カリフォルニア州最高裁判所(あて)
デビッド・モルコ :原告および上訴人
トレーシー・リール:原告および上訴人
対
世界基督教統一神霊協会:被告および被上訴人
州最高裁審理番号:SF25038
控訴裁(二審)審理番号:A020935
上級裁(一審)審理番号:769ー529
米国キリスト教協議会 (The National Council of Churches in the USA)
教会・国家分離米国人連合 (Americans United For Separation of Church and State)
米国アメリカンバプテスト教団 (The American Baptist Churches in the USA)
南部カリフォルニア教会一致協議会 (The Southern California Ecumenical Council)
による法廷助言書
第一控訴区第二地区控訴裁判所判決および
サンフランシスコ上級裁判所(サンフランシスコ郡サンフランシスコ市)判決の控訴についての検討
スチュアート・ポラック判事殿
弁護士アール・W・トレント
米国アメリカンバプテスト教団
National Ministries
Valley Forge, PA 19482-0851
(215) 768-2487
レムチョ、ヨハンセン、パーセル弁護士事務所
Remcho, Johansen & Purcell
220 Montgomery St., Suite 800
San Fransisco, CA 94104
(415) 398-6230
引用出典
〈判決例〉
Cantwell v. Connecticut, 310 U.S. 296 (1940)
Christofferson v. Church of Scientology, 57 Or.App 203, 644 p.2d 577(1982)
Engel v. Vitale, 370 U.S. 421 (1962)
Fowler v. Rhode Island, 345 U.S. 323 (1974)
Gertz v. Robert Welch, Inc., 418 U.S. 323 (1974)
Gillette v. Unites States, 401 U.S. 437 (1971)
Gospel Army v. City of Los Angels, 27 Cal 2d 232 (1945)
Grand Rapids School District v. Ball, U.S. 105 S.ct. 3216 (1985)
Katz v. Superior Court, 73 Cal. App. 3d 952 (1977)
Lewis v. Holy Spirit Ass’n., 589 F.Supp. 10 (D.Mass. 1983)
Meroni v. Holy Spirit Ass’n. 119 A.D. 2d 200, 506 N.Y. S2d 174 (NY App.1986)
appeal dismissed (NY Ct.App. Jan. 8, 1987)
Murdock v. Pennsylvania, 319 U.S. 105 (1944)
NAACP v. Button, 317 U.S. 413 (1963)
Odorizzi v. Bloomfield School Dist., 246 Cal App. 2d 123 (1966)
Presbyterian Church in the US v. Hull Memorial Pres. Church, 393 US 440 (1969)
Prince v. Massachusetts, 321 U.S. 158 (1944)
Reynolds v. United States, 98 U.S. 145 (1878)
Rosenblum v. Metromedia, 403 U.S. 29 (1971)
School Dist. of Abington v. Schempp, 374 U.S. 203 (1963)
Sherbert v. Verner, 374 U.S. 398 (1963)
United States v. Ballard, 322 U.S. 78 (1944)
United States v. Seeger, 380 U.S. 163 (1965)
Watson v. Jones, 80 U.S. (13 Wall.) 679 (1871)
Wisconsin v. Yoder, 406 U.S. 205 (1972)
〈引用文献〉
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バロン『ユダヤ人社会宗教史』 Baron, S. A Social and Religious History of the Jews, (1952)
グラハム『キリストを伝播する道順』 Billy Graham, Evangelistic Assn. Steps in Sharing Christ (1985)
ボーア『米国の福音化』 Bohr, D. Evangelization in America (1977)
ボリック『カール・バルトと宣教主義』 Bolich, G. Karl Barth and Evangelism (1986)
ブルース『みんなハレルヤを歌った』 Bruce, D. Jr. And They All Sing Hallelujah (1974)
キャノン『宣教主義の現代的意味』 Cannon, W. Evangelism in a Contemporary Context (1974)
コメント『マインド・コントロールか熱烈な信仰か』 Comment, Mind Control or Intensity of Faith: The Constitutional Protection of Religious Beliefs 13 Harv. Civ. Rights Civil Liberty Lib. L. Rev., 751 (1978)
デルガド『宗教的独裁主義』 Delgado, Religious Totalism: Gentle and Ungentle Persuasion Under the First Amendment, 51 S. Cal L. Rev. 1-100 (1977)
デマリア『宗教的回心の社会心理分析』 DeMaria, A Psycho-Social Analysis of Religious Conversion
ブライアント、リチャードソン『熟考の時』 M.D. Bryant and H. Richardson, Ed. A Time for Consideration (1978)
グラハム『最善を尽くすビリー・グラハム』 Graham, B. Billy Graham on What He Does Best, Christianity Today V.27 N.13 (1983)
グリーン『初代教会の宣教戦略と方法』 Green, M. Methods and Strategy in the Evangelism of Eary Church,
ダグラス『全地に神の声を聞かしめよ』 J.D. Douglas, Ed. Let the Earth Hear His Voice (1975)
ハニガン『回心とクリスチャン倫理』 Hanigan, J. Conversion and Christian Ethics, Theology Today, V.41, N.1 (1983 Apr.)
ホクマ『主要四大カルト』 Hoekma, A. The Four Major Cults(1963, reprinted 1984)
ジェームズ『宗教的経験の多様性』 James, W. The Varieties of Religious Experience (1902)
ジャペンガ『十代宣教師の戸別訪問生活』 Japenga, A Teenager’s Life as Door-to-Door Missionary, San Fran Cisco Chronicle (1983)
ジャンシー『宣教成功の心理学』 Jauncey, J. Psychology for Successful Evangelism (1972)
ジョンソン、マロニー『クリスチャンの回心』 Johnson and Malony, Christian Conversion: Biblical and Psychological Perspectives (1982)
ケリー『強制改宗と信仰の自由』 Kelly, D. Deprogramming and Religious Liberty, 4 Civ, Liv, Rev. 23 (1977)
レクソー『僧院生活』 Lexau, J. Convert Life (1964)
リッテル『新教各派の起源』 Littell, F. The Origins of Sectarian Protestantism (1966)
リトル『信仰をどのように手渡したらいいか』 Little, P.How to Give Away Your Faith (1966)
メルチャー『シェーカー・アドベンチャー』 Melcher, M. The Shaker Adventure (1968)
パッカー『宣教と神の主権』 Packer, J. Evangelism and the Sovereighnty of God (1961)
法王パウロ六世『福音宣教』Pope Paul VI, Evangelico Nuntiandi (1975)
プロクター『宗教引用の宝庫』 Procter, F. Treasury of Quotations on Religious Subjects (1977)
シャピロ『ロボット、人間、信仰の保護』 Shapiro, R. Of Robots, Persons and the Protection of Religious Beliefs, 56 S. Cal. L. Rev. 1277 (1983)
スミス『世界の宗教』 Smith, H. The Religions of the World (1958)
ストローメン『宗教発達の研究』 Stroemen, M. ed. Research on Religious Development (1971)
ティリッヒ『永遠の今』 Tillich, P. The Eternal Now (1963)
ティリッヒ『新しい出発』 Tillich, P. The New Beginning (1955)
ティリッヒ『土台の動揺』 Tillich, P. The Shaking of the Foundations (1948)
トルーブラッド『クゥエーカーと呼ばれた人々』 Trueblood, E. The People Called Quakers (1966)
