実況:キリスト教講座40


自然神学と啓示神学(3)

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この「福音主義神学」の大前提を受け入れてしまうと、どうして「原理が間違っている」という結論になってしまうのでしょうか? 誰かわかる人いますか?

答え:「被造世界の中に二性性相が普遍的共通の事実であるということを用いて、原理は神様の神性を導き出しているからです」

まさにその通りですね。創造原理第1章1節の中に神は二性性相であるという説明が出てくるわけですが、ローマ人への手紙1章20節などを引用しながら、被造世界の中にある普遍的な共通の事実を調べることによって神様を知ることができると言っています。そして被造世界を調べてみたら、陽性と陰性、性相と形状の二性性相があるということが分かったので、神様が二性性相だということが分かった、と言っていますね。これは被造物を観察することを通して神の性質が分かったという論理展開に、創造原理の第一章はなっているということです。このような原理講論の説明というのは、福音主義神学の大前提からすると、まさに何だということになるでしょうか? 「異教的」ということになるんです。すなわち、異教的神学、本当のキリスト教の伝統に立たない神学なので、統一原理は「本当のキリスト教とはかけ離れているものであり、極と極であることだけはよくわかった」という山崎浩子さんの結論になるわけですよ。

つまり、反対牧師の説得の中で福音主義神学の大前提を教えられて、「はあ、それが本当のキリスト教なんだ。だったら統一原理というのは創造原理の最初の説明のここから間違ってるんじゃないか。だから信じるに値しない。教会を離れましょう」という結論になったということなんですね。ですから、神学に対する知識というものが不足していると、この説明だけで原理は間違っていると思い込んで教会を離れてしまうということになるんです。

それでは皆さんは、私が原理講義風に説明したこの福音主義神学の大前提を受け入れますか? そもそも、神の啓示、福音、み言葉によってしか、神様は人間に理解されないということは、人間が努力して神様を求めるということが一切否定されているわけです。つまり、ここには人間の責任分担という考えは全く存在しないということになります。しかも、被造物を通して神を理解することはできなくて、あくまでみ言、啓示、福音によってしか理解できないということは、いわゆる「自然を通して神を知る」なんていうことはできないという結論になってしまいます。これは私たちの考えと全く相反する内容であるわけです。

まとめますと、この福音主義神学の大前提は、創造原理第一節「神の二性性相」の一番初めの説明を真っ向から否定する内容であるということが分かるわけであります。原理はローマ人への手紙1章20節にある「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない」という聖句に基づいて、被造物を観察することによって神を知ろうとしています。しかし、こうした考え方は福音主義神学の大前提からすると、完全に否定されてしまいます。すなわち、「自然を通して神と出会う」などということは一切ないというわけです。それでは何を通して出会うのかというと、「聖書だけ!」というのが福音主義神学ということになるんですね。

これはたいへん極端な世界観でありまして、たとえばこういうことですよ。統一教会には「心霊復興」という伝統があってですね、まあ海に行くとか山に行くとか、自然に触れることを通して心霊が復興するから、神様に出会うということで、出かけて行ったりしますよね。そうするとそこで出会う自然が非常に美しいということで、「美しい被造物の中に神の愛を感じる」などと言えば、統一教会では「あなたもだいぶ神様の愛が分かってきましたね」とか「原理が分かってきましたね」ということで、肯定的に評価されるわけです。しかし、もし皆さんが福音派の教会に属していたとしたら、「心霊復興」という言葉はおそらくないと思いますけど、自然の中に出かけて行って、「ああ、自然の万物の中に神様の愛を感じる!」などと言ったりしたら、「あなた、それは異教的な考え方よ!」なんて言われることになってしまうわけです。

このように福音主義神学は、「自然を通して神と出会う」という考え方を否定する、とても極端な思想であるということが分かります。『福音主義神学概説』の35ページにしっかりと書いてあるんですが、「福音主義神学は、その基点において、啓示神学である。それによってすべての異教的神学(自然神学)が退けられる。」とあります。この「自然神学」とは何であるかというと、自然を観察することを通して、神様について類推したりとか、神様がどんな存在であるかということを語る神学のことを言うわけです。こういう神学は、福音主義の立場からすると、退けられなければならないということになります。

ハンフリート・ミューラー

ハンフリート・ミューラー

カール・バルト

カール・バルト

なぜこんな神学が出てきたのでしょうか? そもそもこの『福音主義神学概説』の著者ハンフリート・ミューラー(1925-2009)は旧東ドイツの神学者でありまして、かつてヒトラーのナチに対して抵抗したドイツ「告白教会」(Bekennende Kirche)の流れを汲む神学者です。「告白教会」とは、ナチス・ドイツの膨張政策に同調した第二次世界大戦前のドイツ・キリスト教会に反発して結成された組織です。このころのドイツのキリスト教会は、日本の戦前のクリスチャンたちのように、ナチスの政策に従う勢力が優勢でした。しかし、カール・バルトをはじめとする一部の聖職者たちは、礼拝すべきは神のみである(暗にヒトラーではないと指摘する)として、神に対する信仰を「告白する教会」を結成、ナチズムに同調しないことにしました。これが「告白教会」という名前の由来です。すなわち、ナチズムに同調しない、これと闘っていくという教会の伝統からこういう神学が生まれてきたわけです。

ということは、この神学が生まれてきた背後をたどってみると、まさに危機的状況といいますか、平時ではなく極端な状況の中で出現してきた神学であることが分かります。神学というのは、必ずその神学が出現するようになった社会的背景の影響を受けるわけですよ。ですから、こういう極端な状況の中で出現してきた神学というのはたいてい主張が極端になるんですね。そういう神学なんだということを理解して、必ずしもこれがキリスト教全般の立場を代表する普遍的な見解ではないのだということが分からないと、「これが正統なキリスト教だ」と言われてしまうと「ハイそうですか」と言うしかないということです。要するに、これは、特殊な状況で生れた神学であり、必ずしもすべてのキリスト教神学に通ずるような普遍的見解ではありません。ですから山崎さんの場合には、キリスト教神学の幅広い理解がなかったために、この説明だけを聞いて、統一原理は間違いだと思ってしまったということになります。

たとえ神学の知識がなかったとしても、この文面だけから読み取れることを指摘すると、まずこの「異教的」という表現はとても侮蔑的な言葉ですね。この「異教」という言葉の中には、他宗教の価値をまったく認めない独善的匂いがするわけです。キリスト教というのはある意味でとても独善的で排他的な宗教でありまして、自分の宗教だけが神の啓示をいただいているのであり、他の宗教はすべて迷信か悪魔のささやきに過ぎない、というぐらいに思っているんです。ですから、他宗教の中に真理を見いだすなんていう思想は基本的にキリスト教の中にありません。イスラム教のコーランの中にも、仏教の経典の中にも真理は一切ないと思っているんです。聖書だけに神様は啓示されたと思っているんです。だから「異教」といってキリスト教以外の宗教を全部蔑むわけですよ。「これはちょっと傲慢なんじゃないんですか? 統一教会ではそんなふうには考えず、他の宗教にも真理の一部があると考えていますよ。」と批判しなければなりません。

それから、福音主義神学では、人間から神を知ろうとする努力を否定しています。そこには人間の責任分担という概念は存在しません。啓示というのは上から一方的に来るものですから、この啓示を極端に強調して、人間が理性を使って考えることを否定する考え方です。これはともすれば盲信や狂信に陥る危険性をはらんだ思想ですね。すなわち、理性の否定という問題があるということです。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』28


櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第28回目である。

「第Ⅰ部 統一教会の宣教戦略 第3章 統一教会の教団形成と宣教戦略」の続き

先回まで本章の「二 統一教会の宣教戦略の展開」(p.88~102)の内容を扱ってきたが、今回から「三 民俗宗教を併合する新宗教」(p.103~p.126)の内容を扱う。この部分は天地正教について扱っており、23ページに及ぶ詳細な記述であるが、これは櫻井氏が1998年に発表した「新宗教教団の形成と地域社会との葛藤――天地正教を事例に――」(『宗教研究』317号、p.75-99)のリライトであり、テキストの大部分を再利用したうえで、一部情報をアップデートしたり、記述を削除または変更したものである。

天地正教については、このブログの「霊感商法とは何だったのか?」のシリーズで三回にわたって扱っており、筆者はその際に櫻井氏のこの論文を「天地正教に関する宗教学者による客観的な研究」として紹介している。その内容も、「全国霊感商法被害対策弁護士連合会による天地正教の批判を踏まえながらも、川瀬カヨの生涯を資料に基づいて丁寧に追いながら、天地正教の成立過程を分析している」と肯定的な評価をしている。櫻井氏の論文の概要と、「霊感商法」と天地正教の関係に関心のある方は以下のURLを開いて読んでいただきたい。したがって、ここでは天地正教に関する詳細な説明は繰り返さない。
http://suotani.com/archives/1558
http://suotani.com/archives/1566
http://suotani.com/archives/1578

天地正教の誕生は1988年であり、約10年活動した後に、1999年に統一教会によって事実上吸収合併された。その間、筆者は継続して統一教会のメンバーであったので、天地正教について見聞きしたことはあり、近くの道場を訪問したこともあったが、直接かかわる機会は少なかった。櫻井氏の1998年の論文は地道な調査を行って書いたものと思われ、事実関係に関して筆者はこれに反論するだけの情報を持たない。とりわけ北海道で起こったことに関しては、直接知っていることはほとんどないと言ってい良い。したがって、天地正教に関する記述の事実関係に関して逐一反証することはできないので、少し違った角度から本章の「三 民俗宗教を併合する新宗教」の内容について分析を試みることにする。

それは、1998年に発表された「新宗教教団の形成と地域社会との葛藤」と2010年に出版されたそのリライト版である「三 民俗宗教を併合する新宗教」のテキストを比較することを通して、その間に櫻井氏の捉え方や考え方がどのように変化したのかを明らかにするという方法である。以降、1998年に発表された初出の論文を「甲」と表記し、2010年に出版されたリライト版を「乙」として、比較検証を行うことにする。

