書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』87


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第87回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」において、信者養成の戦略の一つとして、「15 マイクロによる訪問販売」(p.259-262)について論じている。彼によれば、これは「実践トレーニングの仕上げや青年信者による短期・長期の資金調達活動に用いられる」(p.259)そうだ。櫻井氏は「マイクロとはマイクロバスの略称だが、実際はハイ・クラスの10人乗りバンを改造した車に6、7名の信者を乗せて訪問販売部隊として全国を行脚する」(p.259)と説明する。通常はマイクロバスといえば乗車定員を11名から29名までに設定しているバスのことを指す。その中で最も小さなタイプの車がトヨタのハイエースや日産のキャラバンであり、櫻井氏の記述に登場する「マイクロ」も、こうした車を指しているらしい。このタイプの車に寝泊まりするとすれば6、7名が限界であろう。

 実は、私も学生時代にこうした車に乗って訪問販売活動をした経験がある。私が所属していた原理研究会では、「マイクロ」という言い方はせず、「キャラバン」と呼んでいた。実際にはトヨタのハイエースも使っていたであろうに、どうして日産車の名前で統一されていたのかは不明である。もともと「キャラバン」とはラクダの隊商のことだが、訪問販売部隊の名称として格好よくて相応しいと思ったのかもしれない。最初にこれを経験したのは1983年夏の新人研修会のときであり、販売したのは北海道の珍味であった。期間は3日間だったと記憶している。しかし、このときは修練所に寝泊まりしていたので、車の中で寝るという体験はしなかった。

 櫻井氏は、「マイクロの行程は一回につき短ければ一ヶ月、長いものは二、三ヶ月に及ぶ」としている。札幌「青春を返せ」裁判の原告たちは主として実践トレーニングの仕上げの段階でこうした販売活動を行ったようだが、原理研究会では大学の休みの期間にこうした販売活動を行っていた。夏休みと春休みは長く、一ヶ月を超えることもあったが、冬休みは二週間程度の短い期間であったと記憶している。したがって原理研究会でも長期間連続でこうした活動を行っていたわけではないが、季節ごとに巡って来るので、合計の活動日数は長くなったように思われる。こうした休み期間にキャラバンに乗って活動するときには、櫻井氏の記述と同じように車の中で寝泊まりした。

 櫻井氏の記述は、札幌「青春を返せ」裁判の原告である元信者たちの陳述書や証言に基づいて書かれていると思われる。私自身の体験と比較して、このマイクロによる訪問販売の関する記述がそれほど事実と乖離しているとは思われない。教会の信徒たちが経験した「マイクロ」も、原理研究会の学生たちが経験した「キャラバン」も、やっていることにそれほど大きな違いはなかったのであろう。櫻井氏が紹介している商品の中で、私はハンカチと珍味は学生の頃に売った経験がある。お茶は原理研究会では売ったことがなかったが、教会の21日修練会の期間中に一度だけ売ったことがある。櫻井氏の記述と同様に、、お茶を売るときには試飲をしてもらうためにその家庭のポットを急須を借りて、実際にお茶を入れて売ったものである。私は珍味売りのときに「アルプスの少女ハイジ」を歌ったことはなかったが、お茶を売ったときには「旅姿三人男」を歌ったことがあった。私はバンドでギターとボーカルをやっていたこともあって、歌は得意だった。歌がうまいと気に入られてお茶を買ってもらったことは懐かしい思い出になっている。

 櫻井氏はマイクロでの体験が体力的にも精神的にも過酷なものであることを強調する。確かに楽ではないが、経験した者として証言させてもらえば、健康な若者であれば耐えられないほど過酷なものではない。販売の実績は順調な時もあれば厳しいときもあるので、精神的な上がり下がりがあるのは事実だが、常に精神的に追い詰められているというわけでもない。私自身の体験を振り返ってみても、結構楽しくやっていたし、精神的に充実していたと思う。統一教会の信者の中には、楽天的で根が明るい人が多いのだが、そうした性格の持ち主は結構楽しく販売活動をしていたと思われる。マイクロの体験を題材にした歌が当時は教会の中で歌われていたが、それは以下のような歌詞である。
「1.私のうちは マイクロバスです 野を越え山越え 渡り歩く
私のうちは マイクロバスです  町から町へと渡り歩く
あなたに愛を愛を 神の愛を  あなたの心 心 愛に満ちて
愛の世界へ まっしぐら
2 統一原理を聞きませんか 神の心情 知るために
統一原理を聞きませんか あなたも一緒に ゼミナール
あなたに愛を愛を 神の愛を あなたの心 心 愛に満ちて
愛の世界へ まっしぐら
3 マイクロバスに乗りませんか 神の世界をつくるために
マイクロバスに乗りませんか あなたも一緒に さぁゆこう
あなたに愛を愛を 神の愛を あなたの心 心 愛に満ちて
愛の世界へ まっしぐら  (※くりかえし)」

 この歌からは、櫻井氏の描くような悲壮なマイクロ生活のイメージは出てこない。実際に統一教会の信者の中には、若き日のマイクロ体験を楽しかった青春の1ページとして記憶している者も多いのである。いま振り返ってみると、私自身の信仰や人格の形成において、この販売活動は大きくプラスになったということができる。それは一言でいえば信仰の訓練になったということである。販売活動というのはシンプルなものなので、心の状態がすぐに結果となって現れる。とても分かりやすいのである。厳しい中でもあきらめずに歩み続けることによって、信じる戦いというものを体で覚えていく。そのなかで、折れない心や、目的観に徹する姿勢など、人生において成功するために必要な資質を身に付けることができたと思っている。ただし、これは体力勝負の活動であるので、若者ならではの訓練と言ってよいだろう。私自身、こうした活動に携わったのは20代までであった。50代になったいま、同じことをやれと言われても、おそらく無理であろう。

 宗教学を学んでみて、こうした販売活動がどんな意味を持っているのかと思いを巡らしてみると、仏教の僧侶が行う「托鉢」に似たような内面世界があるのではないかと思う。托鉢とは、煩悩の塵垢をふるい落とし、衣食住についての貪り・欲望を払い捨て清浄に仏道修行に励むための実践項目のひとつで、僧侶が鉢を携えて町や村を歩き、食を乞うことである。そして俗世に生きる人々は、僧侶にお供え物をささげることで、功徳を積むことができると考えられている。

 マイクロ生活が過酷なのは、仏教の修行と性格が似ている。睡眠時間と食事の時間を極限まで短縮して、ひたすら販売活動に没頭する生活は、一種の修行と言える。こうした極限状態では、食欲・眠欲・性欲が減退して、いわゆる煩悩から解放されたような状態になる。罪を犯す時間も体力もないので、精神的には非常にすっきりとした状態になるのである。そして行っていることは外面的には商品の販売だが、その売上は自分の利益になるわけではないので、物欲や金銭欲も捨て去ってただひたすら奉仕をしている状態である。そして、商品を買った人が天に対する功徳を積んだのだと理解されている点も同じである。

 櫻井氏が指摘するように、統一教会の信者たちが、販売活動における否定の体験を悲しみの神の心情を追体験しているととらえているのは事実である。彼はそれをあたかも仕組まれたものであるかのように批判的に記述するのであるが、そもそも否定的な体験に肯定的な意味を持たせて昇華していくのは宗教の王道である。マイクロにおいて否定を肯定に変えて乗り越えていくことを体で覚えた統一教会の信者たちは、その体験を応用展開して、その後の人生における悲しいことや辛いことににも肯定的な意味を持たせ、神の心情を追体験しながら生きる術を身に付けるのである。

 櫻井氏はマイクロによる訪問販売が採用している戦略は、「商品開発でも販売方法の革新でもなく、ひたすら訪問件数を体力・気力の限界まで増やすことだけだ。」「労働者側からすればやるに値しないマニュアルワークである。逆に経営者側から見れば、ほとんど資本を投下せずに労働力を投下するだけで金が稼げる。」(p.264-5)と批判する。これをビジネスとみればそう見えるかもしれないが、その主たる目的が宗教的修行である考えれば全く違った評価になる。

 こうした一見過酷な販売活動が何十年にもわたって継続され、多くの統一教会の信者がそれに参加したということ自体、この活動に宗教的な意味があり、それを通して信仰が育成されていたということを証ししているのである。

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ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳33


第5章 祝福:準備とマッチング(2)

 最終的にはすべてのメンバーが、神への完全な復帰と地上天国実現のための絶対的な必要条件としての祝福のより深い意味に気づくようになる。前に引用した文師の発言はこの文脈において再現される必要がある:「祝福において最も重要なことは、皆さんが夫や妻を得ることではありません。皆さんは神様と天宙を得るのです。」(注7)個人は自分自身のために結婚するのではなく、より偉大でより価値ある目標、すなわち世界の復帰のために結婚するのである。この高貴な見解は、統一運動に入会する典型的な人物が極端に理想主義的な結婚の概念を抱いている可能性と実に好都合に合致するのである。(注8)

 上記の考察を前提とすれば、グループは祝福に対する抵抗をメンバーから受けることなど一切ないと予想するかもしれない。しかし、運動内部の少なくとも5つの異なるサブ・グループから抵抗があることが明らかになっている。

