韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ18


 先回は韓国独立運動の共産主義者たちの経歴を詳しく述べたので、時間が1945年まで進んでしまいましたが、ここで少し時間を戻して、高麗共産党の内部分裂について話します。高麗共産党は1921年にレーニンから支援を受けた李東輝によって創党されました。
 韓国の民族主義の独立運動も分裂し闘争していたんですが、同じように、共産主義の独立運動の中にもいろんな派閥があり、内部分裂して闘争していました。大きく二つに分ければ、「上海派」と「イルクーツク派」に分かれます。

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 上海派のリーダーが李東輝です。イルクーツク派のリーダーが呂運亨と朴憲永ということになります。上海派はどちらかというと、共産主義でありながら民族解放が第一の課題であるという、民族主義に近い立場であったのに対して、イルクーツク派は完全にソ連の手先と言いますか、社会主義革命を優先させるという考え方をしていましたので、お互いに次のような非難をし始めるわけです。

 イルクーツク派は上海派に対して、「民族資本主義的な機会主義グループである! 彼らの運動は、世界平和のための共産主義の大義に基づくものではなく、ロシアの援助を得る手段として共産主義の仮面を被っているだけだ。偽者だ!」と非難します。

 一方で上海派はイルクーツク派に対して、「彼らは共産主義運動の正統にはずれた反党グループに他ならぬ。コミンテルンの承認と資金援助を受けているわれわれこそ真の共産主義政党である!」と主張し、お互いに正統性を主張して闘うことになります。

 この二つの派閥があったので、大同団結するために行われたのが1921年の高麗共産党大会です。これはコミンテルン極東書記部のタルピロという人が開催を指示したのですが、彼には極東における共産主義運動を調整する任務があったため、両派の統一を図るために、1921年3月に高麗共産党大会を開くように指令しました。コミンテルンにとって最も大事なことは、ソ連に忠節を尽くすことを本分とした党を育成することであり、民族的色彩を帯びたと噂された上海派に韓人共産主義者を牛耳られることは、ソ連にとって好ましくないことでした。ソ連の国益を優先させるこの考え方により、高麗共産党大会の主導権争いは、イルクーツク派の勝利に終わり、主導権を握ったイルクーツク派は、共産党特有の粛清を定石通り敢行しました。

 このように上海派とイルクーツク派の抗争はイルクーツク派の完勝に終わり、イルクーツク派を中心とする高麗共産党が誕生しました。こうして一度はソ連の完全指揮下にある高麗共産党ができたのですが、やがて時流が変わり、生みの親であり育ての親でもあるソ連共産党から、高麗共産党が裏切られることになってしまいます。1925年1月に、日本がソ連邦を承認して国交が樹立すると、ソ連は日本との間に結んだ条約に基づいて韓国人の独立運動を禁じ、韓国人の共産主義者はすべて各県の高麗部所属となりました。つまり、韓国人の党は完全に解体されたわけです。それはソ連の国益のためでした。

 この時点でソ連は日本と一度国交を結ぶわけですが、日本政府から韓国の独立運動をなんとかしてくれと頼まれて、自分達が育てた韓国人の独立運動家を見捨てて、それをつぶしてしまおうとしたわけです。これに憤慨した李東輝は、スーチャン近くの寒村に遁世して再び世に出なかったと言われております。彼は10年後の1935年1月に死んだということですから、非常に淋しい最後だったと言えます。

 ここで韓国国内の共産主義者の動きについてもおさえておきましょう。上海派とイルクーツク派のほかに、ソウル派という国内の共産党が生まれました。1921年1月末、「ソウル青年会」という共産主義運動が旗揚げをしましたが、これは韓国の国内に自然発生した共産党です。これは李東輝(上海派)の援助を受けていました。これに対抗して、イルクーツク派は「火曜会」を立ち上げます。これはレーニンの誕生日が火曜日だったことに因んだ名前です。火曜会は、いわばイルクーツク派の国内支部であり、幹部は金在鳳、朴憲永らが務めていました。

 一方で東京の留学生は、これらと全く無関係に運動を開始し、帰国するとソウルに「北風会」を結成して活動を開始しました。これによって、「木曜会」(イルクーツク派)、「ソウル派」(上海派)、「北風会」(東京留学生)の三派が鼎立するようになりました。このように、共産主義者たちも一体化できずに派閥争いをしていたのです。

 この三派が合同して結成されたのが、1925年4月18日に結成された「朝鮮共産党」(第一次党)でした。しかし、結党後わずか半年で「治安維持法」によって壊滅的な検挙を受けることとなります。以後、分裂と闘争を繰り返しながら、第四次党まで自壊と検挙を繰り返し、次第に朝鮮共産党は衰退していくわけです。このように内部闘争に明け暮れている韓国人の共産党を見て、コミンテルンは愛想を尽かしてしまいます。1928年12月にコミンテルンは「12月テーゼ」と呼ばれるものを出し、「朝鮮共産党は分派闘争に没頭し、実際闘争をしない」という理由のもとに、その承認を取り消してしまったのです。ということは、共産主義の総本山であるコミンテルンの支援を失い、国際的な援助を受けることができなくなってしまったということです。

 その後も、共産主義運動は細々と続くわけですが、その一つが「コム・グループ(Communist Group)」です。1939年に出獄した朴憲永は、コム・グループの指導者となりました。これはソウルに潜んでいた超派的な組織で、朝鮮総督府のあらゆる局に同志を送り、電気、通信、放送機関に潜入し、地下に潜む党員の大部分を組織しました。さらに全国の主要都市に支部を設けました。党再建の最後の努力となったコム・グループは、太平洋戦争の勃発まで生き延びて、インテリ学生層に浸透していたと言われています。

 派の統合に成功した朴憲永は、「赤い星」と呼ばれていました。しかし1941年12月までに大多数の国内共産主義者が検挙され、朴憲永は逃れて光州の煉瓦工場に身を潜めるようになりました。そして、太平洋戦争がはじまり、コム・グループが壊滅した後は、共産主義運動は衰退の一途をたどったのです。この時期の国内共産主義者は、獄中に呻吟するか、転向するか、転向を装うか、地下に逼塞(ひっそく)するか、満州に逃亡するか、延安に行くか、ほそぼそとサークル活動を続けるかのいずれかで、ほとんど息の根を止められていました。非常に厳しい日本の弾圧によって、韓国国内の共産主義運動は追い詰められていったわけです。

 それでは共産主義運動が残ったのはどこだったかと言えば、中国でした。1928年に第四次党が崩壊した後には、海外における朝鮮人の共産主義運動は上海、延安、満州で個々別々に展開されることになりました。それでは上海派がどうなったかと言えば、結局は四分五裂して延安に逃れ、活動を休止してしまいました。延安派は「朝鮮義勇軍」と呼ばれていましたが、少人数で武装し、終戦後に北朝鮮に入って要職に登用されるようになりました。

 一方で満州の運動は、内部抗争を繰り返した後、組織を解体して中国共産党に合流するようになりました。これは韓国人の組織を解体し、中共党の審査を受けて個人的に入党できるということですから、韓民族のアイデンティティーを完全に否定して中国共産党に屈服するという屈辱的手続でありました。しかし、彼らはそれにも甘んじて従い、中国共産党に入党したのです。彼らは中国共産党の支配下で、いつの日か祖国を解放することを誓って忍耐していたということになります。この人たちが、「パルチザン闘争」を行っていきます。その中の一人が金日成だったわけです。

 さて、これらの共産主義運動は、民族の解放のために何か成し遂げたといえるのでしょうか。結果的に、韓国人の共産主義運動は国内でも、ソ連でも、中国でも崩壊し、独立のために力を発揮することはありませんでした。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』115


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第115回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 元統一教会信者の信仰史の具体的な事例の分析の中で、第113回から「三 学生信者 学生と統一教会」に入ったが、先回の元信者C(男性)の事例に続いて、今回から元信者D(男性)の事例を分析する。Dは1999年6月から2000年8月まで北日本にある総合大学の原理研究会で活動したという。私から見ればかなりの後輩にあたる。彼のインタビューの特徴は、単に自身の入信から脱会までの経緯を事実に基づいて話しているだけでなく、原理研究会の勧誘テクニックや、原理研究会と地区教会の違い、学生新聞会の舞台裏、自分自身が原理や組織に対して感じていた矛盾や疑問など、持ち前の分析力を働かせて、主観的な世界についても雄弁に語っている点である。

 Dの思考は批判的・分析的であり、これは頭の良い男子学生にはよくあるパターンである。私も学生時代には同じような思考をしていたために、ある意味で親近感がわく性格である。彼はいわゆる「マインド・コントロール」されている人間とは程遠く、現役の信者だった頃から自分なりに批判的に考える能力を持っていたことが、インタビューから明らかになってくる。櫻井氏自身が「これだけよくわかっていて、統一教会に疑問を持ちならやめずに四年も続けていたのはなぜだろうと脱会カウンセラーでなくとも考えてしまう。」(p.352)と表現しているほどに、彼は“批判的な思考能力を奪われ、画一的な思考しかできない”という一般的な統一教会信者のイメージとは程遠い人物なのである。櫻井氏は、おそらくこれは原理研究会の知的な学生に固有の性格なのであると言いたいのであろう。しかし、実際には彼のような信仰上の疑問を持った人は統一教会の中に多数いると思われ、またそれが原因で教会を離れる者も多数いると思われる。その意味で、彼は特別な存在ではなく、程度の差こそあれ統一教会信者の中に一定の割合で存在するタイプなのである。彼がこうした批判的な思考をしながら4年間も原理研究会にいたということは、批判的で合理的な思考と、それを超越した信仰とが、一人の人間の心の中に共存しえることを示している。そしてそれこそが、統一教会信者の「リアル」なのである。「マインド・コントロール」された統一教会信者というステレオタイプを打破する意味も込めて、彼の批判的な思考を紹介してみたい。

