札幌第二次「青春を返せ」裁判の判決を検証する<第14回>


札幌地裁判決は、「第4章 被告の損害賠償責任」において、以下のように述べている:

原罪や霊界・因縁が実在する害悪であり、統一原理が教義ではなく真理であると信じ込ませる手法で行われている。(p.258

この判決部分は、原罪や霊界・因縁が実在する害悪ではないことと、統一原理が真理ではないことを事実上認定した上で、それを信じ込ませた統一教会信者の行為が違法であったとするものである。そもそも、裁判所がそのような判断をすること自体が、政教分離の壁を越えて、宗教的教義の真偽の判断に立ち入ることになるので、憲法違反である。さらに、この判決は宗教を信じる者の心に対する驚くべき無知に基づいている。およそ宗教を信じる者の心においては、「教義=真理」なのである。教義が真理であると信じているからその宗教に属しているのであり、「うちの宗教の教義は真理ではありません」と言って伝道する者はいない。およそ宗教的教義を真剣に信ずる信仰者において、自らの信奉する教義が特定宗教の一教義に過ぎず、普遍的真理ではないなどと考えている者は存在せず、それは宇宙の真理であり、人間の生き方に対する普遍的な指針であると信じているのである。したがって、そもそも彼らの主観においては「真理」と「教義」の区別は存在せず、自らの信じる教義について「真理である」と説くことは、彼らの信念そのものの表明に他ならない。このような真正な信仰に基づく布教または伝道活動に対して、それが「統一原理が教義ではなく真理であると信じ込ませる手法で行われている」いるなどと認定することは、信仰そのものの否定にほかならず、当該信者の信奉している教義が真理ではないと言っているに他ならない。これはまさに司法による異端審問であり、重大な憲法違反である。

また、常識的に考えても、現実社会とまったく関係の無い、純粋な「宗教的教義」というものはあり得ない。むしろ、宗教的言説はわれわれ一人一人の実生活と密接に結びついており、それを説明する究極的な原理として提示されることが多いわけであるから、宗教的な教えの多くは現実社会の事実や経験と合致するものと考えられており、合理的な日常の法則として説明されることが多い。また、極度に世俗化された現代社会においては、宗教的言説が現実社会を離れた超越的真理としてのみ示されることはむしろ稀であり、それはしばしば現実生活に意味を与えたり、ときには非常に現実的な利益をもたらしたりする「成功哲学」のごときものとして説かれる場合が多い。米国において人気を博した代表的なテレビ伝道師であるロバート・シューラーの説教も、キリスト教信仰がいかに日々の生活に具体的な利益をもたらすものであるかという例話に満ちている。したがって、宗教上の教義といえども、それを日常生活や自分の理性に照らして合理的に検証することは十分に可能であり、実際に宗教を信じる信仰者は常にそのような検証を行いつつ信仰生活を行っているのである。その意味で、統一教会の信者らが、自らの宗教的信念を単なる宗教教理ではなく現実を説明する理論であり、普遍的な真理であると教えたとしても、それは何ら不正なことではない。

札幌地裁判決は、「第4章 被告の損害賠償責任」において、以下のように述べている:

以上の通りであって、統一協会の信者が原告らに対して行った伝道活動は、宗教性や入信後の実践内容を秘匿して行われたもので、自由意思を歪めて信仰への隷属に導く不正なものであるし、統一協会の信者らが原告らに対して行った教化活動は、家族等との交流を断絶させ、金銭拠出の不足が信仰の怠りであり救済の否定につながると教えて信仰を維持させ、特異な宗教的実践を継続させようとするものである。(p.260

地裁判決のこの部分は、これまで論じてきた内容を一文にまとめたものであるが、その構成要素の一つ一つが根拠の乏しいものであると同時に、宗教に対する著しい偏見と無知に基づくものであると同時に、本来ならば裁判官が踏み込んではならない信仰の内面にまで踏み込み、それを違法性の根拠としているがゆえに、憲法違反である。したがって、地裁判決における違法性の判断は無効である。

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