Moonism & Pausキリスト教講座シリーズ01:2021年4月号


 今回から、私がこれまでに「キリスト教講座」と題してWorld CARP-Japanの機関誌『Moonism』および『Paus』(連載途中で雑誌名が変更)に寄稿した文章をシリーズでアップします。World CARP-Japanは、私自身もかつて所属していた大学生の組織です。未来を担う大学生たちに対して、キリスト教の基礎知識を伝えると同時に、キリスト教と比較してみて初めて分かる「統一原理」の素晴らしさを伝えたいという思いが表現されています。第一回の今回は、2021年4月号に寄稿した文章です。

第1講:キリスト教について学ぶ意義①

 これから「キリスト教講座」と題する連載を開始します。この内容は私が米国の統一神学大学院(UTS)で学んだ内容に基づき、既存のキリスト教神学と統一原理を比較することを通して、統一原理の価値を理解してもらうことを目的としています。

 初回の今回は、キリスト教について学ぶ意義を解説します。私たちのキリスト教に対する見方は、『原理講論』に出てくる復帰摂理の三段階という図式に強い影響を受けています。それは、歴史の中で復帰摂理を担当した各時代の中心宗教というものがあり、旧約時代にはユダヤ教、新約時代にはキリスト教が中心宗教であったが、成約時代である現在は家庭連合が中心宗教であるというものです。

旧約・新約の基盤の上にある成約

 この図式においては、私たちはユダヤ教やキリスト教よりも「上位の宗教」として位置づけられているのですが、実際には家庭連合に所属しているだけでこれらの宗教よりも心霊的に上位にあるわけではありません。本来、成約聖徒は旧約・新約という信仰の伝統を相続した基盤の上に立たなければならないのですが、そうした基盤なしにいきなり最高度のみ言に出会ってしまったために、み言の価値を受肉できず、消化不良に陥ってしまっている人が多いからです。

 そういう意味で、私たちがキリスト教について学ぶ第一の意義は、神の復帰摂理を先駆けて担当した宗教として、敬意をもってキリスト教を見つめるためということになります。ユダヤ教とキリスト教と家庭連合の関係について文鮮明先生が語られた非常に興味深いみ言の中に、1976年9月18日に「ワシントン大会」が行われたときに語られた「神のみ旨とアメリカ」というスピーチがあります。その中で文先生は、神様から見ればユダヤ教が長男、キリスト教が次男、統一教会(現在の家庭連合)が三男の立場であり、神の願いはこの三兄弟が一つとなって統一世界を造ることだと、語っておられます。

 これら三つの宗教は、それぞれが親なる神を愛しているにも関わらず、兄弟同士は仲が悪く、反目しあっているのです。これは親から見れば悲しいことです。兄弟が互いに協力し合って親孝行をしてくれた方が、親は嬉しいに違いありません。この三兄弟の中で家庭連合は最後に生れた末弟の立場です。これはアベルの立場なので、お兄さんであるユダヤ教やキリスト教に侍りながら、自然屈服させていかなければならないのです。

 一方でキリスト教はこれまで私たちを迫害してきた怨讐の宗教でもあります。実は文先生ご自身がキリスト教から数多くの迫害を受けてきました。文先生が北朝鮮で牢獄に入ったのも、梨花女子大事件が起きたのも、「羊を奪われた」と言って既成のキリスト教会が文先生に関する悪い噂を広めたり、政府に密告したりしたことが原因でした。そのように迫害を受けたにもかかわらず、文先生はキリスト教を愛し、その復帰のために投入されました。その理由について文先生は、『み旨の道』という小冊子の「指導者」の項目において以下のように語っておられます。

ドレ版画ヨセフと兄弟たち

「ヨセフがエジプトに訪ねてきた11人の兄弟を許すことができたのは、自分がいない間、それでも父母を養った兄弟たちであることを思えば、許さざるを得なかったのである。それと同じように、我々に反対してきた既成教団を祝福せざるを得ないのは、それでも統一教会が現れる以前に神様に侍ってきた基準があるからである。」

 ヨセフにとってエジプトに訪ねてきたお兄さんたちは怨讐でした。父母のもとで幸福に暮らしていたにもかかわらず、彼らによってラクダの隊商に売られ、エジプトで奴隷にされ、牢獄にまで入れられてしまうことになったのです。兄弟たちが訪ねてきたときヨセフは権力の座にいたので、彼らをひと思いに殺そうと思えばできる力を持っていました。しかし、なぜヨセフが兄弟たちに仕返しをしなかったかといえば、自分が故郷を離れて親孝行できなかったときに、親孝行してくれたのがお兄さんたちだったからです。個人的にはひどいことをしたけれども、親を愛してくれたというその功労の故に、許して愛さなければならないと思ったのです。これがまさに、文先生がキリスト教を見つめる心情なのです。

 二千年前にイエス様が神の子として来られ、十字架で亡くなられました。それから再臨主である文先生がこの地上に来られるまでの二千年間、誰が神を慰め、愛し、仕えてきたのかと言えば、それはクリスチャンたちでした。その功労のゆえに、たとえいまこの地上にいるクリスチャンたちが自分を迫害したとしても、許して愛さざるを得ない、という観点で文先生はキリスト教を見つめておられたのです。ですから私たちもそれと同じ心情でキリスト教を見つめなければならないわけです。

 私たちがキリスト教について学ばなければならないもう一つの理由は、既存のキリスト教が家庭連合を異端視し、原理を批判してくるので、それに対する防備のためです。かつては「反対牧師」と呼ばれるキリスト教の牧師たちが、家庭連合の信徒たちを拉致監禁して脱会させていました。彼らは聖書と『原理講論』との相違点を指摘し、統一原理の内容に対して神学的な批判を行いました。

 実際にはキリスト教の神学や聖書解釈は多岐にわたっており、「反対牧師」の聖書解釈も牧師ごとに異なっていました。ですから、彼らの言っていることは全部同じではなく、その批判同士が互いに矛盾していたりしたのです。しかし、聖書についても既存のキリスト教神学についてもほとんど知識がなければ、批判の内容を相対化することができず、反論することもできないのです。

 現在では家庭連合の信徒が拉致監禁されるというようなことはほとんどなくなりましたが、既存のキリスト教が統一原理を異端視し、神学的批判をしている状況は変わりありません。それに対抗するには、キリスト教の基本的な教義と同時に、その限界についても知っておかなければなりません。すなわち、既存の神学と比べて、統一原理がどのように優れているのかを知ることによって、確信が強くなるわけです。この連載の目的の一つは、そのような確信に至ることにあります。

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BITTER WINTER家庭連合関連記事シリーズ42


信教の自由と人権のための雑誌「BITTER WINTER」がインターネット上で発表した家庭連合関係の記事を紹介する連載。これらの記事を書いたマッシモ・イントロヴィニエ氏はイタリアの宗教社会学者で、1988年にヨーロッパの宗教学者たちによって構成される「新宗教研究センター(CESNUR)」を設立し、その代表理事を務めている。これらの記事の著作権はマッシモ・イントロヴィニエ氏にあるが、特別に許可をいただいて私の個人ブログに日本語訳を転載させていただくことなった。

日本の学校で配布された保守的宗教に反対するパンフレット

03/25/2024 MASSIMO INTROVIGNEA

未成年者は、何かをしたりしなかったりすることで地獄に行くと諭されたり、宗教活動に連れていかれることは「虐待」の一つであると教えられます。

マッシモ・イントロヴィニエ

それって虐待かも?
パンフレットの表紙。

日本では、文部科学省の初等中等教育局や政策局、そしてその他の部局が、小・中・高等学校で児童虐待に関するイラスト入りパンフレットを配布し、児童虐待に適時に気づき報告することを促しています。他のいくつかの国でも同様のパンフレットがあり、児童虐待の防止は確かに称賛に値する目標です。

しかし、2024年に日本で配布されるパンフレットは、「児童虐待」という特殊な概念に言及しており、保守的な宗教の典型的な表現も含まれています。特に、特定の宗教団体を名指ししてはいませんが、旧統一教会(世界平和統一家庭連合)、エホバの証人、ローマ・カトリック教会を標的にしている箇所があります。

ある部分においては、意味が曖昧ですが、日本の厚生労働省が2022年末に公表した「宗教の信仰等に関する児童虐待等への対応に関するQ&A」と比較すると、より明確になります。実際、この「Q&A」は全国の教育委員会に送られ、学校側では児童虐待に関する図解パンフレットの配布が始まりました。

ファイナンシャル・タイムズ紙で日本問題を専門とする著名なジャーナリスト、レオ・ルイスが指摘したように、これらの「Q&A」は、旧統一教会を「解体」し、その信仰を次の世代に引き継ぐのを阻止するために作られたものであることは明らかです。しかし、誰が起草したにせよ、安倍元首相暗殺後のエホバの証人や保守的なキリスト教団体に対する攻撃も考慮に入れていたのです。ルイスが結論づけたように、「何かを成立させようと急ぐあまり、日本はいくつかの非常に微妙な神学的な問題を見落として、想定したよりもはるかに大きな組織や活動の輪に潜在的な問題をつくりました。

パンフレットは状況をさらに悪化させます。それは「宗教活動への強制参加」は「虐待」にあたると子どもたちに説明しています。しかし、「強制」という形容詞は曖昧です。それは、金曜日に街頭に繰り出し、モスクに行きたくない市民を強制的にモスクに連れて行く、一部のイスラム教国の「宗教警察」を想起させます。これは確かに虐待です。なぜなら、成人の市民は、余暇を自由に使う権利を持っているからです。ただし、未成年者は通常、彼らの時間を進んで計画することはありません。一般的には、親が監督することが適切であると考えられています。そうでなければ、一部の未成年者は、勉強にほとんど時間を費やさず、楽しむことに多くの時間を費やしたくなるかもしれません。未成年者は通常、両親によって教会に連れて来られます。親は多かれ少なかれ熱狂的かもしれませんが、このような場合の行動は「虐待」ではありません。

地獄に落ちるわよ
パンフレットには、子どもたちが「宗教活動への参加を強要される」あるいは「『地獄に行くぞ』などの言葉で脅される」などの虐待を受けている、と説明されています。

もし、この言及が、未成年者を宣教活動に参加させることに関するものであれば、それはほとんどの教会で行われていることです。例えば、バチカンのウェブサイトでは、「子どもたちはすでに完全な人間であり、周囲の世界を変革することができる」という原則に基づいて子どもたちの伝道活動を監督するバチカン公認の統括組織であるIMAC(International Movement of Apostolate of Children)の活動を紹介しています。

