第五章 統一教会の結婚観について


統一教会の国際合同結婚式は、同教団の最も神聖かつ重要な宗教儀式であり、宗教研究の素材としては非常に魅力あふれる素材でありながら、これに正面から取り組み、学問的な方法論に則って掘り下げた研究は、少なくとも日本には存在しない。そこでこの章においては、統一教会の結婚に関する欧米での研究成果の一つを紹介し、そこから派生する幾つかの問題について考察することにする。

 

 

第一節  ジェームズ・グレイス博士の研究

 

統一教会の合同結婚式と言えばすぐに連想されるのが、マスコミのセンセーショナルな報道である。とりわけ一九九二年に韓国ソウルで行われた三万組の国際合同結婚式の際には、芸能人の参加という話題性もあったため、その過熱ぶりは異常なほどであった。そしてその機に乗じて一部の反統一教会勢力が、マス・メディアを通じて合同結婚式に対するネガティブな情報を徹底的に流したため、一般社会にはこれは常軌を逸した結婚の形態なのだという認識が起こった。このようなマスコミの偏向報道によって歪められてしまった合同結婚式のイメージを矯正するためには、やはり学者による客観的で実証的な学問成果を通して、その実像を描き出すほかはないだろう。

本章はそのような学問的成果を紹介することを目的としているが、祝福あるいは合同結婚式というテーマに焦点を当てた文献は、日本では例によってイデオロギー的目的で書かれた反対派の書物がほとんどであり、客観的な学問のテーマとして扱ったものは皆無であった。ところが欧米の文献に目を向けると、まさにこの問題に正面から取り組んだ極めてレベルの高い研究成果が存在したのである。それは米国の宗教社会学者、ジェームズ・グレイス博士の著作『統一運動における性と結婚』(James H. Grace, Sex and marriage in the Unification Movement, 1985)である。この本の日本語訳は出版されておらず、その内容も日本にはあまり紹介されていないので、本章ではグレイス博士の著作の内容を中心として、統一教会の結婚システムについての社会学的な分析を行うことにする。(この本については、統一教会広報局編『統一教会の国際合同結婚式』〈光言社〉掲載の増田善彦氏の論文の中で一部紹介されている。)

 

客観的データに基づく研究

もちろん、アメリカにも偏向報道は存在する。一九八二年に六千組の国際合同結婚式が韓国ソウルで行われたとき、アメリカのメディアは非常に偏った報道をし、統一教会に反対することを目的とする一部の反カルト運動の代弁者としての役割を果たした。しかし一九八五年に出版されたグレイス博士の著作は、こうしたメディアによって作り上げられた合同結婚式にまつわる�神話�の一つひとつを批判的に検証し、統一教会における結婚の実像を非常に公平で客観的な立場で描き出している。また方法論においても、教会の内外、現役の信者と元信者の両方に対してインタビューを行っており、社会学的研究としての要件を十分に満たしていると評価されている。

グレイス博士がこの研究を行う上で適任者であると思われる点は、彼が神学と社会学の教育を両方とも受けているということだ。神学を修めているということは、キリスト教神学との比較において統一教会の教義を理解できる上に、信仰者独特の内的言語をも理解する能力を有するがゆえに、宗教的現象をいたずらに単なる社会現象に還元するという社会学者にありがちな過ちを避けることができるという利点がある。また社会学を修めているということは、単なる教義の解釈や批評にとどまらず、フィールド・ワークに基づいた実証的な研究が可能である上に、何よりもより大きなアメリカ社会全体との関係において、統一教会の結婚に対するアプローチがもつ意味を考察できるという利点がある。

グレイス博士は自身の研究の目的を「統一運動における性と結婚について経験的なデータに基づいた�客観的な�描写を行い、それがグループ内部においてどのような機能を果たしているかという社会学的な分析を行うことにある」(『統一運動における性と結婚』(英文)一一ページ)としている。この�客観的な�描写を実現するために彼が取った方法が「記述的なアプローチ」(同二一二ページ)と呼ばれるもので、具体的には、この祝福や合同結婚式というものが統一運動内部の人々によってどのようにとらえられているかを理解しようと努め、それをそのごとくに記述するという方法である。そして批評的な見解を述べる場合には、自分個人の主観的な見解に基づくものであるとはっきり断ってから述べている。また、得られた知見を分析するときにも、客観的なデータとその社会学的な分析を明確に分離しているがゆえに、社会学者が陥りがちな還元主義を避けることに成功しているのである。

 

著書の概略

それではグレイス博士の著書の概略を紹介しよう。全体の構成は八章からなっており、第一章はこの研究の動機と目的について述べている。グレイス博士によれば、統一教会の性と結婚に対するアプローチは現代アメリカ社会の中では非常にユニークなものであり、とりわけ自分の配偶者を自分で選ばないという点は、自由恋愛至上主義の一般的社会通念と対立するものであるにも関わらず、そのような運動が多くのアメリカ人の心を引き付け、なおかつ長期間にわたって信仰共同体を維持し得るのはなぜか、という疑問からこの研究を出発したということである。

第二章は、性と結婚に対する統一教会のアプローチを、その教義の面から分析している。すなわち、創造・堕落・復帰という教義のフレームワークの中で、性と結婚の問題がどのように扱われ、それがいかに祝福という宗教行事と結び付いているかを説明している。

第三章は、統一教会の性倫理、すなわち婚前交渉や同性愛の問題に対して統一教会がどのような価値観をもち、また具体的にどのように対処しているかを扱っている。

第四章は、教会内部における両性の役割、すなわち教会内部において男女は差別されているのか、それとも同等の権利を与えられているのか、という問題を扱っている。

第五章は、祝福前の独身メンバーの禁欲的なライフ・スタイルと、その意味を扱っている。

第六章は、祝福を受けた統一教会のカップルが、家庭をもつ前の聖別期間や、家庭を出発した後にどのような体験をし、どのような課題に直面するのかを豊富なインタビューに基づいて描写している。

第七章では、それまで積み上げてきた客観的なデータを、社会学の理論によって分析している。ここで彼は、十九世紀にアメリカで発生したユートピア主義的な信仰共同体における結婚のあり方と、統一教会における結婚のあり方を比較して、信仰共同体の維持・発展という観点から、それがどのような機能を果たしているのかを社会学的に分析している。

第八章では、統一教会における結婚のあり方が将来どのような課題に直面し、どのように変化していくのかを著者なりに予測している。また現代アメリカ社会を背景として見たときに、統一教会の結婚に対するアプローチがいかなる意味をもつかを論じ、一般社会が統一教会における結婚のあり方から学ばなければならないことを提示している。

 

以上簡単に概要を述べたが、グレイス博士の研究は一九八〇年代前半の調査という点で若干古さは感じるものの、大きな間違いや誤解を発見できないほど、確かな情報源に基づいた手堅い研究である。かといって、統一教会にとって都合が良いことだけを書いているわけでもなく、教会内部に現実に存在するさまざまな問題をも冷静かつ客観的に扱っているということにおいて、非常にバランスの取れた研究であると評価できる。それでは、グレイス博士が扱っている個々の問題を詳細に検討していくことにしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第二節  性と結婚に関する価値観

 

グレイス博士の著作『統一運動における性と結婚』は、主として社会学的な分析を目的とした研究であるが、宗教団体を扱う上でその教義や神学の占める重要性をも深く認識しているという点で、非常に優れたものになっている。社会学というものは、往々にしてある集団が取る行動を、その組織の維持やメンバーの統率という観点からのみ説明しがちであるが、とりわけ宗教団体の場合には組織の利益を越えた強い価値観が存在し、それがある行動を引き出す強い動機となっている場合が多い。そのような意味で、統一教会の祝福の行事も、それが教会内部のメンバーにとってどのようにとらえられているかをまず理解しなければ、本当にその現象について理解したとは言えないのである。これは宗教学の世界では「内在的理解」とか「現象学的アプローチ」と呼ばれているものである。

