書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』71


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第71回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」の中で、ツーデーズセミナーの次の段階としての「5 ライフトレーニング」(p.233-235)について説明している。これは簡単に言えば、学校帰りや仕事帰りに1日4時間余りの教育を受けるために、二週間から一カ月間通いで行うトレーニングのことである。講義内容はビデオセンターやツーデーズで聞いた内容を繰り返したうえで、それを実践する内容が含まれてくるという。

 こうした合宿のセミナーと通いのトレーニングの組み合わせによる教育は、日本における青年伝道の特徴のようである。アイリーン・バーカー博士の「ムーニーの成り立ち」に出てくる西洋の伝道プロセス、特にカリフォルニアの事例に比べると、日本における伝道活動はじっくりと長い時間をかけて伝道するのが特徴であり、しかも世俗の社会における勉強や仕事を継続しながら教育を受けるため、受講者は日々の時間の大半をどっぷりと宗教的環境に浸かっているわけではない。

 西洋において、統一教会への回心が「洗脳」や「マインド・コントロール」という非難を浴びた理由の一つに、外部の世界との接触や情報が制限された環境の中で、極めて短期間のうちに入会しているという点が指摘された。つまり、大事な決断をさせるのに十分な時間と情報を与えていないのではないかということだ。とくに、カリフォルニアの「オークランド・ファミリー」と呼ばれる運動の伝道システムは、2日修、7日修、21日修と、比較的短期間に集中的に修練会に参加させて、一気に教会員にしてしまうというスタイルだったようでだ。そこでは、大部分のメンバーが運動に出会って2~3週間以内に入会しており、しかもその間は修練会にどっぷりと浸かっていたというのだから、はた目には「洗脳」と映ったのかもしれない。

 時代によって異なると思うが、日本ではこれほど短期間に伝道されるケースはまずないだろう。1983年に大学一年で伝道された私の場合、霊の親(紹介者のこと)に出会ったのが5月で、しばらく週一回のペースでビデオを聴講し、7月に7日修、8月に新人研、9月には入教というCARPの新入生伝道を絵に描いたような「最短コース」であったが、それでも4カ月はかかっている。櫻井氏の調査対象となった元信者たちの場合、伝道から入信に至るまでの期間は4ヶ月が突出して多く、これもカリフォルニアに比べれば十分に長いとも言えるし、社会人であれば職場に通いながらのトレーニングであるため、外部の世界との接触が完全に分断されているわけではないという意味では、「ゆるい」とさえ言えるのではないだろうか?

 ライフトレーニングにおいては、一般的に受講生たちは昼間は学校や職場などに出かけて通常の社会生活を行っており、夜だけ講義による研修を受けたり、信仰生活の初歩的な手ほどきを受けるという生活をする。一日のうちで宗教的理念に触れたり宗教的な環境下で生活するのは数時間であり、言ってみれば世俗世界と聖なる世界を行ったり来たりするような環境のもとで教育がなされることになる。

 こうした中で受講生は、櫻井氏が指摘するように「再臨論」や「主の路程」に関する講義を受けるようになる。彼らの多くが、この時点でメシヤが文鮮明師であることと、自分が学んできた内容が統一教会の教えであることを知るようになる。これを信者たちは「主を証される」とか、「主の証しを受ける」と言ってきた。泊まり込みのセミナーに比べるならば、研修の途中でライフトレーニングを離脱しようとすることはより容易である上に、これまで日常生活を送ってきた一般社会との接触が常に存在するために、世俗的な誘惑がより働きやすい環境下にある。したがって、ライフトレーニングにおいて「主の証し」を受けるときの受講生の心理状態は、泊りこみの研修会よりもはるかに冷静で客観的な状態にあると推察され、世俗的情報と宗教的情報の両者が拮抗する環境下で、文鮮明師や統一運動に関する情報を提供されることになる。しかも、ライフトレーニングの会場となる施設は通常駅の近くなどの便利な場所に位置しているため、自分が関わっている団体の背景を知った時点でそこを離脱することは、その意思さえあれば非常に簡単である。

 ライフトレーニングの参加者のうち、どの程度の割合の者が次の段階である「フォーデーズ」に参加することになるかは確たるデータがないが、全員が参加するわけではないことは「青春を返せ」裁判の原告たちも認めている。拙著『統一教会の検証』(光言社)のデータによれば、二日間の修練会に参加した者14383人のうち、四日間の修練会に参加した者は8258名であるから、この間の離脱率は42.6%ということになる。このことは、ライフトレーニングを前後して少なくともツーデーズ参加者の40%が離脱することを意味している。それほど効率が良いわけではないのである。

 私自身は、「東京第7地区」において、壮年壮婦に対するライフトレーニングの講師も担当していた。これはツーデーズを受講した者の中で、さらに深く学びたいという意思のある者に対して、週に2回くらいづつビデオセンターのある施設に通ってきてもらい、一連の講義を聞くというものである。私の行っていたライフトレーニングは、①緒論・アダム家庭、②ノア・アブラハム家庭、③メシヤの降臨とその再臨の目的、④再臨論の五コマの講義からなっており、受講生は各々のスケジュールが空いている時間に昼間ビデオセンターを訪れ、講義を受けたら感想文を書き、カウンセラーと話をして帰宅するということを繰り返す。仕事を持っている婦人の場合には夕方6時以降に講義することもあった。これも合宿ではなく通いの講義であるが、教育効果はさほど変わらない。本質をつかむ人は、普段の生活の中で通って講義を聞いても、よく内容を理解した。ライフトレーニングを通過して、最後の再臨論の講義を聞いた者は、その時点でメシヤが文鮮明師であることを明かされることになる。その意味では、青年のライフトレーニングも、壮年壮婦のライフトレーニングも講義の詳しさが違うだけで、教育内容は同じである。

 さて、櫻井氏はライフトレーニングの教育内容について批判的に記述しているので、その内容について検証しておきたい。

「受講生には歴史的・摂理的必然ということが先行して教えられているために、なぜ文鮮明がメシヤなのかと、逆に彼から歴史をたどる発想は生まれてこない。」(p.233)
「どんなことがあってもメシヤを受け入れなければならないのだという心構えが重視され、まさにその心的態度をビデオ学習やツーデーズセミナー、ライフトレーニングという三段階の研修を通して養成しようとするのである。」「日本の統一教会は、信じがたさという弱点を強みにする論理を強調する。」(p.234)
「ここで再臨主に関わる一般的な理解の問題が個人の信仰の問題に置き換えられていることを確認しておきたい。・・・文鮮明を明かすまで、人間の不信仰による摂理の失敗、人間と世界に関わる諸問題は全て不信仰が原因で生じたということを繰り返し説かれている。そういう認識の枠組みがある程度できあがった段階で文鮮明をメシヤと明かされると、信仰的によく生きることを考え始めた受講生は受け入れようかなという心境になる。」(p.235)

 統一教会の信者たちが行ってきた伝道の方法において、最初から文鮮明師をメシヤであるとか教会の創設者として紹介するのではなく、教理を説明する中で「メシヤ」という抽象概念を理解してもらい、それを受け入れ易いように一定の教育を施した土台の上で、最後に「再臨のメシヤは文鮮明師である」という結論を告げていたことは事実であろう。しかし、宗教の世界においては、「奥義」や「秘儀」などと呼ばれる奥深い真理を伝える際に、最初からすべての情報を開示するのではなく、段階的に情報を開示しながら、求道者にその真理を受け止める心構えができたときに初めて秘密の内容を伝えるということがある。そうした教え方も「信教の自由」の一部であり、世俗の論理で「最初から全情報を開示すべきだ」と強要できるものではないと私は考える。

 櫻井氏は、「再臨主に関わる一般的な理解の問題が個人の信仰の問題に置き換えられている」と批判するが、メシヤを受け入れることができなかったという過去の歴史の教訓を、個人の信仰のあり方と関連付けるのは当然のことであり、それを通して過去の物語が私にとって「生きた物語」となるのである。キリスト教の礼拝において語られる説教は、そのほとんどが聖書の物語を単なる過去の出来事として教えるのではなく、自分がその時代、その場所に生きていたらどう振舞ったであろうかという「実存的問題」として教えようとする。統一教会の信徒たちが再臨主を受け入れていく際にも、これと同様の理解がなされていると言える。

 にもかかわらず、そうした教育によって全ての人が文鮮明師を再臨主として受け入れるようになるわけではなく、むしろ受け入れない人の方が多いという事実は、こうした教育が必ずしも奏功するわけではないことを示している。櫻井氏の言うように、文鮮明師をメシヤとして受け止める「認識の枠組み」を受講者の中に形成しようという努力がなされたとしても、願った通りの認識を受講者がしてくれるとは限らないのである。こうした教育によって、「なぜ文鮮明がメシヤなのか」という批判的な思考をする能力が受講生から剥奪されるわけではなく、そのように考えて結論を受け入れない受講生も多数いるのである。最終的には、受講者が文鮮明師をメシヤとして受け入れるかどうかは、もともとその人に宗教的な素養があるかないかによって決定されると言っていいだろう。

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ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳17


第3章 性に関する価値観:婚前の性行為と同性愛(1)

 統一運動の倫理的価値観、とりわけ性に関する価値観はその神学から導かれ、またそれによって正当性を与えられる。伝統的なキリスト教道徳の全般的な遵守に加えて、グループの良き生活に対するアプローチは、道徳的行動の二つの基本的特徴を強調する。すなわち、個人が「何か」をする動機と、「何か」をした結果である。ほとんどどんな場合でも、「何か」あるいは特定の道徳的行為は以下の二つの基準によって(運動の教えにおいてだけでなく、メンバーの視点によっても)評価される。(1)「何か」をした動機または理由は、神を中心としているか?(2)「何か」をした結果や帰結は、地上天国の実現に貢献しそうであるか。(注1)これらの基準に合致する行動は善と判断される一方で、合致しない行動は悪とみなされる。神学的な言葉で言えば、「個人が創造目的を成就するのを助けるものが善であり、その反対の方向に向かうものが悪である。」(注2)運動の著名な神学者である金永雲のこの見解は、著者とメンバーとの議論の中ではっきりと述べられるか、もしくは暗示されたのであった。

