書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』136


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第136回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 先回から「六 統一教会の教化方法の特徴」に入った。この節の主たる目的について櫻井氏は、「統一教会のマインド・コントロールとして論議されてきた勧誘・教化の技法や心理状態を宗教社会学的観点からどのように解釈できるかを考察してみたい」(p.393)と述べている。櫻井氏はいわゆる洗脳論者やマインド・コントロール論者ではない。これらはどちらかと言えば心理学的なアプローチだが、自分は社会学者なので宗教社会学的なアプローチから人が統一教会に入教するプロセスを分析しようというわけだ。

 櫻井氏は、「統一教会の宣教方法において問題となるのは、心理的なプレッシャー以上に一連のセミナーやイベント、信者同士の交流によって、徐々に信者達の人生観・世界観に関わる認識の枠組みが転換されたという事実である」(p.394)と述べている。ここでは「心理的なプレッシャー」がいわゆる洗脳論やマインドコントロール論において主張されているものであると思われ、勧誘者が被勧誘者に一方的に心理的圧力を加えて、個人の世界観を短期間で変容させてしまうというモデルである。櫻井氏は統一教会の元信者たちに対するインタビューを行った結果、それが事実ではないと判断するに至った。実際には人生観が転換されるプロセスは徐々に漸次的に起きているのであり、それも「騙す・騙される」「加害者・被害者」という単純な図式で起きるのではなく、信徒同士の交流という社会的なダイナミズムの中で起こるものである、という知見を述べていると思われる。これ自体は、事実と乖離している分析であるとは思われない。

 実は櫻井氏自身が「この事態は、統一教会に限らず、他の宗教団体においても見られることだ」(p.394)と告白しているように、セミナーやイベントや信者同士の交流によって人生観や世界観が変わることこそ、まさに人が伝道されるということなのである。したがって、伝道のあり方自体は統一教会においても他の宗教団体においても本質的な差異があるわけではない。このことは、統一教会が「洗脳」や「マインド・コントロール」と呼ばれる何か特殊なテクニックを用いて伝道しているという従来の指摘が誤りであることを櫻井氏が認めたということになり、その点においては評価したい。

 自らの専門領域を「社会心理学」と分類する西田公昭氏(立正大学教授)は、「カルト」と呼ばれる新宗教に人が伝道されていく過程を「永続的マインド・コントロール」と名付けてそのメカニズムをモデル化した。それはビリーフ・システムと呼ばれる意思決定の装置を入れ換えることによって、人を永続的にコントロールする技術であるという。その詳細をここで解説することは避けるが(西田公昭著『マインド・コントロールとは何か』(紀伊國屋書店 1995)を参照のこと)、それは基本的にある人が新宗教に出合い、その教えに共鳴して、教団の中で徐々に自分のアイデンティティーを確立していく過程を、悪意をもって表現したものに過ぎない。

 彼はAさんがもっていた独自のビリーフが、X組織との接触を通して、徐々にX組織のビリーフと入れ替わっていく様子をモデル化して説明しているが、これはウィリアム・ジェイムズ(米国の哲学者、心理学者:1842-1910)による回心の描写に酷似している。ジェイムズは回心の経過を「今までは、当人の意識の外囲にあった宗教的なものが、いまや中心的地位を占め、宗教的目標が当人の精神的なエネルギーの中心として習慣的にはたらくようになる」(小口偉一 堀一郎監修『宗教学辞典』東京大学出版会 1973年 p.84)と説明している。たとえこれが伝道者の働き掛けによって引き起こされたとしても、それはどこの宗教においても日常的に起こっていることであり、あえて「永続的マインド・コントロール」などという仰々しい名前を付ける理由はどこにもない。

 このように、統一教会の伝道方法そのものは他の宗教団体と本質的に変わらないものであることを認めた櫻井氏は、問題点をどこにシフトさせるのかと言えば、「どのような宗教行為をなすように信者達の認知枠組みが転換されたかということである。客観的には青年信者であっても数百万円、壮婦であれば資産に応じて1000万円から数億円の献金を要請されるままに出し続け、それ以外の選択肢がないような精神状態に追い詰められていた」(p.394)ことにあるという。要するに統一教会は献金が高すぎるからダメだという、かなりありきたりの主張なのだが、彼の主張の問題点は「それ以外の選択の余地がないような精神状態に追い詰められていた」という分析がはたして正しいかどうかである。

 櫻井氏はあたかも高額の献金が悪であるかのように決めつけ、それを実現するためには教団の要請に抗うことができないような精神状態に信徒を追い込まなければならないと前提している。しかし、こうした前提が正しいことを彼は証明していない。まず、高額の献金を自らの意思で感謝して行う信徒がいる可能性を、櫻井氏は初めから排除している。私は既に元信者Iの事例の分析において、統一教会の信者が高額献金をする動機を以下の三つの観点から分析した。

 まず、最新の幸福度研究によれば、ある一定の収入や財産の基準を越えれば、その人の幸福度がそれ以上に上昇することはなくなるという。したがって、その人の基本的な生活に支障をきたさない限りは、献金によって財産が減ったとしても感情的幸福度が下がることはなく、むしろ信仰を持つことにって、より高次の欲求である愛情・所属欲求、尊厳欲求、自己実現欲求を満たすことで、感情的幸福度が上昇することがあり得るのである。したがって、高額の献金をするのは精神的に追い詰められていたからではなく、こうした喜びを動機とした合理的な判断である可能性があるのである。

 次に、宗教の役割は目に見えて他人と比較できるような「地位財」に対する執着を捨てさせ、目に見えないより本質的な「非地位財」によって得られる幸福に焦点を当てさせることによって、人間に永続的な幸福をもたらすものであると言える。統一教会の信者が高額の献金をするのは、み言葉を通してより本質的で永続的な価値観に目覚めたため、地位財に対する執着を捨てたからであり、これも幸福学の立場からすれば一つの合理的な判断と言える。一般に宗教的信仰を持つことはその人の幸福度を高めることに役立つが、これは統一教会においても同じであり、信者たちはその対価として献金をしているのである。

 最後に、アイリーン・バーカーの研究によれば、そもそも統一教会に入会するような人は、奉仕、義務、責任に対する強い意識を持ちながらも、貢献したいという欲望のはけ口を見つけられない人であるという。青年信者の場合には、自分自身の人生そのものを捧げ、禁欲生活を送り、一切の所有物を持たずに、朝から晩まで献身的に活動に没頭することによって、その欲求を満たすことができる。しかしIのような壮婦は、それと同じ生活をすることができないので、欲求不満に陥るのである。内心では自分自身の全生活を捧げて、神のために献身的に働きたいにもかかわらず、事情によってそれができないIは、できるだけ多くの財産を神に捧げることによって貢献したいと思ったのである。そして献金をする度に霊の親、カウンセラー、そして責任者から褒められることにより、自分自身の価値を感じ、喜びを感じていたのである。

 したがって、いかに高額な献金であったとしても、それを主体的な意思で感謝して捧げ、それによって幸福を感じることは現実としてあり得るのであり、その可能性を最初から排除する櫻井氏の議論は、極めて一方的な決めつけであると言わざるを得ない。

 ではその逆に、自分が教団に所属しているからという理由で、なかば義務的に嫌々ながら献金するケースはないのであろうか? 習慣的に教団に所属してはいるものの、信仰が低下し、感謝の気持ちが薄れた場合には、そうした心理状態になる人は一定の割合でいると思われる。そのような感謝できない状態で献金を勧められたときに、献金をするかしないかの決断は、その人自身の主体的判断によるものか、それとも教会の強制によるものか、その責任はどちらにあるのかという問題が発生するかもしれない。実はこの問題に対する回答は、櫻井氏自身が書いた論文「オウム真理教現象の記述をめぐる一考察ーマインド・コントロール言説の批判的検討ー」(『現代社会学研究』1996年9 北海道社会学会)の中で与えられている。
「信仰者は、教団へ入信する、活動をはじめる、継続する、それらのいずれの段階においても、認知的不協和を生じた段階で、自己の信念で行動するか、教団に従うかの決断をしている。閉鎖的な、あるいは権威主義的な教団の場合、自己の解釈は全てエゴイズムとして見なされ、自我をとるか、教団(救済)をとるかの二者択一が迫られることがある。自我を守るか、自我を超えたものをとるかの内面的葛藤の結果、いかなる決断をしたにせよ、その帰結は選択したものの責任として引き受けなければならない」(p.94~95)

 入信するプロセスにおいても、入信した後の信仰生活においても、その人の自我が完全になくなることはあり得ないし、自由意思が機能しなくなるということもない。したがって、外的な強制力やあからさまな強迫によるものでない限りは、信仰に基づいて献金した責任はその人自身にあると言えるだろう。それを「それ以外の選択の余地がないような精神状態に追い詰められていた」などと教団に責任転嫁する櫻井氏は、自らが1996年に書いた論文をもう一度読んでみるべきではないだろうか?

