書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』186


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第186回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第九章 在韓日本人信者の信仰生活」の続き

 「第9章 在韓日本人信者の信仰生活」は、韓国に嫁いで暮らす日本人の統一教会女性信者に対するインタビュー内容に基づいて記述されている。前回から「四 日本人女性にとっての祝福家庭」の内容に入った。中西氏によれば、この部分は日本人女性信者たちが祝福や韓国での家庭生活にどのような意味づけをしているかを、彼女たち自身の口を通して語らせることにより、彼女たちが「主観的にどう捉えているか」を見ることを目的としているという。そしてそれを通して、なぜ彼女たちが韓国にお嫁に来て統一教会の信仰を維持できるのかを明らかにしようとしているのである。

 中西氏によれば、韓国で暮らす日本人女性信者たちは統一教会の信仰ゆえに今の夫と夫婦になり、韓国での生活を続けていると自覚しているという。それではその信仰とはどのようなものであり、「どのような教説が特異な結婚と結婚生活を成り立たせているのだろうか」(p.493)という問いを中西氏は発している。この問いに対する彼女なりの回答は、「一つは理想世界『地上天国』の実現であり、もう一つは罪の清算である。」(p.493)ということになる。中西氏は実際に女性信者たちに対してインタビューをしたうえで、この二つの教えが彼女たちの韓国での結婚生活を下支えしていると結論したのであるから、現実との間にそれほど大きな齟齬があるとは考えられない。統一原理の立場からしても、最初の理由は「創造原理」に関わるものであり、二番目の理由は「堕落論」と「復帰原理」に関わるものであるため、おおよそ妥当な動機付けであると考えられる。今回は最初の理由である「地上天国実現のための家庭生活」という側面を見てみよう。

 中西氏は広島県出身のJという信者の語りを引用し、「家庭生活を地上天国実現への実践と捉えている」事例であるとして紹介している。
「祝福は日韓の関係。韓国は謝罪しろと言い、日本は過ぎたことだと言う。それでは接点がない。真の愛で両方の民族が一つになるしかない。生まれた子供には国境がない。すばらしいことだと思う。ここで言われていることは理想的だなと思った。実現されたらすばらしい。希望、理想があって、目指そうとしているものがあるから、力がわく。その一部を実践している。」(p.493)

 Jは広島で生まれ育ち、小学生のときから平和教育を受けながらも、いつか戦争が来るかもしれないという不安感を持っていたという。彼女は聞き取りの中で「A郡に来てなかったら、原爆ドームの前で『核兵器反対』とかしてたかもしれない」(P.494)とも語っていたくらいであるから、入信前から世界平和に対する強い意識を持っていたことが窺える。その彼女が統一教会に出会うことにより、実践の方法が「市民運動」から「祝福と家庭形成」に取って代わったということだ。中西氏はこうした信者の動機をかなり内在的かつ肯定的に理解している。例えば以下のようなくだりがある。
「統一教会が目指す地上天国は国家・民族・宗教が垣根を超えて一つになった平和な世界とされる。現実には国家・民族・宗教の違いによる紛争は後を絶たず、一つになるなら平和が訪れるという論理は分からないわけではない。韓国と日本の男女が結婚をして家庭を築き子供を生み育てれば、家庭の中では国家や民族の壁がなくなる。地上天国の実現は夢のような話だが、少なくとも家庭の中ではささやかな地上天国が主観的には実現される。また子供は原罪のない神の子であり、地上天国の担い手とされる。子供を生み育てることは地上天国の担い手を生み育てるという意味づけがなされ、出産育児は崇高な宗教実践と意識されることになる。実際、韓日祝福の家庭は子沢山の傾向がある。」(p.494)

 Jの生い立ちと入信前の価値観、そして祝福を受けるようになった動機に関する話は、イギリスの宗教社会学者アイリーン・バーカー博士が著書『ムーニーの成り立ち』の中で描いている西洋の典型的な統一教会信者の像と重なる部分がある。バーカー博士によると、もともと統一教会に入会するような人は、奉仕、義務、責任に対する強い意識を持ちながらも、貢献したいという欲望のはけ口を見つけられない人、理想主義的で世の中のあらゆるものが正しくあり得るという信念を持った人、高い道徳水準に従って生きる共同体への「帰属意識」を持ちたいと思っている人、価値あることを行い、それによって価値ある存在となることを願っているような人であるという。こうした若者たちは、いまある現実の世界に幻滅し、戦争の恐怖を感じ、未来に対する悲観的な予測をしていた。

 バーカー博士は、ムーニーたちに外部の世界がどのように見えていたかということを幾分戯画化して描いている。それは人種差別、不正、権力や快楽の追求、拝金主義などがあふれる混沌とした世界であり、絶対的な価値観のない相対的な世界である。世界は差し迫った大惨事に向かっているように感じられ、テロや戦争の恐怖におびえている。家庭は崩壊して愛がなくなり、人々は孤独の中で生きることを強いられている。

 もともと理想主義的で奉仕の精神にあふれた彼らは、こうした現実の世界の不安や絶望を感じ、統一原理に出会うことによって長年探し求めていた答えを見つけ出したと感じて入会を決意した。そして教会の中で活動し、祝福を受けて家庭を築くことを通して、自分なりに世界平和のために貢献しているという実感を持つことができるようになったのである。その意味でJはバーカー博士の描く「典型的なムーニー」と同じ心性を持った人であり、統一教会に来るべくして来た人であったといる。

 また韓日祝福に対するJの理解も、アメリカにおける祝福家庭を研究した宗教社会学者ジェームズ・グレイス博士が著書『統一運動における性と結婚』の中で述べていることと一致している。彼は、多数の国際マッチングは「人種と文化が全く異なる人々を結婚で一つにすることにより世界の統一をもたらそうという文師の努力の直接的な結果であると見られるべき」(『統一運動における性と結婚』第5章より)と評価している。そして人種問題に関心のある白人アメリカ人の男性が黒人女性と結婚することを望んだ話や、祈祷を通して東洋人の女性と結婚することが自分に対する神の意思であると悟った白人男性の話などが出てくる。さらに、こうした国際マッチングは「グループの最も高い理想を示しているので、これらのカップルは同じ国籍・同じ人種同士のカップルにはない特別な地位を運動の中で与えられる」(『統一運動における性と結婚』第6章より)とまで述べているのである。これは韓日カップルに特別な使命があり、特別な恩恵があると信じられていることと同様の現象であり、どちらも教会の理想を体現したマッチングであることにその根拠がある。結婚観においてもJは典型的な統一教会信者である。

 もう一人の信者Nの語りでは、この結婚が恋愛結婚でないところに価値があるという認識が示されている。
「ただ単に好き嫌いを超えた、怨讐を超えているから深みが違うというか、恋愛で結婚したのとはわけが違うような気がする。そういう意味で頑張れているんじゃないかと思うんですよね。」(p.495)

 統一教会では恋愛結婚を「自分の欲望を中心としたもの」「堕落によってつくられた結婚の形態」として否定しているため、恋愛感情を動機としない結婚であることからこそ祝福に価値があるという意味である。

 こうした価値観を彼女たちが受け入れるようになった背景には、やはり現代社会の結婚のあり方に対して不安や不満を持っている若者たちが相当数いることを理解する必要がある。現代の日本の若者たちの中には、社会全般に蔓延する「性の乱れ」に幻滅し、不満や不安を感じている人が多い。そこで性的な事柄に対して潔癖な価値観を持っている人は、統一教会の教えに魅力を感じるのである。「清い結婚がしたい」「不倫や離婚などの不安のない、幸福な家庭を築きたい」というニーズを持っている人に対して、「祝福式」という形で示された統一教会の結婚の理想は、一つの魅力的な回答を提示していると言えるのである。

 祝福式は「自由恋愛至上主義に対するアンチ・テーゼ」としての意味を持っている。そもそも、デートとプロポーズを経て結婚に至るという方法は、特に20世紀のアメリカで発達し、それが日本に輸入されたものである。しかし、欧米諸国の高い離婚率や、日本における離婚率の上昇などを考慮すれば、それは必ずしも理想的な配偶者選択の仕組みと言うことはできない。一時的な恋愛感情が幸福な結婚を保証しないならば、もっと堅固な土台の上に結婚を築きたいと願う者が現れても何ら不思議ではない。統一教会の信徒たちは、「信仰」という土台の上にそれを築こうとしているのである。

 JとNの語りから分かることは、一見「特異な結婚と結婚生活」に見えるものも、彼女たちがもともと持っていた問題意識と統一教会の示す理想が合致し、自分にとって意味ある結婚のあり方であると感じられたからこその選択であったということだ。それは統一教会の教説だけによって成り立つものではなく、彼女たちの個性と自己実現の方向性、そして主体的選択があって初めて成り立つものであることを見逃してはならない。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』185


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第185回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第九章 在韓日本人信者の信仰生活」の続き

 「第9章 在韓日本人信者の信仰生活」は、韓国に嫁いで暮らす日本人の統一教会女性信者に対するインタビュー内容に基づいて記述されている。今回から「四 日本人女性にとっての祝福家庭」の内容に入る。中西氏によれば、この部分は日本人女性信者たちが祝福や韓国での家庭生活にどのような意味づけをしているかを、彼女たち自身の口を通して語らせることにより、彼女たちが「主観的にどう捉えているか」を見ることを目的としているという。そしてそれを通して、なぜ彼女たちが韓国にお嫁に来て統一教会の信仰を維持できるのかを明らかにしようとしているのである。

 この説の冒頭に中西氏は「1 理想と現実」という項目を設けて、統一教会の教説における祝福の理想と、韓日祝福の実態にはギャップが存在することを強調している。すなわち、「在韓の日本人女性信者達は教説的に見ると再臨のメシヤの国で、あこがれの韓国人男性と最も理想的な韓日祝福でもって怨讐を超えた家庭を築いたことなる」(p.490)という理想がある一方で、「夫は結婚目的で信者になっただけであり、夫婦で信仰を共有しているわけでもない」うえに、「愛も経済力もない相手との結婚」(p.491)であるという現実があるというのである。

