入教しそうもない人に多くの時間と労力を投入する可能性が高いことを示唆していると分析している。

以上のことから、統一教会の一部の信者が正体を隠した伝道を行っていたという事実があるからといって、統一教会信者は騙されて信仰を持つようになったのだと結論することは極めて短絡的であることが分かるであろう。現実はもっと複雑であり、実際には「未証し伝道」や「不実表示」が伝道の方法として有効であったかどうかは疑わしいのである。

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ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳03


第1章(1)

世界基督教統一神霊協会(以下、統一運動と呼ぶ)は、1954年に韓国で公式に設立され、初めに日本に、次に米国に伝わり、今日では120カ国に300万人の信徒を有すると主張している。第二次世界大戦後の韓国に現れた多くの新宗教(注1)の一つとであり、この団体の信仰と生活は、その創設者である文鮮明師の教えとカリスマ的人格に基いている。

文師は1920年に韓国の北西部に位置する地域である平安北道で生まれた。彼が10歳で長老派のクリスチャンになったとき、彼の家族は土着の民俗宗教を棄てた。彼の初期の弟子の報告によると、1936年の復活節の日に(訳注:これは西洋の初期の文献に多く見られる誤りであり、実際には1935年4月17日である)、イエス・キリストが幻で現れ、彼が再臨主となって神の国を地上に復帰すべく神に選ばれたことを説明したが、若かった彼はその役割をすぐには受け入れなかったという。その後、電気工学を学びながらの霊的葛藤の年月を経たのちに、彼は1946年に北朝鮮の平壌で公的な牧会活動を開始する。彼はここで政府およびキリスト教会との葛藤を経験し、収容所における重労働を数年間にわたって課せられた。解放後、彼は南に移動し、たった4名の弟子たちとともに、1954年5月にソウルで正式に運動を設立した。

そのとき以来、統一運動は世界的に大きく成長したばかりでなく、その組織的な中心を韓国ソウルから米国に移動させ、1971年以来、文とその妻子たちはそこに永住している。米国における統一運動の宣教は1959年に始まり、その後の10年間は数名のメンバーの固い決意によってのみなんとか生き延びることができた。(注2)1970年代にアメリカの若者たちが社会運動やドラッグ文化に全般的に幻滅するようになるまで、統一運動(およびその他いくつかの「逸脱した」宗教団体)がその年齢層のメンバーからメッセージに対する大きな反応を経験することはなかった。同時に、文師がアメリカにいることによって、前任者よりも有効な組織およびリーダーシップの刷新がもたらされた。今日、統一運動は約10000名の常在のフルタイム・メンバーを有し、アメリカの土壌に深く根付いているように見える。(注3)

運動の視点からすれば、その神学は、文師のメシヤ的役割に次いで非常に重要なものである。メンバーたちは、それが本来のまたは真のキリスト教であると信じていると表現しているが、統一神学は道教、儒教、および仏教の影響を受けた兆候をも示している。それは信条主義的な宗教ではないが、ほとんどの統一運動の信者は、神の文師に対する啓示の記録である『原理講論』の教えに同意している。第2章は性と結婚に関係しているという点において、統一神学の中心をなすものであろう。しかしながら、読者に信仰の全体像を提供するために、私は以下に「統一神学肯定宣言」を引用した。それは1976年にこの運動の神学校で38名の学生たちによって宣言されたものである。

1.神。唯一の、生ける、永遠なる、真の神が存在する。それは時空を超えた人格であり、完全なる知、情、意を持ち、その最も深い性質は心情と愛であり、男性性と女性性を兼ね備え、すべての真、美、善の根源であり、人類と宇宙と有形・無形の万物の創造者であり維持者である。人間と宇宙は神の人格と性質と目的を反映している。

2.人間。人間は神によって特別な被造物として、神のかたちに、神の子供として、神の人格と性質に似せて創られた。そして神の愛に反応し、神の喜びの源泉となり、神の創造性を賦与された存在として創造された。

3.人間と被造物に対する神の願い。神の人間と被造物に対する願いは永遠にして不変である。神は男性と女性に以下の三つのことを成就して欲しいと願っている:第一に、各自が心情と意志と行動において神と一つとなるべく成長して完成することであり、神の愛を中心として彼らの心と体が完全に調和して一つになることである。第二に、神によって夫と妻として一つとなり、罪なき神の子女を生み、それによって罪なき家庭を成し、最終的には罪なき世界を築くことである。第三に、被造世界を相対的な授受作用の愛によって主管することにより、その主人となることである。しかしながら、人間の罪により、このどれも起こらなかった。したがって、神の現在の願いは罪の問題が解決され、これらのすべてが復帰され、それによって地上と天上の神の国がもたらされることである。

4.罪。最初の男性と女性(アダムとエバ)は、彼らが完成する前に、天使長ルーシェルに誘惑され、不倫なる禁じられた愛に陥った。これによりアダムとエバは彼らに対する神の意思と目的から故意に背を向け、彼ら自身と人類を霊的な死に至らしめた。この堕落の結果として、サタンが人類の真の父の位置を奪い、それ以降、全人類は肉的にも霊的にも罪の中に生まれ、罪深い傾向を持つようになった。したがって人間は神とそのみ旨に反対する傾向を持つようになり、彼らの本性と本来の親子関係、そして失われたすべてのもに対する無知の状態で生きるようになった。神もまた、失われた自身の子女と世界に対して嘆き悲しみ、それらをご自身のもとに取り戻すために、絶え間なく闘わなければならなかった。被造物は真の神の子を通して一つとなるときを待ち望み、うめき苦しんでいる。