グレイス博士の研究は、まさしくそのような立場から出発している。彼の著作の第二章は統一原理の概要を、とりわけ性と結婚に関係の深い側面を中心として解説しているが、このために彼は『原理講論』を通読し、その神学的枠組みを理解した上で、文鮮明師の説教集にも数多く目を通している。その上で、彼は統一教会の教義は、従来のキリスト教神学と比較して、性と結婚に関する問題が神、創造、堕落、および救いに関する教義の中核を占めているという点において非常にユニークであるという見解を示している。すなわち、性と結婚の問題はこの運動の世界観の核心部分なのであり、そのため必然的に統一教会における正当な結婚は、神学的に定義されるというのである。

しかし一般に、宗教団体においてその教義が必ずしも厳密に信徒一人ひとりの行動様式を支配しているとは限らないという問題がある。そこで彼は統一教会信者の生活のリアリティーに迫るために、年齢層、性別、人種、教会における位置・役割において偏りがないようなサンプリングを行って信徒にインタビューし、統一教会における性と結婚に関する教義が信徒の考え方にどのくらい影響を与えているかを調査した。その結果彼は、アメリカ社会全般と比較して、統一教会における結婚は宗教的な教義によって規定されている側面が非常に強いという確証を得るに至ったのである。グレイス博士は、宗教的教義が信徒の生活を強く支配する傾向は、ユートピア主義的性格をもつ教団の草創期によく見られるもので、世俗化された既成のキリスト教会とは好対照をなすものであると説明している。

 

統一教会の性倫理

それでは、グレイス博士が観察した統一教会の性倫理とはいかなるものであろうか。グレイス博士はまず、伝統的なキリスト教の倫理観の中に潜在しているアウグスティヌス主義とは異なり、統一原理は性欲そのものを原罪の結果とは見ておらず、むしろ神から与えられた自然な人間の性質であると見ていると指摘している。すなわち統一原理においては性欲や性行為そのものが罪なのではなく、それが神を中心とする正しい時期、動機、関係性によるものであれば善であり、それに反するものであれば悪であるととらえている、というわけだ。

この時期、動機、関係性を誤って性関係を結んでしまったのが人類始祖の堕落であり、それがすなわち原罪であると解釈しているために、論理的な帰結として、神を中心とする正しい時期、動機、関係性に従って結婚することによって原罪から解放される、という図式が統一教会における救いの核心となっている、とグレイス博士はとらえている。

統一原理によれば、性というものは自己中心的な(サタン的な)動機に基づけば最も破壊的なものとなり、反対に神中心の動機に基づけば、人類を復帰し統一する偉大な力となる。このように性は、その動機となる愛の方向性によって、最も醜いものにも最も聖なるものにもなり得る。したがって統一教会の合同結婚式は、この性関係を聖化するための宗教儀式として位置づけられているというのである。

 

結婚を神聖にするための信仰生活

グレイス博士の観察によれば、統一教会における未婚の男女は恋愛や性交渉が全面的に禁止された極めて禁欲的な信仰生活を営んでいるが、これは結婚を神聖なものにするという究極的な目標のための準備期間としての意味をもっているという。

そしてこの期間における性的純潔は信仰上絶対的な要求である。その他の事柄に関しては統一教会の倫理には状況倫理的な側面があるが、こと性倫理に関する限り、それは絶対的な性質を帯びている。これは性の問題がこの教会の核心部分に当たるからであるとグレイス博士は指摘する。グレイス博士が実施したインタビューの結果によれば、すべてのメンバーが婚前の性交渉はそれ自体悪であり、未成熟な段階のセックスであるため、そこには真の愛は実現されないと答えたと言う。すなわちメンバーにとって結婚前の禁欲生活は、自分自身の愛を清め、成長させるための貴重な期間であり、この期間に純潔を守ることは結婚を成功させるための絶対的な条件として認識されているのである。

グレイス博士が観察したアメリカの統一教会においては、入教したメンバーは最初の三年間、若い男女が共に活動するような環境下において、禁欲生活をすることが義務づけられているという。このような環境下では、当然異性に対する欲望が芽生えるのであるが、それらは、①祈祷、②自己の鍛錬、③活動への没頭、などの手段によって抑制されるという。これらは基本的に個人の努力であって、環境的に男女を分離することによって性的なトラブルを避けている修道院とは驚くべき違いであると同博士は指摘する。統一教会がこのような環境下で性的なトラブルを抑制することに成功している秘訣は、比較的プライバシーが抑制された共同体での生活と、未婚の男女はお互いに兄弟姉妹であるという家族的な一体感を形成している点にあると、同博士は分析している。

 

「祝福」がもつ意味

このような禁欲を実践する共同生活に入ることによって、メンバーは過去の習慣性を断絶し、祝福を受けて結婚するに値するだけの内的な資質を磨くために努力する。アメリカの統一教会においては、教会に来る前に性的に活発だった者や同性愛者だった者も多数いるのであるが、彼らは宗教的な価値観を共有した集団の中で一定期間生活することを通して、過去の習慣性を克服する戦いをするのである。また、統一教会では同性愛は創造の原理に反する不自然な関係であるとして否定されているので、この問題を克服できない者は、当然教会に残ることはできない。

グレイス教授は、統一教会信者にとって文鮮明師の祝福によってなされる結婚は個人の精神的成長における転換点となると同時に、神の国は理想家庭を通して実現されるというその教義により、神の国実現のための基本単位を形成するものであると指摘している。すなわち、祝福の結婚式は地上天国実現の象徴的な出来事としての意味をもっていると同時に、夫婦の永遠の絆を結ぶための重要な祝祭なのである(同一八一ページ)。このようにグレイス博士の著作は、統一教会の信徒にとって祝福がもつ意味を内在的にとらえ、正確に描写している。

 

 

 

第三節  結婚前の禁欲生活

 

前節ではグレイス博士の著作の中で、統一教会における結婚の意味をその教義や神学の面から解説した部分を紹介したが、この節からはより外側からの視点、すなわち統一教会を一つの宗教団体として見たとき、組織の維持や統率という観点から、その結婚に対するアプローチがどのように機能しているかという分析について紹介する。

 

共同体の維持・発展を左右する結婚制度

グレイス博士が統一教会における結婚の社会学的な分析をする上で立てた仮説は次のようなものである。「統一運動の性と結婚に対するアプローチは、そのメンバーの献身的な姿勢を維持し、強化するのに非常に有効に機能している」(前掲書一三ページ)。そして文献やフィールド・ワークによって得られたさまざまなデータによって、この仮説は検証されたという結論を出している(同二○四ページ)。これだけを聞くと、何やら統一教会はその結婚制度によって信者を教会に縛り付け、支配しているかのような印象を受けるかも知れないが、グレイス博士が言わんとしているのはそのような否定的な内容ではない。

そもそも結婚というものは社会的に承認された男女の結合であり、勝手気ままな男女の性交とは区別されるものである。婚姻は当事者の男女に対して「夫」「妻」という地位を与え、当事者の性関係に社会的承認を与えるとともに、婚外の性関係を制限し、この統率を通じて社会の基本構成単位である家庭の存立と、社会そのものの安定に寄与するという機能がある。したがって、いかなる文化圏にも結婚が成立するために必要なさまざまな規制や条件があり、それらはいずれも基本的にはその社会や文化を維持し、発展させるために形成されたものである。このような視点からすれば、統一教会も一つの社会である以上、その結婚制度がその共同体を維持・発展させるために機能しているというのはごく当然のことであると言えるのである。

