ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳54


第6章 祝福:聖別期間と同居生活(10)

 この経済的課題に関する運動のヒエラルキーからの唯一の声明は、『季刊祝福』の「サローネン会長インタビュー」の中に発見することができる。1979年までアメリカの運動の運営上のトップであったサローネンは、この研究のためにインタビューを受けたカップルによって提起されたものと明らかに同様の懸念に対して答えている。彼の言葉は運動においてはあまり聞かれないテーマ、すなわち、自立を伝えるものであった。
「私たちの教会に対する関係について言えば、私たちの責任は自分自身を捧げることです。そこにつきものなのは、私たちが必ずしも明確に理解してこなかった概念です。皆さんが最低限のレベルで自分自身に責任を持った後にはじめて、自分が持っているものや自分自身を捧げることができるのです。」(注71)

 既婚のカップルの状況について直接語った部分では、彼は自立について以下のように語っている。
「・・・それは多くの祝福家庭が自分たちの経済を支えるためにパートタイムの仕事をしなければならないという意味かもしれません。現実的な点としては、それは私たちの運動がまだ比較的小さいからであり、センターの指導者たちやその他の責任ある者たちは、彼らがフルタイムで教会の仕事をしているという事実により、彼らの住居や基本的な食糧や医療費などに関して、運動から最低限の直接的あるいは間接的な助成金を受けているだけからです。しかし、私はこれさえも将来変わるだろうと思います」(注72)

 サローネンは、これらの問題を文師は理解していると報告し、
「・・・運動の全般的な活動のための利益を生み出すだけでなく、たとえそれがパートタイムや一時的なものであっても、祝福家庭に仕事を提供し、彼らが自立することができるようないくつかのビジネスを創り出すために一生懸命努力しておられます。・・・私はこれが彼の計画であると思いますが、それが実現する前であっても、私たちは自分自身に責任を持つ意思がなければなりません。」(注73)

 これらの発言は1977年になされたものだが、今日わずかなカップルが運動のビジネスで働いており、ある者は運動に関連した使命にフルタイムで従事しており、その他の者たちは世俗社会で仕事を見つけなければならない。にもかかわらず、彼らの多くは将来に関しては非常に不安定であり、とりわけ経済的な生き残りに関してはそうである。

 これと密接にかかわっているのが、大家族の適切な居住空間の問題であることは明らかだ。祝福を受けたカップルに関する限り、統一運動は厳格な共同体生活から、いまだ出来上がっていない在り方への移行状態にあるように見える。現時点では、統一運動が所有したり賃借している家やアパートメントに自分たちだけで住んでいるカップルがいる一方で、大多数の未婚者と一緒にセンターで共同体生活をしている者もいる。文師は祝福を受けたカップルが近い将来「定着」することについて語っているが、サローネンは彼らのために家を建てるのは聖殿や大学を建設した後になるであろうと語っている。(注74)このように、これらの家庭が将来どこにどのように済むのかに関しては、多くの不確実性があるように見える。

 筆者は統一運動の夫と妻の個人的なやりとりをインタビューの場面以外で観察することはできなかったため、このプロセスに関する議論は、統一運動の結婚の宗教共同体内部における位置と、アメリカ社会においてカップルが通常下すべき決定との関係に関する、いつくかの観察に限定されるであろう。まず明らかなのは、統一運動のカップルは典型的なアメリカのカップルに比べて基本的な選択肢がより少ないということだ。後者がなさなければならないいくつかの重要な選択、すなわち家族計画(子供の数)、職業の選択、居住する場所などの決定は、前者においては事実上宗教共同体によってなされているのである。もしこれが正確な描写なら、統一運動のカップルは外の世界のカップルほど多くの重要な共同の意思決定を行うことを要求されていないと想定することができる。したがって夫と妻のやりとりのプロセスは、より大きな社会におけるよりも幾分シンプルなのである。

 第二に、統一運動の結婚は宗教的信仰によって創られ、維持され、正当化されるのであり、それはカップルにとっては潜在的に関係を破壊しかねない配偶者のいかなる個人主義的な関心よりも強いものであるとみなされている。世界の救済者としての役割の核心である犠牲というテーマは、「結婚の救済者」としての役割の一部として、統一運動のカップルの共同生活にまで延長されているのである。夫婦間の葛藤は統一運動においては主要な問題ではないように見える。それはメンバーたちが自分の相手がどのように自身の個人的な性格を補完し完成させるかに関心を集中させるよう訓練されているからである。これは統一運動のカップルが決して言い争わないということを意味しているのではなく、そうした訓練が融和的であるよう彼らを動機づけているということだ。そして最後に、彼らは自分たちの結婚が永遠であると信じているため、その関係における主要な葛藤を解決するために多大なる努力を投じるであろう。(注75)

 この終末論的共同体における結婚のもう一つの側面が、夫と妻のやりとりが激しくなることを抑制している。私がここで言っているのは、頻繁で、長く、そして時には痛みを伴う結婚後の別居のことである。これは「聖別・約婚期間」よりも多くの犠牲を要求する。なぜなら文師は既婚女性たちに対して、夫だけでなく(就学以前の)小さな子供たちのもとを離れるように招集したからである。もっとも最近の招集は、母親たちに大学のキャンパスで原理研究会(CARP)と共に活動するようにというものであった。こうした別居は、統一運動における極めて高い結婚と家庭の理想と鋭く対立している。
「神様のみ旨は、皆さんが決して分かれることなく、どこに行くときも一緒ににいることです。夫と妻が真に一つとなり互いに愛し合うとき、神様は最も大きな喜びを感じるのです。そのようなカップルになるために、努力しなければなりません。そのような関係は自動的には実現できません。一つひとつのカップルがそうなるように全身全霊を傾けなければなりません。」(注76)

(注71)「サローネン会長インタビュー」『季刊祝福』(第1巻3号、1977年秋)p. 24.
(注72)前掲書
(注73)前掲書
(注74)前掲書 、p. 26。
(注75)この研究のためにインタビューを受けた祝福家庭は主として年長(30代および40代)であり、お互いに対する非常に良い関係を築いているように筆者にはみえた。
(注76)金栄輝「神様が望まれる家庭」『季刊祝福』(第1巻第1号、1977年春)pp. 23-24。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』132


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第132回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 元統一教会信者の信仰史の具体的な事例分析の中で、第125回から「五 壮婦(主婦)の信者 家族との葛藤が信仰のバネに」に入った。今回は元信者Iの事例の3回目である。Iは統一教会を相手取って計5億4700万円の損害賠償を求める民事訴訟を起こし、このうち2億7600万円の支払いを命じる判決が東京高裁で下された。そのため先回までは、Iに対する勧誘行為の違法性や裁判所の判決といった、法的な問題を中心に解説してきた。そして、損害賠償の額の大きさと違法性との間には直接的な相関関係は存在しないものの、捧げた献金の額の大きさが裁判官の判断に影響を与える可能性があることを指摘した。今回からは法律の問題を離れて、Iが統一教会の信仰を持つに至った動機の部分に関する分析を進めることにする。

 まず、個人としてのIの際立った特徴は、資産家であったということである。損害賠償の請求額が合計5億4700万円であるという数字は、一般庶民からはちょっと想像のつかない金額であり、それだけで統一教会は反社会的団体であり、Iは統一教会によって騙されたのではないかと常識的には思いたくなる数字である。恐らく櫻井氏が元信者Iの事例をこの本で扱ったのは、「統一教会からこれほど大きな被害に遭った人がいる」ということを読者に見せつけ、統一教会の反社会性を示す格好の例としたかったからではないかと推察される。

 一般に、財産のある人は幸福であるという社会通念がある。単純にこの図式に従えば、「統一教会に出会う前のIは多くの財産を持つ幸福な人であったにもかかわらず、統一教会に出会うことによってその財産を奪われ、不幸のどん底に叩き落された。その被害の一部を裁判を通して取り戻したのである。」というストーリーになる。裁判所の判断は客観的で世俗的な価値観に基いて行われるため、こうした目に見える客観的な「モノサシ」をもって被害というものを判断する傾向にある。しかしそれでは、なぜ幸せであったはずのIが統一教会の信仰を持つに至ったのかという動機の部分は見えてこない。

 実は、「財産のある人は幸福である」という前提自体が不確実なものであり、幻想であるかも知れないということに気付かなければ、Iの信仰の本質は見えてこないのである。これは私が苦し紛れに勝手に言っていることではなく、最新の幸福学の研究成果を基にした主張である。慶応義塾大学大学院教授の前野隆司氏の著書『幸せのメカニズム:実践・幸福学入門』(講談社現代新書、2013年)は、最新の幸福学の成果に関する易しい解説書だが、前野氏は幸福と相関関係にある様々な要素について分析を行っている。その中で特に興味深かったのが、年収や財産と幸福感の関係であった。

 調査会社カンター・ジャパンが16歳以上の男女を対象に、財産の所有と幸福感に関し、2012年に21カ国で行った調査によると、「もっと多くの財産があれば幸せなのに」と思う人は、日本人では65パーセントに達したという。この数値には国ごとに大きな差があり、日本は欧米諸国に比べてかなり高い数字になっているという。しかし前野氏は、人が「もう少し収入や財産が多ければ幸せなはずだ」と思ってしまうのは「フォーカシング・イリュージョン」であり、要するに幻想に過ぎないのだという。

 この言葉は、プリンストン大学名誉教授でノーベル経済学賞受賞者でもあるダニエル・カーネマンが編み出した言葉であり、前野氏の解説によると以下のような意味である。
「フォーカシングとは焦点をあわせること、イリュージョンは幻想。だからフォーカシング・イリュージョンとは、間違ったことに焦点を当ててしまうという意味です。つまり、『人は所得などの特定の価値を得ることが必ずしも幸福に直結しないにもかかわらず、それらを過大評価してしまう傾向がある』[Kahneman, et al., 2006]ということ。『目指す方向が間違ってるよ』です。」(前掲書、p.63)

