ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳31


第4章 性的役割分担(8)

 第二に、祝福を受けるにふさわしい女性を十分に提供できないという問題がある。結婚は救いにとって絶対不可欠であり、一妻多夫や同性愛の結合は信条に反するため、この運動はそのランクにまで伝道された女性メンバーの数を増やさねばらないという、なにがしかのプレッシャーを受けているのである。結婚適齢期の女性の不足を補うため、グループは二つのことをしてきた:第一に、それは女性に対する結婚の年齢制限を男性よりも低くすることにより、より多くの女性が祝福を受けられるようにした。第二に、それは非常に多数のアメリカ人の男性とその他の国々の女性、とくに女性のメンバーがおそらくもっと多数いると思われる極東の国々の女性との結婚をアレンジした。(注54)

 女性メンバーに対する組織のニーズに照らせば、この運動が近い将来により厳格に規定された性的役割分担の方向へ移行していくとは思われない。実際、「主体」の役割に女性がいることは、「当面の間は女性が州の代表やセンターの所長になることができます」(注55)と語ったカリスマ的創設者によって「終末論的正当化」をされているのである。(インタビューにおいて数名の独身男性によって示唆された)この発言の意味は、世界史の現時点における運動の使命が緊急であることを考慮すると、通常において、そして理想的には男性のものである指導者の役割を、いまは女性たちが引き受けることができる、というものだ。(注56)語られざる前提は、もちろん、もし神の国が実現されたならば、そのときには女性たちはその性質によりふさわしいライフスタイルを取るようになるだろうということである。それはすなわち家庭内での役割である。この理想世界が実現されない限り、女性たちは妻や母としての役割に加えて、運動内のさまざまな「主体」の位置で機能し続けるであろうと仮定することができる。

 性的役割分担にまもなく影響を与える可能性のあるもう一つの要因は、既婚のカップルが共同体生活から個々の世帯へと移行していくと予想されることだ。いくつかのカップルは既に一軒の家に住んでおり、組織の将来計画は多くの祝福家庭に対して同様の生活形態を思い描いている。同様の変化が「キリスト共同組織」に起きたときには、夫が自身の世帯の家長となることにより、彼の支配的な役割を強化する傾向にあった。(注57)もしかしたら、カップルが「定着」したら、性的役割分担に関する同じような変化が統一運動の結婚に起こるかもしれないが、「キリスト共同組織」とは状況を異にしているこの運動に関しては、少なくとも二つの考慮されるべき要因がある。第一に、個々の世帯を構えるようになった統一運動のカップルの中に、夫がより支配的になったという兆候はない。第二に、「キリスト共同組織」の女性たちは、結婚の前にも後にも、厳格に定められた服従的な役割に縛られることを要求されているが、統一運動の女性たちは自身のライフスタイルを形成する上でより多くの自由と、組織の中での自律性を経験しており、個別の家族の住居に引っ越したからといって、彼女たちはそれを放棄しないであろう。実際、もし統一運動の中で家族主義が集産主義に取って代わったなら、性的役割分担のパターンは、ヒエラルキーと関連した男性の存在論的な見解から受ける影響がより少なくなり、現代アメリカ社会のそれに近いものになるということはあり得る。(注58)家庭中心の構造に向かう流れが、現在の形の統一運動の生き残りにどのような意義があるかについては、第8章で吟味されるであろう。

 したがって、この運動における性的役割分担の多様性は、以下の四つの変数によって説明可能である:背景と価値観とそのメンバーおよびリーダーの態度;非公式的な(だからといって力が弱いとは限らない)リーダーシップを発揮している女性たち(注59)と女性メンバーの影響力ある貢献;組織がその機能上女性を必要としていること;性的役割分担に対する存在論的アプローチと実存主義的アプローチの両方を正当化するような神学の解釈の可能性。

 男性メンバー(主に未婚の)は、彼らが運動における自らの役割とみなすものに対して満足感を表明したが、女性たちは、性的役割分担の決定に対するグループの「開かれた」アプローチであると彼女たちが理解したものを熱烈に支持した。彼女たちは統一神学の女性的次元を高く評価し、彼女たち自身の女性としての経験の視点からそれを解釈することができた。彼女たちはまた、女性はグループの霊的、宣教的、財政的目標の達成に対して重要な貢献ができるし、またそれをしてきたことを知っていた。そして最後に、彼女たちは統一運動の中で結婚し、同時にキャリアを持つ機会を得た。それは達成の困難な目標ではあったが、組織の支援を得ることできた。

 結論として筆者は、一部の統一教会信者たちが表明した、自分たちのグループはまだ性的役割分担に対する実行可能なアプローチを解明するプロセスの中にあるという考えに同意する。将来どのような解決法が出現するにせよ、それは運動の中で結婚と家庭生活が例外よりも規範となっていくにしたがって、その脈絡の中から生まれてくるであろう。

(注54)私は統一運動における「国際結婚」の合計数を手に入れることはできなかったが、私が知っているそのような結婚のうちで、アメリカの女性と東洋の男性の結婚はごく少数に過ぎなかった。
(注55)文鮮明師「トレーニング計画に関する無題の演説」、p.3。
(注56)「女性の平等に関する危機理論」の議論に関しては、E・ボールディング『女性のための国会への道』、女性が公職に就くことに関する国際セミナー(未発行の原稿:ローマ、1966年)を参照のこと。ボールディングが軍事的・政治的危機の時代であった第二次世界大戦中の性的役割分担の変化について記述していることは、今日の世界を終末論的危機とみる運動の認識と似ている。
(注57)リチャードソン、スチュワート、シモンズ、「組織化された奇跡」、p.145。
(注58)これと同じ方向に導くかもしれないもう一つの要因は、モーゼ・ダースト博士が最近アメリカ教会の会長に就任したことである。ダーストは、妻の「オンニ」と共に、長年にわたってオークランド・センターを指導し、女性たちのリーダーシップを育成した。彼はまた、あまり教義的・神学的ではなく、より人間的な指向性の持ち主である。最後に、現在60代になる文師が死んだときのグループの性的役割分担に対する影響を考慮する必要がある。
(注59)自発的組織における権力に関しては、「メンバーの関与を維持することがそうした組織にとっては極めて重要である。ほとんどの証拠から明らかなことは、権力の形やその他の留意事項に関わらず、このことがなんらかの形の権力を組織の参加者に分配することを含んでいるということだ。」(リチャード・T・ホール『組織:構造と過程』第二版[エングルウッド・クリフス、ニュージャージー:プレティンス・ホール、1977年]、p.227。)

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』84


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第84回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」において、実践トレーニングにおける伝道実習の分析の一環として、「14 信仰強化のメカニズム」(p.256-259)について論じている。櫻井氏は初めに「見知らぬ人に声をかけるだけではなく、人を勧誘するということには勇気がいる。統一教会に勧誘され、実践トレーニングまで残った人達の多くは、繊細で押し出しの弱い人が多い。」(p.256)と述べているが、これは実証的データに基づかない情緒的な印象論に過ぎない。

 櫻井氏の言う「繊細で押し出しの弱い人」というのは、アイリーン・バーカー博士が『ムーニーの成り立ち』の中で論じている「被暗示性(Suggestibility)」の強い人と意味が重なる。「被暗示性」とは「他者の提案や示唆を受け入れやすい傾向」のことである。「統一教会に入るような人は基本的に説得に弱くて、勧められるとNOとは言えないタイプの人だから巻き込まれてしまったのだろう」とか、「カルトに巻き込まれるような人は、素直なお人好しタイプが多い」とか、「精神的な弱さや隙があったから統一教会につけこまれたのだ」という推論に基づき、第三者が統一教会信者に対してこうしたイメージを持つことは多いようだ。しかし、本当にそうかどうかは、科学的な検証によって証明しない限りは分からないのであり、憶測に過ぎない。

 そこでバーカー博士は、対照群との体系的な比較によって統一教会員の「被暗示性」が強いかどうかを客観的に測定するために、統一教会に入会したかどうかとは別の「独立した」指標で、「受動的な被暗示性」を定義した。それは具体的には、「青年期の未熟さ、精神障害、薬物乱用、あるいはアルコール依存症などの経歴、学校における成績や素行の不良、両親の離婚や不幸な子供時代、友人関係を維持する能力の欠如、過渡的な状況にあるか人生の明確なビジョンや方向性を持っていないこと、優柔不断の傾向、職業やガールフレンド(ボーイフレンド)を次から次へと変える傾向」などとなっている。

 バーカー博士は分析の結果として、ムーニーになる人にこうした傾向があるとは言えないと結論している。具体的には、①ムーニーは貧困または明らかに不幸な背景を持っているという傾向にはない、②もともと精神的な問題や薬物使用などの問題を抱えていたというムーニーは少数派である、③ムーニーが基礎的な知識に欠けるがゆえに説得を受け入れやすいのだという証拠はない、ということを明らかにしている。これらはすべて対照群との比較によって裏付けられている。面白いことに、これは櫻井氏自身の統一教会員の描写である「受講生は育ちもよく、学業、仕事も人並み以上にこなしてきた模範的な学生、市民だった」(p.257)という像と一致している。要するに統一教会に来るような人は、能力や精神的な強さ・成熟度において「平均以上」のレベルを持った人が多いということだ。少なくとも、相手の言うことを何でも受け入れてしまうような意志の弱い人ではない。こうした特性を持った人が、「繊細で押し出しが弱い」ために統一教会の説得に抵抗できずに実践トレーニングまで残ってしまったという櫻井氏の描写は論理的に矛盾している。