櫻井氏は乙の冒頭で、「統一教会が教勢拡大のために日本の民俗宗教を擬装するという宣教戦略のもとに形成された教団が天地正教である」(p.103)と断言しているが、こうした表現は甲の中には存在しない。「擬装」とは人の目を欺くために外見をまぎらわしくすることを意味し、断罪の意味を込めたかなり強い言葉である。天地正教に対するこうした位置づけの変化は、1998年と2010年の間に起きた櫻井氏の統一教会に対する心境の変化を表していると思われる。すなわち、敵対心が増大したということだ。

川瀬カヨに対する櫻井氏の評価は、日本における典型的な女性のシャーマン的霊能者であるという点では一貫している。その体験は、苦難の半生と更年期の神憑り体験、教団の遍歴による宗教観と儀礼の確立、修行による霊威の強化という点では、中山みきや出口なおと共通するものがある。しかし、カヨはシャーマン的霊能者のレベルに留まっていたのであり、教祖として一派を立ち上げるほどのカリスマは持ち合わせていなかったという。そうした中で、1973年に「霊感商法」と出会うのである。この出会いに関して、甲の論文においては以下のような記述がなされている。
「カヨは初期の霊感商法に出会い、積極的に関わるようになった。しかしながら、カヨを将来への不安、家族問題、病気等をつかれた悪徳商法の被害者とみるのは妥当ではないだろう。この時期は霊能者としての名声を得、経済的にも一応の安定を得ていた。霊感商法のレトリックに落ちたというよりも、カヨ自身が壺や壺売りの口上(家系図、先祖の祟り・供養、霊界の知らせ等)、その後の統一原理による説明に魅力を感じ、自身の宗教を包含するものとして受け取ったのであろう。ここでは、カヨ自身の子も同時期に統一教会と関わりを持ったこと、彼女固有の家族問題等も含めて、統一教会へのコミットを理解していく必要がある。」(甲、p.83)

この表現は、川瀬カヨを「霊感商法」の受動的な被害者としてではなく、むしろ積極的な回心者としてとらえており、彼女自身が統一原理というより包括的な宗教理念に魅力を感じていた点をきちんと押さえている。しかし、甲にあったこの文章は、乙においてはバッサリ削除されているのである。それは、川瀬カヨの一家を統一教会の被害者として描きたいという櫻井氏の乙におけるシナリオにおいては、都合が悪いからである。

さて、甲においては1983年に天地正教の前身である「富士会」の会長に川瀬カヨの三女・静江が「神の天啓」で決まったことが報告されたと、客観的記述がなされているが、乙においてはわざわざ「この部分は天地正教による創作の要素が大と思われる」という注釈がつけられている。これは、天地正教誕生の経緯が川瀬カヨ一家の意思とは関係のない、統一教会の「やらせ」であると言いたいがためである。

川瀬カヨのファンサークルのようなものであった「富士会」が天運教、天地正教へと再編成されていく過程において、もともといた信者たちが多数離脱したことは事実のようである。教祖自身の回心によってもたらされた教団の変化に、保守的な信徒がついて行けなくなったというのはいかにもありそうなことだが、櫻井氏はここでも「カヨはこのようにして大理石壺販売優秀者となったが、信者を失う代償を払っている。その代りに統一教会から統一教会信者を送りこまれたわけだ」(乙、p.114)と、彼女を被害者として描くことを忘れない。

天地正教の教義に関して、甲においては「カヨ自身が現在の教義である弥勒信仰を創出したとは考えにくい」としつつも、「カヨ自身にも受容の契機があったと思われる」としてその主体性は認め、「弘法大師の奇跡信仰、入定から弥勒としての下生信仰の内容が、部分的にでもカヨの知識にあったのではないか。それが、統一教会の明瞭なビジョン化(原理講論のメシヤ信仰、韓国ツアーによる弥勒信仰遺跡巡り等)によって、カヨ自身が持っていた一切の救済・解決願望と親和的に結びついたと思われる」(甲、p.86)としている。要するに、カヨ自身の中で従来の信仰と統一原理が結びつき、より高次の教えである統一原理によって包摂されたという理解である。

しかし、この部分も乙においてはバッサリと削除され、「要するに、統一教会の教説を弥勒信仰に擬装しているのだが、あまりにも露骨である」(乙、p.116)という断罪調の表現に改変されている。天地正教として全国展開し、「下生した弥勒が文鮮明夫妻である」という神示が公表されるプロセスに関しても、「要するに、天地正教の川瀬一家の動きとは別に、統一教会側の方で全てセッティングを行い、各地の道場長も教団の方針を周知していたということなのだろう。天地正教の教団運営を担当していた統一教会信者と天地正教の各道場長達は、教祖や教祖一家の意向とは関係なく、統一教会による霊石販売活動を天地正教という仏教系新宗教を擬装して行っていたのである」(乙、p.117)と加筆するなど、攻撃の手を緩めることはない。結論は「カヨは死後も統一教会に利用されたのである」(乙、p.117)というものだが、この記述も甲にはないものである。

櫻井氏は天地正教の行事に参与観察をした際に、年輩信者から「統一教会の教えは難解で一般向けではない。天地正教は仏教的だから、年輩の人に受け入れられやすい」という発言を聞いているが、これに対する評価も、甲においては「統一教会の活動戦略と、天地正教の教団アイデンティティーを見るのは不当であろうか」(甲、p.90)という控えめな表現をしているのに対して、乙では「統一教会の活動戦略と、天地正教という擬装が窺える」(乙、p.119)というより断定的で断罪調の表現に改められている。

このように、2010年に出版された乙においては、北海道の小さな民俗宗教に過ぎなかった川瀬カヨの「富士会」を被害者の立場で描き、それを乗っ取ってダミー教団化した統一教会を加害者であり悪者の立場で描くというストーリー構成が徹底して貫かれていることが分かるであろう。その極め付けが、「いずれにしても、北海道の小さな民俗宗教に傷を残したことに違いはなく、彼女達は統一教会の力の前にねじ伏せられた」という結び言葉である。こうした論調の変化が生じた原因は、櫻井氏の統一教会に対する敵対心が増大したという感情的な要因と共に、『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』という書物の目的が、客観的で価値中立的な宗教研究というよりは、統一教会を批判・攻撃することにあるという、目的論的な要因も作用していると思われる。このような変化に関して櫻井氏自身は以下のように説明している。
「基本的な知見・資料に関しては、書籍全体の構想にあわせて資料提示や論調も変えており、資料の補充も行った上での分析・考察をなしている。」(p.579)

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実況:キリスト教講座39


自然神学と啓示神学(2)

 それでは、『週刊文春』に掲載された、山崎浩子さんの脱会手記の中から、『原理講論』の間違いに気づいたとされる部分を読んでみましょう。

「そして、いくつかの話のあとだった。『福音主義神学概説』(H・ミューラー)のたった数行の文を見せられたとき、私は、体の中がカーッと熱くなったのを感じた。『統一教会は、キリスト教を統一するなんて言っているけど、これでは、そんなことは絶対にできない。キリスト教における最大の罪を犯しているんじゃないだろうか』。私は、その本を一晩中読み続けた。むずかしい本だった。けれど、統一教会の信仰は、本当のキリスト教とはかけ離れているものであり、極と極であることだけはよくわかった」(『週刊文春』1993年4月29日号、43ページ)

 このような表現で書かれているわけです。山崎さんが統一教会の信仰を棄てるようになった理由は、お姉さんや親族との関係も含めて、実際にはいっぱいあるのかもしれません。しかし、少なくとも神学的・教義的に山崎さんの信仰を破壊したのは、この『福音主義神学概説』という本があって、そこにわずか数行の文章があって、その文章を見せられて説得されたときに、なにか「体の中がカーッと熱くなった」というんですから、いわゆる宗教体験のようなものをして、「あー、原理は間違いだったんだ!」ということに気付いて、教会を去って行ったということが、この文章から分かるわけです。それでは、皆さんはこの手記の中に出てくる、ハンフリート・ミューラーという人の書いた『福音主義神学概説』という本の数行の文章というのは、一体どんな文章なんだろうか、ということに興味がありませんか? ぜひ読んでみたいと思いませんか?(笑)

 ということで、皆さんとこれからその文章を味わいたいんですが、もしかしたらそれを読んでいるうちに皆さんの中で体がカーッと熱くなって、「原理は間違いだった!」という悟りを開く人がこの中から出ないとも限りませんので、(爆笑)ぜひ皆さん、信仰を失わないように、決意してこの問題の部分というのを一緒に読んでいただきたいと思います。まず、aからです。

「a.福音主義神学は、神が人間を欲し、求め、見出し給うことによってご自身を認識させるべく与え給うということに信頼しているが、しかし異教的神学は、人間が神を欲し、求め、見出すことによって神を発見するということを頼りにしているからである。 」

 どうでしょうか? 体がカーッと熱くなって、「原理は間違っている!」と悟った方はいますか? 体が熱くなる前にまず、何を言っているのかよく分かんないんじゃないでしょうか?(爆笑)この文章を読んで明確に意味が分かったという人いますか? 一人も手が上がりませんね。21修で聞くと、だいたい30人くらいの中で1人か2人くらい手が上がりましたね。それ以外はまったく理解できないんです。とにかく、こういう文章なんですね。私がキリスト教講座などを講義しますと、よく「神学を勉強したくなりました。何か神学の本で良いのがあれば推薦してください」と言われるんですが、私はいきなり神学そのものの本を読みなさいと推薦しないんです。なぜかと言うと、こういう文章が一冊の本の最初から最後までずーっと書いてあるとしたら、それを読むのがいかに苦痛かということは皆さんも分かると思います。そもそも外国語から翻訳してありますので、こういう感じの文章になります。これがaなんですが、実はbもあるんです。

「b.福音主義神学は、神が神からしてのみ、すなわち神ご自身のみ言葉からしてのみ認識され得るということ、それゆえまた神がご自身を人間に啓示し給うということに基づいているが、異教的神学は、神が創造から(・・・現に存在しているものから)認識され得ると考え、それゆえに人間は神を発見し得ると考えているからである。」(『福音主義神学概説』35~36ページ)

