第三章 恣意的な独りよがりの循環論法


第一章においては、スティーヴン・ハッサン氏がマインド・コントロールを基本的に悪いものであると考えていることを紹介しました。これは、彼も米国憲法修正第一条によって国民の宗教の自由が保障されていることは知っているために、自分はそれを尊重しており、特定の信仰に対して反対するものではないのだと主張したいためです。そこで彼はある宗教の「信仰内容」と「伝道方法」とを別々に分け、後者をマインド・コントロールと呼んで批判するという論法を取っているのです。しかし、この「伝道方法」としてのマインド・コントロールの存在が科学的に実証できないものであることは、すでに第一章で明らかにしたとおりです。

恣意的な定義の限定

 

ところで、『マインド・コントロールの恐怖』をよく読んでみると、彼は別の所ではマインド・コントロール自体は善でも悪でもなく、問題はその使い方であると主張しているのが発見されます。以下にその箇所を引用しますが、これはマインド・コントロールの手法がもともとは心理学から来ていると主張しているためで、それ自体を悪なるものとして否定することはできないからでしょう。

 

マインド・コントロールの技術を用いることは、それ自体悪ではない。どんな技術でもそうだが、それは有益にも破壊的にも使える。人々を力づけるためにも、奴隷化するためにも使える。(『マインド・コントロールの恐怖』342頁)

 

この本では、マインド・コントロールの悪用について述べることになる。マインド・コントロールの技術が、すべてそれ自体として悪であり非倫理的であるのではない。重要なのはその使いかたである。(同書27頁)

 

了解にもとづく同意(インフォームド・コンセント)なしにマインド・コントロールを用いて、だれかの信念体系を変革し、その人を自己以外の権威ある人物に依存するようにしてしまうとしたら、その結果は破壊的なものとなる。(同書88頁)

 

 

以上挙げた箇所においては、マインド・コントロール自体は善でも悪でもないのだから、それを使う主体が問題なのだという点に議論がシフトしていることが分かると思います。

 

それではマインド・コントロールを使ったときに結果が悪となるような主体とは何かというと、それは彼が「破壊的カルト」と呼ぶものなのです。このように彼はマインド・コントロールという言葉の意味を「破壊的カルトが行っているもの」に限定して再定義しているのです。

 

 

破壊的カルトが行なっているマインド・コントロールは、ひとつの集団的な過程であり、しばしば、おおぜいのグループがその過程にかかわって、そのコントロールを強化する役割を果たしている。マインド・コントロールは、ある人をひとつの集団的環境へ浸すことで達成されるのであり、その人は、その環境でやっていくためには、自分の古い人格を脱ぎ捨てて、そのグループが期待する新しい人格を身につけなければならない。以前の自分の人格を思い出させるような現実――彼の古い自意識を認めるようなもの――はすべて排除され、それはグループの現実と置き換えられる。(『マインド・コントロールの恐怖』105-106頁)

 

 

要するにここでは、マインド・コントールとは人が破壊的カルトに順応していく過程であると説明しているのです。

 

それでは、彼が破壊的カルトと呼ぶ集団はいかにして定義されるのかといえば、それは先に述べたように、マインド・コントロールを行っている集団であるということになります。ここまで来ると、彼はトートロジー(同語反復)に陥っていることが分かります。すなわちマインド・コントロールが破壊的カルトを定義し、破壊的カルトがマインド・コントロールを定義するという循環論法に陥っているのです。

 

端的に言えば、彼はマインド・コントロールとは破壊的カルトが行っている手法であり、破壊的カルトとはマインド・コントロールを行っている団体であると言っているに過ぎません。

 

一つの概念を定義するときに用いる言葉は、それによって定義される言葉とは独立した意味をもっていなければ、それは定義として成立しないというのが論理展開の原則であるにもかかわらず、彼はこれを完全に無視しているのです。もし彼がこれに気づいていないとすれば定義の基本原則も知らないということでしょうが、もし知っていてやっているとなれば、成立しない概念をもっともらしく説明するために巧みに循環論法を使って読者を欺こうとしているということになります。

 

 

「マインド・コントロール」理論のダブル・スタンダード

 

マインド・コントロールが真に価値中立的な科学的概念であるためには、どんな人物や集団が行っていたとしても普遍的にそうであると判定可能なものでなければなりません。しかし彼の言うマインド・コントロールとは、彼が「破壊的カルト」と呼んで敵対するグループが用いる説得術にのみ適応されるのです。そして彼が「破壊的カルト」から信者を脱会させるときには、彼自身がマインド・コントロールと同じ手法を使っても、そう呼ばれないのです。

 

 