 道徳的価値に対するこのアプローチが含意していることの一つは、行動そのものは良くも悪くもないということである。すべては個人の「目的」によって決まるのであり、この言葉は動機と意図された結果の両方を含んでいる。したがって、同じ行為でもその目的が神を中心としているか否かによって道徳的に善にも悪にもなり得るのである。運動の神学者たちは、彼らの視点が状況倫理に似ているということを否定するものの、同時に「過渡期(現代の世界)においては、純粋な善というものはしばしば決定不可能であり、実践することは非常に難しい」(注3)ということは認識している。

 実践のレベルにおいては、倫理に対するこのアプローチは、布教活動や資金調達の行為において機能していた悪名高い「天的詐欺」の教義に見られるように、時として運動の外の世界に対する関係を曖昧で脆弱なものとした。文師は、「もしあなたが人を利用しようとして嘘をついたならば、それは罪になります。しかし、彼に良いことをしようとして嘘をついたのであれば、それは罪ではありません。」(注4)と言ったとされている。

 この発言に含意されている倫理的相対主義は、グループの経済活動および伝道活動において詐欺的実践を助長したことは疑いがないと思われる。運動の本部は不実表示に対して公式に遺憾の意を表し、「・・・資金調達活動における『情報開示』についてのメンバーに対する一連の明確な指示」(注5)を発表したとはいえ、神を中心とする動機にこだわる運動の倫理的立場が、一般的に意思決定におけるある程度の融通性を許容するのではないかという若干の疑いが残る。

 統一運動の倫理的価値観に関する上記の議論は、この運動における性に関する価値観には直接当てはまらない。性はグループの堕落の教義のまさに中心に位置するものであり、メンバーたちに主として義務論的指向性をもった絶対主義として認識される傾向にある。例えば、中央の指導者たちは資金調達活動における天的詐欺の使用を遺憾に思うかもしれないが、各地方のセンターが持っている相対的自律性と、原理講論に表現された価値観、および上記の引用された文師の言葉の故に、草の根レベルにおいてはこの実践を大目に見ることもあり得るかもしれない。同じ中央の指導者たちが、そのような個人の自由を性に関する価値観の領域において大目に見るということはあり得ないのである。以下に記述するように、統一運動の性倫理においては絶対主義が支配的なのである。

 性に関する特定の価値観を調べる前に、グループの道徳的理想全般に対するアプローチの「精神」をとらえる上で役に立つ、三つの基本的なポイントを認識しておくことは重要である。第一に、運動の道徳的価値観から導き出される理想が、すべてのメンバーによって同じように理解されているわけではないということは明白である。あるメンバーが「西洋的アプローチ」と呼ぶものをとる者がいる。彼らは理想を、無条件に縛り付けるものであるとみなす。もしこれらの個人が特定の理想を実行しなければ、彼らはフラストレーションや罪悪感を経験しがちである。ほとんどのアメリカ人のメンバーがおそらくこのケースであろう。一方で、「東洋的アプローチ」をとる者もいる。彼らは理想を、拘束するものではあるが、特定の個人に対して現実的に何が期待できるかを意識することによって、彼らの熱望を修正するものでもあるとみなすのである。文師(およびおそらく極東出身のメンバーたち)はこの後者のアプローチをとるが、アメリカの信者たちは「お父様」が何を意図しているのかを常に理解できるとは限らず、その結果として、ときには自分たちが運動の理想を実現できないことに困惑したりするのである。

 第二に、運動の道徳的価値観は書面形式で明記されているわけではなく、メンバーがなすべきこととしてはいけないことを規定した公式の規則は存在しない。(注7)あるメンバーはこのことを次のように表現した:「それは、人々が統一原理を聞いたときに、彼らは高い生活基準で生きるべきだということを知るというだけのことだ。」(注8)社会学的な視点からは、このことは新しいメンバーはグループへの参加を通して、ある道徳的期待を「つかもうとする」ときに、価値観を学ぶということを意味している。非公式的な道徳的指導が、そしてより重要なのは、年長の兄弟姉妹の実際の行動が、初心者が見習うための規範と役割モデルを提供するのである。

 最後に、運動の中には、全メンバーが忠実に守ることを期待されている規定された行動と、個人の側で判断可能な選択の余地を残した、望ましい行動という区別があるように思われる。(注9)婚前の純潔は全メンバーに絶対的に要求されており、規定された行動の主要な例である。一方で、結婚したカップルは避妊を行わないように奨励されてはいるが、彼らには家族計画の問題に関しては自分自身で決定する自由がある。これが望ましい行動の例である。

(注1)このアプローチのより簡潔な表現は、『統一原理解説』、pp.50-51を参照のこと。
(注2)『統一神学とキリスト教思想』、 p .174.
(注3)前掲書、p. 174 .
(注4)B・キム「回心と信仰の維持:統一教会と文鮮明の事例」(1976年の宗教科学研究学会の年次集会に提出された論文)、p.22.
(注5)デビッド・G・ブロムリーとアンソン・D・シュウプ・Jr『新宗教の資金調達』、宗教科学研究誌 19 (3, 1980):p.233。
(注6)インタビュー:ショー夫妻
(注7)このことは、「キリスト共同組織」という根本主義グループの性的なふるまいに対するアプローチとは著しい対照をなしている。そこでは、「肉欲の罪を防ぐために、組織は兄弟姉妹間の相互作用を管理するための明示的なルールを設定した。・・・新しい受講者が訓練期間のために「ランド」(キリスト共同組織の本拠地)に来るとき、・・・牧師はオリエンテーションの時間に彼らに対して、男女の相互作用を管理する非常に具体的な訓令を読むのである。」リチャードソン、スチュワート、シモンズ、「組織化された奇跡」、pp.147-148。
(注8)インタビュー:ショー夫妻
(注9)「規定された活動とは、個人がしなければならない(あるいはしてはならない)ことである。規定を破れば罰を受けるようになる。・・・奨励された活動を行えば個人は報酬を与えられるが、一般的にはそれを行わないことによって罰せられることはない。」(バーナード・ファーバー、『ファミリー:組織と相互作用』[サンフランシスコ:チャンドラー出版社、1964]pp.41-42。)

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』70


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第70回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」の中で、ビデオセンターの次の段階としての「4 ツーデーズセミナー」(p.229-33)について説明している。前回までは班長による研修生の管理、無駄話の禁止、外部情報からの遮断、食事、講師の紹介、睡眠といったセミナーの外的な構成要素をアイリーン・バーカー博士の「ムーニーの成り立ち」の記述と比較しながら批判的に分析してきたが、今回は私自身の講師体験をもとにして彼の記述が間違っていることを主張したいと思う。

 櫻井氏は「青春を返せ」裁判の原告の主張に則って、ツーデーズ・セミナーが受講者に寝不足や疲労感をもたらすことによって正常な判断力を減退させ、合理的な判断ができない状態に追い込んで次のステップである「ライフトレーニング」への参加を決意させるものであると主張している。しかし、これは私の講師体験からすれば誤った認識であり、少なくとも著しく偏った主張であると言わざるを得ない。既に述べたように、私は1987~88年にかけて原理研究会の運営するビデオセンターに通ってくる学生に対する講義、原理研究会主催の2日間の修練会の講師、7日間、21日間の修練会の進行係などを担当していた。また、1990年の1月から翌年6月まで、東京の武蔵野市と三鷹市を中心とする、当時「東京第7地区」と呼ばれていた信徒の組織において、教育部の講師、教育部長、ビデオセンターの所長兼講師などを担当した経験がある。原理研究会における2日修は、札幌「青春を返せ」裁判の原告たちが体験したツーデーズ・セミナーとほぼ同じようなスケジュールである。一方で、「東京第7地区」で壮年壮婦を対象として私が行ったツーデーズ・セミナーは、それよりもはるかに緩やかで時間の短いものであった。この二つの体験から、修練会の環境と回心の関係、そして人が伝道されるということの本質について私の考えを述べることにする。

 私が「東京第7地区」で行っていたツーデーズ・セミナーは、自身の運営するビデオセンターに通っているゲストの中から学習の進展度が同じくらいの人を2~4人選んで、ビデオセンターのスタッフが日程を決定して行っていた。既婚の婦人の場合はウイークデーに時間がある場合が多いので、1カ月に1・2回ほどツーデーズの日程を決めておき、堕落論までビデオ学習が進んだ人を対象に、セミナーに参加するよう勧めるのである。ビデオセンターの所長である私が、感想文やカウンセラーの報告などをもとにして、理解が良いと思われる人にツーデーズ・セミナーに勧めるよう、カウンセラーに指示を出した。参加が決定したら紹介者に連絡を入れた。紹介者はゲストがツーデーズに参加すると非常に喜んで、当日プレゼントなどを持ってビデオセンターを訪れることがよくあった。