 これもまあ、日本語であるということは分かるけれども、ほぼ訳が分かんないという感じの文章ですね。はたして山崎浩子さんはこれが理解できたんでしょうか? まあ、理解できたから教会を離れたということになるんでしょうけれども、皆さんはどうでしょうか? 理解できなければ体がカーッと熱くなることもないですね。じゃあ、この難しい文章をどう理解しましょうか。これは非常に不親切な文章ですね。これだけ長い文章なのに途中に丸が一つもないですね。(笑)

 じゃあ、私は理解できるんでしょうか? この難解な文章を私は正確に理解できるのかといいますと、一応、私は統一神学校というところを出ておりまして、キリスト教神学を学んでおりますので、この二つの文章が何を言わんとしているのかは分かるつもりでございます。そこでこれから、これらは福音主義神学の大前提として述べられている内容なんですが、文章を読んだだけではまったく意味の分からないこのaとbの内容を、原理講義風に図示して、皆様にご説明してみたいと思います。だいたい統一教会の方々は、論理でとらえる左脳型の方よりもイメージでとらえる右脳型の方の方が多いので、図で書いて初めて分かるという方が多いと思います。

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 まず、aの部分が何を言っているのかというと、神様がいて、人間がいるとすると、もし人間が神様を理解することができるとするならば、神様の方が人間を欲し、求めて、神様の方から人間に対してアプローチしてくるときのみ、人間は神様について何かを知り得るんだということが言いたいのです。それは結局、上から下への動き以外にはあり得ないということです。この上から下への動きというのは、神様が人間に啓示を下さるとか、福音を伝えるとか、み言を語るとか、とにかく神様の方から人間に対して「私はこういう存在である」ということを教えてくれなければ、人間は神様について何も、一切分からないということが言いたいんです。

 これとは逆の方向、すなわち人間の方から神を求める、例えば人間が一生懸命考えて、理性をはたらかせて神様について探究したり、あるいはいろんな修行をしたりして、その結果として人間の方から神を認識するとか、発見するとかいうことはあり得ませんよと。もしそういうことがあると主張している神学があるとするならば、それは異教的神学であって、本当のキリスト教的神学ではありませんよ、ということが言いたいのです。これがおよそaの文章が言いたい内容ということになります。

 じゃあ、bの文章が何を意味するのかというと、ここに神様と人間と被造物という三つの存在があって、もし神学において人間が神様を認識するとか知るということがあり得るとするならば、「神が神からしてのみ、すなわち神ご自身のみ言葉からしてのみ」人間は神様について理解することができる、と主張しているわけです。すなわち、神様が「私はこういう存在である」ということを、み言、啓示、福音、どういう言い方をしたとしても同じですが、それを通して人間に示してくださることによって、人間は神を理解できるんだということです。これはすなわち、聖書に記された神のみ言によってしか、人間は神様について何も知ることができないということです。

 それ以外の方法、これはすなわち被造物ですね。この被造物を通して人間が神様について認識したり発見したりするというようなことは、基本的にバツであって、あり得ません。もしそれがあり得ると主張している神学があるとするならば、それは異教的神学であって、本当の意味でのキリスト教的神学ではありませんよと。これが、あの長々と書いてあったbの文章が基本的に言いたい内容であります。

 これが「福音主義神学」というものの大前提ですよということが、このハンフリート・ミューラーという人の書いた本の冒頭部分に書いてあるわけです。これで皆さんは福音主義神学というものの基礎をマスターしたことになります。このように図で示すと、だいたい何が言いたいのかということは理解できたと思いますが、それではその結果として、どうして山崎さんは「あー、原理が間違っている!」と思って、教会を離れてしまったんでしょうか?

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』27


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第27回目である。

「第Ⅰ部 統一教会の宣教戦略 第3章 統一教会の教団形成と宣教戦略」の続き

 櫻井氏は本章の中で、「教勢の衰退と資金調達方法の変化」というテーマを掲げ、統一教会の伝道が1980年代末で頭打ちになった理由について、統一教会の外部要因と内部要因の二つに大別して分析している。

 櫻井氏が1990年代以降の宣教停滞の内部要因として指摘しているのは、日本統一教会に韓国人の幹部が派遣されるようになり、その結果として、日本の統一教会が経済活動に専心するようになったことである。日本の統一教会の要職である「全国祝福家庭総連合会総会長」のポストに韓国人の幹部が派遣されるようになり、それ以降、日本の統一教会信者に対する献金の要請が激化したのだという。それまでは教会の外部に対する物販によって資金を獲得していたが、霊感商法批判によってそれが厳しくなった1990年以降は、内部の信者に対して多額の献金が要求されるようになり、現役信者からも嘆きが漏れるようになったと櫻井氏は説明する。要するに、韓国統一教会幹部によって日本統一教会が「財布」のような地位に貶められたために、宗教的本質を見失ってしまったということのようだ。櫻井氏の表現を借りれば、以下のようになる。
「統一教会の基盤が確立した一九八〇年代以降、信者の布教・教化では、教勢拡大(資金獲得、資金獲得のための新規信者獲得)が自己目的化した。何のために人を誘い、『原理』を教えるのか、ゆっくり考えるいとまもなく、ひたすら伝道と経済活動に明け暮れたのが一般信者の生活だった。」(p.100)

 こうした記述は、教会を内部から見つめていた元信者たちに対するインタビューと、彼らと長年にわたって関わってきた反統一教会のキリスト教牧師や弁護士などから得られた情報をもとに書かれていると思われる。こうした分析が正確で客観的なものであるかどうかに関しては、多くの疑問があり、そのまま鵜呑みにするわけにはいかない。教団の外部にいる牧師や弁護士たちは、「統一教会体験」を直接することができる立場にはないので、彼らの認識も結局は統一教会を離脱した「元信者」たちから得られた情報に依存している。櫻井氏が参考にしていている副島・井上両氏による『文藝春秋』1984年7月号の記事「これが『統一教会』の秘部だ ― 世界日報事件で『追放』された側の告発」にしても、教団を去った2人の元幹部が書いたものである。

 自分の所属する教団をどのように見つめるのかは、現役の信者であるか元信者であるかによって大きく異なるであろうし、そのどちらであったとしても、その人物が置かれていた位置、受けていた待遇、人間関係の良し悪し、その人自身の人間性や世界観などによって大きく異なるものである。櫻井氏の描く宣教停滞の内部要因は、あくまでも教会のあり方に対してネガティブな感情を抱いて教会を離脱した元信者の視点を通して原因を分析したものにすぎず、その分析が正しいという客観的な根拠がないものである。もしこの説明に同意する人がいるとすれば、その人はこうした元信者の感情や世界観に共鳴しているに過ぎず、状況の客観的な分析を行っているわけではないだろう。

 櫻井氏の説明で矛盾するのは、古田元男氏が実権を握っていたとする1980年代にはすでに統一教会は「集金マシーン」と化していた(p.100)と主張しているにもかかわらず、この時期に統一教会は最高の伝道実績を上げているということである。したがって、櫻井氏の言う「日本の統一教会が経済活動に専心するようになった」時代と、「統一教会の修練会に多数の若者が参加していた」時代は1980年代において完全に重なっており、経済活動に専心することによって宣教活動が停滞するようになったという論理は成り立たないことになる。

 私としては、日本統一教会が経済活動に専心するようになったために宣教活動が停滞したという櫻井氏のテーゼ自体を疑ってかかる必要があると思っている。たとえ日本統一教会が韓国統一教会幹部にとって「財布」のような存在であったという櫻井氏の主張が正しいと仮定しても、それが必ずしも日本統一教会が衰退する原因とはならず、却ってそれによって守られ、発展したという可能性もあるからである。このような逆説を理解する上で参考になるのが、島田裕巳著『新宗教儲けのカラクリ』(宝島社)の記述である。

 島田氏によると、新宗教にとって厄介な問題は金がないことよりもむしろ「金余り」の状態であるという。それは金が集まることが教団を堕落させる方向に作用することがあるからである。人は金がないときには、それを手に入れようとして創造性を発揮し、金集めに精を出す。それは個人の動機を高め、組織を活性化するなど、ポジティブな効果をもたらす。しかし、それが奏功して金回りが非常によくなり、余剰金が発生すると、ネガティブな効果をもたらすというのである。まず、幹部が金儲けや蓄財に走るようになり、贅沢な生活をしたり、教団の金を個人的に悪用したりすれば、一般信徒からの信頼を失う。さらにそれが利権化して、利権争いが始まれば、それが組織内における対立や抗争、分裂や分派に発展していくからである。すなわち、余剰金は個人を堕落させ、組織を混乱させる原因となるのである。島田氏は、日蓮正宗が創価学会から入ってくる潤沢な資金によって堕落させられたと分析している。そして創価学会は、余剰金が幹部に回らない仕組みを整えることによって、分派分裂を防いできたというのである。

 世界に貢献してきたにせよ、韓国に送金してきたにせよ、日本統一教会は国内で集めたお金の大半を自分の利益のために使わず、他者のために貢献してきた。そのことの故に、日本統一教会には莫大な余剰金が発生する余地はなく、結果的に幹部の腐敗堕落や分派分裂を防ぐことができ、さらには世界の統一教会の中で最も発展した組織となったという解釈も成り立つわけである。これは「他者の為に生きる者が神の祝福を受けて発展する」という真理の一つの実例であるかも知れない。

 櫻井氏の統一教会理解の問題点は、献金や万物献祭の意義を「罪深いエバ国家である日本はアダム国家である韓国に貢ぐのが使命だ」といような極めて稚拙で陳腐なものとしてしかとらえていないことだ。このような教説を聞かされただけで、ひたすらそれを信じて熱心に献金するような人々が統一教会の信者であると本気で思っているとすれば、それはよほどバカにしているか、極端に歪んだイメージを刷り込まれているとしか思えない。統一教会には、万物献祭や献金に関する高度でシステマティックな神学が存在する。その内容に説得力があるからこそ、統一教会の信者たちは熱心に献金をするのである。この問題に関しては当ブログの「宗教と万物献祭シリーズ」で詳しく扱っており、特に統一教会における万物献祭の意義については以下のサイトを参照していただきたい:http://suotani.com/archives/1200

