私がこれまでに「キリスト教講座」と題してWorld CARP-Japanの機関誌『Moonism』および『Paus』(連載途中で雑誌名が変更)に寄稿した文章をアップするシリーズの第2回目です。World CARP-Japanは、私自身もかつて所属していた大学生の組織です。未来を担う大学生たちに対して、キリスト教の基礎知識を伝えると同時に、キリスト教と比較してみて初めて分かる「統一原理」の素晴らしさを伝えたいという思いが表現されています。今回は、2021年6月号に寄稿した文章です。
第2講:キリスト教について学ぶ意義②
「キリスト教講座」の第2回目です。今回はキリスト教徒たちがユダヤ人に対して抱いている偏見の原因を分析することを通して、私たち成約聖徒が陥りがちなキリスト教に対する偏った理解の仕方を指摘してみたいと思います。
一般に「反ユダヤ主義」とは、ユダヤ教徒およびユダヤ人に対する敵意や迫害を意味しますが、現在ではその多くが不当な偏見に基づくものであると理解されています。しかし欧米には歴史的にユダヤ人に対する深刻な差別や偏見が存在し、そのルーツはキリスト教にありました。クリスチャンにとってユダヤ人とは、「キリストを殺した人々」であり「イエスの敵」だったのです。
そもそもキリスト教の聖典である新約聖書の中で、ユダヤ人は傲慢で腹黒いパリサイ人や律法学者、あるいは「イエスを十字架につけよ」と叫んだ群衆の姿に代表されるように、非常に醜い存在として描かれています。ですから、日々の信仰生活の中で新約聖書を読むうちにクリスチャンの心に形成されたユダヤ人に対する悪いイメージが、現実に存在するユダヤ人に投影されて迫害するという構造になっているのです。
では新約聖書に描かれているユダヤ人の描写が客観的なものなのかと言えば、そうとは言い難い面があります。キリスト教はイエスをメシヤとして信じるユダヤ教の1セクトとして出発しました。両者はライバル関係にあったのであり、とくに初期のキリスト教はユダヤ教から激しい迫害を受けたのです。ですから新約聖書を書いた人たちは、ユダヤ人に対して敵意を持っていました。その意味で、新約聖書におけるユダヤ人の描写はかなりデフォルメ(変形)されたものであるということになります。
このような歪められたユダヤ人のイメージがキリスト教の拡大とともに全ヨーロッパに広められ、その結果としてユダヤ人はキリスト教社会の中で迫害の対象となり、多くの不当な弾圧が行われるようになっていったのです。11世紀には十字軍の兵士がヨーロッパの各地でユダヤ人を殺害していますし、14世紀にヨーロッパでペストが大流行した際には、多くのユダヤ人が毒を撒いたという疑いをかけられて処刑されました。そしてもっとも最近起こったのがナチス・ドイツによる「ホロコースト」です。
ヨーロッパのクリスチャンたちが、自分たちの中に「反ユダヤ主義」という不当な偏見があるということに気付いて、深刻な反省がなされたのは、実はこのホロコーストの事実が明らかになった第二次世界大戦後のことでした。
要するにクリスチャンたちは新約聖書というフィルターを通してしかユダヤ人を見ることができず、自分の先輩宗教であるユダヤ教に対して、ある種の固定観念や偏見を持っているということなのですが、実はこれと同じことが私たち成約聖徒にも当てはまるのです。私たちの場合には、『原理講論』に描かれているキリスト教のイメージが非常に強いので、『原理講論』というフィルターを通してしかキリスト教というものを理解していないということになります。
私たちの多くは、実物のクリスチャンに会って、対話を通してキリスト教を知っているのではなく、『原理講論』を通してキリスト教について学んでいます。『原理講論』という書物も、一つの時代的・地理的制約の中で書かれているので、その中で描かれているキリスト教の姿は、ある特徴を持っているのです。それはひとことで言えば、「根本主義」のキリスト教ということになります。
『原理講論』は、1950年代から60年代の韓国の統一教会を背景として書かれました。この頃の韓国の統一教会が伝道していた対象は、韓国のクリスチャンたちでした。そしてその多くは「根本主義」と呼ばれるタイプのキリスト教徒だったのです。根本主義のキリスト教は、とても信仰的で伝道熱心なのですが、聖書に書いてあることを文字通りに信じるという特徴があります。それとは異なる考え方として、「自由主義」のキリスト教があります。これは聖書を文字通り信じるのではなくて、現代人でも受け入れやすいように、もっと自由に聖書を解釈しようというタイプのキリスト教です。
この二つは対立関係にあるわけですが、韓国のキリスト教においては圧倒的に根本主義の方が優勢だったので、当時の統一教会が説得して伝道すべき相手は、この根本主義者たちであったわけです。彼らに対して「いよいよ再臨の主が来た」ということを説得して原理を受け入れさせるために、原理講義というものが始まりました。それを劉孝元教会長を中心として、講義のテキストの決定版として作られたのが『原理講論』ということになります。
当面の説得の相手が根本主義者であったために、基本的に『原理講論』の論じ方は聖書を文字通りに解釈することを否定して、それに対する代案を提示するというスタイルになっています。すなわち、アダムとエバは文字通り何かの木の実を取って食べて堕落したのではなく、終末に天変地異は起こらず、肉体の復活はあり得ず、再臨主は雲に乗ってやって来るのではない、と否定したうえで、そうした聖書の記述に新しい解釈を示していくというやり方です。特に再臨論の部分では、根本主義者たちが信じている「空中再臨」を否定するために非常に長い紙幅が費やされています。しかし、これらの記述はもともと聖書を文字通りに信じていない人々にとってはあまり意味のないものです。
『原理講論』を読むと、あたかもすべてのキリスト教徒が根本主義者であるかのような印象を受けます。しかしそれは『原理講論』の著者にとって、キリスト教と言えば根本主義しか眼中になかったということに過ぎないのです。実際には、根本主義はキリスト教の唯一の神学的立場ではなく、現代のキリスト教にはもっと多様な神学が存在するのです。私たちがキリスト教について学ぶ姿勢としては、大きく分けて「根本主義」と「自由主義」という二つの神学の流れがあることを理解した上で、それらを含む幅広いキリスト教について理解する必要があります。