ツロップ・ミラー『イエズス会の力と秘密』 Tulop-Miller, R. The Power and Secret of the Jesuits (1930)
ウェグナー『メノナイトの歴史と教義』 Wenger, Jr. Glimpses of Mennonite History and Doctrine (2nd ed.) (1947)
ウイリアムズ『馬、鳩、回心の治療』 Williams, D. Horses, Pigions and the Therapy of Conversion: Psychological Reading of Jonathan Edwards’ Theology, 74 Harvard Theological Rev. 347 (1981)
(以上の文献は邦訳されていないので、訳者が仮にタイトルのみ訳しました。)
法廷助言者たちの関心事項
米国キリスト教協議会(NCC)は、三十二の米国内プロテスタント教会と東方正教会によって構成されている協力機関であり、傘下に四千万人以上の教会員をもつ。この法廷助言書はそうした会員すべての見解を意味するものではないが、その代表約二百五十人から成る米国キリスト教協議会運営理事会によって決められた政策をもとにしたものである。これらの代表理事たちは各教派ごとの教会員数と協議会への支持度合いに比例して選出されている。この法廷助言書提出については、一九五五年の理事会声明をもとにしている。それは「米国における宗教的自由と公民の自由」と題された声明で、「米国キリスト教協議会は文化的、人種的、宗教的少数派の自由と権利を擁護する」と述べられている。米国キリスト教協議会の「信仰と儀式委員会」は、統一教会の教義について、二千年近く信じられてきた伝統的キリスト教神学とは矛盾する部分があるとの見解を発表してはいるが、それにもかかわらずこの法廷助言書を提出するものである。
教会・国家分離米国人連合は、米国憲法修正第一条と第一四条に定められた権利を擁護することにより、宗教的自由と公民の自由を維持、推進するために結成された非営利団体である。会員は各種宗教の信仰者および一部無信仰者を含み、カリフォルニア州はじめ全米五十州で約四万人である。教会・国家分離米国人連合は、修正第一条の宗教の自由活動問題と国家の特定宗教支持禁止問題に関して、全米で幅広い法廷闘争を行っている。
教会・国家分離米国人連合は、連邦最高裁判所に上訴された宗教の自由活動および国家の特定宗教支持禁止条項に関するほとんどの主要な判決にかかわってきた。当米国人連合は、この裁判の論争点に特に関心をもっている。なぜならば、当連合は教会と国家の分離を明確に支持してきたが、修正第一条にあるこの分離条項、即ち、国家による特定宗教支持禁止条項と宗教の自由な活動保障条項の両者は共に、すべての人々に対する宗教の自由を推進する意図をもったものであることを認識しているからである。当連合はこの裁判では、すべての宗教に強い影響を与える可能性のある問題が取り上げられていると信ずる。
米国アメリカン・バプテスト教団は、米国の一つのバプテスト教派であり、約六千教会を含み、百五十万人の教会員をもつ。本部はペンシルベニア州バレーフォージにあり、米国キリスト教協議会にも加盟している。特にこの裁判に関心をもつのは、宗教の自由を維持することはバプテスト教派の信条であるためだ。そのため米国キリスト教協議会理事会で代表されてはいるが、当教団自らも法廷助言に法廷助言者として加わったものである。アメリカン・バプテスト教団は一九八六年十二月の総会で「教会と国家に対する政策声明」を発表した。それは「われわれ教会は福音宣教と預言者的行動を通して、伝道、教育、礼拝を行う義務と権利をもつ。また霊的糧を提供し、自己規律を奨励し、道徳を教育する義務と権利をもつ」と述べた。
アメリカン・バプテスト教団は、統一教会の教義および活動については多くの賛同できない点があるが、本裁判の問題点はバプテスト教派の宗教的自由の原理および教会と国家の分離原理に基本的に深く関連していると考え、参加するものである。
南部カリフォルニア教会一致協議会は十四のキリスト教派、女性教会員連合(CWU)、東方正教会聖職者協議会によって構成される地域団体である。その目的は共同礼拝、共同作業などを通じて、地域社会に共通の信仰と倫理を伝えることである。南部カリフォルニア教会一致協議会理事会は全員一致で、「政府の過度の宗教介入という緊急の危険性にかんがみて、その対策の検討と行動に指導的立場を取る。法廷助言書の提出、証言の提供などについても検討する」と決定した。これは理事会が地域に宗教的多様性が存在するが、公共からの不支持、偏見、非難の対象となっている宗派が存在し、憲法で定められたすべての宗教に保障されている自由が脅かされていると考えたためである。
議論の概要
法廷助言者たちは上訴人たちの主張、および上訴人側の主張を支持する議論が、何百万人もの米国民の信仰と宗教行為を脅かすおそれがあることを危惧するものである。上訴人たちの主張により、憲法修正第一条で保障される宗教の自由、教会と国家の分離という基本的原則が脅かされている。上訴人たちが法廷に求めているのは宣教に使われるスピーチ、回心経験の環境と性質について規制を加えてほしいということである。そうした事柄は宗教教義と不可分、一体化しており、教会の存続、および個人が信仰を受け入れ、宗教行為を行うようになるうえで欠くことのできないものである。
法廷助言者たちは、宗教的自由を歴史的に保障してきたことに本件が直接関連していることを確信し、法廷の決定が宗教の実践行為全般に大きな影響を与えるという事実を強調するためにこの助言書を提出するものである。
連邦最高裁判所は、宗教的信仰については法廷と国家の規制力が及ばない、との判断を示している。宗教行為と信仰は、孤立しては発展せず、祈り、説教、証、宣教、伝道などの多様な状況におけるスピーチを通じて実践されるグループ内の交流とグループへの参加を必要とする。これらの宗教行為一つひとつにはスピーチが介在し、いずれも教会にとって必須なものである。本件で法廷に訴えられている宣教と伝道は、会員自身が信仰を経験し他の人を入会させる手段である。聖書と歴史は、宣教師が福音を路上で宣べ伝えることは、牧師が教会で説教するように神聖なことであると明らかにしている(注1)。上訴人たちの詐欺の申し立ては、自分たちの信仰に従って伝道する勇気ある人々に対し、過度な、不必要な重荷を負わせるものである。
上訴人たちは統一教会の元会員で、自分自身の回心体験に疑問を抱く離教者たちである。彼らは自分が信仰をもつようになった過程を疑っており、これは宗教的次元を無視しない限りそうした評価はできないものである。宗教的回心は本質的に情的に感動的なものであり、熱烈であり、日常断絶的であるかもしれない。そうした感情の激動、上昇はそれ自身が信仰への到達という現実の印でありその実体である。上訴人たちは心理学の専門家を使い、統一教会における宗教的回心の真実性に疑問を投げかけているが、心理学的疑問は米国で実践されているすべての宗教にも当てはまることである。法律や歴史には、宗教的経験を心理学的病理と置き換える、このような試みを法廷が受け入れるべき根拠は何もない。事実、法は、上訴人たちの申し立ては宗教に関する憲法違反となるであろうことを認識して、明確にそうした試みを禁止している。
上訴人たちの訴えは宗教行為の核心的事柄を「世俗的」あるいは「心理学的」出来事と性格づけをし、宗教に対する損害賠償を得ようという試みにすぎない。憲法にある宗教保障自由条項、官立宗教禁止条項は宗教と国家が分離されなければならない、と定めている。上訴人たちは、国家が宗教に対する幅広い、継続した規制を行い、宗教と国家との分離の基盤を取り除こうとするものである。米国における教会と国家の関係は上訴人たちの申し立てによって基礎から脅かされている。彼らの申し立ては却下されなければならない。
議 論
Ⅰ.宗教行為にはスピーチとコミュニケーションが不可欠であり、特に伝道と宣教にはそれは欠かせない
法廷は本件について力による監禁、誘拐、教会外の外部社会からの強制的隔離などについていずれも申し立てや証拠を見いだせないであろう。むしろ、本件では宗教的経験を深め多くの人々に広める言葉とコミュニケーションが問題になっている。上訴人たちの申し立ては宗教行為の核心要素を脅かすものである。宗教行為は一般に伝道や宣教として知られている「スピーチ」行為のみによって引き出されるものである。
A.伝道と宣教は宗教行為に不可欠であり、上訴人たちの申し立ては、そうした宗教行為の核心に関係している
宗教というものは普通は個人が孤立して実践する活動ではなく、常に共有される社会的活動である。確かに、話す言葉を通して、あるいはコミュニケーションの他の方法で、若い世代に引き継がれるが、個人から個人に伝えられなければ、宗教は一世代以上続かないであろう。信仰をほかの人々と分かち合いたいという思いは世界共通であり、意図的宗教の宣布、即ち、宣教活動はキリスト教を含む世界の多くの宗教に共通する性質である。実際これは宗教行為のもっとも中心的行為であり、宗教の自由を保障する法律により、完全な保護を受けている。宣教活動を統制(コントロール)、規制、妨害しようとする努力は宗教の自由の明白な侵犯である。
上訴人たちは詐欺の申し立ての根拠として、統一教会員が彼らを入会させようとした時に偽りの説明があった、としている(注2)。こうした統一教会員は教会の真理を文字どおり路上で宣布していたのである。
キリスト教会の初期には一人ひとりがキリストの証し人となるよう求められていた。「実際、ひとことで表現すれば、初代教会の成功はすべての信者が宣教師であったからである」(グリーン『初代教会の宣教戦略と方法』)。後の各教派も宣教活動を神聖視し奨励し続けた。例えば十六世紀の「宗教改革左派」の再洗礼派は、宣教活動は聖職者だけの義務でなく、また使徒時代だけの義務でなく、すべてのクリスチャンの義務であり、全員があらゆる場所で行わなければならない、としていた。「再洗礼派は、すべての信者に宣教の義務をはっきりと与えた最初の教会の一つである。送られる場所に行く約束をすることが、教会への入会儀式の一部であった。彼らは国教会の代表があえて行かないような場所に十字架を背負って自由に行き、そして福音のために世界中で巡礼者となり、また殉教者となった」(リッテル『新教各派の起源』112頁)。
ユダヤ教の宣教も祖国から離散中のギリシヤ文化影響下時代には盛んであった。トーラーがギリシヤ語に翻訳され、シナゴーグは宗教的教育に開放された。そしてユダヤ教を受け入れた者に対する規定もつくられた(バロン『ユダヤ人社会宗教史』162―170頁参照)。
宣教活動は仏教でも盛んであった。釈迦は紀元前六、五世紀に、宇宙的な使命を果たさなければならないという確信に満たされて、インドを歩き回った(スミス『世界の宗教』参照)。仏教が強調する宣教の重要さについても、次のように語られている。「弟子よ、人々の救いと喜びのため行き、歩き回りなさい。世界に対する慈悲心をもって、祝福と救済、仏と人に喜びをもたらすために。二人で一緒に同じ所に行ってはいけない。弟子たちよ、初めの部分においても、中間部分においても、終わりの部分においても、そして霊的にも文字的にも有益な神聖な教えについて説教しなさい。神聖な正道を公宣をしなさい」(『ビアナーバ』)。