 Dは1996年に自分がカープに勧誘されたときの様子を簡単に描写した後で、「勧誘される側の自分」から「勧誘する側の自分」へと視点を変え、「手付け金をその場でもらうことが重要だ」「男子学生は女子学生からの働き掛けに弱い」(p.344)といった勧誘テクニックの解説を入れ、同時に中心(学舎長)のやり方に対して自分が疑問を感じていたことにまで言及している。彼はこの「勧誘」という場面を中心として、①勧誘される受講者、②勧誘する霊の親、③それを指導するリーダー、という三つの視点からそのプロセスを分析し、三者の間にある意識や認識の違いにまで言及している。つまり、彼は一つの視点からしか物事を見られないのではなく、複数の視点から立体的に事態を分析する能力を持っているのである。

 Dは原理研究会のシックスデーズセミナーに参加したとき、レクリエーションで班長から川に飛び込むよう誘われたが、その場の雰囲気に溶け込めなかったので、飛びこまずにそのまま見ていたという。彼は進行役のスタッフから、「なんで飛びこまなかったの? 自分の枠を超えることも大事だよ」と言われた。Dはこの出来事に関して、「周到に準備されていたように思われる。川の中に入るというのが原理研究会に入るという象徴的な行為のように思われ、ノリでそこまで行かせるのがねらいと思われる。」という冷めた分析をしている。一般的に「マインド・コントロール」とは、本人に自分がコントロールされていることを気付かせることなく、強力な影響力を発揮して個人の信念を変革させてしまうことであると説明される。その定義に基けば、Dはコントロールしようとする側の意図を見抜き、それに抵抗しているという点において、「マインド・コントロール」された状態にはなく、それを回避しようという主体的な意思を発揮していることになる。彼は「マインド・コントロール」の手口を見抜き、それには引っかからなかった。にもかかわらず、彼は原理研究会に入会を決意したのである。これはDが原理研究会の勧誘テクニックに対しては批判的な姿勢を貫きながらも、何か別の理由で信仰を受け入れたのだということを物語っている。

 櫻井氏は「第6章 統一教会信者の入信・回心・脱会」において、統一教会信者が勧誘されるときの状況を、睡眠不足や緊張感や疲労と闘いつつ、朦朧とした意識の中で決断を迫られるものであると描写した。Dはそれを裏打ちするかのように、「この説得はOKと言わない限り、明け方まで説得が続き、よほど体力があるか、気力のある人間でない限り、眠気と朦朧とした意識の中でOKしてしまう」(p.345)と述べている。しかしその直後に、「しかし、ここでOKしたもの達でも、実際に夏の新人研に参加するかどうかはそのときになってみないとわからない。統一教会が嫌だ、ついて行けないと脱落するものも多い」とも書いている。彼は自分が勧誘される側の立場だったときの描写としては、眠気と朦朧とした意識の中でOKしてしまったという自覚があったのであろう。しかし、勧誘する側に回って同じことをしてみた場合には、それが必ずしも有効であるとは限らないという体験をするのである。Dは自分の体験と他者の体験を相対的に比較し、同じ状況下に置かれたとしても、人は必ずしも同じ反応をするものではないことを冷静に観察している。要するに、眠気や根負けで一時的に説得を受け入れたとしても、それが永続的な回心であるとは限らず、最終的にはその人自身の心が決めることだと彼は知っていたのである。

 Dはまた、原理研究会の学生たちが休み期間中に行っていたF(fundraisingの略。資金稼ぎ)についても語っている。「自分は疲れて休むことが多かった。」「自分はFに熱心ではなく、一、二万円分を売って、後は公園で寝たりしていた。売れないと電話で報告する際に班長に叱られ、歌いながら売ってみろとか言われたこともあったが、やらなかった。」(p.346)などと自分の歩みを振り返っている。彼はもともと合理的で批判的な性格の持ち主だったため、おそらくリーダーの言うことを額面通りに信じたり実践したりするのが苦手だったのであろう。このような内的な葛藤を抱えていたり、命令に従わずに活動をサボったりする信者も統一教会には一定数いるのであり、誰もがアベルに言われたことを純粋に信じて歩んでいるわけではない。それでも彼は信仰を持っていた。こうした現役信者が存在するということは、統一教会の信者の実像が、通常考えられているような「マインド・コントロールされた状態」とは程遠いことを示している。

 Dは原理研究会のメンバーが特別なエリート意識を受け付けられていたことを以下のように証言している。「原理研究会は地区教会とは関係なく、日曜礼拝は原理研究会だけだ。『原理研究会はエリートであり、世界のことを考え世界を救うためにやる。地区教会は、先祖のため、家族のためにやっている人が多い。レベルが違う」と教えられた。原理研究会出身者と地区教会出身者では意識と体力・気力が違うという自負があり、Fをやるにしても実績の水準が違う。」(p.347)

 おそらく原理研究会のリーダーたちが学生たちに対してエリート意識を植え付けて信仰を鼓舞したというのは事実であろう。私の時代にも同じようなものの言い方はされていた。しかし、自分の所属する部署や組織が特別な使命を持っているという意識(うちの部署こそが神の摂理の中心であるという意識)は、おそらくどの部署にもあったのであり、原理研究会に固有のものではないだろう。それはメンバーを激励し、やる気を促進するという効果がある一方で、「井の中の蛙」的な発想でもある。私も原理研究会出身者なので同じような傾向があったと思うが、ひとたびそこを出てしまえば、それは全体の中のほんの一部に過ぎず、規模からすればかなり小さな組織であったことに気付いた。

 原理研究会の出身者が、地区教会の出身者と比較して意識や体力・気力において優れているとか、信仰姿勢においてより高度で高邁であるなどということは、おそらく客観的には言えないであろう。ただ一つ、客観的に言えることがあるとすれば、より知的に優れた集団であるということだ。原理研究会のメンバーは、旧帝大を含む国立大学の学生や、有名私立大学の学生によって構成されているのだから、国民の平均値よりもかなり知的水準が高く、それは統一教会内においても同じであろう。もともと社会のエリートになるような大学生を伝道しているのが原理研究会であり、就職した後の男性を伝道するのが難しいという日本の社会状況もあいまって、統一教会の幹部候補生を輩出してきたのが原理研究会であるとも言えるのである。ただし、それは「原石」や「可能性」としての話であって、原理研究会の出身者が本当に統一教会のリーダーになれるかどうかは、その人の実力次第であったと言える。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ17


 韓国独立運動の中で共産主義運動とはどのようなものであったのか、最初に概観を説明します。朝鮮共産党(「第一次党」と呼ばれる)が結成されたのは、1925年4月18日のことでした。しかし、同じ月に治安維持法が公布された関係もあって、間もなくその大部分が日本政府によって検挙されてしまいます。事後第四次党まで再建が試みられたのですが、都合6回に及ぶ大検挙を受けて党は若芽のうちに崩壊してしまいました。したがって、共産主義運動が国内の独立運動そのものに実効を挙げた形跡は、ほとんど認められないわけです。しかし、上海臨時政府に与えた李東輝一派の影響など、海外における独立運動に与えた影響は計り知れないものがあります。影響と言っても、マイナスの影響がものすごく大きいのではありますが・・・

韓国の独立運動と再臨摂理PPT17-1

 その中心人物を三名挙げるとすれば、一人目がこの李東輝(이등휘)という人であります。この人は、韓国の共産主義者の草分けのような人であります。咸鏡南道の端川というところに生まれ、旧韓国武官学校を出て軍人となるわけでありますが、1907年の韓国軍解散の時には江華島鎮営にあって叛乱を指導しました。後に、安昌浩の啓蒙思想に感化され「新民会」に加盟しました。1910年の日韓併合後は寺内総督暗殺未遂事件に関与し、検挙の手が伸びると、シベリアに逃れて付近の居留民や政治亡命者らの指導者となっていきました。

 やがて1917年にロシア革命が起きて、レーニンの労農政府が成立しますと、ボルシェビキ(注:ロシア社会民主労働党が分裂して形成されたレーニン率いる左派の一派のこと。ロシア語で「多数派」の意)がやってきて、李東輝は彼らから共産主義の理論を注入されて熱狂的な信者となり、かつその援助の申し入れに勇気づけられました。彼はロシアの援助によって朝鮮を独立させることを決意するわけです。

 そして1918年6月には、李東輝らがハバロフスクで「韓人社会党」を結成します。1919年3月に「三・一独立運動」が起こると、シベリアの運動家はウラジオストックでシベリア政府の樹立を決議したんですが、間もなく上海臨時政府が誕生したので、李東輝も一派を率いて上海に移動することとなりました。そして、そこで混乱を引き起こすわけです。

 李東輝は「臨政」の国務総理に就任し、主導権の掌握と運動路線の左傾化に努め、結果的には「臨政」内部の紛争を助長しました。コミンテルンは1920年秋に一時金として臨政代表の韓馨権に金塊60万ルーブルを与えました。そのうち40万ルーブルが李東輝の秘書をしていた金立に渡されたのですが、李東輝は「臨政」に一文も入れず、それを資金として翌年(1921年)、上海で「高麗共産党」の創党を宣言したのです。ですから、彼は「臨政」のためというよりは、一貫して共産主義の目的のために動いていたと言えます。しかし、可哀想なことに、李東輝はソ連に忠誠を尽くしたにもかかわらず、最終的にはソ連に裏切られて1935年に失意のうちに死んでいったということです。結局、彼は第二次大戦後まで生き延びることができなかったので、戦後の北朝鮮の指導者になることはできませんでした。