はじめてカルトメンバーの問題に気づいたときには、本人がカルトに入っているとは知らないかのようにふるまってみる。手をつけてはいけない。こちらがカルトに反対の人々や情報に触れていると、本人に気づかせてはいけない。でないと信頼感が崩れてしまう。(『マインド・コントロールの恐怖』259頁)

 

両親はジョージを祖母の家へ連れていくために嘘をついたと彼が文句を言ったとき、両親はたくさん詫びた。私はジョージに、両親の立場に立ってみて、ほかにどんな有効な行動がとれたか教えてほしいと言った。彼も、何も考えられなかった。もし事前になんらかの警告を受けていたら、自分はまっすぐ先輩のところへ行き、先輩たちは行かないようにさせただろうということは、ジョージにもわかっていた。(同書219頁)

 

 

このようにハッサン氏は、脱会のためのカウンセリングをしようとしていることが、もし「事前に分かっていたら、本人自身が反発しただろうと思われる(ハッサン氏自身のマインド・コントロールの定義の一部)」ために、自分のことを相手に知らせずに介入するがいいと言っているのです。これは明らかに彼がマインド・コントロールと呼んでいるものと同じ手法です。さらに彼は「ひそかな介入」という名の嘘を奨励し、また実践しています。

 

 

ひそかな介入とは、うまく成しとげるのがいちばん難しい方法である。それは、自分の信仰を見直すよう家族が手助けをしようとしているんだと本人に気づかせないまま、家族が本人にカウンセリングをしようとする試みである。私が本人と会う口実を見つけ、しかもかなりうまくやれるだけの時間を確保できるかどうかは、かなり微妙な問題である。(『マインド・コントロールの恐怖』225頁)

 

 

そして実際彼は、ジョンソン一家が娘のナンシーを「世界兄弟団」と呼ばれる教団から脱会させるときに、ナンシーの兄であるニールに嘘をつかせています。ナンシーが教団の仲間であるクレアとともにスーパーに買い物に来ていたとき、家族はナンシーに接触しますが、少し離れた生鮮食品のところで買い物をしていたクレアに断ってから家族について行きたいとナンシーが言ったとき、ニールは「いいそうだよ」とあたかもクレアにきちんと報告してきたかのような「つくりごと」を言ったのです(『マインド・コントロールの恐怖』243頁)。

 

このように嘘をつくことは彼自身の「『目的は手段を正当化する』というこの理屈を買ってはいけない。まっとうな組織なら、人々を助けるために嘘をつく必要などないのである」(同書200頁)という言葉と明らかに矛盾しています。もっともこのことは、彼自身が「ひそかな介入には嘘が含まれており、それはカルトがしていることだと非難している立場なので、私としては心地よくない」(同書225頁)と正直に告白しているのです。それでも敢えて嘘をついてまで人をカルトから脱会させようと試みるということは、彼こそは「目的は手段を正当化する」という理屈を信じていることになるのです。

 

一応スティーヴン・ハッサン氏自身は、強制的な拉致や監禁を伴う「脱洗脳」は法的なリスクがあるうえに、しばしば情緒的な傷害を残すことがあるので好ましくないと思っているようです(『マインド・コントロールの恐怖』205-208頁)。しかしひそかに介入したり、嘘をついたりするというマインド・コントロールのテクニックは使ってもいいと言っています。すなわち「脱洗脳」は一種の「洗脳」であるから、カルトのマインド・コントロールから解放するために「洗脳」をするのは良く、マインド・コントロールを解くためのマインド・コントロールは許されるというわけです。

 

彼は洗脳とマインド・コントロールの違いを次のように表現しています。

 

 

マインド・コントロールは洗脳ではない。……洗脳とは、強制的なものの典型である。(『マインド・コントロールの恐怖』107頁)

 

マインド・コントロールは、露骨な物理的虐待は、ほとんど、あるいはまったくともなわない。そのかわり催眠作用が、グループ・ダイナミックス(集団力学)と結合して、強力な教え込み効果をつくりだす。本人は直接おどされるのではないが、だまされ、操作されて、決められたとおりの選択をしてしまう。だいたいは、自分に対して行なわれたことへ積極的に応答してしまう。(同書109頁)

 

 

彼は「強制的な」脱洗脳は問題だが、より「洗練された方法」であり、物理的な強制を伴わない「救出カウンセリング」は法的なリスクがないから素晴らしいのだと主張します。しかし、そうだとすれば同時に物理的な強制を伴わない「洗練された方法」であるマインド・コントロールも、やはり合法的なものだということになるのです。

 

しかし彼は自分がやっている「救出カウンセリング」は、破壊的カルトに入会させるためのものではないから、それはマインド・コントロールとは呼ばず、したがって合法的だと主張することでしょう。そして彼が破壊的カルトと呼ぶ集団が「救出カウンセリング」と同じ手段を使って人々を勧誘すれば、それはマインド・コントロールだから違法だと主張するのです。

