札幌地裁判決は、「第4章 被告の損害賠償責任」において、以下のように述べている:
ビデオセンターでは、旧約聖書を題材にした講義ビデオや霊界に関する講義ビデオにより、人間が原罪を受け継ぎ堕落した罪深い存在となったことが歴史的事実として説明され、また霊界というものが実在し、先祖の犯した罪が因縁となって現世に生きる子孫に悪影響を及ぼしていることが事実として説明される。原罪や霊界・因縁などは神秘に属する事柄であり、宗教教義の説明であるはずなのに、事実として原告らに提示されるのである。(p.244)
そもそも、旧約聖書の記述に基づき、人間が原罪を受け継ぎ堕落した罪深い存在となったことを「歴史的事実」として信じ、そのように説明して伝道活動を行っているキリスト教は多数存在する。いまや米国のキリスト教の多数派を占める「福音主義」や「根本主義」と呼ばれるキリスト教の諸教派は、聖書の記述を文字通りの真理としてとらえ、神の言葉としてその無謬性を信じている。したがって、こうした諸教派のキリスト教の信者や宣教師にとっては、旧約聖書のアダムとエバの物語は単なる神話ではなく歴史的事実であり、原罪や悪魔の存在も文字通りの事実として受け止められている。こうした信仰は現代科学とは相容れないものであると学問的には批判されているものの、こうしたことを信じることや宣べ伝えること自体は信教の自由として完全に保障されているのであり、国家がそれを違法性の根拠とすることはできない。その意味において、地裁判決は政教分離の原則を逸脱した憲法違反の判決である。
また、旧約聖書がキリスト教の経典の一部であることは日本人にとっても常識であり、原罪がキリスト教の教義であることも、一般教養の範疇に入る。また、霊界、先祖の因縁などの概念も、仏教や多くの新宗教で説かれている内容であると同時に、占いやテレビ番組で放映されるスピリチュアルなメッセージにおいても一般的に語られている内容である。そうした目に見えない世界を信じるかどうかは、あくまで個人の判断であることは常識的に理解可能である。テレビ番組で占いやスピリチュアルなテーマを扱う際も、それが特定宗教の教えであるとか、事実ではないので信じないでくださいなどと説明がなされることはない。だからと言って、それが神秘と事実を混同させ、視聴者を欺罔したとして非難され、損害賠償が認められることはない。成人した者であれば、信じるか信じないかはあくまで自己責任であるからである。こうした目に見えない世界を信じる人にとっては、それはまさに事実であり、宗教の教義と事実は一体である。しかし、信じない人にとっては、それは一つの宗教の考え方にすぎず、事実そのものではない。
したがって、信じる者にとっては、宗教の教義と事実は一体であり、それを分けて説明しなければならないということ自体が、宗教に対する無理解に基づいている。キリスト教の牧師は路傍で伝道するときに、「キリストによってあなたの罪は許されます。しかし、これはあくまでキリスト教の教義に過ぎず、事実ではありません。それでも良ければ信じてください」と言わなければならないのであろうか? 仏教の僧侶が葬儀の場で読経するときに、「故人が極楽に往生できるように、読経をさせていただきます。しかし、私が読経すれば実際に個人の魂が極楽に行くという事実を言っているのではなく、あくまで宗教的な教義の説明に過ぎません。それでも良ければ、お布施をお願いします」と言わなければならないのであろうか? こうした説明を要求すること自体が、宗教に対する冒涜である。地裁判決は、そうした不当な要求を、統一教会の伝道方法に対して要求していると言える。