『生書』を読む09


第四章 神の御指導

 天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るシリーズの第9回目である。今回から「第四章 神の御指導」の内容に入る。大神様が天地いっさいの神が天降られる生き神となられることについては、既に昭和19年3月に平井氏がご神託を受けてそれを直接大神様に伝えていたが、その時点では大神様はそんなつもりはないと否定された。ところが同じ年の5月4日になると、その前兆となる不思議な現象が起こり始めたのである。
「この日から自分以外の何かが、肚の中に入ったのであろう。肚の中でいろいろと、ものを言い出したのである。自分の意識は、はっきりしていて他のあるものが、肚の中で教祖に話しかけて命令するのである。」(p.48)

 大神様は最初その肚の中のものを邪神だと思い、それを落とそうとしたようである。肚の神様は自分のことを「とうびょう」と言われたので、平井氏にそのことを伝えると「蛇の性根のことだ。落としてあげよう。」と、とうびょう退散の祈念をやったが、効き目はなかったという。大神様の親戚にあたる寄林登喜氏は、大神様のことを心配して、津和野の神官で法力があることで有名な人がいるので、そこに行って落としてもらったらと進めたそうである。しかし、肚の神様は「日本国中、いや世界中わらじがけで探して歩いても、わしを落とす者はおりはしない。津和野の神主ぐらいで落ちるものか」と言ったという。このように、教祖に下った神様を、最初は素直に受け入れることができず、狐か狸の類ではないかと疑って落とそうとしたのである。

 この辺の展開は、天理教の教祖である中山みきの歩みとよく似ている。天理教の出発点は、中山みきに「元の神、実の神」と名乗る神が下り、「みきを神のやしろにもらいうけたい」と夫や家族たちに迫り、「もし不承知とあらば、この家、粉もないようにする」と言ったことにある。一度は承服した夫善兵衛であったが、これは神ではなくて単なる「憑き物」かもしれないと思い、狐憑きを落とす要領で松葉でいぶしてみたが、何の効果もなかったという。さらには村の役人仲間が憑き物を落とそうと荒療治をしたりしたが、効き目はなかった。神のやしろとなったみきは、中山家の財産をすべて売り払って貧しい人々に寄進しようとしたので、善兵衛はある日、刀を抜いてみきに迫り、「つきものならばさっさとおりよ。気が違っているなら正気に戻ってくれ」と叫んだという。それでもみきが折れなかったので、これは狐狸のしわざではなく、真実の親神であると受け入れたのである。このように、教祖に下った神は最初から歓迎されるのではなく、むしろ疑われ、疎まれ、迫害されるというプロセスを経ながら、次第に認知されていくのである。

 天理教も天照皇大神宮教も日本的一神教と言ってよい宗教であるから、その神はキリスト教的な絶対神、創造主に近い存在である。しかし、日本の宗教伝統にはそのような神のカテゴリーはないので、周囲の人々には理解できず、邪神か狐であろうと思って、お払いによってこれを落とそうとしたという共通の反応がここには見られる。

 『生書』に描かれている肚の神様は、なかなか面白いキャラクターである。ビタミンやカロリーの話をしながら近代的栄養料理を教えてくれたり、「水をかぶるばかりが行じゃない。水をかぶるのが行じゃったら、川の魚はみな天に上るはずじゃが、一生涯川にいても天に上れるんじゃない。」(p.53)というような頓智の聞いた話をする存在である。しかし、この時点で天照皇大神宮教の教えの中核的な部分は既に啓示されている。それはポイントだけ列挙すれば以下のような内容である。
①「しんこう」とは信じ仰ぐのではなくは、「神行」(神に行く)と書き、魂が清らかになって神に行くことを言う。
②神の肚と人の肚が正しく合うことを「合正」(がっしょう)と言う。
③少し名のある女が天から法の連絡をとって結するお経を「名妙法蓮華結経」と言う。
④神を知らない世俗の人々は蛆の乞食である。
⑤神行の目的は真人間になることである。

 肚の神様に出会うことによって大神様に訪れた変化は、人格の変容であった。これはいわゆるシャーマン型の教祖にはよくあることで、憑依しているときには人格が変わるのである。「自分の体でありながら、自分の意志どおりにならなくなった」(p.53)という言葉がその状況を端的に物語っている。もともと人間としての北村サヨ氏は非常に礼儀正しい謙虚な人であった。しかし、肚の神様が入ってからは、悪口は口に出し放題、旧知や肉親の人でも、肚の神様が気に入らなければにらみつけて挨拶もせず、立ち話もしなくなり、人を呼ぶのに「さん」とか「様」とか敬語を使わなくなったのである。そういえば、大神様が総理大臣に向かって「おい、岸!」と呼び捨てにした話は有名である。

 そればかりではなく、たいていの人に向かって「蛆の乞食」「ほいとの乞食」「国賊の乞食」とか呼ぶようになったのである。このように上から目線で人に対するようになるのは、神と一体となった時のカリスマ的教祖がもつ共通した特徴であると思われる。「北村さんは信仰にのぼせすぎて、神経(気違い)になった」というのがもっぱらの評判になったようで、これには人間としての北村サヨ氏は非常に悩み、いっそのこと腹かっさばいて死のうとまで思ったようである。

 大神様はある朝、青物集荷場に行かれ、上の方によい品を揃え、下の見えない所には悪い品を隠して積んである野菜を、片っ端からひっくり返して歩かれた、という話が出てくる。不正を働いている商売人や百姓に対してこっぴどく怒鳴られたということである。この物語の真偽を疑うわけではないが、これもまたキリスト教の『新約聖書』の「宮清め」の出来事を彷彿とさせる物語である。以下にその部分を引用する。
「それから、彼らはエルサレムにきた。イエスは宮に入り、宮の庭で売り買いしていた人々を追い出しはじめ、両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえし、また器ものを持って宮の庭を通り抜けるのをお許しにならなかった。そして、彼らに教えて言われた、「『わたしの家は、すべての国民の祈の家ととなえらるべきである』と書いてあるではないか。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」。祭司長、律法学者たちはこれを聞いて、どうかしてイエスを殺そうと計った。」(マルコ11:15-18)

 この物語において、イエスが宮清めを行った理由は、神殿は本来は祈りの場であるべきなのに、商売の場にされてしまっていることに対する怒りであった。すなわち宗教的な動機ということになるが、大神様の怒りはより道徳的なものであり、商売の不正に対する怒りであった。しかし、イエスの物語においても、神殿の中でなされる商売が利権とつながっており、神殿の礼拝に必要なものを販売する売り場では、いけにえの動物や鳥などが市価よりも高めに売られており、両替の手数料も割高に設定されていたので、「宮清め」の動機にはそれに対する怒りも含まれていたと言われている。その意味では、この二つの物語には共通点があるのである。

 大神様が人々に対して「蛆の乞食」「ほいとの乞食」「国賊の乞食」などど上から目線で悪口を言うようになったという話も、イエスの律法学者やパリサイ人たちに対する暴言ともいえる非難と共通するところがある。
「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈りをする。だから、もっときびしいさばきを受けるに違いない。偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。」(マタイ23:13~17)
「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の碑を飾り立てて、こう言っている、『もしわたしたちが先祖の時代に生きていたなら、預言者の血を流すことに加わってはいなかっただろう』と。このようにして、あなたがたは預言者を殺した者の子孫であることを、自分で証明している。あなたがたもまた先祖たちがした悪の升目を満たすがよい。へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか。」(マタイ23:29~33)

 常識的には、イエスはかなりひどいことを言っていることが分かる。しかし、それを通して聖書が言いたいのは、イエスが非人格的だったということではなく、偽善者に対する神の義憤がイエスの口を通して語られているということだった。「蛆の乞食」にしても、「へびよ、まむしの子らよ」にしても、神の視点からこの世の人々を見たときに、どのように見えるのかを率直に表現している言葉であり、世俗的な観点から「暴言だ」とか「失礼だ」とかいう評価を超えた次元の発言である。教祖の言葉とは、まさにそのようなものであろう。

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『生書』を読む08


第二編 救世主になられるまで 第三章 火事と日参詣で

 天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るシリーズの第8回目である。今回から「第二編 救世主になられるまで」の内容に入り、その中の「第三章 火事と日参詣で」の内容を扱う。それまでは働き者で人望が厚かったとはいえ、ごく普通の愛国的な婦人であった大神様が、宗教の世界に目覚めていく過程がこれから描かれるわけである。と言っても、大神様はもともと信心深い人物であり、寺の世話をよくし、念仏を唱える生活を送っていた。しかしそれはあくまでも信徒としての行であり、教祖として教えを説いていたわけではない。それはまだ「肚の神様」との決定的な出会い、神託というものに触れていなかったからである。

 大神様を神体験へと導くきっかけとなった出来事は、火事であった。それは昭和17年7月22日の夜明け前のことであった。大神様が気付いたときには離れ屋敷が物凄い勢いで炎上しており、手遅れの状態であった。これを見た大神様は清之進氏に、「もうだめだ、お父ちゃん。裸で生まれたんじゃから、裸になると思やあよい。」(p.33)と語ったとされる。なんとも潔い発言だが、この言葉は旧約聖書に出てくるヨブの言葉によく似ている。
「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(ヨブ記1:20)

 これはヨブの身に災難が起きたときの言葉であり、状況とその受けとめ方が非常によく似ているだけでなく、言葉の使い方も似ている。私はかねてから天照皇大神宮教にはキリスト教の影響があるのではないかと思ってきたが、ここにもその片鱗を見ることができる。

 幸いにも火事は離れ屋敷だけに留まり、母屋は無事であったが、このことが大神様に与えた衝撃は大きかった。それは何よりも先祖から受け継いだ財を焼いてしまったということと、世間を騒がせてしまったことに対する責任感からくるものであった。こうして悶々としていた大神様が相談に行ったのが、平井憲龍という加持祈祷師であった。この人は伏見官幣大社稲荷神宮付属講社余田支部という小さな祠で加持祈祷を行う人であった。系列としては京都にある伏見稲荷大社に属することになるが、これはおそらく政府の宗教政策上どこかの傘下に入らなければ活動できなかったという事情によるものだと思われる。本質的には占いや呪術という性格のものだが、表向きは稲荷神社に属していたということだ。彼は「その法力が当世第一という町の評判」だったということであるから、占いが良く当たるということで大神様も相談に行ったのであろう。もとより日本は神仏習合の国であるから、家の信仰が真宗であるからと言って、稲荷神社の祈祷師に相談に行くことに抵抗はなかったであろう。むしろ、占いが当たることの方が重要であった。