 説得に弱いタイプの人が統一教会に入るわけではないとすれば、最終的に信者になるかならないかを決定する要因は何なのであろうか? バーカー博士はそれを「感受性」と呼んでいる。「感受性」と「被暗示性」との違いを簡単に説明すれば、「被暗示性」が基本的に他者の提案や示唆を受け入れやすい傾向のことであり、何でも受け入れてしまうような受動的で説得に弱い性格であるのに対して、「感受性」は統一教会が提供するものに対して積極的に反応するような性質のことであり、その個人がもともと持っているセンサーのような性質だということになる。こうしたセンサーやアンテナが発達している人は統一教会の教えや修練会に積極的に反応するけれども、発達していない人は反応しないので入教しないということになる。

 それでは、そのような性質の具体的な中身が何なのかと言えば、バーカー博士によると、ムーニーになりそうな人は以下のような特徴を持っているという:①「何か」を渇望する心の真空を経験している人、②理想主義的で、保護された家庭生活を享受した人、③奉仕、義務、責任に対する強い意識を持ちながらも、貢献する術を見つけられない人、④世界中のあらゆるものが正しく「あり得る」という信念を持ち続けている人、⑤宗教的問題を重要視しており、宗教的な回答を受け入れる姿勢のある人々。

 こうした特性をもともと持っていた人々が、修練会で教えられた統一原理の内容に反応してムーニーになったということである。バーカー博士の研究において「ムーニーになった」と判断された人とは、2日間、7日間、21日間の修練会に参加して統一教会への入会に同意し、少なくとも一週間以上の信仰生活を送った人のことであり、それ以前に離脱した人は含まれていない。欧米と日本では教育プロセスが異なるが、日本の実践トレーニングでは既に統一原理の受講はすべて終わっており、教会や創設者についての情報もすべて学び、入会を決意して実践段階にまで入っていることから、バーカー博士の「ムーニーになった」という基準を満たしていると言えるだろう。したがって、実践トレーニングまで残った人も、これと類似する性質をもともと本人が持っていたために、統一原理の教えに共鳴したのであると理解することができる。

 要するに、実践トレーニングまで残ったのは本人が説得に弱かったからではなく、むしろ統一原理の内容に主体的な関心を抱き、自らの生き方として採用しようという決意をしたからであるということになる。能力や精神的な強さ・成熟度において「平均以上」のレベルを持った人は世の中に山ほどいるが、そのすべてが原理を聞いて信仰を持つわけではない。それでは、最終的に信者になるか否かを決定する要因は何であるかと言うと、第一にその人に宗教性があるかないかによって峻別されるのあり、第二に統一原理が教える世界観そのものに共鳴できるかどうかによって決まるのである。しかし、櫻井氏は初めから受講生たちは「受動的な説得の被害者」であるという像を描いているために、何の実証的なデータも示さずに「繊細で押し出しの弱い人」というような印象論を書いてしまう。こうした誤解の根本的な原因は、「自分たちは統一教会の被害者である」と訴えている「青春を返せ」裁判の原告たちの主張を基礎資料として研究をしていることにある。

 櫻井氏や「青春を返せ」裁判の原告たちが描こうとする像とは異なり、実践トレーニングの受講生には「繊細で押し出しの弱い人」ばかりではなく、多種多様な性格の人々が混在している。明るくて社交的な女性もいるし、体育会系のノリでやたらと元気の良い男性もいる。たまに元ヤンキーや不良だったという人もいるし、真面目な公務員もいるし、学校の先生や看護師など、特定の職業のプロとしてキャリアを積んでいる人もいる。その中には明らかにリーダーとしての資質を持った人もいるのである。そうした人はやがて統一運動の中でリーダーとして頭角を現していくことになる。こうした人々は、「統一教会の説得に抵抗できなかった、繊細で押し出しの弱い受動的な被害者」とはまったく正反対の性格を持つ、主体的な活動家となる。彼らは統一運動の中に自分の居場所と存在意義を感じ、人に説得されたからではなく、自らの主体的意思で信仰生活を送るようになり、同時に後輩たちの指導に当たるようになる。

 こうした多様な性格を持った若者たちが実践トレーニングで伝道活動を初めて体験するわけだが、それが勇気のいることであり、不安や葛藤を伴うものであることは事実であろう。しかし、櫻井氏はこうした実践活動を「信仰強化のメカニズム」として、何やら意図的にその人の人格を変えるために行われているのであると主張している。それは以下のような文章に如実に表れている。
「信仰の告白という意味もあるが、羞恥心、世間体を捨てさせることの効果も大きい。何だろうと奇異の視線で見られたり、無視されたりすることで、通行人とは違う種類の人間にならざるをえないのである。」(p.256)
「受講生にとって無視され、その上バカじゃないか、迷惑だと非難され、さらには変な団体につかまった可哀想な人達と蔑みや哀れみの視線を投げかけられることは、屈辱というよりも自分の全人格やこれまでの人生を否定されたに等しいショックだろう。」(p.257)
「社会心理学的解釈を施すなら、統一教会における信仰強化は認知的不協和の意図的・効果的な利用とされよう。つまり、自尊心を剥ぎ取るような状況に受講生を追い込むことで、彼らの自己認知や世界観を大いに揺さぶる」(p.258)

 次回は、伝道実践の中で受講生たちが感じることや教えられることが、意図的な心理操作や人格の変革を目的とするものではなく、伝道的な宗教の世界観を背景としていることを明らかにする。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳30


第4章 性的役割分担(7)

 メンバーの態度とライフスタイルに対する摂理的役割の意義は、これらの役割が主として「内的指導」に関する事柄であるという、統一運動の中にある一般的な感覚に照らして理解されなければならない。この言葉には、本質的に個人の良心と責任に関することであり、深い霊的な関心事であるという含意がある。その結果、婚約した女性たちの間には、摂理的役割に対する少なくとも二つの明らかに異なる方向性が存在する。一群の女性たちは、これらの役割は彼女たちにとって単に「内的に」ではなく、相対者との関係において非常に重要であると表明した。もう一つのグループは、その役割の霊的な意味は価値視するものの、それらが自分たちの将来の夫とどのように関わるかに強い影響を及ぼすとは信じていなかった。(注49)どのような方向性をとったとしても、女性たちは全体として、伝統的なキリスト教(特にローマ・カトリック)が男性中心的な救済論を持っているのとは対照的に、統一運動の女性たちが復帰の過程において神学的に公認された役割を持っていることに対して満足感を示した。

 前述のデータは、共同体的性格を持つ他の新宗教においては女性が男性よりも劣るとみなされて下位の社会的役割が割り当てられているのとは対照的に(注50)、統一運動は、文師の存在論に基いた優越主義から、未婚の女性たちのより実存的でダイナミックな理解に至るまで、性的役割分担に対するいくつかの異なるアプローチによって特徴付けられることを強く示唆している。この多様性は、メンバーたちのやや保守的な背景と、運動が結婚と家庭を高く評価していることが合わさって、フェミニズムを一つの可能性として排除している点において、すべての可能な選択肢を包含していない。にもかかわらず、このグループはマスメディアによって投影されたイメージから思う以上に、性的役割分担の柔軟性を示していることを証拠は明らかにしている。

 若い独身男性は一般的に『原理講論』の主体(男性)・対象(女性)の枠組みを文字通りに解釈することに固執する。これは部分的には文師と自分自身を同一視する傾向と、男性のヒエラルキーの結果である。さらに、これらの男性が入教する前に女性と関わることに困難を感じていたということは、彼らが多くのアメリカ人男性と同様に、1970年代に解放された女性たちが出現することによって沈殿した「男性としてのアイデンィティ・クライシス」を経験していたことを示している。したがって、彼らは両性の明確に定義された役割に根拠を与えるために使えるイデオロギーを持った組織の中で安心を感じるのである。

 独身の女性は(ほんとどの既婚のカップルと共に)性的役割分担に対するより実存主義的なアプローチを支持するが、著者を驚かせたこの現象は、以下の五つの考察によって少なくとも部分的に説明が可能である:
1.女性たちは結婚して家庭を持つことを楽しみにしているが、彼女たちは妻と母親の役割を、彼女たちに生来定められている行動ではなく、彼女たち自身の選択の問題であるとみなしている。
2.多くの女性たちが結婚した後も、家の外で指導者として運動に奉仕している。ほとんどの未婚の女性たちは、年長の姉たちの模範に倣うつもりでいる。
3.統一教会の女性たちは一般的に積極的で自信に満ちているので、文師のいう東洋的な女性の振舞いのモデルにはうまく当てはまらない。
4.彼女たちは1960年代の女性のリーダーシップの伝統と、西海岸とりわけ非常に成功したオークランド・センターの女性リーダーの影響力について知っている。(注51)
5.女性たちは、その効果的な開拓およびファンドレイジング活動を通して、運動の伝道および経済の目標に対して多大な貢献をしてきたのであり(注52)、その業績を通して彼女たちは力と自尊心の感覚を発達させてきた。

 これら五つの考察に照らせば、統一運動における女性の経験は、明らかに男性のそれとは異なっていることは確かである。したがって、性的役割分担に対する彼らの理解もまた異なるであろうことは理解できる。この運動が、神の命令によって公認された仮想の親族関係にもかかわらず、性的役割分担に関する葛藤を取り除いていないという事実は、そこに所属する男性と女性があるべき適切な役割と必ずしも一致しないことを、さらに確証するものである。