1.統一教会の信者になった「多くの」同性愛者の中には、異性との関係に対する準備ができるほど十分に変わることができた者がいるであろう。この変遷がうまくできなかった者たちは、運動のおける生活の特定の側面に対する本物の献身と、結婚することに対するさまざまな種類の(神学的な、リーダからの、同僚からの)圧力との間の葛藤を疑いなく経験するであろう。この圧力は、少なくとも一部にはグループの結束を維持することに対する組織の強力なニーズに由来するものである。神が彼らに与えた異性愛的性質に復帰されない同性愛者をどう扱うかということは、結婚が救いのための絶対的な必要条件である社会運動にとっては大きな問題である。

2.入教する以前に主にローマ・カトリック教会において司祭や修道女として独身生活を送ってきたメンバーが何名かいる。これらの人々は一般的に祝福を受けるのを避けようとはしないが、結婚生活に入ることは彼らにとって簡単な変化ではなかったと、彼らははっきりと明言した。彼らの中には、この祝福が以前の宗教生活を「本当に」離れる機会であったと見る者もいた。

3.さらに、結婚に対するすべての「外的な」(注9)必要条件を満たしているにもかかわらず、より高いレベルの霊的な成熟に達するまでは祝福を受けないと決意しているメンバーもいた。

4.また、年配の女性たち(ほとんどが未亡人で韓国人が多い)の中には、年齢や、亡くなった夫に対してなした誓いの故に、祝福を受けないと決意している者たちがいる。こうした女性たちの中には、類まれな霊的力を持った女預言者か霊媒であるとみなされている者たちがいる。

5.そして最後に、「オークランド・ファミリー」は主流の統一教会の結婚に対するアプローチから逸脱しているという報告がある。「我々がベイエリアのセンターを訪問して受けた印象は、オークランド・ファミリーは永続的な共同体生活に専心しており、メンバーたちの中には、彼らの共同体的独身生活が伝統的な異性愛関係に取って代わられるだろうという差し迫った期待はなかった。」(注10)ブロムリーとシュウプによるオークランドの状況に関する記事は、筆者のインタビューを受けた運動の指導者たちからは承認されなかった。しかし、ベイエリアで入教したメンバーたちの中には、グループの結束が非常に強かったので、1975年の時点で資格のあったメンバーの多くがその時は辞退し、しかし最終的には後日祝福されたとと示唆する者がいた。

 この5つの区分の中で、彼らの背景の故に(2)、彼らの宗教共同体に対する献身の故に(5)、あるいはもっと成熟しなければらないと感じるがゆえに(3)、結婚することに抵抗するかもしれない者たちの問題は、年長のメンバーのカウンセリングを受け、信仰において成長する時間をもっと与えることによって、一般的には解決される。しかし、性的志向性(1)や生活状況(4)が現世において結婚する可能性を排除してしまうような者たちの問題は残されたままだ。同性愛者たちのジレンマは、運動のリーダーたちによってほとんど無視されてきたように見える。一方で、年配の女性たちはみな死ぬまで未婚のままでいることが許され、彼女たちが霊界に行ったときに文師による祝福を受けるであろう。(注11)「死後の」祝福がなされるということは、運動の中で未婚のままで(そしてもちろん、禁欲生活をして)いる同性愛者のメンバーたちに対して、神学的に正当な先例を提供するかもしれないが、指導者たちがそのようなポリシーの採用を検討している兆候はまだ見られない。このことは、永続的に独身の人々が一つの集団として存在することはグループの結束を弱めることになるので、理解可能である。さらに、運動は外の世界に対して肯定的なイメージを投影することに腐心しているようであり、同性愛者が未婚のままでいる権利を承認するだけでは、既に敵意を持っているマスメディアによって否定的に解釈されるかもしれないからである。

 グループ全体のメンバーからすれば、祝福を受けることに対する抵抗は、グループにとって比較的マイナーな問題である。(注12)圧倒的大多数の統一教会信者は、単に結婚を望んでいるだけではなく、この記念碑的な信仰のイベントに参加する資格が得られるように自分自身を準備するため、休むことなく熱心に働くのである。この準備活動の性格は、結婚の資格を得るためにメンバーは特定の基本的な必要条件を満たさなければならないという事実によって説明することができる。

(注7)文鮮明「祝福」p. 17.
(注8)アイリーン・バーカー「統一原理を生きる」p. 81。バーカーは、結婚に対する理想主義的な見解を持っているのは統一運動のメンバーである間に社会化された結果であるかもしれないという、同様にもっともらしい説明については扱っていない。
(注9)これらの必要条件はこの章の後半で論じられるであろう。
(注10)ブロムリーとシュウプ『アメリカにおけるムーニー』p. 140.
(注11)文鮮明「祝福と伝道について」『マスター・スピークス』 (MS-2, 1965)、pp. 7-8。霊界にいる者たちの結婚の縁組における興味深い側面は、以下のように語る元メンバーによって言及された。「・・・文はイエスを韓国人女性と結婚させた」(エルキンズ『天的詐欺』 p. 120)。アメリカにおける統一運動の元会長はこのことを認めたと報告されている:「・・・キリストはいま韓国に住んでいる若い女性と既にマッチングを受けている」(ジョン・マウスト「ムーニーがカルトを監視する批評家たちと知恵比べをする」『クリスチャニティ・トゥデイ』1979年7月20日、p.38)。私がインタビューしたあるメンバーによると、この結婚はキリスト教と統一運動の一致を象徴するがゆえに、非常に特別なものであったという。象徴的な意味が何であれ、死後の結婚は(イエスの結婚であっても)救いのためには極めて重要であると理解されるべきである。それは「単なる象徴」ではないのである。
(注12)この観察者が驚いたのは、結婚が彼らの指導者によって縁組されたという理由でそれに抵抗した者はほとんどいなかったということである。

カテゴリー: ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』86


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第86回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」において、実践トレーニングでの伝道実践の分析の一環として、「14 信仰強化のメカニズム」(p.256-259)について論じている。櫻井氏の主張は、統一教会は「認知的不協和の意図的・効果的な利用」(p.258)によって受講生の心理操作や人格の変革を行おうとしている、というものだ。しかし、トレーニングの受講生たちが街頭伝道で味わう屈辱感にどう対処するかについての指導は、「迫害」に対する宗教の伝統的なとらえ方の延長線上にあり、聖書の伝統に基づくものであることを前回は説明した。今回はそれを前提としながら、より細かい記述に関して検証することにする。

 櫻井氏は札幌「青春を返せ」裁判に原告側の資料として提出された「伝道勝利十則」と呼ばれる文書に出てくる以下のような文章を引用しながら、そこに統一教会の世界観と理想とされる信者像が示されていると主張する。
「街頭ではゲストのメッタ打ちに耐えよ。この精神的な打撃を神と共に耐えられるか、耐えられないかが、勝利への道か、敗北への道かの重大な岐路である。そして、常に新規伝道を忘れるな。新規伝道を怠る成約聖徒の行き先は、敗北と転落と侮辱と堕落しかない」(p.256)
「伝道師こそ神とサタンの戦いの最前線の戦闘部隊である。血と汗と涙の決死的なすさまじい行動こそが勝利の道である。小手先の小理屈など、いっさいいらない」(p.258)

 こうした文言は統一教会そのものというよりは、現場の信者たちが自己の経験に基づいて作文したものであると思われるが、「神」や「サタン」などの宗教用語を除いてしまえば、保険のセールスを行う営業マンを奮い立たせるためのスローガンや、体育会系のサークルで闘争心を掻き立てるために用いられる「はっぱ」に類似していると言えるだろう。これから活動しようというときに、「気合い」を入れるためにそのような言葉遣いをすることは一般社会にも見られ、とりたてて異常なものではない。

 確かにそこで語られる言葉は激しいものであり、決死的な思いにさせるものではあるが、それは一時的に思いを奮い立たせるために用いられるものであり、四六時中そのような精神状態でいるわけではないことは常識である。統一教会の信徒たちの活動においても、しばらく集中して活動した後は、お互いの労をねぎらうような和気藹々とした雰囲気になったり、兄弟姉妹の交流を笑いながら楽しむような場面も展開するのである。それは信仰生活における、いい意味での「緩急」を作り出している。そもそも、四六時中このような緊張状態を強いられたのでは人の精神状態は耐えられず、逆に能率は下がるであろう。櫻井氏は参与観察によって実際に伝道している様子や信徒たちの生活を見たわけではないので、こうした裁判資料に頼ってそこから想像を膨らませていくしかない。しかし、それは極めて限定的な性格を持つ文書から全体を推し量ろうとする行為であるため、実像とはかけ離れた想像の産物となってしまっているのである。

 極端な表現の文書だけに頼って統一教会信者の心理状態を分析し、櫻井氏は実践トレーニングの受講生たちを「二つのグループに分かれることになる。どんなに辛くともこの道を全うしようと決意し直すものと、敗北感・喪失感を持って教会から脱落するものである」(p.257)という二者択一で描こうとする。しかし、この選択肢には重要な要素が抜け落ちている。それは「喜んでこの道を行こうとするもの」という選択肢である。そもそも、伝道されて4ヶ月から半年程度の、信仰的な面ではまだ幼いと言える実践トレーニングの受講生たちが、ただ辛くて苦しいだけの生活に耐えて信仰を持つようになるというのは非現実的である。この時期はまだ先輩信者である実践トレーニングのスタッフから愛され、面倒をみられる段階であり、実践の訓練を受けると同時に、手厚いケアも受けるからこそ成長していくのである。また、一緒にトレーニングを受けている兄弟姉妹との情の絆や仲間意識による喜びも、この時期の信仰形成の大きな要因となる。要するに「喜び」や「感動」の要素なくして信仰が育ったり強化されたりすることはあり得ないのである。そうした部分が櫻井氏の記述にはすっぽり抜け落ちている。