 平井氏は、今回の火事の原因は放火であり、北村家に恨みを持つ近所の人が犯人であるという神のお告げを伝えた。そして「その犯人は、あなたが一年間月参りをされたら出てくる」(p.36)とも言ったのである。正義感と負けん気が強い大神様がこれを聞いて思ったのは、「神仏に掛けて、必ず事の黒白を明らかにしよう」(p.36)ということであった。そのときから大神様は氏神様の八幡宮に丑の刻の日参詣りを始められた。

 火事と日参詣でに関する物語のポイントは「動機の転換」である。平井氏から家事が放火によるものであると告げられたときに大神様の胸に去来した思いは、正義感からくる悪に対する裁きであっただろう。放火は重大な犯罪であり、それによって多くの財産が失われたわけであるから、犯人はそれに対する罰を受けなければならない。生来正義感が強く、善悪をはっきりさせなければ気が済まない性格の大神様は、犯人を白日の下にさらし、裁きを受けさせなければならないと思ったのである。「早く放火の黒白をつけ、あの焼けたるあらゆる物におわびをしたい、また今の世の人のいましめとしたい。」(p.39)という言葉からも、犯人が見つかり、正当な裁きを受けることによって決着をつけたいという思いがあったことが分かる。同時に火事の原因が自分の火の不始末によるものではないことを明らかにして名誉を回復したいという思いもあったであろう。犯人に対して損害賠償を請求しようと思っていたかどうかは、『生書』には記されてないので分からない。いずれにしても、日参詣りを行った動機は犯人探しという半ば世俗的なものであった。

 ところが修行を行う中で大神様の心境は次第に変化していく。一言でいえば、犯人探しという特定の目的のために行っていたお参りが、次第にそれ自体に喜びを感じるようになっていったのである。その頃の大神様の日記には行に対する感想が記されている。
「なんだか真のしんこうというものの味がわかったような感じがした。心がすがすがしく、あらゆるものが、みな自分の味方であるような感じがして、とても楽しく、なんだか人の世界からぬけ出て、神の世界にでも登るような、なんともいえない新しい気持ち一ぱいで、帰りはお稲荷様にお参りして帰った」(p.37-38)
「この頃は水をかぶる度ごとに、身も心も清らかになり、すがすがしいよい気持、世の中のこと何一つ思いがなくなって、ただ神様におちかい申す、この身体も心も清らかになれ、という気持ばかりが一ぱいで、なんの余念もなくなった。…夢のように、ぎいっと、神前の戸の開くような音が聞こえた、と思うと不思議なお知らせがあったような思いがした、と思うと我に帰ったような気になった。」(p.38-39)

 このように日記の中では大神様が丑の刻の日参詣りの中でなんとも言えない歓喜を感じるようになり、それが増していく様子が描かれている。一方でこうした行を一年間続けても、犯人は出てこず、放火の黒白はつかなかった。こうした中で、大神様の関心は犯人探しから宗教的な事柄にシフトしていくのである。それは平井氏の影響によるものでもあった。『生書』には以下のように書かれている。
「一方、教祖は平井氏に接せされて、霊界のことに異常の関心を寄せられるようになった。教祖は火事があった前から、祖先は生きたものとして接しられたが、平井氏のところに行かれ始めてから、霊界の実在をつくづく感じて、それを徹底的に探求しようと志され、暇を見ては平井氏のところに通われるのであった。」(p.41)

 最終的には行の「動機の転換」は、放火の犯人を許すことによって訪れた。当時田布施町の隣町の平生署に清水嵐という警部補があり、この人物は大神様から子供のようにかわいがられていたのだが、彼があるときふと「放火の犯人を許されたら」と言ったのである。これをきっかけに、行の動機は完全に転換された。
「教祖は、まだどこか頭の中に残っていた放火犯人のこともきれいに捨てられ、自分がこれだけ行ができたのも、帰するところ火事があったればこそと、放火犯人に対しての恨みを感謝に変えられたのである。そして丑の刻参りも、水行も、ますます一心に続けられた。」(p.43)

 姑のタケさんから受けた酷い嫁いびりを修行にかえてしまわれたように、放火によって財産を失うというネガティブな出来事も、大神様は自分が行を始めるきっかけになったと意味づけて、感謝にかえてしまった。これはことわざで言えば「禍を転じて福と為す」ということになろうが、宗教の世界ではよくある発想である。むしろ、恨みを恨みのまま残しておいたのでは教祖のストーリーとはなりえないであろう。人間の悪なる所業も、最終的には見えざる神の手によるものであると昇華させてこそ、宗教的なストーリーになるのである。

 結果的には、火事の一件は大神様に修行の機会を与え、教祖としての霊性を磨くためのプロセスとなった。修行を行う中で大神様の動機は転換され、一心不乱に神を求める方向へと精神を収斂させていったのである。

 このころ、平井氏は大神様のことでご神託を得ている。昭和19年3月のことである。
「北村さんは、この講が始まって以来ない不思議な方じゃ。天地いっさいの神が天降られて、この世から生き神になられる。今まで因縁が切れていなかったので、世のため人のために尽くされたことが、かえって仇となり、人から恨まれるようなことが多かったが、今度はそれが一度に花を咲かせ実を結び、みんなから慕われる方になられる。」(p.44-45)

 これに対して、大神様は即座に「わしはそんな者になろうとして、行をしておるのではない。」(p.45)と答えられている。大神様自身にはまだ自覚がなくとも、平井氏が神からの啓示を受けて、大神様がやがてなるべきものについて予言をするという形になっているのである。大神様が「肚の神様」と出会うのは、それからもう少し後のことであった。

 この平井氏と大神様の関係は新約聖書における洗礼ヨハネとイエス・キリストの関係に似ている。イエスは一度はヨハネのもとに行き、バプテスマを受けるが、これはイエスがヨハネに弟子入りするのと同じような行為である。しかしヨハネは後にイエスについて、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。『わたしのあとに来るかたは、わたしよりすぐれたかたである。わたしよりも先におられたかたである』とわたしが言ったのは、この人のことである。」(ヨハネ1:29-30)と語っている。平井氏もまた、一時的には大神様を指導する立場に立ったが、後には大神様を証しする立場に立ったのである。

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『生書』を読む07


第二章 主婦としての続き

 天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るシリーズの第7回目である。前回は大神様が姑のタケさんから様々な試練を受けながらも、最終的には屈服させた歩みを、統一原理における「長子権復帰」や「サタン屈服路程」と比較して解説した。これはある意味で歴史的な義人、聖人、教祖たちが歩んだ典型路程であり、大神様も家庭的な次元でその道を行ったのであると理解できる。

 『生書』は、救世主になられる前のその後の大神様の歩みを簡潔に記しているが、その姿は「模範的な日本国民」と言ってよいものであった。まず個人においては大変信心深い人であった。北村家は元来真宗であったが、大神様はその寺の世話をよくし、仏壇の前で毎日念仏を唱える生活をしたという。次に家庭においては模範的な親であった。一人息子の義人氏に対しては、甘やかすことなくしっかりとした教育を行った。さらに大神様には進取の気性があったようで、早くから自転車に乗り、料理や洗濯の新しい知識を取り入れ、発動機をはじめとする農業の新しい技術も積極的に取り入れていたようである。古い伝統に縛られず新しいことに挑戦していくのは、一つの教祖的な気質であると言えよう。

 『生書』は大神様が主婦として歩んでいた時代に、満州事変、五・一五事件、二・二六事件、日支事変などが起こり、日本が戦争の泥沼に突入していったことを伝えているが、あくまでも客観的な時代背景として伝えているだけであって、戦争や当時の日本政府のあり方に対する批判的なトーンは存在しない。大神様は反戦運動や左翼思想とは無縁だったようである。むしろ、お国のために熱心に働く献身的な国民であったと言える。

 ここで『生書』は「新体制運動」に触れている。この運動は、昭和15(1940)年に近衛文麿を中心に展開された、挙国一致の戦時体制の確立を目的とした国民組織運動であり、日本型のファシズム体制を確立させた運動として、批判的に語られることもある。しかし、大神様はこの運動によって推進された隣組の活動や婦人会の活動に熱心に参加している。大神様は西田布施の婦人会の副支部長として、婦人会の仕事を積極的に行い、町の顧問や参事にもなるくらいに人望が厚かったという。これは家庭のみならず、地域社会においても「長子権を復帰」していたということである。
「この頃、教祖はただお国のために、純良なる一日本国民として、婦人会の役員として、本当に献身的に銃後の諸活動を率先してやられたのである」(p.26)と書かれているように、日本が突き進んでいった軍国主義への道に対して、疑問を抱いたり、反対したりすることはなかったようである。このことから、大神様は「肚の神様」から啓示を受ける以前には、何か特別な思想的傾向を持っていたわけではなく、当時としてはごく普通の愛国的な婦人であったことことが分かる。

 当時の大神様には思想性こそなかったものの、個人の性格においては、教祖としての片鱗が窺えるところが多い。筋の通った有言実行の人であり、偉い人に対しても臆することなく、正義感が強く、不正に対しては妥協しない性格であったという。この辺の記述は、文鮮明師の幼少期の性格とそっくりである。

 『生書』は元獣医総監の藤井中将の大神様に対する評価として、「もし、あの人が男に生れておれば、総理大臣か、元帥か、いずれにしても最高の地位につく格の人物だ。」という言葉を紹介している。このくだりも、幼少期の文鮮明師に対する村人の評価と似たものがある。

 『生書』は「主婦として」の最後の部分を以下のように締めくくっている。
「飽くまで国家観念が強く、正義感の強い、実行力に満ちあふれた男勝りの女性だった。この一日本女性が、太平洋戦争を通じいかなる人物になられ、敗戦という現実の下に、いかに飛躍的な足跡を社会、人心の上にいたされるであろうか。」(p.30)

 この文章から分かるのは、大神様が教祖として立ち上がっていくプロセスにおいて、日本の国が戦争に負けたことが重要な役割を果たしているということだ。国家観念が強く、お国のために滅私奉公してきた正義感の強い女性が、敗戦という現実に直面したとき、これまで信じてきたことが崩れ去っていくという、何か重要な内面の転換を迫られるような出来事となったことは確かだろう。そうした絶望感、喪失感を超えて、新しい正義を探し求めていく中で、教祖として立ち上がっていったのではないかと推察される。