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 二人目の共産主義運動の指導者が、朴憲永(박헌영)という人です。この人はモスクワのレーニン大学で学んだインテリであり、エリートでした。上海の共産青年運動幹部として知られ始め、韓国の国内で「高麗共産党青年同盟」を組織して、「赤い星」と呼ばれたくらいでありますから、共産主義者のスターだったわけです。しかし、韓国の国内で活動していたため、日本の官憲によって逮捕され、解放までに通算10年の獄中生活を送ることになります。やくざの世界でも何年ムショに入ったかで格が決まるわけでありますが、政治的な理由で弾圧されて10年刑務所に入っていたということは、共産主義者としては「勲章」であるわけです。したがって彼は、共産主義者としては尊敬される経歴の持ち主であり、レーニン大学で学んだエリートであったため、本当はこの人が北朝鮮の指導者になってもおかしくなかったわけです。でも、ならなかったということなのです。

 彼は1945年9月12日、これは第二次大戦終了後のことでありますが、朝鮮共産党を再建して書記長となり、1946年10月には朝鮮労働党を創党します。彼は半島の南側で共産主義運動を開始したわけです。しかし、解放直後の韓国ではアメリカが軍政を敷いており、共産主義者を取り締まっていました。1946年8月に軍政法違反の疑いで彼に対する逮捕状が出たため、彼は地下に潜って活動し、10月には追求の手を逃れて越北しました。北に移動したということですね。有名な共産主義者が南からやってきたということで、彼は北で受け入れられます。

 1948年9月、朝鮮民主主義人民共和国が独立を宣言すると、朴憲永は副首相兼外相に就任したのですが、もうこのときには既に金日成が実権を握っていて、南で活動していた朴憲永は、北では何の基盤もない「根無し草」であったのです。彼は有名で尊敬されていた共産主義者だったので、次第に金日成にとって目障りな存在となっていきます。そして1953年、「反動分子・米帝のスパイ」の罪名を着せられて逮捕され、55年に処刑されてしまいました。共産主義の世界というのは恐ろしいですね。

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 三人目の共産主義運動の指導者が、呂運亨(여운형)という人です。この人も、中国に亡命して、南京の金陵大学で学んだということですから、かなりのインテリですね。彼は上海で設立された大韓民国臨時政府に参加し、上海の高麗共産党に入党することにより、共産主義者としての実績を積んでいきます。1923年に上海で逮捕され、韓国の国内で獄中生活を経験しています。1933年には朝鮮中央日報社の社長に就任したということですから、言論の分野で活躍したインテリということになります。

 1945年8月15日の日本敗戦の報を受けて、その日のうちに彼は安在鴻などとともに「朝鮮建国準備委員会」を結成しました。しかし、この独立宣言は連合軍によって否定されてしまいます。連合軍は韓国人による政府の樹立を認めずに、アメリカ軍による軍政を開始したのです。最終的に彼は1947年7月19日に暗殺されたため、戦後の国家樹立まで生き延びることはできませんでした。

 これら韓国独立運動の共産主義者のリーダーたちは、実は金日成よりも年上で、はるかにインテリ(モスクワや南京に留学)で、共産主義者としての実績も上だったのです。にもかかわらず、彼らは解放後に共産主義の国として建てられた北朝鮮の指導者になることはありませんでした。金日成の抗日独立運動の実績は、実は大したことがなかったにもかかわらず、結果的には彼が北朝鮮の指導者になりました。どうしてこうなったのかについては、後に説明します。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』114


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第114回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 元統一教会信者の信仰史の具体的な事例の分析の中で、前回から「三 学生信者 学生と統一教会」に入ったが、櫻井氏はまず統一教会の学生信者を「原理研究会の学生」と「地区教会の学生信者」に分け、両者の待遇や性格の違いを強調してみせた。このコントラストはいささか極端で、ステレオタイプ化されたものであるが、それは櫻井氏のインタビューした原理研究会に所属していた元信者の経験が、櫻井氏の描いてきた悲惨な統一教会の信仰生活とかけ離れたものであったため、「これは特殊な組織における特殊な経験に過ぎない」「楽しい信仰生活は、原理研究会の学生時代にしか存在しない」という差別化を行い、統一教会全体の信仰生活に関する自らの主張が崩壊しないように予防線を張ったものであると私は推察した。今回は元信者C(男性)の事例を扱うが、櫻井氏をしてそうした予防線を張らしめるほどに、原理研究会における彼の信仰生活は楽しいものであったのだ。これがリアルな体験であることは、私も同じ組織の出身者として納得できる。Cは1995年から97年にかけて関西の大手私立大学の原理研究会に所属していたということであるから、私よりも10年以上後輩に当たる。以下に原理研究会に関するCの描写を抜粋するが、それは嘘偽りのない言葉であると思われる。
「宗教的な話には抵抗感もあり、文鮮明がメシヤかどうかもよくわからなかったが、合宿が楽しかった。」「学舎長は父親役、母親役の女性リーダー、信仰歴ごとに分けられた兄弟姉妹の関係の中に収まり、そこは家族の雰囲気だった。」「あの頃が一番勉強したと思うくらい。大学の講義以上に難しい。勉強しているというよりも、楽しかった。もっと聞きたい。もうほとんど麻薬に近い状態。」「こうして1996年の夏には学舎に入り、原理研究会にどっぷり浸かっていく。」(p.340)
「学舎では一日20人分の食事代を2000円で切り盛りするほど貧乏で、給食センターからパンの耳を安く分けてもらったり、時には廃棄されたドーナツをホームレスの人達と争ったりもした。」「学舎に入りたての頃は、メンバーがみな子供じみて見えた。取るに足りないことを喜んだり、皆で笑ったりと。しかし、長くそこにいると『自分の価値観が変わり、また生まれ直すという感じで、子供みたいになる』。そのため、大学生の男女が一緒に暮らしているにもかかわらず、異性に対する恋愛感情などは起きず、むしろ、原理研究会のスケジュールの中で一緒にやっている同士のような愛情で満たされているように思われた。」「貧乏で、本当に貧しくて、いつも腹減っていたけれども、楽しくて楽しくてしょうがないって感じ」「新人を誘うために、それまで手紙など書いたことのないCが、何枚も手紙を書けるようになった。」「自分は尽くしてもらえたから、相手にも尽くせるようになった。」「学生の一人暮らしをやっていて友達とも話すが、上滑りの会話が多いわけで、濃密な人間関係の中で自分のこと、家族のこと、将来の夢とか、しっかり話し込めるとどんどん入っていった。」「原理研究会の熱さは自分に合っていた。」(p.341)

 Cの証言にはまるで青春ドラマのような熱さがある。それは彼にとっては楽しかった青春時代の一コマとして、今も記憶されているのであろう。通常、裁判の原告になった元信者はこうした信仰生活の「リアル」を陳述書に書いたり、法廷で証言したりしない。それでは被告を利することになってしまうということで、こうした記述はことごとく弁護士の指導によって削除され、受動的な被害者を演じるように矯正されるからである。ところがCは裁判の原告ではなく、自由な立場で純粋に櫻井氏のインタビューに答えたため、原理研究会での信仰生活が楽しくて仕方がなかったことを正直にしゃべっているのである。そこに、彼の証言のリアリティーがあり、裁判資料では隠されている信仰生活の真実がある。こうして櫻井氏の著作全体を俯瞰してみれば、裁判資料を基に構築した「受動的な被害者」としての統一教会の信者像と、直接のインタビューから得られた、楽しい信仰生活を送っている能動的な信者像との間に、齟齬が生じてしまっているのである。そしてこの楽しい信仰生活を送っている信者像は、櫻井氏が特別な組織であると主張している原理研究会にとどまらず、すべての統一教会員に共通する「リアル」なのである。

 しかし、この「リアル」が普遍的な信仰生活の真実であると読者に思われてしまっては困るので、櫻井氏はこれがあくまでも「特殊な体験」であることを再度念押ししている。
「大学時代に運動部にでも所属し、辛いけれど楽しかった練習と合宿所での共同生活を物語るようなCの回顧談を怪訝に思う読者もいるかもしれない。原理研究会主催のセミナーを『修学旅行の夜』と評した塩谷政憲の研究(塩谷 1986)にも通じるものだが、これが統一教会における信仰生活の一側面を示していることは事実である。楽しくなければ続けられない。」「しかしながら、既に述べたように原理研究会は統一教会にあって特別に保護された空間であり、伝道や経済活動において厳しく実績を追求されることはない。勧誘からツーデーズセミナー、シックスデーズセミナー、新人研修までは一気に進むが、これを終えれば後は大学の学事歴に沿って年間のスケジュールをこなしていけばよい。大学卒業までに普通に就職して通教するか、献身者になるかを決定すればよいので、セミナー後、新生トレーニング、実践トレーニングと矢継ぎ早に教義と実践を教え込まれ、一気に献身まで詰められるということも行われていない。そうした余裕の中で学生同士の屈託ない会話や寝食を共にする生活が楽しめる。」(p.342)