また、このパンフレットでは、子どもたちは「年齢にふさわしくない性表現を含む資料を見せた」人に警戒し、通報するよう指示されています。一般の読者は、これがポルノグラフィーやアダルト雑誌のことだと思うかもしれないが、安倍暗殺後のエホバの証人や保守的なキリスト教団体に関する日本のメディアの論争を見ると、実際には、この言及は姦淫やその他の性的な罪に関する聖書の物語と、それに対応するキリスト教出版物のイラストを指していることが理解できます。もちろん、すべての聖書の記述が5歳の子供にふさわしいわけではありませんが、2024年においては、17歳の未成年者がそれらによって汚辱されることはないでしょう。また、これらの解説が、不適切な性的内容の漫画やアニメが国内の未成年者に大量に流通し、入手できることについて、国連児童基金(ユニセフ)から繰り返し批判を受けてきた日本で行われていることも逆説的です。しかし、ここでは宗教と聖書が取り上げられているのです。

性的虐待
児童性的虐待の事例としては、「年齢にふさわしくない性表現を含む資料」や「性体験について話す」ように誘導されることが挙げられています。

パンフレットにはもう一つ、「子どもに性体験を話させる」人たちのことについて書かれています。繰り返しになりますが、ある人は、小児性愛者が未成年者を扇動して卑猥な話をさせることを暗示している、と想像するかもしれません。しかし、2022年に政府が出したQ&Aを見ると、実際には、未成年者が性的な罪を告白したとしても、告白は非難されるべきであることを示しています。10代の若者の告白を聞いた経験のあるカトリックの司祭なら誰でも、彼らが「ほとんど」セックスに関連する罪を告白することに同意するでしょう。16歳の少年が脱税を告白したり、公務員に賄賂を支払ったりするとは考えにくい。したがって、パンフレットは、カトリック教会で7歳から始まる告白や、他のいくつかのキリスト教会で実践されている告白を直接攻撃しています。性的な罪の告白は「性的虐待」の範疇にさえ入るのです。

名前は出しませんが、パンフレットの中で、医師に指示されても「輸血を避ける」ように子供たちを誘導するという記述は、エホバの証人を直接に標的にしています。彼らは、輸血は聖書に反すると考えており、日本を含む医療先進国で容易に入手できる代替療法を推奨しています。また、保守的なキリスト教団体が未成年者に「高等教育への進学を制限する」ことは虐待やネグレクトの別の形態であると伝えた場合、パンフレットの標的にされる可能性もあります。保守派のグループは、現代の大学のある傾向に批判的であることが多いが、エホバの証人の場合、国際的な学術研究は、彼らのかなりの割合が大学に進学していることを実証しています。この質問には議論の余地がありますが、現代の大学について異なる意見を持つことは「児童虐待やネグレクト」ではありません。

ネグレクト
医師から指示されても「輸血を受けない」ことは、「ネグレクト」の事例として明確に言及されています。

パンフレットの中で最も奇妙で憂慮すべき言及は、あることを「したり、やらなかったりする」と「地獄に行く」と子供たちに告げることは「虐待」と見なすことです。これは、保守的なキリスト教会や他の宗教でも非常に一般的な教えです。今ではあまり流行りませんが、私の世代のクリスチャンは、カトリックの問答式教授やプロテスタントの日曜学校における司祭や牧師だけでなく、親たちも重い罪を犯した人は地獄に行くと子供たちに教えていたことを覚えています。

地獄への恐怖を教え込むことが「児童虐待」の一形態であるならば、地獄の生々しい描写を含むダンテの「神曲」は、日本では未成年者には禁じられるべきであり、日本の旅行代理店は、未成年者連れの家族を、有名な中世のピサ墓地や無数のヨーロッパの大聖堂に連れて行くべきではありません。死後の世界で罪人を苦しめる様子を描いたフレスコ画や絵画があるからだ(ちなみに、仏教の冷たい地獄の描写はそれほど恐ろしいものではない)。バチカンが承認した子供のためのカトリックの問答式教授YOUCATと、保守的なプロテスタントの日曜学校のための無数の教材は、地獄が存在し、「考えるのが恐ろしい」(YOUCAT、no.53)こと、そして重大な罪を犯して悔い改めない人々はそこに行き着くだろうと教えています。

パンフレットは「虐待」という概念をほとんど戯画的な方法で拡大し、保守的なキリスト教徒の親が自分の宗教を子供に伝える権利を攻撃しています。日本国が署名・批准した市民的及び政治的権利に関する国際規約(ICCPR=自由権規約)第18条第4項は、「この規約の締約国は、父母及び該当する場合には法定保護者が自己の信念に従って児童の宗教的及び道徳的教育を確保する自由を尊重することを約束する」と述べています。日本は自由権規約に署名し、批准しています。このようなパンフレットを学童に配布することは、第18条第4号の明白な違反です。それは許されるべきではありません。

以上の記事のオリジナルは以下のURLで見ることができます。

https://bitterwinter.org/%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%ae%e5%ad%a6%e6%a0%a1%e3%81%a7%e9%85%8d%e5%b8%83%e3%81%95%e3%82%8c%e3%81%9f%e4%bf%9d%e5%ae%88%e7%9a%84%e5%ae%97%e6%95%99%e3%81%ab%e5%8f%8d%e5%af%be%e3%81%99%e3%82%8b%e3%83%91/?_gl=1*nzbtsd*_up*MQ..*_ga*MjA3Mjc4MDQxMC4xNzEzNjE0NzMy*_ga_BXXPYMB88D*MTcxMzYxNDczMi4xLjAuMTcxMzYxNDczMi4wLjAuMA..

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BITTER WINTER家庭連合関連記事シリーズ41


信教の自由と人権のための雑誌「BITTER WINTER」がインターネット上で発表した家庭連合関係の記事を紹介する連載。これらの記事を書いたマッシモ・イントロヴィニエ氏はイタリアの宗教社会学者で、1988年にヨーロッパの宗教学者たちによって構成される「新宗教研究センター(CESNUR)」を設立し、その代表理事を務めている。これらの記事の著作権はマッシモ・イントロヴィニエ氏にあるが、特別に許可をいただいて私の個人ブログに日本語訳を転載させていただくことなった。

フランスの「カルト」に関する新法が間違っている理由

03/06/2024 EILEEN BARKER

フランスの下院は「カルト」に関する修正法案に、上院が削除した「心理的服従」という奇妙な犯罪を再導入した。

アイリーン・バーカー

洗脳の風刺画
信徒を「洗脳」するスヴェンガリのような霊的指導者の風刺画(AI生成による)

大まかに言って、立法に対する政治的アプローチには二種類ある。実際に被害を与えた加害者が法廷で有罪判決を受けた「後に」、彼らを罰する国がある。これは、アメリカ、英国、およびその他ほとんどの西洋の民主主義国で見られるアプローチである。一方で、なんらかの犯罪行為が行われる「前に」、潜在的な被害から市民を保護すると主張する国がある。後者のアプローチは、ロシアや中国などの独裁国家の中に見られる傾向にあるが、フランスも同様であるように見える。なぜならフランスでは、「セクト的逸脱」を示すグループによる潜在的な害から市民を保護するための法律の制定が推進されているからだ。「セクト的逸脱」は、英語では「カルト」という差別用語で呼ばれる宗教運動にほぼ等しい概念である。これが意味するのは、「カルト」というレッテルを張られた宗教による行動は、たとえ同じ行為が「宗教」であるとみなされているグループによって行われれば完全に合法であったとしても、犯罪であるとみなされるだけでなく、「カルト」というレッテルを張られたこと以外にはいかなる違法行為を実際にしていなかったとしても、有罪を宣告されるかもしれないということだ。

しかし、「カルト」に関する合意された定義は存在せず、この用語は一般的に、ある人が良くないと考える宗教または運動を指すために使われる。私自身、特定の運動が「カルト」なのか「本物の宗教」なのかを尋ねられたことは、数えきれないほど多い。私がその質問者に対して「カルト」とは何かと尋ねても、彼らが首尾一貫した返答をすることは稀である。しかし、答えを迫られれば、口ごもりながら、洗脳、児童虐待、自殺、殺人、ある種の悪魔的な異端について何かつぶやくことがある。それを聞いて私は通常、該当する運動が彼らの説明に合致しないことを再確認できる。

ロシアや中国などの国々は、単に特定の運動を犯罪集団に指定するリストを作成することによって、定義の問題を解決している。ロシアの場合、そのような運動のメンバーは過激主義者の文献を読んでおり、したがって彼ら自身が過激主義者であるということになり、その運動は禁止される。中国の場合、「邪教」(文字通りに訳せば「非正統的な教え」だが、通常は「邪悪なカルト」と訳される)のリストが存在する。このリストに載せられた宗教は自動的に、宗教ではなく犯罪組織であると定義され、したがっていかなる宗教の自由の権利保護の対象からも外されるのである。

ロシアのSWATチーム
ロシアのSWATチームが「カルト」の施設を襲撃する様子(2024年2月にロシア警察がカルトを襲撃した際に、実際に提供された画像を元にAIが生成)。

申し分のない「カルト」の定義が存在しないことを認めつつも、1995年のフランス国民議会への報告書には、他のほとんどの民主主義国で「普通の(合法的)宗教」として受け入れられているいくつかの宗教を含む170以上の「カルト」のリストが含まれていた。 「カルト」としての指定は、1つまたは複数の運動によって行われたいくつかの「悪いこと」の例を列挙することによって正当化されていた。しかし、これらの「悪いこと」のほぼ全ては、すでに法律で規制されたことに過ぎず、しかもそのほぼ全ては主流の合法的な宗教によっても犯されていたのである。それらの「悪いこと」が普遍的に適用可能な法律によって既に規制されているか、あるいは容易に規制可能であるのであれば、なぜ特別な法律を導入する必要があるのか、という疑問が生じるのは当然である。奇しくも1995年のリストは法律で採用されなかったものの、それはいまでも「カルト」と名指しされた運動を分類し、差別するために使用されている。

ここで精神操作、心理的服従、および「洗脳」について考えてみたい。これらの用語はほとんど同じ意味で使われている。「洗脳」という概念は、米国やその他の場所でいわゆる「専門家」がそれを導入しようとした際に、裁判所で排除されている。それは1950年代の朝鮮戦争の時代に遡る。そのとき米国は、ごく少数の米国人捕虜が共産主義への忠誠を誓ったとされる理由を説明しようとした。臨床心理学者のマーガレット・シンガーは、「カルト」がそのメンバーに影響を与える方法について説明する上で「洗脳」理論を正当化しようと尽力した人物の一人であったが、彼女の主張は米国心理学会と米国の裁判所の双方による検討の結果、拒否された。

