韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ22


 先回は金日成の抗日武装闘争と、日本軍が降伏した後にソ連占領下の韓半島北部においてなぜ金日成が国家の指導者として立てられたのかについて解説しました。今回は、終戦後の共産主義国家樹立がどのように行われたのかをまとめます。

 解放を迎え、懐かしい祖国に帰って来た海外勢力は大きく分けて二派でした。一つは重慶と米国から帰って来た民族主義者です。彼らはみな臨時政府を中心として抗日闘争を共にしてきた人たちであり、米軍政下のソウルに帰って来ました。

 他のもう一つは、中国の延安とソ連から帰って来た共産主義者たちで、ソ連軍政下の平壌に帰って来ました。シベリアおよび華北から平壌に帰って来た共産主義者たちは、国内派共産主義者たちと共に北朝鮮の共産政権樹立に参加しました。ソ連で生まれた韓人二世たちも重要な働きをしました。彼らが合流して、ソ連が指名した「金日成」を頂点として共産政権を発足させました。また、南韓の国内派共産主義者たち(朴憲永ら)も北に入り、これに加勢しました。(最終的には朴憲永は殺されてしまいますが・・・)

 さて、北朝鮮の金日成の本名が金聖柱なのか金成柱なのかは分かりません。とにかく、その金聖柱または金成柱を、伝説の金日成将軍として人民の前に登場させ、北朝鮮を統治しようというのは、ソ連軍が書いたシナリオでありました。ソ連軍が組み立てた脚本の中で、彼は金日成を演じなければならなかったのです。したがって、金日成はソ連の利益のために働く傀儡に過ぎなかったのですが、ひとたびその役割を引き受けて自分が指導者になると、やがて自分自身のためにその役割を演じて、「私が伝説の金日成将軍である」と言って北朝鮮を支配するようになったのです。

 このようにソ連によって立てられた金日成は、次第に自らの力で権力基盤を確立していきます。1953年には主として国内派(朴憲永など)が、1956年には主として延安派とソ連二世が粛清されるなど、パルチザン派出身者ら以外はすべてが「反党分子」「帝国主義者のスパイ」などとして追われ、粛清されたのです。金日成は徹底的に政敵をつぶしていきます。これを非道なまでやり遂げた人物が金日成なのです。

 同時に、金日成派は金日成の革命経歴をねつ造し、彼らの政権の歴史的正統性を無理やりに作り出そうと画策し始めました。金日成の闘争のみが、唯一最高の抗日武力闘争(これを「唯一革命伝統」と言います)とされ、それをもって北朝鮮政権の歴史的背景と伝統となし、したがって韓民族の歴史的正統性はもっぱら自分たちによってのみ継承されていると主張するに至ったのです。ですから、今日の北朝鮮があるのは誰のおかげかと言えば、それはひとえに金日成将軍のおかげであるのだ、というイデオロギーを作ったわけです。

 そのためには歴史を捏造しなければなりません。ですから、今日の北朝鮮の出版物では、民族主義者たちの抗日闘争はいっさい排除されており、共産主義者といえども、金日成のほかには韓国人で抗日闘争をした人物は誰もいなかったということになっていて、彼のみが唯一抗日武装闘争を行った人物であるということになっているのです。

 このようにして個人としての金日成の位相を高めた後に何をしたかというと、今度は金日成の血統を高めることになります。それは金日成一家の世襲体制を作るためでした。さらに歴史をさかのぼり、北側近代史の核心をなす部分が、金日成とその先代たちの偽造された闘争史によって塗り替えられて行ったわけです。彼らの歴史に従えば、金日成は絶世の愛国者であり、不世出の革命家であり、永生不滅の思想家であるということになっています。金日成だけではなく、彼の一家代々が愛国者で、革命家であったということになったのです。「愛国的革命性の強い家門であったから、金日成のような人が生まれなければならない。そして彼の代を継ぐ指導者もやはり、こうした家門から出なければならない」と主張されるようになりました。これは、金日成父子の世襲執権を可能にするための布石であったと言えます。

 ですから、北朝鮮の出版物では、金日成のお祖父さんやお父さんが非常に持ち上げられるようになっていきました。例えば、北朝鮮の歴史では、金日成の曾祖父は朝鮮を侵略したアメリカ船ジェネラル・シャーマン号を撃退する戦いに加わった英雄だったんだとか、また祖父は日帝に対して勇敢な闘いを挑んだ人物であったとされているのです。そういう革命家の血統の下に、金日成が生まれたんだという話になっていくのです。

 もともと、共産主義は血統と何の関係もありません。その本質はプロレタリアートとブルジョアジーの階級闘争ですから、本来は血統には何の価値もないのでありますが、北朝鮮においては血統が重要なんだということになったのです。金日成の祖先が偉大だったから、金日成が生まれて、そして偉大なる金日成から偉大なる子孫が生まれてくるので、次世代はその子供たち、孫たちによって主導されなければならないということになっていくのです。

 なぜそうしたのかと言えば、金日成は同じ共産主義の指導者であるスターリンと毛沢東が死後に批判されたのを見たわけです。金日成が一番最後まで生き延びたので、スターリンが死んだ後にはスターリン批判が起き、毛沢東が死んだ後には毛沢東批判が出てきたのを見て、自分も死んだ後にはああなるんではないかということを恐れて、絶対にそうならないためには、自身を絶対的に信奉し、最後まで忠実な後継者を立てなければならないと考えたのです。そして、それは息子以外にはあり得ないという結論になったのです。このようにして、歴史の「私有化」が始まったのです。

 そして、金日成が朝鮮民族の解放者であることを強調するために、中国共産党の下で働いたという歴史的な事実も、ソ連に避難していたこともすべて否定されて、なかったことになってしまいました。そして、1945年の解放まで全く独自の武装闘争を継続していたことに改変され、それが北朝鮮に入ってきて、日帝から北朝鮮を解放したんだというストーリーになっているのです。ですから、すべて自分を中心として歴史を書き変えて、絶対権力を作っていったということです。

韓国の独立運動と再臨摂理PPT22-1

 このようにして、「金日成王国」が確立され、すべての人民が偉大な首領様を仰ぎ見る国を造ったのです。

韓国の独立運動と再臨摂理PPT22-2

 彼らが抱いている北朝鮮のイメージを絵にするとこんな感じになります。子供たちが金日成を「お父様」として慕って、群がっているわけです。金正日も脇にいます。この絵は不思議ですね。妻がいないんです。「真の父母」ではなく、「お父様」だけなのです。親父である金日成だけが子供に囲まれているという図なんですが、彼は「地上の楽園・北朝鮮」を築いたんだということで、こういうイメージを海外に発信しているわけです。このようにして金日成は北朝鮮の権力者となったのです。

カテゴリー: 韓国の独立運動と再臨摂理

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』119


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第119回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 元統一教会信者の信仰史の具体的な事例分析の中で、今回から「四 祝福を受けた信者 合同結婚式の理想と現実」に入る。361~368ページにかけて、7ページ半という比較的短い記述の中で紹介されているのは、統一教会で韓国人男性と祝福を受け、渡韓して家庭生活までしたものの、結果的に離婚して信仰も棄てた二人の日本人女性のストーリーである。この話題は本書の後半部分にあたる中西尋子氏の研究内容と重なるため、櫻井氏の担当する部分では簡単に済ませたという可能性はあるものの、テーマの取り上げ方と事例の選び方が著しく粗雑で偏っているというそしりは免れないであろう。

 私は「統一教会信者の信仰史」と銘打たれたこの第七章の資料全般に関して、櫻井氏のインタビューを受けた人々は全員が元信者であり、現役の信者が一人もいないことに対して、情報源に著しい偏りがあることを繰り返し指摘してきた。伝道された経緯や統一教会における信仰生活を記述する上で、現役信者の声に一切声を傾けていないことが手落ちであるのとまったく同様に、祝福について論じる場合にも、信仰を維持し家庭生活を営んでいる現役信者には一切インタビューを行わず、離婚して棄教した元信者からの聞き取りのみに基いてそれを判断しようとすること自体が、社会学者としては致命的な手落ちである。そもそも、「合同結婚式の理想と現実」というタイトルのつけ方自体が、学術論文というよりは週刊誌の見出しのようである。

 実は、私が長きにわたって書評を書いているこの本は、統一教会の祝福を受けて韓国に嫁いだ日本人女性を誹謗中傷する目的で描かれた週刊誌の記事の「権威づけ」に利用されたことがあった。そしてそれは、「週刊ポスト名誉毀損訴訟」と呼ばれた裁判にまで発展した。どんな事件と裁判であったのかを簡単に解説しよう。

週刊ポスト表紙

週刊ポスト内容

 2010に発売された「週刊ポスト」(6月4日号)に「〈衝撃リポート〉北海道大学教授らの徹底調査で判明した戦慄の真実」「韓国農民にあてがわれた統一教会・合同結婚式 日本人妻の『SEX地獄』」という見出しの記事が掲載された。その内容は、統一教会および韓国に嫁いだ日本人女性信者らの結婚生活に対する侮辱であるとともに、信者の名誉を著しく棄損するものであったため、統一教会は「週刊ポスト」に対して謝罪と記事の訂正を繰り返し求めたが、誠意ある回答を得ることができなかったため、2010年11月に「週刊ポスト」の発行元・小学館を訴えたのである。

 この裁判に対する地裁判決が下りたのが2013年2月20日であり、東京地裁は被告・小学館に対して、原告・統一教会に55万円の賠償金を支払うように命じた。謝罪広告掲載の請求が棄却されたことに不満はあったものの、名誉棄損が認められ、少額といえど損害賠償の支払いを命じる判決が下されたという点では統一教会の勝訴といってよい。

 判決文では、「韓国で農業に従事する男性に嫁いだ日本人女性信者が、『地獄』と形容されるような極めて悲惨な性生活を強いられているとの印象を与えるような『SEX地獄』という見出しを付けることは、要約・強調としてもおよそ適切を欠くものであり、仮にそれが被告の意見・論評の類であるとしても、度を超えた性的表現であるというほかはない。(中略)違法性及び被告の故意又は過失があるというべきである」として、被告の名誉毀損を認めている。

