書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』102


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第102回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 第100回から第六章「五 統一教会の祝福」に入り、過去二回にわたって①写真マッチング、②約婚式、③聖酒式、④結婚式(祝福)、⑤蕩減棒に関する櫻井氏の記述を分析してきた。今回はその続きで、⑥聖別期間について扱う。

 櫻井氏は⑥聖別期間に関する説明で、「四〇日間を聖別期間として別居する(家庭を持つ前の準備を行う)のが本来の決まりである。しかも、祝福の相手はその場で初めて会った相手であることからいろいろな問題が生じてくるとして、さらに三年間を独身の状態で信仰生活を継続することが求められる。この期間は、韓国人男性と日本人女性の組み合わせの場合は、韓国人男性の霊的優位が認められてこれほどの期間をおかずに韓国で結婚生活に入ることもある。」(p.304)と記述している。ここにも誤解や説明不足が含まれているので細かく分析して行きたい。

 まず、統一教会の信徒が結婚式を終えた後に40日間の聖別期間(すぐに新婚初夜を迎えるのではなく、お互いに純潔を守って家庭出発の準備をする期間)を持つというのは、教義的な根拠を持つ原則である。したがって、これに関しては国や民族の違い、あるいは個人の抱える事情などに起因する差異は存在しない。誰もが40日の聖別期間を通過するのである。しかしその40日を超えた後に、具体的にいつ家庭を出発するかに関しては、時代により、国により、個人の事情により異なるというのが実際である。

 この問題は、マッチングによって相対者が決定してから家庭を持つまでの期間という観点まで含めて考えた場合にはより複雑になり、中にはマッチングを受けてから家庭を持つまで10年を要したというカップルも存在するのである。祝福について研究を行った米国の宗教社会学者ジェームズ・グレイス博士は、著書『統一運動における性と結婚』において、アメリカにおける祝福のプロセスが変化したことを以下のように分析している。

 1978年までのパターンは、①マッチング、②祝福式、③聖別、そして④家庭出発というものだった。しかし、文師は1979年に新しいパターンに着手し、そのとき資格のあるメンバーはマッチングを受けたが祝福式を受けなかった。これらのカップルはその後は聖別をし、1982年の式典で祝福された。この新しいパターンは、①マッチング、②聖別(これを「約婚」と呼ぶアメリカのメンバーもいた)、③祝福式(その後に絶対的で摂理的な40日間の聖別が続く)、そして④家庭出発という順序に従う。グレイス博士は、この新しいパターンは、結婚の前に婚約期間を置くという伝統的なアメリカの慣習に運動が適応したのではないかと分析している。

 このマッチングと祝福式の間に時間を置くというやり方は、日本では1610双のマッチングと6000双の祝福式の関係が有名である。1978年9月22日に日本で1610双のマッチングが行われたが、彼らが祝福式に参加したのは1982年10月14日の6000双の祝福式の時であり、実に4年間も祝福式まで待ったことになる。しかし、マッチングから祝福式までにこれほど長い期間を置いた例はその後には見られない。私が祝福を受けた6500双ではマッチングはまさに祝福式の直前であったし、その後の祝福式においてもマッチングから祝福式まで1年以上待ったという例は聞かない。したがって、これは1970年代後半の特別な状況ではないかと推察される。

 さて、櫻井氏は祝福後の40日の聖別期間を過ぎた後でも、さらに3年間を独身状態で信仰生活を継続することが求められ、その理由は祝福の相手とはその場で初めて会ったばかりなので、いろいろな問題が生ずるからであるとしている。ここにも誤りがある。まず40日の聖別期間を過ぎた全員がさらに3年間の独身生活をするわけではないし、家庭出発を遅らせるのは必ずしもカップルの相性の問題が理由ではない。実際には、40日の聖別期間は普遍的なものだが、家庭を出発するまでにその後どのくらいの期間を置くかは、さまざまな理由や事情によって異なってくるのである。

 実は最も重要な理由は年齢である。統一教会では結婚したら子供を生むことが奨励されているので、祝福を受けた時点でカップル(特に女性)の年齢が高い場合にはできるだけ早く家庭を持つことが奨励される。女性の妊娠適齢期は限られているからである。この点に関する方針は万国共通である。逆に、カップルの年齢が20代の前半である場合には、お互いが精神的にさらに成長するためという理由とともに、お互いを人間としてもっとよく知るために、家庭出発までの期間が長くなる場合が多い。

 次に、家庭を出発するために満たすべき条件に関しては、国ごとに方針や基準が異なるということはあるだろう。日本においては、家庭を出発する前にまず個人路程を勝利しなければならないという考えが強く、修練会に出たり、実践活動をしたりといった様々な条件が求められ、結果として家庭出発の時期が遅れる傾向があった。これは「祝福家庭とはかくあるべき」という理想が高いためにそうなったという側面と、より現実的には独身のマンパワーをできるだけ多く確保するという組織的な理由の両側面があったように思われる。日本の統一教会には、天の祝福を受けたとはいえ、家庭に関することは私的なことで、教会のために奉仕することが公的なことであるため、より公的な目的のために家庭を犠牲にすることが美徳と考えられる傾向は確かにあった。

 日本人と韓国人が祝福を受けた場合、こうした日本固有の祝福に対する考え方を理解できないために、韓国人の側に不満が生じるということはあったであろう。その際の現実的な処理の方法として、韓日カップルの場合には日本人同士のカップルよりも少し早めに家庭出発を許可するということはあったと思われる。しかしそれは、櫻井氏の言うように「韓国人男性の霊的優位」が理由なのではなく、カップルの幸せのために現実的な判断をしたという方が妥当である。

 櫻井氏はこの聖別期間に対して、家庭を持つことを待たされるというネガティブな評価しかしていないが、実際に祝福を受けたカップルに対する聞き取り調査を行ったグレイス博士は、この聖別期間が宗教的な意味を持つ肯定的なものとして個々のカップルに受け取られていることを明らかにしている。彼の分析によれば、マッチングを受けてから家庭をもつまでの聖別期間は、共同体の価値観を夫婦生活にいかに活かしていくかという「翻訳作業」を行う期間であり、これによって共同体の価値観が結婚という場に結実するのだという。すなわち、それまで個人的に積み上げてきた信仰を、家庭生活という場でどのように実らせるかについて、カップルが話し合って準備する期間だというわけだ。

 家庭をもつまでの聖別期間は、メンバーにとって多くの意味をもっている。その内の一つに地上天国実現というより大きな目的のために捧げる「犠牲」であるという意義づけがある。すなわち世界の救済のために自分自身を捧げるのである。さらにそれは、神を中心とする家庭を築くための基礎固めの期間であると意義づけられている。すなわち、この期間、自己犠牲的な奉仕の生活をすることにより、自己の精神的・情緒的成長をはかり、理想的な家庭を築くための準備をするのである。

 これに加えてグレイス博士は、極めて現実的な意味合いとして、聖別期間は、多くの場合、結婚する直前まで見知らぬ同士だったカップルが、文通などを通してお互いをよく知り合う期間として機能していると分析している。とりわけ言語や文化の異なる国際カップルの場合にはこの期間は重要であるという。

 グレイス博士が多くのメンバーと接して得た印象としては、統一教会における結婚は永遠のものであるため、聖別期間にあるカップルはお互いにより良い関係を築くことに対して真剣であるという。この期間のカップルの交際の手段として最もポピュラーなのが文通であり、その内容はいわゆるラブレターというよりは、お互いが今まで歩んできた人生の紹介や、信仰的価値観に基づいて将来どのような家庭を築いていくかという理想を語り合うものが多いという。多くのカップルの証言によれば、お互いに対する恋愛感情はこの聖別期間中に徐々に芽生えるという。神の目から見れば自分たちは夫婦であると認識してはいるものの、この期間におけるカップルの交際は、とりわけ身体的接触という点に関しては非常に制限されている。このようにして聖別期間を通じて育まれた二人の愛は、やがて三日行事を通して実体的に結実し、一つの家庭を形成するようになるのである。

 こうしたグレイス博士の分析は、日本の祝福家庭にもほぼそのまま当てはまる。聖別期間は単に家庭出発を待たされている期間なのではなく、お互いの成長と関係性の構築という積極的な意味を持っているのである。

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韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ04


 先回は上海市で結成された大韓民国臨時政府まで話をしました。今回はこの「臨政」についてさらに詳しく説明します。当時の「臨政」に対して、列強はどういう態度を取っていたのでしょうか。

 まず中国はどうかというと、中国と朝鮮の間には2000年の宗属関係がありましたし、どちらも日本と敵対していたので、「敵の敵は味方である」という論理から、中国は韓国の独立運動に対して終始同情的でした。しかし、この時期の中国は、清朝末期以降の内戦と対日戦に明け暮れて、実力をもって支援する力を欠いていました。

 それではソ連はどうでしょうか。レーニン政権はその世界戦略に基づいて積極的に朝鮮人を支援し、かつ利用しました。例えば、上海臨時政府の李東輝派に対する200万ルーブルの資金援助、高麗共産党の育成と承認、遠東革命軍の編成・抗争などを行っています。またシベリア在住の朝鮮人部隊を赤軍に編入し、対日戦を遂行しました。つまり、ソ連は韓国独立運動を共産党側につけて利用し、日本と戦って勝利した暁には、朝鮮半島を共産化したいと考えていたわけです。その意味では臨政を助けたわけですが、それはあくまで自分の野望のためでした。