アフリカと中東に回教が広まったのも、人々を回心させることに成功したからである。アメリカの歴史を振り返っても、宗教は新しい信者を獲得するために外を向いてきた。例えば、セブンスデー・アドベンティストは「極めてさかんな宣教活動」を進めてきた(ホクマ『主要四大カルト』参照。同書はクリスチャン・サイエンス、モルモン、エホバの証人、セブンスデー・アドベンティストを四大カルトとして紹介)。またペンテコステ運動も「積極的で攻撃的な」宣教活動で知られている。エホバの証人は「効果的かつ大規模な出版活動、宣教師訓練学校、宣教プログラムなどを発展させてきた」(アールストロム『米国人民の宗教史』)。クゥエーカー教徒も最初は宣教に熱心で、極めて力強かった。「信者は誰も伝道に熱心で、いつでも伝道していた」(トルーブラッド『クゥエーカーと呼ばれた人々』)。アメリカのメノナイトの基本的信条も「自分と接する人々の伝道と救済に対する強い個人的関心を特徴とする積極的宣教主義」である(ウェグナー『メノナイトの歴史と教義』)。またモルモン教会からメソジスト教会(注3)、ローマ・カトリック教会(注4)に至る一般的宣教運動も、多くの宗教の目的上でそうした宣教活動の占める中心的立場を明かしている。
福音主義のクリスチャンにとって、福音を宣べ伝えることは個人的必須義務である。福音主義は人々を教会に連れてこようとするから、宣教師は人々のいるところに赴かなければならない。実際、大学クリスチャン・フェローシップ宣教部長ポール・リトル氏が述べているように「引きこもるかわりにわれわれは外に出て世界と交流すべきである。われわれはクリスチャンでない人々と、実際にどのように友情を結び、発展させ、次に現実的に、相手の関心を失うことなく愛をもってキリストの福音を伝えるにはどうしたらいいか、を見いだす必要がある」(リトル『信仰をどのように手渡したらいいか』)。
現代神学者の一人は、現代的な「生活様式の宣教主義」の出現について述べている。その指導概念は「非公式性(堅苦しくないこと)、家庭的親密性、グループへの所属感、友人的親近感、積極的扶助意識、不快感を与えないこと、生活関連性をもつこと、そして、型にはまらない行動」であるという(グリーン前掲書187頁)。グリーンによると、こうした「夕食宣教」や「喫茶店宣教」は「教会の施設、レストラン、社交娯楽施設などを使っても行うことができる。場所の選択は重要である。多くの人々は宗教的に中立的な場所を好む」という(前掲書同頁)。
個人伝道において最初は「個人的な」関係を強めたあと宗教の話題に入り、「自分の経験を、押しつけるよりも、少しずつ提供して、全部あからさまにせずに、謎を残して話していく」のが多くの場合、より説得力があるかもしれない(リトル『信仰をどのように手渡したらいいか』38頁)。
それはパウロがよく説明している。「わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが――律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである」(コリント人への第一の手紙、九章19~23)。
福音宣教者は次のような配慮をするようアドバイスを受けている。「クリスチャンでない人々には、関心を見せ始めた時にはていねいな対応が特に必要である。初心者の関心は最初はもろく壊れやすいものだからだ」(リトル)。ある人が教会に入ろうと決心するまでの対話は数分間から数時間、数日間、数週間以上に及ぶかもしれない。効果的な宣教師は、対象者が信仰の意味についてどのくらい理解力をもっているかを計らねばならない。その結果としての会話は、全体を通して見て初めて、宗教としての十分な意味を含むものであってもよい。課題は偏見や噂によってつくられた先入観の垣根を乗り越えることである。そうしてこそ聞き手は教会における信仰と生活を感覚的に知る機会をもつことができるのである。
上訴人たちは本件の宣教者が、統一教会員であり文鮮明師の信者であることを直ちに、正直に述べなかった、ということを大きな問題にしている。理想的世界においては、彼らもそのようにできたであろう。しかしパウロも、歴史上の数多くの宣教者もそうであったように、最初に自分の正体を明らかにしようとしなかったのは、受け入れられやすい方法で、伝道対象者に対応する必要があると感じたからであった。統一教会員が最初に自分の正体を明らかにしようとしなかったのも、「ムーニー」と呼ばれ、マスコミから悪く言い立てられて形成された偏見に対してそうせざるをえなかったのである。統一教会員には話を始める前からでさえも、そうした乗り越えなければならない反感が存在した。もしそうでなければ、知り合いになってさらにあとになるまで教会名やその目的を明かすことを延期する必要を感じなかったであろう。
明らかに宣教者とその伝道対象者との間の会話は非常に微妙で複雑な対話である。真剣な宣教者は自分の得た信仰と喜びを共有したいとの動機があるものだ。そうした宣教者のメッセージが聞き手に真に到達するためには、既成の偏見を認識し、それに応じて内容も変えねばならない。ちょうど政治的、感情的状況では微妙繊細な対応が必要なように、こうした場合にはしばしば間接的な方法がとられるものである。宣教者がそうした宣教方法の道を歩いている時に、法廷はその道端に立ち一つひとつの曲がり角で方向規制を課すことはできない。もし法廷がそうしたことをやれば、すでに困難な道を進んでいる宣教の宗教的義務の実践を、さらに困難と不確実な道に追いやることになる。社会の世俗化はすでに宣教の道における大きな障害となっている。上訴人たちの詐欺の申し立ては、多くの教会に不可欠なこの種の宗教行為をさらに制限する脅れがある。
B.上訴人たちの申し立ては、宗教的スピーチに対する損害賠償を憲法に違反して要求している
問題のスピーチは、上訴人たちにおいては世俗的なものと規定しようとしているが、明白に宗教的である
上訴人たちは統一教会員の信仰の真実性や、外部者を統一教会に入会させようとすることが宗教的行為である、との点については問題にしていない。そのかわり上訴人たちは被告のスピーチの形式が、その状況と目的が明白に宗教的であるにもかかわらず、そのスピーチを非宗教的なものにし、憲法の宗教の自由保障条項の保護外に置くと主張する。特に、上訴人たちは、統一教会員が宣教活動において使用する特定の説明は「宗教的」ではなく「世俗的」であると主張する。こうした議論は憲法修正第一条を本来守るべきものから放棄させることになる。つまり、宣教者が伝道対象者と交流関係を結ぼうとする多様な方法が憲法によって守られないことになる。上訴人たちは、本法廷に宣教的会話はこうあるべきだという彼らの考えのみに従って、宣教における「受容可能な」宗教的スピーチ、を決定するよう求めている。上訴人たちは修正第一条の及ぶ領域について狭く束縛する解釈をしているが、そのような解釈は宗教的伝統には何も根拠のないことであり、法的権威にも欠けている。
米国連邦最高裁判所の「マードック」対「ペンシルべニア」判決(1944年)で示されたとおり、法廷は通常の宗教によって定義される枠組み内に特定の宗教的スピーチを限定することでなく、むしろ特定のスピーチのその宗教に対する重要性について関心をもっている。「法廷は宗教的文書の配布や、戸別訪問によって信仰を広め、福音を宣布することは、大昔からの宣教方法であり、より通常の宣教方法と同様に憲法によって守られるべきであると定める」(1944年)。
「マードック」判決によって示されたのは、修正第一条が宗教的信条を守るとするならば、そうした信条の伝達が通常の教会のやり方と同じであることを、修正第一条は要求しなくてもよいということである。「ファウラー」対「ロードアイランド」判決(1953年)で示されたものは、エホバの証人が宗教的演説を一般の公的公園で行う権利を認めたものだが、法廷は明確に、修正第一条の目的のために祈祷、説教、その他の宗教的スピーチをそれぞれ区別するということは、一つの宗教が他の宗教よりも保護されるべきとする発言が誤りであるのと同様に、賢くない間違ったことであると判決した。この部分の最高裁判決文は重要であるので、少し長いがそのまま引用する。
「上訴人の宗派は他の宗教団体の実践とは異なった慣習をもっている。その礼拝は他と比較して儀式色がより少なく、より非正統的であり、より非公式的である。しかし、本件とは関係のないわずかな例外を除いては、法廷が特定の教会の宗教行為や活動について、修正第一条で守られるべき宗教ではない、といった宣言をすることは法廷の任務ではない。また憲法のもとで、法廷は宗教的集会での説教を承認し、拒否し、類別し、規制し、いかなる形にせよ統制するような能力をもたない。説教は祈りと同様に礼拝の一部である。それは通常、幅広い内容が含まれ、説教で一般的に引用される聖書や聖典と同様に、非常な多様性をもっている。教会で一人の牧師が信徒に対して話す言葉を説教と呼んで規制の対象にせず、別の教会の牧師の話す言葉を演説と呼んで規制の対象にすることは、間接的にではあるが、ある宗教を他の宗教よりも好む(えこひいきをする)ということを意味する」(「ファウラー」対「ロードアイランド」判決1953年、69-70)。
修正第一条の保護する対象範囲は「通常の」宗教に限定されていない。ある宗教では説教は安息日に説教壇から行われ、他の宗教では毎日の宣教行為自体が神の言葉を人々に伝える「説教」である。街頭に立つ伝道者は、福音が人々の生活に重要であり、意味ある状況の中で、宗教の意義を明確に表現し、他の宗派信者からの敵対視とあざけりに勇気をもって立ち向かい、直接地域の人々に伝道し話しかけている。法廷はそのような街頭に立つ伝道者に対して直接地域に話しかけている、といった理由をつけて、それを差別的に過少保護することはできず、またこれまでの判例でもそうした前例はない。
本件でも見られるように、宗教的真実性や背景については問題のない場合、「ファウラー」判決が示すものは、ちょうど日曜礼拝の説教について法廷が内容を規制できないのと同じように、法廷が特定のスピーチの形態についてふさわしいか否かを決定することはできないということである。もしスピーチの一部を抜き出して前後関係を無視した場合、その「宗教的」性格が即時的に明白でないとしても、それで修正第一条の保護が受けられない、ということはない(「クリストファーソン」対「サイエントロジー」判決1982年参照)。少なくとも修正第一条は宗教行為の中の一部であり、真実な宗教的動機で行われるものについては、そのスピーチを保護しなければならない。
この法廷助言者たちは、以上の論点を越える調査の禁止を主張するものではない。ごく限られた分野においては宗教活動は政府規制の対象になりうると考える。後述するごとく、政府のどうしても強要せざるをえないほど重要な利益のみが、宗教的スピーチを規制することができる。しかしながら、上訴人たちは宗教行為の制限を正当化する十分な理由を示していない。実際、上訴人たちは宗教行為の制限を支持するような傷害は何も受けていない。