グレイス博士は、十九世紀のアメリカに発祥したユートピア主義的な教団において性や結婚の問題がどのように扱われていたかという事例と比較しながら、統一教会の結婚形態の機能を分析している。同博士はこうした教団の中でも、メンバーの教団に対する献身的な姿勢と教団の結束を高めるために、性や結婚のあり方が極端な形で規制されている二つの例を挙げている。

まずシェイカーと呼ばれる教団は、そのメンバーに生涯独身を要求した。そのような禁欲生活をすることが罪に対する勝利であり、メンバーとしての証だったのである。さらに、メンバー全員が独身であることによって、その共同体全体が一つの大家族として機能していたと言う。一方、オナイダ・コミュニティーと呼ばれる教団では、一夫一婦制という「排他的な」結婚制度を否定し、すべての男性メンバーがすべての女性メンバーに対して結婚し、生まれてきた子供は共同体全体で養育するという独特な結婚システムを構築した。これは事実上の多夫多妻制であるため、常識的な倫理観からすれば受け入れ難いものであるが、グループの一体性を保つ上ではよく機能していたと言われる。

これらの教団において、伝統的な一夫一婦制の結婚が排除されてしまったのは、社会学的にはどのような原因によると考えられるのであろうか。それはメンバー一人ひとりのグループ全体に対する献身的な姿勢を何よりも優先させるためである。米国の社会学者カンターは、その著書『献身と共同体』(一九六八年)の中で、十九世紀のアメリカにおけるユートピア主義的な信仰共同体の中で成功したものとそうでないものとを比較し、(この研究では成功したか否かはその共同体が六十年以上継続したかどうかが基準となっている。)その違いは、その共同体がメンバーの献身的な姿勢をうまく引き出すような社会構造を形成できるか否かにかかっているという結果を導き出した。

そして、その際に男女の恋愛感情をコントロールすることは非常に重要な課題になると言う。なぜなら、男女の排他的な恋愛感情は、共同体全体に向かうべき献身の方向性を歪め、すべてを共有する一家族社会という共同体の秩序を破壊するとともに、メンバー間の嫉妬や敵対感情を誘発して共同体の分裂を招くからである。さらに、そのような関係は二人が共謀して共同体を離脱する潜在的要因となる。このためシェイカーやオナイダ・コミュニティーと呼ばれるグループは、伝統的な家庭の概念を共同体から全く排除してしまったのである。

こうした結婚や家庭の否定は、聖書の伝統に立って終末論的な信仰をもつ教団によく見られる。「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、かの世にはいって死人からの復活にあずかるにふさわしい者たちは、めとったり、とついだりすることはない」(ルカによる福音書二○・34)や、「『不妊の女と子を産まなかった胎と、ふくませなかった乳房とは、さいわいだ』と言う日が、いまに来る」(同二三・29)といった福音書の言葉に代表されるように、終末論を強調し、世界救済の使命を自認するような宗教団体は、恋愛、性欲、結婚、核家族といった個人主義的な事柄には優先権を置かない傾向がある。それは共同体の一体性を妨げ、その使命完遂の妨げになると考えられるからである。そこでは、すべての関心は共同体全体の目的に集中されていなければならない。とりわけ男女の恋愛感情は共同体に対する献身を妨げる主要な原因であり、これを放置すれば共同体の崩壊につながりかねないのである。

 

神を中心とする兄弟姉妹の関係

グレイス博士は、統一教会においてはこれが祝福前の男女間の恋愛禁止と、徹底的な禁欲生活として現れていると指摘する。同博士はさすがに社会学者らしく、統一教会において結婚前の男女が兄弟姉妹としての役割を演じていることは、一種のインセスト・タブー(近親相姦忌避)を形成していると分析している。つまり兄弟姉妹であるがゆえに性の対象として見ることが禁止されているというわけである。通常インセスト・タブーという概念は外婚(結婚が許されない範囲に関する規定)と結び付いており、一定範囲の親族との結婚を禁止するものである。しかし統一教会における「兄弟姉妹」の概念は実際の血縁関係ではなく、その教義からくる理念的なものであるため、実際には配偶者はこの兄弟姉妹の中から選ばれることになる。それゆえこの場合インセスト・タブーは、マッチングを受けるまでの一定期間男女の恋愛を抑制する機能として働いている、と見るのである。

このように結婚前の恋愛や性交渉を禁止することは、「神を中心とする家族」という教団の自己イメージを強める役割を果たしている。また性交渉から解放された個人をメンバーとしてたくさんもつということは、活発な活動をするマンパワーを確保できるということであり、またその禁欲生活は、新しいメンバーが教会の活動に専念するようにエネルギーを集中させるのに役立っている、とグレイス博士は分析する。(前掲書七四ページ)

このような禁欲生活を通過した男女は、マッチングによって配偶者が決まり、祝福の儀式を受けることによって正式な夫婦として認知を受け、その後は姦淫を絶対的な罪と定めた厳格な一夫一婦制に従って夫婦生活を営むようになる。このように統一教会においては、性と結婚に関するさまざまな規定がメンバーとしての資格とグループ内での社会的な役割を形成しており、このような結婚システムを通して、非常に現実的な方法で個々のメンバーを信仰共同体に結び付けている、とグレイス博士は分析している。

 

 

 

第四節  マッチングと聖別期間

 

既に述べたように、グレイス博士が『統一運動における性と結婚』において掲げているテーゼは、「統一運動の性と結婚に対するアプローチは、そのメンバーの献身的な姿勢を維持し、強化するのに非常に有効に機能している」(前掲書一三ページ)というものであった。これは統一教会に特異な現象であると言うより、もっと普遍的な意味合いをもっていると同博士はとらえている。

グレイス博士は次のように述べている。

 

私は宗教、社会、および性の関係を長年研究した結果、宗教がもつ一つの重要な役割が、性と結婚のあり方についての規範を形成し、それらが社会全体の利益に資するように導くことであると確信するに至った。……①その構成メンバーの性と結婚の問題をコントロールすることのできる社会やグループは、そのメンバーの生活全体をコントロールすることができる。②歴史的に見て、宗教はある共同体の構成メンバーの性と結婚をコントロールする上において、最も有効な手段として機能してきた。(同八ページ)

このような彼の主張は、例えば社内恋愛や社内不倫が横行しているような企業はその規律が乱れ、その影響は業務そのものにまで及ぶようになるという事例や、キリスト教信仰の低落によって性倫理が崩壊し、それが家庭崩壊や社会全体の混乱へとつながっていったアメリカの事例からもうなずくことができる。要するに性や結婚の問題に対する統制がとれている社会ほど秩序があり、その統制の役目を中心的に果たすのが宗教であるということだ。

それでは統一教会においては、具体的にどのようにしてこの機能が作用しているのであろうか? グレイス博士は「社会学的には、結婚前の禁欲生活、マッチング、聖別期間、祝福の儀式、家庭出発のための儀式、および夫と妻としての家庭生活は、個々のメンバーの教会に対する献身を強めるための求心力として働いている」(同一一五ページ)と述べている。それは具体的に解説すると次のようになる。

 

祝福前の禁欲生活からマッチングへ

統一教会に入教してから祝福を受けるまでの約三年間の禁欲生活は、新しい世界の中で自分のアイデンティティーを形成・確立する期間である。この期間はグループの世界観と自分の世界観を一致させ、信仰共同体を一つの大家族として感じて、自分はそこに帰属する家族の一員であるという自覚を養う期間である。グレイス博士の分析によれば、この期間に男女の恋愛が禁止されているのは、それが共同体全体に向かうべき献身の方向性を歪めるためであり、同時に共同体の一体性を脅かす原因となるためであるという。