 それではアメリカはどうでしょうか。韓国の独立運動家が終始頼りにした国はアメリカでした。アメリカは、対日不和を招かない範囲で終始同情的であったと言えます。最終的には日米は戦争になるんですが、それ以前は日本に対する配慮もあって、同情的であったけれども助けてはくれないという状態でした。民間レベルでは、韓国に根づいた米国のキリスト教宣教師は、伝道的見地と人権的見地から韓国独立運動への支援を惜しみませんでした。アメリカは独立運動の資金源として重要視されました。つまり、アメリカに渡った独立運動家が、韓国の独立のために寄付を集めたわけです。アメリカは独立運動にとって宣伝の場であり、外交の最前線でありました。

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 この大韓民国臨時政府について考えるとき、金九という人物を抜きに語ることはできません。彼はよく「白凡・金九」と呼ばれるのですが、この「白凡」というのは号です。その意味は、白丁のような卑しい凡夫だということです。白丁というのは朝鮮王朝時代の最も低い身分で、「賤民」に属したわけですが、「自分は白丁のような卑しい凡夫にすぎないが、国の為には自分程度の意識水準が必要だ」という意味で「白凡」という号を自分につけたそうであります。

 彼は1876年に黄海道海州(現在の北朝鮮)に生まれました。彼の家系は、李朝初期は両班の家柄だったのですが、11代前に没落して平民に落とされたので、非常に貧しい生活をしていたそうです。金九が生まれたのは1876年ですが、李承晩が生まれたのは1875年ですから、李承晩よりも一歳年下ということになります。この二人はほぼ同い年ですが、ずーっとライバル関係にありました。

 それでは金九の略歴を見てみましょう。
・16歳で東学に転じ、1894年には「東学党の乱」に参加します。この「東学」とは東洋の思想を中心とする宗教で、現在は「天道教」と呼ばれています。
・1905年に乙巳保護条約が締結されたときには激憤して、国権回復運動を志すようになります。
・1910年には日韓併合条約が締結されますが、そのときには地下政府の設立を密議して、黄海道代表に選ばれました。彼はかなり初期の頃から独立運動に参加していたことが分かります。
・1911年には保安法違反の疑いで逮捕され、西大門刑務所に収監されました。
・1917年に出所した後に帰郷し、農村啓蒙運動に励むことになります。
・1919年に三・一独立運動が起こると上海に亡命し、大韓民国臨時政府に参加します。

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 このときから1945年の解放に至るまで、「臨政」は主導権を巡る内紛や暗闘で集合離散しましたが、結局、終始「臨政」に留まり、一貫して「臨政」に尽くしたのは金九ただ一人でした。彼によって、独立精神の法統は最後まで守り続けられたのです。その意味で、大韓民国臨時政府と金九は特別な関係にあると言えます。実は臨政ができたころには金九の役職は「警備局長」であり、その地位はあまり高くありませんでした。ほかに偉い人はたくさんいたんですが、その人たちは喧嘩したり抗争したりして出て行ってしまい、最終的に金九が残ったということです。

 それでは上海臨時政府はどのようにしてできたのでしょうか。三・一独立運動後、京城、シベリア、上海の三カ所に政府が立てられたのですが、やがて上海の臨時政府に統合されていきました。それは、人や資金、地の利の上から、上海が最も政府の樹立に適していたからです。上海には、各地から最も多くの政客が集まりました。

 1919年4月下旬、上海に李承晩を国務総理とする大韓民国臨時政府が樹立されました。この臨時政府は、思想的には混合状態でした。シベリア派の中心人物は李東輝で、彼はこのとき既に共産主義を信奉していました。上海派は民族主義を報じていたので、本来両派は相容れないものでした。しかし、外国の援助を受けやすくするためには一本化が必要であるということで、結果的に上海政府が正統政府となったのです。初期の上海臨時政府の閣僚名簿は以下のようになっていました。
・国務総理 李承晩(在米) → 後に臨時大統領
・国務総理代理 李東寧 → 後に大統領代理
・内務総長 安昌浩(在米)
・外務総長 金奎植(在パリ)
・財務総長 崔在亨
・交通総長 申錫雨
・軍務総長 李東輝(在シベリア)
・法務総長 李始栄

 このように臨時政府の閣僚名簿というものはあったんですが、全員が上海にいたわけではありませんでした。こうした中で、「大韓民国臨時憲章」(憲法に相当)を制定し、国としての体裁を一応整えたわけです。このとき、後の大韓民国初代大統領となる李承晩が、国務総理となり、後に臨時大統領になっているわけですが、なぜ何故李承晩(当時44歳)だったのでしょうか。その理由を列挙すると以下のようになります。

 まず家柄が良かったんですね。李王朝第三代の王・太宗の嫡子・譲寧大君(世宗大王の兄)の直系の家柄です。これを聞いて分かる人は、韓国ドラマを相当見ている人ですね。『流の涙』とか『大王世宗』などのドラマを見たことのある人は、この意味が分かると思います。朝鮮の国を立てたのは太祖・李成桂ですが、その息子である李芳遠が太宗となって王権を確立します。李芳遠の息子の中で、長男は問題児だったんですね。ですから三男の忠寧大君、後の世宗大王に王位を継承しました。長男は王位を譲ったので「譲寧大君」と呼ばれているわけです。ですから、李承晩は朝鮮王朝の極めて初期の段階で王の系譜から外れた人物の直系の家柄であったわけです。

 次に、秀才の誉れ高く、若くして改革運動に身を投じて投獄され、早くから独立運動に専念してきた実績がありました。

 さらにアメリカの有名大学を三つも卒業し、哲学博士の称号を持ち、見識、人物ともに群を抜いていました。

 そして、米国に知己が多く、米国の援助を受けやすい、在米僑胞の声望が高く、資金調達能力が抜群である、年長とカリスマ的魅力などが選ばれた理由にあげられるでしょう。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』101


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第101回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 前回から第六章「五 統一教会の祝福」に入り、①写真マッチング、②約婚式、③聖酒式に関する櫻井氏の記述を分析する作業を終えた。今回はその続きである。

 櫻井氏は④結婚式(祝福)に関する説明で、「文鮮明夫妻を主礼として迎え入れ、聖水と祝禱を受けた後、新郎新婦で指輪の交換がなされ、万歳三唱のうちに終わる。」(p.303)と記述している。重要な儀式の式次第の説明としてはあまりにも簡素な表現だが、実は重要な構成要素を抜かしてしまっている。それは「成婚問答」である。これは神の創造理想を完成するために、永遠の夫婦となることを神様と真の父母様の前に誓う儀式であるが、主礼の問いかけに対して、「イェー」(韓国語で「はい」の意味)と肯定の返事をする形式で行われる。「成婚問答」で主礼が問いかける内容は歴史と共に変化してきたようだが、私が受けた6500双の時の「成婚問答」は以下のような文言であった。
 一、君たちは本然の善男善女として、天の法律を守護し、万一失敗があるならば、自分たちが責任を執ることを宣誓しますか。
 二、君たちは神様が喜ばれる理想的な夫婦として、永遠なる家庭をつくることを宣誓しますか。
 三、君たちは天の伝統を受け継ぎ、永遠なる善の父母として、家庭と世界の模範となる子女を養育することを宣誓しますか。
 四、君たちは理想的家庭を中心として、社会、国家、世界、天宙の前に愛の中心者となることを宣誓しますか。

 6500双の時は、この成婚問答に続いて、以下のような「成婚宣布」がなされた。
「1988年10月30日、6516双が、神と真の父母と、世界と天宙の前に、成婚が成立したことを宣布します。」

 このことから、結婚式がもつ重要な意義は、新郎新婦が永遠の夫婦となることを神様と真の父母様の前に誓い、主礼が結婚の成立を宣言することにあることが分かる。にもかかわらず、櫻井氏は「マスメディアで報道されるのはこの場面だけだが、祝福の実質的な意味は、聖酒式と後に述べる三日行事にある。」(p.303)などという知ったかぶりの解説を行い、あたかも結婚式が対社会的なセレモニーでしかないかのような物言いをしている。

 こうした櫻井氏による結婚式の意義づけは誤りである。確かに聖酒式と三日行事は祝福の一連のプロセスにおいて重要な意味を持っているが、結婚式の意義がそれに劣るものであるということにはならない。結婚式は祝福を構成する重要な一つの要素として、欠くことのできないものである。その原理的な意義は、聖酒式によって神様の神聖なる子女として生まれ変わった男性と女性が晴れて本来の結婚をするということなのである。したがって、聖酒式の後に結婚式が行われなければならないし、結婚が成立しない限りは「床入り」に当たる三日行事も行うことはできない。それぞれに固有の意味があるため、その順番を逆転させることはできないし、個々のプロセスを省略することもできないのである。

 聖酒式も三日行事も人間の堕落によって必要となった蕩減のための行事であるが、結婚式は創造原理的な意味を持つ行事である。本来、人間始祖アダムとエバが堕落していなければ、成長期間を通過した後には神の下で結婚式を挙げて創造本然の家庭を出発するはずであった。しかし、アダムとエバの堕落によりそれが出来なくなったので、統一教会ではそれを蕩減復帰して「真の結婚」をするために合同結婚式を行ってきたのである。したがって、それ自体で宗教的意義を有するものであり、世間一般やマスコミに対するアピールのためにやっているのではない。

 私が参加しが6500双祝福式の時には、「主礼の御言」というものが語られており、その中にこの結婚式の意義と、それに臨む者の心構えが文鮮明師によって示されている。それをいま改めて読むと、新しい人生の門出に立つカップルに対して与えてくださった貴い訓示であることを感じざるを得ない。少し長くなるが、私の人生にとって重要なスピーチであるため、ここで紹介したい。

※6500双祝福式での主礼の御言※

 生命と愛と喜びの源泉としての幸福で、義なる真の家庭を培い、確立するということは、実に神様と人間の歴史的な願いでした。そのような観点から見ると、皆さんがきょう、神様を中心として夫婦の良き契りを結び、成婚式をささげることができるのは、本当に誇るべきことであり、喜ぶべきことであると考えます。
 本来、夫婦というものは、真の愛によって結ばれた一心同体の存在であり、約束する伴侶の関係であるがゆえに、愛の本体であられる神様を中心としなければ、理想的な愛の家庭を興すことはできないのです。
 私たち統一教会の新郎新婦は、正しくこの神様の愛を中心として結ばれた夫婦であり、神様の愛と真理を基盤とした家庭を作り上げるとき、愛と幸福と平和の世界が現れるのです。

 神様は、長い受難の歴史を克服して、人類を一つに束ねる勝利の基盤を整えてこられました。すでに、私たちは、ソウルオリンピックを通して、東西が和合して、全人類が地球村として一家族を成す様相を見ることができます。国境と、血統と、歴史的感情や思想を超越して、一つの世界を指向する外的な摂理の基盤の上に、人類の霊魂と精神を一つに束ねる内的な摂理としての、「世界文化大祝典」を、1990年から3年ごとに開催することを宣布することによって、世界統一国家たる人類大家族主義の社会が到来しているのです。

 玄界灘を越えて、共に手を取り合って茫々たる大海に出帆する新郎新婦の皆さん!