 そもそも週刊ポストの編集部が本書に触れたのは、彼らの書いた記事の権威づけに利用したかったためであったが、実際には櫻井氏が執筆した部分にも、中西氏が執筆した部分にも、日本人妻の性生活をメインテーマにした箇所は存在していない。にもかかわらず、週刊ポストの記事には「『〈衝撃リポート〉北海道大学教授らの徹底調査で判明した戦慄の真実』というサブタイトルがつけられており、記事の本文でも本書を紹介する文脈において、あたかも本書が日本人妻の『SEX地獄』を調査報告したかのような印象を読者に与えようと努めているのである。このことは判決文の中でも認定された。

 実際に週刊ポストの記事に利用されたのは、櫻井氏の提供した情報ではなく、中西氏の提供した情報であったが、「北海道大学教授」の権威に魅力を感じたのか、あたかも櫻井氏が韓国に嫁いだ統一教会日本人女性の夫婦関係に関する実態調査を行ったかのような印象を与える見出しになっている。その意味では櫻井氏は「とばっちり」を受けたと感じているかもしれない。しかし私はあえて、そもそも櫻井氏のテーマの取り上げ方、事例の選び方、そしてタイトルのつけ方に、学術論文としての品性を欠いた、週刊誌的な粗雑さが存在していたことを指摘しておきたい。だからこそ、下品な週刊誌の記事の権威づけに利用されるのだ。

 櫻井氏は二人の元信者のストーリーに入る前に、「信仰を継続している人達と途中でやめた人達との差異がどこにあるのかといった問題にも注意しながら、二人のライフヒストリーを見ていくことにしたい」(p.362)と言っているが、彼が信仰を継続している人達のインタビューを行ったり情報を収集したりした形跡は一切ない。さらに「途中でやめた人達」である元信者FとGが、信仰を継続している人達とどこが違ったのかに関する突っ込んだ分析も存在しない。唯一存在する比較と言えば、日本の信者たちが真剣に信じているのに対して韓国の信者たしの信仰はいい加減であったという、元信者FとGが受けた印象程度のものでしかない。元信者二人が途中でやめた理由を本当に追求したいのであれば、信仰を継続している現役信者の調査も行い、それらを比較するのがまっとうなやり方であろうが、櫻井氏はそれを全くしていないのである。

 櫻井氏が本書で紹介しているのは、韓国における信仰生活と結婚生活に挫折して日本に帰国した二人の元信者だが、実際には韓国でたくましく生き、社会的にも活躍している日本人の祝福家庭婦人は多数いるのである。彼女たちは、言葉や文化の違いから当初は苦労の多い生活を送ったとしても、統一教会の教えである「為に生きる精神」で生活し、困難を克服してきた。その結果、良妻賢母となり、夫や舅姑に気に入られ、周囲も感心する嫁になり、地域から「孝婦賞」を受けた者も多い。彼女たちの存在は、韓国社会に少なからぬ影響を与えた。2006年3月号『月刊新東亜』(韓国の雑誌)の記事で、彼女たちのことが以下のように取り上げられたことがあった。

新東亜の記事

孝婦賞

「この頃、農村社会で評判になっている話題の一つは、韓国農村独身男性に嫁いだ統一教会の日本人嫁だ。これらは地方各地、多くの団体で授与する孝婦賞を皆さらっている。」

 この「孝婦賞」というのは、親孝行を実践した模範的な女性に与えられる賞だが、里長や老人会長、地域の人々などの推薦により、郡、農協、赤十字、老人会などの団体が授与するという。祝福家庭の日本人婦人の場合には、農村に嫁いで言葉や生活習慣が違う中で、慣れない農作業や家事育児をきちんとこなし、舅姑が寝たきりになれば下の世話も嫌な顔をせずにするという姿が評価されて受賞するそうである。

 さらに、多文化講師(海外の文化を教える講師)や日本語講師として活動し、幸福に暮らしている国際家庭としてテレビ番組で報道された祝福家庭の婦人もおり、中には高等教育機関で働く者や高等教育を受ける者もいるのである。

山口英子さんと李明博大統領

山口英子さんと李明博大統領

 例えば、山口英子さん(6500双祝福家庭)は3人の子を持つ母親だが、2009年に韓国の法務部が全国規模で組織した結婚移民者ネットワークのソウルにおける会長に就任しており、2010年1月13日には李明博大統領(当時)の前で多文化家庭を代表して法律改善案のスピーチをしている。また同年5月20日にはイ・キナム法務部長官から法務部長官賞を受賞している。

明博大統領から表彰される浅野富子さん

明博大統領から表彰される浅野富子さん

 浅野富子さん(36万双祝福家庭)は、2012年5月8日に韓国ソウルにある青瓦台(大統領官邸)で開かれた「全国隠れた孝行者及び素晴らしい親を迎えての午餐懇談会」で、「他の模範となる孝行者」に選ばれ、李明博大統領(当時)から直接、大統領賞を授与されているのである。

 櫻井氏が本気で信仰を継続している人達と途中でやめた人達との差異がどこにあるのかといった問題にも注意して研究を行う気があれば、こうした成功事例と、元信者FとGのような失敗事例を比較し、両者の明暗を分けたのはなんであったのかを分析した方がより有益な研究となったであろう。もし山口さんや浅野のような華々しい活躍をした事例が少数であると主張するならば、地味でも構わないので幸福な信仰生活・家庭生活を営んでいる日本人祝福家庭婦人に対するインタビューくらいは試みるべきであっただろう。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ21


 先回は「金日成4人説」とそれに対する反論を紹介し、徐大粛の著書『金日成』に基いて彼の略歴を紹介し始めました。彼は1930年ごろから中国で共産主義のゲリラ運動に関わるようになり、一兵士として闘争の中で共産主義思想を体得していきます。金日成の思想形成にもっとも大きな影響を与えた人物が魏拯民であり、金日成は彼から共産主義思想を教わったと言われています。

 さて、徐大粛は著書『金日成』の中で、北朝鮮の国家主席である金日成は、まごうことなく満州において抗日遊撃闘争で活躍した金日成その人であると言い切り、「別人説を唱える韓国の学者がいまなお何人かいるが、それは根も葉もない空論である」と切り捨てています。その根拠として、彼は以下の点を挙げています。
①抗日パルチザンの頭目である「金日成」なる人物に懸賞金が賭けられていた
②今日の北朝鮮は、朝鮮革命の伝統は金日成のパルチザンの闘いがその起源であるとの考えで一色に塗られている
③北朝鮮の政治指導者の中核をなしていたのは、パルチザンに加わった人々ないしはその関係であった。

 したがって、このパルチザン活動と金日成が無関係であったということはあり得ないとしています。このパルチザン活動で有名になり、賞金を懸けられた金日成という頭目が、北朝鮮の指導者になったのだということです。この人の主張と、李命英博士の主張を比べてみたとしても、果たして金日成が何人いたのかということに関しては、真相は分かりません。

 そのことはさておき、金日成の抗日武装闘争についてまとめてみましょう。金成柱は、1930年代前半から「日成」という変名を使い始めます。1932年から41年にかけて朝鮮人パルチザンが展開した抗日武装闘争は、中国共産党の指揮下にあった東北抗日連軍の中で戦われました。朝鮮人は東満を拠点とする第二軍に特に多く、金日成もこの第二軍において闘った兵士の一人でした。金日成は比較的名の知られた指揮官の一人であったのですが、そうした指揮官の中には、金日成程度の名の知れた者は他にも数多くいたのであり、たくさんいる部隊のリーダーの中の一人に過ぎなかったのです。

 金日成は第二軍の中でその実績を認められて序列を高め、最終的には第六独立師の師長に就きました。金日成が最も活発に活動していた時期は1937年から40年であり、このころ彼が掌握していた兵力は中国人および韓国人を含めて300名程度でした。

 日満側は抗日連軍に的を絞って追討に次ぐ追討を強行し、北満の第二、第三路軍は1939年春ごろまでには壊滅状態となりました。第一路軍は間島の山岳地帯や密林地帯を根拠としていたため討伐が難しく、壊滅は免れてきたのですが、少人数の部隊ごとに分散して生き延びるより外に方法がなく、自然にその活動は停止することとなりました。このように中国共産党下にあった韓国人のパルチザン部隊も次第に追い詰められていったのです。

 そうすると日満側は「帰順工作」によって切り崩しを図っていきます。日満側の討伐作戦と「帰順工作」により、東北抗日連軍はガタガタになっていきました。「帰順工作」というのは、遊撃隊を離れて投降するものには金品の授与と刑の免除を約束するという「誘惑」だったのです。この作戦はてきめんに効果を上げ、投降した遊撃隊戦士は、共産主義思想を棄てるばかりか、率先して討伐軍に協力したと言われております。金日成の上官であった呉成崙(全光)でさえ投降し、金日成を追う討伐隊に協力する側にまわったということですから、上官さえ投降して裏切っていくという、非常に苦しい状況にこのパルチザン部隊は追い込まれていったのです。

 第一路軍のほとんどの幹部が投降、逮捕、射殺される中で、金日成ただ一人が生き延びて闘い続け、抗日連軍の壊滅が決定した時点で、ソ連領へ逃れたわけです。要するに金日成は事態が悪化してどうしようもなくなったときに、ソ連に避難するという最終手段を選んだということです。徐大粛は、「これだけでも金日成の実績としては、賞賛すべき実績である」と言っています。状況は絶望的で、仲間は皆が投降するか、逮捕されるか、射殺されるか、あるいは寒さの中で死んでいくかという中で、日本軍に屈服しないで戦い続けたというそのことだけで、既に英雄なんだということです。しかし、勝ち目はなかったわけですから、共産主義の聖地であるソ連に金日成は避難するわけです。そこで約4年間、終戦まで待つわけです。

 これが1941年から1945年までの金日成の歩みになります。当時、抗日パルチザンがソ連領へ逃げるのは珍しいことではなく、ソ連はそれを喜んで迎え入れていました。なぜかと言えば、自分たちの兵力にするためです。金日成はオケアンスカヤの野営学校に入りました。実はここで金正日が生まれたと言われています。ソ連がこのように抗日遊撃隊を受け入れて訓練することにしたのは、近い将来満州で日本軍と闘わなければならないことに備えてであったと思われます。

 しかし、1945年8月に原爆が落とされて、日本軍が予想外に混乱して、またたく間に降伏してしまったので、彼らは実際には日本軍と闘うことはありませんでした。日本軍が降伏したので、ソ連は韓半島の北半分になだれ込んでいきます。一方、金日成はソ連軍極東軍司令部のもとにあった第88特別旅団の少佐に任命されました。したがって、このときはソ連の軍人という立場であったのです。

