私がこれまでに「キリスト教講座」と題してWorld CARP-Japanの機関誌『Moonism』および『Paus』(連載途中で雑誌名が変更)に寄稿した文章をアップするシリーズの第4回目です。World CARP-Japanは、私自身もかつて所属していた大学生の組織です。未来を担う大学生たちに対して、キリスト教の基礎知識を伝えると同時に、キリスト教と比較してみて初めて分かる「統一原理」の素晴らしさを伝えたいという思いが表現されています。今回は、2021年10月号に寄稿した文章です。
第4講:キリスト教と日本人②
「キリスト教講座」の第4回目です。前回から「キリスト教と日本人」と題して日本基督教史の解説を始め、切支丹時代を振り返りました。今回は明治維新から第二次世界大戦の終了までを扱います。
キリスト教と日本人が出会う二回目のチャンスが、明治維新から第二次世界大戦の終戦までの期間です。1873年に明治政府は基督教禁止令を撤廃し、1889年には大日本帝国憲法(明治憲法)が発布されます。明治憲法はヨーロッパの憲法をまねて作られたものなので、宗教の自由が第28条で保証されていました。江戸時代に比べてキリスト教を広めることのできる社会的環境が整ったので、日本にプロテスタントの宣教師がやってきて、伝道を始めるようになります。
最初の17年間は、キリスト教と日本人の「幸福な出会い」といえる時期であり、日本の信徒数は一気に約3万人に成長しました。アメリカから多くの宣教師がやってきて、英語を教えながらキリスト教を広めました。こうして形成されたのが、横浜バンド、熊本バンド、札幌バンドなどの初期のキリスト教集団です。
明治初期にキリスト教徒になった有名な人々は、ほとんどが没落士族の子弟たちでした。すなわち、特権階級でなくなった武士たちが新しいアイデンティティーを求めてキリスト教を受け入れていったのです。宣教師たちが持ちこんだピューリタンの禁欲的な倫理は、彼らがもともと持っていた武士道の精神と似ていたので、受け入れやすかったことも幸いしました。
このように初期のキリスト教は順風満帆だったわけですが、やがて暗雲が立ちこめてきます。それはナショナリズムの台頭とキリスト教バッシングです。明治日本の国是は文明開化、富国強兵、殖産興業であり、西洋からあらゆる文化・文明を吸収しようとしていました。しかしそれが一段落すると、科学技術や議会制度のような外的文明は受け入れたとしても、キリスト教に代表される内的文明まで受け入れる必要はないという考え方が台頭します。これが「和魂洋才」であり、精神面における復古主義が起こったのです。
明治政府は国をまとめるために国民のアイデンティティーを強固にしなければなりませんでした。そこで天皇陛下に対する忠誠心を国民のアイデンティティーとする「国体イデオロギー」が形成され始め、その宗教的表現としての「国家神道」が確立されていきます。これは、天皇は国民の父親であると同時に、神道の祭司であるという考え方です。
こうなってくると、国家神道ならびに天皇陛下に対する忠誠心と、キリスト教信仰は相容れないものとなり、キリスト教に対する風当たりが強くなっていきます。こうした中で起こった不幸な事件が、1891年に起きた「内村鑑三不敬事件」です。内村鑑三についての詳しい紹介は別の回に譲り、ここでは簡単に事件の概要を解説します。
当時、明治天皇の教育に関する基本方針としての「教育勅語」が発布され、それを清書したものに天皇陛下の宸署を施して学校の講堂に掲げ、全校生徒ならびに職員一同が深々と敬礼をするという愛国的行事が、教育の一環として行われていました。内村鑑三は東京の一高で教師をしていたのですが、クリスチャンとしては神以外のものを礼拝することはできないという理由で敬礼を拒否したという事件です。これがキリスト者の忠誠に関する国家的次元の論争にまで発展し、ナショナリズムの復活の中で、キリスト教は「スケープゴート」のような役割を担わされるようになってしまったのです。ちょうどこのころから伝道不振の時代がはじまっていくわけですが、事態は第二次世界大戦が近づくに連れて一層厳しくなっていきます。
1931年に満州事変が勃発すると、日本は軍国主義への道を歩み始めるようになります。これは西洋諸国との対立を引きおこしたため、西洋からやってきた宗教であるキリスト教に対して、政府は疑念を持つようになります。すなわちキリスト教は敵国の宗教であり、「鬼畜米英」の宗教ということになったのです。太平洋戦争に向かって行く過程において、日本政府は宗教団体に対する締め付けを厳しくしていきます。1939年には「宗教団体法」という法律が作られますが、これは宗教がすべての面において実質的に政府の支配下に入る、宗教統制法と言えるものでした。
こうした中でキリスト教会に対しては、外国の勢力との分断が図られていきます。カトリック教会はバチカンとの関係を絶ち、「日本天主公教教団」として再編されることになりました。1941年には、それまで独立して存在していた日本の34のプロテスタントの諸教派が、政府の圧力によって統合させられ、「日本基督教団」が誕生します。そもそも外国からさまざまな教派の宣教師がやってきて、それぞれ独立した教会を立てたわけですが、そうした信仰告白の内容が異なる教団を、一つの宗教団体としてまとめてしまったというのですから、非常に乱暴な話です。
日本基督教団が設立されたということは、ナショナリズムによる宗教統制に対して、日本のキリスト教会が戦わずして屈服し、白旗を上げてしまったということを意味します。日本基督教団は、第二次大戦中にアジアの教会に『日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰』という手紙を送っています。それは日本の軍事的拡大を歴史の進歩であると解釈し、神の意志であるとして正当化しているのです。戦後のキリスト教はこの行為に対し、権力に順応し、その暴力と残虐行為を宗教的な言葉をもって正当化しようとしたと非難しました。
戦争中は、全ての宗教団体が思想的な武器として政府に利用されました。日本のキリスト教は全般的に満州事変のときに政府を支持しました。美濃ミッションという小さな教団が反発したとか、内村鑑三の弟子である矢内原忠雄が政府を批判して東大教授を辞任したとか、若干の例外はありますが、全般的に見れば日本のキリスト教は戦争を賛美し協力する側に回ったと言うことができます。