 きょうまで、全世界の耳目が、私たち統一教会に集まってきました。しかし、今からは皆さんと皆さんの家庭に一層視線が注がれるようになるでしょう。それゆえに、皆さんは全生涯を通して次の三つの事柄を特に心に銘記しなければなりません。

 第一に、祝福を受けた夫婦は、永遠に一つにならなければなりません。皆さんの結婚は、「死が私たちを引き離すときままで」というのではなくて、永遠に共に行くのです。真の幸福というものは、永遠に変わらない愛の夫婦によってのみ成り立ち、また享受することができるのです。きょうの新郎新婦の皆さんは、今から皆さんの家庭に、神様の愛を実現することによって、神様に侍り、私たち人間世界に神様をお迎えするようにしなければなりません。

 第二に、家庭的な愛の伝統を確立しなければなりません。この理想的な結婚をした後には、公的な約束を守って、子女たちを原理的にも、道徳的にもりっぱに養育しなければなりません。皆さんは、責任分担と使命を完遂するために、一切の精誠を傾けるばかりでなく、特に子女教育に対して、父母としての責任を果たすことに格別に尽力すべきです。

 第三に、神様の理想世界を建設するために全力を注がなければなりません。天国は、万民が互いに信じ合う、愛で結ばれた心情の世界であります。霊的にも、肉的にも、空虚と困ぱいと苦痛がある限り、真なる天国は実現されません。皆さんはすべて、神様の愛を共有する福なる天国を建設する天国の市民として、責任を果たすだけでなく、この伝統と遺産を、皆さんの子女と後孫に相続できるよう、全力を尽くさなければなりません。

 どうか、きょう祝福を受けられた皆さんが、天の模範的な家庭を築き上げるよう尽力してくださることを願っています。

※引用終わり※

 このメッセージから、結婚式に重要な宗教的意義があることと、神を中心とする夫婦の因縁を結ぶことがその中心テーマであることは明らかであろう。

 続いて櫻井氏は⑤蕩減棒について説明しているが、興味本位で書けば面白いかもしれないこの行事の記述において、櫻井氏はどういうわけか深堀りせず、通り一遍の解説で終わっている。この場面を「奇行」「野蛮な暴力」「韓国の土着の文化」という視点で描こうと思えばいくらでも膨らませることは可能なのかもしれないが、それはあまり櫻井氏の興味をひかなかったのであろうか?

 一方、⑥聖別期間と⑦三日行事に関する櫻井氏の記述は多くの問題を含んでいるが、それは次回以降に扱うことにする。

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韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ03


 前回は「三・一独立運動」について解説し、それに対して日本政府が取った「文化政治」までを説明しました。すなわち、1919年までは「武断政治」といって力で韓国人の抵抗を抑えていたのですが、三・一運動以降は言論・結社の規制の緩和や学校の拡充を図るなど、ある程度の自由を認める形で懐柔しようとしたのです。

 日本政府がこの文化政治を行うことによって生まれたのが、「親日派」と呼ばれる人たちです。この人たちはより現実的な思考をした人たちであって、独立運動を継続しても、到底日本の統治を脱することは不可能であると自覚して、産業の発達や教育の振興に尽くして、民族自立のための基礎的発展を遂げ、実力を養成しようと考えました。その親日派の代表が、李光洙や崔南善といった人々でした。

韓国の独立運動と再臨摂理PPT03-1
韓国の独立運動と再臨摂理PPT03-2

 実は李光洙は「二・八独立宣言文」を書いた人ですし、崔南善は「三・一独立宣言文」を書いた人です。こうした独立運動の指導者自身が何と言いだしたかといえば、「武力や抗争による独立は不可能である。独立は日本によって遂行しなければならぬ。」「民族のために親日するのである」と言ったわけです。つまり、「いまの韓国人の実力ではとても独立なんてできないんだ。日本の下でもっと実力をつけない限り独立は果たせない」と言って、むしろ積極的に日本と協力する人々が出てきたわけです。こういう人たちのことを「親日派」と呼びます。当時の彼らの意識としては、おそらく愛国心に基いて「親日」したんだと思います。ところが今日の韓国では、彼らは「変節した」「裏切り者である」と評価されています。今日の韓国では「親日派」といえば犯罪者のように考えられています。

韓国の独立運動と再臨摂理PPT03-3

 それではほかにどんな運動があったかと言えば、朝鮮共産党の結成がありました。1918年6月に、李東輝らがハバロフスクで韓人社会党を結成します。その李東輝が大韓民国臨時政府に参加したことから韓人社会党は拠点を上海に移し、1921年に「高麗共産党」に改称します。そして1925年4月18日には、韓国内で朝鮮共産党が結成されます。しかし、それとまったく同じ月に「治安維持法」が公布され、共産党員の大部分が検挙されてしまいます。これによってできたばかりの朝鮮共産党は壊滅的な打撃を受けます。事後、4次党まで共産党の再建が試みられましたが、治安当局の大検挙を受けて崩壊してしまいます。ですから、韓国の国内においては共産党は日本当局の徹底的な弾圧によって潰されてしまったわけです。ところが、その中心人物である李東輝は、上海の独立政府に加わって、大きな影響を与えるようになっていきます。

 そうした中で、「新幹会」(1927~1931)という組織が生まれます。1920年代の朝鮮では、民族主義者の間で「妥協派」と「非妥協派」の分裂がみられるようになっていました。前者は朝鮮総督府の統治下で自治の実現を目指そうとするものであり、後者はあくまで総督府を否定して独立を達成しようとするものでした。後者に属する安在鴻(안재홍)らは、同じく総督府との一切の妥協を望まない共産主義勢力との連携を模索するようになり、両者が結びついて「新幹会」が発足しました。ところが、だいたい共産主義勢力と協力しようとした団体は、それに乗っ取られるようになっているのです。やがて「新幹会」は共産主義者に乗っ取られ、左翼団体に変容しました。結局、運動内の左右対立によって、「新幹会」は1931年に解散してしまいます。

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 このころから独立運動の中で、テロ行為が行われるようになります。テロ闘争の代表的な組織が「義烈団」でした。これは1919年11月10日に朝鮮独立活動家の金元鳳(김원봉)を中心として結成された民族主義的な武装テロ組織です。この人たちは、三・一運動の非武装路線を「なまぬるかった。武器を持たずに万歳だけやっても独立なんてできっこない」と批判しました。三・一運動が鎮圧されて失敗した後に、国外での武装闘争を模索していた金元鳳ら13名によって、「義烈団」が吉林省で結成されました。

 このように「非暴力運動」ではなく、武力闘争を中心とする民族主義的な独立運動が起こってきます。義烈団は正義と猛烈を朝鮮独立精神の基軸に置き、「日本帝国主義の心臓部に弾丸を撃ち込む」必殺主義を掲げました。彼らは暴力を唯一の手段とすることを誓約し、ソウルと東京での暗殺を目的に活動しました。義烈団は、釜山警察署などの警察機関を爆破(1920年)したり、朝鮮総督府爆破を実行(1921年)したり、上海へ立ち寄った田中義一陸軍大将狙撃未遂事件(1922年)を起こしたりしました。こういう人たちはいまでも韓国で「英雄視」されています。主権を奪われているのだから、テロは悪くないという考え方です。ちなみに、金元鳳は解放後、北朝鮮にわたって幹部になっています。

 これに対して日本がどのように対処したかといえば、徹底的な同化政策の強化によって抑え込んでいきます。1931年9月に満州事変が起こり、1932年3月に満州国が成立すると、日本は「文化政治」から再び「武断政治」へと方向転換するようになります。

韓国の独立運動と再臨摂理PPT03-5

 1936年8月に第七代総督・南次郎が着任すると、同化政策が強行されるようになりました。具体的には、官製以外の韓国人の団体は、解散させられました。日本政府が主導して作った韓国人団体以外は認められなくなったのです。そして皇民化運動が進められ、日本語が公用化され、創氏改名が行われました。このような凄絶な弾圧策によって民族文化は窒息し、非妥協の消極的抵抗さえ困難になったので、すべての運動は地下に身を隠し、逮捕を免れる道を探すしかなくなりました。ですから、少なくとも朝鮮半島の内部では日本の徹底的な弾圧と統治により、ほぼ独立運動はできない状態にまで追い込まれていったということになります。このころからは外国における運動、海外に避難した人々の独立運動しか生き残れない状態になっていったのです。