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ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳57


第6章 祝福:聖別期間と同居生活(13)

7.「結婚後の別居」は、繁殖のためだけのセックスを奨励することはさておき、夫と妻の間の個人的な交流の機会を制限するように機能している。ダースト博士が彼の結婚を「ハリウッド・ロマンス」になぞらえることができた主な理由は、彼とダースト夫人が一緒にいる時間がそれほど少なかったからである。統一教会の信者たちはいまは彼らの結婚が「幸福」だと語ることはできるし、実際に将来もそうであり続けるかもしれない。しかし、統一運動の結婚の本当の「厳密な審査」は、カップルが「定着」して日常生活の中でお互いに顔を突き合わせなければらなくなったときに訪れるであろう。(注88)しかしながら当分の間は、別居がもたらす必然的な結果として、夫婦の役割は、統一運動のより大きな関心事に役立つ世界の救世者の役割に従属することになるであろう。

 メンバーの献身とグループの結束を強化する働きをするこれらの力に加えて、求心的な傾向に背き、統一運動の結婚に対するアプローチに将来悲惨な結末をもたらすこともあり得る三つの現象も存在している。私は以下の三つに言及する。(1)マッチングを受けたカップルの間の葛藤に関連した問題、(2)理想の結婚(夫と妻の一体化)と運動の千年王国主義的な志向性(夫と妻の別居)の間の矛盾、(3)東洋とアメリカのリーダーシップの間の極めて本質的な隔たり。
1.婚約したカップルは、マッチングを無効にするためには運動を離れる以外に道がないと思い込むよう導かれてきた。彼らがカップルとして直面している問題に関わらず、彼らが共に暮らすことに対する強力なグループの圧力が存在し、これらの圧力は文師の優れた能力と聖酒式の神学的な意味によって是認されている。マッチングを受けるメンバーの数が増え、配偶者の選択を文師に完全に委ねることがより強く奨励されるようになるに伴い、婚約したカップルは相性の合わない相手を受け入れるか、運動を完全に離れてしまうかの二者択一により一層直面するようになることが予想される。マッチングを受けた者たちの個人的なニ-ズを考慮し、マッチングを受けたカップルに婚約を解消する真の自由(単に理論的なものではない)を与える手段が開発されない限り、おそらく「約婚・聖別期間」中の離教はより一般的なものになるであろう。
2.夫と妻の一体化という理想と「結婚後の別居」の間の矛盾は、祝福家庭が近い将来に定着しない限り、統一運動から大量の離脱者が出るだろうという状況になっている。既にこの一年間で、二組の非常に活動的なアメリカ人のカップルが、統一運動は組織的に核家族の統合性を弱体化させているという理由でグループを離れることを選択した。一方でいまだグループに留まっている多くのカップルは、近い将来に「結婚後の別居」が終わることに対する強い願望を表明している。文師はこうした状況に対して敏感であり、カップルの「定着」を約束したが、若干の形ばかりの努力を除いて、その種のプログラムはなにも実行されていない。
3.最後に、過去5年間を通じて権力を相当強めてきた特定の東洋人とアメリカのメンバーの間には隔たりがある。この行き詰まりの結果は運動の多くのレベルにおいて見られるが、それは性と結婚の問題になると特に顕著であった。これら日本人と韓国人のリーダーたちが夫婦間の性交は繁殖のためにだけあると信じているのは、彼らが伝統的なアメリカの結婚を低く見ていることの一つの表れに過ぎない。アメリカ人のリーダーたちは一般的にこの問題に直接的に対峙しようとしないが、その理由はグループの結束を思ってのことだったり、自分の地位や立場を失うかもしれないという恐れであったりする。そのカリスマによってこれらの相反する力をまとめている文師がいなければ、今日の統一運動には疑いなく大きな分裂があったことであろう。

 結論として、統一運動の婚約と結婚に対するアプローチはグループの結束と献身を強化するような形で機能していることが議論されてきた。「約婚・聖別期間」「結婚後の別居」「東洋との繋がり」において、潜在的に破壊的な現象が兆候として現れているが、これらはまだ大きな困難を作り出してはいない。

(注88)統一教会の信者は、世俗の世界の離婚率が33%であるのと比較して、彼らのグループでは1-2%であることに誇りを持っている。しかしながら、社会学的にはこの種の比較はまったく妥当ではない。カップルが離婚するのは、彼らが結婚したからではなく、夫と妻の継続的関係の中で生じた葛藤によるものであることは自明である。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』135


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第135回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 元統一教会信者の信仰史の具体的な事例分析の部分を終えて、今回から「六 統一教会の教化方法の特徴」に入る。これは第7章の中で記述してきた元信者のライフストーリーのデータをもとに、櫻井氏なりの総合的分析を試みた節であると言える。と同時に、本書において櫻井氏が執筆する前半部分の最後にあたるので、まとめ的な意味を持っている。

 櫻井氏はこの節の冒頭で、「全員が規格化された統一教会の勧誘・教化コースを通過して信者になったことがわかる。信仰の持ち方は、個々人の状況に応じて若干の相違点はあるが、伝道やマイクロ、献金の儀礼や決断といった局面において信仰を深めてきた過程は共通しており、特に家族との葛藤(元々葛藤があるのではなく、活動により発生・深刻化させられる)が信仰のバネとなるというカルト教団特有の特徴を示していることにも注意したい。」(p.393)と述べている。この櫻井氏の分析が正しいかどうかを評価することから始めよう。

 まず、統一教会の信者となった者が規格化された勧誘・教化コースを通過しているという指摘であるが、これは統一教会に限らずどの宗教でも当たり前のことであるし、とりたてて問題視されるべきことではない。宗教の教理について全く学ぶことなく信者になるということはあり得ないので、入信の過程において求道者はある程度規格化された研修課程を通過するのが普通だからである。キリスト教ではこれを「カテケージス(catechesis)」と言い、日本語では「入門教育」や「要理教育」と訳される。伝統的には、こうした教育は洗礼や堅信礼といったサクラメントの前に行われることが多く、その際に用いられるキリスト教の教理をわかりやすく説明した要約ないし解説のことを「カテキズム (Catechism)」と言う。このカテケージスに当たるものが統一教会の「修練会」であり、カテキズム (Catechism)」に当たるものが原理講義であると言っていいだろう。こうした入門講座はキリスト教のみならず、伝統仏教にも新宗教にも存在し、それは子供向けや大人向けといったバリエーションはあるものの、基本的にはその宗教の教えに基いて規格化された教育である。

 櫻井氏は、これらのインタビューを受けた者たちが伝道された過程に一定の共通性があることから、それこそが彼らが伝道された主たる原因であると言いたいようだ。しかし、この分析の視野が極めて狭いことは、アイリーン・バーカー博士の研究と比較してみたときに明らかになる。バーカー博士は、「人はなぜムーニーになるのか?」という問いを立て、それを決定する変数として、①個人の持っている素養や特性、②周りの社会、③統一教会の選択肢が持つ魅力、④修練会の環境、という4つの変数を提示した。いわゆる洗脳論は、①や②や③の要素に関わりなく、どのような人でも④だけの要素で強制的に入信させられてしまうというものだが、実際に参与観察してみれば、そのような事例は一つも存在しないということを根拠に、バーカー博士は洗脳論を却下している。それでは①から④のどれが入教を決定するのかを探求した結果、バーカー博士はこれら4つの要素が総合的にバランスよく働いた結果として人はムーニーになるのであり、その中のどれか一つが欠けてもムーニーになる確率は著しく低くなるという結論を出している。

 櫻井氏は、統一教会信者の信仰史を分析する際に、入信過程における統一教会の勧誘・教化の方法にばかり着目して、それがもっぱら入信に決定的な役割を果たしたのであると短絡的に結論しているが、実際にはそのような勧誘・教化のプロセスを通過したとしても信者にならない者は多数いるのであり、むしろ信者になる人の方が少数派であるという事実をすっぽりと見落としている。それは彼が結果的に信者となり、さらに脱会した者に対するインタビューしか行っていないからであり、信者にならなかった人々がその勧誘・教化にどのように反応したのかを全く知らないために、あたかもそれが抗し難いほどの威力を持っているかのように過大評価してしまっているのである。櫻井氏自身は洗脳論やマインドコントロール理論の信奉者ではないが、結論的にはそれと大差ない主張になってしまっているのはこのためである。

 実際には、統一教会の勧誘・教化が説得力を有するのは、ごく一部の人に対してのみである。それはバーカー博士が指摘するように、①もともとその個人が宗教的な内容に反応する素養を持っており、②自分のまわりの社会や人間関係に何らかの不満や不適合を感じており、③統一教会にその人を引き付ける魅力があり、④修練会という環境の中でそれを受け入れるようになった、という4つの要素がかみ合わない限りは人は伝道されないのである。そしてその4つがかみ合って入教する割合は、バーカー博士の分析では多く見積もっても10%程度であり、一度伝道されても時間の経過とともにその割合はさらに減っていくというのである。

 同じ「人はなぜ統一教会の信者になるのか」について分析していても、バーカー博士と櫻井氏の視野の広さには雲泥の差があり、櫻井氏は全体像のごく一部分しか見えていないことが分かるであろう。それは、研究対象との向き合い方が全く異なっているのと、それに起因して資料の入手方法が全く異なっているからである。この研究のスタンスと資料の偏りこそが櫻井氏の研究の致命的な欠陥であると言える。

 また櫻井氏は、「伝道やマイクロ、献金の儀礼や決断といった局面において信仰を深めてきた過程は共通」しているというが、こうした一般化に当てはまらない事例が存在していることも指摘しておきたい。まずCとDは大学生であったため、そもそも高額の献金を行っておらず、そのことを決断するための儀礼にも参加していない。彼らは金銭的には失うもののない者たちだったのであり、その代わりに自分たちの青春時代と体力を投入した者たちであった。一方で、壮婦であったHとIは熱心に献金は行ったが、マイクロには乗っていない。このように、伝道されたときの立場によって入信過程には個人差があり、櫻井氏が強調するほど規格化されているものではないのである。