5.キリスト論。堕落した人類はキリスト(メシヤ)を通してのみ神のもとに復帰される。メシヤは(罪深い父母の代わりとして)人類の新しいかしらとなるべき新しいアダムとして来られ、彼を通して人類は神の家族として生まれ変わることができる。神がメシヤを送るためには、人類は堕落によって失われたものを復帰するための何らかの条件を満たさなければならない。

6.歴史。復帰は罪に対する蕩減を支払う(償いをする)ことによってなされる。人類歴史は、これらの償いをして、神がメシヤを送ることができるための条件を満たすための、神と人類の度重なる努力の記録である。メシヤは、完全な復帰のプロセスを開始するために来る。ある償いの条件を満たすための努力が失敗したときには、それは通常ある一定の期間を経たのちに、誰か別の人物を通して繰り返されなければならない。それゆえ歴史は円環パターンを示すようになる。歴史はメシヤの降臨によって頂点に達し、そのとき古い時代が終わって新しい時代が始まる。

7.復活。復活のプロセスは霊的生命と霊的成熟への復帰のプロセスであり、究極的には人間と神の一体化である。それは霊的な死から霊的な生命へと移っていくことである。これは一部は霊界の聖人の協助を受けた人間の努力(祈祷や善行などを通して)により成就され、キリスト(メシヤ)によって人間を新生させる神の業によって完成される。

8.予定。万民を神のもとに復帰するという神の御旨は絶対的なものとして予定され、神はすべての人々を救いに定めておられる。しかし神はまた、本来の御旨成就に対しても、復帰の御旨成就に対しても、人間に(人間の自由意思によって成し遂げられるべき)責任分担を与えられた。その責任は永遠に人間のものとして残る。神は特定の人物や人々の集団を、特定の責任のために予定され、召命してこられた。もし彼らが失敗すれば、他の者が彼らの役割を担ってより大きな責任を果たさなければならない。

9.イエス。ナザレのイエスはキリスト、第二のアダム、神の独り子として来られた。彼は神と一体となり、神のみ言を語り、神の業を行い、人々に対して神を啓示した。しかし、人々は彼を拒絶して十字架につけ、それによって彼が地上に神の国を築くのを妨害した。しかし、イエスは十字架と復活によってサタンに勝利し、それにより、彼と聖霊によって新生する者たちには霊的救いがもたらされるようになった。地上に神の国を復帰することは、キリストの再臨を待つこととなった。

(注1)これらの習合的信仰に関する文献としては、スペンサー・J・パーマー(編)「韓国の新宗教」(韓国ソウル、ロイヤル・アジアティック・ソサイエティ、1967)を参照のこと。
(注2)アメリカにおける統一運動草創期の文献としては、ジョン・ロフランド『終末論を説くカルト:回心と改宗と信仰維持の研究』(イングルウッド・クリフス、ニュージャージー:プレンティス・ホール、1966)を参照のこと。
(注3)加えて、統一運動は20000名のパートタイム・メンバーがいると主張している。彼らは統一運動の信仰を持っており、さまざまな方法でグループを支援しているが、運動のセンターには住んでいない。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』56


櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第56回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

櫻井氏は、統一教会信者の特徴について以下のように述べている。
「統一教会信者は、入信前に特別な性向を有していたり、特定の社会環境にあったりしたものではないが、回心して信仰生活を継続するようになると独特の思考パターンや行動様式を示すようになる。入信後、信者達がそれまでの自己と社会の認識や生活様式を一変させるというところにこそ統一教会信者の特徴がある。」(p.203)

これはあまりにも大きくて漠然とした特徴であって、はたして統一教会に固有の特徴なのか、それとも宗教一般の特徴なのか、あるいは団体やグループ一般に当てはまる特徴なのか分からないくらいである。人はあるグループに所属するようになると、そのグループに適応するために思考パターンや行動様式を変化させるものである。たとえば高校から大学へ進学してしばらくすれば大学生らしくなっていくだろうし、就職すれば社会人らしくなっていく。特定の業界の人間になれば、その業界の思考パターンや行動様式を獲得して人は変化していく。特定の企業には入れば、その会社の社風に染まっていくだろう。そうしたことは何も統一教会に限ったことではない。そして数多くある団体やグループの中でも、宗教団体は個人の根源的なアイデンティティーに働きかけるものであるために、変化の度合いが大きいという特徴がある。伝統的宗教にせよ、新宗教にせよ、「回心」と呼ばれる体験をした人は必ずといってよいほど自分自身や世界に対する認識が一変したという証言をするものである。櫻井氏の言っている内容は、統一教会の特徴というよりは、宗教的回心を体験した人一般に当てはまる特徴であると言える。