 島田裕巳は、著書『日本の10大新宗教』の中で、天照皇大神宮教は極めて戦後的な新宗教であったと解説している。「戦前においては天皇は現人神とされ、崇拝の対象となっていた。その現人神が支配する日本という国は、『神国』とされ、神国の行う戦争は『聖戦』と位置づけられた。ところが、神国は聖戦に敗れ、一九四六年一月一日、天皇は『人間宣言』を行った。突然、神国の中心にあった天皇が神の座を降りることで、そこに空白が生まれた。サヨの肚に宿った神が、天照皇大神宮を称したのも、その空白を埋めようとしたからである。」(p.90-91)「日本の敗戦と天皇の人間宣言という出来事が起こることで、そこに生じた精神的な空白、現人神の喪失という事態を補う方向で、その宗教活動を先鋭化させた。天皇に代わって権力を奪取しようとしたわけではなかったが、空白となった現人神の座を、生き神として継承しようとした。」(p.102)

 島田の解釈が教団の自己理解と一致するものなのかどうかは分からないが、少なくとも敗戦という出来事が大神様の内面に大きな影響を与え、天照皇大神宮教を立ち上げていく背景となったことは間違いないであろう。

 それでは文鮮明師にとって「愛国心」や「終戦」はどのような意味を持っていたのであろうか? 大神様が日本人として、祖国に対する純粋な愛国心を持っていたのと比較すると、文鮮明師の愛国心はより複雑である。文師が誕生した1920年当時、韓国は既に日本に併合されていたので、文師は法的には日本人であった。しかしながら、文師の愛国心は日本に向かっていたのではない。日本によって蹂躙され、植民地化された韓民族に対する「民族愛」として存在していたのである。どんなに国を愛そうと思っても、それは国としての体をなしていないものであり、やがて日本から独立するであろうまだ目に見ぬ祖国に対する愛国心という複雑なものであった。

 文鮮明師は、1935年4月17日にイエス・キリストから啓示を受け、イエスが成し遂げられなかった仕事を代わりに成し遂げる決意をしている。これが文鮮明師の「召命体験」であり、それは終戦よりも10年も前の出来事である。したがって、終戦そのものが文鮮明師が教祖として立ち上がっていくための内的な刷新をもたらしたのではなく、そのはるか以前から文師はメシヤとしての自覚を持っていたことになる。終戦は、神の召命や個人の内的覚醒よりもむしろ、神のみ旨を成就する上での環境的要因を整える出来事として理解されているのである。

 文鮮明師にとって韓国を日本から独立させることは、神のみ旨を進める上で重要なプロセスであると位置づけられていた。そのため、文師は日本の早稲田大学に留学していた時代に韓国人留学生たちと共に抗日独立運動をしていたし、そのことのゆえに戸塚警察署で取り調べを受けた。さらに韓国に帰国した後も、京畿道警察部で取り調べを受け、日本留学時代の抗日運動の活動内容と関連者の名を吐けと迫られ、拷問までされている。その意味では文鮮明師にとって日本は「怨讐国家」であり、そこから独立すべき「韓民族の国」に対する愛国心に突き動かされていたことになる。

 したがって韓国人である文師の視点からは、第二次世界大戦で日本が敗戦したことは、大神様とは全く逆の意味を持っていた。日本人にとって終戦は敗北であり、挫折であり、天皇の人間宣言は現人神の喪失であったが、韓国人にとってそれは日本の植民地支配からの解放であり、「光複」(奪われた主権を取り戻すこと)であった。したがって、日本の敗戦と植民地支配の終焉は、悪の時代の終わりと新しい希望の時代の到来という意味を持っていたのである。

 『原理講論』においては、韓国が乙巳保護条約から第二次大戦の終了まで40年間にわたって日本の植民地支配を受けたのは、古代イスラエル民族が40数に該当する苦難の道を歩んだのと同様に、韓民族が選民となるために必要な蕩減条件であったととらえている。韓民族が40年にわたる苦役路程を終了したのが1945年8月15日であるということは、そこから新しい神の歴史が出発するということになるのである。

 このように、文鮮明師にとっての「愛国心」や「終戦」は、大神様とはほぼ真逆の意味を持っていたということが分かる。

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『生書』を読む06


第二章 主婦としての続き

 天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るシリーズの第6回目である。第4回から「第二章 主婦として」の内容に入った。前回までは大神様が姑のタケさんから受けた様々な試練の物語を紹介し、そのことが教祖伝において果たしている役割を解説した。すなわち、試練が教祖の信仰を固くし、人格を精錬することにより、万人を導く指導者としての資格を得るためのプロセスとなるのである。こうした試練によって教祖は人々を引き付けるカリスマを得るようになる。しかし、ただ単に試練を受けるだけで教祖としてのカリスマが得られるわけではない、そうした試練を乗り越え、さらには試練を与えた人を屈服させてこそ、真の勝利者となることができるのである。そうしたあり方は、大神様の北村家における歩みにも表れている。

 勝利の第一段階としては、大神様が過酷な姑のいじめにもかかわらず実家に帰らず、嫁としての務めを2年、3年と続けられたことが挙げられる。それまでの嫁は半年も経たないうちに音を上げて帰ってしまったのだから、それだけでも大したものである。しかも百姓の仕事を主人以上にこなしながら、大正11年には一人息子の義人氏を出産している。これがまずは嫁として婚家に定着するという勝利の段階である。

 やがて月日が流れると、大神様は農事においても家事においても北村家の大黒柱となっていく。『生書』には、「主人を立て、そして姑に仕え、義人氏を養育し、一町以上の田畑を立派にこなし、家の柱として何の欠点もなく、主婦としての行を務められたのである。」(p.18-19)と記されている。この辺は天理教の教祖である中山みきの歩みにも似ている。みきは13歳という若さで中山善兵衛に嫁いだが、義理の父母にも夫にもよく仕える見事な若妻であったと伝えられる。家事に加えて、男の仕事とされていた田植えや畑仕事なども率先してやり、人の倍も働いたという。奉公人たちの評判も良かったので、みきは16歳で中山家の所帯をまかせられることになる。このように、嫁ぎ先で誰よりも熱心に働き、嫁として認められていくというプロセスは、日本の新宗教の女性教祖の物語においては一つの典型路程となっているように思われる。この段階から、教祖は周囲に影響を及ぼす主体として頭角を現すようになるのである。これは大神様と姑のタケさんの関係においても同様であった。
「十余年間姑に、はい、はいで仕えてこられたが、その頃から、そろそろ姑さん教育を始められた。もう老婆となられた姑のわがままを、手玉に取りだされたのである。機嫌よく仕えられると同時に、間違いは正され、たまにはそのわがままを、がんとやっつけられるようになった。」(p.18)

 姑のタケさんは90歳近くになるともうろくし、手足もきかなくなってきたという。
「昭和十五年、他界されるまでの二、三年間、下のものはたれっ放し、言われることも、すっかりとんちんかんになられた。教祖はこのような姑に対し、嫌がることもなく、下の世話から、何もかもを真心をもって看護をされたのである。

 その状態はおいおいひどくなり、それまで肌身離さず持っておられた貯金の通帳や、財布の守りができなくなって、最後にはそれを実子の清之進氏には渡されずに、嫁サヨさんに渡されたのであった。

 初めは仇のように思っていた嫁に、とうとう命よりも大事な品々を譲られたのである。そして昭和十五年十一月十日、九十歳で死なれた。」(p.19-20)

 大神様自身が、この姑タケさんを「行の相手」として位置づけており、「あの姑あって、初めてわしの行ができ、わしの今日があるのだ。」「恨みが感謝に変わった時、初めて神行の道に入るのだ」(p.20)と語っている。つまり、姑のタケさんによる試練は、自らの位置を確立するために必要なプロセスであったと理解しているのである。

 宗教団体の教祖は、このような試練を乗り越えた勝利したという物語を持っている場合が多い。統一原理においては、このような試練は神に選ばれた中心人物が経なければならないプロセスであるとしており、それはカインとアベルという役割の中で展開されると理解している。

 カインとアベルは旧約聖書におけるアダムの二人の息子の名前だが、この言葉は聖書の人物の固有名詞という以上の意味で統一原理においては用いられている。アダムの二人の息子の中でカインは兄の立場だが、それは悪やサタンを表示する立場である。一方、アベルは弟の立場だが、それは善や神を表示する立場である。長子であるカインが悪を表示しているということは、堕落した世界においては悪がより優位な立場にあり、サタンが主権を握っていることを示している。この兄と弟の立場が逆転することによって、サタンから長子の特権を復帰し、善悪を逆転させることが復帰摂理において必要とされているプロセスなのである。このことを統一原理では「長子権復帰」とか、「サタン屈服路程」と呼んでおり、アベルの立場に立った中心人物が歩まなければならない典型路程であるとしているのである。

 アダムの家庭においては、アベルはカインに殺害されることによって長子権復帰に失敗した。ノアの家庭においては、次男の立場にあったハムはノアと心情一体化することができなかったため、アベルの位置を離れてしまった。創世記においてアベルの立場で初めて長子権復帰に勝利した人物は、アブラハム家庭におけるヤコブである。