 

 

つまるところ、「破壊的カルト」とか「マインド・コントロール」という言葉は極めて恣意的に使われているといわざるを得ません。それは自分が受け入れられない宗教団体を形容するために利用される「レッテル」なのです。この二つの言葉が循環論法によって互いに定義し合っているのは、どちらも客観的に判定可能な概念ではなく、特定の宗教に反対しようというイデオロギー的概念にほかならないことを如実に物語っています。

 

そもそも、マインド・コントロールによる信仰の強制と、自発的な信仰の獲得とを区別することなどできないのです。大抵の場合は、ある人が信仰への目覚めをきっかけに人間が変化し、それまでの人生を否定したり、周囲の価値観と対立するようになった結果を見て、これは通常では理解できない強力な力によって変えさせられたのに違いないという憶測が生まれ、それが「洗脳」や「マインド・コントロール」という科学的な響きをもった神話を作り出したのにすぎません。そして実際にその人を変えてしまった恐ろしい力とは、われわれが古来「信仰」「信念」「イデオロギー」などの言葉で呼んできたものと何ら変わりがないのです。

 

第四章 CAN(カルト警戒網)とスティーヴン・ハッサン氏の正体

 

 

 

 

 

CAN(カルト警戒網)

 

これまで、スティーヴン・ハッサン氏やマーガレット・シンガー博士が新宗教運動を非難する時に用いる「マインド・コントロール」という概念が、いかに科学的根拠のない恣意的なものに過ぎないものであるかを立証してきました。

 

しかし、もし彼らがそのような間違った主張を口で述べているだけならば、それはさほど問題ではないのかもしれません。実はもっと重要な問題は、反カルト運動の活動家たちがその信念に従って新宗教運動の信者を改宗させるために積極的な働きかけをなし、それがしばしば破壊的な成果をもたらしているということなのです。

 

最近日本においては、オウム真理教による信者への誘拐や拉致・監禁が問題となっています。彼らが脱会を希望する信者に対して薬物を投与したり、独房や手錠などを使って身体の自由を拘束したのが事実とするならば、これは許され難い犯罪ですが、これと全く同じような犯罪行為が反宗教的な立場でもなされてきたことは、これまでほとんど認識されてきませんでした。

 

これを行ってきたのは、「カルト教団にマインド・コントロールされた信者を救出するため」と称して拉致・監禁事件を頻繁に起こしてきたCAN(Cult Awareness Network=カルト警戒網)と呼ばれる組織であり、それは米国の「反宗教運動」の中でも特に強力な組織といわれています。

 

CANの任務は、さまざまな宗教運動についての正確な情報およびカウンセリングを社会に提供することであるとしているにもかかわらず、実際上の活動はしばしばそれとは全く正反対の影響を及ぼしてきました。彼らはあからさまな誘拐や、被害者の意思に反しての「拉致・監禁」を行ったために、無数の逮捕、検挙、裁判起訴、禁固刑に至っているのです。この章においてはCANが出現した社会的背景と、その具体的活動の実態について明らかにしていきましょう。

 

米国は宗教的多元主義の社会であり、信教の自由と政教分離制度が最も確立した近代社会であるといわれますが、すべての宗教団体、宗教運動が全くの自由を享受し、平等に扱われているわけではありません。逆に多民族国家、文化的多元主義であればあるほど、社会的統合のための文化的・宗教的規範が必要とされ、それが一種の宗教的ナショナリズムとなって、その規範に対抗するような宗教運動に対する統制や迫害を生み出しやすいともいえるのです。

 

米国のナショナリズムの背景には、信仰の自由を求めてイギリスを離れたピューリタンによって建てられた「神の国」であるという「建国神話」が流れています。そして、このようなアメリカ・プロテスタンティズムの伝統に合致しない宗教は、さまざまな圧迫を受けてきた歴史があるのです。特に一九六〇年代後半から米国の若者たちを魅了し始めた新宗教運動は、カウンター・カルチャー(対抗文化)運動とも呼ばれ、既成の伝統的キリスト教に対して挑戦的な内容をもっていたために、激しい社会的リアクションを引き起こしました。

 

その中でも、神の子供たち(現在は「ファミリー」)、統一教会、国際クリシュナ意識協会、サイエントロジー、NSA(米国の創価学会)などの運動は、「カルト」というレッテルを張られ、組織的な反対を受けてきました。反カルト運動は次のような構成要素から成っています。

 

子供が新宗教に入ってしまった家族の親・兄弟、および元会員

 

既存の伝統教団(特にすべての伝道活動に反対している多くのユダヤ教教団)

 

ディプログラマー(逆プログラム=強制的手段によって改宗や棄教を強要する職業的な脱会屋)