 1980年代から1990年代への大きな変化は、実際には献金要請が激化したことではなく、日本統一教会のリーダーシップが日本人から韓国人に変わったことである。しかし、それが原因で伝道活動が停滞するようになったという分析が正しいかどうかは分からない。もしそうだとすれば、日本人と韓国人の間の文化的相克が有効なリーダーシップの発揮を妨げるようになったということになるのかもしれない。もう一つの大きな変化としては、1980年代に大量に伝道された若者たちが、1990年代に入ると家庭生活を営むようになり、少ない経費で動員できるマンパワーが不足するようになったことがある。また、「還故郷」の大号令によって、それまで「献身者」として専従的に活動していた青年たちが組織活動を離脱するようになったことや、活動の主力が青年から壮年壮婦にシフトするようになったことなど、80年代から90年代にかけての日本統一教会の変化は、私が思いつくだけでもたくさんある。そして、これらが結果として伝道実績にどのように影響していたのかについては、もっと広範で慎重な分析が必要であり、簡単に結論を出せるような問題ではない。

 したがって、櫻井氏の描く宣教停滞の内部要因は、極めて限られた視点から、限られた情報に基づいて描いた主観的な像に過ぎず、事態を正確にとらえているとは評価できないものである。1990年代以降に日本統一教会の伝道活動が停滞するようになったのが事実であるとすれば、これから伝道活動が復活するように対策を講じるためにも、なぜそうなったのかを総括する仕事は、櫻井氏ではなく、他ならぬ家庭連合(旧統一教会)自身が取り組むべきであると私は考える。

 さて、櫻井氏は本章の中で「祝福家庭の子供達と統一教会」と題して二世の問題に触れている。その内容は、「親が必死で信仰生活をしているのに対して、二世信者にとっては宗教は躾のようなものだ」「宗教文化を主体的に選択したという意識を二世信者は持たない」(p.101)、「二世信者は自ら入信したもの達と異なり、文化としての信仰を捨てることが極めて難しい。統一教会において祝福家庭の子供というのは、親の信仰なくして自分達の存在はないわけだから、親の信仰を捨てることは親との関係を切るだけではなく、自分が生を受けた意味を捨てることにもつながる。アイデンィティの危機に陥る」(p.102)といったものだ。これらは間違っているわけではないが、他の新宗教においても事情は同じであり、とりたてて新しい発見や興味深い事実を指摘しているわけではない。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

実況:キリスト教講座38


自然神学と啓示神学(1)

 これが本日のキリスト教講座の最後の講義です。タイトルは「自然神学と啓示神学」です。いかにも難しそうなタイトルですね。なぜ、この自然神学と啓示神学について話さなければならないのかというと、それは私が千葉の21修でキリスト教講座を担当していたころに、その講座の一つの目的が反対牧師対策だったわけです。特に、福音派の牧師から説得を受ける際には、必ずこの問題が付いて回るわけです。そのために、これについてお話をしなければいけないわけです。

 私が21修のキリスト教講座の講師になったときの統一教会の会長が、大塚克己会長だったんですね。大塚会長と私は神学校で一緒の時期に学んでいたんですね。その時にいろいろと神学の議論をしたものですが、「ぜひこの話をしなさい」というご指導だったので、これがテーマとして入りました。その背景には、一つの事件があります。

実況:キリスト教講座挿入PPT38-1

 それが何かというと、1993年4月21日に「山崎浩子さん脱会記者会見」というものがあったんです。むかし、統一教会の信者に山崎浩子さんという方がいたんです。いまはもう信仰を失って離れていますけれども、若かりし頃は「新体操の女王」と言われたんです。オリンピックにも新体操で出て、メダルはもらっていないと思いますが、日本の新体操のホープだったんですね。日本の新体操におきましては草分け的存在であったわけですが、その方が友達から伝道されて食口になったんですね。

 そして1992年の8月に3万双の合同結婚式というのがあって、その前に「この合同結婚式に山崎浩子が参加するらしい」という情報にマスコミが飛び付いて大騒ぎになったんです。山崎浩子さんという方は単に新体操の選手だっただけでなく、その後タレントになってテレビによく顔を出していたんですね。一番よく出ていたのが「クイズダービー」という番組だったんですが、いまはもうないので若い人は知らないでしょう。竹下恵子やはらたいらが出ていた番組で、山崎さんはあんまり正答率は高くなかったんですが、レギュラーで出ていたんですね。ですからタレントとしても有名で、新体操の選手で容姿が美しかったということもあって、こういう人が統一教会の合同結婚式に参加して、マッチングで相手が決まるということで、そのことが週刊誌でスクープされたんですね。

 その週刊誌の記事をもってテレビが山崎さんに突撃取材をして、「統一教会の合同結婚式に参加するんですか?」と尋ねたところ、「ハイ、しますよ」と彼女が答えたもんですから、「山崎浩子の相手は誰か?」ということで大騒ぎになったんです。そのうち、「どうやら桜田淳子も参加するらしい」ということになって、二人の相手は誰なんだということでマスコミが報道合戦をしたのが1992年のことです。そうした中で1992年の3万双の祝福式が行われたわけですが、このころは統一教会の祝福式がいわゆる芸能人ネタとして大々的に報道されるような状況だったわけです。

 そうすると、中には自分も統一教会に入ればタレントと結婚できるかもしれないと考えた男性もいたかもしれません。おそらくそのような形で統一教会が有名になること対して反対派が許せないと思ったのでしょう。いわゆる巻き返しのために、この92年ごろにテレビのワイドショーに反対派や拉致監禁によって教会を離れた元食口たちが登場して、「自分は霊感商法をこんなふうにやってました」と主張しながら、反対キャンペーンが繰り広げられたわけです。ですから、この1992年の3万双のころが日本における反統一教会報道のピークでした。つまり、ワイドショーがほぼこの話題でジャックされて、日本中で統一教会を知らない人がいないというくらいに超有名になりました。

 この1992年に山崎浩子さんや桜田淳子さんの合同結婚式参加を巡ってマスコミから統一教会が大々的に打たれる前は、日本国民の中で「統一教会って知ってますか?」と言われて「知らない」と答える人は結構な割合でいたわけです。しかしこのときには、統一教会について聞いたことがないという人は、テレビを見たことがない人じゃないかというくらいに超有名になりました。ですから、少なくとも皆さんの親の世代はこのころにテレビを見ていたわけですから、その頃の報道で統一教会については何かを知っているだろうということです。いまはこのころほどテレビで統一教会について報道してくれないですから、皆さんの世代やもっと若い人は、知らないという人がむしろ多いかもしれません。最近はほとんど報道してくれないのでむしろ寂しく感じるくらいですね。そういう意味で、この92年はマスコミによる統一教会バッシングのピークだったといえます。

 このときに、桜田淳子さん、山崎浩子さん、徳田敦子さんが「三女王」などと呼ばれて合同結婚式に参加したんですけれども、93年の3月6日から山崎さんが突然行方不明になってしまうんですね。山崎さんは、勅使河原さんといって、京都大学の農学部を出て大和証券に勤めていたCARP出身の食口の男性と祝福を受けたんですね。もう家庭を持つ直前で、ご両親はもう亡くなっていたので、お墓参りもかねて主体者である勅使河原さんと一緒に親族のところに挨拶に行ったんです。そして勅使河原さんが先に帰った後で、おそらく親族によって拉致監禁されたんですね。そういう状態で行方不明になりました。本人と連絡が取れなくなったということで、「山崎浩子さん失踪」ということでマスコミも大騒ぎをしました。連日、勅使河原さんが朝出勤するときに、テレビのレポーターが待ち構えていて、一緒に歩きながらインタビューするという状態でした。

 教会側としては何とか救いたいということで探していたのでありますが、彼女は名古屋の杉本誠という牧師から棄教の説得を受けていたようです。そして、いなくなってから約一か月半ですね。その間に説得を受けて、信仰を失って、TBSで脱会記者会見をしました。ちょうどの日が、彼女の書いた「脱会手記」を掲載した『週刊文春』が発売される日だったんですね。そこには自分がどのようにして統一教会に入るようになり、なぜ脱会を決意したのかが書いてあったわけです。ですから、この記者会見はいわば『週刊文春』のプロモーションでもあったわけです。飛ぶように文春が売れたそうであります。

 これは反対牧師と有田芳生というジャーナリスト(現在は参議院議員)と週刊文春とTBSが一体となって「脱会劇」を仕組んだということになります。それがものの見事に成功して、脱会記者会見で山崎さんが「私はマインド・コントロールされていました」と言ったことによって、「マインド・コントロール」という言葉が日本中に有名になっていったわけです。このように日本の統一教会史上、非常に重要な事件が1993年4月21日に起こっているわけです。

 私が21修の講師を始めてから、若い人たちにこの話をしても、ほとんど記憶にないと言うんですね。皆さんの中で、この報道をリアルタイムで見たという人はいますか? いませんね。若い方々はこのころまだ小さな子供だったでしょうから、おそらく覚えていないでしょうね。私が当時何をしていたかと言うと、私は当時アメリカの統一神学校で学生をしていましたので、アメリカにいました。ですからこの報道をリアルタイムで見ることはできませんでした。ただ、仲のいい兄弟がビデオに撮ってわざわざアメリカまで送ってくれたので、ビデオで脱会記者会見の様子を見ることができました。まあ、日本の統一教会史におきましては大変悲しい出来事の一つであります。

 それでは山崎さんはどのように説得されて教会を離れたのでしょうか? 『週刊文春』に掲載された脱会手記によると、ハンフリート・ミューラーという人が書いた『福音主義神学概説』(雨宮・森木訳、日本基督教団出版局、1987年)という本を読んで、『原理講論』の“間違い”に気付いたというんです。この本はもともとはドイツ人が書いたものですが、日本語訳が出ております。山崎さんに脱会説得をする際に、この本が用いられたと言われております。

実況:キリスト教講座挿入PPT38-2

 実は、私もこの本を持っています。このようにとても味気ない表紙の本です。山崎さんの説得を中心的に行ったのは杉本誠牧師であると言われていますが、清水与志雄という反対牧師も関わっています。実は清水牧師がこの本を使って説得をするらしいです。つまり、杉本牧師と清水牧師が組んで山崎さんの説得に当たり、清水牧師がこの本を持ってきて読ませたということらしいのですが、山崎さんはこの本の最初の二、三行を読んで「体がカーッと熱くなった」と言っているんです。これは何か感動したか、宗教的体験をして、目からうろこが落ちたような気持になって、「原理は間違っている」という結論に至ったのだということになります。そのように脱会手記には書いてあるわけです。

