札幌地裁判決は、「第4章 被告の損害賠償責任」において、以下のように述べている:
信仰を得るかどうかは情緒的な決定であるから、ここでいう自由な意思決定とは、健全な情緒形成が可能な状態でされる自由な意思決定であるということができる。したがって、宗教の伝道・教化活動は、自由な意思決定を歪めないで、信仰を受け入れるという選択、あるいは、信仰を持ち続けるという選択をさせるものでなければならない。(p.256-7)
宗教的回心における情緒的な危機や高揚状態は、古来より認められる一般的な現象であって、それを「健全な情緒形成が可能な状態」でなければ違法であるとなどと、法廷が一方的に規定すれば、伝統的に認められている信教の自由を大きく制限することになる。
米国版の「青春を返せ」裁判と言える「モルコ・リール対統一教会」の民事訴訟において、米国キリスト教協議会(NCC)がカリフォルニア州最高裁判所に提出した法廷助言書は、回心における情緒的な危機に関して、以下のように述べている。
Ⅱ.宗教的回心の心情的藤、構造的体験は歴史上認められ、聖書にも記載があり、すべての宗教に共通する。上訴人たちは回心を心理学的病理と規定して説明しようとするが、法廷では受け入れられない
上訴人たちは統一教会への以前の自分たちの回心に対し、その「有効性」を攻撃している離教者である。リール、モルコ、ドールは統一教会に入会することを知ったあとで入会し、数カ月の間会員であり、強制的に誘拐され、暴力改宗を受けるまでは教会を去ることを拒否していた。しかし、彼らは自分たちの宗教的回心は「洗脳」の結果であり「無効」である、と今になって主張している。
宣教と回心は多くの宗教の生命力の中心となるものである。上訴人たちの申し立てが及ぼす脅威の深刻さについては誇張しすぎることができない。申し立てにある「真実でない」回心という主張はあらゆる宗教の宣教活動を危うくするものである。上訴人たちはある人が信仰を本当に自分で受け入れたのか、それとも何らかの形で「圧力」をかけられて入信させられたのかを、法廷が以前にさかのぼって決定するよう仕向けている。
法廷がそのような誘いを受け入れ、回心の有効性を判定するためにシンガー、ベンソン両博士の声明、あるいはその他の証拠に頼るならば、上訴人たちは、本来民事法廷で真実か虚偽かを決定する対象にならないような宗教的経験について、この法廷にその真実性、虚偽性を決定させるよう仕向けるのに成功したことになる(「米国」対「バラード」判決1944年)。
A.回心の性質
これまでに認められてきた宗教的回心の性質は、上訴人たちの主張が間違っていることを示している。「回心はクリスチャン生活の土台となるべき経験である」(ハニガン『回心とクリスチャン倫理』)。「回心の過程で求められているものは死と再生であり、暗やみに背を向けて光に向かって歩き始めることであり、古い自分を捨てて、新しい自分になることである」(同書)。
ジョナサン・エドワーズは、新生していない罪人は「荒野に出されなければならない」、と考えたし、牧師として信徒たちを心理的危機に追い込むのがその責任と感じていた。その心理的危機を通過して罪人はそれまでの罪の生活を悔い改め、信仰を受け入れることができるのである(ウイリアムズ『馬、鳩、回心の治療』)。
回心の過程は通常、信仰の危機を伴う(ジョンソン、マロニー『クリスチャンの回心』)。その結果、回心の過程の中にいる個人は忠誠心が分断され、人生に対する不満足を感じ、主体的緊張感と共に何かが欠乏しているという感覚を味わうのである(同書)。そして回心者の情的な混乱と苦痛の中から回心者が喜ぶことのできる「人生の新しい方向」が徐々に出現する。それはまたウイリアム・ジェームズが古典的名作『宗教的経験の多様性』で説明しているように、突然性のものであるかもしれない。回心はこうしたものの一つとして表現できるであろう。
「パウロに代表されるように、瞬間的に起こるものでもあり、またしばしば大きな情的興奮と感覚の動揺の中に、まばたきする間に古い人生と新しい人生の間の明確な境界ができる。こうした回心は宗教的経験の中の重要な段階である。新教神学の中でも回心は重視され、われわれも回心の話を良心的に研究する義務をもっている」(ジェームズ『宗教的経験の多様性』)。
シンガー博士のいう「強制的説得の六段階」は本当の回心と「情的挫折」を区別できるとする「専門家」理論の一番詳細な説明である。実際、シンガー博士の理論は、そうした区別ができるという他の理論と同様、ニセ科学の分野に含まれるもので、全部でないとしても多くの宗教的回心を無効にし、米国の多くの教会の信仰や宗教行為に「不当」の烙印を押すものである。
法廷助言者たちはシンガー博士の理論を段階を追って以下に検討し、それが心理学原理を曲解しただけではなく、宗教的経験の恐ろしい誤解であることを明らかにするものである。上訴人たちの「専門家」理論が法廷に提供できる真実の回心経験についての証拠や結論は、全く偏見と感情的偏向のみに基づくものである。(以上、引用終わり)
第一審の原告らは、統一教会信者の伝道活動によって不安に陥れられたと主張しているが、回心の際に不安を伴うのは多くの宗教に共通した現象である。宗教心理学の草分け的存在であるウィリアム・ジェイムズは、『宗教的経験の諸相』において、回心、神秘主義、聖者性などの宗教現象を経験科学的に扱っているが、彼がその中で展開している理論に「健全な心」と「病める魂」という二つの性格類型論がある。それらはそれぞれ次のような特徴をもっているという。
「健全な心」の持ち主とは、日々の生活において常に充足感と喜びが優位に働いており、いつも神の実在による幸福感に浸っているタイプである。そして不幸を感じることを断固として拒み、人生は善であるという感じに情熱的に身を委ねている。彼らは世界の暗い面や自分の不完全性に思い悩むことがほとんどない楽観主義者である。他方、「病める魂」をもつ人間は、生まれながらにして悪の存在に悩まされるような宿命をもった人々である。世界や自己の悪い面ばかりが彼らにはきわめて切実に感じられ、悪と向き合ってこそ人生の真実があらわになったと思うタイプであるという。
ここで重要なのは、ジェイムズが宗教的回心を体験する者の典型が「病める魂」の持ち主であると主張していることである。つまり、悪に取りつかれた末に魂の死を体験した者こそ、救われて新たな生に甦るという体験をもつことができる、と述べているのである。悪や苦難を必然的なものと認めた上で、それらを含んだトータルな生を受け入れるようになるのが典型的な回心である。したがって「病める魂」は「二度生まれ型」とも呼ぶことができる。他方、このような魂の「死と再生」の体験を経ることなく、すなおに神や根源的存在の恵みを信じているのが「一度生まれ型」、すなわち「健全な心」であるという。
ジェイムズの考えでは、「一度生まれ型」の精神は世界の矛盾に拘泥しない自然人的な態度を表している。これに対して「二度生まれ型」の精神は古代的な自然主義の段階から一歩先に進んだものであり、救済宗教の段階に対応しているのだという。つまりジェイムズの言う「病める魂」は、宗教的回心を体験するためには必要不可欠な心性であり、特に魂の救済を説く宗教においては絶対的に必要なものなのである。ここには宗教的回心の本質に迫る慧眼がある。統一原理を聞いて回心を体験する場合も、同様にさまざまな不安や葛藤を経験することになる。それは過去の人生を清算し、新しい人生を出発するための生みの苦しみなのである。このような宗教的感情を「不安に陥れられた」とか「脅された」と主張するならば、宗教的回心のすべては不法行為によるものであるということになってしまう。