書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』92


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第92回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 今回は第六章「四‐二 清平の修練会」の2回目である。櫻井氏は「3 役事」の中で、「役事とは統一教会の独自の用語であり、天使の助けを借りて体内から悪霊を追い出すという意味で最も一般的に使われている。しかし、より抽象的には、天界(霊界)と地上(現実世界)の間に交流を起こそうという儀礼である。」(p.296)と説明する。実は「役事」(ヨクサ)という韓国語自体は統一教会の独自の用語ではなく、「働き」というようなより広い意味で用いられる。しかし、清平修錬苑において「役事」といえば天使の助けを借りて悪霊を追い出す儀礼を指すのが一般的である。

 櫻井氏は「清平においては、金孝南という霊能者に大母様が再臨し、霊界のメッセージを伝え、先祖の霊を救い出すのは清平の役事しかないことを強調する。」(p.297)と解説する。これはこの本が出版された2010年の時点では正しかったのだが、この金孝南氏は2015年をもって清平修錬苑から姿を消した。彼女は一時期、清平修錬苑の事実上の最高指導者として君臨していたので、まさに「隔世の感」がある。私自身、かつては清平のシステムは金孝南氏のカリスマの上に成り立っていると理解していたのだが、どうやら彼女がいなくなっても「修行の場」としての清平は機能しているようである。

 役事の具体的な内容についてだが、「聖歌を韓国語で歌いながら、拍手→前の人の肩→自分の頭・顔・首→拍手→胸・下腹部→相手の腰→自分の足・腕→拍手の順で叩き続ける。この集団で叩きあう行為を二セット行う。」(p.297)という櫻井氏の描写は客観的事実としては正しい。しかし、その後の「壇上には興奮した(霊に憑かれた)若手の信者が上がって踊りだしたり、精神的に不安定な人が泣き叫んだり、まさに悪霊が飛び交ってでもいるような情景が現出する。」という彼の解説が間違っていることは、私自身も役事に参加したことがあるので分かる。

 そもそも壇上に立つ若い信者は、大抵は清平修錬苑で行われている40日修練会の修練生であり、役事をリードする役割を最初から任されているのであって、興奮したり霊に憑かれた信者が無秩序に壇上に上がって踊っているわけではない。彼らは決められた時間の中で儀式を先導するという役割を意識的に果たしているのであって、トランス状態になっているわけではないのである。その証拠に、彼らは時計を見て決まった時間になれば役事を終了させるように全体を導く。

 役事の中で何を感じるかはまさに人それぞれである。櫻井氏の言うように「精神的に不安定な人が泣き叫んだり」することは全くないとは言えないだろうが、少なくとも私が参加したときにはそういう人を見かけることはなかった。役事は全体として、悪霊的な雰囲気よりも善霊的な雰囲気が支配する場である。皆が同じ行動をするため、会場には秩序ある一体感が生まれ、すがすがしい気持ちになることはあっても、無秩序で不快な様相になることはない。実際にその場を見たことのない櫻井氏にはこうした雰囲気は分からないであろう。「まさに悪霊が飛び交ってれもいるような情景が現出する」というのは、櫻井氏の想像の産物でなければ、ことさらに清平の役事をおどろおどろしいものとして描くことにより、裁判で被害を訴えようとした元信者の作文であろう。

 清平の役事に対しては、統一教会の現役信者の中でも「好き嫌い」があり、熱心に清平に通う者もいれば、懐疑的に見ている者もいる。清平の役事は1995年に始まったが、それ以前の統一教会の文化とは異質な部分を持っていたため、1995年以前に入教した教会員の中には、その新しい要素に違和感を感じて馴染めない者もいる。1995年以降に入教した教会員にとっては、清平の役事は初めから統一教会の信仰の一部である。信仰歴の長い教会員の中にも熱心に清平に通うものは多いが、それはその人自身の感性にマッチしている場合である。清平の役事をどのくらい信じて重要視するかは、現役信者の中でも個人差が大きいと言えるであろう。全体として、男性や合理的な人はあまり熱心ではなく、女性や心霊的なことを重んじる人は熱心に通う傾向にあるようだ。

 続いて櫻井氏は「4 病気直し」の中で、「修錬苑において役事や研修に参加するもののなかには家族、あるいは本人の病気を治そうと来るものが少なくない」としたうえで、「悪霊を祓う、追い出すことで病気が本当に治るかどうかは医学者の見解を待つしかないが、清平において治らない病気があることは事実」(p.298)であると指摘して、元信者の証言から、病気が治るどころかかえって悪化した事例を紹介している。

 宗教団体が「病気治し」を謳って信者を引き付けることに対する懐疑的な視点は、櫻井氏のみならず合理的な現代人に共通したものの見方であろう。しかし古来より「病気治し」は宗教が担ってきた重要な役割の一つであり、それは科学的な世界観が浸透した現代にあっても消滅してはいない。日本において人々が新宗教に入信する典型的な理由に「貧・病・争」が挙げられたことがあったが、それほど病気が治ることを期待して宗教の門を叩く人は多いのである。

 そもそも多くの信者たちがイエス・キリストに従ったのは、彼が病気の治癒という奇跡を行ったからであったし、中世のキリスト教徒たちが聖地巡礼に出かけたり、聖人を崇拝した理由の大半は、病気の癒しであった。彼らは聖人に神秘的な力を求め、そこで祈りを唱え、捧げものをすれば、その功徳によって願いがかなえられると信じていた。したがって、巡礼の礼拝所の捧げもので一番多いのは、捧げる人の身長か身幅の寸法に合わせたロウソク、もしくは治してもらおうと思っている手や足のひな型であった。かくして聖人の墓には、身体の部分や手足の形の捧げものがうず高く積まれることとなったのである。仏教においても、密教は加持祈祷によって病気の治癒や除災を行った。「ユタ」とか「イタコ」とか呼ばれる日本の伝統的な霊能者も、祈祷によって病気治しを行った。また、天理教に代表されるように、日本の戦前の新宗教は病気治しを売りものにして教勢を伸ばしていったものが多い。われわれはこのような信仰を笑ったり、低次元なものとして見下したりすることはできない。民衆の信仰は、人生における不可解で耐えがたい苦しみの中で、必死に生きようとする彼らの努力の現れであり、神学者や高僧たちの宗教とはまた違った、人間がもつ宗教性の一面が現れたものなのである。

 清平役事もまた、病気の治癒という具体的で分かりやすい恵みを前面に押し出している。按手によって霊が分立されて病気が治るほかにも、生命水や天神水の恵みによって病気が治癒するという証しも存在する。清平で病気が治ったという証しは数限りなくあり、『成約時代の清平役事と祝福家庭の道』(成和出版社、2000年)という出版物から主な項目だけを拾っても以下のように多数存在する。
・慢性のぜんそくが洗い流されたようになくなった。
・アトピー性皮膚炎の子供に生命水を塗りながら治療したら良くなった。
・人工呼吸器に依存していた生存確率50%の未熟児に天神水を塗りながら祈祷したら人工呼吸器を外すまでに良くなった。
・子宮筋腫だと思っていたら、いつの間にか胎児になっていた。
・霊的な問題のために子供ができなかったが、清平役事によって妊娠できた。その子供は中絶するしかない異常児だと医者から言われたが、清平役事によって正常になった。
・医者から奇形だと言われていた胎児が、清平役事によって無事に生まれた。
・子宮ガンの検査結果が良くなかったのが、清平役事によって正常値になった。
・膠原病を乗り越えて子女を授かった。
・20余年間患ってきたテンカンが消えた。
・30年間患ってきたひどい頭痛が完全に治った。
・胆嚢手術の合併症が治った。
・慢性気管支喘息が治った。
・網膜色素変性症を治療してくれた。
・長い間患ってきたアレルギー性皮膚炎がよくなった。

 これらの証言を信じるか信じないかは読者次第だが、宗教的儀礼によって「病気が本当に治るかどうか」を探究することは、実は宗教学の役割ではない。宗教学の役割は、「宗教的儀礼によって病気が治るという信仰が存在する」という客観的な事実を観察し、それを記述し、その意味を考察することにある。櫻井氏による、清平の役事による病気治しの記述は、「病気が治った」という入手可能な多数の証言を一切無視して、「治らなかった」という一部の証言のみを取り上げて一方的な批判を行っているだけである。こうした記述の偏りも、彼の研究に用いられた基本的な資料の偏りにその原因があることは、繰り返して言うまでもないであろう。

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ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳38


第5章 祝福:準備とマッチング(7)

 仲介者の役割の重要性は把握するのが困難である。それは彼または彼女がプロセスにおいて果たす役割は非公式なものだからである。文師を知っていて直接連絡ができるメンバーたちは、もちろん彼らの好み(これには、特定の人の名前を挙げたり、単に東洋人やヨーロッパ人の相対者が欲しいと示唆することなどが含まれるかもしれない。)を直接彼に伝えることができる。(注32)他の人々は、彼らの代わりに「お父様」にとりなしてくれるリーダーに、好みを知らせるかもしれない。好みを持たない者たちであっても、彼らをよく知っていて、特定の種類の結婚相手に対する彼らの個人的なニーズに関して文師にアドバイスできるリーダーを信頼するであろう。近年はマッチングを受ける人々の数が増加していることに鑑みれば、非常に人間味のないものになり得るプロセスに対して、仲介者は温かい感触を加えるのである。