 ヤコブは兄であるエサウから憎まれ、一度は殺されそうになるが、ハランに逃げて叔父のラバンから何度も騙される試練を受け、最終的には兄エサウをも屈服させることによってアベルの位置を勝利したのである。神の摂理において中心人物に選ばれた者は、モーセも、イエスも、みな民族の前にアベルの立場に立った指導者であった。彼らはカインである民族から試練を受け、彼らを愛と人格で屈服させなければならなかった。これは武力や権力によって強制的に屈服さるのではなく、アベルはカインの前に「僕の僕」から出発して、僕となり、やがては互いの位置を逆転させて主人の立場に立たなければならない。このように愛と人格によってカインを自然屈服させる道を文鮮明師は「アベルの正道」と呼んでおり、以下のように語っている。
「アベルは、そのサタン世界の底辺に住む僕のような人たちに仕えるようにして、感化させなくてはならないのですから、僕の歴史にいま一つの僕の歴史を積み重ねなくてはならないのです。しかしその場合、サタン世界の僕たちと、天の世界のアベルのどちらがより悲惨な道を歩んだのかを問われる時に、アベルがアベルとして認定されなくてはならないのです。その時にサタン世界の僕たちは、『何の希望ももてないどん底の中にあっても、あなたは希望を捨てることなく、力強く私を支えた』と認めるのです。アベルは『いかに耐え難い時も、信義の理念をもち、愛の心情をもち、天国の理想をもっていたから、最後まであなたを信じて尽くすことができました』と、言えるのです。そこで『地上で自分の生命も惜しまず、愛と理想をもって犠牲的に尽くしてくれたのはあなたしかいません。私は誰よりもあなたを信じ、国よりも世界よりも、あなたのために尽くします』と、なるのです。その認められた事実でもって、初めて『自分はアベルであり、あなたはカインである』と言うことができるのです。アベル・カインの関係はその時から始まるのです。」(『摂理から見たアベルの正道』光言社、p.9-10)
「アベルは、カインに尽くしたあとにアベルとなるのです。互いに相手を尊重しなければなりません。尊重されるためには先に、カインとなる人に尽くすのです。誰よりも信仰心が篤く、誰よりも愛の心情が深く、誰よりも理想的であるという模範を示し、自然屈服させたあとに、カインたちのほうから、『我々の代身となって指導してください』と願われた時、『はい』と答えてアベルになれるのです。」(同書、p.37)

 このような路程は、聖書の中の中心人物のみならず、文鮮明師御自身が歩まれた道である。一つの例としては、北朝鮮の共産政権下の興南監獄において、文師は過酷な重労働を誰よりも率先して行い、「模範労働賞」を授けられただけでなく、命がけで従ってくる弟子を獄中で復帰している。これは文師の愛と人格によって周りの囚人たちが感化され、屈服したということである。

 統一原理の観点から言えば、大神様は北村家において「アベルの正道」を歩み、自らを目の敵にして迫害していた姑のタケさんをカインとして自然屈服させ、北村家における長子権を復帰したことになる。これをもって大神様は北村家における信仰の中心人物として立つことができたので、北村家を基盤として天照皇大神宮教を立ち上げることができたのである。

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『生書』を読む05


第二章 主婦としての続き

 天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るシリーズの第5回目である。前回から「第二章 主婦として」の内容に入った。大神様は大正9年11月に田布施の北村清之進氏と結婚しているが、姑のタケさんは部落でも有名な吝嗇家(ケチ)であった。本来なら夫である清之進氏が妻を守るべきであろうが、彼は実直ではあったが小心者で、母タケさんの言いなりになる人であったため、守ってはくれなかったようだ。いよいよ大神様の苦難の路程が始まったわけだが、今回はこの試練が持つ意味について分析したい。大神様はタケさんに仕えた当時のことを説法でよく話されたそうだ。
「わしは、三年間に六人も嫁を取り替えた家に嫁に来たんじゃ。この家の婆さんは我利我利亡者で、五月の田植え前に嫁を取って田植えが済むと、食わすんが惜しい、寝かせるんが惜しいいうて嫁をいびり出す。秋の借り入れ前に嫁を取って、借り入れが終わると、また帰らす。食わせもせん、寝かせもせん……

 秋の夜長に、わしは三時間と寝せてもろうたことはありゃせん。腹一杯食わせてもろうたのは、かぼちゃのすえかかったのを、これを食いなはれ、と言うて勧められたことがたった一回だけじゃったよ。あんまりひもじゅうて蜜柑の皮まで食うたこともある。」(p.15)
「朝は早くから、夜は真っ暗になるまで、野に山に、夕食が済んで十時ごろから夜なべ仕事に俵を編まされる。二枚編むまでは寝られない。もうできたか、と言うては姑が見に来る。泣くようにつらくても、じっと我慢して、激しい疲れや睡魔と闘いながらそれをやられる。翌朝また早く起きなければならない。起きる時、頭の中が破れ鐘のようにガンガン鳴る。これで体がもてるだろうか、と思われることもあった。」(p.16)

 宗教の教祖伝には、教祖がさまざまな試練を体験し、それを乗り越えて勝利者となっていく姿が描かれることが多い。宗教は通常、悩める人々の魂を救済するために存在するので、崇敬の対象である教祖が人々と同じような試練、あるいは常人であればとうてい乗り越えることのできないほどの過酷な試練を乗り越える姿が示される。そしてそれは、信者たちが人生における様々な試練を乗り越えるためのモデルとされることが多いのである。信者たちは自身の試練に立ち向かうとき、教祖が歩んだ試練の物語を励みとし、参考にしながらそれを乗り越えて行こうとする。こうした試練の中でも分かりやすいのが空腹や肉体的な苦痛であり、大神様の歩みにもそうした試練が示されている。

 旧約聖書においては、モーセは40日間荒野で断食をしている。新約聖書においてはイエス自身が40日間の断食を行っているし、荒野でサタンの誘惑に打ち勝っている。そして何よりもイエスが十字架刑という試練を乗り越えて勝利をしたことが、キリスト教における救いの源泉となっている。イエスは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(ルカ9:23-24)と言われた。これはまさに教祖が歩んだモデルにしたがって、弟子たちが歩むべきだという教えである。釈迦も悟りに至る過程において、6年間にわたる超人的な修行を行っている。断食をはじめ、他の誰よりも苦しい修行を行った後に瞑想し、悪魔の誘惑に打ち勝って悟りを開いたという話は、イエスに通じるものがある。仏教の僧侶たちも、釈迦に倣って修行をする。

 こうした教祖たちは基本的に正しい人であったにもかかわらず、なぜ過酷な試練を受けなければならなかったのかと言えば、それは彼らの信仰を固くし、人格を精錬するためであり、万人を導く指導者としての資格を得るためであった。したがって、使命の大きな人物であればあるほど、試練の激しさも増していくことになる。神は特殊な責任を任せようとする人に対しては、最も厳しく鍛錬される。こうした試練に勝利することによって、教祖は人々を引き付けるカリスマを得るようになるのである。

 大神様が人生において歩んだ道は、天理教の教祖である中山みき(1798‐1887)や大本の教祖である出口なお(1837‐1918)の系列に連なる、日本的な女性教祖の典型路程であると言える。日本には普通の女性がある日突然「神憑り」を体験してシャーマン的霊能者となり、新宗教を創設するという例が多いが、それは苦難の半生と更年期の神憑り体験、修行による霊威の強化というパターンを経ることが多い。大神様における苦難の半生の重要な構成要素の一つが、姑であるタケさんから受けた試練であったが、天理教の教祖である中山みきの試練は主に夫である善兵衛によってもたらされたものであった。

 中山みきは13歳という若さで中山善兵衛に嫁いだが、その結婚生活は苦難の多いものであった。中山家はもともと裕福な家で、地主の若旦那として育った善兵衛はお人好しだがだらしなく、家業にあまり身を入れなかったいう。そのうえ女性にもだらしなかったらしく、みきが完璧な嫁として身を粉にして働いたにもかかわらず、善兵衛が妾を持ったことでみきは衝撃を受けるようになる。それでもみきは自分を押し殺して完璧な嫁の役割を果たすため、夫への怨念、妾への嫉妬の気持ちを抑えなければならなかった。みきは夫の妾である下女に毒を飲まされ、危うく死にかけるのであるが、「神さまが私のお腹の中を掃除してくれた」と言って許したという逸話が残されている。この時代の日本の女性たちは程度の差こそあれ同じような試練を経験していたと思われるが、こうした過酷な試練の中でも嫁として身を粉にして働いたという話は、大神様の路程とよく似ている。それまで仏教の信仰が篤かったみきであったが、こうした自分の境遇を仏教は救ってくれないことに絶望して新しい信仰を求めるようになるのである。みきは夫善兵衛との間に、一男五女(秀司、おまさ、おやす、おはる、おつね、こかん)を授かるが、おやすとおつねが夭折しており、子供を失うという体験もしている。

 日本の新宗教の信者には女性が多い。特に未婚の若い女性よりも既婚の中高年の女性が多いことを考えると、大神様や中山みきはこうした女性信者たちが自己を投影しやすく、試練の乗り越え方の指針を与えてくれるものであると思える。『生書』における主婦としての大神様のストーリーも、天照皇大神宮教の女性信者たちに多くの示唆を与えてきたのではないだろうか。

 一方で、世界平和統一家庭連合の創設者である文鮮明師は男性であり、教祖として通過した試練の内容はモーセ、イエス、釈迦などの男性教祖の歩みに通じるものがある。夫との関係、嫁姑の関係で苦労した女性が更年期に神憑りによって新しい宗教を拓くという日本の女性教祖のパターンとは、試練の内容が異なっているのである。

 文鮮明師の生涯を伝える「主の路程」と呼ばれる講義の中でも、青年期に文師が通過した試練の内容がかなり詳しく描写され、それは文師のメシヤ性を示すストーリーとして信徒たちに受け取られている。初めの試練は、日本留学中に抗日独立運動に加わったことが原因となり、帰国後に京畿道警察部で日本の官憲から受けた拷問である。水責め、飛行機乗り、木の棒を膝の内側にして正座をさせる、指に電極をはめて電流を流すなどの激しい拷問が行われたが、文師は独立運動の同志の名前を最後まで吐かなかったという。

 次の試練は、文師が北朝鮮に渡って宣教活動を行った際の国家権力からの迫害である。文師は「南韓から隠密に派遣されたスパイ」であると疑われ、1946年8月11日に大同保安署に拘束された。「虚偽の言説を流布して社会秩序を乱した」として、革の鞭で打つ、殴る蹴る、三日間眠らせず、食べさせないことを繰り返すなど過酷な拷問を受け、同年11月21日に半死体同然の状態で釈放された。それでも宣教活動を継続した文師は1948年に再逮捕され、「社会秩序紊乱罪」で5年間の強制労働の刑を宣告されるのである。文師が送られたのは北朝鮮政権が政治犯・思想犯を収容するための強制収容所として活用していた興南監獄であり、そこはどんなに屈強な者でも三年間もちこたえられる者はいないというほど過酷な環境であった。そこに5年の刑を言い渡されたということは、死刑宣告に等しかった。過酷な労働と粗末な食事で、多くの囚人が飢えて死んでいく。全部で1500人ほどの囚人のうち、毎月100人前後が死んでいくというのである。その中でも文師は一番難しい仕事を率先してやり、模範労働賞を毎年もらった。