 さらに、家族との葛藤が信仰のバネとなるという現象はカルト教団に特有のものであり、しかもそれは元々葛藤があるのではなく、活動により発生・深刻化させられるのであるという彼の主張も誤りを含んでいる。彼は「カルト」の信仰は異常で家族関係を破壊する有害なものだと言いたいようだが、子供が宗教に入ったことに親が反対したり、妻が信仰を持ったことに夫が反対するというのは、新宗教においては良くあるケースであり、その際に家族の反対を受けることで余計に信仰が強化されるというのも珍しい話ではない。既に多くの事例を挙げて説明してきたとおり、迫害を信仰の糧とする伝統は多くの宗教に見られ、それは家族からの迫害であっても同様である。

 そのことを抑えた上で、個々の事例について指摘すれば、元信者Fの母親は現在も壮婦の信者であり、彼女は母親の強い勧めによって統一教会に入信したのであるから、F自身は信仰のことで家族から反対されたことはなく、櫻井氏の主張はまったく当てはまらない。彼女が経験した「家族との葛藤」は、むしろ祝福を受けて訪韓した後に、夫の親族との間に生じたものであった。そしてこの葛藤は信仰のバネになるどころか、結果的には離婚と棄教という、信仰を破壊する方向に作用したのである。

 わざわざ櫻井氏が「家族との葛藤が信仰のバネに」というサブタイトルをつけている壮婦のケースにおいて、元信者Hの事例はもともと夫との関係に葛藤を抱えていたケースであった。実は櫻井氏自身がそのことをほのめかしている。「Hは入信前に夫との関係に悩んでいた。家庭内暴力に近いものがあった。こうした状況でHが積極的に問題の打開策を求めていったともいえるし、統一教会の伝道者がつけ込んだともいえる。」(p.375)という記述がそれだ。

 櫻井氏は家族側の立場に立って記述しているので「家庭内暴力に近いもの」という曖昧な表現をしているが、実際には家庭内暴力そのものがあったのであろう。要するにHが統一教会に救いを求めなければならない状況に追い込んだのは、夫自身であったということだ。だとすれば、「元々葛藤があるのではなく、活動により発生・深刻化させられる」(p.393)という櫻井氏の主張も、Hには当てはまらないことになる。

 同じく壮婦の元信者Iの事例においても、夫は既に亡くなっていたため、家族と言えは子供たちだったのだか、「子供達は母親の統一教会における活動を当初は世間一般の宗教と同様に考え、母親の気晴らしになるのであればと気楽に捉えていた」(p.391)とあるので、家族との葛藤が信仰のバネになったとは到底思えない。彼女は家族の反対によって信仰を強化するどころか、息子たちとの話し合いによって比較的あっさりと信仰を棄ててしまったのであり、信仰を巡って子供たちと激しく闘った様子は見られない。

 総じて、櫻井氏の分析は個別の事例が持つ多様性を無視した無理な一般化が多い。偏ったサンプルにもかかわらず彼の一般化が当てはまらない例外が多いのであるから、もしこれをより広く公正なサンプルに照合した場合には、彼の一般化はほとんど現実を反映しない思い込みであることが明らかになるであろう。

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ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳56


第6章 祝福:聖別期間と同居生活(12)

 姦淫は、滅多に起こることではないが、結婚を終わらせるための二つしかない理由のうちの一つを構成するという点において、統一運動における離婚と密接にかかわっている。もう一つの理由は「放棄」であり、自分の配偶者および自分の宗教から離れることである。常にではないにせよ、放棄はしばしば姦淫と関連しており、それが起きたときには、運動は結婚を解消して残された配偶者が再婚することを厭わない。しかしながら、統一運動においては「申し立てに応じて」の離婚はあり得ない。67名の統一神学校の学生たちに対して将来の希望について聞き取り調査を行った結果に基づき、ブロムリー、シュウプ、オリバーは以下のように書いている:
「もちろんそれを評価するのは難しいが、教会と家庭生活の緊密な統合を前提とすれば、おそらく離婚率は低くとどまっていることであろう。どちらか一方の関係を断つ決定は、もう一方に対して深い意味合いを持つであろう。実際、私たちのデータはメンバーたちは自分たちの結婚が教会の中で支援されるのを期待していることを示唆している。ほぼすべての回答者が、彼らが夫婦間の問題を経験した際には、教会内の他の既婚カップルか教会のリーダーに頼るであろうと示唆した。疑いなくそのようなカップルには、婚姻関係にとどまったままで問題を解決するよう相当な圧力があることだろう。」(注85)

 証拠がさらに示しているのは、メンバーはより大きな世界の中に説得力のある別の構造を持ちえないという状況に直面しているために、彼らは配偶者と運動のもとを去りそうもないということである。ある人が人間存在の事実上あらゆる側面を包含する共同体に数年間を完全投入し、その中で結婚と家庭を確立した場合には、その人はおそらく離れないであろう。世俗世界において離婚を経験した人は、激しい疎外感を知っている。配偶者と運動を放棄した統一教会の信者は、連れ合いと子供を残して去るだけでなく、職業、友人、信仰をも放棄して、概して未知で恐ろしい世俗社会と直面するのである。

 統一運動における結婚に関する最後の問題は、配偶者の片方が死亡した場合、特に彼または彼女が比較的若く、カップルに子供がいないか、非常に少ない数の子供しかいない場合に何がなされるかということである。この状況がどのように扱われるかに関する唯一のヒントは、文師の説教の一つに見出すことができるが、その中で彼は寡婦や寡夫は非常に寂しいという観察をした上で、「・・・そして原理的な世界においては、私たちは清められた血統の下で、できるだけ多くの子供たちを産みたいと願うことでしょう。」(注86)と語っている。そこで文は、配偶者がそれぞれ若い夫あるいは妻に対して、再婚して多くの子供を持つ自由を与える旨の遺言を残す「条件的慣習」と呼ぶものを打ち立てたのである。この子供たちがどの血統に属するのかという聖書的課題は明確にされていないが、この「条件的慣習」(注87)は、文の子孫に対する関心を反映していると共に、たとえわずか数名の寡婦や寡夫の存在であっても、グループの団結を破壊しかねないことに彼が気づいていることをも示している。

 これまでの記述は、世界の救済・復帰を原動力とする宗教共同体において婚約と結婚がどのように機能するかを説明している。我々は、この千年王国説的な指向性が婚約・結婚の構造、婚約・結婚したメンバーの役割と価値観、および配偶者間の人間関係を形成してきたことを見てきた。現時点では、統一運動における婚約と結婚がメンバーの献身とグループの結束に圧倒的に貢献しているかどうかについては、多少の疑いはあり得る。要約的な形で、データに内在している求心的な方向で機能している力を列挙してみよう。
1.共同体による神を中心とする犠牲の強調は、運動の全生活に浸透しており、結婚観にも組み込まれている。それは最初に「約婚・聖別期間」に、続いて「結婚後の別居」において、そして最終的には夫婦関係に組み込まれている。公的な祝福式の最後に行われる「神の勝利」を表す万歳は、世界の救済者としての結婚の機能をドラマティックに象徴している。そのような無我を是認する正当化は、メンバーの結婚する前の経験の上に築かれていおり、グループの思想と一貫性を持っている。
2.婚約したカップルの相互関係は彼らのそれぞれの役割を示唆しており、彼らは運動の信仰が持つ指向性を彼らの発展途上の関係になんとか統合しようと努力し、それは徐々に宗教共同体の価値観と目標を反映するようになる。事実上、彼らは世界(共同体)の中の世界(対)を作るのである。
3.ほとんどの統一教会のカップルが「約婚・聖別期間」中に「恋に落ちる」という信仰は、二人の絆を結ぶプロセスにとって強力な推進力であり、マッチメイカーとしての文師の知恵を裏付けることに貢献している。
4.三日行事は、筆者の限られた情報を前提とすれば、夫婦間の性交を神聖化する機能を持っていると思われる。セックスは私的で個人主義的な関係というよりは、聖なる愛の最高の表現方法である。
5.夫婦間の意思決定のプロセスは、家族計画、職業の方向性、居住する場所などの重要な事柄の大部分を宗教共同体が決定するという事実によって単純化されている。そうした配置がなされることによって、統一教会の結婚における潜在的な葛藤の領域は少なくなる傾向にあり、またカップルはより大きなグループに対する依存を強めるようになると思われる。
6.避妊に対する統一運動のやや一貫した見解にもまた、祝福を受けたカップルと宗教共同体の絆を強化する効果がある。彼らの合一によって生まれてくる子供たちは「地に満ちる」(創世記1:28)ほどではないが、信者の数を増加させる効果はある。アメリカのメンバーは繁殖以外(例えば、愛、喜び、その他)の目的で性交をすることは可能であると主張するが、結婚後の別居によって、多くのカップルの親密な接触が非常にまれなものとなっており、もし彼らが子供が欲しいのであれば、彼らは妻が妊娠可能なときに性的接触をスケジュールせざるを得ないという状況が作られている。したがって、原則として夫婦間のセックスは本質的に善であるが、実際には夫婦間の性交の第一の目的は繁殖になっているようである。もし祝福家庭が結婚後の別居から解放された際には、おそらく彼らはより豊かで個人的に満足のいく性関係を築くことができるであろう。加えて、大家族を持つという習慣は、カップルが運動に経済的に依存する状況を維持する傾向があるだろう。

