ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳27


第4章 性的役割分担(4)

 ミス・アボットの言葉は、大多数の未婚の女性メンバーの考え方を代表するものである。
「私は、文字通り女性またはエバが対象で、男性やアダムが主体であるととらえるのはとっても有害だと思うわ。だって、どちらも両方の性質を自身の中に持っているんだから。あなたは自分の個性によって対象になることができるけれども、別の方法では主体になることもできるの。」(注27)

 他の女性は、両性の間のいかなる存在論的な区別をも取り除く解釈をした。
「・・・それ(主体と対象の区別)は、非常に相対的で相互的な関係、・・・授受作用なの。その図が描かれるとき、そこには授受作用があり、主体と対象の間に矢印があるわ。それは常に回転しているものなの。それは固定されたものではなく、二つの間に分割点はないの。それらは常にお互いに循環しているの。だから両方が実際には主体であり、両方が実際には対象なの。それらはお互いに反応し合っているだけなの。でも、ある時点での対象はやがて主体になるの。なぜなら、それらはこのように(彼女は自分の手を互いに回転させる)常に循環しているの。そしてそれは私にとっては、それが始まるとき、それが愛、原理講論の言っている愛なの。」(注28)

 運動における女性のロールモデルとしての文夫人に関しては、女性たちは「教会全体の母親役」としての彼女の役割に対して称賛の意を示したが、概して彼女の生き方を真似しようとは思っていなかった。「・・・彼女は愛情深い人のモデルではあるけれども、ライフタイルに関しては、彼女も私も同じ女性だから同じようなタイプの人生を歩まなければならないとは私は思わないわ。」(注29)これらの女性たちは、文師とは異なり、東洋のやり方を天のやり方と同一視していない。このことは、彼女たちが文夫人について語るとき、彼女の韓国的性質(例えば、受動性と家庭第一主義)と彼女のより精神的で普遍的な性質(例えば、人格や愛の強さや祈りの生活)を慎重に区別していることからも明らかであった。

 既婚のメンバーの性的役割分担に関する見解は、一つの顕著な例外はあったが、夫と妻の両方が相互関係、役割の交換、および彼らの関係性において愛がカギを握る力学であることを語った点において、独身女性の考え方に非常に近かった。彼は原理講論における主体・対象の図式を、「深い内的な意味」があるとみなしていたが、結婚における性的役割分担や社会を組織する上での基礎として「外面化」することに対しては反対であった。実際、私に伝えられた全般的な意味は、この図式が意味しているのは、まさにこれらのカップルが結婚において共に経験したことを示しているのだと言いたいということだった。彼らにとって重要なのは、夫や妻がどうあるべきかや何をすべきかではなく、いかにして互いに有効で調和的に関わるかということだったのである。性的役割分担の問題そのものは、関係をうまくやっていくうえでは明らかに二次的なものであり、それと同時に、彼らの神に対する信仰を反映し、彼らの個人的なニーズや個性を尊重していたのである。

 性的役割分担に関する見解の多様性は、二つの非常に異なるカップルをさらに詳しく調べることによって一番うまく説明される。最初のカップルであるランサム夫妻は、統一運動の中で「国際結婚」と呼ばれるものをしており、女性は極東の出身で男性はアングロサクソンである。ランサム夫人は、彼女の背景と気質に照らせば、彼女が夫を支配したり、夫とあらゆる点で平等な結婚では、自分は幸せを感じないだろうと説明した。一方で、彼女が統一運動に入会する以前に結婚しなかった理由として挙げたのは、彼女の国では男性が非常に強くて女性は家庭内奴隷に過ぎないからというものだった。彼女は全生涯を誰かの僕として過ごしたくはなかったし、インタビューをしている間は、彼女の夫ほど積極的ではなかったものの、まったく卑屈な様子はなかった。ランサム氏は、男性はリードしなければならないが、「東洋の文化のように支配的なやり方ではだめだ」と言った。彼によれば理想的には、「主体と対象が調和的な相互作用をなし、最終的には彼らは一体化してより高次の存在となる。その相互作用はダンスのときに起きることに似ている。初めにパートナーの一人がリードし、次にもう一人がリードするというように、ダンサーは常に位置を変え続ける。」(注30)

 我々の目的からすれば、ランサム夫人は東洋文化の産物でありながら、女性の従属的な役割を拒否したことに留意するのは重要である。さらに、彼女の夫の態度は、伝統的なアングロサクソンの男性に対して予想されるよりも、はるかに柔軟であった。ランサム氏はもちろん結婚において主体の役割を果たすのであるが、それを彼と妻の間の独特な人格的関係を反映させるような方法で適応させたのである。

 エンゲル夫妻は統一教会のカップルだが、彼らの性的役割分担に対するアプローチはランサム夫妻のものとはまったく似ていない。彼らは二人とも13年間にわたって統一運動に所属している。エンゲル氏は組織の中間管理職であり、エンゲル夫人はグループの初代家庭局長であったが、現在は老人ホームのソーシャルワーカーとして外部で働いている。彼女が世俗世界でこの位置に着いたのは、彼女と夫が二人の子供のために経済的な安定性を考慮したためである。エンゲル夫人は、およそ言葉に詰まるということのない、たくましくて社交的な人物である。彼女は、「対象」の役割により満足しているように見える夫の影を簡単に薄くしてしまう。彼は、家族にとって重要な決定をするときには、彼よりも妻の方がより大きな影響力を持つことを認めたが、これは彼にとって問題ではないという。彼も妻も、原理講論における主体・対象の枠組みは、人間関係に対する数多くの異なるアプローチを考慮に入れることができるくらいに一般的なものであり、彼らの結婚においては規定された性的役割分担よりも、愛と互いに対する尊敬の念の方がより重要であると示唆した。(注31)

 結婚における性的役割分担に対するより「オープン」なアプローチを志向する上述の「顕著な例外」は既婚の神学生で、彼の妻は一時的にヨーロッパに住んでいた。この研究のためにインタビューを受けた40名のメンバーのうち、性的役割分担に関する立場が頑固な教条主義であると分類することができたのは、キーン氏ただ一人だけであった。
「性的役割分担は明らかにある。男と女には違いがある。そして役割もそれから自然に形成されるものだ・・・。だから、ほら、私は子供に授乳したりしない。私の妻がそれをするだろう? そして彼女が家にいてそれをしている間、私は外に出て新聞配達をしたり、ニューズ・ワールドで働いたり、神学校に行ったり、他のことをしたりする。だから、性別に基づく基本的な性質の結果としての明らかな役割というものがあるのだ。」(注32)

 彼によれば、生物学が無条件に運命を決定するようだ。すべての女性は理想的には家に属している。今日の運動において女性がリーダーの位置についているのは、一時的な手段に過ぎず、摂理歴史のこの決定的瞬間における方便に過ぎない。ひとたび天国が地上に確立されたら、男性だけが支配するのであろう。(注33)

 キーン氏を除いて、ランサム氏とエンゲル氏は、インタビューを受けた8つのカップルの中では、二つの相異なる視点を代表している。前者はやや伝統的な夫婦関係を反映しており、後者は配偶者の性格やニーズに強く基づくアプローチである。その他の6つのカップルはこれらの両極の間のどこかに位置している。これらのインタビューに基づき、筆者は統一運動の結婚における性的役割分担のパターンは、おそらく米国におけるカップルのランダム・サンプルから得られるものと大差ないのでははないかと思った。独身の女性と既婚のカップルから得られた情報のより包括的な社会学的分析は、この章の最後に示されるであろう。

(注27)インタビュー:アボット女史
(注28)インタビュー:マリー女史
(注29)インタビュー:アボット女史
(注30)インタビュー:ランサム夫妻
(注31)インタビュー:エンゲル夫妻、インタビュー:エンゲル氏、個人的交流:エンゲル氏
(注32)インタビュー:キーン氏
(注33)キーン氏は、私が会った中でニュースメディアや反カルトの文献によって描かれたステレオタイプを完璧に表している唯一のムーニであった。他の問題に関する彼の考え方も同様に頑固であり、おそらくこれは根本主義のキリスト教徒としての背景が表れたものと思われる。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』80


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第80回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」において、統一教会信者たちの信仰や思考のあり方を分析する目的で、「12 演繹的思考と帰納的思考」という議論を展開している。演繹とは与えられた命題から論理的形式に頼って推論を重ね、結論を導き出すことであり、帰納とは個々の具体的な事例から一般に通用するような原理・法則などを導き出すことを意味するのは、いわば常識である。櫻井氏は、自然科学や数学は演繹的思考を用いるのに対して、人文学・歴史学・社会科学などは帰納的方法が多く使用されるという。厳密にはどの学問にも演繹的思考と帰納的思考の両方が用いられるが、櫻井氏はかなり大雑把な手法で学問を二つの分野に分けている。

 しかし、櫻井氏が演繹的思考を用いる学問として見落としている、あるいは意図的に避けていると思われるものがある。それは神学である。神学とは信仰を前提とした上で、神をはじめとする宗教概念についての理論的考察を行う学問である。一般的なキリスト教神学においては、神が存在すること、聖書が神の啓示の書であること、イエスがキリストであることなどは、人間の帰納的な思考の結果として導かれる結論ではなく、学問の大前提として予め与えられている「真理」なのである。つまり、それを信じる立場で出発する学問であり、データを取ることによってその真偽を検証しようというような発想はしないのである。キリスト教神学は、こうした大前提のもとに個々の教義の詳細を論ずる学問であるという点において、徹底した演繹的思考を用いる学問である。しかし、神学は自然科学に分類されることはなく、哲学や宗教学に類似するものとして、人文学に分類されるのが普通である。櫻井氏は人文学においては帰納的方法が圧倒的に多く使用されると述べているので、彼の論法によれば、神学はその中の異端的学問ということになるであろう。