 その海外における独立運動の中心が「大韓民国臨時政府」でありました。これは三・一独立運動の後に、海外で独立運動を進めていた活動家らによって、中華民国の上海市で結成された臨時政府のことです。「三・一運動で独立を宣言したからには政府がなければ恰好がつかぬ」という論が盛り上がって、各地の独立運動の闘士たちが上海に集まって、4月13日に「大韓民国臨時政府」の成立を宣言しました。これは三・一運動が起きてから一か月半足らずのことでした。これは初めは上海にあったので、「上海臨時政府」と呼ばれていたのですが、日中戦争勃発後は所在地を転々と移動し、最終的に重慶に落ち着きました。

韓国の独立運動と再臨摂理PPT03-6

 上の地図にあるように、上海→杭州→鎮江→長沙→広州→柳州→綦江→重慶と目まぐるしく移動していますが、これは日本の治安当局の捜査と中国国内の戦乱によって場所を転々とせざるを得なかったということです。

 この臨時政府の位置づけなんですが、韓国の主張と国際的承認の間には齟齬があります。現在の韓国政府は、大韓民国臨時政府の正統性を主張しており、大韓民国憲法の前文には「我々大韓国民は3・1運動で成立した大韓民国臨時政府の法統と、不義に抗拒した4・19民主理念を継承し…」と書かれているのです。しかし、韓国の憲法にも書いてあるこの主張は、国際的に認められていません。すなわち、連合国からも枢軸国からも、韓国は第二次世界大戦の参戦国として認められることなく、サンフランシスコ講和条約への署名も認められませんでした。その当時、この大韓民国臨時政府を承認した国は一つも存在しなかったということなのです。

 これは韓国にとっては大きな問題であり、このことの故に、日本に対する戦後補償の要求を「連合国」側に立ってすることができなかったのです。韓国の側には、自分たちはちゃんと「臨時政府」を作って連合国側で日本と戦っていたのだという自意識があるのですが、それを国際社会が認めてくれないことが韓国人にとっての「恨」になっているのです。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』100


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第100回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 前回をもって第六章「四 統一教会における霊界の実体化」の分析と批判を終え、今回から「五 統一教会の祝福」における櫻井氏の記述に対する評価を始めることにする。櫻井氏は「1 祝福の原理的意味」において、「統一教会の信者にとって祝福こそ信仰生活における最大の秘蹟であり、祝福を受けないのであれば統一教会にいる意味はないといってもよい。」(p.301)と述べている。これは基本的に正しい見解なのだが、何事にも例外が存在することは確認しておきたい。統一教会の信者の中には、さまざまな理由により祝福を受けられなかったとしても、なお信仰を維持している人々が存在する。具体的には病気や障害のためであったり、高齢であったり、夫の反対が極端に激しい壮年婦人であったり、祝福を何度も受けたがうまく行かず、また受ける決意ができない者であったり、多様なケースが存在するが、だからといって彼らにとって統一教会の信仰を持つことは「意味のないこと」ではないのである。人が信仰を持つ動機はさまざまである。祝福は確かに統一教会の信仰の中核をなすものであるが、すべてではない。

 続いて櫻井氏は祝福の実態を紹介する書籍として、全国霊感商法対策弁護士連絡会、日本基督教団統一原理問題連絡会、全国原理運動被害者父母の会編著『統一協会合同結婚式の手口と実態』(緑風出版、1997年)を紹介している。この本は、拙著『統一教会の検証』(光言社、1999年)のなかで批判的に取りあげており、このブログの「文献資料室」においても同書に対する私の批判的見解を読むことが可能なので、関心のある方は以下のURLを参照していただきたい。
http://suotani.com/materials/kensyou/kensyou-6

 続いて櫻井氏は祝福の原理的意義を解説するために統一教会の教義を極めて大雑把に解説するのであるが、そこには誤りと誇張が含まれている。まず、「メシヤの司式による『祝福』『聖婚』後の『合同結婚式』によって、人類の原罪を贖うと説いた」(p.301)とあるのだが、ここには言語や概念の混乱が見られる。これではかつて「祝福」や「聖婚」と呼ばれていたものが後に「合同結婚式」と呼ばれるようになったと誤解される恐れがあるが、この三つの言葉はそれぞれ異なるものを指している。

 まず「祝福」はマッチング、聖酒式、蕩減棒行事、結婚式、三日行事などを含む一連のプロセスを総合した言葉であり、これらを通過すること全体を「祝福を受ける」と言う。一方、「聖婚」は文鮮明師夫妻の結婚に対する呼称として用いられ、一般の統一教会信徒が祝福を受けることを「聖婚」と呼ぶことはない。そして「合同結婚式」は祝福の構成要素の一つであり、親族やマスコミにも公開して行われる最もオープンな行事である。櫻井氏は統一教会の研究者を自称しながら、こうした基本的な用語の意味を正確に知らないようである。

 続いて、「統一教会が説く神の摂理とは、性にまつわる堕落を性に関わる特別な儀礼により解消するということに尽きるかと思われる」(p.301-2)と櫻井氏はまとめているが、これは過度の単純化というものであろう。確かに祝福にまつわる行事の意味の要約としてはそういうことになるだろうが、それは神の摂理の全体像を表現してはいない。もし櫻井氏の言うことが本当なら、統一教会は祝福の儀式のみを行う団体であるはずだが、実際の活動領域はそれよりもはるかに広い。櫻井氏はこの本の中で、統一教会の特徴を事業の多角化とグローバルな事業展開の二点にあるとみており、「宗教団体でありながらも、多種多様な事業部門を有する多国籍コングロマリット」(p.164)であると表現しており、宗教団体としては稀有なほどに多方面にわたる活動を行っていると自ら述べている。もし神の摂理が特別な性の儀礼によってのみ成就されるのであれば、こうした広範な活動を行う理由も意味もないはずである。櫻井氏の記述は矛盾に満ちており、ここでは統一教会の教義が性に対する異常な関心を持つものであるとの印象を読者に与えようとして、意図的にこのような歪曲された表現をしているものと思われる。

 櫻井氏は「2 祝福の過程」において、①写真マッチング、②約婚式、③聖酒式、④結婚式、⑤蕩減棒、⑥聖別期間、⑦三日行事、の順で祝福のプロセスについて解説しているが、この中にも多くの誤りが含まれている。

 まず、マッチングのプロセスに関しては、かつては実体マッチングであったものが最近は写真と書類が本部から信者に送られて来るだけであり、「一般的に断る信者はいない」(p.302)という極めて粗雑な描写がなされている。このあたりは、マッチングの実態をインタビューと参与観察によって調査したグレイス博士の研究『統一運動における性と結婚』(1985年)と比較することによって一層明らかになる。

 グレイス博士の著作によれば、アメリカにおける初期の実体マッチングの様子は以下のようなものであったとされる。
①文師は行事の最初にスピーチをしたのち、東洋人とのマッチングを望む白人のメンバーに対して前方に出てくるように指示し、各人に対して東洋人の相対者を一人ひとり「推薦」する。
②次に、白人と黒人のマッチングを望む者に対しても同じプロセスが進行する。
③二人が文師によって組み合わされると、彼らはボールルームを離れて隣接した部屋に行き、マッチングを受け入れるか否かを決定するために、15分から20分にわたって話をする。
④もし彼らが文師の選択を肯定すれば、ボールルームに戻ってきて、初めに文師の前に、次に聴衆の前に頭を下げることによって受け入れたことを示す。
⑤マッチングを拒否したわずかな者は、リーダーの一人にただその決断を告げて、再びマッチングを受けるためにボールルームに戻ってくる。(前掲書『統一運動における性と結婚』 第5章「祝福:準備とマッチング」より要約。)

 このように、たとえ文鮮明師によって推薦された相手を受け入れるように教育がなされていたとしても、実際にはそれを拒絶した人はいたのである。これはアメリカに限ったことではなく、日本でも韓国でも同様であったことを、私は周囲の知人・友人の例を通して知っている。

 さらにグレイス博士は、マッチングのあり方に関する歴史的変遷についても触れている。彼によれば、アメリカにおける相対者の選び方は、初期の頃はその選択を完全に文師に委ねるのではなく、自分が選んだ人を認めてもらったり、4~5名の候補者の写真を選び、それを文師に渡して最終的な選択をしてもらうということもあったと記述している。日本の祝福の証しでも、777双までは自分の希望する異性の名前を5名まで書いたという先輩の証しを聞いたことがあるので、日米ともに初期のころはそうしたやり方が存在していたことになる。また、文鮮明師が聖和された後は、信者たちは教会のマッチング・サポーターの推薦を受けることになるのであるが、以前に比べてかなり本人の意思が尊重されるようになってきているという。したがって長い目で見れは、相対者の選択を全面的にメシヤに委ねたマッチングのあり方の方が歴史的に見て珍しく、貴重なものと言えるのかもしれない。その意味で櫻井氏の「写真マッチング」の描写は、かなり時代的に限定された情報を誇張して表現したものと言えるであろう。

 次に聖酒式に関してだが、櫻井氏はその意味について「娘の立場から相対者の立場へ変わることの意味は、その女性信者が文鮮明の花嫁になったということである。これが統一教会でいう「血統転換」の中身であり、復帰されたアダムであるメシヤを霊的に迎えて一体化し、愛の因縁を元に返すという。」「一般信者が祝福に対して抱くイメージは、文鮮明の霊的種を自分が宿し、原罪のない子を生むという観念である。そうである以上、その後に実際どのような男性と結婚生活を送ろうと、ある意味関係がない。霊的にはメシヤと結ばれた身の上なのである。」(p.303)というような極論を語っている。

