アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳04


序文(3)

統一教会に対する大部分の人々の敵意が、挑戦的な質問をわれわれに提示し得るのは当然としても、われわれはそれに解答を提供させることはできない。われわれは、統一教会は邪悪で、不正で、浅はかで、不可解な運動であるがゆえに、その会員はマインド・コントロールあるいは詐欺によってのみ入会させられることが可能だ、と仮定することはできない。そのような仮定は、回心に対するなんらかの責任が、個人そのものに由来するのか、それともより広い社会に由来するのかという、非常に重要な論点を先取りしてしまうことになる。それは、一般的な社会的・政治的・経済的環境や、回心者のもっと直接的な社会的背景(例えば、家族や学校、そしておそらく教会)が持っているかもしれない意義を、はなから無視することになるのである。回心の原因を勧誘テクニックにのみ帰することは、統一教会の伝道活動に屈服した者たちと、影響されなかった者たちの間にある相違を無視し、未調査のままに残すことになる。

もちろん、回心者が何を信じるかということと、彼がそれを信じるようになった過程との間には、いかなる論理的関係も存在しない。同様に、誰かがある運動に加わる理由と、彼が実際にメンバーになった後で発見する自己の境遇との間にも、いかなる必然的連続性も存在しない。しかし、もしある運動がいかに「機能するか」について、そしてその目的を定義し達成することにおいて、それが経験する成功と失敗についてもっと理解したいと思うのであれば、それが動作する「原材料」についてなんらかの知識をもつことは決定的に重要である。われわれが「ムーニーたちはなぜそうするのか」という疑問をもつとき、その答えの一部(決してすべてではないが)は、最初の段階で彼らがいかにしてムーニーになったのかを理解することを通して見いだされるはずである。さらに、そのような理解はまた、ムーニーたちが達し得る限界について知る上でも助けになることだろう。

しかしわれわれは、本書においては語り尽くせない議論を期待している。ここに述べられている分析は、統一教会についてのより広範な研究の一部であるが、運動への入会という問題を直接的に扱った試みとして、それ自体で自立していると私は信じている。本書の内容は、部外者に紹介されている通りの統一教会にほぼ限定されている。その運動の「内部の」状況についてはほとんど述べられていないし、通常はメンバーのみに入手可能なイデオロギーの部分については、ほとんど論じられていない。ある人が実際に統一教会のメンバーになった時に、その生活がどのようなものであるかについては限られたられた議論しかなされていないし、権力とコミュニケーションを構造的に統制している組織的階層性については、簡単に記述しているに過ぎない。こうしたことは、少し前に論じたように、なぜ誰かがムーニーになるのかを理解する上では、たいていは(すべてにおいてではない)関係ない事柄なのである。その理由の一つは、ムーニーになる可能性のある人々はそうした事柄について通常はまったく知らないからである。このことは、本書に含まれている事柄のすべてが、統一教会のメンバーになるかもしれない(あるいは実際になっている)人々に知られていると言っているのではない。

私は、本書と、統一教会に関する後続の書物が基づいているデータを収集・分析する仕事に取り組んだ方法のいくつかを述べることから、この本を書き始めた。それは個人的な事柄だが、研究の背景となるものについて学ぶことに関心のある読者のために書いた。ある意味では、この章は付録にしておいた方が相応しかったかもしれない。なぜなら、そのような事柄には関心のない人々はそれを無視できるからである。しかし、議論のいくつかは、第五章において述べている議論を補足しているし、また採用されている方法を最初に説明することは、この研究が取り組んできた視点を理解する上で役に立つだろうと思ったので、私はそれを始めに置いたのである。

第二、第三、第四章は、統一教会が入会する可能性のある人に提供するものが何かについて記述することによって、場を設定する。初めに、私はその運動が過去数十年の間に出現してきた様子を描くために、歴史的アプローチを用いる。これは、ムーニーたち自身が純粋に「外的」説明と呼ぶものである。しかしその章を通して、私が信じるに、その運動の歴史と共に織り込まれており、それが特に伝道実践に関して現在の立場にいかにして到達してきたのかを理解するのに役立つ、二つのテーマが流れている。そのテーマとは、第一に、その運動の創設者であり指導者である文によって果たされた重要な役割であり、第二に、文ではなく、その弟子たちによって果たされた重要な役割である。彼らは試行錯誤を通してある実践の制度化に到達し、どのアプローチが公衆に対して最も有効かを発見したのである。第三章は、一般的に部外者に入手可能な統一神学の部分を記述した。(『原理講論』と言った場合にはその本と教えを指しており、一方、原理と言った場合にはより総合的な統一教会の信念体系を指している。)第四章は、ムーニーたちとの出会いと、統一教会の「修練会」に参加するプロセスに関する記述を含んでいる。「修練会」とは、ムーニーたちが「ゲスト」と呼んでいる入会する可能性のある人々が、その信仰の内容と、ある程度の運動の実践について紹介される、泊まり込みの講座のことである。

