実況:キリスト教講座50


質疑応答(1)

質問:福音主義神学は、人間の努力を否定するということなんですが、聖書の中にも「求めよ、そうすれば与えられるであろう」という有名な聖句があって、明らかに人間の努力は必要であると感じられるんですけれども、そのような聖句に対して福音主義や啓示神学においてはどのように解釈しているんでしょうか?

回答:「求めよ、さらば与えられん」(マタイ7:7)という特定の聖書の個所に対して、福音主義の聖書註解がどのように説明しているかということに関しては、いま手元に註解書がありませんので確たることは言えませんが、基本的な考え方としては、「与えられるであろう」と言っているわけですから、人間の力で何かを勝ち取るということではなくして、「神様からの恵みに対して心を開きなさい。神様の恵みを受けれいる心を持ちなさい。そうすれば人間の努力によってではなくて、神様が愛を与えてくださるんだよ」と解釈するわけです。そういう意味で、求めることは人間の努力ではなくて、神様の方を向けば、神様が100%無条件で与えてくださるんだという意味で、おそらくその聖句を解釈すると思います。

 私たち流に解釈すれば、「求める」ことが人間の責任分担であるという理論になるかも知れませんが、神学においては聖句を自分の都合の良いように解釈する傾向があり、どんな聖句を持ち出して反論したとしても、それは向こう側に都合の良いように解釈されるようになります。

 たとえば「回心」という現象一つをとっても、カルビン主義における回心においては、人間の側には一切原因がないんですね。すなわち神の一方的な恩寵によって回心をするんであって、神を求めるように人間がなることすら、人間の努力によってではなくて、神によってそうさせられているんだととらえるわけです。ですから、このような一方的な恩寵論の神学においては、人間の責任分担というものは一切存在しないわけです。人間が自分でやっているかのように思い込んでいたとしても、実はそれは神の一方的な恵みによってそうなっているんだと強弁する傾向にありますから、何を言ったとしても、それは神の一方的な恩寵だと言い切るというのが福音主義の特徴だということになります。

質問:それでは、神学的に言いあっても難しいということですか?

回答:そういう意味では、神学論争というものは水掛け論になる傾向がかなりあって、ゴリゴリに固まった神学者を相手に論争をしても、あまり実りある結論にならないことが多いです。つまり、最初に結論があり、信念があって、それに合わせて聖書を解釈して主張をするので、客観的な議論をする場が成り立たないことが多いんです。これが実は神学という学問が持っている致命的な欠陥の一つです。自然科学などの場合にはまず仮説を立てて、客観的な判断基準が存在して、その真偽を判断することが可能ですね。ですから実験して結果が出なかったら負けを認めるという、共通の理解の基盤があるときには、それは科学と呼ぶに値します。論争が成り立って、論争によって学問が発展していくわけです。

 しかし、神学というものは信念が先に立ってしまうので、論争をしても物別れに終わる場合が多いわけです。神学が現代社会において説得力を失ってきている理由の一つは、科学的な論争の基盤が存在しないからなんです。プロテスタントはプロテスタントで閉ざされた神学があり、カトリックはカトリックで閉ざされた神学があり、さらにプロテスタントの各教派の中で異なった神学があるということになると、異なった神学同士の対話の基盤は存在しないということになってしまいます。ですから知的な議論だけで神学論争を解決しようとしても、双方に納得のいく解決にならないことの方が多いわけです。ですから「神学論争」というと無益な論争の代名詞のようになってしまっています。

 ですから宗教が和合しようというときに、神学論争をして問題を解決するということは、現実的にはあまり存在しません。むしろ、神学の違いは置いておいて、お互いに社会に役に立つために一緒にできることは何でしょうね、ということで一緒に奉仕活動をしたり、宗教者がいまの若者たちに与えられるものが何であるかを一緒に考えましょう、と言いながら一緒に手を取って働いた方が、宗教同士が仲良くなれるかもしれないというのが、いまの現実であります。

質問:教授渉外をするときにも、神学の話をしてもうまく行かないということでしょうか?

回答:それは相手によるでしょうね。たとえばある教授が、確固たる信念を持っていなくて、特定の信仰を持っていない場合には、伝道することも可能だと思います。統一原理をそのまま伝えて、感動したら食口になってくれる教授もいるかもしれません。ただ、その人が既に特定の信仰を持っていて、クリスチャンであるとか、別の宗教の信者であったりする場合には、神学論争をして論破して教授を伝道するということはあまり現実的ではありません。その場合には、私は統一教会の信仰を持っていて、先生は○○教の信仰を持っているということで、お互いの信仰を尊重し合いながら、社会のために一緒に何ができるかを考えた方がより建設的だということです。そのときに向こうの方から、「統一教会っていろいろ言われているけど、どんなこと信じてるの?」と聞かれたら、「私たちはこういうことを信じているんです」という説明をすることは良いだろうと思います。

質問:伝道しているときに、対象者がキリスト教だとか仏教だとか、自分なりの考えをしっかり持っていて原理を聞く場合に、自分の考えと比較してみたりとか、原理を客観的にみていて、あまり自分のこととしてとらえてくれないことが多いんです。そういうときには「とりあえず原理を聞いてみて」と言って聞いてもらうんですけど、こう人に対してはどうしたらよいと思いますか?

回答:伝道するときに私たちが理解しなければならないことは、確かに私は誠を尽くして伝道するんですけど、最終的には神様が伝道するんですね。ということは、私がテクニックを使って伝道するわけではなくて、その人が神様と出会わない限りは、どんなに一生懸命やっても伝道されないときがあるわけです。ですから、自分の宗教に確信を持っていたりとか、仏教的な考えに染まっていたりとか、人間にはいろんな状況があります。それを人間的に見たら、この人に原理が入るのは不可能じゃないかなと思えるような人もいっぱいいるんですけれども、そういう人がある日突然変わって、教会の信仰を持ったりすることもありますよね。それは何かというと、私が何か理論的に説得してそうなったというよりも、その人自身が神様と出会って、何か否定できない実感というものをもって価値観を変えていく場合の方が多いですよね。

 ですから伝道に勝利した証しというのは、自分が何かみ言葉をうまく語ったからとか、うまく和動して説得したからということ以上に、その人が神様の準備した人であれば、誠を尽くしていく中でいつか神様と出会う一点があるわけですよ。それまで変わらずに愛し続け、喧嘩して論争するのではなくて、いろいろわがままを言う相手に対しても、包んで、「そうだね」と言いながらみ言を聞いてもらって愛し続けて、神様が働くのを待つしかないんじゃないかと思います。そういう姿勢で行かないと、ともすれば人間の力で伝道するという考え方になってしまいます。ですから、理論で屈服させて人を伝道できるものではないということです。

質問:さっき「内在神」というお話を聞いていて思い出したのが、最近ある姉妹から「忙しいので祈祷会は出られません。自分だけで祈るからそれでいいでしょう。出なくちゃいけないんですか。」と言われたんです。これは神が自分と共にいるから祈祷会はいらないんだっていう感じなのかなと思って、先生はそのときどのように答えますか?(笑)

回答:いろんな答え方があると思うんですが、結局私たちは、いまの姿としては完全に神様の啓示を受け取れるような立場ではなくて、堕落しているわけです。ということは、堕落人間である以上は、自分で100%神様に通じることはできなくて、何らかの仲保者がいないと神様にはつながれない存在だということです。その仲保者の代表的な存在がメシヤであり、そのメシヤと直接つながることができないから、私たちとの間にアベルがいて、教会があり、組織があり、祈祷会や礼拝という行事があるわけです。そういうことからすると、自分が祈れば神に通じるというのは、ある一面あっていますが、それだけでいいと考えるのは極めて傲慢な考え方だということです。自分は神様のみ旨の全部を知ることができないので、ときには自分を否定してアベルにお伺いを立てるとか、アベルの指導を受けるとかいうことをしないと神様が分からない堕落した立場なのです。だからあまり自分を中心として「内在神」という側面を強調すると、自己中心的な信仰に陥って、神様の願いから離れて行ってしまう危険性があるから、できるだけ自分を否定して全体に合わせるように努力した方が良いですよ、というように指導するしかないと思います。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』38


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第38回目である。

「第Ⅰ部 統一教会の宣教戦略 第4章 統一教会の事業戦略と組織構造」の続き

 櫻井氏は本章の「4 地区教会の事業運営」ならびに「5 教区・教域の運営」において、日本の統一教会全体でどのくらいの資金調達能力があるのかを解明しようと試みている。そのための証拠として挙げられているのが、札幌地裁における小柳定夫氏の証言と、X教区の総務をしていたとされる元信者が自身のパソコン上に保存していたとされる集計表である。これらの証拠の信憑性、ならびにそれらに基いて櫻井氏が論じている内容を今回は評価してみたい。

 櫻井氏は本章の中で、「統一教会の小柳定夫(図4-2連絡協議会)は、1998年6月12日、札幌地裁においてTV100(Total Victoryの略で日本において月額100億の売上)の指令が文鮮明から出され、1986年の11月と12月に達成したと述べた。全国しあわせサークル協議会の年間の売上は、7、8百億と質問に答えている。(札幌地裁昭和六二年(ワ)第六〇三号損害賠償請求事件承認調書)」(p.147-8)と記載している。この記述は本当なのだろうか?