 ここで櫻井氏が、共同生活の楽しさを統一教会における信仰生活の一側面であることを認めているのは重要である。彼の言うとおり、「楽しくなければ続けられない」のであり、それが現実の信仰生活である。これは櫻井氏が紹介している塩谷政憲氏の研究でも指摘されていることだ。塩谷氏は統一教会の魅力を、同じ目標を共有する若者たちが互いに競争し合い、励まし合いながら共同生活をする「青年集団」であるという点に見た。古来より、子供が大人として社会化する際には、一定期間親元を離れ、「若者組」などと呼ばれる青年集団で同じ世代の若者たちと共同生活をする風習が多くの文明圏に存在し、これが若者たちの自立を促進してきた。しかし現代社会においては親離れ・子離れがスムーズにできない場合が多く、その結果、子供たちは親からの精神的独立を求めて青年集団としての統一教会を必要とする、というのである。
「U会(統一教会)のもっている魅力は、単に宗教団体ということではなく、まずは青年集団だということである。この青年集団が若者達に与えてくれるのは、心許せる仲間達との暖かい雰囲気、同じ目標を共有する仲間達との競争、自己の潜在的エネルギィを引き出し方向づけてくれる使命とその使命にもとずく実践的な体験、その体験の世界へと導いてくれるアイデンティティモデルたる身近な指導者、そしてそれらを説明してくれるトータルで対抗的な世界観である。」(塩谷政憲「宗教運動への献身をめぐる家族からの離反」森山清美編『近現代における「家」の変質と宗教』p.170)

 櫻井氏がインタビューしたCの体験は、奇しくも塩谷政憲氏による研究を裏打ちするような内容となった。しかし櫻井氏は「第6章 統一教会信者の入信・回心・脱会」において、統一教会信者の信仰生活を実に悲壮なものとして描いたので、齟齬が生じてしまった。彼の描いた典型的な統一教会の信徒像は、組織に巧みに勧誘されて教育された受動的な被害者であり、常に睡眠不足や緊張感や疲労と闘いつつ、朦朧とした意識の中でただひたすら苦難に耐え続け、常に実績の追求と精神的な打撃を受けながら、勝利か敗北かという二者択一を突きつけられて、決死的な決意で教団から要求される活動を行い続ける悲惨な者たちであった。それがここへきて、「楽しくなければ続けられない」ことを認めたのであるから、そのギャップは甚だしい。

 この矛盾をカバーするために、櫻井氏は原理研究会が特別に保護された空間であり、彼らは余裕の中で楽しい信仰生活を送っていた、統一教会の中にあっては特異な存在であることを強調するのである。実はこれは、統一教会と原理研究会の違いなのではなく、裁判で主張されている歪めれらた信仰生活の描写と、リアルな信仰生活の描写の違いなのである。実際にはCの体験の中にも貧乏で辛かったことが語られており、地区教会の信者であったAの体験の中にも、同世代の仲間との共同生活の楽しさは語られているのである。どちらの信仰生活においても、辛いことと楽しいことの両方があるのが現実なのであり、地区教会の信仰生活は辛いことばかりで、原理研究会の信仰生活は楽しいことばかりということはあり得ない。しかし、裁判の主張においては辛かったことばかりが強調され、楽しかったことは削除されるのである。リアルな信仰生活の証言の前に、裁判資料によって形作られた虚像がまた一つ崩壊したと言ってよいだろう。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ16


 先回は、1921年にロシアの赤軍と朝鮮の独立軍が衝突して、朝鮮の独立軍が壊滅するという悲劇的な事件、すなわち「自由市事件」の経緯について説明しました。これによって抗日武装勢力は日本と戦う前に内紛によって大打撃を受け、バラバラになってしまいました。独立運動に共産主義者が加入したことによって、運動の戦線は却って四分五裂してしまったわけですが、「自由市事件」の生き残りは再び満州に移動して、活動を再開することになります。今回は「自由市事件」以降の武装闘争について説明します。

 「自由市事件」以降の武装闘争は大きく三つの流れに分かれます。「新民府」という独立団体は、自由市の難を逃れて帰満した金佐鎮らが北満州で大同団結を提唱して結成したものです。「参議府」という団体は、上海臨政の承認の下に、白時観らが創設したものです。また「正義府」という団体もあり、これは高麗革命党の党軍であり、共産主義の団体です。このように分かれて、それぞれ活動していたわけです。

 これに対して日本側は、「三矢(みつや)協約」によって掃討しようとします。1925年6月11日、朝鮮総督府警務局長であった三矢宮松と張作霖の間に、「在満韓国人取締り協約」(三矢協約)が結ばれました。その目的は、独立武装闘争の再燃を防ぐためであり、中国官憲が韓人独立運動家を逮捕して日本領事館に引き渡せば、賞金を支払うという協約でした。これは実はかなり有効でありまして、お金欲しさに韓国人の独立運動家を売る中国人が現れるようになりました。これにより独立運動は打撃を受けるようになっていきます。独立運動を取り巻く環境はかなり厳しかったと言えます。しかし、このころはまだ満州にいれば独立運動をすることができたんですが、やがてさらにひどい状況になります。それが満州事変です。

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 すなわち、韓国国内では独立運動ができないので、「東辺道」と呼ばれる満州の一部に拠点を作って軍を組織していたわけですが、今度は日本がその満州を取ってしまったのです。1931年9月18日に満州事変が勃発し、1932年3月1日に日本は満州国の建国を宣言しました。日本が満州国を建ててそこを治めるようになれば、満州に拠点を構えていた独立運動はその基盤を失ってしまうのですが、まだ満州を取ったばかりの頃は、満州の中国人も日本に対して反感を持っているわけです。それで反満抗日連合軍が燎原の火のように燃え広がって、韓国独立団体はこれら不満を持っている中国人と連合して戦うことにしたのです。

 しかし、1932年には36万人いると見積もられていた反満抗日部隊は、日満軍警察の絶え間ない粛清作戦によって討ち減らされ、民族派の団体は比較的早期に壊滅し、代わって中国共産党に加入した朝鮮人パルチザンが登場するようになります。そのうちの一つが金日成部隊でありました。北満の韓国独立軍は1933年ごろ、南満の朝鮮革命軍は1938年の秋ごろに闘争を継続できなくなり、日韓併合後28年間続けられた民族主義者の武装闘争は終わりを告げることになりました。残ったのは何かと言えば、共産主義の運動だったわけです。

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 この当たりで「キム・イルソン」が登場するわけでありますが、実は「キム・イルソン」を巡っては分からないことがたくさんあります。これが「キム・イルソン将軍」の伝説ということなんですが、韓国の成均館大学の教授で李命英博士という人が書いて有名になった著作に「金日成は四人いた」という本があります。これは、金日成であるとされている人物は数えると全部で四人いて、その人たちの功績を全部自分のものだと言って奪って、北朝鮮の主席になったのが後の「金日成」だということで、要するに本物の金日成は別人だったという話なんです。

 一番最初の「キム・イルソン将軍」の伝説は、かなり早い時代に存在していました。三・一運動が挫折する頃でありますから、1919年から20年ごろに、武装独立運動のシンボル的な存在として、「キム・イルソン将軍」の名が韓国人の間に広く深く伝承され始めました。イメージとしては、「白馬にまたがり、神出鬼没して日本軍を悩ましている名将が東満やシベリアで戦い続けている」という噂が、口伝えであったわけです。それでは後の北朝鮮の主席になった金日成がこのころ何歳だったかと言えば、まだ8歳~9歳くらいの子供だったわけです。ですから彼がこの伝説の「キム・イルソン将軍」であるということは、年齢からしてあり得ないわけですが、その伝説もすべて自分のものにしてしまったわけです。

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 では、この伝説の「キム・イルソン将軍」の正体は誰だったのでしょうか? さきほど説明した「新興武官学校」の教官の一人に、金光瑞(김광서)という人がいました。この人は1909年に東京に留学し、陸軍士官学校第23期生となりました。そして1911年5月に士官学校を卒業し、同年に任官します。ですから、一度は日本軍の軍人になるのです。ところが1919年にソウルに帰り、三・一独立運動を目前にした彼は、抗日独立運動への参加を決意し、国境を越え満州へ向かいました。そして、南満州の新興武官学校の教官となるのです。このときに、金擎天(김경천)という名前に改名しています。それが後に金日成(김일성)という名前に改名したわけです。写真が残っていまして、この人ですが、北朝鮮の金日成主席とは年齢も顔も全く違います。この人が「初代キム・イルソン」と言いますか、もともとの伝説の「キム・イルソン将軍」ではないかと言われています。

 まもなく金擎天は独立運動の舞台をシベリアに移しました。白馬に乗って独立闘争をしていたこと、「金将軍」と呼ばれていたことなどから、彼こそは金日成将軍伝説のモデルだったのではないか、とされています。もしこの金光瑞が1945年の解放の年まで生存していれば、そのとき57歳になっていたはずでした。しかし金光瑞は1942年に亡くなっています。

 日本の敗戦後、朝鮮半島の北部がソ連によって支配され、1945年10月14日に平壌で開催された「ソ連解放軍歓迎平壌市民大会」において、金日成が初めて朝鮮民衆の前にその姿を現したとき、多くの者が「若すぎる」と言って、彼が偽物であることを疑った、という話が残っています。当時の金日成は、まだ33歳だったのです。

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 これがそのときの写真でありますが、ソ連の高官が後ろにいて、「彼こそが伝説の金日成将軍である」と紹介されました。人々は「伝説の金日成将軍」を初老の男性であると想像していたのですが、ソ連の高官たちに紹介された金日成は33歳の青年であったので、「彼は偽者ではないか」という噂は当時からあったわけです。

 ここで疑問となるのは、どうしてわずか33歳の青年が一国の指導者になりえたのかということです。ほかに独立運動で活躍した共産主義者はいなかったのでしょうか? 実はいたのです。その代表的な3名を次回から紹介しますが、どうして彼らが北朝鮮の指導者になれなかったのかということも、あわせて説明します。

カテゴリー: 韓国の独立運動と再臨摂理

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』113


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第113回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 第108回から元統一教会信者の信仰史の具体的な事例の分析に入り、元信者AとBの事例を扱ったが、今回から「三 学生信者 学生と統一教会」に入る。

