札幌第二次「青春を返せ」裁判の判決を検証する<第11回>


札幌地裁判決は、「第4章 被告の損害賠償責任」において、以下のように述べている:

伝道活動についてみると、信仰を受け入れさせるという宗教の伝道活動は、まず第一に、神の教えであること(教えの宗教性あるいは神秘性)を明らかにした上で相手方に信仰を得させようとするものでなければならないとすべきである。神秘と事実を混同した状態で信仰を得させることは、神秘に帰依するという認識なしに信仰を得させ、自由な意思決定に基づかない隷属を招くおそれがあるため、不正な伝道活動であるといわなければならない。

次に、入信後に特異な宗教的実践が求められる場合、その宗教の伝道活動においては、入信後の宗教的実践内容がどのようなものとなるのかを知らせるものでなければならないとすべきである。信仰を得させた後で初めて特異な宗教的実践を要求することは、結局、自由な意思決定に基づかない隷属を強いるおそれがあるため、不正な伝道活動であるといわなければならない。(p.257

地裁判決は、基本的に宣教者が伝道対象者から「情報開示後の同意」を取ることを要求しているが、こうした要求は宗教活動に対する過度の干渉になる。

米国版の「青春を返せ」裁判と言える「モルコ・リール対統一教会」の民事訴訟において、米国キリスト教協議会(NCC)がカリフォルニア州最高裁判所に提出した法廷助言書は、宗教的教化の過程における情報開示の問題に関して、以下のように述べている。

統一教会の宣教プログラムの全体を見ると、法廷の介入を正当化すると思われる献金や決定を上訴人たちがした時より、ずっと前に、統一教会であることを明らかにしている。前述したように、時間をかけて個人を宗教に勧誘するプロセスでは、最初の出会いで、教会に関するすべてのことを、その個人には知らされないかもしれない。ある人は入教決定の意味をすぐに理解できるかもしれないが、それをすぐ理解するのが難しい人々もいる。そのような人々は、もっとゆっくりと十分な説明を受けねばならない(リトル前掲書40~41頁参照、およびパッカー『宣教と神の主権』1961年81頁、グラハム『キリストを伝播する道順』1985年参照)。本件では上訴人たちが、ブーンビルとキャンプKでの最初の期間(参加したグループが統一教会とは知らなかったと彼らが申し立てている期間)に、憲法修正第一条で保護されている宣教のためのコミュニケーションの自由に国が制限を加えることを正当化するような損傷を受けたという証拠は全くない。

これは「キャントウェル」判決文で想像されている戸別訪問の、つかの間の出会いでの募金活動で身分を偽った状況とは完全に異なるものである。法廷に示された事実によれば、統一教会の名前は上訴人たちが入会するずっと以前に明らかにされており、上訴人たちが経済的あるいは、その他の決意をするはるか以前に明らかにされていた。この事実によって、被告(統一教会)の活動は憲法修正第一条が絶対的に保護する宗教行為の枠内に、はっきりと存在するものと見なされる。

上訴人たちが統一教会入会を選択したのは、いかなる「詐欺」とも無関係な理由によるものであり、現在その決定を悔いて、すべての教会を脅かす憲法違反の宗教規制をとおして、自分たちの行動の責任逃れをしようとしている

下級裁判所は、略式命令で正しく述べているように、上訴人たちの申し立ての本質を正しく理解したと、法廷助言者たちは信じる。上訴人たちは、詐欺的と申し立てられている入会説明の内容に立証を依存していない。なぜなら事実、上訴人たち一人ひとりが統一教会に入会したのは、教会自身の本当の名前を知らせなかったとか、文鮮明師との関係を明らかにしなかったなどということには全く無関係な個人的理由によるものだからである。もし法廷が、こうした詐欺の申し立てを認めるとするならば、入会を後悔する人は誰でも、入会の実際の動機とは関係なく、教会員であった当時の数カ月または数年間のすべての話の内容を詮索して「詐欺的」な話の内容を拾い上げ、損害賠償を請求する可能性がある点を、法廷助言者たちは真剣に危惧するものである。入会動機は複雑であり、個人的なものである。上訴人たちの「詐欺」の訴えは、宣教師が「改宗させる意図」を明確に被伝道者に伝え、被伝道者から「情報開示後の同意」を取りつける義務を求めるものであり、これは憲法に違反して、宗教の規制を計り、成人の入教者が自分の決定に責任逃れすることを可能にしようとするものである。

上訴人たちの詐欺申し立ての要点は、統一教会員たちとの数えきれないほど多くの会話の中で、モルコに対して一件、リールに対して三件の虚偽の声明があり、それによって詐欺的に上訴人たちは入会に誘われたというものである。訓練を受けていない未経験な一人の宣教師が使った無分別で、度の過ぎた言葉に対して、宣教を推進している組織に責任が及ぶかどうか、という初歩的問題はさておいて、法廷助言者たちは宣教における虚偽を容認しないし、また法廷がそのような宣教における虚偽を是認するよう求めようとはしていない。しかし、その問題については、この裁判で提示されてはいない。法廷が求められているのは、入教の決定、複雑でかつまた個人的な決定について評価をすることである。下級裁判所が判定したように、上訴人たちは問題の声明に訴訟を単純に依存しなかったのであり、申し立てられている詐欺と入教決定との関連性が全く欠けているので、宣教詐欺を主張することはできない。この分野においては、法廷は特に注意深く、正確でなければならない。即ち、法廷は離教者の元の教会に対する不満と、詐欺を証明する正当な根拠とを分離せねばならない。