韓国の独立運動と再臨摂理PPT21-1

 日本軍が降伏した後、金日成はプガチョフ号というソ連軍の軍艦に乗って、ソ連軍と共に1945年9月19日に帰国しました。韓半島の北半分はソ連が占領したわけですから、そのソ連軍と共に入っていったのです。そして同年10月14日に平壌で開催された「ソ連解放軍歓迎平壌市民大会」で、北朝鮮の指導者として、人民の前に紹介されることになるわけです。上の写真はそのときの金日成ですが、若いですね。33歳です。彼はソ連の軍人たちによって勲章をつけられて、民衆の前に出されたわけです。

韓国の独立運動と再臨摂理PPT21-2

 それでは、なぜ金日成だったのでしょうか? 当時、北の指導者になる可能性のあった人は三人いたと言われています。そのうちの一人が曺晩植(조만식)という人で、この人は厳密な意味での共産主義者ではなくて、キリスト教徒でした。「朝鮮のガンジー」と呼ばれた人で、非常に尊敬されていて、名声は抜群でした。実は、初めにソ連軍が推した人物は彼だったのです。ソ連として一番良い方法は、万人の尊敬を集めているこの曺晩植を傀儡として立てて、自分たちは背後にあって政権を運営し、共産主義国家を作っていくということでした。そのためには曺晩植がソ連の言うことをよく聞くことが必要でした。しかし、この曺晩植は傀儡になるほど主体性の弱い人ではなく、ソ連軍にいろいろとものを言ったのです。信任統治の賛否に関してソ連と意見が衝突しました。すなわち、ソ連は信託統治を推進していたのですが、曺晩植は朝鮮の独立を守るべきだと言ってこれに反対したのです。このように、曺晩植は傀儡にはならないくらいに主体性があったので、結局ソ連とぶつかって、高麗ホテルに監禁された後に消息を絶ってしまいます。おそらく、消されたのではないかと思います。

 もう一人の指導者候補が、以前に紹介した朴憲永でした。この人はモスクワ大学で学んだインテリで、共産主義者としての実績もあり、「赤い星」と呼ばれていました。彼はコミンテルンと関係が深かったのですが、スターリンにとって信用できる人物ではありませんでした。彼の活動の基盤は南にあり、終戦後しばらくは南にいて、北の体制が固まった後で南から越北してきました。ですから、最終的には金日成体制の下で邪魔者として粛清されてしまいました。

 三番目が金日成でした。彼は指導者としてはあまりにも若かったのですが、ソ連のスターリンに「言いなりになる人物」と見込まれたので、彼が立てられたということなのです。ですから、指導者としての素養において、もっと人望があるとか、実績があるとか、そういうこと以上に、ソ連の言いなりになる、傀儡になる人物であるということが見込まれて、若い金日成が立てられたということになるわけです。

カテゴリー: 韓国の独立運動と再臨摂理

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』118


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第118回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 元統一教会信者の信仰史の具体的な事例分析の中で、第113回から「三 学生信者 学生と統一教会」に入り、これまでCとDという原理研究会所属の男性信者の例を扱ってきたが、今回は地区教会所属の学生信者E(女性)の事例を扱う。櫻井氏が統一教会の学生信者を「原理研究会の学生」と「地区教会の学生信者」に分け、両者の待遇や性格の違いを強調していることはこれまで繰り返し述べてきた。それは原理研究会が統一運動の中にあっては特別に守られた世界であり、心許せる仲間たちとの楽しい共同生活であり、体育会系のノリで青春ドラマのように熱く、資金調達のノルマやプレッシャーのない信仰生活であるのに対して、地区の学生信者は一般の青年信者や壮婦たちと同じく、常に実績の追求を受けながら、勝利か敗北かという二者択一を突きつけられ、決死的な決意で教団から要求される活動を行い続ける信仰生活である、という主張であった。櫻井氏によるこのコントラストはいささか極端で、ステレオタイプ化されたものであることを私は主張してきたが、原理研究会の男性信者2名と、地区教会の女性信者1名のインタビューを比較しただけで櫻井氏がこのような結論を出しているとすれば、それは社会学者としては驚くべき杜撰さである。

 そもそも、なぜ原理研究会の事例はどちらも男性で、地区教会の事例は女性が一人だけなのか? 男性と女性では物事のとらえ方や信仰を持つに至る動機に差異があることは当然予想されるはずであり、同じ地区教会の学生でも複数の事例を分析すれば違った個性が現れることが予想される。より客観的に両者を比較したいのであれば、原理研究会の男性信者と女性信者、地区教会の男性信者と女性信者をそれぞれ複数名調査したうえで、比較検討してから結論を出すべきであろう。櫻井氏のインタビューした事例が、たまたま原理研究会の体験を楽しいと感じた男子学生(C)や合理的で懐疑的な性格の男子学生(D)の事例と、非常に真面目で献身的な地区教会の女子学生(E)であったという可能性は高い。たったこれだけの事例から組織全体の違いを一般化して述べことはできない。Cの体験もDの体験もEの体験も、それぞれの個性が強く表れたものであり、必ずしも原理研究会や地区教会の学生部の持つ一般的な性格を反映しているとは言えないのである。

 櫻井氏が掲載している元信者のインタビューをAからIまで並べてみると、CとDだけが男性であり、残りはすべて女性である。そしてCとDだけが原理研究会の学生であり、残りは地区教会に所属していた青年、学生、そして壮婦である。櫻井氏はCとDの持つ際立った特徴が、原理研究会の特徴ではなく、男性信者の特徴であるという仮説を立てて検証してみるということをどうしてしなかったのであろうか? この一つだけを取ってみても、櫻井氏の分析手法に重大な欠陥があることは明らかである。もし紹介されたインタビュー対象者の中に地区教会の男性信者や原理研究会の女子学生だった者がいなかったので比較対照が出来なかったというのであれば、その旨を正直に記載し、未検証の課題として残しておくべきであり、過度な一般化を行うべきではない。それこそが社会学者としての真摯な態度であり、研究の信頼性を上げるものであると心得るべきだろう。それをきちんとしないで、少ない事例から乱暴な一般化をしてしまうから、彼の研究の信頼度は下がるのである。

 さて、元信者Eの入信の過程だが、手相の占いをきっかけとしており、本書の第6章において入口部分における勧誘手段として「手相・姓名判断」(p.221-227)が説明されているように、ある意味では一般的な経路から伝道されてきたといえるだろう。元信者Aもきっかけは手相だったということであるから、壮婦に限らず、青年においても占いが最初のきっかけで伝道される人は少なからずいるということだ。

 櫻井氏は、調査対象となった信者たちの「伝道から入信までの期間」を分析し、「勧誘されてから統一教会の信者となることを決意するまでの期間は人様々だが、四ヶ月間が突出して多い」(p.211)としている。それがEの場合には1年以上かかっており、比較的ゆっくりと時間をかけて伝道された方であるといえる。それからさらに1年以上たってから「献身」を決意するわけだが、それでも大学を卒業するまでにはまだ1年半あった。ここで留意すべきは、たとえ内的に「献身」を決意したとしても、彼女は大学を辞めることを勧められたわけではなく、卒業するまでは原理研究会と同じく「信仰的モラトリアム」の期間を与えられていたということだ。その意味では、原理研究会と地区教会の学生部の扱いに大きな違いがあるわけではないことが分かる。

 彼女は人から頼まれると嫌とは言えないタイプだったのであろう、アベルから勧められるままに奨学金や親から預かった学費を献金したり、友達や先輩から借金をしたり、カード会社から借り入れをしたりと、無理を重ねることとなり、それが大きな負担となった。マイクロで腰や足を痛めたことも重なって、健康上の理由からもネガティブな感情が蓄積していく、負のスパイラルに陥っていった。電車の中で涙が止まらなくなり、少しうつ状態になってしまっていたという記述からも推察できるように、あまり精神的に健全な信仰生活ではなかったようだ。

 その一方でEは神体験らしきものもしている。「2005年5月下旬に済州島の修練会に参加した。そこで、講義を受けている最中に『祝福を今すぐ受けなければならない!』という声が聞こえ、周藤副会長夫人(当時)に相談すると、それは先祖の声だと言われた。最終日、朝5時から修練所の前にある海岸で祈禱をするうちに、突然神様と会話をしているような感覚になった。それ以来、祝福のことが脳裏から離れなくなった。」(p.357)と記載されているように、これはかなり自覚的な体験だったようで、脱会後にも彼女はそれを単なる思い込みや精神の異常であったとは思っていないようである。信仰というものは、単なる恐怖心や指導者の指示に従うことだけで成り立つものではない。辛い経験があったとしても、それを乗り越えてなお信じるという動機付けがどこかにないと、続けることはできないのである。彼女の場合には、原理や霊界、自分自身の罪に対する確信と共に、こうした神との直接的な出会いが信仰を支えていたのであろう。

 櫻井氏は、「Eの入信契機は人生の移行期(高校卒業から大学へ進学、北海道から東京へ移動)に転換期トークが絶妙のタイミングではまったという偶然によるものだ。Eに統一教会で解決すべき問題は全くないといってよい。」(p.359)という極めて乱暴な議論を転換している。こうした偶然で人が統一教会に入信するのであれば、同じようなタイミングで転換期トークを受けた多くの者が統一教会に入信するはずである。しかし実際には、同じように声をかけられても反応する者としない者がおり、入信する者となればその確率は極めて低い。人生の転換期に統一教会に出会って入信するという「環境的要因」の存在を認めつつも、それだけでは入信の説明にはならず、同じような環境下におかれても人それぞれ異なる反応をする理由について、アイリーン・バーカー博士はさらに深い考察を行った。すなわち、声をかけられた人の側に、統一教会の提供する内容に対して反応する素養がなければ伝道されないし、反応する何かを潜在的に持っている者が伝道されるということだ。Eは原理の内容そのものに反応しており、教会員となるべきた素養があったので伝道されたのである。

 Eはトレーニングの期間中に交際していた男性との関係を絶っている。このことについて櫻井氏は、「女性の青年信者に共通する介入だが、交際中の相手と絶縁させるというやり方である」(p.359)という奇妙な論理を展開している。未婚の青年が信仰を持つことによって恋人と別れることはあるが、そこに男女の差はない。女性は男性の恋人と別れることを勧められるが、男性は女性の恋人と交際を継続することが許されるなどということはなく、どちらも等しく祝福を受ける準備としてそれまでの異性関係を清算することを勧められるのである。