1970年代には、「洗脳」という概念が、メディアや増加しつつあった「反カルト」組織、そして心配する親たちによって広められていた。親たちは、彼らの(成人した)子供たちがどうして奇妙なグループに改宗し、以前なら選ばなかったはずのことを信じたり、行ったりするのか、理解に苦しんでいた。これらの親たちは、彼らの子供たちが「洗脳」されており、したがって「被害者」たちは自分では抜け出せないのだという説明を聞かされていた。その結果、何百人という親たちがプロの「ディプログラマー」に大金を支払って、改宗者を違法に拉致して「救出」していた。彼らはなんとか逃げ出すか、自分を拘束している者たちに自分は信仰を棄てたのだと納得させることができるまで、解放されなかった。これはしばしば改宗者にとってトラウマ体験となり、その後に自分の宗教に戻った多くの者たちが、自分たちがどのように扱われたかについての恐ろしい話を語るようになった。

個人と社会の関係に関心を持つ社会学者として、私は「洗脳」とディプログラミングを、社会的状況が個人を支配する極端な状況を表わしているように見える、興味深い概念であるとみなした。私はまた、もし改宗者が「洗脳」されていないのであれば、自らの宗教を表現することを許されるべきだという意見であった。それは彼らが万人の守るべき法律を破らないかぎりにおいてではあるが。一方でもし彼らが、ディプログラマーたちが主張するように、ほとんど抵抗不能で不可逆的なある種のテクニックを受けていたとすれば、何らかの対処が必要であり、彼らは自称ディプログラマーではなく、特別に訓練された専門家によって助けられるべきだと考えていた。

統一運動は当時最も恐れられ、広く嫌われていた新宗教の一つであったが、そのメンバーとの偶然の出会いにより、私は研究プロジェクトに取り組むことになった。その研究において私が立てた問いは、はたして統一教会の信者たちは自由意志によって改宗を選択しているのか、それとも運動によって自由に選択する能力を事実上奪われているのかということだった。

アイリーン・バーカー
アイリーン・バーカーと彼女の1984年の画期的な著書は、統一運動に参加する人々は「洗脳」されたのだという考えを否定している。

提示された「洗脳」または精神操作は、人々が「カルト」のメンバーになり、その後は「カルト」が望むことを何でも行うようになるような(潜在的に違法な)「プロセス」であると言われている。しかし、私が最初に観察したのは、人々はそのようなプロセスを説明したり描写したりすること以上に、そのプロセスの「結果」(改宗者の新しい信仰や行動)に対する非難を表明しているように見えたということだ。このような強く非難すべき結果というものは、「洗脳」のようなプロセスによってしか説明できないというわけだ。言い換えれば、巧みに操作する技術の証拠として提示されているのは、しばしば回心のプロセスそのものではなく、回心の結果であったということだ。

ただし、プロセス自体を記述し説明する主張もいくつかあった。これらは主に三つのカテゴリーに分類された。第一に、身体的拘束があった。これは被験者が意志に反して拘束された米国の戦争捕虜のような事例である。しかし、「カルト」のリストに載っている宗教の中でも身体的拘束が行われることは極めて稀である。しかし、当時行われていた多くのディプログラミングにおいては、これは事実だった。監禁された者やその教団が「拉致」の後に警察に連絡しようとしても、警察が見て見ぬふりをするケースがあった。また少なくとも一つのケースでは、統一教会による人身保護令状が裁判所によって拒否されている。その理由は、その28歳の娘にとって何が一番良いかは両親が知っているというものであった。その女性は外国で一カ月以上監禁された後に、統一運動に戻ることができた。

「洗脳」の第二の記述は、脳が文字通り洗われているのではないにしても(「洗脳」はもちろん比喩である)、ドラッグ、睡眠不足、または粗末な食事などのさまざまな手段によって脳が機能不全に陥るというものだ。私は、そこで「洗脳」が行われていると言われていた、統一教会が運営する泊まり込みの週末ワークショップの幾つかに参加し、同じ経験をした多くの人々と話をした。私と同様に、彼らは他の多くの状況に比べて特に睡眠が奪われたとか、粗末な食事を与えられたとは言わなかった。そして参加者はいかなる事情があってもワークショップ中にドラッグを接種してはならないと指導されていたのである。

第三の記述は、「洗脳」されたというよりも、マインド・コントロールまたは精神操作と言った方が適切かもしれない。時には、被害者の心がもはや自由意志を行使できないように制御するため用いられる、ある種の催眠術的でスヴェンガリのような技術が用いられていると示唆されることもある。

数千年間、哲学者たちは自由意志の存在と決定論を巡って論争してきたが、しばしばさまざまな形の循環論法に終わってきた。統一教会の信者たちが私に語ってくれたのは、彼らが自分は「洗脳」されていないと主張すると、それは自分が「洗脳」されていないと思い込むように「洗脳」されているのだ、としばしば言い返されたということだ。

そのような無駄な議論を避けるため、私は選択を、(a)個人(彼または彼女のDNA、価値観、恐れ、希望、過去の経験などを伴う)が、(b)特定の社会的状況(統一教会の信者によって運営される泊まり込みのワークショップ)の中で、彼の現在の気質を活かしながら、二つの潜在的な未来の結末を想像しながら描くことができる能力であると定義した。すなわち、(c)統一教会の信者になることと、(d)統一教会の信者にならないことである。

次に私は、もし「洗脳」やマインド・コントロールが当てはまるとすれば、結果の原因となる唯一の変数は社会的状況であり、個人は統一教会に加入する以外に選択肢がない場合であるという仮説を立てた。     

しかし、私が「統一教会の経歴」をフォローした1,000人以上のワークショップ参加者のうち、90%が教会に加入しなかったし、参加した者の過半数がその後2年以内に離れていたのである。(さらに、私は後に、統一教会の二世の最初の群の圧倒的大多数が、一生を通じて社会化を受けたにもかかわらず、または恐らくそれ故なのかもしれないが、可能な限り早く教会を去ったことを発見した。)

明らかに、潜在的な新メンバーが経験するプロセスは、抵抗不可能なものでも不可逆的なものでもなかった。統一教会の信者がどれだけゲストを操って入会させたいと望んだとしても、あるいは彼らの子供たちが留まることを望んだとしても、彼らのテクニックがあまり効果的でないことは明らかだった。(統一教会の社会化プロセスは、実際にはカトリック教会のものよりも効果が低いとみなせるかもしれない。)

これらの発見に対する反応の一つは、統一運動は特に被暗示性の強い人々を操作しているというものであった。「彼らが入会したのだから、そうであったに違いないだろう?」というわけだ。これを検証するために、私は人を特に脆弱にすると仮定される要因の幾つかを見てみた。たとえば、不幸な幼少期、破綻した関係、学校や大学での成績不良、病弱ゆえの苦しみなどである。

ロンドンの文師夫妻
ロンドンを訪問した際にウェストミンスター寺院前で信者たちと記念撮影する文師夫妻。出典:英国世界平和統一家庭連合

次に私は、統一運動に参加した人々と、ワークショップに行っても入会しなかった人々、および統一教会信者と年齢や社会経済的背景ができるだけ一致するように選ばれた対照群を比較した。実際には、最も「被暗示性の強い」人々は、ワークショップに行っても入会しなかった人々や、入会して一週間以内に離脱した人々の中にいた。実際に参加した人は、被暗示性が強いというよりは感受性が強いように見えた。いくつかの理由から、彼らは統一運動が広い社会では得られない何かを提供してくれると感じたのである。そしてその後、運動が彼らの期待を満たさないことが分かると、彼らは去ったのである。

他の学者たちも、「カルト」と呼ばれている異なる宗教について研究した際に、似たような結果を得ている。これは、一般に「カルト」が行うと言われているいくつかの「悪事」を、決して「カルト」が行わないと言っているのではない。一部の新宗教が、特定の時期に、特定の場所で、特定の悪事を働いたことはある。しかし、同じことは既存の「まっとうな」宗教にも言えるのである。なぜなら、どのような悪い行為であれ、ひとたび彼らが法を破ったと主張されたのであれば、それらは立法府によって、すべての宗教とその信者(実際にはすべての市民)に適用されるように処理されなければならないからである。

最後に、「洗脳」や精神操作などの用語は、特定の不人気な宗教の出現に対して偏見を抱かせることがあり得る一方で、他の人々の目的には役立つこともある、ということを認識するのは有益であろう:(a) 元メンバーの中には、自分がメンバーだったことを後悔している者がおり、彼らは自分の行為を「説明する」ことができる。彼らと、おそらくその親族はすべての罪を許される。それは彼らには責任がないことだったのである。(b) ディプログラマーは、「自分の力では離れることができない」とされる「被害者」を「救出」するために、数万ユーロの報酬を請求することができた。(c) こうした用語は、メディアによる「邪悪なカルト」の暴露記事に良い見出しを付けることができる。(d) 主流の宗教にとっては、彼らの「本物の」信仰が拒絶された理由になる。(e) 「カルト監視」組織は、「私たちの中のカルト」の危険性を潜在的な寄付者に納得させることができれば、国(およびその他)から資金を得やすくなる。

結論として、この提案された法案が国民議会で承認されたそのままの形で採択された場合、それは民主的な社会としてのフランスにとって、深刻な脅威となり得る。民主的な社会においては、すべての市民は法の下で平等であるだけでなく、法を犯すことによって有罪となることがない限り、自身の宗教を表現する自由があるからである。*

* このテキストは、元々UK FORBフォーラムの宗教的差別に関する作業部会の枠組みで準備された。

以上の記事のオリジナルは以下のURLで見ることができる。

https://bitterwinter.org/%e5%85%ac%e7%9a%84%e6%a9%9f%e9%96%a2%e3%81%ab%e3%82%88%e3%82%8b%e5%ae%97%e6%95%99%e7%9a%84%e3%83%9e%e3%82%a4%e3%83%8e%e3%83%aa%e3%83%86%e3%82%a3%e3%81%b8%e3%81%ae%e8%aa%b9%e8%ac%97%e4%b8%ad%e5%82%b7/?_gl=1*1ohihms*_up*MQ..*_ga*Njk1MTg4MzYxLjE3MTM2MTM0NTk.*_ga_BXXPYMB88D*MTcxMzYxMzQ1OS4xLjEuMTcxMzYxNDA5My4wLjAuMA..

