韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ13


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 佐々木春隆の著作である『韓国独立運動の研究』(国書刊行会、新装版2012年)では、韓国の独立運動を大きく6つに分類しています。これまで、この分類でいえば最初の3つ、すなわち①国内における民族運動、②中国における臨時政府を中心とする運動(上海臨時政府の金九を中心とする運動)、③米州における李承晩らの運動(外交努力を中心とする運動)を取り上げてきました。この3つはどちらかと言えば、直接再臨主の基盤になるような「アベル型の運動」であったと言えます。

 一方で、これから扱う④東満における民族派の武闘、⑤共産主義運動、⑥東満における中共党下のパルチザン(最終的には金日成の運動になっていきます)は、特に5番と6番に関しては「カイン型の運動」であり、最終的には北朝鮮に結実して行きます。4番は一時期ソ連とも共闘しますので、アベルとカインが入り混じった運動であると言えるでしょう。こうした運動の事実がどうであったかを調べた上で、これらの運動と再臨摂理がどう関わるかについて分析してみたいと思います。

 それでは、東満における民族派の武闘がどのようにして始まったかと言えば、抗日義兵の満州への移動から始まります。時間がどこまで遡るかと言えば、日韓併合の直前くらいまでです。完全に日韓併合がなされたのは1910年ですが、日本政府はそれまでに段階的に条約を結ばせて韓国の実権を奪っていきます。「第三次日韓協約」と呼ばれるものが1907年に結ばれますが、これにより国政の実権を掌握した日本は、韓国軍の解体を決定し、皇帝に「軍隊解散の詔」を出させました。それまで、韓国にもちゃんと軍隊があって、国王を守っていました。しかし、そのような軍隊を残しておけば反乱がおこるかもしれないので、日本の政府としてはそうした憂いを取り除くために、皇帝に解散命令を出させたのです。

 それまで軍人たちは国王に忠誠を誓っていたわけですから、当然怒るわけです。憤激収まらない軍人らは、個人や部隊で各地の義兵に合流して武器と戦法を提供しました。これらの義兵は、初めは国内で抵抗を試みたわけですが、国内で志ならずと見るや、東満に移駐して再挙を計りました。国内は完全に日本軍が抑えているので、国境を越えて満州に渡って反乱の準備をしようとしたのです。武装闘争を志向した闘士は、例外なく「東辺道」と呼ばれる地域を根拠に抗日運動に従事しました。この東辺道は豆満江北岸の「間島」と、鴨緑江北岸の吉林省及び遼寧省の総称でありまして、地図で示すと下のようになります。

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 吉林省延辺朝鮮族自治区は通称「間島」と呼ばれる地域で、この地図上で赤く塗った所のことです。さらに、吉林省及び遼寧省を合わせて、この辺一帯を「東辺道」と呼んでいました。ここは昔から韓国人がたくさん移り住んでいた地域で、間島においては人口の8割が韓国人でした。独立運動で武装闘争をした人は、国境を越えてこの辺に集まることによって身を守り、ここから再び国境を越えて国内を襲撃したりしていました。

 間島は李氏朝鮮の時代からしばしば朝鮮族の農民が越境して移住していた場所で、1920年頃には50万人程度が集まって住んでいました。ここは陸の孤島のようなところで深い森林が多く、身を潜めるには好都合でした。独立運動家たちは、そこに住んでいた同胞たちから経済援助を受けながら、武装して国を取り戻すための活動を始めたのです。

 そのようにして立てられたのが、「新興武官学校」と呼ばれるものでした。日韓併合がなされた1910年に、李東寧、李始栄、金昌煥らが柳河県三源堡に「新興講習所」を創設して武官の養成を開始したのがその始まりです。校長は李始栄(이시영)という人で、この人は「臨政」の閣僚を歴任して、韓国初代副大統領にまでなった人です。ですから、こういう所で武装闘争をした人が後の大韓民国建国の際に幹部になっていくわけです。教成隊長が李青天(이청천)という人でありますが、この人は日本陸士26期生でありますから、もともとは日本で軍人としての訓練を受けた人が、独立のために戦うようになったということです。この人は、後に光復軍総司令官になっています。それから教官に李範奭(이범석)という人がいましたが、この人も後に光復軍参謀長となり、韓国初代国務総理兼国防部長官になった人です。

 こうして見ると、「新興武官学校」から始まって武装闘争をしていた人たちは、後にその武勲が認められて、大韓民国が建国されたときに国の中枢に入って行ったという流れがあります。「新興武官学校」の教官の一人に、金光瑞(김광서)という人がいます。この人も日本陸士23期生で、日本で訓練を受けた人でありますが、後にシベリアで募兵して日本軍と交戦し、武闘を続けたことで有名です。実は、この人については後ほど金日成との関係で詳しくお話しすることになると思います。

 さて、満州における抗日武装闘争がどのように始まったのかをお話ししましょう。1919年に三・一運動が始まりますと、それは間をおかず満州にも波及し、各地で万歳デモが激しく繰り広げられました。これにより、それまで細々とやっていた「新興講習所」に約600人の青年が入校し、「新興武官学校」と改称しました。そして、数万とも数十万とも言われる国内の青年が武闘を志して入満し、相次いで義兵将や指導層が乗り込んできました。独立運動が始まったので、国を建てるために国境を渡って、志を持った青年がたくさん集まってきたのです。その結果、満州事変前後までは民族主義の武装団体が、後に共産主義が入ってからはパルチザンが、1941年春ごろまで粘り強く抗日武闘を続けることとなりました。韓国人はただおとなしく日本の支配に服していたのではなく、国外に出て武装闘争をする人がたくさんいたということなのです。

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 その人たちは、国境線沿いの「東辺道」という地域に居を構えて、隙あらば国内に入ってこようとしていたわけです。たくさんの武装集団が生まれたわけですが、代表的なものの一つが「大韓独立軍」です。洪範図(홍범도)という人が指揮していました。「北路軍政署軍」という集団は金佐鎮(김좌진)という人が指導していました。それから、「韓国独立軍」があり、「朝鮮革命軍」という集団もありました。この朝鮮革命軍は、共産主義思想の入った赤軍でした。このように、東辺道地域に武装集団が組織されていったのです。

 それでは、抗日武装闘争の実際はどうだったのでしょうか? 1919年の時点で主な独立武装団体は20あまりあったのですが、それらを統一する機関はありませんでした。これらの武装組織は、居留朝鮮人から金品や食料を調達したり、中国官憲やロシア過激派との協調を通じてその武力を蓄えていました。この人たちは韓国側から見れば「独立運動の勇士」だったんですが、日本側から彼らがどう見えたかと言えば、「不逞鮮人(ふていせんじん)」と呼ばれていたのです。要するに、反乱をもくろむけしからん朝鮮人だということです。日本政府は中国側に対してこれを討伐してほしいと要請したんですが、ほとんど成果が現れなかったということです。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』110


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第110回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 前々回から元統一教会信者の信仰史の具体的な事例の分析に入り、櫻井氏が紹介する順番に従い、元信者A(女性)の事例から始めた。

 Aは脱会後に自らを振り返り、「今冷静に当時の自分を考え直してみると、統一教会にすっぽりはまってしまったわけもわかるような気がする。統一教会は、自分の中にある依存的な部分に合っていた。両親、特に母に何でも聞いてもらって、いいよ、と言われてからやる習慣が子供のうちに身につき、働き始めてもその性格が変わらなかったので、上司に何でも報告、相談する統一教会の仕組みがしっくりきたのかなとも思う。就職も親の敷いたレールの上に乗っかった。本当は別のことをやろうと思っていたのだが。統一教会に入信したときは、ここで初めて親から自立できると思ったのかもしれない。しかし、自分の性格は変わらず、命令に素直に従ったままだった。統一教会の生活は苦しかったが、それでも何でも相談できて指示に従ってさえいれば上から褒められる。そのような統一教会は居心地がよかったのだと思う」(p.328)と分析している。

 この部分は、「宗教と依存」という興味深いテーマを扱っているので、少し掘り下げて分析してみたい。宗教とは親の庇護を求める幼児の依存的体質の変形であると言ったのはフロイトだが、自分の中の依存的な部分と統一教会が「合っていた」というAの自己分析も、フロイトの宗教論とどこか通じるところがある。「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。」(ペテロの第一の手紙5章7節)という新約聖書の言葉に典型的に示されているように、宗教を信じる者は自分の人生に対して主体的に判断するのではなく、神に判断を依存して生きていると思われるふしがある。

 統一教会に関する社会学的な研究で有名なアイリーン・バーカー博士も、統一教会はある意味で依存的な人々には居心地の良いところであると述べている。多くの宗教団体と同じように、統一教会の内部には唯一の支配的な世界観しかなく、信徒たちは比較的閉ざされた共同体を形成して生活している。多くの選択肢と不確実性に満ちた広い世界で孤独に生きるよりは、安定した狭い世界で隣人との絆を感じながら生きることを好むような性格の人にとっては、統一教会は居心地の良い場所なのである。それを「依存的性格」と呼ぶのであれば、そうした性格の持主は、ある意味で自分の特性にしたがって合理的な選択をしているとさえ言えるのである。

 たとえそうした性格を持たない人であったとしても、人間関係に魅力を感じるか、友情を動機として共同体の一員になるということはあり得る。しかし、そのことの故に自分自身の自由や選択肢が制限されるという代償を払わなければならない。その代償を払う価値があると思えるほど統一教会内での生活や人間関係に魅力を感じ続ければ教会に残るであろうし、魅力を感じなくなってしまえば、自由を求めてそこから離脱することになる。

 依存的な人とは確固たる自分の意志を持たず、人に言われるままに何でも従ってしまうような人であると思われるが、それでは統一教会に残る人は全員が依存的な性格を持った人なのであろうか? このことに関してバーカー博士は次のように述べている。
「神に服従しようとする人々はあまり強い意志を持っていないのだと思われているけれども、神のみ旨と信じるものに従う男女が極めて強靱な意志を持っていたと考えらるケースは歴史的に数多く挙げることができるだろう。そして私は非常に強靱な意志を持っているムーニーに何人か出会っている。」