 私の手元に、家庭連合(旧統一教会)の法務局から入手した、このときの小柳氏の証人調書がある。櫻井氏の記述に該当する部分を確認してみると、郷路弁護士が「あなたの証言によれば、昭和61年にTV100、即ち一か月の売上目標100億円という目標を掲げ、その年の12月に目標を達成したという証言がありますね。」と質問しており、それに対して小柳氏は「はい。」と答えているだけである。すなわち、法廷ではTV100の指令が文鮮明師から出されたなどということは、聞かれてもいなければ答えてもいないのである。小柳氏はただ、1986年に一か月の売上目標100億円という目標を掲げ、その年の12月に目標を達成したことを認めただけである。櫻井氏の記述は、そこに「文鮮明の指令」などというフィクションを書き加えた上に、目標を達成した月に11月を加えるという二重の偽装がほどこされている。「どうせ読者は裁判の証言調書など読むことができないだろうから嘘をついてもばれないだろう」と彼が思ったとしたら、脇が甘いか、良心が麻痺しているとしか言いようがない。これだけで彼の著作の信憑性は大きく損なわれると言っても過言ではない。

 この証言調書の中で、郷路弁護士は連絡協議会の年間売上について小柳氏に対して執拗に質問している。一か月の売上目標100億円という目標を掲げ、それを毎月達成すれば年間1200億円の売上になる。しかし一年を通じてなかなか月間目標を達成できず、12月にやっと達成したという話から、郷路弁護士は1986年の年間売上は1000億円くらいであったのかと執拗に質問したので、小柳氏はそこまでは行っておらず、だいたいの数字として7、8百億円だったと答えている。本人がそういうのであるから、たぶんそのくらいが1986年当時の連絡協議会全体の売り上げであったのだろう。

 櫻井氏は、「統一教会全体でどのくらいの資金調達能力があるのかは長らく不明のままだった。ところが、二〇〇八年にX教区(情報提供者のプライバシーに配慮して、X教区と記載する)において総務を担当していた教会員が脱会し、自身のパソコンに入っていた地区・教区・教域ごとの売上金額や目標分配金額等が記載された集計表を裁判において公開した。」(p.149)とした上で、表4-9、表4-10、表4-11を裁判に提出された証拠から転載している。

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 そして、これらの表を分析した結果として、「年間数百億から1000億円近くの金を日本が稼ぎ出していたことがこのような内部情報から明らかになった。」(p.150)と結論している。これは小柳氏の証言と額が一致するだけに興味深いが、そのまま信じれば2007年の時点でもほぼ同額の実績を統一教会が挙げていたことになる。

 筆者が家庭連合(旧統一教会)法務局に確認したところ、この「内部資料」を提供した元信者は、平成20年に神戸地裁に提訴された裁判の原告であるが、彼が教会の役員、職員、あるいは総務となった事実はなく、彼は当時、教区長の手伝いをしていただけであるという。しかし、職員でなくても教区長の手伝いをしていたのであれば、教会の「内部文書」を持ちだすことは可能であるかもしれない。表4-9、表4-10、表4-11に関して、統一教会は裁判においてどのような認否をしているのであろうか。

 法務局によると、この訴訟は和解案件であったことから、特に裁判で詳細な認否をしていないのだという。この元信者は熊本教会信徒会代表のS氏と既に和解しており、教会側は「原告(元信者)とS氏との間の和解において合意された和解金額が完済された以上、原告は、S氏、及び被告(統一教会)に対して、信徒であった期間中に知り得た法人の機密情報及び他の信徒の個人情報について、一切、他に漏洩しない義務を負う」と主張している。したがって、このような情報を含む証拠は撤回すべきであり、また、別件事件に原告が提供している情報も直ちに全て回収すべきであると求めているのである。分かりやすく言えば、櫻井氏の掲載している証拠は、教会内部の機密情報及び個人情報を他に漏えいしないことを条件に和解したにも関わらず、それを破って提出された証拠であるということだ。証拠の内容の信憑性そのものは教会側が認否をしていないので不明だが、入手経路に問題のある資料であるということは言えるだろう。

 以上を総合すると、1980年代には連絡協議会が、1990年代から2000年代にかけては宗教法人である統一教会が、年間で数百億円の資金を調達していたことは事実であると推察される。商行為の売上なのか、宗教的献金なのかという形態は違ったとしても、これらの資金調達活動に従事していたのは統一教会の信徒たちであったことに変わりはなく、信徒たちの主観においては「神の摂理のために」行った活動であったことになる。

 問題は、それをどう評価するかである。櫻井氏は以下のように述べている。
「但し、幾つか疑問が残る部分がある。各地区・教区・教域の諸教会において全く内部保留せずにそのまま本部に献金していたのか、日本の本部はそのまま韓国の本部に送金していたのかということである。この点は資料がないので何ともいえないが、銀行等を介さない送金の仕方や、一九九〇年以降韓国の幹部が日本の地区長や教区長といった役職者として多数来日したことの背景から想像できなくもない。すなわち、彼らは日本の資金調達活動を直接引き締めるために文鮮明によって送りこまれてきたともいえるが、日本に進んで稼ぎにきたといえなくもない。韓国の幹部が日本の教会員に対して全財産を自らはき出すだけではなく、はき出す人を連れてこいと激を飛ばすビデオ等を見るにつけ、日本の統一教会員は奴隷並みに絞れる存在として認識されていることがよくわかる。

 以上、日本の統一教会を組織として収益の構造的な側面から見てきたわけだが、資金調達に特化されたミッションを果たすための事業多角化だったことが了解されたかと思う。日本における統一教会には、信徒達の主観的思いは別として、客観的に見れば日本社会に対して過激な人的資源・経済的資源の搾取を宣教目的としてきたが、その日本の統一教会もまた、統一教会全体によって過剰なまでに搾取され続けてきた。統一教会員はこのことを誰も理不尽とは考えなかったのか。」(p.150-2)

 櫻井氏の分析は、本人が言うとおり、資料に基づかない「想像」に過ぎない。まず、日本の地方教会の内部留保に関しては、2000年代に入ってから各地で礼拝堂を献堂したというニュースが多く聞かれるようになったことから、現場で集まった献金を現場で使うという一定の内部留保はあったと考えられる。櫻井氏の指摘するビデオ映像は、マスコミで繰り返し放映されてきたものと思われるが、あれは極めて極端で異常な例であって、あれだけで統一教会全体を判断しようとするのは学者らしからぬ軽率さである。もしあれが統一教会の典型的な姿であるとすれば、奴隷のように扱われる教団になぜこれほど多くの信徒が集まり、宗教団体として成り立っているのかという問いに答えなければならない。常識的に考えれば、あのようなことが広範かつ長期間にわたって行われていれば、ほとんどの信徒が既に教会を去っているはずである。

 櫻井氏の議論は、「資金調達に特化されたミッション」と「事業多角化」という根本的に矛盾する内容を無理やり結び付けたものであると言える。櫻井氏が紹介した広範な統一運動の組織は、そのほとんどが経済的利益を生み出さない活動を行っており、地上天国実現のための先行投資に近いものであった。もし日本の使命が資金調達に特化されていたとするならば、このようなお金を生み出さない分野は無駄に過ぎず、多角化する意味はないと言える。その意味で、櫻井氏の主張は根本的な矛盾をはらんでいる。

 櫻井氏は日本の統一教会信徒は「主観的思いは別として」搾取されてきたと主張する。しかし、宗教においてはその「主観的思い」こそが重要であり、本質であるのではないだろうか。宗教において最も重要なのは、内的な意味の世界だからである。日本の信徒たちは、神の摂理を進めるために喜んで献金してきたのであり、それを外部から客観的に「搾取されてきた」と解釈するのは下衆の勘繰りである。「統一教会員はこのことを誰も理不尽とは考えなかったのか。」という彼の問いかけに対しては、「一部の人は理不尽と考えたであろう。そして、そう思った人の多くは教会を去ったであろう。」と答えるほかない。統一教会の主流の信徒たちは、地上天国実現という大義のために感謝して献金を行ってきたのである。

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実況:キリスト教講座49


自然神学と啓示神学(12)

実況:キリスト教講座挿入PPT49-1

 超越神と内在神というのは大きく分ければ、福音派の人たちは超越神的信仰を持っていて、リベラルな教会の人たちは内在神的信仰を持っていると言えるんですが、実は一人ひとりの神観でもあるわけです。同じ教会に属していても、どちらかといえば超越的な神観を持っている人もいれば、内在的な神観を持っている人もいるわけです。これは統一教会においても同じです。統一教会の中でも超越神的な信仰観を持っている人もいれば、内在神的信仰観を持っている人もいて、人の生き方はさまざまだということになります。

 統一教会の中で内在神を信じる自由主義派の人は、「アベルに何か聞くよりも自分の本心に聞くのが一番なんだ。自分の心に神様が働くんだ」という固い信念をもって、あんまり人の言うことを聞かないで極めて主体的に歩む人がいますよね。そういう人は統一教会の中でも内在神を信ずるリベラル派の食口ということになります。(笑)ところが、「自分は罪深い。自分が人間的に考えて何かやると絶対に導かれない。だから教会につながって、中心性を立ててアベルの言うことをその通りにやったら神が働いた」という信仰観の方もいらっしゃいますね。私と神様は直接出会うことはできなくて、必ずこの間に媒介として「アベル」がいて初めて神様につながるんだという価値観を強く持っているということです。こういう人は統一教会の中にあってもより福音派の信仰に近い、超越神の信仰を持った人だということになるわけです。(笑)このように、一見違った教派の神観というように解釈できるものが、実は一人ひとりの異なる神観でもあるわけです。ですから、神学というのは観念的なものではなくて、信仰観そのもの、生き方そのものを表現したものだということになります。

 そのように考えてみますと、この自由主義の「内在」というのは良いようで悪い側面もあるわけです。つまり、自分の本心だけを信じてもらっても、教会の中でいろんな問題を起こして困るわけですよ。内在神をあまりに強調すると、極めて自己中心的な信仰に陥りやすいということも警戒しなければなりません。ですから、私たち個人の信仰生活において、この超越神と内在神の両方の神観をバランスよく持っていなければならないわけです。このどちらの神観をより強く持っているかは、皆さんの生い立ちとか、いままで教会で出会った人の影響によって、いまの自分が形作られているということです。それをもう一度反省して、自分のあるべき信仰の姿というものを求めていかなければならないということになります。

 結論的に言いますと、統一原理は極めてバランスの取れた神学であるということです。福音主義と自由主義の両方の立場を包含するような、幅広い内容を持っています。たとえば、福音主義や啓示神学を最初の部分で批判的に扱いましたけれども、「原理講論」の中に啓示神学的な要素がないのかというと、実はあります。その代表が「原理講論」の一番最初の「総序」の37ページに出てくる、以下のような文章です。

「このように、人間を生命の道へと導いていくこの最終的な真理は、如何なる教典や文献による総合的研究の結果からも、また如何なる人間の頭脳からも、編み出されるものではない。それ故、聖書に『あなたは、もう一度、多くの民族、国民、国語、王たちについて、予言せねばならない』と記されているように、この真理は、あくまでも神の啓示をもって、われわれの前に現れなければならないのである。」