カテゴリー: BITTER WINTER家庭連合関連記事シリーズ

BITTER WINTER家庭連合関連記事シリーズ40


信教の自由と人権のための雑誌「BITTER WINTER」がインターネット上で発表した家庭連合関係の記事を紹介する連載。これらの記事を書いたマッシモ・イントロヴィニエ氏はイタリアの宗教社会学者で、1988年にヨーロッパの宗教学者たちによって構成される「新宗教研究センター(CESNUR)」を設立し、その代表理事を務めている。これらの記事の著作権はマッシモ・イントロヴィニエ氏にあるが、特別に許可をいただいて私の個人ブログに日本語訳を転載させていただくことなった。

公的機関による宗教的マイノリティへの誹謗中傷:大阪地方裁判所の誤った判決

03/15/2024 MASSIMO INTROVIGNEA

裁判所は、統一教会とUPFを「反社会的」であるとした地方自治体による決議は違法ではないと言った。 同様の訴訟において、欧州人権裁判所は異なる判決を下した。

マッシモ・イントロヴィニエ

大阪地裁
大阪地方裁判所。Xより。

2024年2月28日、大阪地方裁判所は、日本の統一教会(現在は世界平和統一家庭連合、家庭連合と呼ばれる)および天宙平和連合(UPF)を含むその関連団体に関する民事訴訟の判決を下した。

大阪市会、富田林市(大阪府の別の市)議会、大阪府議会はいずれも2022年9月から12月にかけて、安倍晋三元首相暗殺後に起きた反統一教会キャンペーンをきっかけとして、家庭連合およびUPFを含むその「関連団体」との関係を断つことを明記した決議を採択した。 彼らはこれらの組織を「反社会的」であるとした。

大阪UPFは決議の取り消しと損害賠償を求めて訴訟を起こした。 2月28日、大阪地方裁判所は大阪UPFの訴えを退ける判決を下した。 裁判所は、決議は政治的声明であり、直接的な法的効果や影響をもたらさないと主張した。 裁判所は、私人や民間団体とは異なり、国や地方自治体は「自律的な権能」を有しており、「真実」の基準以下の「相応の合理性」さえあれば、「裁量的な政策判断」を行うことができると論じた。 安倍暗殺後に統一教会が「社会問題」となっていたことは疑いの余地がないため、家庭連合とその「関連団体」が「反社会的」であることには「相応の合理性」があると裁判所は言ったのである。 おそらく政府が家庭連合に対して宗教法人としての解散命令を請求したという事実も、裁判所が「相応の合理性」があると判断した要因だろう。

しかしながら、その判断は間違っている。 この結論に達するのに日本の法律の専門家である必要はない。 日本は市民的および政治的権利に関する国際規約(自由権規約)に署名しており、その第17条には「何人も、…名誉及び信用を不法に攻撃されない(1項)。すべての者は、1項の干渉又は攻撃に対する法律の保護を受ける権利を有す」と規定されている。 世界中の裁判所は、一貫して第 17 条は宗教団体にも適用されると解釈してきたし、それを次の第18条と結び付けてきた。第18条は、市民が自由に宗教を選択する権利に干渉しようとする政府の試みから、宗教または信仰の自由を保護している。

国や地方自治体がある宗教団体について「反社会的」であると言えば、その名誉と名声に対する権利が危険にさらされ、差別を煽り、市民がどの宗教に入信するかを政府の圧力を受けずに決定する権利を妨げることになる。 公的に「反社会的」であると宣言された宗教に入信するという汚名を、あえて被りたいと思う者がどこにいるであろうか?

永井博氏と徳永信一弁護士
2022年12月23日に大阪地方裁判所の司法記者クラブで記者会見を開いたUPF大阪代表の永井博氏(左)と徳永信一弁護士(右) Xより。

欧州人権裁判所(ECHR)は2022年12月13日、それに該当する自由権規約の条項と非常に類似した欧州人権条約の規定を解釈し、ブルガリアに不利な判決を下した。 この訴訟は、ブルガス市が市内のすべての公立学校に送った手紙に関するもので、その内容は、一般に「モルモン教」として知られる末日聖徒イエス・キリスト教会、エホバの証人、および地元のペンテコステ派の三つの教会が、 「カルト」(セクト)であり、「危険」であると説明していた。もちろんこれは、それらが「反社会的」であると言うことと同様である(「トンチェフ対ブルガリア」訴訟)。

興味深いことに、同じ欧州人権裁判所は21年前の2001年に、フランス政府が一部のグループを「カルト」(フランス語で「セクト」)と呼ぶ権利があるという判決を下していた。 この決定は部分的には技術的な問題に基づいていた(一部のフランス政府出版物については、原告、この場合はエホバの証人が、提訴するのが遅すぎた)が、2022年に欧州人権裁判所は、21年の間に状況が変わったと指摘し、公的機関が宗教的マイノリティに対して「危険」あるいは「カルト」というときには、常にそれに対する差別を生み出すのだということを繰り返し明示したのである。

欧州人権裁判所はまた、2021年に「ハレ・クリシュナ運動」として知られるクリシュナ意識国際協会に関する訴訟において、ロシア政府がこの団体を公文書で「破壊的」であり「カルト」であると言うことはできないとの判決を下したことにも言及した。

どちらの場合も、公的機関が発表した文書や文言には法的効力はなかったが、欧州人権裁判所が「トンチェフ」訴訟で述べたように、地方自治体や中央政府のこうした声明は「当該教会の信者が信教の自由を行使する上で悪影響を与える」と述べた。 彼らは差別される可能性が高く、宣教活動が困難になったり、不可能になったりする可能性がある。 ブルガス市の声明が「申立てをした牧師やその信者たちが、礼拝や実践において自らの宗教を表明する権利を直接制限するものではなかった」という事実は、重要であるとはみなされなかった。 公的機関の声明は直接的な法的影響を及ぼさないかもしれないが、深刻な差別を引き起こす可能性がある。

大阪でも同じ原則が適用されるべきであったが、UPFの場合はなおさらである。 UPF と家庭連合の創設者は同じであるが、UPFの活動に参加する人々や 10 万人の平和大使の圧倒的多数は家庭連合の会員ではない。

以上の記事のオリジナルは以下のURLで見ることができる。

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BITTER WINTER家庭連合関連記事シリーズ39


信教の自由と人権のための雑誌「BITTER WINTER」がインターネット上で発表した家庭連合関係の記事を紹介する連載。これらの記事を書いたマッシモ・イントロヴィニエ氏はイタリアの宗教社会学者で、1988年にヨーロッパの宗教学者たちによって構成される「新宗教研究センター(CESNUR)」を設立し、その代表理事を務めている。これらの記事の著作権はマッシモ・イントロヴィニエ氏にあるが、特別に許可をいただいて私の個人ブログに日本語訳を転載させていただくことなった。

フランス、上院の反対を押し切って新たな反カルト法を可決

04/16/2024 MASSIMO INTROVIGNEA

この法律は「心理的服従」という新たな犯罪を創設し、主流の医療を批判する可能性を制限し、宗教や信仰の自由を深刻な危険にさらしている。

マッシモ・イントロヴィニエ

フランス下院での投票
新しい法律を可決したフランス下院での投票 出典:フランス国民議会

4月9日、フランスは数か月にわたる議論の末、ついに新たな改正反カルト法を可決した。政府は上院を説得できず、4月2日に再び上院が条文全体を否決した。しかし、フランス独特の制度の下では、法案に関して上院と下院が相容れない立場を表明した場合、最終的には下院の投票が優先される。 政府はこの条文に賛成するよう下院議員に激しく働きかけたが、下院でも反対は大きく、法案は146票の「賛成」、104票の「反対」で可決された。

しかし、この法律は可決されたものの、同法が直面した大きな反対は、おそらくその執行に影響を与える可能性がある。この法律の名称は、「カルト的逸脱との戦いの強化」に関するものである。「カルト」に対する新たな取り締まりの理由として、MIVILUDESが受け取る「通報」(フランス語で“saisines”)の数が増加していることがあげられる。「Bitter Winter」が立証したように、「通報」は実際の事件の報告ではなく、MIVILUDES に送られた簡単な質問が含まれており、間違っていたり操作されていたりする可能性が高い。

また、新型コロナウイルス感染症の期間中に「カルト」が成長し、一部が反ワクチンの考えを広めたとも言われている。したがって、「必要な治療を放棄させるか受けさせないための挑発」という、懲役1年と罰金が科せられる新たな犯罪が創設される。明らかに、これが引き起こす影響は新型コロナウイルスやワクチンをはるかに超えている。国務院が法案を検討した際、言論の自由と「科学的議論の自由」に対する脅威であるとして、この条項を削除するよう勧告したことに留意すべきだ。しかし、政府は国務院の勧告を拒否し、この条項を残した。上院での争いは、医療会社の疑わしい行為を暴露する「内部告発者」を保護する新たな条項の導入につながっただけだ。

反カルトの手段も強化される。反カルト団体が「カルト」を相手取った訴訟に民間機関として出席することが許されたり、裁判官や検察官は、彼らが審判対象とし、あるいは起訴しているグループに関してMIVILUDESの意見を求めることが奨励されたりするようになるのだ。また議会の修正により、MIVILUDES に新たな強化された地位が与えられた。

新しい法案の核心は、「心理的服従」という新たな犯罪の創設である。法案は以下のように述べている。「重大な、ないし、反復継続する圧迫、または、人の判断を変更させることができる技術の使用によって、人を心理的ないし身体的服従状態に置き、その人の身体的または精神的健康状態に重大な悪化を引き起こすか、あるいは、本人にとって極めて不利益な一定の作為・不作為に導いた者は、懲役3年および375,000ユーロの罰金の刑に処せられる。」

ただし、その「精神的服従」が、未成年者または「年齢、病気、虚弱さ、肉体的または精神的な欠陥、妊娠などにより特別な脆弱性を抱えていることが、明らかであるか加害者に知られている人」を巻き込んだ場合には、刑罰は「懲役5年および750,000ユーロの罰金」となる。 「これらの違反が、あるグループの事実上または法律上のリーダーによって、その活動に参加する人々の心理的または身体的服従を生み出し、維持し、または利用する目的または効果を狙って行われた場合」(「カルト」の指導者と読むべき)、あるいは「違反がオンライン公共通信サービスの使用またはデジタルまたは電子媒体を通じて行われた場合」(ウェブサイトやソーシャルメディアを通じた「カルト」のプロパガンダをターゲットにしている)にも、同様の重罰が適用される。

会期中のフランス下院
会期中のフランス下院(国民議会)

上記の状況のうち2つが同時に発生した場合、または「その違反がある組織化されたギャングの一部を構成するメンバーによって、その活動に参加する人々の心理的または身体的服従を生み出し、維持し、または利用する目的または効果を狙って犯された場合には、刑罰はさらに7年間の懲役および 100 万ユーロの罰金に過重される。反カルト主義者にとって、「心理的服従」を実践する「カルト」は定義上「組織化されたギャング」である。