 男性中心のヒエラルキーが、男性と女性の実際の役割を、文師の説教に示されている理想的な役割とより一致するように仕向けるだろうと期待する者もいるかもしれない。しかしながら、これは起こらなかった。実際には、少なくとも一例においては、反対の傾向がはっきりと表れている。女性たちが神学校や大学院に入ることを許可することにより、運動は実際に彼女たちの何名かに対して、文によれば男性の特権であるはずの指導者の役割を果たすべく準備をしているのである。女性に高等教育を授けるだけでなく、女性に非伝統的な役割を与えることに対して運動が寛容であることを説明する主要な手掛かりは、アメリカにおいては運動内に女性が不足しているという事実にある。1981年2月26日の時点で、核心的なメンバーの数は10005名であるが、そのうち6408名(64%)が男性であり、3597名(36%)だけが女性であった。(注53)女性メンバーに対して男性メンバーの比率が高いことは、グループにとって二つの非常に実際的な問題を提起する。第一に、多くの開拓やファンドレイジング事業を継続するのに十分な数の女性が、明らかにいないということだ。男性のメンバーがこうした活動にたずさわるのであるが、上述のように、女性の方が男性よりもはるかに実績をあげているのである。文師が既婚の女性をCARPセンターの開拓のために招集したのも、おそらくそのような使命に対応することのできる未婚の女性が実際に不足していたことを示しているのであろう。

(注49)約婚中の女性の母親としての役割については、第5章でより詳しく論じる予定である。
(注50)J・スティルソン・ジュダ『ハレ・クリシュナとカウンターカルチャー』(ニューヨーク:ジョン・ウィレー・アンド・サンズ、1974年)、pp. 86-87およびリチャードソン、スチュアート、シモンズ『組織化された奇跡』pp. 136-146を参照のこと。
(注51)西海岸「派」と影響力のあった「オークランド・ファミリー」の記事に関しては、ブロムリーとシュウプ『アメリカのムーニー』、pp.75-77; 103-105; 138-142; 146-147; 174-178を参照のこと。
(注52)ある特定の社会における女性の地位は、生存の手段を獲得することに彼女たちがどの程度たずさわっているかと密接に関わっていると議論する著者もいる。マリア・オッサワスカ『道徳的思想の社会的決定要因』(フィラデルフィア:ペンシルバニア大学出版、1970年)、p.51。
(注53)個人的交流:ショウ氏

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』83


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第83回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」において、「13 伝道」について説明している。(p.254-256)櫻井氏は初めに「統一教会信者にとって、伝道とは自分が勧誘されてきた経路を新しい人達にたどらせることにほかならない。」(p.254)と述べているが、これは統一教会に限らずどんな宗教にも当てはまりそうな説明である。ただし、ここで櫻井があえて「勧誘」という言葉を使っていることに注意したい。なぜなら彼は「本章では統一教会が布教行為と明言しないで行っている行為を勧誘と呼ぶことにしたい。統一教会の信者達には伝道しているという意識がある。しかし、街頭や戸別訪問で対象者に話しかける際に、宗教とさとられないよう、またそういう質問を受けても宗教ではないと言うように指示されていた。これでは一般市民にとって勧誘以外の何ものでもない。」(p.218)という前提で「勧誘」という言葉を使用しており、統一教会の信者たちが行っているのは「伝道」の名に値せず、「勧誘」に過ぎないという価値判断をしているからである。

 そもそも「伝道」とは主にキリスト教において使われる言葉であり、基本的に信仰を持っている者が使う言葉である。類義語に「布教」「宣教」「唱導」などがあるが、天理教の「においがけ」や「おたすけ」、創価学会の「折伏」や「公宣流布」など、特殊用語が用いられることもある。そこには外部の者からは即座に理解できないその宗教特有の世界観が込められていることも多い。「伝道」は信仰を持たない第三者から見れば「勧誘」に見えるわけであるから、第三者に過ぎない櫻井氏がそう呼んだとしても知ったことではない、統一教会信者にとってそれは「伝道」なのだと言えば済む話なのかもしれない。しかし、櫻井氏の価値観によれば、信教の自由が存在せず、キリスト教が迫害されているような国で、自らの信仰を公にできない状況下で密かに伝道活動を行っている宣教師たちの行為も、「伝道」と呼ぶに値せず、「勧誘」に過ぎないという判断になってしまう。「伝道か?勧誘か?」という議論にそれほど意味があるとは思わないが、櫻井氏のものの言い方は、宗教的な価値判断を控える中立的な立場ではなく、宗教者の主観の世界にまで土足で踏み込んで、その信仰を侮辱することを目的としているとしか思えない。要するにこの本は、学問の体裁をとった敵意の表明なのである。

 続いて櫻井氏は伝道の二つのやり方として、(1)家族・友人を展示会やビデオセンターに誘う、(2)路上でアンケート調査や手相見と称してビデオセンターに誘う、を挙げている。この内容自体はこれまでの彼の記述の繰り返しなのでここでは取り上げない。問題となるのは、それに続く櫻井氏の統一教会の伝道方法に対する評価である。
「伝道の仕方は講師がまず伝道の心構えを講義し、受講生達は班長と共に街頭に出る。当然のことながら、座学で原理講義を習っただけの受講生が人に統一教会の何たるかを伝えられるわけがない。統一教会が受講生たちに求めていることは、路上や訪問でともかくも人を呼び止めたり、玄関のドアを開けさせて話を聞かせたりして被勧誘者をビデオセンターにつなぐことだ。」(p.255)

 これは統一教会に限らず、どんな宗教でも同じことなのではないだろうか。伝道されたばかりで、最初から教義をすらすらと説明できる人はまれであり、組織や先輩の助けなしに一人で伝道活動ができる人も少ないであろう。最初は不安や葛藤を抱えながらも、先輩がやる姿を見よう見まねで実践しながら徐々に慣れていくというのが普通であろう。それは新入社員の営業研修でも同じことで、最初から上手にやれる人はまれで、徐々に慣れて上達していくわけである。櫻井氏は、統一教会の信者教育はひたすら教説の学習を繰り返した後で初めて実践内容を教えられるものであると批判している割には、この段階では「座学で原理講義を習っただけの受講生が人に統一教会の何たるかを伝えられるわけがない」と言っている。それではいつ実践を始めたらよいのか? 教義の概要を一通り学び、伝道することの意義と価値を頭で理解した実践トレーニングの段階で、先輩の指導の下に体験的に伝道実践をしてみることは至極まっとうなやり方であると思われる。

 櫻井氏は、「統一教会の伝道方法は非常にシステム化されているために、各教会員が自分で伝道した人を最後まで育成することはない。もちろん、最初に伝道したものが霊の親、されたものが霊の子として、教会員である限り終生交流を持つこともあるのだが、信者としての育成や組織の中の仕事において直接関わり続けることはない。このために受講生に対して人を呼び止めるだけの役を与えることが可能になる。彼らも呼び止めた後どうするのかは班長の判断に任せればよいと言われる。生半可な教義理解や信仰の段階で人を誘うことに躊躇してしまうものにも、アベルの命令を神の意志として従うことが信仰だとアドバイスすることで、人を誘う心理的負担を軽くすると共に、自ら判断しないことを信仰として強化するのである。」(p.256)

 櫻井氏の指摘するシステム化された伝道方法は、もともと統一教会に存在した伝統ではなく、1980年代から連絡協議会によって導入されたビデオによる原理講義の受講システム、さらに青年伝道のシステムとして開発されたライフトレーニング、新生トレーニング、実践トレーニングなどとして構築された日本独自のものであると言える。こうしたシステムの開発は伝道の効率化、コストパフォーマンスの向上に貢献したと考えられるが、統一教会の内部で必ずしもプラスの側面だけが認識されているわけではないことは以前に述べたことがある。

 統一教会における伝道行為は、伝道する側である「霊の親」が伝道される側である「霊の子」を愛し、み言葉を語って育てることにより、親の心情を復帰し、人格を向上させるという意味付けがなされていた。霊の親は手間暇をかけて霊の子を育てるからこそ、一人の人間として成長できるという考えが、伝統的な統一教会にはあった。しかし、「霊の子」の教育をビデオ受講、専門のカウンせラー、そして一連の教育システムに任せることにより、「霊の親」は信仰者として成長する機会を奪われてしまったという評価も一方で存在するのである。

 しかし、だからと言って櫻井氏が指摘するような、「信仰が自己の心の問題として育っていかない」(p.258)という結論に持っていくのも大きな飛躍である。なぜなら、こうしたシステム化された伝道方法の中でも、やはり人は信仰的に成長していくという事実があるからである。ビデオセンターのカウンセラーや修練会の講師は「み言葉を語る」という役割をする。多くの対象に対して普遍的な内容を語るという点では、彼らは訓練された専門家という側面を持っている。こうした人は統一教会の信者の中でも少数であり、誰でもこうした役割ができるわけではない。しかし、それは一般の宗教団体でも牧師や教師は特別な訓練を受けた人でないとできないのと同様であり、むしろ統一教会は一般の信徒が積極的に伝道活動に関わっている団体であると言える。

 一方で、霊の親の役割は「み言葉を語る」こと以上に、無条件に霊の子を愛し、その心を受け止めてあげることにある。人は正論を聞かされただけで伝道されるものではない。その人が抱えている個人的な事情、人間的な思いをそのまま受け止めて、黙って聞いてあげたり、プレゼントを送ったりして、言葉によらない愛情を示してあげることが霊の親の主な役割であり、実際そうした霊の親の姿に感動して伝道される人は多い。そうした愛情の注ぎ方を通して信徒は信仰的に成長しているのであり、伝道活動を通して、愛するとはどういうことかを学ぶ信徒は多いのである。そして櫻井氏も認める通り、霊の親と霊の子が終生交流を続けることは統一教会の伝統である。

 また櫻井氏は、実践トレーニングの班長達が、受講生たちとほぼ同世代の先輩信者であり、受講生たちが成長した数年後の姿であることにもあえて触れていない。最初は見よう見まねで出発するかもしれないが、そうした受講生たちの中からやがて新しい者を指導する班長が生まれ、カウンセラーが生まれ、講師が生まれるというように、若者たちは一定の期間をかけて成長していくのである。