 カーネマンらは、「感情的幸福」は年収7万5千ドルまでは収入に比例して増大するのに対し、7万5千ドルを超えると比例しなくなる、という研究結果を得ているという。これを日本円に換算し、購買力の比で補正すると、ざっと1千万円くらいになるので、日本に当てはめれば、年収が1千万円だろうと、1億円だろうと、10億円だろうと、感情的幸福とは関係がないということである。カーネマンの結果はアメリカのものだが、実際に前野氏が日本人1500名に対して行った調査の結果を見ても、年収の高い層では、年収と感情的幸福には相関がなかったという。にもかかわらず、人は更なる高収入を目指してしまうところが「フォーカシング・イリュージョン」なのだと前田氏は指摘する。

 なぜ、ある年収までは収入と感情的幸福が比例し、それ以上になると相関しないのかに関しては複数の理由が考えられるが、最も大きな理由は以下のものである。年収が低いときに住居や食事や身の安全といった最低限の欲求が危険にさらされる可能性があるので、年収を上げることによってそれらの危険を回避することができて幸福度が上昇するが、ある程度の収入を得ると、基本的な生活には支障がなくなるので、愛情・所属欲求、尊厳欲求、自己実現欲求などのより高次の欲求を満たしたいと思うようになり、それは収入の上昇によっては得られないものだからである。

 このように考えると、5億を超える資産を持っていた元信者Iは、1千万円の資産を持っている人の50倍の幸福を感じていたかといえばそうではなく、感情的幸福度において両者にさほど差はなかったのだということがわかる。すこし乱暴な言い方をすれば、Iの基本的な生活に支障をきたさない限りは、5億円の財産が1千万円に減ったとしても感情的幸福度においてはさほど大きな変化はないのだということになる。さらに、より高次の欲求である愛情・所属欲求、尊厳欲求、自己実現欲求を満たすために、5億円の財産を犠牲にしたとしても、Iの感情的幸福度は低下するどころか、むしろ上昇するという結論になるのである。このように、感情的幸福度の視点から見れば、愛情・所属欲求、尊厳欲求、自己実現欲求を満たすためにその対価として5億円を支出することは合理的な判断であるとさえ言えるのである。ところが、お金の量に比例して幸福度が上がるという「フォーカシング・イリュージョン」に陥っている人には、そのことが理解できないのである。

 前野氏は、人間の幸福に関して「地位財・非地位財」というもう一つの面白い視点を紹介している。地位財とは、所得、社会的地位、物的財のように周囲との比較により満足を得るものであるのに対して、非地位財とは健康、自主性、社会への帰属意識、良質な環境、自由、愛情など、他人が持っているかどうかとは関係なく喜びが得られるものであるという。そして、地位財による幸福は長続きしないのに対して、非地位財による幸福は長続きする、という重要な特徴があると前野氏は解説する。平たく言えば、目に見えて他人と比較できるような地位財によって得られる幸福は長続きしないのに対して、目に見えないより本質的な非地位財によって得られる幸福は永続性がある。にもかかわらず、目に見えて分かりやすい地位財を人は追い求めやすいの傾向にあり、それがまさに「フォーカシング・イリュージョン」だというわけだ。

 ここまで説明すると、Iがなぜ信仰を持つようになったのか、その動機の部分がかなりはっきりしてくる。Iは資産家であったため、住居や食事や身の安全といった最低限の欲求が危険にさらされることはなかった。そこでIの幸福度は財産という「地位財」によってはそれ以上高まることはなく、Iはより高い次元の幸福を求めて、「非地位財」を探し求めていたということになる。

 一般に宗教の役割は、目に見えて他人と比較できるような地位財に対する執着を捨てさせ、目に見えないより本質的な非地位財によって得られる幸福に焦点を当てさせることによって、人間に永続的な幸福をもたらすものであると言える。一部の宗教における現世否定や物欲の否定は、地位財に対する執着を捨てろということである。それは統一教会においても同じであり、Iは統一教会と出会うことを通してより本質的で永続的な価値観に目覚めたため、地位財に対する執着を捨てて献金したと考えられるのである。

 前野氏の著作の中でも、宗教的信仰を持っている人はより幸福度が上がるという調査結果を報告している。それは宗教が人の人生観を地位財中心から非地位財中心にシフトさせる役割を果たすので、永続的な幸福度が増すからであると考えられる。このように考えると、元信者Iが統一教会に対して5億円を超す献金を行うことによって得た幸福感は、幸福学の見地からすれば5億円という金額と比較しても、十分に対価性のあるものであったという結論になる。ところが、こうした主観的な幸福感は世俗的で客観的な視点からは過小評価される傾向にあるので、Iが信仰をもつようになった動機の部分を正当に評価することができず、騙されたとか脅されたのだと推論してしまうのである。裁判所が下した判断は、まさにこのような「フォーカシング・イリュージョン」に基づくものであった。

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ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳53


第6章 祝福:聖別期間と同居生活(9)

 妻が妊娠できる時にだけカップルが性交をするという考えに関して、あるメンバーが興味深い洞察を提供した。
「統一教会のカップルは子供が欲しいのですが、彼らはまた運動に奉仕もしたいのです。それは必要か有益とあらば別居を伴ったとしてもです。ですから、彼らは一緒にいるときには、このときが妊娠が起きそうなときであるということを確認したいのです。そうしなければ、彼らは常に妊娠可能期間を逃してしまい、三年経っても家族が増えないかもしれません。」(注64)

 この説明は、一貫した噂をむしろ裏付けているが、納得のいくものである。ただし、この著者は特定のアメリカのリーダ―たちとの接触を通して、避妊の問題は性的役割分担の問題と同様に、双方が文師の知恵と一致していると主張し合っている、運動内部における東洋とアメリカの勢力争いと関係していると確信したのであった。ケベドーの主張は基本的に本当だが、なぜ多くの影響力ある東洋のリーダーたちがすべての結婚におけるセックスは繁殖を目的としたものでなければならないと主張しているのかについては、にわかに理解しがたい。これらの人々の多くは文師に従う前は根本主義のクリスチャンであったか大乗仏教の信者であったため、おそらく彼らの見解はこうした運動以前の影響を反映しているのかもしれない。(注65)

 東洋の指導者たちの見解は一部は理解が困難である。それは祝福された結婚における神を中心とする性交は、文師自身によって神学的に最も重要なものであるとみなされているからだ。彼は非常に明確に「性行為はカップルの横的なレベルの愛における最高の形なのです。」(注66)と語っている。そして別の説教では、
「天宙はいつ一つになるのでしょうか? 世界の中心は人間であり、それは男性と女性を意味します。男性と女性が天宙の中心であり、全天宙に住み、そしてそれを代表するのです。[#傍線]男性と女性が愛で一つになったとき、その結果として全天宙の統一が起きるのです[#傍線終わり]。そこが天宙が一つとなることのできる一点なのです。」(注67)

 これらの引用や特定のメンバーの発言の中に暗示されているのは、一種の神学的な性のダイナミズムであり、それは神の性質の顕現もしくは実現としての結婚という考えと関係している。一人の非常に鋭敏なメンバーの言葉は、この理解を反映している。
「・・・神の中の合一はどういうわけか多くの神の愛と多くの神のエネルギーを作り出し、その合一を(神を中心とする性交において)反映することは、それは一種の人間の目標であり、神のインスピレーションと人間の間のエネルギーを作り出せるものであり、それは一体となるようなものであり、ある意味では神と霊的に一つになり、神を反映することを物理的に顕現させることである。」(注68)

 この非常に洗練されたアプローチはおそらく運動の中で広く知られてもいないし、受け入れられてもいないであろう。しかしそれは、統一神学は結婚における性交を徹底的に肯定する可能性を潜在させていることを示しているのである。

 実際的なレベルにおいては、統一教会のカップルは一般的にどのような形の避妊も行わなず、それをする者たちは主として周期避妊法もしくは禁欲に頼っている。これには三つの理由があり、それらはすべて来たるべき千年王国のために祝福の子女を作りたいというメンバーの強い欲求を反映している。第一に、統一教会の結婚は通常カップルが30歳になるまで家庭を出発しない。第二に、既に示唆してきたように、(そして間もなく全てを見いだすように)結婚したカップルはしばしば運動の仕事をするために長期間にわたってお互いに別居する。そして第三に、子供がいるカップルは、社会的地位の向上という点においても、比較的永続的な場所に定着する機会を与えるられるという点においても、組織から報いを受ける。この最後のポイントの証拠として、文自身が運動の母親たちに対する話の中で、「これからは、祝福家庭に3名の子供が生まれた場合には、両親は自由に定着して自分の手で子供たちを育てて構いません」(注69)と語っている。

 上記のすべての証拠に照らして、統一運動の結婚におけるセックスに対する見方について以下の一般化がなし得るであろう。

1.アメリカ人のメンバーの一貫した立場は、避妊を行わないということである。これは統一運動の神学が家族を非常に強調しているためであり、一部のクリスチャンのように、性的な喜びがそれ自体において罪や誤りであるとみなしているからではない。
2.特定の有力な東洋のリーダーたちは、結婚におけるセックスの唯一正当な目的は繁殖であるという考えを持っているようである。これは、夫婦の性交は繁殖と、喜びと、親密さのためであり得ると考えるアメリカ人のカップルの見解と矛盾する。