 櫻井氏がこうした神学の特徴を知らないわけはないが、彼があえて神学に触れることを避けたのは、神学的思考とはすなわち宗教的思考であるため、それについて説明してしまえば、統一教会信者の発想や思考とほとんど区別がつかなくなってしまうからである。櫻井氏としては、統一教会信者の思考法を非科学的で異常なものとして描きたいのであるから、それとそっくりな思考法が「神学」という伝統ある学問として存在していることが分かってしまえば都合が悪いので、あえて触れていないものと思われる。

 櫻井氏はこうした学問的思考法をモデルとして、人間観、歴史観、社会観の獲得に話を進める。彼によれば、一般の人達は具体的な事柄から認識を導き出す帰納的方法を使っており、それによって人間観・歴史観・社会観を作り上げるという。これが彼の言う「人間の諸科学の営みや日常生活の思想」ということになるのだが、それに比べると統一教会の学習法は「極めて特異な学習過程」(p.252)であるという。一般的な人間の思考が帰納的であるという彼の前提もかなり大雑把で怪しいものだが、統一教会の学習方法の特異性に関する彼の説明は、明らかに事実と異なり、偏見に満ちたものになっている。その一つ一つを検証してみよう。
「(1) 演繹的発想により自然を説明しようとする。」(p.252)ここでは創造原理の二性性相の部分が取り上げられているが、『原理講論』をよく読めば、帰納法と演繹法の両方がこの議論では用いられていることが分かるはずだ。『原理講論』は、神の性質について知るために、被造物の中に潜んでいる普遍的な共通の事実を発見しようとする。その結果、人間には男と女があり、動物には雄と雌、植物にはオシベとメシベ、分子・原子・素粒子にはプラスとマイナスの電荷があることが分かったので、そこから一般的な法則として「陽陰の二性性相」を導きだし、その原因的存在である神もまた「陽陰の二性性相」を持った存在であると論じている。これはまさに帰納的な論理展開である。そして、それはそもそも神ご自身が陽陰の二性性相の中和的主体であるため、それに似せて創られた被造物はすべて二性性相になっているのであるというとき、それは演繹的な論理展開である。

 創造原理の二性性相に関する議論は一種の自然神学であると言えるが、神についての認識を啓示によらず、理性によってのみ探究していこうとするため、自然神学は基本的に帰納的方法を用いる。しかし、理性的な観察によって得られた法則を一般化して世界に当てはめようとするときには、その発想は演繹的となる。これは科学の分野でも同じであり、データの分析から得られた法則性を仮説として立て、それを一般化してより広範な事象を説明しようとするとき、帰納法と演繹法を交互に用いながら思考していることになる。これは人間の思考の基本パターンであって、櫻井氏の言うように学問によって単純に分類できるものではない。『原理講論』の説明の中にも、その学習過程にも、統一教会の信徒の思考の中にも、帰納法と演繹法は混在しているのであって、「統一教会の信徒は演繹的な思考法しかできない」などということはあり得ないのである。

 宗教を信じる者の日常生活においては、信仰を中心として発想しているときには人は演繹的になる。疑うことの許されない大前提が存在し、そこから「こうあるべきだ」という思考をするのが信仰というものである。しかし、宗教を信じる者も日常生活のすべてのことを信仰に基づいて演繹的に思考しているわけではない。信仰とは本質的に関係のない日常生活の雑事は経験に基づいて判断していることがほとんどであり、人は時と場合に応じて帰納法と演繹法を使い分けているのである。問題は、信仰を中心とする演繹的思考と、経験に基づく帰納的な思考が矛盾・対立するときであり、こうした瞬間は常に信仰者に訪れる。それは時には信仰の危機になり、時には信仰の飛躍にもつながるという両面性を持っている。この問題は、「信仰と理性」「啓示神学と自然神学」の内容にも通じる神学の古典的なテーマだが、どうも櫻井氏にはそのような神学的センスが欠如しているようで、極めて乱暴で大雑把な議論になってしまっている。

 櫻井氏の記述によれば、創造原理の説明では陰陽説の二元論を仮定として、そこから霊肉二元論が演繹的に導かれるかのような説明がなされているが、実際には創造原理がこのように教えられることはない。創造原理で説明している二性性相には「陽性と陰性の二性性相」と「性相と形状の二性性相」の二種類があり、霊と肉は後者に属するものであるから、両者に直接的な因果関係はなく、「陽陰の二元論があるから霊肉の二元論も正しい」というような説明がなされることはない。人間に男と女がいることは客観的に観察可能な事実であるが、霊魂や霊界があるかどうかは我々の五官で経験的に観察できるものではないので、「人間には男と女があるのだから、霊と肉もあるはずだ」というような議論に説得力がないことは誰の目にも明らかであろう。こうした稚拙な議論ができるのは、櫻井氏が原理講義を直接聞いたことがないためであると思われる。あきらかな取材不足だ。

 また、受講生が創造原理を受け入れていく理由に関して、「陰陽説の二元論を仮定とする以上、霊肉二元論の結論だけを否定しても、導出の論理自体が正しいために理解不足という指摘をされてしまう。陰陽説の根本原理まで遡って否定できる人は極めて少ないために、受講生の多くは直感的にはひっかかる事柄があっても、論証の過程に圧倒されて疑問を出せないまま、結論を承認せざるをえないという心境に至るのである。」(p.252)と記述しているが、これは宗教的回心というものに対する彼の根本的な無知あるいは偏見を表明しているような文章である。

 そもそも人は、理路整然と教義を説明され、それに対して反論できなかったり、反論しても論破されてしまったからという理由で、その宗教に回心するのであろうか? 回心とは、理論的に反駁できない教義の結論をしぶしぶ承認することなのだろうか? そんなことはない。筆者はこれまでに、原理に反論できずに悔しい思いをして、それでも原理を受け入れずに去って行った修練生をたくさん見てきた。理論的に圧倒したからといって人は伝道されるものではないのである。人が原理を真理であると受け入れて回心する理由は、それが自分の過去の人生や現在の状況、あるいは自分の理想とする生き方に対する「説明理論」として納得できるからであり、そのことに感動するからである。宗教とは自分自身や世界について説明する「物語」であり、人が回心するということは、ある宗教が説いている物語を、「自分の物語」として採用することを意味する。それは単に教義に理論的に反駁できなかったからといって起こるものではなく、自分の人生と宗教的教義の間に何らかの実存的な出会いがなければ起こらないものなのである。

 宗教学者であるはずの櫻井氏に、なぜこのことが分からないのであろうか? それは資料に問題があるためである。櫻井氏が調査対象とした人々は、「青春を返せ」裁判で統一教会を訴えている原告たちが中心である。彼ら(彼女ら)は一度は統一教会に入信し、熱心に活動までしたのであるから、何らかの宗教的回心を体験しているはずである。ところが、彼らは自らの宗教的回心が真正なものであることを認めてしまうと、主体的な信仰を動機として活動したことになってしまうために、教会に対して損害賠償を請求できなくなってしまう。それでは訴訟が成り立たないので、自分が回心した過程を正直に描写するのではなく、教会の巧みな誘導によって説得され、納得させられた「受動的な被害者」として描写する必要があるためだ。こうした目的に基いて書かれた歪んだ描写を基礎資料としているところに、櫻井氏の研究の致命的な欠陥がある。

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ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳26


第4章 性的役割分担(3)

 もし文師の精神的な教師および(文夫人と併せての)ロールモデルとしての影響力が、統一運動における性的役割分担のすべてを物語るのであれば、男性と女性の適切な行動様式に関するグループ内での多様性などというものを期待することはまったくできないであろう。しかしながら、実際にはそうではなく、アメリカにおける運動のメンバーの間には、性的役割分担に関する理解に極めて広い多様性があることをデータは示しており、その見解は文師の韓国的姿勢に対する文字通りの無批判的な忠誠から、女性に関するいくつかの誤解を明確にするために原理講論は現在のものから改訂されなければならないと発言した女性信徒の見解に至るまで、実にさまざまである。(注19)インタビューを受けた統一教会の女性には「過激なフェミニスト」に分類される者はいなかったが、運動内部の未婚の女性たちと既婚のカップルは、アメリカの文化を背景にして、彼らにとって神学的にも実存的にも意味をなす適切な性的役割分担を決定するために葛藤している、と信じるに足る理由がある。(注20)興味深いことに、文師の立場と調和する傾向にあるメンバーは概して未婚の男性である。

 統一運動における性的役割分担について考えることは、男性が主体であり女性が対象であるとする原理講論の一節を巡って展開する(注21)。標準的な英語においては、「対象(object)」という言葉が人間に当てはめられたとき(例えば「性の対象=sex-object」)には否定的な意味合いがあるため、対象の立場に立った者が主体の立場に立った者と等しい価値を持ち得るということ理解するのに、この研究者は非常に困難を感じたのであるが、すべての情報提供者がそれは本当だと言ったのである。等しい価値を持った主体と対象ということが意味しているのは、統一原理に基づいた神を中心とする文化においては、現代の世俗化された世界においてはしばしば過小評価される受動性、従順、養育、およびそれに類似した態度は、より自己主張的で積極的な態度と同じくらいに重要であるとみなされるということである。したがって、新しい理想的な文化の脈絡の中においては、メンバーたちにとってはその文化の発達段階の核が統一運動なのだが、主体の役割と対象の役割の等しい価値について語ることは意味をなすのである。