 文師が誰と誰をマッチングするかを決定する上で用いる基準を、なんらかの正確性を持って決定するのは非常に難しい。入手可能な証拠を検討してみても、確かな真実はあるリーダーの以下のような率直な発言の中に見いだすことができるだけだ。「私には彼の基準は分かりません。それは一人ひとりにカスタマイズされているのです。」(注33)それにもかかわらず、文師はカップルをマッチングする上で一つの基本的な基準を忠実に守っているように見える。すなわち、そしてこれはあまり具体的ではないのだが、二人の「相性が良く」なければならないということだ。1965年に、アメリカのメンバーたちが自分の結婚相手を選ぶよう期待されていたときに語った言葉の中の、文師の彼らに対するアドバイスにこのガイドラインが暗示されている。
「・・・もし男性が岩のように固く、女性が木綿のように柔らかければ、彼らは正しくマッチせず、女性が生き残るのは非常に困難になります。虎と飼い猫は種が異なり、天敵同志なので結婚することはできません。結婚相手を選ぶときに、素早い判断に頼ってはいけません。皆さんの将来のパートナーの内的深淵を確信するためには、三年間付き合ってみることが必要かもしれません。皆さんは神様に自分自身を捧げているわけですから、これは長すぎる期間ではありません。」(注34)

 この基準は、すべての人にとっては明らかではない、ある内的で「心情的な」性質に基づいている。文師は最近マッチメイカーとしての自身の役割について語る中で、この曖昧な原理について詩的な方法で詳しく述べている。
「私が日本の家庭だけでも235カップルをマッチングしたとき、たったの8時間と数分しかかかりませんでした。想像できますか? どうやってできたのでしょうか? ほかの人が見れば、私がある男性のメンバーを心に描いて、すべての女子を一人ひとり見ているのは、まるでくじ引きか何かをしているように見えるでしょう。皆さんが自然を見るとき、一見するとすべての木は同じように見えます。しかし、松の木をアカシアの木に接ぎ木することができるでしょうか? 両方とも枯れてしまいます。もし何本かの松の木があったなら、そのうちの一つが曲がっていて小さかったとしても、私はその枝の一つを切ってほかの松の木に接ぎ木しなければなりません。種類が違っていてはだめなのです。中には滝のように、非常に敏感で流れやすい性格の人がいます。もし私がその人を注意深くマッチングしなければ、彼は死ぬでしょう。もし爆発的な性格の人がいれば、彼らは良く合うでしょう。彼らはお互いを補い合うのです。もし滝が打ち付けるような力で落ちるとすれば、それを持ち上げるかストップする何らかの力がなければならず、そうしないと調和しないのです。」(注35)

 そのような基準を、外部の者が理解し解釈してどうなるであろうか? 例えば内向性と外向性の相互関係によって二人の人間がお互いを補完するといったような、われわれが普通に意味することを文が心に抱いているのではないことは明らかである。彼の決定はそのような俗世の配慮を包含するかもしれないが、人間の人格の内的本質(その最終的で決定的な中心)までも見通す目を持ったカリスマ的シャーマンとして、文師はこの筆者が宇宙的親和性と呼ぶものに基いて人々をマッチングするのである。それは本質的に形而上学的で通常の人間の理解を超えた概念である。しかし、このアプローチは文師の人類歴史における固有の摂理的役割と一致しているのである。それはまた、彼の超自然的な力に対するメンバーの信仰を育てる(そしてまたそれによって育てられる)のである。

 第二の、より理解しやすい基準は、文師によって引き合わされる多数の「国際マッチング」に暗示されている。ストーナーとパーカーは1977年に「統一教会が発行した結婚相手の長いリストから、偶然にせよ意図的にせよ、これらの結婚の半分以上がアメリカ人と外国人との間でなされたことは明らかである」(注36)と報告している。現在の筆者の調査は、これらのマッチングがまったく偶然ではなく、少なくともあるレベルにおいて、人種と文化が全く異なる人々を結婚で一つにすることにより世界の統一をもたらそうという文師の努力の直接的な結果であると見られるべきであることを示している。私はこの現象に関する運動の統計を入手できなかったが、インタビューや現場観察から得られたデータは以下のことを示唆している。(1)国籍や人種を超えたマッチングの数は1969から現在までの間にかなり増加した。(2)これらのマッチングはグループの最も高い理想を示しているので、これらのカップルは同じ国籍・同じ人種同士のカップルにはない特別な地位を運動の中で与えられる。さらに、アメリカの運動では女性1人に対して男性が2人の割合である。その結果、アメリカ人の男性と東洋人の女性をマッチングするという一般的なやり方は、組織の非常に具体的なニーズと合致しているのである。また、国際マッチングはアメリカにおいて急成長するビジネス・ベンチャーのスタッフを確保するという要請が高まる中で、思いがけない恩恵をもたらした。ひとたびマッチングされれば、事実上すべての国際カップルは直ちに民事婚の手続きを行った。アメリカ市民と法的に結婚すれば、外国籍の相対者は永住ビザの資格を得ることになり、無期限に米国に留まることができるのである。統一運動の生活の他の多くの分野においてもそうであるように、ここでも道徳的理想(すなわち世界の統一)が、運動の組織的要請(すなわちスタッフに関するニーズ)と非常にうまく一致しているのである。最後に、メンバーが国際マッチングを受けることに対してグループによるプレッシャーと地位による誘因があるとはいえ、文師は同じ国籍間および同じ人種間の結婚を明確に要望する者の欲求に対しては、非常に注意深くこれを尊重しているように思われる。(注37)

(注32)文師は、メンバーが夢やビジョンや霊的直観に基いて到達した好みに対しては、とくに受け入れようとする。
(注33)個人的交流:エンゲル氏、p.5
(注34)文鮮明「祝福と伝道について」
(注35)文鮮明「男と女の関係」p.3
(注36)ストーナーとパーカー『みんな神の子供たち』(ラドノー、ペンシルバニア州:チルトン・ブック・カンパニー、1977年)p. 147.
(注37)しかしながら、国際マッチングを要望したメンバーが常に承諾されるとは限らない。筆者は東洋の女性を要望した後に文師によってアメリカ人と組み合わせれた男性のメンバーと話をした。彼はいま運動を離れることを考えている。インタビュー:ポーター氏。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』91


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第91回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 今回から第六章「四‐二 清平の修練会」に入る。まず「1 清平修錬苑」においては施設としての清平の概要と、そこで行われている修練会の日程をスケジュール表入りで紹介している。これは客観的な記述であり、スケジュール表は天宙清平修練苑公式サイトから取ったものなので、特に間違いは見当たらない。ただ一部、「清平修練会は体力的にきついものと思われる。しかも、そこで加えられる霊界の精神的プレッシャーは相当なものである」(p.289)という彼の評価が、主観的な要素として挿入されている。清平修錬苑はいわゆる宗教的な修行をするための場所なので、そこでの生活が体力的にきついのは禅寺における生活がきついのと同じ意味である。しかし、「霊界の精神的プレッシャーは相当なものである」というのは櫻井氏の勝手な想像にすぎない。

 清平のような外国にある施設で行われる修練会に参加するということは、本人によほど主体的な動機がない限りはあり得ない。参加する意思のない人を国境を越えて連れ込むことなど不可能だからだ。したがって、清平の修練会に参加する人々は基本的に宗教的修行を求めて集まった求道者であり、み言や祈りに対して強い関心を持ってやって来たのである。その人たちにとっては、夜遅くまで説教を聞いたり役事をしたりすることは体力的にはきつくても、精神的には喜びを感じるものなのである。彼らは霊界に関心を持ち、霊的な現象や雰囲気に触れようと求めてやって来た。それを「霊界の精神的プレッシャー」などという受動的な表現にすり替えるところに、櫻井氏の悪意が感じられる。彼は元信者から清平の修練会に関する聞き取りを行ったようであるから、統一教会を相手取って裁判を起こした元信者たちが、清平の修練会も「被害」の一部として悪意を持って描写しようとしたイメージが、彼自身にも感染したのかもしれない。

 続いて「2 先祖解怨式」の解説において櫻井氏は、「統一教会の教えによれば、人間は死後『霊人体』となって霊界に行く。原罪を持ったまま霊人体となった先祖は地獄で永遠の苦しみを受けているのだが、地上にいる子孫の善行により功徳が先祖に転送され、先祖は安らぐのだという。ところが、このことを知らずに功徳を送らなかった人は死後、霊界で先祖の霊たちに責められる。この教えの前半部分は先祖崇拝と混淆した東アジアの仏教や東南アジアの上座仏教に見られる観念である。しかし、後半部分は統一教会独自の論理である。」(p.289-295)と述べている。

 この解説はどこで前半と後半が分かれるのか釈然としないのであるが、少なくとも前半に登場する「原罪」という概念はキリスト教的なものであり、先祖崇拝や仏教には見られないものである。「霊人体」という表現も統一原理に固有の言葉である。むしろ、地上にいる子孫の善行により先祖が安らぐという観念の方が、先祖崇拝と習合した仏教の教えに近いのではないだろうか。功徳が転送されるという考え方も、「廻向」という仏教的概念である。櫻井氏による宗教的言説の概念整理はどこか混乱しているように思われる。

 次に櫻井氏は先祖解怨がただではないことを批判的に記述するが、先祖供養にお金がかかるのは伝統仏教でも新宗教でも同様である。金額の多寡は、その人がどれだけ真剣にそれに取り組もうとしているかという姿勢の表れであると言えよう。

 清平の修練会が120代から210代までの先祖解怨を勧めているというのは事実である。この数字が櫻井氏には荒唐無稽に思えるらしく、以下のような批判が加えられる。「120代遡るというのは、一世代30年として3600年前であり、日本においては縄文末期、弥生時代初期に相当する時代であり、日韓両民族の氏族は血縁を共にしていた可能性すらある。先祖をこれほどまでに系譜でたどるというのは、日本では皇族であっても非歴史時代を想定しなければ不可能だろう。一般市民の場合には十数代たどることができるだけでも相当の名家である。しかし、統一教会の信者たちは先祖解恩の教えをそのままに受け取っている。」(p.295)