 統一運動がカップルに対して避妊を行わないよう奨励したことは、あるメンバーが祝福家庭にとっての「ダブルバインド」と呼んだものを生じさせた。(注70)一方で彼らは多くの子供たちを持つべきなのだが、他方では彼らは大家族を経済的にどのように支えるのか、そしてそれに関連した懸念として、彼らの家族がどこに住むべきなのかという問題に関して、相当な不確実性に直面しているのである。第一に、経済的な安定性の問題である。フルタイムの使命に携わっている統一運動の未婚のメンバーは、地方のセンターに住んでおり、部屋と食事はもちろん彼らの共同体的生活環境の一部であるが、彼らの個人的なニーズを満たすための最低限の俸給を受け取っているだけである。独身者にとってこれは適切な支援であろうが、結婚したカップルにとっては、その大多数が子供を持っていることもあり、経済的な安定性は難しい問題となってきた。当然のことだが、彼らは未婚の兄弟姉妹に比べれば将来のことをより深刻に考えている。

(64)前掲書。
(65)セックスを繁殖目的に限定するもう一つの説明は、メンバーが修練期間を過ごしていたころの気分の残余意識が反映して、彼らが直観的に自己を抑制する可能性である。心理学的に、「最も酷いもの」であるセックスを「最も聖なるもの」に移行させていくのは、彼らにとって簡単ではないだろう。
(66)文鮮明「祈祷と霊界について」『マスター・スピークス』 (MS-3, 1965), p. 21。
(67)文鮮明「最も偉大なものは愛」(下線は著者)。
(68)インタビュー:リントン氏。
(69)文鮮明「母親たちとの会合」『季刊祝福』(第2巻、1号、1978年冬)p. 29。
(70)インタビュー:エンゲル夫妻

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』131


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第131回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 元統一教会信者の信仰史の具体的な事例分析の中で、第125回から「五 壮婦(主婦)の信者 家族との葛藤が信仰のバネに」に入った。今回は元信者Iの事例の2回目である。Iは統一教会を相手取って計5億4700万円の損害賠償を求める民事訴訟を起こし、このうち2億7600万円の支払いを命じる判決が東京高裁で下されたことは、既に先回説明した。(判決は最高裁でも維持され確定している)今回は、なぜ裁判所がこのような判断をしたのかについて詳しく説明することにする。

 裁判所が統一教会に対して損害賠償を命じたということは、統一教会の信者がIに対して行った勧誘行為に違法性があったことを認定したということだ。ここで問題となるのは、どの部分に違法性があると認定したのかということだ。そもそも、「宗教団体が信者から献金を募るのは違法か?」と言えば、その答えは明白である。宗教団体は信者からの献金によって成り立っているので、これを否定したら宗教団体は存在することができない。伝統宗教でも献金は義務であり美徳であると教えられている。例えば、神道の賽銭は「祈願成就のお礼として神や仏に奉納する金銭」という意味があり、「賽」とは神から受けた福に感謝して祭るという意味がある。仏教の「布施」の中には「財施」という概念があり、これは金銭や衣服食料などの財を施すことを言う。キリスト教の献金は、収入の十分の一を捧げることが伝統になっているし、イスラム教においても喜捨(ザカート)が重要な信仰実践として位置づけられている。すなわち、献金そのものに違法性はないのである。

 次に、「宗教団体が、神、霊界、サタン、罪、地獄、蕩減、因縁などの教えを説くのは違法か?」という問題がある。この答えも明白である。憲法第20条で「信教の自由」が保障されているので、こうした言説を説くこと自体に違法性は全くない。また、これらの宗教的概念の正しさを証明する義務も、宗教団体にはない。さらに、政教分離原則により、宗教的信念の真偽や是非を国家が判断することは禁止されているので、こうした言説が間違っていると裁判所が判断することもできないのである。現実問題として、もしこうした教えを説くことが違法なら、ほとんどの宗教は存在できないであろう。ただし、統一教会では神、霊界、サタン、罪、地獄、蕩減などの概念は教えているが、原理講論には「先祖の因縁」という言葉は存在しない。

 さて、上記の二つを組み合わせたものが、「宗教団体の信者が罪や霊界について語って献金を勧める行為は違法か?」という問いになる。これも原則としては信教の自由が保障する範囲内であり、一般的には合法と言えるが、実際の裁判においては、献金を勧めるときのやり方や捧げた金額などの「社会的相当性」が問われ、民法上の不法行為と判断されることもある。統一教会が民事訴訟において損害賠償を命じられるケースというのは、こうしたケースがほとんどである。

 こうした事態を受けて、2009年3月25日の徳野会長による教会員に対するコンプライアンスの指導の中で、以下のような注意がなされるようになった。
①献金と先祖の因縁等を殊更に結びつけた献金奨励・勧誘行為をしない。
②霊能力に長けていると言われる人物をして、その霊能力を用いた献金の奨励・勧誘行為をさせない。
③信者への献金の奨励・勧誘行為はあくまでも信者本人の信仰に基づく自主性及び自由意思を尊重し、信者の経済状態に比して過度な献金とならないよう、十分配慮する。
④献金は、統一原理を学んだ者から、献金先が統一教会であることを明示して受け取る。

 要するに、献金を勧誘する際には、その目的をきちんと開示し、「威迫・困惑」や「不実告知」とされるような行為を行ってはならないという通達である。

 しかし、「献金の額に限度や『社会的相当性』はあるか?」という問いかけは、一般論としてはかなり難しい問題をはらんでいる。その一例が、「イオン布施目安提示事件」だ。2010年5月に大手流通のイオンが、自社カード会員向けの葬儀紹介サービスにおいて「布施の価格目安」を打ち出した。これに対し、8宗派、約600の日本国内の寺院の協力が得られた一方で、全日本仏教会などの一部の仏教団体は「布施に定価はない」「企業による宗教行為への介入だ」と反発したのである。この施策に対しては、「消費者の立場からすれば明瞭な布施価格の明示はありがたい」との評価と、「今後これが『定価』として一人歩きしてしまう」と懸念する意見があった。その後、2010年9月10日にイオンは「布施の考え方にはさまざまなものがある」として、この布施の価格目安をサイトから削除した。布施や献金の「妥当な金額」を決めるのはやはり難しいようだ。

 こうした問題を考える上では、「宗教的価値観」と「世俗的価値観」という二つの異なる価値観が対決することになる。それは以下のような対立構造を持っている。

宗教的価値観 世俗的価値観
神や霊界は存在する 神や霊界は幻想
人間には罪がある 犯罪者にしか罪はない
献金は善である 献金は宗教団体の搾取
多額の献金も当然 多額の献金は暴利
神のために献身的に働くことは美徳である 宗教団体に唯働きさせられるのは人権侵害だ
宗教的価値観や行動を世俗の法では裁けない 宗教的行動といえども、世俗の法に服する

 実際の裁判の場では、統一教会は宗教的価値観に基づき、「御言葉に感動し、神の摂理と世界平和のために全財産に近い献金をしようと短期間で決意することは十分にありえるし、実際にあった。献金の多寡を世俗的な価値基準で判断すべきではない」と主張することになる。一方、反対派は世俗的価値観に基づき、「出会って短期間のうちに全財産に近い献金を捧げるというのは、因縁や地獄の話によって脅されて献金を決意したとしか考えられない。宗教的献金にも『社会的相当性』の範囲がある」と主張することになる。裁判官はどうしても「世俗の価値観」に基づいて判断するので、反対派の主張を認めてしまうという傾向がある。

 それでは元信者Iが献金を捧げたときの様態はどのようなものであり、そこには社会的相当性を逸脱する要素があったのだろうか? 客観的な事実からすれば、Iは出会って短期間のうちに「威迫・困惑」によって全財産に近い献金を捧げたわけではない。最終的にIが統一教会に求めた損害賠償は計5億4700万円であった。これが全財産にあたるかどうかは不明だが、1991年4月にIが初めて統一教会信者に出会って、翌月にIが決意したのは献金ではなく、1000万円の借用であった。そして年内には400万円が返金され、残りの600万円を献金することを決意した。この時点で出会って8ヶ月程度であり、しかも出会って3ヶ月目には統一教会であることを明かされているので、献金を決意した時点で既に事実を知らされて5ヶ月ほど経過していることになる。仮に5億4700万円を全財産とすれば、最初の借用の1000万円は1.8%、600万円は1.1%に過ぎない。Iが資産家であったため、献金の額は一般常識から見れば大きく感じるが、これは「全財産」とは程遠い割合である。また、借用の中から一部を献金し、一部を返金してもらうなど、Iは合理的な思考をしており、平常心を失っていたとは考えられない。

 櫻井氏が提示したIの日記は、2002年7月から2003年6月までの約1年間の出来事を綴ったものだが、その間に5回ほど献金したことが記されている。この時点で信仰を持って11年以上が経過しており、その年月の長さを考慮すれば「短期間のうちに捧げた」とは到底言えないような時期に献金を行っているのである。しかも、日記には献金の記述に合わせて「感謝」という言葉が記されており、「威迫・困惑」によって献金を捧げたわけでもないことは明白である。

 このことは櫻井氏も認めており、「このような分析的知見からIの信仰を捉えると、Iに対して統一教会が献金を要請する度に畏怖困惑に追い込む心理的プレッシャーをかけていたのではないことがわかる。統一教会に関わる過程において強迫・恫喝といった外形的な心理的圧力が常にかけられていたとすれば、Iの精神はストレスで疲弊し、精神的な疾患に追い込まれるか、統一教会を去っていたはずである」(p.393)とまで述べているのである。