統一教会に入信すると自己と社会の認識や生活様式を一変させるという特徴を根拠に、櫻井氏は信者の性格は「教え込まれやすい人」(p.203)であると主張している。しかし、これは入信の前後でその人の人格があまりに劇的に変化したように見えるので、「洗脳されたに違いない」と主張してきた古典的な議論と大差ない論法である。この入信前後の変化について、アイリーン・バーカー博士は次のように述べている。
「回心のもたらす変化は単に『統一原理』を受け入れることだけにとどまらない。われわれはしばしば、行動様式、態度、全般的な世界観に極めて大きな変化をもたらすという話を聞く。『ジョナサンはもはやかつてと同じ人物ではない。以前の彼なら決してあのようなことをしないだろう。彼は完全に認識不能な人格に変わってしまった。もはやジョナサンではなくなっている』ということが分かるかも知れない。・・・しかし人生において著しい変化を遂げる人はたくさんいる。そのような変化を記述することが、『どうしてその変化が起こったのか?』という疑問を誘発するのはもっともだが、しかし変化の『記述』は、それ自体では変化の『説明』にはならない。」
「『洗脳以外の説明は不可能である』という主張を正当化するために、変化の程度だけではなく、その変化が起こった速度が使われることがときどきある。突然で劇的な回心の話は歴史にあふれており、聖パウロの体験はその中でも最も広く知られている話の一つである。北米や欧州における福音派の伝道集会は、突然の回心を体験した何千人もの『新生した』クリスチャンを生み出している。その回心の際に、イエスを自分たちの生活に受け入れ、それ以後生活態度や生活方式を劇的に変化させたと彼らは主張している。回心が突然起きたことが、強制的な技術が使われたに違いないと示唆しているというのなら、『全ての』突然の回心は洗脳の結果だとみなさなければならないであろう。しかし、ムーニーが洗脳されていると主張する人々の中で、そのよう立場を受け入れる者は、たとえいたとしてもごくわずかであろう。(事実、彼ら自身も多くは新生したクリスチャンなのである)。」(「ムーニーの成り立ち」第5章 選択か洗脳か?より)

また櫻井氏は、統一教会信者の社会的属性として、「教団活動にすべてを打ち込める環境の人が信者になっているということである。極端に貧しい人や豊かな人、時間的余裕が全くない人や余生を送っているだけの人、身体能力や学習能力に極めて秀でている人やハンディを負っている人が信者になることは稀である。社会学的にいえば、中間層が厚い社会ほど統一教会信者の候補者が多いということになる」(p.203)と述べている。

これはアイリーン・バーカー博士によるイギリスのムーニーの研究で明らかにされた事実と同じである。イギリスのムーニーには上流階級の出身者はおらず、ムーニーの出身階級は中産階級の中と下、労働者階級の上と中に集中しているという。つまり、階級の最上層にも最下層にもムーニーになりそうな人はいなく、全体の中間あたりの階級の人々がムーニーになるということだ。しかしこれは、「どんな人が統一教会信者になるのか」という候補者の絞り込みに過ぎず、その中で統一教会の信者になる人とならない人がいる理由については説明していない。この重要なポイントに関して、櫻井氏は極めて乱暴な議論を展開している。
「これは、統一教会形成史において戦略的な人材調達の手法について述べた通り、青年や一般市民が統一教会を選んで信者になったのではなく、統一教会が教団に欲しい人材を信者にしたのだ。そして、統一教会の布教戦略に応じやすい人達が信者となった。」(p.203~204)

櫻井氏は、統一教会がある一定の階層や年齢の人をターゲットにして信者を獲得したのであり、伝道された信者には主体的な動機などなかったのだと言わんばかりだが、はたしてそのようなことが本当にあり得るのだろうか? ある教団が「こういう信徒が欲しい」と願って、戦略を立てて伝道すれば、伝道される側には主体的な動機や要因がなくても入信するのだろうか? そんな一方的な話ではないはずである。人がある教団に入るか入らないかには「相性」というものが作用しており、伝道される側も入るべき教団を「選択」しているのである。櫻井氏は、人が統一教会に伝道されるときの力学を、「統一教会が伝道対象者を引っ張って信者にする」という極めて一方的でシンプルなものとして描いているが、実際にはそれほど単純なものではないだろう。

アイリーン・バーカー博士は、人がムーニーになるときには4つの変数が作用していると分析している。それは(1)伝道される人が持っている個人の傾向、(2)彼のこれまでの人生における経験と社会への期待、(3)統一教会の魅力、(4)決断を下すに至る際の周囲の環境、の4つである。つまり、(1)ある特定の性格や傾向を持った個人が、(2)これまで歩んできた人生と、(3)統一教会が提示している生き方を比較して、(4)修練会という環境の下で決断を下すということである。この4つの変数が総合的に働いた結果として、人はムーニーになるという決断を下すのだとバーカー博士は分析した。分かりやすく言えば、(1)もともと宗教的な傾向を持った個人が、(2)これまでの人生や将来に対して希望を感じられず(プッシュ)、(3)統一教会の提示する世界観に魅力を感じて(プル)、(4)修練会という精神的に高まった環境の下で、ムーニーになる決断を下すということである。この4つのどれ一つが欠けてもムーニーになることはなく、それがすべて揃う確率は低いため、修練会に参加しても最終的に信者にならずに脱落していく人は9割以上になるのだという。

それでは、信者になる1割以下の人と、脱落してく9割の人はどこが違うのであろうか? それは統一教会の提示するものに対する「感受性」をもっているか否かの違いであるとバーカー博士は言う。「被暗示性」(教え込まれやすさ)が基本的に他者の提案や示唆を受け入れやすい傾向のことであり、何でも受け入れてしまうような受動的で説得に弱い性格であるのに対して、「感受性」は統一教会が提供するものに対して積極的に反応するような性質のことであり、その個人がもともと持っているセンサーのような性質だということになる。こうしたセンサーやアンテナが発達している人は統一教会の教えや修練会に積極的に反応するけれども、発達していない人は反応しないので入教しないのである。統一教会に反応する「感受性」の内容は、結論だけを列挙すれば以下のようになる。

