『生書』を読む13


第五章 救世主の自覚と神の国の予言の続き

 天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るシリーズの第13回目である。前回から「第五章 救世主の自覚と神の国の予言」の内容に入った。ここから「肚の神様」の本心が前面に出てきて、日本の国や戦争に対する考え方に変化が見られるようになったことは既に述べた。すなわち、「肚のもの」は教祖に対して、日本の国を超越するような話を始め、宇宙を支配する唯一神であると自分を規定したうえで、現在の天皇は傀儡に過ぎず、現人神ではないと言いだしたのである。当時の日本においては、これは国体イデオロギーの否定であり、危険思想であった。それを文字通りに口にすれば命の危険があり、家族までもが犠牲になることを承知の上で、大神様は神に命を捧げて国救いをやるという決意を固めたのである。いよいよ新宗教の教祖として立ち上がったということだ。

 昭和19年の秋と言えば、終戦まであと一年を切った頃のことである。このころ大神様は田布施の街中で黒山の人に囲まれて辻説法を始められた。大神様は浪花節のような歌説法をすることで有名になったわけだが、『生書』の82~83ページに記された数え歌のような説法は、その初期段階のものなのであろう。リズムをつけて分かりやすい言葉で世の中に訴えかけるような内容で、人の心をつかむ力があったのではないかと思われる。このときの説法では、かつて義人氏を御国のために捧げても本望と言った「軍国の母」のような戦争肯定の立場ではなく、はっきりとした戦争批判が表れている。一から十の数え歌のような説法の中には、無理な戦争をもうやめるべきだという主張が三回も登場する。
「六つともせいえ、無理な戦争しなくても、丸い丸い、真ん丸い、真珠のような真心を、天地の神に持って来りゃ、無理な戦争させはせぬ。…尊い真心持って来りゃ、無理な戦争させはせぬ。」
「八つともせいえ、やめてください、この戦いを、思うお方があったなら、天にとどろく真心、持っておいでよな。」
「十ともせいえ、尊いみ国に生れながら、神のみ教え知らぬよな、ばかな乞食が世に増えりゃ、無理な戦争もせにゃならぬ。」(p.82-83)

 この時代は太平洋戦争の末期に当たり、国民が一丸となって戦争に勝利するために忍耐し、政府による統制も厳しくなっていた時代である。そのようなときにこうした教えを流布することは、政府から目をつけられる恐れがあった。しかし不思議なことに、大神様が戦争が終わる前に治安維持法違反などの嫌疑をかけられて逮捕されたという事実は存在しない。田舎のおばさんが言っていることだということで、政府の役人もあまり気に留めなかったのだとか、実際には当時の人々には既に厭戦気分が蔓延していたので抵抗なく受け入れらたのだという解釈も成り立つが、キリスト教の『聖書』に対する学問的な研究にヒントを得て、あえて穿った見方をすれば、実際にはこうした危険な説法を戦前には行っておらず、戦後になってからの大神様の教えを、戦前に投影させたのではないかと疑うことも可能である。聖書批評学というものを知らない人には若干の説明が必要なので、いくつかの例を挙げて説明したい。

 新約聖書のルカ伝19節41~44節には、イエスがエルサレムに近づいてきたときの様子が以下のように記されている。
「いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣いて言われた、『もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら・・・しかし、それは今おまえの目に隠されている。いつかは、敵が周囲に塁を築き、おまえを取りかこんで、四方から押し迫り、おまえとその内にいる子らとを地に打ち倒し、城内の一つの石も他の石の上に残して置かない日が来るであろう。それは、おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである。』」

 この聖句は、「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。」(マタイ伝23:37~39)と共に、このときから約40年後の紀元70年に首都エルサレムがローマ帝国軍に踏みにじられ、神殿が破壊されて悲惨な破滅の時を迎えることをイエスが予言したものであるとされている。もしエルサレムがイエスを拒まなければ、そこには神の祝福と平安が訪れるはずであったのに、イエスを拒んでしまったことによって審判を受け、国が滅んでしまったという理解なのである。

 信仰をもって聖書を読めばまさしくその通りなのであるが、聖書批評学の立場からすれば、この部分は実際にはローマ軍の侵攻が起こった後に書かれ、それをイエス・キリストによる予言の成就という形で表現したものであるとされている。旧約聖書にも同じような例がある。アブラハムが三種の供え物に失敗したとき、神は「あなたはよく心にとめておきなさい。あなたの子孫は他の国に旅びととなって、その人々に仕え、その人々は彼らを四百年の間、悩ますでしょう。しかし、わたしは彼らが仕えたその国民をさばきます。その後かれらは多くの財産を携えて出てくるでしょう。」(創世記15:12-14)と語っているが、これは後にアブラハムの子孫であるイスラエル民族が400年間エジプトで苦役することを予言したものだとされる。ダニエル書2:31-45には、ネブガデネザル王が巨大な像の夢を見て、それがアッシリア、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマと続くその後の世界帝国の歴史を予言したものであると解釈されている。しかし、聖書批評学の立場からすれば、このどちらも実際にはそれらの出来事が起きた後に、「こういう予言がなされていた」という「後付けの予言」として生み出されたものだということになる。これらはいずれも、実際に事が起こってから予言を書くのであるから、当たって当たり前なのである。

 「肚の神様」は、教祖に対して大本営発表では知ることのできない現実の戦況を教えたという話も『生書』には出てくる。
「『おサヨ、千里眼や、万里眼じゃだめぞ。神の眼になったらこうぞ。』と言って、日の丸の旗が風にたなびいている、それが次第に北側から消えてゆき、中の日の丸がだんだん三日月ぐらいになり、薄れていくのを見せられ、また前線の兵士たちが、髪はぼうぼうと伸び、夜叉のようになっている様を見せられ、続いてその説明をされるのであった。
『おサヨ、弾は来る、弾はない。前線の兵士はあのような苦労をしておるぞ。…ちょいちょい大本営でも発表しちょるが、本当のことを知ったら、みな目を回すぞ。

 今、国が亡びてゆこうとしているんだ。誰かが真剣に祈らねば、この国は救えぬのじゃ。祈れ、祈れ。」(p.86-87)

 国民の大部分が大本営の発表により日本は戦争に勝つと信じていた時代に、大神様は神の眼を通して実際の戦況を正確に知っており、敗戦に向かっていることを知っていたということだ。

 また「肚の神様」は教祖に対して「われ(お前)が一人前になったら、日本にゃ、兵隊のへの字も置かぬ、陸軍省も、海軍省も、憲兵隊も、何もないようにして…」(p.92)と語っている。これは、戦後の日本が軍備を持たない国になることを終戦前から予言されていたのだということになる。

 さらに昭和20年の元日に教祖が歌った歌には、「天照皇大神宮の神世に戻る。満州もいらなきゃあ、朝鮮もいらぬ。樺太もいらなきゃあ、台湾もいらぬ。日本の本土されあればよい。」という言葉が登場するが、これは日本が敗戦によってすべての植民地を失い、本土だけが残された戦後の状況をそのまま言い当てていることになる。こうした予言を文字通りに信じれば、「肚の神様」はまさしく未来を予知できる全知全能の神であり、宇宙の絶対神であるということになる。しかし、戦後になってからこれらが書かれたとすれば、実際に事が起こってから予言を書くのであるから、当たって当たり前ということになる。

 『生書』が書かれたのは戦後である。そのときになって「無理な戦争などやめたらよかったのに」というのは簡単である。しかし、それを言うのは当たり前であり、何の価値もない。まだ戦争が終わる前から、国民が一丸となって戦争に勝とうとしているときに、あえてその戦争の無理を訴え、神の眼をもって戦況を正確に把握して日本の敗戦を予想し、そのうち日本には軍隊はいらなくなると語るからこそ、先見の明をもった教祖の予言となるのである。戦後になって教祖が語られたことを、戦前から語っていたのだと遡って「予言」にしてしまうというのは、宗教のテキストにおいてはあり得ることである。私が『生書』のテキストを読むときに、その可能性を否定することはできないと思う。こうした批判的な見方は、天照皇大神宮教の信仰を持っている方々には大変失礼なもの言いかもしれないが、キリスト教においては聖書批評学という学問において、同様のことを『聖書』に対して行っているのだということを指摘しておきたい。

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『生書』を読む12


第五章 救世主の自覚と神の国の予言

 天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るシリーズの第12回目である。今回から「第五章 救世主の自覚と神の国の予言」の内容に入る。第四章までは、「肚の神様」から啓示を受けるまでは大神様には特別な思想的傾向はなく、当時としてはごく普通の愛国的な婦人であったこと、そして「肚の神様」が入った後も、しばらくの間は戦争や当時の日本政府のあり方に対する批判的なことは語っておらず、お国のために熱心に働く献身的な国民であったことを明らかにした。しかし、この章からは「肚の神様」の本心が前面に出てきて、日本の国や戦争に対する考え方に変化が見られるようになる。私としては、特にその点に注目して分析を試みたいと思っている。

 第五章の初めに語られているのは、「肚の神様」に関する奇譚の数々である。
「初め教祖の肚の中でものを言い出したものは、今度は教祖の口を直接使うようになった。頭に何も考えず口を開けば、説法や歌が後から後から尽きることなく出てくるのである。」(p.73)

 これまで「とうびょう」と言っていたものは、今度は「口の番頭」を名乗り出し、いろいろの不思議を教祖に見せたという。例えば「口の番頭」が教祖に草取りをさせ、その命じた部分では少しも力を入れずに楽に草を抜けるのに、命じた以外の部分に手を出すと、どんなに力を入れてもうまく抜けないとか、血圧の高い教祖の血圧を下げるために血を多量に下してみたり、教祖の体を前後にゆすって、一人息子の義人氏が乗った船が魚雷に沈められないように守ったり、といった具合である。

 第四章では人間としての北村サヨ氏が「肚のもの」に支配されるのではなく、それと必死に戦いながら対峙していたことが述べられていたが、第五章では「肚のもの」は直接教祖の口を使って語り出したということであるから、これはシャーマンの状態に近い。人間として必死に抵抗したとしても、時には「肚の神様」に憑依されるような状況になったことが分かる。

 ここで出てくる奇譚の数々は、宗教的なテキストによく登場するような物語であるが、それは「肚の神様」が人知を超えた不思議な力を持つ存在であることを示し、人間としての北村サヨ氏がそれを受け入れ、屈服していくプロセスとして描かれている。最初は邪神か狐か狸の類だと思って闘っていた存在が、正しい神であると認識され、それと一体となっていくということだ。