 以前にも櫻井氏は「心情解放展」と呼ばれる行事の中で、青年信者が交際中の恋人と別れさせられることがあると主張し、「この辛い決断をしてしまうと最も親密な人間関係が失われるために、これまでの自分ではなくなってしまう。」(p.248)といういささかオーバーな表現をしてこれを批判している。これに対して私は、信仰を持つことによって異性のとの関係に問題を来すようになるという事例は一般のキリスト教にもあり、その際になされる信仰指導は、異性との交際を優先して信仰をやめるべきだとは決して言わず、基本的には信仰を優先して判断し、できるだけ妥協しないように勧めていることを紹介した。こうした異性の問題に関するキリスト教の信仰指導は、統一教会でEに対してなされた指導と本質的に異なるものではない。このように男女の愛よりも信仰を優先させ、交際中の異性と別れるように説得を行うこと自体は、宗教の世界においては一般的なことなのである。特に統一教会においては罪の本質を「愛と性の問題」としてとらえており、祝福による結婚が救いにとって必要不可欠なものであると教えているため、異性の問題は信仰の本質として避けて通ることができないのである。恋人と別れることは、青年信者にとって一時的には辛い体験であるかも知れない。にもかかわらず、彼らが信仰を優先して異性関係を断ち切るのは、祝福によってより大きな幸福が得られるに違いないという「希望」があるからなのである。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ20


 先回は、東満におけるパルチザン部隊と日本の治安部隊が激しく闘争している状況下で、日本側の資料の中に、1935年末ごろから金日成(キム・イルソン)という名前が登場し始めたことを説明しました。彼は東北抗日聯軍に属する100人ほどの「金日成部隊」を率い、すばしこいゲリラ活動を展開したことで次第に名が知られるようになっていきました。彼の起こした代表的な事件が1937年の「普天堡事件」であり、日本側に相当の被害を与えた襲撃作戦でした。普天堡は現在は北朝鮮にあり、北朝鮮では将軍様が最初に偉大な功績を残した場所だということで、聖跡として国立公園に指定され、巨大な金日成の銅像が立っています。

 しかし、『金日成は四人いた』の著者として有名な李命英博士は、この「普天堡事件」を起こしたのは後に北朝鮮の主席となった金日成とは別人であると主張しています。彼の研究によれば、普天堡事件を起こした第六師長・金日成は、本名を金成柱といい、当時36歳で、モスクワ共産大学を卒業したエリートだったのですが、間もなく満州国軍討伐隊に射殺されたというのです。後の北朝鮮首席の金日成は当時25歳で、経歴も異なるので別人物であると主張しています。要するに、このパルチザン活動の中には数名の「金日成」がいて、それぞれ別人だったのだと李命英博士は言っているのです。

 さて、このころの金日成の役職は「第六師長」ですが、やがて出世して「第二方面軍長」になったという記録が残っています。1938年末になると、第一路軍の幹部の多くが脱落し、損害を受けました。それにより金日成は「第二方面軍長」に抜擢されます。このころの第一路軍の幹部名の中に、後の金日成政権の中枢部に名を連ねた人物の名前が散見されるということです。後に金日成が北朝鮮で政権を立てたときに、このころパルチザンで一緒に戦っていた仲間を幹部として登用しており、その名前が記録と一致しているので、少なくともこのパルチザン活動を行っていた部隊の中に後の金日成本人がいて、その部下たちも一緒にいただろうということは、事実だと思われるわけです。さて、金日成とは誰なのかということに関して混乱してきたと思いますので、整理するとこのような表になります。

韓国の独立運動と再臨摂理PPT20-1

 「金日成偽者説」をめぐる論争の中で、一番多くの金日成がいたと主張しているのが李命英博士で、彼は「金日成は四人いた」と言っています。まず、①伝説の金日成将軍の正体は金光瑞であり、後に金擎天と呼ばれた人でした。これは1919年から1920年頃に活躍したかなり年配の人物でした。次に②から④の金日成はパルチザン以降の人物でありますが、もともと第六師長・金日成という人がいて、この人は本名を「金成柱」といい、1937年に満州で死亡しているんだということです。その名前を引き継いだのが③第二方面軍長・金日成だったということです。つまり、有名な名前なので、本人の名前というよりも役職というかコードネームだったのではないかということです。例えば、式守伊之助や木村庄之助、あるいは市川團十郎のように、その名前を引き継いでいたんじゃないかと考えているのです。たとえ金日成が死んでも、誰かがその名前を引き継いで、次の金日成が現れるという具合です。

 第二方面軍長・金日成も実は別人で、この人は1944~45年にソ連で死亡しており、これらパルチザンで活躍した金日成とは全くの別人で、その下で働いていたゲリラの排長(小隊長)であった人が、後に北朝鮮国家主席の金日成になったと李命英博士は言っています。この人の本名は「金聖柱」といい、「金成柱」とは発音は同じだが漢字は異なり、別人物だということです。これが「金日成4人説」です。

 それに対して、「そんなことはない、②~④はすべて同一人物だ」と主張している学者がいます。『金日成』(原著は1988年に出版、日本語訳は1992年に出版)という本を書いている徐大粛という人です。私はこの本も読みましたが、このパルチザンで活躍した金日成と、北朝鮮の国家主席・金日成はすべて同一人物であると彼は主張しています。でも、この人もさすがに「伝説の金日成将軍」が北朝鮮の国家主席と同一人物だとは言っていません。時代が違いすぎますので。

 ところが北朝鮮ではこの①から④のすべてが金日成であり、われらの偉大な首領様であると教えているのです。ですから、金日成4人説から1人説までかなりの差があるわけですが、徐大粛の著書『金日成』のなかに、彼の詳しい経歴が書いてありますので、これを紹介してみたいと思います。

韓国の独立運動と再臨摂理PPT20-2

 後に北朝鮮の国家主席となった金日成は、1912年4月15日に平壌の万景台という所で生まれております。父の名前は金亨稷(김형직)といい、貧しい農民だったと言われています。母の名前は康盤石(강반석)といい、なんとクリスチャンだったのです。「盤石」という言葉はキリストを象徴する岩という意味で原理講論にも出てきますが、彼女はキリスト教の牧師の娘であり、その名前は使徒「ペテロ(岩)」の名にちなんでつけられたということです。金日成の母親がクリスチャンというのは皮肉な話ですが、彼女は後に北朝鮮では「朝鮮の母」として神格化され、「革命家」であったことにされています。

 金日成の本名は金成柱と言います。「聖柱」なのか「成柱」なのか、諸説あるのですが、徐大粛氏は「成柱」が金日成の本名だとしています。金日成には弟が二人いて、名前を哲柱と英柱と言いました。この英柱の方は「金日成の実弟」ということで後に北朝鮮の幹部になっています。韓国人は兄弟の名前に同じ漢字を用いることが多いので、成柱、哲柱、英柱が兄弟であることは間違いないのではないかと思います。

 1920年に、金成柱は両親と共に満州に渡り小学校に通うことになります。ですから、金日成は中国語が堪能だったということです。1926年に父親が死亡します。金成柱が14歳のときでした。その後は母親が女手一つで兄弟を育てることになります。1929年、金成柱が中学2年のときに、共産主義の非合法活動に関わったかどで逮捕され、中学を退学し、1930年春に釈放されます。これが金日成の最終学歴となります。彼は大学を出ていないどころか、中学中退という学歴なのです。すなわち、彼はエリートでもインテリでもありませんでした。彼は武装したゲリラだったのです。金日成の経歴の特徴は、ゲリラ活動の兵士としてかなり幼いころから活動していたことにあります。

韓国の独立運動と再臨摂理PPT20-3

 金日成の思想形成にもっとも大きな影響を与えた人物が魏拯民(ぎ・じょうみん)という人です。彼は1935年~41年にかけて金日成の直接の上官であり同志であった中国人です。1932年に中国共産党の指令で満州へ派遣され、1934年には中国共産党東満州特別委員会の書記となりました。金日成は魏拯民と同じ部隊でともに闘い、彼の影響を受けて共産主義思想を身近で教わったと言われています。ですから彼は、中国共産党の指導するゲリラ活動の一兵士として、闘争の中で共産主義思想を体得していったのです。モスクワ大学で学んだとか、中国の大学に留学したとか、そういうインテリではなくて、若い頃から馬に乗って銃を撃ち、武装闘争をしながら、その中で実践的共産主義を学んだ、いわば「叩き上げ」が金日成であったということになります。

カテゴリー: 韓国の独立運動と再臨摂理

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』117


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第117回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 元統一教会信者の信仰史の具体的な事例の分析の中で、第113回から「三 学生信者 学生と統一教会」に入ったが、今回は元信者D(男性)の事例の三回目である。Dに関しては櫻井氏自身の記述が長いこともあるが、彼のキャラクターがなかなか濃くて面白いため、私の書評に割く回数も結果的に三回になった。今回は「原理研究会で生き抜く方法」というセクションで彼が展開している論理を分析してみよう。
「統一教会では、何かにつけ、うまくいっていないことは全て蕩減のせいにされ、世界的なレベルでうまくいかないことは全て日本のせいにされる。当事者の責任がどこにもない。○○大の伝道が昨年ふるわなかったのは、Fのときにメンバーが中心者と一体になっていなかったからだと言われた。各人に霊界と一体化することが求められた。個人の努力に霊界が応えてくれない。これは霊界が晴れていないからだとも。」(p.350)

 この部分に対しては、櫻井氏がさらに詳しく、統一原理の論理的欠陥といったような主旨で説明を加えている。少し長くなるが、その部分を引用してみよう。
「原理研究会では、霊界が働くとFの実績が出るといわれる。霊界は一方的に働く。霊界が働くような行いをすることがよいことだとされる。実績が上がったのは霊界が働いたからだ。しかし、実績が上がらないのでは霊界のせいだということにはならず、本人の責任にされる。つまり、手柄は霊界に、責任は本人にという論理である。