これが「脆弱性の悪用」に関する既存の規定とどのように異なり、なぜ政府が新たな犯罪によって現行法では捉えられていない「カルト的逸脱」を犯罪化できると信じているのかを理解することが重要である。「脆弱性の悪用」は、被害者が「脆弱な状況」にあり、心理テクニックによって、たとえば多額の献金をしたり、「カルト」リーダーに性的に身を委ねたりするなどの、自己加害行為に誘導された(と申し立てられた)場合に処罰された。新法の序論的コメントの中で政府は、「アブ・ピカール法(2001年の反カルト法)の現行の条文では、被害者を加害者の支配下に置くことを目的とした作用や技術によって決定される心理的または身体的服従状態を、直接的に有罪とすることは認められていない」と主張している。

新しい犯罪は2つの点で「脆弱性の悪用」とは異なる。第一に、被害者が「脆弱」な状況にある必要はない。誰もが「心理的服従」の被害者になる可能性があるのだ。第二に、被害者の精神的健康状態の悪化と、「洗脳」技術が被操作者を自己加害に導くおそれがあるという事実とを、「かつ」ではなく「または」で結びつけていることは極めて重大である。同じ紹介報告書が説明しているように、この「または」により、被害者が自己加害行為に誘導されたことが証明できない場合でも、「心理的服従」を処罰することが可能になるのである。「精神的健康の悪化」が起こったと主張するだけで十分であろう。

報告書はほぼ当然のこととして、心理的服従の状況は通常「被害者の精神的健康の悪化」を引き起こすと明記している。したがって、被害者が自傷的であると分類できる特定の行為を何も行っていなかったとしても、謎めいた「心理的服従状況を作り出す技術」を使用すれば処罰されることになる。結局のところ、反カルト主義者たちは、「カルト」への加入やそこに留まり続けること自体が精神的健康にとって危険であると主張しているのである。そして覚えておいてほしいのは、この理論を推し進めるために反カルト団体が裁判に参加することになり、疑問がある場合には検察官と裁判官はMIVILUDESの意見を求めるよう助言されるということだ。

新宗教運動の研究者のほとんどは、「洗脳」は存在せず、それを有罪とすることは基本的に虚偽であるという点で一致している。宗教的説得の通常のプロセスが、権力が「通常」であるとみなす信仰の対象と実践を持っている場合には「洗脳」はないと主張される。信念や実践が非伝統的であったり不人気であったりする場合には、これは「洗脳された」被害者だけに採用される証拠として提出される。なぜなら、彼らは「心理的服従」の状態に置かれているからである。

フランス政府は、この新法によって信仰が犯罪化されるのではなく、特定の信念を奨励する技術のみが犯罪化されるのであると厳粛に宣言する。しかし実際には、ある信仰が「違法な」技術によって教え込まれたのだとされる証拠は、反カルト主義者、MIVILUDES、社会の大多数、あるいはメディアがそれを「カルト的逸脱」とみなしているということなのである。主流の国際的学者たちが指摘するようにE、フランスは「セクト」に対するこだわりのゆえに、宗教や信仰の自由に関しては、民主主義世界における最悪の国の一つとなっている。

以上の記事のオリジナルは以下のURLで見ることができる。

https://bitterwinter.org/%e3%83%95%e3%83%a9%e3%83%b3%e3%82%b9%e3%80%81%e4%b8%8a%e9%99%a2%e3%81%ae%e5%8f%8d%e5%af%be%e3%82%92%e6%8a%bc%e3%81%97%e5%88%87%e3%81%a3%e3%81%a6%e6%96%b0%e3%81%9f%e3%81%aa%e5%8f%8d%e3%82%ab%e3%83%ab/?_gl=1*xmkgsm*_up*MQ..*_ga*Njk1MTg4MzYxLjE3MTM2MTM0NTk.*_ga_BXXPYMB88D*MTcxMzYxMzQ1OS4xLjEuMTcxMzYxMzU5MC4wLjAuMA..

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解散命令請求訴訟に提出した意見書11


 ②マインド・コントロール論を前提とした説得によるトラウマ
 監禁がPTSDを発症させる条件となることは理解しやすいが、ディプログラミングによるトラウマは監禁という外的要因によってのみ引き起こされるものではない。ディプログラミングの後遺症が、災害や犯罪に巻き込まれたケースなど、他の原因によるトラウマと違う点は、1)信頼関係の基礎である親、兄弟、親族から被害を受けていること、2)信仰というアイデンティティの根幹が揺るがされること、3)社会正義が認められないこと、4)監禁後のケアがほとんど行われていないこと、などが挙げられる。実際、脱出して教会に帰ってきた信者たちに対して、十分な医学的ケアができているとは言えず、脱会して両親のもとに戻った元信者たちも多くは放置されてきた。

 こうした後遺症は、実はディプログラミングを行う側にも自覚されていた。元来、脱会説得は牧師などの宗教家が担当してきた。信者の家族の願いは教団からの脱会だったので、カウンセリングの主要な目的は脱会であった。しかし、その中で脱会さえすれば問題が解決するわけではなく、脱会後にもさまざまな問題を引きずることが分かってきたのである。
そこで1990年代の後半から、牧師の説得によって脱会させた後のアフターフォローとして、臨床心理士やカウンセラーが「カルト脱会者」の心の問題を扱うようになってきた。これは脱会さえさせれば元の幸せな家族に戻るという牧師の主張が、実際にはそうではなく、本人の心にも家族関係にもさまざまな問題が残るので、心理学的ケアが必要であるという現実に、反対派自身が気づいたということである。

 こうした問題を扱っているのが、高木総平・内野悌司編集の「『現代のエスプリ』No.490  カルト―心理臨床の視点から 2008年5月号」である。その中には、「反対牧師」として統一教会信者の説得にあたった豊田通信氏の反省の弁が述べられている。すなわち、自分が「保護説得」の最中に行ったことは、カウンセラーの倫理から見れば違反のオンパレードであり、それゆえに信者たちを傷付けてしまったことを告白しているのである。

 脱会後に多くの元信者にトラウマが残ることを自覚した反対派が、脱会説得のやり方を幾分かソフトにするように改善しようとしたことは事実のようだ。しかし、彼らはやり方が乱暴であるかソフトであるかに関わらず、「マインド・コントロール言説」を根拠とした脱会説得そのものがトラウマを引き起こすことを十分に理解していない。

 この点を鋭く指摘したのが、渡邊太氏による「カルト信者の救出――統一教会脱会者の『安住し得ない境地』――」(『年報人間科学』 21 225-241, 2000)である。この論文の要旨は、「カルト信者」の救出にはディプログラミングや救出カウンセリングといった方法がもちいられるが、元信者たちは脱会後にさまざまな心理的苦悩やコミュニケーションの困難に直面する。脱会者の苦悩は、自己の存在の根本的な安定性が失われることによるもので、その原因は救出カウンセリングにおいてR・D・レインが指摘するような、人を「安住しえない境地」に置くコミュニケーション・パターンが繰り返されるからである、というものだ。(注43)

 この「安住しえない境地」という聞きなれない言葉を理解するためには、レインのアイデンティティに関する議論を知る必要がある。それは以下のようなものだ。人はアイデンティティについての確かな感覚を得るために、他者の存在を必要とする。他者を鏡として私は私であることを確認する。したがって、アイデンティティの確かな感覚をもつためには、自己が他者の中で存在を認められ、居場所を見いだす必要がある。他者から確認されないようなアイデンティティは不安定なものであり、そのとき私は自分の世界にも他者の世界にも居場所を見出すことができないので、「安住しえない境地」または「存在論的不安定」に陥るのである。(注44)
 渡邊氏によれば、家族による救出カウンセリングは人を「安住しえない境地」に追いやるタイプのコミュニケーションに該当するという。その特徴は「無効化」と「属性付与」、そして「自発的であれ!」という命令が組み合わされたものである。(注45)

 「『無効化』とは、ある人の意志を無効なものと見なすことによって実際にその効力を奪うことである。『無効化』は『属性付与』とセットでもちいられる」(注46)

 「要は、『お前は自分がそのように感じていると考えるかもしれないが、お前はほんとうはそのように感じているのではないということを私は知っている』[Laing, 1961=1975, 193]と伝えるようなコミュニケーションの問題である」

 「マインド・コントロールとは、『本人には自分の意志で納得ずくでやっていると思わせながら、その人の心を操ること』[マインド・コントロール研究所編、1997: 103]と定義される。この見方にしたがうと、本人が自分の意志で信仰していたのだと主張することじたいが、マインド・コントロールの証拠になる。救出カウンセラーのスティーヴン・ハッサンは、『私のアプローチは、マインド・コントロール集団にどんなに深入りしたメンバーでも、心の深い深いところでは脱出したいと願っているという信念にかかっている』[Hassan, 1988=1993, 222]と主張する。」

 「ここには、『自発的であれ!』という命令と同型のコミュニケーション・パターンが見られる。『自発的であれ!』という命令はパラドックスになる。命令を実行しようとすると命令に反することになり、したがうことができない。」(注47)

 「『安住しえない境地』に置かれた脱会者たちは、自分のいまいる状況を定義することが難しくなる。自己が自己であるという確かな感覚が得られず、日常的なコミュニケーションさえ困難になる。元信者のEさんは、『人の話が聞けなくなった。いまでも、人の話を聞いていて、ボーッとしていることがある。話が頭に入らないで、抜けていく。集中力が亡くなった』と話している。家族との関係がうまくいかないケースが多い。これらはマインド・コントロールの後遺症というような心理的病理の徴候ではなく、救出カウンセリングのコミュニケーション・パターンそのものの問題である。」(注48)

 渡邊太氏の論文を私なりに解釈すればこういうことだ。「お前はマインド・コントロールされている」という指摘は、当人にとっては、「お前は自分の頭で考える能力を失っている。お前の意志は自分の意志ではなく、誰かに操られているのだ。だからその状態でお前が何を言おうと、一切認めない」と言われているに等しい。これが「無効化」である。続いて、「いまのお前は本当のお前じゃない。本当のお前は教団に入る前のいい子だった頃のお前だ。私はそれが本当のお前であることを知っている。早く本当のお前に戻れ!」と迫られる。これが「属性付与」である。自分が何者であるかを他者に決められてしまうということだ。さらに、「早く自分がマインド・コントロールされていることに気付け。そして教団の影響力から離れて、自分の頭で考えろ!」と叱責されるのである。これが「自発的たれ!」という命令である。