 草取りの物語は、自我を捨てて「肚のもの」と一体となれば万事うまく行くのだという教訓を示しており、あくまで「肚のもの」が主体であり、人間である北村サヨ氏は対象であるという各位が示されている。このときから「肚の神様」は主体として北村サヨ氏を教え諭し、「思いもよらないようなこと」を言い出すようになったのである。人間としての北村サヨ氏の思想は、当時の国体イデオロギーから外れるものではなかったし、日本という国を離れたり、超越したり、批判的に見るような視点はなかった。しかし、あるときから「肚のもの」は教祖に対して、日本の国を超越するような話を始めたのである。
「おサヨ、天照皇大神宮というのは、日本小島の守護神として思うなよ。宇宙を支配する神は一つしかありゃしない。キリストの天なる神、仏教の本仏というのもみな一つのものぞ。われら(お前ら)が南瓜を、かぼちゃと言うたり、とうぶらというのと同じじゃ。じゃからこの日の本の国をなくするような神はおりゃしないが、天にはえこもひいきもありゃしない。神の肚に合わぬ者が神の敵じゃ。」(p.76-77)

 後に教団の名称となった「天照皇大神宮」は、そもそもは伊勢神宮の内宮の別名である。その祭神は天照大御神であるから、まさに日本神話の主神であり、皇室の先祖に当たる神道の中心的な神である。「肚のもの」は、それを日本に限定された神ではなく、キリスト教や仏教をも包含する、宇宙を支配する唯一神という概念に拡大させてしまったのである。ここではかぼちゃという身近な素材が例として用いられているが、これはイギリスの神学者ジョン・ヒック(1922-2012)が著書『神は多くの名前をもつ』の中で言ったことと本質的に同じである。すなわち、どんな宗教にも神はいるのだが、その神は別個のものではなく、神がたくさんの名前をもったにすぎなという考え方である。いまでこそエキュメニズム、超宗派運動、宗教多元主義などの出現によってこうした考え方は広く知られるようになったが、当時としては画期的な考え方であっただろう。

 これは「肚の神様」が日本を相対化し、それを超越した存在であることを示しており、人間北村サヨ氏に対しても同様の飛躍を要求するものであった。すなわち、それまでは皇国日本の価値を信じ、日本が戦争に勝つことが神の願いであると信じていた教祖に対して、「天にはえこもひいきもありゃしない。神の肚に合わぬ者が神の敵じゃ」と言ったのである。これは日本は無条件に神の側にある特別な存在なのではなく、神の肚に合わなければ神の敵になることもあり、戦争に負けることもあるのだという意味である。模範的な日本人であり愛国的な婦人であった北村サヨ氏からすれば、これを受け入れることは一つの自己否定であっただろう。

 「肚の神様」が当時の軍隊や銃後の国民について語った部分は、内容的には以前とあまり変わらない。要するに戦地で苦労する軍人がいる一方で、それに乗じて内地で闇取引きをしたり私腹を肥やす者がいることを非難している。同時に、軍の中にも利己的な行動をする者がいることを非難している。ここまでは一つの倫理的な発言として、当時の規範に反するものではないだろうが、その次に語られたことはまさに革命的であった。
「また非常に驚いたことに、それまで大君のためなら、天皇陛下のおんためならと、一人息子を捧げて悔いなかった教祖に、天皇の悪口を話し出したのである。
『天降って根の国を治めよ、と言った天皇の子孫がのう、二重橋から四重橋、六重橋までかけて、箱入りになり、釘止めにされて、目ばりされて、天井に放り上げられ、置物になったのが今の蛆の天皇じゃあないか。天皇は生き神でも現人神でもなんでもないぞ。』」(p.79)

 これは天皇を根本的に否定しているわけではないが、現在の天皇は傀儡に過ぎず、現人神ではないと言っている。「蛆の天皇」に至っては不敬罪に当たるであろう。いまや「肚の神様」は、国体イデオロギーを否定する存在となった。当時としては十分に危険思想と言えるだろう。それを口にすることはあまりにも危険だったので、平井氏は教祖の身の上を思って、皇室の悪口だけは言わないように諭したという。しかし、それで臆して信念を曲げるような教祖ではなかった。実はこの問題は、教祖として立ち上がっていく上で一つの試金石となり、決断を迫るものとなったのである。「肚のもの」は次のように言った。
「おサヨ、われ(お前)がこうして、あちらこちらで皇室の悪口を言うて歩いていると、われはいつか捕まえられて死刑になる。義人は責任を感じ、腹を切って死ぬる。清之進は気が違って死ぬる。われのところの目腐れ財産は、親戚の者が分け取りにする。」「誰かが犠牲になって、国救いをやらにゃあこの国は救えないのじゃが、どうか。」(p.80)

 ついに「肚のもの」は殉教や家族の犠牲を示唆してきた。これに対して教祖はそれを受けて立つ決意をする。
「ようし、自分が死に、家の者が死に、自分のところの目腐れ財産がなくなるくらいで、この国が救えるなら、どうぞこのまま使って給え。」「槍でも鉄砲でも来い。神がいる者ならば生かして使う、いらない者なら、いつ死んでも惜しくない」(p.80-81)と心に誓い、神に命を捧げて国救いをやるという教祖の肚は決まったのである。

 この辺のくだりは、表現こそ日本的な浪花節風の言葉遣いにはなっているが、ユダヤ・キリスト教の『聖書』における預言者の召命や、信仰による迫害を甘んじて受ける信徒の決意に通じるものがある。モーセにしてもエレミヤにしても、神の召命を受けたときには、それが自分に世俗的な幸福をもたらすものではなく、むしろ苦難や迫害をもたらすことを知っていたため、一度は召命を受け入れることを躊躇した。それでも敢えて神の命令に従うことを決意したのが預言者と呼ばれる人々である。イエスは弟子たちを宣教に送り出すとき、「人々に注意しなさい。彼らはあなたがたを衆議所に引き渡し、会堂でむち打つであろう。…またあなたがたは、わたしのために長官たちや王たちの前に引き出されるであろう。…またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう」(マタイ伝10:17-22)と語っている。また、キリストに従うことは十字架を背負うことであるとも言っている。

 大神様にとって、国体イデオロギーとの決別は、既存の宗教伝統、文化、社会的常識を打ち破って新しい信念体系を打ち立てるということであり、新宗教の教祖としての主体性を明確にしたということであった。

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『生書』を読む11


第四章 神の御指導の続き:正神と邪神

 天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るシリーズの第11回目である。第九回から「第四章 神の御指導」の内容に入ったが、今回は突然語りだした「肚の神様」を大神様がどのようにとらえ、どのように関わっていったのかという、葛藤のプロセスについて深く考察したい。

 既に述べたように、大神様は最初「肚の神様」を邪神か狐か狸の類だと思い、それを落とそうとした。これは周囲の人々が邪神と疑ったばかりではなく、教祖自身もはたして自分に語り掛けてくる神がいかなる神なのか判断がつかず、疑ったということである。教祖とて生身の人間である。突然自分に降りかかってきた人生を変えるような出来事に当惑するであろうし、自分が出会った神が本物が偽物か見極めようとするのは当然である。さらに、修行に伴う精神的な覚醒状態や高揚は、教祖を精神的に不安定にさせる可能性がある。霊的なものに完全に憑依されて自我を失ってしまえば、人格の崩壊をもたらすかも知れない。こうした試練を乗り越えて、霊的なものと地上の常識的なもののバランスをうまくとれるようになってこそ、教祖として人々を導いていくことができるのである。大神様は、啓示の初期におけるこうした葛藤について、松本千枝という国民学校の教師に対して以下のように語っている。
「千枝、わしにゃあどうも行の邪魔をするものがおっていけない。じゃが間もなく、正神邪神の戦いを通り越して、正神のみに使われるようになるからのう、そうしたら地上に天国、神の国を、一緒につくろうのう。」(『生書』p.70)

 大神様は北村サヨという一人の人間として、「肚のもの」に支配されるのではなく、それと必死に戦いながら対峙していたことが分かる。自分には正神と邪神の両方が働いていると自覚し、行によって正神のみが働く存在になることを目指していたということだ。一方で「肚の神様」の方は、人間北村サヨを手懐けようとして必死に働いたようである。
「肚の中で五月の四日から急にものを言い出したものは、あらゆる手段を尽くして、性格の強い教祖を、言うとおりにさせずにはおかなかった。」(p.71)

 大神様は肚の中のものを邪神だと思って戦うプロセスもまた、行の一環としてとらえていたようである。そのことの意味については以下のように語っている。
「世の行をする者は、その行の途中、少しでも霊能があり出すと、すぐ増上慢を起こして生き神様になって、邪道に落ちてゆくが、わしの場合は、みんなとは確かな神様がついちょったから、世の中の邪神つきみたようにぼけて、人間の道に外れたようなことはさせなかった。」(p.72)

 ある意味で、北村サヨという個人の自我がしっかりしていたので、啓示を下す霊的存在にただ飲み込まれるのではなく、それとうまく対峙しながらバランスをとることができたがゆえに、教祖たることができたのではないかと思われる。このような修行における試練、葛藤、そして陥りがちな霊的な過ちは、宗教の世界には普遍的に見られる現象であり、代表的なものとしては禅宗の瞑想修行における「魔境」があり、キリスト教における「悪霊の業」がある。『原理講論』では「善神の業と悪神の業」「終末に起こる霊的現象」という項目の中で、こうしたことが説明されている。

 仏教における修行の一環として行わる瞑想は、「止観(しかん)」と呼ばれる。これは「止」の字が示す如く、なにか特定の対象を定めてそこに精神を集中し、心の動きを極力止めんとする瞑想法のことである。この瞑想法に熟達すると、人は強力な集中力を得ることができるようになり、「三昧(さんまい)」と呼ばれる精神状態に至るとされる。修行者はそのプロセスにおいて尋常ならざる恍惚感、多幸感、覚醒感を覚えることがある。こうした現象は瞑想修行者に多く見られることなのだが、一つの落とし穴として、そこで体験した尋常ならざる感覚、経験などに舞い上がり、この体験に執着し、瞑想に異常なまでに固執するようになる者がいるという。瞑想中に経験した恍惚感あるいは覚醒感などが強烈であればルほど、それをもって自身が行っている瞑想法の正しいことの証明とし、異常にのめり込んでいくのである。