カテゴリー: 実況:キリスト教講座

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』26


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第26回目である。

「第Ⅰ部 統一教会の宣教戦略 第3章 統一教会の教団形成と宣教戦略」の続き

 櫻井氏は本章の中で、「教勢の衰退と資金調達方法の変化」というテーマを掲げ、統一教会の伝道が1980年代末で頭打ちになった理由について、統一教会の外部要因と内部要因の二つに大別して分析している。

 櫻井氏が外部要因として挙げているのは、教団に対する社会の厳しい姿勢である。具体的には、①有田芳生などのジャーナリストによる教会の資金調達活動に対する批判的報道、②全国霊感商法対策弁護士連絡会による民事訴訟の提起と統一教会側の敗訴、の二つが主な内容である。これらの影響を受けて、行政や大学も統一教会の活動を消費者被害や社会病理と認識するようになったのが1990年代に入ってからで、「このような外側からの批判によって、統一教会の布教活動は極めてやりにくくなった」(p.97)というのが櫻井氏の解釈である。

 世間の評価が厳しくなったので伝道が厳しくなったというのは常識的で合理的な分析である。しかしながら、これに対して「そんなことはない!」と反論する宗教的主張もあることは述べておきたい。統一教会は日本に宣教された当初から、主にキリスト教牧師や共産主義者、さらには反対父母の会などから激しい迫害を受けてきたが、それに逆らって教勢を拡大してきた教団なのであり、なにも迫害が1990年代に始まったわけではない。1967年7月7日付の朝日新聞夕刊に掲載された「親泣かせ原理運動」の記事に始まって、統一教会に対する批判的な報道は1990年代より遥か以前から存在した。「悪い噂」という観点でいえば、とりわけ大学のキャンパス内では原理研究会に関する悪い噂は1960年代から存在したし、書籍や雑誌などのメディアを通しての統一教会批判は1980年代から存在していた。にもかかわらず、統一教会は教勢を伸ばしてきたのである。

 1990年代に入って大きく変わった点といえば、テレビによる大々的なネガティブ・キャンペーンが始まったことであろう。そのきっかけは、1992年の3万双の祝福式に芸能人やスポーツ選手が参加することにより、ワイドショーの格好のターゲットになったことにある。それまでの書籍や雑誌による批判だけでは、統一教会という団体の存在自体を知らない人は日本国民のかなりの割合を占めていたと思われる。しかしながら、3万双の祝福式を前後して、連日のようにワイドショーで統一教会が批判的に扱われるようになり、統一教会のネガティブな意味での知名度が飛躍的に上がったことは否定できない。

 迫害によって伝道が停滞するという考え方に宗教的な人々が納得しないのは、宗教団体は「迫害」や「法難」を通じて発展するものだという考え方があるからである。「法難」とは仏教が受ける弾圧のことだが、特に日蓮宗においては、本物であるからこそ迫害されるのであり、弾圧を受けることを通して発展していくのだという考え方が強い。キリスト教にも神の愛する者は世間から憎まれるという思想が存在する。クリスチャンが世から憎まれ、迫害されることの意義について説明した聖句としては、以下のものが有名である。
「もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。」 (ヨハネによる福音書15:18~19)
「だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。」(コリント人への第二の手紙12:10)

 統一教会においても同様に、迫害を受けることによって蕩減条件を立て、それを糧にして逆に神のみ旨が進んでいくのであるという思想が存在する。「原理講論」の再臨論には以下のような記述がある。
「過去の復帰過程において、艱難が信徒たちの信仰の妨げとなったことはなかった。まして、信徒たちが信仰の最後の関門に突入する終末において、そのようなことがあり得るであろうか。艱難や苦痛が激しくなればなるほど、天からの救いの手をより強く熱望し、神を探し求めるようになるのが、万人共通の信仰生活の実態だということを我々は知らなければならない。」(p.567)

 また、このことについて語った文鮮明師の代表的な言葉としては、以下のものがある。
「どのような迫害の中でも、私は決して呪いの一言も口にしませんでした。決して不平も言いませんでした。復讐もせず、人を悪く言うこともしませんでした。なぜならば、反対が強ければ強いほど、それだけ大きな同志を神は送ってくださるからです。それは宇宙の大気のようなものです。高気圧が生まれると、低気圧も産まれます。否定的な要素があるとき、常に別な方面で私の周りに肯定的な要素がつくられます。私は、迫害が甘美なものだ、という秘密も学びました。正しい心でそれを耐えると、戦わずして常により多くの同志を勝ち取ることができるからです。」(「祝福家庭と理想天国Ⅱ」p.810)

 信仰熱心な統一教会の食口たちが、一般社会やマスコミによる統一教会バッシングに対してこうした精神で立ち向かい、逆に信仰を強めていったということは確かにあったであろう。しかし、これは信仰の理想の姿であって、すべての人がそのような強靭な精神で乗り越えられるわけではない。信仰の初期段階や、あまり強い心を持たない者においては、外側からの批判によって信じる心を掻き乱されたというのも事実ではないだろうか。特に、悪い噂が広まることによって、伝道の入口付近で対象者が関わりを敬遠するようになるという意味で、伝道活動の障害になった可能性は十分にある。

 1990年代以降にテレビのワイドショー以上に大きな影響を持つようになったのが、インターネットによる批判情報の拡大である。ネット時代の到来は、教団による情報のコントロールを困難にし、伝道対象者も極めて初期の段階で教団について検索をして批判的な情報に触れるようになった。また、教会員の家族もインターネットを通して教会に対する批判的な情報に触れることが多くなった。こうしたことが複合的に働いて、伝道環境を悪化させているということは言えるであろう。

 もう一つの外部要因として挙げられているのは、全国霊感商法対策弁護士連絡会(全国弁連)による民事訴訟の提起と、統一教会側の敗訴である。これに関しては、とりわけ行政や大学に対する影響力が大きかったと思われる。全国弁連が結成されたのは1987年1月10日のことであり、このころから「霊感商法」批判のキャンペーンが始まった。全国で初めての「青春を返せ」訴訟が札幌地裁で始まったのが1987年3月である。裁判というものは、始まってから結果が出るまでに時間がかかるが、信者による献金勧誘行為に対して教団の責任を認定し、統一教会が敗訴した初めてのケースが、1994年5月の福岡地裁判決であった。それ以降、物販や献金に関わる民事訴訟で統一教会に損害賠償を命じる判決が次々と出されるようになった。さらに、初めは統一教会側が勝訴していた「青春を返せ」裁判においても、2000年9月の広島高裁判決以降は、教団が敗訴するケースが出てくるようになる。

 1980年代後半に始まって、1990年代以降に成果を上げた全国弁連による民事訴訟の戦略は、着実に成果を上げ、ボディーブローのように統一教会を苦しめてきたと言える。とりわけ、民事訴訟で敗訴を重ねるということは、行政の統一教会に対する認識を著しく悪化させる結果となり、単なる左翼マスコミによる批判ということにとどまらず、日本社会の良識的な層が統一教会を反社会的な団体であると認識するようになる大きな原因を作ったと言えるであろう。こうした社会的な環境の悪化と、1990年代以降の伝道の停滞の間に、因果関係が全くないとは言えないであろう。社会的評判が極めて悪くなり、その状態が長く継続するようになると、教会員の信仰にダメージを与え、伝道意欲を低下させるということは十分に考えられるからである。

 大学に関して言えば、2006年12月4日に全国霊感商法対策弁護士連絡会が、国立大学協会、公立大学協会、私立大学連盟、私立大学協会に対して一斉に「要望書」を出している。その内容は、「反社会的宗教団体」に関するビラの作成と配布、専門家の講演会による啓蒙活動、大学間の情報の交換と共有の勧めから始まって、「(入学後の)カリキュラムに、反社会的宗教団体の問題点、勧誘方法などについてのガイダンスを実施して注意喚起につとめてください」と要求するものになっている。

 こうした働きかけの結果、現在日本の大学の多くにおいて、広範な「カルト対策」が行われるようになった。こうした「カルト対策」のターゲットの筆頭に上がっているのが原理研究会であるのは言うまでもなく、その結果として大学のキャンパスにおける原理研究会の活動は著しく困難になっている。この問題に関心のある方は、このブログの別のシリーズである「書評:大学のカルト対策」を読んでいただければその全貌が分かるので、ぜひ読んでいただきたい。

http://suotani.com/archives/449

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

実況:キリスト教講座37


統一原理の神観について(11)

実況:キリスト教講座挿入PPT37-1

 以上をまとめますとこういう図になります。初めに説明したように、統一原理においては神様は本性相と本形状の二性性相の中和的主体であり、その似姿として人間は心と体が一つとなり、個性完成をするわけです。さらに神様は本陽性と本陰性の中和的主体であり、その似姿として人間は男と女が一つとなり、子女繁殖をするわけです。さらに神様は被造世界に対しては性相的男性格主体であり、その似姿として人間は万物を主管します。このように、神観と人間観というものが完全に相似形になっていて、三大祝福を完成させることを通して人間は神の似姿になっていくという、非常に理路整然とした骨格が統一原理にはあるわけです。ところが、既存の神学はどこかが欠けています。

 伝統的な神学においては、本性相と本形状のうちの形状部分が欠落している、性相だけの神様というイメージを抱いています。また本陽性と本陰性においては、本陰性が欠落している男としての神様、男性的性質しか持たない神様ということになります。そして神様と被造世界との関係においては、神が被造世界を一方的に愛するだけで、被造世界から神が影響を受けるということはあり得ないという、一方的な関係になります。すなわち、すべてにおいて伝統的な神学は片手落ちになっているのだということです。

 このように既存のキリスト教神学というのはどこか欠陥があるので、「これはおかしいんじゃないですか?」ということで、現代神学はいろんなことを主張いたします。たとえばフェミニスト神学は、「神様に女性としての性質がないのはおかしいでしょう」と噛みついて、神学における男女平等を叫んで、神様には女性的性質もあると主張したわけです。統一原理の場合には、神様は陽陰の二性性相であるというわけですから、男女両方の性質があることをきちんと説いているということになります。