 こうした短期間の訓練は、内向的で悲観的な性格の人には辛く苦しいものであるかも知れないが、積極的で楽観的な性格の人にとっては、チャレンジ精神をくすぐるエキサイティングなものとして感じられることもある。それはスポーツにおいて勝利するために限界に挑戦していく感覚に似ている。挑戦している最中は肉体的には苦しいが、大きな目標のために自分を投入していくことに喜びを感じるからこそ、人はそれを乗り越えて頑張るのである。そして目標を達成したときの喜びは、それまでに体験した辛さや苦しさに比例して大きくなる。人は自分が取り組んでいることに大きな意義を感じることによって、苦しみを喜びに変える存在なのである。統一教会の信徒たちは、「自分が世界を救うために役に立つことができる」ということに意義を感じて、辛さや苦しみを乗り越えていく。そして何かを達成したときの喜びは、やはりその過程にある苦労の量に比例して大きくなる。まだまだ小さな次元であるとはいえ、そうした体験をすることが実践トレーニングにおける「信仰強化のメカニズム」の本質であると言ってよい。信仰は屈辱や否定の体験だけでなく、成功体験による喜びと感動によって成長していくものだが、櫻井氏の記述にはそれがまったくないのである。

 櫻井氏は「統一教会にとってこの伝道方法は信仰育成と同時に信者のスクリーニングをも兼ねている。どの道お荷物になる信者はいらない。」(p.257)と述べているが、これはとんでもない誤解である。統一教会の信仰は「万民救済」なので、役に立たない人を振るい落としてしまおうなどという発想は基本的に存在しない。伝道する側や指導する側が弱いものは脱落していくことを前提として受講生に接することはなく、できれば全員を導きたいのだが、本人の自由意思を否定することはできないので、結果的に脱落者が出るというだけのことである。現実には、実践トレーニングを終了した段階で、原理に対する確信や活動に対する積極的な姿勢が見られない受講生に対しては、一般社会で働きながら教会に通う「勤労青年」として信仰を継続する道を選ぶようにアドバイスするなど、その人の個性に応じて人間的な配慮がなされるのである。

 桜井氏は実践トレーニングにおける伝道実践を、「伝道実践こそが信仰を作っているのであって、信仰ができたから伝道しているのではない」(p.258)と批判する。しかし、信仰が先か実践が先かという話は、いわば鶏と卵の関係であって、どちらが先かというよりも相互に補強し合う関係であると言えるだろう。座学で統一原理を学んだからと知って、深い理解や強い信仰が得られるわけではない。宗教的真理というものは、頭で学ぶ抽象的な知識ではなく、実践することによってはじめてその意味が分かる体験的な知識であるわけだから、「伝道実践こそが信仰を作っている」という状態は悪くもなんともなく、むしろ「信仰とはそもそもそうしたものだ!」と多くの宗教者が反論することだろう。もちろん、意義と価値もわからずにやみくもに実践すればよいというものではない。一通り教義を学んだ後に、それを実践してみて、そこで体験したことや感じたことを教義で解釈することによって信仰を血肉化していくというのは、宗教的教育の王道と言えるだろう。実践トレーニングは受講生にとって、まさにそのような場なのである。

 櫻井氏は実践トレーニングのやり方を、「統一教会独自の方法というよりも、教勢を急速に拡大する新宗教が採用する典型的なやり方である」(p.258)と、つい筆を滑らせてしまい、自家撞着に陥っている。そもそも彼が第六章の三で訴えたかったのは、「統一教会特有の勧誘・教化」ということであって、他に類例のない特異な勧誘と教化の方法でなければならなかったのに、ここにきてその手法は急成長する新宗教においては「典型的」といえるほど、ありきたりな手法であることを明らかにしてしまったのである。

 桜井氏はこうした伝道のあり方を、「どんなに拒否されてもめげないというだけではセールスマンとどこが違うのか」とか、「常に実績を追求され、実績において評価されるという点でも普通の会社と変わらない組織となる」(p.258)などといったことを根拠として、「簡単にいえば、信仰が自己の心の問題として育っていかないということだろう」と批判している。いったい彼は何を根拠としてこのような大雑把な総括をしているのであろうか? 特定宗教の信仰実践が、信徒たちの内面にどのような影響を与えているかという問題は、実際に信仰している人々に対する広範な聞き取り調査を行うことによってはじめて明らかになることである。しかし彼はそうした調査は一切行わず、既に脱会して後悔の念をもって信仰生活を振り返っている人々の手記を主たる資料として、そこから得られた知見を一般化しているのである。そうした人々は、①信仰が自己の心の問題として育っていなかったからこそ脱会したのであり、②教会を離れた自分を正当化するために過去の体験をネガティブに描写する必要がある、という二重の意味において偏ったデータの提供者である可能性が極めて高いのであり、統一教会信者全般において信仰が心の問題として育っているかどうかを論ずるうえで信頼できるデータとは言えないのである。

 こうしたすべての問題は、櫻井氏が現役信者を対象とした調査を行わず、「青春を返せ」裁判で教会を訴えた元信者たちの証言を主たる資料として研究を行っていることに起因している。繰り返しになるが、これこそが彼の研究の致命的な欠陥である。

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ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳32


第5章 祝福:準備とマッチング(1)

 統一運動における性に関する価値観と性的役割分担は、信仰の維持とメンバーの献身を強化するような形で機能するということが論じられてきた。東洋派とアメリカ派の間の文化的緊張は、とりわけ同性愛の取り扱いと女性の適切な役割に関しては、潜在的に破壊と機能不全をもたらす力であると見られた。しかしながら、こうした葛藤はまだ運動の結束に対して大きな否定的インパクトを与えるには至っていない。それとは反対に、未婚のメンバーの兄弟・姉妹の役割(それは統一神学によって公認され、インセスト・タブーによって強化され、リーダーたちや古いメンバーたちによって手本を示される)は、共有の感覚(「私たちという感覚」)を確立することと、組織の道具的目標(例えばファンドレイジングや伝道)を達成する上での個人の献身を強化することの両方に寄与している。

 神学的には、結婚は個々のメンバーの霊的完成に向けての成長における大きな転換点を意味している。同時に、それは地上天国実現のための基本的な社会単位を確立するものである。第二祝福としての結婚は、統一教会の復帰・救済の教義の中心に位置している。(注1)「祝福」(注2)を通して、統一教会の信者はサタンのくびきから解放され、原罪の力から自由になり、復帰された人類の真の父母と「血縁関係」を確立し、神の終末論的共同体の完全なメンバーとなるのである。これは霊的には、彼または彼女がいまやアダムとエバを超える存在となり、人類始祖によって引き起こされた堕落を反転させ、神を中心とする世界の基礎となる神を中心とする家庭を実現することを意味すると理解されている。「誰も独りでは天国に入ることはできない」(注3)

 統一教会の救済論における結婚の極めて重要な位置は、運動の新しい改宗者(即ち、2年以内のメンバー)の経験とむしろ著しい対照をなしている。彼らは一般的に自身の将来の結婚の計画に関しては、相当な不確実性を表明しているのである。
「大多数が自分はいずれは教会の中で結婚するものと思っているが、相手を選ぶのは彼らなのか文師なのか、彼らは共同体のグループの中で生活し続けるのか、それとも別の住居を構えるのか、彼らが配偶者と一緒に住むのか、それとも宣教活動を継続するために結婚の後に再び別居するのか、といったような詳細に関しては、具体的な予想はほとんどなかった。」(注4)

 しかしながら、ひとたびメンバーが運動において三年目に入り、彼らはまもなくマッチングの儀式に参加する資格を与えられるかも知れないと分かれば、結婚の見込みは主要な関心事となり、それは共同体の中に大きな興奮を生じさせ、儀式の日付に関するあらゆる噂を引き起こすのである。この見込みはまた、個人がさまざまな形でマッチングの準備をする動機付けとなる。

 社会学的には、結婚の準備、マッチング、聖別・約婚期間、結婚の「公的な」祝福、結婚の成就、そして夫と妻として一緒に生活する最初の経験はすべて、全般的に個々のメンバーと共同体の絆を強化する社会的な求心力として働く傾向にある。われわれがこの章において見るように、祝福に伴う霊的な変化(例えば、原罪のくびきからの解放)は、メンバーの仮想の親族関係が「現実の」(社会学的・法的な)親族関係、すなわち夫と妻の関係、そして最終的には子供たちとの関係によって補完される社会的変化と並行しているのである。

 我々はまた、祝福のための準備と参加の(結婚を実際に成就するまでの)プロセス全体はメンバーの献身を発達させる上で主として肯定的な効果を持っているものの、統一運動における結婚と家庭生活は求心性と遠心性の両方の傾向を持っており、しばしば観察が指摘されるユートピア的グループにおける家族主義と共同体主義の葛藤の一例であることを後に見るであろう。(注5)