 しかし、そのような経験や感覚自体は、自身が行っている瞑想法の正しさや、悟りに近付いていることを証明するものではなく、仏教の修行においてはこれを伝統的に「魔境」と呼んできた。要するに魔境とは、修行によってもたらされた特殊な精神状態に異常なまでに執着することを意味する。瞑想修行者の中には、自らのわずかな瞑想体験に基づいて、その瞑想法が絶対無二であり、またその体験へと導いてくれた師の指導法・指導内容は至上のものである、という思考を持つ者が現れる。その結果、自分が学んだ以外の瞑想を認めない、認められないという愚を犯す者が多く認められるというのである。瞑想によって浄められた「はず」の心が、自身が知っていること、信じていること以外のものを受け入れられなくなって、ときには攻撃性すら伴う、強い排他性を持つことがよくある。

 また、瞑想に長けている、その指導方法が優れているからといって、その人の人格が優れているとは必ずしも言えない。瞑想修行の指導者や長年の修行者の中には、高慢・傲慢な性格を醸成してしまっている者がしばしば見られることが、仏教者自身によって指摘されている。これでは何のために瞑想修行をしているのか分からない、本末転倒の状態に陥ってしまうので、そうならないように戒められているのであるが、実際にはこの落とし穴に陥ってしまう修行者は多いという。大神様はある意味でこうした「魔境」と闘っていたと言えるであろう。

 大神様の言葉の中に出てくる「正神邪神の戦い」という概念に近いものが、家庭連合の教理解説書である『原理講論』の中にも登場する。それは堕落論の第四節に出てくる「善神の業と悪神の業」という内容である。その説明は以下のようになっている。
「善神というのは、神と、神の側にいる善霊人たちと、天使たちを総称する言葉であり、悪神というのは、サタンと、サタンの側にいる悪霊人たちを総称する言葉である。善と悪とがそうであるように、善神の業と悪神の業も、同一のかたちをもって出発し、ただその目的のみを異にするものなのである。

 善神の業は、時間がたつにつれてその個体の平和感と正義感を増進せしめ、その肉身の健康をも向上させる。しかし、悪神の業は、時間がたつにつれて不安と恐怖と利己心を増進せしめ、また健康をも害するようになる。それゆえに、このような霊的な業は、原理が分からない人にとっては、それを見分けることが非常に困難であるが、時間が経過するに従って、その結果を見て、その内容を知ることができるのである。しかし、堕落人間は、神もサタンも、共に対応することのできる中間位置にあるので、善神が活動する環境においても、悪神の業を兼ねて行うときがある。また悪神の業も、ある期間を経過すれば、善神の業を兼ねて行うときがときたまあるから、原理を知らない立場においては、これを見分けることは難しい。今日において多くの聖職者たちが、これに対する無知から、善神の働きまでも悪神のそれと見なし、神のみ旨に反する立場に立つようになるということは、実に寒心に堪えないことといわなければならない。霊的な現象が次第に多くなる今日において、善神と悪神との業の違いを十分に理解し、これを分立することができない限り、霊人たちを指導することはできないのである。」(三色刷『原理講論』p.120)

 大神様が誕生し、「肚の神様」から啓示を受けた時代は、まさに地上にメシヤが誕生し活動を開始する「終末時代」であった。『原理講論』では、この時代に霊通する人が多く現れるようになるとしている。天照皇大神宮教の出現は、統一原理によればまさにこのような背景のもとに説明することができるのだが、こうした啓示を受ける人々は、ある試練を受け、過ちを犯しやすい傾向にあるという。このことは、復活論第二節の「終末に起こる霊的現象」という項目の中で説明されている。それは終末には、「あなたは主である」という啓示を受ける人たちが多く現れるため、このような人たちがしばしば、自分が再臨主であると誤解してしまう場合が多いということである。『原理講論』によれば、彼らは「各自の使命分野における再臨主のための時代的代理使命者として選ばれた」者に過ぎないのであって、再臨主自身ではない。しかし神は彼らを激励するために「あなたは主である」とか「あなたが一番である」という啓示を下さるので、自分が再臨主だと思って行動すれば、偽キリストの立場に立つようになるというのである。終末になると偽キリストが多く現れると預言された理由も、多くの霊通者たちが現れ、彼らが相互に衝突と混乱を起こすようになる理由も、まさにここにあるのである。

 大神様が行のプロセスにおいて「増上慢」「邪道」「邪神つき」といったものと闘い、人間の道を外れないようにしながら神行の道を極めようとしたのは、まさにこうした修行者として受けるべき普遍的な試練や誘惑との闘いをしていたのだと理解することができる。

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『生書』を読む10


第四章 神の御指導の続き:大神様と戦争

 天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るシリーズの第10回目である。前回から「第四章 神の御指導」の内容に入ったが、今回は当時日本が戦っていた戦争について大神様がどのように考えていたかについて考察を深めたいと思う。既に述べたように、大神様は「肚の神様」から啓示を受けるまでは、何か特別な思想的傾向を持っていたわけではなく、当時としてはごく普通の愛国的な婦人であった。大神様は反戦運動や左翼思想とは無縁だったようであり、日本が突き進んでいった軍国主義への道に対して、疑問を抱いたりすることはことはなかった。そして「肚の神様」が入った後も、戦争や当時の日本政府のあり方に対する批判的なことは語っておらず、お国のために熱心に働く献身的な国民であることに変わりはなかった。大神様が戦争について語っている言葉を取り上げてみても、戦争そのものやお国に対する批判は一切なく、むしろ戦時下にあって利己心を満たそうとする人々を批判した言葉が多い。

「真人間におなりなさい。神行して真人間になりなさい。日本中の人が真人間になったら、戦争は必ず勝つ。利己を捨て、本当にお国のお役に立つ真人間になりなさい。自分は戦争に負けるようなお手伝いばかりをしていて、神様の前になんぼう神風が吹きますようにと拝んでも、そんな利己の願いを聞いてくれるような神や仏はおりゃしない。」(p.57)

 これは日本が戦争に勝つか負けるかは日本の国力や戦略戦術によって決まるのではなく、一人ひとりの日本人が神の前に正しい真人間であれば戦争に勝つのだという論理であり、人々に対しては利己心を捨ててお国のために働くことを勧めていることになる。戦争そのものが悪であるとか、日本の戦争目的が間違っているというような発想はしていないことが分かる。我々はいまでこそ歴史を振り返ってそのような発想をするかもしれないが、当時の日本人の大多数は大神様のような考え方をしていたと思われる。その意味で、大神様の説かれた内容は当時の日本政府から見て決して「危険思想」ではなかった。

 大神様が昭和19年7月28日に、松本千枝という国民学校の教師に宛てた手紙には、そのころのもののとらえ方や考え方がよく表れているが、『生書』自身も「当時、教祖は肚がものを言い、その命令するままに行動しておられても、教祖自身の意識には何の変化もなく、またいかに強い正義感と国家観念を持った主婦であったか」(p.63)がよく分かると記している。

 大神様は単に愛国的な主婦であっただけでなく、一人息子の義人氏を出征させた「軍人の母」でもあった。一人息子の身を案じるのが母としての人情であろうと思うのだが、この点に関しても大神様は驚くほど模範的な「軍人の母」であったのである。
「義人も二十三歳の身をもって、骨を埋めるところを得たと、喜んでよこしています故、たといどこで骨になるとも、本人としてはそれが本望でしょう。
また私共も覚悟を決めて御国に差し上げたあの子です。この大戦争の中に生きて帰れるなど夢にも思っていません。一人の子供を御国に差し上げ、私らはもう家も財産もなにも惜しいとは思いません。
ただ欲しいものは、三千年の歴史を踏んだこの尊い皇国日本を、永久に世に輝かして残したいと、それのみ神にお祈り致しています。
今こそ我を捨て、一人残らず大君のおん為に尽くす時が参りました。」(p.65)
「わずか一人にもせよ、男の子を育て上げて、お国のおん為に、差し上げることのできた私共の仕合わせ、この上もない光栄だと、心から喜んでいます」(p.66)
「二十三歳の身をもって骨を埋めるところを得た、といってよこしましたあの手紙を見て、ひとりでに心から喜び、よく覚悟して出てくれた、それでこそこの母の育てたかいがあるぞ。」(p.67)
「捧げたる我が子に未練さらになし われも尽くさん国のおんため」(p.69)

 まるで「軍国の母」(作詞:島田磐也、作曲:古賀政男)を思わせるような見事な母の決意が語られている。もともと大神様は男勝りで竹を割ったような性格の人であったようだが、一人息子に対する未練を断ち切るさまも非常に潔いものであった。

 この手紙は、昭和19年6月15日から7月9日にかけて行われたアメリカ軍と日本軍のマリアナ諸島サイパン島における戦闘で、日本軍が全滅してほどなく書かれたものであり、手紙の中でも「サイパン島の玉砕のあの悲報」という言葉で触れられている。このサイパンの戦いに敗れることにより、これまで距離的に九州までしか爆撃できなかった中国成都からのB-29による爆撃が、サイパンを含むマリアナ諸島を基地とすることでほぼ日本のどの都市にでも爆撃が可能となった。その意味で日本にとって戦局が大きく不利に傾く出来事であったが、大神様はこの出来事を「神の試練」であると解釈している。すなわち、それによって日本人を奮い立たせ、一億国民が本当の日本人に帰るためだというのである。そして、ここでへこたれては日本人の生きるところはなくなり、いま頑張れば日本の国は永久に栄えるのだと鼓舞している。

 一方で大神様は、このような重大な戦争が行われているときに闇取引きをしたり私腹を肥やす人間がいることを非難している。そんなことをしていては戦争に勝てるはずはなく、戦争を利用してお金儲けをするようなことは、神の国では通用しないとまで言っている。そしてこの戦争の意義は、三千年の歴史を持つ尊い神の国である日本人の精神を取り戻すことにあると言っているのである。大神様は、神国日本が戦っていた戦争は「聖戦」であり、そのために日本人が犠牲になるのは当然の義務であるというという当時のイデオロギーを疑うことなく、そのまま信じていたことが分かる。

 この当時はまだ大神様自身が「肚の神様」が正神なのか邪神なのか判断しかねている状況であったので、こうした考えがその後も一貫したものであったかどうかは不明だが、少なくとも当時の大神様の思想は「平和主義(Pacifism)」ではなかった。一般に平和主義とは戦争や暴力に反対し、恒久的な平和を志向する思想的な立場を意味するが、特に規範的な立場から戦争の廃止や暴力の抑制を主張することに特徴がある。具体的には殺生の否定、良心的兵役拒否、軍事行動に寄与するような労務の拒否といった行動となって現れるが、上記の引用からも分かるように、大神様は戦争そのものを悪と思っているわけではないし、息子をお国のために捧げたことをむしろ誇りと思っているくらいであった。皇国日本の価値を信じ、戦争の勝利を願っていることから、日本が戦争に勝つことが神の願いであると信じていたことになる。