 だとすれば、「社会的相当性」の根拠となるような、「威迫・困惑」によって出会って短期間のうちに全財産に近い献金を捧げたという事実は、Iのケースにおいては存在せず、事実としてはみ言葉を信じて感謝して献金していたことになる。にもかかわらず、裁判所がこの献金勧誘に違法性を認め、損害賠償の支払いを統一教会に命じたのは、億を超える金額を社会的評判のよろしくない宗教団体に捧げた信者が、それを取り戻せないという判断を裁判所がしたとなると、世間の批判を免れないという「世俗的・常識的判断」が先にあり、違法性の根拠は後付けの解釈によってこじつけたからにほかならない。これは純粋に法的に見れば不条理な判決だが、これもまた裁判所の現実なのである。判事も人の子であり、判決には「世間体」が影響するのである。

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ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳52


第6章 祝福:聖別期間と同居生活(8)

 これらのすべては、結婚における性はそれ自体で善であるという主張を幾分かは支持するが、そのような証拠は、避妊に関する運動の一貫した準公式的見解となっていることに照らして考察されなければならない。初めに、文師が彼の「公的な」(すなわち、メンバーが読むために文字に起こしたもの)説教の中で何を語っているかと見ることによって、この見解について調べてみよう。1977年のやや個人的な発言の中に、以下のようなものがある。
「男性と女性は愛を完成させるために結婚するのです。どの時点で母親の生命と私の生命は一つになるのでしょうか? 一緒に良いものを食べたときでしょうか? お金をやり取りしたときでしょうか? 私たちが愛において愛において一つになったときでしょう? [#傍線]私たち二人の間に愛が統一と調和をもたらしたときに生命が始まるのであり、生命が出現するときに私たちの理想が開花するのです。[#傍線終わり]」(注54)

 「生命が出現するときに私たちの理想が開花する」という言葉の意味は隠喩的に理解することが出来るであろう。例えば、文はオーガズムを伴う性交がカップルの結婚に活気を与える効果について語っているのかもしれないが、ここでの「生命」はより文字通りに受胎を意図していると見た方がよさそうである。1965年に避妊について尋ねられたとき、師は「神様は世界の人口過剰を心配しておられないので、私たちも心配する必要はありません。私の観察では、アメリカは全世界の30億人類を養うことができます。」(注55)と答えている。この回答は間接的であるが、メッセージは明確に描かれている。加えて、メンバーたちは師による同様の発言について報告した。
「文師は、教会のメンバーがいかなる手段の避妊も用いることがないよう明確に断言しています。・・・教会の家庭は大家族で、楽しく、神を中心としています。新しい生命の創造を妨げるのは間違っています。結婚における性の最も重要な目的は繁殖です。文師は1980年2月の祝福カップルへのスピーチでこのことを明確にしましたが、このスピーチは文字に起こされることはないでしょう。」(注56)
「文師は、統一教会には避妊はないと言いました。」(注57)

 このように、文師が避妊に断固として反対しているのは比較的明らかなのだが、彼の見解に対する理由は、繁殖を目的としない夫婦の性交が罪だということではなさそうだ。むしろ、彼はカップルたちに対して多くの家族を持つよう奨励したいようである。この立場は、「エデンの園においては、神様の主義は『家族主義』です。古くて壮大な大家族主義なのです。」(注58)という彼の見解と一致している。文の見解をこのように説明することは、師の避妊反対を肯定的に解釈する多くのメンバーたちによって支持されている。典型的な例が以下のものである:
「私が感じるのは、基本的に彼の態度は避妊を用いることが罪だということではなく、私たちが多くの家族を持つように奨励する態度だということです。・・・私たちが多くのことを犠牲にしているときでさえ、私たちは子供を持つことを犠牲にはしません。それは非常に肯定的なことなのです。」(注59)

 もしこれが本当に婚姻における性に関する文師の見解であるならば、なぜ統一運動の中に祝福家庭は受胎が可能な期間にだけ性交を行うという根強い噂があるのであろうか?(注60)この問題を理解するために、活発な議論がリチャード・ケベドーによって引き起こされた1979年に開催された統一運動のライフスタイルに関する会議で、それがどのように扱われたかを見てみよう。ケベドー氏は、有料で運動のコンサルタントをしている非メンバーである。
「私はある高位の人物に避妊について尋ねたが、彼はこう言った。『私たちはローマ教皇とまったく同じことを信じている。私たちのポリシーは、人工的な避妊の方法は許容されないということだ。』別の者は『セックスは繁殖のためにだけある』と言った。また、(結婚後の)別居期間に関しては、女性が夫と会うことが許されるのは彼女が妊娠可能な期間だけであるという印象を私は受けた。私は、結婚の外であれ中であれ、性の喜びが善であるとみなされているとは思わない。」(注61)

 ケベドーはさらに、彼のこの主張に関して、韓国と日本のリーダーシップの影響によるものであるとした。
「私は、白人の指導者たちは白人のアメリカ人の問題を理解していると思う。しかし、現時点においては白人の指導者たちは東洋の指導者たちに従っているようにみえる。そしてさらに、白人の指導者たちはこれらの問題に関して東洋の指導者たちとコミュニケーションを取るのが難しいと感じているようだ」(注62)

 ケベドーの主張に対するメンバーの反応は予想通り慎重なものだったが、これは運動に分裂をもたらすような公的発言を避けようとするメンバーの一般的な傾向を反映している。霊的なものが肉的なものを主管しなければならないと文師が教えていることと、「一部のリーダー」(興味深いことに、この回答者は「一部の東洋のリーダー」とは言わなかった)はケベドーが報告したようなことを言ったかもしれないと認めながらも、彼らは喜びと個人の充足感のためのセックスが罪であるとはみなされていないと主張した。
「私は文師が、夫婦間においては、とりわけ復帰のプロセスを通過して一定基準の成熟に至ったときには、相手に対して本当に責任を持つことができ、愛することができるようになるので、そのときにはいかなる制限もないと言ったことを知っています。あなたと相対者は一体であり、相手が自分の一部ではないと感じる必要はないのです。」(注63)

(注54)文鮮明「最も偉大なものは愛」p. 5.(下線は筆者)
(注55)文鮮明「復帰と審判について」、『マスター・スピークス』(MS-4, 1965)p. 10。
(注56)インタビュー:フレイム氏
(注57)インタビュー: ボルトン氏
(注58)文鮮明「地上天国と理想家庭」『マスター・スピークス』 (番号77-01-01, 1977年1月1日) p. 11。
(注59)インタビュー:ショー夫妻
(注60)この「噂」はいくつかのインタビューで出てきたが、インタビューを受けたアメリカの祝福家庭は、これはあるカップルにとっては本当かもしれないが、それは公式的な統一運動のポリシーの結果ではないと主張した。
(注61)ケベドー「ライフスタイル」p. 42。
(注62)前掲書、p. 44。
(注63)前掲書、p. 47。

カテゴリー: ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』130


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第130回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 元統一教会信者の信仰史の具体的な事例分析の中で、第125回から「五 壮婦(主婦)の信者 家族との葛藤が信仰のバネに」に入った。今回は壮婦としては二人目の元信者Iの事例に入る。

 櫻井氏は冒頭、「本事例は他の事例と比べてかなり詳細な記述となる」と前置きし、その理由を「対象者であるIが統一教会相手に計五億四七〇〇万円の損害賠償を求めて訴訟を起こした際に、筆者は彼女の弁護団から彼女への違法な働きかけに関する意見書の作成を求められ、四〇〇字詰め原稿用紙換算で二〇〇枚もの意見書を東京高裁に提出した」(p.377)からであると述べている。

 私はこれまで、元信者AからHまでの事例に関しては、櫻井氏が裁判資料だけに頼るのではなく、裁判の原告になっていない元信者にインタビューをしたことに対して一定の評価をしてきた。なぜなら、統一教会を相手取った民事訴訟に提出される元信者の陳述書や証言は、事実を歪曲している場合が多いからである。

 たとえば「青春を返せ」裁判における原告たちは、自分自身の宗教的回心が真正なものではなく、他者に操られて引き起こされたものであると主張する。彼らは一度は統一教会に入信し、熱心に活動までしたのであるから、何らかの宗教的回心を体験しているはずである。ところが、自らの宗教的回心が真正なものであることを認めてしまうと、主体的な信仰を動機として活動したことになってしまうので、教会に対して損害賠償を請求できなくなってしまう。それでは訴訟が成り立たないので、自分が回心した過程を正直に描写するのではなく、教会の巧みな誘導によって説得され、納得させられた「受動的な被害者」として描写する必要がある。このように、訴訟を有利に進めるための戦略として、あえて事実を歪曲して主張することが裁判資料にはままあるのである。

 ところが、櫻井氏がインタビューしたAからHまでの元信者は、こうした歪曲を行う必要がないので、彼らの証言の中には、人為的な手の加わった裁判資料から作られたイメージには当てはまらない統一教会信者の「リアル」が見え隠れしていたのである。例えば、元信者C(男性)は、原理研究会での信仰生活が楽しくて仕方がなかったことを正直にしゃべっていて、彼の証言にはまるで青春ドラマのような熱さがあった。それは彼にとっては楽しかった青春時代の一コマとして、今も記憶されているのであろう。しかし、元信者Iに関する資料は、既に裁判用に加工されたものであった。櫻井氏は「意見書作成に際して、段ボール二箱分の資料、陳述書、原告側・被告側書面等を参照」(p.377)したと書いているが、経験豊富な弁護士たちによって作成された原告側の裁判資料は、元信者Iの入信から脱会までの過程を、訴訟に有利なストーリーにまとめ上げたものであった可能性が高い。

 このように資料自体に偏りがあることに加えて、櫻井氏は客観的な研究者という立場を越えて、原告側弁護士の求めに応じて「彼女への違法な働きかけに関する意見書」(p.377)を作成しているというのであるから、一方当事者の利益を代弁する立場に立っていることは明らかである。要するに、櫻井氏は元信者Iの弁護団とは緊密な協力関係にあると同時に、統一教会とは敵対関係にあるのだ。資料そのものの偏った性質に加えて、彼の信者Iに対するスタンスや関わり方にも、学問的な中立性を離れた「当事者性」があると言ってよい。