 上述のように未婚の男性は、文師によって支持され原理講論において強く示唆されている韓国モデルをより厳密に順守しているように見える。彼らは男性と女性に異なる存在論的な像を描くことによって性的役割分担を描写する。ボーデン氏は、「女性はリードされたいし、男性はリードしたいのだ」という見解を示した。そればかりか、これは彼の側の主観的あるいは道徳的な判断に過ぎないのではなく、「物事の真の姿」であると彼は信じているのである。(注22)男性と女性は生まれながらにして異なっており、したがってある程度固定された特定の役割に本質的に引き付けられるのだという概念は、未婚の男性との会話において頻繁に登場した。
「原理講論は女性の心の構造は(男性とは)異なっていると教えている。例えば、男性は抽象的に思考して新しい考えを展開するのを容易だと感じるのに対して、ほとんどの普通の女性はそれができない。同じ教育レベルの男性と女性を比較すれば、男性が自然に支配するようになるのに対して、女性は強制しないとできない。」(注23)
「私は、男性が女性以上に果たすべき一定の役割があり、女性が男性以上に果たすべき一定の役割があると思う。なぜって、ほら、私たちは家庭をとても強調するので、もちろん女性は子供を育てるうえでより多くの役割がある。そして外で仕事をして、世界と関わるのがより男性的な性質であると思う。」(注24)
「おそらくリーダーシップを発揮する位置は、その性質ゆえに男性がより能力を発揮すると私は考える傾向にある・・・家庭を営むという観点からは、男性は赤ん坊に乳を飲ませることはできないし、子供を育てることはしない。女性の生活の中心部分は家庭生活であるべきだ。」(注25)

 事実上これらすべての男性は、文師がアメリカ人の男性をリーダーの位置に復帰させる努力を始めた年である1971年以降に統一運動に入会している。1970年代の多くのアメリカ人男性と同様に、これらの若い男性たちが我々の社会の中で数を増大させつつあった解放された女性たちと関わろうとする中で、男性としてのアイデンティティー・クライシスを経験したと考えるのはもっともらしい。これが本当であることは、彼らの多くが統一運動に回心する前に経験した女性との親密な関係は、不満足なものであったと語った事実に暗示されている。運動は彼らに明確に定義された男性の役割を提供したのかもしれない。そしてそれは、世俗社会において機能している、より曖昧でより高度に分化した役割よりも、彼らにとってより心地よい役割だったのかも知れない。さらに、統一運動が家庭の神聖性を強調していることを考えれば、全般として非常に保守的・伝統的な価値観を持っているメンバーを魅了すると信じるに足る理由がある。それに加え、統一運動は組織において男性がリーダーシップを発揮することを強調しており、これにより彼らがなぜ自身の社会的位置を具体化するような方法でその神学を解釈する傾向にあるのかが明らかになるのである。

 未婚の女性メンバーは、運動における性的役割分担の理解において、男性の同僚たちと極めて対照的であった。彼女たちは原理講論の中の男性が主体で女性が対象であるという一節を知っていたが、彼女たちは独身の男性たちよりも、もっとダイナミックで実存主義的な方法で人間の役割と関係性を解釈したのである。彼らは自分たちにとってカギを握る原理講論の一節を特に強調したのだが、それは「男性には女性性相が、女性には男性性相が各々潜在しているのである」(注26)という部分であった。

(注19)インタビュー:マリー女史
(注20)これはある社会運動が一つの文化から他の文化に移植されたときに、その中に生じる緊張の典型例である。私がアメリカのメンバーたちと接触する中で、彼らの多くが文師の性的役割分担に関する見解を(例えば清めの儀式に塩を使うことや、まぶたを攻撃する眠りの悪霊を追い出すといったような、いくつかの韓国の風習と共に)、本質的に文化的なものであり、したがって、彼らの信仰の本質的な部分ではないみなしている、という印象を強く受けた。あるメンバーはこれらの韓国的要素に言及するとき「キムチ」という言葉を用いた。キムチとは、文字通りの意味はスパイスを施した白菜のことだが、韓国の食事においては必需品である。
(注21)「神が男性であるアダムの肋骨を取って、その対象としての女性であるエバを創造された・・・(創二・22)。我々はここにおいて、神における陽性と陰性とを、各々男性と女性と称するのである。」『原理講論』p.24。p.33、pp.48-49、および特にp.91も参照のこと。
(注22)インタビュー:ボーデン氏
(注23)インタビュー:ボルトン氏
(注24)インタビュー:アダムズ氏
(注25)インタビュー:リギンズ氏
(注26)『原理講論』p.21

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』79


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第79回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」において、「11 実践トレーニング」(p.249-251)の内容について説明している。彼によれば、実践トレーニングの講義内容は以下の通りである「一 公式七年路程、二 万物復帰・伝道(実践)、三 展示会思想(実践)、四 祝福の意義と価値、五 反対派」(p.249)。

 このうち、一と二と四は統一教会の教義の説明であると考えられ、教会で用いられている用語と一致している。「展示会思想」は統一教会の教義には存在しない言葉だが、櫻井氏によると「信者の家族・親族・友人を宝飾品・着物・絵画等の展示会に誘う等、販売促進員となることだ」(p.249)という。これは要するに営業活動なのであるが、当時は連絡協議会の信徒たちがこうした商品を扱う会社を設立して販売を行っていたため、現場の信徒たちがその営業活動に宗教的な意義付けをして教育を行っていたと考えられる。「反対派」というのは、拉致監禁を伴う強制改宗を行う「反対牧師」と呼ばれる人々が実際に存在するため、それに対する対策の講義として行ったものであろう。こうした迫害から信徒を守るための教育を行うことは当然である。

 櫻井氏は、「実践トレーニングの講義題目が、統一教会員のなすべき全ての信仰実践を示している。」(p.249)と述べている。それでは、ここまで来るのに通常どのくらいの時間がかかるのであろうか? 櫻井氏の記述によれば、勧誘されてから統一教会の信者になることを決意するまでの期間は4ヶ月が突出して多く、それはフォーデーズセミナーを終えた時点であるという。(p.211)その後に一ヶ月の新生トレーニングが続き(p.245)、その後さらに数ヶ月の実践トレーニングが続く(p.249)ことを考慮すると、受講生が統一教会とはどんなところであり、どのような信仰実践があるのかを知るまでにかかる時間は、出会ってから半年ほどということになる。しかも、新生トレーニングと実践トレーニングにおいては、いま自分が学んでいるのは統一教会の教義であるということを知った上で学んでいるのである。櫻井氏は「正体を隠した伝道」を強調するが、多くの受講生は出会って4ヶ月で自分の学んでいるものが何であるかを知り、半年でそこで行われている活動の中身を知るようになるのである。つまり、その時点で自分が聞いてきた宗教的な世界観や実践を受け入れるか否かを判断するための、基本的な情報をすべて与えられるわけだ。人生の中において、これは決して後戻りできないほどに長すぎる時間ではないし、実際に「いい勉強だったが自分には合わない」と言って、トレーニング終了後に関係を絶ってしまう受講生も多数いるのである。

 以前に一度紹介したが、東京における「違法伝道訴訟」に原告側が提出した証拠(甲第57号証)には「4DAYS現状調査」という、フォーデーズ参加者の追跡調査を行った表がある。これは連絡協議会傘下の東東京ブロックの青年支部が行っていた伝道活動に関する資料であるが、1988年の11月から1989年の3月までのフォーデーズ新規参加者数が438名となっている。そのうち新生トレーニングに進んだのが288名で、実践トレーニングに進んだのが165名、その中で「フリーになる」、すなわち仕事を辞めて連絡協議会で専従的に活動するようになった者(いわゆる「献身者」)は18人となっている。この数は実践トレーニング参加者の11%に過ぎない。櫻井氏は「正体を隠した伝道」と巧みな誘導によって受講生は統一教会の命ずるがままに行動するしかない状態に追い込まれていくかのような記述をしているが、勧誘する側の目的が「献身者」を生み出すことだったとすれば、実際には大多数の人が実践トレーニングを終えた時点で、それに対して「ノー」と言える判断力を持っていたことをデータは示している。ここでも我々が認識するのは個人の自由意思の存在であり、受講生たちは教えられた内容に対して十分な抵抗力を持っていたことが分かる。その中で信仰の道を行くことを選んだ人は、圧力の犠牲者ではなく、自らの自由意思によって主体的な決断したということである。

 さて、櫻井氏は「一連のトレーニングにおいて、教義の学習を終えてから最後に実践内容を語るというのは筋が通ってるように見える。」(p.250)ということを認めておきながら、それを語学の学習になぞらえて、「学び始めるものが何を学ぶことになるのかを最初に教えられていない」と批判した上で、その言語がどこで使用され、話者はどのような文化・歴史・国家を持った人かを知らないまま、ただひたすら文法の学習を泊りがけで行い、特定言語を母語に優先して用いるという選択を最終的に迫られるという経験をすることになるという、荒唐無稽な例え話を展開している。そもそも、何語であるか分からない言語の文法をひたすら学び続け、それを母語に優先して用いるようになるというような状況は実際に起こりえないことなので、例え話として意味をなさないであろう。

 しかし、あえて櫻井氏の強引な例え話に合わせてストーリーを作ればこういうことになるだろう。ある人が、何語か分からない意味不明の言語を用いて会話している人々に出会った。その人は日本語も喋れたが、そのグループの人だけが理解する言語で会話しているときの様子はとても楽しそうで生き生きとして見えたので、よく分からないがその言語を学んでみようという気持ちになった。言語の習得は一筋縄ではいかず、泊りがけの合宿に参加することでようやく身に付いてきた。やがて少しづつ自分もその言語を使えるようになってくると、その言語でしゃべることが嬉しくなり、その言語でしか体験できない仲間意識や共同体意識というものが芽生えてきた。そしてある日、その言語は自分たちが理想とするある外国の言葉で、その国の国民となるためには言語の習得が義務付けられていることを初めて明かされる。そして、あなたも母国を捨ててその国に移住してみないかと誘われる。すると、その言語を通して得られた仲間意識や共同体意識に強烈に魅了された一部の者は移住を決意したが、残りの者はやはり日本での生活に未練があり、見たこともない外国に行くのは不安だということで言語の学習を辞めてしまった。ここで「言語」を統一原理に、「理想とする外国」を天国に置き換えれば、伝道されるということがどんなことかを、一つの例えとして表現していることになるであろう。この例えが荒唐無稽だと思った人がいたとすれば、それは櫻井氏の最初の例えに無理があったということだ。