 文鮮明師はその生涯の後半において積極的に平和運動を展開し、世界平和実現のための組織を多く設立しているが、やはりその思想の根本においては「平和主義(Pacifism)」ではなかった。もちろん戦争を礼賛しているわけではなく、神の願う理想世界においては戦争や紛争は存在しないというのが文師の立場ではあったが、現実の世界に存在する戦争は、人間が堕落することによって不可避となった戦いなのであり、それを避けることによって問題が解決することはないと考えていた。むしろ、人類史上において起こってきた数多くの戦争は、神とサタンの戦い、善悪闘争史において、神の主権を復帰するためのプロセスであったと説くのが文師の立場である。

 『原理講論』の世界大戦論では、戦争における「天の側」と「サタン側」の区別の仕方が示されている。そこでは、ある民族、国家、宗教そのものが絶対悪であるということはなく、神の復帰摂理の方向と同じ方向を取るか、あるいは間接的にでもこの方向に同調する立場をとるときこれを「天の側」といい、それと反対になる立場を「サタンの側」という、とされている。『原理講論』においては、第二次世界大戦が行われていた当時、キリスト教国家を中心とし、民主主義を信奉していた連合国側が「天の側」だったのであり、キリスト教を迫害し、全体主義を信奉していた枢軸国側が「サタンの側」だったとされている。日本はこのとき枢軸国側におり、「サタン側のエバ国家」という位置にいたので、そもそも日本の勝利は神の願いではなく、日本の敗戦こそが天の摂理を進める結果であるとされているのである。

 大神様と文鮮明師は、どちらも思想的には「平和主義者」ではなく、現実世界における戦争は必ずしも悪ではなく、「聖戦」というものがあり得るとした立場においては一致していた。しかし、第二次世界大戦における日本の国の立場については、真逆の理解をしていたと言えるであろう。このことは、日本国の敗戦という現実をどのように受け止めたかという違いにもつながっていくことになる。

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『生書』を読む09


第四章 神の御指導

 天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るシリーズの第9回目である。今回から「第四章 神の御指導」の内容に入る。大神様が天地いっさいの神が天降られる生き神となられることについては、既に昭和19年3月に平井氏がご神託を受けてそれを直接大神様に伝えていたが、その時点では大神様はそんなつもりはないと否定された。ところが同じ年の5月4日になると、その前兆となる不思議な現象が起こり始めたのである。
「この日から自分以外の何かが、肚の中に入ったのであろう。肚の中でいろいろと、ものを言い出したのである。自分の意識は、はっきりしていて他のあるものが、肚の中で教祖に話しかけて命令するのである。」(p.48)

 大神様は最初その肚の中のものを邪神だと思い、それを落とそうとしたようである。肚の神様は自分のことを「とうびょう」と言われたので、平井氏にそのことを伝えると「蛇の性根のことだ。落としてあげよう。」と、とうびょう退散の祈念をやったが、効き目はなかったという。大神様の親戚にあたる寄林登喜氏は、大神様のことを心配して、津和野の神官で法力があることで有名な人がいるので、そこに行って落としてもらったらと進めたそうである。しかし、肚の神様は「日本国中、いや世界中わらじがけで探して歩いても、わしを落とす者はおりはしない。津和野の神主ぐらいで落ちるものか」と言ったという。このように、教祖に下った神様を、最初は素直に受け入れることができず、狐か狸の類ではないかと疑って落とそうとしたのである。

 この辺の展開は、天理教の教祖である中山みきの歩みとよく似ている。天理教の出発点は、中山みきに「元の神、実の神」と名乗る神が下り、「みきを神のやしろにもらいうけたい」と夫や家族たちに迫り、「もし不承知とあらば、この家、粉もないようにする」と言ったことにある。一度は承服した夫善兵衛であったが、これは神ではなくて単なる「憑き物」かもしれないと思い、狐憑きを落とす要領で松葉でいぶしてみたが、何の効果もなかったという。さらには村の役人仲間が憑き物を落とそうと荒療治をしたりしたが、効き目はなかった。神のやしろとなったみきは、中山家の財産をすべて売り払って貧しい人々に寄進しようとしたので、善兵衛はある日、刀を抜いてみきに迫り、「つきものならばさっさとおりよ。気が違っているなら正気に戻ってくれ」と叫んだという。それでもみきが折れなかったので、これは狐狸のしわざではなく、真実の親神であると受け入れたのである。このように、教祖に下った神は最初から歓迎されるのではなく、むしろ疑われ、疎まれ、迫害されるというプロセスを経ながら、次第に認知されていくのである。

 天理教も天照皇大神宮教も日本的一神教と言ってよい宗教であるから、その神はキリスト教的な絶対神、創造主に近い存在である。しかし、日本の宗教伝統にはそのような神のカテゴリーはないので、周囲の人々には理解できず、邪神か狐であろうと思って、お払いによってこれを落とそうとしたという共通の反応がここには見られる。

 『生書』に描かれている肚の神様は、なかなか面白いキャラクターである。ビタミンやカロリーの話をしながら近代的栄養料理を教えてくれたり、「水をかぶるばかりが行じゃない。水をかぶるのが行じゃったら、川の魚はみな天に上るはずじゃが、一生涯川にいても天に上れるんじゃない。」(p.53)というような頓智の聞いた話をする存在である。しかし、この時点で天照皇大神宮教の教えの中核的な部分は既に啓示されている。それはポイントだけ列挙すれば以下のような内容である。
①「しんこう」とは信じ仰ぐのではなくは、「神行」(神に行く)と書き、魂が清らかになって神に行くことを言う。
②神の肚と人の肚が正しく合うことを「合正」(がっしょう)と言う。
③少し名のある女が天から法の連絡をとって結するお経を「名妙法蓮華結経」と言う。
④神を知らない世俗の人々は蛆の乞食である。
⑤神行の目的は真人間になることである。

 肚の神様に出会うことによって大神様に訪れた変化は、人格の変容であった。これはいわゆるシャーマン型の教祖にはよくあることで、憑依しているときには人格が変わるのである。「自分の体でありながら、自分の意志どおりにならなくなった」(p.53)という言葉がその状況を端的に物語っている。もともと人間としての北村サヨ氏は非常に礼儀正しい謙虚な人であった。しかし、肚の神様が入ってからは、悪口は口に出し放題、旧知や肉親の人でも、肚の神様が気に入らなければにらみつけて挨拶もせず、立ち話もしなくなり、人を呼ぶのに「さん」とか「様」とか敬語を使わなくなったのである。そういえば、大神様が総理大臣に向かって「おい、岸!」と呼び捨てにした話は有名である。

 そればかりではなく、たいていの人に向かって「蛆の乞食」「ほいとの乞食」「国賊の乞食」とか呼ぶようになったのである。このように上から目線で人に対するようになるのは、神と一体となった時のカリスマ的教祖がもつ共通した特徴であると思われる。「北村さんは信仰にのぼせすぎて、神経(気違い)になった」というのがもっぱらの評判になったようで、これには人間としての北村サヨ氏は非常に悩み、いっそのこと腹かっさばいて死のうとまで思ったようである。

 大神様はある朝、青物集荷場に行かれ、上の方によい品を揃え、下の見えない所には悪い品を隠して積んである野菜を、片っ端からひっくり返して歩かれた、という話が出てくる。不正を働いている商売人や百姓に対してこっぴどく怒鳴られたということである。この物語の真偽を疑うわけではないが、これもまたキリスト教の『新約聖書』の「宮清め」の出来事を彷彿とさせる物語である。以下にその部分を引用する。
「それから、彼らはエルサレムにきた。イエスは宮に入り、宮の庭で売り買いしていた人々を追い出しはじめ、両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえし、また器ものを持って宮の庭を通り抜けるのをお許しにならなかった。そして、彼らに教えて言われた、「『わたしの家は、すべての国民の祈の家ととなえらるべきである』と書いてあるではないか。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」。祭司長、律法学者たちはこれを聞いて、どうかしてイエスを殺そうと計った。」(マルコ11:15-18)

 この物語において、イエスが宮清めを行った理由は、神殿は本来は祈りの場であるべきなのに、商売の場にされてしまっていることに対する怒りであった。すなわち宗教的な動機ということになるが、大神様の怒りはより道徳的なものであり、商売の不正に対する怒りであった。しかし、イエスの物語においても、神殿の中でなされる商売が利権とつながっており、神殿の礼拝に必要なものを販売する売り場では、いけにえの動物や鳥などが市価よりも高めに売られており、両替の手数料も割高に設定されていたので、「宮清め」の動機にはそれに対する怒りも含まれていたと言われている。その意味では、この二つの物語には共通点があるのである。

 大神様が人々に対して「蛆の乞食」「ほいとの乞食」「国賊の乞食」などど上から目線で悪口を言うようになったという話も、イエスの律法学者やパリサイ人たちに対する暴言ともいえる非難と共通するところがある。
「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈りをする。だから、もっときびしいさばきを受けるに違いない。偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。」(マタイ23:13~17)
「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の碑を飾り立てて、こう言っている、『もしわたしたちが先祖の時代に生きていたなら、預言者の血を流すことに加わってはいなかっただろう』と。このようにして、あなたがたは預言者を殺した者の子孫であることを、自分で証明している。あなたがたもまた先祖たちがした悪の升目を満たすがよい。へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか。」(マタイ23:29~33)

 常識的には、イエスはかなりひどいことを言っていることが分かる。しかし、それを通して聖書が言いたいのは、イエスが非人格的だったということではなく、偽善者に対する神の義憤がイエスの口を通して語られているということだった。「蛆の乞食」にしても、「へびよ、まむしの子らよ」にしても、神の視点からこの世の人々を見たときに、どのように見えるのかを率直に表現している言葉であり、世俗的な観点から「暴言だ」とか「失礼だ」とかいう評価を超えた次元の発言である。教祖の言葉とは、まさにそのようなものであろう。

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『生書』を読む08


第二編 救世主になられるまで 第三章 火事と日参詣で

 天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るシリーズの第8回目である。今回から「第二編 救世主になられるまで」の内容に入り、その中の「第三章 火事と日参詣で」の内容を扱う。それまでは働き者で人望が厚かったとはいえ、ごく普通の愛国的な婦人であった大神様が、宗教の世界に目覚めていく過程がこれから描かれるわけである。と言っても、大神様はもともと信心深い人物であり、寺の世話をよくし、念仏を唱える生活を送っていた。しかしそれはあくまでも信徒としての行であり、教祖として教えを説いていたわけではない。それはまだ「肚の神様」との決定的な出会い、神託というものに触れていなかったからである。

