書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』66


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第66回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」の中で、初期段階の教育が行される施設として「3 ビデオセンター」(p.228-9)についてごく簡単に説明している。初めに、「青年・学生達は勧誘された後にビデオセンターと呼ばれる統一教会の施設に連れて行かれる」(p.228)とあるが、これは事実誤認である。櫻井氏がこの説明をする際に依拠している資料は札幌地裁における「青春を返せ」裁判に提出された原告側の証拠であるが、その中に出てくるビデオセンターを宗教法人である統一教会が運営していたという事実はなかった。統一教会が運営していたのであれば、ビデオセンターが設置されていた貸しビルのフロアや賃貸マンションは借主として統一教会が契約をしていなければならず、運営の規約等にも統一教会との関係が明記され、スタッフも統一教会が雇用した人物でなければならないはずだが、そうした事実は一切なかったのである。

 これらの「ビデオセンター」は、統一教会そのものではなく、その信者たちが自主的に運営していたものであった。裁判の場では、「連絡協議会の傘下にあった施設」であるという説明がなされている。したがって、このビデオセンターは宗教法人である統一教会の布教所や伝道所として位置付けられていたものではなく、信徒の組織の顧客ケアーや、より広い意味での一般教養的内容の教育、宗教心等の涵養を目的としていたものであって、統一原理の受講のみが行われていたわけではない。ただし、そうした受講内容の中に統一原理を紹介するビデオが含まれていたために、結果としてこの「ビデオセンター」を通じて伝道された人々がいたことは事実である。その意味では、境界線の曖昧な施設であったとは言えるであろう。これでは責任の所在が曖昧になる恐れがあるため、2009年以降は、統一原理のビデオを受講する施設を運営する際には、その持主や借主を宗教法人としてきちんと登記または契約し、宗教法人の伝道所または布教所として運営するように指導が行われるようになった。

 櫻井氏はこのビデオセンターのトーカーは「トーク・マニュアルで会話の流れ、話の持っていき方を学習している」と主張して、以下のようなマニュアルの文面を紹介している。
「まずは相手の話をよく聞いて、知ってあげ、認めてあげることが大事です。賛美も美辞麗句ではなく、相手の喜ぶことを言ってあげましょう。……ゲストの前には自分はまぶしい魅力的な存在になるように、表情笑顔、相手の話を聞く姿勢、誠意、さわやかさ等、気をつけて、身体全体で話すことも必要かと思います。」(p.228)

 統一教会を相手取った訴訟で主張されているのは、マニュアルの存在自体が組織的な誘導や心理操作が行われていた証拠であるということだ。櫻井氏はそこまで断言していないが、彼の記述にはそうしたニュアンスが含まれている。しかし上記のトーク・マニュアルで語られているのは、接客のマナーや心得として一般社会で教えられている内容とほぼ同じであり、違法性や反社会性を示すような内容はまったく含まれていない。もしこうしたマニュアルが存在し、それにしたがってゲストのケアーがなされていたのが事実であったとしても、それ自体には何の問題もないと言えるであろう。

 櫻井氏は「総序」に始まって「摂理的同時性」に終わる倉原克直講師のビデオのタイトルを一通り紹介した後で、次のように述べている:「この種のビデオ受講で感動する人はほとんどいない。どれも初耳の話である。神がこの世と人間を作り、人間がサタンの仕業で堕落し、その後神の元へ復帰する歴史を歩んでいるのだという話を聞かされても、ふーんというしかない。しかし、『全てわからなくともゆっくり学んでいけばよい。いずれわかるので最後まで見ましょう』と言って、後へ後へと評価を引き延ばす。要するに、何が言いたいんだということは取っておくのである。」(p.229)

 これはかなり偏見に満ちた物言いであり、「青春を返せ」裁判における原告側の主張をそのままなぞっているのに過ぎない。感動しないものを、評価を後へ後へと引き延ばされて誘導されながら聞き続けるなどということは苦痛である。そのようなものに引きずられて、見なくもないビデオを見続ける人がそれほど多数いるというのは不自然であり、信じがたいことである。これはビデオを見て「喜んだ」とか「感動した」と言ってしまえば、自分の意思でビデオセンターに通っていたことになり、損害賠償を請求するための違法性を主張しづらくなってしまうために、あえて本意ではなかったかのように主張する「裁判上の戦略」なのである。人が全く興味のないビデオを見続けるということは現実的にありえず、本当に興味がなければ来なくなるのであり、見に来るということは多少なりとも興味があるということなのである。

 私は1987年に東京工業大学を卒業したが、その後は原理研究会に残って後輩の指導に当たっていた。このとき、原理研究会の運営するビデオセンターに通ってくる学生に対する講義、あるいは原理研究会主催の2日間の修練会の講師、7日間、21日間の修練会の進行係などを担当していた。また、1990年の1月から翌年6月まで、東京の武蔵野市と三鷹市を中心とする、当時「東京第7地区」と呼ばれていた信徒の組織において、教育部の講師、教育部長、ビデオセンターの所長兼講師などを担当した経験がある。したがって私は当時行われていた壮年壮婦の伝道・教育に関して全般的な知識を持っており、かつこれを指導する立場にあったので、自分自身の経験に基づいてビデオセンターの現実について語ってみたい。

 櫻井氏は、ビデオセンターにおいては統一原理の内容を講義したビデオが視聴されるだけでなく、「クリスマスキャロル」やNHKスペシャルの「人体の不思議」などのビデオが見せられることもあるという。確かにそうしたことはあったであろう。私自身が運営していたビデオセンターにおいても、統一原理に対するゲストの理解を深めることを目的として、こうした補助教材を用いることがあった。特に日本人にはなじみの薄いキリスト教的な文化背景を理解してもらうために、テレビのロードショー番組から撮った映画なども受講者に見せることがあった。代表的な作品としては、ブラザーサン・シスタームーン、塩狩峠、十戒、ベンハー、偉大な生涯の物語、オーゴッド1~3などを挙げることができる。しかし、必ずしもすべての人がこうした映画を見るわけではなく、どちらかといえば抽象的な講義が理解できず、神様と言われても実感が沸かない人のために、補助教材としてこうした映画を見せていたというのが実状であった。したがって、講義のビデオそのものを喜んで見ていた人は、あまり映画を見ることはなかった。

 櫻井氏は、統一原理のビデオを受講して「感動する人はほとんどいない」と言うが、これは言い過ぎである。実際には、すべての人が感動するわけではないが、一定割合の人が感動するのである。そして感動する人には「宗教性があること」と、「向上心があること」という共通した特徴があった。神の存在や人生の目的、歴史の意味といった内容に関心のある人は一定の割合で存在し、こうした人々は最初からビデオの内容に関心を示す。万人が櫻井氏の描写するような「ふーん」という反応をするわけではないのである。

 私が運営していたビデオセンターに来場する人は、主に二通りの経路を通して紹介されてきた。一つは、東京第7地区内に印鑑や念珠など販売する店舗があり、そこの販売員として活動している信者らが、それらの商品を販売した顧客のアフターケアを兼ねた教育のために、ビデオセンターにつなげるという経路である。しかし、印鑑や念珠などを購入した後になぜビデオを学ばなければならないのか、その必然性を必ずしも顧客が感じるわけではなく、全員がコース決定するわけではない。

 顧客は印鑑や念珠を購入した際に、自分の悩みや家庭の事情について詳しく話しているケースが多く、手相や姓名判断などの占いの内容の他に、夫や姑、あるいは子供に対する接し方など、人としての生き方について占い師や紹介者からアドバイスを受けていた。そのような会話を通して、自己の内面を磨く必要があるという意識が高まっている人、そして紹介者との間に信頼関係のある人は、すんなりとコース決定した。また、先祖や霊界に関心のある人、自分を高めたいと思っている人、宗教性のある人は、学ぶ内容そのものに関心を持って先へ進んで行くことになる。

 もう一つの経路は、東京第7地区に所属する壮年壮婦の信者らが、自分の夫や親族・友人を連れて来たり、街頭あるいは訪問伝道を行って出会った人を連れてくるというケースである。この場合にも、人間関係があるが故に義理で来ただけであって、もともと宗教的な内容に関心のない人はコース決定しないか、してもじきに来なくなってしまう傾向にあった。このように、ゲストがビデオの学習を継続するかどうかは、基本的にその人に宗教性があり、ビデオの内容そのものに関心があるかないかによって決定されるのである。

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ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳12


第2章(5)

 アダムとエバの罪が性的なものであったことは、文師の説教の一つにおいても明らかである。それは「男と女の関係」という題がつけられたもので、1973年に一人の信頼する男性信者が不倫の罪を犯した直後の説教である。彼らの師の言葉をここではあまり文字通りに解釈しないよう私に警告したメンバーもいたが、いくつかの言葉は宗教的義憤のレトリック以上のものであった。「貞操と純潔を守ることは私たちの団体では最も重要なことです。・・・私はこのことには大変厳しいのです・・・」(注42)その次に、以下のような非常に明快な一節が続く:
「以前に言ったように、それ(性的不道徳)は殺人よりも悪いのです。もしあなたが人を殺せば、あなたが殺すのは一人です。しかし、それを行えばあなたは自分の子孫と血統を殺すことになるのです。・・・はっきり分かりました? あなたの一つの罪の行為が、あなたの先祖と、その先祖の結実である未来の後孫たちに影響を与えるのです。」(注43)

 ここでのポイントは明らかである。不倫なる性関係はアダムとエバの罪を繰り返すことであり、その他の罪の行為とは違って人間の救いと関わりがあるということだ。したがって、堕落の正しい理解は、運動の基本的な神学的立場を前提とすれば、愛の動機と不倫なる性行為の両方を含んでいなければならないということは確かである。実際に、本章の次の節で見るように、神の前における個人の特定の役割にふさわしい性行為は、堕落した世界の救済にとって不可欠である。言い換えれば、堕落の教義は復帰の教義と論理的に関わっているのである。