 さすがにこの例えは飛躍があると思ったのか、櫻井氏は「言語と宗教では比較の次元が異なるかもしれないということであれば」(p.250)という言い訳をしたうえで、異なる宗教間の対比へと話を持っていく。彼は特定宗教の中身を知る方法として、①出版物による教説の理解と、②指導者や信者に宗教活動や信仰生活の実態を尋ねる、という二つの方法をあげ、既成宗教においては①と②の両方とも誰でも可能だが、統一教会においては一般市民は①も②もほとんど機会がないと言っている。これは単に、仏教や神道などの日本のメジャーな宗教と、比較的小規模な新宗教である統一教会では、一般市民が持っている情報量が異なると言っているに過ぎない。そしてその結論として、「要するに、宗教実践に関わる何の情報も持たず、与えられることもなく、ひたすら教説の学習を繰り返されてきたのが統一教会の入信者達である。」(p.251)というような無理な結論を導き出している。確かに統一教会の教義や信仰生活の実態は、多くの日本国民に知られていないであろう。しかし、そのこと自体が悪いのではない。知らないからこそ、興味や関心を持った人はそれを学ぶのである。

 櫻井氏の論法は、特定宗教に対する前知識のない人は、その宗教について正しい判断ができないという結論に持っていこうとしているが、人は必ずしも前知識や冷静で客観的な比較検討によって宗教を選択するわけではない。たまたま出会った見ず知らずの人と恋に落ちることがあるように、前知識のない宗教にいきなり出会って、それを一生信じるようになる人もいるのである。そもそも世にあるすべての宗教の教義や実践内容を知ることはできない以上、人はたとえたまたま出会ったとしても、自分に合っていると信じられる宗教を選択するのである。そしてそのときに判断材料として、まずはその特定宗教の教説を知的に一生懸命学ぶことは至極まっとうな方法である。

 ひたすら教説の学習を繰り返した後で初めて実践内容を教えられるという櫻井氏の批判についても、「教義が先か? 実践が先か?」という選択の問題であり、科学の教育における「座学が先か? 実験が先か?」と似たようなテーマである。人にはいろいろなタイプがあり、理論面から関心をもって実践に移っていく人もいれば、体験を重視して理論は後からついてくるという人もいる。宗教団体の個性も同様にさまざまで、まずは教義を理解することを重要視する主知主義的な宗教も存在すれば、「考えるよりも先に体で感じなさい」という体験重視型の宗教も存在する。櫻井氏の調査対象となった元信者たちは、前者の体験をした者が多かったというだけのことであろう。これが教会内で生まれ育った二世信者になれば、事情はまったく異なる。彼らにとって統一教会の信仰は生まれたときから生活の一部であり、教説について本格的に学び始めるのは中高生程度まで成長した後である。実際には、ひたすら教説を叩きこまれなければ統一教会の信徒になれないというわけでもないのである。

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ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳25


第4章 性的役割分担(2)

 文夫人の「天宙の母」という高貴な地位は、現在進行形の運動の生活において実際に彼女が果たしている役割とは、むしろ著しい対照をなしている。彼女の夫はその時間とエネルギーのほとんどをメシヤとしての使命に捧げているのに対して、彼女はほとんど背景にとどまっており、主人の家を管理し、12名の子供たちの世話をしているのである。(注9)その点において、彼女は妻と母親の適切な役割に関する文自身の教えを反映しているのである。運動の母親たちとの会合において、彼は以下のように説明している。
「原理によれば、男性を堕落させた責任はエバにあったので、母親は子女たちの正しい教育に対して責任を持たなければなりません。・・・ですから、母親の役割に革命を起こさなければなりません。第一に、彼女たちは子供たちをよく育てなければならず、第二に彼女たちは夫によく仕えなければなりません。」(注10)

 さらに、「教会に対する母親の責任に関して言えば、彼女は自分の夫に仕える以上に教会の指導者たちに仕えなければなりません。なぜなら、彼らは神の位置に立っているからです。」(注11)子供たちと夫と運動に奉仕することにおいて、文夫人はこれらの理想を具現化しており、また一部の女性メンバーにとっては役割モデルとなっている。

 文夫人の役割は現在変化の過程にあると信じるに足るいくつかの理由がある。1977年以降、彼女は運動の生活においてより積極的な役割を担うようになり始めた。「子羊の婚姻」の17周年記念式典の場において彼女は最初の「公的な」証しをしたが、その短い話の中で彼女は再臨主の花嫁として選ばれたことの霊的な意味について話した。彼女は、神の道に従う立派な信仰者となるための自身の葛藤について語ったとき、翻訳者のコメントによれば、しばしば感極まって涙を流したという。(注12)彼女のスピーチが終わると、文夫人がアメリカを代表する5組の祝福家庭に対して、さまざまな用途に使える銀の洋食器のセットを授けるというアナウンスがなされた。司会の朴普煕は、この贈り物は二つのことを象徴しており、一つは祝福家庭の「定着」に対する真の父母の願いであり、もう一つは「教会におけるお母様の公的役割の増大」(注13)であると説明した。この新しい役割の性格はまだ明らかになっていないが、文夫人の子供たちが成長するにしたがって、彼女が家の外での活動により多くの時間を投入することができるであろうと理解することはできる。著者が対話したアメリカのメンバーたちは、彼女がグループのより多くのメンバーたちと接するようになり、また運動の外部の人々にもより広く認知されるようになってほしいという強い希望を表明した。

 性的役割分担に対する文師の態度は、彼がアメリカの文化に徐々に明るくなっていった結果として変化しているという一般的な感覚を、多くのメンバーが抱いている。彼と彼の家族は1971年に米国に来て、永住ビザで留まっている。その時以来、彼は運動における女性の役割に関してはより「リベラル」になったきたと著者は告げられた。彼がどのように変わったのかを尋ねられると、情報提供者は具体的な例を二つだけ挙げた:
1.彼は女性が高等教育を受けるという考えを是認した。統一教会のメンバーの36%が女性であるという事実に照らしてみると、神学校に行ったり大卒の仕事をしている全メンバーの約三分の一が女性であるというのは興味深い。また、真の父母の長女は、東部の一流の小規模な大学の教養課程で学んでいる。
2.文師はいま、夫人から長年にわたって受けてきた足のマッサージを、お返しに夫人にしてあげているが、これは韓国の慣習に反することである。

 女性に対する高等教育を支持するということは、何世紀にもわたって女性に家の中の仕事だけを命じてきた文化に深く根差した一人の男にとっては、大きな変化であるように見える。しかしながら、「お父様」はそれでも本質的に神を中心とする男性優位の文化を確立しようとしていることを、大部分の証拠は示唆している。1965年3月から1979年5月までの日付のついた文の説教とスピーチを著者が調査した結果、文の女性観が変わったという主張を確証することはできなかった。彼の基本的な視点は、この14年間一貫しており、以下に示す1974年の説教の引用の中に見出すことができる。
「西洋の女性たちは東洋のやり方を学ばなければなりません。もし皆さんの夫が西に行けば、皆さんも西に向かわなければなりません。彼が北に向かえば、彼に従っていかなければなりません。[#傍線]これは東洋のやり方ではなく、天のやり方なのです[#傍線終わり]。」(注14)

 一年後の別の説教では、文は性的役割分担における「天のやり方」に対する神学的で準経験的な議論を展開している。彼の見解では、「愛の根源はもちろん神様であり、神様からそれは男性を通して降りてきて、女性に至るのです。」「愛の秩序」の「証明」は三つの現象の中に発見することができる:(1)男性は天を象徴し、女性は地を象徴する;(2)性行為において男性は女性を見下ろし、女性は男性を見上げる;(3)人体の構造において、男性は肩幅が広く、女性はおしりが大きくなっている。(注15)

 女性の役割に関する文の見解が大きく変わっていないことは、この国に住居を定めて以降、彼が運動におけるリーダシップの大きな変更に対して主要な責任を負っているという事実に示唆されているとみることができる。1971年以前は、アメリカのリーダーは主として女性であり、その中でも注目すべきは金永雲であった。米国の運動の初期において女性のリーダーシップが優勢であったというロフランドの参考文献(注16)は、「古い」メンバーへのインタビューによって繰り返し確認されたが、彼らはみな1970年代におきた男性優位のヒエラルキーへの変化は、この国に文師がいたことが原因であるとした。(注17)文師はアメリカ人の男性がリーダーになることを学ぶ必要があると信じているのだと彼らは説明した。「神の御旨に対する代価」という1974年の説教の中で、文自身が以下のように説明している。
「創造原理によれば、男性は主体の位置にいるのです。あなたがたの国はレディーファーストの国なので、アメリカ人の男性はそれに慣れているのです。誰が主体ですか? 男性です。男性たち、答えてみなさい。」(注18)

 著者はこの問題に対する直接的な証拠を持たないが、男性に指導者への道を開いたことが、現時点で運動には女性のメンバーより男性のメンバーの方が相当多いことを説明するかもしれないと仮定するのは合理的である。この説明が正しいかどうかは別として、文師が女性に対する高等教育を是認したこと以外は、性的役割分担に関する彼の立場が伝統的な儒教およびキリスト教の男性優位の視点を反映していることは、実証によって明らかである。