 興南監獄は極度の飢餓状態にあったため、家族が面会にやってきても、その人よりも持って来た食べ物にまず目が行くという状態だった。自分の口は無意識のうちにご飯を食べながらも、人のご飯を恋しがり、自分は食べたことを忘れてしまい、「おれのご飯を誰かが盗んだ」と言って喧嘩を始めるという有様で、囚人の一人が食べながら絶命してしまうと、その口の中のご飯を引き出して食べようと喧嘩が始まったという話を文師は伝えている。まさに豆一つが家一軒、牛一頭の価値に感じるような世界であった。

 その中で文師が実践したのが、「人はパンだけで生きるものではなく、神のみ言葉で生きる」(マタイ4:4)というイエスの言葉であった。どんなに過酷な環境にあっても、何よりも神を愛さなければならない。どうせこのご飯では死んでしまうので、このご飯の半分で生きようと決心したという。そこで配給される食糧の半分は自分が食べて、あと半分は他の囚人に配ってあげ、他者のために生きる精神的喜びで生きることにしたというのである。

 このように文鮮明師が若き日に受けた様々な試練のストーリーは、文師のメシヤ性を示すと同時に、家庭連合の信者たちが人生における苦難を乗り越えるときのモデルとしての役割を果たしている。大神様の試練とは男性と女性の違いや、置かれた環境の違いはあるものの、教祖の試練の物語が信仰生活において果たす基本的な役割は同じであると言えるだろう。

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『生書』を読む04


第一章 大神様の生い立ちの続き

 天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るシリーズの第4回目である。前回から、「第一章 大神様の生い立ち」に入った。『生書』に描かれている教祖像の特徴は、浮世をよそにした大自然の懐に抱かれた純朴な農村の質朴な農家に誕生したが、誕生にまつわる神秘的な出来事は何一つなく、幼いころから男勝りの性格で、肚の据わった、ものに頓着しない子供だった、というものだ。ある意味では、この頃から後に教祖として頭角を現す片鱗を早くも見せていたとも言えるであろう。幼少期から結婚するまでの記述は短くてシンプルである。
「小学校を卒業された教祖は、女に学問をさせると虚栄心が強くなるから、女学校にはやらないという長蔵氏の意見で、女学校には行かれず、家事、農業を手伝う傍ら、当時近所の娘たちが通う、手芸、裁縫などを教える私塾に三年間通われた。」(p.7)

 現代のフェミニストが「女に学問をさせると虚栄心が強くなる」などという言葉を聞いたら怒り出しそうだが、当時としては普通の考えだったのであろう。このように教祖が高等教育を受けていないことは、天照皇大神宮教の性格に少なからず影響を与えたのではないかと思われる。その教えは知的な体系を持っているわけではなく、エネルギッシュで迫力ある平易な言葉で語られている。大神様は自分のことを「尋常六年しか出ていない百姓の女房」とか「おんなヤクザ」と呼んでおり、どこか反知性的な性格を持っていたと思われる。そのため、天照皇大神宮教では「経文や本で宗教を勉強して、頭に知識を入れる時代は終わった」とか、「知識や頭脳で悟ろうとする時代は終わった」として、経典の知識を蓄積する職業的宗教家も必要ないと教えている。小説家の藤島泰輔氏は、大神様について「土俗性というか、土の匂いのする方」であるという印象を語っている。その言葉通り、大神様は生涯質素な生活を貫いた純粋な宗教者であった。それがこの教団と教祖の魅力の一つであり、そのことに好印象を持った知識人は多かった。

 ここで『生書』は当時の時代背景と教祖の歩みを以下のように対比させている。
「明治三十三年、呱々の声を上げられてから、大正九年、北村家に嫁がれるまで二十余年間、世界の舞台は明治から大正の時代へと変転し、第一次世界大戦の勃発等、次から次へと慌ただしい年月となり、二十世紀の文明科学の世も、まさに黄金時代を出現させんとする時期とはなったが、これら慌ただしい歴史の動きを遠く離れ、大自然の懐に抱かれながら、教祖はその青少年時代を過ごされたのであった。」

 大神様の青少年時代には、人生の問題について深く悩んだとか、社会問題に対して関心や疑問を持ったというような形跡が見られない。田舎の娘として純粋に育ったということだけが記述されている。大神様が教祖として目覚めるのはずっと後のことであるが、少なくともその時までには自分の周辺の社会問題に対して関心を持ち、その解決のために自分が何かをしなければならないという使命感、召命感を持っていたとは思われない。大神様が教祖として立ち上がっていく動機の背景にあったのは、結婚後の生活であった。

 一方で、文鮮明師の青年期は大神様に比べるとはるかに悩みや葛藤に満ちたものであり、そのことが教祖として立ち上がっていく動機に直結している点で大きく異なっている。文師の故郷も大自然の懐に抱かれた田舎であり、農村で育った点は共通しているが、周辺の社会環境は大きく異なっていた。それは韓国が日本の植民地にされていたことが深く関係している。文鮮明師は自分の青少年時代について以下のように語っている。
「私が偉大な博士となり、有名になれば、何不自由なく、富貴栄達で過ごせる。しかし、それが私にとって何なのか。数多い不幸な人間に対して何の意味を持つというのか。私がなさなければならないのは、何であろうか。労心焦慮するうちに、人生の目的や、これからなさなければいけない仕事の輪郭が浮かんできた。全人類のこの苦痛、この不幸、この悲劇、この罪悪から解放する仕事。この仕事に責任をもって、引き受ける立場、位置があるに違いない。」
「先生の出生と少年時代は本当に不幸で悲劇的なものであった。それは先生一人が経験した環境ではなく、当時に生まれついたすべての韓国人たちの悲しい運命でもあった。五千年の悠久なる歴史を持つ韓国であったが、国力が衰退しながら日帝の侵略を撃退できず、彼らの支配下で人間以下の生活をするしかない時代だったからである。」
「少年期の感性は非常に鋭利であり、鋭敏なものである。まだ小さい時であったけれども、周辺で起こっている環境の変化に対してたくさんのことを考えながら、そうならざるを得なかった理由を知ろうと努めた。その時、先生の気運を前に立てて、不幸な環境に暴力で立ち向かおうとしたなら、・・・・・・恐ろしい組織を持った頭目ぐらいにはなったであろう」(1982.10.17)

 文鮮明師の青少年期は、『生書』にみられる大神様の記述に比べれば悲壮感が強く、このことと文鮮明師が教祖として立ち上がっていく動機となった「神の召命」の体験が15歳という若年であったことは、深く結びついていると思われる。すなわち、順風満帆の人生を歩んでいる人が神の啓示を受けて教祖になるということは考えにくく、必ず何らかの苦難に直面しなければならないのである。大神様の場合には、それが青少年期ではなく、結婚後に中年になった頃に訪れたということである。

第二章 主婦として
 
 ここから『生書』の「第二章 主婦として」の内容に入る。

 大神様は大正9年11月に田布施の北村清之進氏と結婚している。二十歳の時であった。ちなみに、同じ年の春に文鮮明師が誕生している。

 第二章の冒頭で『生書』はしばらくの間、田布施の土地柄について説明している。現在の田布施は小さな農村に過ぎないが、干拓して田んぼとする前は瀬戸内海の大きな入り江であり、大陸との交通の要衝であったこと、多くの仏教寺院が栄え、地方政治の中心地でもあったことなどが紹介され、ちょっとした「お国自慢」が展開されている。

 教祖が嫁いできた北村家は、『生書』では天照皇大神宮教の本部道場になっていると記述されているが、1964年に現在の本部道場が竣工された後は「旧本部道場」となっている。私が2019年の6月に天照皇大神宮教本部を宗教新聞の取材で訪問した際には、この旧本部道場にも案内してもらった。「天照皇大神宮教・神の国建設・精神修錬道場・本部」という看板は『生書』の記述のままであった。

天照皇大神宮教旧本部道場

天照皇大神宮教旧本部道場(2019年6月22日筆者撮影)

 『生書』によると、北村清之進氏は16~7歳のときにハワイに移民し、そこで10年間働いて財を成し、27歳のときに帰国してここに家を建てたという。その母屋が、後に大神様が説法をされる本部道場になったというわけだ。

 清之進氏が徴兵で満州に行っている間に、父である吉松氏が明治44年に亡くなると、家に残ったのは教祖とその姑に当たるタケさんだけになった。このタケさんは部落でも有名な吝嗇家(ケチ)であった。この話は島田裕巳氏や上之郷利昭氏の著作でも紹介されている有名な逸話である。
「来る嫁も、来る嫁も、このお婆さんの気に入らず、農繁期が済むと、いじめて追い返すのであった。教祖サヨさんがお嫁に来られた時は、もう五人の嫁が同じ運命をたどった後であった。つまり六番目の嫁として迎えられたのである。」(p.13)

 いまであれば考えられない話だが、当時はそういうこともあったのであろう。本来なら夫である清之進氏が妻を守るべきであろうが、彼は実直ではあったが小心者で、母タケさんの言いなりになる人であったため、守ってはくれなかったようだ。
「このような家庭に迎えられた、教祖サヨさんの新婚生活は、近頃の若い人々が夢見るような結婚生活とは似ても似つかぬものであった。世界一難しい姑といっても過言でない姑に仕え、小心者の夫君のご機嫌をとり、一町以上の田畑の仕事をやりきってゆかねばならない主婦サヨさんの行は、並たいていのものではなく、断じて常人のよくするところではなかった。」(p.14)

 いよいよ大神様の苦難の路程が始まったわけだが、そのことの持つ意味については次回に分析したい。

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『生書』を読む03


第一章 大神様の生い立ち

 天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るシリーズの第3回目である。今回から、「第一章 大神様の生い立ち」に入る。教祖伝が教祖の誕生の物語から始まるというのは、新約聖書の福音書もそうであり、決して珍しいことではない。

 大神様は西暦1900年(明治33年)の元旦に、山口県玖珂郡日積村大里の一農家に生まれたとされる。世の中では義和団事件が起こるなど様々な出来事があったが、そうした変遷から取り残されたような田舎に生れたことが『生書』では強調されている。