 壮婦の場合には家庭があるので、ツーデーズ・セミナーは合宿ではなく通いで行われた。一日の講義時間は午前中2時間と午後2時間の2コマで4時間、全体の講義時間は2日間で合わせて8時間ほどである。幼い子供がいる場合は、保育室に子供を預けて講義に参加することになる。これまでビデオを通して聞いてきた内容を同じ建物の中で学ぶのであり、生の講義で聞くということだけが違いで、特に余人を排した閉鎖的な環境の中で行われるわけではない。また普段の生活をしながら通いで講義を受けるわけなので、特に睡眠不足や過労の状態で講義を受けるわけでもなく、時間の関係で青年のセミナーのようにレクリエーションやスポーツなどが行われることはない。にもかかわらず、壮婦のツーデーズ・セミナーが青年の合宿セミナーに比べて教育力が劣っているかといえば、決してそんなことはない。講義時間が短いので獲得する知識の量は減るかもしれないが、しっかりとポイントをつかんで理解し、次の段階に進んで行く人は大勢いたのである。

 原理研究会における合宿型のセミナーと壮婦のための通いのセミナーの両方を担当した私が結論として言えることは、都会を離れた研修所に合宿することや、短期間で数多くの講義を聞くこと、比較的プライバシーの抑制された環境下で集団生活をすること、レクリエーションやスポーツ、班長による面接などは、回心を生み出すための必要条件ではないということである。なぜなら、こうしたものを受けても回心せずに、結局は伝道されずに去って行く人が大勢いる一方で、こうしたものがまったく無くても回心し、伝道される人が大勢いるからである。事実、壮婦のための通いのツーデーズ・セミナーを通して多くの人が伝道され、いまでも信仰を持ち続けている。こうした環境的な与件は、回心の本質的な要因ではなく、結局その人が伝道されるかどうかは、教えそのものを受け入れるか否かによって決定されるのである。

 ツーデーズ・セミナーの講師は私が務めたが、当時の私の年齢は24~26歳であり、そのような若者が30代から40代の家庭の主婦、ときには自分の母親よりも年上の60代の方に説教じみた内容の講義をするわけだから、今になって考えればよく黙って聞いてくれたものだと思う。私はビデオ・センターのカウンセラーから「このビデオセンターの所長です」とゲストに対して紹介された。それ以上に何か大げさな形容をして紹介されたことはない。どんなに権威付けをしても、その人の本質は語る内容や態度を通して現われるものだから、余計なことを言わなくても良いとカウンセラーを指導していたためである。

 私と受講生との年齢的なギャップ、および極めてシンプルな紹介の仕方にもかかわらず、私は多くの受講生に「先生」として受け入れられ、その前で一定の権威をもって語ることができた。それは受講生たちが私自身を見ていたのではなく、私が語る内容に集中していたからであると思う。語る私に人生経験や個人的な内容がなくとも、語られている内容が奥深い真理を含んでいたために、その内容そのものの権威が時として受講生を圧倒し、感動させるのである。私は原理研究会にいた頃から原理講師を幾度も担当してきたが、常に「人の心は神が動かすのであって、小手先の技術によって感動が生まれるのではない」という信念に従って講義をしてきた。したがって、講義のための最高の準備はどのように上手に話をするかという話術の研究ではなく、自我を捨てて、その人に神が語ろうとする内容を伝える通過体となり、媒介となることであり、そのための最高の手段が祈りであった。これが私が講義に望むときの基本姿勢であった。

 講義の内容は、1日目が創造原理の内容であり、二日目が堕落論と復帰原理であった。復帰原理の内容は、「歴史の同時性」の説明をもって終了する。個々の事実と年代を挙げながら、いかに人類歴史が繰り返しているかを説明すると、多くの受講生が感動すると共に、いま自分が生きている時代がちょうど2000年前にイエス・キリストがこの地上に誕生したのと同じような時代なのだということを理解するようになる。ツーデーズの講義を聞き終わって、内容を理解して関心を示した人は、「メシヤ」という存在について関心を示すようになる。メシヤが誰なのか知りたい、メシヤに会ってみたいという欲求を持つようになるのであるが、もちろんすべての人がこのようになるわけではない。ツーデーズ・セミナーに対する反応は人それぞれであり、神にも罪にもメシヤにもまったく関心を示さずに、そこで勉強を中断してしまう人もいる。そういう人をそれ以上つなぎとめておくことは不可能で、自然にビデオセンターには通わなくなってしまう。

 しかし、ツーデーズ・セミナーで感動し、その内容を真理として受けとめた人は、結論を早く知りたいと思うようになる。そういう人に対しては、メシヤに出会うためにはそれなりの心構えがいるから、そのための勉強を継続しましょうと勧める。それは「ライフトレーニング」と呼ばれる一連の講義で、週に2回くらいづつビデオセンターのある施設に通ってきて、一連の講義を聞く約束を取るのである。この「ライフトレーニング」の講義も、私がビデオセンターの所長をいている間は、私自身が担当した。この決定プロセスには、櫻井氏の言う「ノリノリの雰囲気」(p.233)などというものは一切なかったが、関心のある受講者は自らの意思で先に進むことを決定した。

 このように、壮年壮婦と青年学生では、同じ「ツーデーズセミナー」でも環境はまったく異なるが、教えられる内容はほぼ同じで、詳しさや講義時間が異なるだけである。そしてどちらも、関心のある人は学び続け、関心のない人は去っていくという結果となる点でも同じである。人が伝道されるプロセスという観点からすれば、セミナーの外的な環境の差異は、さほど本質的な違いをもたらさないのである。ましてや櫻井氏の言うような寝不足や疲労感などというものは、宗教的回心とは何の関係もないものである。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳16


第2章(9)

 統一神学と統一教会のメンバーの態度および行動の関係は、複雑かつ逆説的である。この複雑さは、主として私のインタビュー対象者のおよそ半分がグループの神学に対する詳細な知識だけでなく、神学と実践がダイナミックな相互関係を持っているという見解をも示唆したという事実にみられる。残りの半分は神学を重要ではあるが、宗教的共同体における生活と信仰に対する二次的な付加物であるとみなしているように見えた。神学をより強調した者たちは、統一神学大学院および一流大学において正式の神学教育プログラムに現在関わっていることによって、後者のグループと区別された。したがって、おそらく彼らの現在の「使命」の性質が、なぜ彼らが共同体における生活と実践により高い優先順位を置く「兄弟姉妹たち」と違っていたのかを説明しているのであろう。さらに、統一教会のメンバーの圧倒的大多数は神学教育の使命には関わってない。したがって、私は神学によって定義され、強化され、根拠を与えられる実践は、グループが持つより一般的な指向性であると思う。

 神学と実践の逆説的な関係は、以下の点にもみられる。一方で、運動はメンバーに対して定期的な講義や特別な修練会を通して、統一原理の内容を教育することを非常に重要視するが、また一方では、グループのメンバーであることを信条に同意することや神から来る神秘的直観を授かることよりも、むしろグループの活動に参加することによって定義するという、やや広く行き渡った傾向があるように見える。このことは、私がインタビューした対象者たちが、原理講論の前編の第一章(「創造原理」)と第二章(「堕落論」)に対する実直な(必ずしも文字通りのというわけではないが)信奉は別として、無批判的な根本主義からより内省的な福音派自由主義に至るまで、多様な神学的視点を持っていたという事実からも明らかであった。さらに、これらの対象者は、グループの本物のメンバーは本質的に個々人が一定の限界の枠内で自由に、非常に個人的なやり方で信仰を解釈する(「神学を行う」)という条件付きで、統一教会の生き方を採用することに関わっている、という考えを共通に持っていた。例えば彼らは、個人がグルームに持ってきたもの、すなわち、彼もしくは彼女の宗教的背景と個性は、彼らがグループの神学をどのように解釈するかと大いに関係があるとしばしば言っていた。神学的見解の多様性はグループへの参加の強調と合わせて、「ムーニー」を「他のムーニたちと同じことをする人」と定義することに一定の支持を与える。(注84)そのような外延的定義は、もちろん完全に正確というにはあまり表面的であり、あまりに狭義に行動主義的であろう。しかし、それは運動の特定の行動規範の順守に基づいた適切な参加に対する関心をを強調する上では役に立つ。(注85)本物のメンバーを神学的によりも「社会学的に」定義する傾向は、元統一教会員の書いたものにも見ることができる。彼らは運動における自分たちの生活を、おもに集団関与の力学という視点から記述してきた。(注86)

 上述の逆説は現実のものではないが、「正当的秩序」(注87)または「正当化」(注88)という社会学的概念の観点から論理的に説明できるので明らかである。ピーター・バーガーによれば、正当化とは「・・・社会秩序を説明し正当化することに役立つ、社会的に客観化された『知識』」(注89)のことである。統一運動は、その生活様式を拘束する長年にわたる文化に根差した伝統を持たないという意味において「新」宗教である。したがって、グループ自身の「自己正当化の事実性」(注90)に加えて、組織はその神学の啓示された真理に含まれる妥当性確認に強く依存している。その真理は、しばしばおもに文師の生涯と教えに関連した口伝の伝承や格言によって強化される。神学的正当化は、常に露骨に懐疑的でしばしば敵対的なより大きな世界に直面しているそのメンバーに対して、この運動がその生活様式を説明し正当化するのを可能にする。(注91)これは、今日のアメリカ社会の標準的なアプローチから多くの点で異なっているグループの性と結婚に関する実践においては、特に真実である。例えば、アメリカにおける高い離婚率は統一教会員にとっては、技術的・経済的要因によって説明されるべきものではない。むしろ、この現象は人間の共同体を堕落させようというサタンのまた一つの努力であると見られているのである。運動における低い離婚率――どのメンバーと話すかによるが、約1%から3%――は、人間存在に対する神の目的という永遠の基台の上に結婚を成立させようというグループの努力を示している。成功した結婚は、このように神学的に説明され正当化されているのである。さらに、文師がメンバーに対して配偶者を「推薦」するのは、東洋の家父長制の名残や、宗教共同体としてのグループを統制し結束させる効果的な方法としてではなく、神の特別な代理人が世界の歴史の「終末」に果たすべき「論理的な」役割であると理解されている。