(注9)運動の文献、とりわけ一般大衆に向けられた出版物において文夫人が目立つようになったのは、ほんのここ数年のことである。
(注10)文鮮明師「母親たちとの会合」朴普煕による通訳と一部要約、『季刊祝福』(第2巻、1号、1978年冬)
(注11)前掲書、p.30。
(注12)「お母様の証し」『季刊祝福』(第1巻、2号、1977年夏)、pp. 18-22。
(注13)「真の父母の日記念」『季刊祝福』(第1巻、2号、1977年夏)、p.68。
(注14)文鮮明師「道」、『マスター・スピークス』(MS-423, 1974年5月30日)、p.7、(下線は著者による)。
(注15)文鮮明師「家庭生活の真のパターン」『マスター・スピークス』(MS-459, 1975年3月7日)、p.4。
(注16)ジョン・ロフランド「終末論を解くカルト」, pp. 212-216。
(注17)10チームのI.O.W.C. (国際統一世界十字軍)が伝道活動のために1972年から1974年にかけて編成された。指揮官は全員が男性であり、これらのチームに任命された56名のうち女性は3名だけであった。デビッドS.C.キム (編)「希望の日レビュー」 (ニューヨーク:統一教会、1977年):p.404-409。
(注18)『マスター・スピークス』(MS-452), p. 10。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』78


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第78回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」において、新生トレーニングにおいて説かれる実践的な信仰規律について説明しているが、前回は「(2)カイン・アベルの教訓」に対する彼の批判に反論した。今回はその続きである。
「(3)イサク献祭の教訓。一〇〇歳のアブラハムと九〇歳のサラとの間に生まれた子がイサクで、神は彼と契約を立てるとまで言った。しかし、神はイサクを燔祭に献げるようアブラハムに言い、アブラハムはイサクに手をかけようとしたとき、神はアブラハムが神を畏れるものであることを知ったと言った。ここから、最も大切なもの、我が子すら神のものであり、神にお返しすることが信仰、義とされるという。この世のものは全て神のものであり、神は万物を主管される方であることを強調する。実践信仰としては、自分の所属するもの全てを神に捧げることが信仰の始まりとされる。」(p.248)

 ここで述べられている「イサク献祭」は、聖書の物語を題材とした宗教的言説であり、こうした言説自体は信教の自由によって保証された領域に属することは言うまでもないが、櫻井氏によるこの教説の解説は誤っている。「イサク献祭」の教訓は万物を神にお返しすることではなく、神の命令に絶対的に従う信仰の重要性を説いているのであり、その点で既存のキリスト教の聖書解釈と相通じるものである。神がアブラハムに「イサク献祭」を命じた動機に関しては、「イスラエル民族から人身御供の習慣を絶つため」といったものも含めて、複数の解釈が存在する。しかし、最も主流の解釈はアブラハムの信仰心を試すためであり、このような事態に陥っても動じなかった彼の偉大な精神を公にするためでもあったというものだ。そしてこの試練を乗り越えたことにより、アブラハムは模範的な信仰者としてユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒から今日でも「信仰の祖」として讃えられているのである。この点に関して、原理講論は以下のように述べている。
「アブラハムはその絶対的な信仰で、神のみ言に従い、祝福の子として受けたイサクを燔祭としてささげるため殺そうとしたとき、神は彼を殺すなと命令されて『あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った』(創22:12)と言われた。神のみ旨に対するアブラハムの心情や、その絶対的な信仰と従順と忠誠からなる行動は、既に、彼をしてイサクを殺した立場に立たしめたので、イサクからサタンを分離させることができた。したがって、サタンが分離されたイサクは、既に天の側に立つようになったので、神は彼を殺すなと言われたのである。『今知った』と言われた『今』という神のみ言には、アブラハムの象徴献祭の過ちに対する叱責と、イサク献祭の成功に対する神の喜びとが、共に強調されていることを、我々は知らなければならない。」(「原理講論」p.327)

 ここで強調されているのは、万物を神に帰すことでも、息子を殺すことでもなく、神に対する絶対的な信仰であり、それによってサタンを分立することにある。聖書に「あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげてもあなたは喜ばれないでしょう。神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。」(詩篇51:16-17)という言葉や、「わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。」(ホセア6:6)という言葉にあるように、神が望まれるのはいけにえを捧げることではなく、私たちの心からサタンが分立されることであると統一原理は教えているのである。

 さらに、「イサク献祭」のような聖書の物語を題材とした宗教的言説を聞いたからといって、即座に自分の一番大切なものを捧げなければならないと決意するほど人間の心理は単純なものではない、ということも抑えておく必要がある。実際には、こうした教義を聞いても自分の大切なものを捧げたりあきらめたりすることを拒否する人は数多くいるのである。「イサク献祭」のような宗教的言説を聞いて感動する人は、もともと自己犠牲的な生き方を理想とする宗教性を備えた人であると言える。

 櫻井氏は続いて以下のように述べる。
「心情解放展と呼ばれるイベントでは、イサク献祭同様に自分にとってかけがえのないものを献げることが求められる。具体的には、受講生がこれまでの人生における異性関係を告白して罪を悔い改めること、現在交際中の人とは別れること、個人の貯金などを統一教会に献金することだ。神の祝福によらない結婚は罪と頭で理解していても、この教えを徹底すれば自分が恋人と別れることになるとまでは考えてはいなかったろう。この辛い決断をしてしまうと最も親密な人間関係が失われるために、これまでの自分ではなくなってしまう。」(p.248)

 ここで言われている「心情解放展」なるものは、統一教会の公式の儀礼には存在しないが、札幌「青春を返せ」訴訟の原告たちはそうしたイベントがあったと主張しているようであるから、信徒たちが現場で行っていた行事をそのように呼んでいた可能性はある。問題は名称よりもその中身だが、ここでの中心ポイントは統一教会の信仰を持った結果として、交際中の恋人と別れる場合があるということである。櫻井氏は恋人と別れることによって「これまでの自分ではなくなってしまう」といういささかオーバーな表現をしているが、これを文字通りに受け取れば、人は恋人と別れるたびに違う人間になってしまうことになる。こうした大げさな表現はとても冷静な社会学者の文章とは思えない。

 信仰を持つことによって異性のとの関係に問題を来すようになるという事例は一般のキリスト教にもあるようで、以下のような問いと答えが『クリスチャン生活事典』には掲載されている。

「Q:私が教会へ行くようになったら、これまで交際していた男性が『話が合わなくなった』と遠ざかっていきました。とても寂しいことです。
 A:イエスさまは、私が来たのは、人を仲たがいさせるためだ、とさえおっしゃいました。それはだれどでもけんかをしろという意味ではなく、人を神から離したり、罪への誘惑をもたらしたりする人からは、離れてゆかなければならない、ということです。
 あなたがその男性を愛し、どうしてもイエスさまの福音を伝えたい、救われる者になってほしい、という強い願いをもつほどでしたら、追いかけていってでも交際をなさるといいでしょう。しかし、あなため神への思いや信仰の妨げになるような人なら、思いきってあきらめることがよいでしょう。
 主を信じるために寂しい思いをされるなら、神は必ずあなたにもっとすばらしい幸せと慰めを与えてくださいます。『わたしは人よりも主を愛します。』と祈ってみて下さい」

「Q:未信者の異性と交際していますが、やめるぺきでしょうか。
 A:未信者との交際が、必ずしも悪いとはいえません。その人が人間的に誠実な人であり、あなたの信仰をよく理解し、協力さえしてくれるような人であれば、むしろ、その人を信仰に導くよい機会であるかもしれません。
 しかし、その人があなたのどこに魅力を感じ、あなたの何を求める人であるかどのような性質の人であるかを、よく見抜かなければなりません。信仰的なことや精神的なことに理解する心のない人と交際を続け、ついには結婚するようなことになれば、あなたほ非常に苦労するようになります。ついにはあなた自身の信仰さえ、維持することができないようになる危険があります。
 だから今、よく祈り、考え、また信仰の先輩の助言も受けてください。自分ひとりでなく、多くの人の助けもあり、その相手の中にもよい可能性があり、自分も苦労を覚悟してのことなら、むしろ強い信仰に立って、必ず相手を信仰に導く決意で交際してみるとよいでしょう。そうすれば、相手の性質もわかってきます。」(『クリスチャン生活事典』214~215頁)

 これらの信仰指導は、基本的に異性との交際を優先して信仰をやめるべきだとは決して言わない。知恵を持って対処し、基本的には信仰を優先して判断し、できるだけ妥協しないように勧めているのである。とくに信仰に至る可能性のない交際相手に関しては、別れたほうが良いと勧めている点には注目する必要がある。こうした異性の問題に関するキリスト教の信仰指導は、新生トレーニングにおいて行われている指導と本質的に異なるものではない。このように男女の愛よりも信仰を優先させ、交際中の異性と別れるように説得を行うこと自体は、宗教の世界においては一般的なことなのである。特に統一教会においては罪の本質を「愛と性の問題」としてとらえており、祝福による結婚が救いにとって必要不可欠なものであると教えているため、異性の問題は信仰の本質として避けて通ることができないのである。恋人と別れることは、受講生にとって一時的には辛い体験であるかも知れない。にもかかわらず、彼らが信仰を優先して異性関係を断ち切るのは、祝福によってより大きな幸福が得られるに違いないという「希望」があるからである。それもまた一つの合理的な選択であると言えるだろう。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳24


第4章 性的役割分担(1)