上訴人たちの詐欺の申し立ては宗教的スピーチの正当な保護を取り除くに必要な傷害が欠如している
信仰をもたない人に対して、宗教的反応を起こさせようと願い、複雑で微妙な対話を行うにあたって、宣教者は、社会一般に存在する少数派宗教運動に対する疑いによってまかれた地雷原を通過しなければならない。上訴人たちの詐欺の申し立ては、詳細に検討すると、実際に統一教会に対する嫌悪が示されており、法廷を、離教者と教会の教義議論の場にしようとするものである。また、上訴人たちに適した形で宣教の対話を組み立てようとする、許すことのできない試みでもある。法廷はこれまで修正第一条にかかわる問題では、言論と出版の自由を保障するためその自由を行使するのに必要な、自由の「生存空間」をできるだけ与えようとしてきた(「ガーツ」対「ロバート・ウェルチ」判決1974年。「黒人権利保護協会」対「バットン」判決1963年参照)。そうした自由を擁護しようとする幅を持たない場合は、「修正第一条が許すことのできない自己規制をもたらすことになる」(「ローゼンブルム」対「メトロメディア」判決1971年)。明らかに上訴人たちの詐欺の申し立てが要求するものは、米国の宣教の歴史と相反するものであり、彼らの申し立てを受け入れることは宗教行為をひどく変形歪曲することになるであろう。
上訴人たちは連邦最高裁の判例を引いて、宣教活動の権利を認める過程で「われわれが述べたことは宗教の名に隠れて、人々が、公共に詐欺を働いても処罰されないということを毛頭たりとも示唆する意図はない」と法廷が述べた件を引用している(「キャントウェル」対「コネティカット」判決1940年)。法廷助言者たちはその判決文については反対しないが、すべての声明文と同様に、これは特別な状況に対して適用された場合にのみ、その正確な意味が明確になる。そのため、のちの幾つかの裁判では、この法廷で審議されたものも含み、この声明文の戸別訪問の募金に限って適用されるようになった。本件ではそのような事実形態(戸別訪問募金)を含んでいない(「ゴスペル・アーミー」対「ロサンゼルス市」判決1945年参照)。
憲法は法廷が宗教団体に対して、家庭電器製品購入時に要求されるような製品情報の開示を求めることを許さないであろう。米国建国の父祖たちの原則は、「宗教は非常に個人的なものであり、非常に神聖なものであるので、公的裁判官による宗教の『世俗的変形化』を許すことはできない」というものだ(「エンゲル」対「ビタレ」判決1962年)。
上訴人たちの詐欺申し立ては、法廷が(ということは即ち国家が)宗教的スピーチを細かく規制することを目的としており、「政府を破壊しやすく、宗教の品位を下げやすい政府と宗教の一体化」をもたらす恐れがある。これは無分別な、不必要な訴訟であり、本法廷が却下すべきものである。
「キャントウェル」判決では、「社会の保護のために行為が規制の対象となる」としても規制が「保護されるべき自由を不当に侵害することなく」行われなければならない、と定めている。あとの判例では、国家のどうしても強要せざるをえない利益のみが、宗教的自由の制限を正当化できる、と明確化している(例えば「ウィスコンシン」対「ヨーダー」判決1972年参照)。「この件で書かれ、言われてきたことの要点は宗教の自由な活動という正当な権利を制限できるのは最高に優先されるべき利益の場合であり、かつ他に解決の道がない場合にのみ限られている」(「シャーバート」対「バーナー」判決1963年、「こうした極めて微妙な分野では、最高に重要な利益を危険にさらす最大の悪用のみが、制限の対象として許される」)。最近の「トーマス」対「検討委員会」判決(1981年)で述べられたように「国家は宗教の自由を制限することについては、そうすることがどうしても強要せざるをえない国家利益を達成するための最小限の制限であることを示すことにより正当化される」と定められた。
米国の宗教史は、統一教会を含むすべての教会の真の宣教活動を制限することが、どうしても強要せざるをえない国家利益になるとの主張を否定している。法廷は、本件には重婚罪の訴えも証拠もなく(「レイノルズ」対「米国」判決1878年参照)、子供の虐待に対する訴えも証拠もなく(「プリンス」対「マサチューセッツ」判決1944年参照)、法廷が宗教の自由を規制するのに十分と見なしてきた他のいかなる利益も絡んでいないことを知るであろう。上訴人たちは詐欺容疑に本件を依存しているが、詐欺は、ある状況では明らかに国家の介入を正当化するものの、次に示すように、それは本質を覆い隠すものである。
統一教会の宣教プログラムの全体を見ると、法廷の介入を正当化すると思われる献金や決定を上訴人たちがした時より、ずっと前に、統一教会であることを明らかにしている。前述したように、時間をかけて個人を宗教に勧誘するプロセスでは、最初の出会いで、教会に関するすべてのことを、その個人には知らされないかもしれない。ある人は入教決定の意味をすぐに理解できるかもしれないが、それをすぐ理解するのが難しい人々もいる。そのような人々は、もっとゆっくりと十分な説明を受けねばならない(リトル前掲書40~41頁参照、およびパッカー『宣教と神の主権』1961年81頁、グラハム『キリストを伝播する道順』1985年参照)。本件では上訴人たちが、ブーンビルとキャンプKでの最初の期間(参加したグループが統一教会とは知らなかったと彼らが申し立てている期間)に、憲法修正第一条で保護されている宣教のためのコミュニケーションの自由に国が制限を加えることを正当化するような損傷を受けたという証拠は全くない。
これは「キャントウェル」判決文で想像されている戸別訪問の、つかの間の出会いでの募金活動で身分を偽った状況とは完全に異なるものである。法廷に示された事実によれば、統一教会の名前は上訴人たちが入会するずっと以前に明らかにされており、上訴人たちが経済的あるいは、その他の決意をするはるか以前に明らかにされていた。この事実によって、被告(統一教会)の活動は憲法修正第一条が絶対的に保護する宗教行為の枠内に、はっきりと存在するものと見なされる。
上訴人たちが統一教会入会を選択したのは、いかなる「詐欺」とも無関係な理由によるものであり、現在その決定を悔いて、すべての教会を脅かす憲法違反の宗教規制をとおして、自分たちの行動の責任逃れをしようとしている
下級裁判所は、略式命令で正しく述べているように、上訴人たちの申し立ての本質を正しく理解したと、法廷助言者たちは信じる。上訴人たちは、詐欺的と申し立てられている入会説明の内容に立証を依存していない。なぜなら事実、上訴人たち一人ひとりが統一教会に入会したのは、教会自身の本当の名前を知らせなかったとか、文鮮明師との関係を明らかにしなかったなどということには全く無関係な個人的理由によるものだからである。もし法廷が、こうした詐欺の申し立てを認めるとするならば、入会を後悔する人は誰でも、入会の実際の動機とは関係なく、教会員であった当時の数カ月または数年間のすべての話の内容を詮索して「詐欺的」な話の内容を拾い上げ、損害賠償を請求する可能性がある点を、法廷助言者たちは真剣に危惧するものである。入会動機は複雑であり、個人的なものである。上訴人たちの「詐欺」の訴えは、宣教師が「改宗させる意図」を明確に被伝道者に伝え、被伝道者から「情報開示後の同意」を取りつける義務を求めるものであり、これは憲法に違反して、宗教の規制を計り、成人の入教者が自分の決定に責任逃れすることを可能にしようとするものである。
上訴人たちの詐欺申し立ての要点は、統一教会員たちとの数えきれないほど多くの会話の中で、モルコに対して一件、リールに対して三件の虚偽の声明があり、それによって詐欺的に上訴人たちは入会に誘われたというものである(注5)。訓練を受けていない未経験な一人の宣教師が使った無分別で、度の過ぎた言葉に対して、宣教を推進している組織に責任が及ぶかどうか、という初歩的問題はさておいて、法廷助言者たちは宣教における虚偽を容認しないし、また法廷がそのような宣教における虚偽を是認するよう求めようとはしていない。しかし、その問題については、この裁判で提示されてはいない。法廷が求められているのは、入教の決定、複雑でかつまた個人的な決定について評価をすることである。下級裁判所が判定したように、上訴人たちは問題の声明に訴訟を単純に依存しなかったのであり、申し立てられている詐欺と入教決定との関連性が全く欠けているので、宣教詐欺を主張することはできない。この分野においては、法廷は特に注意深く、正確でなければならない。即ち、法廷は離教者の元の教会に対する不満と、詐欺を証明する正当な根拠とを分離せねばならない。
実際には、下級裁判所が判決したように、上訴人たちが統一教会に入ったのは詐欺にかかったからではなく、大昔から回心の動機となってきた「兄弟のような愛」の感情(モルコ陳述書Ⅰ)や、特別な生活共同体に入る「喜び」(リール陳述書Ⅱ)などの理由によるものだった。もし上訴人たちが、そうした統一教会の教えを最初に受け入れた現実を今になって書き改めることができるとするならば、いかなる信仰への回心も、その回心が当初どのような動機によるものであったとしても、その教会を訴訟の対象にしてしまうであろう。
上訴人たちの詐欺の申し立ての他の議論もまた同様に、宣教に脅威を与え憲法に反するものである。上訴人たちは、教会名や回心をさせようとする意図を明らかにしない場合、損害賠償を請求できる、との主張をする。そのような開示規則(注6)の非常にあいまいな性質は別にして、これは宣教におけるスピーチの性格と目的について基本的に誤解している。そうした規則が提供するかもしれない「保護」は、憲法が定めた国家と教会の分離の壁が崩れたあとでしか通用しない。「我が国の社会における宗教の地位は高いものであり、その地位は家庭、教会、そして誰も侵入できない個人の心情の砦を信頼する長い歴史的伝統を通して築かれてきた。われわれは苦い経験から、政府が、その目的や結果が反対、賛成、あるいは促進、抑制にかかわらず、その砦に侵入することはできない、と認識するようになった」(「アビントン学校区」対「シェップ」判決1963年)。
祈祷から伝道に至る各種の宗教行為は、信仰そのものを表明したものである。もし国家が宗教的対話をする宣教師の信仰を開示規則で詮索するようなことになれば、政府と宗教のお互いによる浸透であり、これは双方の価値を引き下げるものである。
同様に、上訴人たちの主張する、宣教者が伝道対象者から「情報開示後の同意」を取るという神学的「ミランダ警告」も欠陥がある。宗教団体は入会させる前に回心のすべての考えうる結果と、その影響について開示しなければならないという主張は、最初リチャード・デルガドによって提案された(デルガド『宗教的独裁主義』1977年)が、今まで正当な理由によりどの法廷もそれを支持してこなかった。その最初の理由として、無数にある市民団体が参加する中で、教会だけを取り出して適用していること、国家の規制下で教会の「欠陥」や「悪影響」を開示することを、教会に要求することは承認できないということである。結婚しようとする男女は結婚許可証を受け取る前に、お互いの最悪な欠点を述べ合うことを要求されているだろうか。弁護士事務所の雇用担当者は法学部卒業生に対して面接時、雇用契約の前に弁護士事務所の欠陥や問題点を述べるよう義務づけられているだろうか。海兵隊の志願者募集で、担当官は訓練キャンプの最悪の悲惨さと、軍隊生活の危険性のすべてを分類して入隊前の志願者に話すよう求められているだろうか。