 大神様を神体験へと導くきっかけとなった出来事は、火事であった。それは昭和17年7月22日の夜明け前のことであった。大神様が気付いたときには離れ屋敷が物凄い勢いで炎上しており、手遅れの状態であった。これを見た大神様は清之進氏に、「もうだめだ、お父ちゃん。裸で生まれたんじゃから、裸になると思やあよい。」(p.33)と語ったとされる。なんとも潔い発言だが、この言葉は旧約聖書に出てくるヨブの言葉によく似ている。
「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(ヨブ記1:20)

 これはヨブの身に災難が起きたときの言葉であり、状況とその受けとめ方が非常によく似ているだけでなく、言葉の使い方も似ている。私はかねてから天照皇大神宮教にはキリスト教の影響があるのではないかと思ってきたが、ここにもその片鱗を見ることができる。

 幸いにも火事は離れ屋敷だけに留まり、母屋は無事であったが、このことが大神様に与えた衝撃は大きかった。それは何よりも先祖から受け継いだ財を焼いてしまったということと、世間を騒がせてしまったことに対する責任感からくるものであった。こうして悶々としていた大神様が相談に行ったのが、平井憲龍という加持祈祷師であった。この人は伏見官幣大社稲荷神宮付属講社余田支部という小さな祠で加持祈祷を行う人であった。系列としては京都にある伏見稲荷大社に属することになるが、これはおそらく政府の宗教政策上どこかの傘下に入らなければ活動できなかったという事情によるものだと思われる。本質的には占いや呪術という性格のものだが、表向きは稲荷神社に属していたということだ。彼は「その法力が当世第一という町の評判」だったということであるから、占いが良く当たるということで大神様も相談に行ったのであろう。もとより日本は神仏習合の国であるから、家の信仰が真宗であるからと言って、稲荷神社の祈祷師に相談に行くことに抵抗はなかったであろう。むしろ、占いが当たることの方が重要であった。

 平井氏は、今回の火事の原因は放火であり、北村家に恨みを持つ近所の人が犯人であるという神のお告げを伝えた。そして「その犯人は、あなたが一年間月参りをされたら出てくる」(p.36)とも言ったのである。正義感と負けん気が強い大神様がこれを聞いて思ったのは、「神仏に掛けて、必ず事の黒白を明らかにしよう」(p.36)ということであった。そのときから大神様は氏神様の八幡宮に丑の刻の日参詣りを始められた。

 火事と日参詣でに関する物語のポイントは「動機の転換」である。平井氏から家事が放火によるものであると告げられたときに大神様の胸に去来した思いは、正義感からくる悪に対する裁きであっただろう。放火は重大な犯罪であり、それによって多くの財産が失われたわけであるから、犯人はそれに対する罰を受けなければならない。生来正義感が強く、善悪をはっきりさせなければ気が済まない性格の大神様は、犯人を白日の下にさらし、裁きを受けさせなければならないと思ったのである。「早く放火の黒白をつけ、あの焼けたるあらゆる物におわびをしたい、また今の世の人のいましめとしたい。」(p.39)という言葉からも、犯人が見つかり、正当な裁きを受けることによって決着をつけたいという思いがあったことが分かる。同時に火事の原因が自分の火の不始末によるものではないことを明らかにして名誉を回復したいという思いもあったであろう。犯人に対して損害賠償を請求しようと思っていたかどうかは、『生書』には記されてないので分からない。いずれにしても、日参詣りを行った動機は犯人探しという半ば世俗的なものであった。

 ところが修行を行う中で大神様の心境は次第に変化していく。一言でいえば、犯人探しという特定の目的のために行っていたお参りが、次第にそれ自体に喜びを感じるようになっていったのである。その頃の大神様の日記には行に対する感想が記されている。
「なんだか真のしんこうというものの味がわかったような感じがした。心がすがすがしく、あらゆるものが、みな自分の味方であるような感じがして、とても楽しく、なんだか人の世界からぬけ出て、神の世界にでも登るような、なんともいえない新しい気持ち一ぱいで、帰りはお稲荷様にお参りして帰った」(p.37-38)
「この頃は水をかぶる度ごとに、身も心も清らかになり、すがすがしいよい気持、世の中のこと何一つ思いがなくなって、ただ神様におちかい申す、この身体も心も清らかになれ、という気持ばかりが一ぱいで、なんの余念もなくなった。…夢のように、ぎいっと、神前の戸の開くような音が聞こえた、と思うと不思議なお知らせがあったような思いがした、と思うと我に帰ったような気になった。」(p.38-39)

 このように日記の中では大神様が丑の刻の日参詣りの中でなんとも言えない歓喜を感じるようになり、それが増していく様子が描かれている。一方でこうした行を一年間続けても、犯人は出てこず、放火の黒白はつかなかった。こうした中で、大神様の関心は犯人探しから宗教的な事柄にシフトしていくのである。それは平井氏の影響によるものでもあった。『生書』には以下のように書かれている。
「一方、教祖は平井氏に接せされて、霊界のことに異常の関心を寄せられるようになった。教祖は火事があった前から、祖先は生きたものとして接しられたが、平井氏のところに行かれ始めてから、霊界の実在をつくづく感じて、それを徹底的に探求しようと志され、暇を見ては平井氏のところに通われるのであった。」(p.41)

 最終的には行の「動機の転換」は、放火の犯人を許すことによって訪れた。当時田布施町の隣町の平生署に清水嵐という警部補があり、この人物は大神様から子供のようにかわいがられていたのだが、彼があるときふと「放火の犯人を許されたら」と言ったのである。これをきっかけに、行の動機は完全に転換された。
「教祖は、まだどこか頭の中に残っていた放火犯人のこともきれいに捨てられ、自分がこれだけ行ができたのも、帰するところ火事があったればこそと、放火犯人に対しての恨みを感謝に変えられたのである。そして丑の刻参りも、水行も、ますます一心に続けられた。」(p.43)

 姑のタケさんから受けた酷い嫁いびりを修行にかえてしまわれたように、放火によって財産を失うというネガティブな出来事も、大神様は自分が行を始めるきっかけになったと意味づけて、感謝にかえてしまった。これはことわざで言えば「禍を転じて福と為す」ということになろうが、宗教の世界ではよくある発想である。むしろ、恨みを恨みのまま残しておいたのでは教祖のストーリーとはなりえないであろう。人間の悪なる所業も、最終的には見えざる神の手によるものであると昇華させてこそ、宗教的なストーリーになるのである。

 結果的には、火事の一件は大神様に修行の機会を与え、教祖としての霊性を磨くためのプロセスとなった。修行を行う中で大神様の動機は転換され、一心不乱に神を求める方向へと精神を収斂させていったのである。

 このころ、平井氏は大神様のことでご神託を得ている。昭和19年3月のことである。
「北村さんは、この講が始まって以来ない不思議な方じゃ。天地いっさいの神が天降られて、この世から生き神になられる。今まで因縁が切れていなかったので、世のため人のために尽くされたことが、かえって仇となり、人から恨まれるようなことが多かったが、今度はそれが一度に花を咲かせ実を結び、みんなから慕われる方になられる。」(p.44-45)

 これに対して、大神様は即座に「わしはそんな者になろうとして、行をしておるのではない。」(p.45)と答えられている。大神様自身にはまだ自覚がなくとも、平井氏が神からの啓示を受けて、大神様がやがてなるべきものについて予言をするという形になっているのである。大神様が「肚の神様」と出会うのは、それからもう少し後のことであった。

 この平井氏と大神様の関係は新約聖書における洗礼ヨハネとイエス・キリストの関係に似ている。イエスは一度はヨハネのもとに行き、バプテスマを受けるが、これはイエスがヨハネに弟子入りするのと同じような行為である。しかしヨハネは後にイエスについて、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。『わたしのあとに来るかたは、わたしよりすぐれたかたである。わたしよりも先におられたかたである』とわたしが言ったのは、この人のことである。」(ヨハネ1:29-30)と語っている。平井氏もまた、一時的には大神様を指導する立場に立ったが、後には大神様を証しする立場に立ったのである。

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『生書』を読む07


第二章 主婦としての続き

 天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るシリーズの第7回目である。前回は大神様が姑のタケさんから様々な試練を受けながらも、最終的には屈服させた歩みを、統一原理における「長子権復帰」や「サタン屈服路程」と比較して解説した。これはある意味で歴史的な義人、聖人、教祖たちが歩んだ典型路程であり、大神様も家庭的な次元でその道を行ったのであると理解できる。

 『生書』は、救世主になられる前のその後の大神様の歩みを簡潔に記しているが、その姿は「模範的な日本国民」と言ってよいものであった。まず個人においては大変信心深い人であった。北村家は元来真宗であったが、大神様はその寺の世話をよくし、仏壇の前で毎日念仏を唱える生活をしたという。次に家庭においては模範的な親であった。一人息子の義人氏に対しては、甘やかすことなくしっかりとした教育を行った。さらに大神様には進取の気性があったようで、早くから自転車に乗り、料理や洗濯の新しい知識を取り入れ、発動機をはじめとする農業の新しい技術も積極的に取り入れていたようである。古い伝統に縛られず新しいことに挑戦していくのは、一つの教祖的な気質であると言えよう。

 『生書』は大神様が主婦として歩んでいた時代に、満州事変、五・一五事件、二・二六事件、日支事変などが起こり、日本が戦争の泥沼に突入していったことを伝えているが、あくまでも客観的な時代背景として伝えているだけであって、戦争や当時の日本政府のあり方に対する批判的なトーンは存在しない。大神様は反戦運動や左翼思想とは無縁だったようである。むしろ、お国のために熱心に働く献身的な国民であったと言える。

 ここで『生書』は「新体制運動」に触れている。この運動は、昭和15(1940)年に近衛文麿を中心に展開された、挙国一致の戦時体制の確立を目的とした国民組織運動であり、日本型のファシズム体制を確立させた運動として、批判的に語られることもある。しかし、大神様はこの運動によって推進された隣組の活動や婦人会の活動に熱心に参加している。大神様は西田布施の婦人会の副支部長として、婦人会の仕事を積極的に行い、町の顧問や参事にもなるくらいに人望が厚かったという。これは家庭のみならず、地域社会においても「長子権を復帰」していたということである。
「この頃、教祖はただお国のために、純良なる一日本国民として、婦人会の役員として、本当に献身的に銃後の諸活動を率先してやられたのである」(p.26)と書かれているように、日本が突き進んでいった軍国主義への道に対して、疑問を抱いたり、反対したりすることはなかったようである。このことから、大神様は「肚の神様」から啓示を受ける以前には、何か特別な思想的傾向を持っていたわけではなく、当時としてはごく普通の愛国的な婦人であったことことが分かる。