第五章には、この本の理論的な議論が含まれている。その中で私は、統一教会の実践に適用されるかもしれないという範囲内で、洗脳論争になされてきたいくつかの貢献について考察している。そこで私は、単なる反論のレトリックへと論争を引っ張る傾向のあったいくつかの哲学的論点を回避することを可能にするであろう、一つのモデルを提案している。後続のデータは、このモデルの枠組み内において紹介・分析されている。

第六章はまた修練会に戻るが、今度はゲストの修練会、メンバー、運動に対する反応という視点からそれを見る。第七章では、詐欺、コントロールされた環境、そして、いわゆる「愛の爆弾」(ムーニーたちがゲストに対して注目を降り注ぐこと)の効果について考察する。第八章と第九章においては、ムーニーになるタイプの人々と、彼らの社会的経験について見る。第十章は、さまざまなテーマを結びつけることによって結論を出す。  本書を読むにあたってさらに一般的な点として、ムーニーたちに言及するときに私が男性名詞を使用したことによって腹を立てた人がいたら、私は謝罪すべきである。純粋に文体的理由で私は、彼あるいは彼女と継続的に書くことを考えたら、耐えられなかったのである。西洋のムーニーたちの三分の二がたまたま男性だったのであるが、もし性別の割合が反対であったならば、私は女性名詞を使ったであろう。

私の研究の結果を提示する方法は、いくつか存在したであろう。私は既にこの運動のさまざまな側面について数多くの論文を書いたが、その中のいくつかは特に社会学を専攻する読者のために書いた。しかし本書の中で、私はより広範な読者に対して語りかけている。私の目的は、社会学的分析用語が散乱していない話をすることだが(注12)、しかしこれは、根本的な疑問や視点が社会学的なものではないという意味ではない(社会学とは、結局のところ、人間が互いに影響し合う方法と、その相互作用の結果についての系統的研究にすぎない)。記述の形式においてはできるだけ一貫性があるように試みたが、不可避的に、ある人々にとっては「難解な読み物」になる危険を冒していることがあるかと思えば、他の人々にとっては明らかなことを詳しく述べていることもある。これは部分的には、一つのアプローチだけでは十分に理解され得るとは思われない問題に取り組むために、多くのアプローチを併用しようとしたからである。あるレベルでは、私はその運動の歴史と信条と、統一教会の修練会で何が「起こっているか」について、かなり正直で客観的な事実を報告しようと試みた。これに補足するため、主として関わりをもった人々からの多くの引用文を盛り込むことを通して、より主観的な味わいを加えた。その目的は、一つの現象に対して多様な見方が可能であることを示すためであり、統計的データのどうしても無味乾燥な骨格の上に、いくらか「肉」付けをするためである。同時に統計分析が提示されているが、その目的はしばしば矛盾するデータを比較し、それらを一致させるために、データの相対的な重みを査定することを可能にするためである。さらに分析全体は、一つの「モデル」「パラダイム」あるいは視点によって方向づけられ、形作られてきた。それは、他の人々が理解できないことをなぜある人々はするのかを理解しようと試みる人々によって取り上げられてきた、哲学や社会学的理論や研究方法論のさらに混乱している問題のいくつかに直面し、対処するための試みの中で、私が構築したものである。  私の希望は単に、この本を読んだ人が、なぜ人々はムーニーになるのかをより理解しやすくなることだけではない。私はまた、私の結論に同意しない人々が、ただ単に「なるほど、誰もが自分自身の意見をもつ資格がある」(私が論争を始めることを期待して公然と異を唱えたある「専門家の証人」は、かつてそう言った)と言うのではなく、私が提示したデータと議論に真正面から取り組むことができるように、自分が十分な明瞭さと十分な経験的詳細さをもって論証できていればよいと思う。

社会学研究に取り組む者は誰でも、社会現象によって提起された複雑な疑問に対する決定的な答えに到達することを望むことなどできないが、私は、本書が単なる意見以上のものを提供することを願っている。

(注12)読者の中には、私があまりにも方法論的情報を紹介しすぎたと感じる人が、疑いなくいるだろう。私は、彼らがこのことだけでなく、もっと詳細を学びたいと思う人々のために私自身の仕事を参考文献として引用し続けていることに対しても、忍耐してくださることを望む。

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