 この部分は啓示神学そのものですね。「如何なる人間の頭脳からも、編み出されるものではなくて、まさに神の啓示によって!」ということですから、人間の知恵ではなく神の啓示だということが高らかに宣言されているわけです。この部分だけを抜き取って読むと、「原理講論」というのはまさに啓示神学であり、極めて福音主義的な書物だという印象を受けます。これが「原理講論」の総序の最後の部分でありますから、極めて福音主義的で啓示神学的なトーンで総序は終わるわけですね。ところが次のページを開いて創造原理に入ると、「被造物を観察することを通して神が分かる」と書いてあるわけですから、創造原理の最初はいきなり自然神学から始まるわけです。ですから、「原理講論」をそういう観点から読んでみると、ここは自然神学でリベラルだなと思われる部分と、ここは啓示神学で福音主義的だなと思われる部分が、同じ「原理講論」の中に混在しているわけです。ですから、両方の要素を兼ね備えているということなんです。にもかかわらず、全体として矛盾があるのではなく、首尾一貫しているわけです。

 すなわち、原理というのは一見矛盾するかのように思われる両極の考え方を統一して行く思想であるわけです。ですからいままで言った「自然神学」対「啓示神学」であるとか、「福音主義」対「自由主義」とか、「神の超越」対「神の内在」といったような、一見相反するような考え方を、全部抱き込んで一つに統一していく、とても器の大きな神学が、統一神学なのだということです。このように「啓示神学と自然神学」という切り口を通して原理の内容を見てみたとしても、私たちの知らなかった原理の奥深さというものが分かるのではないかと思います。

 最後に「神学的バランス」という話をさせていただきたいと思います。この話は、私が統一神学校で組織神学を学んだときに、最初に神明先生という方が教えてくださった内容でありました。

実況:キリスト教講座挿入PPT49-2

 この図を見てください。神学には二つの構成要素があり、それを「状況」と「使信」と言います。神様が下さった「使信」、これを英語では“Message”と言いますけれども、啓示とかみ言と同じ意味です。それに対して「状況」、これを英語では“Situation”と言いますけれども、私たちが具体的に置かれている事情や環境のことです。この「使信」と「状況」が相互作用をして、その中で私たちが神様のメッセージをどのように受け止めるべきかという学問的営みを「神学」というわけです。ですから、神様のメッセージと私たちの生きている事情や環境というものをいかに合わせていくか、その中で神様のメッセージをいかに正しく受けとっていくか、ということを探究するのが神学であるわけです。

 この「状況」と「使信」のバランスを取る上で、どちらにより近づくかによって立場が異なってくるわけです。ややもすると私たちは、状況に関係なく、「これが啓示だ!」と言って、み言だけを振りかざすことがあります。こういうのを「教条主義」と言います。逆に、「み言はそうなんだけれども、私の事情はこうで、環境はこうなんだ」ということを主張して、み言を自分の事情や環境に合わせて勝手に解釈することもあります。人間というのは、都合のいいように解釈したがるんですね。そうすると、み言葉が本来伝えたい内容をねじ曲げて、自分なりの解釈をすれば、分派とか分裂を引き起こして、自分勝手な信仰になってしまいます。あるいは、「み言はこうなんだけれども、いまの地の事情はこうだから、こうやった方が戦略的にうまく行く」ということで、方法論に走って本質を失ってしまうということもあり得ます。地上において広まることが重要だということで、方法論を優先すると、本来み言が伝えたかった内容を見失って、世の中から受け入れらることばかりを考えてしまうということです。

 私たちは、「状況」から逃れることはできません。したがって、自分は「状況」の中にいながら、いかにして神の啓示をその如くに受け取って、その神様のみ言がこの地上の具体的な事情環境の中で生かされ実現されていくのか、それを真摯に求めるために何よりも必要なのは、謙遜な姿勢と祈りであるということになります。すなわち、自分勝手にみ言を解釈するのではなくて、謙遜になって、神様のメッセージを正しく受け止めていこうという姿勢を持ち続けることが重要です。

 神学にはバランスが必要であります。統一原理というのは、これまで言ったような両極の考え方を包括して余りあるバランスのとれた体系であるということができます。皆さんは是非、幅広い理解をもって原理の価値というものを悟っていただきたいと思います。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』37


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第37回目である。

「第Ⅰ部 統一教会の宣教戦略 第4章 統一教会の事業戦略と組織構造」の続き

 櫻井氏は本章の中で、日本統一教会の本部ならびに地方の組織図なるものを裁判に提出された証拠の中から転載し、それを根拠に「日本の統一教会は資金調達の事業部門が肥大化した特異な宗教組織となってしまった」(p.142)などという解説を加えている。そこで今回は櫻井氏の主張と、それに対する統一教会側の反論を併記することによって、これらの証拠の信憑性について解説することにする。統一教会側の反論内容は、筆者が家庭連合(旧統一教会)の法務局に取材して得た情報を要約・解説したものである。

142ページ

 櫻井氏は142ページの図4-2について、「統一教会の事業部門の組織図(全国しあわせサークル連絡協議会)」というキャプションをつけて説明しており、これを統一教会の組織図であるかのように説明している。もしこの解説が本当なら、統一教会には「事業部門」が存在し、そのトップは古田氏と小柳氏であったことになる。この図は統一教会側の証人である小柳定夫氏が平成7年(1995年)9月8日に作成した証拠であり、乙号証であるため、組織図の内容自体は教会側も認めているものである。しかし、小柳氏はこれを「全国しあわせサークル連絡協議会」の組織図であるとして提出したものであり、同協議会は統一教会とは直接的な指揮命令関係のない別組織であったと証言している。にもかかわらず、櫻井氏はこれを「統一教会の事業部門の組織図」として紹介しており、正式名称である「全国しあわせサークル連絡協議会」をわざわざ括弧書きにして表記している。これは櫻井氏による不実表記であり、大目に見たとしても証拠に対する勝手な解釈の書き込みである。そもそも統一教会には「事業部門」などというようなものは存在しなかったし、古田氏も小柳氏も統一教会の幹部職員になったことはなかった。

144ページ

 櫻井氏は144ページの図4-3について、統一教会の地区組織の一例であると紹介しており、その構造は全国的に画一化されていると説明している。(p.143)具体的には1989年当時の鹿児島地区の組織図であるとされているものだが、「コマンダー」と呼ばれる地区の責任者夫婦の下に、伝道や教育に携わる「教会」と、経済活動を行う「代理店」が統括されているような図になっている。単純にこの組織図だけを見れば、教会の責任者が宗教活動と経済活動の両方を指導していたかのような印象を受けるかもしれない。

 図4-3は、統一教会を相手取った福岡における献金返還訴訟の証人である、元信者のUさんがまとめた「鹿児島地区の組織図」であると思われる。Uさんは「全国しあわせサークル連絡協議会」の鹿児島地区の傘下にあった会社法人で会計を担当していた女性だが、彼女は陳述書および証言の中で、自らの会計業務が統一教会のものであったと主張している。しかしながら、Uさん自身が宗教法人統一教会の職員であったという事実も、宗教法人の会計業務を行っていたという事実も存在しない。こうした事実誤認に関しては、前述の小柳定夫氏が裁判に陳述書を提出して反論している。そもそも、1989年当時の統一教会には北海道教区から九州教区まで14教区があり、その下に62教会があるという体制だったのであり、「地区」という名称の組織は存在しなかった。したがって、「鹿児島地区」という組織は統一教会には存在しなかったのである。

 こうした元信者の事実誤認は、彼らが統一教会と「全国しあわせサークル連絡協議会」の組織を混同し、誤解をしていたことによって起こったか、あるいは連絡協議会の活動に対する法的責任を宗教法人に対して追求しようと試みる反対派弁護士の指導を受けて証言したために生じたものと思われる。いずれにしても、図4-3は教会を離れた元信者が記憶に基いて作成した甲号証であり、統一教会はその内容を否認しているので、統一教会の地方組織の実体を表した客観的な証拠とは言えないものである。

 櫻井氏はこのような誤った統一教会の地方組織図に基いて、「地区にこそ、統一教会信者の成長過程・人生が凝縮されている。伝道と資金調達を一つの組織で行っているのであるが、その証拠は地区組織の人事・資金管理に明らかである。この点を地区教会の会計帳簿から見ていくことにしたい。」(p.145)と主張した上で、図4-6と図4-8を提示する。

146ページ

148ページ

 この「会計帳簿」の入手経路について櫻井氏は以下のように説明している。
「一九九三年、北海道の岩見沢地区において教会の会計帳簿が初めて外部者の目にふれることになった。信者であった妻が、一九九二年に実施された三万双の既成祝福献金を夫に無断で出したが、それを知った夫は教会長に献金使途の明細を見せるよう迫った。教会長は会計名簿を見せたが、夫は短時間で確認できないので借用して自宅でチェックする旨の了解を得た。そして、札幌市にある北海道合同法律事務所において統一教会相手の訴訟を担当している弁護士に相談を依頼したというのが、会計帳簿確認の経緯だった。」(p.145)

 しかし、この会計帳簿の入手経路に関する教会側の主張は、これとはまったく異なっている。件の夫は名前をDさんと言うが、1993年6月15日に当時岩見沢にあった信徒会館「アイカム」に、Dさんから「これから行く」という電話が入った。まもなくDさんが応接室に現れ、「お前ら、そこに座れ、K(会計係)はいるか?」と怒鳴り、いきなり応接室のテーブルをひっくり返し、倒れたテーブルの上に仁王立ちし、応対したTさんを軽く殴りつけ「俺は1億円要求する。」「お前のおかげで俺たち夫婦が大変になった。金取り主義だろう。帳簿を全部見せろ、俺も教会員なんだから帳簿を見る権利がある。」と怒鳴ったという。会計のKさんはDさんの大変な剣幕に顔面蒼白となり、その迫力に押されるようにして応接室の隣の事務室に信徒会の帳簿(祝福献金についてのメモ)を取りに行ったが、Dさんは「遅すぎる」と言って勝手に事務室に入り、Kさんから帳簿を無理やり取り上げ「税務署に持って行き、お前らのやっていることを調べてみる」と言い、近くにあった紙袋にその帳簿を入れ、「明日も来る」と言って帰ろうとした。Kさんは「他の人のプライベートなことも書いてありますので持って行かれては困ります。返してください」と懇願しながらDさんに近づこうとした。しかし、Dさんはそばに来ようとするKさんを足で激しく蹴飛ばし、「訴えられるものなら、訴えてみろ」と怒鳴り、事務室を出て行ったというのである。その帳簿を、Dさんが郷路弁護士に渡したというのが、会計帳簿の内容が外に漏れるようになったいきさつである。このことから、この会計名簿は極めて暴力的で違法性の強い方法で入手されたことが分かる。