 櫻井氏によると、「この裁判の結果は、二〇〇八年二月二十二日、最高裁がIの上告を退けて東京高裁の判決が維持された。東京高裁では、統一教会の違法な勧誘及び献金強要行為を請求額の二億七六二〇万円分についてだけ認めた。」(p.377)という。三億円近い損害賠償を裁判所が命じたのであるから、事情をよく知らない人は、統一教会は彼女によほど酷いことをしたに違いないと思うかも知れないが、事実はそうではない。損害賠償の額が大きいのは、それだけ彼女が資産家だったために多額の献金をしたことを表しているにすぎず、勧誘行為の違法性の度合いを示しているのではない。しかしながら、捧げた献金の額が大きいということが、裁判官の判断に影響を与え、利益回復のために違法性を認定する傾向にあるという側面もあることは否定できない。

 勧誘行為の違法性とは、端的に言えば、統一教会の信者らがIを騙したり脅したりして勧誘したり、献金させたりしたのかどうかということだ。実はこの点はそれほど明らかではない。もし献金させる側に騙す意思が明らかにあり、それを立証できるのであれば、刑事事件として立件することも可能かもしれないが、事実はそうではないからだ。櫻井氏は宗教的な儀礼を通してIの信仰が強化されたことを説明しているが、それに以下のような解説を加えている。
「このような儀式に登場する先生役の信者やIを始終導いてきた信者にとっても、儀式において霊界を現出する行為は自身の信仰を強化する。『欺しー欺される』関係とは単純に言い切れない『本気』の部分がある」(p.378)

 Iを伝道する側は、自分たちが語っている内容や行っている儀式はまさに真実そのものであると信じているわけであるから、そこに騙す意図がないことは明らかである。したがって、Iは統一教会の信者に「騙された」のではなく、彼らと「信仰を共有するようになった」というのが正しいであろう。実は櫻井氏もこのことは認めている。
「ここで信者となれば、統一教会とIとは先祖の因縁を切るという行為において協働関係に入るのであり、入信すれば、まさに信仰共同体の一員となる。(p.380)

 Iの信仰が形成された背景には、因縁や霊界に対する恐怖だけではなく、霊の親から尽くされたり、教会のスタッフから愛されたことに対する感謝の念があり、そこで築かれた人間関係があったことは櫻井氏も認めている。
「Iの信仰心を持続させた要因は二つあり、・・・もう一つは、Iをとりまく統一教会信者達による励ましや人間的ふれあいだった。これは確かにIにとって新鮮な出会いであり、人間交際の喜びでもあった。」(p.392)
「Iは霊の親だった若い信者からの手紙を大切に保管していた。統一教会の人間として自分を欺したことには間違いないのだが、自分のことを本気で心配し、気にかけてくれた真情に溢れた手紙を捨てるに忍びなかったのだろう。」(p.380)

 「自分を欺した」ということと、「自分のことを本気で心配し、気にかけてくれた」というのは論理的には矛盾するのだが、要するにIの発想はこうである。霊の親に個人として自分を騙すつもりがなかったことは明らかだが、その霊の親もより大きな組織としての統一教会に騙されており、その指示に従って自分を導いたのだから、本人にその自覚がなくても結果的に騙したことと同じだ、という論理である。しかし、組織としての統一教会はIや霊の親のような個々の信者の集合体なのであり、その全員が同じ信仰を共有しているとすれば、組織が騙したという論理も成り立たなくなる。要するに、Iはもはや統一教会の信仰を共有できなくなり、信じられなくなった、心変わりした、ということなのだが、自分が信じてしまったことを後悔する気持ちから、「欺された」と言っているにすぎないのである。

 櫻井氏は結論の部分で、「このような分析知的知見からIの信仰を捉えると、Iに対して統一教会が献金を要請する度に畏怖困惑に追い込む心理的プレッシャーをかけていたのではないことがわかる。」(p.393)と述べている。一度、信じる思考の枠組みが出来上がってしまえば、後はそれを維持・教化すれば良いのであって、そうした状態の下では騙したり脅したりしなくても、献金するようになるのだということだ。

 そもそも、こうした状態で献金を行った場合には、それは信じて行ったということなのであるから、違法行為として認定して損害賠償を命じるには無理がある。Iは13年間も信仰を持っていたということであるが、その間に行った献金の大部分は、「信じて」行ったのであり、騙されたり脅されたりして行ったものではない。にもかかわらず献金額の約半分の損害賠償を命じた理由は、勧誘の初期の段階で、宗教であることを明確に述べなかったなどの「瑕疵」があり、その結果として得た信仰を動機として捧げた献金であるから、違法行為の延長線上にあると裁判所が判断したためである。これはかなり強引な論理展開なのであるが、なぜこのような判断がなされるのかについては次回詳しく説明することにする。

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ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳51


第6章 祝福:聖別期間と同居生活(7)

 第二に、統一運動のカップルは結婚というものを、未婚の状態よりも霊的・人格的成長にとってより難易度の高い状況であるとみなしている。彼らは「ふたりはひとりにまさる」(注45)という伝道者の言葉に同意するであろうが、それは二人が自動的により安楽な生活を見いだすからではなく、一緒に住むためにはパートナーの各自が他者を愛し受け入れることを要求されるからである。統一教会の結婚において本物の親密さを実現するためには、(いかなる人間関係においても同様だが)両性の側における本物の努力が求められる。この研究のためにインタビューをしたより年長のカップルは、満足できる夫婦関係を作り出すには何年にもわたる葛藤と成長を経なければならなかったと示唆した。そして彼らにとってこのプロセスは、頻繁な別居のゆえに、統一運動の外のカップルにとって以上に難しかったと言ったのである。後に見るように、これらの「結婚後の別居」は、理想ではないにしても、現在の統一教会の結婚パターンのまさに一部となっている。それ自体は、夫婦の相互作用を妨げ、成長の場としての結婚の理想を実現しようとするカップルの努力を抑制する傾向にある。

 最後に、結婚は世界救済の基礎的な社会単位として理想化されている。ある婚約中の女性が言うには、「私は自分の家庭が、私の心情が成長し、私の世界観が成長するための手段になればよいと思います。そうすれば、私は地域社会に奉仕するために自分の家庭を用いることができます。」(注46)今年祝福を受ける予定の男性はより具体的だった:
「統一運動と外の世界の最も重要な違いは、自分たち自身の家庭のニーズよりも社会のニーズを優先させることを学ぶということだ。私たちの仕事は、より大きな社会善に貢献すること以上に自分の家庭の安寧のためにお金を稼ぐことではない。私の両親の家庭は、それ自体を中心としている。私の将来の家庭は、教会のすべての仕事、とりわけ私たちと共に祝福を受けた他のすべてのカップルの生活との関わりのなかで自身を見るだろう。」(注47)

 統一運動の中で結婚したカップルは、現時点では頻繁で長期にわたり、しばしば痛みを伴うような配偶者や子供たちとの別居を必然的に伴うにもかかわらず、非常に現実的なやり方でこの理想を実現している。彼らは、天国の基礎が築かれた暁には、(注48)夫婦としての理想を彼らが共に生きる共同体の中で成就することができると信じ、希望を持っているのである。

 結婚における性は、この研究の全般的な議論と密接な関係のあるいくつかの問題を提起する。私たちは既に婚前の性交渉の禁止がもつ神学的および社会学的な意義を分析したが、それが堕落と復帰の教理に基いた絶対的なものであり、またグループの団結を促進し信仰を維持する上で肯定的な影響を与えていることを示した。統一運動が性や恋愛に関する表現を規制し最小限にしようとしていることは、これが世界の支配に関心を持つ同じようなグループにも共通する実践であることを思えば、驚くに値しない。(注49)しかしながら、統一運動は結婚における性の表現が神聖なものであるとみなしている点で、そのようなグループとは異なっていると主張する。そこに含意されているのは、夫婦の性交はより大きな目的、例えば繁殖のための手段に過ぎないのではなく、それ自体を目的とし得るものであるということだ。この主張は、被造物が善であることを肯定する運動の神学の中に確かに暗示されている。それは文師のある説教の中でも示唆されている:
「統一教会の祝福は、生命、愛、そして神様の理想が肉的、横的なレベルで顕現したものです。夫と妻が一体となるとき、それは神様の完全なる対象となり、神様とそのカップルの間に授受作用の円環が作られるのです。そのときに神様の真実の恍惚とした喜びが実現されるのです。」(注50)

 さらにまた、インタビューを受けたメンバーたちは祝福結婚における性は「最も神聖なものであり」、神の愛がその関係の中心にあるので基本的に善であるという点においては、ほとんど満場一致であった。そして、最後にアイリーン・バーカーは以下のように報告している。統一教会の信者は、
「・・・独身の修道生活を求めない。愛が最も重要なものであり、神を中心とした関係におけるその身体的表現は、楽しむべき神からの積極的な賜物であると見られている。男性と女性が授受作用の関係の中で完全に一体となり、相互補完的な関係で一つになることができるのは結婚によってのみである。男性は女性と一つになることによってのみ満たされるようになるが、それは神を中心とした合一でなければならない。」(注51)

 もし祝福結婚における性交が真に神聖なものであれば、われわれはそれが、繁殖のような他の目的の手段になることがあったとしても、それ自体で目的であるとみなされるだろうと合理的に期待することができる。この問題に関するグループの神学的立場は、私がインタビューした一人によって非常にうまく表現されたので、私は彼の言葉をある程度長く引用しようと思う。
「統一神学はキリスト教の伝統においてはその意味で非常にユニークだ。その理由は、私が考えるには、それが性行為というものを神が定めた制限の中で行われない場合には最も酷いものであるとみなすとともに、それがその制限の中で行われた場合には最も貴く、最も実りあるものであるとみなしているからだ。」(注52)