 堕落の有効な要約は、「堕落性本性」と題する原理講論の節に明示されている。(注44)この一節は堕落と復帰の論理的な関係を示している。それはまた、第7章で統一教会の実践を解釈する上で用いられた社会学的な役割理論が、なぜ神学的に妥当なのかを説明する良い理由を提供している! 堕落性本性は、さらに正確な表現をすれば、堕落性(注45)は、性交を通して(注46)、エバがルーシェルから受け継ぎ、次にアダムに伝播した四つの特徴からなっている。

 「他者を愛することにおいて神と同じ立場に立てない」ことは、堕落性の第一の特徴である。(注47)天使長は、神が愛するようにアダムを愛することができない嫉妬によってエバを汚した。神の愛によって他者を愛するという理想は汚され、利己的な愛が堕落した人類の生き方となった。

 第二の特徴である「自己の位置を離れる」(注48)は、サタンが被造世界において与えられた役割は天使たちの前で神の代身となることであったが、彼はその責任を離れて、人間社会においても同様な位置を得ることを望んだという事実によって説明される。「不義な感情をもって、自己の分限と位置を離れるというような行動は、みなこの堕落性本性の発露である。」(注49)この記述が統一教会のメンバーに共通の態度や行動という観点から解釈されるとき、それは運動の社会学的分析において重要な意味を帯びるようになる。もし役割理論が運動を理解する上での妥当性を正当化するための「証拠となる文章」を必要とするなら、原理講論からのこの一文で十分であろう。

 第三に、人間の堕落性は混乱した人間社会を生み出した。これは「主管性を転倒する」(注50)罪深い傾向の結果として生じ、それは、神の本然の永遠なる目的とは正反対のやり方で関係を成立させることである。本来ならば人間の主管を受けるべきであった天使長が、エバを主管した。さらに、神はエバがアダムに従うことを意図したが、この秩序も逆転された。エバがアダムを誘惑し主管したのである。「自己の位置を離れて、主管性を転倒するところから、人間社会の秩序が乱れるのである」(注51)

 第四の、そして最後の特徴は、「犯罪行為を繁殖する」(注52)傾向である。より最近の修正された著作の言葉でいえば、「不義の心と犯罪行為を繁殖する」(注53)性質である。

 上記の議論は性の問題が統一神学のまさに中心において重要な位置を占めていることを決定的に示している。誤った愛や欲望が堕落の動機となったことは疑いがないが、最初の罪の行為としての性交は、原理講論によって明確に主張されているだけでなく、運動の神学が体系的一貫性を成し維持するためには必要不可欠な信念なのである。アダムとエバの罪は、創世記の記述の歴史的根拠がどうであれ、論理的に不倫なる性行為の観点から理解されなければならない。もしそうでなければ、サタンからエバとアダムに、そして彼らを通して全人類に伝播されたという原罪の教義は、合理的な根拠を失うであろう。さらに、以下にみるように、復帰の教義のキーポイントも基本的に性的な性格を持つものとしての原罪の理解に論理的に依拠しているのである。(注54)

 不倫なる性交が最初の罪の行為であったという事実は、性そのものが罪深いということを意味しない。性行為は、それがある人に神が与えた役割を外れ、神ではなく自己を中心とする愛を動機としているときに悪となるのである。エバが神に背を向けてサタンのもとに行ったとき、彼女の心は体をコントロールすることができなくなり、彼女は天使長の誘惑に対して脆弱になったのであった。したがって、性は、堕落世界における人間の生活の他の側面と同様に、本然の善なる状態に復帰されなければならないのである。

(注42)文鮮明「男と女の関係」『マスター・スピークス』(MS-369、1973年5月20日)、p.1
(注43)前掲書、p.2
(注44)『原理講論』、p.89-91
(注45)『統一原理解説』、p.51
(注46)性格の特性が性交を通してどのように伝播されていくかに関しては、『原理講論』にも、他のどこにも説明はない。
(注47)『原理講論』、p.90
(注48)前掲書、p.90
(注49)前掲書、p.91
(注50)前掲書、p.91
(注51)前掲書、p.91
(注52)前掲書、p.91
(注53)『統一原理解説』、p.53
(注54)例えば、メンバーが成長段階におけるまさにアダムとエバが堕落した時点に到達したとき、彼らはマッチングのセレモニーに参加する。ここで文師は各々のメンバーに配偶者を推薦する。マッチングのプロセスが完了すると、新しいカップルは各々聖酒式に参加する。そこでは真の父母である文師夫妻との新しい「血縁関係」が成立することにより、原罪が典礼的に取り除かれる。この儀式は性的な性格を持つものではないが、文師は象徴的にアダムの役割をし、花嫁はエバであり、花婿は天使長である。この儀式において用いられるワインは、少量の真の父母の血を含んでいる。この儀式全体については第5章で詳細に論じられるであろう。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』65


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第65回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」の中で、具体的な勧誘手段として「2 手相・姓名判断」(p.221-227)を挙げ、かなり詳しく説明している。櫻井氏による姓名判断の説明は、統一教会を相手取った民事訴訟で原告らが主張している内容と基本的に同じであり、桑名式姓名判断に準拠していながら、それに独自の「因縁」に関わる鑑定手法が加えられているという。統一教会の信者たちの一部が、過去の一時期こうした姓名判断を用いて印鑑を販売していたことは事実であり、櫻井氏の著作の中で述べられていることがそれほど事実と異なっているとは思えない。

 桑名式姓名判断では姓名が持つ運勢や吉凶を判断しているのであって、因縁を説くことはないようであるから、この因縁の部分は統一教会の信者らが独自の創造性で開発したトークということになるのであろう。元祖・桑名式としては自らの姓名判断を用いて印鑑販売が行われていたことを迷惑に思っていたようだ。しかし櫻井氏はその違いを強調するよりも、姓名判断なるものを「社会科学的にはナンセンスである」(p.224)と断じているように、そもそも信じていないのである。したがって、姓名判断が桑名式に忠実であるかどうかはそれほど問題とされていない。さらに、ちまたの姓名判断の鑑定家の中にも因縁という概念を用いて説明する者もおり、阿含宗でもほぼ同様の因縁が語られていることも認めている。占いにしても、因縁にしても、儒教と先祖崇拝が強い東アジアの宗教文化の要素として認められる概念なので、それ自体は否定も肯定もしないというのが櫻井氏の立場なのであろう。

 櫻井氏はまた、この姓名判断が入り口に過ぎず、「この鑑定は統一教会の教義である統一原理とは直接的な関係がない」(p.225)ことも認めている。これは私がこのブログのシリーズ「霊感商法とは何だったのか?」で述べてきたことと基本的に同じである。そのシリーズの議論において私は、世間から「霊感商法」と呼ばれた一連の現象が持っていた宗教的な意味を、一種の「シンクレティズム」であったと結論づけた。その理由は、印鑑、壷、多宝塔などの開運商品の販売行為に、統一教会の一部の信者が関与していたにも関わらず、その販売の際に使用された宗教的トークの中には、手相、姓名判断、四柱推命などの易学や、家計図を分析して因果応報の法則を説くなど、統一教会の正式な教理解説書である『原理講論』からは直接導き出されないような宗教的概念が混入していたからである。このような現象は、韓国やアメリカを初めとして海外の統一教会の信徒の間ではまったく見られない日本独自のものである。またその信仰内容も、キリスト教というよりはむしろ日本の土着の宗教性に近いものであったと言える。

 手相、骨相、姓名判断などは、日本では極めてポピュラーな占いであり、印鑑に吉相印と凶相印があるという概念も、極めて広く行き渡っている。また、大理石やさまざまな貴石が何らかの霊力を宿しており、特定の石をさすったり、保持したりすると運が開け、あるいは病気が治り、痛みが和らぐといった信仰は、世界各地に見いだすことができる。したがって一連の開運商品を販売していたトーカーたちの説いていた内容は、「統一原理」とは直接関係のない民間信仰的な性格の強いものであった。

 しかし、これらの開運商品を販売していた「全国しあわせサークル連絡協議会」では、顧客を対象に「統一原理」を分かりやすく噛みくだいた内容のセミナーを独自で開催し、それによって彼らを教育していた。したがってこれらの顧客には開運商品を購入したときの宗教的トークと「統一原理」とが、同一もしくは連続的な宗教的教理であるかのように受け取られていたのである。この結果、彼らの中では日本の土着の宗教概念と「統一原理」の教えが渾然一体となり、あたかも「統一原理」の教えに基づいて開運商品の販売がなされているかのように誤解される原因となった。

 櫻井氏は、このような教義的な必然のない話を信仰への導入で使うことに対して、三つの意味を見いだしている。
「(1)姓名判断に信憑性あり(嘘とまで言い切れる人は少ないだろう)とする日本人の心性にスゥーと入り、本人や家族の事情を把握するのにうってつけの方法であり、まさに導入に使えるからだ」(p.225)

 姓名判断を嘘とまで言い切れる人が少ないという櫻井氏の表現は、過剰評価と言える。世の中には占いの類をまったく信じない、唯物的で合理的な人間もたくさんいるからだ。手相や姓名判断は日本ではポピュラーな占いであるとはいえ、それを信じる人はある特定の層の人々であり、大多数の日本人が受け入れているわけではない。占いを信じるという人は神秘的で直感的な傾向を持った人々であり、目に見えないものを信じるという点において宗教性に通じている。占いを導入としてアプローチするということは、宗教的な素養を持つ人とそうでない人を最初の段階で選り分けていると言えるのかもしれない。