 

新宗教への回心を「洗脳」、「マインド・コントロール」、「強制的説得」などの用語で規定し、ディプログラミング(逆プログラム)の必要性と有効性を科学的に証明していると主張する心理学者たち

 

ジャーナリズム、マスコミ

 

などです。

 

最初の反カルト組織は、一九七二年にカリフォルニア州サンディエゴで設立されたFREE-COG(神の子供たちを自由に)で、このグループはカルトのメンバーは洗脳されていると訴え、新宗教運動に参加している家族を動員して、カルトの害悪についての噂を宣伝して回りました。その後一九七四年ころから、極めて多数の反カルト組織が全米に出現するようになりました。有名なものには、コロラド州デンバーの市民自由財団(Citizens Freedom Foundation)があり、一九七〇年代半ばから後半にかけ、全米五十州のほとんどにおいて支部が結成されました。これが現在のCAN(カルト警戒網)の前身に当たるものです。

 

 

「CANの父」テッド・パトリック氏について

 

市民自由財団(CFF)は、「ディプログラミング(強制改宗)の父」と呼ばれるテッド・パトリック氏によって一九七四年に組織されました。ディプログラミングとは、宗教グループのメンバーを誘拐して彼らの意思に反して監禁し、彼らがその信仰を捨てるまで長い感情的・心理的圧迫を加えることを意味します。

 

実はこのディプログラミングの創設者といわれるパトリック氏は、大変な犯罪歴をもつ人物です。一九七四年六月に、彼はコロラド州デンバーにおいて不法監禁罪で一年間の禁固刑を言い渡されますが、七日間の拘束の後、保護観察(執行猶予)が認められ釈放されています。

 

一九七五年に彼はカトリック教徒の女性をディプログラミングしようとして失敗し、その結果、彼は公式保護観察期間中であったためにカナダ入国を差し止められています。同年六月、カリフォルニア州オレンジ郡で再び不法監禁罪で六十日間の禁固刑を言い渡されています。この時に一九七四年の保護観察が取り消され、以前の一年間の禁固刑と、この時言い渡された六十日間の禁固刑とを合わせて服役しています。

 

さらに彼は一九七六年にはコネティカット州ブリッジポートにおいて、ウェンディー・ヘランダーに財政的損害を与えたとして民事訴訟裁判で訴えられ、損害賠償を命じられています。彼はこの女性を八十六日間監禁しましたが、結局彼女の宗教信条を変えることはできなかったのです。そして一九七七年二月に彼は連邦政府プログラムで刑務所から出ている間に、ほかのディプログラミングに関与しようと試みたために強制的に刑務所に送還され、後にコロラド州に送られて、そこで残りの刑期終了まで服役しています。しかし同年八月、カリフォルニア州ビバリーヒルズで再び不法監禁罪で有罪となっています。

 

一九八〇年四月、パトリック氏はカリフォルニア州サンディエゴで誘拐罪、共同謀議罪および不法監禁罪で五年間の保護観察付き禁固刑一年の判決を受けます。そして一九八二年一月にはオハイオ州シンシナティにおいて、婦女暴行、誘拐、拉致および暴行の罪で正式に起訴されており、同年十月にはサンディエゴにおいてディプログラミング未遂に関与していたことにより再び投獄されています。一九八五年五月には、サンディエゴでコカイン所持罪で正式告発され、同年八月からは保護観察期間中の違法行為のゆえに三年間の禁固刑に服役しています。

 

このようなすさまじい経歴をもつパトリック氏によって創設された市民自由財団(CFF)は、その名称を何年か後にCFF/CANと変更し、そしてその後ただのCANに変更され、一九八六年に法人登録されました。CANのリーダーは、あまりにひどい犯罪歴を懸念してか、現在はパトリック氏とCANとのかかわりを否定しようとしていますが、このような暴力性は彼一人に限ったことではなく、CFFあるいはCANと呼ばれる組織の基本的な体質なのです。

 

 

 

「救出カウンセリング」を隠れ蓑とする誘拐、不法監禁

 

 

通常ディプログラミングの過程は、まず被害者を物理的に隔離し、監禁することから始まります。これは誘拐によることがしばしばですが、信者が家族や友人を訪問している時に、ディプログラマーが呼び込まれて起こることも時々あるようです。しかし一九八〇年代に、そのあまりに暴力的な手法に対する批判の声が高まったばかりか、誘拐と不法監禁に対する多数の有罪判決を受けることになったため、CFFも八一年にディプログラミングを支持しないという声明を発表せざるを得なくなりました。そしてCFFはディプログラミングに代わって、カウンセリングによって信者に脱会を勧める「救出カウンセリング」を支持するという発表を行いました。

 