 このようなことをされては、人はいったい何が本当の自分なのか分からなくなり、根源的な不安を感じてしまうに違いない。家庭連合の信者にとって信仰は自己のアイデンディティの中核をなすものである。監禁の有無にかかわらず、主体性を剥奪されて他者から一方的にアイデンティティを付与されるというのは、心をレイプされるのに等しい。脱会者の予後が悪いのは、こうした脱会説得のあり方そのものに原因があると言ってよいだろう。

10.結語
 これまでの議論によって導かれる結論は以下のようなものである。

 アメリカの学会においては「洗脳」や「マインド・コントロール」が疑似科学であることは既に定着している。その結果、アメリカの法廷においても「洗脳」や「マインド・コントロール」の主張は決定的な敗北を喫し、こうした主張をする専門家らは法廷で証言できなくなった。「ディプログラミング」と呼ばれるアメリカの拉致監禁・強制棄教は違法であり、人権侵害であるとの評価が定着している。これを行った実行犯は逮捕され、起訴されて有罪判決を受けている。ディプログラミングの被害者が実行犯を訴えた民事訴訟でも、多額の損害賠償が認められている。この結果、アメリカにおいては「ディプログラミング」は終息し、既に過去のものとなっている。

 日本においても「マインド・コントロール言説」は拉致監禁・強制棄教を正当化するための論理として使われたが、現在に至っても「マインド・コントロール言説」は学問的に確立されておらず、日本の宗教学者も概して「洗脳・マインド・コントロール言説」に対して批判的である。日本の法廷では、統一教会を相手取って元信者が起こした「青春を返せ」裁判で「マインド・コントロール」が主張されたが、法廷はこれを却下した。

 「マインド・コントロール言説」は疑似科学であり、その効果は科学的に立証されていないし、法的にも認められていないにもかかわらず、これを元信者やその家族たちが信じるのは「感情論理」によるものであり、科学的・客観的主張ではない。自然脱会した者に比べて、ディプログラミングされて教団を離れた者は圧倒的に「洗脳」や「マインド・コントロール」を主張する者が多い。これは脱会の過程でそのような理論を教え込まれるからであり、「背教者」の証言は信頼に値しない。

 ディプログラミングは監禁という外的要因に加え、「マインド・コントロール言説」を用いた説得そのものが被害者にとって外傷体験となり、PTSDを発症する要因となっている。以上のことから、「マインド・コントロール」によってディプログラミングが正当化されることはない。

(注43)渡邊太「カルト信者の救出――統一教会脱会者の『安住し得ない境地』――」(年報人間科学 21 225-241, 2000)、p.225
(注44)渡邊太前掲書、p.233
(注45)渡邊太前掲書、p.234
(注46)渡邊太前掲書、p.234
(注47)渡邊太前掲書、p.235
(注48)渡邊太前掲書、p.236-7

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解散命令請求訴訟に提出した意見書10


9.ディプログラミングがもたらす被害の深刻さについて
 ①物理的拘束を伴う脱会説得によるトラウマ
 「マインド・コントロール論」が疑似科学であり、新宗教への入信が本人の自由意思によるものであれば、ディプログラミングが正当化されることはない。それとは別に、ディプログラミングが許されないのは、それが被害者に深刻なトラウマを残すからである。

 アメリカの研究によれば、強制改宗を受けた人たちは自発的に新宗教から離教した者たちと比較して、はるかに多く感情的傷害状況を表しているということが分かっている。自発的に「カルト」を辞めた者と、ディプログラミングを受けた者との比較研究がなされているが、一般に前者は精神の健全度を維持できている者が多いが、後者の場合には強度の不安や精神不安定に脅かされている者が多いという結果が出た。

 ブロムリーとルイスの研究は、カウンセリングなし(自発的脱会者)、自発的に脱会カウンセリングを受けた者、非自発的カウンセリング(ディプログラミング)を受けさせられた者を比較検討し、自発的か否かを問わず、むしろ脱会カウンセリングを受けた者の予後が思わしくないことを示している。以下の表に示されているように、自発的脱会者(カウンセリングなし)の数値がすべて11%以内なのに対して、自発的にせよ強制的にせよ、脱会カウンセリングを受けた者は、絶対的に数値が高い。(注37)「カルト」の脱会者の精神状態が不安定なのは、「カルト」にいたときの体験がトラウマになっているのだと反カルト運動は主張してきたが、自発的に離れた者には問題が少なく、脱会カウンセリングを受けた者は予後が悪いという事実は、元信者のトラウマは脱会させられた時に生じたものなのではないか、という結論に導くこととなる。

表3

 日本における学術的報告としては、池本桂子と中村雅一による「宗教からの強制脱会プログラム(ディプログラミング)によりPTSDを呈した一症例」(『臨床精神医学』第29巻第10号 2000年 1293-1300)がある。この症例は、家族と牧師による脱会プログラムを受けた後にPTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症した女性(32歳、信仰歴7年、精神科的遺伝負因なし)のケースである。論文の記述から、女性はエホバの証人の信者であると推察される。具体的症状としては、以下のような記述がある。
「監禁の体験を突然思い出し恐怖にとらわれる、他の人の平坦な話し方で牧師を連想し恐怖感を覚えるといったフラッシュバックと、再監禁を怖れ職場に行けないという回避によるひきこもりは特に強く、少なくとも七カ月持続した。」(注38)  

 監禁がPTSDを発症させる条件となることは広く知られているが、このケースでは自己決定権の剥奪もトラウマとなる可能性が指摘されている。
「本症例は、強制的脱会を目的とした監禁という状況因に加え、宗教的信条に関する自己決定権を近親者から一時的にでも剥奪されたことによるトラウマがPTSDを引き起こしたと考えられる。」(注39)

 渡邊太氏は「この症例では、家族と牧師は、マインド・コントロールを前提として、本人の元の人格を取り戻すために救出カウンセリングを実践している。しかし、そのことは信者にとっては、自分の自由意思を認められず強制的に脱会を迫られる状況であり、ひどい外傷体験になる。」(注40)と解説している。

 こうしたPTSDを発症した元信者についてジャーナリストとして発信したのが米本和広氏である。もともと米本氏は『カルトの子』や『教祖逮捕』など、新宗教に批判的な本を書いてきたルポライターであった。その彼が『月刊現代』2004年11月号に、「書かれざる『宗教監禁』の恐怖と悲劇」と題する記事を掲載し、拉致監禁によって統一教会を脱会した宿谷麻子さんのPTSDの問題を取り上げた。2008年7月にはさらなる取材の成果として、『我らの不快な隣人』を出版した。

 この本は拉致監禁問題を、監禁された人々へのヒアリングだけではなく、両親や元信者、韓国での現地取材に至るまで詳細な取材を行い、総合的に分析したものである。監禁された人物として、宿谷麻子さんほか、多くの人々が登場する。宿谷さんは家族による拉致監禁の後脱会したが、PTSDやそれを原因とするアトピー性皮膚炎を発症した。親は、子どもを取り返そうとして拉致監禁をした結果、子どもに心と体の傷を負わせ、取り返しのつかないことをしたと激しい後悔の念に襲われるようになった。

 宿谷さんは精神科にかかっており、精神科医が下した診断名はPTSDである。飲んでいる薬は導眠剤、睡眠薬、安定剤、抗鬱剤など10種類に及び、公的な精神障害認定も受けている。宿谷さんの主治医である「めだかメンタルクリニック」(横浜市)の担当医は、「麻子さんの場合は、災害のようなワンポイントの出来事による単純性のものとは異なり、長期に持続・反復する外傷体験(心が傷づく衝撃的な体験)によってもたらされる、より重度の『複雑性PTSD』だと考えます」(注41)と診断した。
宿谷さんの複雑性PTSD発症の原因を担当医は次のように見ている。
「本人の意志に反し拉致監禁されるという身体的自由の拘束とともに、信仰の自由を強制的に、昼夜を問わず奪われ続けたこと、さらにはもっとも近しい肉親に監禁されたという、信頼感の崩壊、裏切られた体験も加わっていると考えます」(注42)

 なお、宿谷麻子さんは被害者として拉致監禁問題と正面から闘っていたが、2012年10月15日にクモ膜下出血のため逝去された。心よりご冥福をお祈りする。

(注37)James R. Lewis and David G. Bromley, “The Cult Withdrawal Syndrome: A Case of Misattribution of Cause?” Journal for the Scientific Study of Religion 26/4 (1987): 508-22
(注38)池本桂子・中村雅一「宗教からの強制脱会プログラム(ディプログラミング)によりPTSDを呈した一症例」『臨床精神医学』第29巻第10号 2000年、p.1296-7
(注39)池本・中村前掲書、p.1297
(注40)渡邊太前掲書、p.226
(注41)米本和広「書かれざる『宗教監禁』の恐怖と悲劇」(『月刊現代』2004年11月号)、p.285
(注42)米本前掲書、p.302-3

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解散命令請求訴訟に提出した意見書09


 ②ディプログラミングされた元信者はなぜ「マインド・コントロール」言説を信じるのか?
 ディプログラミングによって新宗教から脱会した元信者たちは、「自分は教団によってマインド・コントロールされていた」と主張するケースが多い。そうした元信者の中には自分の所属していた団体を相手取って損害賠償請求訴訟をおこす者たちがおり、その代表例が統一教会を相手取った「青春を返せ」裁判である。こうした裁判が起こされる理由は、反カルト運動の戦略の一環として、脱会したことを証明するための「踏み絵」として元信者に訴訟の提起が要求されるからであるが、中には本気で自分はマインド・コントロールされていたと信じている元信者もいる。彼らが自分の入信体験を「洗脳」や「マインド・コントロール」などの概念で説明するのは、彼らを脱会させる過程において、まさにそうした概念が教え込まれ、それによって自分の入信体験を説明するように認識が再構築されるからである。この因果関係は海外の研究によって立証されている。

 アイリーン・バーカー博士は、『ムーニーの成り立ち』の中で、トルーディ・ソロモンら複数の学者が行った元統一教会員へのアンケート結果を紹介し、以下のとおり、「洗脳」や「マインド・コントロール」の説明をする元会員たちに対して、反カルト運動との接触がいかに影響を及ぼしているかについて指摘している(同書のタイトルにおける「ムーニー」は、英米における統一教会員の蔑称である)。
「トルーディ・ソロモンによる元統一教会員100人へのアンケート結果の分析を見ると、反カルト運動との接触が、元会員たちが洗脳やマインド・コントロールの説明にどの程度依存するかに影響を与えていることがわかる。
『教会内で洗脳やマインド・コントロールが行われているという証言の大部分は、ディプログラミングまたはリハビリテーションを受けた元信者か、あるいは反カルト運動に携わっている個人によってもたらされているので、これらのデータは、元会員がどのようにしてそうした考えを抱くようになったか、そしてさらにそれがどのように存続されてきたかについての説明を提供し始めている。』