 社会学的な視点からすれば、神学的正当化はこの運動の二つの相互に関連したニーズに役だっている。それはすなわち、社会化(socialization)と社会統制である。新しいメンバーは、神学的に定義され正当化された何らかの社会的役割を担うことによって、グループに同化されていく。神は普遍的な親であるが故に、すべての神の子供たち、すなわち運動のメンバーは、兄弟であり姉妹である。これらの仮想の親族関係の役割と関係は、究極的現実に根ざしており、ある者の社会的役割からの逸脱(例えば、兄弟と姉妹の間の恋愛感情を伴う愛着)は、グループの規範を犯す以上のことであり、神に対する罪なのである。個人は、彼または彼女の兄弟または姉妹としての役割を、神から与えられたものとして認識することを学び、その役割から逸脱したいかなる行動も、背信に由来するものであると理解するのである。このように、社会化と社会統制は神学的正当化によってうまく支えられている。統一神学のこの社会学的機能は、この研究の後続の章においてより完全に実証されるであろう。

(注84)この言い回しは私自身によるもの。私が話した統一教会員は、ムーニーと呼ばれることを気にしていなかったということを付け加えておこう。そう呼ばれることが好きだという者さえいた。
(注85)運動においては二つの規範が機能している。(1)運動のメンバー全員に適用される一般的な規範;および(2)グループにおけるその人の特定の役割と地位に基づく個々の規範。これらの規範は、生活を送る上での書かれた規定のリストとして現れることはめったにない。それらはもっとグループのコンセンサスに関わることであり、彼らの最高の模範は年長の、より霊的に発達したメンバーの中に見出される。
(注86)以下の著作を見よ。エドワーズ『神に夢中』;エルキンズ『天的詐欺』;アンダーウッドとアンダーウッド『天国の人質』;およびウッド『ムーンストラック』。
(注87)マックス・ウェーバー『社会的および経済的組織の理論』A・M・ヘンダーソンとタルコット・パーソンズ訳、タルコット・パーソンズの序文付き(グレンコー、Ⅲ:ザ・フリー出版、1947年)、pp.124-132
(注88)バーガー『聖なる天蓋:宗教の社会学的理論の要素』、pp.29-51
(注89)前掲書、p.29
(注90)前掲書、p.31
(注91)バーガーによると、「宗教は、経験的社会の不安的な現実構成を究極的現実と関わらせるので、非常に効果的に正当化する」(前掲書、p.32)。

カテゴリー: ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』69


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第69回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」の中で、ビデオセンターの次の段階としての「4 ツーデーズセミナー」(p.229-33)について説明している。前回は班長による研修生の管理、無駄話の禁止、外部情報からの遮断といった内容について扱ったが、今回は食事、講師の紹介、睡眠の問題を取り上げることにする。

 ツーデーズセミナーにおける食事に関して櫻井氏はごく簡単に、「食事は大人としては粗食の部類だが、食生活の不規則な若者にとってはまずまずだろう」(p.231)としている。イギリスにおける修練会を参与観察したアイリーン・バーカー博士は、「統一教会の修練会での食事は必ずしも一流の料理人が作ったものではないが、ほとんどの大学の学生寮のものに比べて決して悪くはないし、おそらく多くの大学生が自分で用意するものよりは、はるかに栄養があるだろう」(『ムーニーの成り立ち』第5章 選択か洗脳か?より抜粋)と述べている。これらのことから、研修会における食事そのものに何か特別な作用があるわけではないことは明らかであろう。むしろ、受講生が食事に関して感動するのは別の観点であることが多いようだ。バーカー博士の「ムーニーの成り立ち」には次のようなインタビューの言葉がある。
「私がそこに着いたのは、金曜日の夜遅くでした。すでに大人数の夕食が終わって後片付けをしていましたが、台所の女性たちは手を止めて、私のために食事を作ってくれました。それはそうしなければならないという義務からではなく、そうしたいからしてくれたとても素敵な親切でした。それはうまく説明できませんが、私には分かりました。それだけではありませんでした。私は心の中で、それこそ自分が望んでいたものであり、これこそ自分がしたいことだと感じました。」(『ムーニーの成り立ち』第5章 選択か洗脳か?より抜粋)

 要するに、食事の豪華さよりも、それを作ってくれた人々の真心や奉仕の精神に感動したということである。こうしたことは感受性の鈍い受講生には分からないかもしれない。しかし奉仕の精神を持ち、人のために行きたいと願っている受講生は、研修会のスタッフが献身的に働いている姿を見て感動し、自分もそのような人になりたいと思うのである。実際には、統一原理の教えそのものよりも、そうした人間の姿に感動して入教を決意したという人は多い。

 続いて、講義の様子に関して櫻井氏はあたかも見てきたかのように描写する。
「早起きで覚めやらぬ頭に『創造原理』が講師の熱烈な講義でたたき込まれる。受講生はビデオセンターや班長から『大変な講師』『受講できるあなたはラッキー』といったことを繰り返し聞かされているので、何か重要なことを語っているのではないかという気になる。しかし、社会人にとってはせいぜい先輩くらい、学生にとっても助手くらいの人が、確信に満ちて大声で情緒たっぷりに堂々と講義をする様にとりあえず目を見張る。」(p.231)

 まずツーデーズの講師の紹介の仕方であるが、実際にはその人の出身地や出身大学などが事実に即して具体的に説明されることが多かったようである。ビデオセンターのスタッフや班長が講師を褒めたのは事実かも知れないが、それは尊敬心の自然な発露であろう。青年向けのツーデーズの講師は、青年の組織に属する信者が担当していたので、受講生とそれほど年齢が離れているわけではない。少し年上の先輩という櫻井氏の指摘は基本的に正しい。これは「ピア・エデュケーション」に近いもので、同世代の若者の話だから親近感をもって聞くことができるということだろう。20代の若者が60を過ぎた老人から人生について聞かされても親近感を感じることは難しいが、少し年上なら素直に聞けるということはあるかも知れない。

 櫻井氏はあたかも見てきたかのように、ツーデーズの講義を「熱烈」「確信に満ちて大声で情緒たっぷりに堂々と」などと描写するが、修練会における講義を現実以上に情緒的なものとして描写するのは裁判資料の大きな特徴の一つである。櫻井氏はそれを鵜呑みにしているに過ぎない。講義のスタイルが理性的か情熱的かというのはひとえに講師の個性によるものであり、一概に言えない。また理性的な講義が良くて情緒豊かな講義が悪いということにもならない

 ツーデーズの教化としてのあり方はどちらかといえば講義を中心とした理性的なアプローチであり、感情的側面がそれほど強調されているわけではない。自己啓発セミナーや米国の根本主義者に見られるような、ローリングプレイや集団行動、あるいは音楽や映像を多用した手法を用いればはるかに大きな感情的効果が狙えるにも関わらず、ツーデーズのあり方は学校で教師の授業を受けるのとよく似たような、非常に古典的なスタイルである。これはツーデーズ研修の目的が感情的高ぶりよりも合理的な理解を主たる目的としているからにほかならない。信仰は一時的な感情の昂揚とは全く別のものであり、人の心の奥底に深く沈殿していくものである。したがって、仮に小手先のテクニックで一時的に感情を左右することが出来たとしても、それは信仰とは何の関係もないのである。このためツーデーズでは、いたずらに人の感情に訴えるような手段は用いられない。

 このことは、バーカー博士の「ムーニーの成り立ち」でも次のように説明されている。「講義は、高等教育の多くの場所で毎日(同じかそれ以上の時間)なされているものよりもトランスを誘発するものではない。さらに、私が観察したことは、入会する者たちは講義の内容が面白くて刺激的であると感じたらしく、また積極的に聞き耳を立て、ノートをしばしば取っており、そして(講義の後で質問をすることから明らかなように)自分自身の過去の体験と関連づけているのである。統一教会の修練会では、お経や呪文のようなものが唱えられることはほとんどない。仮にそれが行われるところでも(欧米では、主にカリフォルニアであったが)、ゲストに関する限りは非常に限定された性格のものである。確かに、それはクリシュナ意識国際協会の寺院を訪問したときに参加するように勧められるお経や、実際に、より伝統あるヒンドゥー教の寺院で通常行われているものほど激しくはない)。統一教会は恍惚状態を志向する宗教ではないし、通常の活動の一部として、信者たちを熱狂に駆り立てることはしない。」(『ムーニーの成り立ち』第5章 選択か洗脳か?より抜粋)

 櫻井氏は受講生の描写の中で、「熟睡できるものは少ないと思われる」「緊張感と同時に頭脳の疲労度も増し、居眠りも許されないという状況の中で頭は朦朧としてくる。人によっては半覚醒の状態で講義を受ける。」「午前中よりさらに眠くなる」(以上、p.231)「ほとんどの受講生はセミナーの受講疲れのためにそこまで考える余裕はない」(p.232)などど、やたらと受講生の眠気や疲れを強調し、正常な状態ではないかのように描いている。しかし、スケジュール表によれば睡眠時間は7時間あるのであり、若者が眠気を催すような過酷な状況にはない。「ムーニーの成り立ち」においても、睡眠不足が判断を鈍らせることはないことを以下のように論じている。
「修練会のゲストたちは、7時間ほどの睡眠が許される。彼らは必ずしも常にこれを利用するわけではないが、学生たちが試験の準備をするときにはもっと少ない睡眠しかとらないこともまれではないし、結果としてその試験で十分よい成績を挙げている。」(『ムーニーの成り立ち』第5章 選択か洗脳か?より抜粋)