 中西氏が調査したA郡に嫁いだ日本人女性の学歴は高校卒、専門学校卒、短大卒、大卒が含まれており、これは同年代の日本人女性の学歴と比較すれば平均よりもやや高い傾向にあることはすでに紹介した。それに比べると「韓国人の夫は聞き取りした範囲でいえば高校卒と同数程度に中学校か小学校卒がおり、大学卒は通信制大学が一名いるだけ」(p.491)であるという。すなわち、韓日祝福は日本人女性の高学歴に対して韓国人男性の低学歴という、格差婚になっているというのである。韓国は日本以上に学歴社会であることから、夫たちの仕事はおのずと制限されるため、比較的安定した職業に就いている夫がいる一方で、就労が不安定な夫もいるという。このことは韓国の祝福家庭の経済状況に直結しているようで、中西氏は経済的に苦労しているという女性信者の語りを引用している。同時に中西氏は、こうした記述が自身の差別や偏見に基づくものでないことを説明することも忘れていない。その原因は夫となった韓国人にあるのではなく、むしろ韓国の社会構造に由来するものであるということだ。「ただこれは彼女達の夫が不真面目で労働意欲がないのではなく、韓国の社会構造的な要因が絡む。」「A郡は特に経済発展から取り残された地域にある」(p.492)という中西氏の指摘は的を得たものであろう。

 中西氏によれば、これは単なる客観的な事実の指摘ではなく、日本人女性たち自身も自分たちの生活が経済的に楽でないことは自覚しており、信仰ゆえにそれを続けていられるのだと自負しているという。だからこそ、その信仰とはいったいどのような信仰なのかという「問い」が生まれ、それに基づく彼女の分析が展開されるのである。彼女の結論は、統一教会の「特異な信仰」ゆえにこうした結婚生活を維持できるのだというものだ。しかしながら、信仰ゆえに「あえて低いところを訪ねていく」という現象は、統一教会に限らず宗教の世界には普遍的にあるのだということを今回は主張してみたい。

 中西氏は「一般に女性は結婚に際して上昇婚を望む。自分や自分の父親よりも学歴や職業的威信の高い相手と結婚することで社会的な階層上昇を図るというものである。韓日祝福で農村の男性と結婚するとなると上昇婚は望めず、下降婚になる。」(p.492)と述べている。ところが、宗教は伝統的に富や社会的地位を否定し、清貧に積極的価値を見出してきたのである。女性が結婚して上昇婚を望むというのは、世俗的な一般論であって、宗教的な動機で結婚する祝福家庭婦人の第一次的な関心事ではない。むしろ彼女たちは「下降婚」に宗教的な意義を見出しているのである。

 古来より宗教は、富と所有物に対する執着は霊的成長を阻む足枷であるとみなし、救済を得るためには富と所有物を放棄することが必要であると教えてきた。「仏教の十戒」には「不蓄金銀宝」があり、金や金銀・宝石類を含めて、個人の資産となる物を所有することを禁じている。キリスト教の新約聖書も、以下のように金銭に対する執着を戒めている。
「金銭を愛することは、すべての悪の根である。」(テモテへの第一の手紙 6.10)
「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」(マタイによる福音書 6.24)
「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。」(マタイによる福音書 6.19-21)
「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。(マタイによる福音書 19.24)
「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。」(ルカによる福音書 6.20)

 富んでいる立場から貧しい立場に降りていくことは「下降」とみなされるが、実はキリスト教神学の中にはこの「下降」そのものに積極的意味を見出す思想がある。それが「ケノーシス」と呼ばれるものだ。キリスト教では、神ご自身が肉をまとって人の姿で顕現された存在がまさにナザレのイエスであると信じているのだが、そうした行為そのものが「下降」にあたるのである。イエスは神としての身分を捨て、あえて貧しい人間にまで自らを空しく低くした。これを「無にする」という意味のギリシア語で「ケノーシス」と呼んでいる。その思想は、以下の聖句の中に端的に表現されている。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピの信徒への手紙 2.6-8)

 イエスは貧しい人間の姿になられただけではなく、十字架刑によって亡くなっている。十字架は犯罪人に対するローマの処刑方法であるから、十字架の死というのは、ただ死んだということではなく、犯罪人として処刑されたということである。キリストは人間の姿になったばかりか、人間から犯罪人として断罪され、拒否され、処刑されてしまったのである。そこまで徹底的に自分を「無にする」ことの中に、人間に対する神の愛を見出すという思想がキリスト教にはある。

 この伝統を受け継ぎ、キリスト教において「聖者」とみなされる人々は、イエスと同じ道を歩もうとした。フランシスコ会の創設者として知られるアッシジのフランチェスコは、自らは裕福な家に生れながらも、それらをすべて捨ててキリストに倣い、「清貧」をモットーとする修道会を創設した。彼の創設した托鉢修道会は私有財産を認めておらず、修道士が托鉢を行い、善意の施しによって生活をするもので、修道士たちは衣服以外には一切の財産をもたなかった。

 マザー・テレサはコルカタで、「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からも世話されない人のために働く」ことを目的とした「神の愛の宣教者会」を設立した。ここで働くシスターたちも、私有財産を持たない清貧の生活を守っている。マザー・テレサは次のように語っている。
「貧しい人に触れる時、わたしたちは実際にキリストのお体に触れているのです。食べ物をあげるのは貧しい人のうちにおられる飢えているキリストに、着物を着せるのは裸のキリストに、住まいをあげるのは家なしのキリストになのです」(半田基子訳『マザー・テレサのことば』、女子パウロ会、44頁)。

 キリスト教社会運動家として有名な賀川豊彦は、自らは裕福な家庭に生れながらも、キリスト教に入信したことをきっかけに、神戸の貧民街に移り住み、救済活動と宣教に努めた。ボランティア組織「救霊団」を結成して本格的な活動を開始するとともに、キリスト教を説き、精魂を尽くした彼は、「スラム街の聖者」と呼ばれるようになった。妻となったハルともスラム街で出会っている。ハルは結婚後、賀川とともにスラムで貧民の救済活動に献身した。不衛生なスラムの環境によりハルはトラコーマに感染し右目を失明したが、救貧活動を続けた。賀川自身も両眼ともトラコーマに冒され、何度も失明の危機を経験している。

 このように宗教の世界においては、豊かさや社会的地位を否定してあえて「下降」し、貧しい人々や社会の底辺にいるような人々の所に出かけて行って、彼らと共に生活することに「神の業」を見出すという伝統がある。祝福を受けた統一教会信者の日本人女性が、自分たちよりも学歴も社会的階層も低い韓国人男性のもとに嫁ぎ、経済的に苦しい生活をあえて受け入れていくのは、こうした宗教的伝統の延長線上にあると理解することができるのである。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』184


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第184回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第九章 在韓日本人信者の信仰生活」の続き

 「第9章 在韓日本人信者の信仰生活」は、韓国に嫁いで暮らす日本人の統一教会女性信者に対するインタビュー内容に基づいて記述されている。第177回から「三 現役信者の信仰生活――A郡の信者を中心に」の内容に入った。これは中西氏のフィールドワークによる調査結果を紹介したものであり、彼女の研究の中では最も具体的でリアリティーのある部分だ。今回はそのまとめの部分を扱うことにする。

 少し時間を空けてこのシリーズが再開したので、前回までの内容を簡単にまとめておきたい。中西氏の分析で一貫しているのは、「過酷な日本における信仰生活」と「楽で落ち着いた韓国における信仰生活」という対比である。要するに韓国で暮らす日本人女性たちの信仰生活は肉体的・精神的にきついものではなく、一般のプロテスタント教会とあまり変わらないということだが、それと対比されている「過酷な日本における信仰生活」は中西氏自身が観察したものではなく、主に統一教会反対派から提供された文献に基づく「虚像」であった。この点に関しては第183回で詳しく考察したのでここでは繰り返さないが、中西氏は韓国での日本人女性信者たちの信仰生活について以下のように記述している。
「統一教会の信者とはいっても普段の信仰生活は礼拝に出席する程度であり、日本で経験した献身生活と比べるとのんびりしたものである。何か特別な行事があるときには動員があり、裏方として動いたり参加したりするが、無理のない範囲で行えばよく、あくまでも家庭優先である。献金や家庭での信仰生活も厳密なものではなく、行わなかったとしても咎められることはない。結婚難にある農村男性のもとに嫁ぎ、生活は経済的に楽でなく、言葉や生活習慣が異なるというしんどさ、辛さはあっても信仰生活の内容、実践は一般のクリスチャンとあまり変わらず、心身共に落ち着いた信仰生活を送ることができる。献身生活のような厳しい実践が渡韓後も続いたとしたら心身共に疲弊するが、落ち着いた信仰生活に移行することによって信仰を続けていけると考えられる。」(p.489)

 こうした事実は、統一教会の信仰が統制された環境下においてのみ維持されるものであるという、古典的な「マインド・コントロール言説」に対する一つの反証であると言ってよいであろう。『マインド・コントロールの恐怖』の著者スティーブ・ハッサンは、マインド・コントロールの4つの構成要素として「行動コントロール、思想コントロール、感情コントロール、および情報コントロール」を挙げた。要するに、統一教会に回心するプロセスにおいては、都会を離れた研修所に合宿することで情報をコントロールし、集団行動をさせることで行動をコントロールし、短期間で数多くの講義を聞くことによって思考をコントロールし、レクリエーションやスポーツ、班長による面接などによって感情をコントロールすることによって、回心を人工的に作り出すのだという理論である。そして入教した後も、プライバシーの抑制された環境下で集団生活をすることによってマインド・コントロールが維持されているということであるから、こうしたコントロール状態が切れてしまえば信仰を失うはずである。「洗脳」や「マインド・コントロール」は真の回心をもたらさず、環境によって条件付けられているだけであるという前提に立てば、そうした環境が存在しない「楽で落ち着いた」韓国での生活に入ったら、マインド・コントロールが解けて信仰を失ってもよさそうなものだが、実際には環境が変わっても日本人女性信者たちは信仰を続けている。これは彼女たちの信仰が単に環境によって条件づけられたもの、すなわち外界からの刺激によって維持されているものではなく、内面に動機を持つものであるからに他ならない。その意味で、統一教会への回心は単に教団にコントロールされている状態なのではなく、人の内面に本質的な変化をもたらす「真正な回心」であるということを、在韓の日本人女性信者たちは証明しているのである。