 さらに、プロセス神学というものが現れて、神に可変的な部分(統一原理の本形状に当たる)がないのはおかしいとか、神と被造世界の関係が一方通行であるのはおかしいとかいうことを、古典的で伝統的な神学の課題として突き付けていったわけです。その答えもやはり統一原理の中にあるわけでありまして、神様はもともと性相と形状の二性性相であるということ、そして神様と被造世界との関係は二性性相的関係であって、よく授けよく受けるというダイナミックな授受作用の関係であるということを説いているわけです。

 こうしてみると、20世紀に入っていろいろな現代神学が出てきて、既存のキリスト教神学に対して「おかしいじゃないか」と言って挑戦した内容の中には、統一原理を支持したり、証ししたりするようなものが結構多いわけです。これがなにを意味しているかと言うと、原理というのは神様の全体像を曲げることなく、歪めることなく、欠けることなくとらえた、神の最終的な啓示であるわけです。人間が神学的に思索して努力すると、それによって既存のキリスト教神学の問題点を克服して、一歩原理に近づくということになるわけです。ですから非常に乱暴な言い方をすれば、現代神学というものは統一原理に到達するために、それを目指して進歩してきたと理解することができるわけです。

 伝統的なキリスト教神学からすると、「原理の教えは異端だ」とか言うわけでありますが、現代神学を勉強すれば、かえって既存のキリスト教神学には欠陥があって、それを克服した到達点に、実は原理という素晴らしい思想があるんだということが見えてくるわけです。神学を勉強することによって、原理というものが非常に先進的であり、逆にあまりに進み過ぎているがゆえに、既存の神学はそれに追いつけずに異端視しているのだということが分かってきます。このように、神学を勉強すれば原理の素晴らしさが分かってくるということを、私の著書『神学論争と統一原理の世界』の中で説明しておりますので、神学に関心のある方は是非読んでみてください。

 だいたい以上を持ちまして3コマ目の「統一原理の神観」に関する講義を終わりますが、何か質問があればお答えしたいと思います。

質問①:キリスト教の神学では神様を「父」として男性格でとらえていて、原理でもまた被造世界に対しては男性格主体としていますね。でも一方で、神は父母であると教えています。お祈りの中では「お父様」と呼んでいるわけですが、それはキリスト教的な考えを引き継いでいると考えてよいんでしょうか? 祈るときには「父母様」と呼んだ方がいいのでしょうか?(注:この質問は2012年の講義で出されたもので、神様の呼称が正式に「天の父母様」に変更される以前に出されたものです。)

回答:まあ、伝統的にキリスト教では神様を「天の父」と呼んできたので、その伝統を相続しているということですよね。より原理に忠実に言えば、「天のお父様」というよりは、「天の父母様」と呼んで祈ったほうが、より全体像をとらえているということになります。英語では普通はHeavenly Fatherと呼んで祈るんですけれども、Heavenly Parentsと呼んで祈る人もいるわけです。ですから表現的に、もし自分にとって神様が「天の父」というよりは「天の父母」という方がしっくり来るし、その方が二性性相の神様を表していて良いと思うのであれば、「天の父母様」と呼んでよいと思います。地上に真の父母様がいて、天にも父母様がいるという方が、自分にとって祈りの対象として相応しいと思えば、そう呼んでいいということです。統一教会はキリスト教の伝統というものを相続しているので、初期の統一教会においてはかなりその伝統を色濃く反映していました。祈るときに、初期のころは「主の御名」によって祈っていたわけです。それが「真の父母の御名」によって祈るようになり、そのうち「祝福中心家庭〇〇の名」によって祈るようになり、「アーメン」から「アージュ」になってきたわけです。やはり、キリスト教の伝統を相続しているので、それをそのまま受け継いだ世界はあるわけです。ただ、統一教会が発展して、原理観が確立されていけば、少しずつ変わっていくものだと思います。ですから、二性性相の神という観点からすれば、「天のお父様」というよりは、「天の父母様」といった方が近いのかもしれません。他に質問ありますか?

質問②:ギリシア哲学の話をされましたが、プラトンやアリストテレスなどのギリシア哲学者も、哲学を探求していく中で、何か本質的な神観をとらえていったということなんでしょうか?

回答:そういうことですね。原理の中に「メシヤ降臨準備時代」という概念があって、これはイエス様が生まれる前の、準備の400年くらいの時代を指しています。カール・ヤスパースという人も「歴史の枢軸期」ということを言っていて、イエス様が生まれる600年くらい前からいろんな思想が洋の東西を問わず世界中で勃興した時期があります。このころに、お釈迦様や孔子様が東洋で生まれているし、西洋ではヘレニズム文明が発達して、ギリシアではソクラテス、プラトン、アリストテレスなどが生まれて、哲学的な思索がものすごく深まっていくわけです。このように世界中に同時多発的にさまざまな思想が出現したということは、やがてイエス様を迎えたときに、世界の人々がイエス様の教えを受け入れることができるように、各地方に神様からさまざまなインスピレーションが与えられて、宗教や哲学が発展したということなんですね。ですからそれらは言ってみれば、イエス様が説く内容を先駆けて一部ずつ世界中に啓示したものであるということになるわけです。このヘレニズムというのは、原理講論の中ではローマ文明がイエス様を迎えるための重要な基盤であったと言っているので、ギリシア・ローマの文化的伝統であるヘレニズムはメシヤを迎えるための重要な基盤の一つであったことは間違いありません。ですから、その中にも真理の一部が啓示されていたということです。プラトンやアリストテレスも全面的に間違っていたというわけではなくて、論理的に思索するという面においては非常に優れた哲学的功績を残したわけです。本当はイエス様が十字架にかかって亡くならずに、生きて世界をまとめていれば、イエス様はローマに行って、直接み言葉を語って指導することによって、ヘレニズム文明を整理し、それを基盤として地上天国を作っていくべきであったわけです。ところがイエス様が亡くなってしまったので、ユダヤ教的な伝統が主流になることができずに、ヘレニズム的なものを主流としてキリスト教神学が形成されてしまったことによって、大きく神観を歪めるようになってしまったのだということです。ですからもともとはイエス様のために準備されていたギリシア哲学であり、ヘレニズム文明であったわけですが、正しく出会うことができなかったために、いわば逆主管するような形でキリスト教神学に影響を与えてしまったのだと理解したらよいと思います。

カテゴリー: 実況:キリスト教講座

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』25


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第25回目である。

「第Ⅰ部 統一教会の宣教戦略 第3章 統一教会の教団形成と宣教戦略」の続き

 櫻井氏は本章の中で、「教勢の衰退と資金調達方法の変化」というテーマを掲げ、統一教会の伝道が1980年代末で頭打ちになった理由について分析している。この辺の分析は櫻井氏自身が認めているように、統一教会に反対する勢力からの情報提供に基づいていると言える。その部分を引用してみよう:
「日本における統一教会の信者数は、四七万七〇〇〇人(平成七年文化庁宗教統計)とされるが、献身した本部教会員の実数は数万人の規模と思われる。統一教会問題を手がけてきた日本基督教団の牧師や全国霊感商法対策弁護士連絡会、及び脱会した元信者の証言によれば、統一教会の修練会に多数の若者たちが参加していたのは、一九八〇年代末までである。その教勢のピークは、その頃に入信した信者たちが数年の伝道や経済復帰と呼ばれる資金調達活動に従事した後に参加する祝福に象徴されている。一九九二年八月に三万双の国際合同結婚式が韓国で挙行され、日本の芸能人やスポーツ選手が参加して話題を呼ぶが、その一人が翌年『私はマインド・コントロールされていました』と脱会宣言を記者会見で行い、それ以降、統一教会は、合同結婚式、洗脳、マインド・コントロール、霊感商法という悪評のために、宣教活動が停滞することになる。」(p.96-97)

 この櫻井氏の記述は、大筋においては正しいと言えるが、細かな点で気になる部分はある。まず、宗教法人としての統一教会には「献身」という制度は存在しないので、「献身した本部教会員」という表記は正しくないだろう。教会員を本部登録する制度は存在するので、47万7000人というのは、活動しているかどうかは別として名簿上の数として文化庁に報告したものと思われる。統一教会の信徒の組織において専従的に活動する者を「献身者」と呼ぶ慣習は存在したので、その実数が数万人の規模というのは、時代によって変化するとはいえ、およその数としてはそんなに外れていないと思われる。ただし、統一教会の信者の数には、社会で働きながら信仰を持つ「勤労青年」や、家庭の主婦が信仰を持つ「壮婦」、その夫に当たる「壮年」、さらには幼児、小学生、中学生、高校生などの「2世」も含まれるので、いわゆる献身者の数と本部教会員の数を比較してその差を強調したところで何の意味もないと言える。

 厳密に言えば、「教勢のピーク」と「宣教活動のピーク」は必ずしも一致しない。宣教活動のピークは、その年に新しく入会した信者の数によって測定されるが、その信者たちがその後長年にわたって信仰を維持し続ければ、新たに入会する信者の数が微増に転じても信者の総数は増え続けるから、教勢のピークはもっと後ろになるからである。こうした細かいデータを統一教会は近年公表してこなかったので、櫻井氏の記述が正しいかどうかを客観的に判定する資料は存在しない。これが内部資料と一致すれば、その信憑性はかなりアップすると思われる。

 櫻井氏の分析の最も重要な部分は、「統一教会の修練会に多数の若者が参加していたのは、一九八〇年代末まで」であり、このころをピークに宣教活動が停滞するようになったというところであろう。この主張は、教会内部にいる者の感覚からしても、直感的に正しいと思える。しかし、それはあくまで感覚に過ぎないので、もう少し数値的に確かめられる情報をもとにこの主張を検証してみたいと思う。

 統一教会は信者の実数に関する数字をあまり公表したがらないが、秘密の内部情報ではなく、公的な場所で発表された情報の中に、宋龍天・全国祝福家庭総連合会総会長が行ったプレゼンがある。これは、韓国で行われる天一国指導者総会や、日本で教会員を集めて行われた集会の中で、「VISION2020」を実現する上で教会が抱えている課題について述べた内容なので、教会本部から情報提供を受けた「内部の正確な情報」であると同時に、対外的に秘密ではない開かれた情報であると理解することができる。