 たしかに一般市民が自分の先祖に関する事実を調べることができる範囲は通常は4~5代くらい前までであろう。私も除籍謄本を取り寄せて先祖の記録を遡ったことがあるが、名前が判明したのは高祖父(4代前)までであった。しかし、清平の先祖解怨では先祖に関する具体的な事実が分からなければ解怨ができないと教えているわけではない。血統がつながって私という生命が存在する以上、名前が分からなくても120代前や210代前の先祖は少なくとも存在しているはずであるから、その人たちの霊を解放しようという話である。これは信仰の論理であるため、櫻井氏のような冷めた分析を信者たちはしないのである。

 そもそも、ヒンドゥー教や仏教にはカルマ(業)の刈り取りという考え方があり、それは自分の血統的な先祖ではなく、魂が前世において行った行為の代償を現世における自分が支払わなければならないという意味である。自分の魂が前世においてどんな存在であり、どんな行為を行ったのかということは、自分の先祖が何をしたということ以上に分からないことであり、科学的で客観的な知識として知ることはほぼ不可能な事柄であるにもかかわらず、ヒンドゥー教徒や仏教徒はその教えをそのままに受け取っている。さらにキリスト教においては、3600年前どころか6000年も前に人類の祖先が罪を犯したという話を、少なくとも根本主義や福音主義の信徒たちは文字通りに受け入れ、それが「原罪」として自分に受け継がれていると信じているのである。単純な比較によれば、これらの信仰は清平の先祖解恩の信仰以上に荒唐無稽であるとも言える。こうした宗教的教説を信じる者の心において、自己の魂の前世やアダムとエバの存在が科学的で合理的な思考の対象となることはない。しかし、それと同じことを櫻井氏は清平の先祖解怨に対して行っているのである。彼の批判がいかに筋違いの「批判の為の批判」であるかが分かるだろう。

 櫻井氏は、「統一教会の世界観では、霊界と現実世界があり、相互に交流可能だし、霊人が地上人に影響力を行使することも可能であれば、地上の人間が霊人となった先祖を供養により慰撫することもできるという。信者はこの世において統一教会に入信して祝福を受け、真の家庭を築かなければ救済に与れないし、統一教会の教えを受けずに亡くなった先祖達は、死後において統一教会の研修と祝福を受けて真の家庭を築かなければならない。どちらの場合も、信者が統一教会にしかるべき金額の献金を納入しなければことが進まないのだ」(p.296)と述べている。これは「地獄の沙汰も金次第」といったイメージであり、統一教会の救済観をあたかも特異なものであるかのように描写している。

 しかし、これに類似する救済観を持つ宗教は、日本の新宗教の中に多くの例を見いだすことができる。具体的に言えば、霊友会、大本教、真如苑、解脱会、天照皇大神宮教、世界真光文明教団、阿含宗、GLAなどを挙げることができるであろう。これらの教団は多くの場合、宇宙を目に見えるこの世界すなわち現界と、目に見えない神や霊の世界すなわち霊界の二重構造からなると考え、それら二つの世界の間には密接な交流影響関係があるとしている。すなわち現界で生起するさまざまな事象は、実はしばしば目に見えない霊界にその原因があるのであり、その働きは「守護霊」や「守護神」などによる加護の働きだけにはとどまらず、「悪霊」や「怨霊」などによって悪影響が及ぼされることもあるととらえられている。むしろ実際に霊界の影響がクローズ・アップされるのは、苦難や不幸の原因について説明するときの方が多いくらいである。

 この場合、現界に生きる人間に対して影響を及ぼす霊は、その人と何らかの縁があると考えられるケースが多い。したがって、血縁(親や先祖)、地縁(家や家敷)、その他の個人的な縁を介して、その人と何らかのつながり(因縁)のある霊が、その人に大きな影響を及ぼすということになる。このうち特に重視され、しばしば言及されるのはやはり血縁者(親や先祖)の霊的影響である。そしてこれらの新宗教にはこのような悪因縁を除去するために、除霊や浄霊の儀礼を行うものが多く、それは「先祖供養」(霊友会系教団)、「慰霊」(松緑神道大和山)、「悪霊済度」(天照皇大神宮教)など、さまざまな呼び方をされているが、いずれも信者の基本的実践として重要な位置を占めていることには変わりがない。

 日本の宗教伝統を概観してみるときに、「先祖の因縁」という宗教概念が、極めて広範囲に人々の間に広まっていたことは疑う余地がなく、こうした信仰を持つ人々からすれば、清平において行われている先祖解恩の教えや儀式は、やり方に違いこそあれ、基本的には同じ世界観に基づいていると理解することが可能であろう。清平の先祖解恩は、とりわけ日本人の統一教会信者に人気があるという。そこには明らかな文化的親和性があるからこそ、多くの日本人がわざわざ海を渡ってまで研修会に参加するのである。

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ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳37


第5章 祝福:準備とマッチング(6)

 より年長で経験のあるメンバーたちはこのような発言、特にその結論の一文(訳注:「皆さんにはいかなる男性も女性も見下す権利はないのです。どんな男性も女性も皆さんにはもったいないのです」という発言)を、誇張であるとみなしているようである。しかし、ほとんどとは言わないまでも多くのメンバーがそれを文字通り受け入れる意思がある、というのが事実である。彼らは心の中に好みも抱かずにマッチングに行き、文師が結婚相手として勧めた人ならだれでも受け入れる意思があるのだ。さらに、神の御旨に完全に従うことは恩恵がないわけではない。それは「お父様」が自身の体験から説明している通りである。
「私はたとえいかなる女性とでも、彼女と結婚することによって神の御旨を一日でも早く実現することができるのであれば、結婚できると考えていました。皆さんはその覚悟がありますか?(はい![聴衆の反応])皆さんは黒人の女性と結婚しますか?(はい![聴衆の反応])もしそれが神の御旨ならば、歳を取った女性と結婚できますか? 私は神のためにどんな女性とでも結婚しようと思っていたら、[#傍線]神様は私に可愛い少女を下さったのです[#傍線終わり]。」(注27)

 文師とその他の指導者たちによる、メンバーがどんな人でも受け入れて結婚するよう説得する努力は、目に見える結果を生み出さないわけではなかった。1977年に行われた67名の統一教会信者の調査によると、結婚相手の選択に対する彼らの期待に関して、以下のことが発見された。
「回答者の8%が彼らは未来の配偶者を選ぶか、相手に選ばれるだろうと予測した。59%が自分は教会の指導者たちが推薦した人の中からパートナーを選ぶだろうと予測した。33%が教会の指導者たちが彼らのために結婚相手を選んでくれるだろうと期待した。」(注28)

 調査を行った者たちは気付いていなかったが、59%と33%の違いは実際にはこういうことである。前者のグループが文師によって推薦された一人もしくはそれ以上の結婚相手を拒否する意思を示していただけであるのに対して、後者は推薦された最初の人を受け入れる準備があったということだ。書かれているように、調査は59%が教会の指導者たちによって彼らに提示された、例えば4名や5名のリストの中からパートナーを選ぶことを期待したことを示唆している。このような習慣は統一運動のマッチングに対するアプローチの標準的な部分ではないため、これらの人々は文師の選択に対して一度あるいはそれ以上の「拒否権」を発動することを躊躇しないと言っていたに過ぎない。この調査が実際に意味していることは、メンバーの92%が最終的には文師の推薦した結婚相手を受け入れるが、59%が必ずしも彼が最初に推薦した人を受け入れるとは限らないということである。したがって、文師および他の指導者たちは、メンバーを「神を中心とする」マッチングに向けて準備する上で、非常に効果的であったように見える。この国では人々は自分が選んだ誰とでも自由に結婚できるという長年にわたるアメリカ人の信仰と、統一運動のアプローチがいかに鮮やかな対照をなしているかに気づけば、彼らの成功はより一層重要になる。

 結婚相手の選択に対してメンバーたちが正しい態度を持つよう勧めることに加えて、文師は資格のある候補者たちの申込書と写真を吟味することによって、マッチメーカーとしての自身の役割のために準備する。この準備に気づいているメンバーは非常に少ないように思われた。実際、文師がどのようにマッチングの準備をするかに関する唯一入手可能な描写は、1979年に運動が主催した統一運動のライフスタイルに関する会議で話をした年長のメンバーによるものだけである。
「文師は人相を見ることができ、その人自身もしくはその人の写真を見ただけで、その人の性格について語ることができます。文師が人々に対して彼ら自身のこと(彼らの長所と短所について)、彼らを見ただけで語ったという、あらゆる種類の逸話や驚くべきストーリーがあります。彼は私の妻と私に対してそれを行いました。したがって、マッチングの前に、文師は資格あるメンバーたちの写真を見て、ときには申請書に書いてある彼らの情報を見ます。彼は人々の好みが何であり、彼らの性格がどのようなものであるかについての事前の知識なしにマッチングに入ることはありません。しかし、ひとたび彼がマッチングの行われるボールルームに入ると、文師は一切ノートは使わず、参加者以外の誰とも相談することはありません。彼はただ神の啓示のみを頼りにされるのです。」(注29)

 彼が持つとされている超心理学的な力と申請書の情報のほかに、文師はマッチングに対する提案を特定のリーダーや文夫人からも受ける。彼らは文師と候補者の仲介役として働いている。そしてもちろん、彼は資格のあるメンバーの何人かを、彼らとの事前の接触の結果として、個人的に知っているであろう。

 運動の中で文師の奇跡的なマッチメイキングの力によるものであるとされる口伝えの伝承が、疑いなく文師の準備によって支えてされていることを知っているメンバーはごく少ない。にもかかわらず、それを知っている者でさえ、文師による結婚相手の選択を本質的に神の意志の地上における顕現であるとみなしている。自分のために結婚相手を推薦する文師の役割についてどう感じるかをメンバーが尋ねられたとき、彼らは文師は彼らのことを彼ら自身よりもよく知っており、彼らに対する神の御心を知っているので、文師は彼らの結婚相手を選ぶ上で彼ら自身よりも適任であると答えた。神の代身としてのこの文師に対する信頼が、成熟した統一教会員はどんな人でも愛することができなければならないという見解(これは内的資格の基準と関連している)が結び付けられたとき、圧倒的大多数のメンバーが文師によって「推薦」(注30)された最初の人を受け入れるのはまったく驚くに値しない。