 必ずしもすべてのメンバーが気付いているわけではないが、統一運動は、回心のときから祝福式に至るまでに彼らが行うすべてのことが、彼らの結婚生活のための準備の一環であると教えている。この中には、第一祝福を実現するための祈りや統一原理の学習を通じた非常に個人的な戦いや、ファンドレイジングや伝道をはじめとするさまざまな共同体の活動が含まれるであろう。新しいメンバーたちはグループの中でさまざまな「世界の救世主」としての役割を請け負うのであるが、自身のさまざまな活動の摂理的な意味に気付くのは後になってからなのである。あるリーダーが説明したように、「通常はお父様(文師)は何かの意義についてそれが終わるまではわれわれに語られないので、われわれは時としてもっと投入しなかったことに対して後悔を感じるのです。」(注6)

(注1)「伝統的なキリスト教は結婚を、それを通して神の恩恵を受けるためのサクラメントであるとみなしてきたが、統一原理におけるような中心的位置を結婚は与えられていない。神秘的宗教は、東洋においても西洋においても、一般的に個人の神格化のレベルにおいて頂点をなす。統一神学は通常の神秘主義の個人主義を超えて、私と父は一つであるから、私と相対者は神を中心として一つであるという、さらに高い目標へと進んでいく。」金『統一神学とキリスト教思想』p.21
(注2)文字通り、結婚は第二祝福である。統一運動におけるその重要性は、メンバーがそれを単に「祝福」と呼ぶことに見られる。同じ言葉が式典や結婚そのものをさすときにも用いられる。
(注3)加えて、イエスを通して「霊的救済」を受けた人々(おそらくすべての真摯なクリスチャンたち)は、十字架上の強盗たちと同じように、死んだ際にパラダイスに入る(ルカ23:43)ことに留意すべきである。しかし、再臨主によって結婚を祝福された者たちは天国に入ることができるのである。
(注4)ブロムリーとシュウプ「たった数年が・・・」p.177。私がインタビューした新しい改宗者たちは、ブロムリーとシュウプのサンプルと似たような見解であった。彼らが示した不確実性は、知識の不足によるものというよりもむしろ、若いメンバーに対して将来について心配するよりも第一祝福である個性完成に集中することを奨励したリーダーたちがもたらした結果であった。文師が言ったように、「皆さんが未来の夫や妻になることを話したならば、それは既に誤りであるか罪なのです。皆さんは兄弟姉妹の位置から自分自身を復帰しなければなりません。」文鮮明『男と女の関係』p.7
(注5)二者間の結婚と核家族がいかにグループの結束を弱体化させ得るかに関する議論のためには、カンター『献身と共同体』pp. 89-91を参照のこと。
(注6)ノーラ・スパージン「結婚の準備」『原理生活』(1980年6月)p. 14.

カテゴリー: ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』85


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第85回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」において、実践トレーニングにおける伝道実習の分析の一環として、「14 信仰強化のメカニズム」(p.256-259)について論じている。トレーニングの受講生たちは街頭で伝道する中で、奇異の視線で見られたり、無視されたり、非難や嘲笑を浴びることによって、自分の全人格や人生そのものを否定されたような屈辱感を感じるという。彼らの声掛けで立ち止まる人は少なく、街頭での伝道活動は非効率的であるにもかかわらず、統一教会が30~40年にもわたって街頭伝道を続けてきたのは、こうした実践活動を「信仰強化のメカニズム」として位置付けているからであると櫻井氏は主張する。すなわち、「自尊心を剥ぎ取るような状況に受講生を追い込むことで、彼らの自己認知や世界観を大いに揺さぶる」(p.258)ことにより、意図的に心理操作や人格の変革を行おうとしているのだという。

 しかし、統一教会が「認知的不協和の意図的・効果的な利用」(p.258)をしているというのは単なる言いがかりに過ぎない。なぜなら、統一教会内ではそのような心理学的概念は共有されていないし、伝道活動を心理操作の方法として認識しているという事実もないからである。ある宗教活動がどのような意義を持っているかは、あくまでもその団体の内部においてどのように理解されているかに沿って、内在的に理解するのが正道と言える。そして、伝道実践の中で受講生たちが感じることや教えられることは、伝道的な宗教の世界観を背景として見たときに初めてその意味が明らかになるのである。

 道端で見知らぬ人に声をかけたときに無視されたり嘲笑されたりすることは、歴史的に宗教が受けてきた迫害や弾圧に比べるならば、大したことではない。それは生命や財産に対する実害を及ぼすものではなく、心が傷付くという程度のものである。しかし、伝道されたばかりの実践トレーニングの受講生にとっては、これまでの人生において体験したことのないような「否定」の体験であるかも知れない。そうしたときに、先輩の信者たちがそれを神、メシヤ、そして統一教会の先輩たちが歩んできた「苦難」や「迫害」の路程を追体験し、その「心情を復帰」するための機会であると諭すことはあるだろう。受講生たちはこうした小さな「苦難」や「迫害」を乗り越えることによって成長し、やがてより大きなそれらに立ち向かうことができるだけの信仰を培っていくのである。このとき、世俗の世界は自分たちに試練を与える敵対的な存在として認識されるが、宗教的真理が世俗社会から受け入れられず、神の使者や預言者が迫害されるという観念は数多くの宗教の中に見出すことができ、統一教会に限ったことではない。そしてそれを一番実感できるのが、人を伝道しようとして否定されるときなのである。

 自分たちの集団を神聖なものであると見て、現実世界を「悪の支配する世界」として敵視する宗教は多数存在する。キリスト教の中でも福音派や根本主義に属する教団は、「この世」を罪悪世界と認識してそれに染まらないよう信徒たちに呼びかけ、教会を神の道徳を守る最後の砦として位置付けている。このように「この世」が神の民を憎み迫害するという思想は、以下に示すように、聖書にその根拠があり、「この世」は真理を悟らずに、それを憎み迫害するものとして描写されている。
「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。」(テモテⅡ3:12)
「そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。」(ヨハネ3:13)
「(イエスの言葉)もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。」(ヨハネ15:18)
「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカ17:24-25)
「だから、神の知恵もこう言っている。『わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する。』」(ルカ11:49)

 さらに聖書は、この世が信徒たちを迫害するのは、この世の知恵に溺れ、神の知恵を悟れずにいるからであるとしている。
「知者はどこにいるのか。学者はどこにいるのか。この世の論者はどこにいるのか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。」(コリントⅠ1:20-21)
「この知恵は、この世の者たちの知恵ではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。…この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。」(コリントⅠ2:6-8)

 このように、聖書における「この世」の概念は、神の意思に従わない邪悪な世界として表現されており、キリストに従う信徒たちには、この世と妥協せず、交わらず、染まらないように勧告がなされている。同様に現世を否定する観念は仏教やイスラム教などの世界宗教にも見出すことができ、かなり広範に見られる傾向であるといえる。また、善なる者が悪なる世界から迫害されるというテーマは、キリスト教に限らず、仏教にも見出すことができる。仏教では迫害のことを「法難(ほうなん)」と呼ぶが、特に日蓮(1222~1282)においては、「法難」によって逆に自らの信仰の正しさが証明されるという思想が強調されている。彼は権威筋から迫害されることにより、何回も死にそうになるが、多くの法難に遭えば遭うほど、この道こそ正しい道であると確信していった。彼は、自分の受けている法難も、法華経の中で予言されていると解釈し、自分こそが末法の世に現れる法華経の行者、上行菩薩の生まれ変わりだと確信するようになった。

 それではこうした迫害や試練をどのように乗り越えていくことを聖書は教えているのであろうか? 第一に、イエス・キリストは迫害を受けることによって天国に近づくことを喜ぶように教えている。
「義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:10-12)

 使徒パウロは、迫害を受けるのは神が正しいことの証明なので誇りに思うべきであり、患難を喜ぶことによって良い方向へと向かうことを教えている。
「そのために、わたしたち自身は、あなたがたがいま受けているあらゆる迫害と患難とのただ中で示している忍耐と信仰とにつき、神の諸教会に対してあなたがたを誇としている。 これは、あなたがたを、神の国にふさわしい者にしようとする神のさばきが正しいことを、証拠だてるものである。その神の国のために、あなたがたも苦しんでいるのである。」(テサロニケⅡ1:4-5)
「それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。」(ロマ5:3-4)

 また使徒パウロは、迫害にあって自分が弱いと感じるときこそ、キリストの恵みが自分に現れるチャンスであると述べている。これは世俗社会から否定されることによって宗教的アイデンティティーが教化されることを物語っている。
「ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。」(コリントⅡ12:9-10)

 コリント人への第一の手紙1:31に「誇る者は主を誇れ」という言葉があるように、伝統的に信仰者たちは世俗的な地位、権力、知識、能力などを誇ることを戒めてきた。神はこの世においては愚かな者たちにあえて恵みを下さったのだから、自分自身を誇るのではなく、神の前に謙虚になって「主を誇る」ように指導されてきたのである。

 このように、「苦難」や「迫害」を信仰の糧としながら宗教的アイデンティティーを確立して生きた宗教の伝統を背景としてみるとき、櫻井氏の描写する統一教会の「信仰強化のメカニズム」は心理学的なテクニックというよりは、極めて伝統的な宗教の営みであると理解することができる。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳31