 櫻井氏の言う「本人や家族の事情を把握するのにうってつけ」というのは、当たっていると評価することができる。人は通常、初めて会った人に自分のプライバシーにかかわることや悩みなどをいきなり話したりしないものだ。しかし、「占い」という場には自然とそうしたことを話すことができる雰囲気がある。伝道はまず人の悩みを聞き、それを解決する道を示すことによってなされる。統一教会の信徒たちの中には、手相や姓名判断そのものを信じていたというよりも、その話題を通して相手の悩みを聞きだし、それを解決する手段として最終的に「み言葉」を伝えるための方便と考えていたものが多いのではないかと思われる。その根拠としては、印鑑販売や伝道の入り口では手相や生命判断の話をしたとしても、自分自身の信仰生活や課題の解決においてそれらが重要な役割を果たしていたとは言えないからである。むしろ、み言葉を聞き、メシヤに出会い、祝福を受ければ、手相や姓名判断に現れる次元の運勢は超克できるものと理解されていたようである。
「(2)中高年の人達にとって統一教会が一貫して教えていることは先祖の怨みや祟り、霊の障りであり、家族の系譜関係に基づく因縁である。これが信仰のベースになっている」(p.226)

 私がこのブログのシリーズ「霊感商法とは何だったのか?」で詳しく解説したように、先祖の因縁と統一原理の「蕩減」の概念には連続性と不連続性があり、それらは同一視することはできないものである。しかしながら、日本の土着の概念である先祖の因縁を媒介として統一原理を理解した人々は、その連続性ばかりが強調されて、渾然一体となっていたであろうことは十分に推察される。「中高年」という年齢層が問題というよりは、キリスト教的なものとして統一原理を受け取ったのか、占いや因縁論などの日本の土着の宗教性の延長線上に統一原理を理解したのかという「入り口」のあり方が、その後の信仰のあり方に大きく影響を与えたと言えるのではないだろうか。
「(3)姓名判断という占いは筮竹や算木を用いた易や四柱推命よりも単純である。画数を計算して数ごとの吉凶をあてはめてトーク・マニュアルを作成することが容易であり、素人占い師を大量に養成することができる」(p.226)

 これは多分に後付けの解釈であり、実際にそうしたことを計算して姓名判断が選択されたとは思えない。印鑑等の販売に関わっていた統一教会の信者たちの中で、最初から占い師を目指して本格的な勉強をし、それが動機となって販売活動を行っていた者はほとんどいない。その意味で彼らのほとんどが「養成された」占い師であったとは言えるだろうが、なぜ姓名判断だったのかという問いに対する合理的な答えを追求することにそれほど意味があるとは思えない。それはなぜ印鑑だったのか、なぜ壺だったのか、なぜ多宝塔だったのかという問いと同じで、信徒たちが実績を出すために努力する中で、誰かが成功事例を生み出し、それを全体が相続するようになったというだけのことである。それは客観的に見れば偶然の産物であり、誰かが緻密に計算したり計画してそうなったというものではない。そこに神や霊界が働いたとか、天の啓示であったとかいうのが、後付けの主観的な解釈であるのと同じくらい、易や四柱推命よりも姓名判断の方が単純だから選ばれたというのも、後からもっともらしい理由をつけただけの主観的な解釈に過ぎない。

 櫻井氏はまたしても「印鑑トーク」を自分自身に当てはめて、トークの実例を紹介している(p.226-6)。そして「このようなトークを一、二時間受ければ、せめて印鑑くらい買った方がいいのではないかという気分になるのではないか」(p.227)と述べているが、これも過剰評価である。現実には、印鑑のトークを受けても購入に同意する者は少なく、それほど効率が良いものではない。販売や伝道の現場は、実際には否定の連続であり、受け入れる人はごく僅かである。それをあたかも巧妙な勧誘手段であるかのように櫻井氏が描写するのは、その効果を過大評価して民事訴訟で損害賠償を勝ち取ろうとする原告側の主張に、櫻井氏が完全に依拠しているためである。

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ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳11


第2章(4)

 最初の罪または原罪は、アダムとエバが第一祝福を完成する前段階の「長成期完成級」にさしかかったときに発生した。理想的には、
「アダムとエバは、共に完成して、神を中心とする永遠の夫婦となるべきであった。ところが、エバが未完成期において、天使長と不倫なる血縁関係を結んだのち、再びアダムと夫婦の関係を結んだためにアダムもまた未完成期に堕落してしまったのである。このように、時ならぬ時にサタンを中心としてアダムとエバとの間に結ばれた夫婦関係は・・・」(注35)

 この理想は実現されなかったので、アダムとエバは第二祝福を成就することができなかった。人類を幸福と満足へと導くはずであった神に向かう愛ではなく、アダムとエバの愛はサタンを中心としていた。この「堕落した愛」が、彼らおよびその子孫たちにもたらしたものは、苦しみと不満だけであった。

 愛の概念は堕落を理解する上で極めて重要であり、それは運動の文献において徹底的に定義されているわけではないが、原理講論における愛は特定の種類の欲望、すなわち一体化に対する欲望であるように思われる。未熟なエバは自己中心的に愛を理解したようである。彼女にとって愛とは肉体的欲求をすぐに充足させることを意味した。したがって、サタンとの一体化は性的なものであった。さらに、彼女は神との関係においても十分に成熟していなかったので、この性行為は「非原理的な愛」に基づくものであり、神の戒めを無視した一体化の欲望であった。おそらくアダムの罪も同じ未熟な欲望に基づくものであった。

 堕落が可能であったのは、アダムとエバが原理によって神から間接的な主管を受ける成長期間にいたためであった。(注36)この期間において、原理の力よりも強い唯一の力が愛であった。神の創造目的はご自身の愛による主管を確立することにあったので、神は愛を最も大きな力として創られ、アダムとエバが非原理的な愛を自由意志によって選ぶのを防ぐために、善悪を知る木の実を食べてはならないという戒めを与えたのであった。もし彼らが神の意思に従って完成していたならば、彼らは神と「一つ」となり、罪を犯すことができないように(それを望まないという意味において)なっていたはずであった。

 愛によって願われる一体化は、原理講論においてははっきりと表現されていない。創造の教義においては、被造物が神の女性格対象であることを強調しているので、愛の一体化は「存在論的」なもの、すなわち存在の一体化であるようにみえる。しかしながら、四位基台についての説明では神、自己、他者、そして世界の一体化は本質的に「機能的」なものであり、存在間の精神的、知的、道徳的、美学的な調和が強調されている。この後者の見解が運動の神学の意図であるように思われる。メンバーたちの多くは神学的に鋭敏であったが、彼らに対するさまざまなインタビューにおいて、強調点は一貫して機能的な一体化に置かれていた。さらにまた、イエスも再臨主も神と同一ではない。むしろ、彼らは完成した存在であり、その愛が神の愛と同じなのである。

 アダムとエバの罪によって堕落した愛の性質が何であれ、堕落の結果は原理講論に明確に示されている。アダムとエバが神に向けるべきであった愛、そして四位基台を基盤として善なる理想世界を築くべきであった愛は、サタンへとその「方向を誤って」しまった。その結果として、「偽りの四位基台」(注37)が造成され、天使長との授受作用によって、悪と苦しみが世界に入り込んだのである。(注38)さらに、アダムとエバは、サタンとの「血縁関係」により、神の子女としての自らの地位を失い、いまやこの世の「神」であり支配者であるサタンの子女となってしまったのである。神はご自身の子女が天使たちおよびすべての被造物を主管することを意図された。堕落によってこれが逆転した。サタンが人間と天宙を支配するようになったのである。

 堕落は、人間を神から遠ざけてサタンとの不倫なる関係へと導いた、誤った愛に根差しており、基づいている。堕落の動機としての非原理的な愛は、運動のその他の資料にも表現されている。メンバーとのインタビューにおいては、堕落の動機に完全に集中するあまり、最初の罪の行為としての性交が二次的な問題となってしまうという結果をもたらす傾向があった。あるインタビュー対象者は、最初の罪の行いは殺人やその他の明らかに原理に反する行動でもあり得たと示唆した。

 この動機の強調は、「善と悪は、ある行為や結果それ自体において直ちに決定されるのではなく、その動機と方向と目的が神のためのものであったか、サタンの目的を指向したものであったかによって決定される」(注39)と述べる統一教会の道徳論と一致する。しかしながら、動機「そのもの」は論理的に十分な堕落の説明を構成しないと信じるに足る理由がある。エバとサタンの性的結合は、方向性を誤った自己中心的な愛から起こったものではあるが、原理講論およびその他の資料によれば、それ自体で意義があるのである。アダムとエバがサタンとの間に成立させた血縁関係は、すべての子孫たちに遺伝的に伝えられる堕落性を彼らに植え付けた。子供たちが両親から受け継ぐこの性質は、「遺伝罪」と呼ばれている。ということは、最初の罪が性交であったということは、普遍的な人間の特徴としての罪という視点からすれば必然的であることになる。さらに、原理講論の中には以下のような議論がある:
「人間が堕落する以前の世界において、死ぬということを明確に知っていながら、しかも、それを乗り越えることのできる行動とは、いったい何であったのだろうか。それは、愛以外の何ものでもない。・・・神の創造目的を中心として見るとき、愛は最も貴い、そして最も聖なるものであったのである。しかし、それにもかかわらず、人間は歴史的に愛の行動を、何か卑しいもののように見なしてきたというのも、それが、堕落の原因となっているからである。ここにおいて我々は、人間もまた、淫乱によって堕落したという事実を知ることができる。」(注40)