 ときには、仲介者や申請書を通して、メンバーが結婚したい人の名前を述べることもあるであろう。文師はこうした好みを承認するかもしれないが、たとえ彼がそうしなかったとしても、メンバーは一般的に彼の推薦を受け入れる。1975年にマッチングと祝福を受けたフォスター氏はある姉妹の名前を提示したが、文師は現在彼の妻になっている別の女性を推薦した。当時を振り返って、フォスターはそのときは失望したけれども、「いまは私は文師の選択は正しかったと感じている」(注31)と言った。

(注27)文鮮明「重要な人物」『マスター・スピークス』(日付も番号もなし、ベルベディア修練所)p.5(下線は著者)
(注28)デビッド・G・ブロムリーほか「完璧な家族:新宗教運動における未来のビジョン」『マリッジ・アンド・ファミリー・レビュー』(秋/冬、1981)、pp. 124-125。
(注29)リチャード・ケベドー編「ライフスタイル:統一教会信者との会話」(ニュートーク:世界基督教統一神霊協会出版局、1982年)、pp. 12-13。
(注30)メンバーたちは、文師は結婚相手を選ぶというよりも推薦するのだと主張する。メンバーは文師の推薦のどれかもしくはすべてを拒否する権利があるので、理念上はこれは本当である。しかし、実際にはこの「拒否権」を行使するメンバーは非常に少ない。
(注31)インタビュー:フォスター夫妻。これは第6章で見ることになるが、ひとたび文師によって推薦された誰かとのマッチングに同意して聖酒式に参加したならば、その婚約を避けてほかの誰かとマッチングされる道はないことを、大多数のメンバーが確信していると思われる。もしそのマッチングが双方にとってまったく相容れないものである場合には、不幸な結婚を避ける唯一の手段は、運動を離れることであると結論するかもしれない。この代替案はほとんどの者が望んでいないので、性格が合わないメンバーは、彼または彼女が将来の配偶者との間に抱えているいかなる問題をも解決しようという強い動機を持つことになるであろう。

カテゴリー: ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』90


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第90回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 今回は第六章「四 統一教会における霊界の実体化」の2回目であり、いわゆる霊感商法のトークを行っていた「霊能師」に関する櫻井氏の記述を分析する。先回述べたように、彼らは「霊能師」といっても霊が見えるとか霊の声が聞こえると言っていたわけではなく、神憑りして託宣を述べていたわけでもなかった。彼らは一般的な運勢や霊界の話をしていただけであり、霊能師というよりは占い師か説教者のような存在であった。そもそもこの「トーク」の目的は、最終的には顧客に統一原理を学ばせて伝道することにあったのだから、彼ら自身が信じている原理の内容とかけ離れたことを語ることはできないのである。ただし、私がこのブログのシリーズ「霊感商法とは何だったのか」で分析したように、彼らのトークの内容は純粋な統一原理の教えではなく、それに日本の土着の宗教概念を混在させたものであり、一種のシンクレティズムであった。

 それでは櫻井氏が解説する「3 霊能師が現出する霊界」(p.282-286)の内容を一つひとつ検証してみよう。「ヨハネトーク」(p.282)というのは日本の一部の信徒たちが使っていた独特な表現であるが、これは洗礼ヨハネが「メシヤの証し人」としての使命を全うせず、イエスに侍り従うことができなかったことが原因で、ユダヤ人たちはイエスを信じることができずに十字架につけて殺してしまったという『原理講論』の教えを援用した考え方である。ここでは「トーカー」をメシヤの位置にたとえ、ゲストを連れてきた「担当者」を洗礼ヨハネの位置にたとえて、両者のあるべき関係が説かれている。これは修練会における講師と進行役の関係であるとか、特定部署における責任者とその補佐役の立場に援用される考え方であり、広い意味では「カイン・アベル」の教えの一種である。したがって、信徒たちにとって「ヨハネトーク」は信仰の実践であり、自らの信念に基づいて行っていたものであったと言える。

 「①転換期トーク」(p.283)は、要するに先祖と自分との因果関係について説いている。『原理講論』は復帰原理の緒論において私たちは「歴史の結実体」であると教えており、堕落論、予定論、復活論においても先祖たちと私たちの関係について述べている。転換期トークはそれを日本人に分かりやすく説明したものにすぎない。

 「②霊肉トーク」「③霊界三層」(p.283-284)は創造原理の第6節と復活論の内容を日本に土着化させ、ゲストの家系の問題と絡めて解説したものであると言える。実際には『原理講論』は私たちの血統的な先祖と私たちの関係をそれほど強調してはおらず、神の摂理を担当する上での代理使命者を通して霊人が再臨復活していくことを述べているのであるが、先祖に関心の強い日本人のために、ここでは先祖と私の血統的な関係が強調されている。色情の罪が地獄で一番苦しいことを強調するのは堕落論の影響であろう。

 「④出家トーク」(p.284)は、青年の伝道コースで言えば「献身」を決意させるのと同じような心情的プロセスを壮年壮婦に通過させるためのトークであると考えられる。統一教会に限らず、信仰の道を行くことを決意するにはそれまでの人生に対する執着を捨てなければならないときがある。これはアブラハムが生まれ故郷を捨てたことや、イスラエル民族がエジプトを脱出したことなど、聖書においても多くの例があるが、仏教の僧侶が出家するというのもこれと同じプロセスである。家庭を持つ壮年壮婦が実際に「献身」や「出家」をすることは困難なので、それに代わる何か象徴的な行為を行うことによって「出発の為の摂理」としようというのが、この「出家トーク」の本質である。

 その次に櫻井氏が「⑤ 環境浄化」として説明する内容は、タイトルと本文の関係が不明瞭であり、いったい何が「環境浄化」なのか意味不明である。恐らく櫻井氏も理解しないままに裁判資料の記述をそのまま転載したのであろう。ここで述べられている内容はいわゆるクロージングであり、具体的には出家と同じような身を見るような思いをして物品購入や献金を決意することである。

 こうして見ると、「霊能師」の語った内容は、統一教会の信者として自らが信じていることをそのまま述べただけであり、見えもしない霊が見えたとか、聞こえもしない霊の声が聞こえたというような「偽り」や「欺罔」に当たることは一切行われていない。彼ら自身の中には「相手を騙している」という意識はまったくなく、むしろ相手の救いのために自らの信念を語っていたにすぎないということになるであろう。要するに彼らは一つの宗教的言説を語っていたにすぎない。それを受け入れるかどうかは、ゲストが自由意思に基づいて判断すればよかったのである。

 続いて櫻井氏は、「4 霊能師達の心情」という興味深い分析を行っている。まず櫻井氏は「統一教会脱会後十数年を経過しても、霊能師役をやっていた元信者達は、基本的なトーク例を立て板に水のごとく語ってくれた。」(p.286)という観察を披歴している。もしトーカーたちにとってこの活動が辛いものであったり、自分の意に反して行ったものであったとすれば、それを思い出すことは苦痛であり、十数年も経てば思い出すのは困難になっているであろう。それを立て板に水のごとく再現できるというのは、トーカーだった時代の彼らの活動が濃密で充実した体験であったことの証左ではないだろうか。彼らは自己の信念に基づき、情熱を込めて活動したに違いない。だからこそそれは鮮明な記憶として残っているのである。

 次に櫻井氏はトーカーをしていた女性たちが霊能師役に徹することができた理由をいくつか挙げ、それを理解することによって「なぜ統一教会信者たちが人を欺せるのかがわかる」(p.286)と分析している。それを列挙すると以下のようになる。
「(1)限定された認識。霊能師はラインの流れ作業に従事しているにすぎない。」「(2)限定された心理。霊能師は感情移入しない。」「(3)限定された責任感。霊能師はメシヤの代理にすぎない。」(p.286-287)

 ゲストに対してトークを行っていた統一教会の信徒たちが、もっぱら自分の果たすべき役割に集中しており、組織全体における自分の位置や立場、ゲストが支払ったお金の行方、ゲストのその後の人生、活動そのものが社会的に見て正しいのかどうか、といったようなことをあまり考えていなかったというのは、おそらく事実であろう。しかしそれは、櫻井氏の言うような「なぜ統一教会信者たちが人を欺せるのか」の説明にはならない。そもそも彼女たちには相手を騙しているという自覚は当時なかったはずであり、むしろ自己の信念に基づいて行動していたのである。

 櫻井氏が指摘するような限定された認識、限定された心理、限定された責任感は、戦場における兵士の心理状態に似ている。末端の兵士は必ずしも作戦の全体像を理解しているわけではなく、自分に与えられた任務を全うすることに集中する。そして自分が戦っている相手や、ときには味方にさえ感情移入せずに、作戦遂行に徹しなければならない。そして戦場で敵を殺したとしてもそれは殺人ではなく、国家の道具としての役割を果たしただけである。「そもそもこの戦争は正義なのか?」というようなことを考えていては、戦場で敵と戦うことはできないのである。

 統一教会の信仰生活は、ある意味で神とサタンの戦いの中に身を投じるということである。最前線で戦う信徒たちが、戦場における兵士と同じような心理状態になったとしても不思議ではない。これは統一教会の信徒に固有のものではなく、目的に徹して激しい闘いを展開している集団の一員となった者はある程度普遍的に陥る心理状態であると言えよう。

 カルヴィニズムにおいては、自分自身を「神の道具」と感じることによって禁欲的な生活を送り、経済活動に没頭することによって巨大な富を生み出した、というのがマックス・ウェーバーの分析である。トーカーをしていた統一教会の信徒たちも、それを自分がやっているというよりは、自分は神の御旨を進めるための道具にすぎないという信仰を持って、禁欲的な活動にひたすら没頭していたと思われる。それは自己を客観的に見つめる広い視野を持った自己認識ではなかったかもしれないが、一つの宗教的自己像として普遍的に存在するものであり、統一教会に固有のものではない。