第4章 性的役割分担(8)

 第二に、祝福を受けるにふさわしい女性を十分に提供できないという問題がある。結婚は救いにとって絶対不可欠であり、一妻多夫や同性愛の結合は信条に反するため、この運動はそのランクにまで伝道された女性メンバーの数を増やさねばらないという、なにがしかのプレッシャーを受けているのである。結婚適齢期の女性の不足を補うため、グループは二つのことをしてきた:第一に、それは女性に対する結婚の年齢制限を男性よりも低くすることにより、より多くの女性が祝福を受けられるようにした。第二に、それは非常に多数のアメリカ人の男性とその他の国々の女性、とくに女性のメンバーがおそらくもっと多数いると思われる極東の国々の女性との結婚をアレンジした。(注54)

 女性メンバーに対する組織のニーズに照らせば、この運動が近い将来により厳格に規定された性的役割分担の方向へ移行していくとは思われない。実際、「主体」の役割に女性がいることは、「当面の間は女性が州の代表やセンターの所長になることができます」(注55)と語ったカリスマ的創設者によって「終末論的正当化」をされているのである。(インタビューにおいて数名の独身男性によって示唆された)この発言の意味は、世界史の現時点における運動の使命が緊急であることを考慮すると、通常において、そして理想的には男性のものである指導者の役割を、いまは女性たちが引き受けることができる、というものだ。(注56)語られざる前提は、もちろん、もし神の国が実現されたならば、そのときには女性たちはその性質によりふさわしいライフスタイルを取るようになるだろうということである。それはすなわち家庭内での役割である。この理想世界が実現されない限り、女性たちは妻や母としての役割に加えて、運動内のさまざまな「主体」の位置で機能し続けるであろうと仮定することができる。

 性的役割分担にまもなく影響を与える可能性のあるもう一つの要因は、既婚のカップルが共同体生活から個々の世帯へと移行していくと予想されることだ。いくつかのカップルは既に一軒の家に住んでおり、組織の将来計画は多くの祝福家庭に対して同様の生活形態を思い描いている。同様の変化が「キリスト共同組織」に起きたときには、夫が自身の世帯の家長となることにより、彼の支配的な役割を強化する傾向にあった。(注57)もしかしたら、カップルが「定着」したら、性的役割分担に関する同じような変化が統一運動の結婚に起こるかもしれないが、「キリスト共同組織」とは状況を異にしているこの運動に関しては、少なくとも二つの考慮されるべき要因がある。第一に、個々の世帯を構えるようになった統一運動のカップルの中に、夫がより支配的になったという兆候はない。第二に、「キリスト共同組織」の女性たちは、結婚の前にも後にも、厳格に定められた服従的な役割に縛られることを要求されているが、統一運動の女性たちは自身のライフスタイルを形成する上でより多くの自由と、組織の中での自律性を経験しており、個別の家族の住居に引っ越したからといって、彼女たちはそれを放棄しないであろう。実際、もし統一運動の中で家族主義が集産主義に取って代わったなら、性的役割分担のパターンは、ヒエラルキーと関連した男性の存在論的な見解から受ける影響がより少なくなり、現代アメリカ社会のそれに近いものになるということはあり得る。(注58)家庭中心の構造に向かう流れが、現在の形の統一運動の生き残りにどのような意義があるかについては、第8章で吟味されるであろう。

 したがって、この運動における性的役割分担の多様性は、以下の四つの変数によって説明可能である:背景と価値観とそのメンバーおよびリーダーの態度;非公式的な(だからといって力が弱いとは限らない)リーダーシップを発揮している女性たち(注59)と女性メンバーの影響力ある貢献;組織がその機能上女性を必要としていること;性的役割分担に対する存在論的アプローチと実存主義的アプローチの両方を正当化するような神学の解釈の可能性。

 男性メンバー(主に未婚の)は、彼らが運動における自らの役割とみなすものに対して満足感を表明したが、女性たちは、性的役割分担の決定に対するグループの「開かれた」アプローチであると彼女たちが理解したものを熱烈に支持した。彼女たちは統一神学の女性的次元を高く評価し、彼女たち自身の女性としての経験の視点からそれを解釈することができた。彼女たちはまた、女性はグループの霊的、宣教的、財政的目標の達成に対して重要な貢献ができるし、またそれをしてきたことを知っていた。そして最後に、彼女たちは統一運動の中で結婚し、同時にキャリアを持つ機会を得た。それは達成の困難な目標ではあったが、組織の支援を得ることできた。

 結論として筆者は、一部の統一教会信者たちが表明した、自分たちのグループはまだ性的役割分担に対する実行可能なアプローチを解明するプロセスの中にあるという考えに同意する。将来どのような解決法が出現するにせよ、それは運動の中で結婚と家庭生活が例外よりも規範となっていくにしたがって、その脈絡の中から生まれてくるであろう。

(注54)私は統一運動における「国際結婚」の合計数を手に入れることはできなかったが、私が知っているそのような結婚のうちで、アメリカの女性と東洋の男性の結婚はごく少数に過ぎなかった。
(注55)文鮮明師「トレーニング計画に関する無題の演説」、p.3。
(注56)「女性の平等に関する危機理論」の議論に関しては、E・ボールディング『女性のための国会への道』、女性が公職に就くことに関する国際セミナー(未発行の原稿:ローマ、1966年)を参照のこと。ボールディングが軍事的・政治的危機の時代であった第二次世界大戦中の性的役割分担の変化について記述していることは、今日の世界を終末論的危機とみる運動の認識と似ている。
(注57)リチャードソン、スチュワート、シモンズ、「組織化された奇跡」、p.145。
(注58)これと同じ方向に導くかもしれないもう一つの要因は、モーゼ・ダースト博士が最近アメリカ教会の会長に就任したことである。ダーストは、妻の「オンニ」と共に、長年にわたってオークランド・センターを指導し、女性たちのリーダーシップを育成した。彼はまた、あまり教義的・神学的ではなく、より人間的な指向性の持ち主である。最後に、現在60代になる文師が死んだときのグループの性的役割分担に対する影響を考慮する必要がある。
(注59)自発的組織における権力に関しては、「メンバーの関与を維持することがそうした組織にとっては極めて重要である。ほとんどの証拠から明らかなことは、権力の形やその他の留意事項に関わらず、このことがなんらかの形の権力を組織の参加者に分配することを含んでいるということだ。」(リチャード・T・ホール『組織:構造と過程』第二版[エングルウッド・クリフス、ニュージャージー:プレティンス・ホール、1977年]、p.227。)

カテゴリー: ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』84


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第84回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」において、実践トレーニングにおける伝道実習の分析の一環として、「14 信仰強化のメカニズム」(p.256-259)について論じている。櫻井氏は初めに「見知らぬ人に声をかけるだけではなく、人を勧誘するということには勇気がいる。統一教会に勧誘され、実践トレーニングまで残った人達の多くは、繊細で押し出しの弱い人が多い。」(p.256)と述べているが、これは実証的データに基づかない情緒的な印象論に過ぎない。

 櫻井氏の言う「繊細で押し出しの弱い人」というのは、アイリーン・バーカー博士が『ムーニーの成り立ち』の中で論じている「被暗示性(Suggestibility)」の強い人と意味が重なる。「被暗示性」とは「他者の提案や示唆を受け入れやすい傾向」のことである。「統一教会に入るような人は基本的に説得に弱くて、勧められるとNOとは言えないタイプの人だから巻き込まれてしまったのだろう」とか、「カルトに巻き込まれるような人は、素直なお人好しタイプが多い」とか、「精神的な弱さや隙があったから統一教会につけこまれたのだ」という推論に基づき、第三者が統一教会信者に対してこうしたイメージを持つことは多いようだ。しかし、本当にそうかどうかは、科学的な検証によって証明しない限りは分からないのであり、憶測に過ぎない。

 そこでバーカー博士は、対照群との体系的な比較によって統一教会員の「被暗示性」が強いかどうかを客観的に測定するために、統一教会に入会したかどうかとは別の「独立した」指標で、「受動的な被暗示性」を定義した。それは具体的には、「青年期の未熟さ、精神障害、薬物乱用、あるいはアルコール依存症などの経歴、学校における成績や素行の不良、両親の離婚や不幸な子供時代、友人関係を維持する能力の欠如、過渡的な状況にあるか人生の明確なビジョンや方向性を持っていないこと、優柔不断の傾向、職業やガールフレンド(ボーイフレンド)を次から次へと変える傾向」などとなっている。

 バーカー博士は分析の結果として、ムーニーになる人にこうした傾向があるとは言えないと結論している。具体的には、①ムーニーは貧困または明らかに不幸な背景を持っているという傾向にはない、②もともと精神的な問題や薬物使用などの問題を抱えていたというムーニーは少数派である、③ムーニーが基礎的な知識に欠けるがゆえに説得を受け入れやすいのだという証拠はない、ということを明らかにしている。これらはすべて対照群との比較によって裏付けられている。面白いことに、これは櫻井氏自身の統一教会員の描写である「受講生は育ちもよく、学業、仕事も人並み以上にこなしてきた模範的な学生、市民だった」(p.257)という像と一致している。要するに統一教会に来るような人は、能力や精神的な強さ・成熟度において「平均以上」のレベルを持った人が多いということだ。少なくとも、相手の言うことを何でも受け入れてしまうような意志の弱い人ではない。こうした特性を持った人が、「繊細で押し出しが弱い」ために統一教会の説得に抵抗できずに実践トレーニングまで残ってしまったという櫻井氏の描写は論理的に矛盾している。