 性に関する価値観が明確に定義され、統一教会の信徒たちによって厳密に守られているのとは対照的に、「兄弟」と「姉妹」の性的役割分担の問題は複雑で曖昧な現象であり、単純化した表面的な特徴付けを寄せ付けない。証拠が明らかにしているのは、アメリカにおける一つの宗教団体が、少なくともその神学的伝統と一致し、組織構造の内部で機能し、そのメンバーの圧倒的大多数を占める青年たちの意識に合致した男性と女性の役割を発見し、また実現するために、いまだに葛藤しているということだ。統一運動を、キリスト教と儒教の起源に基いて偏狭主義を容認する男性優位の社会的存在であると特徴付けるのは簡単ではあるが、誤っている。この章の意図はそのようなものではない。むしろ、ここでの目的は以下の三つである:(1)統一運動における性的役割分担に対する複雑で多様なアプローチを記述する;(2)その多様性に対する社会学的説明を提供する;そして(3)この多様性が、兄弟姉妹間の献身を維持するための主要な要因である可能性を示す。

 統一運動は自身を一つの世界家族であると考え、その目標は、普遍的で最終的に全人類を包括することのできる神を中心とした文化(注1)を創造することにあるとしている。この家族には、真の父母と真の兄弟姉妹がいる。真の父母の役割はむしろ明確に定義されているのに対して、以下に述べるように兄弟姉妹の役割は主に以下の4つの基準によって違いが生じているように見える:
1.グループの神学的伝統は、「対象」である女性との関係において、男性に対して「主体」あるいは主導的役割を与える傾向があるものの、いくつかの解釈が可能なほどに曖昧である。
2.男性のメンバーのリーダーとしての能力を伸ばそうという文師の関心。
3.女性のメンバーを加入させ、彼女たちの献身を維持しなければならない組織のニーズ。
4.世界史におけるこの重要な時期に、世界の救済のためにあらゆる努力がなされ、あらゆる手段が講じられなければならないという運動の信念。

 終末論的指向性を持つ「統一家族」(注2)であるという感覚は、メンバーたちが運動に加入する際に自らの血統的な家族と徹底的に断絶することによって高められる。この感覚は、統一運動のセンターにおける実質的にすべての活動がグループ活動であるという事実と、それが多くの点において、本当の家族とはどうあるべきかに関する伝統的なアメリカの理想に近いという現象によってさらに助長される。さらに、未婚のメンバー同士の恋愛と婚前交渉の禁止(すなわち、インセスト・タブー)は、本当の「兄弟」と「姉妹」であるという彼らの意識を強化することに役立っている。また、最終的にはすべての人種、民族、国籍をも包括する兄弟愛と姉妹愛は、ほとんどのメンバーが運動に加入する前に抱いていたという世界の調和という考えと一致するのである。最後に、真の父母としての文師夫妻は、唯一で模範的な家族の団結の象徴をグループに提供している。

 統一教会の信徒たちにとって、文師夫妻は理想的な結婚と家庭を創造したのであり(注3)、それは同時に単一性とパラダイムを構成している。真の父母の関係の特異性は、彼らが救済史の中において果たす摂理的な役割に由来している。文師の最初の妻は、彼自身の証言によると、女性の洗礼ヨハネであると同時に堕落したエバであったが、彼女は自らの親族の支援を受けて、正統的なキリスト教を基盤として彼の使命に反対したのであった。(注4)彼女が彼のもとを離れ、1950年代に離婚した後、彼は1960年に現在の妻である韓鶴子と結婚したのであるが、それは黙示録19章9節に予言されている「子羊の婚姻」であると信じられているという点において、摂理的な出来事であった。(注5)文のメシヤとしての役割は、彼の結婚を人類歴史上特異な出来事としている。それは神の目からみれば最初の真の男女の結合であったのであり、それ自体が彼の信徒たちの間で真の結婚がなされるための終末論的な基盤を据えるのである。(注6)

 結婚のときに韓鶴子は18歳に過ぎなかった(文は40歳だった)。【訳注:韓鶴子総裁の生年月日は1943年2月10日<陰暦1月6日>であるため、成婚式の1960年4月11日<陰暦3月16日>の時点では満17歳だが、韓国式の数え方では18歳になっている。文鮮明師は成婚時の満年齢は40歳だが、韓国式の数え方なら41歳となる。】さらに重要なことは、彼女は霊的に未成熟だったのであり、天宙の母としての役割を担うためには、文により霊的完成に向けて「育てられる」必要があった。

 文が彼の妻を神と彼自身に対する絶対的服従へと導いたプロセスもまた、彼らの結婚に固有の特徴である。他のカップルにおいては、婚約時代に男性を神に向けて育てるのは女性である。文は韓鶴子とのプロセスを以下の言葉で描写している:
「お父様はある意味でお母様を訓練したのです。お母様はしばしばあまりに疲れていて、休みたがりましたが、お父様はただ彼女をあらゆるところに引っ張り回し、ありとあらゆることをしたのです。お母様はほぼ疲れ果てていましたが、常に自分の夫に従おうとし、夫が何をしてもそれをしようとしました。夫がどこに行こうとも、彼女は従ったのです。」(注7)

 このように、夫の導きに従い、文夫人は「復帰されたエバ」となり、ある意味で「女性メシヤ」(注8)にならなければならなかったのである。

(注1)運動の「文化」に対する理解は、クライド・クラックホーンの見解に近いように思われる。彼は、文化とは「厳密な言い方をしなければ、目に見える行動、話し言葉、あるいはそれらが生み出すものである。それは考え方、感じ方、信じ方である。それはさらなる使用のために(人間の記憶、書物、物体の中に)蓄積された知識であり、ある特定の事柄を特定の方法で行うパターンであり、それらを行うことではない。」(クライド・クラックホーン『文化と行動』[ニューヨーク:フリー出版、1962年]p.25)
(注2)これはアメリカで1960年代にグループによって広く使われていた名前であった。
(注3)文師夫妻には13名の子女がいる。
(注4)文鮮明師「子女の日」(マスター・スピークス、MS-441、1974年11月4日)、 pp. 8-9。
(注5)ある著者は文は実際には4回結婚したと主張しているが、この主張を立証する文書を提示していない。J・イサム・ヤマモト『人形遣い』(ドナーズ・グローブ、2:インターバーシティ出版、1977年)、p.21。
(注6)「子羊の婚姻」が行われる以前には、運動の中で祝福結婚が挙行されることはなかった。
(注7)文鮮明師『35双の祝福前のお父様のみ言葉からの抜粋』『季刊祝福』(第1巻、2号、1977年夏)、p.12
(注8)ダロル・ブライアント『祝福に関する神学者の会議1978年11月4日』(未発行の記録)、p.15。「女性メシヤ(woman messiah)」という称賛は、統一神学大学院の学生である男性信者によって示唆された。統一神学においては、完全な(霊肉共の)救いをもたらすメシヤ(すなわち再臨主)は一人だけであるため、頭文字を小文字にした“messiah”という言葉は恐らく霊的な完成に到達した者を意味するのであろう。メンバーたちはときに、誰であろうと、男性でも女性でも、この意味での“messiah”になることができると語る。

カテゴリー: ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』77


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第77回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」において、新生トレーニングにおいて説かれる実践的な信仰規律について説明しているが、前回は「(1)アダム・エバの教訓」に対する彼の批判に反論した。今回はその続きである。
「(2)カイン・アベルの教訓。二人はアダムの子供だったが、農耕者カインの供えものよりも牧畜者アベルの供えものを神は喜ばれた。嫉妬したカインはアベルを殺したために、あなたは呪われて地上の放浪者となるだろうという神の言葉を得た。ここから、統一教会は神に喜ばれるものアベルと、兄でありながらも本来弟に従うべきだったカインの関係を組織上の階梯と捉える。通常、アベルというのは信仰や組織において上にあり指令を下すものを指す。アベルへの絶対従順こそ摂理の中にいる人間がなすべきこととされる」(p.248)

 このようなカイン・アベルの教義に対する解釈は、一連の「青春を返せ」訴訟の中で原告たちが主張してきた内容と全く同じである。彼らは、カイン・アベルという統一教会の教義は「カイン(一般信者)がアベル(上司)に対して絶対服従しなければならない」という教えであり、上命下達の組織体制の根拠であると主張しているが、これは完全に曲解である。カイン・アベルの教えは、彼らが主張するような人間を強制的に組織が縛り付け、自由意思に反した方向に駆り立てるような教えではない。そこで統一教会側の出版物に見られる記述に基づいて、この教義の意味について解説をすることにする。

 櫻井氏がカイン・アベルの教えを間違って捉えているのは、カインとアベルという二つの存在が「お互いのために生き合う」という教義の全体像を正確にとらえようとせず、その一方向のみを抽出して曲解しているからである。統一教会には「為に生きる」という教えがあり、例えば「夫は妻のために、妻は夫のために」というように、お互いが相手のために生き合うことを勧めている。このうち「妻は夫のために生きるべきだ」という一方のみを抽出すれば、それは男尊女卑の教えに聞こえるし、「夫は妻のために生きるべきだ」という一方のみを抽出すれば、逆に女尊男卑の教えに聞こえる。したがってこの両方をバランスよく理解しなければ、その本質を外れた理解になってしまうことは明らかであろう。