 当時の大神様には思想性こそなかったものの、個人の性格においては、教祖としての片鱗が窺えるところが多い。筋の通った有言実行の人であり、偉い人に対しても臆することなく、正義感が強く、不正に対しては妥協しない性格であったという。この辺の記述は、文鮮明師の幼少期の性格とそっくりである。

 『生書』は元獣医総監の藤井中将の大神様に対する評価として、「もし、あの人が男に生れておれば、総理大臣か、元帥か、いずれにしても最高の地位につく格の人物だ。」という言葉を紹介している。このくだりも、幼少期の文鮮明師に対する村人の評価と似たものがある。

 『生書』は「主婦として」の最後の部分を以下のように締めくくっている。
「飽くまで国家観念が強く、正義感の強い、実行力に満ちあふれた男勝りの女性だった。この一日本女性が、太平洋戦争を通じいかなる人物になられ、敗戦という現実の下に、いかに飛躍的な足跡を社会、人心の上にいたされるであろうか。」(p.30)

 この文章から分かるのは、大神様が教祖として立ち上がっていくプロセスにおいて、日本の国が戦争に負けたことが重要な役割を果たしているということだ。国家観念が強く、お国のために滅私奉公してきた正義感の強い女性が、敗戦という現実に直面したとき、これまで信じてきたことが崩れ去っていくという、何か重要な内面の転換を迫られるような出来事となったことは確かだろう。そうした絶望感、喪失感を超えて、新しい正義を探し求めていく中で、教祖として立ち上がっていったのではないかと推察される。

 島田裕巳は、著書『日本の10大新宗教』の中で、天照皇大神宮教は極めて戦後的な新宗教であったと解説している。「戦前においては天皇は現人神とされ、崇拝の対象となっていた。その現人神が支配する日本という国は、『神国』とされ、神国の行う戦争は『聖戦』と位置づけられた。ところが、神国は聖戦に敗れ、一九四六年一月一日、天皇は『人間宣言』を行った。突然、神国の中心にあった天皇が神の座を降りることで、そこに空白が生まれた。サヨの肚に宿った神が、天照皇大神宮を称したのも、その空白を埋めようとしたからである。」(p.90-91)「日本の敗戦と天皇の人間宣言という出来事が起こることで、そこに生じた精神的な空白、現人神の喪失という事態を補う方向で、その宗教活動を先鋭化させた。天皇に代わって権力を奪取しようとしたわけではなかったが、空白となった現人神の座を、生き神として継承しようとした。」(p.102)

 島田の解釈が教団の自己理解と一致するものなのかどうかは分からないが、少なくとも敗戦という出来事が大神様の内面に大きな影響を与え、天照皇大神宮教を立ち上げていく背景となったことは間違いないであろう。

 それでは文鮮明師にとって「愛国心」や「終戦」はどのような意味を持っていたのであろうか? 大神様が日本人として、祖国に対する純粋な愛国心を持っていたのと比較すると、文鮮明師の愛国心はより複雑である。文師が誕生した1920年当時、韓国は既に日本に併合されていたので、文師は法的には日本人であった。しかしながら、文師の愛国心は日本に向かっていたのではない。日本によって蹂躙され、植民地化された韓民族に対する「民族愛」として存在していたのである。どんなに国を愛そうと思っても、それは国としての体をなしていないものであり、やがて日本から独立するであろうまだ目に見ぬ祖国に対する愛国心という複雑なものであった。

 文鮮明師は、1935年4月17日にイエス・キリストから啓示を受け、イエスが成し遂げられなかった仕事を代わりに成し遂げる決意をしている。これが文鮮明師の「召命体験」であり、それは終戦よりも10年も前の出来事である。したがって、終戦そのものが文鮮明師が教祖として立ち上がっていくための内的な刷新をもたらしたのではなく、そのはるか以前から文師はメシヤとしての自覚を持っていたことになる。終戦は、神の召命や個人の内的覚醒よりもむしろ、神のみ旨を成就する上での環境的要因を整える出来事として理解されているのである。

 文鮮明師にとって韓国を日本から独立させることは、神のみ旨を進める上で重要なプロセスであると位置づけられていた。そのため、文師は日本の早稲田大学に留学していた時代に韓国人留学生たちと共に抗日独立運動をしていたし、そのことのゆえに戸塚警察署で取り調べを受けた。さらに韓国に帰国した後も、京畿道警察部で取り調べを受け、日本留学時代の抗日運動の活動内容と関連者の名を吐けと迫られ、拷問までされている。その意味では文鮮明師にとって日本は「怨讐国家」であり、そこから独立すべき「韓民族の国」に対する愛国心に突き動かされていたことになる。

 したがって韓国人である文師の視点からは、第二次世界大戦で日本が敗戦したことは、大神様とは全く逆の意味を持っていた。日本人にとって終戦は敗北であり、挫折であり、天皇の人間宣言は現人神の喪失であったが、韓国人にとってそれは日本の植民地支配からの解放であり、「光複」(奪われた主権を取り戻すこと)であった。したがって、日本の敗戦と植民地支配の終焉は、悪の時代の終わりと新しい希望の時代の到来という意味を持っていたのである。

 『原理講論』においては、韓国が乙巳保護条約から第二次大戦の終了まで40年間にわたって日本の植民地支配を受けたのは、古代イスラエル民族が40数に該当する苦難の道を歩んだのと同様に、韓民族が選民となるために必要な蕩減条件であったととらえている。韓民族が40年にわたる苦役路程を終了したのが1945年8月15日であるということは、そこから新しい神の歴史が出発するということになるのである。

 このように、文鮮明師にとっての「愛国心」や「終戦」は、大神様とはほぼ真逆の意味を持っていたということが分かる。

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『生書』を読む06


第二章 主婦としての続き

 天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るシリーズの第6回目である。第4回から「第二章 主婦として」の内容に入った。前回までは大神様が姑のタケさんから受けた様々な試練の物語を紹介し、そのことが教祖伝において果たしている役割を解説した。すなわち、試練が教祖の信仰を固くし、人格を精錬することにより、万人を導く指導者としての資格を得るためのプロセスとなるのである。こうした試練によって教祖は人々を引き付けるカリスマを得るようになる。しかし、ただ単に試練を受けるだけで教祖としてのカリスマが得られるわけではない、そうした試練を乗り越え、さらには試練を与えた人を屈服させてこそ、真の勝利者となることができるのである。そうしたあり方は、大神様の北村家における歩みにも表れている。

 勝利の第一段階としては、大神様が過酷な姑のいじめにもかかわらず実家に帰らず、嫁としての務めを2年、3年と続けられたことが挙げられる。それまでの嫁は半年も経たないうちに音を上げて帰ってしまったのだから、それだけでも大したものである。しかも百姓の仕事を主人以上にこなしながら、大正11年には一人息子の義人氏を出産している。これがまずは嫁として婚家に定着するという勝利の段階である。

 やがて月日が流れると、大神様は農事においても家事においても北村家の大黒柱となっていく。『生書』には、「主人を立て、そして姑に仕え、義人氏を養育し、一町以上の田畑を立派にこなし、家の柱として何の欠点もなく、主婦としての行を務められたのである。」(p.18-19)と記されている。この辺は天理教の教祖である中山みきの歩みにも似ている。みきは13歳という若さで中山善兵衛に嫁いだが、義理の父母にも夫にもよく仕える見事な若妻であったと伝えられる。家事に加えて、男の仕事とされていた田植えや畑仕事なども率先してやり、人の倍も働いたという。奉公人たちの評判も良かったので、みきは16歳で中山家の所帯をまかせられることになる。このように、嫁ぎ先で誰よりも熱心に働き、嫁として認められていくというプロセスは、日本の新宗教の女性教祖の物語においては一つの典型路程となっているように思われる。この段階から、教祖は周囲に影響を及ぼす主体として頭角を現すようになるのである。これは大神様と姑のタケさんの関係においても同様であった。
「十余年間姑に、はい、はいで仕えてこられたが、その頃から、そろそろ姑さん教育を始められた。もう老婆となられた姑のわがままを、手玉に取りだされたのである。機嫌よく仕えられると同時に、間違いは正され、たまにはそのわがままを、がんとやっつけられるようになった。」(p.18)

 姑のタケさんは90歳近くになるともうろくし、手足もきかなくなってきたという。
「昭和十五年、他界されるまでの二、三年間、下のものはたれっ放し、言われることも、すっかりとんちんかんになられた。教祖はこのような姑に対し、嫌がることもなく、下の世話から、何もかもを真心をもって看護をされたのである。

 その状態はおいおいひどくなり、それまで肌身離さず持っておられた貯金の通帳や、財布の守りができなくなって、最後にはそれを実子の清之進氏には渡されずに、嫁サヨさんに渡されたのであった。

 初めは仇のように思っていた嫁に、とうとう命よりも大事な品々を譲られたのである。そして昭和十五年十一月十日、九十歳で死なれた。」(p.19-20)

 大神様自身が、この姑タケさんを「行の相手」として位置づけており、「あの姑あって、初めてわしの行ができ、わしの今日があるのだ。」「恨みが感謝に変わった時、初めて神行の道に入るのだ」(p.20)と語っている。つまり、姑のタケさんによる試練は、自らの位置を確立するために必要なプロセスであったと理解しているのである。

 宗教団体の教祖は、このような試練を乗り越えた勝利したという物語を持っている場合が多い。統一原理においては、このような試練は神に選ばれた中心人物が経なければならないプロセスであるとしており、それはカインとアベルという役割の中で展開されると理解している。

 カインとアベルは旧約聖書におけるアダムの二人の息子の名前だが、この言葉は聖書の人物の固有名詞という以上の意味で統一原理においては用いられている。アダムの二人の息子の中でカインは兄の立場だが、それは悪やサタンを表示する立場である。一方、アベルは弟の立場だが、それは善や神を表示する立場である。長子であるカインが悪を表示しているということは、堕落した世界においては悪がより優位な立場にあり、サタンが主権を握っていることを示している。この兄と弟の立場が逆転することによって、サタンから長子の特権を復帰し、善悪を逆転させることが復帰摂理において必要とされているプロセスなのである。このことを統一原理では「長子権復帰」とか、「サタン屈服路程」と呼んでおり、アベルの立場に立った中心人物が歩まなければならない典型路程であるとしているのである。