(注85)ブロムリー、シュウプ、オリバー『完璧な家族』p.126。
(注86)文鮮明「血統転換」、(『マスター・スピークス』 (MS-319、1973年1月19日)、p. 7。
(注87)そのようは発明は、原理講論および文の以前の教えでは扱われていない問題が共同体の中に出現していることと相関しているように思われる。ほとんどの新しい啓示と同様に、条件的慣習はある程度の変化に対する柔軟性をグループに許容する。「新しい状況は新しい義務を教える・・・」レオン・フェスティンガー、ヘンリー・W・リーケン、スタンレー・シャクター『予言がはずれるとき』(ニューヨーク:ハーパー&ロス、1956年)、特に25-32ページを参照のこと。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』134


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第134回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 元統一教会信者の信仰史の具体的な事例分析の中で、第125回から「五 壮婦(主婦)の信者 家族との葛藤が信仰のバネに」に入った。今回は元信者Iの事例の5回目である。前回は慶応義塾大学大学院教授の前野隆司氏の著書『幸せのメカニズム:実践・幸福学入門』(講談社現代新書、2013年)の中で紹介されている「幸せの因子」に基づき、信仰を持つことによってなぜ幸福感がアップするのかを解説した。その結果、統一教会における信仰のあり方が人の幸福感を増す多くの因子と関係していることが分かった。したがって、Iの信仰が彼女の幸福感を増大させていたのであり、それが彼女の信仰の動機となっていたという結論を導いた。

 しかし、これは宗教一般に広く当てはまることであり、統一教会固有の信仰の喜びに絞り込まれたものではないし、Iがなぜそれほど高額の献金をしたのかについては十分に説明しているとは言い難い。そこで今回は、統一教会信者が持つ固有の特徴について研究したアイリーン・バーカー博士の『ムーニーの成り立ち」に基づいて、さらなる分析を行うことにする。

 バーカー博士によると、ムーニーになりそうな人は以下のような特徴を持っていた:①「何か」を渇望する心の真空を経験している人、②理想主義的で、保護された家庭生活を享受した人、③奉仕、義務、責任に対する強い意識を持ちながらも、貢献する術を見つけられない人、④世界中のあらゆるものが正しく「あり得る」という信念を持ち続けている人、⑤宗教的問題を重要視しており、宗教的な回答を受け入れる姿勢のある人々。

 一方、以下のような特徴を持つ人はムーニーになりそうもないという:①宗教問題や社会問題に関心がない人、②神が存在するという考えを全面的に否定する人、③聖書が神の啓示であることを否定する人、④特定の信仰や世俗的なイデオロギーを堅く信奉している人、④すでに人生に明確な目的を持っている人、⑤物質的な成功を収めることに関心のある人、⑥自分自身の内的意識に集中するために世俗的な追求から身を引くことに関心のある人、⑦幸福な結婚をしているか、ボーイフレンドやガールフレンドとの安定した満足な関係がある人。

 バーカー博士は著書の中で、統一教会の信仰がムーニーたちに与える満足感について、以下のように説明している。
「それは日々の生活の中心に神が存在する宗教的共同体を提供する。神は、各個人が個人的な関係を持つことができる生きた存在である。それは各個人が愛なる神の慰めを感じることができる共同体であるだけでなく、各個人に神を慰める機会を与えている共同体でもある。それは会員たちに温かみや愛情を与えるだけでなく、他の人々のために愛し犠牲になるチャンスをも与える、愛と思いやりに満ちた環境を提供する。・・・

 統一教会は新会員候補に、世界の状態について心配し、高い道徳水準を受け入れてそれに従って生き、神の天国を地上に復帰することに献身している、同じ志を持ったファミリーの一員となるチャンスを提供する。それは「帰属」する機会を提供する。それは価値あることを『行う』機会を提供し、それによって価値ある『存在』となる機会を提供するのである。

 これは、『何か』に対するうずくような真空を経験している人々の一部にとっては、極めて興奮させる内容である。・・・奉仕、義務、責任に対する強い意識を持ちながらも、貢献したいという欲望のはけ口を見つけられない人々。世界中のあらゆるものが正しく『あり得る』という信念を、子供の頃に幻想を打ち砕かれてひねくれてしまった友達よりも長く持ち続け、彼らと共通点を見つけることが難しい人々。宗教的問題を重要視しており、宗教的な回答を受け入れる姿勢のある人々。」(アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』第10章 結論より)

 バーカー博士の研究したムーニーたちは主として青年であったので、壮婦であり未亡人であったIには直接当てはまらない属性もある。しかし、年齢や婚姻状態によって大きく変化する属性を除けば、Iもまた統一教会の信仰を受け入れる基本的な素養を備えていたと言ってよいであろう。

 バーカー博士の研究対象の中で、Iの立場に近いのが当時のイギリスではまだ初期の段階であった「ホームチャーチ会員」である。それに関する記述を拾ってみると:
「ホームチャーチ会員がいるということは、統一教会がフルタイムのムーニーの出身階級よりも、もっと幅広い顧客層にアピールできるということを示唆している。だがそれは、若い未婚のムーニーだけが捧げる覚悟ができている、絶対的献身と犠牲的なライフスタイルを要求しない限りにおいて成功しているのである。そうした生活はある面で『普通の』教会員というよりも、修道士、尼僧、あるいは神父に対して期待されるような献身の基準なのである。にもかかわらず、ホームチャーチ会員がしばしば与える印象は、自分たちは孤独で満足感の得られない生活を送ってきたし、おそらくいまなお送っているというものであった。彼らは関わりたいし、支援したくて仕方がないのである。実際、最もよく聞かれる不満の一つは、運動が自分たちを十分に用いてくれないということであった。」(アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』第9章 感受性より)

 これらの記述から、Iが高額の献金をした動機が浮かび上がってくる。もともと統一教会に入会するような人は、奉仕、義務、責任に対する強い意識を持ちながらも、貢献したいという欲望のはけ口を見つけられない人、理想主義的で世の中のあらゆるものが正しくあり得るという信念を持った人、高い道徳水準に従って生きる共同体への「帰属意識」を持ちたいと思っている人、価値あることを行い、それによって価値ある存在となることを願っているような人である。青年の場合には、自分自身の人生そのものを捧げ、禁欲生活を送り、一切の所有物を持たずに、朝から晩まで献身的に活動に没頭することによって、その欲求を満たすことができる。しかし、ホームチャーチのメンバーやIのような壮婦は、それと同じ生活をすることができないので、欲求不満に陥るのである。「関わりたいし、支援したくて仕方がない」のにもかかわらず、その道を与えてくれないとすれば、それは彼らの宗教的欲求に応えていないということだ。

 内心では自分自身の全生活を捧げて、神のために献身的に働きたいにもかかわらず、事情によってそれができない人がなし得る教会のための貢献とは何だろうか? それ以外のやり方で、自分が持っている物を捧げることである。Iの場合には多くの財産を持っていたので、自分がこの共同体のために、そして神の摂理のためになし得る貢献が何であろうかと真剣に考えたとき、それはできるだけ多くの財産を神に捧げることだという結論にならざるを得なかったと思われる。そして献金をする度に霊の親、カウンセラー、そして責任者から褒められることにより、それが喜びとなり、自分は価値あることを「行い」、それを通して価値ある「存在」となっているという実感を高めていったのである。

 櫻井氏はIが資産家であるがゆえに統一教会の若手女性信者による接遇を受けながら、ろくに伝道活動もせずにイベントに出かける程度の「微温的な状況」の中で信仰生活を送ってきたと批判的に記述しているが、信仰の表現の仕方は人それぞれであり、IはIなりに自分のできる精一杯の貢献をすることを通して宗教的欲求を充足させていたと言える。

 それではなぜ、Iは統一教会の信仰を棄てたのであろうか? それは一言でいえば、帰属すべき「共同体」の相克が生じたからである。Iは個人としては統一教会という信仰共同体に帰属していることに満足し、それに貢献することに喜びを感じ、教会の人間関係も良好で感謝の思いを持っていた。しかしIは教会に貢献したいと思うあまり、本人名義の預金以外に、子供や夫の兄弟の名義、あるいは積み立てや保険等の取り崩しを、子供たちや親族に内緒で行っていたのである。本人の動機としては子供たち、孫たちのためにと思ってやってきたことが、肝心の子供たちや孫たちから感謝されるどころか、逆に非難されるという現実に直面したとき、統一教会という信仰共同体と、子供や孫という血縁共同体のどちらを選ぶのかという二者択一を迫られたのである。Iが信仰を持つようになった元々の動機は子供や孫のためであったから、それらを切って捨てて信仰の道を選ぶことはIにはできなかった。結果として、信仰共同体よりも血縁共同体の方を選択したので、Iは信仰を棄てたのである。これは統一教会の教理が間違っているとかいないとか、統一教会の信仰の善悪や是非の問題というよりも、価値観の異なる二つの共同体のどちらに帰属するかに関する、個人の選択の問題であったと言えるだろう。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳55


第6章 祝福:聖別期間と同居生活(11)