 さて、問題の会計帳簿に関して統一教会は、「岩見沢信徒会の会計帳簿であって、教会の会計帳簿ではない。岩見沢の信徒たちは信徒会館(アイカム)を活動の拠点としていたが、上記帳簿はそのアイカムの金銭の出し入れを記したものである。当時、岩見沢には教会はなかったのであり、岩見沢の信者は札幌教会に所属していた。」と主張している。

 そもそも、Dさんがこのような狼藉をはたらいたのは、老後に対する不安が原因であった。そこで岩見沢の信徒たちで話し合った結果、Dさん夫妻が祝福献金として捧げた全額を分割で返金することで和解が成立した。しかし、Dさんの持ち去った帳簿は反統一教会の立場に立つ郷路弁護士に利用される結果となってしまったのである。さらに、1993年7月25日の週刊文春に「統一教会ウラ帳簿をスッパ抜く」と題する記事が掲載された。

 数年後、Dさん夫妻は教会や岩見沢の信徒の方々に当時のことで大変迷惑をかけたと謝罪したので、教会も岩見沢の信徒もDさん夫妻の気持ちを汲み、快く迎え入れたという。以来Dさん夫妻は、教会の礼拝や信徒の集会に参加するようになった。清平の修練会にも2人で喜んで参加し、その後も岩見沢信徒会で熱心に信仰生活の勉強をしたり伝道活動をしていた。2008年1月3日にDさんのご主人が心不全で亡くなり、息子さん、娘さんも参加して、統一教会の昇華式が行われたという。

 このようにDさん夫婦は最終的には神の懐に帰ってきたが、Dさんを経由して反対弁護士の手に渡った信徒会の帳簿は、「統一教会の裏帳簿」と銘打たれて、反対派の宣伝に用いられるようになったのである。櫻井氏の著作に掲載されているこうした証拠は、図4-4も含め、全て信憑性のないものである。そのような証拠に基づく「地区協会の事業運営」に関する櫻井氏の分析内容も、同様に根拠のないものである。

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カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

実況:キリスト教講座48


自然神学と啓示神学(11)

 神の内在という考え方は、人間の基本的善性の強調につながり、原罪によって人間の性質が完全に腐敗しているとは信じておりません。ですから、これが行きすぎると汎神論に陥ったり、神秘主義的傾向を帯びたりするようになります。この「汎神論」とは何であるかというと、神と被造世界があまりに近づきすぎると、最後はその区別がなくなったり、曖昧になったりするということです。すべて神になってしまいます。すなわち、このコップも神、机も神、演台も神、私も神、あなたも神、みんな神、これを「汎神論」と言います。これはどう考えても間違いですね。近けりゃいいってもんじゃないんです。

 そして神学的には、神がそれほどまでに被造世界に浸透しているとすれば、どうして悪が生じたのかという神義論の問題が解決できなくなります。神と被造世界が一体なら、どうして悪があるのかが説明できなくなってしまうわけです。なんらかの距離がないと、悪が生じる余地はないですね。

 また信仰姿勢としては、神が直接人間に働くのだから、教会や司祭などを媒介としてなくても、直接自分が神に出会えば良いという思想に傾き、神秘主義や教権批判といった方向に向かいやすい傾向にあります。また、啓示の遍在性という思想の故に、「聖書」にしか神の啓示が現れないとする根本主義に反対することになり、エキュメニズムという、教派の壁を超えて対話をしようという運動に理解を示すようになります。

実況:キリスト教講座挿入PPT48-1

 超越神と内在神をイメージで描くとこうなるわけです。内在神というのは、自分で直接神に出会えばいいんだということです。神は普遍的存在としてどこにもいるし、私の中にもいるんだから、わざわざ教会に行かなくても、わざわざ司祭様につながらなくても、わざわざ神父様に罪を告白して告解の秘蹟をしていただかなくても、自分が直接神につながればいいでしょということになるので、教会に行く必要がなくなっちゃうわけです。

 それに対して超越神においては、私は罪深いから直接神に出会えないわけです。だから教会や司祭は絶対に必要だということになります。すなわち、縦的な秩序があって、神様がみ言葉を下さって、そのみ言葉をつかさどる教会というものがあって、その教会を媒介としてはじめて私は神様につながることができるんだと考えるわけです。こういう秩序があります。ですから超越神の方が、自分は教会につながるべき存在だという考え方になるので、教会をむやみに否定したりしないわけです。ところが内在神の場合は自分が直接神に行ってしまうわけですから、むしろ教会は必要なくなってしまいます。

 神の超越性についてより詳しく解説します。超越性を強調する思想は、基本的に人間や自然の中にはいっさいの神性を見出すことはできず、神は被造世界から独立し、遠く離れたところにいるととらえます。すなわち、人間は罪にまみれているという悲観的な思想であり、生に対する否定的な思想であると言えます。極めて暗い人間観ですね。パウロ、ルター、カルビン、バルトなどの思想に色濃く現れている考え方が、この超越神であり、人間は罪深いという考え方です。パウロもルターもカルビンもバルトも、キリスト教の世界においてはみな超有名人です。キリスト教の神学における超有名人は、ほとんどが超越神を強調した人なんですね。ですから、キリスト教の神学全体がかなり超越神の方に傾いているといっても過言ではありません。

 この思想によれば、人間を含む被造世界は神からかけ離れているので、それらの中には神を見出すことはできません。したがって、自然神学は成り立たないととらえます。ここから「人間からは神に近づくことができないので、神の方から人間にアプローチしてこなければ人間には救いの道はなく、人間の救いは徹底的に神の恵みによるものである」という思想が生まれてきて、それが一番最初に説明した福音主義神学の大前提になるわけです。

 神の絶対超越性は啓示の必要性と結び付いており、イエス・キリストや聖書という啓示以外には救いの道はないと主張します。「神のみ言葉」と、それをつかさどる「教会」につながることなくして、救いはないと主張します。したがって、この地上の特定の政治運動と結び付いたりすることはないわけです。

 神の超越性という思想は、常に神の偉大性と神秘性を強調することによって、人間を謙虚にするという利点を持っています。そして、安易に時勢に流されないで、キリスト教信仰の本質に根を降ろした判断に信仰者を帰らせるという利点もあります。超越神信仰の本質は何であるかというと、常に神の恵みに感謝し、「神を恐れる」ということを知る信仰者を育てるということにあります。これが超越神信仰の神髄であるといえます。そういう意味では必要なことですね。箴言1章7節に「主を恐れることは知識のはじめである」とあるように、私たち堕落した人間は、神を恐れるという世界がないと、どうしても自己中心的な信仰に陥りやすいのだということになるわけです。

 統一教会におきましては、神は愛の親であると言っているわけでありますから、なぜ恐れる必要があるのかと思うかも知れませんが、私たちは神様の子女である前に、堕落した人間であるわけです。堕落した人間は罪を持っています。ですから神を恐れ、神の前にひれ伏し、罪深い人間でありながら恵みを与えられていることを感謝するという謙虚な姿勢がないと、信仰姿勢が間違ってしまうわけです。そういう意味で、この超越神信仰というのは、堕落人間にとってはどうしても必要なものだということになります。

 それでは、この問題に関する統一原理の立場はどのようになるのでしょうか? トマス・アキナスに代表されるスコラや、バルトに代表される新正統主義に比べると、統一原理は神の「内在性」がより強調された神学であると言っていいでしょう。これは「内在性」が良いといっているのではなくて、従来のキリスト教神学の神観が神の超越的側面のみを一方的に強調してきたために、相対的にそのように見えるのであって、実は両者のバランスの取れた状態が望ましいわけです。

 内在性も度を過ぎれば自己と神を同一視する独善や、分派・分裂に走る危険をはらんでいます。神様と自分が一つだということをあまりにも強調しすぎると、ときには自分が神になってしまったり、自分が教祖になってしまったりするわけです。一方で、超越性も度を過ぎれば、何でもかんでも恐れてただ従えばいいんだという考え方になると、教条主義や自己の主体性を放棄した盲目的・盲従的信仰に陥る危険があるわけです。ですから、どちらも度を過ぎてはいけないんだということです。

 しかし、バランスを取るといっても、実際にはある人の神観が超越的になるか内在的になるかは、その人の置かれている社会的環境に大きく左右されるという現実があります。たとえば、さきほど紹介したカール・バルトや福音主義神学の場合にはどうでしょうか? バルトの生きた時代というのは、まず第一次世界大戦で人間の罪深さというものが白日の下にさらされた時代でした。これはクリスチャン同士が互いに殺しあう惨状を見せつけられたということです。そしてその次にはヒトラーのナチスが出てきて、ドイツのキリスト教会を飲み込もうとして牙を剥いていた時代でした。すなわち、自分の周りの社会が気が狂ったような状況で、世相は暗く、本当に辛い時代、危機の時代に生きる人間というのは、この世の中に神が内在していると思うでしょうか? 思わないというんですよ。すなわち、あまりにも世の中が狂っているときには、神はここにいるとは思わないのであって、どこか遠いところにいるんだと普通人間は思うのであります。したがって、神のイメージは超越神になるわけです。

 逆に、とっても平和な時代に、のどかな田園風景の中で生活し、争いもなく、人間関係もよくて、食べ物も豊かにある恵まれた環境の中で育って、幸せなクリスチャンとしての生活を送っている神学者がいたとすると、その人はどういう神観を持つでしょうか? 神はどこか遠いところにいると思うかというと、普通はそう思わないのです。「神は私と共にいる。日々の生活の中に神がいる。夫婦関係の中に神がいる。隣人との関係の中に神がいる。この共同体の中に神がいる。そしてこの豊かな自然の中に神がいる」と思うわけであります。ですから、幸せいっぱいの時には神は内在すると考えるわけです。このように、神に対する感覚が超越的になるか内在的になるかというのは実は、その人が置かれている社会環境の影響を受けるわけです。そういう意味では、超越神か内在神かというような神学的内容も、その人が置かれた社会環境の産物という側面を持っているわけです。

 これは神学者だけではなくて、皆さんも同じです。皆さんの神観がこれまで言った中で、超越神に近いのか、内在神に近いのかのどちらかに偏っているとすれば、それは今まで皆さんが生きてきた人生であるとか、初期に出会ったアベルであるとか、いろんなものの影響を受けながら形成されたものであるということになります。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』36


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第36回目である。

「第Ⅰ部 統一教会の宣教戦略 第4章 統一教会の事業戦略と組織構造」の続き

 櫻井氏は本章の中で、1983年10月に起きた「世界日報事件」について以下のように説明している。
「一九八三年に、当時『世界日報』編集局長であった副島嘉和のもとに梶栗玄太郎『国際勝共連合』理事長(当時)(二〇〇九年七月に第一二代会長に就任)以下数名が押しかけ、暴力的に副島と彼の部下を解任したという事件が発生した。」(p.140)