グレイス博士は、こうした禁欲的なライフ・スタイルは多くのアメリカの若者にとって受け入れ難いものであるため、統一教会がメンバーを獲得する上において大きな障害となっている、と若いメンバーが主張するのをよく聞いたという。同博士はその主張を認めながらも、それはグループの結束とメンバーの統率という点においては、非常に有効な手段であるとそのメンバーに説明したという。

こうして共同体の中で自己のアイデンティティーを形成した個人は、やがてマッチングによって配偶者を得る。グレイス博士が行ったインタビューの結果によれば、大部分のメンバーがマッチングに対する準備の中心的なポイントを、「神を中心とする愛で他者を愛することができるようになること」であると認識していた。神のように偏りのない無償の愛で人を愛する訓練をメンバーが意識的に積むことによって、マッチングによってどんな見知らぬ人と組み合わされてもそれを受け入れることができるようになる、とグレイス博士は分析している。

しかしこのマッチングによって組み合わされたカップルの関係は、世間一般で想像されているような悲壮なものではない。インタビューの結果、多くのメンバーがマッチングによって選ばれた相対者(配偶者のこと)に対して満足し、神によって選ばれた人であると実感したという証言をしている。

 

家庭をもつまでの聖別期間

グレイス博士の分析によれば、マッチングを受けてから家庭をもつまでの聖別期間は、共同体の価値観を夫婦生活にいかに活かしていくかという「翻訳作業」を行う期間であり、これによって共同体の価値観が結婚という場に結実するのだという。すなわち、それまで個人的に積み上げてきた信仰を、家庭生活という場でどのように実らせるかについて、カップルが話し合って準備する期間だというわけだ。

家庭をもつまでの聖別期間は、メンバーにとって多くの意味をもっている。その内の一つに地上天国実現というより大きな目的のために捧げる「犠牲」であるという意義づけがある。すなわち世界の救済のために自分自身を捧げるのである。さらにそれは、神を中心とする家庭を築くための基礎固めの期間であると意義づけられている。すなわち、この期間、自己犠牲的な奉仕の生活をすることにより、自己の精神的・情緒的成長をはかり、理想的な家庭を築くための準備をするのである。

これに加えてグレイス博士は、極めて現実的な意味合いとして、聖別期間は、多くの場合、結婚する直前まで見知らぬ同士だったカップルが、文通などを通してお互いをよく知り合う期間として機能していると分析している。とりわけ言語や文化の異なる国際カップルの場合にはこの期間は重要であるという。

グレイス博士が多くのメンバーと接して得た印象としては、統一教会における結婚は永遠のものであるため、聖別期間にあるカップルはお互いにより良い関係を築くことに対して真剣であるという。この期間のカップルの交際の手段として最もポピュラーなのが文通であり、その内容はいわゆるラブレターというよりは、お互いが今まで歩んできた人生の紹介や、信仰的価値観に基づいて将来どのような家庭を築いていくかという理想を語り合うものが多いという。多くのカップルの証言によれば、お互いに対する恋愛感情はこの聖別期間中に徐々に芽生えるという。神の目から見れば自分たちは夫婦であると認識してはいるものの、この期間におけるカップルの交際は、とりわけ身体的接触という点に関しては非常に制限されている。このようにして聖別期間を通じて育まれた二人の愛は、やがて三日行事を通して実体的に結実し、一つの核家族を形成するようになるのである。

総括して、グレイス博士は一連の祝福行事がもつ意味を次のようにまとめている。①個々のカップルと真の父母との間に(精神的な)血統的関係を樹立する、②夫と妻との永遠の絆を結ぶ、③カップルが共同体全体と特別な関係を結ぶ、④同じ時に祝福されたカップル同士は「○○双」という共通のグループに属し、特別な関係となる。⑤個々のカップルが原罪から解放され神に近づく、⑥三日行事を通して性行為が聖化され、結婚が実体化される。

そして「宗教の歴史において、これほど多くの要素を包含した儀式を発見するのは難しい」として、祝福の行事が統一教会において果たしている役割の大きさを非常に高く評価しているのである(同二二一〜二二二ページ)。

 

 

第五節  男女平等論

 

この節においては、統一教会信徒の実生活における両性の役割分担、すなわち男女が差別的に扱われているか、平等に扱われているかという問題を扱うことにする。

統一教会の価値観が、封建的な男尊女卑の思想であるのか、それとも現代的な男女平等の思想であるのか、という問題はしばしば論争の的になってきた。神学的に見ると、伝統的なキリスト教の神観が神の性質を男性のみに限定しているのに対して、統一原理の神観は男女両方の性質を包含しているので、統一原理はより女性の価値を認識した思想であると言うことができる。このことについての詳しい解説は、拙著『神学論争と統一原理の世界』(光言社)の第一章を参照されたい。

 

「主体と対象」についての多様な理解

しかしアメリカ社会においては、統一教会の教義は東洋的な男尊女卑の価値観に基づいていると論じる人々もいる。その際に根拠として持ち出されるのが、創造原理の中にある「男性が主体であり、女性が対象である」という教えである。この教えは、女性解放運動の本場であるアメリカの女性たちには非常に受け入れ難いものだという。

これは一部には翻訳のまずさによるものである。これまで英語の『原理講論』では、主体は subject 、対象は object と訳されてきたが、この object という英語は人間に用いられた場合にはその人の人格を否定するような響きがあるために、多くのアメリカ女性の反感を買うこととなった。例えばsex-object と言えば、相手を性欲の対象としてモノ扱いしていることになってしまう。こうした誤解を避けるために、一九九六年に出版された『原理講論』の新しい英語訳である 『Exposition of the Divine Principle』では、「対象」の訳語が object partner に変更されたほどである。

また、陽性・陰性という概念も、英語の『原理講論』ではこれまで positive, negative と訳されてきた。この「ネガティブ」という言葉にも非常に否定的な響きがあるために、やはり女性としては気持ちが良くない。そこで新訳の『原理講論』ではあえて既存の英語に置き換えることを避けて、Yang, Yin (陽・陰)としている。

このように男女両性の関係はアメリカにおいては非常にセンシティブな問題だが、グレイス博士はこれが統一教会信者の間ではどのように理解されているかに関心をもち、広範なインタビューを行って調査した。その結果分かったことは、アメリカにおいてはこの「男性が主体であり女性が対象である」という教義は、信者によって実に多様に解釈されているということである(『統一運動における性と結婚』八三ページ)。

すなわち、『原理講論』を文字どおり解釈して、男性が常に主体で女性が常に対象であり、男性は外に出て働き、女性は家事に専念すべきであると言う者から、主体と対象はさまざまな状況によって交換可能な相対的な概念であるとする者までいるというのである。

グレイス博士の調査によれば、『原理講論』の言葉の文字どおりの解釈は、未婚の男性に多く見られるという。同博士は、これは一九七〇年代の女性解放運動の台頭によって、アメリカの男性が自己の役割についてのアイデンティティー・クライシスに陥り、社会に増加し始めた「解放された」女性たちとどのように接して良いのか当惑した結果、男性の位置を明確に規定する教義に魅力を感じるようになったのではないかと推測している。