 「眠気」や「意識が朦朧」などという言葉を裁判資料が強調するのは、自分たちが通常ならざる状態で入教を決断させられたと原告たちが訴えることによって、勧誘行為の違法性を追求して損害賠償を勝ち取りたいからである。しかし、バーカー博士の客観的な研究は、こうした「生物学的な感受性」が説得を受け入れた原因であるという証拠は見いだせなかったという結論を出している。眠気や疲れだけで人が回心するわけではないということだ。

 櫻井氏の描くツーデーズの受講生像は、慣れない環境や眠気と疲労に苛まされた若者が、「講義内容が理論的にわかることはない」まま、「この先さらにライフトレーニングに進むかどうかの決断のみを迫られ」(p.232)、霊の親と支部の歓迎パーティによって「ノリノリの雰囲気」(p.233)の中で決意を表明してしまうというものである。しかし、これは脱会者が後から訴訟のために描いたストーリーであり、平均的なツーデーズ受講生の体験であるという客観的な証拠は存在しない。講義内容を理解してしまったことにすると、入信は自体責任ということになってしまうので、あえて異常な状態であるかのように事実を変形し、研修会の外的要因に回心の原因を責任転嫁しようとした描写であると言えるだろう。

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ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳15


第2章(8)

 ちょうど体が神を中心とする心によって主管されるように、心もまた活動的で健康的な体からの刺激を必要とする。したがって、心の復帰は、一部には体の復帰に依存している。神の前に実現すべき理想としての心と体の相互依存関係は、以下の原理講論の言葉にその表現を見いだすことができる。
「心があって初めて完全な人間となり得るように、喜びにおいても、心の喜びがあって初めて、肉身の喜びも完全なものとなるのである。」(注73)

 イエスの生涯と使命は、統一教会の復帰の教義において重要な役割を持っている。旧約時代を通して、神はイスラエルの子らが地上に神の国を建設するであろうメシヤを迎える準備をするよう、彼らを通して働かれた。初臨の主でありメシヤであるイエスは、「肉においても霊においても完全な人」(注74)であり、罪によって長らく遅れていた創造目的の成就のために、この世に来た。創造理想を完成した人間として、イエスの使命は「人類を新たに生み直してくださる真の父母」となることにあった。(注75)十字架は神の計画の一部であったという伝統的なキリスト教の考えを否定し、原理講論はイエスの死はユダヤ民族の無知と不信の結果であったと主張する。もしイエスが生を全うしていたならば、彼は結婚して(第二祝福の実現)、最終的には神の主管を全世界に拡大していたであろう(第三祝福の実現)。
「・・・その新しいアダムは、エバの位置に立つ女性と一つになり、神の祝福を受けて結婚し、神の真の家庭の核をなす子供を育てるべきであった――すなわち、人類始祖がサタンを中心とするやり方でなしたことを、神を中心とするやり方で成就するということである。その時点から、第二のアダムであるメシヤと、復帰されたエバとしてのその花嫁は、第二のエデンの園を実現するために働く意思のある人々の協力を得て、全被造物をその原初の状態へと復帰する段階に進むことができたはずであった。」(注77)

 イエスは個人としては失敗しなかったが、彼の使命は部分的にしか全うされなかった。それは彼の早すぎる死により、彼が「霊的救い」のみをもたらし、「肉的救い」を確保することができなかったためである。原理講論によれば、イエスは
「・・・堕落人間を霊肉共に救うために、彼が人間として来られたので、彼を信じて霊肉共に彼と一体となったならば、堕落人間も霊肉共に救いを受けたに違いないからである。ところが、ユダヤ人たちがイエスを信じないで、彼を十字架につけたので、彼の肉身はサタンの侵入を受け、ついに殺害されたのである。そのため肉身にサタンの侵入を受けたイエスを信じて、彼と一体となった信徒の肉身も、同じようにサタンの侵入を受けるようになったのである。」(注78)

 イエスの死の基台の上に、クリスチャンたちは神との純粋な霊的関係の喜びを知っており、死んだときには霊界においてイエスと同じ場所が保証されるかもしれない。しかし、
「アダム以来の血統的原罪は清算することができず、いくら誠実によく信じる信徒であっても、彼に原罪がそのまま残るようになり、また、原罪のある子女を生むようになるのである。我々が信仰生活において、肉身の苦行をしなければならないのは、原罪が残っているところから、絶え間なく肉身を通じて入ってくるサタン侵入の条件を防ぐためである」(注79)

 イエスの復活が堕落人間に対する肉的救いをもたらしたと考えるかも知れないが、これは当てはまらない。なぜなら原理講論によれば、神がイエスを死から復活させたという新約聖書の記述は文字通りにとられるべきではなく、むしろそれは霊的救いの象徴なのである:「復活は人間が・・・サタンの主管圏内に落ちた立場から、復帰摂理によって神の直接主管圏内に復帰されていく、その過程的な現象を意味するのである。」(注80)したがって、肉的救いはイエスによって実現されずに残されたのであり、「再臨して初めて、霊肉合わせて、救いの摂理の目的を完遂され・・・地上天国を復帰するようになる」(注81)と言われている。

 再臨主の到来は未来の希望ではなく今日の現実である。この復帰摂理におけるクライマックスの役割を果たす神が選んだ人物は、1917年から1930年の間に韓国で生まれた。(注82)第三アダムの使命は、基本的に第二アダムの使命と同じである。彼の活動の歴史的背景は、一方でより好ましいものである。それは神が彼の再臨のために世界を準備するために2000年間働いてきたからである。他方では、それはより危機的である。なぜならサタンの霊感を受けた道徳的腐敗や共産主義の挑戦が、終末における神の最終的勝利の土台を崩す恐れがあるからである。再臨主はイエスの果たし得なかった使命を完成させるであろう。彼は結婚して善なる子女を生み出すであろう。彼はすべてのものを統一し、神の永遠なる統治を地上に実現するであろう。彼の仕事――そしてある意味で統一教会の救済論の中心――は、原理講論の以下の言葉に適切に要約されている:
「ゆえに、イエスは自ら神を中心とする実体的な三位一体をつくり、霊肉共に真の父母となることによって、堕落人間を霊肉共に重生させ、彼らによって原罪を清算させて、神を中心とする実体的な三位一体をつくらせるために再臨されるのである。このようにして、堕落人間が神を中心として創造本然の四位基台を造成すれば、そのとき初めて、神の三大祝福を完成した地上天国が復帰されるのである。」(注83)

 運動のメンバーから受けた洞察と提案に基づいて私が構築した、統一神学に関するこの記述的説明に照らして、私は性と結婚がこの運動の世界観(Weltadschauung)の統合的次元であるという結論を下す。創造、堕落、および復帰はすべて、性と結婚の存在論的意義を包含する様式で着想されている。その結婚は永遠であり、それによって全人類が天国に入る「祝福」なのである。「独りで天国にはいる者はいない」という、運動の中でよく知られた格言は核心を突いている。

(注73)『原理講論』、p.5
(注74)前掲書、p.60。統一神学のキリスト論のより完全な解説としては、金『統一神学』第4章をみよ。
(注75)前掲書、p.210
(注76)前掲書、p.145
(注77)金『統一神学』、p.103
(注78)『原理講論』、pp.147-148
(注79)前掲書、p.148。このように、統一神学がウィリアム・グラハム・コール(『キリスト教における性と精神分析学』[ニューヨーク:オックスフォード大学出版]、pp.3-65)やウィリアム・フィリップス(『イエスは結婚していたか?』[ニューヨーク:ハーパー・アンド・ロー、1970年]、pp.120-163)などの学者の見解に反して、魂と肉体の二分法を、後世のヘレニズム的二元論が教父たちに影響を与えた結果であると考えるのではなく、キリスト教の救済論に初めから内在していた要素であると考えていることは明らかである。
(注80)前掲書、p.170
(注81)前掲書、p.113
(注82)『統一原理概説』、p.207
(注83)『原理講論』、p.218

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』68


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第68回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」の中で、ビデオセンターの次の段階としての「4 ツーデーズセミナー」(p.229-33)について説明している。櫻井は例によって札幌「青春を返せ」裁判の資料から、ツーデーズセミナーのプログラムを紹介する。このプログラム自体は、実態からそれほどかけ離れたものとは思われない。要するに金曜日の夜に集まって、土日の二日間でみっちり講義を受けるという二泊三日の研修である。そこでは、統一原理の内容に関する生の講義を受けるということ以外に、何か特別なことが行われるわけではない。

 櫻井氏はあたかも自分が見聞きしたかのような筆致でツーデーズセミナーについて描写しているが、実際には彼は参与観察を行っていないので、それはすべて裁判資料で述べられていることを再構成しているに過ぎない。彼自身が見聞きしたファーストハンドな情報ではなく、あくまで元信者の目を通して観察されたツーデーズセミナーの描写をトレースしているだけである。そこには事実の客観的な描写と、元信者たちの主観的な感想と、裁判において損害賠償を請求するための戦略的に変形された描写とが入り混じっている。したがって、櫻井氏の記述には「裁判で争っている一方当事者の主張」という以上の資料的価値はないが、彼の指摘している具体的なポイントに関して批判を試みることにする。
「班ごとに統一教会員のスタッフが班長として配属され、数名の班員の受講に関わる一切の雑務を担う。必要事項はすべて班長を通すように言われ、勝手な判断・行動は厳に禁じられている。セミナー会場には新聞・テレビ・ラジオ等外部情報を摂取するメディアは一切置かれていない。1980年代は外へ出ての公衆電話も禁止だった。今は携帯電話を予め班長が預る。班長は班員に常に目を配り、班員同士が無駄話をしないように注意している。」(p.230)