 中西氏は、日本での信仰生活と韓国での信仰生活の関係性について、以下のように記述している。この中で中西氏は奇しくも日本人女性たちの中に統一教会の教えが「内面化」されており、それが韓国においても維持されていることを認めている。信者たちと実際に接した中西氏は、少なくとも単純な「マインド・コントロール言説」では事実を説明できないことは理解しているようである。
「しかし信仰生活が厳しいものでなくても、祝福で結婚し、韓国に嫁いできたこと自体がそもそも特異な信仰実践である。それは日本での信仰実践を通して統一教会の教えを内面化することによって可能となったものであり、日本での信仰生活の延長線上に現在の生活がある。統一教会の信仰実践の目的が地上天国建設であることに変わりなく、信者にとっては日本にいようとも韓国に嫁いで来ようとも信仰実践の毎日である。日本にいたときに課せられた実践が布教や経済活動(万物復帰)だとすれば、韓国で課せられた実践は無原罪の神の子を生み育てることである。日本人女性達は地上天国建設のために動員され続けていることに変わりない。教団でも在韓の日本人信者を『特別な使命を持った天の精鋭部隊』(国際家庭特別巡回師室 一九九六:二四五)と捉えている。彼らを特別視し、価値づけていることが窺えるが、実際のところは韓国人女性が結婚したがらない農村男性とカップリングさせて、世界平和の実現という大義名分のもとに日本人女性信者に苦労の多い生活を強いている。」(p.489-490)

 韓国での祝福家庭婦人としての生活と活動が、日本での信仰実践を通して統一教会の教えを内面化することによって可能となったものであり、日本での信仰生活の延長線上に韓国での信仰生活があるという中西氏の分析は正しい。それは日本人女性信者たちの自己認識とも一致するであろう。日本と韓国では環境も日々の生活で行うことも異なるけれども、究極的な目的は同じであり、そこには一貫した流れがあると認識しているのである。彼女たちは信仰によって環境に順応し、自己のアイデンティティーを守りつつ、一貫性のある人生を歩んでいると言ってよいだろう。これは人生に対する非常に主体的な態度であり、信仰者に固有の「強さ」であると言っても良いかもしれない。

 にもかかわらず、彼女たちに対する中西氏の記述は「動員され続けている」とか「世界平和の実現という大義名分のもとに日本人女性信者に苦労の多い生活を強いている」といったような受動的な表現に満ちている。これは彼女たちの主体性を過小評価した侮辱的な表現であると言ってよい。

 宗教の世界においては、自分を捨ててより大きな目的、すなわち神や仏の目的のために自身を捧げることを「献身」といい、古来より美徳の一つとして認識されてきた。仏教の僧侶やキリスト教の修道士が出家するのもこうした動機に基づくものであり、苦痛を伴う修行をしたり、苦労の多い海外宣教に身を投じたりするのも、「献身」の精神が基本になっている。統一教会の女性信者たちが異国の地に嫁いでくるという、中西氏の言う「特異な信仰実践」をするのも、こうした精神の延長線上にあるものだ。宗教の世界を離れて、スポーツの世界で一流を目指す者が過酷なトレーニングに挑むのも、芸術家が究極の美を追求するために超人的な努力をするのも、すべて「偉大なことを成し遂げたい」という主体的な動機によるものである。こうした事例においては、僧侶や宣教師が教団の目的のために「動員され続けている」とは言わないだろうし、アスリートや芸術家たちが「苦労を強いられている」とは表現しないであろう。にもかかわらず、統一教会の女性信者が自らの意思で苦難に挑戦するときには「動員されている」とか「強いられている」といった受動的な表現を用いるのは偏見であるとしか言いようがない。

 中西氏はこの節を以下のような表現で結んでいる。
「では次に、日本人女性達自身は祝福や韓国での家庭生活にどのような意味づけをしているのかを探っていこう。彼女達が主観的にどう捉えているのかを見ることで、なぜ教団が決めた韓国人男性と恋愛感情も交際期間もないまま結婚し、家庭を築いて暮らしていけるのか、つまり、なぜ統一教会の信仰を続けているのかの答えが少し見えてくるのではないかと思う。」(p.490)

 この中に中西氏の本音が透けてみている。要するに彼女は、客観的に見れば日本人女性信者たちは教団によって動員され、苦労の多い生活を強いられているにすぎないのだが、彼女たちの主観においては、教団の教えによって意義付けがなされているためにやってけいるのだと見ているのである。しかしここにおける「客観」とは、信仰を持たない世俗人としての中西氏の視点に過ぎない。彼女は自らの視点を「客観」とし、当事者である信者の視点を「主観」とする座標軸を構築していることになるが、その視点さえも相対化したときにもう一つの真実が見えてくるということにはまだ気付いていないようである。宗教は「主観」が大切な現象である。その内面世界に対して、「客観」の名のもとに、「動員されている」とか「強いられている」といった世俗的な価値判断をするのは傲慢である。

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Web説教「メシヤと私」04


 「メシヤと私」と題するWeb説教の第4回目です。1980年代に作られた「世にも不思議な物語的」なショートドラマ「善行銀行」のストーリーを紹介し、その背後には、日本人に広く共有された一つの世界観、宗教観である「因果応報」があることを指摘しました。そして前回までに、「因果応報」の信仰観の限界として、①罪が重すぎて、それでは救われない人々がいる、②自己義認、③誰が見ても正しい人であるにもかかわらず苦難を受けることがある、という三つの問題を挙げました。今回は旧約聖書のヨブの物語を取り上げながら、3番目の問題点を掘り下げていきたいと思います。ヨブ記は、「どうして義人が苦難を受けるのか?」という非常に重い課題を扱った書物です。

 このヨブという人物は大変正しい人であったので、神様はサタンに対して「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にいないことを気づいたか」と言いました。神様がここまで言うくらいですから、ヨブはよほどの義人だったのでしょう。しかしサタンは神様にこう答えます。
「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼の所有物を守り、勤労を祝福し、家畜が増えたからこそ、彼は信じたのです。もし彼の所有物を奪ったら、彼はあなたを呪うに違いありません」

 そこで神様はヨブの体には手を付けず、彼の所有物を奪うことをサタンに許可します。するとヨブの僕たちは盗賊によって殺され、家畜は奪われ、さらには大風によって子供たちがみな死んでしまいます。それでもヨブは「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主の名はほむべきかな」と言って、神を呪わずに乗り越えたのでした。

 そこで神様はサタンに向かって、「それ見ろ、ヨブは理由なく打たれたにもかかわらず、その信仰はゆるがなかった」と言いました。するとサタンは、「今度は、彼の体を打ってごらんなさい。そうすれば彼はあなたを呪うでしょう」とそそのかします。神様はそれを聞いて、「彼の体を打ってもいい。ただし命だけは奪うな」と許可されたのです。するとヨブの全身をいやな腫物が襲い、悲惨な状態になりました。そんな状態のヨブに向かって彼の妻は、「いっそ、神を呪って死になさい」と言ったのです。しかし、それでもヨブは「われわれは神から幸いを受けるのだから、災いをも、受けるべきではないか」と言って退け、唇で罪を犯さなかったというのです。

 ヨブ記は、正しいにもかかわらず苦難を受けるのはなぜなのかというテーマを扱った書物であると言われています。キリスト教神学においてその解釈はさまざまですが、私たちの解釈は非常にシンプルです。

 この物語のポイントは、実はサタンの存在です。サタンはどのような存在であるかというと、神の前に人間を讒訴する存在なのです。サタンは人間の中に罪を発見しては、神様に対して、「この人間はこういう罪を犯したので、あなたの子供ではありません。天国に行く資格はありません。」と訴え続けます。サタンはあらゆるアラを探して人間を讒訴します。ときにはヨブのように正しい人であったとしても、「どうせご利益があるから信じているに違いない」と言って、認めようとしないのです。サタンは意地でも人間に屈服したくないのです。

 神様は、そのようなサタンさえも屈服させることのできる善の基準、信仰の基準を立てることのできる人間を探し求めて来られたのです。ノア、アブラハム、イサク、ヤコブといった人々は、そうした「サタン屈服路程」を歩んだ人々でした。そしてヨブもまた、人類を代表してサタンを屈服させるために、正しいにもかかわらず苦難の道を行った人物であったのです。それは彼の個人的な罪のゆえではないので、「因果応報」と「自業自得」は当てはまりません。ヨブがなぜ苦難の道を行ったのかと言えば、人類の罪を背負って苦難の道を行き、それでも信仰を全うすることによって、サタンを屈服させるためです。ですからある意味でヨブはメシヤ的な使命を持った人物であったと言えるでしょう。

 イスラエル民族の中でなぜヨブ記のような書物が生まれたかというと、彼らもまた苦難の民族だったからです。他国の人々は偶像を信じ、罪を犯しながら生活している中で、自分達だけが唯一なる創造主を信じ、律法を守って生活しているにもかかわらず、なぜ自分たちの民族は他国に滅ぼされて国を失い、捕虜となって異国で暮らすような、苦難の道を歩むのだろうか、という疑問を、彼ら自身が持っていたので、ある意味でヨブというのはイスラエル民族の自画像でもあるのです。彼らは民族的な次元で、全人類の罪を背負って蕩減の道を歩むことを宿命づけられた民族であったわけです。

 それではそのイスラエル民族が待ち望み、人類の罪を背負って蕩減の道を歩む最終的な使命を持った人物とは誰でしょうか? それこそがメシヤという存在なのです。イエス様は罪なくして生まれました。にもかかわらず、彼は十字架の道を行かれました。それは自分の罪のゆえではなく、人々の罪を背負って贖罪をされたということです。これを、誰かの身代わりとなって罪の清算をするという意味で、「代理蕩減」と言います。なぜ、そのようなことが起きたかというと、堕落人間の罪があまりにも深く、自分ではその罪を償うことができないので、人類を代表して一人の人が贖罪の道を行き、苦難の真っ只中でも神を呪わず、信仰を全うすることによって、サタンを屈服させるためであったのです。

 イエス様の死の意味は、旧約聖書のイザヤ書53章の「苦難のしもべ」と呼ばれる部分によく表現されています。
「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。

 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。

 彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。」

 この説教の結論に入ります。私たちが神様の前に有罪となるか、無罪となるか、裁かれるか救われるかは、どのようにして決定されるのでしょうか? それは単に罪の重さや自分自身の善行のポイントによって、客観的に決められるのではありません。天の法廷における裁きのプロセスを通して決定されるのです。