 そのプレゼンの中に、教会員の年齢分布に関するグラフがある。

在籍信者の年齢分布

 このグラフによれば、2015年の時点で日本統一教会の教会員の在籍人口の年齢的なピークは50歳から64歳(赤い長方形で囲った部分)であり、これが全体の45%を占めるという。この人たちは、1980年の時点(35年前)では15歳から29歳であり、1990年の時点(25年前)では25歳から39歳であった。これは未婚の青年として統一教会に伝道されるには最もふさわしい年齢層であると言える。もちろん、1980年に15歳で伝道されるというケースはあまり考えられないが、最も若い層は1980年代の後半に伝道され、それよりも年上層は1970年代後半から1980年代前半にかけて伝道されたと理解できる。厳密に言えば、伝道される経路としては未婚の青年時代に伝道されて祝福を受けて結婚するケースと、結婚した後に壮年・壮婦として伝道されるケースがあり、これらのグループが伝道される年齢層は異なるのであるが、現在のピークが1980年代に未婚の青年として伝道されたと仮定することはかなり現実的であると思われる。1980年代に40歳を超える壮年・壮婦として伝道された人も多数いると思われるが、そうした人々は2015年の時点では70歳以上になっていると思われる。ちなみに、私の場合には1983年に18歳で伝道されたが、2015年の時点で51才であり、この人口ピークの一番若い部分に引っかかっていることになる。

 宋総会長のプレゼンにはもう一つの興味深いグラフとして、二世人口の年齢分布に関するものがある。

二世人口の年齢分布

 このグラフによれば、2015年の時点で15~20歳までが二世の人口のピークであるという。伝道された年と違って、生まれた年は年齢から正確に知ることができるので、この二世たちは、間違いなく1995年から2000年の間に生まれたことになる。しかし、その親がいつごろ伝道されて、いつごろ祝福受け、いつごろ家庭を出発したかという問題になると、個人差によるばらつきが出てくる。しかし、統一教会への入信のパターンとして、20代の若い頃に伝道され、実践活動を数年行った後に祝福式に参加し、その後さらに数年は聖別期間を過ごした後に家庭を出発し、間もなく子供が生まれるという「青年から祝福家庭へ」というコースがあり、この平均的な長さから、この二世たちの親がいつごろ伝道されたのかを類推することができる。

 まず、彼らの親の祝福双から類推すると、以下のような期間に生まれたことになる。
①6000双(1982年)の場合、祝福式後13年~18年
②6500双(1988年)の場合、祝福式後7年~12年
③3万双(1992年)の場合、祝福式後3年~8年
④36万双(1995年)の場合、祝福式後0年~5年

 祝福を受けてから家庭を持つまでの聖別期間、および第2子や第3子であることによるタイムラグを考慮に入れると、この2世の人口ピークは6500双と3万双の子女が大部分を占めると思われる。そして、これらの祝福式が行われた年が1988年と1992年であることを考慮に入れれば、この祝福双の人々が伝道された時代は、1980年代が中心であると思われる。ちなみに、筆者には子供が4人いるが、長男を除いて残りの3人は全員がこの年齢層に入っており、筆者自身も1980年代に伝道されている。

 以上の情報を総合すると、統一教会の修練会に多数の若者が参加していたのは1980年代末までであり、このころをピークに宣教活動が停滞するようになったという櫻井氏の主張は正しいことになる。この情報は、常に統一教会をウォッチングしてきたキリスト教会の牧師や、全国霊感商法対策弁護士連絡会、及び脱会した元信者の証言に由来するものであるため、外側からの情報とはいえ、ある程度事態を正確にとらえているのであろう。特に長年教会に身を置いて、内側から伝道の様子を観察することのできた元信者の証言は貴重な情報源であったと思われる。では、なぜ1990年代以降に宣教活動が停滞するのようになったのかという理由については、次回論じることにする。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

実況:キリスト教講座36


統一原理の神観について(10)

 それでは、この分野における統一原理の神観の特徴とはいったい何であるかというと、統一原理はすべての存在が相対的な関係によって成り立っているという、東洋的な哲学に立脚しているため、神と人間の関係もギリシア哲学に見られるような一方的なものでなく、相互に影響を及ぼし合うダイナミックなものであるということです。その根底には、神の最も本質的な属性を「心情」であると捉える独特な神観があります。すなわち、神様と被造世界がなぜダイナミックな関係を結べるかというと、神様の最も本質的な属性が「心情」であるととらえているところに、その原因があるということです。

 それでは、「心情」とは一体何でしょうか? 統一思想によりますと、心情とは「愛を通じて喜びを得ようとする情的な衝動」であると定義されております。ですから、「愛したい」ということですから、相手がいなければ愛にならないわけです。したがって、心情はその本性からして「対象の存在」とそれとの「交わり」を追求することになります。そしてその心情の特性からして、愛すべき対象が失われてしまったり、望んだとおりの交わりが実現されなかったりした場合には、当然神も嘆き悲しむのだということになります。つまり、神は絶対者でありながら被造物との関わりの中で生きることにより、自らを相対化した、そのような神様であるということが分かるわけです。
 
実況:キリスト教講座挿入PPT36-1

 これを図にしますとこうなります。神様は被造物を創られる前は、絶対者として存在していました。これが、神様だけが存在していた状態ですね。しかしながら、神様には絶対であるとか唯一であるとかいう属性以上に、もっと本質的で強い属性があったわけです。それが「心情」なんですね。もしこの心情よりも永遠性、絶対性、唯一性などがより本質的な神様の属性であったとすれば、何も被造物なんか創らなくてもよかったわけです。「私は永遠である」「私は絶対である」と独りで思っていればよかったわけですから。なぜ被造物を創ったのかというと、唯一性とか、絶対性とか、永遠性とかいうこと以上に、「愛する対象が欲しい!」という衝動が、最も本質的な神様の属性だったからです。その心情を動機として、神様は被造物を創造せざるを得なかった。だから自分のすべてを投入して対象を創り出したということです。

 この対象から喜びが返ってくると、心情は刺激を感じるということになります。その喜びを感じる最も中心的な対象が何であったかというと、人間ということになります。あらゆる被造物の中でもこの人間は、神様に最大の喜びを返す、最高の美の対象として創られたので、人間を通して最高の喜びが得られるようになっていたということです。ということは、神様はもともと絶対者でしたけれども、一人で絶対者でいればよいものを、わざわざ愛する対象を創ることによって、それと「相対的関係」を結んで生きる存在になった、すなわち自らを相対化したということなんです。

 さらに、神様がすべてをコントロールするわけではなくて、人間に自由意思というものまで与えて、神様の願いに背いて自分の意思を通すことさえできるようにしたのです。この自由意思の結果として、もし人間が神様の願いに反したならば、喜びではなくて悲しみを感じるかもしれないようになったわけです。すなわち、被造物を創ってそれと相対的関係を結んで生き、さらに自由意思を与えるということは、それが神様に悲しみを返し、神様の心情が傷つけられる可能性までも包含しているわけです。そういう、いわばリスクを背負いながらも、自由意思を与えた自分の似姿である人間と共に生きることが最高の喜びなので、そのように人間を創造するという道を選んだわけです。それは人間を愛そうという神様の心情が、それくらい強かったのだということです。この辺が統一原理の神学的特徴でありまして、いわゆる存在論とか哲学を中心にするのではなくして、心情というものを神様のど真ん中において、最も本質的な属性としてとらえるところからすべてを説明しているということです。

 神が罪悪に満ちた人間を見て嘆き悲しまれるということは、絶対者としての神の権威を下げるものではなくて、むしろそれほど人間が神にとってなくてはならない貴重な存在であるということを意味しているわけです。よく、統一原理が「悲しみの神様」とか「恨(ハン)の神様」とか言いますと、批判する人は、神様をあまりにも人間的にとらえていて、唯一絶対の至高の存在である神様を引きずり降ろしているように感じるらしいんですね。神様というのはもっと貴いお方であって、そんな人間的な悲しみにとらわれているお方ではないと批判するわけです。罪悪に満ちた人間世界を見て嘆き悲しんでいる神というのは、あたかも神を冒涜しているかのようにクリスチャンたちは感じるようであります。

 それに対して私たちは、「そんなことはありません。それは神様の権威を下げているんではなくて、それほど愛深き方であるということを私たちは言いたいんです。それほど人間というものは神様にとって貴重な、無くてはならない存在であり、神様が絶対に必要とする存在であるということが言いたいんです。」と答えなければなりません。すなわち、神は人間をあってもなくてもいい存在として創造したのではなく、最高の喜びを得るための子供として創造されたのだということです。ちょうど親が子供の一挙手一投足に一喜一憂するように、神もまた人間の運命に対して無関心ではいられません。これが統一原理の主張する「心情の神」の姿です。こうした神の心情は、実は聖書の中には嫌というほどでてくるわけです。それを認めながら、どうして神は悲しまないと言うのかというと、それは哲学的な呪縛に陥っているので、神の悲しみという考え方を否定しているに過ぎないわけです。

 この辺が、キリスト教のいう上から一方的に人間を愛する神様と大変違った神観であるということになります。よくキリスト教では、神様の愛として「アガペーの愛」というものを説きます。愛には三種類あると言われておりまして、アガペーとフィリアとエロスと呼ばれています。アガペーとは何であるかというと、至高の存在、絶対的な存在がそれよりも下の存在に対して上から降り注ぐような無条件の愛のことを「アガペー」と呼んでいます。これが素晴らしい愛なんだ、神様の愛なんだということを一般にキリスト教は主張するわけです。確かに、堕落した人間の愛に比べれば素晴らしいですよ。堕落した人間の愛は、「何かしてほしいから愛する」という条件付きの愛であり、必ず見返りを求める愛ですから、それに比べれば神様の愛というのは、全知全能で永遠不変で絶対的な神様が、なんの見返りも求めずに、非常に罪深い人間を上から一方的に愛するんだ、これが「アガペーの愛」なんだというのは確かに素晴らしい話ですよ。