 伝道方法がシステム化されたことにより、霊の親が霊の子に講義をして育てる機会は昔に比べて少なくなったかもしれないが、これは例えて言えば、家内制手工業から工場制手工業への発展のようなものであり、手作り感を重視するか効率性を重視するかという選択の問題であろう。もっとも、霊の親が霊の子に講義することによって霊の親としての自覚が育ち、成長するという考え方がなくなったわけではない。信徒一人ひとりが講師になる道としての「チャート式原理講義」の導入や、ブラジルにおける伝道の成功例である「ホームグループ・一対一・オイコス伝道」を日本に導入しようという試みなどは、そうした原点回帰の一環であると考えられる。

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ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳29


第4章 性的役割分担(6)

 これらの女性に対するリーダーシップの機会は統一運動の組織構造の一部ではないが、それらが彼女たちに対して、グループの日常生活に影響を与え、同時に彼女たちの個人的な能力やスキルを表現し発達させることのできるチャンネルを提供していることは疑う余地がない。この研究のためにインタビューを受けた女性たちは、(多くの場合、男性たちのそれよりも)強い自信を示した。その態度は、ファンドレイジング、開拓、その他の活動における成功と関連しているのかもしれない。彼女たちは全員が結婚と母性に対しては非常に高い価値を置いていたが、例えば教育、伝道、執筆、大学院での勉強など、家の外で運動の活動に関わることをも価値視していることを表明した。結婚した女性の大多数は、そのほとんどが幼い子供を抱えているが、家の外でなんらかの運動のプロジェクトのために働いていた。これらの女性たちは、私たちの社会の女性たちの多くと同じように、家庭と仕事を両立させようとして、しばしば役割の葛藤を経験する。メンバーの一人であるノーラ・スパージンは、『ニューズウィーク』誌の女性リポーターからインタビューされたことを話したが、そのリポーターは、ノーラ自身の言葉によれば、「三人の子供の母親である私が、そんなにも忙しくて刺激的な生活を送り、それをするために多くの旅をしていることに感銘を受けたの。」(注42)そのリポーターの観察に対する自分の反応を思い出して、彼女は以下のように書き留めた:
「私は微笑んだ。なぜなら、私は自分の使命が多くの刺激的なことをする機会を私に与えてくれ、毎日の子供たちの世話から私を解放してくれると思っていたからだ。しかし、統一原理が私たちに家庭という単位の価値と、女性であることと親であることの深い内的な意義を教えてくれたので、私の『自由』はまた、多くの涙と心の重荷の源でもあった。」(注43)

 もちろん、この役割の葛藤に伴う「重荷」は、親としての役割と使命における役割は世界を復帰する神の計画の一部であるという信仰によって、いくらか緩和される。さらに、こうした二つの役割を担っている女性たちに対して、運動は保育園やチャイルドケアを提供している。これもまた彼女たちが葛藤に耐えるのを助けている。

 性的役割分担の問題は、女性が理想的には復帰の過程において重要な役割を果たすという統一神学の解釈にも反映されているが、これらの摂理的役割が個々のメンバーの実際のライフスタイルにどのように関わるのかについては、運動内で完全な意見の一致はないように思われる。『原理講論』は、堕落の結果の一つは神による主管の秩序の破壊であると教えている。エバがアダムを誘惑した行為は、彼女が彼を主管したことを象徴し、神が本来意図したことの逆転である。その結果、「堕落した世界においては、男性は主体ではない。」(注44)堕落はエバによって始まったのであるが、女性は男性の性質よりも、より霊的に敏感に反応する性質を持っているとみなされている。文師によれば、
「女性は男性よりも心情的な被造物なのです。したがって、彼女たちが霊的体験においては一歩進んでいることも珍しくはありません。その場合には、男たちは彼女たちに従わなければなりません。」(注45)

 女性にはより霊的な性質があるので、彼女たちは真の父母と特別な関係にあるのである。これは彼らが祝福を受ける前には特にそうである。未婚の女性は、専従のメンバーになった上で、真の父母の「娘」になる。その役割は彼ら、特に神の代身であるお父様に対する絶対的な忠誠を示唆するものと思われる。(注46)さらに、女性は象徴的な形でメシヤ(すなわち文)の花嫁となる。

「男性は女性のようにお父様を近く感じるのが難しいのです。ですから、普通は女性が初めにお父様に対する深い感情を抱き、お父様を慕うまでになるのです。ときには女性はあまりにお父様を慕わしく思って泣きたくなることもあります。」(注47)

 そして最終的に、女性は約婚期間において彼女の相対者に対して母親の役割をするが、これは本質的に「主体」の役割である。

 摂理的役割の背後にある中心思想は、生来男性よりも神に近い女性が、霊的完成を探究する道において主導するということだ。彼女がこの目標に近づくとき、おそらく彼女のメシヤとの特別な関係に助けられ、「母親」としての彼女が自分の相対者/「息子」の養育に対して責任をもつのである。文師が言ったように、「女性が本当の意味で男性から愛されるためには、彼女はまず初めに自分の男性を神から愛される基準にまで引き上げることができなければなりません。そして次に彼が神の位置に立ったとき、彼女は彼の愛を受けることができるのです。」(注48)

(注42)ノーラ・スパージン「統一教会において女性であることについて」『季刊祝福』(第2巻、2号、1978年春)、p.41。
(注43)前掲書、p.41。
(注44)文鮮明師「神の御旨に対する代価」、p.3。
(注45)文鮮明師「祝福と伝道について」、『マスター・スピークス』(MS-2、2965), p. 6。この文の初期の発言をどのように解釈するかは、即座に明確ではない。それは政治的な性質の発言であるとみることもできる。すなわち、彼は1965年の時点でアメリカの運動がおもに師の支援を必要とする女性たちによって導かれていたという事実に対して、宗教的な正当性を与えているということだ。しかし、女性たちがいまでも文および他のメンバーに対する霊的な助言者として機能していることを考慮すれば、よりもっともらしい説明は、女性がもつ霊的な潜在能力に対するこの見方は、この運動の韓国的背景に起因するものであると考えることであろう。「韓国には、女性がムーダンやシャーマンとしての宗教的役割を果たすという、おそらく先史時代にまでさかのぼる長年にわたる伝統がある。」(ヨンスク・キム・ハーベイ「韓国における憑依症と女性シャーマン」、ナンシー・A・ファルクとリタ・M・グロス〈編〉『語られざる言葉:非西洋文化における女性の宗教生活』[サンフランシスコ:ハーパー&ロウ、1980年]に掲載、p.41。
(注46)統一運動のファンドレイジング・チームや伝道チームに通常「チーム・ファザー」ではなく「チーム・マザー」がいるのは、おそらくこのためであろう。
(注47)周藤健「祝福の内的意味」『季刊祝福』(第1巻、第2号、1977年夏)、p.46。この摂理的役割は、韓国の運動にとっては巨大な論争の種であった。1955年に文師とその他数名の指導者が、新しい女性のメンバーと性的関係を持ったとされて逮捕されたが、起訴もされず、有罪判決も受けなかった。この事件の記事に関しては、チェ・シンドク『韓国の統一運動』、スペンサー・J・パーマー『韓国の新宗教』、p.103、ユン・ホイェ『戦後韓国の新しいカルト』(プリンストン神学校図書館:未発行の原稿、1959年2月16日)pp. 37-43、ゾラ・レビット『文鮮明の精神』、p.13、およびJ・イサム・ヤマモト『人形遣い』、p.20-21を参照のこと。これらの記事はすべて、文師に関して申し立てられている性的不道徳に関して、信頼できる歴史的証拠を欠いている。
(注48)文鮮明師『男と女の関係』、p.5.

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』82


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第82回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」において、統一教会信者たちの信仰や思考のあり方を分析する目的で、「12 演繹的思考と帰納的思考」という議論を展開し、一般的な人間の思考が帰納的であるのに対して、統一教会の学習方法はすべてを演繹的発想によって説明しようとしている点で「極めて特異な学習過程」(p.252)であると主張している。これに関する彼の説明を前回まで二回にわたって批判してきたが、今回はそのまとめである。

 櫻井氏による「統一教会の学習方法」を簡潔にまとめると以下のようになる。①統一教会の学習方法はすべてを演繹的発想によって説明しようとする。受講生はその論証の過程に圧倒されて結論を承認せざるを得なくなる。②堕落論と復帰原理では救済史という目的論により歴史を説明しようとするが、受講生には宗教や歴史に対する学問的知識や、物事を批判的に見る精神が不足しているため、それを否定することができない。③統一教会の教説は演繹的で目的論的なものでありながら、自然科学や社会科学の認識にも通じるかのように語られているため、両者の間に齟齬が生じた場合に、受講生の思考には著しい負担がかかる。

 これらの分析から櫻井氏が導き出す結論は、「受講生たちの対処方法としては、これ以上考えることをやめるのが手っ取り早いやり方だろう」(p.254)という驚くべきものだ。櫻井氏の主張によれば、統一教会への回心は「思考を停止することで、統一教会の教説は討議すべき課題ではなく、事実として受け入れられるべき事柄になっていく」ことによって生じるというのだ。さらに彼は、「じっくり考える思考力も体力もなくなってくる」とか、「もはや自分で判断することはなくなり、委ねるかどうか、ひたすら信仰的であろうとするかどうかだけの問題になる」(p.254)といった状況に受講生たちが追い込まれていくと主張している。要するに、受講生たちの主体的な判断によって信仰を獲得するのではないという姿勢を貫いているのである。これらはすべて、「青春を返せ」裁判で原告たちが主張していることの繰り返しに過ぎない。彼らは自らの宗教的回心に主体的な動機があったことを認めてしまうと、教会に対して損害賠償を請求できなくなってしまうので、教会の巧みな誘導によって説得され、納得させられた「受動的な被害者」として自らを描写する必要があった。こうした目的に基いて書かれた歪んだ描写を基礎資料としているため、櫻井氏の描く回心は悲壮な雰囲気に満ちているのである。しかし、彼は参与観察を行っていないので、新生トレーニングや実践トレーニングの現場の雰囲気や、受講生が原理を受け入れていく様子を直接観察しているわけではない。すべては教会を訴えている元信者の証言というフィルターを通して結ばれた像なのである。