 説得に弱いタイプの人が統一教会に入るわけではないとすれば、最終的に信者になるかならないかを決定する要因は何なのであろうか? バーカー博士はそれを「感受性」と呼んでいる。「感受性」と「被暗示性」との違いを簡単に説明すれば、「被暗示性」が基本的に他者の提案や示唆を受け入れやすい傾向のことであり、何でも受け入れてしまうような受動的で説得に弱い性格であるのに対して、「感受性」は統一教会が提供するものに対して積極的に反応するような性質のことであり、その個人がもともと持っているセンサーのような性質だということになる。こうしたセンサーやアンテナが発達している人は統一教会の教えや修練会に積極的に反応するけれども、発達していない人は反応しないので入教しないということになる。

 それでは、そのような性質の具体的な中身が何なのかと言えば、バーカー博士によると、ムーニーになりそうな人は以下のような特徴を持っているという:①「何か」を渇望する心の真空を経験している人、②理想主義的で、保護された家庭生活を享受した人、③奉仕、義務、責任に対する強い意識を持ちながらも、貢献する術を見つけられない人、④世界中のあらゆるものが正しく「あり得る」という信念を持ち続けている人、⑤宗教的問題を重要視しており、宗教的な回答を受け入れる姿勢のある人々。

 こうした特性をもともと持っていた人々が、修練会で教えられた統一原理の内容に反応してムーニーになったということである。バーカー博士の研究において「ムーニーになった」と判断された人とは、2日間、7日間、21日間の修練会に参加して統一教会への入会に同意し、少なくとも一週間以上の信仰生活を送った人のことであり、それ以前に離脱した人は含まれていない。欧米と日本では教育プロセスが異なるが、日本の実践トレーニングでは既に統一原理の受講はすべて終わっており、教会や創設者についての情報もすべて学び、入会を決意して実践段階にまで入っていることから、バーカー博士の「ムーニーになった」という基準を満たしていると言えるだろう。したがって、実践トレーニングまで残った人も、これと類似する性質をもともと本人が持っていたために、統一原理の教えに共鳴したのであると理解することができる。

 要するに、実践トレーニングまで残ったのは本人が説得に弱かったからではなく、むしろ統一原理の内容に主体的な関心を抱き、自らの生き方として採用しようという決意をしたからであるということになる。能力や精神的な強さ・成熟度において「平均以上」のレベルを持った人は世の中に山ほどいるが、そのすべてが原理を聞いて信仰を持つわけではない。それでは、最終的に信者になるか否かを決定する要因は何であるかと言うと、第一にその人に宗教性があるかないかによって峻別されるのあり、第二に統一原理が教える世界観そのものに共鳴できるかどうかによって決まるのである。しかし、櫻井氏は初めから受講生たちは「受動的な説得の被害者」であるという像を描いているために、何の実証的なデータも示さずに「繊細で押し出しの弱い人」というような印象論を書いてしまう。こうした誤解の根本的な原因は、「自分たちは統一教会の被害者である」と訴えている「青春を返せ」裁判の原告たちの主張を基礎資料として研究をしていることにある。

 櫻井氏や「青春を返せ」裁判の原告たちが描こうとする像とは異なり、実践トレーニングの受講生には「繊細で押し出しの弱い人」ばかりではなく、多種多様な性格の人々が混在している。明るくて社交的な女性もいるし、体育会系のノリでやたらと元気の良い男性もいる。たまに元ヤンキーや不良だったという人もいるし、真面目な公務員もいるし、学校の先生や看護師など、特定の職業のプロとしてキャリアを積んでいる人もいる。その中には明らかにリーダーとしての資質を持った人もいるのである。そうした人はやがて統一運動の中でリーダーとして頭角を現していくことになる。こうした人々は、「統一教会の説得に抵抗できなかった、繊細で押し出しの弱い受動的な被害者」とはまったく正反対の性格を持つ、主体的な活動家となる。彼らは統一運動の中に自分の居場所と存在意義を感じ、人に説得されたからではなく、自らの主体的意思で信仰生活を送るようになり、同時に後輩たちの指導に当たるようになる。

 こうした多様な性格を持った若者たちが実践トレーニングで伝道活動を初めて体験するわけだが、それが勇気のいることであり、不安や葛藤を伴うものであることは事実であろう。しかし、櫻井氏はこうした実践活動を「信仰強化のメカニズム」として、何やら意図的にその人の人格を変えるために行われているのであると主張している。それは以下のような文章に如実に表れている。
「信仰の告白という意味もあるが、羞恥心、世間体を捨てさせることの効果も大きい。何だろうと奇異の視線で見られたり、無視されたりすることで、通行人とは違う種類の人間にならざるをえないのである。」(p.256)
「受講生にとって無視され、その上バカじゃないか、迷惑だと非難され、さらには変な団体につかまった可哀想な人達と蔑みや哀れみの視線を投げかけられることは、屈辱というよりも自分の全人格やこれまでの人生を否定されたに等しいショックだろう。」(p.257)
「社会心理学的解釈を施すなら、統一教会における信仰強化は認知的不協和の意図的・効果的な利用とされよう。つまり、自尊心を剥ぎ取るような状況に受講生を追い込むことで、彼らの自己認知や世界観を大いに揺さぶる」(p.258)

 次回は、伝道実践の中で受講生たちが感じることや教えられることが、意図的な心理操作や人格の変革を目的とするものではなく、伝道的な宗教の世界観を背景としていることを明らかにする。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳30


第4章 性的役割分担(7)

 メンバーの態度とライフスタイルに対する摂理的役割の意義は、これらの役割が主として「内的指導」に関する事柄であるという、統一運動の中にある一般的な感覚に照らして理解されなければならない。この言葉には、本質的に個人の良心と責任に関することであり、深い霊的な関心事であるという含意がある。その結果、婚約した女性たちの間には、摂理的役割に対する少なくとも二つの明らかに異なる方向性が存在する。一群の女性たちは、これらの役割は彼女たちにとって単に「内的に」ではなく、相対者との関係において非常に重要であると表明した。もう一つのグループは、その役割の霊的な意味は価値視するものの、それらが自分たちの将来の夫とどのように関わるかに強い影響を及ぼすとは信じていなかった。(注49)どのような方向性をとったとしても、女性たちは全体として、伝統的なキリスト教(特にローマ・カトリック)が男性中心的な救済論を持っているのとは対照的に、統一運動の女性たちが復帰の過程において神学的に公認された役割を持っていることに対して満足感を示した。

 前述のデータは、共同体的性格を持つ他の新宗教においては女性が男性よりも劣るとみなされて下位の社会的役割が割り当てられているのとは対照的に(注50)、統一運動は、文師の存在論に基いた優越主義から、未婚の女性たちのより実存的でダイナミックな理解に至るまで、性的役割分担に対するいくつかの異なるアプローチによって特徴付けられることを強く示唆している。この多様性は、メンバーたちのやや保守的な背景と、運動が結婚と家庭を高く評価していることが合わさって、フェミニズムを一つの可能性として排除している点において、すべての可能な選択肢を包含していない。にもかかわらず、このグループはマスメディアによって投影されたイメージから思う以上に、性的役割分担の柔軟性を示していることを証拠は明らかにしている。

 若い独身男性は一般的に『原理講論』の主体(男性)・対象(女性)の枠組みを文字通りに解釈することに固執する。これは部分的には文師と自分自身を同一視する傾向と、男性のヒエラルキーの結果である。さらに、これらの男性が入教する前に女性と関わることに困難を感じていたということは、彼らが多くのアメリカ人男性と同様に、1970年代に解放された女性たちが出現することによって沈殿した「男性としてのアイデンィティ・クライシス」を経験していたことを示している。したがって、彼らは両性の明確に定義された役割に根拠を与えるために使えるイデオロギーを持った組織の中で安心を感じるのである。

 独身の女性は(ほんとどの既婚のカップルと共に)性的役割分担に対するより実存主義的なアプローチを支持するが、著者を驚かせたこの現象は、以下の五つの考察によって少なくとも部分的に説明が可能である:
1.女性たちは結婚して家庭を持つことを楽しみにしているが、彼女たちは妻と母親の役割を、彼女たちに生来定められている行動ではなく、彼女たち自身の選択の問題であるとみなしている。
2.多くの女性たちが結婚した後も、家の外で指導者として運動に奉仕している。ほとんどの未婚の女性たちは、年長の姉たちの模範に倣うつもりでいる。
3.統一教会の女性たちは一般的に積極的で自信に満ちているので、文師のいう東洋的な女性の振舞いのモデルにはうまく当てはまらない。
4.彼女たちは1960年代の女性のリーダーシップの伝統と、西海岸とりわけ非常に成功したオークランド・センターの女性リーダーの影響力について知っている。(注51)
5.女性たちは、その効果的な開拓およびファンドレイジング活動を通して、運動の伝道および経済の目標に対して多大な貢献をしてきたのであり(注52)、その業績を通して彼女たちは力と自尊心の感覚を発達させてきた。