ハッサン氏によれば、「救出カウンセリング」とは強制を伴わない、より洗練された脱出方法であり、「対話」を通して信者に自分の信仰について考え直すように説得することであるとしています(『マインド・コントロールの恐怖』205-209頁)。しかしこれは彼らが態度を改めたというよりは、同じ行為の呼び名を変えたといった方が当たっているようです。米国宗教研究所所長のゴードン・メルトン博士と米国宗教学会宗教社会科学部元会長のロバート・ムーア博士は、その著書『カルト体験』の中で、問題の「対話」と呼ばれているものを次のように指摘しています。

 

 

たいてい、対話は厳しい尋問形式をとり、数人の人々が順番にカルトのメンバーを非難し、質問攻めにし、誘導尋問をし、そして神学および聖書に関する問答に加わらせる。いかなる信仰をもった人であっても、自分の信仰実践に反対するために持ち出されたすべての議論に反撃することのできる人はほとんどいないであろうし、カルトのメンバーのほとんどは、自分のグループの儀式や信念のすべてに関する理論的根拠を理解するほどには十分には教えられていない。孤立させられ、ディプログラマーに囲まれた状態で、その人は、自分の信仰体系に対する知的攻撃を受け、一般的でない行動様式を嘲笑され、グループに入ったために置き去りにしてきた人生の利益の象徴的なものを連続的に示される。ディプログラマーの全行為の最終的成果は、カルトメンバーがディプログラマーの見解を受け入れまいとする抵抗をくじくことである。その行為は肉体的かつ感情的疲労を引き起こし、強い屈辱感と罪悪感とを生じさせる。支配された環境は絶望感をもたらす。グループから引き離されて監禁された個人は独りぼっちである。結局、監禁されたメンバーは疲労によって解決法の提示を受け入れる覚悟をするようになる。それは、ディプログラマーの世界観へ「改宗」することであり、ディプログラマーの目的を受け入れることである。(ゴードン・メルトン、ロバート・ムーア共著『カルト体験』:ニューヨーク、ピルグリム出版、一九八二年、78-79頁)

 

 

さらにCANを含めて他の反カルト運動のグループに属する人間たちがいまだにあからさまな誘拐を伴うディプログラミング(強制改宗)を実践していることから見ても、一九八一年に出された声明が見せかけだけの欺瞞にすぎないことは明らかです。

 

 

強制改宗屋の逮捕

 

最近では一九九一年以来、CANと提携する八人の強制改宗家が、強制改宗にかかわる強要罪や違法監禁を含む犯罪のため逮捕され、起訴または有罪を宣告されました。一九九二年五月にCANに保安顧問として長く勤めたギャラン・ケリー氏がデボラ・ドブコウスキという女性を誘拐しましたが、州道を走っているうちに目的の女性とは違う女性を誘拐したことに気づき、翌早朝ワシントンDCの路上にこの女性を捨て去るという事件が起こっています。このケリー氏は一九九三年に「強制改宗」のために誘拐した罪で、七年以上の連邦刑務所服役を宣告されています。さらにCANの会長を務めていたマイケル・ロコス氏は、八二年に男性売春者を誘惑し、「わいせつ勧誘罪」で有罪になっていたことが暴露されたために、一九九〇年十月にCANの会長を辞任しています。

 

 

強制改宗させられた若者の受けた心の傷

 

最近になって、このようなディプログラミングを受けた若者たちには、さまざまな形で感情面での苦痛が生じていることが発見されました。マーガレット・シンガー博士は、その原因をカルトのメンバーであったためであると主張していますが、最近の研究によれば、それはディプログラミングによって脱会した人間にのみ起こっていることで、数の上ではそれ以上に多い自発的に脱会した人間には見られないことが明らかになったのです。

 

結局カルトの元メンバーたちを苦しめているのは、ディプログラミングによる強い屈辱感と罪悪感といった精神的な外傷(トラウマ)であり、カルトのメンバーであったとかなかったとかとは関係がないという結論が出されたのです(ジェームズ・ルイス、デビッド・ブロムリー『カルト脱会シンドローム』一九八七年、APA、18頁)。

 

このようなCANによる信教の自由および人権に対するあからさまな侵害は、信者を脱会させられた宗教団体のみならず、伝統宗教を含む宗教界全般からの反発、有識者や各種学会の反対を生み出すことになります。バックネル大学の宗教学教授であるラリー・シン博士は、著書『フィラデルフィア尋問者』(一九九二年)の中で、ディプログラミングが「アメリカのカルト恐怖の所産の中で最も破壊的なものである。…CANは、CAN自体が攻撃するどの宗教グループにもまさって、はるかに強く破壊的カルトの様相を呈している」と述べています。

 

 

CANの活動家スティーヴン・ハッサン氏

 