 バーカー博士の言う強靭な意志を持った歴史上の信仰者とは、パウロやルターのような人物を指すと思われる。「神はわがやぐら」はマルティン・ルターが作詞した最も有名な讃美歌であるが、これは「宗教改革の戦いの讃美歌」と呼ばれ、宗教改革者たちをよく助けた。このように、信仰と強靭な意志が両立することは多くの歴史的人物たちが実証しているのであり、信仰を持っている人は必ずしも依存的で意志薄弱な人とは言えないのである。統一教会の信仰を持っていたAの場合も、三年間の過酷なマイクロ生活を歩み切ったという点に着目すれば、かなり強靭な意志の持ち主であったとも言える。ただ甘えたいだけの依存的な性格の持ち主であれば、とっくに途中で逃げ出していたことであろう。彼女もまた、信仰によって強靭な意志を発揮した人であった。そのときには、まさに「神はわがやぐら」であったのだ。自分は依存的であったというAの自己分析にもかかわらず、Aは何でも言われるがままに受動的に信じていたのではなく、さまざまな苦難や試練を乗り越えるほどの主体的な意志をもって、自ら信じる価値観に従って生きていたのである。

 この「依存」という概念は、両親との間においても意識されており、それは入信の動機の説明にもなっている。Aは、自分は母親に対して依存的であり、統一教会に入った動機の一つは、親から自立できるかもしれないと思ったからであると述べている。これは興味深い分析である。日本における数少ない外部の学者による統一教会研究に、塩谷政憲氏の研究があるが、彼もまた若者たちが統一教会に入信する動機を「親からの自立」という観点から分析している。詳しくは、「宗教運動への献身をめぐる家族からの離反」(森山清美編『近現代における「家」の変質と宗教』に掲載)という論文の中で論じられているが、要するに子供が親の引力圏から脱出するために、心許せる若者たちの集団である統一教会に魅力を感じて飛び込んでいき、その中で親からの自立をはかろうとしているということだ。実はした傾向は、西洋の統一教会にもあるようだ。バーカー博士はこのことを以下のように表現している。
「私が示唆しているのは、幸福で安定した家庭背景を持っていた者たちの中には、初めて世の中に出て行ったときに経験する失望、痛み、幻滅などに対処する準備が十分にできていなかった者が若干おり、そのような人々は、同じ価値観を持ち、同じ基準を信じているように見える友好的な人々のグループと出会うことによって、かなりの安堵感を経験したかもしれないということである。多くのムーニーが運動と出会ったときの最初の反応は『自分は家に戻ってきたように感じた』と語ったことは、まったく驚くにはあたらない。これはムーニーが単に家に戻りたがっていたということを意味しているのではない。彼らの大部分は統一教会に出会うかなり以前から、両親から独立する必要性を感じていた。これは成長の正常パターンの一部に過ぎないが、少数ながらも認識可能な数のムーニーが、両親の世話と愛情を息苦しく感じ、両親から逃れることを切に望んでいたのである。それはときには息子(あるいは娘)に対して、自分と同じ道を歩んでほしいとか、自分以上になってほしいと期待する父親であった。そしてその『以上』とは、子供にとっては魅力的でない職業における成功として規定されることが多く、子供自身は自分が選んでもいない方向に向かって教育の生産ラインに押し出されているように感じており、その方向は彼が幼少時代に両親によって教え込まれた理想そのものを達成するのを妨げているように思われたのである。

 もう一つのタイプの窒息は、自らの人生を惜しみなく捧げて子供たちの面倒を見てきたが、子供たちが離れていくのを望まない母親によって生じた。彼らは、子供たちが母親を必要とする以上に、母親が子供の依存を必要とするという事態になっていた。子供(いまや20代前半になっているであろう)は、それに抵抗して自分自身の生き方を選ばなければならないと感じていた。しかし同時に、彼が自分は大切にされていると感じ、自分のために決定がなされるという環境で育てられたという事実により、彼が自立の決断をする時にも、もう一つの『われわれはあなたを愛しており、すべての答えを持っている』という環境の中でその決断をする傾向がより強くなる、ということもあり得るのである。」(アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』第8章「被暗示性」より)

 Aの入信の動機と、塩谷政憲氏やアイリーン・バーカー博士の分析には多くの一致点が見出される。したがって、Aの入信動機はとりたてて珍しいものではなく、むしろ典型的なものであると言えるのだろう。問題は、親から自立しようとして統一教会に入信し、それを契機として人間としての自立を果たせたかどうかということである。Aの場合にはそれがうまく行かなかったために、再び親の元に帰ってやり直すという結果になってしまった。しかし、統一教会の中で人間としての自立を果たし、やがて結婚して自分も親となり、人間として成熟していく者は多数いるのであり、「依存」というキーワードだけで統一教会の信仰を説明することはできないのである。人は、幼い時には誰しも依存的である。そこから成長して自立することができるかどうかは、ひとえにその人の努力にかかっているのである。

 櫻井氏は、「筆者なりにカルト的信仰を定義するならば、組織に依存させられた信仰である。個人を既成概念から解放し、自由にするような信仰のあり方ではない」(p.328)と主張するが、もしこの定義をそのまま受け入れれば、社会から認められている伝統教団の中にも「カルト的信仰」は存在し、社会から「カルト視」されている教団の中にも、カルト的でない信仰が存在するということになるであろう。一つの教団にあっても、信徒と教団の関係は一様ではなく、そもそも組織にまったく依存しない信仰などというものは実在しない。これは個々人の生き方や性格に関わる問題であり、Aという個人の事例をもって統一教会の信仰が「カルト的信仰」であるとは言えないのである。

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韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ12


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 韓国が解放された直後に、お父様と李承晩政権を結ぶ使命を持っていたもう一人の人物が金百文牧師でした。お父様は金百文牧師について以下のように語っています。
「そして、当時、金百文は李承晩博士と近い立場にあったので、彼を洗礼ヨハネの立場に立ててみ旨をなすことができたのに、そのようにできませんでした。」(『真の御父母様の生涯路程2』p.73)
「もし、金氏の集団が先生と一つになっていたならば、正にそれが完成段階の集団になったでしょう。先生はその集団と既成教会の牧師を連結させなければなりませんでした。そののちに連結すべきものが政府です。」(『真の御父母様の生涯路程2』p.77)

 お父様が金百文の下に入っていったのは、彼を屈服させて、それにつながっている「獄中派」のアベル教団を収拾して、さらにより広いキリスト教会を収拾して、それが丸ごと李承晩政権の基盤になっていかなければならなかったからなのです。ところが、この金百文がお父様を受け入れないことにより、この摂理は失敗していくことになります。

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 神社参拝を巡る内容について、客観的な韓国キリスト教史の本を読むとどんなことが書いてあるかをご紹介しましょう。これは、閔庚培という人が書いて、沢正彦という人が訳した『韓国キリスト教史』(日本基督教団出版局)という本で、1974年に初版が出版されています。韓国キリスト教に関する日本語で読める本としては一番初期に出た本になります。

 これによると、カトリックと監理教(メソジスト教会)は、神社参拝が単純な政治的行動に過ぎないという立場を受け入れて妥協してしまいました。ですから、この系列の学校は閉鎖されることなく解放前まで存続したということですから、この教派にいたクリスチャンたちはみんな日帝に妥協した人々だということになります。

 一方、長老教会はこれに抵抗し続け、日本政府の激しい迫害を受けました。しかし、1938年の第27回総会で、神社参拝がキリスト教信仰に背馳しないことを決議したということですから、ずーっと抵抗はしたんですが、1938年の時点で長老教までも妥協して、神社参拝をするようになってしまいます。ですから、教派として最後まで日帝と戦ったキリスト教というのはなくて、その中のごく一部の人々が戦ったということになります。

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 その戦った代表的な人が、朱基徹という牧師です。彼は朝鮮長老派教会の牧師であり、神社参拝は偶像崇拝であるとして拒否し、4度投獄され、5年間獄中にあったということですから、激しく神社参拝に抵抗した人でした。日本による凄まじい拷問の末、彼は1944年4月21日に平壌刑務所で死亡しました。49歳でした。その後、平壌神学校は閉鎖され、200余りの教会が閉鎖され、2000余名の信徒が投獄され、50余名の殉教者が出ました。このように、日本の神社参拝に抵抗したクリスチャンたちは徹底的に弾圧され、多くの人々が殉教したのです。

 そして、黄海道で神社参拝を拒否して投獄された70余名のうち、50名が監獄で殉教し、残りの20名が解放後に出獄しました。彼らは、日本の迫害を耐えぬいたということで、「出獄聖徒」と自称しました。彼らは出獄した後に平壌の章台峴(장대현)教会に集まり、韓国教会再建運動を展開したということなのですが、これがお父様のみ言葉の中に出てくる「再建教会」のことです。実は、崔先吉女史とその母親は、再建教会を信じていたということですから、第一の奥様とその母親は、キリスト教の中でも「獄中派」の教会に属し、その信仰を篤く持っていたことになります。そしてこの崔先吉女史自身も、牢獄を体験するくらい、激しく戦ったということです。

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 実は、お父様は1946年に北朝鮮にわたり、この章台峴教会から十数名を復帰しているのです。このときに入教したのが玉世賢ハルモニとか、池承道ハルモニとか、金元弼先生の叔母さんに当たる金仁珠先生などです。この方々は「獄中派」のクリスチャンの伝統の中から復帰された人々です。ですから、こうしてみると本来ならば、「獄中派」の信仰を持っていた崔先吉夫人とその親族がお父様の基盤にならなければならなかったし、再臨主を信じた初期の信徒たちは、この「獄中派」のクリスチャンの中から出てきたと言えるわけです。

 こうしたお父様のみ言葉や歴史的事実を総合するとどういう結論になるのでしょうか。まず、再臨摂理を出発するためには韓国を日本の支配から独立させなければならず、韓国独立運動と再臨主は連結されなければならなかったということです。これが大前提です。ですからお父様は金九とも連絡を取ったし、独立運動をしているキリスト教の地下教会とも関係を持ち、神霊集団とも関係を持っていたのです。