 これら五つの考察に照らせば、統一運動における女性の経験は、明らかに男性のそれとは異なっていることは確かである。したがって、性的役割分担に対する彼らの理解もまた異なるであろうことは理解できる。この運動が、神の命令によって公認された仮想の親族関係にもかかわらず、性的役割分担に関する葛藤を取り除いていないという事実は、そこに所属する男性と女性があるべき適切な役割と必ずしも一致しないことを、さらに確証するものである。

 男性中心のヒエラルキーが、男性と女性の実際の役割を、文師の説教に示されている理想的な役割とより一致するように仕向けるだろうと期待する者もいるかもしれない。しかしながら、これは起こらなかった。実際には、少なくとも一例においては、反対の傾向がはっきりと表れている。女性たちが神学校や大学院に入ることを許可することにより、運動は実際に彼女たちの何名かに対して、文によれば男性の特権であるはずの指導者の役割を果たすべく準備をしているのである。女性に高等教育を授けるだけでなく、女性に非伝統的な役割を与えることに対して運動が寛容であることを説明する主要な手掛かりは、アメリカにおいては運動内に女性が不足しているという事実にある。1981年2月26日の時点で、核心的なメンバーの数は10005名であるが、そのうち6408名(64%)が男性であり、3597名(36%)だけが女性であった。(注53)女性メンバーに対して男性メンバーの比率が高いことは、グループにとって二つの非常に実際的な問題を提起する。第一に、多くの開拓やファンドレイジング事業を継続するのに十分な数の女性が、明らかにいないということだ。男性のメンバーがこうした活動にたずさわるのであるが、上述のように、女性の方が男性よりもはるかに実績をあげているのである。文師が既婚の女性をCARPセンターの開拓のために招集したのも、おそらくそのような使命に対応することのできる未婚の女性が実際に不足していたことを示しているのであろう。

(注49)約婚中の女性の母親としての役割については、第5章でより詳しく論じる予定である。
(注50)J・スティルソン・ジュダ『ハレ・クリシュナとカウンターカルチャー』(ニューヨーク:ジョン・ウィレー・アンド・サンズ、1974年)、pp. 86-87およびリチャードソン、スチュアート、シモンズ『組織化された奇跡』pp. 136-146を参照のこと。
(注51)西海岸「派」と影響力のあった「オークランド・ファミリー」の記事に関しては、ブロムリーとシュウプ『アメリカのムーニー』、pp.75-77; 103-105; 138-142; 146-147; 174-178を参照のこと。
(注52)ある特定の社会における女性の地位は、生存の手段を獲得することに彼女たちがどの程度たずさわっているかと密接に関わっていると議論する著者もいる。マリア・オッサワスカ『道徳的思想の社会的決定要因』(フィラデルフィア:ペンシルバニア大学出版、1970年)、p.51。
(注53)個人的交流:ショウ氏

カテゴリー: ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』83


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第83回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」において、「13 伝道」について説明している。(p.254-256)櫻井氏は初めに「統一教会信者にとって、伝道とは自分が勧誘されてきた経路を新しい人達にたどらせることにほかならない。」(p.254)と述べているが、これは統一教会に限らずどんな宗教にも当てはまりそうな説明である。ただし、ここで櫻井があえて「勧誘」という言葉を使っていることに注意したい。なぜなら彼は「本章では統一教会が布教行為と明言しないで行っている行為を勧誘と呼ぶことにしたい。統一教会の信者達には伝道しているという意識がある。しかし、街頭や戸別訪問で対象者に話しかける際に、宗教とさとられないよう、またそういう質問を受けても宗教ではないと言うように指示されていた。これでは一般市民にとって勧誘以外の何ものでもない。」(p.218)という前提で「勧誘」という言葉を使用しており、統一教会の信者たちが行っているのは「伝道」の名に値せず、「勧誘」に過ぎないという価値判断をしているからである。

 そもそも「伝道」とは主にキリスト教において使われる言葉であり、基本的に信仰を持っている者が使う言葉である。類義語に「布教」「宣教」「唱導」などがあるが、天理教の「においがけ」や「おたすけ」、創価学会の「折伏」や「公宣流布」など、特殊用語が用いられることもある。そこには外部の者からは即座に理解できないその宗教特有の世界観が込められていることも多い。「伝道」は信仰を持たない第三者から見れば「勧誘」に見えるわけであるから、第三者に過ぎない櫻井氏がそう呼んだとしても知ったことではない、統一教会信者にとってそれは「伝道」なのだと言えば済む話なのかもしれない。しかし、櫻井氏の価値観によれば、信教の自由が存在せず、キリスト教が迫害されているような国で、自らの信仰を公にできない状況下で密かに伝道活動を行っている宣教師たちの行為も、「伝道」と呼ぶに値せず、「勧誘」に過ぎないという判断になってしまう。「伝道か?勧誘か?」という議論にそれほど意味があるとは思わないが、櫻井氏のものの言い方は、宗教的な価値判断を控える中立的な立場ではなく、宗教者の主観の世界にまで土足で踏み込んで、その信仰を侮辱することを目的としているとしか思えない。要するにこの本は、学問の体裁をとった敵意の表明なのである。

 続いて櫻井氏は伝道の二つのやり方として、(1)家族・友人を展示会やビデオセンターに誘う、(2)路上でアンケート調査や手相見と称してビデオセンターに誘う、を挙げている。この内容自体はこれまでの彼の記述の繰り返しなのでここでは取り上げない。問題となるのは、それに続く櫻井氏の統一教会の伝道方法に対する評価である。
「伝道の仕方は講師がまず伝道の心構えを講義し、受講生達は班長と共に街頭に出る。当然のことながら、座学で原理講義を習っただけの受講生が人に統一教会の何たるかを伝えられるわけがない。統一教会が受講生たちに求めていることは、路上や訪問でともかくも人を呼び止めたり、玄関のドアを開けさせて話を聞かせたりして被勧誘者をビデオセンターにつなぐことだ。」(p.255)

 これは統一教会に限らず、どんな宗教でも同じことなのではないだろうか。伝道されたばかりで、最初から教義をすらすらと説明できる人はまれであり、組織や先輩の助けなしに一人で伝道活動ができる人も少ないであろう。最初は不安や葛藤を抱えながらも、先輩がやる姿を見よう見まねで実践しながら徐々に慣れていくというのが普通であろう。それは新入社員の営業研修でも同じことで、最初から上手にやれる人はまれで、徐々に慣れて上達していくわけである。櫻井氏は、統一教会の信者教育はひたすら教説の学習を繰り返した後で初めて実践内容を教えられるものであると批判している割には、この段階では「座学で原理講義を習っただけの受講生が人に統一教会の何たるかを伝えられるわけがない」と言っている。それではいつ実践を始めたらよいのか? 教義の概要を一通り学び、伝道することの意義と価値を頭で理解した実践トレーニングの段階で、先輩の指導の下に体験的に伝道実践をしてみることは至極まっとうなやり方であると思われる。

 櫻井氏は、「統一教会の伝道方法は非常にシステム化されているために、各教会員が自分で伝道した人を最後まで育成することはない。もちろん、最初に伝道したものが霊の親、されたものが霊の子として、教会員である限り終生交流を持つこともあるのだが、信者としての育成や組織の中の仕事において直接関わり続けることはない。このために受講生に対して人を呼び止めるだけの役を与えることが可能になる。彼らも呼び止めた後どうするのかは班長の判断に任せればよいと言われる。生半可な教義理解や信仰の段階で人を誘うことに躊躇してしまうものにも、アベルの命令を神の意志として従うことが信仰だとアドバイスすることで、人を誘う心理的負担を軽くすると共に、自ら判断しないことを信仰として強化するのである。」(p.256)

 櫻井氏の指摘するシステム化された伝道方法は、もともと統一教会に存在した伝統ではなく、1980年代から連絡協議会によって導入されたビデオによる原理講義の受講システム、さらに青年伝道のシステムとして開発されたライフトレーニング、新生トレーニング、実践トレーニングなどとして構築された日本独自のものであると言える。こうしたシステムの開発は伝道の効率化、コストパフォーマンスの向上に貢献したと考えられるが、統一教会の内部で必ずしもプラスの側面だけが認識されているわけではないことは以前に述べたことがある。

 統一教会における伝道行為は、伝道する側である「霊の親」が伝道される側である「霊の子」を愛し、み言葉を語って育てることにより、親の心情を復帰し、人格を向上させるという意味付けがなされていた。霊の親は手間暇をかけて霊の子を育てるからこそ、一人の人間として成長できるという考えが、伝統的な統一教会にはあった。しかし、「霊の子」の教育をビデオ受講、専門のカウンせラー、そして一連の教育システムに任せることにより、「霊の親」は信仰者として成長する機会を奪われてしまったという評価も一方で存在するのである。