 この事件はWikipediaにおいても、以下のように副島氏寄りの記述がなされている。
「1983年10月1日、当時の編集局長らによる、統一教会色を薄め一般紙を志向する路線を会社の乗っ取りであると反発した『国際勝共連合』理事長梶栗玄太郎ら約百人が、東京都渋谷区宇田川町のワールドビル(当時)内にあった世界日報社事務所に押しかけて社内を占拠し、社員を監禁・暴行した。」
 これだけを読むと、なにやら教会側の幹部が暴力的に副島氏を排除したかのような印象を受けるが、真相はどうだったのだろうか? 少なくとも双方の言い分を聞かない限りは客観的な判断はできないであろう。この事件に対する統一教会側の認識は以下のようなものである。

 世界日報社は、文鮮明師の提唱により、1975年に設立され、石井光治氏、阿部正寿氏をはじめとする8名の統一教会信者が株を保有する株式会社であった。1983年3月~9月にかけて、世界日報の編集局長であった副島氏は、取締役の井上氏および数名の部下とともに提唱者の意に反し、会社の創立理念を無視した自分の意に沿った紙面作りを画策し、世界日報社の乗っ取りを企て、不法に(業務上横領罪、有価証券偽造及び同行使罪、私文書偽造同行使罪、公正証書原本不実記載罪、私印の不正使用罪の犯罪行為を犯し)取締役会議議事録、臨時株主総会議事録、株式会社変更登記申請書などを偽造し、それを東京法務局渋谷出張所に提出した。

 事態の重大さに気づいた世界日報社の株主及び取締役は1983年10月1日、乗っ取りを阻止する目的で世界日報社を訪問し、両者と面談を行った。この際に多少の小競り合いがあったことは事実であるが、これは副島氏らの新聞社乗っ取りを知らない社員らが、副島氏らの取り巻きにそそのかされたことが原因である。最終的には副島・井上両氏と、世界日報を代表して副社長の奈田氏および梶栗氏が、渋谷警察署において、会社の顧問弁護士を仲介にして話し合った。副島・井上両氏は全面的に上記犯罪の事実を認めて謝罪したので、両者は、「①副島・井上両氏はすでに申請中であった偽造文書である株式会社変更登記申請書の取り下げを確約すること、②副島・井上両氏は責任を取って辞任すること」などを内容とする覚書を交わし、同新聞社とも一切の関わりを絶った。その後、副島・井上両氏は、統一教会に対する事実に反する批判、文鮮明師やリーダーに対する名誉毀損により教会員としてふさわしくないという理由で教会からも除名されている。

 副島氏は事件後、自らの陰謀が失敗に終わったことに対する腹いせとして、『文藝春秋』1984年7月号に、「これが『統一教会』の秘部だ」と題する記事を寄稿した。同記事の内容は、上記の事実を隠蔽し、自らの違法行為を棚に上げて、自分が一方的な被害者であるかの如く主張する虚偽の告発にほかならない。彼の主張は、信者らにより経営される会社の実体を歪曲し、偏見と虚偽に基づくものでしかない。総じて同記事の統一運動批判は日本の保守勢力との分断を意図した左翼陣営と組んでなされたものであった。

 櫻井氏は自著の中で「副島は一九八〇年に文鮮明の指示により経済局が新設され、その局長職に就いた古田元男が伝道局長の櫻井節雄と彼の管轄下にある全国のブロック、教会組織を幸世商事(後にハッピーワールドを名称変更し、古田は全国しあわせサークル連絡協議会の長となる)の傘下に組み込んだと述べている(副島・井上 一九八四)。副島は経済部門主導の教団経営に異議を申し立てたというが、メシヤである文鮮明に逆らう賛同者はいなかったようであり、会長の久保木もメシヤに従った」(p.140)と書いている。教会が株式会社の傘下に入るというのは驚くべき主張だが、これに対して教会側はどう反論しているのだろうか? 実は、副島・井上手記は統一教会を相手取った裁判に証拠として提出されたため、教会側は裁判の場で上記の主張を明確に否認している。教会側が副島・井上手記を信用できないと主張しているポイントは以下の通りである。

①副島氏は「私は統一教会本部広報局長も兼務しており、教会の方針を決定する最高決議機関の12人の局長会議のメンバーの一人だった」と書いているが、これは誤りである。統一教会の最高決議機関は当時も現在も責任役員会と評議員会(地区長会議)であり、この二つの機関で教会の全ての問題を決議し、実行するようになっている。

②副島氏は、この責任役員会に出席できる責任役員や評議員会議に出席できる評議員に一度も就任したことはない。局長会議は統一教会の意思決定機関ではない。副島氏は責任役員会等で決定されたことを、広報という立場で解説するという立場にいたものに過ぎない。

③副島氏は「宗教法人世界基督教統一神霊協会が投資をし、株式会社世界日報社の株式を取得した」と言っているが、統一教会は未だ一度も株式会社世界日報社の株を取得したことはなく、副島の言っていることは、事実に反する。

④副島氏は手記の中で「統一教会が株式会社ハッピーワールドに吸収された」と書いているが、統一教会は未だ一度もいかなる団体にも吸収されたことはなく、同氏の言っていることは事実に反する。

⑤副島氏は、「世界基督教統一神霊協会の全国の地方組織をまとめる伝道局長の桜井設雄氏が株式会社ハッピーワールドの古田元男氏の下に入った」と書いているが、桜井設雄氏や統一教会の地方組織が株式会社ハッピーワールドの組織の中に入ったということは一度もない。

⑥副島氏は、統一教会が経済局を設置し、古田元男氏が経済局長に就任したと記述しているが、統一教会が経済局を設置した事実も、古田氏が局長に就任した事実も一切ない。また、古田氏が統一教会の役員であったことは一度もない。

 これらの裁判で教会側の証人として証言した小柳定夫氏は、陳述書の中でこの副島・井上手記について以下のように述べてから、一つ一つ反論している。
「そもそも彼らは、編集権、経営権の独立という大義名分を掲げ、その美名に隠れて、いわゆる世界日報社乗っ取り事件を画策した張本人であり、その野望を直前に見破られ、阻止されたことから、統一教会に対して恨みや敵意を抱くようになり、その不満を一気に爆発させるべく書きつづったのがこの論文といえます。従って、底流には、不平、不満、不信が一貫してあり、しかも時間や、場所や人物など、具体的、客観的事実を特定しないままの思い込みやこじつけ、さらには、デッチ上げと思われるような間違いだらけの記述を臆面もなく繰り返しております。こうした、悪意に満ちた態度、卑怯な手段には、呆れ返るばかりであり、いちいち反論する気力もなくなるほどですが、忍耐心をもって、順次、反論を試みたいと思います。」

 さて、櫻井氏は本章の中で「地域のコマンダー」という名の「統一教会幹部」について述べているが、教会に「コマンダー」なる役職があったことはない。また、一連の裁判を通じてコマンダーの肩書きを持って登場するのは「古田コマンダー」のみである。

 櫻井氏は、「統一教会では伝道部門が教会の役割であり、信者への布教・教化に責任を持って研修等を行う。その後、研修を終えて統一教会信者となった会員を管理し、様々な事業部門に配属させるのがコマンダーの役割である。」(p.141)と記述しているが、教会組織で研修した信者を事業部門に配属させるなどということはなかった。櫻井氏の記述は、連絡協議会内で行われていた伝道、勧誘活動から信者となって、連絡協議会ないし関係する部署に配属されていることを述べたものであり、これには宗教法人は関わっていなかったのである。なお、連絡協議会においても人事配属をする立場の人間をコマンダーと呼ぶことはなかった。

 以上が、世界日報事件の真相、副島・井上手記の信憑性、さらにハッピーワールドによる統一教会の吸収合併という櫻井氏の主張に対して、教会の法務局に提供してもらった資料をもとに私が要約した「統一教会側の説明」である。櫻井氏の主張と、教会側の主張のどちらに信憑性があるかは、読者の判断に任せることにする。

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実況:キリスト教講座47


自然神学と啓示神学(10)

 次に、特殊啓示と啓示神学について説明します。これも一般的な組織神学の教科書に出てくる説明です。神が特定の時に、特定の場所で、特定の人に対して救いの業を成すために与えられた啓示を「特殊啓示」と言います。啓示を特殊啓示のみに限定するのが啓示神学の立場です。特殊啓示が必要とされるのは、人間が堕落して神との本来の関係を失ったので、人間は神様が特別に啓示を下さらないかぎりは神様のことが分かりません。それを伝えるのが「聖書」であるということです。だからそれは特別な神の啓示なんだというわけです。

 この特殊啓示は、人間の贖罪に関する特別な神の啓示であり、その内容は個人的・直接的にある人物に伝えられます。それがモーセであったり預言者であったりするわけです。このとき、神は人知を超えた超越的存在として示され、絶対的な権威を持った存在として人間に命令します。すなわち、特殊啓示というのは人格的な存在である神が、上から一方的に権威をもって人間に与えるという形を取るわけです。このような特殊啓示は、具体的には「聖書」という書物の中に、①旧約につづられた歴史的出来事を通して、②預言者を通じた神の言葉として、③神の受肉したイエス・キリストを通して記されているとされています。これが特殊啓示の内容になります。

 それでは、我々の信仰にとって「特殊啓示」という概念にはどのような意義があるのでしょうか? それは啓示の優先順位と秩序ということに関係しています。基本的に一般啓示という概念は、啓示の意味内容を拡大していく傾向にあります。いついかなる時でも、どんな人でも神の啓示を受けることができるというように、啓示の意味を広げていくと、あれも啓示、これも啓示ということになり、あたかも啓示のバーゲンセールのようになってしまうのです。私たちのような凡人も一生懸命祈ったりすれば神の啓示を受けるかもしれませんが、それがモーセやイエス様の受けた啓示や、お父様の受けた啓示と果たして同等と言えるのでしょうか? さらには、個々人の受けた啓示が互いに矛盾する内容であった場合には、誰を信じたらよいのかという問題が出てくるわけです。その意味で、たとえ私たちも啓示を受けるということを認めたとしても、それは特別な使命をもった人に与えられる特別な啓示の前には、否定されなければならないときもあるということです。そのような啓示の優先順位や秩序ということを考えたとき、私たちはこの「特殊啓示」という概念の重要性を認識しなければならないわけです。