 私たちは罪人ですから、被告人として天の法廷に立っています。私たちの前には天の裁判官としての神様が座っています。その裁きは公正で、天法に基づいています。そして私たちの罪を讒訴し、地獄行きを主張する検事の役割をする存在がサタンです。それに対して、私たちの良いところを指摘し、何とか天国に連れていこうとして守ってくれる、弁護士の役割が、メシヤということになります。地上の法廷では、弁護士は言葉で弁護してくれるだけですが、メシヤは私たちの罪を代理蕩減して、サタンを屈服させたうえで、私たちを裁判長である神様にとりなしてくれる存在なのです。ですから、私たちはメシヤにつながらない限りは、神様のもとに行くことができないのです。

 しかし、私たちは無条件で救いを受けることはできません。私たちを神様につなげてくださるメシヤを受け入れたという、小さな条件を立てる必要があるのです。メシヤはサタンを屈服させる蕩減条件を、人類を代表して立ててくれました。ですから、私たちはメシヤにつながることによって、その勝利圏を相続することができるのです。これが救いです。

 再臨のメシヤである真のご父母様の勝利圏を相続する中心的な行事が、まさに祝福です。私たちが聖酒を飲むとか、祝福式に参加するとか、そのための献金をしたりすることは、メシヤの歩まれた苦難の道に比べれば、取るに足らない小さな蕩減条件です。しかし、それによって私たちはメシヤと親子の関係を結ぶことにより、その勝利圏を相続して、救いの圏内に入っていくことができるのです。これはメシヤの血と汗と涙の代価によって私たちに与えられた、貴い恩寵なのです。

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Web説教「メシヤと私」03


 前々回から「メシヤと私」と題するWeb説教の投稿を開始しました。1980年代に作られた「世にも不思議な物語的」なショートドラマ「善行銀行」のストーリーを紹介し、その背後には、日本人に広く共有された一つの世界観、宗教観である「因果応報」があることを指摘しました。これは良い行いをしてきた者にはよい報いが、悪い行いをしてきた者には悪い報いがある、という仏教的な世界観です。

 こうした「因果応報」の信仰観には、いくつかの限界があるわけですが、その話に入る前に、旧約聖書をひもときながら、人間が神様の前に有罪となるか無罪となるか、罪が裁かれるのか許されるのかということが、必ずしも客観的な罪の重さだけで決まるものではないという事例を少し紹介してみたいと思います。

 仏教という宗教には、神様がいませんので、どちらかというと宇宙は客観的な法則によって支配されていると考える傾向があります。「カルマの清算」という法則があって、犯した罪の重さと同じ分だけの代価を払って清算するというのが基本です。

 しかし、ユダヤ教やキリスト教には創造主である神様がいらっしゃいますので、人間に罪があるかないかという問題も、神様との人格的な関係の中で決定されるわけです。ですから、神様がある罪を裁くのか許すのかを決定する際に、交渉する余地があるということになります。その代表的な例が、神様が罪深いソドムとゴモラの町を滅ぼそうとしたときの、アブラハムとの会話です。この話は、旧約聖書の創世記第18章に出てきます。

 アブラハムは神様に対して、「もしあの町に50人の正しい者がいても、あなたは滅ぼすのですか?」と尋ねます。それに対して神様は、「もしソドムの町に50人の正しい者がいたら、私はそれを許そう」と答えるわけです。続いてアブラハムは、「45人ならどうですか?」と聞いて、それでも滅ぼさないという答えをもらうと、40人、30人、20人、10人とどんどん値切っていくわけですね。どうしてこういう交渉が可能であったかというと、それはアブラハムが神様の前に正しい人であって、相当な功労を立てた人物であったからです。そのような神様の信頼する人が神様に交渉し、とりなしをすれば、それによって罪が許されるということがあるわけで、決して客観的な罪の重さだけですべてが決まるわけではないのだということが分かります。

 私は学生時代に旧約聖書を熱心に読みましたが、これと似たような表現をいくつか見つけました。エレミヤ書とかエゼキエル書などの預言書は、だいたい罪深いイスラエル民族に対して神様が怒りの言葉を語っている内容が多いのでありますが、その怒りの表現の中にこういう言葉がありました。

 エレミヤ書15章1節に「たといモーセとサムエルとがわたしの前に立っても、私の心はこの民を顧みない」という表現が出てきます。モーセとサムエルといえば、神様の使いとして大活躍した預言者です。神様が信頼してやまない人々であるわけですが、そんな彼らがとりなしたとしても、許せないくらいにあなた方の罪は重い、ということが言いたいわけです。

 エゼキエル書の14章13~14節には、神様がイスラエル民族に審判を下そうとするとき、「たとえそこにノア、ダニエル、ヨブの三人がいても、彼らはその義によって、ただ自分の命を救いうるのみであると、主なる神は言われる」と書いてあります。

 こうした表現から分かることは、たとえ罪深い存在であったとしても、神様の前に功労を立てた義人・聖人が神様に懇願してとりなせば、審判を思い直して許される可能性があるのだということです。つまり、客観的な罪の重さだけで裁きが決まるのではなく、功労を立てた人物のとりなしによって許されるということがあるのです。このことは非常に重要な観点ですので、覚えておいていただいて、話を元に戻します。

 「善行銀行」で表現されているような、「因果応報」の信仰観には、いくつかの限界があると申し上げましたが、大きく分けて三つを挙げることができるだろうと思います。

 第一の限界は、因果応報や自業自得では救われない人々がいるということです。世の中には、善を行いたくても行えない人がいるのです。罪を犯さざるを得ないような、極めて不遇な境遇に追い込まれている人、因縁や蕩減がとても重くて、罪の思いに拘束されてしまっている人、強烈な恨みを抱いて生きている人、自分の弱さに絶望している人など、悲惨な人がたくさんいます。その人たちに対して、「因果応報ですよ」「自業自得ですよ」と言っても救われないし、裁きにしか聞こえないわけです。これが、この教えの一つの限界であると言えます。

 二つ目の限界は、「自己義認」という問題です。「因果応報」や「自業自得」というのは、基本的に自力信仰です。自分の力でポイントを稼ぐことによって救われるという考え方です。それを励みにして一生懸命信仰生活をしたり、善行を積んだりするのは良いことなのですが、そうして努力した人ほど陥りやすい罠が、自分はこれだけやったのだから、救われて当然だとか、恵まれて当然だとか、思ってしまうということなのです。この典型的な例が、イエス様の時代のパリサイ人や律法学者たちでした。

 彼らは、ユダヤの律法を守ることに関しては人一倍努力していた人々でした。しかし彼らは、律法を守れない貧しい人々、取税人や娼婦といった人々を見下していたのです。つまり、「私はポイントが高い人、彼らはポイントが低い人たち、私は救われている人、彼らは救われない人たち」という発想になってしまっていたのです。これを「自己義認」と言います。彼らは自己義認によって、謙虚に神の声に耳を傾けるということができなかったために、イエス様を受け入れることができなかったのです。これは自分自身の小さな功労に執着するあまり、より大きな天の功労を持って来られたイエス様につながることができなかったのだということです。

 三つ目の限界は、誰が見ても正しい人であるにもかかわらず、その人が苦難を受けることがある、という問題です。因果応報であり自業自得であるならば、正しい生き方をした人はその報いを受けて幸福にならなければなりません。ところが実際には、正しい生き方をしているにもかかわらず、報われないばかりか、悲劇的なことが次々と起こる人生を送る人もいるわけです。そういう人生の不条理の真っ只中にいる人に対しても、因果応報と自業自得は説得力を持ちません。この、「どうして義人が苦難を受けるのか?」という非常に重い課題を扱った旧約聖書の書物が、「ヨブ記」でありました。ヨブの物語については、次回詳しく解説します。(次回に続く)

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Web説教「メシヤと私」02


 前回から「メシヤと私」と題するWeb説教の投稿を開始しました。1980年代に作られた「世にも不思議な物語的」なショートドラマ「善行銀行」のストーリーを紹介するところから始めました。亡くなった祖母の積んできた善行を相続して、たちまち運が回ってきたキイチでしたが、すぐにそれを使い果たしてしまい、ツキに見放されてしまいます。そこで彼は「人生サクセスローン」という「善行の前借り」をし、一日三善を約束するところまで話を進めました。

 その翌日からまたツキが回ってきます。城南大学からは推薦入学の合格通知が届き、ヒロミちゃんとの交際も再開します。やがて4月になり、晴れてヒロミちゃんと一緒に城南大学に入学するなど、まさに順風満帆の人生を歩むようになります。しかし、一日三善の約束の方はどうなったかというと、献血の募集とか、電車で老人に席を譲る場面など、ポイントを稼ぐ機会に出くわすたびに、それを実行できずに月日だけが過ぎて行ってしまうのです。

 そうして一年が過ぎ去ったころ、キイチの目の前に、善行銀行の女性行員が現れます。「ローンの支払い期日はとうに過ぎております。お支払いの意思はおありですか?」と詰め寄る女性行員に、「払うよ。払うから、付きまとわないでくれよ」とキイチは答えます。女性行員が「一日50回ほどの善行が必要ですが・・・」というと、キイチは「50回? 無理だよ」と背を向けます。すると女性行員は「お支払いいただけないときには、強制執行に踏み切らせていただきます」と、悲しそうな顔をしてその場を立ち去っていきます。「強制執行? どういう意味だよ!」と言いながらキイチは女性行員を追いかけます。すると、彼の背後からオートバイが走ってきて、バーン!と彼に衝突し、キイチは倒れて道端に放り出されてしまいます。「ピーポー・ピーポー」という救急車の音と共に、ドラマは最後の場面に入っていきます。

 例の善行を積んでいた年配の紳士が病院のベッドに横たわっています。そばで奥さんが、「あんた、もうすぐだからね。でもよかったね~。これも毎日少しずつ貯めておいたおかげですよ。」と声をかけます。

 そこへ医者が入ってきて、「準備が出来ました。すぐ始めましょう」と言います。紳士を乗せたキャスター付きのベッドが病院の廊下を運ばれていくと、そこに善行銀行の女性行員が立っています。紳士は銀行員に、「どうもありがとうございました」と礼を言います。そこに脳死状態になったキイチのベッドが運ばれてきて、同じ手術室に入っていきます。意識なく横たわっているキイチに対して女性行員は、「やっと、全額返済できましたね。」と声をかけると、ゆっくりとその場を立ち去っていきます。