 李承晩はキリスト教徒であり、強烈な反共主義者であり、摂理的な天使長国家となるべきアメリカと人脈があったので、解放直後の摂理の中心人物としてまさに天が選んだ人であったとが分かります。これは彼の経歴を見ても明らかです。

 しかし、李承晩は韓国に自らの基盤を持たなかったため、結局は親日派が彼の政治基盤になってしまいました。これは彼の政権が出発したときの大きな不幸でありました。現実にはそのようになってしまったのですが、本来はどうあらねばならなかったかといえば、日本の神社参拝に屈服しなかった信仰的なクリスチャンが李承晩の基盤になるのが、天の願いであったということになります。

 李承晩と信仰的なキリスト教徒と再臨主を連結するために、天はいくつかの準備をされたことが分かります。お父様の親戚の中で準備された人物は従祖父の文潤國牧師でした。彼は李承晩と友達だったわけですし、入閣の要請まで受けていました。しかし、彼はそれを断ってしまったのです。

 次に準備されていたのが、最初の奥様である崔先吉夫人です。彼女は再建教会の信徒であったわけですから、この方と結婚して、その再建教会の信徒たちが全員再臨主を受け入れて基盤となっていれば、まったく状況は違っていたことになります。

 さらに、金百文牧師をお父様は伝道しようとしました。この人は神霊集団の指導者であったわけですから、彼の下にあって日帝と戦ってきたキリスト教徒の群が基盤となり、これら三つが一体化していれば、韓国のキリスト教および韓国の政権につながる道がどこかにあったに違いないということです。

 しかし、1945年の解放直後にこれらの準備された人々が自らの使命を悟ることができなかったため、お父様は北朝鮮に渡って、自分の基盤を求めざるを得なかったということになります。ですから最初に章台峴教会に行って獄中派のクリスチャンたちを復帰し、それから獄中で許孝彬の教団とその幹部達を復帰しようと試み、さらに朴老婆の所にも行ったわけです。しかし、これらの人々はお父様をメシヤとして受け入れようとはしませんでした。

 南で準備された基盤がすべて崩れ、さらに北朝鮮での基台も崩れてしまったために、最終的にはすべての基盤を失ったお父様は興南監獄へ行かざるをえなかったということになります。すなわち、地獄の底から出発しなければならなかったということです。準備された基盤がすべて崩れたことによって、十字架の道を行かなければならなかったのが、興南監獄の路程だったということになります。

 このように整理してみますと、韓国の独立運動の長い歴史を背景として、お父様が摂理の中心人物として登場する1945年に、もしそこで標準がピタッと合って、天の準備した人々がすべて連結されていれば、いまの歴史とは全く違った様相になっていた可能性があります。にもかかわらず、これらの中心人物がすべて失敗することによって、その摂理が流れてしまったということが分かります。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』109


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第109回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 前回から元統一教会信者の信仰史の具体的な事例の分析に入り、櫻井氏が紹介する順番に従い、元信者A(女性)の事例から始めた。彼女の入信の経緯や脱会後の人生からして、Aはかなり宗教性のある感度の良い受講生だったと思われる。櫻井氏はAについて、「東京に出て心を許せる友達がなかなか得られなかったこともあり、同じ志を持った仲間と暮らせることが嬉しくて仕方なかった。自分をご存知の神様がいるという話にも純粋に感動した」(p.326)と記述しており、受講生として教育を受けている間のAはみ言葉に感動し、人間関係も良好であったことから、基本的に幸福であり、精神的にも充実していたと思われる。教義に対する感動と、心許せる同世代の仲間たちとの触れ合いが相乗効果となり、感動を引き起こして統一教会に入信するという、青年信者においては典型的な入信のパターンと言えるかもしれない。

 しかし、この幸福な状態は長くは続かなかった。「楽しいだけの統一教会は献身するまでだった。」(p.327)とあるように、「献身」をした後の彼女の信仰生活は楽しいことよりも辛いことの方が多かったようである。このころの彼女の活動は、街頭伝道、印鑑、念誦、絵画などの物品販売、そして1990年から3年間マイクロでの販売活動を行ったという。そのときのハードな生活が、Aにとっては統一教会の辛い体験として心に焼き付いているように思われる。櫻井氏自身が、「マイクロの行程は一回につき短ければ一ヶ月、長いものは二、三ヶ月に及ぶ」(p.259)と述べているように、信仰の訓練としての「マイクロ体験」は通常ならせいぜい数ヶ月で終わるはずである。これは体力勝負の短期決戦の修行のようなものなので、どんな事情があったのかは不明だが、3年間もやらせたというのは責任者の配慮が足りなかったのではないかと思われる。

 マイクロの期間が異常に長かったというのはAだけに当てはまる特殊事情と言えるだろうが、受講生として教育を受けていたころは「楽しいだけの統一教会」だったのが、「献身」をしてから悩みや苦しみが多くなっていくというのは、実はよくあるパターンである。誰でも信仰の初期はいろんな人から愛される。特に霊の親、教育過程のカウンセラーや班長、そして先輩の信者たちは、新しく生まれようとしている霊的な生命を大切に育てるために、常に関心を注ぎ、話を聞いてあげ、共に喜んだり悲しんだりしてくれる。それを通して、ここはなんと愛のある団体なのだと受講生は思うのである。しかし、一通りの教育が終わると、今度は受講生は信仰者として独り立ちすることを求められるようになる。ただ愛されるだけの立場から、み旨に対して責任をもち、誰かを愛する側になることが求められるのである。このとき、受講生は寂しさや「愛の減少感」を感じるのだが、この段階を乗り越えることができるかどうかが、受講生が信仰者として自立することができるかどうかの分かれ目となる。「献身」はそのような独り立ちをして、一人前の信者になるときに迫られる決意として、機能していたのかもしれない。

 Aにとっての「献身」も、そのような独り立ちの時期として訪れたのかもしれないが、なまじ宗教性があり感度の良かったAは半年余りで献身を決意してしまったために、愛される側から愛する側へと成長していく十分な時間を与えられなかったのかもしれない。だからといって、私はAが愛されたいだけの幼い信仰者であったなどと言うつもりはない。外面的には立派に歩みながらも、自分は愛されているという内面的な充足感がそれにともなっていないという、微妙なアンバランスがあったのかもしれない。しかし、そうした内面のもろさに周囲が気付いてあげるというのは、実際には難しいものである。

 インタビューの文面を読む限りでは、Aは非常にまじめで責任感が強く、かなりの信仰者であったという印象を受ける。そもそも3年間もくじけずにマイクロ生活を続けたというだけで立派なものである。売上は一日に4~5万で、月に100万は稼げたということであるから、実績もまずまずであり、さぼらずに真面目に歩んでいたのであろう。しかし、内面においては「毎日が辛い日々で泣かない日はなかった」(p.327)ということであるから、内外の齟齬の激しい、かなり無理をした信仰生活をしていたと思われる。

 Aが宗教的な素養を持った人であると感じるのは、売上が目標にいかないとき、隊長に叱責されること以上に、「神に対する責任分担を果たせないことが辛かった」と、脱会した後のインタビューにおいてさえ語っていることである。Aは人の目を気にし、人間関係で葛藤していたのではなく、神の目を気にし、神との関係で信仰的な戦いをしていたことになる。「自分は氏族メシヤだという使命感、今ここでやめたら摂理はどうなってしまうのか、神様がどれほど悲しむだろう」と感じて、死ぬことまで考えるほどに深刻になっていたという。

 そうした限界状況の中で、Aは神の声を聞くという宗教体験をしたのであるが、驚くべきことに統一教会を脱会した後のインタビューにおいてさえ、活動の最前線で自分の身に起こった神体験をはっきりと覚えており、それを否定していないのである。こういう神体験がなかったなら、「あのとき自分はどうなっていたのかわからない」とまで言っている。「マイクロのワゴン車に三年間も乗っていたのは肉体的にはきつかったが、毎日の歩みで神に出会えるという体験と、統一教会の前線を歩んでいるんだという自負心で持ちこたえられたのだと思う」(p.327)とAが振り返っていることからも、マイクロでの神体験は単なる思い込みや勘違いであったなどと片付けることができないほどに強烈な実感を伴うものであったことが分かる。Aは説得によって何かを信じ込まされた受動的な被害者なのではなく、自らの主体的な意思で信じ、それを強烈な宗教体験が下支えしていたことはインタビューから明らかであり、その信仰が真正なものであったことは疑いがない。Aは脱会後にクリスチャンになったのであるから、いまでも神の存在を信じているわけであるが、統一教会の活動の最前線で自分に語りかけた神と、現在自分の信じている神が、全く別の神であるとは恐らく思っていないであろう。

 そのAが統一教会を辞めるようになったのは、韓国人と祝福を受けて渡韓する前に実家に挨拶するために戻ったときに、両親、親族、牧師から脱会説得を受けたためである。それが監禁を伴うものであったのかどうかは書いていないの不明だが、もし仮にそうだったとしても、櫻井氏があえてそのことに触れることはないであろう。かなりの信仰者であったAが、なぜ牧師の説得によって一か月半で脱会してしまったのかを説明するのは難しい。原理に対する知的な理解が足りなかったために牧師の説得に屈してしまったと考えるのはむしろ後付けの解釈であり、そもそもなぜAは統一教会を信じるようになったのかを分析する方が、辞めた理由を考える上では役に立つかもしれない。

 「両親は、脱会を決意した後も感情を失って呆然としている娘の姿に不安だった」とあるように、Aが脱会によって陥ったアイデンティティー・クライシスはかなり深刻なものであったと思われる。Aのように純粋で宗教性があり、責任感が強いタイプであれは、信仰という自分の中核を失ったショックは大きかったであろう。その心の穴を埋めたのが、キリスト教の信仰であった。