 この一節において言われている愛の行為は明らかに殺人や盗難ではなく、性行為である。さらに、キリスト教が現代社会の多くの問題を解決できないでいることを論じている最中に、原理講論は以下のように説明している。
「しかし、このような社会的な悲劇は、人間の努力いかんによって、あるいは終わらせることができるかもしれない。けれども、人間の努力をもってしては、いかんともなし得ない社会悪が一つある。それは、淫乱の弊害である。キリスト教の教理では、これはすべての罪の中でも最も大きな罪として取り扱われている」(注41)

(注35)『原理講論』、p.79
(注36)この原理は「神に由来し、被造物に充満する、基本的で活動的で普遍的な法則である」と言われている。(『統一原理解説』、p.29)
(注37)前掲書、p.49
(注38)この運動のその他の神学的著作も同様であるが、原理講論は体系的に発達した神義論を提示していない。道徳的悪が原罪の結果であり、人間の責任であることは明らかだが、非道徳的悪(例えば壊滅的な病気や地震など)に対しては神学的な理由づけがなされていない。
(注39)『統一原理解説』、pp.50-51
(注40)『原理講論』、p.72
(注41)前掲書、p.7

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』64


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第64回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」の中で、具体的な勧誘手段として「アンケート調査を装ったものがある」(p.218)と述べ、東京の「青春を返せ」裁判に提出されたアンケート用紙の例を掲載している。この「装った」という表現には、アンケートが一種の偽装であり、調査を装って相手の名前や連絡先を聞き出す手段に過ぎないという意味が含まれている。実際、東京の青春を返せ裁判では、原告側は「最初の声かけに用いる『生活意識アンケート』などは、対象者を立ち止まらせ、対象者の氏名・住所・連絡方法・関心事などを聞き出すための小道具であり、集計や分析などに用いられることはないので全くのトリックである」と主張した。しかし、これらのアンケートを用いて伝道活動を行っていた信者らは、「集計や分析に用いますので協力をお願いします」と言ってアンケートを取っていたわけではないので、そこには何らの虚偽はなく、トリックではない。

 アンケートを用いて相手の関心事を聞き出して伝道するという行為は、統一教会の信者たちに限ったことでなく、一般的に行われている行為であり、とりたてて問題にすべき事柄ではない。キリスト教徒に広く読まれている『クリスチャン生活事典』にも、「アンケートを使ったアプローチのしかた」が紹介されており、以下のような記述がある。

「特別なアンケート調査を準備して近づいて行ってもよいでしょう。『恐れ入りますが、今、この一帯でこのような宗教アンケート調査をしているものですが、ご協力いただけますか。』それをきっかけに神さまのことを語ります。」(島村亀鶴、長島幸雄、船本坂男監修『クリスチャン生活事典』教会新報社、p.275)という記述がある。この事典の276ページにはアンケート調査の例が掲載されているが、このアンケートの目的は相手に宗教的なニーズや関心があるかどうかを見極めることにある。これは集計や分析に用いられているのではなく、伝道におけるアプローチのための小道具として用いられていることは明らかである。櫻井氏の書籍の218~219ページに掲載されている、統一教会の信徒が用いていたとされるアンケート調査もこれと類似のものであり、ごく一般的なアプローチ法であると言える。

 櫻井氏はこのアンケート用紙について、「一通り答えるとその人の関心の所在が把握できるようになっており、連絡先まで答えてもらえれば完璧である」(p.219)として、勧誘のための極めて有効な小道具であるかのように説明している。これも、青春を返せ裁判の原告たちが繰り返し主張してきたことと同じであるが、その効果はかなり誇張されている。このアンケートは道行く人が何に関心があるかどうかを聞くものであり、相手が宗教的な事柄に関心がありそうな人かを判別するためのものである。したがって、実際にはアンケートに答える人はまちまちの対応をするのであり、一律な答えが返ってくることはない。また、アンケートの最後には住所、氏名、年齢などを書く欄があるが、それに答えることを同意した人だけがそこに記入するのであって、アンケートに答えた人が全て記入するわけではない。

 通常、路傍伝道でアンケートに答えるくれる人は声をかけた30人から40人に1人であり、一日アンケートを取っても2、3枚取れれば良い方であり、1枚も取れない人もいる。また、アンケートに答えた人でも、住所や電話番号まで教えてくれる人はその内の半数かそれ以下であり、アンケート伝道の効率は決して良いとは言えない。こうしたアンケート調査や、勧誘のトーク、修練会の効果を実際以上に誇張して主張するのは、統一教会反対派の常套手段である。

 続いて櫻井氏は「この勧誘手法にはトーク・マニュアルがある」(p.219)として、札幌での裁判に提出された「み言葉トーク」に準拠して、それを北大の学生であった30年前の自分自身に当てはめた「勧誘トーク」を紹介している(220ページに掲載)。統一教会信者の伝道のトークは、とにかく相手を褒めまくることに特徴がある。櫻井氏がそれを30年前の自分に対して行うということは、要するに「自画自賛」であり、ナルシスティックな匂いのする噴飯ものの文章だ。彼は30年前の自分に対して「さすが北大生」「真面目な方なんですね」「哲学の本も読まれる! すごいですねえ」などというセリフを吐くことに対して恥ずかしさを感じなかったのであろうか? そして、それを受けて「どうだろう。時間があればちょっと聞いてみようかという気になる人も多いと思われる」(p.220)と読者を説得している。要するに、若い学生や青年はこうしたトークに弱いのだと言いたいわけである。

 しかし、ここでもこうしたトークの効果が過大評価されていることは指摘しておかなければならない。「ムーニーの成り立ち」の著者であるアイリーン・バーカー博士は、ムーニーたちがゲストに対して並々ならぬ好意を浴びせることは疑いないが、それにも一定の限界があることを指摘している。初対面の人からいきなり褒めちぎられたら、何か裏があるのではないかと疑う人もいるということだ。
「もちろん、過度の好意に対して懐疑的になる場合はある。特に、よく知らない人なのに信用を得ようとしていると信じるに足る理由がある人々からそうされた場合は、なおさらである。そのような場合には、あまりにも大げさな呼びかけは逆効果になり得る。自分のサイズより二つも小さい服を試着しても、なんと素敵なんでしょうと褒めちぎるような店員からは、何も買う気にはならないものである。」(「ムーニーの成り立ち」第7章 環境支配、欺瞞、「愛の爆撃」より)

 櫻井氏が220ページで紹介している「み言葉トーク」なるものは、賛美の部分を除けばかなり本質的な「宗教的トーク」であると言える。これから学ぼうとしている内容が、人生の根本問題に関わるものであり、哲学や宗教に関わるものであることをかなりストレートに表現しており、こうした内容にまったく関心のない人は聞いてみようとは思わないであろう。こうしたトークに反応してビデオセンターに行ってみようと思う人は、最初から宗教的な事柄に関心のある人であり、自分を高めたいとか、自分を変えたいと思っている人である。統一教会の信者たちが求めていた人はまさしくそのような人であり、ビデオセンターに来た人は、ある意味で「来るべくして来た人たち」であったと言えよう。しかし、入口におけるニーズが一致したとしても、そこで提供されたものが自分の求めていたものと違っていると感じれば、その人はそれ以上通おうとは思わなくなるのであり、どの段階においても「自由意思による選択」が起こっていることも忘れてはならない。

 統一教会の信者たちが行ってきた伝道は、かなり「目的志向」的であったと言える。自分たちの最大の財産であり売り物は「み言葉」であることを強く意識しているが故に、それを伝えることに主眼を置き、それに相対しない人を深追いすることはない。それは時間の無駄であると認識しているからである。つまり、伝道とは人の考え方を無理やり変えて信仰を持たせることではなくて、み言葉に反応しそうな潜在的素養を持った人を探し、その人にできるだけ分かりやすくみ言葉を伝えることである。結果的に、アンケート、ビデオセンターでのトーク、修練会の各過程を通して、宗教的な事柄に関心のない人は淘汰されていき、最終的に「統一原理」の内容を受け入れる人が選択されていくのである。

 続いて櫻井氏は、札幌地裁に提出された「新規前線トーク・マニュアル」を引用し、伝道対象者として望まれる人はアパート在住の勤労青年や大学生等であり、勧誘しやすく、自分たちの欲しがっている人材に対象が絞られていると分析している。ここでも櫻井氏は、「宗教の布教で一般的に見られるような貧病争で悩み苦しんでいる人が対象外とされていることにも注目したい」(p.221)と指摘している。

 櫻井氏はこれをもって、統一教会の伝道がどこか不純で宗教的でないと言いたいようだが、これは二つの観点から批判することが可能である。第一に、この「トークマニュアル」は青年を対象としたものであり、一部署の事情や目標を反映したものにすぎないということだ。青年部署の伝道対象が青年に絞られているのはごく普通のことであり、より伝道されやすいタイプの人に選択的に声をかけるのもごく当たり前のことである。第二に、「貧病争」ばかりが新宗教に入信する動機ではないということだ。

 伝統的な新宗教が「貧病争」で悩み苦しんでいる人々を布教の対象として来たことは事実だが、高度経済成長期以降(1970年代以降)に教勢を伸ばした新宗教は必ずしもこのパターンには当てはまらず、もっと精神的・倫理的なニーズで宗教に入信する人が多くなったこともまた事実である。これは日本が経済的に発展し福祉制度が充実したことにより、「貧病争」の解決に必ずしも宗教が必要なくなったという時代背景が関係しているのであり、統一教会に特異な現象ではない。統一教会が台頭してきたのも1970年代以降であるから、それ以前の新宗教と性格が異なるのは当然である。さらに、こうした性格は青年や学生に対するアプローチにおいて顕著なものであり、より年配の「壮年壮婦」に対するアプローチにおいては、より伝統的な新宗教に近い「貧病争」の解決が重要な役割であったことは指摘しておきたい。一部署の方針から統一教会全体の性格を分析する櫻井氏の手法は軽率であり、研究対象に直接向き合って調査をしていないことから来る誤解であると思われる。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳10