 私自身は、こうしたトーカーをやった経験はないので、トーカーとはどんな存在なのかを自分の体験に基づいて語ることはできない。しかし、私が韓国のソウルで活動していたころに、同じ教会にいた日本人の教会員の中に、こうしたトーカーをやってかなり高額の開運商品を売っていたという人物がいた。彼は人の家系図を見ると、その人が抱えている問題や先祖の願いが分かると言った。「家系図を解く」という言い方をするのだが、そのやり方は達人の境地に達していて、誰もがまねできるものではなかった。紋切り型に誰にでも同じことを言うわけでもなく、その家系図から浮かび上がる内容をその人に合せて語るのである。彼は家系図を解く自分の能力に対しては確信を持っているようであり、自分が人を騙しているとは微塵も思っていなかった。私から見て、彼は一つの宗教的な境地に到達しているように見え、決して組織の操り人形には見えなかった。しかし、すべてのトーカーが彼のような境地に達していたわけではないだろう。一口にトーカーと言っても個人によって大きな差があり、櫻井氏のように十把一絡げに語ることはできないのである。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳36


第5章 祝福:準備とマッチング(5)

 構造的には、統一運動の結婚に対するアプローチは、それがアメリカで経た20年の間に起こった変化を反映している。1978年までは、マッチングと祝福の儀式はほぼ同時に行われた。運動が作成した、1975年に韓国ソウルで行われた1800組の祝福式のフィルムの観察に基づき、筆者はマッチングの儀式(それは極めて重要な聖酒式をもって終了する)と、より「公的な」祝福式の間にはわずか一日しかなかったと推定する。しかしながら、これらのカップルは一定の期間は夫と妻として一緒に暮らさなかった。彼らは約3年間聖別していたのであり、そのうちの多くの者が外国において開拓の宣教師として奉仕していた。(注23)1978年までのパターンは、マッチング、祝福式、聖別、そして家庭出発というものだった。一部の運動のリーダーでさえ驚いたことに、文師は1979年に新しいパターンに着手し、そのとき資格のあるメンバーはマッチングを受けたが祝福式を受けなかったのである。これらのカップルはその後は聖別をし、その後に1981年11月に行われると噂されていた式典で祝福されることになっていた。この新しいパターンは、マッチング、聖別(これを「約婚」と呼ぶアメリカのメンバーもいた)、祝福式(その後に絶対的で摂理的な40日間の聖別が続く)、そして家庭出発という順序に従う。メンバーたちは概してこの変化には(彼らの知らない)霊的な意義があると信じていたが、この新しいパターンは古いものと比べて現実的で実際的な利点があるのだと示唆する者もいた。あるリーダーは、現在マッチングされている人数の多さを考慮すれば、聖別または約婚期間は、グループが「うまくいっていない」マッチングを、祝福を受けて家庭を出発してしまう前に解消することを可能にすると指摘した。さらに、古いパターンの下では、カップルが統一運動の中で三年しかいない時点で結婚が祝福され、ある意味で確定してしまう。ここで含意されているのは、結婚が祝福された後に相対関係の片方が運動を離れるかもしれないということだ。新しい順番が意味しているのは、最終的な祝福が与えられる前に、カップルは6年または7年間メンバーでいるだろうということだ。もし相対関係の片方が聖別・約婚期間中に離れたとしたら、マッチングを解消して残っている方を再びマッチングする方が簡単であろう。

 メンバーたちは認めなかったが、運動のメンバーがかなり増加したために、文師(および彼の長老会議)は個々のメンバーに対する個人的な知識があまりなく、彼のマッチング能力に対する確信が弱くなったと仮定するのは合理的であるように思われる。マッチングと祝福の間に聖別期間をもうけることにより、彼は自分自身と運動に対して「誤差の範囲」を提供しているのである。また、1979年からより多くのアメリカ人がマッチングを受けるようになったという事実が示唆しているのは、そのときに出現した新しいパターンが、結婚の前に婚約期間を置くという伝統的なアメリカの慣習に対する運動の適応を反映しているかもしれないということだ。

 順番の変化に加えて、マッチングと祝福の場所も韓国から米国に移動した。1979年以前は、資格のあるアメリカのメンバー(1969年には26名、1970年には18名、1975年には220名)は韓国に行ったが、そのとき以来、儀式はニューヨーク市で行われてきた。この変化は、米国を機能上の中心にしようという過去数年間にわたる統一運動の傾向の一部であると思われる。例えば、その世界宣教本部はこの国にあり、文師の永住場所はニューヨーク州にある。

 誰と誰がマッチングされるかを決定する実際のプロセスも、アメリカの統一教会信者に関しては変化した。1969年と1970年の儀式においては、ほとんどのアメリカのメンバーは彼らの相手を自分で選んだが、それはもちろん文師の許可を得てのことだった。これらの選択においては、お互いに惹かれあうことと、恋愛感情さえもが相当な役割を果たした。1975年以降は、この国に増加した東洋の指導者たち(特に文師)は、韓国と日本の運動のパターンにならい、相手の選択を全面的に文師に委ねるようアメリカ人に奨励した。1975年に祝福を受けた3600名のメンバーは、相手を選ぶ上で三つの選択肢があった。(1)彼らはお互いに選び合って、カップルとして式典に行くことができた。(2)彼らは4~5名の写真を選び、最終的な選択を文師にしてもらうためにそれらを渡すことができた。(3)彼らは運動の伝統であるとみなされている東洋のやり方に従うことができた。(注24)それぞれの選択肢を何名が実行したかについては、入手可能なデータはない。しかし、メンバーらは3番目のアプローチを取るように強く促された。1979年のマッチングでは、大多数が3番目の選択肢を実行し、2番目の選択肢を実行したものがごく僅かだけいた。筆者の感覚では、自分で相手を選んでカップルとして式典に行くこと、すなわち1番目の選択肢は、1979年には不可能であったと思われる。

 自分で相手を選ぶことから東洋のやり方への移行は、文師が米国に永住するようになったことと、その結果としてアメリカのメンバーたちと個人的に関わるようになったことに起因して、米国の統一運動の生活における文師の重要性が増したことによって説明が可能である。彼はまたこの国に韓国の運動の指導者たちを連れてきたが、彼らは運動の中で次第に影響力のある人物となっていった。(注25)

 マッチングに先立つ文師の役割は本質的に二つである。第一に、メンバーに対する準備の講話の中で、彼は結婚に対して徹底して神中心の態度を取るよう彼らに奨励する。「祝福」に関する説教の中で彼は次のように語っている。
「われわれが正当化される道はたった一つしかありません。完全な服従です。『お父様、私には条件もなく、語るべき言葉もありません。どうか御心のままになさってください。私には不満はありません。服従だけを望んでいます。』そのような服従の行為のみが、神の前でわれわれを正当化することができるのであり、統一教会とはそのようなものなのです。祝福は最も貴いものであり、その資格を得るためには皆さんは真理を悟り、真理に生きなければなりません。[#傍線]皆さんにはいかなる男性も女性も見下す権利はないのです。どんな男性も女性も皆さんにはもったいないのです[#傍線終わり]。」(注26)

(注23)1975年の聖別期間は以下のように計算された。もし3年間の終わりに妻が30歳になっていれば、そのカップルは家庭を出発して一緒に住むことができる。もし3年間の終わりに妻が30歳未満であれば、彼女の30歳の誕生日まで聖別は継続する。1980年4月にインタビューを受けた1975年のカップルの中には、つい最近一緒に結婚生活を始めた者が数名いた。
(注24)インタビュー:バベッジ夫妻
(注25)ある元メンバーは、彼が運動を離れた理由の一つは、彼が「教会の韓国化」と呼んだものに付いて行けなかったからであると示唆した。個人的交流:ジョン・バンクス。
(注26)文鮮明「祝福」p.18。下線は著者。

カテゴリー: ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』89


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第89回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 今回から第六章の「四 統一教会における霊界の実体化」に入る。この節は大きく分けて「四-1 霊能師になった信者」と「四-2 清平の修練会」からなっており、前者が1980年代から始まったいわゆる霊感商法を扱い、後者は1995年以降の韓国の清平における霊的な役事について扱っている。論調はもちろん批判的である。

 この節はビデオセンターに通い始めた時点から、ライフトレーニング、新生トレーニング、実践トレーニング、マイクロでの歩みなどを描写した後に位置付けられているため、新しく伝道された者たちが一通りの教育を終えた後に進路を割り振られる話から始められる。櫻井氏はここで、特殊な事情の故に通教を勧められるもの以外は「献身の道を強く勧められる」(p.274)としたうえで、そのときに統一教会の本部教会員になったことを認定する「教会員証」をもらうと説明する。

 事情が分からない人はこの部分を「そういうものか」と思ってさらっと読み流してしまうかもしれないが、この記述は一種のトリックである。それは、統一教会の本部会員となることと、「献身」することの間には何の因果関係もないからである。たまたま両者の時期が一致したということに過ぎない。櫻井氏が示した「本部教会認定証」には、「あなたは所定の資格審査に合格し、統一教会の本部会員として認められましたのでここに証します」と書かれ、日付に続いて「宗教法人 世界基督教統一神霊協会 会長 久保木修己」と書かれている。これはおそらく「青春を返せ」裁判の原告となった元信者らが裁判に提出した証拠の文面を書き写したものと思われるが、この認定証が示しているのは、記名された人物が信仰上の所属として統一教会に入会したことだけであって、宗教法人との間に雇用関係が発生したとは一切書かれていない。