 Aは脱会後に自らを振り返り、「統一教会は、自分の中にある依存的な部分に合っていた。」「統一教会の生活は苦しかったが、それでも何でも相談できて指示に従ってさえいれば上から褒められる。そのような統一教会は居心地がよかったのだと思う」(p.328)と分析している。これに櫻井氏は解説を加え、「筆者なりにカルト的信仰を定義するならば、組織に依存させられた信仰である。個人を既成概念から解放し、自由にするような信仰のあり方ではない。」(p.328)と述べている。

 櫻井のカルト批判は、フロイトの宗教批判を彷彿とさせる。フロイトは1927年に『幻想の未来』という本を書いて、将来宗教はなくなるだろうと予言した。彼によれば、宗教とは結局、親の庇護を求める幼児の依存的体質の変形であり、幻想であるから、科学と理性の発達によって人間が迷信から解放されれば宗教はなくなるだろうと言ったのである。フロイトの時代には「カルト」などという概念は存在しなかったが、彼によれば「カルト」だけではなく、すべての宗教が人間の依存的体質の上に成り立っているのであった。こうした宗教批判は耳触りがよく、もっともらしく聞こえるが、それでは組織や既成概念から解放されて自由に生きているような人間がいったいどれほどいるというのであろうか?何ものにも依存せず、自由に生きることができるほど、そもそも人は強い存在なのだろうか? フロイトが宗教の消滅を予言してから90年以上たっても宗教がなくならないのは、人間には宗教に依存したいという基本的な欲求があるからではないだろうか?次回は、この「依存」というテーマをもう少し掘り下げてみたい。

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韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ11


 この当時、お父様は全国の神霊集団を踏査したと語っておられます。

「私がこの道を出発するようになる時、韓国の有名な牧師たちにみな会ってみました。熟したか、熟していないか、みな調べてみたのです。・・・先生はまず、地下教会を遍歴しました。日本の神社を参拝した汚された人々が現れるために、解放の三年前から、つまり数えの二十三歳から、地下教会の遍歴を始めたのです。『神霊的な人たちは、どのような道を行くのだろうか。神様の摂理はこうこうでなければならないはずだ。そのために準備団体が必ずなければならないはずだ』と考えて、地下教会を探査し、有名だという神霊的な人々にすべて会ってみました。しかし彼らも神様のみ旨を知らずにいたというのです。神様のみ旨の方向を知らずにいたのです。・・・真なる信仰団体は、みな地下に入っていました。その時先生は、たとえ年齢は幼かったとしても、地下運動していた信仰団体だとか、すべての韓国の実情をよく知っていました。」(『真の御父母様の生涯路程1』p.279-80)
「日帝末期に、日本人は圧迫を加重して、キリスト教徒たちに神社参拝を強要しました。篤実なキリスト教徒たちは、神社参拝を拒否して地下に隠れました。ある人々は満州に行き、ある人々はソ連に行き、ある人々は山に行って隠れて生活しました。神様を信じながら、日本から解放されるその日を渇望する多くの人々がいました。日本政府と内通していたキリスト教の牧師たちも、たくさんいました。彼らは、日本の指示に従って行動しました。しかし一方では、地下で、山で、変わらずに信仰を守り、解放のその日を待ちながら戦った、愛国的で篤実なキリスト教徒たちが、たくさんいたのです。」(『真の御父母様の生涯路程2』p.29-30)

 このように、再臨主が1945年の解放をもって摂理を出発するときに、どういう人々を求めていたのかというと、日帝時代の神社参拝に妥協しなかったキリスト教徒たちの群れを求めていたのです。そういう人が再臨主の基盤にならなければならなかったということです。さらに、お父様が再臨主として立つために準備されていた人物が、従祖父(祖父の兄弟)である文潤國牧師でした。

韓国の独立運動と再臨摂理PPT11-1

「私の従祖父(祖父の弟)であるおじいさんは、李承晩博士と友達でした。三・一独立宣言文を起草した五人の中の一人です。崔南善とも友達です。この方は平壌神学校を出て、英語も上手で、漢学にも堪能な人なのです。そのおじいさんは男前でした。李昇薫が五山学校を設立する時は、背後で私のおじいさんが共に動いて建てたのです。そう、定州から今まで人材がたくさん出てきたのは、この五山学校があったためですが、ここから愛国的な思想を中心として抗日運動の思想基盤が準備されました。そのおじいさんは牧師でしたが、三・一運動当時、北側五道の代表でした、それゆえに本来、三・一万歳運動の時、三十三人の中に入るはずでしたが、李明龍という私のおじいさんの教会の長老だった人が、代わりに、その三十三人の中に入りました。」(『真の御父母様の生涯路程2』p.55-6)

 李承晩博士と、お父様の従祖父である文潤國牧師はちょうど同世代くらいです。そして友達関係にあったというのです。ここから李承晩政権につながっていく道があったということです。そして文潤國牧師の名前は三・一独立運動の際の33名の民族代表の中には入っていないのですが、独立運動に対する貢献はそれに匹敵するものであったということです。その人と李承晩大統領はどのような関係だったのでしょうか?
「私の三番目のおじいさんに、政治的な風土があればよかったのですが、純真なキリスト教の牧師でした。李承晩博士が帰ってきて国を立てたのですが、私のおじいさんを必要としたのです。旧学問に精通し、新学問に精通しているので、旌善にいる時、ヘリコプターで三度も迎えに来たのです。そのようにしても、『あー、私は政治はしないよ。信仰する人が政治をすることは・・・』こう言ったのです。こうして李博士と一つになれなかったのです。もし李博士と一つになっていれば、どんなに素晴らしかったでしょうか。私が理論を中心として私の従祖父を説得しさえすれば、李博士一族と環境与件、キリスト教幹部のすべてのことを消化するのは問題なかったでしょう。」(『真の御父母様の生涯路程2』 p.66)

 この文潤國牧師も、もし摂理が成功していれば、お父様と李承晩政権を結ぶ基盤になったはずでした。それでは、解放直後の摂理の概観について、お父様がどのように語っておられるかを見てみましょう。
「解放されると、世界に広がっていた愛国志士という人々が帰ってきました。いわゆる日本系列、中国系列、アメリカ系列、ソ連系列の人々が入ってきたのです。皆さんも知っているように、共産党の金日成が現れ、金九先生、李承晩博士、さらに中国派を中心とした戦いが繰り広げられる、このような混乱時代になったのです。そこで私は、万歳を叫べませんでした。人々はみな、解放されたと喜んでいるのに、手を挙げたくても手が上がらないのです。(『真の御父母様の生涯路程2』p.60)
「解放直後は軍政時代でした。主権を立てようとすれば、三年の期間がなければなりませんでした。政府樹立が一九四八年なので、解放直後より三年間の緩衝期間があったのです。この期間にキリスト教と統一教会が連合して復興しなければなりませんでした。」(『真の御父母様の生涯路程2』p.61-2)

 当時はまだ「統一教会」という団体はなかったのですが、キリスト教とお父様が一体となり、政権と結びついて国を建てなければならない期間が、1945年から1948年までの期間であったという意味です。この軍政時代の状況に関して、お父様は次のように語っています。
「ところで、米軍がこの韓国に進駐した時、第八軍司令官であるアーノルド軍政官を中心として、大韓民国行政処を掌握して全部収拾していたのです。ところで、外的に神社参拝していた既成教会の代表がみなどのような者たちかといえば、外国に留学した人たちです。皆、日帝の手先のような者たちです。結局は米軍政府が生じたとき誰が通訳官になったかといえば、牧師をしていた人や、牧師と関係して神学を勉強した人々が、通訳官として入っているのです。通訳官として入って、神様のみ旨の中において、アベル圏の宗教集団形成をしてくる歴史的基盤を無視して、彼らは国を中心として一つになってしまったのです。韓国キリスト教の混乱はこの時から始まったのです。」(『真の御父母様の生涯路程2』 p.63)

 ですから、天の摂理から見れば、本来なら妥協して神社参拝したクリスチャンたちが政権の中枢に入るべきではなくて、「獄中派」のクリスチャンたちが入らなければならないという摂理観があったのですが、実際には李承晩大統領の政治基盤は親日派だったわけです。そういう人たちの中から英語のできる人々や、いろんな人々が集まって、李承晩政権の手足になっていったのです。
「神様はまた、キリスト教が反対する可能性がある立場にいることを知って、内的に、霊的に、数多くの団体を準備したのです。しかし、どんなに内的団体を準備したとしても、外的なキリスト教が国の形態を整えて反対する日には、イエス様に反対したユダヤ教とイスラエルの国と同じように、さっと回ってしまうようになっています。同じ運命の結果になるのです。」(『真の御父母様の生涯路程2』p.64)
「韓国の大統領になる人は、アベルの代表にならなければならないのです。天に侍るアベル的な立場から、神社参拝した牧師を使ってはならないのです。そのような牧師は除去して、獄中や地下で苦労した人々をアベル的教団に立てて、再教育して国を立てることができる業をしなければならなかったのです。その時、私は長官級の人は、すべて知っていました。地下で運動する有名な人々に、私がみな会ってみたのです。その人々は、私が誰なのかを知っているのです。ですから、そのような環境にさえなっていたならば、どうのようにしようが、その時、自動的にアベル教団を中心として、民族主体思想を中心として、新しい方向、世界に進む新しい道を主張して出発することができたのです。そうして、地下教会と再建教会が一つになりアベル圏に立って、カイン圏の既成教会と一つになってこそ、国を収拾することができたのです。」(『真の御父母様の生涯路程2』p.66)

 お父様のみ言葉に出てくる「再建教会」という言葉ですが、韓国のキリスト教史においては、神社参拝に屈服しなかったキリスト教会をそのように呼んでいます。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』108