第2章(3)

 統一神学における夫婦愛の神聖化は、運動における結婚に対する全般的なアプローチと結婚に対する個人の態度を理解する上で重要な意味合いを持っている。これらの意味合いはおもに第5章で扱われるであろう。
 第三祝福(「主管せよ」)は、人間の共同体と人間以外の被造物との関係における四位基台の造成について論じている。その関係は最初の二つの祝福と同様に神を中心としている。人間は被造物全体を主管する権利を神から与えられているだけでなく、彼または彼女は「愛による主管」をなすことができる。なぜなら、「神は人間をつくられる前に、これから創造されるであろう人間を標準として万物世界を創造された。・・・このように、人間は自己の性相と形状に似た万物世界を愛し、そこから来る刺激によって喜びを感じるようになる。」(注23)

堕落の教義

 性と結婚は創造の教義において不可欠な部分ではあるが、性の問題は統一神学の堕落の教義においては、まさに中心に位置している。堕落の解釈をする上で性の問題をどの程度強調すべきかに関して運動内においてコンセンサスがあるようには見えないが(注24)、アダムとエバの最初の罪の「行為」が性交であったこということは全般的に認められている。

 原理講論は「今まで罪の根がいったい何であるかを知る者は一人もいなかった」(注25)と主張している。これが明らかに意味していることは、原理講論は文師が神から受けた新しい啓示を弟子たちが記録したものであるため、文師こそが堕落の真の原因を知っているその「一人」であるということだ。事実、運動内の口伝によれば、最初の罪が「性交」であるという知識は、文師がその秘密を発見した霊界への旅の間に現れたものであり、それによって彼は再臨主となるための神の任命を確実なものにしたのであるという。(注26)文の根本的な洞察を踏まえて、統一教会の著名な神学者である金永雲は、慎重で筋の通った、歴史に基づいた議論によって、堕落に関するこの見解に対する支持を展開した。(注27)しかし私が話したメンバーたちは、原理講論における堕落の説明をただ信仰によって受け入れるか、それを比喩的に解釈するかのどちらかである傾向にあった。

 原理講論によれば、人間は意識的に善を行おうと望んでいるにもかかわらず、悪を行わざるを得ないという事実に鑑みて、堕落に関する真の説明は必ず必要であるという。それは彼らが、キリスト教ではサタンと呼ばれているある「悪の力」に、「自分も知らずに駆られ」ているためである。(注28)このサタンの力を克服し、地上に善なる時代を開始するためには、サタンの性質と動機、そして堕落におけるその役割について理解する必要があるのである。

 罪の根を理解する鍵は、エデンの園にあった二本の木の正しい解釈にある。命の木は「創造理想を完成した男性」を象徴しており、アダム、イエス、(コリント人への第一の手紙15章45節)(注29)および再臨主(黙示録22章14節)と関連づけられている。アダムに関しては、それは彼がエデンの園において目指していた完成を象徴している。もしアダムが罪を犯さなかったら、彼は命の木になっていたはずであり、それは彼が創造目的を成就することを意味していた。

 善悪を知る木は「エバの木」を象徴しており、命の木とともに、「神のエデン創造理想の中心核がアダムとエバであった」(注30)ということを意味している。善悪を知る木は女性を表しているため、その木の「実」もまたエバに関係しているのである。

 原理講論は、エバを誘惑した蛇の正体を天使長ルーシェル(黙示録12:9およびぺテロの第二の手紙2:4)であるとしている。彼が神に対して犯した罪は、「不自然な欲望」を動機をするものであり、淫行という形で現れた。(ユダの手紙1:6-7)天の王宮の天使長として、サタンは彼を通して神の祝福が天使界の者たちに伝えられる特別な仲介者であった。神がアダムとエバをご自身の子女として創造されたとき、僕に過ぎなかったサタンは、彼らに向けられた神の大きな愛に対して嫉妬を覚えるようになった。さらに、神から愛された結果としてエバはますます美しなっていったため、サタンはエバに強く魅かれるようになった。彼は、彼女と一つになることにより、自身もまた神がアダムとエバのみに与えたのと同じ量の愛を受けれらるのではないかと思ったのである。

 エバはサタンと性交をすることによって罪を犯した。(注31)したがって善悪を知る木の実とは、エバが「天使(サタン)と彼を中心とする彼女の悪なる愛によって血縁関係を持った」(注32)ことを意味するのは明らかである。サタンとの血縁関係は、「霊的堕落」と呼ばれるものを引き起こした。

 サタンとの不倫なる接触の結果として、エバは良心の呵責の表れであるとされている恐怖を感じた。彼女はまた、神の意図した配偶者は天使ではなくアダムであったということに気付いた。彼女の恐怖を和らげるために、また彼女の夫となるべき人であるアダムを通して神に帰ることを期待して、彼女はアダムを誘惑した。(注33)この不倫なる関係は、それもまた「愛の誤用」に基づいていたという点において、肉的堕落を引き越した。「アダムはエバと一体となることによって、エバが天使長から受けたすべての要素をそのまま受け継ぐようになった。そしてこの要素は、その子孫に綿々と遺伝されてきたのである。」(注34)

(注23)『統一原理解説』、p.25
(注24)問題となっているのは堕落の神学的理解において、アダムとエバの不倫なる性「行為」が不可欠なものであったかどうかということである。不倫なる性交が神学的に必要不可欠であると主張する者もいれば、アダムとエバの動機、すなわち方向性を誤った愛こそが本質であると主張する者もいる。こうした違いは私が行ったインタビューによって明らかになった。ブライアントとホッジス『統一神学探求』、pp.8-10における活発な議論も参照のこと。
(注25)『原理講論』、p.66
(注26)ロフランド『終末論を説くカルト』、pp.23-24。私のインタビュー対象の何人かはこのストーリーを知っていたが、知らない者もいた。N・P・パウエル(『堕落と原罪の思想』[ロンドン:ロングマンズ、グリーン、および株式会社、1927年]、pp.xii; 45; 58; 77; 86; 204; 226; 227; 271-273; 304; 411)とF・R・テナント(『堕落と原罪の教義に関する資料』[ニューヨーク:ショッケン・ブックス、1968年]、pp.152-153; 159; 191; 208)が、二人とも堕落に関するこの見解はまったく「新しい」ものではなく、4世紀のキリスト教徒において一般的な見解であったことを示しているのは興味深い。また、シェイカーの創設者であるアン・リーもこの見解を持っていた。最後に、多くの在家のクリスチャンたちが原罪は性交であるとみなしてきたと信じるに足るいくつかの理由がある。
(注27)金永雲『統一神学とキリスト教思想』、1975年
(注28)『原理講論』、p.65
(注29)『統一原理解説』、p.40
(注30)前掲書、p.41
(注31)『原理講論』、p.74。天使がいかにして人間と「物理的な」接触を持てるかについての「説明」に関しては、『統一原理解説』p.77をも参照のこと。
(注32)前掲書、p.77
(注33)『原理講論』と『統一原理解説』はともにエバが主導してアダムを誘惑したことを強調している。私はアダムの動機もまた神よりも彼自身を中心とする愛であったと思うが、このポイントは統一神学のこれら二つの主要な資料においては強調されていない。
(注34)『統一原理解説』p.47

カテゴリー: ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』63


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第63回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」の最初の項目に「1 正体を隠した勧誘」を挙げている。これまでも櫻井氏は本書の中で繰り返してこの「正体を隠した勧誘」について批判的に取りあげてきたが、ここでは以下のような、かなり大胆な断定が議論の前提として登場する。
「宗教の布教において布教者が布教している姿を一般の人々から隠すことはありえない。洋の東西を問わず、聖職者にせよ信者にせよ堂々と信じることを述べ伝えるものだ。・・・例外的な状況として、隠れ念仏、隠れキリシタンのように当時非正統とされる宗教を信じるものが、権力者の迫害や支配的宗教の目を逃れるために隠れて信心するということがある。」(p.216)

 はたして本当にそうだろうか? 歴史的にみて、迫害を逃れるために隠れて信心することは「例外」と言えるほど珍しいことだったのだろうか? 言い換えれば、圧倒的大多数の信仰者たちが堂々と自分の信じることを述べ伝えることができるほど、人間社会において信教の自由が保障されてきたのだろうか? また現在においても、世界中の圧倒的大多数の人々がその自由を享受しており、それができないのは「例外的な状況」に過ぎないほど珍しいものなのだろうか?