 彼が語っているのはあくまでも祝福の意味に関する神学的な解釈であり、それが個々の信徒にどのように受け取られ、実際に彼らの信仰生活や夫婦生活をどのように規定しているかとは別の問題であることは、社会学的には常識である。にもかかわらず、櫻井氏はあえてそのギャップを無視して、すべての統一教会員の女性がどのような男性と結婚しようと関係ないと思っていると断言している。これは実際に信仰生活を送っている現役の信徒たちを参与観察したりインタビューしていないからこそ吐ける暴言である。

 統一教会の女性がメシヤの前に花嫁の立場になり、将来の夫となる男性に対して母親の立場に立つのは、祝福を受けてから家庭を持つまでの限られた期間のみであり、家庭を持ったのちには、文鮮明師を父として慕いつつ、自分の夫との夫婦関係を充実したものとするために努力するというのが一般的な統一教会の女性信徒の姿である。生涯を共に過ごし、子供を一緒に育てるパートナーである男性がどのような相手でもよいと本気で思っている女性が実際にどのくらいいるのか、櫻井氏はきちんとした社会学的調査を行っていない。そのような信徒像は、教義の神学的表現から演繹された、彼の妄想にすぎない。

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韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ02


 先回は植民地化された韓国本土を離れて外国で行われた独立運動を概観しました。それでは国内ではどういう運動があったかといえば、これが「三・一独立運動」ということになります。

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 三・一独立運動が起こった背景には、1918年1月にウィルソン米大統領が民族自決主義を骨幹とする平和意見14か条を発表したことがあります。この「平和意見」というのは、第一次世界大戦の和平実現のための原則として、ウッドロウ・ウィルソンというアメリカの大統領が主張した内容です。第一次世界大戦における連合国とドイツの間で締結された講和条約が「ベルサイユ条約」ですが、実はこの条約はウィルソンの平和意見に基づいて講和がなされたと言われていて、その中に民族が自分のことを自分で決定する権利、すなわち 「民族自決」の原則が謳われているのです。

 ところが、現実には当時の西洋諸国はすべて植民地を有していたわけですから、「民族自決」と言っても自己矛盾をはらんでいました。それでも帝国主義列強の一角であったアメリカが「民族自決」を容認したことの反響は非常に大きかったわけで、これが韓民族に大きな希望を与えるようになったわけです。すなわち、「ウィルソンの民族自決権の原則は、韓民族の血を躍動させた」とか、「この自決の原則が、武断政治に喘ぐ韓民族に熱烈に歓迎されたことはもちろんである。世界はまさに『威力の時代』を過ぎ、『道義の時代』が到来したと信じられた。民族自決の原則により韓国も独立できるとの希望が、それまで秘密裏に論議されていた独立運動を表面化させた」と言われています。ウィルソンの「民族自決」の主張に触発されて、三・一運動が起こったということです。

 この三・一運動が起きる前に、日本で「二・八運動」というものが起こっています。これは東京に留学した韓国青年による独立運動です。1918年12月28日に、東京神田の朝鮮キリスト教青年会館で在日朝鮮留学生の雄弁大会がありました。そこで、血気盛んな学生たちが、穏健で時間のかかる自治論よりも、急進的で即効性がありそうな即時独立論を支持する演説を行いました。これを受けて翌年の1919年2月8日に、李光洙ら留日朝鮮人学生たち約600名が朝鮮キリスト教青年会館に集まり、「独立宣言書」を採択しました。これは当然、日本の警察の取り締まりの対象になります。このとき警察と学生の間で衝突が起こり、30名が負傷し、60名が逮捕されました。このように、三・一運動の呼び水になるような運動がまず日本で起こったわけです。そして同じ年の3月1日に三・一運動が起きるのです。

 そもそも、なぜ3月1日だったのでしょうか? 実は、もともとは3月3日にやることが計画されていたのです。この3月3日がどういう日であったかというと、1919年1月22日に李朝末期の国王であり、大韓帝国初代皇帝であった高宗が亡くなりましたが、その葬儀に予定されていた日だったのです。そこで全国から葬儀のために人がいっぱい集まって来るので、その場で独立を宣言しようという計画が立てられました。

「運動の引き金となった高宗の葬儀」

「運動の引き金となった高宗の葬儀」

 ですから、初めは全国から大葬に参列する群衆にアピールする計画であったんですが、さすがにお葬式の日に「独立万歳!」と叫ぶのは国王に対して不敬ではないかということになり、それを避けるために3月1日に繰り上げられたということなのです。なぜ3月2日ではなかったかと言えば、その日が日曜日だったからです。独立運動家にはクリスチャンが多かったので、日曜日は礼拝を守らなければならないということで、結果的に3月1日になったので、「三・一独立運動」と呼ばれるようになったわけです。

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 それでは三・一運動がどんな運動であったかというと、天道教、キリスト教、仏教の指導者らによる合同の独立運動だったという意味において、かなり宗教的な背景を持った運動であったと言えます。民族代表33名が名前を連ねているわけですが、その中に天道教が15名、キリスト教が16名、仏教が2名います。人口比から言うと、かなりキリスト教指導者の占める割合が大きいと言えるでしょう。

 このときの「大韓独立宣言書」を起草したのが崔南善(1890-1957)という人物です。この宣言文は、「われらはここにわが朝鮮が独立国であること、および朝鮮人が自由民であることを宣言する。これをもって世界万邦に告げ、人類平等の大義を克明し、これをもって子孫万代におしえ、民族自存の正当なる権利を永久に所有せしむるものである。」という文言で始まる、非常に格調高い文章になっています。崔南善は文学者でもありました。

 この三・一独立運動の最大の特徴は、非暴力の運動であったということです。これは武装蜂起ではなくて、武器を一切持たず、宣言文を読み上げて、「大韓独立万歳」を叫ぶという示威運動であったわけです。ですから、日本政府から見れば、武装していないわけですから、鎮圧するのは非常に簡単だったのです。歴史の記録によれば、3月1日午後2時、泰和館に参集した代表29人の前で宣言書が読み上げられ、「大韓独立万歳」を三唱した、というのがその日の出来事です。発端となった民族代表33人はすぐに逮捕されたので、それ自体はある意味で静かな出来事でした。

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 しかし、発端となった民族代表33人は逮捕されたものの、パゴダ公園には数千人規模の学生が集まり、その後市内をデモ行進しました。道々「独立万歳」と叫ぶデモには次々に市民が参加し、数万人規模となったと言います。それくらい、独立を願っていた人々は多くいたのだということです。

 ここから韓半島全土に連鎖反応が起こっていきます。運動は初め朝鮮北部に波及し、その後南部に及びました。結果、朝鮮半島全体に広がり、数ヶ月に渡って示威行動が展開されたのです。3月から5月にかけてデモ回数は1542回、延べ参加人数は205万人に上る、非常に大きなデモに発展します。デモが多かったのは京畿道や慶尚南道、黄海道、平安北道などの地域でした。この平安北道はお父様の故郷でありますが、そこでも独立運動の為の万歳が多くなされたわけです。

 これに対し朝鮮総督府は、警察に加え軍隊も投入して治安維持に当たりました。それにともなって各地で流血事件が起こったのですが、一番有名なのが「提岩里教会事件」(4月15日)です。これは京畿道水原郡の提岩里というところにあるキリスト教会に信徒たちを押し込めて、30名を銃殺して放火するという事件でした。

 この三・一独立運動は1919年に起きたわけですから、日韓併合の9年目に起きたことになります。9年間おとなしかったのに、急にこういうデモが起こったということで、日本の当局は大変衝撃を受けました。そしてデモは韓国の国内にとどまらず、シベリア、上海、米州に飛び火して、独立運動の儀式と祝賀が、世界中に散らばっていた韓国人の移民によって行われました。

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 これに対して日本政府はどういう動きをしたのでしょうか? 空前の挙族的蜂起に直面して武断政治に行詰まりを痛感した日本政府は、文化政治への転換を図って第三代総督に斎藤實(さいとう。まこと)という海軍大将を起用しました。彼は後に第30代内閣総理大臣となる人物でありますが、言論・結社の規制の緩和や学校の拡充を図り、文化政治を推し進めました。つまり、それまでは力で抑えていたのですが、反抗が起きたので、一種の懐柔策として、ある程度の自由は認めましょうという形でこれをなんとか抑えようとしたのです。しかし、三・一運動によって民族感情を刺激された人々は、国内外においてさまざまな主義主張・形態の運動を、このときから1945年の解放まで継続することになります。

カテゴリー: 韓国の独立運動と再臨摂理

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』99


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第99回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 前々回から、第六章「四‐二 清平の修練会」に関する櫻井氏の記述に関連する内容として、清平修練会の特異な環境と一種の異常心理状態についての考察を開始した。今回はその3回目である。前回は宗教的修行の場における一時的な異常心理状態に対して、深い理解と洞察を得ることのできる資料として、町田宗鳳氏による『狂いと信仰』(PHP研究所、1999年)を紹介したが、今回はその続きである。

 かつて統一教会を元信者らが訴えた民事訴訟の中で、清平の修練会は「人為的に『霊体験』を参加者に引き起こすためのものであり、そのことによって、参加者の統一協会的人格をあと戻りが不可能なものに深化させるためのものである」とか、「変性意識状態(ASC)を意図的に作り出し、禅に言う『魔境』=一種の幻覚体験を意図的に作り出すための装置なのである」といったことが主張されたことがあったが、興味深いことに、町田氏の著作は、「変性意識体験」(ASC)にも言及しているが、その主張は統一教会反対派の主張とは180度異なるものである。
「非常に参考になるのが、オウム真理教徒が受けた洗脳を「変性意識体験(Altered States of Consciousness)」として分析する小田晋氏の研究である。彼は、洗脳が起きる条件として、八つの項目をあげている。
 (1) 感覚遮断(個室修行)
 (2) 睡眠剥奪(断眠)
 (3) 飢餓(低血糖及びアルカローシスによる意識低下)
 (4) 呼吸法による酸素欠乏及び過呼吸による血液のアルカローシス化
 (5) 様々な方法による権威と賞賛の相反するメッセージの洪水
 (6) マントラ(呪文)のような形での同一メッセージの反復注入による精神の自動化
 (7) 幻覚剤その他薬物の使用
 (8) 環境ビデオなど狭義の仮想現実の応用