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第108回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 今回から元統一教会信者の信仰史の具体的な事例の分析に入る。櫻井氏が「第6章 統一教会信者の入信・回心・脱会」で描いてきた統一教会信者の信仰生活は、実に悲壮なものであった。彼らは統一教会に巧みに勧誘されて教育された受動的な被害者であり、常に睡眠不足や緊張感や疲労と闘いつつ、朦朧とした意識の中でただひたすら苦難に耐え続ける。そして常に実績の追求と精神的な打撃を受けながら、勝利か敗北かという二者択一を突きつけられて、決死的な決意で教団から要求される活動を行い続けるのが典型的な統一教会の信徒像だというわけだ。こうした悲壮な信徒像は、統一教会を相手取った裁判の中で、原告側が繰り返し主張してきた内容を反映している。ところが、櫻井氏の行ったインタビューの中には、こうしたイメージには当てはまらない統一教会信者の「リアル」が見え隠れしている。今回から、こうしたポイントに留意しながら櫻井氏のインタビューした元信者の「信仰史」を分析することにする。

 まず、元信者A(女性)の事例から分析してみよう。彼女は統一教会を脱会後、プロテスタントの信者となっており、元統一教会信者の夫との間に二人の子供がいるとのことである。親族から監禁された統一教会信者を脱会させるための説得を行うのはキリスト教の牧師である場合が多いが、脱会した信者の一部はその教会の信者になる。日本基督教団のリベラルな牧師は統一教会の信仰を棄てさせるだけの「棄教説得」で終わる場合が多いが、福音派の牧師は彼らの信じるキリスト教への「改宗説得」を行うことが多いようである。したがって、福音派の牧師に説得された場合の方がクリスチャンになる確率は高い。

 一方で、牧師の説得によって脱会した元信者同士が結婚する事例も多いようである。統一教会での体験が忘れてしまいたいような悲惨なものであるなら、それを思い出す可能性の高い元信者と結婚生活を共にするというのは不合理であり、避ける方が賢明であろう。しかし、脱会者の心理はそれほど単純なものではない。彼らの記憶から消えることのない「統一教会体験」は、それを経験したことがない人からは容易に理解されないものであり、実の親をはじめとする親族でさえも本当の意味で理解することはないであろう。自分がなぜ教会に入り、そしてなぜ辞めたのかを説明することは困難で骨の折れることである上に、相手に理解してくれと要求することもできない。しかし、それを理解してくれる存在が、まさに自分と同じ体験をした元信者なのである。そこに一つの安心感を感じて、元信者同士で結婚するのであろう。

 統一教会での体験が本当に悪いものであり、できれば忘れてしまいたいものであれば、脱会後の人生はそれらからできるだけ遠ざかり、統一教会に関わる人物とはなるべく関わらず、宗教そのものさえも否定する人生を選んでも不思議ではないように思われる。しかし、この元信者Aはキリスト教会に通い、元信者と結婚している。これは結果的に、統一教会の信仰そのものは棄て去ったとしても、相変わらずそれに近い世界観の中に身を置いているということになる。要するにAは本質的に宗教的な素養を持った人なのである。説得による棄教は、宗教的アイデンティティーを人工的に破壊することを意味する。それは心の中にぽっかりと穴の開いたような状況を作り出し、一種のアイデンティティー・クライシスを引き起こすことになる。Aは本質的に何らかの宗教的アイデンティティーを必要としているので、それを埋め合わせるために、プロテスタントのキリスト教という新たな信念体系を受け入れるようになったのである。Aがもともと世俗的な人であったならば、脱会後に信仰を必要とすることはなかったであろう。

 そして一度は祝福の理想を受け入れた者は、完全に世俗的な結婚に対しても抵抗感を残す場合が多い。そこで一度は祝福の理想を信じた元信者と結婚するのである。祝福の価値そのものは既に信じていなかったとしても、「不倫や離婚の心配がない結婚がしたい」とか、「夫婦円満の幸せな家庭を築きたい」という理想だけは引き続き持っている場合が多いのである。一時でも統一教会で信仰生活をした元信者とは、そういう価値観を共有しやすいのかもしれない。したがって脱会してもなお、Aが「統一教会的な」価値観を引きずっている可能性は高い。アイリーン・バーカー博士の研究によれば、こうした価値観は統一教会に来る以前から本人が持っていたもので、それが統一教会の示す価値観と一致したために信者になった可能性が高いという。

 Aは20歳になったばかりの1987年に、街角で誠実そうな男性に声をかけられ、手相を見てもらったことがきっかけで伝道された。仕事で行き詰っていたこともあり、人生の転換期ではないかという言葉に反応している。Aは「講座を受講したり、立て続けにセミナーに参加したりして、半年あまりで献身を決意した」(p.326)という。

図6-8

 櫻井氏自身の示しているデータによれば、図6-8に見られるように、入信から献身を決意するまでの期間は数ヶ月から一年間、複数年まで散らばりがあるという。(p.212)このグラフの中に位置づければ、確かにAが献身を決意するまでに要した期間は最も短い部類に入ると言えるだろう。櫻井氏は、統一教会への伝道・入信・献身までの期間が極めて短いことを理由に、信仰の獲得が本人の主体的な意思ではなく、プログラムや説得による受動的なものであると言いたいようである。しかし、その期間は人によって大きなばらつきがあり、Aのように半年あまりでトントン拍子に行く人もいれば、数年かかる人もいるのである。結果としての入信や献身までの期間に大きなばらつきがあることは、伝道する側の思い通りに相手をコントロールできるわけではなく、最終的には本人次第なのだということを物語っている。入信や献身までの期間が短い人は、それだけ本人が納得していたということであり、長い時間がかかった人は、納得するのに時間がかかったということである。その意味でAは「感度が良かった」ということになるだろう。

 この点に関して櫻井氏は、「これほどの短期間で献身してしまったのは、統一原理のような話を全く聞いたことがなく、真理として教え込まれたことを本当にすごい話だと思い込んでしまったこと、あなたが世界を変えていく使命を持っているのだというメッセージを受けたことがある。自分にそんな役割があったのかと。」と受動的に表現している。しかしこれは、宗教的回心をあくまでも主体的なものではなく、勧誘によって引き起こされた受動的なものとして描こうとする、裁判資料によくある表現方法である。当時の状況をより事実に近く表現すれば、「これほどの短期間で献身してしまったのは、初めて聞く統一原理の内容は新鮮で、本当にすごい話でまさに真理だと思ったこと、自分に世界を変えていく使命があるんだという話に感動したこと」となるであろう。宗教的回心の動機としては至極まっとうなものであり、Aはかなり宗教性のある感度の良い受講生だったことが分かる。

 しかし、人が伝道される理由はこうした教義の内容に対する反応だけではない。櫻井氏はAについて、「東京に出て心を許せる友達がなかなか得られなかったこともあり、同じ志を持った仲間と暮らせることが嬉しくて仕方なかった。自分をご存知の神様がいるという話にも純粋に感動した」(p.326)とも記述している。トレーニング中の仲間たちとの共同生活が楽しかったという話は、元信者の証言だけでなく、現役の信者たちの証言にも見いだすことができる。「ムーニーの成り立ち」の著者のアイリーン・バーカー博士は、統一教会の信者に「入会したとき、何が最も印象的だったと記憶しているか?」というアンケート調査を行っており、その順位は英国の場合は①結論:メシアが地上にいること(46%)、②会員自身(22%)、③統一原理のその他の内容(16%)、④ファミリーの共同生活(9%)、⑤ファミリーの政治的な立場(1%)で、アメリカの神学生の場合は①結論:メシアが地上にいること(32%)、②統一原理のその他の内容(29%)、③会員自身(26%)、④ファミリーの共同生活(6%)、⑤ファミリーの政治的な立場(0%)となっている。このデータは西洋においても、教義の知的な内容に感動したという要素と共に、心理的または情緒的な解放や慰めを入信の動機としている者も多くいることを物語っている。すなわち、多くの者が「アットホーム」な感じのする雰囲気や、統一教会のメンバーから感じた親近感や愛情表現が原因となって入会したいと感じたと答えているのである。こうした状況は日本でも同じである。教義に対する感動と、心許せる同世代の仲間たちとの触れ合いが相乗効果となって感動を引き起こし、統一教会に入信することが多いのである。そしてそれは、若者たちが新宗教に入信する際の典型的な動機であるとも言うことができ、それ自体が社会的批判に値するものではないことは言うまでもないであろう。

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韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ10


韓国の独立運動と再臨摂理PPT10-1

 解放直後の韓国の政治状況を図示したものがこの図です。絶対的権力を持っていたのが、占領していた米軍政府でした。それに対して、右翼と左翼の両方の勢力が対立していたのです。右翼の中心人物は金九でした。これは大韓民国臨時政府系の人々によって構成されていました。彼らはそもそも、アメリカによる信託統治に反対していました。そして南北統一選挙を主張しながら、南だけで選挙をやることに反対していました。このように米軍政府に対して反発していたので、その結果として弾圧されるようになりました。

韓国の独立運動と再臨摂理PPT10-2

 一方、左翼は呂運亨という人が立てた「朝鮮人民共和国」でした。これは金日成が立てた北朝鮮とは異なる政治組織です。「朝鮮建国準備委員会」から発展した「朝鮮人民共和国」という左翼系の共産主義を信奉する団体が立ちました。このころには既に朴憲永はいなくなっていました。彼は「南朝鮮労働党」を結成して一時勢力を伸ばしたのですが、1946年の夏に米軍政府から逮捕命令が出ると、朴憲永を含む同党の指導部はソ連をバックとする北朝鮮へ越境してしまったのです。そのときから事実上の左翼の中心人物は呂運亨となり、この勢力が米軍政府に反発しながら共産主義的な政治活動を続けていたのです。これは当然、米軍政府から共産主義だということで弾圧されることになります。

 そんな中で、李承晩を中心とする「独立促成中央協議会」という組織だけが、米軍政府に対して協力的だったのです。すなわち、米軍の正統性を尊重し、半島南部のみでの選挙を容認するという立場ですから、李承晩だけが米軍政府の意向を組み、それと協力することのできる政治指導者として生き残っていくということになるのです。当時はアメリカ軍が韓国を占領していたわけですから、これがいわば絶対権力だったわけです。それと一体化した李承晩だけが選挙に勝って生き残っていくことになります。最終的には、呂運亨も金九も暗殺されてしまいました。