 歴史的にみて、信教の自由が保障された社会が出現したのは、近代ヨーロッパにおいてであって、それ以前は異端的信仰に対する迫害、殺戮、拷問などが行われる社会が長く続いていた。また、信仰の正統・異端を巡る宗教戦争も数限りなく行われていた。こうした社会において、信仰者たちが堂々と信じることを述べることは自分の命を危険にさらすことであり、彼らがそのような自由を享受していたとは到底信じられない。

 櫻井氏は「隠れ念仏」や「隠れキリシタン」などの日本の事例を例外的な状況として挙げているが、日本において本当の意味で信教の自由が保障されるようになったのはせいぜいここ70年ほどのことであり、それ以前はさまざまな形で信教の自由が制約されていた。伝統仏教による新興仏教に対する弾圧は日本の歴史の中で繰り返し行われてきたし、江戸時代のキリシタン迫害、第二次大戦下における大本教などの新宗教や一部のキリスト教に対する弾圧は、それほど遠い昔の出来事ではない。こうした信教の自由の歴史的な状況に関しては、このブログのシリーズ「人類はどのようにして信教の自由を勝ち取ったか?」(http://suotani.com/archives/726)で詳しく解説しているので、関心のある方は読んでいただきたい。

 今日の世界を見ても、それほど広範に信教の自由が普及した世界になっているとは言い難い。世界の国々の宗教の自由の侵害に関する事実と状況を審査している米国国際宗教自由委員会(USCIRF)は、宗教の自由が特に侵害されている国々を「特に懸念される国々」(CPCs)として公開しているが、2016年のリストには以下のような国々が含まれている。カッコ内はその国の人口(2015年の推定値)である。

 ミャンマー(47,963,012)、中国(1,349,335,152)、エリトリア(5,253,676)、イラン(73,973,630)、北朝鮮(24,346,229)、サウジアラビア(27,448,086)、スーダン(43,551,941)、トルクメニスタン(5,041,995)、ウズベキスタン(27,444,702)、中央アフリカ共和国(4,401,051)、エジプト(82,121,077)、イラク(31,671,591)、ナイジェリア(158,423,182)、パキスタン(173,593,383)、シリア(20,410,606)、タジキスタン(6,878,637)、ベトナム(87,848,445)。

 これらの人口を合計すると約21億6970万人となり、これは世界の総人口の31%に当たる。これだけの人々が宗教の自由が特に侵害されている国に住んでいるということは、現代社会においてさえ、宗教の自由に対する侵害は「例外」と言えるような珍しい状況ではないことを示している。これらの国々の特徴としては、共産主義の国とイスラム教の国が主な構成要素になっていることが分かる。中国には基本的に信教の自由はなく、共産党政府の意に反する信仰を堂々と表明することはできない。イスラム教徒には基本的に他宗教に改宗する自由はない。したがって、イスラム教が支配的な国ではそれに反する信仰を堂々と表明することはできないのである。事実、一般のキリスト教にしても統一教会にしても、イスラム圏において宣教を行うときには地下教会などの秘密組織の形態をとって自己防衛するのが普通である。共産圏とイスラム圏において宣教活動をすることは命がけの仕事であり、とうてい自分の信仰を堂々と表明できるような環境ではなかった。現代の世界は、少数派の信仰者たちに対してそれほど寛容な世界ではない。そうした環境の中で彼らが自らの信仰を隠して密かに宣教活動を行うのは、生存と自己防衛のために必要な手段なのである。櫻井氏はこうした問題にはまったく無頓着で、「宗教の布教において布教者が布教している姿を一般の人々から隠すことはありえない。洋の東西を問わず、聖職者にせよ信者にせよ堂々と信じることを述べ伝えるものだ。」というような能天気な主張をしている。

 しかし、アメリカや日本のような信教の自由が保証された国において、最初の段階で正体を秘匿して伝道するということは、何を意味しているのであろうか? それは国家主権によるあからさまな迫害はなくても、その国の一般市民や文化が特定の宗教に対して敵対的であるとき、そのような「非国家主体」からの迫害を避けるために、自分の信仰を秘匿するということである。それを「不実表示」や「欺罔」と捉えるかどうかは微妙な問題であり、その違法性は直ちに判断できない。

 米国版の「青春を返せ」裁判ともいえる「モルコ、リール対統一教会」事件でも、原告の元信者らは「自分を伝道した人が初めから文鮮明師の信者であることを直ちに、正直に述べなかった」、と主張し、これを違法性の根拠としていた。この裁判において米国キリスト教会協議会(NCC)がカリフォルニア州最高裁判所に提出した「法廷助言書」は、この点について以下のように述べている。
「上訴人たちは本件の宣教者が、統一教会員であり文鮮明師の信者であることを直ちに述べなかった、ということを大さな問題にしている。理想的世界においては、彼らもそのようにできたであろう。しかしパウロも、歴史上の数多くの宣教者もそうであったように、最初に自分の正体を明らかにしようとしなかつたのは、受け入れられやすい方法で、伝道対象者に対応する必要があると感じたからであった。統一教会員が最初に自分の正体を明らかにしようとしなかったのも、『ムーニー』と呼ばれ、マスコミから悪く言い立てられて形成された偏見に対してそうせざるをえなかったのである。統一教会員には話を始める前からでさえも、そうした乗り越えなければならない反感が存在した。もしそうでなければ、知り合いになつてさらにあとになるまで教会名やその目的を明かすことを延期する必要を感じなかったであろう。」

 日本においても、過去において統一教会の一部信者が、最初から統一教会の伝道活動であることを明かさない「正体隠し」の伝道を行ったことは事実である。その動機はアメリカと同じく、マスコミ等によってあまりにも悪い噂が広められたため、最初から正体を明かせば話の内容を聞く前から拒絶されることを懸念して、教義の内容を一通り聞いてもらった後で正体を明かそうと考えたからである。現在ではコンプライアンスの観点から、こうした「正体隠し」の伝道は行わないように信者に対する指導がなされている。

 櫻井氏はここでも、「正体隠し」の伝道が出現した理由に関する自説を繰り返し述べている。それは顕示的な学生運動であった1960年代と70年代から、正体を隠して「霊感商法」を行う組織宗教へと姿を変えた1980年代以降という、日本統一教会史の理解に対する櫻井氏独特の図式に基づく説明であるが、これが事実に反することはこれまで繰り返し述べてきたので、ここでは繰り返さない。しかし櫻井氏が統一教会の幹部たちの思考をあたかも直接聞いたかのように断定的に記述しているのは看過できない。彼によれば、初期の原理研究会出身の学生たちは1980年代に統一教会の幹部となったが、「彼らが必要とした信者は求道者としての信者ではなく、むしろ、自分たちの指令に従い組織的課題を遂行する一般社員としての信者だった。・・・摂理遂行という目的意識を持った業務遂行者、働き人を短期間に効率的に養成することとなったのである。・・・布教の目的は自分たちの信仰を世に知らしめることではなく、働き人を得ることだったから対象者さえ獲得すればよいと彼らは考えたのであろう」(p.217-8)ということらしい。

 いったい、他者の心の中や活動の動機をここまで一方的に断定する櫻井氏の根拠はどこにあるのだろうか? そもそも、現役信者に対する聞き取り調査を一切行っていない櫻井氏が、その心の中をここまで明確に表現することが、いかなる実証的方法論によって可能なのか、著者にはまったく理解できない。もしこれがデータによる実証性を重んじる社会学的な研究手法によって得られた像でないとするならば、それは裁判の場において統一教会を攻撃するために反対弁護士たちが描いた「統一教会の幹部像」を、そっくりそのままトレースしたものに過ぎないであろう。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳09


第2章(2)

原理講論の神は永遠に自存する絶対者であり、その万有原力は神が存在するための根本的な力であると同時に、創造のための根本的な力である。(注11)被造物の中で作用して、この力は創造のプロセスにおける「授受作用」を開始し、維持する。各々の被造物(人間および人間以外)は、それ自体のために作られたのではなく、他の存在との間に相対的関係を結ぶために作られた。「すべての存在を構成している主体と対象は、授受作用するときに、その存在のためのすべての力、すなわち存在と繁殖と作用などのための力を発生する。」(注12)考え得るすべての関係は、神の意図に従って、主体と対象の間の良き授受作用によって特徴付けられる。たとえば、神の心情は人間に対して愛を与え、人間は神に喜びを返すことによってそれに報いる。さらに、理想的な関係が展開するためには、与えることが受けることに先立たなければならない。あるいは、それをより最近の統一神学の解釈に従って言えば、授受作用の前に相対基準を造成しなければならず、それは「主体と対象が自身の『個体目的』よりも『全体目的』を優先するときに」(注13)生じるのである。このことから、自己中心的な個人主義が授受作用の可能性そのものを否定することは明らかである。

主体と対象が授受作用を行うとき、それらは一体となって神の新たな対象となる。このプロセスは「正分合作用」(注14)と呼ばれ、関連する例を用いれば、神が「正」であり、夫(主体)と妻(対象)が「分」を表し、そして子女は授受作用の実として「合」を表す。

正分合作用の構造、すなわち「四位基台」は、統一神学のまさに中心に位置する。(注15)四位基台は、各存在(神、夫、妻、子女、上記の例の続き)が他の三者に対して主体の立場に立ち、「三対象目的」を完成させるときに造成される。したがって、
「四位基台は、神と分立された主体、対象とその合性体の四つの要素が、各々三対象目的を完成させることによって、六対の授受作用で構成される力の基盤である。」(注16)

以下の図は、結婚という状況においてこの考えを図示したものである:

四位基台

このように、理想的な四位基台は主体と対象を一つにする授受作用が神を中心としているときに実現される。この基台は、神の創造目的を成就するための基盤を形成するものであるが故に極めて重要である。

神の目的を理解するためには、愛の対象を求める神の心情を理解しなければならない。そして神が宇宙を創造した動機は、自身の性相を反映した愛の対象を持つことにより、喜びに満ちた満足感を覚えるためであった。人間は神のかたちとして創造されたため、彼または彼女は人間以外の被造物よりも神の性相を反映しているだけでなく、彼または彼女は神の愛に反応することができるため、神の心情に最も近い存在なのである。(注17)

神の創造目的は、創世記1章28節において最も明確に示されていると理解されており、統一教会の三大祝福の思想はこの聖句に基いている。この思想は、人間が神に喜びを返すというその存在目的を成就することのできる構造を提供するものである。人間はこれら三つの祝福をすべて成就することのできる成長と成熟のプロセスを通過してのみ、神の「完全な対象」となることができるのである。この成長期間の間は、神は人間を原理(注18)と戒め(注19)によって間接的に主管する。人間が霊的、心理的、身体的成熟として定義される完成に到達したとき、彼または彼女は神の心情と一つとなり、この段階に入って神は愛によって直接主管する。完成した人間はもはや罪を犯すことができない。