ムーニーになりそうな人:①「何か」を渇望する心の真空を経験している人、②理想主義的で、保護された家庭生活を享受した人、③奉仕、義務、責任に対する強い意識を持ちながらも、貢献する術を見つけられない人、④世界中のあらゆるものが正しく「あり得る」という信念を持ち続けている人、⑤宗教的問題を重要視しており、宗教的な回答を受け入れる姿勢のある人々。

このように、統一教会が伝道対象者を引っ張れば信者になるというようなものではなく、引っ張られる側に統一教会を受けれいる素養がなければ信者にはならないのだということを、櫻井氏はまったく考慮していない。これは、それを認めてしまうと信者になった人にも原因があったということになり、入信に対する「自己責任」という問題が発生してしまうので、敢えて避けて通っているものと推察される。

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ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳02


序文

1982年10月14日、韓国ソウルにおいて、物議を醸しだしている統一教会の創設者でありトップである文鮮明師は、夫人とともに、彼の信者11674名(5837組)の合同結婚式を行った。この行事から三カ月余り前の7月1日には、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで2074組の合同結婚式が行われ、その式典に私はこの本の著者であるジェームズ・H・グレイス博士および他の友人たちと共に参加した。私の大好きな若者たちの数名がこの日、文師夫妻による式典で結婚した。その式典は私にとって美しくまた感動的であった。

 その結婚式に参加したほとんどの人々が知っていたように、またメディアが正確に報道したように、その式典で結ばれたすべてのカップルは文師によって事前に「マッチング」されている。すなわち、配偶者の選択は文師によって(また集団で)なされ、その男女がお互いに短い相談をするだけで承認されるのである。多くのカップルにとって、そのマッチングが初めての出会いであり、片方が写真だけ提出された状態でマッチングされるような例も少数ある。このマッチングの多くが異なる国家、人種、民族の背景をもつ人々の間でなされ、ときにはマッチングされたときに二人がしゃべれる共通の言語がない場合もある。7月1日に結婚した者たちのマッチングはすべて一度になされたのではない。わずか数日前にマッチングされて結婚した者もいるが、大多数は2・3年、あるいはそれ以上の期間「婚約」していた者たちである。

 グレイス博士による統一教会における結婚の解説の過程で説明されるであろうが、文師夫妻による公開の式典によって結ばれた者たちは、マッチング直後にもう一つの儀式に既に参加している。これは公開されていないもので、この儀式によって彼らは自身の配偶者とほとんど永続的に結び付けられる。したがってある意味で、公開の式典はカップルにとってクライマックスの瞬間であり、「祝福」の複雑な儀式の頂点ではあるけれども、その重要性はその前に行われる「聖酒式」ほどではないのである。このあまり知られていない儀式は事実上、統一教会の唯一の「サクラメント」であるが、その意義は本書の研究において説明されるであろう。

 メディアの数名は、マディソン・スクエア・ガーデンでの行事にコメントして、大きな高校や大学の卒業式に結び付けた。その比較はおそらく軽蔑的な意図でなされたものと思われるが、まったく不適切というわけでもなかった。なぜなら、統一教会における結婚は長い期間の訓練の頂点であり、すべてのメンバーの自己浄化と完成に向けての努力が目的としている、重要なゴールであるからである。しかし、それはすべての真相というわけでもない。なぜなら、この本で後に説明されるように、個々のカップルの結婚はそれ自体が目的ではなく、より高い目標、すなわち世界の救済に至るための手段であると理解されているからである。

 1982年の巨大な式典の前にも、文師は世界最大の集団結婚式を司宰したとギネスブックに記載されていた。1800のカップルが結ばれたソウルにおける1975年の式典である。1982年の行事以降、ギネスブックにおける彼の位置は揺るぎないものに見える。ただし、アレクサンダー大王は紀元前324年にスサで、彼自身、80人の彼の指揮官たち、および1万名の彼の兵士たちをペルシャの女たちと結婚させる集団結婚式を行ったと言われている。王と彼の指揮官たちにとってはこれは本当の結婚式だったが、その他の者たちにとっては既に存在していた非正規の結合を合法化したに過ぎなかった。(注1)

 1975年の儀式は、1961年に文師によって創始されて以来、36組、72組、124組、430組、そして1970年の777組と、徐々にその数を増加させていく一連の結婚式の集大成と言えるものであった。(注2)教会の奥義によれば、これらすべての結婚式は象徴的な意味を持っており、「摂理」と文師の「メシヤ」としての使命の有効性が拡大していく各段階を示しているのだという。

 最近行われた合同結婚式の知識が、新聞や雑誌で読んだものに限られていたり、テレビのスクリーンで見ただけの者は、このような出来事は良くて奇妙に映るか、悪ければ邪悪で恐ろしいものに見えるだけだろう。さらに、メディアは文師の活動に関して決して公正中立な報道をしてきたわけではなく、それどころか、意識的にせよ無意識にせよ、小さいけれども積極的に声を上げる「反カルト運動」(注3)の見解を伝達する役割をしてきた。彼らの主たる目的は、統一教会の評判を落とすことにあった。しかし、グレイス博士のように、あえて物事の深層に迫ろうとする人にとっては、統一教会員の結婚で行われていることは、奇妙で邪悪に見えることをやめ、むしろ驚くほど豊かで独創的な神学の焦点に見えてくるのである。統一教会はその「より高度な教え」を半ば秘密のベールの奥に隠すことを選んできたが、グレイス博士は、私自身が独自の調査でしたのと同様に、教会が真摯な気持ちで学ぼうという意欲のある調査に来る部外者に対してはその門戸を開くということを発見した。