 一方で、人が伝道され回心していく過程を直接観察したイギリスの宗教社会学者アイリーン・バーカー博士はまったく違う結論を下している。まず、食事、睡眠時間、疲れなどの修練会の環境が脳の機能を低下させることによって「洗脳」されるのだということは伝統的に主張されてきたが、彼女は自らの参与観察に基づき、修練会の環境はどの点においても普通であり、環境的要因によって脳の機能が低下することはないと結論している。

 こうした「生理的な強制力」の存在を否定したうえで、彼女は「マインドコントロール」が意図しているような、より内面的な強制力が働いているかどうかも検証している。これは統一教会の修練会に参加した人は誰でも、その人の持つ背景、個性、経験などに関わらず、全員が統一教会式の世界の解釈をするように誘導され得るのか、それとも自分の考えに照らして統一教会の世界観を拒絶したり受け入れたりするという、主体的な選択を行うのかという問題だ。彼女は修練会の参加者たちの感想文を基礎データとして、修練会に対する反応は人それぞれであり、非常に多様性があるという事実を明らかにすることにより、内面的な強制力の存在を否定している。要するに統一教会の修練会は、ある人にとっては非常に興味深く魅力的なものであるのに対して、別の人にとっては非常に退屈で受け入れがたいものであり、個人がどう感じるのかを主催者側がコントロールできるわけではないということだ。さらにバーカー博士は「被暗示性」について論じた章の中で、言われたことを何でも受け入れてしまうような説得に弱いタイプの人も、ムーニーにはなりにくいと分析している。したがって、参与観察を伴う社会学的な研究によれば、説得された「受動的な被害者」というのは、回心の実像とは合わないのである。

 それではバーカー博士の研究においては、統一教会の神学の真理性はどのように正当化され、論証されると分析されているのだろうか? この点についてバーカー博士は第3章の「統一教会の信条」において詳しく論じている。彼女が第一に挙げているのは「聖書」であり、原理講義をする際にはその論拠として聖句が引用されることを指摘している。これはキリスト教文化圏であるヨーロッパやアメリカにおいては説得力のある根拠として機能することだろう。しかし、日本においては「聖書がこう言っているから真理だ」という主張はごく一部の人にしか通用しないであろう。

 次にバーカー博士が挙げるのは、「霊界からの証し」であり、これは霊能者や霊媒者が原理や文師のメッセージが正しいことを証しすることを意味する。そうした実例として、アメリカのアーサー・フォードやサー・アンソニー・ブルックなどの名前が挙げられている。さらには、修練会のゲストも夢を見たり啓示を受けたりすることがあるという。こうしたことを根拠に、原理が真理であると確信する人がいてもおかしくはないだろう。次にバーカー博士が挙げるのが科学であり、統一神学は科学と宗教の間にあるギャップに橋渡しをすると主張し、その真理性の証明のために科学に訴えることがあると指摘される。

 こうした議論はある程度の納得がいくものだが、統一教会の信者が「原理は真理である」と認識するメカニズムとして一番腑に落ちたのは、バーカー博士の次の記述であった。
「しかし、『原理講論』がもっているその真理性のさらなる証明が一つある。それが『作用する』という主張だ。統一神学は、それが経験的に現れると信者たちが信じているという点において、実用的な神学である。それを信じ、それに従うことによって生じる目に見える結果のゆえに、それは真理に違いないと理解するのである。ある程度までそのような証明は、その形態はどうであれ、裏付けになり得る。もしその運動が成功しつつあれば、これは、その運動が神の望まれることを行っているがゆえに、神は彼らの側におられるということを示している。もし、その運動が激しい敵意と反対に直面しているのであれば、これは、その運動が神の望まれることを行っているがゆえに、サタンが懸念しているということを示しているのである。もちろん、歴史上には、自らの位置を裏付けるためにそのような論理を用いた多くの宗教が存在してきた。しかし、神の真理とこの世に起こっていることとの関係を認めるいかなる『実践神学』もまた、その反証になると思われる証拠を人々が見いだすであろうというリスクを負っている。多くのムーニーたちが彼らの周囲で起こっているあらゆることを解釈することによって、自らの信仰を強くしてきたということには疑いの余地がない一方、その実践的な神学は運動にとって両刃の剣であることを証明してきた。そのメンバーの多くは、原理が『作用する』ということを信じなくなったか、あるいはそれが作用する方法をもはや歓迎しなくなったがゆえに、脱会した。」(アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』第3章「統一教会の信条」より)

 バーカー博士のこの記述は、統一原理の学習は単なる理論の習得ではなく、体験学習であるという事実を正確に見抜いているように思われる。宗教的真理というものは座して学ぶだけの理念体系ではなく、それを実践し、全人格をかけて生きるときにその真理性が実感できる「体験的真理」であるということだ。人が伝道される過程においては、いかなる学問的検証よりもこうした生きた体験が回心の決め手となる。統一原理という世界観を自分の「生き方」として採用するかどうかを決定する、実存的な出会いが必要なのであり、単なる知的学習では回心は起こらないのである。一方で、こうした体験は基本的に主観的なものであるため、自分のまわりに起きている出来事が原理によって「説明できる」を感じているときにはその真理性が証明されることになるが、「説明できない」と感じたときには、人はその世界観を捨てることになるのである。

 このように統一原理を受け入れて回心していく過程においては、受講者の主体的な意思が大きな役割を果たしているだが、櫻井氏の記述にはその重要な部分が抜け落ちており、回心の原因をもっぱら伝道する側の意図やテクニックに帰属させている点において片手落ちであると言える。

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ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳28


第4章 性的役割分担(5)

 女性のリーダーシップと摂理的役割について扱う前に、筆者によってなされたいくつかの観察の中で、性的役割分担の違いの問題と関わりがあるものを紹介する。最初の例は、運動内部における男女の葛藤に関わるものだ。調査者である私は、統一運動のセンターのキャビネットの中にあるいくつかの「内部」文書を読む許可を与えられていた。そのセンターの男性リーダーは留守にしていたので、私のために資料を入手してくれると言ったアシスタントの女性に話した。彼女がファイルのキャビネットに行ったとき、事務所で働いていた若い男性が彼女に対して、彼がそこにいる唯一の男性(主体)であるため、彼のみがその文書を見せる許可を与えることができのであり、彼はそれをしないと主張したのである。その二人はリーダーが不在のときに誰が責任者であるかに関して、活発な議論を展開した。私の元に戻ってきたその女性は怒っており、外部の者が彼らの争いを目撃したことを明らかに恥ずかしく思っていた。彼女は、あの男性は「信仰的に幼く」、まだ自分の男らしい自己像を超克できていないのだと説明した。彼女は、彼に対して「上司風を吹かす」よりも、後日リーダーがいるときにもう一度来てもらった方が賢明だと言ったので、私はその通りにした。この事件が似たような観察や記録(注34)に関連付けられたとき、そして独身の男性と独身の女性が性的役割分担に対して異なるアプローチを支持しているという事実に鑑み、統一運動の男性と女性は、彼らの仮想的な家族的役割にもかかわらず、両性の間の長年の緊張関係を完全に解消しているわけでないことは明らかである。メンバーたちは概してこのような葛藤がグループの中に存在することを認めており、それは信者たちの一部がまだ精神的に成熟していないためであるとしている。

 二つ目の観察は、1979年の文師からのメッセージに関連するものである。その中で彼は大学連合原理研究会(CARP)と共に大学のキャンパスで「開拓の仕事」をするように既婚の女性たちに呼びかけたのであるが、彼女たちの大部分は幼い子供を抱えていた。この「使命」を引き受けることは、一年間も家族と離れることを意味したので、かなりの数(注35)の女性たちが師の呼びかけに反応しなかったのである。文はその状況を受け入れて、CARPに加わらなかった女性たちには、加わった女性たちのために祈るよう求めただけだった。一方、運動のセンターで著者は二人の女性メンバーがCARPについて議論しているのを聞いた。そのうちの一人は、見たところ未婚のようであったが、反応しなかった女性たちには失望したと言った。彼女は、いまは世界を復帰するために個人が大きな犠牲を払うべき時だと言った。二人目の女性は幼い少女の母親であったが、それに同意せず、神中心の結婚を実現し、母乳を与えている自分の子供の世話をすることが世界に対する最高の奉仕であると主張した。(注36)この若い母親は、本質的には文師の意志および運動の組織的なニーズのどちらよりも、自分の家庭を優先していたのである。事実上、彼女は自分の家庭を自らの「使命」として選んだのである。(注37)

 今日、統一運動の最高位のリーダーの位置は、ほぼ独占的に男性によって占められており、リーダーが主に女性によって占められていた1960年代から見れば激変している。文師が1971年に米国に移住したときから、既に述べたように、ヒエラルキーの権威ある位置により多くの男性を配置する流れが始まった。デビッド・G・ブロムリーとアンソン・D・シュウプJrが『アメリカのムーニー』のために調査をした1977年には、「長老会議」(金永雲博士は例外であった)、統一運動の会長およびそのスタッフ(広報部長は例外)、州の指導者、移動ファンドレイジング・チーム(MFT)および統一十字軍(WOC)の責任者の大半は男性であった。(注38)

 新設された家庭サービス局の責任者に女性を任命したことは別として、そのシナリオはそのときから今に至るまで大きく変わっていない。(注39)ヒエラルキーの中間地点では、女性たちはリーダーとしてより目につきやすい。例えば、統一神学大学院(UTS)の学部長、『原理生活』と『季刊祝福』の編集者、『トゥデイズ・ワールド』の寄稿編集者はみな女性である。もちろん、運動の有力な神学者もまた女性である。