 アダムの家庭においては、アベルはカインに殺害されることによって長子権復帰に失敗した。ノアの家庭においては、次男の立場にあったハムはノアと心情一体化することができなかったため、アベルの位置を離れてしまった。創世記においてアベルの立場で初めて長子権復帰に勝利した人物は、アブラハム家庭におけるヤコブである。

 ヤコブは兄であるエサウから憎まれ、一度は殺されそうになるが、ハランに逃げて叔父のラバンから何度も騙される試練を受け、最終的には兄エサウをも屈服させることによってアベルの位置を勝利したのである。神の摂理において中心人物に選ばれた者は、モーセも、イエスも、みな民族の前にアベルの立場に立った指導者であった。彼らはカインである民族から試練を受け、彼らを愛と人格で屈服させなければならなかった。これは武力や権力によって強制的に屈服さるのではなく、アベルはカインの前に「僕の僕」から出発して、僕となり、やがては互いの位置を逆転させて主人の立場に立たなければならない。このように愛と人格によってカインを自然屈服させる道を文鮮明師は「アベルの正道」と呼んでおり、以下のように語っている。
「アベルは、そのサタン世界の底辺に住む僕のような人たちに仕えるようにして、感化させなくてはならないのですから、僕の歴史にいま一つの僕の歴史を積み重ねなくてはならないのです。しかしその場合、サタン世界の僕たちと、天の世界のアベルのどちらがより悲惨な道を歩んだのかを問われる時に、アベルがアベルとして認定されなくてはならないのです。その時にサタン世界の僕たちは、『何の希望ももてないどん底の中にあっても、あなたは希望を捨てることなく、力強く私を支えた』と認めるのです。アベルは『いかに耐え難い時も、信義の理念をもち、愛の心情をもち、天国の理想をもっていたから、最後まであなたを信じて尽くすことができました』と、言えるのです。そこで『地上で自分の生命も惜しまず、愛と理想をもって犠牲的に尽くしてくれたのはあなたしかいません。私は誰よりもあなたを信じ、国よりも世界よりも、あなたのために尽くします』と、なるのです。その認められた事実でもって、初めて『自分はアベルであり、あなたはカインである』と言うことができるのです。アベル・カインの関係はその時から始まるのです。」(『摂理から見たアベルの正道』光言社、p.9-10)
「アベルは、カインに尽くしたあとにアベルとなるのです。互いに相手を尊重しなければなりません。尊重されるためには先に、カインとなる人に尽くすのです。誰よりも信仰心が篤く、誰よりも愛の心情が深く、誰よりも理想的であるという模範を示し、自然屈服させたあとに、カインたちのほうから、『我々の代身となって指導してください』と願われた時、『はい』と答えてアベルになれるのです。」(同書、p.37)

 このような路程は、聖書の中の中心人物のみならず、文鮮明師御自身が歩まれた道である。一つの例としては、北朝鮮の共産政権下の興南監獄において、文師は過酷な重労働を誰よりも率先して行い、「模範労働賞」を授けられただけでなく、命がけで従ってくる弟子を獄中で復帰している。これは文師の愛と人格によって周りの囚人たちが感化され、屈服したということである。

 統一原理の観点から言えば、大神様は北村家において「アベルの正道」を歩み、自らを目の敵にして迫害していた姑のタケさんをカインとして自然屈服させ、北村家における長子権を復帰したことになる。これをもって大神様は北村家における信仰の中心人物として立つことができたので、北村家を基盤として天照皇大神宮教を立ち上げることができたのである。

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『生書』を読む05


第二章 主婦としての続き

 天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るシリーズの第5回目である。前回から「第二章 主婦として」の内容に入った。大神様は大正9年11月に田布施の北村清之進氏と結婚しているが、姑のタケさんは部落でも有名な吝嗇家(ケチ)であった。本来なら夫である清之進氏が妻を守るべきであろうが、彼は実直ではあったが小心者で、母タケさんの言いなりになる人であったため、守ってはくれなかったようだ。いよいよ大神様の苦難の路程が始まったわけだが、今回はこの試練が持つ意味について分析したい。大神様はタケさんに仕えた当時のことを説法でよく話されたそうだ。
「わしは、三年間に六人も嫁を取り替えた家に嫁に来たんじゃ。この家の婆さんは我利我利亡者で、五月の田植え前に嫁を取って田植えが済むと、食わすんが惜しい、寝かせるんが惜しいいうて嫁をいびり出す。秋の借り入れ前に嫁を取って、借り入れが終わると、また帰らす。食わせもせん、寝かせもせん……

 秋の夜長に、わしは三時間と寝せてもろうたことはありゃせん。腹一杯食わせてもろうたのは、かぼちゃのすえかかったのを、これを食いなはれ、と言うて勧められたことがたった一回だけじゃったよ。あんまりひもじゅうて蜜柑の皮まで食うたこともある。」(p.15)
「朝は早くから、夜は真っ暗になるまで、野に山に、夕食が済んで十時ごろから夜なべ仕事に俵を編まされる。二枚編むまでは寝られない。もうできたか、と言うては姑が見に来る。泣くようにつらくても、じっと我慢して、激しい疲れや睡魔と闘いながらそれをやられる。翌朝また早く起きなければならない。起きる時、頭の中が破れ鐘のようにガンガン鳴る。これで体がもてるだろうか、と思われることもあった。」(p.16)

 宗教の教祖伝には、教祖がさまざまな試練を体験し、それを乗り越えて勝利者となっていく姿が描かれることが多い。宗教は通常、悩める人々の魂を救済するために存在するので、崇敬の対象である教祖が人々と同じような試練、あるいは常人であればとうてい乗り越えることのできないほどの過酷な試練を乗り越える姿が示される。そしてそれは、信者たちが人生における様々な試練を乗り越えるためのモデルとされることが多いのである。信者たちは自身の試練に立ち向かうとき、教祖が歩んだ試練の物語を励みとし、参考にしながらそれを乗り越えて行こうとする。こうした試練の中でも分かりやすいのが空腹や肉体的な苦痛であり、大神様の歩みにもそうした試練が示されている。

 旧約聖書においては、モーセは40日間荒野で断食をしている。新約聖書においてはイエス自身が40日間の断食を行っているし、荒野でサタンの誘惑に打ち勝っている。そして何よりもイエスが十字架刑という試練を乗り越えて勝利をしたことが、キリスト教における救いの源泉となっている。イエスは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(ルカ9:23-24)と言われた。これはまさに教祖が歩んだモデルにしたがって、弟子たちが歩むべきだという教えである。釈迦も悟りに至る過程において、6年間にわたる超人的な修行を行っている。断食をはじめ、他の誰よりも苦しい修行を行った後に瞑想し、悪魔の誘惑に打ち勝って悟りを開いたという話は、イエスに通じるものがある。仏教の僧侶たちも、釈迦に倣って修行をする。

 こうした教祖たちは基本的に正しい人であったにもかかわらず、なぜ過酷な試練を受けなければならなかったのかと言えば、それは彼らの信仰を固くし、人格を精錬するためであり、万人を導く指導者としての資格を得るためであった。したがって、使命の大きな人物であればあるほど、試練の激しさも増していくことになる。神は特殊な責任を任せようとする人に対しては、最も厳しく鍛錬される。こうした試練に勝利することによって、教祖は人々を引き付けるカリスマを得るようになるのである。

 大神様が人生において歩んだ道は、天理教の教祖である中山みき(1798‐1887)や大本の教祖である出口なお(1837‐1918)の系列に連なる、日本的な女性教祖の典型路程であると言える。日本には普通の女性がある日突然「神憑り」を体験してシャーマン的霊能者となり、新宗教を創設するという例が多いが、それは苦難の半生と更年期の神憑り体験、修行による霊威の強化というパターンを経ることが多い。大神様における苦難の半生の重要な構成要素の一つが、姑であるタケさんから受けた試練であったが、天理教の教祖である中山みきの試練は主に夫である善兵衛によってもたらされたものであった。

 中山みきは13歳という若さで中山善兵衛に嫁いだが、その結婚生活は苦難の多いものであった。中山家はもともと裕福な家で、地主の若旦那として育った善兵衛はお人好しだがだらしなく、家業にあまり身を入れなかったいう。そのうえ女性にもだらしなかったらしく、みきが完璧な嫁として身を粉にして働いたにもかかわらず、善兵衛が妾を持ったことでみきは衝撃を受けるようになる。それでもみきは自分を押し殺して完璧な嫁の役割を果たすため、夫への怨念、妾への嫉妬の気持ちを抑えなければならなかった。みきは夫の妾である下女に毒を飲まされ、危うく死にかけるのであるが、「神さまが私のお腹の中を掃除してくれた」と言って許したという逸話が残されている。この時代の日本の女性たちは程度の差こそあれ同じような試練を経験していたと思われるが、こうした過酷な試練の中でも嫁として身を粉にして働いたという話は、大神様の路程とよく似ている。それまで仏教の信仰が篤かったみきであったが、こうした自分の境遇を仏教は救ってくれないことに絶望して新しい信仰を求めるようになるのである。みきは夫善兵衛との間に、一男五女(秀司、おまさ、おやす、おはる、おつね、こかん)を授かるが、おやすとおつねが夭折しており、子供を失うという体験もしている。

 日本の新宗教の信者には女性が多い。特に未婚の若い女性よりも既婚の中高年の女性が多いことを考えると、大神様や中山みきはこうした女性信者たちが自己を投影しやすく、試練の乗り越え方の指針を与えてくれるものであると思える。『生書』における主婦としての大神様のストーリーも、天照皇大神宮教の女性信者たちに多くの示唆を与えてきたのではないだろうか。

 一方で、世界平和統一家庭連合の創設者である文鮮明師は男性であり、教祖として通過した試練の内容はモーセ、イエス、釈迦などの男性教祖の歩みに通じるものがある。夫との関係、嫁姑の関係で苦労した女性が更年期に神憑りによって新しい宗教を拓くという日本の女性教祖のパターンとは、試練の内容が異なっているのである。

 文鮮明師の生涯を伝える「主の路程」と呼ばれる講義の中でも、青年期に文師が通過した試練の内容がかなり詳しく描写され、それは文師のメシヤ性を示すストーリーとして信徒たちに受け取られている。初めの試練は、日本留学中に抗日独立運動に加わったことが原因となり、帰国後に京畿道警察部で日本の官憲から受けた拷問である。水責め、飛行機乗り、木の棒を膝の内側にして正座をさせる、指に電極をはめて電流を流すなどの激しい拷問が行われたが、文師は独立運動の同志の名前を最後まで吐かなかったという。