 これは「マインド・コントロール理論」でいうところの「情報コントロール」が行われているという主張にほぼ等しい。要するに密閉された空間で情報を制限された中で、正常な判断力を減退させた状態で回心に導いているということが言いたいのであろう。しかし、このような措置を行う動機や目的、さらにそれが実際にどの程度機能しているかに関しては、他方当事者の立場や客観的な第三者の観察なども含めて総合的に捉える必要がある。

 まず、研修会に班長と呼ばれるスタッフがいること自体は、行事を秩序あるものとしてスムーズに進行させるうえで必要なことであり、非難に値しないことは明らかであろう。彼らは受講生が講義の内容をよく理解できるようにサポートする目的でそこにいるのであり、愛と奉仕の精神で受講生に尽くすことを信条としている。そうした班長の姿に感動して憧れる受講生も実際には多くいるのである。

 新聞やテレビなどのメディアがないことや、電話連絡などの制限は、受講生が講義の内容に集中するための措置であって、本人が合意の上でこれを行っているのであれば何の問題もない。ちなみに私の娘が通っている私立の女子高は、携帯電話の所有は禁止されていないが、それを学校に持ってくることは禁止されているし、万が一持ってきた場合には登校中は学校に預けなければならない。授業中に生徒がスマホをいじることを許したら、教育など成り立たないからである。一般の企業における会議でも、重要な会議の最中に他の電話に出たりスマホをいじったりするのはルール違反やマナー違反になり得るので、電源を切るように指示することはあるだろう。一つのことに集中するために一定期間他の情報をシャットアウトすることは、一般社会でも行われていることである。

 とりわけ宗教の世界では、回心や悟りといった特別な体験をするために、世俗の文化をシャットアウトするということが行われてきた。アメリカ版の「青春を返せ」裁判とも言える「モルコ・リール」対「統一教会」の訴訟において1987年に米国キリスト教協議会(NCC)がカリフォルニア州最高裁判所に提出した「法廷助言書」は、この点に関して以下のように述べている:
「入門者を通常の文化から引き離して、妨げられずに宗教的事柄に精神を集中できる場所に引きこもらせることの優れた効果を認めない宗教を見いだすことはまずできない。もしシンガー博士が正しいとすれば、おそらく数百万の宗教的回心は無効であり、そうした回心者の信仰と生活は詐欺の結果であり、無駄であったということになる。僧院や修道院がすぐに思い浮かぶが、そのほかカトリック教会経営学校、クリスチャン・スクールなどはカトリック教会や他の教会の信仰、即ち世俗文化からの隔離は『周囲の文化を支配するシンボルとは異なった種類の聖なるシンボルを中心にして生活を立て直すことを助ける』という信仰を反映している。神との一体化を一心不乱にめざすための質素で純潔な生活という理想像を代表したものである。」
「19世紀の米国西部の開拓地では、参加者の回心のみを目的にした『キャンプ集会』が開かれた。その集会はキャンプの設置場所から説教のやり方、参加者間に許されている相互交際の内容に至るまで、すべて回心を目的に計算されたものであった(ブルース『みんなハレルヤを歌った』)。これは、未回心者が、通常の環境を離れ、宗教団体によって維持され統制(コントロール)されている別の環境に行く多くの具体例の一つにすぎない。別の環境で日常の生活の影響を忘れて、信仰を受け入れることができるように組織立てられた経験を他の参加者と共にすることができるということである。」
「多くの宗教で、隠遁生活が特別な地位を占めてきた。仏教では、僧侶は宗教の要諦を維持保存するものとされてきた。世俗の中では一般人が救済を達成することが事実上できないと考えられたからである。米国では隠遁する修道女は信仰に生涯をささげ、清貧、純潔、従順の徳目を守り、聖バジル、聖アウグスチヌス、聖ベネディクト、アシジの聖フランシス、聖イグナチオなどにより幾世紀も前に決められた修道院規律を守り、詳細に生活が規制されている献身的修道院生活を送ってきた(レクソー『僧院生活』)。 」(以上、「法廷助言書」の内容は増田善彦『「マインドコントロール理論」ーその虚構の正体』より抜粋)

 次に、こうした情報のコントロールをたとえ主催者側が意図していたとしても、それを実際に徹底させることができたかどうかは別問題であることを押さえておかなければならない。この辺は、実際に参与観察を行ったアイリーン・バーカー博士がかなり詳細な報告をしている。彼女は研修会の代表的な例として「イギリスの終末修練会」と「カリフォルニアのキャンプK」の二つを挙げているが、前者での体験は以下のようなものである。
「食事と散歩の間、ゲストたちは個々のムーニーたちの証しを聞く。それは、ムーニーたちが最初にどのようにして運動と出会ったのか、それが彼の人生をどのように変えたのか、そして既に成し遂げられたことを見れば如何に驚くべきことであるかを伝える物語で、語るたびごとに洗練されていく。ゲストたちは講義の内容についてどう思うかを親しく尋ねられる。ゲスト同志がお互いに話さないようにするための露骨な試みはなされないし、実際に彼らの多くが内輪でおしゃべりをしている。それは裏口の外で短時間たばこを吸いながらなされることもある。ただし、比較的少人数であることと、ゲストに対してメンバーの比率が高いということ(通常は少なくとも1対1)は、ムーニーが会話の大部分を占める傾向があるということを意味している。」

 カリフォルニアのキャンプKでの様子は以下の通りである。
「プログラムの厳しい統制にもかかわらず(あるいは、それ故にかもしれないが)、全体的な雰囲気は、個々のゲストの積極的な参加を促しているように見える。通常は会話に積極的に参加することが称賛され、ゲストの発言に対してグループで拍手喝采する場合もある。ゲストがムーニーのいないところで情報交換することは不可能ではないが、容易なことではない。少なくとも一人のメンバー(異性であるかもしれないし、そうでないかもしれない)がそれぞれゲストを見るようにとの役割を与えられており、キャンプKでのムーニーたちは、他のどこよりもこの仕事に熱心のようだった。男性の『相棒』が女性のゲストの手洗いにまで付いていくことはないが、休憩時間には通常そこに列ができるので、一人でトイレにも行けないといったよく聞く不満にも一理ある。私の体験では、トイレではそれぞれの人がノートをつけるだけのプライバシーが十分守られていた。ただし、トイレが親密な会話をするための理想的な場所だとはとうてい言えないだろう。私が私的な意見交換を他のゲストとできたのは、ゲームで早い段階で脱落したときや、『消灯』の後にささやくように打ち明け話をしたときだった。」(『ムーニーの成り立ち』第7章 環境支配、欺瞞、「愛の爆撃」より抜粋)

 こうした状況は日本でも同じである、研修会の主催者側にはできるだけ班員同士の「横的な」授受作用を妨げて講義の内容に集中させたいという意図があったとしても、それを完全に防ぐことは不可能であり、強制力はないということである。現実は無駄話をする研修生はたくさんいるのである。紹介者やビデオセンターのスタッフを信頼し、自分が知りたいことを学ぼうという意識を持って来た者は、自然と研修会のスタッフの指示に素直に従うことになる。しかし、さして強い動機もないのに来てしまった人は、横的な無駄話をしたがる傾向にある。研修会での生活を「コントロールされたもの」として不快に感じるかどうかは、こうしたゲストが持つ個性によって異なると言えるであろう。

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ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳14


第2章(7)

 第二祝福の具体的な表現としての結婚は、最も重要な統一教会の儀礼であり、神学的には統一教会の救済論のまさに中心に位置している。個性の完成が近づいてきたら、その個人はメシヤから第二祝福を受けるにふさわしい程度に成熟する。運動のメンバーの中にはこの点に関して意見の一致しない者もいるかもしれないが、結婚の式典はある意味でそれを通してメシヤを迎えるイベントである。(注65)しかしながら、結婚(「祝福を受けること」)は個人が原罪のくびきから解放される信仰のイベントであることは確かである。式典そのものは、それを通してサタンとの血縁関係が終了し、真の父母である文師夫妻との新しい血縁関係が開始する「通過儀礼」であるとみなされている。この血統の転換の性質は、まだ運動によって明確に述べられていない。それはまだ流動的な状況にある神学的信条の一つである。あるメンバーの言葉によれば、「この運動は成長の過程にあるので、人間と神との真の関係に関する伝統を形成している最中なのである。」(注66)にもかかわらず、原理講論では以下のように断言されている:
「堕落人間は、このようにして[#傍線]メシヤを迎えて原罪を取り除き[#傍線終わり]、人間始祖の堕落以前の立場に復帰したのちに、神の心情を中心としてメシヤと一体となり、人間始祖が堕落したため歩み得ず取り残された成長期間を、全部全うして初めて『完成実体』となることができるのである。」(注67)

 もしメシヤとの一体化が原罪を取り除くための条件であり、もし結婚式が原罪清算のための信仰のイベントであるならば、文師がメシヤまたはその代身であるだけではなく、祝福を受けるということはメシヤを迎えることを意味する、と仮定するのが論理的である。

 祝福の神学的意義は、原理講論においてはもしアダムとエバが堕落しなかったならば彼らに何が起こっていたのかに関連して説明されている。アダムとエバは歴史的存在であると同時に原型的カテゴリーであるため、以下の一節は結婚による結合のための適切な霊的基台を整えようとするどのカップルにも適用可能であろう。
「人間は天宙の和動の中心として創造されたので、すべての被造物の二性性相の実体的な中心体であるところのアダムとエバが、完成されて夫婦になってから、彼らがお互いに和動して一体となったときに、初めて二性性相として創造された全天宙と和動することができるのである。このように、アダムとエバが完成された夫婦として一体となったその位置が、正に愛の主体であられる神と、美の対象である人間とが一体化して、[#傍線]創造目的を完成した善の中心となる位置[#傍線終わり]なのである。ここにおいて、初めて父母なる神は、子女として完成された人間に臨在されて、永遠に安息されるようになるのである。このときこの中心は、神の永遠なる愛の対象であるために、これによって、神は永遠に刺激的な喜びを感ずるようになる。また、ここにおいて初めて、[#傍線]神のみ言が実体として完成する[#傍線終わり]ので、これが正に真理の中心となり、すべての人間をして創造目的を指向するように導いてくれる本心の中心ともなるのである。」(注68)