 これは矛盾している。霊界の方が現実界に優先しているのであれば、なぜ本人の小さな努力を超えるような強大な霊界の力が誰に対しても同じように働かないのかとDは考えた。おそらく統一教会の論理では、現実界で信仰の条件を立てなければ霊界は動きたくとも動けない、神も先祖もあなたに条件を積ませるために苦難の道に耐えるあなたの姿を見ながら泣いているのだというだろう。ほとんどの信者はこれに納得して、神や先祖の悲しみを知るためにFをやるようになる。Fを一生懸命やっていれば、霊界が働き、実績が出るようになることを実感することこそ信仰なのだという言葉を信じて。」(p.352-3)
「結局のところ、統一教会の論理は循環論法であり、疑問には答えきれていない。霊界の働きには信者の信仰が、神や文鮮明の御旨が成功するためには信者の蕩減条件が十分でなければならないという命題を立てているにもかかわらず、成功のための必要十分条件は明示されない。常に後知恵として失敗を説明するときにのみ、不十分さが問題にされる。成功したとしても手柄は神と真の父母の偉大さに帰されるだけだ。信者側の信仰や努力はいくら積み上げられても、文鮮明の事業計画が失敗に終われば吹き飛んでしまい、マイナスの段階からさらなる積み上げを要求される。」(p.353)

 ここでDや櫻井氏が主張している統一教会の論理の欠陥は、要するに「反証可能性がない」ということだ。この反証可能性という言葉はカール・ポパーが提示したもので、科学と非科学を区別する際の基準として語られることが多い。反証可能性とは、ある仮説が実験や観察によって、反証される可能性があるかどうかである。ポパーは、反証する方法がない仮説は、科学ではないとしている。一般に占いや宗教的言説は科学的でないとされるが、それはある命題に対してどんな結果が出たとしても、外れたとか間違っていたという結論が出ないような構造になっているからである。具体的な例で説明しよう。

 例①:ある占い師が、「あなたの今日の運勢は東の方面で最高で、きっと良いことがありますよ」とAさんに言った。それを信じて東方面に行ったAさんの身には特別なことは何も起こらなかった。帰ってきて占い師に「あなたの占いは外れた。なにも良いことなどなかった」と文句を言った。しかし占い師は、「何もなかったことが良かったのです。もし西の方面に行っていたら大きな災難に遭うはずでした。その災難を避けることができたということが、最高に良かったことなので、私の占いは当たったのです。」と答えた。こう答えれば、占いは外れる可能性はないので、反証可能性がない。当たったのか外れたのかを観察によって判断する客観的な基準がないので、占いは科学的ではない。

 例②:ある自称超能力者が、透視能力の検査を受ける際に、「私の能力を疑う者がいると、うまく能力が働かない」と言った。検査の結果は、彼の透視能力を否定するものであったが、彼は「私は実際に超能力を持っているが、それは信じる心を持った人にしか現れない。私の能力を疑う心をもって検査が行われたので、それが妨げとなって能力が発揮できなかったのだ」と言った。検査の結果が否定的でも、彼の超能力を否定できない論理構造になっているので、彼の主張は反証不可能であり、科学的でない。

 例③:ある宗教指導者が、「迫りくる神の怒りのゆえに、20XX年X月X日に人類を滅亡させる大惨事が起きる。信徒たちはこの世との交わりを避け、世界の終末を防ぐために祈らなければならない。」と予言した。しかし、その日が来ても何も特別なことは起こらなかった。その宗教指導者は信徒たちに、「あなたがたの熱心な祈りにより、神は怒りをしずめられ、人類の滅亡は回避されたのだ」と説明した。これも予言が当たったか外れたかを客観的に判断する基準がないので、このような宗教的言説は科学的ではない。逆のパターンでは、「祈れば願いが叶えられる」と教えられて熱心に祈ったが、願いはかなわなかった。それに対して「祈りが足りなかったから、願いが叶えられなかったのだ」と理由を説明された、ということもあり得る。つまり、どちらに転んでも最初の命題が間違っていることが証明される可能性がない場合には、反証可能性がなく、科学的言説とは言えないのである。

 宗教は科学ではないので、宗教的言説にはこのように反証可能性がないものが多い。統一教会において語られる教えや、指導者たちによるその解釈も、基本的には宗教的言説であるため、科学のように実験や観察によって客観的に正誤が判断できるような性質の命題ではないのである。統一教会の事業が成功すれば、それは「神が共にあるから」「霊界が働いたから」「真の父母様の勝利圏によって」という説明がなされ、逆に失敗すれば「サタンが妨害した」「蕩減が重い」「人間の責任分担の失敗によるものだ」などの説明がなされ、どちらの結果が出ても宗教的言説そのものの正しさが否定されることはないような論理構造になっているのである。このことは、アイリーン・バーカー博士も以下のように述べている。
「『統一教会の成功は、神がわれわれの側におられることを証明している』とか、『統一教会が直面している後退は、神がわれわれの側におられることを証明している。なぜなら、サタンがわれわれに激しく反対しているからである』といったような発言を、社会科学者が裁定することはできない。なぜなら、そうした発言を反証する方法が存在しないからである」(アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』第一章「接近と情報収集」より)。

 しかし、こうした反証不可能性は統一教会の教えに限ったことではなく、多くの宗教の教えに当てはまるものである。キリスト教における神の天地創造、人間の堕落、キリストの十字架による罪の贖罪、ヒンドゥー教における輪廻転生、仏教における因果応報、そして多くの新宗教が説く先祖の因縁や死後の世界などの教えは、実験や観察によってその正誤が客観的に判断できるような性質の命題ではない。だからこそ、それらは科学的言説ではなく宗教的言説であると分類されるのである。しかしこれは、科学的で反証可能な言説にしか価値がないということではなく、人間社会には宗教以外にも正誤を客観的に判断できない価値観、習慣、伝統、イデオロギー、信念、主義主張といったものがあふれておあり、たとえ科学的にその正しさが証明されなかったとしても、一定の役割を果たしているのである。すべてのことに科学性を求めるのは逆にナンセンスである。

 一般に、「あきらめなければ夢は叶う」と信じることは良いことだとされる。しかし、どこまで頑張り続ければ夢が叶うのかを客観的に判断する必要十分条件があらかじめ分かっていることは、実際の人生においてはむしろ少ない。「精一杯努力したのに、夢は叶わなかった」と言う人に、「あなたが途中であきらめたから叶わなかったのだ。もっと頑張っていれば夢は実現した」と言えば、そうした可能性はゼロではないので、これは反証不可能な命題となる。そもそも人は、「あきらめなければ夢は叶う」という信念に対して、科学的であることを求めてはいない。それは生きるための指針であり、信念であり、その正しさは自分の生き方そのものの中で証明されると理解されているのである。それは科学的であるとか、反証可能であるとか、客観的であるとかいうことを超えた次元にある命題なのである。

 元信者Dや櫻井氏は、宗教的言説である統一教会の教えに対して、科学的な反証可能性を要求することによって、その価値を否定していることになる。要するに彼らはカテゴリーを誤っているのである。それでは、統一教会の信者たちはいわゆる「原理の正しさ」というものを、どのようにして判断しているのであろうか。それは自分の実存をかけた神や原理との出会いである。神が存在することや、原理が真理であるということを、自分自身の人生体験として正しいと感じたかどうかである。この点に関してアイリーン・バーカー博士は以下のように述べている。
「しかし、『原理講論』がもっているその真理性のさらなる証明が一つある。それが『作用する』という主張だ。統一神学は、それが経験的に現れると信者たちが信じているという点において、実用的な神学である。それを信じ、それに従うことによって生じる目に見える結果のゆえに、それは真理に違いないと理解するのである。ある程度までそのような証明は、その形態はどうであれ、裏付けになり得る。もしその運動が成功しつつあれば、これは、その運動が神の望まれることを行っているがゆえに、神は彼らの側におられるということを示している。もし、その運動が激しい敵意と反対に直面しているのであれば、これは、その運動が神の望まれることを行っているがゆえに、サタンが懸念しているということを示しているのである。もちろん、歴史上には、自らの位置を裏付けるためにそのような論理を用いた多くの宗教が存在してきた。しかし、神の真理とこの世に起こっていることとの関係を認めるいかなる『実践神学』もまた、その反証になると思われる証拠を人々が見いだすであろうというリスクを負っている。多くのムーニーたちが彼らの周囲で起こっているあらゆることを解釈することによって、自らの信仰を強くしてきたということには疑いの余地がない一方、その実践的な神学は運動にとって両刃の剣であることを証明してきた。そのメンバーの多くは、原理が『作用する』ということを信じなくなったか、あるいはそれが作用する方法をもはや歓迎しなくなったがゆえに、脱会した。」(アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』第三章「 統一教会の信条」より)。

 つまるところ、統一原理によって自分自身の人生や、自分の身の周りで起こっている様々な現象がうまく説明できると感じているときには人は信仰を保っているのであり、逆にそれらをうまく説明できると感じられなくなってしまったときに、人は信仰を失うのである。そもそも宗教的信仰とはそのようなものだ。Dの場合には、統一原理によって自分自身の人生や身の周りの出来事がうまく説明できるとは最後まで確信することができず、世界観の受け入れ方としては中途半端なままであった。信仰に対するあこがれや兄弟姉妹に対する愛着ははあったものの、彼が本当の信仰を獲得することは最後までなかったのかもしれない。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ19


 先回まで共産主義者たちによる韓国独立運動の歴史を述べてきました。李東輝、呂運亨、朴憲永などのリーダーがいましたが、彼らの運動は日本の当局による激しい取り締まりと、内部抗争により、韓国の国内でも、ソ連でも、中国でも衰退してしまい、民族の独立のために力を発揮することはありませんでした。実は共産主義者の中で結果的に最後まで生き残ったのが金日成だったということになるのですが、彼の話に入る前に、東満におけるパルチザンについて少し説明をします。

 韓国人の共産主義者が中共党に吸収されることになり、中共磐石県委に加入すると、その勢力は一挙に強化されました。この合流を組織指導したのは、中共党中央から派遣された韓国人党員である呉成崙(오성륜)という人です。この中共磐石県委の主力は韓国人であり、党幹部には呉成崙らの韓国人がいました。この人の別名は「全光」と言って、もともと金日成の上官だった人です。この呉成崙は、初めは義烈団に属しており、上海で田中義一狙撃事件の犯人の1人となり、捕まったのですが脱獄します。後にソ連を訪れて、共産党に入党して各地で活動し、東北抗日聯軍の軍需処長を務め、若き日の金日成の上官だったということが歴史的事実として分かっています。しかし、北朝鮮の歴史ではこうしたことは一切触れられません。なぜかと言えば、「偉大な首領様」が誰かの部下だったということが、あり得ないことであり、許されないことだからです。北朝鮮では、金日成主席は若い頃から独立したトップリーダーだったことになっています。