 父の名は浴本長蔵、母の名はウラといい、その四女として大神様は生まれている。長蔵氏は浴本家に養子で入った立場であり、ウラさんも他家から入籍した、いわゆる取り子取り嫁であったことなどが簡単に書かれている。いわゆる教祖伝としては特徴的なのが、誕生にまつわる神秘的な出来事が一つもないことである。ある意味ではすがすがしいまでに、何の変哲もない田舎の農家に大神様は誕生したと書かれているだけである。

 これはキリスト教におけるイエス誕生の物語と比較すると分かりやすい。そもそもイエスは母マリヤが身ごもる前に、天使ガブリエルから「受胎告知」を受け、主が共におられること、男の子が生まれてイエスと名づけるべきこと、その子は王位につき、聖なる者、神の子と呼ばれることなどが天使の口を通して語らている。さらに誕生時には東方から三人の博士たちが星に導かれてイエスのもとを訪ねてきて、母マリアと一緒にいた幼子イエスを見て拝み、乳香、没薬、黄金を贈り物として捧げたとされている。イエスが誕生して40日後にエルサレムの神殿を訪れたときには、篤実なユダヤ教徒であるシメオンとアンナが幼子を見るなり、この方こそ待ち望んだ救い主であると証しをしている。

 さらには、「ユダヤ人の新しい王となる子」がベツレヘムに生まれたと聞いて怯えたユダヤの支配者ヘロデ大王が、ベツレヘムで2歳以下の男児を全て殺害させるという出来事も起こっている。これはこの世の支配者がメシヤを恐れることを示すストーリーであり、その意味では神秘的な出来事と言える。このようにして見ると、新約聖書はイエスの誕生に関わる神秘的な出来事を数多く記載していることが分かる。これはイエスが普通の人間ではなく、特別な神の子であり、救い主であることを証しする目的で書かれている。すなわち幼子は生まれたときから特別な存在であり、神格化されているのである。そもそもキリスト教ではイエスは処女マリヤから生まれたとされており、普通の人間ではないのである。

 釈迦の誕生時の伝説としては、母マーヤーの右脇から生まれ出て7歩あゆみ、右手を上に、左手を下に向けて、「天上天下唯我独尊」と言ったという物語がある。これも通常ではありえない神秘的な話である。

 実は家庭連合の修練会で語られる「主の路程」と呼ばれる講義案の中にも、文鮮明師が誕生した村では、金色の鳥が三年前から飛来して泣いたとか、母親がお腹に龍が入る夢を見たとか、家の周囲の林にクモの巣のようなものが張り巡らされてサタンが妨害したとか、神秘的な出来事が語られ、それらがメシヤ誕生の前兆であったと理解されている。

 このように一般に教祖伝では、教祖の誕生に際して神秘的な出来事が起きたことを記述することにより、教祖が特別に神から選ばれた存在として誕生したことを証しすることが多いのであるが、『生書』の大神様にはそうしたことが一切ないのである。こうした教祖像は、天照皇大神宮教の特徴の一つであろう。

 父親の長蔵氏は、「短期は激しい気性の人で、義侠心が至って強く、部落、他部落の人々から敬愛され、まじめで分別のある人であった。」(p.4-5)とされ、母親のウラさんは「優しく女らしい、すこぶる信仰心のあつい人で、度々寺に参ってよくその世話をされた。」(p.5)とされている。実直な人柄ではあるが特別な宗教的カリスマがあるわけでもなく、高貴な先祖を持つ由緒ある家柄というわけでもなく、飛び抜けた能力や力を持つわけでもない、ごく普通の父母であるが、「その家庭は、誰も陰日向のない互いに開けっ放しの気軽さで、明るい家庭であった」(p.5)とされている。「サヨ教祖は純然たる片田舎の一農家に誕生し、結婚されるまでそこで生い立たれたのである」(p.5)と言い切っているのである。

 『生書』では、「純朴な農村」「浮世をよそにした」「大自然の懐」「質朴な農家」が大神様が成長された環境であることを強調している。ここに天照皇大神宮教の価値観が表れていると思われる。すなわち、大自然の中で素朴で純粋に育ち、土地と共に汗を流して働いて生きる姿こそが、人間の本来の姿であると考えているということだ。その意味では、都会での豊かな暮らし、資本主義と経済成長、工業化や情報化といった近代的な価値観とは真逆の価値観であると言える。

 文鮮明師の生家も、韓半島の平安北道定州郡(現在の北朝鮮)の農村であり、似たような環境で育ったと言える。文家の家風を表すエピソードとしては、曾祖父の文善玉氏が人に食事を振る舞うことを無上の喜びとしたという話が残っており、文鮮明師の自叙伝には「『八道江山(全国)の人に食事を振る舞えば、八道江山から祝福が集まる。』これが亡くなる際に遺した言葉です。そんなわけで、わが家の奥の間はいつもたくさんの人でごった返していました。『どこそこの村の文氏の家に行けば、ただでご飯を食べさせてくれる。』と村の外にまで知れ渡っていたのです。母はやって来る人たちのつらい世話をてきぱきとしながら、不平を一度も言いませんでした。」(『平和を愛する世界人として』P.21)と記されている。

 文鮮明師の幼少期も、大自然に恵まれ、両親から愛されたという点では大神様と共通点がある。自叙伝の中にも、自然から平和について学んだという話が出てくるし、父親の背中で平和の味を知ったという逸話も出てくる。
「山で跳び回っているうちに、そのまま眠ってしまったこともよくあります。そんな時は、父が森の中まで私を捜しに来ました。『ヨンミョン!ヨンミョン!』という父の声が遠くから聞こえてくると、眠りながらも自然と笑みがこぼれ、心が弾みました。幼少の頃の私の名前は龍明(ヨンミョン)です。私を呼ぶ声ですぐに目が覚めても、寝ているふりをして父に背負われていった気分、何の心配もなく心がすっと安心できる気分、それこそがまさしく平和でした。そのように父の背中に負われて平和を学びました。」(『平和を愛する世界人として』P.15)            

 『生書』はサヨ教祖の幼少時の性格として、「男勝りの方でした。本当に頓智のよい面白い方で、女ながらに木登りなども上手で、また、よくケンカもされた。」(p.6)とか、「肚の据わった、ものに頓着しない方だった」(p.7)などと述べている。後に教祖として頭角を現す片鱗を早くも見せていたと言えるであろう。

 一方、文鮮明師の幼少期の性格としては、「あらゆる部門に素質、好奇心と探究心が旺盛」「自然を愛する、冒険好き」「鋭い洞察力、観察力、直観力」「正義感が強い、負けん気、忍耐強い」「(度が過ぎるほどの)奉仕好き」「情が豊かで深い、情にもろい」「リーダーシップと統率力」といったことが「主の路程」の講義では語られる。村人たちは文少年のことを「将来、良くなれば王様になり、悪くなれば逆賊になる。」と評価していたという。これもある種の教祖的な性格を子供のころから備えていたと言うことができるであろう。

 女性と男性という違いはあるものの、大神様と文鮮明師の生い立ちと育った環境、そして幼少期の性格には、多くの共通点があると言える。

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『生書』を読む02


「序」の続き

 前回より、日本の新宗教研究の一環として、天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るというシリーズを開始した。初回である前回はこのシリーズを始めることにしたいきさつや、私の立場について解説した後に、「序」の内容に入った。『生書』が書かれた時代背景の話をしたところで前回は終了した。今回はその続きである。

 実際に『生書』を読んで思うのは、天照皇大神宮教に対するキリスト教の影響ということである。島田裕巳は著書『日本の10大新宗教』の中で、天照皇大神宮教の教えは「神道と仏教の教義の素朴な寄せ集め」(p.92)であると言っている。教えの言葉にも神道や仏教を背景とした用語が多く、大神様の実家が浄土真宗であることや、初めの神憑り体験が真夜中に神社に日参する「行」を行っていたときであることから、直接触れていた宗教伝統は仏教と神道であったと思われ、キリスト教との接触はなかったかのように語られている。しかし、それにしてはキリスト教の影響を否定できないような要素が多いのである。

 「絶対神天降られて、世の初めが来たのである。」(p.1)という言葉はメシヤの降臨を思わせ、「ヨハネによる福音書」の冒頭を彷彿させる。大神様が神そのものの顕現であるとされているのと同様に、キリスト教においてはナザレのイエスこそは神ご自身が人となってこの世に顕現された方であると信じられている。「いっさいの正しからざる者は神の審判を受け、真心ある者は神にめとられて、神の子に再生する時が来たのである。」(p.1)という言葉は、キリストの再臨に伴う最後の審判とメシヤによる新生というテーマに通じている。「真心ある者は神にめとられて」という表現は、神と信仰篤い信者たちとの婚姻関係を示唆しているが、キリスト教にもクリスチャンたちは性別を問わず「主の花嫁」であるという考え方がある。「神の福音を伝えるための書である。」という『生書』の位置づけは、新約聖書の「福音書」とまったく同じである。

 天照皇大神宮教の集会では、最後に「祈りの詞」というものを揚げるが、その中には「神国(みくに)を与えたまえ」というキリスト教の主の祈りにそっくりな言葉がある。天照皇大神宮教では、大神様と釈迦とキリストを、宇宙絶対神に使われた三人の救世主であると認めている。なぜか、マホメットと孔子は入っていないのに、イエス・キリストは救世主として認めているのである。キリスト教を敵対視していたり、何の興味も抱いていないのであれば、このような表現が出てくるとは考えづらい。少なくともキリスト教に対する敬意を持っていなければ、このようなことは言わないはずである。

 そもそも『生書』という経典の名前自体が、『聖書』をもじったものではないかと考えられる。天照皇大神宮教の教えには、仏教で説く「六根清浄」によく似た「六魂清浄」、「南無妙法蓮華経」によく似た「名妙法連結経」などの言葉が登場する。天照皇大神宮教を批判する者たちは、これらを既存の仏教用語を勝手にもじった造語に過ぎないと言って批判しているが、これに対して天照皇大神宮教側は、たまたま音が似ているだけでまったく無関係であると反論している。既に前回のシリーズで述べたように、私はこの論争でどちらか一方に与するつもりはないが、神の福音を伝えるための書である『生書』が、キリスト教の『聖書』にヒントを得たものである可能性は十分にあるとだけ言っておこう。