 運動の結婚に対する神学的見解にとってこの一節が重要であることを評価するのは難しくない。なぜなら、夫と妻の一体化は、愛と美、天と地、神と被造物の一体化を象徴すると同時に実現するからである。「祝福」に関する説教の中で文師は同じ意味のことを述べている:「祝福において最も重要なことは、皆さんが夫あるいは妻を得るということではありません。皆さんは神様と天宙を得るのです。」(注69)

 復帰摂理においては、祝福は統一神学において「二重目的」と呼ばれるものを持っている。それは個体として存在するための目的と、天宙全体のための目的である。一方で、個々のカップルは原罪から解放されて神のみ言葉の直接主管圏に入る。他方で、彼らの合一は神の主管を国家に、そして究極的には全世界に拡大するためのルートであると理解される。すなわち、第二祝福はそれ自体が目的であると同時に、第三祝福を実現するための手段でもあるのだ。

 復帰の教義の枠内において性について論ずるとき、心身の関係とキリスト論を考慮に入れなければ完全とは言えないであろう。本章の初めに説明したように、第一祝福の目標は四位基台の造成であり、それによって個人と神の一体化と心と体の一体化が同時に成される。アダムとエバが個性完成を実現できなかったことにより、彼らはサタンの主管下に入り、サタンが人間の活動に影響を与える第一の手段は堕落した体を通してであった。キリスト教は体の脆弱性に気づいており、適切にも姦淫(より広い意味での性的不道徳)を「すべての罪の中でも最も大きな罪」(注70)であるとみなした。神は心と体が相対的調和の状態で満ちることを意図したが、堕落した状態においては、それらは不可避的に葛藤状態に陥っている。原理講論はこの葛藤を、カインとアベルの物語(創世記4:1-16)の寓意的な解釈によって説明している。アベルは主体として神、善、心を表示し、一方でカインは対象として、サタン、悪、体の立場に立つ。
「体は心の命令に従順に屈伏しなければ、私たちの個体は善化されない。しかし、実際には体が心の命令に反逆して、ちょうどカインがアベルを殺したような立場を反復するので、我々の個体は悪化されるのである。」(注71)

 心と体の統一を取り戻すためには、本来の創造のプロセスを逆転させる必要がある。「ところで、神は元来、人間の外的な肉身を先に創造され、その次に内的な霊人体を創造されたので(創二・7)、再創造のための復帰摂理も、外的なものから、内的なものへと復帰していく摂理をされるのである。」(注72)歴史のレベルにおいては、「ルネッサンスの反中世運動」が、自然と人間の肉身の価値と尊厳性を高めたという点において再臨の準備をしたのであるが、その非原理的なヒューマニズムの故に、外的なものにのみ焦点を当てたため、それは実際には肉身に対するさらなるサタンの侵入に道を開いたのであった。

 運動の文献はこの問題に関してはっきりと述べてはいないが、肉身の救いに対して与えられた救済論的な優先事項は、運動の共同体生活において最も明確に示されていることは明らかでように思える。インタビューと観察によって明らかになったことは、このグループは心が、より正確には本心または良心が、不従順な体を支配しなければならないと強調しているということだ。したがって、運動における性的な禁欲生活の強調は、個性の完成に近づき結婚するときまで継続するのである。性欲「そのもの」は、メンバーがそのことに過度の関心を持つことによって、神を中心とする生活の探求に集中できなくなってしまわない限りにおいては、罪深くない。言うまでもなく、婚前の性行為は成長期間において神によって与えられた位置を離れることを意味し、アダムとエバの罪を繰り返すことである。大まかに言うと、肉身の復帰はおもに第一祝福の実現にふさわしい兄弟姉妹の役割に対して忠実であることによって成し遂げられる。

(注65)私がインタビューしたメンバーの大部分は文師をメシヤであるとみなしており、文師夫妻を彼らの真の父母であると見ていた。しかしながら彼らは、自分は完全に自分の意思でこの信仰に到達したのであり、メンバーになるためにこのように信じることは要求されていないと強調した。
(注66)ブライアントとホッジス『統一神学探求』、p.143
(注67)『原理講論』、p.230(下線は筆者)
(注68)前掲書、pp.38-39(下線は筆者)
(注69)文鮮明「祝福」『マスター・スピークス』(MS-77-02-20, 1977年2月20日)、p.17
(注70)『原理講論』、p.7
(注71)前掲書、p.245
(注72)前掲書、p.451

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』67


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第67回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」の中で、初期段階の教育が行される施設として「3 ビデオセンター」(p.228-9)についてごく簡単に説明している。前回も引用したが、櫻井氏は統一原理のビデオに関して次のように述べている:「この種のビデオ受講で感動する人はほとんどいない。どれも初耳の話である。神がこの世と人間を作り、人間がサタンの仕業で堕落し、その後神の元へ復帰する歴史を歩んでいるのだという話を聞かされても、ふーんというしかない。しかし、『全てわからなくともゆっくり学んでいけばよい。いずれわかるので最後まで見ましょう』と言って、後へ後へと評価を引き延ばす。要するに、何が言いたいんだということは取っておくのである。」(p.229)

 前回に引き続き、今回も自分自身の1990年代の経験に基づいて、ビデオセンターの現実について語ってみたいと思う。櫻井氏と、彼が資料的に依拠している統一教会反対派の主張は、基本的にビデオセンターにおける勧誘教化行為は欺罔であり、ゲストを欺いて特定の宗教的教えを刷り込もうとしている、というものだ。そこには基本的にゲストは教えられている統一原理の内容が理解できないし、納得できないにもかかわらず、巧みな心理操作によって学習を続けさせられ、最終的にはそれを受け入れざるを得ない状態に追い込まれるというものである。しかし、この主張は事実に反している。実際には、ビデオセンターのゲストはビデオの内容に感動して喜んで学習する者と、内容について行けずに途中で離脱する者とに分かれていくのである。それはゲストがもともと持っていた性格や背景によって主体的な選択をしていると考えることができる。

 当時使用されていたビデオソフトは、主に森山操講師のものと、倉原克直講師のものであった。これらの内容は基本的には統一原理の教えを講義したものだが、それぞれの講師が自分なりのオリジナリティーを発揮して、より分かりやすく、かみ砕いた表現に変えられている。ビデオには随所に「神」や「神様」という言葉が出てきて、その内容が宗教的なものであることはもちろん、聖書を引用するためキリスト教的なものであることは誰にでも理解できる内容になっている。創造原理の箇所では三大祝福の説明に創世記1章28節が引用されるし、堕落論では同じく創世記第2章から3章にかけて展開される、失楽園の物語を人間の罪の起源として説明している。続いて出てくる「終末論」「復活論」「メシヤ論」などは、タイトルからして極めてキリスト教的な色彩の強いものであり、頻繁に聖書を引用したり、聖書の物語を説明したりしながら講義を進めて行くものであり、これを聞けば誰しもキリスト教的な背景を持つ宗教の教えについて学んでいることは理解できるはずである。

 私が運営していたビデオセンターにおいては、ビデオの内容そのものに関心を持ち、意欲的に学んで行く人は、早期にツーデーズ・セミナーへの参加が決定するので、ビデオは堕落論くらいまで終わり、後はもっぱら生の講義によって教育されるというケースが多かったことを記憶している。十数巻あるビデオを最後まで見るような人は、ツーデーズがなかなか決まらなかったり、ビデオの内容がよく理解できなかったり、批判的であったりする人の場合が多く、一通り客観的に見て、もうそれ以上は来なくなる人が多かった。

 ビデオ受講に対する反応は、まさに人それぞれであった。受講者が印鑑や念珠を購入した顧客である場合、「先祖の因縁」というような仏教的世界観を持っており、ビデオセンターで学ぶ目的も、因縁を精算するための精神的な修行あるいは勉強として捉えている場合が多いため、キリスト教的な神の概念を教えるのは努力を要した。日本は神仏混淆という宗教的土壌があるので、「神」という概念自体をことさらに否定する人は少なかったものの、なぜ聖書の神なのかという点に関しては納得が行かず、違和感を感ずる人も多くいた。もちろん、最初から神の存在を信じていて、聖書はこれまで詳しく学んだことはなかったが、面白そうだから是非聞いてみたいという反応があったことも事実である。

 青年がビデオを学ぶようになる動機が、自分を高めたいとか、生きる目的を知りたいとか、広く世界を知り教養を身につけたいなどの、どちらかといえば観念的で抽象的なものであるのに対して、既婚の婦人たちがビデオを学ぶようになる動機は、印鑑や念珠を購入した延長線上にあり、夫や姑との関係をはじめとする人間関係、あるいは子供の非行といったような、具体的な問題が解決されるかもしれないという期待に基づいている場合が多く、カウンセラーの主たる仕事は、ビデオで紹介されている統一原理の内容が、それらの具体的な問題解決にどのように役立つのかを結び付けてあげることにあった。