 宗教歴史学者として、私はグレイス博士の著作が出版されたことを嬉しく思う。過去15年間に出現した新宗教に関する本や記事とは異なり、グレイス博士の研究は公正中立であり、教会の内と外、そしてメンバーと元メンバーの両方から得られた資料とインタビューに基いている。グレイス博士は最も厳密な科学的手続きに従う、何年にもわたる綿密な調査の後に執筆した。彼は膨大な量の教会の文献を広範囲にわたって読み、教会のセンターを何日も訪れ、インタビューに数百時間を費やした。彼はセンターを訪問した時には無料で宿泊を提供してもらったけれども、彼なりのやり方で支払うことを主張するほどに几帳面であった。それは事後に彼の公平性に関していかなる疑問も提示されることがないためである。

 さらに、グレイス博士はこの研究に取り組む上で、著しく豊かで広範な教育によって準備されていた。すなわち、神学と社会学の方法論の訓練を両方とも受けていたということである。したがって、彼は統一教会の教義をキリスト教神学との対比において適切に理解し解釈することができた。そのため、宗教的データを説明するために何かほかのものに還元する必要を感じずに済んだ。そして同時に、「宗教者」とは異なる関心を持つ社会学者の言語で語ることもできるのである。しかしながら、この本では神学的、社会学的な専門用語は最小限に抑えられており、グレイス博士の説明の分かりやすさは、背景を問わずあらゆる読者に評価されている。

 グレイス博士の著作は、統一神学全体の研究となることを意図しているのはないし、運動の徹底的な社会学的分析を装うつもりもない。そのような研究にはもっと多くの分量が必要であるか、むしろ数巻の著作になるであろう。しかしそのような作業の場において、グレイス博士の著作は統一教会の生活と思考における中心的な関心事である「性行動」に焦点を当てているという点に最も大きな価値がある。ジェームズ・グレイスが示しているように、統一教会の教義は人類の原罪を不倫な性行為であるとしており、人間関係におけるすべての問題はその罪から生じると見ているのである。したがって、論理的に、アダム、エバ、サタンの根源的な過ちが元に戻され、今度は、人類始祖の過ちに陥ることなく、新しい出発がなされなければならないのである。この基本的な核心思想に、蕩減、「真の父母」としてメシヤとその妻、神の国、個人的および普遍的救済、その他の、統一教会の独特な教義が密接に結びついているのである。したがって、グレイス博士のこの本は、統一教会の生活と思想の中心についての概説となることもできるのである。

 宗教社会学者として、統一教会の思想とその西洋における成功は実に魅力的である。それが実に明らかに、儒教(「家庭主義」と先祖崇拝)、韓国のシャーマニズムと心霊術、そしておそらく大乗仏教のなにか(自己犠牲という菩薩の理想)などの要素と、キリスト教神学と聖書の神話のある傾向を融合しているように、統一教会の教えは東洋と西洋の見事で新しい統合なのである。さらに、それは全世界に根を下ろしているように見える(教会は125カ国以上で宣教を行っていると主張している)。数値的にも財政的にも、教会は1954年に韓国で正式に始まって以来、脅威的な成長を遂げている。すべての財産、企業、関係組織、および社会活動(科学の統一に関する会議、原理研究会、勝共活動、日刊紙、等々)を考慮に入れれば、文鮮明師は既に、具体的で客観的な意味において、歴史上のいかなる宗教指導者が生涯において成し遂げた以上の業績を成し遂げたと言っても過言ではない。この事実は、一部には、例えばブッダやモハメッドの時代には得られなかった、現代世界の条件によるものである。しかし、文師の業績はそれにもかかわらずユニークなものである。我々は現代において、他の主要宗教と同じく、世界を統一する宗教となることを目指す、もう一つの主要宗教の興隆を目撃しているのではないかと推測したくなる。

 グレイス博士は極めて適切であり、一切そのような空想的な推論の逃避にふけったりはしない。彼はまた、自身の調査結果に価値判断を取り込んだりもしない。むしろ、彼は自身の忍耐強い学術的研究の結果を私たちに提示している。私は彼の著作がその価値に相応しく、広く読まれ議論されることを望む。そして、そのことの故に、誤った情報によって生まれ嫌悪感によって助長された、統一教会を覆っている偏見の雲が消散することを望む。

マック・リンスコット・リケッツ

(注1)アリアン「アレキサンダーのキャンペーン」(ニューヨーク:ペンギンブックス、1971)、p. 354 お呼びW・W・ターン
(注2)しかしながら、これらは文師によってこの期間中に行われた結婚式のすべてではない。
(注3)アンソン・シュウプ, Jr、デビッド・G・ブロムリー「新しい自警団」(ビバリーヒルズ:セイジ出版、1980)を参照せよ。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』55