自分の位置に不安を感じた男性が、「男性が主体である」という教義に魅力を感じて統一教会に来たというのであれば、それはあまり褒められた動機とは言えないような気もするが、どうもこれはそれほど単純な図式ではなさそうである。なぜなら女性解放運動は女性の社会進出を促し、女性たちの自立を助けたが、その副産物として女性たちが家庭における妻、母としての使命を軽視するような風潮を生み出したからである。グレイス博士は、家庭に価値を置く統一教会の神学は元来、保守的・伝統的な価値観を有しており、それが自分たちの周りに展開している、極度に世俗化された進歩的な文化に不満を抱いていた若者たちの心をとらえたとも分析している。

しかし『原理講論』の「男性が主体、女性が対象」という教えを杓子定規に解釈している未婚の男性たちは、結婚生活のリアリティーをよく理解していないがゆえに自分なりの幻想を抱いている、という可能性はありそうである。なぜならグレイス博士のインタビューの結果、未婚の女性と既婚の男女は、主体・対象という概念をもっとダイナミックなものとして解釈していることが分かったからである。彼らは主体・対象の意味はもっと内的な深い意味であって、外的にただ女性が男性に従えばよいということを意味しているのではないと解釈している。祝福を受けたカップルにおいて重要なことは、女性と男性の序列がどうあるべきかということ以上に、お互いがいかに調和的な関係を築くかという点にあるという。

 

高い位置と役割をもつ女性たち

グレイス博士は結論として、統一教会のカップルにおける両性の役割分担は、一般のアメリカ人カップルのそれと大きな差はないと述べている。統一教会では女性たちに神学校での教育をはじめとする高等教育を受けさせているし、女性たちもまた、妻として、母としての家庭内での役割を重要視しながらも、家の外に出て仕事をしたり、教会の伝道活動に積極的に関わったりすることに対して非常に意欲的であるという。こうした女性たちは、アメリカの多くの女性たちが経験しているような家の内外での役割が衝突することによって生じる�藤を経験しているという。

またグレイス博士は、統一教会の神学における男女の関係は、創造原理の主体・対象という観念によってのみ規定されるほど単純なものではないと指摘している。統一教会には、堕落した世界においては男性は主体としての位置がなく、むしろ復帰の過程においては女性が復帰されたエバまたは母親の位置であり、天使長または息子の立場にある男性を神に近づける使命が女性にあるという神学が存在するため、宗教的・霊的側面においては女性が主体であるという観念も存在しているというのである。このような意味において、伝統的な男性中心主義のキリスト教よりは、統一教会の女性たちは教団内で高い位置と役割を与えられていると同博士は分析している。

この問題は、同じ統一教会でも各国の文化的背景によって違いが出てくるものと思われる。女性解放運動の洗礼を受けたアメリカの女性たちとは違って、韓国や日本の女性たちは両性の役割分担をもっと伝統的なものとしてとらえているかもしれない。この問題について日本で統一教会を対象に行われた研究成果は存在しないが、新宗教一般に関しては井上順孝氏の「新宗教と性差別」(『季刊仏教』十五号(差別特集号)法蔵館 一九九一年四月)という論考がある。同氏はこの論考で、新宗教では女性信者が重要な位置を占めているが、そこでは男女の序列についての伝統的価値観と正面から戦う傾向は見られず、むしろそれに従おうとする保守性があると述べている。すなわち、多くの新宗教は女性に対して「いったん下がって実を取る」というような現実的な対処法を勧めているというのである。こうした研究と比較して、日本の統一教会における男女の役割分担について研究してみるのも面白いかもしれないが、これは今後の課題として残しておくことにする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第六節  祝福家庭の将来と課題

 

前節までは、統一教会の結婚システムがもつ社会学的な機能について扱ったが、本節においては統一教会の結婚形態が今後直面する課題として提示されている問題について扱うことにする。

これまで述べてきたように、グレイス博士が『統一運動における性と結婚』において掲げているテーゼは、「統一運動の性と結婚に対するアプローチは、そのメンバーの献身的な姿勢を維持し、強化するのに非常に有効に機能している」(前掲書一三ページ)というものであった。すなわち、「社会学的には、結婚前の禁欲生活、マッチング、聖別期間、祝福の儀式、家庭出発のための儀式、および夫と妻としての家庭生活は、個々のメンバーの教会に対する献身を強めるための求心力として働いている」(同一一五ページ)というわけである。

 

家庭生活と献身生活との�藤

このように統一教会の結婚に対するアプローチは、一つのシステムとして見た場合、メンバーの献身を非常にうまく引き出すように機能しているが、グレイス博士は著書の第八章において、今後このシステムが直面するであろう一つの課題について述べている。それは祝福を受けたカップルが個々の家庭を形成するようになり、自分の家庭を大切にするようになれば、共同体全体に対する献身との間に�藤が生じるようになるという問題である。

もともと統一教会の組織的な特徴は、コミューナルなライフ・スタイル、すなわち結束の強い共同体としての生活様式であった。これは十九世紀アメリカのユートピア主義的な教団に通ずるライフ・スタイルであり、統一教会の結婚に対するアプローチも、共同体に対する献身を引き出すという機能においては、これらの教団と共通する部分があるという。しかしシェイカーやオナイダ・コミュニティーと呼ばれるグループが男女の排他的な結合を共同体全体に対する献身を妨げるものとして罪悪視し、伝統的な家庭の概念を共同体から全く排除してしまったのに対して、統一教会においては一組の男女が結婚して家庭をもつことが非常に重要視されている。

そこで必然的に生じてくる問題は、それまで信仰共同体を一つの大家族として生活してきた個々のメンバーが、祝福を受けて各自の家庭を形成するようになれば、それは大家族としての信仰共同体の一体性を脅かす潜在的な要因になるということである。つまり既婚の信者が多くなっていくにつれて、統一教会は共同体を中心とするライフ・スタイルから、各家庭を中心とするライフ・スタイルに変貌せざるを得ない。事実、統一教会は独身の男女を主たる構成メンバーとする教会から、小さな子供のいるカップルによって構成される教会へと変貌していく過渡期にある、とグレイス博士は見ている。これは一九八〇年代前半にアメリカ統一教会に起こった大きな構造的変化であったのだろう。

そもそも終末論を強調し、世界救済の使命を自認するような宗教団体は、恋愛、性欲、結婚、核家族といった個人主義的な事柄には優先権を置かず、それよりももっと高次な目的である「世界の救済」を最優先させる傾向がある。しかし統一教会においてはそれと同時に、結婚や家庭も地上天国建設の基本単位として重要な意味をもっているため、この二つの志向性の間に�藤が生じる、とグレイス博士は言うのである。

 

世界救済のための祝福家庭

グレイス博士は、現在統一教会においてはこのような�藤は、「世界救済のために奉仕する祝福家庭」という概念によって調停されようとしていると分析する。すなわち祝福家庭は、自分たちは一般の家庭と違って自分の家庭のためだけに存在しているのではなく、より大きな世界全体のために存在していると自負しているというのだ。そして多くの祝福家庭がこれを文字どおり実践しており、そのために妻が夫や子供たちと離れて活動するなど、時として痛みを伴うほどの犠牲を払って社会のために活動している。すなわち統一教会の家庭は、常に共同体全体の目的に奉仕するために家庭を犠牲にすることを奨励されており、事実上、終末論的な共同体全体の目的が、個々の家庭の目的よりも上位にあるというのである。

