アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳05


第一章 接近と情報収集(1)

実際のところ、私が初めに統一教会を探し出したのではなく、彼らがさまざまな方法で私を探し出したのである。私が最初にその運動に遭遇したのは1974年であり、国際文化財団(ICF)と名乗る組織から招待状を受けとった時のことだ。ロンドンのロイヤル・ランカスター・ホテルで開かれる予定になっている第三回科学の統一に関する国際会議(ICUS)で、論文を発表しないか?――という内容だ。私はそのスポンサーについては聞いたことがなかったが、先にニューヨークと東京で行われたICUSの会議に参加した著名な科学者たちの名前を告げられた。また多くのノーベル賞受賞者たちがこの来るべき会議で講義する、ということも知らされた。光栄に思うと同時に好奇心をそそられ、当時私は科学者たちが宗教的、道徳的、およびその他のイデオロギー的疑問について公言することについて研究していたので、それを受け入れた。同じく招待されていた私の同僚が、後にICFの創設者の名前は文鮮明だということに気付いた。私たちは二人とも、彼についてあまり良くない記事を読んだことがあったことを、ぼんやりと思い起こした。  新聞の切り抜きを集めた図書館を訪ねてみると、次のような情報が明らかになった。文は「奇妙な宗教セクト」を率いる韓国人の大金持ちであり、その信奉者たちからメシヤであるとみなされている。彼は791組のカップルを合同結婚式で結婚させた人物としてギネスブックに載っている。その運動は強烈な反共組織である。昨年の夏、何人かの英国人学生がアメリカで開かれた国際指導者セミナーに参加した。そして、「運動に入会するようわれわれに強いプレッシャーがかけられた」と語ったある学生は、セクトから注目されることを恐れて自分の名前を明かすことを拒否した。1974年6月16日付の「サンデー・タイムズ」には、法務長官が「公訴局長官に対して、統一教会として知られている団体に、窃盗法に基づき詐欺罪で起訴する目的で言及」するかどうかについて、下院で質問がなされることになっている、とも報じられていた。私の家族は心配そうに、招待を受けるのを考え直すよう懇願した。しかし、私は宗教社会学者であり、もはや私が行くのを阻むものはなにもなかった。

1974年、ロンドンにおける「科学の統一に関する国際会議(ICUS)」で、参加者に演説する文。(1章13ページ)

1974年、ロンドンにおける「科学の統一に関する国際会議(ICUS)」で、参加者に演説する文。(1章13ページ)

会議は、予想に反して立派なものであった。実際、学術的水準においては、それはむしろかなり良い会議でさえあった。われわれを洗脳しようとした者は誰もいなかった。われわれは自分の言いたいことをそのまま言うことができたし、われわれの論文は一字一句変えられることなく忠実に、出版された議事録に転載されていた(注1)。しかしながらそこには、その会議の間中ほほえみながらわれわれの世話をしてくれる、恐ろしいくらい親切な若い男女が何人かいた。われわれは、この人たちが洗脳されたムーニーに違いないとささやき合った。それを的確に指摘するのは難しいが、彼らには確かに何か「違った」ものがあった。おそらく、彼らは少し親切すぎたのである。

その運動と二度目に出会ったのは、ロンドンのランカスターゲートにある英国教会本部において、三回にわたって週末泊り込みで開催されることになっていた「科学と宗教に関する円卓会議」でスピーチするよう招待されたときだった。これらの訪問の過程において、われわれはウイルトシアの農場へ連れていかれ、数人の英国人メンバーと話す機会があった。私は彼らの信仰について多くを見いだすことも、その運動についての明瞭なイメージを描くこともできなかったが、数名の個々のメンバーと知り合いになり、彼らの背景について何かを学び始めていた。彼らは相変わらず非常に気持ちが良く、喜ばそうと気を遣っていたが、私がICUSの会議で多少不気味だと思った彼らの不自然な親切は、彼ら自身の本拠地でリラックスしている時にはあまり目立たなかった。

同時に、その運動に関するマスコミの報道は、次第にやかましく敵対的になっていった。例えば児童虐待の噂といったいくつかの話や、メンバーが定期的に乱交パーティーを行っているという主張(注2)が真実ではないことはかなり確かだと私は思っていた。しかし、いまや私は統一教会に魅了されそうになりつつあり、その他の報道のいくつかについて調査してみたいと思っていた。しかしながら当時、その運動は今日よりもかなり部外者に閉鎖されており、私自身がメンバーになったふりをしない限り、もっと多くの情報を得ることはできそうもなかった。これは多くの理由から論外だった。第一に、私は純粋に倫理的理由で騙すことに対して不満であった。(注3)第二に、私は自分の仕事を辞めたくなかった。そして第三に、たとえ私が入会したとしても、疑いを起こすことなしに、何らかの系統的な質問を尋ねて回ることなどできなかったであろう。私は、研究をすることに関心があるのだとほのめかしたが、あまり大きな期待はしなかった。