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第55回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は、現役の統一教会信者を研究対象とするのではなく、「裁判資料をテキストにする」方法を採用した理由について、以下のように説明している。
「社会問題化している教団というものは正面から正攻法で調査できない場合が多い。公式的な社会調査の手法や調査倫理に基いて教団本部の広報を通して調査依頼し、被調査者に配慮して、調査許可されたことだけを調査し、公開可能とされたものだけを調査結果として公刊するだけでは、筆者が考えるところの調査にならない。そこで、脱会者に話を聞くわけだ。」(p.200)

 これは詭弁である。櫻井氏の言うところの「正攻法」の調査方法だけでは、特定の宗教団体の一面しか見ることができず、全体像を描写することができないという主張は認めよう。しかし、こうした「正攻法」によって知ることのできる情報は、その宗教団体に関する貴重な知見であるし、一面とは言え、その宗教団体のまぎれもない真実の姿を現したものである。あるものに「表」と「裏」があるとすれば、その両方が真実なのであり、「裏」だけが真実なのではない。櫻井氏の問題は、「正攻法」の調査を行ったうえで、脱会者の話を聞くことによって「裏」を取るのではなく、初めから「正攻法」の調査方法を放棄して、「裏」である脱会者の情報にのみ依存している点にある。しかも、その元信者は統一教会を相手取って裁判を起こしている人々であるという点において、かなり特殊な人々であると言える。これは、現役信者と元信者の両方を研究対象としたアイリーン・バーカー博士の研究方法と比較すれば、明らかに偏っており、片手落ちの研究方法と言わざるを得ない。このことは繰り返して強調する必要がある。

 櫻井氏は、「裁判資料に偏向がないわけではない」(p.200)というが、これは資料批判の観点からすれば能天気な発言だ。実際には、民事訴訟における原告の陳述書や証言は、一方当事者の主張に過ぎず、それに依存すること自体がまさに偏向そのものである。櫻井氏は、「裁判の原告となった人が統一教会信者をどの程度代表しているものかがわからない」「裁判を起こした元信者のデータははずれ値の可能性が高い。」(p.201)とも言っている。その通りであり、裁判の原告は平均的な統一教会信者ではなく、まさに「はずれ値」と言ってよい特殊な人々である。また民事訴訟における陳述書や証言は、その「はずれ値」にさらにデフォルメ(変形)が加えられた特殊な資料である。こうした歪んだ「はずれ値」のデータを用いて、統一教会全体の入信、回心、信仰生活の実態について記述している点に、櫻井氏の研究の根本的な問題がある。

 さて櫻井氏は、「二 統一教会信者の入信・回心・脱会のパターン」の中の「どういう人が信者になるのか」という項目の中で、マーク・ギャランターやアイリーン・バーカーなどの西洋における統一教会の先行研究を紹介している。「統一教会へ入る人達に特有の個人的・社会的特徴はあるのか」(p.202)という問いかけに対する彼らの知見を紹介しているわけだが、バーカーとギャランターの研究において、「精神的・心理的特性は認められなかった」(p.202-3)という彼の表現はあまり適切ではない。これではまるでまったく特徴がないかのように誤解されてしまうだろう。実際には特徴はあるのである。正確に言えば、こうした先行研究が明らかにしたのは、一般の人と比較して統一教会信者の精神的健康度が低いという証拠は見いだせなかったということであった。これは、「カルトに入るような人は精神的に病んでいるか、トラウマを抱えたような人に違いない」という一般的な憶測を否定する研究結果であった。

 櫻井氏の表現でいえば、「一般市民や平均的な学生より知的水準・学習能力が低く、被暗示性が高いのではないかという仮説を立てて調べてみたところ、どちらの調査でもそのような仮説は否定された。むしろ、学歴や出身階級も平均より高く、向学心も強い人達であることが示された」(p.203)という記述の方が正確である。最終的に統一教会信者になる人は、「生きる意味や世界の目的と言ったものを模索していたが自分では見出せなかった」(p.203)ような人々であるという知見も、「価値志向性の強い若者達が統一教会信者となっており、彼らは洗脳されたのではなく自発的に統一教会信者として活動している」(p.203)というのも、バーカー博士の研究結果の正確な報告である。しかし、ここまで正確に要約している割には、次の段落では早くも先行研究に対する理解不足を露呈しているのであるから、いったいどこまで正確に理解しているのか分からない。

 櫻井氏は、統一教会信者の特徴を入信前と入信後で自己と社会の認識や生活様式を一変させることであるとしたうえで、「信者の性格に関して言えば、教え込まれやすい人、社会的属性では、教団活動にすべてを打ち込める環境の人が信者になっているということである」(p.203)と述べている。社会的属性として、教会活動に打ち込めるような余裕のある人が信者になるというのは、ある程度当たっているだろう。実際にアイリーン・バーカーも以下のように述べている。
「人口全体をみるなら、明らかに非常にわずかな割合の人々だけが、ムーニーの改宗の努力に好意的な関心を示している。改宗した人々は、圧倒的に年齢が18歳から28歳の間で、男性が多く、また中流階層が多くて通常は未婚の人々である。」「青春は理想主義と、反抗と、実験の時代である。たまたま恵まれた中産階級の出身であれば、理想を追求しながら、自分自身に対して贅沢を禁止するという贅沢をするだけの余裕がある。青年期の健康を享受し、差し迫った責任からも解放されていれば、物質的な利益を放棄することができる。」(「ムーニーの成り立ち」第10章 結論より)