個々の祝福は、四位基台を造成した基盤の上に実現される。第一祝福(「生育せよ」)は、完全に神を中心とする生活の中で個人の心と体が一体となって完成する可能性のことである。アダムとエバは神が見てはなはだ良かったと言った被造物の一部であったけれども、彼らは完成した状態で創られたわけではなかった。もし彼らが完成していたのであれば、彼らは神の戒めを破ることはできなかったであろう。もし彼らが個性完成(第一祝福)を成し遂げていたならば、彼らは神の心情と一つになり、神の愛によって直接主管されていたので、神に反逆することはできなかったであろう。

もしアダムとエバが個人として完成していたならば、彼らは第二祝福(「繁殖せよ」)、すなわち理想的な結婚と家庭の形成を実現するための霊的な準備が出来ていたであろう。(注20)この場合、神の愛が夫(主体)と妻(対象)の間の授受作用の中に実現され、二人の愛の合一を象徴する子女を持ったときに、四位基台は造成される。もしアダムとエバがこの祝福を成就していれば、彼らは全人類の真の父母となり、彼らの善の子女を通して、地上に天国を実現していたであろう。

完成段階まで成長した夫と妻の関係は、動的な愛と美の相互作用として描かれている。
「神と人間について例をとれば、神は愛の主体であり、人間は美の対象である。男女については、男子は愛の主体であり、女子は美の対象である。・・・しかし、主体と対象とが合性一体化すれば、美にも愛が、愛にも美が内包されるようになる。なぜかといえば、主体と対象とが互いに回転して一体となれば、主体も対象の立場に、対象も主体の立場に立つことができるからである。」(注21)

運動における男女の役割分担を理解する上での上記の文章の重要性に関しては、第6章で論じることにする。しかし、第二祝福における愛の神学的重要性は、この時点でさらに議論する必要がある。結婚と家庭において、神の愛は三つの基本形として実現されるべきものである。
「神を中心としてその二性性相の実体対象として完成されたアダムとエバが一体となり、子女を生み殖やして、父母の愛(第一対象の愛)、夫婦の愛(第二対象の愛)、子女の愛(第三対象の愛)など、創造本然の三対象の愛を体恤することによってのみ、三対象目的を完成し、四位基台を完成した存在として、人間創造の目的を完成するようになる。このような四位基台の三対象の愛において、その主体的な愛が、まさしく神の愛なのである。それゆえ、神の愛は三対象の愛として現れ、四位基台造成のための根本的な力となるのである。」(注22)

(注11)統一神学が被造物の中に万有原力として神が内在していることを強調しているのは、いくつかの点でアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの思想と似ている。(彼の『宗教とその形成』[ニューヨーク:ワールド出版社:1954]、pp.107-115を参照のこと。)
(注12)『統一原理解説』、pp.14-15
(注13)前掲書、p.20
(注14)『原理講論』、p.31
(注15)このことは『原理講論』の組織的構造において明らかなだけでなく、運動のその他の出版物、および私がインタビューした人々によってこの教義が強調されたことによって立証された。
(注16)『統一原理解説』、p.21
(注17)統一神学は、人間が神を必要とするという西洋の概念を保持しつつも、神が人間を必要とするという東洋の概念をも強調する。この神と人間との相対的関係は、『原理講論』における一般的な傾向の一例である。一方で、その多くの言葉遣いと主張は神と被造物は明確に異なる存在であるという西洋的な理解の様式を示しているが、他方で、『原理講論』には東洋の流出説の痕跡が十分にある。
(注18)「原理」という言葉は、宇宙における自然の秩序に内在する神の法則を指しており、神の新しい啓示としての『原理講論』とは区別される。(訳注:英語で表記するとどちらも「Divine Princile」となるため、グレイス博士は下線なしを神の法則を意味するときに、下線ありを書物を意味するときに用いることによって差別化を図っている。)
(注19)例えば、創世記2章17節。
(注20)創世記1章28節の解釈において、統一神学はより標準的なキリスト教の釈義から逸脱している。それは「生めよ、ふえよ」を繁殖に対する単独の祝福であると見ている。『解釈者の聖書』1(ニューヨーク:アビングドン出版、1952年):485-486を参照のこと。
(注21)『原理講論』、p.48-49
(注22)前掲書、p.49

カテゴリー: ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』62


櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第62回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

櫻井氏は本章の「4 イベントの時間的経緯」の中で、自らの調査対象となった元統一教会信者の入信期間の長さ、伝道から入信、献身、脱会に至るまでの時間的経緯などをグラフにして分析している。それによれば、「元信者の入信期間は半数が四年未満であり、ここまでが一年刻みで十数パーセントずつ、四年以上が一年刻みでほぼ数パーセントずつの割合になっている(図6-9)。」という。入信して10年以上の者は数パーセントに過ぎない。これをもって櫻井氏は「入信後数年間は、それ以上の年月を統一教会で過ごしているものよりも脱会しやすいということがいえる」(p.214)と述べている。これはその通りであると言えるが、理由については若干の補足説明が必要である。私なりにその理由を分析してみると、以下のようになる。

まず、拉致監禁による強制改宗を受けなくても、自然脱会する者が最初の数年で相当いると思われる。これは宗教的回心を経験して新しいアイデンティティーを獲得したとはいえ、その人がもともと持っていたアイデンティティーがまったくなくなるわけではないので、二つのアイデンティティーの間に価値観や文化の違いが大きい場合には、個人の中で内的葛藤が生じるからである。この葛藤を乗り越えてアイデンティティーを安定させなければ、信仰を継続することができない。その意味で、信仰初期は脆弱な時期であると言える。これは統一教会に限らず、多くの宗教における回心者の経験することであろう。しかし、教会の中で過ごす期間が長くなってくると、その中で培われた価値観や文化が大きな位置を占めるようになり、アイデンティティーは落ち着きを見せるようになる。個人差が大きいことは考慮しなければならないが、だいたいそれまでに数年かかるとみてよいだろう。

一方で、拉致監禁による強制棄教の被害に遭うのも信仰初期が多い。入信してしばらくすると、信者は両親に自分の信仰を告白することになる。祝福を受ければ、結婚の報告をしたり許可をもらったりするために信仰を明かす必要も出てくるだろう。親は驚き慌て、牧師や弁護士などに相談することになる。そこから脱会説得を決行するまでのプロセスが入信後数年以内に起こるケースが多いのは、親から見れば手遅れにならないうちに何とかしなければならないという動機があるためだ。20代前半で伝道されたとすれば、まだ親が元気で影響力があり、子供の信仰も確立されておらず、祝福を受けて家庭を持つ前に決行しなければならないと考えれば、そんなに長く待っていられないのである。櫻井氏の調査対象は脱会説得による棄教者がほとんどなので、二番目の理由が大きく働いていると思われる。

続いて櫻井氏は、伝道されて二年を経過して信者として残っているものは数パーセントだったというバーカー博士の研究を紹介して、日本における状況もこれと同じようなものであると推察している。バーカー博士が実際に示した数字は4%であり、私自身が著書「統一教会の検証」で提示した日本の数字は3.5%である。その意味でこの部分に関する櫻井氏の分析は正しいと言えるだろう。10年以上信仰継続する者の割合が1~2%程度ではないかという分析も、それほど外れていないだろう。しかし、その数値の評価に関する以下の記述は、論理性と実証性を欠くものであると言わざるを得ない。
「こうした数値から、従来、宗教社会学では、バーカーをはじめとして統一教会によるマインド・コントロールの影響は抗いようがないものではなかったと結論づけた。それに対して、統一教会を批判する日本の弁護士達は、その一、二パーセントの人達が深く統一教会に囚われ、霊感商法等の違法活動に従事させられ、なおかつ合同結婚式といった選択の余地のない結婚により著しく人権が侵害されている点を問題にした。確かに、最後の一、二パーセントの人達は統一教会の幹部になれば生活保障をはじめとする恩恵に与れるが、その数倍に達する一般信者は生涯尽くし続けるだけの信仰生活を送ることになる。この点をどう評価するか。」(p.214)

統一教会に反対する日本の弁護士たちの議論は、論点のすり替えまたは混同である。そもそもバーカー博士の研究は、統一教会の修練会に洗脳の疑惑がかけられていたため、その効果を科学的に計測するために社会学的調査を行ったものである。これは客観的な数値に関わる問題であり、人権侵害の問題とはそもそも関係がない。その結論は、統一教会に入信した人々は強制によってではなく自らの選択で信仰を持つようになったということであり、その信仰の真偽・善悪に関しては判断を差し控え、価値中立的な立場に立った科学的研究なのである。そこに弁護士たちは自らの価値観を持ち込んで批判しているわけだ。

次に、最終的に統一教会に残った「一、二パーセントの人達」が人権侵害を受けているという点について、あたかも自明のことであるかのように述べているが、それに対する証明は何らなされていない。統一教会の信仰を持っている現役信者にインタビューを行い、その過半数が「教会の中で人権を侵害されていると感じている」と答えたのであれば、こうした主張はできると思われるが、そのようなことは一切行われていない。むしろ、統一教会自体が信徒たちに対して行った「幸福度調査」によれば、統一教会信者の幸福度は平均よりも高いという結果が出ている。