 実は櫻井氏はカイン・アベルの教えに関して、これと同じ一面的理解をしているのである。日々の信仰生活において、ある者がアベルの立場、ある者がカインの立場に立つことはあるが、その際ただ一方的な服従と従順がカインに対して要求されているのではない。むしろアベルのほうがカインのために生き、犠牲となって、カインの信頼を勝ち取るように努力することが求められているのである。このことについては文鮮明師ご自身が再三にわたって語っておられる。
「カインを救うためには、神様から受けたその愛を全部与えると同時に自己の愛までも合わせて与えなければならない」。(『御旨の道』p.364)
「アベルは、そのサタン世界の底辺に住む僕のような人たちに仕えるようにして、感化させなくてはならないのですから、僕の歴史にいま一つの僕の歴史を積み重ねなくてはならないのです。しかしその場合、サタン世界の僕たちと、天の世界のアベルのどちらがより悲惨な道を歩んだのかを問われる時に、アベルがアベルとして認定されなくてはならないのです。その時にサタン世界の僕たちは、『何の希望ももてないどん底の中にあっても、あなたは希望を捨てることなく、力強く私を支えた』と認めるのです。アベルは『いかに耐え難い時も、信義の理念をもち、愛の心情をもち、天国の理想をもっていたから、最後まであなたを信じて尽くすことができました』と、言えるのです。そこで『地上で自分の生命も惜しまず、愛と理想をもって犠牲的に尽くしてくれたのはあなたしかいません。私は誰よりもあなたを信じ、国よりも世界よりも、あなたのために尽くします』と、なるのです。その認められた事実でもって、初めて『自分はアベルであり、あなたはカインである』と言うことができるのです。アベル・カインの関係はその時から始まるのです。」(『摂理から見たアベルの正道』p.9-10)
「アベルは、カインに尽くしたあとにアベルとなるのです。互いに相手を尊重しなければなりません。尊重されるためには先に、カインとなる人に尽くすのです。誰よりも信仰心が篤く、誰よりも愛の心情が深く、誰よりも理想的であるという模範を示し、自然屈服させたあとに、カインたちのほうから、『我々の代身となって指導してください』と願われた時、『はい』と答えてアベルになれるのです。」(前掲書p.37)
「カインのメシヤはアベルであり、アベルのメシヤはカインであるということを知らなくてはなりません。」(前掲書p.12)

 このようにカインとアベルは、兄弟間の心情関係の在り方、すなわちお互いに尽くし合い尊重し合う人間関係として教えられていることが、文鮮明師の直接の説教から理解できるであろう。また文鮮明師の弟子である李耀翰牧師の著書『信仰と生活』第一集(現在は『心情開拓』に改題)は、1974年に初版が発行されて以来多くの統一教会信徒たちの信仰生活を導いてきたロング・セラーであるが、そこでもカインとアベルがお互いに尊重し合うべき存在であることが強調されている。
「だから、カイン・アベルは、お互いが神の立場です。アベルの神様はカインであり、カインの神様はアベルです。(『心情開拓』p.249)

 また李耀翰牧師の著書の中では、アベル・カインという立場は固定された組織原理ではなくて、人に接するときの内的な姿勢であることが強調されている。
「言ってみれば、アベル・カインという立場は、いつも決定していないのです。……教会でいえば、経済的に責任をもった人がアベルになる時もあるし、伝道の時には説教する人がアベルになる時もあるし、要は、その仕事においてだれが中心になるかという問題になるのです。

 家庭に帰ってきても、物事の責任をもった人がアベルになるのです。ですから、その時間はそのアベルに対して謙遜に喜びながら侍って、その人を慰めなくてはいけないのであって、食事の時でも、いつも自分が上であるという立場には立てないのです。

 その時々の仕事によって、中心となる兄弟がアベルの立場で苦労するのです。そこに平和があるのであって、『一人だけがアベル』というように決まった考えをもったなら、その教会は苦しみ、家庭にも苦しみが来るのです。」(前掲書p.27)
「カイン・アベル(の問題)は、みなカイン、みなアベルと思ったらいいのです。自分を自分で、カインと思ったらいい。いわゆる謙遜で人を自分より貴重に思う素性を持てば、失敗はありません。」(前掲書p.216)

 文鮮明師ご自身も同様のことを語っておられる。
「堕落性を脱ぐ道は千万人を全部アベルとして侍ることである。」(『御旨の道』p.371)

 したがってカイン・アベルとは、自己の罪深さを深く感じて他者の中に宿る神性を貴重に思うときには、その人にとって万人がアベルとなり、また自分自身を神の愛を伝える使命を帯びた者として自覚するときには周囲の者すべてがカインとして認識されるという性格のものであり、個人の主観によって誰がアベルで誰がカインであるかが決定される、極めて流動的な概念であるということが分かる。このようにカイン・アベルの教えの本来の意味を理解すれば、アベルとカインの関係を「組織上の階梯」とする櫻井氏の主張は、真実からほど遠いということが分かるであろう。

 しかし統一教会の一部信者の中には、そのようなものとしてカイン・アベルの教えを誤解していた者がいたこともまた事実である。このような間違ったカイン・アベル観に対して、文鮮明師は激しく叱責しておられる。
「このような原則があるにもかかわらず、今日の統一教会の信者の中には、自分は不信仰であろうと、不心情であろうと、不天国であろうとどうでもよく、『ただ先に入ってきたからアベルであり、お前はカインだから屈服しなさい』と言う者がいます。そんな法がどこにありますか!」(『摂理から見たアベルの正道』p.10)

 カイン・アベルの教えはもとより組織論ではなく、信仰生活上の人間関係を通して自己の内面を成長させていくための宗教的な教えである。その意味を正確に描写できるのは、統一教会の現役の信徒たちだが、櫻井氏はその人たちにインタビューをしていないので、その意味を正確にとらえることができなかった。櫻井氏の記述は、統一教会信徒の一般的なカイン・アベル観を代表したものではなく、「青春を返せ」裁判の原告たちの歪んだ教義解釈をそのままトレースしたものにすぎない。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳23


第3章 性に関する価値観:婚前の性行為と同性愛(7)

 統一運動の性に関する価値観を説明する上で、性を最高の価値である愛と関係づけなければ、それは不完全であろう。性は神の創造の一部であり基本的に善なるものであるが、、愛は神の心情から生じ、人間社会の永遠の幸福にとって必要不可欠であるという点で、最高の善である。もっぱら自己中心的な愛(サタンのとりことなっている愛)によって動機づけられたときには、性は人生における最も破壊的な力(の一つ)となり得る。(注57)しかし、神を中心とする愛によって動機づけられたときには、性は神が人間社会を復帰し統一する力の、最も強力な表現となるのである。性はこのように、「最も悲惨なものと最も聖なるもの」の両方になる可能性を秘めているのである。(注58)それはすべて、愛の方向性によるのである。

 運動における愛の強調は、第一に神に対する愛と他者に対する愛に置かれている。これは教会の文献に見られると同時に、個々のインタビュー対象者の反応にも見られる。実際、厳格なインタビューのスケジュールに制約された状況下では、私はしばしばメンバーたちを他の関心ごとに導かなければならなかったほどに、彼らは神への愛と他者への愛について情熱的に語った。私の主題の中でとくに重要な関心や熱意を見いだすことができなかったのは、自己愛であった。二人だけが自己愛に言及したが、それはインタビュアーが率先して促したときだけであった:
「他者を愛するには、人は自分自身を愛し、自分自身を成長させ、自分自身を大切にしなければならない。私たちはマゾヒズムを教えていない。」(注59)
「すべての存在は、それ自体のための目的と全体目的という、二重目的を持っている。全体目的とは、例えば公共の利益のようなものだ。統一原理はこれら二つの目的は互いに矛盾しないと教えている。自分を大切にすることは愛の二重目的の一部であるがゆえに重要だ。人は他者を愛することができるようになるために、自己を愛するのだ。」(注60)

 これらのコメントは、自己中心的な個人主義を「授受作用」の基礎としては認めず、個体目的よりも全体目的を優先する神の創造理想と一致している。その神学は、神と他者を愛するという脈絡の中での自己愛を認めてはいるものの、これはほとんどのメンバーにとってあまり重要であるようには思えない。さらに、私が会って観察した統一教会の信者たちは、「世界の救世主」の役割、すなわち神と他者に仕える役割を実現する上で、惜しみなく彼ら自身を与えることに夢中になっていた。メンバーたちは、世界史のこの決定的な瞬間、終末のときに、より高くより緊急の大義のために自分自身を犠牲にすべく、自分たちは神に召命されたとみているのである。運動の中で自己愛というものが、たとえ目的のための手段としてさえ高い優先順位を与えられてないことは、これによって理解可能なのである。私は、人間としての基本的欲求に関わることであるという意味において、自己愛と性は緊密に関わり合っていると仮定する。したがって自己愛を過度に強調すれば、特に独身のメンバーたちを、彼らの家庭的(兄弟姉妹としての)役割と世界の救世主としての役割を維持しようとするよりも、性的満足に関心を持つ方向へと導くかも知れない。共同体としての活動、伝道、そして資金調達の活動は、(運動の視点においては、逆に)自己愛により大きな強調を置くことによって、影響される可能性がある。

 統一運動の性に関する価値観は、統一原理における神学的・倫理的基礎と、地上に天国を実現することを目標とした終末論的共同体としての組織的なニーズの両方を反映している。婚前の恋愛関係と性関係を禁止することは、世界家族としてのグループの自己像を強化する。またそれは、多数の独身メンバーの安定的供給を確保する。彼らは性的な愛着から解放されることにより、相当な可動性を持つこととなり、彼らのほとんどの時間とエネルギーを組織の目標を達成するための活動(たとえば、資金調達活動)に捧げることができるようになるのである。この運動の経済および伝道における過去10年間の成功は、そのほとんどが独身であるメンバーたちの献身的な努力なくしては、不可能であったに違いない。人は、運動がこの件に関して、戦いに勝った一因は彼の軍隊の一時的な禁欲によるものであるとされる、ダビデ王の例に影響されたのではないかと思う。(注61)