にもかかわらずグレイス博士は、こと祝福家庭に関する限り、統一運動は厳格な共同体生活を営む団体から、各家庭ごとに地域社会に定着する団体へと変貌していく過渡期にあると分析する。それはインタビューの結果、祝福家庭は摂理的な要請のゆえにしばしば家族がバラバラになって活動に奉仕するなどの経験をしているが、本音の部分では「定着」に対する強い願望があることが分かったためである。そして独身時代には非常に献身的だった者でも、家庭をもった後に家族と離れて活動するようにという指示に対しては、従わなかった女性たちが数多くいたという。祝福家庭が「定着」を求め、次第にアメリカの一般家庭のライフ・スタイルに近づいていくようになれば、共同体としての求心力が衰え、一体性が弱まる可能性がある。そしてこのことに、統一教会が二十一世紀に生き残ることができるか否かがかかっている、とグレイス博士は予想する。

統一教会の特徴として、これまでさまざまなプロジェクトのために自由自在に人材を動員できる能力を挙げることができた。そして一九七〇年代のアメリカにおける統一教会の目覚しい発展は、このような自由な人材動員力にあったと宗教学者たちは見ている。しかし祝福家庭の定着願望が強くなれば、このようなプロジェクトは不可能になるため、運動全体の発展を妨げる大きな要因になるのではないかとグレイス博士は分析している。祝福家庭のライフ・スタイルがアメリカ社会に同化していけば、それだけグループ全体に対する献身が低下し、指導者によって命じられた使命を拒否する者も多くなってくるのではないかというのがグレイス博士の予想である。

グレイス博士は、モルモン教との類推でこのような予想を立てたようだ。モルモン教にもかつて、男性が十年以上も家庭を離れて世界に宣教に出かけるという時期があった。そしてこれは統一教会における結婚後の動員と同様に、メンバーとして当然捧げるべき犠牲であると考えられていた。しかしこれは後に廃止され、結婚前の若い男性モルモン教徒が二年間教会のために奉仕するという、より犠牲の少ない形に変わった。統一教会においても同様の変化が起こる可能性があるという訳である。

以上のグレイス博士の分析は、教会の内部にいるものとしては非常に耳の痛い話である。グレイス博士の予想が的中したかどうか、私は総括的な判断を下す材料をもたないが、伝え聞くアメリカの事情を考慮すると、少なくともアメリカにおいては当たっている面もあるようである。しかし日本の統一教会においては、今でも多くの祝福家庭が別居をし、家族を日本に残してまでも世界救済のために奉仕している。「世界救済のために奉仕する祝福家庭」という伝統を確立することができるか否かに、統一運動が二十一世紀に生き残ることができるかどうかがかかっているというグレイス博士の分析は、日本のみならず世界の祝福家庭に投げかけられた大きな課題と言えるであろう。

 

 

 

 

第七節  統一教会の結婚が社会に提示するもの

 

本節では、グレイス博士の著作の中でも結論部分に当たる第八章において論じている問題を扱うことにする。それは統一教会の結婚に対するアプローチから社会全体は何を学ぶべきか、ということである。

 

結婚の目的

グレイス博士は、統一教会における結婚の最も顕著な特徴の一つは、結婚は自分自身のためにするものではなく、世界の救済という、より大きな目的のためにするものであるととらえられている点にあると指摘する(『統一運動における性と結婚』一一六ページ)。同博士が統一教会のカップルに対して結婚の目的は何かというインタビューを行った結果、通常三つの答えが返ってきたが、その内容は次のようなものであった。①神に似た者となるため、②精神的成長の場、③世界救済摂理の基礎を築く(同一八三ページ)。

したがって統一教会の結婚においては、個々の家庭の目的と共同体全体の目的が分かち難く結び付いており、さらにそれが世界全体の救済というより大きな目的へとつながっているのである。このために統一教会の家庭は、常に共同体全体が志向する目的に奉仕するために家庭を犠牲にすることを奨励されており、そのために妻が夫や子供たちと離れて活動するなど、時として痛みを伴うほどの犠牲を払って社会のために活動しているのである(同一八四ページ)。

このように個々の家庭と社会全体の目的が強く結び付いている結婚の形態は、極度に個人主義的になったアメリカ人の結婚に関する価値観に対する一つのアンチ・テーゼとして理解できる、とグレイス博士は論ずる。

 

主流キリスト教会の結婚観

社会学者たちは総じて、性と結婚についての価値観に関する限り、アメリカ人は極度に個人主義的になっていると指摘している。この傾向に対して、グレイス博士は次のように述べている。

 

このような奔放な個人主義と、自己の欲求を適えることに過度の焦点を当てることは、私の見解では、結婚そのものに対しても、社会一般に対しても、肯定的な利益をもたらさない。なぜなら、人々が完全に自己の興味に従ってお互いに関わるようになるとき、その関係はしばしば、あらゆる種類のフラストレーション、�藤、苦しみを伴う強烈な闘争となるからである。結婚の関係が自分のパートナーからより多くの満足を引き出そうという欲望に基づいているとき、その関係は相手が自分の欲求を満たしてくれなくなったときにには終わりを迎えざるを得ない。(同二六六〜二六七ページ)

 

そしてアメリカ社会における婚約破棄、別居、離婚の増加は、この問題が顕著に表れたものであり、統一教会の結婚はこのようなアメリカ社会における結婚の危機に対して、一つの解決の選択肢として考慮すべきものであると述べているのである。

グレイス博士は、統一教会の結婚形態は西洋社会に昔存在した結婚形態に似ていると指摘する(同二四一ページ)。同博士によれば、第二次世界大戦以前のアメリカにおいては、結婚は個人と社会の両方のために存在したという。そして統一教会の結婚は、その時代にアメリカ社会に生きていた結婚に関する価値観を、宗教的献身という枠組みの中で非常に明確に提示しているというのである(同二六七ページ)。

 

グレイス博士はさらに次のように述べている。

 

社会学者が統一運動のような小さな共同体から学んだことの一つは、抑制のない過度の個人主義は、人間の共同体を否定し、最終的には崩壊させてしまうような遠心力として働くということである。そしてベラの分析とも一致するように、これはまさに近年のアメリカ社会に起こっていることである。(同二六八ページ)

 

私は個人的に、アメリカ(特にわれわれの宗教組織)は、統一教会の理想と教えから、結婚に関する何か非常に重要なことを学ぶことができると確信している。そしてそれは、もし望むならば、現在われわれが陥っている結婚の窮地から抜け出す道を示すものである。(同二六七ページ)

 

さらに、主流の教会は、とりわけ結婚に関しては統一教会の理想から多くを学ぶことができると私には思える。ローマ・カトリックは結婚を秘跡と見なしており、主流のプロテスタント教会は結婚そのものを高く評価している。しかしながら、そのどちらも結婚が社会全体との関係において果たす倫理的な役割の重要性については明確に提示してこなかったのである。主流の教会が教えている結婚に関する倫理は、すべてでないにしても、そのほとんどがカップルの私的な世界と、彼らが責任をもつべき家庭においてのみ適切なものである。(同二六八〜二六九ページ)

 

典型的なプロテスタント式の結婚式で牧師が新郎・新婦に対して語る訓戒の言葉は、�愛と貞節�を夫婦関係における核心的な価値観として強調するが、結婚に伴う責任を家庭の外にまで拡大していこうという試みはないのである。(同二六九ページ)

 

既成のキリスト教会の結婚において重要視されていることは、夫婦がお互いに対して忠実であることであって、夫婦が社会全体にいかに奉仕するかに関しては何も規定がない。すなわち世界の救済のために奉仕することは基本的なクリスチャンの倫理であるにも関わらず、いかに「夫婦として」世界に奉仕するかについては明確な規定がないのである。

 