 公式的なヒエラルキー以外の場所で、メンバーたちが極めて重要な非公式的リーダーシップであると認識していることを、女性たちは行っている:
1.女性のメンバーは疑いなく男性たちよりもファンドレイジングの実績を挙げている。1973年に運動はファンドレイジング・コンテストを開始したが、その年の優勝者は一日に合計612ドルを集めた女性であった。後にその同じ女性は「・・・数年間破られることのなかった教会記録を打ち立てた。彼女は極端に赤信号が長く青信号が非常に短いニューヨークの信号機の場所で、信じがたいことに一日に1000ドルを集めたのである」(注40)このコンテスト以外には、女性のファンドレイジング能力に関してグループ内で公式に認定している例は少ない。しかしながら、メンバーと同様にリーダーもそのことは認識しており、女性のメンバーたちはこの実績に対して誇りを持っている。
2.女性はまた運動によって非常に良き「開拓者」であるとみなされている。すなわち、彼女たちは新しい宣教地にセンターを立ち上げることにおいて非常に有能なのである。この事実は文師が彼自身のスピーチの中で認めている:「エバが堕落したので、女性たちは開拓者として働かなければなりません。女性の方が新しいセンターを開拓するのが得意なのでしょう? それは本当ですか? (ノー![聴衆の反応]) それは韓国でも日本でも、女性に関する真実です。正直に言ってみなさい。女性は男性よりも優秀です。」(注41)
3.さらに、女性たちが運動の出版物においてかなり目覚ましい働きをしていることは明らかである。『原理生活』(1979年4月から1980年8月)に女性の著者は27個中7個の記事を寄稿しているし、『季刊祝福』(1977年春から1979年冬)のちょうど半分のエッセーを寄稿している。彼女たちはまた、統一運動の日刊紙であるニューズワールドにも重要な貢献をしている。
4.最後に、ある特定の女性たちは「霊的に開かれた」人物として、霊界から文師へのメッセージを伝えたり、個々のメンバーに「内的な指導」を提供したりして、相当な影響力を行使している。金永雲はこの役割で有名であるが、これは一部には、女性は生来男性よりも霊的に覚醒されているという統一教会の信仰に基づいている。この信仰については以下により詳しく論ずることにする。

(注34)両性の葛藤について元メンバーが書いた記事としては、ウッド『ムーンストラック』、p.115、アンダーウッドとアンダーウッド『天国の人質』、p.6を参照のこと。個人的な交流の中で、元メンバーのワイン氏がカリフォルニア州の指導者に任命された男性リーダーと、夫のモーゼと共にオークランド・センターの責任者であったオンニー・ダーストとの間の葛藤について語った。ワインはこの「権力闘争」ではその男性のリーダーはダースト夫人にはとても歯が立たなかったと主張した。
(注35)反応しなかった者の正確な数は分からないが、それは疑いなく文師とその他のリーダーたちが予想した以上であった。
(注36)この会話は、運動における「集産主義」と「家族主義」の緊張関係を典型的に表している。【訳注:集産主義(collectivism)は、経済思想の用語の一つで、生産手段などの集約化・計画化・統制化などを進める思想や傾向を指す】
(注37)現在(運動によって定められた)「使命」を持たない既婚女性との会話の中で、あなたは母親としての役割を使命としてみることができるかと著者は尋ねた。明らかに残念そうな声で、彼女は「そうだったらいいんですけど。」と答えた。インタビュー:エンゲル夫妻。
(注38)個人的交流:デビッド・G・ブロムリー
(注39)イギリスにおいても一人の女性がこの役職についている。
(注40)ブロムリーとシュウプ『アメリカのムーニー』、p. 123。
(注41)文鮮明師「トレーニング計画に関する無題の演説」『マスター・スピークス』(MS-363、1973年5月7日), pp. 3-4。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』81


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第81回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」において、統一教会信者たちの信仰や思考のあり方を分析する目的で、「12 演繹的思考と帰納的思考」という議論を展開し、一般的な人間の思考が帰納的であるのに対して、統一教会の学習方法はすべてを演繹的発想によって説明しようとしている点で「極めて特異な学習過程」(p.252)であると主張している。これに関する彼の説明は、明らかに事実と異なり、偏見に満ちたものになっている。前回は創造原理の理解に関する部分を批判したが、今回は堕落論と復帰摂理に関する部分から検証することにする。
「(2) 堕落論と復帰原理では救済史という目的論により歴史を説明しようとする。」(p.253)これに関しては、櫻井氏がその直後で「創造説を採用する限り、自然にも歴史にも目的が付随するのは当然であり、それ自体問題というわけではない」と認めているように、堕落や救済史という考え方そのものがユダヤ・キリスト教的なものである。それは演繹的な思考ということにはなるだろうが、統一教会だけに見られる「極めて特異な学習過程」ではなく、非常に古くからキリスト教神学の中に存在する歴史解釈だ。歴史に目的があるという主張はすぐれて宗教的なものであり、それを受け入れて自分の信仰として採用するかどうかは受講生の判断にゆだねられているのであり、学問的な論証を求められている内容ではない。しかし、櫻井氏はそこに学問的な論証を要求して批判するのである。

 櫻井氏はここで、受講生にキリスト教的な原罪理解や歴史学による古代や近代の事実理解などの知識、あるいは自然や歴史に目的があることの論証に対する批判的思考能力がないために、原理の結論を受け入れてしまうかのような議論を展開している。「しかし、そこまで考えが及ぶ受講生はほとんどいない」(p.253)という櫻井氏の上から目線の発言には、「統一教会に入信した若者たちは、私のように宗教や歴史に対する広範な学問的知識や、物事を批判的に見る精神が欠如していたために、いい加減な教義に騙されてしまったのだ」という含意が読み取れる。しかし、もとより受講生たちは学問的な探究心を動機として統一原理の歴史論を学んでいたわけではないだろう。もしそうであれば、歴史学を教えている大学の講座を聴きに行けばよいからである。受講生たちは自分の人生の指針になるような世界観を探していたからこそ、ビデオの受講を始めたのであり、それは学問的探究心というよりも自分の人生にとってどんな意味があるのかという、実存的な問いかけが動機となっていたと思われる。要するに櫻井氏の批判は「畑違い」なのである。
「(3) 統一教会の教説は、自然の様子や歴史の出来事を説明領域に加えているために、自然科学・社会科学の認識にも通じるものがあるように統一教会員はもとより受講生も錯覚している。」(p.253)この問題は、宗教と科学の関係という古典的で重要なテーマに関わるものであり、櫻井氏のように「錯覚」などという簡単な言葉で片付けられるものではない。一般に、科学は合理主義に基づくものであり、啓示を無条件に受け入れる宗教とは対立関係にあると理解されることが多い。しかし、宗教と科学、信仰と理性の関係はもっと複雑なものであり、櫻井氏のような二分法で解決できるような問題ではない。
『キリスト教大事典』(教文館)の「科学とキリスト教」の項目は、「近代自然科学は西欧キリスト教社会のなかから生まれた」とした上で、科学の発達の背景にキリスト教信仰があったことを以下のように述べている:「古来、物質や人間が容易に神格化される汎神論的な世界観のもとでは自然科学は生まれてこなかった。キリスト教信仰は天地万有の創造主なる神を示すことによって、自然を究めて、その創造主なる神の御業をあがめる意欲を人々のうちに起した。中世末期の近代科学の創始者たちは、そのような意欲に燃えた人たちで、その多くは聖職者であった」(p.202)。このように、近代自然科学がキリスト教文化圏である西欧から生まれたという歴史的事実から見ても、キリスト教信仰と科学を二分法で分けて、対立関係にあるという見方は浅薄であることが分かる。

 合理主義とキリスト教信仰の関係についても同じことが言える。そもそも、信仰と理性がどのような関係にあるかという問題は、キリスト教神学の世界において古代より現代にいたるまで様々な議論が展開されている複雑な問題である。A.リチャードソンとJ.ボウデンの編著による『キリスト教神学事典』(教文館)の「理性」の項目は、信仰と理性の関係について、以下の4つの立場が存在することを解説している:①対立の関係、対極的な関係、②同一のものとは言わないまでも、調和した関係、③理性はある種の信仰の決断を基礎とするか、または啓示の枠組みのうちでしか機能しない、④理性と信仰は相互に独立したものであって、優劣の比較もできない。以下にこの4つの内容を敷衍する:
①「対立の関係、対極的な関係」にあると説く立場は、信仰と理性は水と油のように分離していると説き、理性を排除し、信仰を重んじる立場である。この代表者は、聖パウロ、テルトリアヌス、ルター、カント、ヒューム、キルケゴールなどである。特に2世紀から3世紀に活躍したテルトリアヌスの「不条理なるがゆえに私は信じる」という言葉は、この立場を代表している。
②「調和した関係」を解く立場は、18世紀合理主義のライプニッツやスピノザ、19世紀のヘーゲルなどに共通した見解で、これは「キリスト教合理主義」と呼ぶことのできる立場である。イギリスの哲学者ジョン・ロックは、1695年に『キリスト教の合理性』という本を著し、「理神論」への道を開いた。「理神論」においては、啓示を認めず、理性のみを信頼し、宗教的真理も理性にかなったものだけを認める立場をとった。このように、キリスト教信仰のなかにも、人間の理性の働きだけによって神について知り得るという立場があり、これに基づいてさまざまな「神の存在証明」が試みられた。こうした立場においては、キリスト教信仰と合理主義は対極どころか完全に一致する関係にある。
③「理性はある種の信仰の決断を基礎とするか、または啓示の枠組みのうちでしか機能しない」と説く立場は、理性を少しは評価しているが、信仰がその基礎となっているときに限るという見解である。すなわち、まず信仰があった上で理性が働くという見解である。この代表者は、アウグスチヌス、カンタベリーのアンセルムス、カール・バルトなどである。特に11世紀から12世紀初頭にかけて活躍したアンセルムスの有名な言葉「理解するために、わたしは信じる」は、この見解を端的に表明している。
④「理性と信仰は相互に独立したものである」との見解は、13世紀に活躍した神学博士トマス・アクィナスの立場であり、神学を「自然神学」と「啓示神学」の2つに分け、前者が理性によって神を知る道であり、後者が信仰によって神を知る道であるとした。すなわち、信仰と理性は各々独立した領域を持ちながらも、お互いに矛盾はせず、かえって役立つという立場が存在するのである。