 櫻井氏は統一教会の学生信者を「原理研究会の学生」と「地区教会の学生信者」に分け、両者の待遇や性格の違いを強調する。これは私にとって個人的に興味深いテーマである。私は「原理研究会の学生」の出身者であり、地区教会の学生信者という立場を経験したわけではないが、櫻井氏によって強いコントラストを施されて描かれたこの二つの立場は、いささか極端で、ステレオタオプ化されたものであると感じる。これが櫻井氏による意図的な差別化なのか、それともたまたまインタビューした学生信者の性格が極端だったのかは定かでないが、私は前者の可能性が高いと思っている。原理研究会と地区の学生部の間に文化の違いがあるのは事実であろう。しかし、原理研究会の学生と地区教会の学生信者の性格や待遇が、櫻井氏が強調するほど大きく異なっているわけではない。

 原理研究会の紹介の冒頭に、櫻井氏は文顕進氏の掲げる「核心的価値」(Core Values)の中身を紹介している。これは私が学生だった時代にはなかったものだが、2008年ごろには原理研究会の中で強調されていた価値観である。いまやその文顕進氏は統一教会(家庭連合)本体とは袂を分かっているので、一種の「隔世の感」を禁じ得ない。櫻井氏はこの内容に関して、「アメリカ流のポジティブシンキングをまとめたもので、特に統一教会の活動に即して語っているわけではない。ここだけ見れば青年にとっては非常に有益な心構えを教えているということになる」(p.336)と評論している。

 櫻井氏はファンダメンタリスト的なものよりもリベラルなものを好む傾向にあるので、文顕進氏のアプローチは肌に合うのかもしれない。もとより宗教の教えには普遍的な部分と個別的な部分があるが、リベラルな宗教の特徴は、個別的な部分を極力削ぎ落として普遍的な部分を強調するところにある。例えばキリスト教においては隣人愛などは普遍的な部分だが、十字架による贖罪などは極めて個別的な部分であろう。同じく統一教会の教えにも、「為に生きる」とか「家庭の価値」といったような普遍的な部分もあれば、「真の父母による血統転換」というような極めて個別的な部分もある。もし櫻井氏が統一教会の教えの普遍的な部分を正確にキャッチできたならば、同じように「ここだけ見れば人間にとって非常に有益な心構えを教えているということになる」というような評価を得ることも可能であろう。しかし、櫻井氏には統一教会の教えの個別的な部分があまりにも鼻について、普遍的な部分が見えなくなっているようだ。

 それに対して、文顕進氏の掲げる「核心的価値」(Core Values)の中身は普遍的な部分を前面に押し出しているため、櫻井氏から「青年にとっては非常に有益な心構え」という評価を得るに至った。今になって思うと、文顕進氏の抱えていた問題というのは、統一教会の教えの中から普遍的な部分のみを抽出して強調するあまり、個別的な部分を軽視し、アイデンティティーが希薄になってしまったことにあるのではないかと思われる。

 この「コアバリュー運動」について櫻井氏は、「正体を隠した勧誘だからサークルへの誘い込みには成功するし、ボランティア活動等への動員も一定程度の効果を上げている。しかし、文科系サークルから原理研究会への移行が必ずしもうまく進まず、サークルのメンバーは多いが、原理研究会は少数という状態が生じているらしい」(p.338)と評論している。これは原理研究会の元メンバーの証言に基づいたものであるから、客観的な状況分析として信用してよいかどうかは疑問だが、この「コアバリュー運動」が現在は継続されていないことから判断して、それほど成功した運動であるとも評価できない。

 これはリベラルなキリスト教の教派が社会に迎合するあまりキリスト教の本質を見失いやすい傾向にあるのとよく似ている。現代社会においては、概してリベラルな教派は教勢を伸ばしておらず、逆に個別性を強烈に主張する福音派や根本主義の教団の方が成長する傾向にある。リベラルな教団の方が一般社会に迎合しているから人気が出てもおかしくなさそうだが、実際はその逆なのである。宗教の中にある一般常識に通じるような普遍的価値観に共鳴したからといって、その人が宗教的回心に至るとは限らないのである。

 櫻井氏は、「原理研究会の活動は、年間を通した新人開拓と夏季・春季休暇におけるキャラバン(物品販売による信仰強化・資金調達)に分けられる。地区教会との違いは、大学の学事歴に従って活動がスケジュール化されていることと、日本の統一教会に割り当てられた資金調達のノルマが原理研究会には直接課せられないということである。そのために、原理研究会における信仰生活には、ある種体育会的で濃密な共同生活の楽しみがある。地区教会信者のように通教からホーム生活、献身、そして祝福へという一直線の信仰生活を求められるのではないために、卒業後に就職して通教者となるか、統一教会を離れるか、統一教会の献身者として全国大学連合原理研究会の業務に就くか、様々な道が選択可能である。」(p.338)という分析を行っている。これはおそらく原理研究会に所属していた元信者から聞き取った内容をそのまま記述しているのすぎないと思われるが、極めて限定された知識に基く偏った分析であると言える。一つひとつ検証してみよう。

 まず、原理研究会の活動が主に新入会員の勧誘と夏季・春季休暇の経済活動によってなりなっているというのはほぼあっている。しかし、大学の学事歴に従って活動がスケジュール化されるのは学生である以上は当たり前であり、これは地区教会に所属する学生でも同じことであろう。原理研究会における信仰生活には、ある種体育会的で濃密な共同生活の楽しみがあるというのは、私自身が経験したものであり、本当である。しかし、それは志を同じくする若者たちが共同生活をすれば必然的に生じるものであり、原理研究会にあって地区教会にないものではない。櫻井氏自身が地区教会の女性信者Aについても、「東京に出て心を許せる友達がなかなか得られなかったこともあり、同じ志を持った仲間と暮らせることが嬉しくて仕方なかった。」(p.326)と記述しているがように、これはどちらの組織でも共通して感じる喜びなのであり、ましてや資金調達のノルマがあるかないかなどということとは全く無関係である。

 日本統一教会の草創期には、多くの先輩たちが御旨のために大学を中退して活動に専念した歴史があり、それ故に「親泣かせ原理運動」などと批判されたが、少なくとも1980年代以降は学生は大学をちゃんと卒業することが推奨されるようになった。私の時代の原理研究会もそうであったし、それは地区教会の学生部でも変わらないであろう。どちらの組織においても大学生は少なくとも卒業するまでは「信仰的モラトリアム」を経験するのである。したがって、卒業後に信仰を続けるか辞めるか、就職して一般社会に出て信仰を続けるか、宗教活動に専従するか、じっくり考える時間があるのは何も原理研究会の学生に限らない。

 また、地区教会の信者が通教からホーム生活、献身、そして祝福へという一直線の信仰生活を求められるというのも間違いである。み言に対する反応の良い青年がそのような一直線に見えるコースを行くことがあるかも知れないが、実際には研修生の進路は人それぞれであり、組織の専従者になる人、仕事を継続しながら通教者にとどまる人、一般社会で働きながら祝福を受ける人、信仰を辞める人など、それぞれが自分の進路を自分で決めるのである。

 櫻井氏は、「原理研究会のメンバーには統一教会の次世代における指導者層になることが求められているために、勉学のゆとりが与えられている。核心的価値の教説もそうだが、社会事業や組織活動によって世界に貢献していくという意識が説かれ、エリート意識も強い」(p.339)として、エリート集団としての原理研究会の特殊性を強調する。しかし実際には、原理研究会のメンバーに勉学のゆとりが与えられているというのは怪しい。私の時代には、天の御旨をさておいて勉学に専念してよいなどという価値観はなく、むしろ睡眠時間や個人の時間を極力削って、御旨と勉学を両立することが理想と教えられていた。そして大学の勉強をしっかりやっていれば統一運動の次世代のリーダーになれるなどと考える者はおらず、むしろそのためには信仰の訓練をしっかりやらなければならないという考え方が強かった。私の時代の原理研究会にも、活動のために勉学をおろそかにして留年する大学生はいたのであり、地区教会の学生に比べて「勉学のゆとりが与えられていた」などといえば彼らは怒り出すであろう。

 原理研究会の学生には「未来の指導者たれ」という理想が語られていたため、エリート意識が強いというのはある程度当たっているかもしれない。しかしこれは、一流大学の出身者が持つある種共通の感覚であると言えるだろう。「男性学生が多いせいもあってノリは体育会、臨戦態勢の雰囲気がある」(p.339)という記述も、一部の男子学生から聞き出したことを一般化しているに過ぎない。

 これらは、櫻井氏のインタビューした原理研究会に所属していた元信者の経験が、櫻井氏の描いた悲惨な統一教会の信仰生活とかけ離れたものであったため、「これは特殊な組織における特殊な経験に過ぎない」「楽しい信仰生活は、原理研究会の学生時代にしか存在しない」という差別化を行い、統一教会全体の信仰生活に関する自らの主張が崩壊しないように予防線を張ったものであると解釈できる。しかし現実には、「楽しい信仰生活」は原理研究会にも地区教会にも存在するのである。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ15


 先回は抗日武装組織としての「大韓独立軍」と「北路軍政署軍」を紹介し、その代表的な戦闘としての「鳳梧洞戦闘」と「青山里戦闘」を紹介しました。このように韓国人の武装集団が日本に対してかなり激しく抵抗したことは事実なんですが、その後に一つの不幸な事件が起こります。それが「自由市事件」と呼ばれるものです。

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 「自由市」とは何であるかというと、ロシア語で「スヴォボードヌイ」という市がありそれは「自由な」という意味なので、朝鮮人はスヴォボードヌイを「自由市」と呼んでいました。そこで1921年にロシアの赤軍と朝鮮の独立軍が衝突して、朝鮮の独立軍が壊滅するという非常に悲劇的な事件が起きるわけです。この事件の経緯について説明しましょう。