宗教に対して差別するそうした考えは、憲法で保障された価値を驚くほど無視するものだが、それは別にしても、上訴人たちは真剣な宣教師と伝道対象者の間の会話について法廷に誤解させる可能性がある。十分な準備なしでは事実上、理解できないかもしれない宗教的理念を聞いても、その伝道対象者には何の役に立つことがあろうか。代数についてよく理解したあとでなければ微積分は理解することができない。救済の旅を行く者は最初は第一歩から始めなければならない。個人個人にとってその旅は特別で独特のものである。宣教師はそのガイドとして伝道対象者に合わせて変えなければならない。パウロが言うように「兄弟たちよ。わたしはあなたがたには、霊の人に対するように話すことができず、……キリストにある幼な子に話すように話した。あなたがたに乳を飲ませて、堅い食物は与えなかった。食べる力が、まだあなたがたになかったからである。今になってもその力がない。あなたがたはまだ、肉の人だからである」(コリント人への第一の手紙三章1~3節)。
最後に、こうした危惧を越えて、もし法廷が申し立てのあった間違った教会案内の真実性や虚偽性についての判決を下すようなことにでもなれば、深刻な憲法問題を引き起こすであろう。法廷は宗教教義を詳細に調べ、宗教的信仰の有効性を評価するという、許されていないことをしないことには教会員の発言内容の真偽は確認できない。統一教会員は「ムーニー」なのか、クリスチャンなのか、文鮮明師の信者なのか、上訴人たちは法廷をこうした神学的議論の中に引き入れ、世俗の法廷が純粋に宗教的な紛争を解決するよう強制しようとするものである。教会の教義を解釈する権威を、教会はシーザー(この世の権力)に与えねばならないという上訴人たちの議論は時代錯誤である(「プレスベテリアン教会」対「ハルメモリアル教会」判決1969年、「米国」対「バラード」判決1944年参照)。
結論
憲法修正第一条を起草した人々は、初期の移住者が米国に逃げ出す理由となった宗教的迫害と、特定の宗教を国家が援助したり制定する場合に起こる迫害の可能性について認識をしていた。米国につくられた類例のない宗教の擁護と多様性の伝統は、そうした憲法の宗教の自由保障を生み出す動機となった価値観と目的観に負うものである。そのように米国における宗教行為の自由のおかげで、アメリカ人は本当に爆発的な多様性のある信仰に意義と価値を見いだしてきた。
法廷助言者たちが危惧するのは、どの宗教団体でも離教者が訴訟を起こし、入教中に受けた虐待を理由としてではなく、むしろ団体の魅力が非常に強く、入会抵抗能力を失い、異常な魅惑のとりこになったのは自分の意志による回心ではなかったという理由によって、あとになって「虚偽の監禁」として損害賠償を求めることの可能性である。上級裁判所が述べたように「もしそうなれば損害賠償を防ぐため教会であれ他の団体であれ、個人の入会同意を信頼できなくなるし、個人の入会を同意する能力にも信頼をおけなくなる」(CT983)。
統一教会の活動について、歴史的、現代的前例がないものであるという上訴人たちの主張は間違っている。また統一教会の宗教行為について憲法による保護の枠外に存在するとの見解も同様に誤りである。上訴人たちは歴史的にも文化的にも根拠のない主張をしている。彼らの主張はすべての宗教を脅かすおそれのある偏見に基づいたものである。
Ⅱ.宗教的回心の心情的藤、構造的体験は歴史上認められ、聖書にも記載があり、すべての宗教に共通する。上訴人たちは回心を心理学的病理と規定して説明しようとするが、法廷では受け入れられない
上訴人たちは統一教会への以前の自分たちの回心に対し、その「有効性」を攻撃している離教者である。リール、モルコ、ドールは統一教会に入会することを知ったあとで入会し、数カ月の間会員であり、強制的に誘拐され、暴力改宗を受けるまでは教会を去ることを拒否していた。しかし、彼らは自分たちの宗教的回心は「洗脳」の結果であり「無効」である、と今になって主張している。
宣教と回心は多くの宗教の生命力の中心となるものである。上訴人たちの申し立てが及ぼす脅威の深刻さについては誇張しすぎることができない。申し立てにある「真実でない」回心という主張はあらゆる宗教の宣教活動を危うくするものである。上訴人たちはある人が信仰を本当に自分で受け入れたのか、それとも何らかの形で「圧力」をかけられて入信させられたのかを、法廷が以前にさかのぼって決定するよう仕向けている(注7)。
法廷がそのような誘いを受け入れ、回心の有効性を判定するためにシンガー、ベンソン両博士の声明、あるいはその他の証拠に頼るならば、上訴人たちは、本来民事法廷で真実か虚偽かを決定する対象にならないような宗教的経験について、この法廷にその真実性、虚偽性を決定させるよう仕向けるのに成功したことになる(「米国」対「バラード」判決1944年)。
A.回心の性質
これまでに認められてきた宗教的回心の性質は、上訴人たちの主張が間違っていることを示している。「回心はクリスチャン生活の土台となるべき経験である」(ハニガン『回心とクリスチャン倫理』)。「回心の過程で求められているものは死と再生であり、暗やみに背を向けて光に向かって歩き始めることであり、古い自分を捨てて、新しい自分になることである」(同書)。
ジョナサン・エドワーズは、新生していない罪人は「荒野に出されなければならない」、と考えたし、牧師として信徒たちを心理的危機に追い込むのがその責任と感じていた。その心理的危機を通過して罪人はそれまでの罪の生活を悔い改め、信仰を受け入れることができるのである(ウイリアムズ『馬、鳩、回心の治療』)。
回心の過程は通常、信仰の危機を伴う(ジョンソン、マロニー『クリスチャンの回心』)。その結果、回心の過程の中にいる個人は忠誠心が分断され、人生に対する不満足を感じ、主体的緊張感と共に何かが欠亡しているという感覚を味わうのである(同書)。そして回心者の情的な混乱と苦痛の中から回心者が喜ぶことのできる「人生の新しい方向」が徐々に出現する。それはまたウイリアム・ジェームズが古典的名作『宗教的経験の多様性』で説明しているように、突然性のものであるかもしれない。
回心はこうしたものの一つとして表現できるであろう。
「パウロに代表されるように、瞬間的に起こるものでもあり、またしばしば大きな情的興奮と感覚の動揺の中に、まばたきする間に古い人生と新しい人生の間の明確な境界ができる。こうした回心は宗教的経験の中の重要な段階である。新教神学の中でも回心は重視され、われわれも回心の話を良心的に研究する義務をもっている」(ジェームズ『宗教的経験の多様性』)。
シンガー博士のいう「強制的説得の六段階」(注8)は本当の回心と「情的挫折」を区別できるとする「専門家」理論の一番詳細な説明である。実際、シンガー博士の理論は、そうした区別ができるという他の理論と同様、ニセ科学の分野に含まれるもので、全部でないとしても多くの宗教的回心を無効にし、米国の多くの教会の信仰や宗教行為に「不当」の烙印を押すものである。
法廷助言者たちはシンガー博士の理論を段階を追って以下に検討し、それが心理学原理を曲解しただけではなく、宗教的経験の恐ろしい誤解であることを明らかにするものである。上訴人たちの「専門家」理論が法廷に提供できる真実の回心経験についての証拠や結論は、全く偏見と感情的偏向のみに基づくものである。
B.上訴人側の専門家たちによる「マインド・コントロール」理論と「洗脳」理論は、
宗教的回心を科学的客観性を装い軽蔑的に説明したものである
第一段階:「社会的、物質的環境の統制(コントロール)」
シンガー博士は上訴人たちが回心させられた環境は、回心自体を無効にする、と主張する。入門者を通常の文化から引き離して、妨げられずに宗教的事柄に精神を集中できる場所に引きこもらせることの優れた効果を認めない宗教を見いだすことはまずできない。もしシンガー博士が正しいとすれば、おそらく数百万の宗教的回心は無効であり、そうした回心者の信仰と生活は詐欺の結果であり、無駄であったということになる。僧院や修道院がすぐに思い浮かぶが、そのほかカトリック教会経営学校、クリスチャン・スクールなどはカトリック教会や他の教会の信仰、即ち世俗文化からの隔離は「周囲の文化を支配するシンボルとは異なった種類の聖なるシンボルを中心にして生活を立て直すことを助ける」(ストローメン『宗教発達の研究』)という信仰を反映している。
十九世紀の米国西部の開拓地では、参加者の回心のみを目的にした「キャンプ集会」が開かれた。その集会はキャンプの設置場所から説教のやり方、参加者間に許されている相互交際の内容に至るまで、すべて回心を目的に計算されたものであった(ブルース『みんなハレルヤを歌った』)。これは、未回心者が、通常の環境を離れ、宗教団体によって維持され統制(コントロール)されている別の環境に行く多くの具体例の一つにすぎない。別の環境で日常の生活の影響を忘れて、信仰を受け入れることができるように組織立てられた経験を他の参加者と共にすることができるということである(デマリア『宗教的回心の社会心理分析』、ブライアント、リチャードソン『熟考の時』参照)。上訴人たちは本法廷がそうした隔離環境施設を違法であり、「強制的」であり、詐欺であると宣言するよう求めているが、そのような結論は米国の宗教的伝統とは明らかに相反するものであり、深刻な憲法修正第一条問題を内包したものである。
多くの宗教で、隠遁生活が特別な地位を占めてきた。仏教では、僧侶は宗教の要諦を維持保存するものとされてきた。世俗の中では一般人が救済を達成することが事実上できないと考えられたからである。米国では隠遁する修道女は信仰に生涯をささげ、清貧、純潔、従順の徳目を守り、聖バジル、聖アウグスチヌス、聖ベネディクト、アシジの聖フランシス、聖イグナチオなどにより幾世紀も前に決められた修道院規律を守り、詳細に生活が規制されている献身的修道院生活を送ってきた(レクソー『僧院生活』)。
十九世紀のアメリカでは、「シェーカー」と呼ばれるキリスト再臨信者合同協会が世俗環境からの完全な隔離を主要信条とする生活共同体をつくり、規律厳正な独身共同体生活を要求した(メルチャー『シェーカー・アドベンチャー』)。そうした共同体は周囲の世俗的環境での生活とは明確に異なるようにつくられており、規則によって生活が規定されているという意味で実際に「統制されている」といえる。
上訴人たちの専門家の見解では、禁欲的生活や質素な環境は「統制されている」証拠であり、そのような「統制(コントロール)」は統一教会員自らの決定行為が本物かどうか疑わしいものにしていると見ている。実際には、そのような環境は多くの宗教が求めているもの、即ち神との一体化を一心不乱にめざすための質素で純潔な生活という理想像を代表したものである。