 次に、神の「超越」と「内在」ということについて説明します。これもキリスト教神学を理解する上において非常に重要な概念ですね。この「超越」と「内在」という概念は基本的に、神と被造世界がどのような関係にあるかについての両極的なとらえ方のことです。神の「内在性」を強調する思想は、基本的に神は被造世界と非常に近い関係にあり、被造世界の至るところに神は偏在しているととらえます。これが「内在」という考え方です。それに対して、神の「超越性」を強調する思想は、基本的に神は被造世界とは隔絶したところにいる非常に遠い存在であるととらえます。これが「超越」という考え方です。

実況:キリスト教講座挿入PPT47-1

 これを皆さんの右脳で理解できるように図にしてみました。超越神のイメージというのはこんな感じ(左側)ですね。人間がここにいるとすると、罪にまみれて真っ黒けです。自分から神様に至ろうとしても、神様というのは非常に遠いところにいて、人間が到底届くことのない遥か彼方にいらっしゃるわけです。そして雲か霞か何かに隠れて見えないし、声も聞こえない、触ることもできません。人間の方から、すなわち下から上に登って行こうとしてもダメです。だから、もし人間が神様について何か知ることができるとすれば、神様と人間との間にある距離を神様の方から突き破って、神様が一方的に恵みとして啓示を下さったときだけ、それは可能だということなんですね。ですから、さきほど福音主義の大前提で「下から上へはダメですよ。上から下でないとダメですよ」と言っていたその背景には、実は「超越神」というイメージがあるわけです。つまり、神様は人間から超越した極めて遠くにいる存在で、とても手の届かないところにいるので、そういう距離感があるからこそ、人間から神様に至ろうとしてもダメで、神から人間に恵みを下さらなければならない、ということを強調するようになるわけです。

 それに対して「内在神」というイメージは、神様と人間との関係はこんなに離れていません。とても近いわけです。手を伸ばせばすぐそこにいる。下手をすると「内在神」ですから、どこか遠くにいるんではなくて、私の中にいる、神様は私の中に住んでいらっしゃる、神様は常に私と共にいらっしゃるというような、神様に対するとても近い感覚、これを「内在神」というわけです。下手をすると「神は友達」ということになります。

 こういう話をすると、原理では「人間は個性完成すれば神と一体となる」という神学があるので、「超越神」の方が旧約時代の神で、「内在神」の方がより原理に近い神かなとか、「超越神」というのは神との距離が遠いので基準の低い状態で、「内在神」というのは神と一体化した完成間近の状態なのかなという考えて、単純に「内在神」の方が良いのだと統一教会の人たちは発想しがちなんでありますが、必ずしもそういうことではありません。内在性というのは良いようなんでありますが、いろいろ問題も含んでおります。すなわち、神の超越性と内在性というのは、どっちかが良いとか優れているとかいうことではなくて、実は両方のバランスが必要だということなのです。どちらにもそれぞれ長所と短所があります。なぜそうなのかということを、これから詳しく説明します。

 内在性を強調する思想の特徴は、基本的に被造物の中には神の善なる性質が満ち満ちているととらえる楽観主義にあり、生に対する肯定的な思想であると言えます。自然や人間などの被造物の中に神が「内在」していれば、それを通して神を知ることができるので、この「内在神」が自然神学の根拠となります。超越していれば、自然の中に神はいないわけですから、自然を観察しても神は分からないという結論になってしまいます。

 この神様は人間と非常に近い関係にあるので、私たちが生きているこの歴史の一瞬間にもどんどん働いてくるということで、内在神の特徴として「歴史の中に働く神」という考え方があるんです。神様は遠いところに超越しているんじゃなくて、常にこの被造世界に関わりを持って来られるわけですから、いま私たちが生きているこの歴史の舞台にも神は働いているという考え方になります。そうすると、どうしても人間は「神は我と共にいる」と考えたいですね。ですから神様が特定の政治運動の中にいるとか、特定の社会運動の中にいると考えて、容易にそれらと結び付きやすいという特徴もあるわけです。

 神の内在性は、まさに19世紀ヨーロッパの自由主義神学の特徴でした。すなわち、「神は我と共にいる」という考え方が世俗化されていったわけです。宗教を「世俗社会」を超越したものととらえないわけですから、世俗的な哲学や思想、あるいは特定の政権と結びついて、信仰が宗教的ナショナリズムに堕落していく危険性を「神の内在」という思想は常にはらんでいるわけです。すなわち、「神は近い」というのは良いんですが、神は我と共にある、神は我が民族と共にある、神は我が国家と共にある、という考え方になっていくわけです。「神の内在」という思想には、人間を自己中心的信仰に陥れる危険がある、ということも同時に知っておかなければなりません。

 たとえば、私たち統一教会でも昔よく歌っていた歌の中に、“God Bless America”という歌があるんですね。「神はアメリカを祝福し給う」というとっても良い歌なので、アメリカの食口たちはみんな喜んで歌ったんです。ヤンキー大会やワシントン大会のときもみんなでそれを歌いました。これは一面の真理なんです。神はアメリカを民主主義の代表国家として祝福し、アメリカに「天使長国家」という歴史的な使命を与えたわけですから、神がアメリカを祝福したというのは一面の真理なんです。しかし、これが行き過ぎるとどうなるかというと、「アメリカは神の国である。アメリカの拡大は神の正義である。したがって、アメリカの敵は神の敵である。だからやっつけろ!」という発想に、どうしても人間というのはなるんです。この「内在」という思想の中に謙虚さがないと、どんどん傲慢になって、自己中心的な思想になるということなんです。

 第一次世界大戦というものが起こった背景には、この「神の内在」という思想があったんです。それが19世紀のヨーロッパの自由主義神学の特徴であったわけでありますから、イギリスでも、ドイツでも、フランスでも流行っていたわけです。したがって、「歴史の中に働く神」という考え方から、どの国も「我が民族に神が働く」と考えたわけです。ドイツ人は「ドイツに神が働いている」と考え、フランス人は「フランスに神が働いている」と考え、イギリス人は「イギリスに神が働いている」と考え、自国の拡大が神の祝福であると考えたわけです。このように、それぞれの国が自分に神の祝福があると信じ、自分の勢力を拡大することが神の御旨なんだととらえたらどうなるでしょうか? それがぶつかって戦争が起きるでしょう。第一次世界大戦が起きた神学的理由というのは、まさにこの「神の内在」という考え方にあったわけです。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』35


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第35回目である。

「第Ⅰ部 統一教会の宣教戦略 第4章 統一教会の事業戦略と組織構造」の続き

 櫻井氏は本章の中で、「三 日本の統一教会の組織構造」と題して、主に裁判資料と教会の出版物をもとに教会の組織構造の解明を試みている。裁判に関する知識のない人がこの記述を読んだら、統一教会自体が発行している出版物と公的な裁判に提出された証拠をもとに分析しているのだから、櫻井氏の記述は信頼できる証拠に基づいて組織の実態を解明したものであると認識するかもしれない。しかし民事訴訟においては、裁判所に提出される証拠のすべてが信用できるわけではない。

 民事訴訟の証拠には大きく分けて「甲号証」と「乙号証」がある。一般に「甲号証」とは原告側、つまり訴えた側が提出する証拠であり、「乙号証」とは被告側、つまり訴えられた側が提出する証拠である。櫻井氏が資料提供を受けた弁護士は、統一教会を訴えた元信者らの代理人を務めてきた人物であるため、「甲号証」は基本的に元信者らの主張を裏付けるために、彼らが作成ないし提出したものである。その中には「統一教会の内部文書である」と主張されているものも含まれているが、被告である統一教会はそのことを否認している場合がほとんどである。つまり、「甲号証」が本当に統一教会の組織構造を明らかにしたものであるかどうかは、原告と被告で主張が食い違っており、少なくとも客観的な事実であると判断できないものが多いのである。

 そのような性質の証拠をもとに統一教会の組織の実態について論じ、しかもその証拠に対する統一教会側の主張を一切顧みずに断定的な記述をしているという点において、櫻井氏の主張は公正中立の立場を大きく外れているといえる。もちろん、統一教会反対派の弁護士が書いた著作の中にも同様の記述は存在する。しかし、彼らは利害関係者であり、反対の立場を鮮明にしているので、おのずとその資料の性質が分かるのに対して、櫻井の著作は、表面上は客観的な学問的研究の体裁を装っているために、余計に始末が悪いのである。裁判においては少なくとも原告側と被告側の両方から証拠を採用し、常に両論を併記しながら判断を下すことによって、客観的判断をしようと試みている。しかし、櫻井氏の記述は「甲号証」を中心として統一教会を攻撃するのに都合のよい資料を恣意的に選んで論じているだけである。「乙号証」を用いている場合でも、被告側の意図とは全く違った曲解を加えて解説している場合が多い。本来ならば、このことを指摘するだけで充分であるが、櫻井氏の主張する「日本統一教会の組織構造」がいかに事実と異なっているかを指摘するためにも、個々の主張を丁寧に検証することにする。

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 図4-1(p.138)は、石井光治氏がいわゆる「神戸事件」(1974年に神戸で統一教会の幹部三人が外国為替法及び外国貿易管理法違反容疑で摘発された事件)で供述した際、法人組織図として作成したものである。これは調書にも残っているため、当時の日本統一教会の組織図であると認めざるを得ないものである。しかし、この組織図に関する櫻井氏の「これを見る限り、当時においても統一教会という宗教組織は統一教会グループの一事業体に過ぎない」(p.138)という記述は根拠なき決めつけであり、意味不明な発言である。この組織図は、会長をはじめとする宗教法人の役員と、総務局、伝道局、文化局、全国51地区教会、十字軍団、統一思想研究所などからなっており、宗教法人としての組織図そのものである。そこには宗教以外の事業体に関する記述は一切ないにも関わらず、何を根拠に宗教組織が統一教会グループの一事業体に過ぎないなどと言えるのであろうか?