 東満におけるパルチザンの背景として、反満抗日運動と「共匪」について説明します。1932年に満州国の建国が宣言されますと、「反満抗日」の旗を掲げた武装集団が全満に荒れ狂いました。これは主に中国人による反乱ですね。その数は20万人とも36万人とも算定されました。日満側(日本の支配下にある満州国の当局のこと)はこれらの団体を押しなべて「匪賊(ひぞく)」と総称しました。匪賊とは通常、「集団をなして、掠奪・暴行などを行う賊徒」を指す言葉です。その中でも共産主義を信奉する思想的な匪賊は共産主義の匪賊という意味で「共匪(きょうひ)」と略称されました。

 この「共匪」という言葉は、当初は朝鮮共産党の各派に属する赤衛隊、突撃隊、遊撃隊などを指していましたが、韓人共産主義者が中国共産党に吸収されて、前記の部隊が「東北人民革命軍」に編入され、ついで「東北抗日連合軍」に編入されてからは、これらの部隊が「共匪」と呼ばれ、討伐の対象となりました。

 それではこの「東北人民革命軍」とはどんな組織だったのでしょうか? これはあくまでも中国共産党の党軍であり、韓国の独立を志向した武装集団ではありませんでした。軍の行動綱領には「中華祖国の擁護」とか「失地東北の回復」という言葉はありましたが、韓国に関するものは一字も入っていませんでした。しかしその骨幹は韓国人であり、特に第1~第4軍、および第7軍の兵員はほとんど韓国人でした。ただし、その組織の頂点の地位は中国人が握っていました。その活動の実態は、日満との戦いよりも、生存のための略奪に明け暮れるというものでした。これは正式な国家の軍隊ではないので、自分たちで物資の調達をしなければならなかったのです。日満側は治安のために「共匪」の討伐に当たり、東北人民革命軍と治安部隊との間に死闘が演ぜられたということです。

 このように、東満におけるパルチザン部隊と日本の治安部隊が激しく闘争している状況下で、日本側の資料の中に、金日成(キム・イルソン)という名前が登場しはじめるのが1935年末ごろのことです。国内では早くからキム・イルソンという韓国語読みで、日本の官憲の間ではキン・ニッセイとかキン・イッセイという日本語読みで、神出鬼没ぶりを知られた人物がいました。その人物の漢字名が、「金日成」として日本側資料に現れたのが1935年末だったということです。東北人民革命軍の第2・第5混成部隊組織票の中に政治委員と100名ほどの部隊の責任者として、「金日成」の名前が出てくるのです。北朝鮮の金日成は1912年生まれなので、1935年には23歳になっています。これは遊撃隊の隊長ぐらいになっていてもおかしくはない年齢です。

 この「東北人民革命軍」は、「東北抗日聯軍」に発展していきます。これは、満州に展開した中国共産党指導下の抗日パルチザン組織のことです。パルチザンとは非正規の軍事活動を行なう遊撃隊のことで、ゲリラの類義語です。それまで満州で活動していた共産党系の朝鮮人・中国人のパルチザン部隊「東北人民革命軍」が門戸を広げ、右派抗日武装団も受け入れて、1936年から再編成されていきました。「右派」も受け入れたということですから、その中には民族主義者も入っていたということです。中国共産党が国民政府に「第二次国共合作」を呼びかけた結果、共産主義者と民族主義者が一緒になって日本と戦うようになったのですが、実権は共産党が握っていました。ですから、名前は「抗日聯軍」であっても、実質は共産党軍でした。その抗日聯軍の骨幹を形成していた幹部のほとんどは韓国人でした。しかし、抗日聯軍の組織条例は中国共産党の目的そのものであり、韓国の解放とか光復については一言も触れていません。これは、屈辱的な条件で中国共産党の下に入りながらも、心の中では韓国独立を目指していた韓国人がたくさんいたことを意味しています。

 このころに、「金日成師長」が日本側の資料の中に登場します。1936年ごろから、東北抗日聯軍の第二軍では、「金日成部隊」と呼ばれる100人ほどの部隊を基幹として、第三師を編成していました。そこに「金日成師長」という名前が登場するのです。これは日本軍が敵の情報を調べて作成した、日本側の資料が残っているという意味です。第一軍と第二軍が統合されて第一路軍が編成され、金日成は第六師長となったと記録されています。この「第六師長・金日成」が、日本側の記録では初出となります。西間島の北部で、金日成が率いた部隊がすばしこいゲリラ活動を展開したという記録が残っています。その目標の選定と戦闘ぶりが非常に積極的で、金日成の名は日満軍の注目を集めると同時に、韓国内の新聞でも報道されました。韓国人はキム・イルソン将軍の健在を知って喜んだと言われています。

 もともと、「伝説の金日成将軍」というのは、このときよりもはるか前、1919年から20年ごろに活躍したという伝説があったのですが、それが1936年になっても、「ああ、まだあの金日成将軍が生きて闘争を継続しているのだ」と、多くの韓国人が信じたのだということです。しかし、その「初代・金日成」は、このときにはとっくに死んでいた可能性が高いのです。

 こうした中で、「普天堡(보천보)事件」が1937年に起こります。1937年6月4日午後10時頃、満州国境沿いの咸鏡南道「普天堡」を、金日成が率いたとされる共産主義者武装集団が襲撃した事件を、「普天堡事件」と言います。この武装集団は、駐在所を襲撃して銃器と弾薬を奪い、他に試験場、営林署、森林保護区、消防署を襲撃しました。これは日本側にとっては青天の霹靂でした。この襲撃隊はビラを撒いて撤退しました。そのビラには襲撃目的が書いてあったのですが、「日帝を追出して独立し、二千三百万民衆のための大衆政府を樹てるため」と説明しており、末尾に「東北抗日連軍第六師北朝鮮遠征隊金日成」の名が書いてありました。すなわち、ビラに「金日成」という名前が書いてあったので、これを日本側が資料として押収して記録に残しているということです。

 普天堡事件の翌日の6月5日、日本の警察が追撃を開始したところ、金日成部隊は引き返し交戦に至り、警官隊は死者7名・負傷者14名を出しました。これらの事件により、金日成の名が朝鮮領内で報道され、日本側官憲もこの事件を重要視して賞金が賭けられたたことから、金日成の名は知られるようになりました。

普天堡の金日成像

普天堡戦闘の歴史的な勝利を記念して普天堡に建てられた金日成大元帥の銅像

 さて、この「普天堡」という場所は、現在は北朝鮮にあります。現在、北朝鮮では将軍様が最初に偉大な功績を残したところだということで、聖跡として国立公園に指定され、巨大な金日成の銅像が立っています。

カテゴリー: 韓国の独立運動と再臨摂理

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』116


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第116回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 元統一教会信者の信仰史の具体的な事例の分析の中で、第113回から「三 学生信者 学生と統一教会」に入ったが、先回に引き続いて、元信者D(男性)の事例を分析する。Dは原理研究会の学生信者だったが、「初期から中期はホーム生活がとりあえず楽しかった。」(p.347)と述べている。もう一人の学生信者C(男性)は原理研究会での生活について、「楽しくて楽しくてしょうがないって感じ。」「原理研究会の熱さは自分に合っていた。」(p.341)というように、まるで青春ドラマの一コマのような描写をしている。そして櫻井氏自身も、「これが統一教会における信仰生活の一側面を示していることは事実である。楽しくなければ続けられない。」(p.342)と認めている。合理的で批判的な性格の持ち主であるDにとっても、心許せる同世代の仲間たちとの共同生活は楽しかったようだ。

 もともとDは原理研究会の勧誘方法に対しては懐疑的で、常に予防線を張っていたし、リーダーの言うことを額面通りに信じたり実践したりすることもできなかったのであるが、それでも原理研究会に入った理由は、単純に同世代の仲間たちといることが楽しかったし、「リーダーは信じられなくても仲間たちは純粋な人間で信じられる」と感じていたからではないだろうか。アイリーン・バーカー博士は人がムーニーになる動機として、①統一原理の神学に魅力を感じた者と、②共同体の人間関係の中に愛情を感じた者とがいると大別しているが、Dの場合には原理に対して多くの疑問を持っていたことから、後者の動機に近かったのではないかと推察できる。

 ところがDのホーム生活は「後半になると辛くなった」という。彼の信仰生活は少し特殊であった。「アパートでごろごろして、夜10時頃に学舎に帰った。アパートは原理研究会に入ってからも引き払わないでいた。それを学舎長に咎められたがつっぱねていた。自分の戻るところを確保しておきたいという気持ちもあったのだろう。」(p.348)と述べている。筆者の場合には、原理研究会のホームに入寮すると同時にアパートを引き払った。その行動には、自分の戻るところを確保しておかず、退路を断ってこの道を行くという決意も込められていた。その意味で、Dは本当の意味で信仰の道を行く決断はできておらず、どこかに逃げ道を残しておきたいという中途半端な状態であったことが分かる。

 学舎長に注意されても態度を変えなかったというから、学舎の中で彼は「問題児」として認識されていたのではないかと推察される。実際、こうした問題児はいつの時代にも、どこの学舎にもいたのであろうが、だからといって彼らを見捨てるのではなく、成長するまで暖かく見守りながら導くというのが基本的なリーダーの態度であった。これもまた一つの原理研究会の「リアル」であり、メンバーは誰もが判で押したような従順で画一的な行動をとるわけではない。人それぞれ個性があるのであるから、リーダーはそれに合わせて個別の対応をする必要があるのである。実際に「マインド・コントロール」というようなことが可能であったら、統一教会のリーダーはどれほど楽か分からない。しかしそれができないからこそ、リーダーの人間としての成長があるのだ。

 Dは「自分にとってFはきつかったし、伝道実績もたいしてなかったので、プレッシャーは相当あった。」(p.348)と言っているので、少なくとも模範的なメンバーではなく、彼が存在することで組織が利益を得るようなメンバーではなかった。彼が「初期から中期はホーム生活がとりあえず楽しかった」と述べているのは、まだ幼い頃には一方的に愛されることが許されるからであり、それがある程度の期間を過ぎると今度は後輩が入ってくるなどの変化が起こり、組織に対して何らかの貢献をしない限りはいづらくなってきたために、「辛くなった」ということなのであろう。よくあるケースである。

 それでもDがなぜ原理研究会に残っていたのかは、彼自身の言葉を引用するだけでは第三者には理解し難いであろう。「ただ、それはやめるきっかけにはならなかったし、やめるという選択肢がなかった。ここにいるためにはどうしたらよいのかと常に頭をひねっていた。これは霊界の祟りを恐れたためではないし、氏族メシヤといった使命感のためでもない。なぜ、やめるということを思いつかなかったのか、いまだにわからない。最後の頃には学舎から出てしまえば立ち直れるかなと漠然と思っていた程度だった。」(p.348)