 そして運動は母親が使命のために遠くに行っている子供たちに対しては無料の保育サービスを提供するのだが、これらのカップル(特に女性)が経験する精神的な苦悩は非常に耐え難いものである。

 犠牲が大きければ大きいほど、宗教共同体がそれを説明し、緩和させ、是認するための論理的根拠を提供する必要性が大きくなる、というのが基本原則であるようだ。統一運動においては、この必要性に応えるために6つの基本的な正当化が出現した。
1.最も重要な是認は、期待される通り、終末論的なものである。別居したカップルは自分たちのしていることを国家および世界の復帰のための犠牲であると見ている。彼らはまた、近い将来自分たちは家族たちと比較的普通の生活をすることができるであろうという望みを抱いて暮らしている。
2.文師によれば、別居しているカップルが現在はらっている犠牲は、近い将来神によってより多くの埋め合わせがなされるという。彼によれば、「たとえ皆さんがこの地上で二度と夫あるいは妻と一緒にいることがなかったとしても、皆さんの神への愛が強烈であれば、神は皆さんを永遠に一つに溶かすことでしょう。それは皆さんがこの地上で家族と一緒に普通の生活をした場合よりも、はるかにそうなのです。(注77)
3.別居している配偶者たちは、本当の親密さは本質的に霊的なものであるという信念によって慰められるているという。ある夫は以下のように言った:
「私はいつも彼女が一緒にいるかのように感じます。彼女が自分のすぐ傍らにいるようです。私たちが離れているときにいつも感じるのは、この霊的なリアリティーこそがまさに私たちの合一の基盤であるということです。(注78)
4.メンバーたちはまた、彼らの犠牲は運動のすべてのカップルが共有しているものだという考えによって慰められる。
「ですから、人々は常にその状況にあるのです。ある瞬間は彼らは犠牲を払い別居していますが、次の瞬間はそうではありません。誰か別の人がそうしているのです。ですから、・・・(彼の妻が)家を出ているとき、誰かが帰ってきて子供たちと住んでいるのです。そして次の瞬間には彼らが家を出て、・・・(彼の妻が)帰ってきて子供たちや家族と一緒に住むのです。」(注79)
 実際には、相当数の女性たちが別居を伴う「使命」を受け入れるのを断ったが、彼女たちの決定が与えた影響は、グループの持続的な共同体的理想を弱体化させるほどに強いものではなかった。(注80)
5.若干の既婚カップルは、より若い祝福家庭は将来そのような試練を経験しなくてもすむであろうから、彼らの犠牲は天国実現という観点から実り多いものであるという考えをもって、「結婚後の別居」を正当化した。
6.そして最後に、「結婚後の別居」のやや洗練されていてあまり一般的でない正当化はダースト教会長によって信者たちに示された。彼は重要なのはカップルが共に過ごした時間の長さではなくて、関係の質なのであると示唆した。
「私もまた約婚して祝福されましたが、私の人生がまるでハリウッド・ロマンスのようになったと感じました。私はシカゴの空港で妻に会い、「ハイ、元気かい? チューチューポウ」(訳者注:この意味不明な呪文のような言葉は、アイリーン・バーカー博士の『ムーニーの成り立ち』にも登場し、モーゼ・ダースト夫人が言い出したものだと説明されている。夫であるダースと博士との会話の中で、自然に使われていたと思われ、メンバーにも馴染みのある呪文であった可能性がある)と言って、いなくなるのです。私たちはパサディナで一晩会って、それで終わりです。神の御心のままの、一夜限りの関係です。それはエキサイティングでロマンティックです。世の中では不倫の愛でハイになろうとしますが、私たちは神の愛によってハイになるのです。それは私には想像もできなかった偉大なドラマです。一瞬だけ妻に会うというのは、最も貴重でエキサイティングなことです。皆さんはその瞬間を熱烈につかまえて深く抱きしめなければなりません。なぜなら、明日がどうなるかはまったく分からないからです。」(注81)

 統一運動の結婚は神に根差しており、したがって永遠である。不倫の愛が人間始祖の堕落の原因であるため、姦淫は最も重大な罪であり、本質的に悪であるとみなされる。それはまた、その結果という視点からも究極の悪であるとみなされている。信頼されていたリーダーの情事が明らかにされた直後の説教で、文師は以下のように宣言している:
「・・・姦淫は殺人よりも悪いのです。もし皆さんが人を殺したとすれば、一人を殺すだけです。しかしこのことを行えば、皆さんは子孫と血統を殺しているのです。・・・一つの罪の行為が、皆さんの先祖と、先祖の結実である皆さんの未来の後孫に影響を与えるのです。皆さんが自分の子供を持ったときには、それがどれだけ愛らしいかを知るでしょう。そしてそのとき、この種の行為は彼らに毒を与えるようなものなのです。皆さんはとても注意深くなければなりません。」(注82)

 文にとって、姦淫の主要な目に見える結果は離婚である。「彼ら(統一運動のカップルであると推察される)が離婚する理由は、ほとんど例外なく、通常は男女間の問題であり、愛の習慣なのです。」(注83)メンバーたちは一般的にこの罪の深刻さに関する師の見解を共有しているけれども、彼らは姦淫を犯した者がグループから破門されることはないだろうと主張する。(注84)

(注77)文鮮明「真の父母の日と私たちの家庭」『マスター・スピークス』(番号79-03-28, 1979年3月28日)、p.9。若干のメンバーは、もし世界宣教のために必要とあらば普通の結婚生活を全くしないことも覚悟していると言ったが、大多数は「結婚後の別居」が終わることを切望していた。
(注78)インタビュー:キーン氏
(注79)インタビュー:ショー夫妻
(注80)統一運動には、人が霊的に成熟に近づけば近づくほど、とりわけ祝福を受けて結婚した後には、彼もしくは彼女はより大きな個人的自由に対する権利を持つようになる、という旨の「口頭伝承」がある。おそらく、CARPに加わるようにという文師の呼びかけを拒否した女性たち(およびその夫たち)は、この自由を行使したのであろう。しかしながらそのような個人主義は、統一運動の結婚は(グループに奉仕することを通して)世界に奉仕するものだという考えに反するため、この自由を行使し続けることは、良心の呵責に対処するのが非常に困難であるに違いない。これらの既婚女性たちは、自分たちが払おうとしていない犠牲を他の「姉妹たち」が払っているのだ、ということを痛みをもって自覚していた。
(注81)モーゼ・ダースト博士「高貴な人生を生きる」p. 21。ロマンティックなレトリックはダーストにのみ典型的なものではなく、統一運動の共同体生活に広く浸透しているスピリットである。それは特に彼らの音楽に対するアプローチにおいて顕著である。
(注82)文鮮明「男と女の関係」p. 2。
(注83)前掲書
(注84)罪を犯した配偶者はおそらく自らグループを離れるであろうから、通常は破門または除名は考慮されることもないであろう、ということに留意すべきである。これは筆者の側の純粋な推論に過ぎないのだが、ある人が(運動を)離れるための反論の余地のない根拠を与える方法として、不倫をするかもしれないと考えることは合理的である。

カテゴリー: ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』133


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第133回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 元統一教会信者の信仰史の具体的な事例分析の中で、第125回から「五 壮婦(主婦)の信者 家族との葛藤が信仰のバネに」に入った。今回は元信者Iの事例の4回目である。前回からIが統一教会の信仰を持つに至った動機の部分に関する分析に入ったが、その際に参考にしたのが最新の幸福学の研究成果であった。慶応義塾大学大学院教授の前野隆司氏の著書『幸せのメカニズム:実践・幸福学入門』(講談社現代新書、2013年)は、幸福と相関関係にある様々な要素について分析を行っているが、前野氏によればアメリカでも日本でも一定の水準を超えると年収や財産と幸福感の間には相関関係がなくなるという。したがって資産家であったIは、財産によっては得られないより精神的な幸福感を求めて統一教会の信仰を持つようになったのであるという分析を行った。

 今回は前野氏の著作で紹介されている「幸せの因子」に基づき、信仰を持つことによってなぜ幸福感がアップするのかを解説することにする。前野氏の研究グループが日本人1500名に対してアンケート調査を行い、幸せの心的要因を因子分析した結果、以下のような4つの因子が浮かび上がってきた。要するにこうした特性を持っている人はより幸せになる傾向があるということだ。
第一因子「やってみよう!」因子(自己実現と成長の因子)
・コンピテンス(私は有能である)
・社会の要請(私は社会の要請に応えている)
・個人的成長(私のこれまでの人生は、変化、学習、成長に満ちていた)
・自己実現(今の自分は、「本当になりたかった自分」である)
第二因子「ありがとう!」因子(つながりと感謝の因子)
・人を喜ばせる(人の喜ぶ顔が見たい)
・愛情(私を大切に思ってくれる人たちがいる)
・感謝(私は、人生において感謝することがたくさんある)
・親切(私は日々の生活において、他者に親切にし、手助けしたいと思っている)
第三因子「なんとかなる!」因子(前向きと楽観の因子)
・楽観性(私はものごとが思い通りに行くと思う)
・気持ちの切り替え(私は学校や仕事での失敗や不安な感情をあまり引きずらない)
・積極的な他者関係(私は他者との近しい関係を維持することができる)
・自己受容(自分は人生で多くのことを達成してきた)
第四因子「あなたらしく!」因子(独立とマイペースの因子)
・社会的比較志向のなさ(私は自分のすることと他者がすることをあまり比較しない)
・制約の知覚のなさ(私に何ができて何ができないかは外部の制約のせいではない)
・自己概念の明確傾向(自分自身についての信念はあまり変化しない)
・最大効果の追求(テレビを見るときにはあまり頻繁にチャンネルを切り替えない)
(以上、前野隆司著『幸せのメカニズム:実践・幸福学入門』p.105-111)