 以下に続く内容の目的は、祝福結婚における性が本質的に善であるという統一運動の主張を「テスト」することにある。われわれはこれを結婚における性行為に対するメンバーの期待を調査すること、グループの避妊に対する立場について調べること、そして私がその「宗教的な性のダイナミズム」と呼ぶものについて調べることによって行う。結婚したメンバーたちが結婚における性に彼らが何を期待するかを尋ねられたとき、彼らの反応は非常に肯定的なものであり、熱狂的でさえあった。彼らはそれについて、「親密さの重要な形」「われわれの関係の有意義な部分」「お互いについてより良く知る方法」「喜びの源泉」「あらゆる幸福な結婚に不可欠な要素」などと語った。二人の婚約中の女性は、それが「楽しみ」でさえあるだろうという彼らの希望を表明した。数名のメンバーは、カップルには自分たち自身の夫婦生活のあり方を決定する権利があることを文師が是認していると確信していた。
「私は文師がこのことについて語るのを聞いたが、彼は婚前の性行為や不倫、およびその種の行為に対しては激しく非難していたが、一方で、同じときの同じ話の中で、まさしく(ショー氏の妻が)言っていたようなことについて語っていた。ひとたび結婚すれば、そのときあなたと神と相対者との関係のプライバシーの中で、あなたには自由があるのだと・・・」(注53)

(注45)伝道の書4:9a。
(注46)インタビュー:インタビュー:マリー女史。
(注47)インタビュー:ウェア氏。
(注48)これがいつ実現されるかを知っているメンバーは一人もいない。
(注49)ウェーバー『宗教社会学』、特にp.240、マンシー『ユートピア主義の共同体における性と結婚:19世紀アメリカ』、およびフォスター『宗教と性』を参照のこと。
(注50)文鮮明『祝福』p. 4。
(注51)アイリーン・バーカー『統一原理を生きる』p.88。
(注52)インタビュー: リントン氏。
(注53)インタビュー:ショー夫妻。文師の語った内容の多く、とりわけ論争の多い主題に関するものは、決して文字にされて印刷されないということを、読者が理解することは重要である。

カテゴリー: ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』129


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第129回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 元統一教会信者の信仰史の具体的な事例分析の中で、第125回から「五 壮婦(主婦)の信者 家族との葛藤が信仰のバネに」に入った。今回は元信者Hの事例の5回目である。Hが脱会カウンセラーと家族の説得によって信仰を棄てた後の家族関係について、少し突っ込んだ考察を行いたい。

 前回述べたように、Hの脱会説得を行った夫の本来の目的は、妻を統一教会から引き離して家族を元の状態に戻すことであったが、現実には反統一教会側の視点からの「ハッピーエンド」とはならなかった。Hは、自分は家族と別れることになるだろうと覚悟を決めてカウンセリングを終了し、その後しばらく家族と別居した後に、離婚と自己破産の道を選択したのである。(p.375-7)結局、統一教会を脱会しても家族が元の状態に戻ることはなかったのであるが、そうなった原因について今回はさらに深く分析したい。

 まず、「12年間という歳月は長すぎた。自分は家族と別れることになるだろうと覚悟を決めてカウンセリングを終了した。」(p.375)という記述から、Hは信仰を棄てた直後から、家族と一緒に暮らすつもりはなかったことが分かる。「Hはしばらく家族と一緒に過ごしたが、自分を見つめ直すということで一時別居し、自分で食べていけるようにパートをしながら資格を取ることにした」(p.375)「Hは夫に助けられて脱会したが、12年の溝を家族と埋めるために辛い日々を送ることになる。」(p.376)などの記述から、ごく短期間は家族として一緒に過ごしながらやり直す努力をした時期もあったのかもしれないが、それも長くは続かなかった。これらの事実から分かることは、家族との間の溝は埋めがたく、家族と一緒にいては自分を見つめることができず、経済的にも家族には依存したくないとHが望んでいたということだ。要するにHは家族と一緒にいることを苦痛に感じたのである。それはHの側の家族に対する負債感もあったかもしれないが、櫻井氏の記述からは、脱会後の家族の心理状態も大きな要因であったことが伺える。

 「脱会させるまでということで必死に活動してきた家族は、妻が脱会した後にある種気が抜けた状態になる。そして、自分達の苦労を知って知らずか、妻・母・嫁であるHが簡単に元のさやに収まってしまうことへのいらだちも出てくる。」「青年信者は親の庇護のもとで家族との関係を再構築できるが、壮婦の場合、葛藤していた家族に自分の居場所をもう一度作り出してもらうのは容易ならざるわざである。親にとっては音信不通の子供が戻ってくるのは喜び以外の何ものでもない。しかし、実生活において、相当の期間、葛藤していた配偶者とより戻す過程は、喜びである反面、これまでの鬱積した怒り、不満が交錯する心理状態にもなる。現実の家族へ戻ることは難しい。」(p.376-7)これらの記述から、Hが家族と一緒に住むことに苦痛を感じたのは、不満やいらだちが交錯する一種異様な心理状態にある家族と一緒に暮らすストレスに耐えがたかったからであると推察することは容易である。

 櫻井氏は青年信者の場合には信仰を棄てて親の元に帰ってくれば親は喜び、家族との関係を再構築できるが、夫婦の場合にはそれが難しいという対比を行っているが、実は問題はそれほどシンプルではない。現実には、信仰を棄てて戻ってきた子供に親が苛立ちや不満を感じたり、逆に子供が親との生活に苦痛を感じることはよくあるのである。

 普通に考えても、多大なる時間と労力とお金をかけて子供を統一教会から取り戻した親が、その犠牲的な行為に対する感謝の念を子供に対して要求するのは自然であろう。そして今度こそまっとうな人生を歩んで恩返しして欲しいと願うのも当然である。しかし、子供の立場からすれば、それは自分が頼んだことではなく、親の意思で一方的にやったことだし、いまは自分をどう立て直すかで精一杯なので、親の期待に応える余裕などないと思っているのである。「やった脱会した」ということで、安心して親が「恩返し」を期待すれば、それは傷ついた子供にとってはプレッシャーでしかない。そして統一教会を脱会した後でも、子供は親が真に自分のことを理解しているとは感じていないのである。一方で親の方は、いつまでも立ち直らない子供に苛立ちを感じたり、「感謝の念が足りない」という不満を抱いたりするのである。

 統一教会に反対する牧師や脱会請負人らは、親に対して「統一教会が子供を奪ったので、そこから取り返せば元の家族に戻れる」と説得して、拉致監禁を伴う強制棄教を教唆してきた。しかし、子供が信仰を棄てて親元に戻れば家族が元通りになるというのは幻想であり、実際には脱会後に親子関係が悪くなったり、親と一緒に住むことを子供が拒否することは多い。その第一の理由は、拉致監禁を受けた子供のトラウマである。たとえ信仰を棄てたとしても、自分を暴力的な方法で屈服させた親に対する恨みは残るのである。このことは、ルポライターの米本和広氏の記述や、精神科医の池本桂子氏の論文「宗教からの強制脱会プログラムによりPTSDを呈した1症例」(『臨床精神医学』2000年10月号)に詳しい。自己決定権を剥奪されることによる心の傷が残るということだ。

 一方、監禁を受けた子供の予後が良くないことは、それを行った本人たちも気付いていたため、できるだけ子供の心を傷付けないように説得方法の改善を試みてきたことも分かっている。このことは、高木総平・内野悌司(編)『現代のエスプリ No.490 カルト―心理臨床の視点から 2008年5月号』で述べられているが、その概要は以下のようなものである。

 元来、カルト問題は牧師などの宗教家が担当してきた。家族の願いはカルトからの脱会だったので、カウンセリングの主要な目的は脱会だった。しかし、その中で脱会さえすれば問題が解決するわけではなく、脱会後にもさまざまな問題を引きずることが分かってきた。そこで1990年代の後半から、宗教者が脱会させた後のアフターフォローとして、臨床心理士やカウンセラーがカルト脱会者の心の問題を扱うようになってきた。

 前掲の『現代のエスプリ』の中で、脱会説得を行ってきた反対牧師の一人である豊田通信氏は、「特に『保護説得』の最中の出来事については、私の能力が足らないばかりに、どれほど多く彼らを傷つけたかを直視せざるを得なかった。…最近の私は、カウンセラーの倫理に関する本にはまっている。倫理違反だと指摘される具体的な事例と正答を読んで、それを自分の現場に当てはめてみると、かつての『保護説得』であれば違反の大パレード、最近模索している手法でもなお課題を残していると思う。」と率直に述べている。

 同じく脱会説得を行ってきた杉本誠牧師も、2007年10月19日に全国霊感商法対策弁護士連絡会の主催で行われた全国集会での講演で、脱会させた後の被害者の精神的ケアが非常に重要である理由として、「救出されることによって『心に傷を受けていく人もいる』のは事実だ。」「脱会させた後、家族はバラバラ、親子関係は滅茶苦茶になるなど悲惨なケースも多々ある。」(『キリスト新聞』ウェブサイトに記事掲載)と率直に述べている。やっていた側が言うのだから、これは事実なのであろう。

 脱会後の家族関係の難しさは、物理的な拘束を伴わない説得においても同様であり、このことは渡邊太氏の論文「カルト信者の救出:統一教会脱会者の『安住しえない境地』」の中で掘り下げた分析が行われている。渡邊氏の論文は、家族の説得によって信仰を棄てた元信者たちが、脱会後にさまざまな心理的苦悩やコミュニケーションの困難に直面することに着目し、統一教会信者の救出活動を事例として、このポスト・カルト問題と救出カウンセリングのコミュニケーション・パターンとの関連を明らかにしたものだ。

 渡邊氏によれば、脱会者の苦悩は「自己の存在の根本的な安定性が失われること」によるもので、それは救出カウンセリングの現場においてR・D・レインが指摘するような、人を「安住しえない境地」に置くコミュニケーション・パターンが繰り返されるためであるという。それでは、R・D・レインが指摘する「安住しえない境地」とはどのような意味なのであろうか?