 1920年10月の青山里戦闘の後、間島地域の朝鮮人武装組織は日本軍による掃討作戦に追われ、ロシアのスヴォボードヌイに移動しました。そこでロシアの赤軍とも連携して、体制を立て直そうと考えたということです。このロシアの「赤軍」とは何であるかというと、共産勢力のことです。当時はロシア革命の直後であり、共産主義の軍隊と、革命に反対して旧体制を守ろうとする軍隊が両方あったんです。旧体制を守ろうとする勢力を「白軍」と呼んで、共産主義側の軍隊を「赤軍」と呼んでいました。この赤軍と連携して、体制の立て直しと巻き返しを図ろうと、韓国の独立運動家たちは考えたわけです。

 しかし、主導権争いを巡って権力闘争が起こってしまい、朝鮮人武装勢力同士で対立するようになりました。そしてロシアの赤軍は朝鮮人武装勢力を武装解除しようとしましたが、朝鮮人武装勢力はこれに応じず抵抗しました。こうした中、1921年6月28日に赤軍と朝鮮人武装勢力の間で戦闘が起こりました。これによって朝鮮人武装勢力は多数の死者を出して、軍隊は壊滅してしまいました。これが概略ですが、なぜこうした不幸な事件が起こったのか、その背景を説明します。

 もともとレーニンの側には、韓国の独立軍を利用しようという意図がありました。これが「遠東革命軍の編成構想」と言われるものです。レーニンの世界革命構想は非常に雄大でした。レーニンは当時、上海臨政の国務総理で高麗共産党上海派を創党した李東輝に独立資金200万ルーブルの供与を密約して、一次金として60万ルーブルを渡していました。レーニン政府は近い将来、日本と戦争することを確信していたので、日・中・韓・蒙古等の革命青年、すなわち共産主義思想を吹き込まれた青年たちによる「国際遠東革命軍」の編成を計画していました。そして韓人部隊をその軍隊の主導勢力とするために、1920年7月に上海臨政の駐モスクワ代表であった韓馨権と以下のような要旨の協定を締結していたのです。
1.労農政府(ソビエト政府のこと)は、韓国独立運動を積極的に支援する。
2.韓国臨時政府は、暫定的に共産主義を採択する。
3.労農政府は、沿海州と満州各地の韓国独立軍がシベリアに結集して整訓することを歓迎し、必要な装備の供与と補給を負担する。
4.韓国独立軍は露領内においては赤軍司令官の指揮を受ける。

 これは、韓国独立運動がソビエトの参加に入るということを意味します。しかしこのとき、日本軍の間島出兵によって苦境に陥っていた抗日武装組織は、上海臨政から遠東革命軍の編成計画を通知されると、これに応じて北上することを決意するのです。

 金弘壹は後の光復軍総司令部参謀長を務めた人物でありますが、彼は「独立を成就するためには、一時的でもロシアの支援を受けるのはやむを得ないという説明を聞いて、シベリア行きを決心した」と回想しています。これにより、それまでバラバラであった民族主義の団体が統合され、「大韓国民軍団」と称し、兵力3500人で三個大隊に編成しました。そこに、高麗共産党イルクーツク派の軍隊「自由大隊」(1000余名)と、韓人パルチザンの「サハリン部隊」(約1000名)などが加わって、総人数が7000名以上に膨れ上がりました。抗日武装勢力が一つにまとまったのは良かったのですが、問題はこれらの部隊をいかに統合するかということでした。

 最大の勢力を持つ大韓独立軍は他団体を解散して軍団に吸収することを考えましたが、共産主義派はその逆を考えたのです。レーニンは韓国の独立のために遠東革命軍を構想したわけではなく、対日戦争のための革命軍の創設を期待していたので、イルクーツク派の将軍を長とする三人軍政委員会を組織させ、革命軍の編成を調整するために自由市に派遣しました。こうして三人軍政委員会による革命軍への改編が始まったのですが、各団体の主張は真っ向から対立しました。やがて主導権争いは血を見る激しさになっていきます。

 レーニンの指示を受けた三人軍政委員会は、最終的に諸団体の現幹部は放逐して、自由大隊(赤軍)に吸収する決定をくだしました。これに「サハリン部隊」が怒りだし、大韓独立軍を誘って自由市からの脱出を計画し始めました。そうした中で、1921年6月28日に自由市で赤軍と朝鮮人武装勢力の間で武力衝突が起こり、大韓独立軍の死者700名、負傷者数百名、伐採労働に連行されたもの1000余人を越える大惨事が発生したのです。民族派が初めて統合して創設した大韓独立軍団は、これによって壊滅的な打撃を受けたのです。これはあまりにも悲劇的な出来事でした。

 佐々木春隆氏は著書『韓国独立運動の研究』において、以下のように述べています。
「革命の歴史は、同床異夢で始まる。革命という大義のために小異を捨てて大同し、既成政権を打倒する。そして政権を握れば小異が吹き出して権力争いになり、粛清が始まる。最後に残ったものが革命の英雄である。フランス革命、ロシア革命、明治維新、中共革命などみなその軌を一にする。すなわち革命成功のポイントは、まず反体制派の大同団結にあることだけは疑いがなく、大同なくして革命が成功した例はないのである。けれども韓国の解放運動では、成功する前に排他運動や内輪の粛清が始まり、果ては同士討ちさえ演ぜられた。」(p.528)

 こうして、念願した抗日大武力育成の夢は水泡に帰す結果となります。すなわち、日本と戦う前に内紛によって大打撃を受け、バラバラになってしまったのです。この「自由市事件」の後にどうなったかと言えば、大韓独立軍団の各代表15人は自由市を離れ、公然と李東輝と決別し、「共産主義者はボルシェヴィキの傀儡であり、ボルシェヴィキは朝鮮独立軍を内乱に利用しているのであって、目的を達成すればお払い箱にするのが目に見えている」と非難しました。これはソ連の本音を鋭く見抜いていたと言えるでしょう。

 結局、独立運動に共産主義者が加入したことによって、運動の戦線は却って四分五裂してしまい、悲惨な状況となりました。「自由市事件」の生き残りは再び満州に移動して、活動を再開することになります。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』112


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第112回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 第108回から元統一教会信者の信仰史の具体的な事例の分析に入り、先回から2人目の元信者B(女性)の事例に入ったが、今回はその続きである。

 Bは短大生だった1987年に伝道され、卒業して就職した後も伝道活動などを行いながら信仰生活を送っていた。しかし仕事の後、夜遅くまで活動して帰宅する彼女の生活を姉が怪しく思い、何をしているのか問い詰めるようになった。それで彼女は家を出て、仕事を辞めて「献身」することとなる。そこから彼女の苦しい生活が始まった。

 櫻井氏の記述によれば、「数年間の伝道(壮婦対象の訪問伝道)と経済活動(改造ワゴン車で道内を移動し、訪問販売)に明け暮れ、健康を害した。元々身体が丈夫でなかったが、身体を酷使しすぎた。」(p.332)とある。一般の生活においても、健康状態がすぐれなければ陰鬱な気分になるように、健康を害することによって心霊が暗くなることは信仰生活においてもよくあることである。信仰の本質はマゾヒズムではないので、体を壊す程度にまで自分を酷使するのではなく、きちんと健康管理をしながら息の長い信仰を持つように心がけることが大切である。しかし、これを若くて純粋な信者だけの責任に帰するのは酷というものであり、健康面における上司の配慮は必要であろう。そのような配慮が当時の上司にあったかどうかは疑問の残るところである。

 しかし一方で、信者の側にも自分の健康を守るために最善を尽くすという意識は必要である。体の不調を訴えることは不信仰でもなんでもなく、身体の状況を正確に報告して上司に適切な判断をしてもらうような努力も必要であると思われる。この辺のコミュニケーションがうまく行かないと、結果的に無理をして体を壊し、恨みが残るようになる。それで信仰を失ってしまっては元も子もないであろう。

 Bの場合には単に身体が弱かったというだけでなく、自分自身に対する意識の持ち方にむしろ問題があったのではないかと思われる記述が見受けられる。「伝道でも経済活動でも常に葛藤を抱えながらの歩みでどうしようもなく辛かった。マイクロでは実績を上げないと負債になった。」(p.332)とあるように、活動に対して感じていた感情は概してネガティブなものが多かったようだ。普通に考えれば、それほど辛いならやめたらいいのにと思うであろう。信仰そのものを辞めることは可能であるし、信仰を辞めないにしても、いまのような活動形態ではなく、もっと緩い形で教会につながる方法を探せばそれも不可能ではなかったはずである。事実、そのような人は多数存在しているからである。

 辛い活動にもかかわらず彼女がこの道を捨てられなかった理由は、「氏族メシヤである自分の存在を否定することができない。そのときはもう自分はどうなってもいいと思っていたのだ。しかし、マイクロは家族のためにやらなければならなかった。そうしなければサタンが讒訴すると信じていた」(p.332)というのである。自分はどうなっても構わないから家族のためにこの道を歩むというのは、一見自己犠牲的で人の為に生きる素晴らしい信仰のように聞こえるかもしれないが、神に対する感謝の念がなく、なかば自暴自棄になっているという点で正しい信仰姿勢であるとは言えないし、健全な精神状態であるともいえない。これは統一教会の理想的な信仰者の姿ではないばかりか、典型的な姿でもない。

 キリスト教の伝統においては、他者のために犠牲的に生きることを美徳として教えてきたが、これは決して自分自身を粗末にすることを意味しない。「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」というイエス・キリストの御言葉にあるように、誰もが自分自身を愛しているという前提のもとに、隣人愛が説かれているのである。そしてまた、本当の信仰は、神が自分を愛しておられるがゆえに、私も自分自身を大切にしようと考えるのである。その意味で自己愛と隣人愛は究極的に矛盾するものではない。