 洗脳という言葉とは、およそ縁のなさそうな禅修行にも、これらの条件はほとんどそのままあてはまる。ということは、禅もまた『変性意識体験』の一形態であることになる。」(「狂いと信仰」p.37-38)。

 町田氏は著書の38-41ページにおいて、これら8つの項目について禅宗の修行内容を分析した上で、「変性意識体験」を構成する条件のすべてが禅宗の修行に当てはまることをあてはまることを説明した上で、以下のような結論を下している。
「このように坐禅が『変性意識体験』となる条件は、ほとんどすべて整っているのである。それがカルト集団のように洗脳と呼ばれることはなくても、坐禅という行為に参加することによって、修行者が特殊な心理状態におかれることは否めない。外部からの強制で起きる洗脳と、自発的な信仰上の回心は、ふつう異なるものとして受け止められているが、その心理変化の過程を注意深く観察すれば、そんなに厳密に区別できるものではない」。(「狂いと信仰」p.40-41)。

 このように、町田氏は「カルト」などと呼ばれる新宗教におけるいわゆる「洗脳」の過程と、伝統的な禅宗における修行において体験される過程は、容易に区別することのできないものであるとしている。すなわち、宗教体験と特殊な心理状態は普遍的に結びついているのであり、特定宗教における異常心理だけを他と区別して非難することはできないのである。それではこのように一見して異常心理のように見受けられ、心理学的にも「変性意識体験」と呼ばれる体験が、宗教的修行において見受けられることの本質的な意味はどこにあるのであろうか。町田氏の結論は、以下のようなものである。
「疑団、禅病、魔境など、禅の修行に付随する幾つかの精神的リスクについて述べてきたが、そのような事情は『虎穴に入らずんば、虎児を得ず』という禅話によっても古くから表現されてきた。獰猛な虎が住む洞窟に潜入するがごとき危険を冒さざるを得ないのが、本来の修行者の姿なのである。では、その『虎』とは何かということになるが、それこそ筆者のいうところの<狂い>である。」(「狂いと信仰」p.41-42)。
「しかし、禅にかぎらず、人の精神を日常空間から非日常空間へ解放することに宗教の第一目標があるはずだから、最初から最後まで道徳的教訓しか垂れない宗教があれば、それを宗教と呼べるかどうか、はなはだ疑問とせざるを得ない。」(「狂いと信仰」p.49)。
「戒律を重視し、禁欲的な実践修行をその教義の中心にすえる禅仏教でさえも、一皮めくれば、<狂い>の要素がいくらでも見つかるのである。別な言い方をすれば、理屈や道徳ばかりを説いて、<狂い>の要素をいくらかでももたない宗教は、磁力を失った磁石のようなもので、人を<救い>の世界に導き入れることもできなければ、そこに人が集うこともないだろう。」(「狂いと信仰」p.53)。

 これは「試練と恵み」という宗教における普遍的なモチーフの一種であり、宗教現象の本質的な部分の一つである。これらは二つで対を成して全体として宗教体験を構成する要素であり、そこから、「試練」や「狂い」に該当する部分だけを切り離して否定することは、宗教そのものを解体することにつながるのである。「試練」の要素を人為的に取り去ってしまえば、その後に訪れるはずの「恵み」「悟り」「救い」といった肯定的な部分も失われてしまうからである。

 立命館大学教授の斎藤稔正の論文「変性意識状態と禅的体験の心理過程」は、ASCと禅の修行中に起こる以上体験について扱ったものだが、彼の論文は禅宗の修行の中にこのような肯定的な部分があることを以下のように述べている。
「中でもとりわけ坐禅を通じての見性体験(悟りへの段階)は、他のASC現象とは部分的に共通性は見られるものの特異な創造的な体験である。またこの種の感動的な体験は、Maslow(1962)が指摘しているように至高の体験であり、人格の成長を促すような性質を持っている。」(斎藤稔正「変性意識状態と禅的体験の心理過程」、p.46)
「一見すると、異常性、病理性、現実逃避性、退行性の要素も見られるが、究極的には根源的意識の方向性をもった状態である。」(斎藤、前掲論文、p.46)
「確かに自我機能が低下してセルフコントロールが困難になった状態は、理性によって統制された社会の通念とは真っ向から対立する現象であることは言うまでもない。だが、ASCには一過性に精神病理的な症状に類似した現象が顕在化する場合もあるが、そこを通過してさらに深層へと意識が深化したときには、人間的に価値の高い創造的内容をも体験することができる。精神病者との相違はそれらの体験をしたあと、再度通常の現実に可逆的に戻ることができるという点である」。(斎藤、前掲論文、p.52)

 清平の修練会に参加した統一教会の信者らもまた、禅宗の修行者と同じく、肉体的な苦痛や精神的な葛藤などの「試練」を通過した後に、神との出会いや先祖の救いなどの「恵み」を受けているからこそ、わざわざ韓国まで繰り返し出かけていって修練会に参加しているのである。清平の修練会には自発的なリピーターが多い。単に人工的に恐怖体験を作り出して信者を精神的に拘束することだけを目的とした修練会であれば、多くの人々が何度も自発的に修練会に参加することはないであろう。

 また、清平の修練会に参加した信者たちは、修練会中に「霊体験」をしたとしても、それがその後の日常生活においても継続するわけではなく、修練会から帰ってくれば普通の日常生活に戻るわけであるから、これは斎藤の言う「可逆的」な体験であり、病的体験ではない。清平の修練会に参加する人々は、そのほとんどが健常者であり、精神病者ではない。精神病的症状を持つ者に対しては、修練会に参加することよりも、医学的な治療を受けることが推奨されているのである。そのために、清平の敷地内には「清心病院」と呼ばれる病院があり、こうした問題を抱えた信者たちに対応できるようになっている。このことからも、清平の修練会が病的な症状を人工的に作り出すことを目的としているのではないことは明らかであり、あくまでも健常者が修行を通じて宗教的体験をするための環境を提供しているのである。

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韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ01


 今回から、「韓国の独立運動と再臨摂理」と題する新しいシリーズの投稿を開始します。家庭連合(統一教会)の食口の方であれば、「主の路程」や「現代摂理史」というタイトルの話を学んだり、中には自分で講義するという方もいらっしゃると思います。その中ではお父様の生涯と韓国の独立運動は絡み合っており、韓国の解放と共に、すなわち日本が第二次世界大戦で敗戦した1945年から摂理が本格的に出発するという話があります。摂理史の中では、李承晩大統領がお父様を受け入れていれば最初の7年路程は勝利していたんだということになっていて、そのような漠然とした話は聞いていると思います。それが「摂理観」なんですが、それではその李承晩とはいったいどんな人だったのか、韓国の独立運動にはどういう流れがあったのか、また解放と同時に北に金日成が入ってきて、南北が分断されたのはどういうことだったのかというようなことを、ちゃんと歴史的事実に基づいて理解した上で、神の摂理に対する理解をしなければならないと思うわけです。

 そこで私は韓国の独立運動というものを本格的に勉強してみようと思ったわけです。そのためには、独立運動の史実に関する客観的な本を読まなければならないので、どれが一番良いかということを専門家に相談したら、最初に紹介されたのがこの本だったのです。

韓国の独立運動と再臨摂理PPT01-1

 佐々木春隆(1920-2005)という人が書いた、『韓国独立運動の研究』という本です。これは864ページもある本で、これを全部読みました。この本がいくらくらいするかというと、9000円くらいするんですね。ものすごく高い本なんですが、研究しなければいけないということで読みました。この人は1920年生まれですからお父様と同い年です。2005年に亡くなっています。熊本県生まれで、陸軍士官学校を出て、軍人として中国で5年8ヵ月にわたって戦闘に参加しました。1946年に復員するんですが、その後に防衛大学校教授になり、最後は京都大学の法学部であったという経歴の方です。この本は、1985年に初版が出されて、著者が亡くなった後に2012年に再版されたものです。ですから私が入手したのは結構きれいな本でした。これを全部読んで、なるほど独立運動の全貌というのはだいたいこんな感じなのかということが分かったわけですが、この本の目次によれば、一口に「韓国の独立運動」と言っても6つぐらいのカテゴリーに分けられるということなのです。

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 一つ目が、韓半島の国内における日本に対する抵抗運動としての民族運動です。次に、中国に「臨時政府」というものを立てました。上海に臨時政府があったという話は聞いたことがあるかと思いますが、その「臨政」を中心とする運動がありました。それから、アメリカに渡って独立運動をしていた人たちがいます。その代表的な人物が李承晩ということになります。

 それからこの「東満」というのは満州東部です。満州東部における民族派の武装闘争というものがあったわけです。これは実際に日本軍と戦っています。それから共産主義運動ですが、これは韓国の国内にもありましたし、国外にもありました。これは共産主義を中心として日本から韓国を解放しようという運動でした。最後に、「東満における中共党下のパルチザン」というのは正に金日成の運動です。