 しかし、問題がどこにあったかといえば、李承晩には支持基盤がなかったということです。李承晩は日本統治時代に朝鮮にいたことがほとんどなく、地盤も基盤も富も持ち合わせていませんでした。そこでこれを支えたのが、韓国民主党(韓民党)でした。反日右派の金九による親日派粛清に恐れをなした日本統治時代の対日協力者が李承晩の支持基盤となったという、実に皮肉なことが起こったのです。李承晩自身は徹底した反日主義者でした。でもずーっと外国にいたので国内に基盤がなかったのです。彼は米軍政府から承認を得て位置を獲得したのですが、民主主義はやはり選挙ですから、票を集めなければなりません。そこで結局は親日派の人々が彼の政治基盤にならざるを得なかったのです。

 米軍政庁が最も嫌った左派の排除に成功した李承晩と韓民党は、1948年5月10日に行われた国際連合監視下での総選挙に臨みました。これが大韓民国の初代総選挙となります。この選挙は朝鮮半島の南北分断を固定化するとの理由から、各地で反対派による武装闘争が展開され、大反対の中で強行されました。つまり、右派も左派も南だけで総選挙をやることに対して暴力で反対したのです。これを米軍が抑えながら選挙を行ったということです。

 総選挙によって李承晩と韓民党は制憲議会の多数を制しました。そこで制定された第一共和国憲法は、議会が大統領を選出すると定めていました。いまは韓国の大統領は直接選挙制で選ばれますが、この第一共和国と呼ばれる最初の政府の憲法によれば、まず議会の議員を決めて、議員が大統領を選ぶようになっていたのです。こうして1948年8月15日、朝鮮半島南部単独で大韓民国が建国され、李承晩が初代大統領に就任したのです。

韓国の独立運動と再臨摂理PPT10-3

 韓国がいま、第何共和国か知っていますか? いまの韓国の憲法は第六共和国憲法です。第五共和国というのは全斗煥がクーデータ―を起こすことによって建てた政権です。韓国ではこれまでに六回憲法が変わっているということになります。

韓国の独立運動と再臨摂理PPT10-4

 以上が韓国独立運動の中でも、天が準備したアベル的な立場の人々の歴史に関する客観的事実でありますが、それではこれらの歴史的人物と真のお父様はどのように出会うべきだったのでしょうか? それに関しては、お父様のみ言葉に根拠を求めていかなければなりません。そこでしばらく、真のお父様と韓国独立運動の関係について、み言葉を引用しながら考えてみたいと思います。基本的な資料として私が選んだのが『真の御父母様の生涯路程』です。特にその一巻と二巻には韓国の解放前後のお父様の歩みに関するみ言葉が多く掲載されています。

 お父様は、日本留学時代に韓国人の留学生と地下活動を行っていたと自ら述べていらっしゃいます。
「皆さんは、国を失ってしまった悲しさを経験していません。先生はそれをよく知っています。大韓民国が日帝の下で呻吟している時、先生も日帝に対抗して戦ったことがあります。私は、日帝時代に地下工作をした人なのです。その時、『何か問題があれば、全部私に罪を押しつけなさい』と言いました。私はその時、留学生を管理していました。責任者だったのです。そうして、『死の境地に行くなら、私に罪を押しつけなさい』と言ったのです。

 文先生は正義のために、首を既に投げ出してしまったのです。気の小さい男ではないのです。皆さんは知らないけれど、玄界灘を渡り、釜山から安東まで列車の下に張りついて行くようにして、上海の臨時政府に派遣する、そのようなこともしました。安東まで汽車で行くのに八時間から九時間ですが、そのようなことまでしたのです。そうして北京で金九先生の指揮下に入った者たちは、最近の情報によると、中国でも有名な人たちになりました。そのような地下運動をしたのです。」(『真の御父母様の生涯路程1』p.212-3)

 このように、お父様は学生時代に金九の「臨政」と連絡を取り合って、独立運動に加担していたのです。

 それからお父様の路程と独立運動の関係でもう一つ重要なことは、第一の奥様である崔先吉夫人の背景にもやはり独立運動があったということです。この場合にはキリスト教を背景とする独立運動で、日本による神社参拝の強要に屈することなく信仰を貫いた人々でした。
「先生がみ旨を知ってから、聖進のお母さんと結婚したのも、私の好きなようにしたのではありません。霊界から指示があってしたことです。霊界の指示のもとで会ったのです。その人の名前が崔先吉です。・・・彼女は、キリスト教信仰が篤くて、信仰的代表だというのです。そのような観点から見れば、全世界を代表すると同時に国家を代表して、男の洗礼ヨハネの立場でなく、女として洗礼ヨハネの使命を果たさなければならない立場にいた人が、聖進のお母さんでした。キリスト教の使命とは何かというと、新婦を提示して、新婦を天の前に連結させることですから、そのような観点から見る時、そのような意義があるというのです。その時、聖進のお母さんは、神社参拝の問題を中心として監獄暮らしまでした経歴をもっていました。そのような女性を探したのです。そのような乙女を探したのです。」(『真の御父母様の生涯路程1』p.256-7)

 このみ言葉から何が言えるかというと、再臨主は日本の神社参拝強要に屈服しない「獄中派」のキリスト教の基盤を必要としたということです。すなわち、再臨主の基盤となる人は、基本的に「愛国反日」の立場を植民地時代に貫いた人でなければならなかったという原則があったのです。ですから、最初の奥様が選ばれるときもそういう家系、背景の中から選んだということなのです。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』107


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第107回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 先回から「第七章 統一教会信者の信仰史」に入ったが、先回は統一教会信者の信仰史の具体的な事例の分析に入る前に、信仰の物語を分析する理論的な枠組みについて櫻井氏が自説を述べている部分を評論した。今回は、櫻井氏のインタビュー対象者がどのような人々であるのかを確認したうえで、その資料の性格を分析したい。

 櫻井氏自身が「統一教会そのものや信者から協力を得られることはなく、統一教会を批判する諸団体、元信者や関係者の人達が主な対象者となる。」(p.324)と述べているように、「信仰史」を記述するために櫻井氏のインタビューを受けた人々は全員が元信者であり、現役の信者は一人もいない。この時点で情報源にかなり偏りがあることが分かるであろう。「ムーニーの成り立ち」の著者であるアイリーン・バーカー博士は、統一教会の主催する修練会に自ら参加したり、統一教会のセンターに寝泊まりしながら組織のリーダーやメンバーの生活を直接観察するなどの「参与観察」を行っているが、櫻井氏はそれをしていない。また、バーカー博士は現役の信者と元信者の両方にインタビューを行っているうえに、一人の人物が信者だった頃と脱会した後の両方の立場で対話をしており、その変化までも観察している。しかし櫻井氏は元信者に対するインタビューしか行っていないのである。

 統一教会の信仰の本質とは何かを理解しようと思えば、本来ならば信仰を持っている当事者にとって統一教会の体験が何を意味するのかを理解しようと努めなければならないはずである。信仰を持って世界を見つめたときに、自分の人生をどのように理解するかが、その人の「信仰史」の中核をなすはずである。そこには、自らの人生に神が介入したことに対する感動があり、世界が輝いて見えるほどの高揚感がある。信仰の物語とは本来そのようなものだ。しかし、信仰を失った人の目には、もはや信じていた時と同じように世界が輝いて見えることはなく、色褪せた幻のような体験にしか映らないのである。信仰を魚に例えれば、バーカー博士が新鮮な刺身を食べているのに対して、櫻井氏は数日経って腐った刺身か、干からびた魚の残骸を食べているということになるだろう。元信者の証言という時点で、その「信仰史」は何か重大なものを欠いていると言ってよいであろう。

 元信者の証言はさらに二つのタイプに分かれる。一つは裁判資料であり、もう一つは裁判とは関係のないインタビューの記録である。櫻井氏は、「以下で記す信者の証言は全て直接筆者が聞き取り調査を行った元信者のものであり、元信者Iを除き調査時点において統一教会を告訴した原告のものではないことを記載しておく。」(p.326)と述べている。これは櫻井氏のインタビュー対象者が裁判に関わっていない元信者であることを意味しているのだが、彼は法的概念を混乱して用いていると思われる。「告訴」は刑事訴訟で用いられる言葉で、犯罪の被害者などが捜査機関に対して犯罪事実を申告し、その訴追を求める意思表示をいう。一方で「原告」は民事訴訟を起こして裁判を請求する当事者である。元信者が統一教会を「告訴」することがあったとしても、彼らが「原告」になることはない。櫻井氏は刑事訴訟と民事訴訟を混同しているようだ。正しくは、「統一教会を相手取って民事訴訟を起こした原告のものではない」という表現になるだろう。実際、「青春を返せ」訴訟や献金返還訴訟はすべて民事訴訟である。

 細かい間違いはさておき、櫻井氏が裁判資料だけに頼るのではなく、裁判の原告になっていない元信者にインタビューをしたことは一定の評価ができる。なぜなら、統一教会を相手取った民事訴訟に提出される元信者の陳述書や証言は、事実を歪曲している場合が多いからである。具体的な例を挙げれば以下のようになる。

 「青春を返せ」裁判における原告たちは、ビデオセンターにおける学習は内容もよく理解できず感動もしなかったが、巧みに誘導されてビデオを見続けたと主張している。しかし、感動しないものを誘導されながら見続けるのは苦痛であるはずだ。見たなくもないビデオを見続ける人がそれほど多数いるというのは不自然であり、信じがたいことである。これはビデオを見て「喜んだ」とか「感動した」と言ってしまえば、自分の意思でビデオセンターに通っていたことになり、損害賠償を請求するための違法性を主張しづらくなってしまうために、あえて本意ではなかったかのように主張する「裁判上の戦略」なのである。