 さらに櫻井氏は、「興味深いのは、宗教法人の組織においても、全国二二七ヶ所の支部教会を統べる五一の地区教会が法人の総務や広報、特別なミッションを持ち、伝道や資金調達を行う十字軍団なる事業部門と同列に扱われていることである。つまり、キリスト教会において祈りや牧会、奉仕活動の中心となる教会が、統一教会では複数ある活動領域の一つにすぎない」(p.139)などという解説を加えている。

 これは組織図の描き方の問題であって、本部機能と地方教会をどのような配置で描くかという問題にすぎない。会長を初めとする教会役員、総務局、伝道局、文化局などは教会本部を構成している。それ全体を「本部」として括って、その下に全国51地区教会と十字軍団と統一思想研究所を描けばより実態に近くなると思うが、この図は本部組織と地方組織を並列に描いているので誤解を生じる可能性がある。いずれにしても、本部機能も地方組織も全体としての「教会」の一部であり、宗教目的で存在していることは明らかである。そして十字軍は伝道機動隊であるし、統一思想研究所は創設者の思想を研究する部門であるから、これらの組織の目的はすべて宗教的なものである。これら全体が「教会」を構成しているのであって、櫻井氏の主張するように、教会が複数ある活動領域の一つにすぎないなどということはないのである。

 ここで櫻井氏が伝道や資金調達を行う事業部門としている「十字軍団」とはいったいどのような組織だったのだろうか? 歴史編纂委員会が編集した『日本統一運動史』(光言社、2000年)によれば、統一十字軍(IOWC)は1972年1月にアメリカで文鮮明師によって結成され、同年4月に文師が来日した際に、日本でも12団の十字軍が結成されたという。(『日本統一運動史』p.322)そして11月27日から12月1日にかけて守山修練所において十字軍開拓修練会が行われ、12月2日、全国140か所の開拓伝道にそれぞれ出発していったと記述されている。(『日本統一運動史』p.334)1975年1月にはIOWCの欧米チーム360名が日本に到着し、全国各地で「希望の日」フェスティバルを開催しながら国際的伝道がなされた。(『日本統一運動史』p.362)さらに同年3月下旬には、日本メンバーを含む600名のIOWCメンバーが訪韓し、全国でフェスティバルを開催した後に、6月7日にヨイド広場で120万名を集めて大会が行われた。(『日本統一運動史』p.368)このように、十字軍団というのは国際的な伝道機動隊であって、世俗的な事業とは関係のない宗教的組織であったのである。それが通常の教会組織と別途表記されているのは、地方に定着して伝道活動を行う支部教会とは別の動きかたをするためであった。

 以上により、教会が複数ある活動領域の一つにすぎないという櫻井氏の主張は、少なくとも図4-1の組織図からは読み取れないものであり、それは統一教会が真正な宗教団体であることを否定しようとする反対派の主張を、無理やり資料の中に読み込んだ牽強付会に過ぎないものであることが分かるであろう。

 図4-1は、櫻井氏が「初期の事業多角化」の証拠として示したものである。彼は統一教会を一つの「コングロマリット」として描きたいので、初期の頃から統一教会が宗教目的だけでなく、収益事業や社会事業に関わって来たことをなんとか立証したいわけである。しかし、統一教会は宗教法人法と自らの規則に従って宗教活動に専念しているため、統一教会自体が作成した資料からは「事業多角化」を立証することはできないのである。そこで統一教会反対派や櫻井氏が持ち出すのが「元信者の証言」であり、その中でも最も強力な資料として使われてきたのが、『文藝春秋』1984年7月号に元世界日報編集局長の副島嘉和氏と同営業局長の井上博明氏が連名で発表した、「これが『統一教会』の秘部だ―世界日報事件で『追放』された側の告発」という手記である。

 この手記は、統一教会の思想が韓国中心主義であると批判したり、「霊感商法」のマニュアルや資金の流れと称するものを「暴露した」と主張しているため、統一教会に対する内部告発として反対派に大いに利用された。この副島・井上手記の内容を理解するためには、1983年10月に起きた「世界日報事件」について知らなければならない。この事件は筆者が原理研究会に入会した直後に起こった事件であり、直接関わりはなかったが、その後世界日報がしばらく休刊になったので鮮明に覚えている。櫻井氏の著書の中では、「一九八三年に、当時『世界日報』編集局長であった副島嘉和のもとに梶栗玄太郎『国際勝共連合』理事長(当時)(二〇〇九年七月に第一二代会長に就任)以下数名が押しかけ、暴力的に副島と彼の部下を解任したという事件が発生した」(p.140)と記述されているこの事件の真相については、次回の投稿で明らかにし、それに対する報復として書かれた副島・井上手記の信憑性についても追って明らかにすることにする。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

実況:キリスト教講座46


自然神学と啓示神学(9)

 自然神学はルネッサンスと啓蒙思想を経てヨーロッパのキリスト教の主流となり、19世紀に全盛期を迎えました。これは科学と宗教は基本的に矛盾しないという立場をとり、人間の理性を高く評価する楽観的な神学であると言えます。この自然神学は、いまでもカトリックと自由主義のプロテスタントにおいて支持されています。その特徴として、人間の罪深さや悪魔性については強調しないので、危機の時代においては無力な神学であると批判されることもあります。

 自然神学というのは、「人間の理性万歳!」という神学であります。ですから人間は理性的な存在であり、合理的に考えれば人間はどんどん良くなっていくという楽観的な前提があります。人間は右肩上がりに成長し、進歩していくんだという「進歩の思想」です。ところが、19世紀までずーっと発展してきたこの自然神学、すなわち理性を賛美した神学が、突如として挫折する大きな事件が起きます。それが何かというと、実は第一次世界大戦です。第一次世界大戦は、人間の科学技術が大きく発展した時代に起こったものでした。人間の理性を発達させ、科学を発達させた結果として何が起こったかというと、その科学力で大量の人殺しをしたということでした。それをもって、「理性がもたらす結果というものは、こんなものなのか! 理性だけでは人間は幸福になれない。人間の心の中には悪魔が住んでいる!」ということになって、理性礼賛の時代に終焉が来るわけです。すなわち、第一次世界大戦によって人間が持っている罪深さや悪魔性がヨーロッパの人々の前に絶望的な形で示されることによって、合理的に発展しさえすれば理想世界が来るというような甘い考えが吹っ飛んでしまったわけです。そして、あらためて人間は罪深い存在だということが認識されるようになりました。そこに登場したのがカール・バルトという人であったわけです。

 バルトはもともと自然神学を支持する自由主義神学の教育を受けました。この神学は、神の内在性を強調し、歴史に働く神を強調したので、ナショナリズムと結び付き易かったのです。1914年にドイツ皇帝ウィルヘルム・カイゼルが戦争を推進する政策を掲げたとき、バルトの周囲にいた当時の知識階級、すなわち哲学者や神学者たちはこれに同調しました。すなわち、彼らは「ドイツの拡大は神の意思である」と解釈したのです。このとき、バルトは簡単に戦争に同調してしまう自由主義の薄っぺらさを見抜きました。その結果が第一次世界大戦の悲惨な敗戦であったのです。

 しかし、ドイツは1930年にも同じ過ちを繰り返します。ヒトラーが権力を握ると、彼らはキリスト教をナチズムのいいなりにしてしまいました。ヒトラーのナチズムにキリスト教会は同調して、神は歴史を通し、ナチを通して働いているととらえたのです。しかし、バルトはヒトラーによるユダヤ人迫害のなかに、神に対する宣戦布告を読みとって、それがいつの日か教会の迫害にまで及ぶと予言しました。バルトはナチ政府を批判し、そのためにドイツを追放されました。こうしたキリスト教の過ちがすべて自然神学と結びついているとして、バルトは自然神学を否定し、徹底した啓示神学の立場を主張しました。人間は罪深いので、神の啓示によらなければ真理を知ることはできないんだと、徹底的に主張したのです。

実況:キリスト教講座挿入PPT46-1

 2011年に出た本に、佐藤優という人が書いた『はじめての宗教論 左巻』(NHK出版)があります。副題が「ナショナリズムと神学」となっていますが、統一教会でこの本が注目された理由は、彼が一部のキリスト教徒による統一教会への攻撃を批判しており、拉致監禁による強制説得の問題にも触れているためです。33~34ページでそのことに触れています。この人は非常に有名な人で、同志社大学大学院の神学研究科を出て外務省にも勤めていた人です。そういう人が拉致監禁問題に触れてくれたということで、教会でとても注目した本でありました。しかし、だいたいの食口はその場所(33~34ページ)しか読まないんですね。(笑)他の部分は読まないんです。私は神学を学んでおりますので、買って全部読みました。読んで分かったことは、この本はなかなか面白い本で、現代神学の非常に重要な問題をまじめに扱っている本だということでした。

実況:キリスト教講座挿入PPT46-2

 彼はこの本の中で主に二人の神学者を扱っています。一人がシュライエルマッハーという人です。フリードリッヒ・シュライエルマッハー(1768-1834)は、自由主義神学(リベラル派)の祖とされ、「近代神学の父」とも評される人です。人間の理性を重視し、神の「内在性」を強調した神学者の代表と言えます。もう一人がカール・バルト(1886-1968)ですが、この二人は肖像が絵と写真であることからも分かるように、生きた時代がだいぶ違います。百年以上違っていますが、バルトは新正統主義の神学者として、自由主義神学を厳しく批判した人です。ナチスの時代に生きた神学者で、彼の神学は「危機神学」とも呼ばれています。彼は、人間の理性に対して、神の啓示を重視し、神の「超越性」を強調しました。ですから佐藤優はこの二人の神学者を対比させて描写することを通して、まさに自由主義神学と、新正統主義に代表される福音主義神学、神の啓示の神学の立場を浮き彫りにしようとしたわけです。つまり、私がこの講義の中で言おうとしていることを、彼は本の中で表現しているということになります。現代神学の二大潮流をよく理解して、面白く本を書いているということです。

 一般啓示と自然神学の利点については、以下のように整理することができます。第一に、この考え方は神の真理は聖書のみに限定されないととらえるので、聖書を信じない人にも神を説くことができるという利点があります。つまり、「聖書の啓示にしか真理はない!」と限定してしまうと、聖書が受け入れられない人はキリスト教と相対できなくなってしまうわけです。特に日本人はそうですね。「聖書に神の真理がある。これを読めば真理が分かる」というように、あまりにも真理を聖書に限定してしまうと、聖書を信じられない人は神様を受け入れられなくなってしまうわけです。逆に、神の啓示を聖書に限定しなければ、いろんな方法でキリスト教を広めることができるわけです。

 次に、聖書以外からも神についての知識を得ることができると考えるので、聖書には表現されていない自然の美や科学的知識を通して神を知る道を閉ざさないという利点があります。神に出会う道はなにも聖書だけじゃないんだよ、という考え方に立つことができるわけです。実はお父様のなさっていることを見ると、この一般啓示とか自然神学に通じる面が結構多いんですね。お父様の自叙伝を見ると、神様と出会った話は、幼い頃の自然との出会いの話に満ち満ちていて、お父様は本当に自然を通して神を感じたという話をたくさんされるわけです。