 ソロモンの回答者の大多数はディプログラムされていた。そして7人を除く全員が、統一運動から脱会するとき、あるいはその後に、何らかの組織的な支援(リハビリテーションまたはセラピー)を受けていた。疑いなく、これは彼女のサンプルがおもにアメリカの反カルト・ネットワークを通じて集められたという事実が主因となっていた。別の研究でスチュアート・ライトは、統一教会、ハリクリシュナ運動、神の子供たち(または愛の家族)からの『自発的な』脱会者45名にインタビューをした。彼がインタビューした者の中で、洗脳されていたと主張したのは4人(9%)だけだった。彼のサンプルの残りの91%は、自分の入会は全く自発的なものだったと述べた。そしてまた別の研究でマーク・ギャランターは、ディプログラミングを経験しなかった47人の元ムーニーと経験した10人を比較した。彼はその中で、ディプログラミングを経験した者たちのほうが、運動にとどまるよう説得しようとしたムーニーからプレッシャーを受けたと報告する傾向があることを見いだした。『事実、ディプログラムされた回答者(10人のうち8人)だけが、脱会した後、依然として統一教会で活動している人々の行動の自由をあからさまに制限して、彼らを脱会させようとしていた。』」(注33)

 マッシモ・イントロヴィニエ氏は、人権と信教の自由に関するウェブメディア「Bitter Winter」において、「背教者は信頼できるか?」というタイトルの記事を5回シリーズで掲載した。ここで「背教者(Apostate)」の意味について定義しておきたい。「背教者」はもともと自分が所属していた宗教から離脱した人という意味では「元信者」に含まれるが、必ずしもすべての元信者が「背教者」なのではない。元信者の大部分はもともと自分が所属していた宗教に対しては良い面もあったが悪い面もあったというような両面性のある感情を抱いており、その団体を積極的に攻撃する人は割合的には多くない。その中にあって、自分が所属していた団体に対する批判や暴露を公的な活動として行う一部の元信者のことを「背教者」という。彼らは元信者の中では少数派でありながら、マスコミに取り上げられることによりあたかもすべての元信者が怨み深い「背教者」であるかのような印象を一般大衆に与えている。イントロヴィニエ氏がこの記事で明らかにしたことは、「背教者」の中には反カルト運動と関りを持った者が多く、彼らの中には自分が「洗脳された」と主張する者が多いという事実である。以下、イントロヴィニエ氏の記事の引用である。
「これが事実であるという経験的証拠がある。1999年に私はフランスの秘教運動ニュー・アクロポリスの元メンバーを対象に調査を実施した。ニュー・アクロポリスは自分たちを宗教団体だとしていなかったおかげで、プライバシーの懸念が払拭され、元会員リストの提供を受けることができた。これは匿名のアンケートを送るためにのみ使用した。120件の回答を集めたところ、サンプルの16.7%が脱落者、71.6%が普通の離教者であったのに対して、背教者は11.7%であったことが分かった。」(注34)
「私は前回の記事で、フランスのニュー・アクロポリスと呼ばれる秘教グループの元メンバーについて自身が行った定量的研究について述べた。私のサンプルの8.3% は、反カルト組織との接触が自身の脱会プロセスにおいて役割を果たしたと報告した。背教者の70%は反カルト組織と接触していた。そのような接触を持つ人々の90%は、ニュー・アクロポリスを『カルト』だと考えているのに対し、その他の人々は10.3%であり、80%が自分は「洗脳」されていたと信じているのに対し、その他の人々は6.7%だった。もちろん、一部の元信者にとって背教は心理的に好都合である。その理由は、元信者から見れば、今となっては間違っていたり愚かにさえ思える行動や信念に対していかなる非難を受けても、彼らを『洗脳』あるいは『奴隷化』した『邪悪な』運動に責任転嫁できるからである。」(注35)

 イントロヴィニエ氏が指摘するように、元会員たちが「洗脳」や「マインド・コントロール」の説明を受け入れる動機は、自己の責任を回避できるということに尽きる。通常、両親は多額のお金を払ってディプログラマーを雇い、多くの時間を「カルト」や「マインド・コントロール」に関する勉強に費やし、犯罪になりかねないリスクを負ってまで、ディプログラミングを実行する。信仰を失った元信者は、そこまでの犠牲を払って自分を教団から救い出してくれた両親に対して心理的負債感を負うようになる。こうした状況下で、入信の責任を自分自身で負うのは辛いことである。脱会説得をした両親自身が、「あなたの入信は自分の意思ではない。教団によってマインド・コントロールされていたのだから、悪いのは教団であってあなたではない」と言うのであれば、それを受け入れた方が自身の責任が回避されて都合が良いのである。

 大田俊寛氏は、元信者のこうした姿勢もマインド・コントロール論の弊害であると指摘している。
「信者は、カルト的団体から脱退しようとするときにしばしば、入信の原因を『マインド・コントロールされていた』ことに求めようとする。それによって一時的に自分自身の責任を免れることができるが、それは同時に、自身の根本的な主体性を否定することにも繋がる。カルトから本当に脱却するためには、それに関与したことが自らの主体性に基づくものであったことを認め、自らの主体性においてそこから離れなければならないが、マインド・コントロール論を受容すると、知らず知らずのうちに主体性を喪失すると同時に、すべての責任を当該団体に負わせようとする歪な思考回路が生じる。」(注36)

(注33)Eileen Barker, “The Making of a Moonie: Choice or Brainwashing?” Blackwell Publishers, 1984, p.129
(注34)MASSIMO INTROVIGNE, Bitter Winter 11/23/2023, 背教者は信頼できるか? 4.元信者全員が背教者というわけではない
(注35)MASSIMO INTROVIGNE, Bitter Winter 11/24/2023, 背教者は信頼できるか? 5.なぜ背教者になる人がいるのか
(注36)大田前掲書、p.61

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解散命令請求訴訟に提出した意見書08


7.日本における「マインド・コントロール言説」に関する判決
 ①「マインド・コントロール」言説が否定され、統一教会が勝訴したケース
 「マインド・コントロール」なる概念が日本の法廷で初めて争われたのは、いわゆる「青春を返せ」裁判においてである。これは、統一教会を脱会した元信者らが統一教会を相手取って起こした集団訴訟であり、原告らの主張の内容はおよそ以下のようなものである。
「われわれは統一教会の名前も実態も知らされないまま虚偽の勧誘を受け、正常な判断能力を奪われて入信させられた。その結果、長期にわたって精神的に抜き差しならない状況に置かれ続け、違法な行為(いわゆる霊感商法をはじめとする経済活動)に従事させられ、この間ただ働きであったので、その逸失利益、慰謝料等の請求をする」。

 こうした訴訟は札幌、東京、新潟、名古屋、神戸、岡山など全国各地で起こされたが、全国で初めて下された判決が、1998年3月26日の名古屋地裁判決であった。この訴訟では、統一教会を相手に元信者の女性6人が総額6千万円余の損害賠償を求めていた。これに対して稲田龍樹裁判長は原告側の請求を棄却する判決を下し、「マインド・コントロール」に関しては以下のようにはっきりと否定している。
「原告らの主張するいわゆるマインド・コントロールは、それ自体多義的であるほか、一定の行為の積み重ねにより一定の思想を植え付けることをいうととらえたとしても、原告らが主張するような効果があるとは認められない。」

 その後、控訴審で原告側と教会は和解している。

 続いて、1999年3月24日の岡山地裁判決でも統一教会側が勝訴し、この判決は確定している。

 さらに、2001年4月10日の神戸地裁判決でも統一教会側は勝訴しており、原告がいわゆるマインド・コントロールを受けていたかに関しては以下のように判断している。
「(原告らが)信仰に至る過程において、被告あるいは被告の教義の内容及び入信後の信者の生活や活動についての情報が不足していたとは認められず、外部との接触も遮断されておらず、被告あるいはその信者による原告らに対する勧誘、教化行為が詐欺的、洗脳的であるとはいえず、原告らは自己の主体的自律的判断において信仰を持つに至ったものであり、被告や信者らの勧誘、教化方法は違法とはいえない」
「(原告らは)主体的自律的意思決定をなしえない心理状態にあったとはいえない」

 このように、「マインド・コントロール」を完全に否定し、統一教会が勝訴した判決が複数存在するのである。

 ②統一教会は敗訴したが、「マインド・コントロール」言説を認めなかった判決
 1998年6月3日にもう一つの「青春を返せ」訴訟に対して岡山地裁が下した判決が存在する。これは、統一教会を相手に元信者の公務員男性が200万円の損害賠償を求めた裁判であった。この判決で小沢一郎裁判長は、「原告図子は最初に勧誘を受けてから棄教・脱会に至るまで約1年5カ月の期間を要しているが、その間、被告法人の教義、信仰を受容する過程において、その各段階毎に自ら真摯に思い悩んだ末に、自発的に宗教的な意思決定をしているというほかはない」と述べ、勧誘や教化のあり方についても「社会的相当性を逸脱したものとまではいえない」として、原告側の訴えを退けている。つまり、一審判決は名古屋地裁判決と同様に「マインド・コントロール」を否定し、統一教会が勝訴していたのである。

 しかし、原告は控訴審で逆転勝訴し、これが最高裁でも認められて、統一教会の敗訴が確定することとなった。この判決において、広島高裁は「マインド・コントロール」なる概念に対して判決で以下のように判示した。
「なお本件においては、控訴人がマインド・コントロールを伴う違法行為を主張していることから、右概念の定義、内容等をめぐって争われているけれども、少なくとも、本件事案において、不法行為が成立するかどうかの認定判断をするにつき、右概念は道具概念としての意義をもつものとは解されない(前示のように、当事者が主観的、個別的には自由な意思で判断しているように見えても、客観的、全体的に吟味すると、外部からの意図的操作により意思決定していると評価される心理状態をもって『マインド・コントロール』された状態と呼ぶのであれば、右概念は説明概念にとどまる)。」

 「道具概念」とか「説明概念」というような難解な用語を用いており、素人には何を言いたいのか分かりにくいのであるが、難しいものの言い方をかみくだけば、マインド・コントロールという概念(考え方)は心理状態を説明しているだけで、不法行為が成立するかどうかを判断するときの道具には使えない、と言っているのである。

 結局、広島高裁判決は「マインド・コントロール」概念を採用せず、それは脇に置いておいて、布教行為や勧誘行為の目的、方法、結果が社会通念上認められる範囲を逸脱しているかどうかを判断し、この個別の事件に関してのみ、不法行為として認定したに過ぎない。裁判所は一般論として「マインド・コントロール」の存在とその違法性を認めたわけでもなく、統一教会の勧誘行為が「マインド・コントロール」であると認めたわけでもない。