 宗教法人との間に雇用関係のある人は教会の職員ということになり、本部教会に勤務する職員のほかには、地方の教会において教区長や教会長などを務める「牧会者」と呼ばれる人々、加えて総務部長や会計などがそれに該当する。彼らが任命されるときには必ず辞令が発行される。「青春を返せ」裁判の原告となった元信者らの中で、こうした立場にいたものはいない。彼らは統一教会との間に雇用契約を結んだことはなかった。雇用関係にない者に対して教会が人事異動をするということはあり得ないことである。

 にもかからわず櫻井氏は、「献身後の統一教会員のライフコースとしては、①伝道機動隊で新規の伝道を担当する、②マイクロ隊で訪問販売を担当する、③統一教会系の企業で会社員として働き、給与を献金する、④姓名判断・家系図診断による信者や篤志家獲得に従事する、⑤統一教会の支部や本部で会計・総務を担当する等のコースが用意されている。本人に選択の余地はなく、全ての人事は本部が一括管理する。」(p.257)と、何の証拠もなしに書いている。もし統一教会の本部がこれらの人事を一括して行ったのであれば、辞令や記録が残っているはずであるが、そうしたものは一切なく、ただ信仰上の所属を示した「教会員証」が提出されているだけである。

 信仰を持って宗教団体に所属するということは、個人の内面に関することであり、それによって礼拝の参加や献金などの義務が生じるかもしれないが、それは自発的な意思に基づいて行う行動であり、宗教団体が信徒に何かを命令できるわけではない。まして宗教団体は信徒に給料を払って雇用しているわけではないので、人事や進路の振り分けなどできる立場にはない。櫻井氏の記述においては、こうした内面に関わる宗教的所属の問題と、人事異動や指揮命令という社会的契約に関わる問題がごちゃごちゃにされているのである。もし誰かが原告の元信者らに対して進路の決定や人事異動を行ったことが事実であるとすれば、それがいかなる組織のどのような人物によって行われたのか、そして彼らは宗教法人統一教会とどのような法的関係にあったのかが明らかにされなければならないわけだが、そうしたことを一切しないままに、一方的にすべて統一教会本部がやったことだと主張しているだけなのである。これは「青春を返せ」裁判の原告たちの主張と同じであり、櫻井氏はただ無批判にそれを繰り返しているに過ぎない。

 次に櫻井氏は「霊能師役」をやる人物について述べる。「一般の青年信者が人の好さそうな素朴な感じを漂わせているのに対して、霊能師役をやる女性達はスラッとして目鼻立ちが整い、如才なくサラッと話せるタイプであることが多い。筆者は脱会後数年経った三名の霊能師役をやった信者にインタビューを行ったが、当時は巫女さんの雰囲気すら漂わせていたのではないかと思われた。男性の霊能師もおり、能弁なものか非常に個性的な人達がやっていたという。」(p.275)

 こうした霊能師たちは「トーカー団」に属し、「○○先生」と呼ばれてゲストにトークをする役割を専従的にする信者であるとされる。しかし、櫻井氏によれば「統一教会の霊能師に霊能はない」(p.276)のだという。彼らはいわゆるシャーマン的な素質や操霊の技法を持っているのではなく、上司からその役に指名され、「霊能師としてのいっぱしの口上をゲスト相手に操れるよう訓練された」(p.276)信者たちに過ぎないのだというのだ。これだけを聞いたら一般の人々は、統一教会はありもしない霊能をあるかのように見せかけている詐欺集団であるという印象を受けるであろう。

 しかし、この問題はそれほど単純ではない。まず櫻井氏はそもそも、「霊能」の存在を認めているであろうか? だとすれば彼は、いわゆるシャーマンや霊能者には「霊能」が存在するが、統一教会の「トーカー」には霊能はないと主張していることになる。彼が一般的に「霊能」なるものが存在するというとき、それは「本当に」霊界からのメッセージを受けたり、霊を操っていたりするのであるが、統一教会では「偽って」霊界からのメッセージを語り、霊を操っている「演技」をしているだけであると主張したいのであろうか? だとすれば、霊能が「本当にあるかどうか」を判断する客観的な基準が存在しなければならなくなる。しかし、目に見えない世界に関わることを客観的に判断する基準は実際には存在しないのである。

 通常、宗教学はこうした検証不能な事柄に立ち入ることはしない。例えば出口ナオや中山みきに「本当に」霊能があったかどうかを調べるというようなことは、宗教学のテーマにはならない。検証する方法がないからである。宗教学は、神のお告げを受けたと主張する霊能者や教祖の言動や教えの内容を、客観的に記述することを基本とする。その真偽を判断しようとすれば、宗教学の領域を超えて神学に立ち入ってしまうからである。

 にもかかわらず櫻井氏が「統一教会の霊能師に霊能はない」と言い切るのは、自分は霊能師役をやっていたという元信者が、「あれはマニュアル通りの演技だった」と証言するからであろう。そこに印刷されたトークマニュアルのようなものが証拠として提出されれば、「これは人工的に演出された偽りの霊能に違いない」と思うことだろう。

 それでは「霊能トーク」と呼ばれてるものの内容はどのようなものだったのだろうか? 櫻井氏が277~279ページに掲載している「販売マニュアル」の内容をみると、そこには姓名判断による吉凶の判断、商品である印鑑の説明、値踏み、クロージングの流れが書いてある。要するにこれは占いを根拠として印鑑を販売するためのトークであり、開運商品を販売するためのトークに過ぎない。トークの内容は突き詰めれば「あなたの名前は運勢が悪いから、開運のために印鑑を買いましょう」ということに過ぎず、「私にはあなたの背後霊が見える」とか、「あなたの先祖の霊が苦しんでいる声が聞こえる」とというような霊能力を示す言葉は一切語られていない。このトーカーは占い師であって霊能師ではないのである。このトークを聞いたとしても、顧客はこのトーカーは占いがよく当たる人だとは思ったとしても、何か特別な霊能力がある人だとは思わないであろう。また、霊能師が担当したトーク内容としてメモが紹介されている「Wトーク」と「Mトーク」(p.280~281)の内容も、統一原理の内容を土着化して分かり易く説いたもの過ぎず、具体的に「霊が見える」とか「霊の声が聞こえる」といったことを語っているわけではない。

 霊能師といえば、かつての宜保愛子や近年の江原啓之のような人物、あるいは「イタコ」や「ユタ」のような霊媒、神憑りして託宣を受ける巫女のような存在を連想するかもしれないが、櫻井の示した「トーク」を語る「霊能師役」なる人物は、こうしたことは一切行わず、ただ一般的な運勢や霊界の話をするだけの存在である。その意味では彼らは霊能師というよりは占い師か説教者のような存在であった。もし彼らが見えもしない霊が見えると言い、聞こえもしない霊の声が聞こえると演技していたのであれば、それは相手を欺罔していたと言えるであろう。しかし、彼らが自らが信じる占いによる吉凶を語り、自らが信じる霊界の話をしたのであれば、それは相手を欺罔したことにはならない。彼らは相手を欺罔することを目的として活動していたのではなく、あくまでも自らの信念に基づき、相手の救いのために活動していたのである。櫻井氏の語る「統一教会の霊能師」とは、こうした人々であったのだ。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳35


第5章 祝福:準備とマッチング(4)

 祝福を受ける資格は、カップルとして統一運動に加入する以前に結婚していた人々に対する配慮でもある。メンバーになると、夫と妻は最低三年間にわたって聖別(性関係を控え一緒に暮らさないという意味である)し(注18)、その期間中彼らは個人として内外の必要条件を満たそうとするのである。彼らがそれを終えると、彼らは文師から祝福を受け、もともとの婚姻関係を継続するのである。

 特定のメンバーがマッチングを受けて、やがては祝福を受ける「準備が出来ている」のがいつであるかを、誰が決定するのであろうか? この質問は、内的必要条件の曖昧な性格と、外的必要条件が適用される際の柔軟なやり方を踏まえると、非常に重要である。ある個人が自分はマッチングのセレモニーに参加する資格があると信じ、さらにそうしたいという欲求を直接の上司(「アベル」もしくは「中心者」)に対して表明したとしても、個々の候補者に対する最終的な決定は統一運動のリーダーシップによってなされる。グループがまだ小さく高度に組織化されていなかった1960年代の後半と1970年代の初期には、金永雲博士が祝福の候補者を個人的に検査していた。運動が数において成長し、より構造化されてくると、地方のセンターの指導者たちがメンバーの資格を認定することに責任をもつようになった。1979年に臨時の祝福委員会が生まれたが、その主な責任はその年の5月に行われたマッチングの候補者を審査することであった。

 1979年の認証過程は以下のようなものであった。マッチングの準備が出来ていると感じた人々は、しばしば中心者と相談した後、「祝福申請書」に必要事項を記入するが、それは以下のような項目を含む比較的短い記入用紙である。候補者の名前、年齢、統一運動にいる年月の長さ、候補者のさまざまな活動や使命の記述、彼または彼女が7日断食を行ったかどうかの表示。加えて、候補者たちは彼または彼女が3年間にわたって独身生活をしてきたかを述べる。さらに、そのメンバーが運動に加入する前に性的に活発であったかについて、イエスかノーかで答えなければならない。この回答欄の隣にはスペースがあり、そこでメンバーは以前のいかなる罪でも告白することができる。最後に、申請書には将来の配偶者に関する好みを述べる箇所がある。

 運動に加入する前とメンバーであった期間の性的純潔に関する問題は、申請用紙においては簡潔に扱われているだけである。ブロムリーとシュウプは、「すべてのメンバーが告白的な活動に携わるのは、祝福の少し前に個人の『性に関する自叙伝』を真の父母に提出するのを要請されるときだけであった」(注19)と報告している。祝福申請書のイエス・ノー形式の二つの質問のほかには、インタビューを受けたメンバーたちは性に関する自叙伝が必要条件になっていることに対しては何も知らなかった。1960年代には、メンバーたちはマッチングを受ける前にそのような事柄を直接文師に告白したかもしれないが、そのときでさえそれは必要条件ではなかった。今日では、申請用紙に記入することに加えて、メンバーは彼もしくは彼女の罪(性的なものとそうでないもの)を、尊敬し信頼するリーダーに告白するという選択することができるが、これは義務ではない。