 そして、病院の廊下に落ちていたキイチの善行銀行の通帳には、「臓器提供」と書かれてあり、それでポイントがマイナスからゼロに戻って「完済」のマークがついていた、というのが「落ち」になります。つまり、キイチは貯まっていた負債を一気に清算するために、臓器を提供しなければならなくなり、その臓器は、ポイントをコツコツ貯めていた、例の紳士の病気を治すために使われた、ということです。

 このドラマの背後には、日本人に広く共有された一つの世界観、宗教観があります。それは「因果応報」と言われるもので、良い行いをしてきた者にはよい報いが、悪い行いをしてきた者には悪い報いがある、という仏教的な世界観です。これ自体は、一つの宗教的真理であって、仏教のみならず、多くの宗教に共有されている考え方です。実は私たち家庭連合の教えにもこういう考え方はありまして、原理講論の中では「蕩減復帰」という言葉で説明されています。

 この「蕩減復帰」というのは、どのような意味でしょうか? それは、「どのようなものであっても、その本来の位置と状態を失ったとき、それらを本来の位置と状態にまで復帰しようとすれば、必ずそこに、その必要を埋めるに足る何らかの条件を立てなければならない。このような条件を立てることを『蕩減』というのである。」と説明されています。その具体的な例として、地位や名誉のある人が失敗によってそれを失った場合、無条件でもとの地位や名誉を回復することはできず、必ずその失敗を埋め合わせるに足るだけの、なんらかの条件が必要です。スキャンダルによって失墜した名声は、よほど反省して人に尽くした姿を見せない限りは回復されません。

 また、愛しあっていた2人が何かのはずみで憎みあうようになったとすれば、お互いに何もしなければもとの人間関係を回復することはできません。相手に謝罪をするとか、相手が喜ぶような物を贈るなどの、「埋め合わせ」をして初めて、もとの仲の良い関係に戻ることができる、ということです。

 要するに蕩減とは、負債のあるマイナスの状態から、善なる行いをすることによって、プラスのポイントを貯めていき、負債を精算するという意味なのです。しかし、実際のこの蕩減の払い方には、大きく分けて二通りのやり方があります。原理講論にはこうした表現そのものは出てきませんが、あえて名付ければ「消極的蕩減」と「積極的蕩減」ということができるでしょう。

 「消極的蕩減」というのはどういうことでしょうか? これは、他人を苦しめた罪の清算のために、それに相当する苦しみを自分が負うということです。ある日突然、怪我とか、病気とか、不運などに見舞われることによって清算されるという形になります。「バチが当たる」というような表現が日本にはありますが、まさにそういう状態です。基本的に本人に宗教性がなく、罪の自覚がない場合には、このような清算の仕方になります。善行銀行でいえば、「強制執行」がこれに当たります。

 一方で、「積極的蕩減」とは何でしょうか? それは、犯した罪や悪を埋め合わせるに足りるだけの善を、意識的に、積極的に行うことを言います。こうしたことができるためには、まず本人に罪の自覚がなければなりません。ですから、宗教性が必要になります。宗教における修道の道とか、積善の生活とか、犠牲的生活というのは、すべてこの「積極的蕩減」の道だといってよいと思います。そのようにしてコツコツとポイントを貯めていけば、突然の強制執行を免れることができる、ということが、宗教を信じることによって受ける、恩恵の一つだということになります。

 このように、「因果応報」と呼ばれる世界観には、「蕩減復帰」に通じる内容があり、一つの宗教的真理が含まれています。しかし、私がここで「一つの」宗教的真理と言ったのは、それですべてが説明できるわけでもないからであります。

 仏教における「因果応報」の思想は、基本的に「自業自得」という考え方に基づいています。すなわち、自分の犯した罪の報いが、自分の身に降りかかってくるということで、基本的に個人主義的な思想だということになります。ですから、自分の身を助けるために、自分でコツコツとポイントを貯めていきましょう、ということになります。人生における幸不幸も、あるいは来世における天国も地獄も、まるで学校の通知表のような、客観的なポイントで決まるということなんですが、果たして本当にそうなんでしょうか? (次回に続く)

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Web説教メシヤと私01


 今回から、「メシヤと私」と題するWeb説教を投稿します。この内容は、2019年1月27日の平和大使礼拝で語ったものですが、時局に関係なく普遍的な内容を中心とした説教であり、私自身の信仰の表現としても記録に残しておきたい内容であるため、シリーズでアップさせていただきます。

 むかし、「善行銀行」というドラマがありました。「善行」というのは、善い行いという意味の善行です。1980年代に作られた「世にも不思議な物語的」なショートドラマで、別に教訓を垂れるために作られた作品ではありません。しかし、宗教的な感性を持った人が見ると、なにか人生の大切なことを教えているように感じてしまうようなドラマでした。

 主人公は「花田キイチ」という名前の男子高校生です。それほど成績もよくなく、どちらかといえば冴えなくて自信のないタイプです。ある日、学校で担任の先生から、「お婆さんが亡くなったのですぐに帰るように」と言われます。

 そのお婆さんの葬儀には、近所からたくさんの人が参列しました。お婆さんは困っている人を放っておけない性分で、小さな親切を重ねながら、町内では人徳者として尊敬されていました。葬儀の日に、キイチはお婆さんから生前ある通帳を渡されていたことを思い出します。
「キイチ、お婆ちゃんはもう長くない。私が死んだときには、お前にいいものを残してあげるよ」と言うので、キイチが「お金?」と聞くと、お婆さんは「お金なんかよりも、もっといいものだよ」と答えたのでした。

 お婆ちゃんの葬式の後、キイチがその通帳を見ると、「善行銀行」と書いてあります。
 その通帳を開くと、「喧嘩の仲裁をする」「人に道を教える」「泣いている子をなだめる」「落し物を届ける」といった項目が書いてあり、それぞれにポイントが付いていました。キイチは意味が分からず、「なんだこれ?」と不思議がります。

 そこでキイチは翌日、近くの善行銀行の支店を訪ねます。椅子に座って待っている間、キイチがお婆ちゃんの通帳を開いてみていると、背後から60代くらいの紳士がそれを覗き込んで、「こりゃ、すごい。お若いのにずいぶんたくさん貯めましたね。」と話しかけます。キイチが「あ、これ僕のじゃなくて、死んだお婆ちゃんのです」
と答えると、その紳士は「そうですか、さぞ優しい方だったんでしょうね。私も、先日から一日一善を始めたんですよ。」と言いました。

 するとキイチは女性の銀行員から、「いらっしゃいませ」と声をかけられます。この銀行員は、若き日の竹下恵子さんが演じていました。キイチは彼女に「あのー、これ」と言って通帳を見せます。すると、女性行員は、「花田イネ様。花田様には生前、大変お世話になりました。キイチ様でいらっしゃいますか? お客様のこともうかがっております。こちらへどうぞ」と言います。彼女の説明によれば、その通帳に記載された数字は、お婆さんが貯めてきた善行のポイントだというのです。「当銀行では、皆様が日頃なさった善行を、点数にして貯めるシステムになっております」「花田イネ様は、とてもたくさんの善行を貯めて来られました。ご遺言によって、その全ポイントを、あなたに相続していただきます」と言うわけです。

 「善行の相続?」と信じられない様子のキイチなのですが、女性行員は、「他人に施した善行は、必ず良い報いとなって帰って来るものです。つまり、あなたに。」と言います。「僕に? バカバカしい」とキイチは信じられません。するとその女性行員は、「信じられないなら、払い戻しいたしましょうか? イネ様の貯めて来られた善行を、全額払い戻しいたします」と言います。「善行の払い戻し?」と、まだまだ信じられないキイチですが、女性行員は、「これがお客様の通帳です。素晴らしい幸運を、どうぞ。」と言って通帳を渡します。

 銀行の外に出たキイチを、先ほどの年老いた紳士が追いかけてきて、「学生さん、払い戻しされるんですって? 素晴らしい見返りが期待できますね?」と言います。「見返り? 善行の払い戻しなんて、本当にできるんですか?」と、まだキイチは信じられません。紳士は「もちろんですとも」と答えます。

 するとその近くの道端で、カップルがやくざ風の男に絡まれていました。その紳士は、「これはポイントが高い。見てごらんなさい。誰も止めようとしないでしょう。ああいう風に、状況が悪いほどポイントが高いんですよ」と言って、そのやくざ風の男のところへ行き、「やめろ! 私を殴って気が済むんなら、どうぞ私を存分に殴ってください」と申しでます。紳士は男に蹴飛ばされ、靴で踏みつけられて痛めつけられながらも、キイチの方を見て「ポイント」とつぶやきながらニコニコしています。

 翌日、キイチが学校に行くと、ビッグニュースが舞い込んできます。実力では到底合格できないレベルの城南大学が、キイチを推薦入学で欲しいと申し出てきたというのです。実はキイチが密かに思いを寄せていたクラスメートのヒロミちゃんも城南大学を目指していて、合格すれば一緒の大学に行けることになります。突然、幸運が舞い込んできたわけです。

 キイチは「まさか」と思って、「善行銀行」の通帳を広げると、「推薦入学決定」の項目が書き加えられていて、ポイントがマイナスされていました。良いことは続き、あこがれのヒロミちゃんが学校帰りに声をかけてきて、「今度の日曜日に映画見に行かない?」と誘われて、そこから交際がスタートします。また通帳を確認すると、「恋愛成就」の項目が書きくわえられていて、さらにポイントがマイナスされています。その後も良いことは続き、恋愛は順調、テストで100点を取り、宝くじに当たりますが、その度にポイントがマイナスされていきました。

 しかしある日、キイチは担任の先生から呼び出されて、城南大学が突然、推薦入学を取り消したいと言ってきたと告げられます。ヒロミちゃんと一緒に帰ろうとしても断られてしまいます。

 突然ツキが無くなったキイチは、慌てて善行銀行の窓口に駆け込みます。そして、「この前、ここに来てからツキまくってたのが、急にどっか行っちゃったんだ。何とかしてくれ!」と懇願します。

