Moonism & Pausキリスト教講座シリーズ01:2021年4月号


 今回から、私がこれまでに「キリスト教講座」と題してWorld CARP-Japanの機関誌『Moonism』および『Paus』(連載途中で雑誌名が変更)に寄稿した文章をシリーズでアップします。World CARP-Japanは、私自身もかつて所属していた大学生の組織です。未来を担う大学生たちに対して、キリスト教の基礎知識を伝えると同時に、キリスト教と比較してみて初めて分かる「統一原理」の素晴らしさを伝えたいという思いが表現されています。第一回の今回は、2021年4月号に寄稿した文章です。

第1講:キリスト教について学ぶ意義①

 これから「キリスト教講座」と題する連載を開始します。この内容は私が米国の統一神学大学院(UTS)で学んだ内容に基づき、既存のキリスト教神学と統一原理を比較することを通して、統一原理の価値を理解してもらうことを目的としています。

 初回の今回は、キリスト教について学ぶ意義を解説します。私たちのキリスト教に対する見方は、『原理講論』に出てくる復帰摂理の三段階という図式に強い影響を受けています。それは、歴史の中で復帰摂理を担当した各時代の中心宗教というものがあり、旧約時代にはユダヤ教、新約時代にはキリスト教が中心宗教であったが、成約時代である現在は家庭連合が中心宗教であるというものです。

旧約・新約の基盤の上にある成約

 この図式においては、私たちはユダヤ教やキリスト教よりも「上位の宗教」として位置づけられているのですが、実際には家庭連合に所属しているだけでこれらの宗教よりも心霊的に上位にあるわけではありません。本来、成約聖徒は旧約・新約という信仰の伝統を相続した基盤の上に立たなければならないのですが、そうした基盤なしにいきなり最高度のみ言に出会ってしまったために、み言の価値を受肉できず、消化不良に陥ってしまっている人が多いからです。

 そういう意味で、私たちがキリスト教について学ぶ第一の意義は、神の復帰摂理を先駆けて担当した宗教として、敬意をもってキリスト教を見つめるためということになります。ユダヤ教とキリスト教と家庭連合の関係について文鮮明先生が語られた非常に興味深いみ言の中に、1976年9月18日に「ワシントン大会」が行われたときに語られた「神のみ旨とアメリカ」というスピーチがあります。その中で文先生は、神様から見ればユダヤ教が長男、キリスト教が次男、統一教会(現在の家庭連合)が三男の立場であり、神の願いはこの三兄弟が一つとなって統一世界を造ることだと、語っておられます。

 これら三つの宗教は、それぞれが親なる神を愛しているにも関わらず、兄弟同士は仲が悪く、反目しあっているのです。これは親から見れば悲しいことです。兄弟が互いに協力し合って親孝行をしてくれた方が、親は嬉しいに違いありません。この三兄弟の中で家庭連合は最後に生れた末弟の立場です。これはアベルの立場なので、お兄さんであるユダヤ教やキリスト教に侍りながら、自然屈服させていかなければならないのです。

 一方でキリスト教はこれまで私たちを迫害してきた怨讐の宗教でもあります。実は文先生ご自身がキリスト教から数多くの迫害を受けてきました。文先生が北朝鮮で牢獄に入ったのも、梨花女子大事件が起きたのも、「羊を奪われた」と言って既成のキリスト教会が文先生に関する悪い噂を広めたり、政府に密告したりしたことが原因でした。そのように迫害を受けたにもかかわらず、文先生はキリスト教を愛し、その復帰のために投入されました。その理由について文先生は、『み旨の道』という小冊子の「指導者」の項目において以下のように語っておられます。

ドレ版画ヨセフと兄弟たち

「ヨセフがエジプトに訪ねてきた11人の兄弟を許すことができたのは、自分がいない間、それでも父母を養った兄弟たちであることを思えば、許さざるを得なかったのである。それと同じように、我々に反対してきた既成教団を祝福せざるを得ないのは、それでも統一教会が現れる以前に神様に侍ってきた基準があるからである。」

 ヨセフにとってエジプトに訪ねてきたお兄さんたちは怨讐でした。父母のもとで幸福に暮らしていたにもかかわらず、彼らによってラクダの隊商に売られ、エジプトで奴隷にされ、牢獄にまで入れられてしまうことになったのです。兄弟たちが訪ねてきたときヨセフは権力の座にいたので、彼らをひと思いに殺そうと思えばできる力を持っていました。しかし、なぜヨセフが兄弟たちに仕返しをしなかったかといえば、自分が故郷を離れて親孝行できなかったときに、親孝行してくれたのがお兄さんたちだったからです。個人的にはひどいことをしたけれども、親を愛してくれたというその功労の故に、許して愛さなければならないと思ったのです。これがまさに、文先生がキリスト教を見つめる心情なのです。

 二千年前にイエス様が神の子として来られ、十字架で亡くなられました。それから再臨主である文先生がこの地上に来られるまでの二千年間、誰が神を慰め、愛し、仕えてきたのかと言えば、それはクリスチャンたちでした。その功労のゆえに、たとえいまこの地上にいるクリスチャンたちが自分を迫害したとしても、許して愛さざるを得ない、という観点で文先生はキリスト教を見つめておられたのです。ですから私たちもそれと同じ心情でキリスト教を見つめなければならないわけです。

 私たちがキリスト教について学ばなければならないもう一つの理由は、既存のキリスト教が家庭連合を異端視し、原理を批判してくるので、それに対する防備のためです。かつては「反対牧師」と呼ばれるキリスト教の牧師たちが、家庭連合の信徒たちを拉致監禁して脱会させていました。彼らは聖書と『原理講論』との相違点を指摘し、統一原理の内容に対して神学的な批判を行いました。

 実際にはキリスト教の神学や聖書解釈は多岐にわたっており、「反対牧師」の聖書解釈も牧師ごとに異なっていました。ですから、彼らの言っていることは全部同じではなく、その批判同士が互いに矛盾していたりしたのです。しかし、聖書についても既存のキリスト教神学についてもほとんど知識がなければ、批判の内容を相対化することができず、反論することもできないのです。

 現在では家庭連合の信徒が拉致監禁されるというようなことはほとんどなくなりましたが、既存のキリスト教が統一原理を異端視し、神学的批判をしている状況は変わりありません。それに対抗するには、キリスト教の基本的な教義と同時に、その限界についても知っておかなければなりません。すなわち、既存の神学と比べて、統一原理がどのように優れているのかを知ることによって、確信が強くなるわけです。この連載の目的の一つは、そのような確信に至ることにあります。

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