 人はアイデンティティについての確かな感覚を得るために、他者の存在を必要とするとレインはいう。他者から確認されないようなアイデンティティは、まったく不安定なものである。そのとき私は私の中の世界に安住することもできないし、他者の世界のなかに身を置く場所を見つけることもできなくなる。このような、どこにも身を置くことができない宙ぶらりんの状態を指して、レインは「安住しえない境地」といった。渡邊氏は救出カウンセリングのコミュニケーション・パターンは、人を「安住しえない境地」に置くタイプのものであり、それは具体的には「無効化」と「属性付与」、そして「自発的であれ!」という命令が組み合わされたものであるという。

 「無効化」とは、ある人の意志を無効なものと見なすことによって実際にその効力を奪うことである。「無効化」は「属性付与」とセツトで用いられる。マインド・コントロールされた統一教会信者は自分で自分の意志がわからない状態になっていると想定する救出カウンセリングは、まさにこのような「無効化」と「属性付与」のコミュニケーションに一致するというのである。要するに、「お前は自分の意志で信じているんじゃない」と無効化され、「おまえは統一教会に入って悪いことをするような子どもではなかったはずだ」と、親が子供の属性を一方的に決めつけるということである。

 マインド・コントロールから目覚めよという親の訴えは、「ちゃんと自分の頭で考えろ」という命令である。この「自発的であれ!」という命令はパラドツクスになる。命令を実行しようとすると命令に反することになり、したがうことができない。このような命令が出されると、そのコミュニケ―ションは病的になるという。

 渡邊太氏は、こうしたコミュニケーション・パターンによって作られた「安住しえない境地」から逃れるには、家族から離れるしか方法がないと結論する。たとえ親子であっても、このように脱会後の関係は櫻井氏の言うようには簡単ではない。夫婦の場合にはそれ以上に難しいというのはあり得ることだが、その主たる原因は脱会カウンセリングの病的なコミュニケーション・パターンが、元信者を「安住しえない境地」に追いやり、それを引き起こしている家族と一緒にいることに苦痛を感じるからである。

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ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳50


第6章 祝福:聖別期間と同居生活(6)

 「聖別・約婚期間」は公的な祝福式をもって終了するが、この祝福式は神学的には「内的」な聖酒式の「外的」な表現である。それは、全てのメンバーが参加することを許されており、若干の非メンバーも賓客として参加できるという意味において公開されている。聖酒式と同様に、公的な祝福式もまたそれが起きる僅か手前になって初めて文師によってアナウンスされるが、この非常に羨ましい出来事とみなされていることに関しては、その時と場所に関してあらゆる種類の噂が共同体に広がる。1981年3月27日から29日にかけて行われた「神学者総会議」に参加した統一教会の信者たち(彼らはすべて1979年から1980年の間にマッチングされた者たちである)は公的な祝福式を、それが聖酒式、「聖別・約婚期間」、三日行事ほどには神学的には重要ではないにもかかわらず、極めて熱烈に心待ちにしていた。

 以下の記述は、運動が制作した韓国ソウルでの1800双祝福式のビデオテープを著者が何度か視聴した上で、そのイベントに参加した数名のメンバーに対して行ったインタビューの基づいている。
「公的な祝福式は1975年2月8日の早朝、ソウルの奨忠体育館で始まった。カップルの出身国である21カ国の国旗を掲げたメンバーによる入場行進に続いて、韓国の国旗に対する敬礼が行われ、韓国の統一運動の会長による短い歓迎の辞が述べられた。二番目の入場が始まった。最初に入ってきたのは、最近祝福されたカップル(1970年)であり、その次に文鮮明師夫妻が入場した。文師夫妻は金の縞模様で装飾された白いガウンを着用し、王冠をかぶっていた。1800組のカップルが、男性たちはみな同様の地味な黒いスーツに身を包み、女性たちもみな同様のウェディングドレスを着て、ウェディングマーチに合わせてホールに入場し、彼らの結婚に対する神の認可と祝福を象徴する香水入りの水を振り掛ける文師夫妻の間を通過し、文師夫妻の前に着席した。カップルが神を中心とした生活をすること、模範的な夫婦となること、自国と神に対して忠実な息子・娘を生むことを約束する、三つの結婚の誓いがなされた。カップルが『男とその妻』となることを献辞し宣言するための非常に熱烈な祈祷を文師が捧げた。カップルが真の父母に花束を贈呈し、お父様が全会衆を導いて行う万歳三唱(統一教会の歓呼で、『神の勝利』を意味する)を行って儀式を終了させた。

 続いて市内でのバスパレードが行われ、その日の夜には、エンターテインメントを伴う夕食と歓迎会が行われた。」(注37)

 神学的には極めて重要というわけではないが、このイベントは宗教共同体全体に対して「地上天国を実現するための」(注38)祝福家庭の前進を確認し祝賀する機会を提供するという点において、統一運動にとって極めて重要であるように思われる。より深刻で摂理的志向性の強いマッチングおよび聖酒式とは対照的に、公的な祝福式はより華やかで喜びに満ちたイベントとしての傾向がある。さらに、後者は(個々のカップルではなく祝福家庭全体を強調することにより)疑いなく三つのレベルにおける団結を促進するのに役立っている。第一に、この式典はサタンに対する神の千年王国の勝利に各々の祝福家庭が同参する、喜びに満ちた終末論的イベントである。実際には、このことは彼らが理想的には自身の結婚と家庭生活を統一運動の救済事業に捧げることを意味する。第二に、団結は各祝福双の祝福家庭同士に確立される。彼らは同じ結婚の衣装を身に付け、一緒に誓いをなし、同じ指輪(統一運動のシンボルが刻まれている)を交換し、一つのグループとして「男とその妻」であることを宣告されるのである。(注39)最後に、各カップルは公的な祝福式に参加することを通して、模範的で永遠の夫婦となることに対する誓いを固めるのである。

 摂理的な40日聖別期間を経た後、マッチングされたカップルは、統一教会の神学と伝統に従って、「三日行事」と呼ばれるものを通して夫婦生活を成就する。この儀式は高度の秘密とされているもので、そのために筆者はその学問的な分析を行うための十分な情報を確保することができなかった。(注40)分かったことは、「三日行事」は本質的に統一教会の神学(と霊性)を、結婚したカップルの最初の三回の性交体験と統合するものであるということだ。カップルは自分自身とやがて生まれてくる子供たちを捧げることを祈りながら性交の準備をする。それは「責任ある活動(おそらく、運動の世界救済の努力)における我々の位置を維持し、家族の法と天の伝統に従うことにより、栄光の勝利者の所有として相応しくなるためである。」(注41)続いて最初の三回の性交が行われるが、これは女性上位で行われる。これは女性が夫を神のもとに復帰するという主体の役割の完成を象徴している。(注42)このように、「三日行事」は結婚における性交を神聖化させる役割を果たしている。かつては「悲惨」であったものが、最も神聖なものになるのである。夫婦の行為に神がある種の第三者として臨在することにより、それを横的レベルにおけりては天宙の合一の至高の表現に、そして縦的レベルにおいては愛の最高の表現へと変容させるのである。

 統一運動の理想と実践の間には非常に緊密な関係があるため、結婚したカップルに対して、彼らの共同生活の目的に意味のある理解を提供する信念について調べることは重要である。これから見るように、三つの理想は必ずしも全ての結婚において実現されているわけではないが、それらは実際に主流の文化における結婚のパターンとは極端に異なるアプローチについて説明し是認する方法をカップルに提供しているのである。統一教会のカップルが結婚の目的について話すとき、彼らは通常三つのことを強調する:神の性相の実体化としての結婚、霊的・人格的成長の場としての結婚、運動の世界救済計画の要石としての結婚。

 神の性相の実体化として、結婚は理想的には神のかたちが人間レベルにおいて現れたものである。ある駆け出しの統一教会の神学者がそれを以下のように表現した:「・・・統一神学のポイントは、神の内的性相が男性性相と女性性相を含んでいるため、私たちの夫婦としての祝福を通して、私たちは神の性相を実現できるのです。」(注43)これは具体的には、「・・・完璧な夫と完璧な妻が完全に一体となり、ある意味で目に見える神となるのです。」(注44)私がインタビューしたカップルの中にはこの究極の目標に到達したと主張した者はいなかったが、全てのカップルがそれを熱望していると言ったここと、彼らが統一運動のさまざまな使命のために払っている実際の犠牲を前提とすれば、彼らの発言が彼らの価値観の正確な表現であることを受け入れない理由は私には見当たらない。