 女性行員に通帳を見せると、「ハハハハハ・・・。残高ゼロになっていますね。これでめでたく、全額払い戻しました。」と言われます。

 キイチは「何とかしてくれ。このままじゃ破滅だ!」と言いますが、銀行員は「困りましたね~。あちらの方のように、毎日ちょっとずつでも貯めておいて頂ければ、こんなことにはならないのに。」と言って視線を送った先にいたのは、例の年配の紳士でした。キイチが「これから気を付けるから、頼む!」と懇願すると、銀行員は「それじゃ、ご融資しましょう。ローンを組みますか?」と聞いてきます。

 その名も、「人生サクセスローン。一日三善となっていますが、よろしいでしょうか?」と聞かれると、「一日三回いいことすればいいんだな。分かった。必ず約束する」とキイチは答えます。すると再び通帳にポイントが加算されました。(次回に続く)

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日韓関係の課題解決におけるソフトパワーの有効性10


6.日韓を和解させるソフト・パワーとしての統一運動の可能性(続き)

 前回まで、文鮮明総裁・韓鶴子総裁の主導する統一運動が日韓を和解させるソフト・パワーとしてどのように機能できるかを考察し、具体例として「日韓交叉祝福」とPeace Road運動を紹介した。

 最後に、日本における統一運動と政権与党の関係について考察したい。統一運動は韓国で生まれた家庭連合(統一教会)を基盤とする運動でありながら、勝共運動を通じて日本の政権与党である自由民主党と歴史的に良好な関係を結んできた。日本の統一運動は、安倍政権と対立関係にあるのではなく、むしろ友好関係にある。

 統一運動と自民党との関係は、安倍首相の祖父にあたる岸信介にまで遡る。岸信介との因縁は、東京都渋谷区南平台の岸邸の隣に当時の統一教会の本部教会があったことに起因する。教団の歴史書である『日本統一運動史』(光言社、2000年)によると、岸が初めて本部教会を訪れ、集まった300名の教会員たちに国際情勢を含めた内容の話をしたのは1970年4月9日のことであったという。岸が首相を退任したのは1960年のことであるから、それから10年後のことであったが、首相退陣後も岸は政界に強い影響力を保持していた。

 1973年4月8日に岸が本部教会を訪れたときには、以下のように語っている。
「ただいま久保木会長から御紹介がありましたように、私はここへは今回で3度目だと思います。その前に実は、統一教会と私の奇しき因縁は、南平台で隣り合わせで住んでおりました若い青年たち、正体はよくわからないけれども、日曜日ごとに礼拝をされて、賛美歌の声が聞こえてくる。…そうしたら…笹川君が統一教会に共鳴してこの運動の強化を念願して、私に、君の隣りにこういう者が来ているんだけれども、あれは私が陰ながら発展を期待している純真な青年の諸君で、将来、日本のこの混乱の中に、それを救うべき大きな使命を持っている青年だと私は期待している。もっとも現在の数は非常に少なく、またずいぶん誤解もあり、親を泣かせるとマスコミも騒いでいる。そういう話を聞き、お隣りでもありましたので、聖日の礼拝の後に参りまして、お話したことがありました。人数もせいぜい二、三十人ではなかったかと思います。久保木君のお説教は…極めて情熱のこもったお話を聞きまして、非常に頼もしく私は考えたのです。」

 これに対して、久保木会長が以下のようなコメントを残している。
「今思えば、(岸)先生は大変懐の広い政治家でした。私たちは当時、まだ…弱小集団でありましたし、教祖が韓国人ということも一般の日本人にとってマイナスのイメージとなっていました。その上、世間からは『親泣かせ原理運動』というレッテルを貼られて、罵詈雑言を浴びせかけられていました。しかし、岸先生はそういうことには一切関心がありませんでした。世間の評価とかマスコミの情報というものがいかに薄っぺらなものであるかを自分自身がよくよく体験してこられていたのです。先生は自分の心に感じた真実を評価の基準に置いてくれました。世間が見る統一教会ではなく、先生の心に直接映る統一教会を見てくれたことが、私たち青年にとって大変ありがたいことでした。…岸先生に懇意にしていただいたことが、勝共運動を飛躍させる大きなきっかけになったことは間違いありません。国内においても国外においてもそれは言えることです。」(『日本統一運動史』、p.337)

 そして1973年11月23日、本部教会において岸信介元首相は初めて文鮮明師と出会っている。二人は長時間にわたり意見を交換したという。

 1974年5月7日、東京の帝国ホテルで開催された文鮮明師の講演会「希望の日晩餐会」では、岸は名誉実行委員長を務めている。岸が自らの後継者として首相就任を悲願としていたのが福田赳夫であったが、この「希望の日晩餐会」では当時大蔵大臣であった福田赳夫が挨拶し、「アジアに偉大な指導者現る。その名は“文鮮明”である。私はこのことを伺いまして久しいのでありますが、今日は待ちに待ったその文鮮明先生と席を同じくし、かつ、ただいま文先生のご高邁なご教示にあずかりまして、本当に今日はいい日だなあ、いい晩だなあと、気が晴れ晴れとしたような気がいたします。」と語ったことは有名である。この岸・福田の流れを汲むのが「清和会」であり、自民党の保守派閥として国際勝共連合と長年にわたる関係を構築することとなった。

 岸元首相と文鮮明師の交流は、国際勝共連合を通じて晩年まで続いた。1984年に「世界言論人会議」開催の議長を務めた際には、米国で脱税被疑により投獄されていた文鮮明師の釈放を求める意見書をレーガン大統領(当時)に連名で送っている。

 岸元首相と統一運動の関係を考えるうえで重要なのは、韓国との関係である。岸信介は難航していた日韓国交正常化交渉を朴正煕大統領と協力して一気に推進させた立役者の一人であった。岸は戦前に満州国総務庁次長を務めていたが、朴正煕大統領も満州国軍将校として満州国と関わりを持ったことがあり、岸は椎名悦三郎・瀬島龍三・笹川良一・児玉誉士夫ら満州人脈を形成し、日韓国交回復後には日韓協力委員会を組織した。一方、韓国の朴正熙大統領は軍人出身のリアリストで、北朝鮮の脅威から韓国を守ることを第一義と考えていた。彼の政策は「先建設・後統一」政策といい、まずは国家を再建して、あらゆる面で北朝鮮を凌駕した後に統一を図るべきという考え方であった。彼は南主導で韓半島を統一するためには韓国の経済力・技術力の近代化が必要であると考え、日韓国交正常化を通して日本からの経済協力金を受け取ることを最優先した。その結果「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展を成し遂げたのである。要するに「岸・朴」の反共ラインによって日韓国交正常化が成立し、それが今日まで続く日韓関係を作り上げたといってよい。

 岸は戦後日本の防衛と発展のためには米国との関係が最重要であると考え、安保改定に力を注ぐと同時に、アジア諸国への善隣外交により、真の「大アジア主義」の理想を実現することによって日本の国際的地位を高めなければならないと考えていた。彼は明確な反共主義者であり、アジアに反共防衛体制を構築する必要性からも、日韓国交正常化は必要不可欠であると考えていたのである。

 こうした岸信介の価値観は、日韓米が一体となって共産主義の脅威から自由世界とアジアの平和を守るという統一運動の理念と一致するものであった。統一運動においては、岸信介元首相との因縁はたまたま南平台の教会本部の隣に岸が住んでいたという「偶然」ではなく、その政治理念からしてメシヤと出会うべく神が準備した人物であったと理解されているのである。その孫に当たるのが安倍晋三首相である。

 筆者はUPF-Japanの事務総長をしているが、2019年10月5日に名古屋で行われたJapan Summit and Leadership Conference 2019と題する国際会議の運営に深く関わった。「太平洋文明圏時代:東アジアの平和と日韓米連携の展望」をテーマとして行われたこの国際会議には、ニュート・ギングリッチ元米国下院議長と二人の現職米国下院議員、金奎煥・韓国国会議員などが参加するレベルの高い会議となったが、この会議に細田博之衆議院議(元自民党幹事長)、原田義昭衆議院議員(前環境大臣)、伊達忠一前参議院議長をはじめとする多数の国会議員が参加し、壇上でスピーチをしたのである。彼らは一様に韓鶴子総裁に対する感謝の言葉を述べた。
 とくに細田博之衆議院議員は自民党の最大派閥である「清和会」(安倍首相の所属する総裁派閥)の会長であり、安倍首相と非常に近い人物である。彼は講演の中で、「安倍総理にも私は始終話をしておりますので、今日の盛会を安倍総理に早速ご報告いたしたいと考えております。韓鶴子総裁の提唱によって実現したこの国際指導者会議の場は大変意義が深いわけでございます」と述べた。
 韓国に起源をもつ統一運動が、安倍首相の側近と言える人物と良好な関係にあるという事実は、今後韓国と日本が和解の方向に向かうときが来れば、統一運動が重要な役割を果たすことができるのではないかという希望を感じることができる。

7.結論

 日本も韓国もお互いに世界に通じるような普遍的な文化的資源を持っているという意味においては、どちらも潜在的なソフト・パワーを持つ国であると言ってよい。そして韓国における日本文化開放を契機として両国の文化交流は相当程度に進んでおり、両国の文化はお互いに深く浸透しているという事実を確認することができる。しかしながら、それが現在の日韓関係の課題を自国の国益に従って解決し得るような力として機能しているかと言えば、両国ともに出来ていないと結論せざるを得ない。これはある意味でソフト・パワーの限界であるとも言えるし、国益が衝突しあうような二国間の外交課題の解決には、そもそもソフト・パワーはそぐわないのだとも言える。したがって、日韓両国の短期的な外交課題において、文化交流が直接的に貢献する可能性は低いであろう。

 しかしながら、国際社会には永遠の敵国も永遠の同盟国も存在しないという格言にもあるように、(注75)韓国と日本の葛藤も永遠に続くとは考えられず、どこかで和解する段階に入る時が来る。その時まで両国のソフト・パワーは、これ以上対立が深刻化するのを緩和する役割を果たすであろうし、和解の機運が盛り上がってきたときにはより積極的な役割を果たすことができるであろう。その時にはどちらか一方の国益の追求ではなく、両国ならびに国際社会の利益になるような普遍的な価値に基づく外交政策を推進する力として、ソフト・パワーが機能することが望ましいと考える。文鮮明総裁、韓鶴子総裁の主導する統一運動は、そうした価値観に基づく両国の和解の促進において、重要な役割を果すことができる可能性がある。<了>