 しかしながら、これは簡単な仕事ではない。目の前の悩みを解決するのに、なぜ神について学ばなければならないのか、すぐには結びつかないからである。こんなことを学んでも意味がないと言って途中でさじを投げてしまう方も大勢いた。そのようなときカウンセラーは、「いま現実問題として起こっている数々の悩みには、もっと奥深い原因があり、その原因を突き止めてそこから直していかなければ根本的な解決にはならない。あなたの問題はあなた個人に特有な内容ではなく、人類に共通した普遍的な悩みの一つであるから、その根源にある人類共通の罪の原因について知っていかなければならない」と説明して、さらにビデオの内容を学ぶように勧めることになる。しかしながら、この説明も同様に、必ずしも功を奏するとは限らず、もっと簡単で対処方的な手段で悩みが解決されることを期待していたのに、抽象的な話ばかりだといって途中で受講をやめる方もたくさんいた。ビデオの内容と自分の具体的な悩みや生活を結びつけて捉え、学ぶことの意義を感じることのできる人は、かなり宗教性のある洞察力に優れた人であると言える。

 統一原理の内容は、いかに講師がかみ砕いて表現しようとしても、初めて聞く人には複雑で難解であり、すぐに理解できるものではない。そこで、カウンセラーはビデオで学んだ内容の一つ一つを復習しながら、それをゲストの悩みと結びつけながらカウンセリングを行う必要がある。とりわけ聖書の物語を素材とした堕落論や復帰原理の内容は、日本人には馴染みが薄いために理解しづらいようだ。堕落論に登場する天使の存在を受け入れるのがまず大きなハードルとなるし、復帰原理に登場する聖書の人物の名前だけを挙げても、アダム、エバ、カイン、アベル、セツ、ノア、セム、ハム、ヤペテ、アブラハム、サラ、ハガル、イシマエル、イサク、リベカ、ラバン、ヤコブ、エサウ、レア、ラケル、ジルパ、ビルハ、ヨセフ…と数多いので、誰が誰の親であり、妻であり、子であるかというその関係性や時代を覚えるだけでも一苦労ということになる。内容に興味を持てない人がこうした学習を継続することはまさに苦痛であり、途中でやめたくなるのは必然である。しかし、逆にいままで知らなかった聖書の世界に興味を覚え、そこで繰り広げられる人間ドラマに自分の人生を重ね合わせ、自分と関係のある物語として捉えることができる人は、喜んで学習を続けることになる。すなわち、学習を続けるかどうかは、ひとえにその人の宗教性が左右するのである。

 櫻井氏は、ゲストがビデオの内容を理解できなかったとしても、「ともかくここは自分の居場所だと被勧誘者に感じてもらえばいい。下にも置かない態度に誘われたものは悪い気がしない」(p.229)として、統一原理の内容が理解できなくても人間的な情によってつなぎとめられていることを批判的に記述している。しかし、家庭や社会において孤独を感じたり、居場所がないと感じている若者や主婦が、自分の話を熱心に聞いてくれる人々に魅力を感じてそこに通うようになることは自然なことであり、とりたてて悪いことであるとは言えない。多くの新宗教運動に参加する人が、その教えそのものというよりは人間関係に引かれて入信するようになるのと変わらない現象が、ビデオセンターにおいても起こっていたということである。

 さて、このビデオセンターで学ぶようになった人が、次のステップであるツーデーズセミナーに参加する割合はどのくらいなのだろうか? これに関しては、拙著『統一教会の検証』において、以下のように紹介されている。
「日本においては外部の学者による統計調査は存在しないが、統一教会の信徒団体が1984~93年にわたって一部地域で行ったサンプリング調査がある。それによれば、その10年間に伝道されて定期的に統一原理を学習するようになった者36913人のうち、二日間の修練会に参加した者が14383(39.0%)…」(『統一教会の検証』p.32)

 すなわち、ビデオセンターでコース決定をして学習を始めたとしても、次のステップに進むのは四割弱であり、半分以上がこの段階で離脱するということなのである。その後も、ステップを踏むごとに離脱者が出て、最終的に残るのは数パーセントという結果になるのだが、これもまたゲストが自由意思によって主体的な選択をしている証拠である。

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ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳13


第2章(6)

復帰の教義

 「人間は、何人といえども、不幸を退けて幸福を追い求め、それを得ようともがいている。」(注55)原理講論の冒頭に出てくるこの文章に、統一教会の復帰の教義のカギを見いだすことができる。堕落した状態にあるにもかかわらず、すべての人類はぼんやりとではあったとしても、完全な充足に対する欲求を自覚しており、それは神の永遠なる創造目的と完全なる調和を成したときに満たされる憧憬なのである。したがって、「肉身の快楽にふける俗人の喜びと、清貧を楽しむ道人の喜びとは、全く比べものにならない。」(注56)と断言することができるのである。

 この目標の実現が神学的に可能な理由は、一つには神の性質のゆえであり、そしてもう一つには堕落した人間の性質のゆえである。人間は神の本来の創造目的を捨て去り、サタンとの血縁関係を結んでしまったが、神の彼らに対する愛は取り消すことができず、永遠である。堕落以降の人類歴史は、わがままな子供たちをご自身のもとに取り戻そうとする神の不屈の努力の記録であるとみられている。これが統一教会の予定論に対する見解の本質である。「神が運命として定めたのは、人類の復帰に対するご自身の最終的な計画である。」(注57)堕落人間の歴史は本質的に「救済史(heilesgeschichte)」であり、それは人間をサタンが支配する世界の苦しみと悪から解放したいという神の欲求の現れである。神の目的が必然的に勝利を収めることは、統一教会が永遠の状態としての地獄を否定しているところに生き生きと示されている。最終的には万人が――たとえ最悪の罪人であったとしても――救われ、喜びと調和の神の国が地上に実現されるであろう。

 人間は堕落の結果として自由を失ってしまった。にもかかわらず、
「堕落した人間にも、この自由を追求する本性だけは、そのまま残っているので、神はこの自由を復帰する摂理を行うことができるのである。歴史が流れるに従い、人間が己の命を犠牲にしてまでも、自由を求めようとする心情が高まるというのは、人間がサタンによって失った、この自由を再び奪い返していく証拠なのである。」(注58)

 原理講論においては、自由は包括的な意味を持っており、それは自由意志だけでなく、政治的、社会的、経済的自由をも包含し、すべての形態の自由が歴史における神の摂理的な働きによって次第に発達してきたのである。(注59)

 すべての被造物が復帰されるためには、人間は神が与えた自由を行使しなければならない。「神は人間がそれ自身の責任分担を完遂して初めて完成されるように創造された」。(注60)したがって、神の御旨が成就されることは予定されているけれども、「神の95%び責任分担と人間の5%の責任分が合わさることによってのみ」(注61)これは起こりえるのである。人間の責任は神の責任に比べれば小さいが、その5%は100%の努力を必要とする。

 復帰のプロセスにおいて人間の役割を規定する原理は、堕落した人間たちが、神の愛に満ちた構想の土台の上に、自分自身をサタンのくびきから解放し、本然の四位基台を再構築することができるように計画されている。「復帰において、我々は神との勘定を清算し、我々自身をサタンから解放しなければならない」(注62)勘定の清算は、原理講論においては蕩減復帰原理として説明されている。
「堕落によって創造本然の位置と状態から離れるようになってしまった人間が、再びその本然の位置と状態を復帰しようとすれば、必ずそこに、その必要を埋めるに足るある条件を立てなければならない。堕落人間がこのような条件を立てて、創造本然の位置と状態へと再び戻っていくことを『蕩減復帰』といい、蕩減復帰のために立てる条件のことを『蕩減条件』というのである。」

 さらに、「蕩減条件は、本然の位置と状態を失うようになった経路と反対の経路をたどって立てなければならない」(注64)

 蕩減条件を立てることにより、ある人物は信仰基台と実体基台の二つを立てることが可能となり、これらは両方とも人がメシヤを迎えるために必要である。信仰基台は、堕落した人間の神との関係を復帰することに関係していなければならず、その方向性は縦的である。アダムとエバが信仰を失ったことを蕩減するためには、三つの条件が必要である。第一に、アダムの位置に立つ「中心人物」(霊的に年長の「兄弟」「姉妹」または文師)であり、第二に、人の生活を神へと導く「条件物」(祈祷、慈悲深い行い、純潔を守った生活、聖書と原理講論の学習)であり、第三に蕩減の「数理的期間」であり、これは完成に至る7年間の成長期間である。

 実体基台は復帰の横的な次元であり、人間が堕落性を持つようになった経路を逆転させることによって造成される。それは本質的に、神が本来意図した調和が地上に実現するように、人間の生活の秩序を再構築することである。個人は四つのことを行う:他者を愛することにおいて神の視点に立つ;天宙における自己の役割を守る;その役割にふさわしい権利と役割だけを引き受ける;悪ではなく善を繁殖することを決意する。

 これら二つの基台を造成することによって、ある人物は第一祝福を全うすることができるようになるだけでなく、第二祝福のために自分自身を準備することができる。第一祝福から第二祝福への移行は高い理想であり、運動のメンバーによれば、人が結婚して(「祝福を受けて」)理想家庭を作り始める前に、個性完成が完全に実現している必要はないという。最小限の希望は、その個人が神に対する確固たる信仰と、成熟し統合された人格であるという自覚と、地上に神の国を建設することに対する完全な献身を、結婚生活に入る前に獲得することである。

(注55)『原理講論』、p.1
(注56)前掲書、p.4-5
(注57)金『統一神学』、p.161
(注58)『原理講論』、p.93
(注59)したがって、最近の性の自由の発達もまた神の摂理の証拠であるとみなされることになると思われるかもしれない。しかし、私がインタビューしたメンバーは全般的にこの現象をサタンの力であるとみなしていた。
(注60)『原理講論』、p.55
(注61)前掲書、p.198
(注62)金『統一神学』、p.164
(注63)『原理講論』、p.224
(注64)前掲書、p.91

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