 それでは、統一教会の信仰とこれらの因子がどのように関係しているのかを見てみよう。

1.自己実現と成長の因子
 統一教会の人間観は、「神の子女としての人間」が基本にあり、これは個人に対して肯定的なアイデンティティーを与える役割を果たしている。人生の意味が分からない、自分自身の存在に価値を感じられないといった悩みを抱えた人々に対して、「自分は神様の子供だったんだ」という回答を与えることは、その人の幸福度を上げるのに貢献する。

 さらに、「氏族のメシヤ」というアイデンティティーは、個人に対して一種の使命感を与え、自分は氏族を救うべき特別な存在であるという自覚を与える。これはその人のコンピテンスを上昇させると考えられる。

 統一教会を一つの社会ととらえたとき、信者はその中で使命や役割を与えられ、それに応えることによって自分自身の価値を感じることになる。献金を通して経済的に貢献したり、伝道して人を増やすことによって教会に貢献すれば、その人は教会から価値を認められ、讃美されることによって喜びを感じ、幸福感が増すのである。Iの信仰の動機においては、自分の財産を献金することによって教会に貢献し、そのことを感謝され讃美されることがIにとっての大きな喜びであったことが、重要な要素であった。前野氏は著作の中で、「お金を他人のために使ったほうが、自分のために使うよりも幸せ」という研究結果を報告している。(p.152)献金にはIの幸福度を増大させる効果があったのである。

 統一教会では人間には成長期間があり、個人は信仰生活を通して霊的に成長して行くと教えている。その究極的な目的は個性完成、人格完成であるが、日々の様々な経験を通して自分がどのように成長したかを常に内省するのが統一教会の信仰生活である。Iも霊の親やカウンセラーから見守られ、指導されるかなかで自分の成長を実感していたのである。

2.つながりと感謝の因子
 宗教ほど感謝することの大切さを説くものはない。自分は偉大な存在によって守られ、導かれながら生きていることに気付くことが信仰の出発点であり。そうした感覚を持たない人に比べ、信仰を持っている人は日常の様々な出来事に感謝する傾向が強い。これは統一教会においても同様であり、「感謝」を口癖とする教会員は多い。

 統一教会では、伝道される過程において「霊の親」やカウンセラー、教育を担当するスタッフからたっぷり愛情を注がれ、大切にされる。それは西洋においては「愛の爆撃」と呼ばれて洗脳やマインドコントロールの根拠として挙げれらたこともあるほどである。他人から本気で心配され愛される体験がその人の幸福感を増すことは疑いがない。このことは櫻井氏自身も認めていて、Iが自分のことを本気で心配し、気にかけてくれた霊の親からの手紙を大切に保管していたことを紹介している。(p.380)

 統一教会の信仰のモットーは「為に生きる」である。人は自分の為ではなく、他者のために生きたときに本当の幸福を感じることができるというこの教えにより、統一教会の信者は愛されるだけの立場ではなく、愛する立場に立とうと努力する。これは日々の信仰生活の中で兄弟姉妹に親切にし、喜ばせることも含まれるが、最も大切な信仰実践は人を伝道することである。伝道するときには、自分は霊の親として徹底的に霊の子を愛する側に回る。それを通して、人を愛する喜びを感じるのが統一教会の信仰生活の醍醐味である。Iの日記の中にも、CB店に「百合子さん」を誘って指輪を授かったことに対する喜びの心情が記されている。(p.387)Iにとってこれは、愛されるばかりではなく、自分から愛情を注ぐ対象が生まれたことに喜びを感じる貴重な体験であった。

 こうした人間関係がIにとって喜びであり、信仰の動機付けになっていたことは、櫻井氏自身も以下のように認めている。「Iの信仰心を持続させた要因は二つあり、・・・もう一つは、Iをとりまく統一教会信者達による励ましや人間的ふれあいだった。これは確かにIにとって新鮮な出会いであり、人間交際の喜びでもあった。」(p.392)

3.前向きと楽観の因子
 一般に信仰を持つ人は楽観的である。それは人知を超えた偉大なる存在が自分の人生に介入し、自分を保護しているという信念があるからである。例え客観的な状況が厳しかったとしても、それに心を奪われず希望をもって生きていく力を宗教は与えるのである。統一教会の信仰の特徴は、生ける神が自分の人生にダイナミックに関わっており、自分の身の回りに起きるさまざまな出来事が、神や霊界の働きであるととらえることにあると言ってよい。

 また宗教的儀礼は、人のネガティブな気持ちを癒し、前向きに変えていく効果があることは多くの社会学的研究で指摘されている通りである。毎週礼拝に参加することを通して一週間の嫌な出来事や感情を整理し、信仰に基づいて再出発していくという「気持ちの切り替え」を信仰者は常に行っているのである。また、定期的に集会に参加して御言葉を受けたり、清平の修練会に参加したりすることも精神的な「リフレッシュ効果」がある。そしてその中で確認するのは、たとえ多くの問題を抱えた自分であったとしても、神は変わらずに自分を愛し続けているのであるから、自分自身を受け入れて前向きに歩んでいいこうという「自己受容」の感覚である。

 教会における人間関係は、利害や損得の入り混じった世俗社会の人間関係とは異なり、神を中心とする兄弟姉妹の関係であるため、私心がなく、純粋で濃密な人間関係を構築することが可能である。それは統一教会の魅力の一つとなっている。

4.独立とマイペースの因子
 統一教会のように共同体に対する所属意識が強く、人間関係が濃密な組織においては、独立とマイペースの因子は他の因子に比べるとさほど強く作用しているとは思われない。統一教会に所属する人々は、どちらかといえば「自由」よりも「絆」を求める人々である。にもかかわらず、統一教会の教えや実践の中には、この因子に該当する部分も存在することを指摘しておく。

 統一教会では天使長ルーシェルの堕落が「愛の減少感」であったため、他人と自分を比較して嫉んだり嫉妬したりすることを戒めている。他者との「横的」な関係ではなく、神との「縦的」な関係を重要視せよという教えである。これは社会的比較志向を抑制する効果があり、幸福感の増大に寄与するものと思われる。

 また、信仰を持つということ自体が「自己概念の明確傾向」を高めることになり、周りのさまざまな状況の変化に影響されずに自分自身についての信念を安定させる効果がある。
 以上のように、宗教的信仰が一般的にそうであるのと同様に、統一教会における信仰のあり方が人の幸福感を増す多くの因子と関係していることがわかるであろう。したがって、Iが統一教会の信仰を持っていた当時に、その信仰が彼女の幸福感を増大させていたことは疑いがなく、それがまさしく彼女の信仰の動機となっていたのである。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳54


第6章 祝福:聖別期間と同居生活(10)

 この経済的課題に関する運動のヒエラルキーからの唯一の声明は、『季刊祝福』の「サローネン会長インタビュー」の中に発見することができる。1979年までアメリカの運動の運営上のトップであったサローネンは、この研究のためにインタビューを受けたカップルによって提起されたものと明らかに同様の懸念に対して答えている。彼の言葉は運動においてはあまり聞かれないテーマ、すなわち、自立を伝えるものであった。
「私たちの教会に対する関係について言えば、私たちの責任は自分自身を捧げることです。そこにつきものなのは、私たちが必ずしも明確に理解してこなかった概念です。皆さんが最低限のレベルで自分自身に責任を持った後にはじめて、自分が持っているものや自分自身を捧げることができるのです。」(注71)

 既婚のカップルの状況について直接語った部分では、彼は自立について以下のように語っている。
「・・・それは多くの祝福家庭が自分たちの経済を支えるためにパートタイムの仕事をしなければならないという意味かもしれません。現実的な点としては、それは私たちの運動がまだ比較的小さいからであり、センターの指導者たちやその他の責任ある者たちは、彼らがフルタイムで教会の仕事をしているという事実により、彼らの住居や基本的な食糧や医療費などに関して、運動から最低限の直接的あるいは間接的な助成金を受けているだけからです。しかし、私はこれさえも将来変わるだろうと思います」(注72)

 サローネンは、これらの問題を文師は理解していると報告し、
「・・・運動の全般的な活動のための利益を生み出すだけでなく、たとえそれがパートタイムや一時的なものであっても、祝福家庭に仕事を提供し、彼らが自立することができるようないくつかのビジネスを創り出すために一生懸命努力しておられます。・・・私はこれが彼の計画であると思いますが、それが実現する前であっても、私たちは自分自身に責任を持つ意思がなければなりません。」(注73)

 これらの発言は1977年になされたものだが、今日わずかなカップルが運動のビジネスで働いており、ある者は運動に関連した使命にフルタイムで従事しており、その他の者たちは世俗社会で仕事を見つけなければならない。にもかかわらず、彼らの多くは将来に関しては非常に不安定であり、とりわけ経済的な生き残りに関してはそうである。