(注75)19世紀の英国首相パーマストンの言葉であるとされる。

参考文献
書籍
ジョセフ・S・ナイ(山岡洋一訳)『ソフト・パワー 21世紀国際政治を制する見えざる力』(日本経済新聞社、2004年)
黒田勝弘『韓国 反日感情の正体』(角川学芸出版、2013年)
仲尾宏『朝鮮通信使―江戸日本の誠信外交』 (岩波新書、2007年)
日韓共通歴史教材制作チーム (編)『日韓共通歴史教材 朝鮮通信使』(明石書店、2005年)

論文
財団法人世界平和研究所の平和研レポート(主任研究員 星山隆)『日本外交とパブリック・ディプロマシー―ソフトパワーの活用と対外発信の強化に向けて―』
倉田保雄『ソフト・パワーの活用とその課題~理論、我が国の源泉の状況を踏まえて~』、立法と調査 2011.9 No.320(参議院事務局企画調整室編集・発行)
徐賢燮『韓国における日本文化の流入制限と開放』(長崎県立大学国際情報学部研究紀要、第13号、2012年)
鄭榮蘭「政治的対立と文化交流による日韓相互認識の変遷-日韓の文化受容(韓流・日流)が国民意識の変化に与える影響-」(査読付き研究ノート)
林守澤「韓国ソフトパワーグローバル展開と韓日企業連携」(AIBSジャーナル No.6)
Yoon, Kaeunghun,”The Development and Problems of Soft Power between South Korea and Japan in the Study of International Relations” (埼玉学園大学紀要. 人間学部篇 第8巻, pp.191-197, 2008/12/01, 埼玉学園大学出版)
池忠楠「多文化平和運動に対する研究:国際祝福結婚を中心に」(The Journal of Peace Studies, http://dx.doi.org/10.14363/kaps.2015.16.5.31)
映像
NHKのETV特集シリーズ「日本と朝鮮半島2千年」、第9回「朝鮮通信使・和解のために」
ウェブサイト
https://ja.wikipedia.org/wiki/国家ブランド指数
https://ja.wikipedia.org/wiki/マンガ_嫌韓流
https://ja.wikipedia.org/wiki/慰安婦問題日韓合意
https://ja.wikipedia.org/wiki/文在寅#対日姿勢
https://ja.wikipedia.org/wiki/朴槿恵#発言
https://ja.wikipedia.org/wiki/財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定
http://www.genron-npo.net/world/archives/7250.html
FutureBrand,”Country Brand Index 2014-15″(https://www.futurebrand.com/uploads/Country-Brand-Index-2014-15.pdf)
首相官邸ウェブサイト、平成27年8月14日、内閣総理大臣談話(https://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/discource/20150814danwa.html)
東洋経済ONLINE「安倍首相のマリオ姿を世界はどう報じたのか:海外メディア、ネットの反応は?」(https://toyokeizai.net/articles/-/132735)
まいどなニュース 2019/10/05 20:30「東西コリアタウンの今…戦後最悪と称される日韓関係の影響は?」(https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/東西コリアタウンの今…戦後最悪と称される日韓関係の影響は%EF%BC%9F/ar-AAIjBFQ?ocid=spartandhp#page=2)

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6.日韓を和解させるソフト・パワーとしての統一運動の可能性

 鄭榮蘭は、国益を確保するために文化の力を利用するようなソフト・パワー外交に対して否定的な見解を示しており、文化の力は相互理解や多様性の促進を目的として用いられるべきであると主張している。(注72)筆者自身も、特定の政権の特定の政策を推進するためにソフト・パワーを利用することは難しいと考える。それを意図したときには、ソフト・パワーではなくプロパガンダになってしまう。国益や経済的利益の追求を離れて、純粋な動機で日韓両国の友好親善を促進することができるのは民間のNGOやNPOであるが、ここでは特に文鮮明総裁・韓鶴子総裁の主導する統一運動が日韓を和解させるソフト・パワーとしてどのように機能できるかを示唆することによって、未来に対する希望を表現してみたい。

 統一運動の創始者である文鮮明総裁は、「怨讐国家」である韓国と日本を和解させる目的で、韓国人と日本人の国際結婚を推進してきた。「日韓交叉祝福」と呼ばれるこのようなマッチングは1988年の6500双合同結婚式から本格的に始まったが、現在、韓国在住の韓日・日韓家庭が約7000、日本在住の韓日・日韓家庭が約2600存在している。韓国人と日本人が夫婦愛によって一つとなり、そこから生まれた子女は韓日が融合した実体となるのであるから、これ以上に韓日を和合させる強力な力はないと思われる。こうした韓日家庭が韓国社会に及ぼす影響について、全南大学グローバルディアスポラ研究所研究教授・池忠楠は以下のように述べている。
「2015年現在、在韓日本人13,000人余の中で約7,000人余に達する53.8%が国際祝福結婚を通じて韓国に定着した。統計庁によれば2014年基準で、韓国人の国際結婚は23,300件であり、国際離婚は約9,800件で8.4%の離婚率だった。しかし国際祝福結婚によって韓国で生活している日本女性たちの離婚率は概略3-5%で知られている。韓国・日本の国際祝福結婚に参加した日本女性たちは韓国と日本間の尖鋭な政治的・歴史的葛藤があるにも関わらず、個人的な学歴と経済的格差を飛び越えて真の愛を中心にした理想家庭形成に積極的に参加した。特に韓国と日本の間の過去の歴史に対する葛藤と文化的差を克服し、生活の基盤である農漁村で生活している女性たちは多文化家庭の新しい生き方のモデルを提示した。」(注73)

 実際に、韓日祝福を受けて渡韓した統一教会の女性信者は、言葉や文化の違いから当初は苦労の多い生活を送ったとしても、「為に生きる」精神で生活して困難を克服している。その結果、良妻賢母となり、夫や舅姑に気に入られ、周囲も感心する嫁になり、地域から「孝婦賞」などで表彰される者たちも多数いるのである。また、多文化講師や日本語講師として活発に活動している日本人女性も多数いる。

 『産経新聞』の国際面コラム「ソウルからヨボセヨ」で有名な在韓30年以上のジャーナリスト黒田勝弘は、こうした日本人女性について以下のように評価している。
「統一教会の場合、きわめて多くの日本人女性が結婚というかたちで韓国社会に入り込み定着している。その宗教に対する評価は別にして、その存在は数が多いだけに日韓関係では無視できないように思う。そして“日本文化”としての彼女らが韓国社会にもたらす影響は気になる。…

 ところで、韓国社会では日常的に彼女らを垣間見ることができる。たとえば取材で地方に出かけると、自治体の広報関係で日本語通訳としてよく見かける。日本系の居酒屋などのパートもそうだ。大卒がほとんどで、宗教に入れ込むほどの真面目派だから仕事はできる。韓国では近年、国際結婚や外国人居住者が急速に増えている。それを『多文化時代』として行政や支援組織などを通じた“共生プロジェクト”が盛んだが、日本人妻たちも多くそれに参加している。

 一方、韓国のNHKにあたるKBSテレビの長寿番組に、毎週日曜の正午から放送される『全国歌自慢』というのがある。NHKの『のど自慢』をモデルにしたもので、視聴者出演だから人気が高い。…このKBS『全国歌自慢』に統一教会の日本人女性がよく登場するのだ。…番組は地方での録画が多い。事前に予選をパスした人が本番に出るため、出場者は事前審査される。したがって、本番の出演者に彼女たちをよく見かけるということは、彼女らがその地域でそれなりの評価を受けているということを意味する。地方都市や田舎だけに、地元で排斥されたり疎んじられたりしていたのでは、“晴れの舞台”への出場は難しい。

 宗教はともかくとして、彼女らは日本生まれの日本育ちで日本の文化を体現している。その彼女らが子育てや『共生プロジェクト』などを通じて韓国社会にもたらす『日本』が今後、韓国社会にどんな影響を与えるのか興味深いものがある。 」

 このように、祝福を受けて韓国に在住する日本人女性たちは、韓国社会に定着することを通して日韓の和合を促進しているのである。

 統一運動が主導する日韓友好を促進する運動の中で、筆者が毎年関わっているものにPeace Roadがある。2013年の夏、日本最北端の稚内から日本と韓国の友好を願って、両国の数名の若者が「Peace Bike」の名の下に、自転車で走り始めた。日本縦走を目指したこの試みは、和解と平和の心を人から人へと繋いで行く活動として多くの反響を呼んだ。その様子はSNSを通して全国から支援をうけ、リレー形式で日本の縦走を成功させ、さらに玄界灘を越えて韓国の釜山から臨津閣まで連結された。この運動は日韓友好、朝鮮半島の緊張緩和と平和統一のみならず、多文化社会における相互理解と共存を希求するものに発展した。

 このプロジェクトが成功した後、文鮮明総裁聖和一周年記念大会において韓鶴子総裁が「日韓が一つになって臨津閣までの22日間自転車縦走は、祖国統一、南北統一を念願する実践でした。私たちの誠意は臨津閣で終わるのではなく、白頭山を過ぎアジアを経て、全世界に天が望まれる自由・平和・統一の幸せな地上天国を成すまで前進、前進していきます」と語られ、この運動にさらに多くの国が参加するようになった。

 Peace Bike2014には日本側で延べ1200名が参加、北海道納沙布岬から九州まで縦走すると共に、韓国でも大統領官邸前広場から釜山まで、両国で計6000キロを超える距離を縦走した。日本では通過した各都市で、自治体首長や地域社会リーダーに「平和メッセージ」を届け、駐日韓国大使館や各地の領事館から暖かい支援を受けた。縦走の様子はYouTubeにアップされ、それを見て共感した世界14カ国の若者も現地で縦走を実施、Peace Bike運動は世界的な広がりを持つに至った。

 2015年にはその名称を「Peace Road」と発展的に改称し、世界120カ国を巻き込んでの運動となった。この年は日韓国交正常化50周年の節目の年でもあったので、両国の親善友好のための行事が日本各地で開催された。2019年のPeace Roadは7月11日に日本最北端の地である北海道稚内市の宗谷岬で出発した。北海道のピースロードは全長720キロに及ぶ長距離コースだが、その全行程を韓国から派遣された青年ライダーたちが共に走った。同年8月7日から15日にかけて行われた韓国縦走にも、日本からライダーが派遣された。