すると事態は意外な展開を見せた。ある日、私がかなり関心をもつようになった一人のムーニー(彼はケンブリッジ大学で優秀な歴史の学位を取得しており、私は彼の父親を少しばかり知っていた)が訪ねてきたということを、私は秘書から聞いて驚いた。私の最初の反応は、彼がその運動の束縛から逃れるために私の助けを借りたいのかもしれない、という考えであった。もし私が電話すれば、彼が困ったことになるかもしれないと恐れたので、彼がさらなる接触をするかどうか見るために、私は待つことにした。およそ一週間後に、彼は私の事務所に訪ねてきた。彼は、もう一人の宗教社会学者について懸念しているのだと私に告げた。彼が聞いたところによれば、その学者は運動に敵対している人々から収集した情報を使って、「外側」から統一教会の研究をしているというのである。彼はまた、その社会学者が来年の宗教社会学者の国際会議で、運動からの離脱についての論文を読もうとしているということを聞いていた。私は彼に、自分はその社会学者(ダラム大学のジェームズ・ベックフォード博士)をよく知っていて、それ以外の情報を得るのはほとんど不可能なのだから、彼が批判的報道に頼らざるを得ないというのは全く驚くことではないと告げた。するとそのムーニーは、私がその会議に参加するかどうか(私は参加した)、そして内部からの情報を活用した論文を書くことに関心があるかどうかと尋ねた。私は、関心はあるけれども、まず適切な社会学的研究を行うことなしに論文を書くことはできないと説明した。私は、経費のための独立した財源をもつ必要があり、英国メンバーの完全リストが必要だった。そうすれば、運動が私にインタビューさせたいと考えるメンバーだけに会うのではなく、むしろランダム・サンプル方式で(すなわち、それぞれのメンバーに公表された乱数表から平等なチャンスで選ばれるであろうナンバーが割り振られる)インタビューをすることができるのである。

私がメンバーの完全なリストなしには研究ができないということを英国指導者に納得させるのに、数週間かかった。私は社会学者として、特定可能な個人に関する情報を漏洩することに対して関心はなく、またその意図もないということを彼らに再確認しようと試みた。彼らは、メディアあるいは「ディプログラマー」たちが何とかしてそのリストを手に入れようとしており、メンバーを困らせるかもしれないことを恐れていると言った。私は、本当の理由は、彼らが通常想定されているよりも会員がずっと少数であるという事実を公表したくないからではないかと推測した。そうしているうちに、私は社会科学研究委員会に申請し、自分の大学であるロンドン・スクール・オブ・エコノミクスは、もし交渉がうまく進むなら、そのプロジェクトを始めるために十分な資金を提供することに同意した。  私の思い通りのやり方でその研究を行う許可を最終的に得たのは1976年の終わりであり、その運動と初めて接触してから二年以上も後のことだった(注4)。私が快く約束したこと以外には、研究の条件は何もなかった。その約束とは、個人の特定につながるような履歴を公表しないことであった――もちろん、既に公的に入手可能なものや、既知の運動指導者に関する情報の場合は例外である。私に会いに来たムーニーはしばらくしてから、私に研究をさせるよう彼らが準備してきた理由は、必ずしも私が彼らを支援するだろうと考えたからではなく、――私が運動をどのように見なしているかは、実際には彼らには分からなかったということを、彼は認めた――私が彼らの側の言い分に耳を傾ける用意があったからであり、また、そのようにする者が、自力で発見するためにやって来なかった人々によって既に出版されているもの以上に悪いことを書くことができるとは考えられなかったからだと言った。最後の「試練」が1976年の大晦日にやって来た。アメリカ人指導者の一人が二人の英国人ムーニーと共に私の家に来たのである。私たちはその研究についておよそ一時間くらい話し合い、それから彼は満足げに立ち去った。私の子供たちは、私の研究に仕込まれているに違いないと彼らが確信していた「バグ(欠陥)」を探すために、興奮しながらも、最終的には報われない数時間を費やした。

 

注と参考文献

(注1)国際文化財団『科学と絶対価値』第三回科学の統一に関する国際会議の議事録、第2巻、ニューヨーク、ICF、1975年。会議についてのさらなる報告のためには、アイリーン・バーカー「文鮮明と科学者たち」『テイヤール・リビュー』第14巻1号、1979年も参照のこと。

(注2)ジェームズ・A・ベックフォード「衰退しつつある英国ムーニーたち」、『現代心理学』第2巻8号、1976年、22ページ。彼はそれらが真実だとは述べていないが、そのような噂の存在を記述している。

(注3)「秘密」研究、あるいは「偽装」観察の倫理に関する議論については、マーティン・ブルマー(編)『社会研究の倫理』ロンドン、マックミリアン、1982年を参照のこと。 (注4)私はムーニーたちに、メンバーの名前と姓の最初の三文字、生年月日、入会年月日(例えば、ジョナサン BRA, 15:4:51; 7:10:74)を記述したリストを私に渡すよう提案する考えを思いついた。この方法を使えば、もしそのリストが盗まれたとしても、彼らをまだ知らない人々にとって、その名前は識別不可能だろうし、私は完全なリストを本当に手に入れたかどうかをチェックする――そして実際にそれを証明する――手段を得たことになる。もしベックフォードか、特定のメンバーを知っている他の誰かが、私に名前(例えばジョナサン・ブロムウェル)をくれるとすれば、私は彼の生年月日と入会年月日を提示することによって、リスト上のメンバーを本当に得たということを証明することができるようになる。これは最終的に承認され、私はリストを得た――しかも、入会時のメンバーの平均年齢や、運動に入会している期間の長さといったような情報を計算できるボーナス付きで。

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