 しかし、バーカー博士は続けてこうも言っている:「そのような観察には明らかにかなりの真実が含まれているし、なぜ統一教会のフルタイム・メンバーになる人々がある特定の年齢層から得られる傾向にあるのかを理解するのに役立つであろう。しかし、それだけではこれらの一般化はあまりにも大きすぎるのであり、歴史を通じて多くの時代に当てはまるだろう。」(「ムーニーの成り立ち」第10章 結論より)

 つまり、社会的属性や環境的要件は統一教会信者になりそうな人をある程度絞り込むことはできるかもしれないが、そのような属性を持った人々がすべて統一教会信者になるわけではないので、その中からさらに絞り込まれるような性格的な特徴を見出さなければ、「どんな人がムーニーになるのか?」を解明したことにはならないというのである。

 櫻井氏は、その性格的特徴を「教え込まれやすい人」(p.203)と簡単に片づけているは、実はこれはアイリーン・バーカー博士の研究で否定されていることなのである。バーカー博士はこの「教え込まれやすい性質」のことを「Suggestibility」と表現しており、私はそれを「被暗示性」と訳した。「被暗示性」とは、他者の提案や示唆を受け入れやすい傾向のことで、説得に弱くて勧められるとNOとは言えないタイプの人、素直なお人好しタイプ、精神的な弱さや隙がある人のことを指す。バーカー博士は対照群との比較により、一般に「被暗示性」が強いと思われるような属性の強い人々、つまり貧困または明らかに不幸な背景を持っていたり、もともと精神的な問題や薬物使用などの問題を抱えていたり、基礎的な知識に欠けるがゆえに説得を受け入れやすいような人々はむしろムーニはなりにくいという結論を出した。彼女の分析によれば、統一教会に入教するような人々は、これとは逆の傾向の人々、すなわち基本的に幸福な幼少時代を過ごし、健康で社会にも適応し、高度な教育を受けた人々が多かった。もちろん、精神的な問題を抱えた人々が救いを求めて修練会に参加するということはある。ところが、こうした人々は最終的に教会員にならないか、一度入教したとしても短期間で離脱してしまう人が多いという。

 バーカー博士のデータ分析によれば、被暗示性が弱い、すなわち強固な意志を持っていて人の影響を受けにくいタイプの人も確かにムーニーにはなりにくいけれども、逆に被暗示性が強すぎる、すなわち人の言うことを何でも受け入れてしまうようなタイプの人も、修練会に参加したとしても最終的にムーニーにならないか、なったとしても短期間で離脱する傾向にあることが分かったという。すなわち、ムーニーになる人々は、「被暗示性」においては中間層の人々だということだ。特に「教え込まれやすい人」が信者になるのではないのである。

 それでは、統一教会に入る人と入らない人ではどこが異なるのかというと、統一教会が提示するものに対して積極的に反応するような「感受性」があるかないかであるという。「人はなぜムーニーになるのか?」という問いに対してバーカー博士が下した結論は、「ムーニーの説得力が効果を発揮するのは、ゲストがもともと持っていた性質や前提と、彼に対して提示された統一教会の信仰や実践の間に、潜在的な類似性が存在するといえるときだけだ」(「ムーニーの成り立ち」第10章 結論より)という言葉に集約される。つまり、統一教会の信者になった人は、「教え込まれたの」ではなく、統一教会の教えに「共鳴した」のであり、もともと共鳴する性質を自身の内に持っていたということである。

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ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳01


今回より、アメリカの宗教社会学者、ジェームズ・グレイス博士が1985年に出した著作“Sex and marriage in the Unification Movement(統一運動における性と結婚)“の日本語訳をアップしていくことにします。この著作については、拙著『統一教会の検証』(光言社、1999年)の第5章でかなり詳しく内容を紹介していますが、全文訳はまだ存在していません。何事も全体を正確に伝えることは重要なことですので、アイリーン・バーカー博士の『ムーニーの成り立ち』に続いて、本ブログで全文訳を試みてみたいと思います。初めに、読者の理解のために、私の著作の中でこの本をどのように紹介しているかをまとめて引用みたいと思います。
「1985年に出版されたグレイス博士の著作は、こうしたメディアによって作り上げられた合同結婚式にまつわる“神話”の一つひとつを批判的に検証し、統一教会における結婚の実像を非常に公平で客観的な立場で描き出している。また方法論においても、教会の内外、現役の信者と元信者の両方に対してインタビューを行っており、社会学的研究としての要件を十分に満たしていると評価されている。 」
「グレイス博士がこの研究を行う上で適任者であると思われる点は、彼が神学と社会学の教育を両方とも受けているということだ。神学を修めているということは、キリスト教神学との比較において統一教会の教義を理解できる上に、信仰者独特の内的言語をも理解する能力を有するがゆえに、宗教的現象をいたずらに単なる社会現象に還元するという社会学者にありがちな過ちを避けることができるという利点がある。また社会学を修めているということは、単なる教義の解釈や批評にとどまらず、フィールド・ワークに基づいた実証的な研究が可能である上に、何よりもより大きなアメリカ社会全体との関係において、統一教会の結婚に対するアプローチがもつ意味を考察できるという利点がある。」
「全体の構成は八章からなっており、第一章はこの研究の動機と目的について述べている。グレイス博士によれば、統一教会の性と結婚に対するアプローチは現代アメリカ社会の中では非常にユニークなものであり、とりわけ自分の配偶者を自分で選ばないという点は、自由恋愛至上主義の一般的社会通念と対立するものであるにも関わらず、そのような運動が多くのアメリカ人の心を引き付け、なおかつ長期間にわたって信仰共同体を維持し得るのはなぜか、という疑問からこの研究を出発したということである。