 これと密接にかかわっているのが、大家族の適切な居住空間の問題であることは明らかだ。祝福を受けたカップルに関する限り、統一運動は厳格な共同体生活から、いまだ出来上がっていない在り方への移行状態にあるように見える。現時点では、統一運動が所有したり賃借している家やアパートメントに自分たちだけで住んでいるカップルがいる一方で、大多数の未婚者と一緒にセンターで共同体生活をしている者もいる。文師は祝福を受けたカップルが近い将来「定着」することについて語っているが、サローネンは彼らのために家を建てるのは聖殿や大学を建設した後になるであろうと語っている。(注74)このように、これらの家庭が将来どこにどのように済むのかに関しては、多くの不確実性があるように見える。

 筆者は統一運動の夫と妻の個人的なやりとりをインタビューの場面以外で観察することはできなかったため、このプロセスに関する議論は、統一運動の結婚の宗教共同体内部における位置と、アメリカ社会においてカップルが通常下すべき決定との関係に関する、いつくかの観察に限定されるであろう。まず明らかなのは、統一運動のカップルは典型的なアメリカのカップルに比べて基本的な選択肢がより少ないということだ。後者がなさなければならないいくつかの重要な選択、すなわち家族計画(子供の数)、職業の選択、居住する場所などの決定は、前者においては事実上宗教共同体によってなされているのである。もしこれが正確な描写なら、統一運動のカップルは外の世界のカップルほど多くの重要な共同の意思決定を行うことを要求されていないと想定することができる。したがって夫と妻のやりとりのプロセスは、より大きな社会におけるよりも幾分シンプルなのである。

 第二に、統一運動の結婚は宗教的信仰によって創られ、維持され、正当化されるのであり、それはカップルにとっては潜在的に関係を破壊しかねない配偶者のいかなる個人主義的な関心よりも強いものであるとみなされている。世界の救済者としての役割の核心である犠牲というテーマは、「結婚の救済者」としての役割の一部として、統一運動のカップルの共同生活にまで延長されているのである。夫婦間の葛藤は統一運動においては主要な問題ではないように見える。それはメンバーたちが自分の相手がどのように自身の個人的な性格を補完し完成させるかに関心を集中させるよう訓練されているからである。これは統一運動のカップルが決して言い争わないということを意味しているのではなく、そうした訓練が融和的であるよう彼らを動機づけているということだ。そして最後に、彼らは自分たちの結婚が永遠であると信じているため、その関係における主要な葛藤を解決するために多大なる努力を投じるであろう。(注75)

 この終末論的共同体における結婚のもう一つの側面が、夫と妻のやりとりが激しくなることを抑制している。私がここで言っているのは、頻繁で、長く、そして時には痛みを伴う結婚後の別居のことである。これは「聖別・約婚期間」よりも多くの犠牲を要求する。なぜなら文師は既婚女性たちに対して、夫だけでなく(就学以前の)小さな子供たちのもとを離れるように招集したからである。もっとも最近の招集は、母親たちに大学のキャンパスで原理研究会(CARP)と共に活動するようにというものであった。こうした別居は、統一運動における極めて高い結婚と家庭の理想と鋭く対立している。
「神様のみ旨は、皆さんが決して分かれることなく、どこに行くときも一緒ににいることです。夫と妻が真に一つとなり互いに愛し合うとき、神様は最も大きな喜びを感じるのです。そのようなカップルになるために、努力しなければなりません。そのような関係は自動的には実現できません。一つひとつのカップルがそうなるように全身全霊を傾けなければなりません。」(注76)

(注71)「サローネン会長インタビュー」『季刊祝福』(第1巻3号、1977年秋)p. 24.
(注72)前掲書
(注73)前掲書
(注74)前掲書 、p. 26。
(注75)この研究のためにインタビューを受けた祝福家庭は主として年長(30代および40代)であり、お互いに対する非常に良い関係を築いているように筆者にはみえた。
(注76)金栄輝「神様が望まれる家庭」『季刊祝福』(第1巻第1号、1977年春)pp. 23-24。

カテゴリー: ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』132


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第132回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 元統一教会信者の信仰史の具体的な事例分析の中で、第125回から「五 壮婦(主婦)の信者 家族との葛藤が信仰のバネに」に入った。今回は元信者Iの事例の3回目である。Iは統一教会を相手取って計5億4700万円の損害賠償を求める民事訴訟を起こし、このうち2億7600万円の支払いを命じる判決が東京高裁で下された。そのため先回までは、Iに対する勧誘行為の違法性や裁判所の判決といった、法的な問題を中心に解説してきた。そして、損害賠償の額の大きさと違法性との間には直接的な相関関係は存在しないものの、捧げた献金の額の大きさが裁判官の判断に影響を与える可能性があることを指摘した。今回からは法律の問題を離れて、Iが統一教会の信仰を持つに至った動機の部分に関する分析を進めることにする。

 まず、個人としてのIの際立った特徴は、資産家であったということである。損害賠償の請求額が合計5億4700万円であるという数字は、一般庶民からはちょっと想像のつかない金額であり、それだけで統一教会は反社会的団体であり、Iは統一教会によって騙されたのではないかと常識的には思いたくなる数字である。恐らく櫻井氏が元信者Iの事例をこの本で扱ったのは、「統一教会からこれほど大きな被害に遭った人がいる」ということを読者に見せつけ、統一教会の反社会性を示す格好の例としたかったからではないかと推察される。

 一般に、財産のある人は幸福であるという社会通念がある。単純にこの図式に従えば、「統一教会に出会う前のIは多くの財産を持つ幸福な人であったにもかかわらず、統一教会に出会うことによってその財産を奪われ、不幸のどん底に叩き落された。その被害の一部を裁判を通して取り戻したのである。」というストーリーになる。裁判所の判断は客観的で世俗的な価値観に基いて行われるため、こうした目に見える客観的な「モノサシ」をもって被害というものを判断する傾向にある。しかしそれでは、なぜ幸せであったはずのIが統一教会の信仰を持つに至ったのかという動機の部分は見えてこない。

 実は、「財産のある人は幸福である」という前提自体が不確実なものであり、幻想であるかも知れないということに気付かなければ、Iの信仰の本質は見えてこないのである。これは私が苦し紛れに勝手に言っていることではなく、最新の幸福学の研究成果を基にした主張である。慶応義塾大学大学院教授の前野隆司氏の著書『幸せのメカニズム:実践・幸福学入門』(講談社現代新書、2013年)は、最新の幸福学の成果に関する易しい解説書だが、前野氏は幸福と相関関係にある様々な要素について分析を行っている。その中で特に興味深かったのが、年収や財産と幸福感の関係であった。

 調査会社カンター・ジャパンが16歳以上の男女を対象に、財産の所有と幸福感に関し、2012年に21カ国で行った調査によると、「もっと多くの財産があれば幸せなのに」と思う人は、日本人では65パーセントに達したという。この数値には国ごとに大きな差があり、日本は欧米諸国に比べてかなり高い数字になっているという。しかし前野氏は、人が「もう少し収入や財産が多ければ幸せなはずだ」と思ってしまうのは「フォーカシング・イリュージョン」であり、要するに幻想に過ぎないのだという。

 この言葉は、プリンストン大学名誉教授でノーベル経済学賞受賞者でもあるダニエル・カーネマンが編み出した言葉であり、前野氏の解説によると以下のような意味である。
「フォーカシングとは焦点をあわせること、イリュージョンは幻想。だからフォーカシング・イリュージョンとは、間違ったことに焦点を当ててしまうという意味です。つまり、『人は所得などの特定の価値を得ることが必ずしも幸福に直結しないにもかかわらず、それらを過大評価してしまう傾向がある』[Kahneman, et al., 2006]ということ。『目指す方向が間違ってるよ』です。」(前掲書、p.63)

 カーネマンらは、「感情的幸福」は年収7万5千ドルまでは収入に比例して増大するのに対し、7万5千ドルを超えると比例しなくなる、という研究結果を得ているという。これを日本円に換算し、購買力の比で補正すると、ざっと1千万円くらいになるので、日本に当てはめれば、年収が1千万円だろうと、1億円だろうと、10億円だろうと、感情的幸福とは関係がないということである。カーネマンの結果はアメリカのものだが、実際に前野氏が日本人1500名に対して行った調査の結果を見ても、年収の高い層では、年収と感情的幸福には相関がなかったという。にもかかわらず、人は更なる高収入を目指してしまうところが「フォーカシング・イリュージョン」なのだと前田氏は指摘する。

 なぜ、ある年収までは収入と感情的幸福が比例し、それ以上になると相関しないのかに関しては複数の理由が考えられるが、最も大きな理由は以下のものである。年収が低いときに住居や食事や身の安全といった最低限の欲求が危険にさらされる可能性があるので、年収を上げることによってそれらの危険を回避することができて幸福度が上昇するが、ある程度の収入を得ると、基本的な生活には支障がなくなるので、愛情・所属欲求、尊厳欲求、自己実現欲求などのより高次の欲求を満たしたいと思うようになり、それは収入の上昇によっては得られないものだからである。