 このような、かなり目的や性格の異なる6つの独立運動があって、それらが複雑に絡み合いながらも、それぞれの目的に従って運動をしながら1945年を迎えることになります。この6つをあえて分類すれば、前の3つはアベル型の運動であり、神の摂理と直接関係のあるような運動です。そして後ろの3つは、どちらかといえば共産主義的なカイン型の運動であり、神の摂理を阻むような運動ということになります。

 このシリーズの目的は、これらの運動を一つひとつ歴史的事実を追って解説しながら、それが再臨摂理とどのように関わるのかを考察することです。初めに運動の全貌を簡単に概説してみましょう。初めに、アメリカにおける独立運動です。

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 米州での運動の中心は移民が多かったハワイと、カリフォルニア、ワシントンでした。その先達は徐載弼であり、安昌浩、李承晩らがこれに続きます。これらがアメリカに移住して独立運動を行った人々です。
 
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 その次に、中国における独立運動があります。つまり中国に逃れて独立運動を行った人々がいたわけですが、その中心は上海でした。だから「上海臨時政府」というものがあったわけです。けれども、当時の中国は1911年に起こった辛亥革命を控え、韓国の独立を助ける余裕はありませんでした。中国自体が内乱の状態にあったのです。1912年に清朝が滅びて中華民国が成立しましたが、1928年に蒋介石の北伐が完了するまで、中国は内乱に明け暮れたわけです。したがって、上海における独立運動は中国の力を借りるというよりも、租界(そかい)や国民政府の庇護の下にもっぱら世界の同情を得る外交運動の拠点であったと見て良いでしょう。この「租界」が何かといえば、清国内の外国人居留地のことです。そこではいろんな外国人が共同生活をしており、行政自治権や治外法権を持っていたので、独立運動家が紛れ込むには都合の良い場所だったのです。上海には上海の共同租界やフランス租界がありました。このフランス租界に身を隠して独立運動をやっていた人々がいたのです。

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 もう一つの流れがシベリアにおける独立運動です。シベリアには早くから韓国人が住みついていました。その中心人物がこの写真の李東輝という人です。李東輝は「韓族会」を結成して独立運動に火をつけました。こうしてシベリアにも独立運動が生まれるわけですが、シベリアはロシア領にあったため、ロシアが共産化されると、次第にこの独立運動にも共産主義思想が入ってきて、韓国の独立と変革を志向する人にとっては、共産主義が格好の思想的武器となります。そしてボルシェビキが東漸するに伴って李東輝、文昌範らは逐次左傾して、高麗共産党を創立しました。このようにシベリアに逃れた独立運動家は基本的に共産主義の影響下に入っていきます。シベリアの李東輝は共産主義で精神武装し、あらゆる手段で即時独立を勝ち取とろうとしていました。これは暴力革命を支持する共産主義者ですから、基本的に「武断派」です。共産主義の思想をもって武力で戦って、日本からの独立を勝ち取ろうとする考え方です。

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 もう一つが満州における独立運動です。朝鮮半島から鴨緑江と豆満江を渡ればそこには満州がありましたが、この地図で赤く塗った、豆満江のすぐ向こう側の地域は「間島」と呼ばれていました。この地域には、当時から韓国人が多数住んでいました。「間島」は中国の地名で言えば「吉林省延辺」ですが、そこの朝鮮族自治区を通称「間島」と呼んでいたのです。ここの地形はパルチザンに適しており、ソ連に近いため、武装闘争を志向した闘士はここを根拠に抗日運動を行いました。つまり、当時の朝鮮半島は日本の支配下にあったわけですが、そこからこの「間島」に逃れて、ここから武力闘争を展開する韓国人が多数いたということです。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』98


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第98回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 先回から、第六章「四‐二 清平の修練会」に関する櫻井氏の記述に関連する内容として、清平修練会の特異な環境と一種の異常心理状態についての考察を開始した。櫻井氏の中心的な主張は、清平の修練会は統一教会が人工的に作り出した特殊な環境であり、それは信者の中に一種の異常心理状態を作り出すことによって信仰を強化したり維持したりする装置であるということであった。前回は議論の大前提として、清平の修練会は客観的に見て、それほど肉体的に過酷なものではないことを説明した。それを前提として、今回から本題である宗教的修行と「異常心理」の問題に入ることにする。

 清平の修練会は、出家した僧のみが実践しうる禅宗の本格的な修行とは異なり、一般信者でも特別な資格や訓練を必要とせずに参加できるという点で、それほど精神的・肉体的に厳しいものであるとは言えない。しかし、これも一種の宗教的修行の場であるからには、禅宗の修行と類似した点があり、一見して異常な心理状態と見受けられる現象があることも事実である。「霊の姿を見た」とか、「霊の声を聞いた」とかいった体験は、宗教を信じない人からは異常に見えるであろう。しかし、こうしたことは古来より宗教現象においては広く一般に見られるものなのである。

 こうした宗教的修行の場における一時的な異常心理状態に対して、深い理解と洞察を得ることのできる資料が、町田宗鳳氏による『狂いと信仰』(PHP研究所、1999年)である。町田宗鳳氏は、1950年に京都市に生まれ、14歳で出家し、臨済宗大徳寺で修行を積んだ禅僧である。しかし1984年に寺を離れ渡米し、バーバード大学神学部修士課程修了後、ペンシルヴァニア大学中東・アジア学部で博士号を取得し、プリンストン大学東洋学部助教授、国立シンガポール大学日本研究学科助教授、東京外国語大学教授、広島大学大学院総合科学研究科教授などを歴任した、比較宗教学の専門家である。その町田氏が、「狂い」と「信仰」は切っても切れない密接な関係にあることを詳述した著作が前述の『狂いと信仰』である。「狂い」という概念は町田氏が宗教の本質を理解する上でのキーワードとなっており、冒頭で町田氏は「狂い」について以下のように説明している。
「宗教者の想像力には道徳があるなどというのは、まったくの思い過ごしであるばかりか、宗教体験の中で能動的に想像されるイメージとは、ほとんど<狂い>の産物といっても過言ではないだろうとさえ思うようになったのである。

 さて、私のいう<狂い>の意味であるが、それは理性では覆いきれない人間性の最も奥深い闇の中で、不気味にトグロを巻いている何物かである。それは精神病理学的な意味での狂気と重なるところがあるかもしれないが、<狂い>はつねに病的症状を伴うわけではないから、狂気とまったく同じではない。」(「狂いと信仰」p.8-7)

 自ら禅宗の修行を実践した町田氏はこの著書の中で、一種の「狂い」とみなすことができる修行中の異常心理状態について、以下のように述べている。
「坐禅を心身の健康法のつもりで、一般の人たちが実行することに何の異論もないし、むしろ、落ち着きのない現代人の生活における一服の清涼剤として大いに推奨したいぐらいである。坐禅や静坐の効能は、脳波の研究からも証明されており、通常の意識状態であるβ波から、気分の良好なときに現われるα波、さらに振幅の小さいθ波へと移行していくことが、明確に測定されている。そのような坐禅を目頃から実践すれば、健康にもプラスであることは、ほぼ間違いない。

 しかし、ひとつの精神的覚醒をめざして、真剣に禅修行をするということになれば、話は別である。修行中には、凄まじい心理的葛藤と一種の精神不安定を経験することがあるから、それ相当の覚悟がいる。禅宗は、ときに意志宗と呼ばれたりするほど、強い意志を要求する宗教なのである。

 修行過程で生じる心理的葛藤は、ふつう疑団(ぎだん)と呼ばれるが、英語ではグレート・ダウトと訳されるように、それは特定の概念や理論への懐疑ではなく、自己存在そのものに対するもっと根源的な不安である。・・・

 曹洞禅では、只管打坐(しかんたざ)といって、ひたすら面壁し、自然に禅定が深まっていくのを待つが、臨済禅では、公案と呼ばれる論理的につじつまの合わない問題を修行者に与えて、人工的に心理的葛藤を起こし、そこから意識の飛躍を期するところがあるから、疑団は曹洞宗よりも臨済宗の修行者のほうが経験しやすい。

 公案といっても、『空の星を数えてみよ』、『虚空を粉にして持ってこい』、『鍵の穴から入ってこい』などの頓智めいたものから、『父母が生まれる以前、自分の本来の姿はどういうものであったか』などと、やや哲学めいたものまで、内容は千差万別であるが、共通しているのは矛盾に満ちた問いかけであることである。

 そのような非論理的な問題提起がなされている公案に対して、人間の思考はほとんど反射的に論理的解決を見出そうとする。二律背反的思考を砕くために設定されている公案は、初めから論理的解決が不可能な構造になっているわけだから、それに集中すればするほど、どうしても心理的に行き詰まってくる。そのような膠着状態が何カ月も長引くと、修行者は鬱病にかかったように、重苦しい雰囲気に包まれる。食欲が落ち、何を見ても問いても、心楽しむということはなくなる。精神医学でいう離人症的な傾向も出てきて、人と語らうことすら苦痛になる。

 さらに、接心と呼ばれる集中的な修行期間では、そのような心理的葛藤に、極端な睡眠不足、空腹、疲労、寒熱などの肉体的負担が加わるため、いよいよ心身ともに異常をきたしてくる。疑団は、公案を放棄するか、その解答が見つかるかするまで解消されることはないが、ひとつの覚醒にいたるには、どうしても避けることのできない心の試練なのである。そして、抱え込んだ疑団が大きければ大きいほど、悟りの深さも増すというのも、また真理である。」(「狂いと信仰」p.27-28)
「鬱病的傾向を見せる疑団とはやや趣きが異なる禅病という心身症にも、禅の修行者はかかることがある。それは肉体的精神的負担が大きい修行を長期間にわたって続けるうちに、心身が消耗し、ついには神経衰弱になることである。」(「狂いと信仰」p.30-31)
「鬱病としての疑団や神経衰弱としての禅病に加えて、さらに魔境という幻覚現象も、禅修行にはつきものである。なぜそういうことが起きるかというと、坐禅中に意識が沈潜していくにつれて、今までは自分の深層意識の奥深くに抑圧されていたイメージや感情が、表層意識に急に突出してくることがあるからである。」(「狂いと信仰」p.32-33)
「しかし、古今東西の宗教が、肉体の極限状況と超常現象を宗教体験の中に、うまく取り入れてきたことは明白である。禁欲的修行には、断食・断眠・水行など、さまざまな形態があり、それらはたいてい贖罪の意味をこめて実践されている。肉体を痛めつければつけるほど、罪があがなわれるという信仰である。