弁護士らが「人権侵害」を訴える根拠は、統一教会に青春を奪われたと主張する元信者らが、教会を相手取って損害賠償訴訟を起こし、その一部が勝訴しているという点である。これは本人が「人権侵害」を自覚している事例だが、その原告の数は1991年に提訴された東京の裁判までの合計が174名であり、その後の第二次札幌青春裁判の原告63名のうち元信者が40名であることから、総数は237名となる。そのうち、勝訴したのは108名であり、残りは敗訴または和解である。これを統一教会の信者数である公称60万人で割れば、告発したものが、0.039%、勝訴したものは0.018%にしかならない。信者の実数に近いとされる7万人で割っても、告発したものが、0.34%、勝訴したものは0.15%にしかならない。櫻井氏は別著『カルトを問い直す』の中で、統一教会が拉致監禁の被害者数として5000名を主張している(実際には世界日報の記事に過ぎない)わりに、そのうち告発された事件は30例に満たず、1%以下の割合に過ぎないことから、「事例数が少なすぎる」と批判しているが、その論法で言えば人権侵害を受けたと主張する元統一教会員の割合も、「事例数が少なすぎる」と言える程度のものなのである。

要するに、統一教会の信者は自分の意思で入信を決意し、教会の中で一定の満足と幸福を感じているからそこに留まっているということである。しかし、その中のごく一部の人々が親族によって拉致監禁されて信仰を失い、統一教会を相手取って民事訴訟を起こした。しかしその数は、訴えた者も勝訴した者も、統一教会全体の信者数に比べれば1%にも満たないということなのである。

さて、櫻井氏は統一教会の幹部は生活保障をはじめとする恩恵に与っているが、その数倍に達する一般信者は生涯尽くし続けるだけの信仰生活を送っていると主張する。いったい彼は、いかなる資料や数値的根拠に基づいてこれを言っているのであろうか? そもそも統一教会の幹部とは誰を指すのか、彼は明確にしていない。統一教会の職員は「幹部」よりも広い概念と言えるが、その中核が教会長や教区長などの役職のついた「牧会者」と呼ばれる人々であり、その上に全国の会長がいて、本部の職員がいる。果たしてこれらの人々は統一教会の特権階級なのであろうか? もしそれを主張したいのであれば、櫻井氏は統一教会の職員の給料や待遇に関するデータを数値で示し、それが一般信徒の生活と比べてどのような特典があるのかを明らかにすべきであろう。実際には、統一教会の牧会者や職員の生活こそ、「生涯尽くし続ける」生活である。そして、牧会者であろうと一般信徒であろうと、「生涯尽くし続ける」生活は、信仰者としての理想の姿である。

最後に細かい点をいくつか指摘しておく。櫻井氏は「入信者は教団のセミナー、トレーニングを経て、五七・九パーセントが献身するに至った。しかも、伝道から入信へは平均五ヶ月、入信から献身へは平均七ヶ月しか要していない。短期集中型の信者養成システムである。」(p.215)と述べている。しかし、回心の起こる速度や生活の変化の度合いが洗脳説を裏付ける根拠にならないことは、既にこのシリーズの第56回で述べたとおりである。短期集中型の信者養成システム自体は善でも悪でもない。

また櫻井氏は「統一教会信者の信仰生活は、教団の介入で始められ、家族の介入で終わるパターンとして理解できる」(p.215-6)と述べているが、これはあくまで説得によって脱会した元信者のパターンに過ぎず、統一教会信者の信仰生活のパターンではない。実際には多くの人々が数十年にわたって信仰を維持し、生涯信仰を継続するのである。統一教会の信仰を「いつかは脱会するもの」として描いている櫻井氏の分析は、極端な偏見もしくは悪意に基づいていると言えるだろう。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳08


第2章(1)

統一運動の神学は、このグループの性と結婚に対する理解に思想的枠組みを提供している。このグループにとっての神学の重要性は、いくつかの点で明らかである。(注1)第一に、メンバー候補者や新しいメンバーに対してなされる講義は、その性格において本質的に神学的であり、それは古いメンバーのための修練会やセミナーにおいても同様である。第二に、この運動は1975年にニューヨーク州ベリータウンに神学大学院を設立している。第三に、本研究において行われたすべてのインタビューは、メンバーの性と結婚の理解において神学が決定的な役割を果たしていることを示唆している。そして最後に、ユートピア主義的性格を持つ新興の社会運動においては、一般的にイデオロギーそのものが重要なファクターであると信じるに足る理由があるからである。(注2)しかしながら、神学がこの運動において高く評価されているとはいえ、それが信奉している考えは「(社会学的な)真実ではなく、理想化として認識されなければならない」(注3)ということを指摘しておくのは重要である。さらに、神学的な考えは統一教会の性と結婚に対する理解を、それらを実現する上で適切な社会的役割を伴って規定し承認する働きをするが、この洞察はメンバーが彼らの役割を本質的に神学的でない理由によって実現する可能性を排除するものではない。

本章の目的は、統一神学における性と結婚の中心的な位置を明らかにすることである。したがって、これから述べることは統一思想全体の解説であるとさえ理解されるべきではない。むしろ、私のしたことは、その主要な教義の中に性と結婚に関わる構成要素が内在していることを強調するようなやり方で、それらを分析することである。

統一神学は、性と結婚がその神、創造、堕落、そして復帰の教義の不可欠な部分であるという点において、過去および現代のキリスト教神学の中でもユニークである。したがって、統一教会の神学者はより主要な神学的モチーフから派生させた性に関する神学を形成する必要がなかった。むしろ、性と結婚は、神の被造世界に対する計画と目的に関するこの運動の基本的な理解の中に、本来的に備わっているのである。

統一運動の神学は、相互に関わり合う創造、堕落、復帰の三つの教義からなる三部構造として理解するのが最適である。以下に、人間の性および結婚の経験の意義という観点から、それぞれの教義について説明する。この解釈の基本資料は、「ブラウン・ブック」と呼ばれている『原理講論』(注4)であり、これがこの運動の主要な神学的論文であることは疑いがない。解釈学的には、私は運動のメンバーによって共有された解釈上の提案と視点に従った。この神学的記述は、文師の説教やその他の関連する一次資料を参照することによって肉付けされ補足されるであろう。これはこの運動の自身の神学に対する理解を提示しようとするものであるため、私は意図的にすべての批判的で分析的なコメントを脚注に置くことにした。

創造に関する教義

原理講論によれば、神に関する知識は、被造物に関する知識にしっかりと基づいている。それはロマ書1章20節のパウロの言葉を参照して、「作品を見てその作者の性稟を知ることができるように、この被造万物を見ることによって神の神性を知ることができるのである。」(注5)と述べている。神の性質はおもに二種類の「二性性相」として被造物の中に表れている。第一の、そしてより根本的な二性性相は形状もしくは「外形」および性相もしくは「内性」からなっており、前者は後者に似ており、後者が原因で前者が結果である。結果としての外形は対象の位置にあるのに対して、内性は原因として、主体の位置を占める。内性である心の外形が体がであるのと類比的に、宇宙は内性としての神の外形なのである。

第二の二性性相は陽性と陰性からなり、それは内性と外形と同様に、常に動的な相互依存関係をもって存在している。人間の生活においては、この二性性相は男(陽性であり主体)と女(陰性であり対象)として理解されている。男性と女性は相対的存在なので、両者はお互いにとって不可欠な存在であり、存在論的に彼らは同じ価値を持っている。さらに、易経と道徳経の精神に基づき、「男性には女性性相が、女性には男性性相が各々潜在しているのである。」(注6)

被造物における二性性相に対するこうした理解に基づき、神の性質に関して以下のような結論が提示されている:
「神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体であると同時に、本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体としておられ、被造世界に対しては、性相的な男性格主体としていまし給うという事実を知ることができる。」(注7)

神の本性相もしくは神の心は、情、知、意、および観念と法則を含むが、その最も本質的な属性は、「対象を愛し、また一つになろうとする情的な衝動」(注8)であると定義される「心情」である。一方で、神の「外形」(本形状)の本質的属性は、質料と万有原力である。

すべての被造物は神の二性性相を反映しており、神の実体対象であると見られている。人間は神のかたちとして創られ、「形象的実体対象」と呼ばれるのに対して、万物は「象徴的実体対象」と呼ばれる。(注9)したがって被造世界は神に対して形状的女性格対象として立つ。「神は性相的な男性格主体であられるので、我々は神を父と呼んで、その格位を表示するのである。」(注10)

(注1)運動のメンバーによる未発表の調査において、彼女自身がメンバーであるノーラ・スパージンは、彼女に回答した者たちの59.4%が、その神学に魅力を感じたので運動に加わることを決断したと報告している(ノーラ・スパージン「統一教会員の心理社会学的プロフィール」[未発表の原稿、1976年])。テキサス大学の二人の社会学者の研究は、彼らがインタビューした「かなりの割合の」メンバーは、神学的な理由で入会したと報告している。(デビッド・G・ブロムリーとアンソン・D・シュウプ, Jr. 「たった数年がい一生のようだ:宗教運動への加入の役割理論アプローチ」、ルイス・クリーズバーグ[編]『社会運動の調査』第2巻に掲載、p.171)
(注2)カンター『献身と共同体:社会学的視点から見たコミューンとユートピア』、pp.32-57.
(注3)前掲書、p.54
(注4)世界基督教統一神霊協会『原理講論』(ワシントンDC、1973年)
(注5)前掲書、p.20
(注6)前掲書、p.21
(注7)前掲書、p.25.この一節によって、統一神学が認識論的に類比法(via analogia)を採っているが明らかになる。それは構造においてトマス主義に似ているが、被造物の側面(例えば、内的と外的、男性と女性)を中心としており、道教の哲学においてより典型的にみられるものである。
(注8)世界基督教統一神霊協会『統一原理解説:レベル4』(ニューヨーク:1980年)、p.13。この本は『原理講論』のアップデート版であり、教育を目的としたより効果的な道具として企画されているように見える。
(注9)前掲書、p.13
(注10)『原理講論』p.25

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