 このように考えると、5億を超える資産を持っていた元信者Iは、1千万円の資産を持っている人の50倍の幸福を感じていたかといえばそうではなく、感情的幸福度において両者にさほど差はなかったのだということがわかる。すこし乱暴な言い方をすれば、Iの基本的な生活に支障をきたさない限りは、5億円の財産が1千万円に減ったとしても感情的幸福度においてはさほど大きな変化はないのだということになる。さらに、より高次の欲求である愛情・所属欲求、尊厳欲求、自己実現欲求を満たすために、5億円の財産を犠牲にしたとしても、Iの感情的幸福度は低下するどころか、むしろ上昇するという結論になるのである。このように、感情的幸福度の視点から見れば、愛情・所属欲求、尊厳欲求、自己実現欲求を満たすためにその対価として5億円を支出することは合理的な判断であるとさえ言えるのである。ところが、お金の量に比例して幸福度が上がるという「フォーカシング・イリュージョン」に陥っている人には、そのことが理解できないのである。

 前野氏は、人間の幸福に関して「地位財・非地位財」というもう一つの面白い視点を紹介している。地位財とは、所得、社会的地位、物的財のように周囲との比較により満足を得るものであるのに対して、非地位財とは健康、自主性、社会への帰属意識、良質な環境、自由、愛情など、他人が持っているかどうかとは関係なく喜びが得られるものであるという。そして、地位財による幸福は長続きしないのに対して、非地位財による幸福は長続きする、という重要な特徴があると前野氏は解説する。平たく言えば、目に見えて他人と比較できるような地位財によって得られる幸福は長続きしないのに対して、目に見えないより本質的な非地位財によって得られる幸福は永続性がある。にもかかわらず、目に見えて分かりやすい地位財を人は追い求めやすいの傾向にあり、それがまさに「フォーカシング・イリュージョン」だというわけだ。

 ここまで説明すると、Iがなぜ信仰を持つようになったのか、その動機の部分がかなりはっきりしてくる。Iは資産家であったため、住居や食事や身の安全といった最低限の欲求が危険にさらされることはなかった。そこでIの幸福度は財産という「地位財」によってはそれ以上高まることはなく、Iはより高い次元の幸福を求めて、「非地位財」を探し求めていたということになる。

 一般に宗教の役割は、目に見えて他人と比較できるような地位財に対する執着を捨てさせ、目に見えないより本質的な非地位財によって得られる幸福に焦点を当てさせることによって、人間に永続的な幸福をもたらすものであると言える。一部の宗教における現世否定や物欲の否定は、地位財に対する執着を捨てろということである。それは統一教会においても同じであり、Iは統一教会と出会うことを通してより本質的で永続的な価値観に目覚めたため、地位財に対する執着を捨てて献金したと考えられるのである。

 前野氏の著作の中でも、宗教的信仰を持っている人はより幸福度が上がるという調査結果を報告している。それは宗教が人の人生観を地位財中心から非地位財中心にシフトさせる役割を果たすので、永続的な幸福度が増すからであると考えられる。このように考えると、元信者Iが統一教会に対して5億円を超す献金を行うことによって得た幸福感は、幸福学の見地からすれば5億円という金額と比較しても、十分に対価性のあるものであったという結論になる。ところが、こうした主観的な幸福感は世俗的で客観的な視点からは過小評価される傾向にあるので、Iが信仰をもつようになった動機の部分を正当に評価することができず、騙されたとか脅されたのだと推論してしまうのである。裁判所が下した判断は、まさにこのような「フォーカシング・イリュージョン」に基づくものであった。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳53


第6章 祝福:聖別期間と同居生活(9)

 妻が妊娠できる時にだけカップルが性交をするという考えに関して、あるメンバーが興味深い洞察を提供した。
「統一教会のカップルは子供が欲しいのですが、彼らはまた運動に奉仕もしたいのです。それは必要か有益とあらば別居を伴ったとしてもです。ですから、彼らは一緒にいるときには、このときが妊娠が起きそうなときであるということを確認したいのです。そうしなければ、彼らは常に妊娠可能期間を逃してしまい、三年経っても家族が増えないかもしれません。」(注64)

 この説明は、一貫した噂をむしろ裏付けているが、納得のいくものである。ただし、この著者は特定のアメリカのリーダ―たちとの接触を通して、避妊の問題は性的役割分担の問題と同様に、双方が文師の知恵と一致していると主張し合っている、運動内部における東洋とアメリカの勢力争いと関係していると確信したのであった。ケベドーの主張は基本的に本当だが、なぜ多くの影響力ある東洋のリーダーたちがすべての結婚におけるセックスは繁殖を目的としたものでなければならないと主張しているのかについては、にわかに理解しがたい。これらの人々の多くは文師に従う前は根本主義のクリスチャンであったか大乗仏教の信者であったため、おそらく彼らの見解はこうした運動以前の影響を反映しているのかもしれない。(注65)

 東洋の指導者たちの見解は一部は理解が困難である。それは祝福された結婚における神を中心とする性交は、文師自身によって神学的に最も重要なものであるとみなされているからだ。彼は非常に明確に「性行為はカップルの横的なレベルの愛における最高の形なのです。」(注66)と語っている。そして別の説教では、
「天宙はいつ一つになるのでしょうか? 世界の中心は人間であり、それは男性と女性を意味します。男性と女性が天宙の中心であり、全天宙に住み、そしてそれを代表するのです。[#傍線]男性と女性が愛で一つになったとき、その結果として全天宙の統一が起きるのです[#傍線終わり]。そこが天宙が一つとなることのできる一点なのです。」(注67)

 これらの引用や特定のメンバーの発言の中に暗示されているのは、一種の神学的な性のダイナミズムであり、それは神の性質の顕現もしくは実現としての結婚という考えと関係している。一人の非常に鋭敏なメンバーの言葉は、この理解を反映している。
「・・・神の中の合一はどういうわけか多くの神の愛と多くの神のエネルギーを作り出し、その合一を(神を中心とする性交において)反映することは、それは一種の人間の目標であり、神のインスピレーションと人間の間のエネルギーを作り出せるものであり、それは一体となるようなものであり、ある意味では神と霊的に一つになり、神を反映することを物理的に顕現させることである。」(注68)

 この非常に洗練されたアプローチはおそらく運動の中で広く知られてもいないし、受け入れられてもいないであろう。しかしそれは、統一神学は結婚における性交を徹底的に肯定する可能性を潜在させていることを示しているのである。

 実際的なレベルにおいては、統一教会のカップルは一般的にどのような形の避妊も行わなず、それをする者たちは主として周期避妊法もしくは禁欲に頼っている。これには三つの理由があり、それらはすべて来たるべき千年王国のために祝福の子女を作りたいというメンバーの強い欲求を反映している。第一に、統一教会の結婚は通常カップルが30歳になるまで家庭を出発しない。第二に、既に示唆してきたように、(そして間もなく全てを見いだすように)結婚したカップルはしばしば運動の仕事をするために長期間にわたってお互いに別居する。そして第三に、子供がいるカップルは、社会的地位の向上という点においても、比較的永続的な場所に定着する機会を与えるられるという点においても、組織から報いを受ける。この最後のポイントの証拠として、文自身が運動の母親たちに対する話の中で、「これからは、祝福家庭に3名の子供が生まれた場合には、両親は自由に定着して自分の手で子供たちを育てて構いません」(注69)と語っている。

 上記のすべての証拠に照らして、統一運動の結婚におけるセックスに対する見方について以下の一般化がなし得るであろう。

1.アメリカ人のメンバーの一貫した立場は、避妊を行わないということである。これは統一運動の神学が家族を非常に強調しているためであり、一部のクリスチャンのように、性的な喜びがそれ自体において罪や誤りであるとみなしているからではない。
2.特定の有力な東洋のリーダーたちは、結婚におけるセックスの唯一正当な目的は繁殖であるという考えを持っているようである。これは、夫婦の性交は繁殖と、喜びと、親密さのためであり得ると考えるアメリカ人のカップルの見解と矛盾する。

 統一運動がカップルに対して避妊を行わないよう奨励したことは、あるメンバーが祝福家庭にとっての「ダブルバインド」と呼んだものを生じさせた。(注70)一方で彼らは多くの子供たちを持つべきなのだが、他方では彼らは大家族を経済的にどのように支えるのか、そしてそれに関連した懸念として、彼らの家族がどこに住むべきなのかという問題に関して、相当な不確実性に直面しているのである。第一に、経済的な安定性の問題である。フルタイムの使命に携わっている統一運動の未婚のメンバーは、地方のセンターに住んでおり、部屋と食事はもちろん彼らの共同体的生活環境の一部であるが、彼らの個人的なニーズを満たすための最低限の俸給を受け取っているだけである。独身者にとってこれは適切な支援であろうが、結婚したカップルにとっては、その大多数が子供を持っていることもあり、経済的な安定性は難しい問題となってきた。当然のことだが、彼らは未婚の兄弟姉妹に比べれば将来のことをより深刻に考えている。

(64)前掲書。
(65)セックスを繁殖目的に限定するもう一つの説明は、メンバーが修練期間を過ごしていたころの気分の残余意識が反映して、彼らが直観的に自己を抑制する可能性である。心理学的に、「最も酷いもの」であるセックスを「最も聖なるもの」に移行させていくのは、彼らにとって簡単ではないだろう。
(66)文鮮明「祈祷と霊界について」『マスター・スピークス』 (MS-3, 1965), p. 21。
(67)文鮮明「最も偉大なものは愛」(下線は著者)。
(68)インタビュー:リントン氏。
(69)文鮮明「母親たちとの会合」『季刊祝福』(第2巻、1号、1978年冬)p. 29。
(70)インタビュー:エンゲル夫妻

カテゴリー: ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」