札幌第二次「青春を返せ」裁判の判決を検証する<第6回>


札幌地裁判決は、「第4章 被告の損害賠償責任」において、以下のように述べている:

 多くの日本人なら、宗教性が秘匿されようがされまいが、旧約聖書を題材にした原罪の話など「古事記」同様の神話にすぎないと考えるであろうし、霊界・因縁の話などは迷信にすぎないと考えるであろうと思われ、また受講を秘密にするよう告げることにも胡散臭さを感じるであろうから、宗教性を秘匿されたまま講義を受けたとしても、原罪や霊界・因縁が実在するとは感じないと思われる。

 しかし、宗教性が秘匿されたまま原罪や霊界・因縁の話を聞かされた場合、これを神話や迷信にすぎないと突き放すことができず、それらが実在するのではないかと感じる人は必ず一定割合でいるはずである。

 このような人が家族や友人に内緒で受講を続け、繰り返し、原罪や霊界・因縁に関する講義が「真理」であると告げられた場合、それら害悪が実在し、それら害悪こそが人間社会の不条理の原因であると納得したい、そう信じたいとの強い感情に陥ること、そして、その感情がその人の内面を支配した場合、その人は原罪や霊界・因縁の実在を信じて疑わない状態に陥ることが容易に想像される。

 原罪や霊界・因縁の実在を信じて疑わないことは信仰を受け入れたに等しいが、ここでは神秘に帰依するという選択を経て信仰を得たのではなく、神秘と事実を見誤って信仰を得たのである。このような信仰の伝道は、非常に不公正なものである。(p.246

地裁判決のこの部分は、統一教会に入信した人は、「神秘と事実を見誤って信仰を得た」と断言しているが、そもそも宗教的信仰において人は神秘と事実を冷徹に区別して捉えているのではなく、現実世界のもろもろの現象を宗教的世界観とのかかわりにおいて解釈するのであるから、神秘と事実は渾然一体となっているのが通常である。そのような信仰のあり方を、裁判所が「神秘と事実を見誤って信仰を得た」などと、信仰の内面にまで踏み込んで判決することは、政教分離の原則に反し、憲法違反となる。

この地裁判決では、本件証拠が示すとおりに、伝道や教化を受けた者のうち、大多数の者が教義を学ぶ過程で内容を拒否するか学ぶのをやめており、最終的に信仰を持つには至らないという事実が認められており、多くの日本人がこうした伝道・教化活動に対して示すであろう一般的な反応が推察されている。一方で、これらの話を聞いて「それらが実在するのではないかと感じる人は必ず一定割合でいるはずである」と述べているが、その一定割合は、イギリスの宗教社会学者アイリーン・バーカーの調査によれば4%ほどであり、日本におけるデータもほぼ同じ数字を示している。95%以上の大部分の人が拒絶するというこの事実は、これらの伝道・教化活動が強制的で抵抗不可能なものではなく、ほとんどの人が拒絶できるようなものであることを意味している。こうした事実からしても、この伝道・教化活動が個人の自由な意思決定を歪めるような形で行われているということはなく、地裁判決は事実に反している。

さらに、これらの話を聞いて信じる「一定割合」の人とは、どのような人なのであろうか? それらの人々が共通して持つ特徴として、何らかの知的障害がある、知的水準が低い、教育水準が低い、未成年者が多い、高齢者が多いなどの際立った特徴があれば、対象の無知に付け込んで相手を欺罔している可能性を推認することは可能であろう。しかしながら、本件訴訟の原告たちは、みな成人であり、とくに高齢でもなく、知的障害もなく、比較的高度な教育を受けた健康な若者あるいは壮年であった者が多い。社会的経験が特に不足していたという証拠もない。したがって、本件訴訟の原告たちは、欺罔によって信仰を得たのではなく、信仰を持たなかったその他大勢の人々と同様の知的判断力を持っていたにもかかわらず、最終的に信仰を得たものと言える。

それでは、その他大勢の人々と、最終的に信仰を持つにいたる少数の人々の違いとは何であろうか? それが知的能力や社会的経験の有無の差異によって説明できないとすれば、目に見えない世界に対する感性、すなわち宗教性があるかないかによってしか、説明することはできない。どんなに熱心に伝道しても、全く関心を示さない人もいるし、逆に熱心に耳を傾ける人もいる。その違いは、話を聞いた個人の宗教性の有無によるのである。したがって、話を聞いて信じた「一定割合」の人とは、全体の中では少数派に属する、宗教性のある人々であり、まさにその点が、その他大勢の人々との決定的な違いであると言えるであろう。このことは、ある人が伝道されるか否かは、伝道する側に主要な原因があるのではなく、伝道される側にそれを受け入れる素地があるかどうかによって決定されるのであるということを示している。その意味で、本件訴訟の原告らは、原罪や霊界・因縁の実在を信じる素地を持っていたので、その教えが事実であると感じたのであり、教えた側も、その教えが事実であると確信して教えたのである。したがって、「神秘と事実を見誤って信仰を得た」という原審判決の判断は不当であり、事実誤認である。

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