ハッサン氏は自分が強制改宗家であることを否定していますが、彼自身が著書の中で一九七六年ごろ、約一年間「脱洗脳(ディプログラミング)」に携わっていたと言っています。そしてそのうち二例ほどは、「両親または両親が雇った人々が本人を拉致した可能性がある」(『マインド・コントロールの恐怖』67頁)と言っているのです。そして「さいわい、私は一度も訴えられなかった。私の事例の大部分は成功した。しかし私は、強制的な脱洗脳のストレスが楽しくなかった」(同書67頁)と言っています。

 

ハッサン氏が所属する全国的組織であるフォーカス(FOCUS)は、彼の著書の中で「カルト警戒網(CAN)の関連団体である」(『マインド・コントロールの恐怖』323頁)と述べており、彼はCANについて、「『カルト警戒網(CAN)』に連絡をとって、そのグループに関する情報がないかどうか見てみるとよい」(同書204頁)と言って勧めています。さらに他の箇所では「牧師が『カルト警戒網(CAN)』を知っていたため、私の名前と電話番号を手に入れて家族に渡すことができた」(同書242頁)と言っているように、彼とCANの間が何らかのネットワークでつながっていることを自ら認めています。

 

したがってハッサン氏自身が、多くの犯罪行為を行ってきた組織であるCANのための精力的な活動家であることは明らかです。また彼自身がディプログラミングと呼び得る暴力的な改宗活動を行っているという証言もあります。

 

彼は十二人の強制改宗家とともにアーサー・ロゼル氏を監禁し、暴行を加えるなどして棄教を迫りましたが、失敗しています。ロゼル氏が自分が受けた強制改宗の事実を宣誓供述書に書きましたが、ハッサン氏はロゼル氏に手紙を送り、自分が拉致・監禁にかかわったことを否定する嘘の証言をしてくれと依頼しました。しかしロゼル氏はこれを拒否し、逆にハッサン氏が偽証を迫った事実を宣誓供述書で暴露しました。

 

これにより彼が自著『マインド・コントロールの恐怖』の中で紹介している自らの救出カウンセリングの実例は、極めてうまく行ったケースをさらに理想化して描いたものであり、彼が実際に行っている強制脱会活動の実態を正確に反映したものでないことが分かります。

 

 

高額な強制改宗料の実態

 

さらにこのような暴力的な行為のために、ディプログラマーたちは多額のお金を信者の父兄から巻き上げるのです。ハッサン氏自身は著書の中で「救出カウンセラーは、一日二五〇ドルから一〇〇〇ドルの料金を請求する。救出カウンセラーを手伝う元メンバーは、平均一〇〇ドルから三〇〇ドルを受け取る。ふつう、旅費や宿泊費のような費用はみな別である」と述べています(『マインド・コントロールの恐怖』258頁)。

 

ディプログラマーの父といわれるテッド・パトリック氏は一件あたり一万ドルの改宗料を請求したそうですが、ハッサン氏の場合も相場は二千ドルから五千ドルということですから、かなりの高額であることが分かります。パトリック氏は親族からの依頼があれば、全米どこへでも飛んでいって強制改宗を行ったことから「黒い稲妻」と呼ばれたそうですが、ハッサン氏も脱会工作の依頼さえあれば、どんな宗教団体でも「破壊的カルト」の烙印を押して改宗を引き受けるという点では同様です。彼らは新宗教運動に対する社会の反感や親族の不安を利用して金儲けをする、まさしく職業的な「脱会屋」なのです。

 

 

第五章 国内の「マインド・コントロール」の犯罪

 

 

 

 

 

国内の強制的改宗活動家たち

 

前章では、米国における新宗教運動の信者の強制改宗の実態を、CANの問題を中心として取り上げました。しかしすでに第一章から第四章にかけて説明したように、シンガー博士など反カルトの側に立つ心理学者のマインド・コントロール理論が、米国心理学会(APA)と米国キリスト教協議会(NCC)がそれぞれ提出した「法廷助言書」によって否定されたために、反カルトの立場に立つ心理学者は法廷で証言に立てなくなってしまい、これが反カルト運動の鎮静化へとつながりました。

 

これら二つの法廷助言書は、米国憲法修正第一条で保障された宗教の自由と、政教分離の原則に基づいてマインド・コントロール理論を批判したものです。

 

日本国憲法においても、第二〇条において信教の自由と政教分離が謳われているわけですから、この二つの助言書は日本においても有効なものであると考えられます。しかし日本においてはこうした米国の良識ある学者たちの見解は理解されていないばかりか、信教の自由や人権問題に対する意識があまり高くないために、拉致・監禁による強制改宗事件がいまだに跡を絶ちません。

 