 Dの記述は、元信者Aの氏族メシヤという「使命感」や、元信者Bの辞めたら何か悪いことが起きるのではないかという「恐怖」とも異なる動機によって、彼が組織に所属していたことを物語っている。これは地区教会と原理研究会の違いというよりも、Dという人間の個性なのであろう。Dにとっては使命感も恐怖も心には響かず、それが信仰の動機となることはなかった。それでは何が動機になったのかという点に関しては、実はD自身もよく理解していなかったことが彼の記述からはうかがえるのである。

 そもそも、辛かったし相当なプレッシャーを感じていたにもかかわらず、「ここにいるためにはどうしたらよいのかと常に頭をひねっていた」というのは矛盾である。それは辛いとう感情と同時に、「ここいたい。離れたくない」という感情が彼の中に存在していたことを意味している。原理に対してもリーダーに対しても批判や反発をしていたDが愛着を持っていたものは何だったのだろうか。それは学舎にいた兄弟姉妹たちへの愛着であり、彼らの純粋な生き方に対する憧れのようなものであったはずだ。Dは本心では他の兄弟姉妹たちのように純粋な信仰を持って生きることに憧れていた。しかし、その一方でそうはなりきれない批判的で分析的な自分自身がいて、それを否定することもできない。そうした自己矛盾の中で苦しみ続けたのが彼の原理研究会での生活だったのではないだろうか。「なぜ、やめるということを思いつかなかったのか、いまだにわからない。」というのは、本心ではやめたくないと思っていたからにほかならない。

 純粋な信仰者にはなれないが、それでも原理研究会を離れることができない彼は、さまざまな原理的な屁理屈を駆使して自己正当化しながら、組織に居座るようになった。「学舎での生活も自分の行動に原理的なこじつけができるよういなってから楽になった。伝道の実績が上がらないことに対して、Fも勝利してないのに、伝道できるわけがないと弁明した。自分は10分程度しか祈禱をしなかったが、長い人は40分も祈る。祈禱が短いと批判されたときには、聖書に短く祈れと書いてあるではないかと逃げた。断食をしないのかと尋ねられたときには、断食しているか、していないのかをなぜ見せつけようとするのかと逆に質問した。信仰は人に見せつけるものではないだろうとも。」(p.348)

 彼はなかなかの屁理屈の名人である。純粋な兄弟姉妹はこう言われれば反論できなかっただろうし、学舎長でさえ彼の説得には手を焼いただろうと思われる。しかし、辛ければやめてしまえばよいものを、彼がここまで屁理屈をこねながら自分を正当化した理由は、少しでも心を楽にして原理研究会に留まりたかったからなのである。この辺の心理は、信仰を持ったことがない者には分からないかもしれないが、彼は心の奥底では何かを信じていたのであり、兄弟姉妹と一緒にいたかったのであり、できれば彼らと同じように純粋に信じられればいいと思っていたのである。しかし、実際にはそれができないので、周りに壁を作り、悪ぶって反抗しながらも、愛されることを期待していたのである。

 彼は自分自身が熱心な信仰者として燃えているわけではないにもかかわらず、「最近は原理研究会のメンバーが多様になり、みな、あまり燃えていないという印象がある。同じ統率を加えても、対応は人様々だ。無理が来ている。メンバーがこの活動にのめり込もうとしない。燃える派と燃えない派が対立し、熱くない人が多い。これは今の学生のタイプかも知れない」(p.348)などと評論家のような立場で語っている。彼自身が燃えていないにもかかわらず、燃えているメンバーが原理研究会の理想であると言っているのである。

 さらにDは、ヤコブや祝福二世がカープに入って来ることによって、たたきあげの信仰を持った原理研究会のメンバーとの間で価値観の齟齬が生じ、それが問題になっていることなども語っている。彼は自分のことは棚に上げて、いまの原理研究会は問題が多いと評論をしているのである。

 こうしたDの態度を見れば、彼に本当に信仰があったのかどうかは疑わしい。この団体には何かあるということを漠然と信じていて、信仰に対する憧れはあったかもしれないが、自分の心でしっかりとみ言葉と向き合ったのかと言えば、どこか逃げていたし、どこか斜めから見ていたところがあったと言えるであろう。こうした彼自身の課題を克服してみ言葉と真剣に向きわない限りは、原理研究会に残っていても彼の精神的な成長はなく、いつかは離脱する運命にあったのかもしれない。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ18


 先回は韓国独立運動の共産主義者たちの経歴を詳しく述べたので、時間が1945年まで進んでしまいましたが、ここで少し時間を戻して、高麗共産党の内部分裂について話します。高麗共産党は1921年にレーニンから支援を受けた李東輝によって創党されました。
 韓国の民族主義の独立運動も分裂し闘争していたんですが、同じように、共産主義の独立運動の中にもいろんな派閥があり、内部分裂して闘争していました。大きく二つに分ければ、「上海派」と「イルクーツク派」に分かれます。

韓国の独立運動と再臨摂理PPT18-1

 上海派のリーダーが李東輝です。イルクーツク派のリーダーが呂運亨と朴憲永ということになります。上海派はどちらかというと、共産主義でありながら民族解放が第一の課題であるという、民族主義に近い立場であったのに対して、イルクーツク派は完全にソ連の手先と言いますか、社会主義革命を優先させるという考え方をしていましたので、お互いに次のような非難をし始めるわけです。

 イルクーツク派は上海派に対して、「民族資本主義的な機会主義グループである! 彼らの運動は、世界平和のための共産主義の大義に基づくものではなく、ロシアの援助を得る手段として共産主義の仮面を被っているだけだ。偽者だ!」と非難します。

 一方で上海派はイルクーツク派に対して、「彼らは共産主義運動の正統にはずれた反党グループに他ならぬ。コミンテルンの承認と資金援助を受けているわれわれこそ真の共産主義政党である!」と主張し、お互いに正統性を主張して闘うことになります。

 この二つの派閥があったので、大同団結するために行われたのが1921年の高麗共産党大会です。これはコミンテルン極東書記部のタルピロという人が開催を指示したのですが、彼には極東における共産主義運動を調整する任務があったため、両派の統一を図るために、1921年3月に高麗共産党大会を開くように指令しました。コミンテルンにとって最も大事なことは、ソ連に忠節を尽くすことを本分とした党を育成することであり、民族的色彩を帯びたと噂された上海派に韓人共産主義者を牛耳られることは、ソ連にとって好ましくないことでした。ソ連の国益を優先させるこの考え方により、高麗共産党大会の主導権争いは、イルクーツク派の勝利に終わり、主導権を握ったイルクーツク派は、共産党特有の粛清を定石通り敢行しました。

 このように上海派とイルクーツク派の抗争はイルクーツク派の完勝に終わり、イルクーツク派を中心とする高麗共産党が誕生しました。こうして一度はソ連の完全指揮下にある高麗共産党ができたのですが、やがて時流が変わり、生みの親であり育ての親でもあるソ連共産党から、高麗共産党が裏切られることになってしまいます。1925年1月に、日本がソ連邦を承認して国交が樹立すると、ソ連は日本との間に結んだ条約に基づいて韓国人の独立運動を禁じ、韓国人の共産主義者はすべて各県の高麗部所属となりました。つまり、韓国人の党は完全に解体されたわけです。それはソ連の国益のためでした。

 この時点でソ連は日本と一度国交を結ぶわけですが、日本政府から韓国の独立運動をなんとかしてくれと頼まれて、自分達が育てた韓国人の独立運動家を見捨てて、それをつぶしてしまおうとしたわけです。これに憤慨した李東輝は、スーチャン近くの寒村に遁世して再び世に出なかったと言われております。彼は10年後の1935年1月に死んだということですから、非常に淋しい最後だったと言えます。

 ここで韓国国内の共産主義者の動きについてもおさえておきましょう。上海派とイルクーツク派のほかに、ソウル派という国内の共産党が生まれました。1921年1月末、「ソウル青年会」という共産主義運動が旗揚げをしましたが、これは韓国の国内に自然発生した共産党です。これは李東輝(上海派)の援助を受けていました。これに対抗して、イルクーツク派は「火曜会」を立ち上げます。これはレーニンの誕生日が火曜日だったことに因んだ名前です。火曜会は、いわばイルクーツク派の国内支部であり、幹部は金在鳳、朴憲永らが務めていました。

 一方で東京の留学生は、これらと全く無関係に運動を開始し、帰国するとソウルに「北風会」を結成して活動を開始しました。これによって、「木曜会」(イルクーツク派)、「ソウル派」(上海派)、「北風会」(東京留学生)の三派が鼎立するようになりました。このように、共産主義者たちも一体化できずに派閥争いをしていたのです。

 この三派が合同して結成されたのが、1925年4月18日に結成された「朝鮮共産党」(第一次党)でした。しかし、結党後わずか半年で「治安維持法」によって壊滅的な検挙を受けることとなります。以後、分裂と闘争を繰り返しながら、第四次党まで自壊と検挙を繰り返し、次第に朝鮮共産党は衰退していくわけです。このように内部闘争に明け暮れている韓国人の共産党を見て、コミンテルンは愛想を尽かしてしまいます。1928年12月にコミンテルンは「12月テーゼ」と呼ばれるものを出し、「朝鮮共産党は分派闘争に没頭し、実際闘争をしない」という理由のもとに、その承認を取り消してしまったのです。ということは、共産主義の総本山であるコミンテルンの支援を失い、国際的な援助を受けることができなくなってしまったということです。

 その後も、共産主義運動は細々と続くわけですが、その一つが「コム・グループ(Communist Group)」です。1939年に出獄した朴憲永は、コム・グループの指導者となりました。これはソウルに潜んでいた超派的な組織で、朝鮮総督府のあらゆる局に同志を送り、電気、通信、放送機関に潜入し、地下に潜む党員の大部分を組織しました。さらに全国の主要都市に支部を設けました。党再建の最後の努力となったコム・グループは、太平洋戦争の勃発まで生き延びて、インテリ学生層に浸透していたと言われています。