 また「青春を返せ」裁判における原告たちは、ツーデーズに代表される修練会の様子を描写する際に、熟睡できず、緊張感と疲労で頭が朦朧とし、半覚醒の状態で講義を受けるといったように、やたらと受講生の眠気や疲れを強調し、正常な状態ではないかのように主張する。しかし、スケジュール表によれば睡眠時間は7時間あり、客観的には若者が眠気を催すような過酷な状況にはないことが分かる。彼らがことさらに「眠気」や「意識が朦朧」などという言葉を用いるのは、正常な状態で合理的な判断をした結果に対しては、自分自身が責任を負わなければならないからである。そこで、自分たちが通常ならざる状態で入教を決断させられたと訴えることによって、勧誘行為の違法性を追求して損害賠償を勝ち取ろうとしているのである。

 さらに「青春を返せ」裁判における原告たちは、自分自身の宗教的回心が真正なものではなく、他者に操られて引き起こされたものであると主張する。彼らは一度は統一教会に入信し、熱心に活動までしたのであるから、何らかの宗教的回心を体験しているはずである。ところが、彼らは自らの宗教的回心が真正なものであることを認めてしまうと、主体的な信仰を動機として活動したことになってしまうので、教会に対して損害賠償を請求できなくなってしまう。それでは訴訟が成り立たないので、自分が回心した過程を正直に描写するのではなく、教会の巧みな誘導によって説得され、納得させられた「受動的な被害者」として描写する必要があるのだ。

 このように、既に信仰を失った元信者であるとか、「洗脳」や「マインド・コントロール」といった言説を信じているから、といった理由だけでなく、訴訟を有利に進めるための戦略として、あえて事実を歪曲して主張することが裁判資料にはままあるのである。

 こうした資料をもとに統一教会の伝道や教育を分析しているため、これまで櫻井氏が描写してきた受講生や信者の心理状態は極めて悲壮なものであった。例えば、札幌「青春を返せ」裁判に原告側の資料として提出された「伝道勝利十則」と呼ばれる文書に出てくる以下のような文章を引用しながら、そこに統一教会の世界観と理想とされる信者像が示されていると櫻井氏は主張する。
「街頭ではゲストのメッタ打ちに耐えよ。この精神的な打撃を神と共に耐えられるか、耐えられないかが、勝利への道か、敗北への道かの重大な岐路である。そして、常に新規伝道を忘れるな。新規伝道を怠る成約聖徒の行き先は、敗北と転落と侮辱と堕落しかない」(p.256)
「伝道師こそ神とサタンの戦いの最前線の戦闘部隊である。血と汗と涙の決死的なすさまじい行動こそが勝利の道である。小手先の小理屈など、いっさいいらない」(p.258)

 こうした極端な表現の文書だけに頼って統一教会信者の心理状態を分析し、櫻井氏は実践トレーニングの受講生たちを「二つのグループに分かれることになる。どんなに辛くともこの道を全うしようと決意し直すものと、敗北感・喪失感を持って教会から脱落するものである」(p.257)という二者択一で描こうとする。しかし、この選択肢には重要な要素が抜け落ちている。それは「喜んでこの道を行こうとするもの」という選択肢である。実際には、「喜び」や「感動」の要素なくして信仰が育ったり強化されたりすることはあり得ないのだが、そうした部分が櫻井氏の記述にはすっぽり抜け落ちているのだ。こうした極端な信者像は、そのほとんどが裁判資料の所産である。

 ところが、民事訴訟の原告になっていない元信者たちは、こうした事実の歪曲をする必要がない。ビデオを見て感動したことも、神と出会ったことも、喜んで信仰生活を行っていたことも、原理に対してさまざまな疑問を持ちながらも信仰を続けていたことも、結構正直に話しているのである。そこには、裁判のために歪曲されていない元信者の本音がちりばめられている。それは結果的に、彼がこれまで裁判資料に基づいて描いてきた悲壮な統一教会信者のイメージとは異なる、より現実に近い姿を垣間見させる結果となってしまったのである。その意味で、私は櫻井氏が裁判の原告になっていない元信者にインタビューをしたことを評価するのである。インタビューから垣間見られるこうした「リアル」の具体的な内容については、次回から紹介することにする。

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韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ09


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 1941年12月7日の真珠湾攻撃によって日米が戦争を開始すると、李承晩はアメリカに対して「臨政の承認」と「韓国人が対日戦に参加するための軍事援助の取り付け」を訴える交渉に入ります。連合軍に韓国を国として認めさせ、かつ実際に参戦することにより、韓国民の自由と独立を勝ち取ろうとしたのです。

 交渉の相手はアメリカの国務省でした。このときのアメリカの国務省の幹部が、「ハル・ノート」で有名なコーデル・ハル国務長官と、スタンリー・ホーンベック極東局長、そしてアルジャー・ヒスでした。このアルジャー・ヒスはソ連のスパイだった人です。李承晩は米国務省のホーンベック極東局長に重慶臨政の声明を伝達し、「臨政」の承認を求めました。しかし、ホーンベック局長は彼を単なる一個人として遇し、「国務省は貴方を韓国や韓国民の代表としてみなしていません」と明言しました。つまり、相手にしなかったのです。1942年1月2日に李承晩はハル国務長官、アルジャー・ヒス、ホーンベック局長と韓国問題を論議しました。李承晩は自説を展開し、「臨政を承認して欲しい」「韓国人が対日戦に参加するための軍事援助をしてほしい」と訴えました。

 それに対するアルジャー・ヒスの回答は次のような驚くべきものでした。
「貴方の提案が韓国の承認を前提としている以上、米国はどうしようもない。現段階で韓国を承認すれば、北東アジアに多分に関心を寄せているソ連が感情を害することは必定だ。従って北東アジアにおける政治的問題をいま提起することは、時期尚早である。なぜならば、日本と戦っていないソ連はこの問題に口出しできない。と言って米国としては、同地域に対するソ連の関心を無視したり、ソ連を出し抜くことも得策でない。韓国問題は、ソ連との戦後会談まで待たなければならぬ。」

 李承晩としては、「やっと日米開戦に至ったのだから、日本に気兼ねする必要はなくなった。米国は韓国人と一体となって日本と戦えばいいじゃないか」と訴えたのに、今度はアメリカ政府から「ソ連に対する配慮のゆえにあなたがたを認めることはできない」と言われたのです。じつは、このときアメリカの国務省には既に共産主義思想が入っていたのです。アルジャー・ヒスは米国務省内で働くソ連のスパイだったのです。李承晩には、対日戦にこれほど協力したいと願っている韓国民の気持ちが、なぜ米政府に通じないのか分かりませんでした。本来なら、「敵の敵は味方」であるはずだから、手を結んで一緒に戦うべきなのに、と思ったわけです。

 1942年末にホーンベック極東局長は、李承晩に対して次のような発言をしています。
「率直に伝えるが、国務省では、貴方は韓国では全然知られていないと考えられている。また重慶の臨時政府は一部の亡命政客が造ったクラブに過ぎないうえに、主導権争いに憂き身をやつしている、とみられている。だから国務省は、貴方が韓国民を代表する人とは見ていない。」

 このようにホーンベック局長は李承晩の主張を、韓国民を代表するものとしては認めなかったのです。これはアメリカの国務省が冷たかったとか、ソ連のスパイが入っていたとかいう理由に加えて、もう一つの理由があったのです。実は当時、韓国人の代表を名乗って米国政府に働きかけた者は、李承晩だけではなかったのです。それこそいろんな独立運動家が「われこそは韓国民の代表」と言って国務省に売り込んでいたのです。ですから国務省としては李承晩だけを認めるわけにはいかなかったのです。

 さて、第二次世界大戦もすでに峠を越えて、日本の敗戦が濃厚になってくると、戦後処理のあり方を巡って連合国側の巨頭が集まって会議をやるようになります。有名なものにカイロ会談、ヤルタ会談、ポツダム会談などがありますが、この三つの中で最初に行われたのがカイロ会談でした。1943年11月に米・英・中の三巨頭がカイロで会談し、「カイロ宣言」を発して戦後のアジア構想を明らかにしました。すなわち、日本が負けた後でアジアをどうするかについて話し合い始めたのです。そのカイロ宣言では、韓国に関しては「適切な手続きにより(in due course)韓国の自由と独立を保障する」と記されていました。この文言は、すぐに韓国を独立させるのではなくて、一定期間の信託統治の後の独立を示唆していたのです。

 実際の歴史においては1945年から48年までの3年間の「連合軍軍政期」の後に独立したのですが、カイロ会談が行われた当時の三国首脳は、極めて長い信託統治の期間を予想していたようです。例えばルーズベルトがどう考えていたかというと、「韓国人が完全独立を得るまでは、約40年の教育機関が必要と考える」「フィリピンが自治政府を準備するまでには、50年を要した。韓国はそれほどかかるまいが、20~30年はかかる」というくらいにアメリカの大統領は見ていたというのです。つまり、36年間も日本の支配を受けた立場から解放されたかと思ったら、今度は30年から40年もの間、アメリカの統治を受けなければならないという話です。これは誇り高い韓国人には到底受け入れられないものでしたが、連合国の韓国に対する評価はそのようなものだったのです。

 1945年4月にサンフランシスコで国際連合憲章作成会議が行われたとき、李承晩は臨時政府承認のための最後の努力をしました。彼は国連憲章制作会議に「臨政」の代表としてオブザーバー参加の要請をしました。これが受け入れられれば、「臨政」が承認されたことを意味します。しかし、これはアルジャー・ヒスによって拒否されました。李承晩は、「韓国が解放されるのと同時に、直ちに連合国の監視下で総選挙を実施するという諒解のもとに、『臨政』を仮承認すべきである」と主張しましたが、ヒスには通じませんでした。この努力も結局は実らなかったのです。このときアメリカは既に、米・英・中・ソの四大国による韓半島の信託統治と、その後の独立を決定していたのです。

 さて、これほどまでにアメリカ政府に対してさまざまな要求を突き付けた李承晩は、アメリカ政府から「頑固な厄介者」とみられていました。ですから、この当時のアメリカはこのうるさい李承晩を韓国独立後の大統領にすることなど、まったく考えていなかったのです。