 『生書』の序文が書かれたのは、大神様が道を説き始めてから5年余の歳月が流れたころであるとされている。教祖の存命中に、しかも活動を始めてから5年程度で経典の編纂が始まり、第一巻が出版されたというのは、かなり早い段階から教えの文書化・体系化が始まったと言ってよい。文鮮明師の場合には、公的な布教活動を始めたのが1945年で、『原理原本』を執筆したのが7年後の1952年である。『原理原本』は公的に出版されなかったが、『原理解説』が韓国で出版されたのが1957年(12年後)であり、『原理講論』が出版されたのは1966年(21年後)である。文師はこの間に北朝鮮の興南収容所で獄中生活を送ったり、朝鮮戦争の勃発に伴う避難生活を送るなどの激動の人生を歩んでいるため、単純には比較できないが、教えの文書化・体系化という点で天照皇大神宮教がかなり速かったということは言えるであろう。

 『生書』と『原理講論』は終わりの部分がよく似ている。第一の共通点は、これは真理全体ではなく、その一部を弟子たちが編纂したものであるとして、書物としては完璧でも完全でもないことを認めている点である。
「しかしながら神言、神業は、時と所と相手次第で、まことに自由無碍であり、かつ神教は時とともに、より深く、より広くなり、人知をもって計り知ることができないものである。したがって過去における大神様の御足跡、御説法のすべてを、この一書に網羅することはとうてい不可能である。また編者の微力の致すところ、かえって御神徳を傷つけることなきかと、恐懼するものである。」(『生書』p.2-3)
「ここに発表するみ言はその真理の一部分であり、今までその弟子たちが、あるいは聞き、あるいは見た範囲のものを収録したにすぎない。時が至るに従って、一層深い真理の部分が継続して発表されることを信じ、それを切に待ち望むものである。」(『原理講論』三色刷、p.38)

 第二の共通点は、それでも真理の言葉が明らかにされ、一冊の本にまとめられたことは良いことであるとされ、み言葉が全世界に述べ伝えられ、人々の救済に役立つことを願っている点である。
「ともあれ、大神様のご指導と、同志一同の真心からなる協力とにより、神教、御足跡の大要をここに収録し得たことは、やはり神のご配慮の賜物と深く感謝するとともに、本書の発刊により、一日も早く神の国が建設されんことを祈念してやまぬ次第である。」(『生書』p.3)
「暗い道をさまよい歩いてきた数多くの生命が、世界の至る所でこの真理の光を浴び、蘇生していく姿を見るたびごとに、感激の涙を禁ずることができない。いちはやくこの光が、全世界に満ちあふれんことを祈ってやまないものである。」(『原理講論』三色刷、p.38)

 最後に、『生書』と『原理講論』の書物としての性格を比較してみたい。まだ通読したわけではないが、『生書』の目次をざっと見て分かることは、これは教団の公式な「教祖伝」であるということだ。新約聖書の「福音書」に比べると、分量がずっと多く、記述が詳細であり、正確な年月日が記されており、4つに分かれているわけではないという違いがあるものの、教祖の誕生から始まって死に至るまでの生涯について記述しているという点では、『生書』は福音書に近いと言えるだろう。

 一方で、『原理講論』はキリスト教でいえば組織神学に当たる教理の解説書であり、文鮮明師の生涯については何も語っていない。旧約聖書や新約聖書を引用しながら、創造、堕落、終末、メシヤ、復活、予定といった具合に組織神学のテーマとなっているような議論がなされているのである。

 家庭連合の修練会でいえば、『生書』は「主の路程」に該当するものだ。考えてみれば、家庭連合には文鮮明師と韓鶴子総裁の「自叙伝」はそれぞれ存在するが、公式な「教祖伝」が存在しない。それに最も近いのが『真の父母様の生涯路程』になるだろうが、これは文鮮明師が自分の生涯について語った言葉を編纂したもので、第三者が客観的な立場からまとめた「教祖伝」ではない。修練会で語られる「主の路程」は口伝のようなものであり、講師によって強調点が異なる非公式なものである。どうして家庭連合には公式な「教祖伝」が存在しないのか、『生書』を読んで改めて疑問に思うようになった。これもまた一つの発見である。

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『生書』を読む01


 今回より、日本の新宗教研究の一環として、天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るというシリーズを開始する。以前に私はこのブログの中で「北村サヨと天照皇大神宮教シリーズ」と題して12回にわたって連載したことがった。このシリーズはその続編に当たるが、前シリーズの第1回で私は以下のように書いている。
「一つの宗教団体について研究する際には、まずはその教団が出版している文献に目を通し、その教団の自己理解に沿って捉えようとするところから出発するのが正統的なやり方である。ところが、天照皇大神宮教の教えを表現している『生書』や『天聲』は市販されておらず、部外者には入手が困難である。そこで研究の資料としては、客観的な記述であると定評のある『新宗教辞典』(弘文堂)によって基本的な事実を抑え、さらに島田裕巳著『日本の10大新宗教』(幻冬舎)、上之郷利昭著『教祖誕生』(講談社)に記述されている内容に基づいて分析することとした。」

 つまり前回のシリーズを書いたときにはオリジナルの経典を手に入れることができなかったので、それを直接読まずに第二次資料に基づいて書いたわけだが、今回は経典が手に入ったので改めて研究しようということだ。

 私が『生書』を手に入れたのは、2019年6月22日に『宗教新聞』の取材に同行して、山口県田布施にある天照皇大神宮教本部を訪問したときのことである。教務と総務の2名の方に道場を案内していただき、天照皇大神宮教の教えについて丁寧に説明していただいた上で、最後に『生書』全4巻を贈呈された。心より感謝したい。非信者の方が『生書』をどのくらい読むのかは不明だが、とりあえず私は家庭連合の信者の中で『生書』を読破した第一号となることを目指したい。

 初めに、私が『生書』を読む立場について述べておきたい。私は天照皇大神宮教の信者ではないので、それを読んで述べることは「非信者の感想」ということになる。しかし、教義をことさらに批判しようと思って読むわけではなく、基本的に他宗教の教えに対する敬意を払いつつ、自分の信仰と比較しながら客観的に読もうということである。したがって、信者の方々が読めば、教えに対する理解不足からくる失礼な表現が含まれてくるかもしれない。一方で、私自身が世界平和統一家庭連合の信仰を持っているため、神仏をまったく信じない無神論的な立場から『生書』を読むわけではない。したがって、神に対する信仰や教えに対しては概して好意的で共感的な立場から読むことになる。家庭連合の教えと相通ずるものがあれば積極的に評価し、逆に相反するものがあれば疑問を呈するということになるであろう。

 こうした立場をとりつつも、最も難しいのが天照皇大神宮教の教祖をどのように呼ぶかという問題である。『生書』の中で北村サヨ氏は一貫して「大神様」と呼ばれている。これは家庭連合の中で文鮮明師が「真のお父様」と呼ばれ、韓鶴子総裁が「真のお母様」と呼ばれているのと同様の信仰告白に近い呼称である。先に紹介した外部資料である『新宗教辞典』、島田裕巳著『日本の10大新宗教』、上之郷利昭著『教祖誕生』などでは、すべて「北村サヨ」と呼び捨てにしている。しかし私自身の感性としては、「『生書』を読む」というタイトルで書く以上、呼び捨てにするのはあまりにも失礼ではないかと思う。それは私自身が、たとえ外部の人の記述であったとしても「文鮮明」と呼び捨てにされるのは気持ち良くはないからである。

 そこで私は天照皇大神宮教の教祖北村サヨ氏を「大神様」と呼んでこのシリーズを執筆することにした。その理由は、『生書』における呼称と一致させることにより、その信仰世界に飛び込んで、内在的な理解をしようとするためである。したがって、このシリーズにおいては、「大神様」とは北村サヨ氏のことを指すのであるとご理解いただきたい。

 このシリーズは『生書』を一通り読み終えた後に書き始めるのではなく、第一巻から読み進めながら、その時々に感じたことをつれづれなるままに書くというスタイルで続ける予定である。したがって、先を読み進めれば分かるはずの疑問を、そのときに感じたままに書いてしまうということがあり得る。そこは、私自身の理解が時と共に深まっていくのであるとご理解いただきたい。当然、シリーズが最終的に何回になるかも現時点では予想できない。そうした前提のもとに、第一巻の「序」の部分から読み進めていきたい。

<「序」>

 『生書』は「二十世紀もその半ばを過ぎ、文明科学の世はその極に達しつつある現在、人類は再び避けようとして避けられぬ戦禍に見舞われんとしている。神を忘れ、神に背き、真の宗教を失った人々のたどるべき運命である。」(p.1)という言葉をもって始まっている。

 冒頭から、それがいつ頃に書かれたのかが分かる記述である。この序文の最後には「紀元六年四月」と記されており、奥付の初版発行は「紀元6年7月22日」となっている。天照皇大神宮教では、昭和21年1月1日に神の国開元を宣言し、その年を紀元元年としている。以来、教団ではこの紀元で年を表現しているので、紀元6年とは一般の暦では昭和26年、1951年を指す。まさに20世紀が半ばを過ぎた年である。

 いかなる宗教の経典も、それが書かれた時代の空気を吸い、その影響のもとで書かれる。1951年と言えば、まだ第二次世界大戦の記憶が生々しく残っている時代であり、同時に東西冷戦が激化する中、1950年には日本の隣国で「朝鮮戦争」が勃発した直後である。1953年に休戦協定が結ばれるまでは実質的に戦争状態にあったのであるから、こうした国際情勢を背景とすれば「人類は再び避けようとして避けられぬ戦禍に見舞われんとしている」という記述は、当時の空気としては十分に理解できる。

 私も「冷戦時代」をリアルタイムで生きた世代ではあるが、第二次世界大戦は経験していない。やっとの思いで敗戦の絶望を乗り越え、平和な世界を願っていた当時の良心的な日本人にとって、東西冷戦の緊張度が増し、「朝鮮戦争」という形で具体的に火を噴いたという現実は、人類の未来には希望がなく、またしても戦争を繰り返すのではないかという危惧を抱いたとしても不思議ではない。

 イエス・キリストはマタイ伝24章において、「世の終りには、どんな前兆がありますか」と弟子たちから尋ねられ、「戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。」(マタイ24:6)と答えている。戦争は人類が経験する究極的な苦難の一つであるため、戦争の不安は一種の終末論的な雰囲気を醸し出す。それは人々に人間の愚かさや自分自身の無力を実感させ、何か神の決定的な介在なしには人類に救いはないという信仰を生み出すか、少なくともそれを助長するのである。『生書』がそのような時代背景から生まれたことは、その冒頭の言葉からも明らかである。