 お父様は科学者たちに対しては、自分の専門領域をとことん追求して道を究めれば、その研究を通じて神様に出会うことができるとおっしゃいます。つまり、聖書を読まなければ神様は分からないと言うんじゃなくて、科学者は宇宙の真理を探究するために一生懸命投入すれば、最先端の科学的発見を通して神様が証しされ、神様を発見することができるという発想をお父様は持っていらっしゃるのです。芸術家は芸術活動を通して、究極の美を追求するときに、その道で神様と出会うことができるということです。これが一般啓示という考え方です。要するに、聖書という書物を読まなければ神様が分からないというのは、狭い考えだということです。神様は普遍的な存在なので、人間のさまざまな活動を通して出会うことができるはずだということです。何事も極めれば神様と出会えるという考え方は、「一般啓示」という考え方に通じるものがあります。

 それからもう一つは、キリスト教以外の諸宗教との対話の道を開くという利点があります。「聖書のみ」ということを強調しませんので、他宗教にも神の啓示があると認めることができます。

 これらが一般啓示と自然神学の利点ということになりますが、利点と同時に欠点もあります。欠点は何かというと、一般啓示と自然神学というのはどちらかというと創造原理的な世界しかない神学であります。合理的で、神様が創った本来の世界だけを見つめているということは、一言でいえばとっても能天気な神学ということです。人間の罪深さとか、人間は悪を行うんだとか、サタンがいて誘惑するんだ、というようなことは説かないですね。その側面が弱いということです。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』34


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第34回目である。

「第Ⅰ部 統一教会の宣教戦略 第4章 統一教会の事業戦略と組織構造」の続き

 櫻井氏は日本統一教会の宗教市場における競争力を論じるなかで、「しかし、教団にとって幸いなことに、政権与党の政治家の庇護を受けて、日本基督教団等のキリスト教会からキリスト教の異端として批判され、違法判決が続出する布教活動や資金調達活動を行っているにもかかわらず、日本社会において着実に勢力を拡張することができた」(p.136)という奇妙な論理を展開している。統一運動が勝共連合の活動を通じて、自民党をはじめとする保守系政治家と関係を持ってきたことは事実である。しかし、そのことと櫻井氏の論じていることの間には何の必然的関係もない。

 そもそもキリスト教会が統一教会を異端視するというのは、いわば宗教同士のもめごとであり、こうした争いから特定教団を守るために政府が介入することは政教分離の原則からいってあり得ない。政治家個人の働きと考えても、そもそも政治家が出る幕ではないと考えるのが常識であろう。さらに、民事訴訟で統一教会が敗訴することがあったとしても、それは裁判所の専権事項であって政治家が口を出せる問題ではない。もし「反社会的団体」と指摘された団体を擁護すれば政治家は国民の支持を失って落選する可能性がある。政治家は人気商売であり、社会的評判の悪いものを自分の政治生命をかけてまで守ろうとはしないものである。櫻井氏も学者であるならば、統一教会が政権与党の政治家からどのように庇護を受けてきたのかを明らかにすべきであろう。証拠もないのにイメージだけでこうした記述をするのは学問の精神に反するのではないだろうか。

 自民党をはじめとする一部の保守系政治家が勝共連合と関係を持ってきたのは、共産主義の脅威と戦うという共通の大義があったからである。とくに冷戦時代には共産主義の脅威はリアルなものであったから、自民党と勝共連合が日本の国を守るために共闘したことはあったが、それは思想的・政治的分野における共闘であって、宗教団体を庇護するためではなかった。そもそも勝共連合の目的は、国際共産主義の脅威から日本を守るという公的な次元のものであり、一教団のために存在しているわけではない。

 さて、櫻井氏は本章において、統一教会は「韓国でも日本でも宗教団体としての競争力はないために、韓国では社会事業、日本では特異な宣教戦略によって教勢を拡大するしかなかった。これが統一教会における事業多角化の背景であり、宣教を成功に導いた最大の要因であると筆者は考える。」(p.136)と述べている。この分析が正しいかどうかを検討しよう。

 まず櫻井氏は、「多角化戦略のメリットとは、複数の事業部門を持つことでシナジー効果が期待できることと、事業収益に関わるバランスをとってリスクを分散できることが挙げられる」(p.136)と、企業経営における基本的な考え方を提示する。櫻井氏はこのリスク分散に関して、宗教団体が単体では教勢を拡大しえないから多角化したのであるという分析を行っているが、これは事実に反する。表4-3(p.134)を構成している団体に関して言えば、国際勝共連合に関わった政治家、世界平和教授アカデミーに関わった学者、世界日報やワシントンタイムズの読者、鮮文大学校に入学した学生、ユニバーサル・バレー、リトルエンジェルスの公演を見た観客、龍平リゾートの宿泊客が宗教的回心をして統一教会の信者になったかと言えば、そうしたことはほとんどなかったからである。唯一教勢拡大に貢献した例があるとすれば、ハッピーワールドの商品を販売していた「全国しあわせサークル連絡協議会」が、顧客のケアーと「統一原理」の教育を目的として全国各地にビデオセンターを設置し、顧客を伝道していた時期があったということである。これは商売を入り口として顧客が伝道された例だが、それだけが目的ならその他のたくさんの事業に多角化する必要はなかったであろう。

 櫻井氏は多角化のもう一つの理由を、「文鮮明が地上天国を実現するために全ての事業部門を統一教会グループに備えておきたいという願望が大きかったからだろう」(p.136)としているが、実際には理由はこれに尽きるのではないかと思われる。多様な窓口から伝道して教勢を拡大するというよりも、地上天国実現のために必要な各分野に次々と組織を創設していったのがまさに文鮮明師の生涯であった。それはリスクの分散や採算性といったことを度外視した、未来のビジョンに対する投資であった。「シナジー効果」と言っても、それは伝道が進むとか収益が上がるといったような一教団レベルの効果を狙っていたのではなく、あらゆる分野の専門家が一丸となって地上天国を創っていくという、壮大な「シナジー効果」を狙っていたことは疑いがない。

 さて、事業を多角化することは必ずしもよい結果を生み出すとは限らない。相乗のプラスの効果が現れる場合を「シナジー」というのに対して、相乗のマイナスの効果が現れることを「アナジー」と言う。統一運動における「アナジー効果」の例が、スパイ防止法制定運動と「霊感商法」反対キャンペーンである。

 文鮮明師は1968年に国際勝共連合を創設し、共産主義勢力との理論闘争を開始した。勝共連合は1970年の世界反共連盟(WACL)大会、そして全国各地で行った公開講義などを通じて社会的影響力を拡大させたため、日本共産党は危機感を募らせるようになる。勝共運動をさらに躍進させたのは、スパイ防止法制定運動であった。1970年代、世界的な「東西デタント」の流れの中で、民主主義勢力と共産主義勢力の攻防は、これまでのあからさまな軍事力による対立から、スパイ工作活動が主流になっていった。しかし、日本には外国からのスパイを取り締まる法律がなかったので、スパイが自由に活動できる「スパイ天国」の状態にあった。そこで、勝共連合はスパイ防止法制定運動を積極的に支援し、1986年末までに全国の地方自治体の過半数でスパイ防止法制定促進決議を採択し、1986年11月に国会に法案を上程するところまでこぎつけた。

 こうした展開に危機感を抱き、スパイ防止法制定を阻止するために結成されたのが、「全国霊感商法対策弁護士連絡会」(全国弁連)である。全国弁連は、「レフチェンコ事件」によって危機感を募らせた左翼勢力によって組織され、スパイ防止法制定運動の支援組織である国際勝共連合と統一教会の壊滅を目的として、「霊感商法」反対キャンペーンを展開するためにつくられた組織であった。

 スタニスラフ・レフチェンコは元KGB少佐で、対日スパイ工作を行っていた。彼は1979年に米国に亡命し、米国の下院情報特別委員会で自らのスパイ活動に関して証言した。この証言の中で彼は、ソ連のスパイとして活動した日本人26名の実名とコードネームを公表したが、その中には日本社会党の大物代議士も含まれていたため、こうした議員たちの政治生命を脅かす内容があった。勝共連合はこのレフチェンコ証言を大きく取り上げて、スパイ防止法の制定を訴えた。

 1983年5月、社会党機関誌「社会新報」に、「レフチェンコ事件は国際勝共連合とCIAが仕組んだ謀略」との記事が掲載された。これが全くの事実無根であったため、勝共連合は社会党と党機関紙編集長を訴える裁判を起こした。このとき、社会党の代理人を務めた人物が、山口広弁護士であり、彼は後に全国弁連を立ち上げるときの中心人物となっている。全国弁連を構成したのは主に共産党・社会党系の弁護士たちであった。この裁判は結局、勝共連合側の勝利的和解に終わったが、こうした闘争の延長として、「霊感商法」反対キャンペーンが左翼系弁護士によって行われるようになったのである。

 これは勝共連合による共産主義との戦いが統一運動に対する左翼勢力の敵愾心を強め、結果として「全国しあわせサークル連絡協議会」(略称・連絡協議会)が行っていた壺や多宝塔などの開運商品の販売が攻撃を受けるようになり、販売が難しくなったということである。さらに、こうした販売に「霊感商法」というネガティブな名前がつけられて攻撃され、それを行っているのが統一教会と勝共連合であるという悪宣伝がなされることによって、教会の伝道活動や勝共連合の政治活動も困難になるという負のスパイラルを生んだのである。それぞれが独立していれば、これほど大きな反対運動に発展することはなかったという意味において、これは「アナジー効果」であると言えるだろう。

 さて、多角的な事業を展開することによって全体として収益性が上がったかどうかに関しては、上がらなかったという結論が正しいであろう。世界の統一運動で収益を上げていたのは日本だけであり、日本が生み出した資金は韓国、アメリカ、そして世界の統一運動の運営資金に回され、日本以外の国で収益を生み出すことはほとんどなかった。それは世界中の統一運動の目的がそもそも収益を上げることにはなく、地上天国実現という文鮮明師のビジョンを実現することにあったためであると考えられる。繰り返しになるが、その神学的意義付けは櫻井氏の言うような「堕落したエバ国家の日本とアダム国家の韓国」(p.137)というようなものではなく、「世界の母の国」としての愛と奉仕の精神であった。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』