3.
合理主義と一神教の関係について:そもそも、信仰と理性がどのような関係にあるかという問題は、キリスト教神学の世界において古代より現代にいたるまで様々な議論が展開されている複雑な問題であり、地裁判決のように「対極に位置する」などと単純に片づけることのできる問題ではない。A.リチャードソンとJ.ボウデンの編著による『キリスト教神学事典』(教文館)の「理性」の項目は、信仰と理性の関係について、以下の4つの立場が存在することを解説している:①対立の関係、対極的な関係、②同一のものとは言わないまでも、調和した関係、③理性はある種の信仰の決断を基礎とするか、または啓示の枠組みのうちでしか機能しない、④理性と信仰は相互に独立したものであって、優劣の比較もできない。
以下にこの4つの内容を敷衍する:
① 「対立の関係、対極的な関係」にあると説く立場は、信仰と理性は水と油のように分離していると説き、理性を排除し、信仰を重んじる立場である。この代表者は、聖パウロ、テルトリアヌス、ルター、カント、ヒューム、キルケゴールなどである。特に2世紀から3世紀に活躍したテルトリアヌスの「不条理なるがゆえに私は信じる」という言葉は、この立場を代表している。
② 「調和した関係」を解く立場は、18世紀合理主義のライプニッツやスピノザ、19世紀のヘーゲルなどに共通した見解で、これは「キリスト教合理主義」と呼ぶことのできる立場である。イギリスの哲学者ジョン・ロックは、1695年に『キリスト教の合理性』という本を著し、「理神論」への道を開いた。「理神論」においては、啓示を認めず、理性のみを信頼し、宗教的真理も理性にかなったものだけを認める立場をとった。このように、一神教の信仰のなかにも、人間の理性の働きだけによって神について知り得るという立場があり、これに基づいてさまざまな「神の存在証明」が試みられた。こうした立場においては、一神教の信仰と合理主義は対極どころか完全に一致する関係にある。
③ 「理性はある種の信仰の決断を基礎とするか、または啓示の枠組みのうちでしか機能しない」と説く立場は、理性を少しは評価しているが、信仰がその基礎となっているときに限るという見解である。すなわち、まず信仰があった上で理性が働くという見解である。この代表者は、アウグスチヌス、カンタベリーのアンセルムス、カール・バルトなどである。特に11世紀から12世紀初頭にかけて活躍したアンセルムスの有名な言葉「理解するために、わたしは信じる」は、この見解を端的に表明している。
④ 「理性と信仰は相互に独立したものである」との見解は、13世紀に活躍した神学博士トマス・アクィナスの立場であり、神学を「自然神学」と「啓示神学」の2つに分け、前者が理性によって神を知る道であり、後者が信仰によって神を知る道であるとした。すなわち、信仰と理性は各々独立した領域を持ちながらも、お互いに矛盾はせず、かえって役立つという立場が存在するのである。
このように一神教であるキリスト教の伝統の中にも、信仰と理性の関係に関しては多様な見解があり、地裁判決のように「対極に位置する」などと単純に片づけることのできる問題ではない。そのような偏った宗教理解に基づいて宗教活動の違法性を認定している地裁判決は不当であると言える。
4.
「自然神学」と統一教会の教義について:キリスト教の神学の中で、とりわけ合理主義と対極に位置せず、近い関係にあるのが「自然神学」である。自然神学は、神の啓示を信仰によって受け入れるところから出発するのではなく、自然すなわち被造世界のしくみを人間の理性で研究するところから出発し、そこから神について論じる神学である。そこでは、信仰は基本的には必要とされず、理性が重んじられる。統一教会の教義においてこの「自然神学」に該当する部分が、「創造原理」の最初に出てくる「神の二性性相と被造世界」の部分である。そこでは、被造物を観察することを通して合理的に神の性質を推論しており、キリスト教における伝統的な自然神学の手法が取られている。このことからも、統一教会の教えが合理主義の対極に位置するという地裁判決は誤っており、統一教会の信仰に対する偏見に基づいている。
5.
「組織神学」と統一教会の教義解説書である「原理講論」について:地裁判決は、一神教の信仰においては、「人は、言葉による論理的な説明を理解して信仰を得るのではない」と断言しているが、これもキリスト教に対する無知と偏見に基づくものである。キリスト教においては通常、「カテキズム」と呼ばれる教理指導書にしたがって、教義の内容が言葉による論理的な説明を通して信徒に伝達され、それが教化活動における重要な役割を担っている。カトリック教会は、『カトリック教会のカテキズム』の基本的な目的を「教会が自ら日々の生活の中で宣言し、祝い、生き、祈っていることを一人ひとりが知ることを可能にする、カトリックの教えの全般的かつ包括的な説明である」としており、このことからもカトリック教会は言葉を通して信仰の内容を伝達していることが分かる。さらに、キリスト教の教えをより論理的・体系的に説明しようと試みたものが「組織神学」である。組織神学とは、神論、創造論、堕落論、キリスト論、救済論、教会論、終末論など、キリスト教の教義の内容を順序よく、組織的に論じたものである。これはキリスト教の聖典である聖書が霊感に基づいて書かれたところが多く、全体として、食い違いや矛盾があるので、その霊感的なものを乗り越えて、客観性をもった言葉で記述し直して、矛盾などを取り除く作業を意味する。こうした組織神学の代表的なものが、トマス・アクィナスの『神学大全』、宗教改革者カルヴァンの『キリスト教綱要』、19世紀初頭のドイツの神学者シュライエルマッハーの『信仰の学』などである。シュライエルマッハーによれば、聖書の言葉は霊感に基づくので詩的表現が多く、また、教会の説教は聴く者を諭そうとするので修辞的表現を使う。ところが、神学はそのような宗教体験に基づきつつも、食い違いを避けるべく、もっと注意深く記述的に表現するというのである。このような観点から言えば、統一教会の教理解説書である『原理講論』は、創造原理、堕落論、メシヤ論、終末論、復帰原理と順序よく並べて論じているので、一つの組織神学と言うことができる。地裁判決の原告である元信者らは『原理講論』の内容を分かりやすく解説した「原理講義」のビデオや、生講義を聞くことによって、言葉によって論理的・体系的に教義を説明されて信仰を持つにいたったのであり、合理主義の対極に位置する神秘主義によって信仰を持つにいたったのではない。したがって、本件全証拠によれば、原告らが受けた伝道や教化の活動は、言葉による教えの伝達に膨大な時間が費やされていることが明白であり、「言葉による論理的な説明を受けて信仰に至ったのではない」という地裁判決の認定は誤っている。