 しかし、だからと言って櫻井氏が指摘するような、「信仰が自己の心の問題として育っていかない」(p.258)という結論に持っていくのも大きな飛躍である。なぜなら、こうしたシステム化された伝道方法の中でも、やはり人は信仰的に成長していくという事実があるからである。ビデオセンターのカウンセラーや修練会の講師は「み言葉を語る」という役割をする。多くの対象に対して普遍的な内容を語るという点では、彼らは訓練された専門家という側面を持っている。こうした人は統一教会の信者の中でも少数であり、誰でもこうした役割ができるわけではない。しかし、それは一般の宗教団体でも牧師や教師は特別な訓練を受けた人でないとできないのと同様であり、むしろ統一教会は一般の信徒が積極的に伝道活動に関わっている団体であると言える。

 一方で、霊の親の役割は「み言葉を語る」こと以上に、無条件に霊の子を愛し、その心を受け止めてあげることにある。人は正論を聞かされただけで伝道されるものではない。その人が抱えている個人的な事情、人間的な思いをそのまま受け止めて、黙って聞いてあげたり、プレゼントを送ったりして、言葉によらない愛情を示してあげることが霊の親の主な役割であり、実際そうした霊の親の姿に感動して伝道される人は多い。そうした愛情の注ぎ方を通して信徒は信仰的に成長しているのであり、伝道活動を通して、愛するとはどういうことかを学ぶ信徒は多いのである。そして櫻井氏も認める通り、霊の親と霊の子が終生交流を続けることは統一教会の伝統である。

 また櫻井氏は、実践トレーニングの班長達が、受講生たちとほぼ同世代の先輩信者であり、受講生たちが成長した数年後の姿であることにもあえて触れていない。最初は見よう見まねで出発するかもしれないが、そうした受講生たちの中からやがて新しい者を指導する班長が生まれ、カウンセラーが生まれ、講師が生まれるというように、若者たちは一定の期間をかけて成長していくのである。

 伝道方法がシステム化されたことにより、霊の親が霊の子に講義をして育てる機会は昔に比べて少なくなったかもしれないが、これは例えて言えば、家内制手工業から工場制手工業への発展のようなものであり、手作り感を重視するか効率性を重視するかという選択の問題であろう。もっとも、霊の親が霊の子に講義することによって霊の親としての自覚が育ち、成長するという考え方がなくなったわけではない。信徒一人ひとりが講師になる道としての「チャート式原理講義」の導入や、ブラジルにおける伝道の成功例である「ホームグループ・一対一・オイコス伝道」を日本に導入しようという試みなどは、そうした原点回帰の一環であると考えられる。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳29


第4章 性的役割分担(6)

 これらの女性に対するリーダーシップの機会は統一運動の組織構造の一部ではないが、それらが彼女たちに対して、グループの日常生活に影響を与え、同時に彼女たちの個人的な能力やスキルを表現し発達させることのできるチャンネルを提供していることは疑う余地がない。この研究のためにインタビューを受けた女性たちは、(多くの場合、男性たちのそれよりも)強い自信を示した。その態度は、ファンドレイジング、開拓、その他の活動における成功と関連しているのかもしれない。彼女たちは全員が結婚と母性に対しては非常に高い価値を置いていたが、例えば教育、伝道、執筆、大学院での勉強など、家の外で運動の活動に関わることをも価値視していることを表明した。結婚した女性の大多数は、そのほとんどが幼い子供を抱えているが、家の外でなんらかの運動のプロジェクトのために働いていた。これらの女性たちは、私たちの社会の女性たちの多くと同じように、家庭と仕事を両立させようとして、しばしば役割の葛藤を経験する。メンバーの一人であるノーラ・スパージンは、『ニューズウィーク』誌の女性リポーターからインタビューされたことを話したが、そのリポーターは、ノーラ自身の言葉によれば、「三人の子供の母親である私が、そんなにも忙しくて刺激的な生活を送り、それをするために多くの旅をしていることに感銘を受けたの。」(注42)そのリポーターの観察に対する自分の反応を思い出して、彼女は以下のように書き留めた:
「私は微笑んだ。なぜなら、私は自分の使命が多くの刺激的なことをする機会を私に与えてくれ、毎日の子供たちの世話から私を解放してくれると思っていたからだ。しかし、統一原理が私たちに家庭という単位の価値と、女性であることと親であることの深い内的な意義を教えてくれたので、私の『自由』はまた、多くの涙と心の重荷の源でもあった。」(注43)

 もちろん、この役割の葛藤に伴う「重荷」は、親としての役割と使命における役割は世界を復帰する神の計画の一部であるという信仰によって、いくらか緩和される。さらに、こうした二つの役割を担っている女性たちに対して、運動は保育園やチャイルドケアを提供している。これもまた彼女たちが葛藤に耐えるのを助けている。

 性的役割分担の問題は、女性が理想的には復帰の過程において重要な役割を果たすという統一神学の解釈にも反映されているが、これらの摂理的役割が個々のメンバーの実際のライフスタイルにどのように関わるのかについては、運動内で完全な意見の一致はないように思われる。『原理講論』は、堕落の結果の一つは神による主管の秩序の破壊であると教えている。エバがアダムを誘惑した行為は、彼女が彼を主管したことを象徴し、神が本来意図したことの逆転である。その結果、「堕落した世界においては、男性は主体ではない。」(注44)堕落はエバによって始まったのであるが、女性は男性の性質よりも、より霊的に敏感に反応する性質を持っているとみなされている。文師によれば、
「女性は男性よりも心情的な被造物なのです。したがって、彼女たちが霊的体験においては一歩進んでいることも珍しくはありません。その場合には、男たちは彼女たちに従わなければなりません。」(注45)

 女性にはより霊的な性質があるので、彼女たちは真の父母と特別な関係にあるのである。これは彼らが祝福を受ける前には特にそうである。未婚の女性は、専従のメンバーになった上で、真の父母の「娘」になる。その役割は彼ら、特に神の代身であるお父様に対する絶対的な忠誠を示唆するものと思われる。(注46)さらに、女性は象徴的な形でメシヤ(すなわち文)の花嫁となる。

「男性は女性のようにお父様を近く感じるのが難しいのです。ですから、普通は女性が初めにお父様に対する深い感情を抱き、お父様を慕うまでになるのです。ときには女性はあまりにお父様を慕わしく思って泣きたくなることもあります。」(注47)

 そして最終的に、女性は約婚期間において彼女の相対者に対して母親の役割をするが、これは本質的に「主体」の役割である。

 摂理的役割の背後にある中心思想は、生来男性よりも神に近い女性が、霊的完成を探究する道において主導するということだ。彼女がこの目標に近づくとき、おそらく彼女のメシヤとの特別な関係に助けられ、「母親」としての彼女が自分の相対者/「息子」の養育に対して責任をもつのである。文師が言ったように、「女性が本当の意味で男性から愛されるためには、彼女はまず初めに自分の男性を神から愛される基準にまで引き上げることができなければなりません。そして次に彼が神の位置に立ったとき、彼女は彼の愛を受けることができるのです。」(注48)

(注42)ノーラ・スパージン「統一教会において女性であることについて」『季刊祝福』(第2巻、2号、1978年春)、p.41。
(注43)前掲書、p.41。
(注44)文鮮明師「神の御旨に対する代価」、p.3。
(注45)文鮮明師「祝福と伝道について」、『マスター・スピークス』(MS-2、2965), p. 6。この文の初期の発言をどのように解釈するかは、即座に明確ではない。それは政治的な性質の発言であるとみることもできる。すなわち、彼は1965年の時点でアメリカの運動がおもに師の支援を必要とする女性たちによって導かれていたという事実に対して、宗教的な正当性を与えているということだ。しかし、女性たちがいまでも文および他のメンバーに対する霊的な助言者として機能していることを考慮すれば、よりもっともらしい説明は、女性がもつ霊的な潜在能力に対するこの見方は、この運動の韓国的背景に起因するものであると考えることであろう。「韓国には、女性がムーダンやシャーマンとしての宗教的役割を果たすという、おそらく先史時代にまでさかのぼる長年にわたる伝統がある。」(ヨンスク・キム・ハーベイ「韓国における憑依症と女性シャーマン」、ナンシー・A・ファルクとリタ・M・グロス〈編〉『語られざる言葉:非西洋文化における女性の宗教生活』[サンフランシスコ:ハーパー&ロウ、1980年]に掲載、p.41。
(注46)統一運動のファンドレイジング・チームや伝道チームに通常「チーム・ファザー」ではなく「チーム・マザー」がいるのは、おそらくこのためであろう。
(注47)周藤健「祝福の内的意味」『季刊祝福』(第1巻、第2号、1977年夏)、p.46。この摂理的役割は、韓国の運動にとっては巨大な論争の種であった。1955年に文師とその他数名の指導者が、新しい女性のメンバーと性的関係を持ったとされて逮捕されたが、起訴もされず、有罪判決も受けなかった。この事件の記事に関しては、チェ・シンドク『韓国の統一運動』、スペンサー・J・パーマー『韓国の新宗教』、p.103、ユン・ホイェ『戦後韓国の新しいカルト』(プリンストン神学校図書館:未発行の原稿、1959年2月16日)pp. 37-43、ゾラ・レビット『文鮮明の精神』、p.13、およびJ・イサム・ヤマモト『人形遣い』、p.20-21を参照のこと。これらの記事はすべて、文師に関して申し立てられている性的不道徳に関して、信頼できる歴史的証拠を欠いている。
(注48)文鮮明師『男と女の関係』、p.5.

カテゴリー: ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」