 統一教会の信徒たちが長年にわたって信仰の指針としてきた『御旨の道』という文先生の御言葉集には、以下のような言葉がある。
「自分が生まれた地を愛することを知る者は、自分の体を愛することを知る者である。自分の体を愛する人は自分の心を愛する人であり、自分の心を愛する人は神様を愛する人である。」「人格者とは、自分のことを早く済ませて、他人のことをまず考える人のことをいうのである。」

 統一教会では、まず神から頂いた自分自身の体を大切にするよう教えている。健康管理も自身の体を愛することの一つである。そして、自分の心、魂、心霊を大切にすることもまた、自分自身を愛することである。自分の精神状態が不安定で不健全であれば、神の御旨を正しく担うことができないので、常に祈り、み言葉を学ぶことを通して心を正しい状態に保つことが、自分の心を愛するということである。それが究極的には神を愛することにつながるのである。そして、私が他人を愛するためには、私自身の心と体が神を中心として一つになっていなければ、他者の前に正しい主体として立つことができない。その意味では、自分自身を正しく愛することのできる人のみが、他者を正しく愛することができるのである。こうした考えを持つ人が健全な信仰者であると言えるであろう。

 その基準から見れば、Bの信仰はどこか自暴自棄的なところがあり、本音においては自分自身を嫌っていて、そういう自分を犠牲にすることに一種のヒロイズムを感じて酔っていたのではないかと思われるふしがある。酷な言い方かもしれないが、そうした信仰姿勢のままではいつか枯れてしまい、長続きしない運命にあったのではないだろうか? 信仰は何よりも、自分が神に愛されていることに対する感謝の念から出発しなければならないからである。

 神に対する感謝の念が欠けていたBの信仰の動機となっていたものは何だったのだろうか? それは「恐怖」であった。「自分にはものすごい恐怖心があった。脱会するときに家族に何かあるのではないかと非常に怖かった」「自分の不信仰で家族にけががあったという証しを以前に聞いていたためだ。」(p.333)という表現にも示されているように、自分がこの道を行かなければ家族が酷い目に遭うかも知れないという恐怖心が、辛くてもこの道を行く動機となっていたのである。「恐怖」が信仰の動機となることは統一教会以外の宗教でもあることであり、「祟り」「バチ」「因縁」「怨恨」といったものから逃れることが信仰の動機となることは日本の宗教においては珍しくない。ユダヤ・キリスト教の伝統においても、旧約聖書の世界においては恐怖が信仰を鼓舞するケースが多く登場する。それはイスラム教においても同様である。

 しかし、統一原理の理解によれば、こうした「恐怖」を動機とした信仰は人間の心霊の成長過程においては初期の段階であり、そこからやがて喜んで信じる段階へ、さらには親の事情や心情を悟って「侍る」段階へと成長していかなければならないとされている。そうした意味では、Bの信仰はまだ初期段階のものであり、そこから神の愛を感じて感謝し、喜んで信じる段階へと成長して行かなければならなかったのである。

 より正確には、Bの信仰は恐怖や家族に対する使命感によってのみ支えられていたわけではなく、祝福に対する希望も動機の一部を形成していたようである。それは櫻井氏の以下のような表現に現れてる。
「Bの八年間に及ぶ統一教会員の生活において信仰を継続した理由は、家族への使命感と自身の幸福への希望だった。これは途中でやめることへの恐怖と祝福へのあこがれ、期待が半ばした。」(p.334)

 これはBの信仰生活の実際という点ではある程度正しい指摘なのかもしれない。しかし問題は、その祝福へのあこがれが組織によって阻まれているとB自身が感じてしまったことである。櫻井氏の表現によれば、「伝道と経済活動は祝福のための条件だから辛いのだと自分に言い聞かせるところもあった。しかし、Bには祝福を受けるようにという知らせは来なかった。祝福を受けたいということで責任者にも意向を伝えていたが、何度か合同結婚式の選にもれた。その後、聞いたところでは、祝福該当年齢・条件を満たしても教区の都合により選考されないこともあるらしい。『この時期、ベテランの女性信者が合同結婚式や海外伝道のためにいなくなり、教区長が自分を地区に置こうと考えていた』」(p.333)ということらしい。

 Bのこの現状認識が正確で客観的なものであるという保証はないが、絶対にありえないともいえない状況だと思われる。しかし、祝福適齢期の女性信徒を永遠に未婚のまま教区に置いておこうという教区長はいないわけであり、もう少し待てば彼女にも祝福のチャンスはあったのであろう。残念ながら、彼女はそれを待つことができずに信仰を捨ててしまったということである。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ14


 先回から、韓国と中国の国境沿いの「東辺道」という地域で活動した抗日武装組織の活動について解説を始めました。これら抗日武装組織は、しばしば越境して朝鮮北部の穏城(オンソン)、茂山(ムサン)、恵山(ヘサン)などの町々を襲撃しました。そうした闘争の中で、日本軍と戦って大きな成果をあげたものだけ紹介しましょう。

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 抗日武装集団の中で代表的なものの一つが「大韓独立軍」です。指導者は洪範図(홍범도)という人です。上の図に示したような経歴の持ち主なのですが、「鳳梧洞(봉오동)戦闘」と「青山里(청산리)戦闘」というのが非常に有名で、これらの大きな成果を上げたということで洪範図は有名になりました。これらの戦闘の内容について解説しましょう。

 まずは1920年6月の「鳳梧洞(봉오동)戦闘」です。1920年6月4日、洪範図が率いる約30人の独立軍が豆満江を渡り、咸鏡北道(함경북도)・鐘城郡(종성군)江陽洞(강양동)に駐留していた日本軍の国境歩哨所を急襲した事件から始まった戦闘のことです。これは1920年ですから、ちょうどお父様が生まれた年になります。この戦闘で洪範図は、当時700人に過ぎなかった部隊を指揮し、鳳梧洞の地形をうまく利用した作戦で日本軍を誘引し戦闘を勝利に導いたと言われています。この戦闘で日本軍は戦死者150人、負傷200人を出しました。 一方の独立軍側の被害はほとんどなく、さらに日本軍の小銃160丁、機関銃3丁を得るという戦果を上げました。鳳梧洞戦闘での勝利で自信を得た独立軍は、その後の戦闘でも勝利を得るようになります。こういう武装闘争があったということが歴史に残っています。

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 もう一つの大きな武装集団が「北路軍政署軍」で、指導者は金佐鎮(김좌진)でした。この人は忠清道に生まれて満州に渡り、北路軍政署を組織しました。新民府の幹部として満州において独立軍の一派を組織し、「青山里(청산리)戦闘」などで指揮を執ったことで有名な、韓国では尊敬されている独立運動家の一人です。

野人時代

 実は、この人の血統に生まれた人々がまた結構すごいんです。金佐鎮の息子が金斗漢という人で、この人は任侠でありまた国会議員だった人です。韓流ドラマの「野人時代」を見た人はご存知と思いますが、「野人時代」の主人公が金斗漢です。その金斗漢の娘、すなわち金佐鎮の孫にあたるのが金乙東で、この人は女優であり、また国会議員です。この人は我々の運動につながっていて、韓国で議員連合を立ち上げたときには、その集会の招聘人になってくれました。

金乙東と宋一國

 この金乙東の息子が実は宋一國で、韓流ドラマ「朱蒙」で主役の朱蒙をやった俳優です。金佐鎮からみれば曾孫にあたります。こうした方々が私たちの運動につながっているわけですが、金佐鎮の後孫ということで、かなり有名な家系です。宋一國の先祖をたどれば金佐鎮という独立運動家がいるので、彼もまた「自分は愛国者の血統である」ということを意識している人です。

 そうした中で、「琿春(こんしゅん)事件」と「間島出兵」ということが起こってきます。朝鮮と国境を接する間島の一部である中華民国吉林省の琿春が1920年9月12日と10月2日の2回にわたり、馬賊などにより襲撃された事件を「琿春事件」と言います。これらの事件で、日本領事館が焼失し、女性や子供を含む13人が殺害されました。

 これを受けて同年10月7日、この襲撃を「不逞鮮人」によるとした原内閣は、居留民保護を名目に、朝鮮人がたくさんいる間島に出兵することを閣議決定し、中国側との折衝を開始しました。これを「間島出兵」と言いますが、要するに満州の間島で日本軍が朝鮮人や中国人の活動家、匪賊、馬賊に対して実施した鎮圧・掃討作戦のことです。いよいよ満州における朝鮮人の本拠地に日本軍が乗り込んできたということなのです。

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 それを迎え撃って戦ったのが「青山里戦闘」ということになります。間島出兵中の1920年10月21日から26日にかけて、満州の間島和竜県の青山里付近で、日本軍と朝鮮人の独立運動武装組織及び中国人の馬賊との間で行われた戦闘のことを指します。韓国系の文献は、青山里戦闘を「青山里大捷(たいしょう)」と呼び、独立軍の大勝利であったとしています。これぞ独立運動の中で最も華々しい勝利であると認識しているということです。

 しかし、青山里戦闘の評価は日本側では異なっています。日本側の史料によれば、青山里戦闘で受けた日本軍の損害は、「戦死者11名、負傷者24名のみで、将校の死傷は見当たらない」となっています。この報告は靖国神社の合祀名簿によって裏付けられているということですから、日本側から見れば小競り合いをして、多少の戦死者が出たに過ぎない、という位置づけなのです。すなわち、歴史的事実というものは、誰がどう解釈するかによって意義付けが変わるわけですが、なぜ韓国がこれを重要視するかと言えば、この「青山里大捷」は、韓国が言うところの「韓民族の独立運動」の中で重要な部分を占めており、大韓民国の「建国神話」の中核をなしているからです。