 完成した申請書は、候補者の最近の写真を添えて、3名の年長の祝福家庭の婦人(彼女たちは全員がヒエラルキーの中において重要な指導者の位置についていた)によって構成される祝福委員会に提出された。同委員会は、現場のリーダーたちから候補者に関する情報と提案を受けていたと思われる。祝福委員会は関係するデータをすべて吟味し、候補者をマッチングに相応しいと推薦するか、もしくは肯定的承認を妨げるような問題について話し合うために彼または彼女と会った。(注20)

 審査のプロセスは、とりわけマッチングの承認を受けられなかった者については、祝福委員会のメンバーによるカウンセリングによって補完される。3年間にわたってメンバーであったが禁欲生活を守れなかったので厳密に言えば資格がない者の状況に加えて、さらに三つの検討事項によって資格あるメンバーたち(外的な必要条件を満たしていた者たち)が承認を受けられずにいた。祝福委員会の議長が筆者に提示した順番に従えば、それらは(1)候補者が情緒不安定であると判定された場合。この場合、彼または彼女は専門家による心理学的支援を受けるようにアドバイスされた。(2)ある候補者は、祝福委員会によって信仰的献身において弱く、霊的に成熟するためにさらに時間を要すると評価された。(3)ごくまれなケースではあるが、候補者が自身の同性愛的傾向を十分に克服しておらず、結婚生活に入る準備ができてないということもあるだろう。議長は、彼女の委員会がこれらの微妙な問題をある程度の客観性と機密性をもって扱うことができればよいと思っており、それは一部の現場のリーダーにはないものだろうと言った。

 候補者の審査が完了すると、――1979年には1500名の審査がわずか2週間で成し遂げられた(注21)――祝福委員会はそのデータと推薦状を米国教会長の事務局を通して文師に送った。祝福委員会の組織はおそらく、以下の二つの要因によって生まれたのであろう。すなわち、1970年代の急速な運動のメンバーの増加と、メンバーの資格に対する現場のリーダーたちの判断が、公平というにはあまりに主観的であるかも知れないという感覚である。祝福委員会自体は実際のマッチングのプロセスには関わらず、それは第一に文師の責任として今日でも残されているということには留意すべきであろう。(注22)

 統一運動において結婚するための準備の一環としてメンバーたちが気を使わなければならない細かなことがもう一つある。彼らは、儀式の会場に行く自分自身の往復の交通費に加えて、マッチングと祝福式にかかるグループ全体の経費を均等に分担した金額を支払わなければならない。1970年にはこの金額は一人400ドルであり、以下の経費を含んでいた。宿泊費、ホテルからの往復の交通費、特別な衣装(祝福式のためのタキシードとウェディングドレス)、結婚指輪(それらはすべて統一運動のマークが施されていた)、およびカップルから文師夫妻への特別な贈り物である。

(注18)1965年にはこの聖別期間は7か月に過ぎなかった。文鮮明「祝福と伝道について」p.15を参照のこと。
(注19)ブロムリーとシュウプ『アメリカにおけるムーニー』p. 189。
(注20)1979年の祝福委員会の議長によれば、1980年12月に行われた835組のマッチングはあまりにも速く行われたので、この審査のプロセスは経られなかった。このときには、候補者たちは現場のリーダーたちが彼らには資格ありとサインをしたカードを持って儀式の場に現れただけであった。これは1979年以前の手続きへの逆戻りであった。
(注2)真にカリスマ的なやり方で、文師はマッチングと祝福を、それをするようにという啓示を神から受けたときにだけ告知する。神は通常、あまり早々と彼に知らせることはない。
(注22)インタビュー:ショー氏

カテゴリー: ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』88


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第88回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」において、統一教会の信者が信仰を獲得していく過程として、「16 神体験と限界突破」(p.262-266)「17 信仰が生まれるとき」(p.262-274)について論じている。ここで櫻井氏は、統一教会の信者たちが販売活動における否定の体験を、悲しみの神の心情を追体験しているととらえていることを指摘する。「この世のものを神に返す(万物復帰)ために自分が必死で走っているけれども、多くの人はわかってくれない。神様の心情もこのようなものだったんだ」(p.263)というような「気づき」の体験である。これ自体は事実であるが、その直後に出てくる櫻井氏の解説はいささか常軌を逸したものであり、統一教会における信仰生活のリアリティーを反映しているとはとても言えない。
「しかし、統一教会の献身者はそのような追体験程度では甘すぎるとして叱責されるだろう。神が求めるのは実績だけで、実績を出せないものには天は居場所を与えないとはっきり言うだろう。」(p.263)

 櫻井氏はこうした記述の根拠として、「完全投入の誓い」という文章を挙げている。これをすべて引用するのは長いので控えるが、知りたい方は以下のサイトを参照していただきたい:https://blogs.yahoo.co.jp/sadatsugu/58565940.html

 「青春を返せ」裁判の原告である元信者たちが、この「完全投入」のみ言葉を出発式などの場において唱和していたというのは事実であろう。私も原理研究会にいた学生時代には同じようなことをやった記憶がある。一番初めにこれを聞いたのは、1983年夏の新人研修会の時であったと記憶している。これは確かに激しいみ言葉であるけれども、出発の時に決意を促すためのスローガンやセレモニーのように用いられていたのであって、「み旨のため死んだ覚悟でとび込め!」と叫んだとしても、実際に死ぬまでやるわけではない。これはスポーツや営業の世界で語られる勇ましいスローガンと似たようなものであり、それが宗教的な言語で表現されているだけである。櫻井氏は現役信者の活動を参与観察したり、インタビューをしたことがないので、このテキストだけを根拠にして、「神が求めるのは実績だけ」であるとか、「実績を出せないものに天は居場所を与えない」などというリアリティーのない描写ができるのであろう。

 こうした宗教的な言語と信徒の現実の信仰生活の間にギャップがあることは、宗教学の世界では常識であり、テキストだけを根拠に実際にそのような生活が行われているという櫻井氏の主張はあまりに軽率に過ぎる。こうした間違いは、統一教会のみならず、宗教全般に生じるものである。

 たとえば、旧約聖書の中には動物の供え物を捧げる方法が事細かに記載されているので、いまでも敬虔なユダヤ教徒はこれを厳格に守って動物を供え物として捧げていると思う人もいるかもしれないが、都市に暮らす現代のユダヤ教徒にそんなことができるわけがない。私がアメリカの神学校時代にユダヤ教のシナゴーグを訪問したときに、そこのラビが説明してくれた。現代のユダヤ教徒は動物を供え物にすることはなく、それは「祈り」によって代替されているとのことである。

 また、コーランの9章5節を引用して、イスラム教では多神教徒を殺すことが奨励されていると主張するのも同じような間違いである。確かにそこには、「聖月が過ぎたならば、多神教徒を見付け次第殺し、またはこれを捕虜にし、拘禁し、また凡ての計略(を準備して)これを待ち伏せよ。だがかれらが悔悟して、礼拝の務めを守り、定めの喜捨をするならば、かれらのために道を開け。本当にアッラーは寛容にして慈悲深い方であられる。」と書いてある。これを文字通り実行すれば、イスラム教に改宗することを拒む異教徒は殺さなければならないはずだが、これはある時代の特定の状況に対して語られた言葉であり、この聖句を根拠に殺人を繰り返すテロリストたちの解釈は誤りであると大部分のイスラム教徒たちは考えているのである。このように、宗教的テキストだけを根拠にその信仰の実態を判断することはできないのである。

 そもそも、統一教会信者の信仰生活において「神が求めるのは実績だけ」であるとか、「実績を出せないものに天は居場所を与えない」などということが堂々と明言されることはあり得ず、もしあったとしたらそれは個人における信仰の歪みや逸脱でしかありえない。信仰生活における実績とは、常に「内的実績」と「外的実績」として捉えられ、それらは性相と形状、主体と対象の関係にあるため、内的実績の方がより重要であると教えるのが正統的な信仰指導であるからだ。

 「外的実績」とは、例えば何名伝道したとか、マイクロの一日の売り上げがいくらであったかというような目に見える形での実績である。一方で「内的実績」というのは、そうした活動を通じて神の心情を復帰することである。「心情を復帰する」というのは統一教会の独特な言い回しであり、特殊な日本語であるが、これは神が感じた心情の世界を追体験することにより、自分のものとして感じること、それを通して神の心情に対する理解を深めることを意味する。私が信仰指導を受けていた若いころは、いくら外的な実績を出したとしても、それを通して内的な実績を積み上げていかなければ、やがて傲慢になって自分の力でやるようになったり、霊的に枯渇するようになるから、外的な実績に振り回されることなく、常に内的な実績に集中するように指導されたものである。

 櫻井氏が掲載している元信者の「マイクロ隊の活動記録」(p.267-271)の中にも、外的な実績に相当する日々の販売実績額と共に、「隊のスローガン」「個人のスローガン」「就寝前の所感」などが記載されている。その内容は極めて宗教的なものであり、マイクロ隊で歩んでいる信者たちが単に外的実績だけを追求していたのではなく、その中に宗教的な「気づき」や「悟り」の体験を求めていたことがよく分かる。その中の代表的な言葉を拾ってみれば、以下のようになる。
「私はみ旨を愛します」「神の子として神の悲しみを担当しよう」「主と共に苦労できる時を」「天の祝福を周辺に集結させよう」「神様の御父母様を代身し、天運を動かそう」「真の愛を中心として苦労しよう。犠牲になろう」「まず、神の立場を考えよう」「真の愛を中心として神様とご父母様に侍ろう」「真の愛を中心として判断し、行動しよう」「神様に委ねて歩む」「神様の心情をたずねてみます」「真を尽くす」「サタン分別をする歩みをします」「神様を慰める歩みをします」「神様を慕い求めて歩みます」「苦労を感謝して歩みます」「低いからといって悲しんじゃいけない。高いからといって喜んじゃいけないと言われた」「実績をあげる人を自分のごとく喜べたら神様は与えざるを得ない。心情をチェック」「神様の悲しみを知った。二度と離れませんと誓った。少しでも負債を清算する歩み」「愛したいのに否定される忍耐の神様」「否定されても愛していく神様」「愛する実践。マイクロは自分を育ててくれている」

