札幌第二次「青春を返せ」裁判の判決を検証する<第4回>


また、地裁判決は、「個人の自由な意思決定を歪めるかたちで行われる伝道活動」が何を意味するのかを明確に示していない。個人の自由な意思決定が歪められているかどうかは、二つの要素によって分析される。一つは、個人の判断能力の問題である。統一教会の信者の自由意思が剥奪ないし減退された状態で伝道されたという主張は、医学的に証明されなければならないが、当時の原告らの心理状態が個人としての正常な判断能力を欠いていたことを医学的に示す証拠は存在しない。原告らは全員が健康な成人であるのだから、伝道された当時に自由な意思決定をなすことができない状況にあったとは言えない。そのような能力を持つ者が下した判断は、基本的に自己責任であるはずである。原告らは、自らが下した判断に対して、自己責任がなかったことを証明する医学的な鑑定結果を示していない。もう一つの要素は、個人が判断を下した時点で、判断に必要な情報が開示されていなかったか、脅しや強要があったかどうかということである。本件訴訟の原告らは、全員が統一教会の信仰を持つことを決意した時点で、すでに教会の教義の概要を学び、教会の名称、創設者の名前等をすべて知らされていたのであり、欺罔によって信仰を持つにいたったということはできない。さらに、信仰を持つ決断をする際に、物理的な拘束や脅迫があったという証拠は存在しない。むしろ、物理的な拘束や脅迫の存在は、信仰を棄てる際に受けた説得の場面であったことが一部の証言に認められる。したがって、本件証拠によるも、原告らが個人の自由な意思決定を歪められて統一教会の信仰を持つにいたったということはできない。

札幌地裁判決は、「第4章 被告の損害賠償責任」において、以下のように述べている:

信仰を得ること、すなわち神秘に帰依するとの選択が上記のようなものである以上、教義や宗教的権威の言葉が間違っていることを言葉により論理的に証明してみせても、人の信仰を揺るがすことができない。(p.241

この前提は、本件証拠と完全に矛盾した内容を述べている。本件訴訟の原告らは、統一教会の信仰を持っていたが、親族による保護説得、あるいはカウンセラーによる説得によって教会を離れた者たちである。彼らはまさに、「教義や宗教的権威の言葉が間違っていることを論理的に証明」してみせられた結果、信仰を揺るがされただけでなく、実際に信仰を棄て、教会を脱会し、教会に対して損害賠償を請求する訴訟まで起こしているのである。すなわち、一神教の信仰であるかないか、神秘主義であるかないかに関わりなく、人の信仰を説得によって揺るがしたり、その信仰を棄てさせたりすることが可能であることは、本件証拠が示している通りである。このことは、教義を学んでいる過程、信仰を持っている期間、そして信仰を棄てる決断をする過程のすべてにおいて、物理的な拘束下における強要・脅迫がない限りにおいては、人は自らの自由意思に基づき、論理的に思考して判断していることを示している。

もし、地裁判決が述べるように、一神教の信仰が神秘に帰依するものであり、その信仰を論理的な言葉によって揺るがすことができないのであれば、本件訴訟の原告は教会を離れなかったはずである。しかし、事実はそれと全く異なっている。実際に、教義を学んでいる過程で多くの者が信じられないという判断をして去っていくし、信仰を持っている者が自らの意思で信仰を棄て、教会を離れるケースも多数存在する。一つの宗教を信じるのが自由である一方で、その信仰を批判するのも自由であり、その批判を受け入れるか入れないかも個人の自由であり、その自由は統一教会の信仰においても完全に保証されている。むしろ、その自由を侵害しているのは、信者を物理的に拘束して信仰を棄てさせるために説得する、親族や強制改宗屋の行為である。地裁判決は、統一教会の信仰を持った者には十分に離脱の自由があったにもかかわらず、それを不当な隷属と決めつけて損害賠償の根拠とするために、現実を無視し、自由意思による離脱が不可能であったかのように、信仰による拘束力を不当に過大評価していると言える。

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