 国を建てるには神話が必要です。こういう英雄によって国が建てられたという神話が必要なのです。日本の場合にはそれは古代の神々の神話になるわけですが、大韓民国の場合には、日本の帝国主義と勇敢に闘った抗日武装闘争の英雄たちがいて、その人たちが祖国光復の時に帰ってきて、「俺たちがこうして勇敢にたたかったから大韓民国ができたんだ」と主張したわけです。その人たちが政権を維持するためには「神話」がなければならないので、この青山里戦闘というのは目覚ましい大勝利だったんだと主張されることになるわけです。それが大韓民国の歴史に記されるようになりました。

 ところが韓国とは対照的に、北朝鮮版の「独立運動史」はこの青山里戦闘にまったく言及していません。なぜなら、北朝鮮の建国神話は金日成の神話だからです。金日成のパルチザンのみが唯一の武装抗日団体であったという北朝鮮の公式見解に反し、不都合なので、この青山里戦闘はなかったことになっているのです。このように、国の立場によって一つの戦闘を見つめる視点はだいぶ違うわけです。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』111


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第111回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 第108回から元統一教会信者の信仰史の具体的な事例の分析に入り、3回にわたって元信者A(女性)の事例を分析したが、今回から2人目の元信者B(女性)の事例に入る。

 Bは1987年から94年まで8年近く統一教会で活動した元信者であり、櫻井氏は彼女が脱会して6年目に聞き取りを行ったという。伝道されたときには大学2年生だったということなので、年齢的にも信仰歴においても私の少し後輩にあたる世代である。

 Bは札幌の短期大学の2年生の時に、クラスの友人から伝道された。街頭で見知らぬ人に声をかけられてついて行ったのではなく、「個人的縁故者」から最初の接触を受けたパターンである。ここでBという個人の事例ではなく一般論として、見知らぬ人から勧誘される場合と「個人的縁故者」から勧誘される場合のどちらがより信者になりやすいかという疑問に答えた、アイリーン・バーカー博士の研究の結果を紹介したい。
「個人的縁故者は、回心にいたる手続きの最初の段階を抜かしているという感じがする。彼らの多くは、見知らぬ人からアプローチされても反応しそうな人々ではないし、友人や親類から運動についてより深く検討するよう説得されなければ、その過程が始まる前にそこから『抜け出すことを選択した』であろう。したがって、彼らはメンバーの中ではいくらか非典型的なグループを構成しているのである——これは入教した両親たちの場合に最も明らかである。友人に連れて行かれて修練会に参加した人々は、とりわけ入教する可能性が高いと示唆されてきた。新しく知り合った人よりも、もともと知っていた友人の方が忠誠心や義理の圧力が大きいだろうと思われるからである。実際には、そうではないことが分かった。その縁故関係は回心にいたる最初の選択を飛び越すことになるかもしれないが、それ自体は、それ以上の結果をもたらすほど強力なものではない。縁故者は見知らぬ人々に紹介された人よりも入教する割合は少ないし、さらに、彼らは修練会の体験をした後に運動に対して最も激しく否定的な評価を下すグループなのである。すなわち、統一教会の『キャリア』の最初のハードルを越えた後に、最終的な結果を決めるより重要な要因は、友人や親類の経験ではなく、その人自身の個人的な経験であり傾向であることは明らかであると思われる。」(『ムーニーの成り立ち』第4章、「ムーニーと出会う」より抜粋)

 この分析をBの事例に当てはめれば、彼女が最初にビデオセンターに通うようになった理由としては、誘ってくれた友人に対する信頼があったとは言えるかもしれないが、最終的に原理を受け入れるかどうかに関しては、そのこと以上に本人の中にそのような素地があったかどうかが大きく影響したということになる。友人に誘われたからと言って、伝道される確率が高くなるわけではなく、むしろ見知らぬ人に誘われたケースよりもその割合は低いのである。Bの場合、家の信仰が浄土真宗であったにもかかわらず、小学校のときに教会の日曜学校に通った経験があることから、もともとキリスト教的な教えに対する親和性を持っていたのではないかと思われる。

 櫻井氏の記述では、彼女がビデオセンターで学んでいる間、そこが統一教会であること、宗教を教えることなど一言も説明されなかったことが強調されている。しかし、Bの場合にはこうした情報の開示・非開示の問題とは関係なく、特別な認識の枠組みを持っていたと思われる。Bはフォーデーズまたはライフトレで再臨主の名前と統一教会の名前を明かされたのであるが、その後、新生トレーニング、実践トレーニングを経た後でさえ、「統一教会を世界救済の団体だと思っており、宗教団体とは思っていなかった」(p.331)というのである。客観的に見れば統一教会は明らかに宗教団体であるため、その中にいながらもそう認識していなかったというのは、一般の人からは理解しがたい感覚であろう。しかし、統一教会の信仰を持った者であればある程度は理解が可能である。

 統一教会の純粋な若い信者は、「統一原理は単なる宗教団体の教理ではなく、宇宙の真理である。統一教会は単なる宗教団体ではなく、世界を救済するために神が立てた特別な団体である」と信じていることが多い。もし統一教会の信者の中に、「統一原理は一宗教団体の教理に過ぎず、統一教会も一つの宗教団体に過ぎない」と思っている人がいたとすれば、その人は既に信仰が冷めてしまった人か、よほど客観的な立場で教会に所属している人であろう。多くの食口たちは、統一教会やその教義を客観的で冷めた観点から見ているのではなく、もっと自分自身の実存と結びついたものとして認識しているのである。

 そしてこれは統一教会に限らず、およそ熱心に信仰する宗教団体の信者においては共通した感覚であると言えるであろう。熱心に信じる者の心においては、「教義=真理」なのである。教義が真理であると信じているからその宗教に属しているのであり、自らの信奉する教義が「特定宗教の一教義に過ぎず、普遍的真理ではない」などとは考えないのである。したがって、そもそも彼らの主観においては「真理」と「教義」の区別は存在せず、その教義は宇宙の真理であり、人間の生き方に対する普遍的な指針である。そして自分が所属するのは「世界救済の団体」であって、単なる宗教団体だとは思っていないのである。

 Bもまた、このような感覚の持ち主であった。したがって、文鮮明師や統一教会等の具体的な名前を明かされた後でも、それを単なる宗教団体であるとは思っていなかったのである。こうした感性を持つBの主観においては、最初から教団の名前を明かさなかったことや、宗教であることを教えなかったことなどは、むしろどうでもよいことであり、それよりもこの教えが「自分にとって真理であるかどうか」を真剣に考える、実存主義的な傾向が彼女にはあったと言えるであろう。このことは、最初から教団名や伝道の意図を明かさない伝道方法が持っている倫理的な問題を正当化することにはならない。しかしBという個人の主観においては、そのことはさしたる問題ではなかった。それをインタビューした第三者が問題視するのは、後付けの解釈に過ぎない。

 Bは「創造原理の神観に感動した」(p.330)と正直に述べているので、基本的に宗教的感性のある人物であることが分かる。Bの堕落論に対する反応は興味深い。「堕落論では罪の観念を持った。」「自分にも当てはまる、自分は汚いと思った。」「自分は堕落しているからやめます」(p.330)といった表現からは、原理を聞く前の男女関係が彼女にとって個人的な負債として認識されていたことが推察される。自分の体験した男女関係から堕落論を受け止め、自分は罪深いと感じるのは青年が伝道される過程ではよくあることであり、とりたてて珍しい現象ではない。しかしながら、自己卑下的な感覚で罪をとらえ、それが信仰の動機となった場合には、神から愛され許されている自分であるという感覚を育てることができず、健全な信仰を育てられないことも多い。Bの場合にはこうした課題を持っていたように思われる。

 Bはセミナーを通して聞いた教義を深刻に受け取り、その真理性も認めていたが、この道があまりにも大変そうなので、自分にはやって行ける自信がなかったという。ここで重要なのは、原理の真理性を認めたとしても、この道を行かないという選択をする人は実際に多数存在するということだ。バーカー博士は著書『ムーニーの成り立ち』の第6章「修練会に対する反応」の中で、統一教会の修練会に参加した人々は「完全な肯定」から「完全な否定」に至るまで実に多様な反応を見せたが、「非入会者たちのほぼ半数が講義はかなり多くの真理を含んでいると思い、9%がそれらを真理で『ある』と信じていた」という事実を明らかにしている。このように「原理は真理である」と認めながらも彼らが信者にならなかった理由は、自分はそこまで献身的になれないので荷が重すぎると感じたからであるとか、自分はこの教会にいるにはあまりに利己主義的である、といったものであった。これはBが「献身」を決意できなかった理由とほぼ同じなのだが、最終的にBは信仰を持つようになる。それは基本的にBの中に「自分を変えたい」とか「自分の悩みを解決したい」という欲求があったからであると思われる。

 Bは引っ込み思案でこつこつと積み上げるタイプの性格だったという。そのBが自分を変えるために、札幌のススキノを走ったり、大通公園の噴水に飛び込んだりといった、いわゆる非常識なことにあえて挑戦しながら、自分の殻を打ち破ろうとする姿もまた、青年信者の信仰生活においてはよくあることであろう。しかし、Bの信仰が持っていた本質的な課題は、基本的に自己肯定感が弱く、そうした嫌な自分を否定することによって生まれ変わろうとするあまり、無条件に自分を愛してくれる親なる神の心情をなかなか感じられず、心霊の健全な成長がうまくなされなかったことにあったのかもしれない。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』