 マイクロで歩んでいたこの元信者は日々このようなことを考えながら歩んでいたのである。これは単なる経済活動というよりは、宗教的な修行と考えた方が良いであろう。

 さて、櫻井氏はマイクロにおける歩みの記録や反省文などを掲載した上で、統一教会信者の信仰の特徴について以下の3点を指摘している。
[#太字]「(1)マゾヒスティックな信仰である。」[#太字終わり](p.273)櫻井氏のこの指摘は誤りである。一般的にマゾヒズムとは、「肉体的精神的苦痛を与えられたり、羞恥心や屈辱感を誘導されることによって性的快感を味わったり、そのような状況に自分が立たされることを想像することで性的興奮を得る性的嗜好の一つのタイプである」(Wikipediaより)とされる。マイクロで歩んでいた統一教会の信者たちは、性的快感や性的興奮を得るためにやっていたわけではなく、むしろマイクロはそのような感情とは無縁の活動であった。もし櫻井氏が罪責観を常に感じながら生活することを「マゾヒズム」と呼ぶのであれば、敬虔なクリスチャンの信仰生活はまさしくそのようなものであろう。自分の罪深さや不足を深く自覚して悔い改めることはキリスト教信仰の基本である。それを櫻井氏は「マゾヒスティックな信仰」として批判するのであろうか。
[#太字]「(2)体験主義的な信仰である。」[#太字終わり](p.273)およそ体験を伴わない信仰というものはあり得ないのであるから、この分析自体にあまり意味はない。櫻井氏はビデオセンターから新トレまでの過程に関しては、ひたすら教説の学習を繰り返した後で初めて実践内容を教えられると批判してきたが、それがいよいよ実践の段階に入ると「体験主義的だ」と批判する。これは全体を通してみれば、座学で学んだことを体験しているに過ぎないのであって、極めて一般的な学習法であると言える。
[#太字]「(3)途中で離脱するものに計り知れない後ろめたさを残す信仰である。」([#太字終わり]p.274)もし離脱者が後ろめたさを感じるとすれば、それはまだ信じているからに他ならない。もはや信じられなくなった者は後ろめたさを感じないであろう。離教者の心理に関しては、アイリーン・バーカーの「ムーニーの成り立ち」で実証的な研究がなされている。彼女によれば、離教者の中には教会に対して恨みや敵意を抱いている者も存在するが、離教者の大多数が依然として、運動が自分たちの人生にもたらした変化を肯定的に見ていることを発見したと述べている。離れた後も教会での経験を自分なりに整理して、人生における成長のための一つのプロセスであったとみなしている者も多いのである。こうした事実は、裁判のテキストに頼り、実証的な調査を行っていない櫻井氏にはキャッチできなかったのであろう。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳34


第5章 祝福:準備とマッチング(3)

 これらの必要条件は、一つの絶対的な「内的」基準と、やや融通の利く「外的」基準からなっている。内的必要条件は、完成への階梯においてアダムとエバが罪を犯した地点である「長成期完成級」まで個人が霊的に成長することである。したがって、人は個性完成(即ち、第一祝福)を成し遂げる必要はなく、むしろ、既に示したように、最低限の希望は個人が神に対する確固たる信仰を確立し、彼自身もしくは彼女自身が成熟して統合された人格を持ち、地上に神の国を築くことに対して全面的に献身しているという自覚を持つことなのである。この「全面的献身」は、もちろん、統一運動のライフスタイルや目標に対して忠実であることと同義である。

 内的必要条件の一部として明示されているわけではないが、メンバーは彼らが結婚に対する準備ができているかどうかを、しばしば人間関係において神を中心とする視点を取ることができるかどうかによって評価する。私自身のインタビュー・データの要約ともいえることを、アイリーン・バーカーが以下のように報告している。
「他者を理解しようとするときには、あなたは彼らの中に自分が良いとか悪いとか思うものを見るだけでなく、神の視点から見ようと努力するのだ。神は万人を愛しており、一人一人に価値を置いている。したがって、あなたは他者の中の何を神が価値視しているのかを発見しようと努めるのだ。」(注13)

 神を中心として他者を愛することが、個人の結婚に対する準備のカギを握るという考えは、私が行ったほとんどのインタビューの中に出現した。人は、彼または彼女がどんな人でも愛することができるか、あるいはほぼそれができるときに、内的に準備ができているのである。この高貴な理想は、マッチング・祝福のときに多くのメンバーが全く見知らぬ人を愛し結婚するよう求められるであろうという点において、運動にとって重要な道具的価値を有している。

 マッチングと祝福を受ける前に個性完成を実現している必要はないため、それはメンバーが結婚した後に本当の意味で完成することを前提とした「条件的」なものである。あるメンバーの言葉によれば、
「統一教会における結婚は『条件的』なものだ。原理講論によれば、人が完成するために通過しなければならない三段階の成長期間があり、アダムとエバは長成期完成級で堕落した。したがって、我々は長成期完成級で祝福を受け、そして結婚の祝福によって堕落を元返すが、それでもまだ完成期を成長して行かなければならない。これは結婚した人は完璧なのではなく、祝福は条件的であることを意味している。なぜなら、祝福後に個人が果たすべき責任分担が残されているからである。」(注14)

 条件性の概念は、それがメンバーに対して祝福を受けた後にも自身の霊的成長を奨励することと、それが統一運動への奉仕と不可分であるという点において、社会組織としての統一運動にとって重用である。

 内的必要条件に加えて三つの「外的」必要条件またはガイドラインがあるが、それはある年と次の年では異なっていることもあり得るし、すべての候補者に対して厳密かつ公平に適用されるわけではない。あるメンバーが言ったように、「三つの必要条件を満たしていない人々も祝福を受けたことがあったし、条件を満たしていても祝福を受けられなかった人もいた。それらは本質的に助言的なものに過ぎない。」(注15)この三つの必要条件は以下のものである:(1)3名の「霊の子女」を立てること、(2)運動における3年間の禁欲生活、および(3)最低限の実年齢。三番目はメンバーによって一番重要性が低いとみなされているが、ある人がマッチングを受けるか受けないかに対しては興味深いかかわりがある。年齢の必要条件は、一部には個人の成熟のレベルと彼もしくは彼女の実年齢との間には、通常いくらかの相関関係があるという仮定に基づいている。さらに、最近のマッチングにおいては、特定された年齢が通常は男性よりも女性の方が2、3年若いのである。例えば、1979年のマッチングでは男性は26歳になっていなければならなかったが、女性は24歳になっていればよかった。この違いは疑いなく、アメリカにおいては男性のメンバーの方が女性よりもはるかに数が多いという事実によって必要になったのであるが、ほとんどのメンバーは、それに加えて摂理的な神の与えた理由がその違いにはあるのだとすぐに言及した。(注16)

 霊の子女を立てるという必要条件は、個々のメンバーが3名の改宗者を運動にもたらし、彼らが霊的に成長できるように育てることを意味する。このことが組織の成長にとって重用なのは明らかである。この必要条件はまた、親族関係のネットワークにおける義務を明確に規定することによって、グループの団結を促進する。すなわち、先輩の兄弟姉妹は特定の後輩の兄弟姉妹と特別な関係を持ち、彼らに対して責任を持つのである。そして最後に、霊の子を育てることは先輩のメンバー自身の霊的成長を促し、とりわけ生物学的な親になるための準備としての意味があるとみなされている。「初めに私は霊の子を育てることを学ぶことによってより成熟し、その後で自分の実の子供を育てるのだ。」(注17)ときにはこの必要条件を満たしていないメンバーが、彼らは近い将来それを満たすだろうという理解のもとにマッチングを許されることがあり、それは祝福が条件的であることの具体的な例となっている。

 グループの中で最低三年間の禁欲生活をすることが第三の条件である。このことが統一運動とってどのような社会学的意義を持つかについては既に論じた。ここでは、3名の霊の子女の条件と同様に、これがすべてのマッチングに厳密に適用されるわけではないことを明記するだけで十分である。1978年の秋にイギリスでマッチングが行われた。その時に明言された必要条件は4年間の独身生活であったが、4年以下の兄弟たちもマッチングに「呼ばれた」のに対して、同じ期間の姉妹たちは呼ばれなかった。この例においては、資格のある姉妹たちの相対者となるべき十分な数の兄弟たちがいなかったのである。

(注13)バーカー「統一原理を生きる」p. 89。
(注14)ブライアント「祝福に関する神学者の会議、1978年4月11日」p. 28。
(注15)インタビュー:アンダーソン氏。
(注16)若いメンバーたちは特に、文師によってなされた決定には実際的な理由と共に宗教的な理由があるという確信を抱いていた。年齢制限の実際的な性格は、とくに1979年5月と1980年12月のマッチング・セレモニーの期間中に明らかであった。そのとき、女性の最低年齢がマッチング・セレモニーの最中に引き下げられたのである。これによって、より多くのカップルのマッチングが可能になった。私が推察するには、文師は統一運動の千年紀のタイムテーブルにおいては非常に重要な年である1981年の壮大な合同結婚式を準備するために、できるだけ多くのマッチングされたカップルを作りたかったのであろう。
(注17)インタビュー:ショー夫妻

カテゴリー: ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」