 世界平和統一家庭連合の教理解説書である『原理解説』は、『生書』より6年遅れて、1957年8月15日に韓国で出版された。それがより発展して『原理講論』として出版されたのは1966年である。当時の韓国の状況は、日本による植民地支配から解放されたかと思ったら、「朝鮮戦争」によって国土が焦土と化してしまったという絶望的な状況にあった。そして「東西冷戦」という当時の状況は、『原理講論』の神学的体系にも決定的な影響を与えている。『原理講論』の「世界大戦論」においてサタン側の再臨主型人物とされているのはソ連のスターリンだったのである。

 『生書』と『原理講論』は、第二次世界大戦が終了し、東西冷戦が深刻化しつつある世界という、同じ時代背景の中で書かれた書物であると言える。それは真の平和は人間の手によっては成されず、神の御言葉に従い、神の力に寄らなければ実現できないという、終末論的なメッセージなのである。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』207


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第207回目である。

本書全体に対する評価のまとめ(最終回)

 先回で本書全体のまとめにあたる「おわりに」の内容に対する批判的分析を終えたので、今回は櫻井氏の研究と中西氏の研究の関係、および本書に対する総合的な評価を行うことにする。2016年3月16日に開始して以来、途中何度かの休憩を挟んで、4年以上の歳月を費やして書き続けたこのシリーズも、今回が最終回となる。

 初めに、研究の前提となる櫻井義秀氏と中西尋子氏の「立場性」の問題に触れておきたい。本書は客観的で価値中立的な統一教会の研究ではなく、批判的立場からの研究である。しかし、両者ともに最初からそうだったわけではなく、もともとは客観的で価値中立的な研究をしていたのだが、途中から批判的立場に「転向」したのである。そしてその理由は両者ともに「統一教会を利するような研究結果を発表するとは何事か」というバッシングを受けたことが原因である。

 櫻井氏は1996年に北海道社会学会の機関紙『現代社会学研究』に「オウム真理教現象の記述を巡る一考察ーーマインド・コントロール言説の批判的検討」という論文を発表しているが、その内容は基本的に「マインド・コントロール理論」を否定するものであった。これが札幌における統一教会を相手取った「青春を返せ」裁判の弁護団から、「あなたの論文が統一教会擁護に使われている」と批判されたため、その影響で立場を変えたのである。これは本書における天地正教に関する記述にも影響を及ぼしている。

 一方、中西氏は韓国で別テーマの研究をしていときに偶然、農村に嫁いだ統一教会の日本人女性に出会った。彼女はその女性たちに好感を持ち、礼拝に参加したり、インタビューをしながら研究を続け、その成果を「宗教と社会」学会で、「『地上天国』建設のための結婚:ある新宗教団体における集団結婚式参加者への聞き取り調査から」と題する論文として発表した。しかし、その会合に出席していた統一教会に反対する弁護士たちから「統一教会を結果として利するような論文を発表していいのか」と徹底的に糾弾され、その圧力に屈してしまったのである。

 このように、いまの日本の宗教学界では少しでも統一教会に有利なことを書こうとすると、たとえその内容が客観的で中立的なものであったとしても、統一教会に反対する人たちから圧力がかけられ、批判的な論調に「転向」させられてしまう。要するに、これは純粋な「学問的正しさ」の問題ではなく、「政治的正しさ」の問題なのである。

 こうした宗教学者の「転向」は、オウム真理教事件のトラウマとして理解することができる。オウム事件が起きたとき、新宗教に対する共感的な理解を試みた一部の宗教学者たちが、「オウムの中に潜む闇を見抜くことができなかった」と批判されるようになり、島田裕巳氏はそのことが原因で日本女子大学を退職せざるを得なくなった。オウム事件が日本の新宗教研究に残したトラウマはあまりにも大きく、いまだにそこから立ち直っていないと言っても過言でないほどである。それと同様の圧力が、統一教会を研究する際にも働くということだ。

 櫻井氏や中西氏が恐怖心を感じているのは、統一教会に対してではなく、統一教会反対派から「統一教会に対して好意的すぎる」「統一教会に有利な内容を書いた」というバッシングを受けることである。社会的影響力を持つ統一教会反対派に睨まれたら、学者生命が危機にさらされる。それ故に彼らは、統一教会反対派とあえて癒着することによって、安全圏から統一教会を攻撃するという研究方法を選択したのである。これはある意味でオウム真理教事件以降の新宗教研究者が取るようになった、一つの処世術であると言ってよいであろう。

 本研究における櫻井氏の「立場性」は、自分が行った調査の主たる対象が「脱会カウンセリングを受けた脱会者」であり、自然脱会者を除外している理由を述べている部分に実に鮮明に表れている。
「自然脱会の場合、統一教会への思いは両義的であることが多く、再び統一教会へ戻る元信者もいるので、統一教会に対して批判的な立場から調査を行う筆者とは利害関係において合致しないと思われる。」(p.199)

 これは驚くべき発言である。櫻井氏は統一教会について調査をするときに、自分と利害関係において一致しない対象は排除するというのである。はたしてこれが学問的な調査と言えるであろうか。櫻井氏の調査対象としては、統一教会に対して両義的な思いを持っている人は失格であり、批判的な思いをもっている人しか調査しないというのであるから、これはまさに「結論ありき」の調査であると言える。元信者が統一教会に対して両義的な思いを持っているのであれば、それを事実通りに記述するのが学問的な調査というものではないだろうか。最初から偏ったデータを求めて調査しているという点で、もはやこれはイデオロギー的な調査か、プロパガンダ用の調査としか言いようがない。

 次に、櫻井氏の研究の方法論的な問題点をまとめることにする。櫻井氏の研究の主要な情報源は、統一教会に反対している牧師、脱会カウンセラー、弁護士などのネットワークである。そこは元信者の宝庫であり、「青春を返せ」裁判のための陳述書や証拠書類という形で資料は山のようにある。極めて包括的な資料がいとも簡単に手に入り、インタビュー対象も探さなくても紹介してもらえるのである。しかし、それらは教会への入信を後悔している元信者の証言という点で強いネガティブ・バイアスがかかっている可能性と、裁判に勝つために脚色された可能性の高い、偏った資料である。しかも、札幌「青春を返せ」裁判の原告らは、そのほとんどが物理的な拘束下で説得を受けて教会を脱会した者たちであった。これが櫻井氏の研究における最も重大な方法論的問題である。

 櫻井氏の研究方法の欠陥は、『ムーニーの成り立ち』の著者であるアイリーン・バーカー博士の研究方法と比較することによって明らかになる。バーカー博士は統一教会の主催する修練会に自ら参加したり、統一教会のセンターに寝泊まりしながら組織のリーダーやメンバーの生活を直接観察するなどの「参与観察」と、現役信者のインタビューを行っているが、櫻井氏はテキストの閲覧と元信者のインタビューしか行っていない。「統一教会の修練会とはどんなものか」を分析するときに、実際に参与観察を行った研究者と、過去に参加した人に対してインタビューを行っただけの研究者では、経験の直接性において雲泥の差がある。信仰というものを「生きた経験」であるととらえた場合、実際に人が伝道され、回心していく現場に立ち会っているか否か、また実際に信じている生の信者に触れているか否かの違いは大きい。

 バーカー博士は自分の目で直接統一教会の修練会や信仰生活の現実を見たのに対して、櫻井氏は脱会した元信者の目というフィルターを通してしかそれを見ていない。脱会者の目には、自分が体験した修練会や信仰生活に対する後悔や怒りといった色眼鏡が掛けられており、それを通して自分の体験を再解釈している。信仰は人間のアイデンティティーの中核をなすものであるため、信仰を持って世界を見るのと、信仰を失って世界を見るのとでは、世界はまったく異なる像を結ぶことがある。当然のことながら、「信仰の本質とは何か」を理解しようと思えば、信仰を持っている当事者にとって統一教会の体験が何を意味するのかを理解しようと努めなければならない。しかし、信仰を失った人の目には、もはや信じていた時と同じように世界が輝いて見えることはなく、色褪せた幻のような体験にしか映らないのである。信仰を魚に例えれば、バーカー博士が新鮮な刺身を食べているのに対して、櫻井氏は数日経って腐った刺身か、干からびた魚の残骸を食べているということになるだろう。

 次に、櫻井氏はなぜ中西氏を共同研究者として選んだのであろうか? 櫻井氏の研究は脱会した元信者の証言に依拠した研究であり、一宗教団体の信仰のあり方について研究しているにもかかわらず、現役信者に対する聞き取り調査を全く行っていない。これではいくらなんでもサンプリングが偏っているというそしりを免れないので、もともと全く別の研究をしていた中西氏を共同研究者として巻き込んで、「現役信者の証言も聞いていますよ」というアリバイを作るために、彼女の調査結果を利用したのである。

 こうして巻き込まれた結果として、もともとは客観的で価値中立的であった中西氏の研究は、批判的な論調に変質させられる結果となった。もともとの中西の調査結果は、大多数の在韓祝福家庭婦人は経済的には楽でなかったとしても何とか平穏無事に暮らしており、統一教会の結婚は、男女が好意をよせ合った結果の結婚とは異なるが、彼女たちにとって自己実現となり得るものであるというものであった。彼女たちにとっては、韓国の男性と結婚し、夫や夫の父母に尽くすこと、子どもを生み育てること自体がが贖罪となり、地上天国建設への実践となっている、という肯定的な理解をしていたのである。

 客観的な事実の記述としてはこれで十分なのだが、それでは批判したことにならず、統一教会を利する記述になってしまうことを心配したのか、中西氏は本書の中で、突如として取ってつけたような批判を展開したり、「普通な韓国統一教会」と「異常な日本統一教会」というステレオタイプ的な議論を展開するようになった。しかし、中西氏自身は日本の統一教会を実際に調査したことがないので、それは統一教会反対派から提供された裁判資料からくる「虚像」を丸写しにしているに過ぎない。こうして中西氏の担当した部分は、論理的に破綻した、ちぐはぐな主張になってしまったのである。これは、自分の書いた文章に統一教会反対派が文句をつけないための「忖度」によるものだ。

 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』は、このような「不幸な出会い」によって誕生した本である。それは客観的で価値中立的な宗教研究ではなく、批判のための批判であり、イデオロギー的なプロパガンダ用の研究としか言いようがないものである。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』