山崎浩子さんの拉致・監禁、脱会事件以降、統一教会に反対する活動家による統一教会信者への「拉致・監禁事件」は年間三百件以上起こっているにもかかわらず、それらは全くといっていいほど事件として扱われてきませんでした。

 

これらの「拉致・監禁事件」は、相手の自由意思を踏みにじったうえ、しかも身体的な自由を奪っての説得であり、絶対に許されるものではありません。しかし反対活動家は拘束の事実を認めたうえで、本来刑事および民事事件として扱われるべき事件の本質を、親子問題にすり替えることによって拉致・監禁を正当化してきました。

 

現在の主要な強制改宗活動家としては、

 

浅見定雄氏(東北学院大学教授)

 

川崎経子牧師(日本基督教団、谷村教会)

 

船田武雄牧師(日本イエス・キリスト教団、京都聖徒教会)

 

松永堡智牧師(日本同盟キリスト教団、新津福音キリスト教会)

 

村上密牧師(日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団、七条キリスト教会)

 

森山諭牧師(日本イエス・キリスト教団顧問、荻窪栄光教会)

 

本間テル子氏(全国原理運動被害者父母の会)

 

横溝洋三牧師(日本基督教団事務局長、水戸中央教会)

 

和賀真也牧師(セブンスデー・アドベンチスト教会「エクレシア会」代表)

 

などが挙げられます。

 

これらの日本の活動家たちは、強制的改宗活動をいわば職業的に行っており、信者の父兄に働きかけて拉致・監禁の作戦と方法を細かく指導し、それによって多額の金銭を父兄から受け取っています。

 

彼らは両親や親族などを使って信者を暴力的に拉致しますが、そのとき彼らは絶対に直接手を出しません。反対牧師たちは「拉致・監禁」に対して、決まって異口同音に「自分たちは拉致・監禁を命じた覚えはない。あれは父兄たちが勝手にやっているのだ」と強弁しています。これは自らの手は汚さない、極めて「卑劣なやり方」であるといえますが、明らかに刑法第二二〇条「逮捕・監禁罪」の「教唆犯」(同六一条)に当たるものです。

 

 

 

拉致・監禁による強制的暴力改宗活動の実態

 

「反対牧師」が親や親族を操作して行っている拉致・監禁は、CANの活動と同様に非常に強制的・暴力的なものであり、明らかに犯罪性が認められることは多くの証言によって明らかになっています。

 

一九九一年四月七日に、職業的な「脱会屋」である宮村峻氏らによって拉致・監禁され、八カ月にわたって拘束されながらも、奇跡的に脱出した鳥海豊さんの著書『監禁250日証言「脱会屋」の全て』(光言社)には、強制的な拉致の様子がはっきりと書かれています。

 

 

「どうしてもダメか」

 

「どうしてもダメですよ。……」

 

「どうしても駄目なら、力ずくでも連れていく」

 

「……帰らせていただきます」

 

と言って出ようとした。そうしたら、

 

「そうはいかない」

 

と、突然そこにいた男性が、ダーと十人ぐらい来て、押さえつけてきた。こちらも暴れるけれども組み伏せられてしまう。折り重なってきて、体の自由がきかない。(『「脱会屋」の全て』16-17頁)

 

みんなあっちこっちから手をかけて、私は羽交い締めにされ、ワゴン車に押し込められた。(同書18-19頁)

 

 

さらに『週刊文春』(一九九三年四月二十九日号)に掲載された山崎浩子さんの手記にも、彼女が強制的に連れさられたことが書かれています。

 

 

「『しまった、やられた』私のこわばった頬を、とめどなくあふれ出る涙が伝う」「みんなの視線が、私に突き刺さっている。逃げることはできない。いや、逃げてはいけないと思った」「姉達が拉致・監禁をするなんて――」

 

「私を真ん中にはさむようにして、姉と叔母がシートに身を沈める」「車はどこにむかって走っているのか、全然分からない。これからどうなるのか、それもまた、全く見当がつかなかった」

 

 

元統一教会員で、現在は反対活動を行っている田口民也氏の『統一協会からの救出』(いのちのことば社)には、彼の指示によって両親から拉致・監禁されたN君の手記が載っていますが、そこには到底逃げ出せないような環境に無理やり連れて行かれた様子が描写されています。

 

 

そのうちに、あるアパートまで連れて行かれた。それが、逃げられないように頑丈にしてあるのを見て初めて、私はここまで来た意味がわかった。………こうして数か月間のアパート生活が始まったのである。

 

 

この本にはN君を拉致した父親の手記も載っていますが、そこには息子を拉致するためにロープやガムテープなどを用意したという生々しい記述があります。

 

 

親戚に初めて息子の状態を伝え、協力を願う。十名の協力を得ることができた。連絡があってから、一週間が過ぎる。移動用ジャンボタクシー、身につけるロープ、ガムテープなどそろえる。