 それと同時に、禁欲のもう一つの目的は、心身の消耗に伴って、意識と無意識の境界線が曖昧になってしまう生理現象を利用して、絶対者との一体感を体験することにおかれているのである。中世初期の仏教者によって書き残された幾つかの『往生伝』にも、木喰行や断食行に専念する山林の修行者の話がよく出てくるが、彼らの死すらをも覚悟した極端な禁欲の狙いは、極楽の光景や、そこから来迎する阿弥陀如来を目撃することにあったのである。当然のことながら、禅の修行者も、たらふく食べて、存分に睡眠をとってから、坐禅をしたところで、おそら<悟り>にはいたることはないだろう。修行には、<狂い>にいたるだけの舞台仕掛けが必要なのである。」(「狂いと信仰」p.36-37)

 ここで重要な点は、禅宗に代表される伝統的な宗教も、宗教的体験を引き起こすための舞台仕掛けを人為的に作ってきたということである。それには肉体的苦痛と心理的葛藤が付き物であり、鬱病や神経衰弱といった精神病のリスクさえも伴う。櫻井氏は、清平の修練会はこうした異常な心理状態を意図的に作り出している旨を主張しているが、これはそっくりそのまま伝統的な禅宗の修行にも当てはまることであり、それ自体を非難することはできないのである。

 宗教的修行と「異常心理」に関する町田氏の解説は、さらに次回に続く。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳44


第5章 祝福:準備とマッチング(13)
 
 第二に、統一教会のリーダーシップが個々のメンバーの生活に及ぼす力と影響力は、メンバーに結婚の準備が出来ていると認定されるプロセスによって疑いなく強化されている。1979年のマッチングにおいては臨時特別委員会がメンバーの資格の有無を決定したが、メンバーにマッチングと祝福を受ける資格があるか否かは、地方のリーダー(「中心者」)が決定するというのが一般的なパターンであった。事実、一部のリーダーがこの特権を公平に行使することができなかったというのが、祝福委員会が設立された理由の一つであった。結婚するためにはリーダーの承認が必要なメンバーは、より多くの時間と努力を彼らのさまざまな使命に投入する傾向にあった。そして、カンターが言ったように、「われわれは、メンバーの報酬が努力の投入を通してグループの成功と固く結びつけられているような運動において、より強固に献身的なメンバーを発見することができるであろう。」(注75)

 第三に、1979年に実施された順番の変化(マッチング→祝福→聖別→家庭出発からマッチング→聖別→祝福→家庭出発への変化)は、その摂理的な意味がどうであれ、グループがその結婚に対するアプローチを西洋文化の支配的なパターンに順応させることを可能にしたのである。その変化はまた、「放棄」(それは片方のパートナーが運動を離れたときに起きる)あるいは男性と女性の極端な性格の不一致によって壊れたマッチングを無効にする(破棄する?)機会を提供する。(注76)

 第四に、マッチングと祝福を受けた個人は、とりわけ未婚の兄弟姉妹たちの目から見て、グループの中における新しい地位を獲得する。また、結婚することはヒエラルキーの中でメンバーが中心的な指導者の地位に上がって行くための事実上の前提条件である。

 第五の検討事項は明らかではあるが、重要性において劣るわけではない。少なくとも三年間で初めて、マッチングを受けたメンバーは他の人間と恋愛感情を自由に育てることができ、その関係は理想的には結婚における積極的な性生活に最終的に至るのである。調査によれば、恋愛関係に対する欲求は未婚のメンバーの間で相対的に強いことが明らかになった。(注77)マッチングを受けることがこの欲求を満たす機会を提供するのである。実際、第6章で見るように、多くのメンバーが家庭出発の前に不可避的に恋愛感情が育つものであると仮定している。メンバーたちは一般的に運動に対して深く感謝しており、特に彼らにこの機会を与えてくれたことを「お父様」に感謝している。

 最後の検討事項は、マッチングのプロセスを認可する、神学的、神秘的、結果的という三つの様式からなる正当化と関連している。自国における統一運動の研究に数年間を費やしたイギリスの社会学者アイリーン・バーカーは、「統一神学は権威を正当化し、許容可能な性格と行動の範囲を明確に分類して定義し、グループと個人の目標を表現する世界観の提供を通して、グループの構造を維持する上で肯定的な機能を果たすように機能している」(注78)と論じている。これはマッチングと関連する神学においては、とりわけ真実である。その手続きがもつ事実上すべての詳細とニュアンスが、何らかの形の霊的な意味に満ちている。例えば、文師の1975年における3600人のマッチングは、わずか2時間ほどしかかからなかった妙技であったが、外部の者には気まぐれな大衆扇動の表現に見えたに違いない。ところが、その出来事に参加したメンバーは自身のマッチングに対する文師の自己評価に強く同意するであろう。「お父様には、恣意的な気持ちは一切ありません。お父様にとってはすべてが原理通りに動いているのです」(注79)グループのイデオロギーは、なぜ最初にマッチングを受けた人から拒絶される人も存在するかについての説明または正当化さえも提供する。
「人が不規則で奇妙な性格を持っていればいるほど、彼の相対者として理想的な人を探すのは難しくなります。真の父母様(実際には文師)は彼の性格を様々な角度から考慮し、この性格やあの性格を補完するような結婚相手を探さなければなりません。」(注79)

 この発言が示唆するように、統一思想による正当化の可能性は事実上無限であるように思われる。(注80)

 グループの結婚へのアプローチの正当化は、マッチングの儀式に連動して起きるさまざまな種類の特別な霊的経験の中にも発見することができる。最後に、メンバーたちは彼らの結婚の実際によって結果的な承認を見いだす。すなわち、運動の中で縁組みされた結婚がうまく行っているとみなされているということだ。ここで彼らは年長の祝福家庭にみられる霊的な成熟や幸福、非常に明るくて健康な子供たち、そして運動における極端に低い離婚率を指摘する。(注81)

 これら6つの求心的な要因が信仰の維持とグループの結束にとってプラスに働くことは、われわれの調査データによって強く裏付けられた。しかしながら、このグループの結婚に対するアプローチは、ときにはメンバーの献身を妨げるような二つの求心的要因によって特徴付けられる。その一つ目は、マッチングの前に生じる恋愛感情である。グループの宗教的理想と社会構造は、独身メンバー間に排他的な関係が発展するのを強く阻止するようなものであるが、証拠が示しているのは、恋愛感情に基づく二人の結びつきはしばしば実際に起きているし、それが起きたときには、ある人が(「恋愛的には」)誤った人とマッチングされたケースのように、運動にとって厄介なことになるのである。われわれは第6章において、そのようなミスマッチがいかに扱われるかを示すであろう。

 機能不全をもたらす第二の要因は、結婚をより大きな共同体の家族的な全体性に対する潜在的な脅威であるとみなしているメンバーも存在するという事実に宿っている。この認識がオークランド・ファミリーにおいては明らかであるであることは既に報告した。同じような懸念が、「ほとんどのメンバーが彼らの結婚と家庭の形成を、義務である三年間を超えて延期することを予測した」(注82)ことを示した最近の調査におそらく反映されている。マッチングされる以前でさえ、メンバーたちはいかに結婚というものが宗教的共同体全体に対する彼らの献身を脅かし得る、二面性を持つものであるかということに気付いているのである。

 本章においてわれわれは、マッチングの儀式への準備と参加が、統一運動の「包括的サブカルチャー」に対する個々のメンバーの関与と献身を強化する上で助けになることを見てきた。恋愛感情と強力な共同体主義的な先入観は、その包括化プロセスを弱体化させる可能性があるけれども、圧倒的大多数のメンバーは夫や妻としての彼らの新しい役割を、運動の終末論的な志向性のまさに中心をなしている世界の救済者としての役割と統合することに成功している。

(注75)ローザベス・モス・カンター「至福千年説を信じる運動における献身と内的組織」『米国行動科学者』(16号、1972年)、p.229。
(注76)性格の不一致を理由にマッチングを破棄するのは非常に例外的なケースのみである。面白いことに、ほとんどのメンバーがそんなことはあり得ないと信じている。
(注77)ブロムリー、シュウプ、オリバー『完璧な家族』p.123。
(注78)アイリーン・バーカー『統一原理を生きる』p.78。
(注79)郭錠煥牧師『理想家庭になる』p.35.
(注80)アイリーン・バーカーは統一神学は統一運動の中で本質的に独立した変数として機能していると論じている。これはある程度は真実であるが、ひらめきを与えられた実践的なリーダーが変化を正当化したり、グループの現在進行中の生活の中で生じる問題に対処するために変形できる「パテのように変幻自在の」性質を有するという意味において、それは依存した変数でもある。
(注81)この要因は第6章において扱われるであろう。
(注82)「25%がもう一年間待つことを期待し、23%が二年間待つことを予期し、35%が結婚前に三年間過ごすことを期待した。そして19%が三年以上待つことを予期した。」ブロムリー、シュウプ、オリバー『完璧な家族』p.123。

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