 性的禁欲はまた、新しいメンバーが運動の宗教的教えを内面化することにだけ集中する機会を提供する。それは個人として成長し、より深くより「自然な」神との関係に入っていくことを意味する。禁欲が要求する社会的役割は、「神は元来、人間の外的な肉身を先に創造され、その次に内的な霊人体を創造されたので(創世記2:7)、再創造のための復帰摂理も、外的なものから、内的なものへと復帰していく摂理をされる」(注62)とされる、復帰のプロセスの基礎である。したがって、社会学的な理論によれば、この終末論的共同体が社会化と社会統制という不可欠な仕事を成就するための一つの方法(すなわち、婚前の禁欲)として理解されるものが、運動の救済論において正当性を与えられ、神の裁可とされるのである。

 私は大きな大学で学んでいるあるメンバーと、性に関する価値観についてざっくばらんに話をしたことがある。キャンパス内の彼の住処の階段に立ち、彼は統一教会の性に関する価値観が、いかに非メンバーにとって回心の主要な妨げになっているかを話した。彼は、通り過ぎる数名の学生たちを指さして、もし性的に活発でありつづけることが彼らの欲求でなければ、彼らは入教していたはずだと言った。彼の主要な考えは、運動はその高い性的水準の代価を払っているというものであった。彼の言ったことは疑いなく真実であるけれども、信仰の維持、献身の強化、組織的目標の達成という点に関しては、明らかに統一運動はその性に関する価値観から重要な恩恵を受けているのである。

(注57)「人間と国家の滅亡は、異性愛にせよ同性愛にせよ、誘惑によって引き起こされたのだ。」(インタビュー:キーン氏)。
(注58)インタビュー:リントン氏
(注59)インタビュー:ボルトン氏
(注60)インタビュー:ジョンソン氏
(注61)サムエル記上21:5 .
(注62)『原理講論』、p. 109.

カテゴリー: ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』76


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第76回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」において、新生トレーニングにおいて説かれる実践的な信仰規律について説明しているが、それを順番に引用しながら、彼の批判に対して反論することにする。
「(1)アダム・エバの教訓。エバがサタンに誘惑され、不倫・姦淫を行ったがゆえに人間は堕落した。先に堕落したのがエバ、女性であり、次いで、アダム、男性を誘った。その結果、人類はエデンの園から追われ、堕落した状態から神への復帰の摂理的歴史を歩むことになったとされる。エバはアダムよりも罪が重いので、男性に仕えなければならない。この教説が信仰生活に適用されると、男女は文鮮明=神が許可する祝福まで禁欲を守ることが最重要の規律となる。若い男女数十名が同じ屋根の下で一ヶ月の共同生活をしても、互いに好意を抱くことすら許さない。また、青年期の若者にとってプライバシーを完全に奪われることは性的にも苦痛だ。心身両面から性を規制することによって、受講生の訓育が進むことは論を待たない。」(p.247)

 この記述には多くの誤りが含まれている。そもそも統一教会にはエバはアダムよりも罪が重いので男性に仕えなければならないという教義や考え方は存在しない。もしそうであれば、男女平等が叫ばれ女性の権利が主張される現代社会にあって、統一教会は「男性天国」の社会となり、多くの男性たちが女性に仕えられるために統一教会に入教するはずである。しかし、実際には日本の統一教会においては男性信徒よりも女性信徒の方が数が多い。人口比から言えば、統一教会は男性よりも女性にとって魅力的な宗教ということになる。櫻井氏の主張するような女性蔑視の教義を持った宗教団体に多くの女性たちが入信し、信仰生活を継続しているというのは不合理であり、現実との間に大きな齟齬がある。

 また、女性が男性よりも罪深いということと、祝福まで禁欲を守ることの間には論理的な関係はまったくなく、説明として意味を成していない。統一教会で祝福を受けるまで禁欲生活が奨励されることは事実だが、これは女性だけでなく男性にも等しく要求されている内容であり、その点に関しては男女は平等である。統一教会においては、男性と女性のどちらが罪深いかがとりたてて強調されることはない。男も女も等しく堕落した罪深い存在であり、その罪を精算するための蕩減条件として禁欲の道を歩まなければならない点も同じである。細かいことだが、櫻井氏は「文鮮明=神」と記載しているが、統一教会のキリスト論においてはメシヤは神ご自身ではなく、人間始祖の立場に立つ「真の人間」であるため、この記述も神学的には誤りだ。

 さて、ここで最も本質的なテーマである新生トレーニングにおける「禁欲」や「恋愛禁止」についてしばらく考察することにする。櫻井氏はこれらが若者にとって苦痛であることを強調し、あたかも人権侵害であるかのように記述しているが、実際には恋愛やセックスを禁止している団体は統一教会に限らない。AKB48をはじめとするアイドルグループのメンバーや、NHKの「歌のお姉さん」に対しては恋愛禁止が課せられていることはよく知られている。これはアイドルとしての彼女たちの価値を守るための「商業目的」であったり、子供向け番組の出演者がイメージを壊さないためという理由があり、当人たちはそれを納得して禁欲生活を行っているのである。(中には秘密でそれを破る者もいるが、統一教会の信徒の中にも禁欲を守れない者がいるので事情は同じである。)

 このことは、人は何らかのより大きな目的のために、「禁欲」や「恋愛禁止」を自分の意思で受け入れることがあり得ることを物語っているが、統一教会においてはそれが「宗教的目的」であると理解すれば、それも一つの合理的な選択であることが分かるだろう。宗教的目的で禁欲生活をする事例は枚挙にいとまがなく、まさか宗教学者である櫻井氏がそれを知らないということはありえないだろう。原始仏教においては出家信者は徹底的に性欲を否定することが要求されたし、カトリックの修道士、修道女、および司祭などの聖職者になる者は生涯にわたって禁欲生活を送ることになる。これらは宗教的目的による「禁欲」や「恋愛禁止」であり、現実には苦痛を伴うものであるが、これを人権侵害であるとは櫻井氏は言わないであろう。

 米国の宗教社会学者ジェームズ・グレイス博士の著作『統一運動における性と結婚』は、この問題を真正面から扱った客観的な研究書である。グレイス博士の観察によれば、統一教会における未婚の男女は恋愛や性交渉が全面的に禁止された極めて禁欲的な信仰生活を営んでいるが、これは結婚を神聖なものにするという究極的な目標のための準備期間としての意味をもっているという。グレイス博士が実施したインタビューの結果によれば、すべての統一教会のメンバーが「婚前の性交渉はそれ自体悪であり、未成熟な段階のセックスであるため、そこには真の愛は実現されない」と答えたと言う。すなわちメンバーにとって結婚前の禁欲生活は、自分自身の愛を清め、成長させるための貴重な期間であり、この期間に純潔を守ることは結婚を成功させるための絶対的な条件として認識されているのである。

 グレイス博士が観察したアメリカの統一教会においては、入教したメンバーは最初の三年間、若い男女が共に活動するような環境下において、禁欲生活をすることが義務づけられているという。このような環境下では、当然異性に対する欲望が芽生えるのであるが、それらは、①祈祷、②自己の鍛錬、③活動への没頭、などの手段によって抑制されるという。これらは基本的に個人の努力であって、環境的に男女を分離することによって性的なトラブルを避けている修道院とは驚くべき違いであると同博士は指摘する。統一教会がこのような環境下で性的なトラブルを抑制することに成功している秘訣は、比較的プライバシーが抑制された共同体での生活と、未婚の男女はお互いに兄弟姉妹であるという家族的な一体感を形成している点にあると、同博士は分析している。

 このような禁欲を実践する共同生活に入ることによって、メンバーは過去の習慣性を断絶し、祝福を受けて結婚するに値するだけの内的な資質を磨くために努力する。アメリカの統一教会においては、教会に来る前に性的に活発だった者や同性愛者だった者も多数いるのであるが、彼らは宗教的な価値観を共有した集団の中で一定期間生活することを通して、過去の習慣性を克服する戦いをするのである。グレイス博士の研究を通して、櫻井氏にとっては「苦痛」としてしか感じられなかった若い男女の禁欲生活が、将来の結婚を神聖なものとするための価値あるものとして認識されていることが理解できるであろう。

 日本の統一教会においても、未婚の男女は恋愛や性交渉が全面的に禁止された極めて禁欲的な信仰生活を営んでいる。これはグレイス博士が研究したアメリカの教会と同じく、結婚を神聖なものにするための準備期間としての意味をもっている。統一教会信者の独身時代の目標は、第一に心身を清く保ち結婚に備えることであり、第二に愛と奉仕の生活を通して人格を磨き、良き夫、妻、親となるための準備をすることである。これは結婚に対する日本の保守的な考え方とも一致するもので、なんら社会的な批判を浴びるべき内容ではない。

 統一教会に魅力を感じる若者たちには、社会全般に蔓延する「性の乱れ」に幻滅し、不満や不安を感じている者が多い。入信する以前に性経験があったかどうかは別として、性的な事柄に対して潔癖な価値観を持っている人は、統一教会の教えに魅力を感じるのである。もともと「清い結婚がしたい」「不倫や離婚などの不安のない、幸福な家庭を築きたい」というニーズを持っている人に対して、「祝福式」という形で示された統一教会の結婚の理想が、一つの回答を提示しているので、若者たちはその理想を実現するために「禁欲生活」を自らの意思で選択するのである。

 これは「自由恋愛至上主義」という現代の日本社会の風潮に対する一つのアンチ・テーゼとして機能していると言える。そもそも、デートとプロポーズを経て結婚に至るという方法は、特に20世紀のアメリカで発達し、それが日本に輸入されたものである。しかし、
欧米諸国の高い離婚率や、日本における離婚率の上昇などを考慮すれば、それは必ずしも理想的な配偶者選択の仕組みと言うことはできない。一時的な恋愛感情が幸福な結婚を保証しないならば、もっと堅固な土台の上に結婚を築きたいと願う者が現れても何ら不思議ではない。統一教会の信徒たちは、「信仰」という土台の上にそれを築こうとしているのである。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』