 

 

これらは父兄が主体的に思いついてやるのではなく、明らかに牧師が事細かに指示してやらせているのです。

 

田口氏は著書の中ではっきりと、

 

 

「まず、体を集団ナルチシズム(集団生活および彼らの監視)から隔離する必要がある」

 

「救出は、その組織から、体を引き離すことはもちろんであるが、体だけを統一協会からだしても、それで安心してはいけない。体だけではなく、心や霊までも解放しなければ本当の救出にはならない」

 

 

と書いており、信者の改宗にはまず物理的な隔離が必要だとの主張をしています。そしてこの本には「第三章:救出のためのテキスト」と称して、牧師が親に出している具体的な指示が述べられており、これは改宗のためのプログラムが牧師によって作られたマニュアルに従って行われていることを示唆しています。

 

信者は監禁された状態のまま、反対牧師による長期間の棄教の強要と説得を脱会するまで受け続けます。長い場合は数カ月に及ぶこともあります。そしてまず現状では本人が拉致・監禁された場合の救出、あるいはそこからの脱出は不可能な状態なのです。

 

鳥海豊氏も、

 

 

「お前はもうここから出られない。ここから出るためには、落ちるしかない」(『「脱会屋」の全て』21~22頁)

 

 

と宮村氏に言われています。もし脱会の意思を表明すれば、直ちに半ば強制的に「統一教会脱会宣言書」なるものを書かされます。もし書かない場合は、書くまで何十日でも監禁状態を続けるのです。本来「脱会届」なるものは本人の自由意思によって書くものでありますが、反対牧師はそれをいわば改宗の「踏み絵」として利用しているのです。

 

 

刑事上の犯罪性と多額の金銭受け取り

 

そしてテッド・パトリック氏やスティーヴン・ハッサン氏が依頼者から多額の金銭を受け取っていたのと同様に、日本の「活動家」も信者の父兄から実費以上の多額の金銭を受け取っています。山崎浩子さんの脱会工作にかかわった杉本誠牧師は、著書『統一協会信者を救え』(緑風出版)において、横溝牧師、森哲牧師(日本基督教団小牧教会)、平良夏芽牧師(日本基督教団桑名教会)らが一回信者と面会するたびに、おのおの十万円ずつ受け取っていた事実を認めたうえで、

 

 

「私の経験からいけばそれぐらいのお金は当然掛かると思いますね。………私もやはりそれぐらいの形のものは親御さんから車代ということで頂いていますよ」

 

 

と言っています。

 

このように拉致・監禁による強制改宗の流れと手順を見てくるとき、そこには牧師が関与しており、教唆による拉致・監禁、身体拘束という刑事上の犯罪性が認められるということが分かります。しかし彼らは「カルト教団にマインド・コントロールされた子供を親が救出している」という理由を振りかざして事件の本質をすり替えることにより、自らの行為を正当化してきたのです。

 

事実、一九八八年に統一教会員の吉村正氏が監禁された事件で、教会側は裁判所に人身保護請求を出し、これが当然下りるものと信じて関係者一人が行っただけでしたが、共産党系の弁護士が百九十八人も名を連ねて反対し、この事件をうやむやにしてしまうということが起こりました。

 

彼らは人身保護請求が出ている裁判所に圧力をかけ、法を曲げ、事実を曲げて統一教会の主張を退けるようにし、このため本来一週間以内に下ろされなければならない人身保護令が大幅に遅れました。このようにして時間を延長させ、強制説得による棄教のための時間を稼ぐことにより、もしその間に被害者(統一教会員)が棄教し、脱会すれば、反対グループの行為が正当化できるからでした。そしてそうすれば親をはじめ元教会員を被害者に仕立て、法廷で証言させることにより、統一教会のイメージダウンを図り、世論を味方につけることができると考えたためなのです。

 

 

日本における世界にもまれな人権侵害の実態

 

このように日本の「反対牧師」による統一教会信者の強制改宗は、世界的にもまれに見る宗教迫害であり、深刻な人権侵害であるといわざるを得ません。

 

本書は、日本に真の民主主義と信教の自由が確立されることを願い、このような拉致・監禁事件が一日も早く根絶されることを願って出版されました。そのためにはこのような強制改宗の犯罪性を正当化するための理論である「マインド・コントロール理論」の欺瞞性が明らかにされなければなりません。

 

本書の後編においては、この問題に関する最も権威ある専門家の見解として、米国心理学会と米国キリスト教協議会がそれぞれ提出した「法廷助言書」の翻訳を資料として全文掲載しました。これを機会に、一日も早く日本においてマインド・コントロール理論の非科学性が厳密に論議される日が来ることを願ってやみません。