 こうして日韓がお互いにライダーを送りあい、共に走ることで両国の友好親善を推進しようというピースロードは、「21世紀の朝鮮通信使」の役割を果たそうとしている。事実、これまでのピースロードの記録をひも解けば、各地で朝鮮通信使ゆかりの地をルートに入れて、その歴史を学ぶプログラムが組まれている。例えば、2015年のPeace Roadでは、当時実行副委員長を務めていた遠藤哲也大使が、ライダーたちと共に滋賀県長浜市にある雨森芳洲庵を訪問し、日韓の架け橋となった雨森芳洲の心を学んだという記録が残っている。2018年には三重県津市で「唐人踊りと朝鮮通信使」という題目で講演会を行ったり、徳川家康と朝鮮通信使とのゆかりがある日光東照宮で、東北から関東への引継ぎを行う式典を行うなど、随所にそうしたテーマ設定が見られる。

 Peace Roadに参加した若者たちは、「平和のために自分に何ができるか分からなかったが、とにかく参加して汗を流すことで、平和を自分の問題として感じることができるようになった」と感想を述べている。この運動は、新しい日韓関係を切り拓いていく平和の担い手としての若者たちを育成していくうえでも重要な役割果たしているのである。

 このPeace Road運動には、「日韓交叉祝福」で誕生した日韓家庭の子女たちが多数参加し、父の国と母の国を和解させるために汗を流している。この二つの現象は、日韓を和解させるためのソフトパワーとして連動しているのである。

(注72)鄭榮蘭、前掲論文、p.88
(注73)池南楠「多文化平和運動に関する研究:国際祝福結婚を中心に」p.51
(注74)黒田勝弘、前掲書、p.256-9

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4.日韓の国益とソフト・パワー

 (ウ)国民の意識

 文在寅大統領と安倍首相、韓国政府と日本政府の主張は真っ向から対立しており、簡単に妥協点が見いだされるとは思えない。しかし、どちらの政府も国民の支持なくしてはその政策を実行することはできないので、これらの問題に対して両国の国民がどのように考えているかを、最新の意識調査に基づいて分析することにする。

 両国国民の意識調査としては、日本の非営利組織である言論NPOと韓国のシンクタンクである東アジア研究院(EAI)が、2019年5月から6月にかけて実施した共同世論調査の結果を報告した、「第7回日韓共同世論調査 日韓世論比較結果」を用いることにする。(注69)以下に引用するデータは、すべてそこから採ったものである。どちらの国の調査も有効回収標本数は約1000であり、男女の比率、最終学歴、年齢の分布もほぼ同じである。

 初めに相手国に対する印象が示され、「日本人の韓国に対する『良い印象』は2013年の調査開始以降で最低となったが、韓国人の日本に対する『良い印象』はこれまでの調査で最高となり、日本に対する『良くない印象』は初めて5割を切った」ことが紹介されている。戦後最悪と言われている日韓関係にあっても、韓国人の日本人に対する好感度がアップしているのは意外であった。

 次に相手国に対する印象の理由が示され、日本人が、韓国にマイナスの印象を持つ理由で最も多いのが、「歴史問題などで日本を批判し続けるから」で今回も52.1%と半数を上回っている。一方で韓国人が、日本にマイナスの印象を持つ理由は昨年同様、歴史問題と領土問題(独島)が半数を超えるが、今年は特に「韓国を侵略した歴史を正しく反省していない」が76.1%と昨年の70%を上回っており、歴史問題に反応している。韓国人が、日本に「良い印象」を持つ理由で最も多いのは、「日本人は親切で誠実だから」が69.7%で、「生活レベルの高い先進国だから」が60.3%で続いており、他を圧倒している。これに対して、日本人は「韓国の食文化や買い物が魅力的だから」が52.5%、「韓国のドラマや音楽など韓国の文化に関心があるから」が49.5%と、それぞれ半数近くが、韓国の文化や食べ物などを好印象の理由としている。

 日韓関係に関する認識に関しては、現在の日韓関係を「悪い」と見る日本人は、昨年(40.6%)から23ポイントも増加して63.5%、韓国人でも昨年の54.8%から11ポイント増加して66.1%と、両国で6割を上回る事態に至っている。現状の日韓関係を「良い」と見る人は、日本人で6.1%、韓国で3.7%しかいない。

 政府間外交に関しては、日本人で文在寅大統領に対して、「悪い印象」を持つ人が昨年から倍増して、50.8%と5割を超えている。韓国人でも、安倍首相に「悪い印象」を持っている人は多く、昨年同様8割近い。

 歴史問題に関する認識では、韓国人には歴史認識問題の解決を求める見方が広がっており、「歴史認識問題が解決しなければ、両国関係は発展しない」という見方が39.1%(昨年33.5%)と、4割近くに拡大している。日本人ではこうした状況に戸惑いが見られ、歴史認識問題の解決を困難視する見方が依然多い。

 解決すべき歴史問題としては、日本人では例年と同じく韓国の「反日行動」と「反日教育」を挙げる人が半数を超えるが、「従軍慰安婦」を挙げる人も4割近く存在する。韓国人では「従軍慰安婦」が7割と最も多いが、「補償問題」も昨年から16ポイント増加して6割を超えている。

 日本企業に対して元徴用工へ強制労働の賠償を行うよう命じた韓国最高裁の判決について、韓国人の75.5%と7割超は「評価する」と回答したが、日本人の58.7%と6割近くは「評価しない」と答え、「どちらともいえない」が33.6%で続いている。

 この徴用工問題を解決するためには、韓国人の6割近くは判決に従って「日本企業が賠償を行う」べきだと考えているが、日本人では判決に従うべきと考えている人は1.2%にすぎず、「仲裁委員会、国際司法裁判所」や「韓国政府による補償」によって解決を図るべきだと考えている人が多い。さらに、被告の日本企業の資産差し押さえや売却が行われた場合に、日本政府が対抗措置を取ることを55%の日本人が容認している。

 以上、本稿に深くかかわる部分のみを抜粋したが、日韓共に自国の指導者の政策を支持しており、政府の政策と国民の意識の間に齟齬や乖離がないことが分かる。日本人の大半は、韓国の食べ物、ドラマ、音楽などの文化は好きだが、韓国の「反日教育」や「反日行動」にうんざりしていて、文在寅大統領は嫌いでその政策は間違っており、安倍首相の韓国に対する外交政策は正しいと思っている。一方で韓国人の大半は、日本は先進国で、日本人は親切で誠実だから国民としては好きだが、安倍首相は嫌いでその政策は間違っており、文在寅大統領の言う通り、日本は韓国を侵略した歴史を正しく反省すべきだと思っているのである。

 ソフト・パワーが文化の影響力を通して「自分が望む結果を生み出す能力」であるとすれば、日韓両国の間にはこれだけの文化的交流がありながらも、両国政府はお互いに自分が望む結果を相手国の政府からも国民からも得られていないことになり、ソフト・パワーは機能していないと結論せざるを得ない。

5.ソフト・パワーの限界

 本稿では、ソフト・パワーの弱点や限界も最初に指摘している。ソフト・パワーは間接的で分散された影響力として働き、ときには意図したものとは反対の結果をもたらすこともあるので、その効果を科学的な方法で予見することは難しいということである。ある国の文化に人気があるからと言って、それが外交政策に利用できるとは限らないことは、ジョセフ・ナイ自身が以下のような言葉で説明している。
「コカ・コーラやビッグマックがあるからといって、イスラム圏の人たちがアメリカ好きになるとは限らない。北朝鮮の金正日総書記はピザとアメリカ映画のビデオが好きだとされているが、それが核開発政策に影響を与えることはできない。すばらしいワインとチーズがあってもフランスの魅力が保証されるわけではなく、ポケモンがあるからといって日本が望む政策を外国が取るわけではない。」 (注70)

 したがって、日本と韓国の国民がお互いの文化が好きだからといって、外交政策に対する評価はそれとはまったく別だと考えることは、ごく普通にあり得ることなのである。しかし、それだけではあまりに単純なので、ここではナイの指摘するソフト・パワーが有効に機能する条件に基づき、日韓の間でなぜソフト・パワーが機能しないのかを分析しようと思う。

 ナイはソフト・パワーの源泉として文化、価値観、外交政策の三つを挙げており、その国の持つ文化的な資源が、他国から尊敬され受け入れられるような価値観および外交政策と組み合わされたときに、初めて有効なパワーとなるとしている。そしてその国の政策が「偽善的だ、傲慢だ、他国の意見に鈍感だ、国益に対する偏狭な見方に基づいているなどと見られた場合、ソフト・パワーが損なわれかねない」(注71)と指摘している。

 日本も韓国もお互いに世界に通じるような普遍的な文化を持っていながら、その価値観や外交政策においては、日韓関係の課題に関する限り、他国から尊敬され受け入れられるような普遍的なものとなりえていないのではないかと思われる。日本と韓国の葛藤は、どちらかといえばエゴイスティックな国益の衝突であり、第三者がどちらかを支持したいと思うような争いではない。本来ならば仲介役をすべきアメリカが積極的に介入しないのは、どちらの言い分もあまり魅力的ではないからである。日本の主張は、表向きは「国際法の遵守」だが、内実は植民地時代の行いに対する法的責任の回避である。韓国の主張は、被害者意識を前面に立てて日本からできるだけ多くのお金を引き出そうとしているように見える。周辺国家は損害賠償請求訴訟の傍聴人のような立場だが、植民地支配を行った過去を持つヨーロッパ諸国は、それが自分の国に飛び火しないようにだんまりを決め込むしかないであろう。ソフト・パワーが機能するためには、その外交政策が正当で敬意を払われるような普遍的な価値に基づくものでなければならない。二国間の国益が激しくぶつかり合うような状況においては、ソフト・パワーは機能しづらいのである。したがって、日韓の文化交流がどれだけ進んだとしても、それが国益を追求する両国政府の意図に適うような「パワー」として機能することはないであろう。

(注69)http://www.genron-npo.net/world/archives/7250.html
(注70)ナイ、前掲書、p.35
(注71)同書、p.38

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