 さて、1945年8月に日本が降伏したとき、李承晩は70歳と5カ月でした。既にかなりの高齢ですね。その後、韓半島は38度線で分割され、米・ソ両軍に占領されました。李承晩の最も恐れていた、ソ連の韓国進駐が現実のものとなったのです。当時アメリカは、旧行政組織(つまり朝鮮総督府)を活用しながら民主的改革を進め、なるべく早く総選挙を実施して韓国臨時政府を造り、この政府を米・ソ両軍司令官の共同管理下に置いて指導育成し(信託統治)、適当な時期に独立させる、というスケジュールを考えていました。アメリカは第二次世界大戦後にソ連がどのような行動をするのかというその意図を見抜けずにいたので、ソ連が自分達と仲良く一緒にやってくれるものだと信じ込んで、両国で一緒に信託統治しようと考えていたようです。

 しかし、ソ連が38度線の北側を占領し、南北の往来を遮断したため、38度線は政治的境界線に変質しました。このようにアメリカは半島の北半分をコントロールできないということが次第に明らかになってきたのです。こうして半島全体のの公正な統一総選挙は不可能となり、アメリカは南韓だけの総選挙を行うことを目指すようになりました。このとき、李承晩はまだ韓国に帰国できていない状態でした。つまり、8月15日に戦争が終わったわけですが、李承晩が韓国に帰国するのは10月まで待たなければならなかったのです。彼が大統領候補として韓国に帰国できるようになった背景には、米国でさえコントロールできない当時の韓国の政治状況がありました。

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 アメリカが半島の南半分だけの選挙をしようとしたとき、南で勢力を拡大していた人物は朴憲永という共産主義者であり、彼の立てた朝鮮共産党がみるみるうちに勢力を伸ばし、このまま放置すれば選挙によって南韓に共産主義政権が建つ可能性すらあったのです。北はソ連にとられ、南でも共産主義が広まるという状況の中で、このままでは米軍の統治下で選挙をやっても、共産主義政権が立ってしまうのではないかという危機感を抱いたアメリカは、共産党に対抗しうる民族政党とその指導者が必要になってきたのです。そこで初めてアメリカが目を付けたのが李承晩でした。彼こそは世論を束ねて軍政に協力しえる唯一の指導者であると見込まれて、33年ぶりの帰国を果たすことになるのです。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』106


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第106回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 先回で第Ⅱ部の第六章の分析は終わり、今回から「第七章 統一教会信者の信仰史」に入る。この章はこれまでのようなテーマごとの統一教会の分析とはやや趣が異なり、櫻井氏が直接インタビューした元信者が体験した統一教会の信仰生活の回想の記録が中心となっている。それだけに理論や分析よりも個人の体験した事実が中心となっているのであるが、その中に櫻井氏の主観的な分析が織り交ぜられた格好になっている。

 櫻井氏は統一教会信者の信仰史の具体的な事例の分析に入る前に、「一 元信者のライフストーリー研究」の「1 証言は事実を語るか」において、信仰の物語を分析する理論的な枠組みについて語っている。これは突き詰めて言えば、「現役信者と元信者のどちらの証言がより信じられるか?」という問題である。これまで「カルト」などと呼ばれる新宗教信者の体験は、その教団を脱会した元信者たちが自分たちの過去を振り返って語るというものが多かった。しかし、その多くが「ディプログラミング」と呼ばれる強制棄教による脱会であったり、たとえ物理的拘束はなかったとしても「脱会カウンセリング」を受けていたりしたため、そのときの体験やカウンセラーによって教え込まれた内容が、自分自身の過去の体験を振り返る思考の枠組みに大きな影響を与えている可能性があることを、アメリカの宗教社会学者たちが指摘してきた。すなわち、「洗脳」や「マインドコントロール」などの言説によって自分の体験を再構築して、その枠組みの中で自分の物語を語っているため、信者だった頃の本当の体験を語っているかどうか疑わしいという指摘がなされたのである。

 それに対して、現役の信者達もまた、信仰という枠組みによって自分の経験を再構築しており、ある意味では脱会者の語りと同じように自らの本当の体験を語っているかどうか疑わしいという主張も可能である。こうした論法は、反カルトの立場に立つ人々によって主張されており、要するに教団を離れない限りは自分を客観的に見つめることはできないという立場である。この論争は、一種の水掛け論に終わるように思われる。脱会者の目には、自分が体験した修練会や信仰生活に対する後悔や怒りといった色眼鏡が掛けられており、それを通して自分の体験を再解釈している。一方で現役信者は、自分の信仰を正当化するために過去の体験を解釈する。信仰は人間のアイデンティティーの中核をなすものであるため、信仰を持って世界を見るのと、信仰を失って世界を見るのとでは、世界はまったく異なる像を結ぶことがある。このように全く相反する二つの立場からの物語を比較して、そのどちらが真実を語っているのかを論じても、平行線に終わるのではないかと思われるのである。そこで、「語る立場によって真実は異なる」という一種の相対化がなされるわけである。櫻井の紹介している「2 ナラティブ研究の新展開」も、基本的にはこの問題を解決しているとは思えない。

 こうした「相対化」の土台の上に櫻井氏が主張するのは、「3 研究者の立場性」という問題である。これは要するに研究者は研究対象である教団や信者・元信者に対して、無色透明な客観的第三者として関わることは不可能であり、教団に対して親和的であるか、あるいは元信者や教団の反対勢力に対して親和的であるかといったような、何らかの「立場性」を取らざるを得ないということである。これは実質的に、論争の多い新宗教に対しては価値中立的な研究などあり得ないと言っているに等しい。櫻井氏はこのことを以下のような言葉をもって表現している。
「このように調査が現実的に可能となる状況を考えると、調査者は調査前に研究の立場性、被調査団体・個人との関係性に関して継続的に特定の立場をとることが要請されている。その点を十分に自覚し、被調査者との関係を維持できたものが安定的な調査環境を得ることができるのである。研究者は教団と反カルト運動の対立構造の中でフィールドワークを行っているのであり、自分の立場を安全地帯において第三者としてこの問題に関わるわけにはいかない。」(p.324)

 この発言は、櫻井氏が客観的で価値中立的な研修者としての立場を放棄していることを宣言しているようなものだが、それは櫻井氏が自らの意思によって「選択」しているのであって、彼の置かれた状況からそのような立場をとることが学問的に「要請されている」のではない。彼はそう言うことで、環境に対して責任転嫁しているに過ぎない。櫻井氏は「安定的な調査環境を得る」ために、あえてそのような立場を選択したのである。彼は「研究者は教団と反カルト運動の対立構造の中でフィールドワークを行っている」と言うが、その対立構造の一方当事者に完全に依拠する研究立場をとるというのは、やはり偏りすぎというものであろう。

 「虎穴に入らずんば虎児を得ず」というように、統一教会について本当に知りたければ、教団の中に果敢に飛び込んで行かなければ何も分からないはずである。しかし、櫻井氏は統一教会と適切な距離を取るためにはそれができないという。実際には、教団と適切な距離を取ること自体が難しいのではない。学問的には適切な距離を取って調査研究を行ったとしても、それを世間一般や統一教会反対派から「適切な距離である」と評価してもらうことが、日本社会においては難しいのである。

 日本女子大の教授をしていた島田裕巳は、オウム真理教に対して好意的な評価をしたということで、地下鉄サリン事件後に大学から休職処分を受け、最終的には辞職へと追い込まれた。同じように、もし日本の宗教学者が統一教会に入り込んで情報提供してもらい、それをもとに統一教会について客観的な記述をしたら、「統一教会に対して好意的すぎる!」「統一教会の広告塔!」などと、反対勢力から一斉にバッシングを受けるような社会情勢が出来上がってしまっているので、宗教学者はうかつに手を出せないのである。日本では宗教学者にも「政治的正しさ」が要求されるということだ。そこには、学問の自由や独立性は事実上存在しない。これがオウム真理教事件以降に日本における新宗教研究が事実上死滅してしまった大きな原因であった。あからさまに批判的な立場をとる以外に、物議を醸している新宗教を調査研究することを世間は許容しないのである。これが櫻井氏の言う「継続的に特定の立場をとることが要請されている」という言葉の意味であり、それは学問的な要請ではなく政治的な要請なのである。彼は政治的な要請に従って学問の自立性を放棄したとも言えるだろう。

 櫻井氏は「虎穴に入る」ことを拒否し、安全圏から相手を砲撃するという研究方法を採用した。日本社会において統一教会と反カルト運動を比較すれば、後者と一体化し、そこに身を置いた方がはるかに安全である。その意味で彼は「第三者」ではなく、対立構造にある一方当事者と同じ立場に立って研究をしているのであるが、それによって「自分の身を安全地帯に置いて」いるのである。
 こうした彼の立場は、「4 筆者の立場性」において一層明確に述べられている。
「(1)筆者は統一教会の諸活動が社会問題化していると認識しており、布教方法と資金調達方法は違法行為だと捉えている。そして、統一教会が日本社会に与えてきた深刻な被害をなくすべく、統一教会の調査研究を行い、統一教会を批判する個人・団体、あるいは行政や宗教界の人々、一般市民に役立ててもらおうと考えている。このようなことを研究の狙いとして調査対象者に説明し、調査協力を得ている。
(2)調査対象団体・対象者は、前記の言明をする限り、統一教会そのものや信者から協力を得られることはなく、統一教会を批判する諸団体、元信者や関係者の人達が主な対象者となる。筆者は、一九九七年より全国霊感商法対策弁護士連絡会を支援する会の会費を払い、同団体から機関誌の提供を受け、同団体が主催する会合に参加してきた。また、同年より研究者としてカルト批判の運動体である日本脱カルト研究会(現在は日本脱カルト協会)にも所属している。このような団体・関係者とのつながりによって、調査対象を紹介してもらったり、会合で出会った人に調査を申し込んだりしてきた。」(p.324)

 これは「統一教会反対派宣言」と言っていい内容である。対立構造にある一方当事者に対してこれほどまでに肩入れした「立場性」を主張する研究が、「学問的研究」の名の下になされるのは稀有なことであると言ってよいであろう。ある意味でそれは、学問的体裁を装ったプロパガンダであると言えるかもしれない。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』