 このようにキリスト教の伝統の中にも、宗教と科学、信仰と理性の関係に関しては多様な見解があり、櫻井氏が主張するように、その間に通じるものがあるという認識が「錯覚」であるなどと簡単に片づけられる問題ではない。それでは、この問題に対する統一教会の見解はどのようなものだろうか? 『原理講論』は総序において、「宗教と科学とが統一された一つの課題として解決され、内外両面の真理が相通ずるようにならなければならない」(『原理講論』三色刷、p.24)と述べているので、少なくとも対立関係にあるとする①の立場でないことは明らかである。かといって啓示を否定するほど合理主義に徹しているわけでもないので②の立場でもない。宗教と科学、信仰と理性の親和性を主張している点で、③と④のどちらかの立場になるのであろうが、そのどちらにより近いかは、個人の個性や信仰観・世界観によって異なるというのが実情であろう。

 櫻井氏は統一教会信徒の思考法は、「全て原理原則、目的に遡って考えなければならず、最終的な結論と事実的事柄の齟齬から論理そのものの妥当性を判断できないために、思考に著しい負荷がかかることになる。」(p.253)と主張しているが、これは信仰に基いた宗教的な思考と、事実に基づいた合理的な思考との間に生じる齟齬や葛藤を意味していると考えられる。だとすれば、それは古代より現代に至るまで多くのキリスト教の信仰者や神学者たちが悩み苦しんできた問題であって、統一教会信徒に固有の葛藤ではない。信仰を持って現実世界に生きるものであれば、程度の差こそあれ誰でも感じることであり、知識の多い者や知的に優れた者であるほどその試練は大きいであろう。

 このように櫻井氏の統一教会に対する批判は、そのまま既存の宗教や伝統宗教にも当てはまる内容が多く、彼の主張するような「極めて特異な」「統一教会特有」の問題とは言えないものである。

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ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳27


第4章 性的役割分担(4)

 ミス・アボットの言葉は、大多数の未婚の女性メンバーの考え方を代表するものである。
「私は、文字通り女性またはエバが対象で、男性やアダムが主体であるととらえるのはとっても有害だと思うわ。だって、どちらも両方の性質を自身の中に持っているんだから。あなたは自分の個性によって対象になることができるけれども、別の方法では主体になることもできるの。」(注27)

 他の女性は、両性の間のいかなる存在論的な区別をも取り除く解釈をした。
「・・・それ(主体と対象の区別)は、非常に相対的で相互的な関係、・・・授受作用なの。その図が描かれるとき、そこには授受作用があり、主体と対象の間に矢印があるわ。それは常に回転しているものなの。それは固定されたものではなく、二つの間に分割点はないの。それらは常にお互いに循環しているの。だから両方が実際には主体であり、両方が実際には対象なの。それらはお互いに反応し合っているだけなの。でも、ある時点での対象はやがて主体になるの。なぜなら、それらはこのように(彼女は自分の手を互いに回転させる)常に循環しているの。そしてそれは私にとっては、それが始まるとき、それが愛、原理講論の言っている愛なの。」(注28)

 運動における女性のロールモデルとしての文夫人に関しては、女性たちは「教会全体の母親役」としての彼女の役割に対して称賛の意を示したが、概して彼女の生き方を真似しようとは思っていなかった。「・・・彼女は愛情深い人のモデルではあるけれども、ライフタイルに関しては、彼女も私も同じ女性だから同じようなタイプの人生を歩まなければならないとは私は思わないわ。」(注29)これらの女性たちは、文師とは異なり、東洋のやり方を天のやり方と同一視していない。このことは、彼女たちが文夫人について語るとき、彼女の韓国的性質(例えば、受動性と家庭第一主義)と彼女のより精神的で普遍的な性質(例えば、人格や愛の強さや祈りの生活)を慎重に区別していることからも明らかであった。

 既婚のメンバーの性的役割分担に関する見解は、一つの顕著な例外はあったが、夫と妻の両方が相互関係、役割の交換、および彼らの関係性において愛がカギを握る力学であることを語った点において、独身女性の考え方に非常に近かった。彼は原理講論における主体・対象の図式を、「深い内的な意味」があるとみなしていたが、結婚における性的役割分担や社会を組織する上での基礎として「外面化」することに対しては反対であった。実際、私に伝えられた全般的な意味は、この図式が意味しているのは、まさにこれらのカップルが結婚において共に経験したことを示しているのだと言いたいということだった。彼らにとって重要なのは、夫や妻がどうあるべきかや何をすべきかではなく、いかにして互いに有効で調和的に関わるかということだったのである。性的役割分担の問題そのものは、関係をうまくやっていくうえでは明らかに二次的なものであり、それと同時に、彼らの神に対する信仰を反映し、彼らの個人的なニーズや個性を尊重していたのである。

 性的役割分担に関する見解の多様性は、二つの非常に異なるカップルをさらに詳しく調べることによって一番うまく説明される。最初のカップルであるランサム夫妻は、統一運動の中で「国際結婚」と呼ばれるものをしており、女性は極東の出身で男性はアングロサクソンである。ランサム夫人は、彼女の背景と気質に照らせば、彼女が夫を支配したり、夫とあらゆる点で平等な結婚では、自分は幸せを感じないだろうと説明した。一方で、彼女が統一運動に入会する以前に結婚しなかった理由として挙げたのは、彼女の国では男性が非常に強くて女性は家庭内奴隷に過ぎないからというものだった。彼女は全生涯を誰かの僕として過ごしたくはなかったし、インタビューをしている間は、彼女の夫ほど積極的ではなかったものの、まったく卑屈な様子はなかった。ランサム氏は、男性はリードしなければならないが、「東洋の文化のように支配的なやり方ではだめだ」と言った。彼によれば理想的には、「主体と対象が調和的な相互作用をなし、最終的には彼らは一体化してより高次の存在となる。その相互作用はダンスのときに起きることに似ている。初めにパートナーの一人がリードし、次にもう一人がリードするというように、ダンサーは常に位置を変え続ける。」(注30)

 我々の目的からすれば、ランサム夫人は東洋文化の産物でありながら、女性の従属的な役割を拒否したことに留意するのは重要である。さらに、彼女の夫の態度は、伝統的なアングロサクソンの男性に対して予想されるよりも、はるかに柔軟であった。ランサム氏はもちろん結婚において主体の役割を果たすのであるが、それを彼と妻の間の独特な人格的関係を反映させるような方法で適応させたのである。

 エンゲル夫妻は統一教会のカップルだが、彼らの性的役割分担に対するアプローチはランサム夫妻のものとはまったく似ていない。彼らは二人とも13年間にわたって統一運動に所属している。エンゲル氏は組織の中間管理職であり、エンゲル夫人はグループの初代家庭局長であったが、現在は老人ホームのソーシャルワーカーとして外部で働いている。彼女が世俗世界でこの位置に着いたのは、彼女と夫が二人の子供のために経済的な安定性を考慮したためである。エンゲル夫人は、およそ言葉に詰まるということのない、たくましくて社交的な人物である。彼女は、「対象」の役割により満足しているように見える夫の影を簡単に薄くしてしまう。彼は、家族にとって重要な決定をするときには、彼よりも妻の方がより大きな影響力を持つことを認めたが、これは彼にとって問題ではないという。彼も妻も、原理講論における主体・対象の枠組みは、人間関係に対する数多くの異なるアプローチを考慮に入れることができるくらいに一般的なものであり、彼らの結婚においては規定された性的役割分担よりも、愛と互いに対する尊敬の念の方がより重要であると示唆した。(注31)

 結婚における性的役割分担に対するより「オープン」なアプローチを志向する上述の「顕著な例外」は既婚の神学生で、彼の妻は一時的にヨーロッパに住んでいた。この研究のためにインタビューを受けた40名のメンバーのうち、性的役割分担に関する立場が頑固な教条主義であると分類することができたのは、キーン氏ただ一人だけであった。
「性的役割分担は明らかにある。男と女には違いがある。そして役割もそれから自然に形成されるものだ・・・。だから、ほら、私は子供に授乳したりしない。私の妻がそれをするだろう? そして彼女が家にいてそれをしている間、私は外に出て新聞配達をしたり、ニューズ・ワールドで働いたり、神学校に行ったり、他のことをしたりする。だから、性別に基づく基本的な性質の結果としての明らかな役割というものがあるのだ。」(注32)

 彼によれば、生物学が無条件に運命を決定するようだ。すべての女性は理想的には家に属している。今日の運動において女性がリーダーの位置についているのは、一時的な手段に過ぎず、摂理歴史のこの決定的瞬間における方便に過ぎない。ひとたび天国が地上に確立されたら、男性だけが支配するのであろう。(注33)

 キーン氏を除いて、ランサム氏とエンゲル氏は、インタビューを受けた8つのカップルの中では、二つの相異なる視点を代表している。前者はやや伝統的な夫婦関係を反映しており、後者は配偶者の性格やニーズに強く基づくアプローチである。その他の6つのカップルはこれらの両極の間のどこかに位置している。これらのインタビューに基づき、筆者は統一運動の結婚における性的役割分担のパターンは、おそらく米国におけるカップルのランダム・サンプルから得られるものと大差ないのでははないかと思った。独身の女性と既婚のカップルから得られた情報のより包括的な社会学的分析は、この章の最後に示されるであろう。