 しかし、その愛は本当の愛なのかということに関して、統一原理は敢えて疑問を呈するわけです。その「アガペーの愛」とは何であるかというと、平たくと言うと神様が人間に対してこう言っているのと同じなんです。「私は神です。私は完全無欠です。私は何でも持っています。あなたがた人間は何も持たない哀れで惨めな存在なので、私はあなたを一方的に愛しますよ。あなたは何も返す必要はありませんよ。あなたたちは無能なんですから。」つまり例えて言えば、あるお金持ちがいて、「私、すごいお金持ちなんです。もうあり余るほど財産があるんです。あなたたちは貧乏ですね。だから分けてあげますよ。そんな返そうなんて思わなくていいですよ。あなたがたは貧乏なんだから。一方的に与えますよ。」という話です。

 確かに見返りを求めなくて、素晴らしい愛のようなんですが、私たち人間の本性として、神様との関係がそれだけでいいんですか、ということなんです。一方的に愛されてそれを受けていればよいのかというと、それは私たちの本心が喜ばないでしょうということです。私たちは愛を受けたら神様に美を返したい、神様を喜ばせたい、神様に何かしてあげたいと思うのが人間の本性であると考えるわけです。ところがキリスト教の神学におきましては、人間が神様に何かを返すとか、神様を喜ばせるとかいう概念は存在しないんです。神様は一方的に上から愛するだけなんです。この辺がキリスト教の神観と統一原理の神観の大きな違いということになります。「心情の神」である以上は、愛したら、やっぱり愛が帰ってきてほしい、授受作用がしたいわけです。神様はよく授けると同時に、よく受けたいわけです。ですから人間に対しても、神様に美を返すことを期待しておられるし、美を返す度合いに応じて、成長した子供の姿を喜ばれる神様であり、人間と深く交わる神様であるわけです。そのような授受作用の関係というものが、一般的なキリスト教の神学にはなくて、一方的に上から愛するだけなわけです。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』24


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第24回目である。

「第Ⅰ部 統一教会の宣教戦略 第3章 統一教会の教団形成と宣教戦略」の続き

 櫻井氏は本章の中で、「資金調達の戦略」というテーマを掲げ、アメリカや韓国における統一教会の宣教活動の資金のほとんどが日本で調達されたものであることを指摘した上で、日本における資金調達活動の展開について解説している。

 日本統一教会の草創期のメンバーが廃品回収を行って資金を得ていたことは教会史の講義や初期の先輩の証しの中にも登場する有名な話である。櫻井氏の解説によれば、その後の統一教会の資金獲得の方法は、青年信者による花売りから、朝鮮人参茶、大理石の壺の販売、姓名判断や印相鑑定と絡めた商品の販売へと発展していったという。この辺の記述は、いわゆる霊感商法として既に多くの文献に記載されている内容と基本的に同じである。櫻井氏はこれらの商品が韓国の一信石材、一和といった統一教会系企業から輸入されたものであり、販売員は全て統一教会員だったこと根拠に、「統一教会の経済活動とみなすことができる」(p.92)と述べている。

 いわゆる霊感商法をどのように評価するかに関しては、このブログの別のシリーズである「霊感商法とは何だったのか?」において詳細に述べているのでここでは繰り返さない。ただ、大理石の壺などの開運商品の販売が統一教会の経済活動であるという櫻井氏の主張に対しては、統一教会側の反論を一応紹介しておきたい。世界日報社から出版された『「霊感商法」の真相』(霊感商法問題取材班著)によれば、これらの販売を組織的に行ったのは、「全国しあわせサークル連絡協議会」(略称・連絡協議会)であり、統一教会がこうした販売を指示して行った事実はなく、連絡協議会と統一教会との間には直接的な指揮命令関係はなかったという。こうした主張は、統一教会の信者たちが行った経済活動の責任が宗教法人に及ばないようにするという、裁判闘争上の事情に基づくものであることは明らかだが、この問題に対する教会のスタンスはいまも変わらないし、今後も変わることはないであろう。したがって、これ以上の議論は水掛け論に終わるだけである。

 櫻井氏は、日本の統一教会だけがこのような経済活動をしなければならない理由を以下のように説明する:
「韓国は教祖文鮮明誕生の地ということだけではなく、統一教会が神の王国、地上天国を建設した後、世界の中心になる地とされている。・・・アメリカは文鮮明及び教会幹部達が活動戦略を練り、政治的な活動も行う中心地であり、教義上は、アメリカが韓国を政治的にサポートすることになっている。

 それに対して、日本は、世界宣教、及びアメリカ・韓国における統一教会の経済活動を資金・人材の両面で支える国家だとされる。日本はエバ国家とされ、第二章の堕落論の解説で述べたように、エバはアダムを堕落させたものゆえに、アダムに侍ることが教義上求められる。そのために、一九七〇年代以降、日本における資金調達は熾烈さを極め、一九八〇年代に入って、霊感商法等の経済活動を展開するに至った。」(p.94)

 このシリーズの第19回でも述べたが、韓国と日本の関係に関する櫻井氏の解説は、統一教会内部では聞いたことがないような、奇妙で捻じ曲げられた教説になっている。統一教会において日本が「エバ国家」や「母の国」と呼ばれ、韓国が「アダム国家」や「父の国」と呼ばれてきたことは事実である。しかし、そのことが堕落したエバの罪責と結び付けられて、「エバ国家」である日本が「アダム国家」である韓国に資金提供をしなければならないなどという教説は統一教会には存在しない。また、妻が夫に万物を貢がなければならないという意味で両国の関係が説明されるのを私は聞いたことがない。

 そもそも、「妻が夫にお金を貢ぐ」というアナロジーでは、ダメ親父のために苦労する妻のような悲惨なイメージであるため、信徒たちの献金意欲を鼓舞することなどできないであろう。日本において統一教会の信徒が熱心に献金をしてきた動機は、韓国に対する妻の立場というよりは、世界に対する母の立場である。ちょうど母親が赤ん坊に母乳を与えて育てるように、自己犠牲的な精神で世界宣教のために資金と人材を投入し、世界の国々を養育するという使命に誇りを感じながら、統一教会の信徒たちは熱心に献金をしてきたのである。すなわち、「世界の母の国」というアナロジーが日本の信仰の原動力となってきたのである。

 続いて櫻井氏は「人的資源獲得の戦略」と題して、統一教会の布教方法が日本の多くの既成宗教や新宗教とは異なる特殊なものであることを説明する。統一教会の布教方法に対する批判の代表的なものに「マインド・コントロール」があるが、櫻井氏の場合には「マインド・コントロール言説」を無批判に受け入れているわけではない。彼は1996年に北海道大学の雑誌の中の『オウム真理教現象の記述を巡る一考察』という論文の中で以下のように述べて「マインド・コントロール言説」を批判したことがある。
「マインド・コントロールとは、自己の経験を自分と第三の社会的勢力が二重に解釈した語り口でしかない。騙されたと自ら語ることで、マインド・コントロール論は意図せずして自らに自律性、自己責任の倫理の破壊に手を貸す恐れがある。信仰者は、教団へ入信する、活動をはじめる、継続する、それらのいずれの段階においても、認知的不協和を生じた段階で、自己の信念で行動するか、教団に従うかの決断をしている。閉鎖的な、あるいは権威主義的な教団の場合、自己の解釈は全てエゴイズムとして見なされ、自我をとるか、教団(救済)をとるかの二者択一が迫られることがある。自我を守るか、自我を超えたものをとるかの内面的葛藤の結果、いかなる決断をしたにせよ、その帰結は選択したものの責任として引き受けなければならない」(櫻井義秀「オウム真理教現象の記述を巡る一考察」『現代社会学研究』1996年9、北海道社会学会、p.94-95)

 本書の中では、「新宗教集団の布教や教化行為には、少なからず承諾誘導の技術が用いられている」とし、一般の人々が短期間のうちに回心し、信者になれば布教にも従事するというのは、「教勢を急速に伸張させてきた在家主義の新宗教に典型的なパターンである」(p.94)としている。したがって、一般的に「マインド・コントロール」と言われて批判されている内容は、日本の多くの新宗教にも当てはまるという見解だ。

 それでは統一教会のどこが特殊であるのかと言えば、それは正体を隠した布教である。
「布教の初期に、教団名はおろか、宗教の布教ということも明らかにせず、教養的な内容を学習する場だから安心するようにと言い、受講を継続させる」
「四日間研修の直前の段階において、この団体が統一教会であることが初めて明かされる。・・・つまり、最初のセミナー勧誘からこの合宿まで、人により数ヶ月の開きはあるが、何のためにその人が勧誘されてきたのかを明かさない特異な勧誘方法なのである。宗教を明示していないのだから、宗教団体が通常行う未信者の人に対する『布教』や『伝道』とは到底いえない。」(p.95)

 過去において、統一教会信者の一部が櫻井氏の言うように初期の段階で目的や教団名を秘匿して伝道を行った事実はあり、元信者が教会を相手取って起こした損害賠償請求訴訟で、そのことが瑕疵となって教会側が敗訴したケースがあった。初期の「青春を返せ」裁判においては、元信者らは「マインド・コントロール言説」を前面に立てて争ったが、その訴えが法廷で否定されたため、原告側は「正体を隠した伝道」「不実表示」を主張して争う方向に戦略転換し、それが裁判所によって認められた形である。

 こうした判決を受けて、2009年3月25日に統一教会の徳野英治会長は「教会員の献金奨励・勧誘活動及びビデオ受講施設等における教育活動等に対する指導について」と題する文書を発表し、以下のように教会員に対して指導を行った。
「教会員が自主運営するビデオ受講施設等における教育活動等についての指導基準

 勧誘目的の開示:教会員が自主的に運営するビデオ受講施設等における教育内容に統一原理を用いる場合、勧誘の当初からその旨明示するように指導して下さい。また、宗教との関連性や統一教会との関連性を聞かれた際には、ビデオ受講施設等の運営形態に応じた的確な説明ができるよう、ご指導下さい。」

 こうした指導の結果、統一教会の信者たちが行う伝道活動において、正体を隠して行わることは基本的にはなくなり、もしこの指導に対する違反が発見された場合には、教会本部からの強力な指導が行われるようになった。したがって、櫻井氏の述べる統一教会の布教方法の特殊性は既に過去のものとなっている。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』