統一教会と既成教会の結婚観の違い

このような結婚に対する価値観の違いは、単なるグレイス博士の私論ではなく、現在のキリスト教と統一教会の決定的な相違点になっていると思われる。それは日本基督教団統一原理問題全国連絡会の愛澤豊重氏が、統一教会の国際合同結婚式のパンフレットに書かれていた「真の愛による結婚は単に男女の個人的結び付きではありません。後孫のためであり、社会と国家と世界に真の愛の繁栄をもたらす公的な意義と公的な価値をもっています」という言葉を批判して、次のように述べていることからも理解できる。

 

通常のキリスト教会の結婚式では、結婚する男女に次のような誓約を求めている。「あなたはその健やかな時も、病む時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、そのいのちのかぎり、堅く節操を守ることを約束しますか」。ここでは結婚をする二人の間の愛が問われ、二人の関係それ自体が結婚の目的なのである。それが結婚であり、夫婦ではないだろうか。子供を生むための結婚、外の社会のためにする結婚、それこそ、この歴史の中で否定されてきた結婚の形態ではなかったのか。(全国霊感商法対策弁護士連絡会、日本基督教団統一原理問題連絡会、全国原理運動被害者父母の会編著『統一協会合同結婚式の手口と実態』緑風出版 一九九七年 四四ページ)

 

愛澤氏の批判は、統一教会の結婚観が結婚する二人のためという私的目的と、後孫や社会全体のためという公的目的の両方を尊重しているという点を見落とし、統一教会の結婚があたかも後孫や社会のためだけに行われているかのような誤解を読者に与えようとしている点で悪質なものである。しかし彼の提示するキリスト教の結婚観は、グレイス博士の研究を背景として読むときに重要な示唆をわれわれに与えれくれる。それはキリスト教の結婚観が後孫や社会全体に対する責任を単なる過去の抑圧的な社会制度の遺産としてしかとらえておらず、グレイス博士の指摘するとおり極めて個人主義的な価値観に偏ってしまっているということだ。どうやらグレイス博士が悟ったという既成キリスト教会が統一教会の結婚観から学ぶべき教訓というものを、愛澤氏は悟ることができなかったようである。

 

 

 

第八節  日本の婚姻形態を背景として

 

本章では、これまで米国の宗教社会学者ジェームズ・グレイス博士の研究を土台としながら、統一教会における結婚のあり方についての社会学的な考察を行ってきた。しかし同博士の研究はアメリカ社会を背景として論じられているものであるため、この節では統一教会における結婚の在り方が、日本の社会を背景としてどのような意味をもっているかを論じることにする。

 

戦前と戦後の婚姻形態

グレイス博士は、統一教会の結婚形態は、結婚の目的が個人と社会の両方のために存在しているという点において、第二次世界大戦以前のアメリカに存在した結婚形態に似ていると指摘している(『統一運動における性と結婚』二六七ページ)。このことからグレイス博士は社会学者として、第二次世界大戦を境としてアメリカ人の結婚に関する価値観が大きく変化したという認識をもっていることが分かる。

これは日本においてはもっと顕著なことであり、日本の場合には第二次世界大戦を境として価値観ばかりでなく法律や社会制度までもがすべて変わったため、結婚のあり方が根本的に変わったと言えるのである。日本の婚姻形態は古代から現代にかけてさまざまな変化を遂げてきたのであるが、現代の宗教である統一教会の婚姻形態を考える上において重要なのは、この戦前・戦後のドラスティックな変化であると思われるので、この二つの婚姻形態と比較しながら、統一教会の結婚のあり方を論じてみたいと思う。

世間の人々が統一教会の結婚のあり方を奇異に思い、反対派が「人権を無視した結婚」とまで批判する主要な原因は、統一教会の信者は自分の配偶者を自分で選択せず(すなわち自由恋愛が許されず)、文鮮明師の推薦する相手を基本的に受け入れるという形で結婚するという点にある。これは自由恋愛による結婚が主流となった戦後文化の中で育った人からすれば信じ難い結婚のあり方ということになるのだろうが、歴史的に見るときに、このような結婚のあり方は決して珍しいものではない。

古来より社会的、文化的な理由から若い男女の自由な交際を制限する社会では、配偶者の選択に当たって当事者以外の第三者の媒介による選択と結婚の推進、すなわち「媒介結婚」が行われてきたし、また現在でも行われている。これは男女の自由な交際から出発して結婚を愛情の結実としてとらえる「自由結婚」と対比される概念である。かつて日本の家族を支配した家制度のもとでは、結婚は家と家との結合であり、個人のそれに優先していた。また若い男女の自由な交際を認めない儒教的な観念が支配的であったため、結婚の取決めに当たっては仲人の役割が重視されたのである。

しかし第二次世界大戦後、新憲法は、婚姻が「両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本」とすることを定め、民法も「個人の尊厳」と「両性の本質的平等」に立脚して改正されるように要求した(憲法二四条)。その結果、新しい民法のもとでは家制度がなくなるとともに、見合い結婚すなわち媒介結婚は本来の意義を失って単なる結婚相手紹介の手段に変質し、恋愛結婚が主流を占めるようになったのである。

 

戦前日本の婚姻形態と統一教会のそれとの違い

このような「媒介結婚」と「自由結婚」という枠組みで考えれば、統一教会の結婚形態は明らかに「媒介結婚」に属することになる。日本の一般的な風潮として、戦前から戦後への変化は基本的に「進歩」であったと考える傾向が強いので、現代に「媒介結婚」を再現させた統一教会の合同結婚式は、時代の流れに逆行するものであり、「両性の合意」や「個人の尊厳」を無視した抑圧的な結婚形態である、という論理になるのであろう。

確かに統一教会の結婚形態は、自由恋愛の否定や媒介結婚という側面からすれば、戦前の婚姻形態に似ているかもしれない。しかしながら、戦前の日本の婚姻制度と統一教会のそれとでは、他の面で重大な違いがあることを認識しておかなければならない。まず第一に、戦前の家父長的家族制度のもとにおける結婚は、自分が生まれ育った家の存続を目的としており、個人的な感情は度外視されていたのに対して、統一教会の結婚は個人の宗教的な動機に基づくものである。

ここで重要なのは、家制度というものが個人が生まれた時から運命的に属するいわば逃れ難い社会制度であるのに対して、統一教会は個人の自由意思によって加入する宗教団体であるということである。したがって統一教会における媒介結婚は社会制度による強制によって行われるのではなく、自らの意思によってそのような結婚形態を選択した人々によって行われるものであるということだ。つまり、そのような結婚を望まない人々に対して強制的に課せられるものではないので、人権を無視した抑圧的な結婚形態であるという批判は当たらないのである。

また合同結婚式において文鮮明師や教会は仲人的な役割を果たすが、お互いを配偶者として受け入れるかどうかはあくまで当人同士にゆだねられている。したがって合同結婚式によって結ばれたカップルも、両性の合意に基づいて結婚しているのであり、憲法に抵触するようなことはないのである。

また戦前の婚姻制度には男尊女卑の傾向があり、妻にのみ貞操や処女性を要求したり、妾が容認されるなど、性道徳の二重基準が見られたが、統一教会における結婚は男女の価値的平等を謳い、両性に対して平等に性道徳を要求している点においては、戦後の結婚制度に近いと言えるだろう。

もう一つの戦前から戦後への大きな家族制度の変化として、大家族から核家族への変化を挙げることができるが、統一教会では理想としては三世代が共に生活する大家族を良しとしている。戦前の大家族主義は主として経済的な理由によるものであったが、統一教会において三世代同居が奨励されているのは、それが個人の精神的成長にとって好ましいと理解されているためである。

 

恋愛至上主義に対するアンチ・テーゼ

さて、このように統一教会の結婚のあり方は一部戦後の結婚観と通じる面をもちながらも、やはり「媒介結婚」であるという点においては現代の日本において異彩を放つ結婚のあり方であると言えるだろう。にもかかわらず、多くの若者たちがこのような形で結婚することを望むようになった原因はどこにあるのだろうか。