第二段階:「家族との接触を断ち無力感に陥れる」
シンガー博士は、統一教会が家族との接触を断ち、会員に「無力感」を与え、その無力感が「洗脳」を促進する、と説明する。しかしそのような解釈とは対照的に神学者たちは、家族との絆を弱めること、さらには断絶することさえも信仰を受け入れるために不可欠な過程であるかもしれない、と論じてきた。キリストはマタイによる福音書一〇章34~37節で、次のように述べている。「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。そして家の者が、その人の敵となるであろう。わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない」。
この聖句を解釈して、神学者ポール・ティリッヒは「家族は決して究極存在ではない」(『新しい出発』)と述べた。神を真剣に知ろうとする者は「父母兄弟姉妹から自由になることの悲劇的罪悪の危険を冒さなければならない」(同書)というのである。生まれ育った家族を愛の絶対的焦点と考えることは、クリスチャンが捨て去らなければならないこの世との協調なのである(ティリッヒ『永遠の今』)。例えば、メノナイト派は、真のクリスチャンは「キリストの十字架を自分自身が担う準備をし、神の名誉と栄光を必要とするならば、キリストのみ言葉を伝えるため父母、夫、妻、子供、所有物、自分自身を捨てる準備がなければならない、と定めている(ウェンガー『メノナイトの歴史と教義』)。
家族を超越することは困難で心の痛みを伴うものだが、時に自由をもたらし行動能力を賦与することでもある。シンガーは反対にこれが「無力感」をもたらす、と信じ、その「無力感」の結果としての信仰には信頼性がないと信じている。家族から離れることは明らかに困難であり、つらい過程である。人生の中では多くの場合、成長のために解放ということが必要であるが、特に信仰に到達する過程では、それがより重要である。シンガーは多くの宗教に共通する条件、即ち信仰への路程において時に痛みを伴うが、必要であると認識されている段階の条件について批判している。
第三段階:「入会者の社会的行動を禁止するための、一連の報奨、罰則、経験を通しての組織幹部による操作」
第四段階:「幹部の要求する行動を引き出すための一連の報奨、罰則、経験による組織化と操作」
この二つのほとんど区別できない「段階」では、多くの宗教の罪と許しについて、また会員がグループの信仰より忠実に生きようとする努力について、否定的にシンガーが説明するものである。しかし回心には罪意識と自分の犯したいろいろな罪に対する自覚が重要な要素となる。「罪が意識させられる。そしてそれによって引き起こされる痛みは切実に解放を求める」(ジャンシー『宣教成功の心理学』)。「キリストについて説教するということは、逃れがたく気を重くさせる罪の問題について直接話すということである。罪を強制的に感じさせる必要はない。人々はすでにそれを感じている」(グラハム)。回心は「宗教的実在に対する堅固な信仰の結果としてこれまでの分裂した、意識的に悪い、劣等で、不幸な自分が、統一された、意識的に正しく、優越した、幸福な自分になる」過程である(ジェームズ『宗教経験の多様性』)。
回心はまた新しい生活様式の受け入れであり、宗教は篤信者に常に誘惑を避け、純潔を保つための教育と指針を与えてきた。宗教団体は会員の全生活について気を配るものであり、それは単に礼拝堂に会員が実際にいる限られた間にとどまらない。救済の約束と天罰の脅威は宗教的信仰生活のすべてに影響力を与えている。イエズス会の「行動書」(注9)には「どのように感じるべきか」という明確な指示まであり、呼吸の仕方や姿勢に関する特別な技術も指示している。多くの宗教でもイエズス会ほど詳細ではないとしても類似した指示が行われている。ユダヤ教では神聖冒罪に罰が科せられ、信者は何を食べてよいか、いつ働いてよいか、何を着てよいか、明確に定義され「統制(コントロール)」が行われている。安息日には正統派ユダヤ人はお金を扱うことができず、マッチをつけることができず、糸を持つことができず、電話を使うことができない。キリスト教の中でも伝道に熱心な教団は、会員に街頭に出て伝道するよう指示しているという意味で明確に信者の行動を規定している。モルモン教の大多数の男性は、十九歳になると自費で十八カ月間伝道に行く。その期間は家族、友人と離れ、彼らへの電話も禁止され、その代わり一週間に一回だけ許されている手紙に依存しなくてはいけない。彼らの主要な仕事は戸別訪問である。映画を見ること、水泳、オートバイ、テレビ、ビデオゲームは許されていない。洗礼を何人に与えたかで成功が計られる(ジャペンガ『十代宣教師の戸別訪問生活』)。ラマダンの期間に回教徒は日中断食をしなければいけない。年間を通して右手で食事をし、左手で食物にさわってはいけない。肉は生きているうちにノドを裂かれた動物の肉しか食べてはいけない。カトリックでは四旬節の時は、金曜日は肉食できないし、懺悔の表現として何かを犠牲にしなければならない。
こうした例はごく少数の例にすぎない。こうした例は次のような重要点を明確にしている。入会者は信仰を言葉だけでなく、行動によっても表現するということである。そして暗示、示唆命令の結果かどうかは別にして、霊的な純潔性が目標であることを常に知っているということである。シンガー博士が教会によって操作された行動と見るものを、教会や社会一般は信仰の熱心な実践行為として尊敬し崇めてきたのである。
第五段階:「組織批判ができない閉鎖された論理システム」
シンガー博士は「論理の閉鎖システム」が存在する場合、回心の有効性を割引して考えねばならないという。最近カトリック教会で教義をめぐり議論が起こったが、それをみても特定の宗教の是非を、そうした物差しで測るシンガー博士の主張は意味のないことが分かる。法王無謬論はそのような「閉鎖システム」なので、カトリック教会のいかなる回心も疑わしいものになるのだろうか。破門宣告の脅迫の存在は、「洗脳」宗教の証拠なのだろうか。福音主義者が力強い教義陳述的神学を肯定するよう求められ、彼らの教義陳述的信仰が「神学的に論理の一貫性があった」場合に、それは大衆を「洗脳」する計画なのだろうか(ボリック『カール・バルトと宣教主義』)。初期キリスト教会は信者を守るため、いろいろな「異端的」信仰に反対し、その排除のために闘った。とすれば、弟子たちは「マインド・コントロール」に従事したのだろうか(キャノン『宣教主義の現代的意味』)。
宗教の歴史は、教会の教主を中心とする信仰の上下構造に従順に従うことが高貴な義務である、とする例証であふれている。多くの宗教が、信仰深いということは心と体の従順さを必要とすると解釈してきた。シンガー博士はこのような心と体の従順さの要求を、批判を許さない「論理の閉鎖システム」と呼んでいる。シンガー博士のこのような「段階」の説明は、すべての宗教が信者に対して信仰の教義を指示、指導し、誤りを正そうとすることを疑わしいものにしてしまう。
第六段階:「特別な無情報状態の存在」
シンガー段階論最後の段階は宗教の内向的な方向性について焦点を当てている。歴史的に多くの宗教の篤信者たちはこの世から隠遁しようとし、個人が物質に惑わされず、心が外的世界の不必要なものによって散漫にならず、神を知ることができる場所を見つけようとしてきた。そうした目標は統一教会から始まったわけではない。宗教の歴史と同じ古さがある。若い回心者たちは「世界に対していくら警戒しても警戒しすぎることがない。この世で見るものほとんどすべてがキリストから彼らを遠ざける傾向にある。回心者たちがキリストから目を離せば、心もすぐにキリストから離れてしまう」(プロクター『宗教引用の宝庫』)。
カトリック教会は数世紀にわたって、信者が読んではいけない禁書リストを作ってきた。ということは、カトリックの信者は「洗脳」されたので信仰に入ったのだろうか。日常生活の些細なことに神経を使わず、信仰の中心的事柄に精神を集中しているからといって、それらの人々の回心や信仰の真実性を疑えるだろうか。シンガー博士が「特別な無情報状態」と呼ぶものは、信仰者がこの世的出来事による意識散漫状態から逃れて、信仰の中心を求めようとする願いの現れであり、上訴人たちがこの宗教的献身行為の重要な要素を見下し、不信するのは、宗教と宗教の自由への驚くべき冒である。
結論
法廷助言者たちは、シンガー博士の「洗脳」理論が意味するものは、本件の核心であると考える。統一教会に対する「洗脳」しているという非難は、ほとんどどの宗教をも非難する結果になる。なぜかというと、その中心的内容において「洗脳」理論は、宗教的信仰そのものを罪悪視するからである。
憲法修正第一条の宗教条項は宗教の自由を保護し、こうした世俗的非難に強く反対している。その理由は、国家は信仰の正邪を区別する能力に欠けているばかりでなく、そうした区別は科学や歴史、文化によってではなく、偏見、偏向、恐れなどの影響を受けて通常行われるためである。
下級裁判所は正しく認識し、米国の歴史経験からも分かるが、統一教会員が行っている「行動」は公共の健康と安全を脅すことはなく、法的基準からも受け入れられるものである。したがって国家は、国民が統一教会に入会し、あるいは関係をもつことに対し、無関与でいなければならない。「米国においては、いかなる宗教的信仰を保持することにも、いかなる宗教行為を実践することにも、そしていかなる宗教的教義を教育することにも倫理・財産法に触れず、個人の権利を損なわないならば自由かつ完全な権利が与えられている。法は異端を知らず、特定の教義を支持することがなく、いかなる教会も設立しない」(「ワトソン」対「ジョーンズ」判決1871年)。
上訴人たちは、「洗脳」問題は信仰の真実性を評価しないので、法廷が判決を下すことができると主張する。しかしそうした主張は宗教経験の誤解と曲解である。この問題を扱ったいくつかの法廷は、まさしく「洗脳」の主張は信仰の真実性を評価するので許されないと考えた(「モロニ」対「統一教会」判決1986年、同控訴棄却1987年、「ルイス」対「統一教会」判決1983年)。
加えて、こうした理論を当てはめ、執行することは、憲法が定める「完全で、恒久的な宗教的活動領域と政府権限の分離」(「アビントン」対「シェムプ」判決1963年)に違反することである。
C.上訴人たちの「洗脳」の申し立ては宗教的信仰の妥当性を、許される限度を越えて評価するものであり、教会と国家の分離の命令に明白に違反するものであるので憲法違反である