第二章は、性と結婚に対する統一教会のアプローチを、その教義の面から分析している。すなわち、創造・堕落・復帰という教義のフレームワークの中で、性と結婚の問題がどのように扱われ、それがいかに祝福という宗教行事と結び付いているかを説明している。

第三章は、統一教会の性倫理、すなわち婚前交渉や同性愛の問題に対して統一教会がどのような価値観をもち、また具体的にどのように対処しているかを扱っている。

第四章は、教会内部における両性の役割、すなわち教会内部において男女は差別されているのか、それとも同等の権利を与えられているのか、という問題を扱っている。

第五章は、祝福前の独身メンバーの禁欲的なライフ・スタイルと、その意味を扱っている。

第六章は、祝福を受けた統一教会のカップルが、家庭をもつ前の聖別期間や、家庭を出発した後にどのような体験をし、どのような課題に直面するのかを豊富なインタビューに基づいて描写している。

第七章では、それまで積み上げてきた客観的なデータを、社会学の理論によって分析している。ここで彼は、19世紀にアメリカで発生したユートピア主義的な信仰共同体における結婚のあり方と、統一教会における結婚のあり方を比較して、信仰共同体の維持・発展という観点から、それがどのような機能を果たしているのかを社会学的に分析している。

第八章では、統一教会における結婚のあり方が将来どのような課題に直面し、どのように変化していくのかを著者なりに予測している。また現代アメリカ社会を背景として見たときに、統一教会の結婚に対するアプローチがいかなる意味をもつかを論じ、一般社会が統一教会における結婚のあり方から学ばなければならないことを提示している。

以上簡単に概要を述べたが、グレイス博士の研究は1980年代前半の調査という点で若干古さは感じるものの、大きな間違いや誤解を発見できないほど、確かな情報源に基づいた手堅い研究である。かといって、統一教会にとって都合が良いことだけを書いているわけでもなく、教会内部に現実に存在するさまざまな問題をも冷静かつ客観的に扱っているということにおいて、非常にバランスの取れた研究であると評価できる。」

以上が私の著作におけるこの本の概要説明ですが、第一回の今回は、この本に関する基本的な情報を提示し、目次と冒頭の謝辞を訳して終わりたいと思います。

Title: Sex and Marriage in the Unification Movement: A sociological Study
題名:統一運動における性と結婚:社会学的研究
Author: James H. Grace
著者:ジェームズ・H・グレイス
With A Preface By Mac Linscott Richetts
マック・リンスコット・リケッツによる序文付き
Studies in Religion and Socirty Volume 13
宗教と社会の研究 第13巻
The Edwin Mellen Press, New York and Toronto
エドウィン・メレン出版、ニューヨーク、トロント

目次
第1章 研究の性格
第2章 統一教会の神学における性
第3章 性に関する価値観:婚前交渉と同性愛
第4章 男女の役割
第5章 祝福:準備とマッチング
第6章 祝福:聖別期間と同居生活
第7章 分析と発見
第8章 未来:いくつかの個人的考察
参考文献一覧

謝辞

この著作は私自身の作品であり、私はそれに対する全面的な責任を負うが、非常に有益な貢献をしていただいた個人に私が言及しなければ、それは不注意というものであろう。テンプル大学のルーシー・ブレグマン教授は貴重な批判的洞察を提供してくれ、このプロジェクトのあらゆる局面で一貫した支援をしてくれた。グラスボロ州立大学の私の同僚数名にも感謝したい:男女の役割に関する資料を批評してくれたパール・バーテルト教授、書き方に関する有益な助言をいただいたセオドア・ズィンク教授、社会学的調査の方法について手引きしてくれたジェイ・チャスケス教授。また、統一運動に焦点を当てることを初めに提案してくれたトロント大学のハーバート・リチャードソン教授にも感謝したい。グラスボロ州立大学哲学宗教学部の私の同僚たちは、貴重な実務的補佐を私に提供してくれ、時には私の組織上の義務を軽減してくれた。私の同僚ポール・K・K・トンが、このプロジェクトを完遂するためほとんど毎日のように励ましてくれたことに対して、特別に感謝したい。

私の秘書であり友人のアーリーン・エイレスさんは、専門性を持って初稿を準備してくれ、私がこの著作を執筆し編集するうえでユーモアのセンスを維持するのを助けてくれた。ジャニス・ビットレさんは非常に慎重かつ熟練した手法で最終稿をタイプしてくれた。

私の妻ヘレンと子供たちは、このプロジェクトの全期間を通して、常に愛と理解と忍耐の源泉であった。

私はまた、統一運動のメンバーとリーダーたちがこのプロジェクトに投入してくれたことに対して深く感謝する。彼らの協力なくして、完成はなかったであろう。

この著作は、私の人生において非常に重要な二人を追悼して捧げられる。それは、テンプル大学の創設者であり、verstehen(理解社会学)のより深い意味を教えてくれたバーナード・フィリップス博士、そして毎日を精一杯生きることを教えてくれた我が弟、ロバート・J・グレイスである。

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