(注27)インタビュー:アボット女史
(注28)インタビュー:マリー女史
(注29)インタビュー:アボット女史
(注30)インタビュー:ランサム夫妻
(注31)インタビュー:エンゲル夫妻、インタビュー:エンゲル氏、個人的交流:エンゲル氏
(注32)インタビュー:キーン氏
(注33)キーン氏は、私が会った中でニュースメディアや反カルトの文献によって描かれたステレオタイプを完璧に表している唯一のムーニであった。他の問題に関する彼の考え方も同様に頑固であり、おそらくこれは根本主義のキリスト教徒としての背景が表れたものと思われる。

カテゴリー: ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』80


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第80回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」において、統一教会信者たちの信仰や思考のあり方を分析する目的で、「12 演繹的思考と帰納的思考」という議論を展開している。演繹とは与えられた命題から論理的形式に頼って推論を重ね、結論を導き出すことであり、帰納とは個々の具体的な事例から一般に通用するような原理・法則などを導き出すことを意味するのは、いわば常識である。櫻井氏は、自然科学や数学は演繹的思考を用いるのに対して、人文学・歴史学・社会科学などは帰納的方法が多く使用されるという。厳密にはどの学問にも演繹的思考と帰納的思考の両方が用いられるが、櫻井氏はかなり大雑把な手法で学問を二つの分野に分けている。

 しかし、櫻井氏が演繹的思考を用いる学問として見落としている、あるいは意図的に避けていると思われるものがある。それは神学である。神学とは信仰を前提とした上で、神をはじめとする宗教概念についての理論的考察を行う学問である。一般的なキリスト教神学においては、神が存在すること、聖書が神の啓示の書であること、イエスがキリストであることなどは、人間の帰納的な思考の結果として導かれる結論ではなく、学問の大前提として予め与えられている「真理」なのである。つまり、それを信じる立場で出発する学問であり、データを取ることによってその真偽を検証しようというような発想はしないのである。キリスト教神学は、こうした大前提のもとに個々の教義の詳細を論ずる学問であるという点において、徹底した演繹的思考を用いる学問である。しかし、神学は自然科学に分類されることはなく、哲学や宗教学に類似するものとして、人文学に分類されるのが普通である。櫻井氏は人文学においては帰納的方法が圧倒的に多く使用されると述べているので、彼の論法によれば、神学はその中の異端的学問ということになるであろう。

 櫻井氏がこうした神学の特徴を知らないわけはないが、彼があえて神学に触れることを避けたのは、神学的思考とはすなわち宗教的思考であるため、それについて説明してしまえば、統一教会信者の発想や思考とほとんど区別がつかなくなってしまうからである。櫻井氏としては、統一教会信者の思考法を非科学的で異常なものとして描きたいのであるから、それとそっくりな思考法が「神学」という伝統ある学問として存在していることが分かってしまえば都合が悪いので、あえて触れていないものと思われる。

 櫻井氏はこうした学問的思考法をモデルとして、人間観、歴史観、社会観の獲得に話を進める。彼によれば、一般の人達は具体的な事柄から認識を導き出す帰納的方法を使っており、それによって人間観・歴史観・社会観を作り上げるという。これが彼の言う「人間の諸科学の営みや日常生活の思想」ということになるのだが、それに比べると統一教会の学習法は「極めて特異な学習過程」(p.252)であるという。一般的な人間の思考が帰納的であるという彼の前提もかなり大雑把で怪しいものだが、統一教会の学習方法の特異性に関する彼の説明は、明らかに事実と異なり、偏見に満ちたものになっている。その一つ一つを検証してみよう。
「(1) 演繹的発想により自然を説明しようとする。」(p.252)ここでは創造原理の二性性相の部分が取り上げられているが、『原理講論』をよく読めば、帰納法と演繹法の両方がこの議論では用いられていることが分かるはずだ。『原理講論』は、神の性質について知るために、被造物の中に潜んでいる普遍的な共通の事実を発見しようとする。その結果、人間には男と女があり、動物には雄と雌、植物にはオシベとメシベ、分子・原子・素粒子にはプラスとマイナスの電荷があることが分かったので、そこから一般的な法則として「陽陰の二性性相」を導きだし、その原因的存在である神もまた「陽陰の二性性相」を持った存在であると論じている。これはまさに帰納的な論理展開である。そして、それはそもそも神ご自身が陽陰の二性性相の中和的主体であるため、それに似せて創られた被造物はすべて二性性相になっているのであるというとき、それは演繹的な論理展開である。

 創造原理の二性性相に関する議論は一種の自然神学であると言えるが、神についての認識を啓示によらず、理性によってのみ探究していこうとするため、自然神学は基本的に帰納的方法を用いる。しかし、理性的な観察によって得られた法則を一般化して世界に当てはめようとするときには、その発想は演繹的となる。これは科学の分野でも同じであり、データの分析から得られた法則性を仮説として立て、それを一般化してより広範な事象を説明しようとするとき、帰納法と演繹法を交互に用いながら思考していることになる。これは人間の思考の基本パターンであって、櫻井氏の言うように学問によって単純に分類できるものではない。『原理講論』の説明の中にも、その学習過程にも、統一教会の信徒の思考の中にも、帰納法と演繹法は混在しているのであって、「統一教会の信徒は演繹的な思考法しかできない」などということはあり得ないのである。

 宗教を信じる者の日常生活においては、信仰を中心として発想しているときには人は演繹的になる。疑うことの許されない大前提が存在し、そこから「こうあるべきだ」という思考をするのが信仰というものである。しかし、宗教を信じる者も日常生活のすべてのことを信仰に基づいて演繹的に思考しているわけではない。信仰とは本質的に関係のない日常生活の雑事は経験に基づいて判断していることがほとんどであり、人は時と場合に応じて帰納法と演繹法を使い分けているのである。問題は、信仰を中心とする演繹的思考と、経験に基づく帰納的な思考が矛盾・対立するときであり、こうした瞬間は常に信仰者に訪れる。それは時には信仰の危機になり、時には信仰の飛躍にもつながるという両面性を持っている。この問題は、「信仰と理性」「啓示神学と自然神学」の内容にも通じる神学の古典的なテーマだが、どうも櫻井氏にはそのような神学的センスが欠如しているようで、極めて乱暴で大雑把な議論になってしまっている。

 櫻井氏の記述によれば、創造原理の説明では陰陽説の二元論を仮定として、そこから霊肉二元論が演繹的に導かれるかのような説明がなされているが、実際には創造原理がこのように教えられることはない。創造原理で説明している二性性相には「陽性と陰性の二性性相」と「性相と形状の二性性相」の二種類があり、霊と肉は後者に属するものであるから、両者に直接的な因果関係はなく、「陽陰の二元論があるから霊肉の二元論も正しい」というような説明がなされることはない。人間に男と女がいることは客観的に観察可能な事実であるが、霊魂や霊界があるかどうかは我々の五官で経験的に観察できるものではないので、「人間には男と女があるのだから、霊と肉もあるはずだ」というような議論に説得力がないことは誰の目にも明らかであろう。こうした稚拙な議論ができるのは、櫻井氏が原理講義を直接聞いたことがないためであると思われる。あきらかな取材不足だ。

 また、受講生が創造原理を受け入れていく理由に関して、「陰陽説の二元論を仮定とする以上、霊肉二元論の結論だけを否定しても、導出の論理自体が正しいために理解不足という指摘をされてしまう。陰陽説の根本原理まで遡って否定できる人は極めて少ないために、受講生の多くは直感的にはひっかかる事柄があっても、論証の過程に圧倒されて疑問を出せないまま、結論を承認せざるをえないという心境に至るのである。」(p.252)と記述しているが、これは宗教的回心というものに対する彼の根本的な無知あるいは偏見を表明しているような文章である。

 そもそも人は、理路整然と教義を説明され、それに対して反論できなかったり、反論しても論破されてしまったからという理由で、その宗教に回心するのであろうか? 回心とは、理論的に反駁できない教義の結論をしぶしぶ承認することなのだろうか? そんなことはない。筆者はこれまでに、原理に反論できずに悔しい思いをして、それでも原理を受け入れずに去って行った修練生をたくさん見てきた。理論的に圧倒したからといって人は伝道されるものではないのである。人が原理を真理であると受け入れて回心する理由は、それが自分の過去の人生や現在の状況、あるいは自分の理想とする生き方に対する「説明理論」として納得できるからであり、そのことに感動するからである。宗教とは自分自身や世界について説明する「物語」であり、人が回心するということは、ある宗教が説いている物語を、「自分の物語」として採用することを意味する。それは単に教義に理論的に反駁できなかったからといって起こるものではなく、自分の人生と宗教的教義の間に何らかの実存的な出会いがなければ起こらないものなのである。

 宗教学者であるはずの櫻井氏に、なぜこのことが分からないのであろうか? それは資料に問題があるためである。櫻井氏が調査対象とした人々は、「青春を返せ」裁判で統一教会を訴えている原告たちが中心である。彼ら(彼女ら)は一度は統一教会に入信し、熱心に活動までしたのであるから、何らかの宗教的回心を体験しているはずである。ところが、彼らは自らの宗教的回心が真正なものであることを認めてしまうと、主体的な信仰を動機として活動したことになってしまうために、教会に対して損害賠償を請求できなくなってしまう。それでは訴訟が成り立たないので、自分が回心した過程を正直に描写するのではなく、教会の巧みな誘導によって説得され、納得させられた「受動的な被害者」として描写する必要があるためだ。こうした目的に基いて書かれた歪んだ描写を基礎資料としているところに、櫻井氏の研究の致命的な欠陥がある。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』