 次の試練は、文師が北朝鮮に渡って宣教活動を行った際の国家権力からの迫害である。文師は「南韓から隠密に派遣されたスパイ」であると疑われ、1946年8月11日に大同保安署に拘束された。「虚偽の言説を流布して社会秩序を乱した」として、革の鞭で打つ、殴る蹴る、三日間眠らせず、食べさせないことを繰り返すなど過酷な拷問を受け、同年11月21日に半死体同然の状態で釈放された。それでも宣教活動を継続した文師は1948年に再逮捕され、「社会秩序紊乱罪」で5年間の強制労働の刑を宣告されるのである。文師が送られたのは北朝鮮政権が政治犯・思想犯を収容するための強制収容所として活用していた興南監獄であり、そこはどんなに屈強な者でも三年間もちこたえられる者はいないというほど過酷な環境であった。そこに5年の刑を言い渡されたということは、死刑宣告に等しかった。過酷な労働と粗末な食事で、多くの囚人が飢えて死んでいく。全部で1500人ほどの囚人のうち、毎月100人前後が死んでいくというのである。その中でも文師は一番難しい仕事を率先してやり、模範労働賞を毎年もらった。

 興南監獄は極度の飢餓状態にあったため、家族が面会にやってきても、その人よりも持って来た食べ物にまず目が行くという状態だった。自分の口は無意識のうちにご飯を食べながらも、人のご飯を恋しがり、自分は食べたことを忘れてしまい、「おれのご飯を誰かが盗んだ」と言って喧嘩を始めるという有様で、囚人の一人が食べながら絶命してしまうと、その口の中のご飯を引き出して食べようと喧嘩が始まったという話を文師は伝えている。まさに豆一つが家一軒、牛一頭の価値に感じるような世界であった。

 その中で文師が実践したのが、「人はパンだけで生きるものではなく、神のみ言葉で生きる」(マタイ4:4)というイエスの言葉であった。どんなに過酷な環境にあっても、何よりも神を愛さなければならない。どうせこのご飯では死んでしまうので、このご飯の半分で生きようと決心したという。そこで配給される食糧の半分は自分が食べて、あと半分は他の囚人に配ってあげ、他者のために生きる精神的喜びで生きることにしたというのである。

 このように文鮮明師が若き日に受けた様々な試練のストーリーは、文師のメシヤ性を示すと同時に、家庭連合の信者たちが人生における苦難を乗り越えるときのモデルとしての役割を果たしている。大神様の試練とは男性と女性の違いや、置かれた環境の違いはあるものの、教祖の試練の物語が信仰生活において果たす基本的な役割は同じであると言えるだろう。

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『生書』を読む04


第一章 大神様の生い立ちの続き

 天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るシリーズの第4回目である。前回から、「第一章 大神様の生い立ち」に入った。『生書』に描かれている教祖像の特徴は、浮世をよそにした大自然の懐に抱かれた純朴な農村の質朴な農家に誕生したが、誕生にまつわる神秘的な出来事は何一つなく、幼いころから男勝りの性格で、肚の据わった、ものに頓着しない子供だった、というものだ。ある意味では、この頃から後に教祖として頭角を現す片鱗を早くも見せていたとも言えるであろう。幼少期から結婚するまでの記述は短くてシンプルである。
「小学校を卒業された教祖は、女に学問をさせると虚栄心が強くなるから、女学校にはやらないという長蔵氏の意見で、女学校には行かれず、家事、農業を手伝う傍ら、当時近所の娘たちが通う、手芸、裁縫などを教える私塾に三年間通われた。」(p.7)

 現代のフェミニストが「女に学問をさせると虚栄心が強くなる」などという言葉を聞いたら怒り出しそうだが、当時としては普通の考えだったのであろう。このように教祖が高等教育を受けていないことは、天照皇大神宮教の性格に少なからず影響を与えたのではないかと思われる。その教えは知的な体系を持っているわけではなく、エネルギッシュで迫力ある平易な言葉で語られている。大神様は自分のことを「尋常六年しか出ていない百姓の女房」とか「おんなヤクザ」と呼んでおり、どこか反知性的な性格を持っていたと思われる。そのため、天照皇大神宮教では「経文や本で宗教を勉強して、頭に知識を入れる時代は終わった」とか、「知識や頭脳で悟ろうとする時代は終わった」として、経典の知識を蓄積する職業的宗教家も必要ないと教えている。小説家の藤島泰輔氏は、大神様について「土俗性というか、土の匂いのする方」であるという印象を語っている。その言葉通り、大神様は生涯質素な生活を貫いた純粋な宗教者であった。それがこの教団と教祖の魅力の一つであり、そのことに好印象を持った知識人は多かった。

 ここで『生書』は当時の時代背景と教祖の歩みを以下のように対比させている。
「明治三十三年、呱々の声を上げられてから、大正九年、北村家に嫁がれるまで二十余年間、世界の舞台は明治から大正の時代へと変転し、第一次世界大戦の勃発等、次から次へと慌ただしい年月となり、二十世紀の文明科学の世も、まさに黄金時代を出現させんとする時期とはなったが、これら慌ただしい歴史の動きを遠く離れ、大自然の懐に抱かれながら、教祖はその青少年時代を過ごされたのであった。」

 大神様の青少年時代には、人生の問題について深く悩んだとか、社会問題に対して関心や疑問を持ったというような形跡が見られない。田舎の娘として純粋に育ったということだけが記述されている。大神様が教祖として目覚めるのはずっと後のことであるが、少なくともその時までには自分の周辺の社会問題に対して関心を持ち、その解決のために自分が何かをしなければならないという使命感、召命感を持っていたとは思われない。大神様が教祖として立ち上がっていく動機の背景にあったのは、結婚後の生活であった。

 一方で、文鮮明師の青年期は大神様に比べるとはるかに悩みや葛藤に満ちたものであり、そのことが教祖として立ち上がっていく動機に直結している点で大きく異なっている。文師の故郷も大自然の懐に抱かれた田舎であり、農村で育った点は共通しているが、周辺の社会環境は大きく異なっていた。それは韓国が日本の植民地にされていたことが深く関係している。文鮮明師は自分の青少年時代について以下のように語っている。
「私が偉大な博士となり、有名になれば、何不自由なく、富貴栄達で過ごせる。しかし、それが私にとって何なのか。数多い不幸な人間に対して何の意味を持つというのか。私がなさなければならないのは、何であろうか。労心焦慮するうちに、人生の目的や、これからなさなければいけない仕事の輪郭が浮かんできた。全人類のこの苦痛、この不幸、この悲劇、この罪悪から解放する仕事。この仕事に責任をもって、引き受ける立場、位置があるに違いない。」
「先生の出生と少年時代は本当に不幸で悲劇的なものであった。それは先生一人が経験した環境ではなく、当時に生まれついたすべての韓国人たちの悲しい運命でもあった。五千年の悠久なる歴史を持つ韓国であったが、国力が衰退しながら日帝の侵略を撃退できず、彼らの支配下で人間以下の生活をするしかない時代だったからである。」
「少年期の感性は非常に鋭利であり、鋭敏なものである。まだ小さい時であったけれども、周辺で起こっている環境の変化に対してたくさんのことを考えながら、そうならざるを得なかった理由を知ろうと努めた。その時、先生の気運を前に立てて、不幸な環境に暴力で立ち向かおうとしたなら、・・・・・・恐ろしい組織を持った頭目ぐらいにはなったであろう」(1982.10.17)

 文鮮明師の青少年期は、『生書』にみられる大神様の記述に比べれば悲壮感が強く、このことと文鮮明師が教祖として立ち上がっていく動機となった「神の召命」の体験が15歳という若年であったことは、深く結びついていると思われる。すなわち、順風満帆の人生を歩んでいる人が神の啓示を受けて教祖になるということは考えにくく、必ず何らかの苦難に直面しなければならないのである。大神様の場合には、それが青少年期ではなく、結婚後に中年になった頃に訪れたということである。

第二章 主婦として
 
 ここから『生書』の「第二章 主婦として」の内容に入る。

 大神様は大正9年11月に田布施の北村清之進氏と結婚している。二十歳の時であった。ちなみに、同じ年の春に文鮮明師が誕生している。

 第二章の冒頭で『生書』はしばらくの間、田布施の土地柄について説明している。現在の田布施は小さな農村に過ぎないが、干拓して田んぼとする前は瀬戸内海の大きな入り江であり、大陸との交通の要衝であったこと、多くの仏教寺院が栄え、地方政治の中心地でもあったことなどが紹介され、ちょっとした「お国自慢」が展開されている。

 教祖が嫁いできた北村家は、『生書』では天照皇大神宮教の本部道場になっていると記述されているが、1964年に現在の本部道場が竣工された後は「旧本部道場」となっている。私が2019年の6月に天照皇大神宮教本部を宗教新聞の取材で訪問した際には、この旧本部道場にも案内してもらった。「天照皇大神宮教・神の国建設・精神修錬道場・本部」という看板は『生書』の記述のままであった。

天照皇大神宮教旧本部道場

天照皇大神宮教旧本部道場(2019年6月22日筆者撮影)

 『生書』によると、北村清之進氏は16~7歳のときにハワイに移民し、そこで10年間働いて財を成し、27歳のときに帰国してここに家を建てたという。その母屋が、後に大神様が説法をされる本部道場になったというわけだ。

 清之進氏が徴兵で満州に行っている間に、父である吉松氏が明治44年に亡くなると、家に残ったのは教祖とその姑に当たるタケさんだけになった。このタケさんは部落でも有名な吝嗇家(ケチ)であった。この話は島田裕巳氏や上之郷利昭氏の著作でも紹介されている有名な逸話である。
「来る嫁も、来る嫁も、このお婆さんの気に入らず、農繁期が済むと、いじめて追い返すのであった。教祖サヨさんがお嫁に来られた時は、もう五人の嫁が同じ運命をたどった後であった。つまり六番目の嫁として迎えられたのである。」(p.13)

 いまであれば考えられない話だが、当時はそういうこともあったのであろう。本来なら夫である清之進氏が妻を守るべきであろうが、彼は実直ではあったが小心者で、母タケさんの言いなりになる人であったため、守ってはくれなかったようだ。
「このような家庭に迎えられた、教祖サヨさんの新婚生活は、近頃の若い人々が夢見るような結婚生活とは似ても似つかぬものであった。世界一難しい姑といっても過言でない姑に仕え、小心者の夫君のご機嫌をとり、一町以上の田畑の仕事をやりきってゆかねばならない主婦サヨさんの行は、並たいていのものではなく、断じて常人のよくするところではなかった。」(p.14)

 いよいよ大神様の苦難の路程が始まったわけだが、そのことの持つ意味については次回に分析したい。

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