信仰の妥当性の評価を禁じた論議は「米国」対「バラード」判決(1944年)に一番詳しく書かれている。しかしその論議の結論は、信仰の自由の概念それ自体にもともと内在していて明白である。「異端裁判は米国憲法と矛盾する。人は自分で証明できないものを信じることができる。自分の宗教教義や信仰について証拠を要求されない。宗教的体験はある人にとっては肉身生活のように現実であるが、別な人には理解できないかもしれない。しかし、人間の知る範囲を超えたものであっても、法のもとで疑わしいとはいえない。多くの人々は新約聖書から福音を得ている。しかしそれらの人々は、その教えが虚偽の内容を含んでいるかどうかを決定する陪審にかけて調べられることを全く予期していない。新約聖書の奇跡、キリストの神性、死後の世界、祈りの力などは多くの人々の宗教的確信の根底にあるものだ。もし、敵対する陪審員がこうした教義が誤りであると判断し、信者を牢に送るようなことがあれば、宗教の自由は全くなくなってしまう。憲法の起草者たちは、各種の極端な宗教的見解、お互いの見解の不一致に起因する暴力ざた、また誰もが同意できるただ一つの教義もないことについて知らないわけではなかった。政府を設立するにあたって、いろいろな対立する見解にできるだけ幅広い寛容を与えようとした。神と人との関係は国家の関与することではないようにした。人には自分の好きなように礼拝する権利と自分の宗教的見解の真実性について、誰からも問われることがない権利が与えられた」。
「バラード」判例は、これまで正統性や妥当性のテストを多数派が宗教的信仰に対して実施しようとする直接、間接の試みについて適用され、これを打ち破ってきた。例えば「米国」対「シーガー」判決では、少数派宗教団体に所属する良心的徴兵忌避者について、最高裁判所が「神学者や検察官などは忌避者の言う『絶対存在』の存在やその概念の真実さについて問いただしたいと思うかもしれないが、そうした調査は政府には禁止されている」(1965年)と述べている。最近では「トーマス」対「検討委員会」判決(失業手当支給問題)で、法廷が「申請者と同僚の労働者が共通する信仰の命令を、どちらが正しく信じていたか、について調査することは法廷の能力範囲内に入らない。法廷は教典解釈の独裁者ではない」(1981年)とした判例がある。また「バラード」判決は、これまで「洗脳」「マインド・コントロール」関連裁判においても直接使われてきた。「カッツ」対「控訴審」裁判(1977年)の禁治産者保護手続きの中で、統一教会の会員が「洗脳」されたとシンガー、ベンソン両博士は証言した。しかし法廷はこの証言を拒否し、「生活様式が変化したということで、禁治産者保護行動のための証拠が提出された。しかし法廷がその変化について、信仰によるものか、それとも強制的説得によるものかを決定するよう求められた場合に、それが信仰の妥当性を調査し質問することにならないといえるだろうか」と述べた。
それゆえ個人は自分の信仰が通常なもので、社会に受け入れられているというようなことの証明を求められず(「ウィスコンシン」対「ヨーダー」判決1972年)、また個人が自分の信仰を「社会的に受け入れられている論理的で、矛盾のない、他の人々に理解できる」ような理性的過程によって選択したことについても証明を求められることがない(「トーマス」判決)。特に信仰を重視して合理性を軽視する信仰者(ケリー)や、自分の信仰が「究極の関心」(ティリッヒ)であることを主張して宗教的献身の深さを表現している信仰者に対して、信仰の熱烈さがマインド・コントロールや強制的回心の証拠として使われるべきではない。そうしないと「特定の信仰の信者であること自体がマインド・コントロールの証拠と見なされるかもしれないし、マインド・コントロールされていないと証明する方法は、その信仰を放棄することしかないであろう」(コメント『マインド・コントロールか熱烈な信仰か』1978年、シャピロ『ロボット、人間、信仰の保護』1983年も参照)。
上訴人たちは不幸なことに、こうした基本的原則を理解できず、法廷にも同じことをするよう求めている。実際に入信過程の妥当性は、信仰自身の妥当性と分離することができない。一方を判定すればもう一方も判定することになってしまうのである。「洗脳」理論が統一教会の信仰の妥当性に疑問を投げかけるものであることを、シンガー博士自身が明白に示している。
上訴人バーバラ・ドール(注10)は、回心の様子を宗教的表現で次のように述べている。「私は冷たい土の上にひざまずきました。夕暮れになり、丘の上は暗くなりかけていました。私は祈ることにしました。何が起こるか知りたかったからです。『神様、あなたが存在されるかどうかまだよく分かりません、もし存在されるのなら何か印を見せてください。この教えが本当かどうか教えてください』と祈りました。すると数日前からのすべての感情が、ダムが切れたように流れ出しました。みんなは真理を得たと強く確信しているようでした。みんなは信じるのではなく、知っていました。今までの自分を捨ててみんなのようになれたらどんなに素晴らしいだろう。善悪の区別を知っていて。私はすべてのコントロールを失いました。空が落ちて、地球が私を包み込むような感じがしました。私の生命が自分の眼前で文字どおりパッと光り輝く感じでした。求めさまよってきた思い出が頭に浮かび上がり、クリスチーナやノア、ダースト博士の声とまざり合い、雷のような声が頭の中に響きました。『これは真理だ』、『善のため献身しよう』、『みんながあなたを愛している。私たちはあなたの家族だ』。そして私はすすり泣き始めました。私は別人になったのです」。
しかしシンガー博士はこうした経験を単なる「感情的崩壊」と性格づけている。信仰者が大切にする信心深い生活の秩序正しさと神秘的内容に対して「専門家」は、「社会的、物質的環境の統制(コントロール)」としか見られない。日々の生活で信仰者が信仰の意義を実感する実践として覚醒する内容に対して、シンガー博士は「幹部が願う行動を引き出すための一連の報奨、罰則、経験による操作と組織化」と呼ぶ。また信仰者が聖書を自分の存在に意義と目的を与えてくれる教典として大切にし、神の言葉、またその権威ある解説者をあがめ尊ぶことに対して、シンガー博士は「組織の批判ができない」、「閉鎖された論理システム」としか見ない。
本件の根本的問題はこのように明白である。信仰を明示する心像理想、実践は、シンガー博士にとっては人間の経験の歪みでしかない。結果として、上訴人たちの統一教会への回心が本物だったかどうか、「強制的説得」ではなかったのかどうかを決定するために、法廷は宗教的信仰の明示するものについて判断するという許されざる立場に置かれてしまうであろう。この意味で、ガイ・バラードがイエスに出会ったという主張の「真理」と、上訴人たちの回心の「真理」は同じ場所に信頼を置いている。その信仰を形成する「教義と行為」の妥当性である。
憲法問題は別にしても、こうした法廷に足を運んで法的「長論議をすること」が全く無駄なことは明白である。歴史と比較宗教学の教えるところでは、回心によい時期とか場所は決まっていない。それぞれの宗教が個人の回心の時と場所や環境についてそれぞれの考えをもっている。そして宗教的信仰の多種多様な明示から一つの絶対的「真理」を言い当てようとすることが誤りであるのと同じように、宗教的伝統のもつ非常な多様性から一つの「正しい」回心経験を引き出そうと試みることは誤りである。
しかし、これは上訴人たちの専門家が正にやろうとしていることにほかならない。シンガー博士の強制的説得理論と「洗脳」理論は、真の回心(彼女が悪と判定することが存在しない状態と言うのだが)という対照的状況の存在を前提にしている。実際シンガー博士が「洗脳」「強制改宗」と判定する特徴は正反対の特徴に注目すると、シンガー博士が真の回心をどのようなパターンと考えているのかが分かるようになる。しかし、司法がそのようなパターンを支持することは憲法の官製宗教設立禁止条項に違反することになる。
憲法は「真理の」宗教と「真理でない」宗教を区別できないように、「真実の」回心と「真実でない」回心を区別することができない。そのため、もし法廷がシンガー博士の真の回心基準を受け入れ、その基準に合わない教会に賠償責任を負わせるとすれば、これは官製宗教設立禁止条項違反である(「グランドラピッズ学校区」対「ボール」判決1985年)。憲法修正第一条は法廷が宗教的回心を「マインド・コントロール」と性格を再定義したり、「ニセ」あるいは「不健康な」信仰を保持宣教しているという理由で宗教に対する訴訟を起こすことを受け入れたりすることを許していない。シンガー博士の主張に合憲性をもたせるため、上訴人たちは信仰と信条の性質について狭義の誤った概念を適用している。そして上訴人たちは信者が社会的に受け入れられる状況で信仰が伝えられたことを示すことにより、自分の信仰の正当化をするように要求することを法廷に願っている。
しかしながら、「バラード」判例が教えるものは、その場合の憲法違反は、被告が自分の宗教が真理であると証明しなければならなかったことではなく、国が被告に対し自分の宗教の正当性を証明するよう求めたことにある。もし国が信仰を規制することを許されていないとすれば(明らかにそうなのだが)、信仰が道理にかなった、魅力的な、有益なものであるべきこと、あるいは国がよいと考える機能だけを果たすものであることを、国は要求することはできない。
上訴人たちが理解していない点は、宗教的教義の妥当性と、その宗教的教義に対する信仰の妥当性は憲法上区別できないということである。法廷には宗教的経験を評価できる基準は存在していない。宗教は科学者や「専門家」を求めるのではなく、信者を求めるものである。信者の支持が教義の妥当性を決定する唯一の証拠である。信者の妥当性、真実性、健康性を調べることにより、上訴人たちの専門家は信仰そのものの妥当性を攻撃している。
したがって、「洗脳」の概念は、本件のように同意できない意見や信仰体系に対してこれを非難することに使われる概念である。そして民事損害賠償の根拠として機能するとすれば、憲法修正第一条と根本的に相反する概念である。「洗脳」概念は一度受け入れられれば、その適用範囲は無限である。本件の下級裁判所と「カッツ」裁判で拒否されたように、人気のない宗教団体を非難し審判する道具としての「洗脳」理論の使用は拒否されるべきである。
おそらくシンガー、ベンソン理論を使用することの違憲性が分かったのか、上訴人モルコは法廷で「過度の影響力」という理論を持ち出してきた。これによって統一教会の実体を知ったあと入会したことの説明をつけようとしている。それによれば「過度の影響力が課せられたため、思考能力が損なわれ、次に同意能力も損なわれた」という。モルコは専門家証言と同様の六つの「過度の説得」の特徴を挙げている。
普通でない、不適切な時に交渉の会話が行われる
交渉完了は普通でない場所で行われる
直ちに決定するようしつこく強要される
遅れると大変だと過度に強調される
多数の説得者で一人を説得する
第三者の助言者がいない(「オジドリ」対「ブルームフィールド学校区」1966年参照)。
こうした要因が法廷で宗教的回心に適用された前例はない。一目でこうした「要因」はシンガー博士の「六段階」を新しい装いで示したものであることが分かる。要因は被告の信仰の妥当性を評価するようになり、宗教行為への重荷となり、すべて憲法違反である。実際「普通でない不適切な時」「普通でない場所」というのは何だろうか。もしほかに残された代わりの道は地獄行きであるとしたら、要求は「しつこい」というのだろうか。多数で説得するのは宗教的でないのだろうか。教会に入会する人は、第三者の助言や承認がいるのだろうか。回心は、別な人の意見を聞かなければ本当でないというのだろうか。