それはやはり自由恋愛至上主義に対するアンチ・テーゼという意味をもっているのであろう。そもそもデートと求婚を経て結婚に至るという方法は、特に二十世紀のアメリカで発達し、それが日本に輸入されたものであるが、欧米諸国の高い離婚率や、日本における離婚率の上昇などを考慮すれば、それは必ずしも理想的な配偶者選択の仕組みと言うことはできない。このことを根拠に、デート・求婚の仕組みが、家族による取決め婚姻よりも不幸な結果を生ずると結論する権威者たちもいるくらいである。したがって自分の未熟な見識によって一生の伴侶を選ぶよりも、本当に信頼できる人物にその選択を委ねようという若者がいても何らおかしなことではない。

それに加えて最近は不倫がブームになるなど、自己中心的な男女の感情によって成り立っている結婚というものがいかに危ういものであるかが露呈される時代となった。一時的な恋愛感情が幸福な結婚を保証しないならば、もっと堅固な土台の上に結婚を築きたいと願う者が現れても何ら不思議ではないだろう。統一教会の信徒たちは、「信仰」という礎の上にそれを築こうとしているのである。

 

ある宗教学者の視点

最後に、日本において統一教会の合同結婚式が受け入れられ難い理由について分析した一人の宗教学者の視点を紹介したい。それは東京大学教授の金井新二氏の視点である。金井氏自身はクリスチャンであり、信仰的には統一教会とは相容れない立場にあるのであろうが、彼は宗教学者として努めて客観的な立場からこの現象を見詰めようとしている。以下に引用するのは、一九九七年四月に出版された金井氏の著書『現代宗教への問い』(教文館)の中で、「統一協会への問い」というエッセーとして述べられているものである。(このエッセー自体は一九九二年にソウルで三万双の国際合同結婚式が行われた直後に書かれたものである。)

 

この合同結婚式とは、教祖の仲介と指名によって見も知らない相手と国際結婚をするというもので、常識的にいえば破天荒なものである。それゆえ、私自身、もし娘がそれに参加したいなどと言えば思い止まるようにと極力説得するにちがいない。しかし、冷静な第三者的観察者としてならばもうすこし違う側面も見なければならないであろう。そこでまず、これが日本で大きく報道されるという現象の基本的な構造について述べてみよう。そこには日本特有の構造があるという点である。多少の想像的推測で言うなら、これがもし西洋社会で起こったことなら、ごく個人的な行為としてこれほど社会やマスコミの関心を引くことはないのではあるまいか。いや、やはり大騒ぎになるかもしれないが、しかし日本の大騒ぎには日本的な理由があるのである。それは、日本社会の一元性と関係する。

日本社会の一元性は、よく批判的に言及される日本人の集団性や画一性として表面化するものであり、あらためて説明を要しまい。しかし、宗教になるとまったく反対の在り方をこの社会はしている。すなわち、日本の宗教状況は世界に類をみないほどきわめて多元的で多様なのである。これも多神教的とか宗教混淆的などの言葉でしばしば言われることである。この「社会的一元性と宗教的多元性」という組み合わせは、西洋とはまさに逆で興味ぶかい対比をなす。西洋社会は逆に「社会的多元性と宗教的一元性」の組み合わせだといえよう。西洋社会の個人主義は画一性を嫌い、また移民や難民を多く受け入れてきた歴史的事情からも、日本と比べるならはるかに多元的な社会であると言える。しかし宗教的には、キリスト教の支配力が圧倒的だという意味ではきわめて一元的である。少なくとも日本の宗教的多元性とは比ぶべくもない。この対比的構図は、しだいに弱まる方向にあるとはいえ、まだ当面は基本的なものである。

「社会的一元性」でやっている日本の社会にとってもっとも関心をひくことないし批判の的になることは、その一元性を乱す行為である。この社会においては、たとえ良いことでも、社会的調和を乱さない仕方で言ったりしなければならない。むろんこの社会でも悪弊を変革する行為は賞賛される。しかし、その場合でも周囲の合意をあらかじめ得ることが前提条件であることが圧倒的に多いのである。その条件が満たされない場合には、それが是認されるまでには相当の時間や個人的忍耐を覚悟せねばならない。ましてや、社会的評価の低い某宗教集団が社会的通念に挑戦するようなことがあれば、この社会では総掛かりで非難の合唱となる。実に見やすい道理である。ところが、この社会は「宗教的多元社会」であるから、いつなん時でも社会的一元性を乱すような新奇なものが絶えず発生してくるのである。かくして、日本では絶えず新奇な宗教集団の言動がマスコミを賑わすことになる。それをあいも変わらずの低級な宗教性の発現と見る人もいようし、あるいは、宗教的活発さの証左だと見る人もいよう。しかしいずれにせよ、それは、一元的社会と多元的宗教状況との組み合わせの構造からの必然的な現象であることをまず理解すべきであろう。「合同結婚式問題」はその最新の一例にほかならない。

さて、次に、合同結婚式そのものを内容的にどう見るかである。

これについては、かの女性たちは日本社会の通念にたいして果敢に挑戦しているという事実をまず認めたい。おおげさな言い方かもしれないが、人間=個人としての信仰の純粋性徹底性をもって彼女たちは日本社会に問いを発していると思う。私は以前、「イエスの方舟」として知られ、やはり大きな反響を呼んだ女性たちと話したことがある。その場合も家族を捨て社会から脱出していったところに特徴があった。彼女たちは経済的には恵まれた家庭の子女であったが、その家庭は精神的にはむしろ貧困であった。そのゆえに彼女たちは、父母の家を捨てて一人のみすぼらしい聖書の使信の実践者に従っていったのであった。その結果、経済大国日本の「会社人間」たちがなおざりにしてきた「家庭」という問題を鋭く露呈させたのであった。またそれに止まらず、宗教学的にいえば、彼女たちは、宗教信仰に生きる人間は集団主義的な既成社会を場合によっては決然と捨て去ることが出来るという、宗教の力のようなものを改めてわれわれに教えたのであった。この二つの意味において、あの事件は忘れがたいものであった。合同結婚式を行った女性たちもまたそうである。少なくとも、これによってわれわれは男女の関係について、結婚について、家庭というものについて、改めて考える機会を与えられたわけである。また宗教の力をも改めて知ったわけである。もっとも、「だから宗教はいやだ」となればこの事件で宗教のイメージはまたまた低下することになるのかも知れないが。

しかし多くの反感や怒りがあるとしてもそれを抑えて、まず、彼女たちを問いとして受け止めることが大切だと思う。家族の心痛や怒りは分かるつもりだがやはりそう言いたい。(前掲書『現代宗教への問い』二八〜三三ページ)

 

統一教会をはじめとする新宗教に対する拒絶反応が、異物を除去しようとする傾向の強い日本社会独特の構造に由来するものであるという金井氏の分析は、的を得ていると思われる。また、合同結婚式に参加した若者たちの宗教的な動機を認め、それを日本社会に対する一つの問い掛けとして受け止めている点も、宗教学者らしい冷静な分析であると言えるだろう。

金井氏の分析は、自らの宗教学者としての知見から合同結婚式の「印象」について語ったものであり、グレイス博士のようにフィールド・ワークを行って実証的な研究を試みたものではない。しかし、その視点からは多くのものを学ぶことができるであろう。今後、日本における統一教会研究、とりわけ合同結婚式に関する議論が、このような視点に基づいて、実証的な方法論に則って行われるようになることを望むものである。