(注37)このビデオテープにおいて以下のことが言及されていないのに留意するのは興味深い。①結婚するための資格、②ほとんどのカップルを文師自らがマッチングしたこと、③それに続く長い「聖別・約婚期間」。
(注38)ビデオテープのナレーターの最後の言葉。
(注39)加えて、各祝福家庭の祝福双または「階級」は、文師によって特定の総合的使命を与えられる。例えば、1970年のカップルは国家レベルで神の国を作ることが使命だったのに対して、1975年のカップルは国際的に霊的基台を立てる使命があった。組織は各祝福双に対して毎年記念の夕食会を主催している。
(注40)私が最初に三日行事について知ったのは、元メンバーによる運動における体験に関する手記を読んだときであった。(ウッド『ムーンストラック』 p. 163)
(注41)このフレーズは、『季刊祝福』の各号の3ページ目に掲載されている「家庭の誓い」から取ったものである。
(注42)結婚したカップルは「三日行事」について語ることを躊躇しているように見えるが、彼らはこの儀式のほかには統一運動の性生活には「風変わりな」ことはないと強調した。ひとたび「三日行事」が終われば、彼らが結婚生活の中でどのように性を扱うかは、自分たちで自由に決めることができると彼らは言った。
(注43)インタビュー:キーン氏
(注44)インタビュー:カービー夫妻

カテゴリー: ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』128


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第128回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 元統一教会信者の信仰史の具体的な事例分析の中で、第125回から「五 壮婦(主婦)の信者 家族との葛藤が信仰のバネに」に入った。今回は元信者Hの事例の4回目である。今回は脱会の経緯とその後の夫との関係に関する櫻井氏の記述に基いて、Hの信仰が抱えていた課題と夫婦間の葛藤について分析することにする。

 前回の記述の中で、信仰末期においては「死なんとする者は生きん」という言葉がHの中にすみつくようになり、「殉教精神」に近い心理状態になっていたことを紹介した。これは「自分のことはもうどうでもよかった。何度も死ぬ思いで限界を超えてきた。それが自分を強くしてきたし、信仰を全うすることで死んだらそれはそれでいいと完全に開き直っていた。」(p.374)という櫻井氏の記述とも一致するが、これを「殉教精神」と呼ぶか「自暴自棄」と呼ぶかは微妙である。しかし、少なくともHはこの時点で自分自身のことを大切にしておらず、健全な精神状態であったとは言い難い。

 これは既に櫻井氏が紹介した元信者の事例の中では、Bの精神状態に近い。Bは数年間の伝道活動と経済活動に明け暮れた結果として、健康を害した。(p.332)それがBの中にネガティブな思いが蓄積する原因となったのだが、Bの場合には単に身体が弱かったというだけでなく、自分自身に対する意識の持ち方にむしろ問題があったのではないかと思われる記述が見受けられる。彼女は自身の活動全般に対して辛いと感じていたのだが、それにもかかわらず彼女がこの道を捨てられなかった理由は、「氏族メシヤである自分の存在を否定することができない。そのときはもう自分はどうなってもいいと思っていたのだ。しかし、マイクロは家族のためにやらなければならなかった。そうしなければサタンが讒訴すると信じていた」(p.332)というのである。

 ここで「自分はどうなってもいい」という表現が、BとHにおいて一致していることに注目したい。自分のことは構わないから家族や夫のためにこの道を歩むというのは、一見自己犠牲的で人の為に生きる素晴らしい信仰のように聞こえるかもしれないが、神に対する感謝の念がなく、なかば自暴自棄になっているという点で正しい信仰姿勢であるとは言えないし、健全な精神状態であるともいえない。これは統一教会の理想的な信仰者の姿ではないばかりか、典型的な姿でもないのである。このことに関しては、Bに関する分析のところでキリスト教の伝統や文鮮明師自身の御言葉を根拠として既に論じたとおりである。

 Hの信仰はBの信仰と同じく、どこか自暴自棄的なところがあり、本音においては自分自身を嫌っていて、そういう自分を犠牲にすることに一種のヒロイズムを感じて酔っていたのではないかと思われるふしがある。酷な言い方かもしれないが、そうした信仰姿勢のままではいつか枯れてしまい、長続きしない運命にあったのではないだろうか? 信仰は何よりも、自分が神に愛されていることに対する感謝の念から出発しなければならないからである。このようにネガティブな感情を蓄積させている人は、「拉致監禁による棄教説得」にせよ、「保護による話し合い」にせよ、結果として信仰を棄ててしまうことが多いようだ。なぜなら、信仰を棄てることは自分を束縛している辛いことやネガティブな感情からの解放を意味するからである。

 櫻井氏の記述によれば、「夫は妻のあまりの借金行為に耐えかねて、何とかして統一教会から引き離さないと家族がだめになってしまうと考え、方々で情報を集めた後に脱会カウンセラーに相談するようになった。そして2000年にHを保護し、長い話し合いに入った。」(p.374)という。ここで言う「保護」や「話し合い」という表現を「監禁」と「説得」に読み替えることが可能であることは、既に述べたとおりである。

 Hが「保護」を受けた瞬間の気持ちは、「もう、これで何もかもが終わるだろうと、どこかにホッとした気持ちがあった。よかった、統一教会と離れることができる。」(p.374)というものだったという。これはある意味で、Hが統一教会の信仰生活の中で蓄積させてきたネガティブな感情が一気に反動となって表れたものであろう。

 夫の本来の目的は、妻であるHを統一教会から引き離して家族のもとに連れ戻すことであった。その通りになったのであれば、このストーリーは反統一教会側の視点からの「ハッピーエンド」となったのかもしれないが、現実はそうはならなかった。Hは、自分は家族と別れることになるだろうと覚悟を決めてカウンセリングを終了し、その後しばらく家族と別居した後に、離婚と自己破産の道を選択したのである。(p.375-7)結局、統一教会を脱会しても家族が元の状態に戻ることはなかった。このことの原因を櫻井氏は統一教会の信仰のあり方に見いだそうとしているが、私はあえてここで、「家族の元の状態」が必ずしも理想的で幸福な状態ではなく、Hが信仰の道に解決を求めざるを得なかったような深刻な問題を、もともとこの家族は抱えていたのであるという点を指摘したい。

 実は櫻井氏自身がそのことをほのめかしている。「Hは入信前に夫との関係に悩んでいた。家庭内暴力に近いものがあった。こうした状況でHが積極的に問題の打開策を求めていったともいえるし、統一教会の伝道者がつけ込んだともいえる。」(p.375)という記述がそれだ。

 櫻井氏は家族側の立場に立って記述しているので「家庭内暴力に近いもの」という曖昧な表現をしているが、実際には家庭内暴力そのものがあったのであろう。要するにHが統一教会に救いを求めなければならない状況に追い込んだのは、夫自身であったということだ。櫻井氏はHが信仰を持った理由を、H自身の積極的な求道であるとも、伝道者の働きかけでもあるといっているが、そもそも伝道とはする側とされる側の相互作用の中でなされるものであり、どちらか一方がマインド・コントロールするということはあり得ないのである。ここでのポイントは、Hにはあえて統一教会の信仰の道に入っていくための動機があったのであり、その主たる原因は夫の暴力であったという点だ。

 しかし、結果的に統一教会における信仰は矛盾をはらんだものとなった。統一教会の信仰が「駆け込み寺」的なものであり、夫を捨てて出家して楽になればよいというようなものであれば、結論は離婚しかなく、それはHにある種の心の平安を与えたかもしれない。しかし、統一教会で教えられたことは「夫を復帰して祝福を受け、理想家庭を築きなさい」ということだった。だからこそ彼女は1997年にワシントンで開催された合同結婚式に夫の反対を押し切って参加し、夫の写真を抱いてロバート・ケネディスタジアムで既成祝福を受けたのである。しかし、これでは理想と現実のギャップは甚だしく大きい。このころから、地上において夫を復帰して祝福家庭となるという希望はほとんどなくなり、祝福の儀式に参加することによって霊界における夫婦としての幸せに賭けるという状況になっていた。これもHなりの信仰に基づいた夫に対する愛の表現だったのだが、それが夫に理解されることはなかった。こうして、家族の中に自分の居場所を見いだせず、宗教の中に生きがいを見いだし、それにのめり込むことで家族の中でますます居場所を失っていくという悪循環が起きるようになったのである。

 櫻井氏は、「Hの信仰的動機づけは、夫の救済だった。夫は信仰を認めず、それがHの信仰的『負債』となり、家族との葛藤を教会活動で克服することに信仰の意味を得た。」(p.375)と分析している。一方で、「夫は統一教会に入信した妻の行為が全く理解できなかったが、それでも離婚することなく妻を統一教会から引き離すべく転居したりしながら結婚生活を継続してきたのは愛情のゆえだった。」(p.376)とも分析している。お互いに対する愛情があるにもかかわらず、相手の愛情表現を理解することも受け入れることもできないという悲劇が、この夫婦の間には横たわっていた。そうした中で、「迫害者」と「殉教者」という役割を演じながら12年間も葛藤を続けたのである。ある意味では、統一教会の信仰がこの夫婦の葛藤を緩和するのではなく、「拍車をかけた」とは言えるのかもしれない。ただし、それは統一教会の信仰一般が家族関係を破壊するという意味ではなく、Hがもともと持っていた性格、夫の個性、もともと夫婦が抱えていた問題、教会の指導のあり方など、複数の要素が絡み合って悪循環を生み出したと見るべきであろう。

 夫が抱えていた問題は、妻への家庭内暴力であった。それが嫌で妻は統一教会の信仰を持つようになった。夫が統一教会から妻を救い出す手段もまた、実態としては拉致監禁による棄教説得という暴力的なものだった。夫は何も変わっていないのである。Hは統一教会で夫婦関係の問題を解決することはできなかったが、信仰を棄ててもそれが解決されるわけではなく、帰るべき家庭にHの幸せはもともとなかったので、離婚の道を選ばざるを得なかったのである。Hが信仰を棄ててホッとしたのは、辛い活動から解放されたからであって、夫の愛に感謝したり、助けてくれた夫と共にやり直したいとは思ったわけではなかった。脱会はしたものの、夫婦はすれ違ったままである。結果として、Hは信仰と家庭の両方を失うこととなった。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』