モルコは専門家証言を取り下げ、「過度の影響力」とレッテルを貼り直したが、憲法上の問題は解決できていない。モルコが法廷に要求している任務はいずれの場合でも同じであり、同じように憲法違反である。上訴人モルコは古い葡萄酒を新しいビンに注いだにすぎない。憲法修正第一条の自由にとっては致命的な作り話であることに変わりはない。
D.上訴人たちの他の主張は、憲法違反の「洗脳」理論の単なる繰り返しである
上訴人たちは意図的な情的致傷、虚偽の監禁の賠償(リール)、献金返済(モルコ)などを求めている。虚偽の監禁については、暴力を使った容疑はなく、かわりに上訴人リールの信仰が本人の意志に反して教会にとどまるようにさせたという。自分は「洗脳」されたと主張することで自分が同意した責任から逃れようとしている。上訴人リールの主張する、強制、詐欺、虚偽はいずれも、これまで説明した憲法違反の「洗脳」理論を言い直したものである。リールは下級裁判所が意図的に情的な致傷の申し立てを拒否したことを批判して、次のように述べた。
「法廷の判断は、統一教会員たちが強制的説得を意図的に使い、意図的な詐欺の計画を立てたという事実を見ていない。心理学的説得は上訴人の信仰体系を取り去り、虚偽の紹介により統一教会の環境に引き入れた。公共に対する意図的なウソと詐欺の計画は、法的規制の対象となる異常な行為を示している」(リール陳述書)。
「強制的説得」と「心理学的説得」というあいまいな理論に依存しているが、上訴人リールが再度主張していることは、自分は「洗脳」されたので、意図的に情的な傷を与えられたという主張は有効だということである。上訴人モルコは「強度の影響力を与えられることによって、能力を失わさせられ」教会を信頼するようになると、教会員から「両親はサタン的であり、父親は悪人である」と教えられたという。モルコはここで宗教的解放に、時に付随する心の痛みや傷を使って教会からカネをまき上げようとしている。すでに述べたように、宗教的伝統は地獄行きの脅迫や罪の覚醒などの特徴をもつが、これらは人を罪から引き離し、より高貴な生活をさせるものである。「洗脳」理論や「過度の影響」の主張により、この伝統を攻撃しようとするいかなる試みも理論的に座礁する。そのような攻撃は信仰と宗教行為の経緯の妥当性について、「洗脳された」と判定することに必然的につながる。同様に、献金返済要求でモルコは、教会員が過度の説得によって自分の意志を支配するようになり、六千ドルの献金を「天の父」にする気にさせられた、という。再び、被告(教会員)が自分の「意志を支配するようになった」という主張は「洗脳した」という主張であり、本法廷の権限の及ぶところではない。
残された申し立てはすべて法廷が「洗脳」理論を受け入れるという前提に立ったものであるので、一つひとつの申し立てに対して被告統一教会を支持する略式命令の判定が出されたことは正しかった。
E.「宗教を押しつけられないため」のいかなる申し立ても、法廷は憲法上、受け入れることができない
上訴人リールは法廷に、個人が宗教を押しつけられないよう、個人を何らかの形で保護することを求める驚くべき申し立てをしている。当初、本件では、法で定義されるような「暴力」を統一教会員たちは使わなかった、という点では双方に合意があった。ところが、上訴人リールは前の洗脳議論をほかの装いをつけて再提出しているのである。上訴人リールは憲法修正第一条の宗教の自由保障条項が、宗教団体あるいは修正第一条で守られる他の話し手の説得しようとする試みから個人を保護する、という点について判例を示さなかったし、示すことができなかった。上訴人リールによって示された判例の一つひとつは、他の個人によってではなく政府によって強制されたり、援助されたり処罰されたりする信仰から、個人が憲法によって保護される、というものである。それは、他の個人(宣教者)の信仰から守られる、ということではない(「ジレット」対「米国」判決1971年「異なった宗教の取り扱いをなくすことが、たぶん官製宗教設立禁止条項の中心目的である。即ち、宗教に関する政府の中立を保障することの目的である」、「アビントン」対「シェムプ」判決「宗教の自由保障条項の目的は、政府によるいかなる侵害をも防ぎ、個人の宗教の自由を保護することである」)。
憲法修正第一条は政府と市民の関係を定義したもので、市民と市民の関係を定めたものではない。連邦最高裁判所はリールの申し立てである、憲法修正第一条の保護する信仰の自由は、個人の心(マインド)が他の個人(の説得)からも守られるべきであると解釈すべきであるという主張に、次のようにすでに適確に答えている。「自分の見解を他人に説得するため、説得者は政界や宗教界の有名人の誇張をしたり悪口を言ったり、さらには事実と違う話をすることもあった。しかし、この国の国民は歴史を通して学ぶことにより、そうした自由は長期的観点から見て民主主義下の市民の啓発された意見と正しい行動を奨励するのに絶対必要なものとみなしてきた。(「キャントウェル」判決)。
F.結論
上訴人は「洗脳」の申し立てを通して信仰の核心を論じている。そうした申し立ての重大性は「個人が自分の好きなように礼拝できる自由に対する最大の危険の一つは、政府が一つの特定の祈り、一つの特定の宗教礼拝形式を公的に承認することである」(「エンゲル」対「ビタレ」判決1962年)という憲法の起草者たちの知恵を支持している。
信仰の妥当性と信仰に至る回心の妥当性について、それを分けることができるという上訴人の考えは、宗教の性格を誤解したものである。「人類の歴史は宗教の歴史と分けることができない。歴史の始めから多くの人々は、祈りによって、この世界が夢見ること以上に多くのことがなせる、と信じてきたと言っても多分過言ではない」(前掲判例)。
もし「われわれの先祖が受けた宗教的迫害時の深遠な個人的経験」が何らかの意味をもつとすれば、国や法廷は宗教的信仰や回心の妥当性を評価することはできず、憲法修正第一条の宗教の自由保障条項の目的と価値に忠実でなければならない。宗教の自由は、上訴人たちのいう「洗脳」の申し立てが法廷によって却下されること、そして、そのような「洗脳」の申し立てに基づいたすべての訴訟行為は却下されなければならないことを命じている。
結 論
法廷助言者たちは、上訴人たちの申し立ては統一教会員たちと他の宗教の信者たちの宗教行為に大きな脅威を与えるものであると信じる。控訴裁判所の裁定が正しいと認定されねばならない。
一九八七年二月二十六日
(提出担当弁護士)
アール・W・トレント
(署名)
注
(注1)キリスト教の歴史的宣教活動は「大いなる命令」と呼ばれるものの上に成り立ってきた。「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、……あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ」(マタイ 二八・19-20)。
(注2)上訴人たちは、統一教会員が誤り伝えた唯一の目的は上訴人、リール、モルコ、ドールを入会させることであったと主張し、これが実際に詐欺申し立ての根拠であると認めている。
(注3)ユナイテッド・メソジスト教会司教のウイリアム・コーエンは、「それゆえ宣教は選択が自由なものではない。宣教必須である。キリスト教の多くの特徴のうちの一つではない。キリスト教信仰の中核を表現する、そのものである。教会が単なる維持のための組織になってしまうと、教会は存在しなくなる。なぜなら教会の性質は、それ自身を保つことができず、キリストが十字架にかけられたように、他のもののためにささげなければならない。イエス・キリストに世界をつなげるためである」という(キャノン『宣教の現代的意味』)。
(注4)ローマ法王パウロ6世はEvangelico Nuntiandiの中で次のように述べた。「われわれは、すべの人々に宣教するということが教会の主要な使命であることを再度確認したい。宣教は実際に恩寵であり、教会にふさわしい天職であり、その最も深い性質である。教会の存在意義は宣教にある」。
(注5)上訴人モルコは次のように証言した。「これは宗教的に関係しているか」と尋ねたとき「違う」という答えだった(モルコ陳述書Ⅰ・95)。上訴人リールは最初に教会員であるゼリンスキー、パーカー両名と話をした時、次のような会話があったと証言した。〈リール・問〉「これは宗教なの? そうだったらかかわりたくないわ」。〈パーカー・答〉「われわれはいろいろな宗教的背景から来ているよ」。〈リール・答〉「そう、分ったわ」(リール陳述書Ⅰ・31)。リールはさらに次のようにも陳述した。「あなたはムーニーなのと尋ねたところ」、「われわれはクリスチャンのグループです。しかしそれは言わないことにしている。言うとわれわれの考えを聞かずに帰ってしまうからだ。話を聞いて、われわれの考えがよく分かるまでは言わないことにしている」。あとになって「これはムーニーのグループなの」と尋ねた時「いや。われわれはムーニーではない。しかし文鮮明師の教えの一部には従っている」との答えがあった(リール陳述書Ⅰ・91)。
(注6)こうした規則が受け入れられると、宣教するクリスチャンは話しかけられるたびごとにすべて開示の義務を負うのだろうか。会話、講義などでその開示をいつすべきなのか。どんな情報を開示すべきなのか。教会名なのか、主要な信条なのか、指導者名なのか。こうした不確実な内容は宗教行為に「消費者保護」の詭弁を持ち込もうとする誤りを示唆している。
(注7)法廷助言者たちは上訴人たちの回心をもたらすため、暴力や暴力の行使の脅迫が用いられたという申し立てが全くなかったことを強調するものである。
(注8)略式判決に異議を申し立てた専門家証言では「六段階プロセス」について言及がなかった。「六段階プロセス」は「ミリアム」対「ムーン」裁判で提出されたシンガー博士の証言から取られたものである。この証言は無能な証言として法廷から正当に排除された。しかし、この「六段階プロセス」は上訴人たちの専門家の回心理論の一番完全な解説である。法廷助言者たちは、上訴人たちの専門家の最も整備された「洗脳」理論であっても、やはり憲法上認められないことを明らかにするためにのみ、この助言書で「六段階プロセス」の議論を進める。
(注9)新教の反対者は、この「行動書」を悪魔の著作と見た。イエズス会員を特別な住居に導き、奇妙な儀式をさせ、その後「霊に取りつかれたような青白い顔で帰ってきた」(ツロップ・ミラー『イエズス会の力と秘密』1930年)からであった。
(注10)バーバラ・ドールは本件と全く同様の訴訟を統一教会に対して起こした。法廷は教会の論告を略式裁判で否決、控訴裁判所が判決登録の執行命令を出した(「統一教会」対「上級裁判所」判決1986年)。ドールの申し立ては「モルコ」裁判の判決によって拒絶され実体をなくした。法廷は再審理を許可したが、準備審理を延期した。