実際には、下級裁判所が判決したように、上訴人たちが統一教会に入ったのは詐欺にかかったからではなく、大昔から回心の動機となってきた「兄弟のような愛」の感情(モルコ陳述書Ⅰ)や、特別な生活共同体に入る「喜び」(リール陳述書Ⅱ)などの理由によるものだった。もし上訴人たちが、そうした統一教会の教えを最初に受け入れた現実を今になって書き改めることができるとするならば、いかなる信仰への回心も、その回心が当初どのような動機によるものであったとしても、その教会を訴訟の対象にしてしまうであろう。

上訴人たちの詐欺の申し立ての他の議論もまた同様に、宣教に脅威を与え憲法に反するものである。上訴人たちは、教会名や回心をさせようとする意図を明らかにしない場合、損害賠償を請求できる、との主張をする。そのような開示規則の非常にあいまいな性質は別にして、これは宣教におけるスピーチの性格と目的について基本的に誤解している。そうした規則が提供するかもしれない「保護」は、憲法が定めた国家と教会の分離の壁が崩れたあとでしか通用しない。「我が国の社会における宗教の地位は高いものであり、その地位は家庭、教会、そして誰も侵入できない個人の心情の砦を信頼する長い歴史的伝統を通して築かれてきた。われわれは苦い経験から、政府が、その目的や結果が反対、賛成、あるいは促進、抑制にかかわらず、その砦に侵入することはできない、と認識するようになった」(「アビントン学校区」対「シェップ」判決1963年)。

祈祷から伝道に至る各種の宗教行為は、信仰そのものを表明したものである。もし国家が宗教的対話をする宣教師の信仰を開示規則で詮索するようなことになれば、政府と宗教のお互いによる浸透であり、これは双方の価値を引き下げるものである。

同様に、上訴人たちの主張する、宣教者が伝道対象者から「情報開示後の同意」を取るという神学的「ミランダ警告」も欠陥がある。宗教団体は入会させる前に回心のすべての考えうる結果と、その影響について開示しなければならないという主張は、最初リチャード・デルガドによって提案された(デルガド『宗教的独裁主義』1977年)が、今まで正当な理由によりどの法廷もそれを支持してこなかった。その最初の理由として、無数にある市民団体が参加する中で、教会だけを取り出して適用していること、国家の規制下で教会の「欠陥」や「悪影響」を開示することを、教会に要求することは承認できないということである。結婚しようとする男女は結婚許可証を受け取る前に、お互いの最悪な欠点を述べ合うことを要求されているだろうか。弁護士事務所の雇用担当者は法学部卒業生に対して面接時、雇用契約の前に弁護士事務所の欠陥や問題点を述べるよう義務づけられているだろうか。海兵隊の志願者募集で、担当官は訓練キャンプの最悪の悲惨さと、軍隊生活の危険性のすべてを分類して入隊前の志願者に話すよう求められているだろうか。

宗教に対して差別するそうした考えは、憲法で保障された価値を驚くほど無視するものだが、それは別にしても、上訴人たちは真剣な宣教師と伝道対象者の間の会話について法廷に誤解させる可能性がある。十分な準備なしでは事実上、理解できないかもしれない宗教的理念を聞いても、その伝道対象者には何の役に立つことがあろうか。代数についてよく理解したあとでなければ微積分は理解することができない。救済の旅を行く者は最初は第一歩から始めなければならない。個人個人にとってその旅は特別で独特のものである。宣教師はそのガイドとして伝道対象者に合わせて変えなければならない。パウロが言うように「兄弟たちよ。わたしはあなたがたには、霊の人に対するように話すことができず、……キリストにある幼な子に話すように話した。あなたがたに乳を飲ませて、堅い食物は与えなかった。食べる力が、まだあなたがたになかったからである。今になってもその力がない。あなたがたはまだ、肉の人だからである」(コリント人への第一の手紙三章1~3節)。(以上、引用終わり)

モルコ、リール対統一教会の事例と同様に、本件訴訟の原告たちは、信仰を受け入れる時点では、既に統一教会であることを明かされていたのであるから、十分な情報を提供されていたと言える。さらに、さまざまな実践活動をする前に、その活動内容と意義と価値に関する説明を受け、自由意思に基づいて納得の上で判断をしていたのである。事実、信仰を持った後でも特定の実践活動を断ることは可能である。にもかかわらず、それらを受け入れて実践したということは、自由な意思判断を歪めたと言うことはできない。

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