 派の統合に成功した朴憲永は、「赤い星」と呼ばれていました。しかし1941年12月までに大多数の国内共産主義者が検挙され、朴憲永は逃れて光州の煉瓦工場に身を潜めるようになりました。そして、太平洋戦争がはじまり、コム・グループが壊滅した後は、共産主義運動は衰退の一途をたどったのです。この時期の国内共産主義者は、獄中に呻吟するか、転向するか、転向を装うか、地下に逼塞(ひっそく)するか、満州に逃亡するか、延安に行くか、ほそぼそとサークル活動を続けるかのいずれかで、ほとんど息の根を止められていました。非常に厳しい日本の弾圧によって、韓国国内の共産主義運動は追い詰められていったわけです。

 それでは共産主義運動が残ったのはどこだったかと言えば、中国でした。1928年に第四次党が崩壊した後には、海外における朝鮮人の共産主義運動は上海、延安、満州で個々別々に展開されることになりました。それでは上海派がどうなったかと言えば、結局は四分五裂して延安に逃れ、活動を休止してしまいました。延安派は「朝鮮義勇軍」と呼ばれていましたが、少人数で武装し、終戦後に北朝鮮に入って要職に登用されるようになりました。

 一方で満州の運動は、内部抗争を繰り返した後、組織を解体して中国共産党に合流するようになりました。これは韓国人の組織を解体し、中共党の審査を受けて個人的に入党できるということですから、韓民族のアイデンティティーを完全に否定して中国共産党に屈服するという屈辱的手続でありました。しかし、彼らはそれにも甘んじて従い、中国共産党に入党したのです。彼らは中国共産党の支配下で、いつの日か祖国を解放することを誓って忍耐していたということになります。この人たちが、「パルチザン闘争」を行っていきます。その中の一人が金日成だったわけです。

 さて、これらの共産主義運動は、民族の解放のために何か成し遂げたといえるのでしょうか。結果的に、韓国人の共産主義運動は国内でも、ソ連でも、中国でも崩壊し、独立のために力を発揮することはありませんでした。

カテゴリー: 韓国の独立運動と再臨摂理

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』115


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第115回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 元統一教会信者の信仰史の具体的な事例の分析の中で、第113回から「三 学生信者 学生と統一教会」に入ったが、先回の元信者C(男性)の事例に続いて、今回から元信者D(男性)の事例を分析する。Dは1999年6月から2000年8月まで北日本にある総合大学の原理研究会で活動したという。私から見ればかなりの後輩にあたる。彼のインタビューの特徴は、単に自身の入信から脱会までの経緯を事実に基づいて話しているだけでなく、原理研究会の勧誘テクニックや、原理研究会と地区教会の違い、学生新聞会の舞台裏、自分自身が原理や組織に対して感じていた矛盾や疑問など、持ち前の分析力を働かせて、主観的な世界についても雄弁に語っている点である。

 Dの思考は批判的・分析的であり、これは頭の良い男子学生にはよくあるパターンである。私も学生時代には同じような思考をしていたために、ある意味で親近感がわく性格である。彼はいわゆる「マインド・コントロール」されている人間とは程遠く、現役の信者だった頃から自分なりに批判的に考える能力を持っていたことが、インタビューから明らかになってくる。櫻井氏自身が「これだけよくわかっていて、統一教会に疑問を持ちならやめずに四年も続けていたのはなぜだろうと脱会カウンセラーでなくとも考えてしまう。」(p.352)と表現しているほどに、彼は“批判的な思考能力を奪われ、画一的な思考しかできない”という一般的な統一教会信者のイメージとは程遠い人物なのである。櫻井氏は、おそらくこれは原理研究会の知的な学生に固有の性格なのであると言いたいのであろう。しかし、実際には彼のような信仰上の疑問を持った人は統一教会の中に多数いると思われ、またそれが原因で教会を離れる者も多数いると思われる。その意味で、彼は特別な存在ではなく、程度の差こそあれ統一教会信者の中に一定の割合で存在するタイプなのである。彼がこうした批判的な思考をしながら4年間も原理研究会にいたということは、批判的で合理的な思考と、それを超越した信仰とが、一人の人間の心の中に共存しえることを示している。そしてそれこそが、統一教会信者の「リアル」なのである。「マインド・コントロール」された統一教会信者というステレオタイプを打破する意味も込めて、彼の批判的な思考を紹介してみたい。

 Dは1996年に自分がカープに勧誘されたときの様子を簡単に描写した後で、「勧誘される側の自分」から「勧誘する側の自分」へと視点を変え、「手付け金をその場でもらうことが重要だ」「男子学生は女子学生からの働き掛けに弱い」(p.344)といった勧誘テクニックの解説を入れ、同時に中心(学舎長)のやり方に対して自分が疑問を感じていたことにまで言及している。彼はこの「勧誘」という場面を中心として、①勧誘される受講者、②勧誘する霊の親、③それを指導するリーダー、という三つの視点からそのプロセスを分析し、三者の間にある意識や認識の違いにまで言及している。つまり、彼は一つの視点からしか物事を見られないのではなく、複数の視点から立体的に事態を分析する能力を持っているのである。

 Dは原理研究会のシックスデーズセミナーに参加したとき、レクリエーションで班長から川に飛び込むよう誘われたが、その場の雰囲気に溶け込めなかったので、飛びこまずにそのまま見ていたという。彼は進行役のスタッフから、「なんで飛びこまなかったの? 自分の枠を超えることも大事だよ」と言われた。Dはこの出来事に関して、「周到に準備されていたように思われる。川の中に入るというのが原理研究会に入るという象徴的な行為のように思われ、ノリでそこまで行かせるのがねらいと思われる。」という冷めた分析をしている。一般的に「マインド・コントロール」とは、本人に自分がコントロールされていることを気付かせることなく、強力な影響力を発揮して個人の信念を変革させてしまうことであると説明される。その定義に基けば、Dはコントロールしようとする側の意図を見抜き、それに抵抗しているという点において、「マインド・コントロール」された状態にはなく、それを回避しようという主体的な意思を発揮していることになる。彼は「マインド・コントロール」の手口を見抜き、それには引っかからなかった。にもかかわらず、彼は原理研究会に入会を決意したのである。これはDが原理研究会の勧誘テクニックに対しては批判的な姿勢を貫きながらも、何か別の理由で信仰を受け入れたのだということを物語っている。

 櫻井氏は「第6章 統一教会信者の入信・回心・脱会」において、統一教会信者が勧誘されるときの状況を、睡眠不足や緊張感や疲労と闘いつつ、朦朧とした意識の中で決断を迫られるものであると描写した。Dはそれを裏打ちするかのように、「この説得はOKと言わない限り、明け方まで説得が続き、よほど体力があるか、気力のある人間でない限り、眠気と朦朧とした意識の中でOKしてしまう」(p.345)と述べている。しかしその直後に、「しかし、ここでOKしたもの達でも、実際に夏の新人研に参加するかどうかはそのときになってみないとわからない。統一教会が嫌だ、ついて行けないと脱落するものも多い」とも書いている。彼は自分が勧誘される側の立場だったときの描写としては、眠気と朦朧とした意識の中でOKしてしまったという自覚があったのであろう。しかし、勧誘する側に回って同じことをしてみた場合には、それが必ずしも有効であるとは限らないという体験をするのである。Dは自分の体験と他者の体験を相対的に比較し、同じ状況下に置かれたとしても、人は必ずしも同じ反応をするものではないことを冷静に観察している。要するに、眠気や根負けで一時的に説得を受け入れたとしても、それが永続的な回心であるとは限らず、最終的にはその人自身の心が決めることだと彼は知っていたのである。

 Dはまた、原理研究会の学生たちが休み期間中に行っていたF(fundraisingの略。資金稼ぎ)についても語っている。「自分は疲れて休むことが多かった。」「自分はFに熱心ではなく、一、二万円分を売って、後は公園で寝たりしていた。売れないと電話で報告する際に班長に叱られ、歌いながら売ってみろとか言われたこともあったが、やらなかった。」(p.346)などと自分の歩みを振り返っている。彼はもともと合理的で批判的な性格の持ち主だったため、おそらくリーダーの言うことを額面通りに信じたり実践したりするのが苦手だったのであろう。このような内的な葛藤を抱えていたり、命令に従わずに活動をサボったりする信者も統一教会には一定数いるのであり、誰もがアベルに言われたことを純粋に信じて歩んでいるわけではない。それでも彼は信仰を持っていた。こうした現役信者が存在するということは、統一教会の信者の実像が、通常考えられているような「マインド・コントロールされた状態」とは程遠いことを示している。

 Dは原理研究会のメンバーが特別なエリート意識を受け付けられていたことを以下のように証言している。「原理研究会は地区教会とは関係なく、日曜礼拝は原理研究会だけだ。『原理研究会はエリートであり、世界のことを考え世界を救うためにやる。地区教会は、先祖のため、家族のためにやっている人が多い。レベルが違う」と教えられた。原理研究会出身者と地区教会出身者では意識と体力・気力が違うという自負があり、Fをやるにしても実績の水準が違う。」(p.347)

 おそらく原理研究会のリーダーたちが学生たちに対してエリート意識を植え付けて信仰を鼓舞したというのは事実であろう。私の時代にも同じようなものの言い方はされていた。しかし、自分の所属する部署や組織が特別な使命を持っているという意識(うちの部署こそが神の摂理の中心であるという意識)は、おそらくどの部署にもあったのであり、原理研究会に固有のものではないだろう。それはメンバーを激励し、やる気を促進するという効果がある一方で、「井の中の蛙」的な発想でもある。私も原理研究会出身者なので同じような傾向があったと思うが、ひとたびそこを出てしまえば、それは全体の中のほんの一部に過ぎず、規模からすればかなり小さな組織であったことに気付いた。

 原理研究会の出身者が、地区教会の出身者と比較して意識や体力・気力において優れているとか、信仰姿勢においてより高度で高邁であるなどということは、おそらく客観的には言えないであろう。ただ一つ、客観的に言えることがあるとすれば、より知的に優れた集団であるということだ。原理研究会のメンバーは、旧帝大を含む国立大学の学生や、有名私立大学の学生によって構成されているのだから、国民の平均値よりもかなり知的水準が高く、それは統一教会内においても同じであろう。もともと社会のエリートになるような大学生を伝道しているのが原理研究会であり、就職した後の男性を伝道するのが難しいという日本の社会状況もあいまって、統一教会の幹部候補生を輩出してきたのが原理研究会であるとも言えるのである。ただし、それは「原石」や「可能性」としての話であって、原理研究会の出身者が本当に統一教会のリーダーになれるかどうかは、その人の実力次第であったと言える。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』