 実は、名古屋地裁における敗訴と、この広島高裁での判決をきっかけとして、元信者が統一教会を訴える「青春を返せ」裁判はその戦略を大きく転換することになる。すなわち、原告側は「マインド・コントロール」といったような法律用語として成立しない漠然とした主張をやめ、「正体を隠した伝道」や「不実表示」を理由に法的責任を問う戦略に切り替えたのである。

 結局、「マインド・コントロール」の存在やその効果は立証できないので、勧誘の目的、方法、結果の各要素の具体的な反社会性、違法性を主張する方向に方針を変え、「青春を返せ訴訟」は「違法伝道訴訟」と呼ばれるようになった。その結果、札幌「青春を返せ」裁判で、原告側が勝訴し、東京「青春を返せ」裁判で統一教会側が和解金を支払う形で和解が成立するなど、原告にとって有利な展開となった。しかしこれは、「マインド・コントロール」の主張をやめたからこそ得られた結果であるといえよう。その後も、少なくとも統一教会を相手取った民事訴訟では、「マインド・コントロール」を違法性の根拠とした判決は出ていない。

8.なぜ「マインド・コントロール言説」を信じる人がいるのか?
 これまで述べてきたように、「マインド・コントロール言説」は疑似科学であり、その効果は科学的に証明されていないし、裁判において違法性を裏付ける根拠としても認められていない。にもかかわらず、「マインド・コントロール」なるものが存在するとかたくなに信じる人々がいるのはなぜかをここでは扱いたい。

 すでに述べたように、「ディプログラミング」を実践する反カルト運動が「マインド・コントロール」を主張するのは、新宗教への入信過程が自由意思によるものであった場合には、自分たちのやっていることは単なる誘拐と監禁になってしまうので、自己正当化の論理として、「マインド・コントロール」が必要なのである。これはビジネス目的ということになる。しかし、こうした反カルト運動の論理を、新宗教に入信した若者たちの両親や、ディプログラミングを受けた信者自身が受け入れてしまうのはなぜなのだろうか? 

 ①親や親族はなぜ「マインド・コントロール」言説を信じるのか?
 この点に関して島田裕巳氏は興味深い指摘をしている。
「娘や息子が宗教団体に走ってしまったことに困惑した親たちは、自分のかわいい子どもが自発的に宗教団体に入信したとは考えない。そして、子どもたちは宗教団体の巧みな勧誘のテクニックによってだまされて入信したのだという結論を下す。洗脳とかマインド・コントロールということばが持ち出されるのも、子どもたちがだまされたということを強調するために都合がいいからである。」(注30)

 渡邊太氏はこの指摘を敷衍して、親はご都合主義的にマインド・コントロール論を使っているわけではなく、親の視点からは子どもが本当にマインド・コントロールされているに違いないと感じられるのだということを、「感情論理」という概念を用いて説明している。これはF・ハイダーのバランス理論によって説明できる対人関係の認知と感情のメカニズムで説明できるということだ。

 要するに、親と子どもと「カルト」という三者の関係において、親の視点から見ると、子どもと「カルト」の関係は親が直接関与できない領域なので、想像や空想が投影されやすい。一方で子どもに対する感情と「カルト」に対する感情は自分の直接体験である。親が子どもを愛しており、かつ「カルト」に対して不信の思いを抱いているとすれば、親としては愛する子どもがいかがわしい「カルト」を本気で信じているというのは、心理的なバランスが悪いのである。それで「親から見ると、子どもはカルトに救いを求めているが、カルトの方は子どもたちを騙して搾取しているのだ、と感じられるのである。」(注31)

 これは男女の三角関係でも同様のことが起こるであろう。例えばA君がB子さんを好きだったとする。ところがB子さんがプレイボーイとして評判の悪いC君のことが好きなようだという話を聞けば、A君は素直にその事実を受け入れられず、B子さんが本当にC君のことが好きなはずがない、純真なB子さんは言葉巧みなC君に騙されているに違いないと考えるであろう。このように人間の認識には常に「感情論理」が関わってくるのである。
渡邊太氏は、「洗脳やマインド・コントロールといった概念は、何かを説明する科学的概念というよりは、感情論理にしたがって腑に落ちるという感覚をもたらすイデオロギー的な概念といえる。価値多元主義的な社会状況において、単純で分かりやすい理解の枠組みとして、洗脳、マインド・コントロール理論は機能する。」(注32)と結論づけている。

(注30)島田裕巳「マインド・コントロール社会の到来」『imago』第4巻9号 1993年、p.227
(注31)渡邊太前掲書、p.231
(注32)渡邊太前掲書、p.233-4

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解散命令請求訴訟に提出した意見書07


 島田裕巳氏は「宗教とマインド・コントロール」と題する論文の中で以下のように述べている。
「洗脳が批判の対象とされたとき、洗脳そのものが問題にされたわけではなかった。ある集団が洗脳を行っていると批判したのは、その集団とイデオロギー的に対立している側の人間たちであった。つまり、洗脳は敵対する集団を批判するための道具ないしは武器として使われたことになる。これは、マインド・コントロールについても共通している。マインド・コントロールの疑いをかけられるのは、社会的に問題があるとされている教団であり、そういった非難を浴びせるのは、教団からの脱会者や脱会工作に従事している人間たちだからである。彼らは、マインド・コントロールの事実によって、その教団を批判しているわけではなく、教団に対する批判を広く社会に受け入れさせるためにマインド・コントロールが行われていると告発しているのである。

 実際にマインド・コントロールが行われているかどうかが問われる前に、まず、教団についての評価が前提とされている。問題があるとされている教団が説いているのは、まちがった教えであり、普通の人間はそれを信じたりはしない。にもかかわらず、そういった教団に入信する人間が生まれるのは、その教団が巧みなマインド・コントロールによって、勧誘の対象となった人間の心をあやつり、だますようにして入信させているからだというのである。脱会工作が正当化されるのも、マインド・コントロールの存在が前提とされている。」(注23)
「マインド・コントロールということが事実として存在するのか。それは、洗脳以上にあやしい。ハッサンなどのように、マインド・コントロールの危険性を訴える人間たちは、問題となる宗教団体では人間の心を支配する巧みな方法を開発しているかのような印象を与えようとしているが、実際にそれほど効果的な方法が開発されているようには思えない。
破壊的カルトとして批判されている宗教団体であっても、信者を入信させるため行っている研修会などのプログラムは基本的に単純である。教団の教師や先輩の信者が行う教義の講義が中心で、途中に歌や祈りがはさまれる。教える側はきわめて熱心であり、それが勧誘の対象となる人間に伝わることはあるが、それ以外に特殊な方法が用いられるわけではない。」(注24)
「マインド・コントロールの問題について議論する際には、どの教団が対象となっているかが重要である。マインド・コントロールの有無よりも、その教団に対する社会的評価の方がはるかに重要な意味を持っている。社会に定着した既成教団の場合には、信仰の選択が制限されたとしても、マインド・コントロールの批判が寄せられることはない。むしろそれは、信教の自由として保護の対象とさえ見なされるのである。
マインド・コントロールということばは、結局のところ、きわめて便宜的に使われていると考えざるをえない。マインド・コントロールの方法も効力もあいまいなうえ、多くは特定の教団を批判するための道具として使われる傾向がある。」(注25)

 櫻井義秀氏は、「マインド・コントロール言説」について分析した論文の中で、「以上の考察で、カルトが本来的に人を騙す組織であり、参加者は多かれ少なかれマインド・コントロールされ、被害者になっているというのは、主観的にも客観的にも事実そのものではなく、そのようなものとして認識するという構図から構成された評価的事実であることが明らかになった。反カルト運動家や職業的ディプログラマー(脱洗脳家)が自己の行為を説明するためにマインド・コントロール論を用いるのは当然であろう。」(注26)と述べている。

 櫻井氏のマインド・コントロールに対する批判は、実は手厳しい。
「最後に、マインド・コントロール論の騙されたという言い方に筆者が徹底してこだわりたい理由を述べておきたい。マインド・コントロールとは、自己の経験を自分と第三の社会的勢力が二重に解釈した語り口でしかない。騙されたと自ら語ることで、マインド・コントロール論は意図せずして自ら自律性、自己責任の倫理の破壊に手を貸す恐れがある。信仰者は、教団へ入信する、活動をはじめる、継続する、それらのいずれの段階においても、認知的不協和を生じた諸段階で、自己の信念で行動するか、教団に従うかの決断をしている。閉鎖的な、あるいは権威主義的な教団の場合、自己の解釈は全てエゴイズムとして見なされ、自我をとるか、教団(救済)をとるかの二者択一が迫られることがある。自我を守るか、自我を超えたものをとるかの内面的葛藤の結果、いかなる決断をしたにせよ、その帰結は選択したものの責任として引き受けなければならない。その決断の時点で、当人に責任能力があったか、なかったかという証明をその時点に遡って行うことは不可能である。むしろ、決断の自由、自己責任を認識、倫理上考慮することで、人間の自律性という主張ができると考える。そのような覚悟を、信じるという行為の重みとして信仰者には自覚されるべきであろう。」(注27)

 大田俊寛氏は、西田公昭氏の「マインド・コントロール理論」はカルトのみならず宗教的回心の全般に当てはまってしまうのではないか、と批判している。そもそも「マインド・コントロール」が可能なのかについても、「現実的には、本人に動機・関心がないにもかかわらず、カルト的団体に加入するということは、少なくとも管見の限りでは、まったくあり得ない」「マインド・コントロール論者はしばしば、自らの理論が『科学』的であり、『再現性』によって裏づけられていると主張するが、それは明らかな虚偽であると言わなければならない。」(注28)と述べている。

 大田氏はさらに、マインド・コントロール論の弊害として、法秩序の崩壊を挙げている。
「裁判で扱われる様々なケースにおいて、当人の行動の一つ一つに対し、『マインド・コントロールされていた』可能性を考慮に入れ始めると、審理をスムースに進めることは著しく困難になる。また、そういった理由から犯罪への処罰が減免されるということになれば、個人の主体性に立脚する近代の法秩序は、根底から瓦解することになる。」(注29)

(注23)島田裕巳「宗教とマインド・コントロール」『季刊AZ』33、1994年11月、p.126-7
(注24)島田前掲書、p.128
(注25)島田前掲書、p.129
(注26)櫻井前掲書、p.91
(注27)櫻井前掲書、p.94-5
(注28)大田前掲書、p.60
(注29)大田前掲書,p.62

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