ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳09


第2章(2)

原理講論の神は永遠に自存する絶対者であり、その万有原力は神が存在するための根本的な力であると同時に、創造のための根本的な力である。(注11)被造物の中で作用して、この力は創造のプロセスにおける「授受作用」を開始し、維持する。各々の被造物(人間および人間以外)は、それ自体のために作られたのではなく、他の存在との間に相対的関係を結ぶために作られた。「すべての存在を構成している主体と対象は、授受作用するときに、その存在のためのすべての力、すなわち存在と繁殖と作用などのための力を発生する。」(注12)考え得るすべての関係は、神の意図に従って、主体と対象の間の良き授受作用によって特徴付けられる。たとえば、神の心情は人間に対して愛を与え、人間は神に喜びを返すことによってそれに報いる。さらに、理想的な関係が展開するためには、与えることが受けることに先立たなければならない。あるいは、それをより最近の統一神学の解釈に従って言えば、授受作用の前に相対基準を造成しなければならず、それは「主体と対象が自身の『個体目的』よりも『全体目的』を優先するときに」(注13)生じるのである。このことから、自己中心的な個人主義が授受作用の可能性そのものを否定することは明らかである。

主体と対象が授受作用を行うとき、それらは一体となって神の新たな対象となる。このプロセスは「正分合作用」(注14)と呼ばれ、関連する例を用いれば、神が「正」であり、夫(主体)と妻(対象)が「分」を表し、そして子女は授受作用の実として「合」を表す。

正分合作用の構造、すなわち「四位基台」は、統一神学のまさに中心に位置する。(注15)四位基台は、各存在(神、夫、妻、子女、上記の例の続き)が他の三者に対して主体の立場に立ち、「三対象目的」を完成させるときに造成される。したがって、
「四位基台は、神と分立された主体、対象とその合性体の四つの要素が、各々三対象目的を完成させることによって、六対の授受作用で構成される力の基盤である。」(注16)

以下の図は、結婚という状況においてこの考えを図示したものである:

四位基台

このように、理想的な四位基台は主体と対象を一つにする授受作用が神を中心としているときに実現される。この基台は、神の創造目的を成就するための基盤を形成するものであるが故に極めて重要である。

神の目的を理解するためには、愛の対象を求める神の心情を理解しなければならない。そして神が宇宙を創造した動機は、自身の性相を反映した愛の対象を持つことにより、喜びに満ちた満足感を覚えるためであった。人間は神のかたちとして創造されたため、彼または彼女は人間以外の被造物よりも神の性相を反映しているだけでなく、彼または彼女は神の愛に反応することができるため、神の心情に最も近い存在なのである。(注17)

神の創造目的は、創世記1章28節において最も明確に示されていると理解されており、統一教会の三大祝福の思想はこの聖句に基いている。この思想は、人間が神に喜びを返すというその存在目的を成就することのできる構造を提供するものである。人間はこれら三つの祝福をすべて成就することのできる成長と成熟のプロセスを通過してのみ、神の「完全な対象」となることができるのである。この成長期間の間は、神は人間を原理(注18)と戒め(注19)によって間接的に主管する。人間が霊的、心理的、身体的成熟として定義される完成に到達したとき、彼または彼女は神の心情と一つとなり、この段階に入って神は愛によって直接主管する。完成した人間はもはや罪を犯すことができない。

個々の祝福は、四位基台を造成した基盤の上に実現される。第一祝福(「生育せよ」)は、完全に神を中心とする生活の中で個人の心と体が一体となって完成する可能性のことである。アダムとエバは神が見てはなはだ良かったと言った被造物の一部であったけれども、彼らは完成した状態で創られたわけではなかった。もし彼らが完成していたのであれば、彼らは神の戒めを破ることはできなかったであろう。もし彼らが個性完成(第一祝福)を成し遂げていたならば、彼らは神の心情と一つになり、神の愛によって直接主管されていたので、神に反逆することはできなかったであろう。

もしアダムとエバが個人として完成していたならば、彼らは第二祝福(「繁殖せよ」)、すなわち理想的な結婚と家庭の形成を実現するための霊的な準備が出来ていたであろう。(注20)この場合、神の愛が夫(主体)と妻(対象)の間の授受作用の中に実現され、二人の愛の合一を象徴する子女を持ったときに、四位基台は造成される。もしアダムとエバがこの祝福を成就していれば、彼らは全人類の真の父母となり、彼らの善の子女を通して、地上に天国を実現していたであろう。

完成段階まで成長した夫と妻の関係は、動的な愛と美の相互作用として描かれている。
「神と人間について例をとれば、神は愛の主体であり、人間は美の対象である。男女については、男子は愛の主体であり、女子は美の対象である。・・・しかし、主体と対象とが合性一体化すれば、美にも愛が、愛にも美が内包されるようになる。なぜかといえば、主体と対象とが互いに回転して一体となれば、主体も対象の立場に、対象も主体の立場に立つことができるからである。」(注21)

運動における男女の役割分担を理解する上での上記の文章の重要性に関しては、第6章で論じることにする。しかし、第二祝福における愛の神学的重要性は、この時点でさらに議論する必要がある。結婚と家庭において、神の愛は三つの基本形として実現されるべきものである。
「神を中心としてその二性性相の実体対象として完成されたアダムとエバが一体となり、子女を生み殖やして、父母の愛(第一対象の愛)、夫婦の愛(第二対象の愛)、子女の愛(第三対象の愛)など、創造本然の三対象の愛を体恤することによってのみ、三対象目的を完成し、四位基台を完成した存在として、人間創造の目的を完成するようになる。このような四位基台の三対象の愛において、その主体的な愛が、まさしく神の愛なのである。それゆえ、神の愛は三対象の愛として現れ、四位基台造成のための根本的な力となるのである。」(注22)

(注11)統一神学が被造物の中に万有原力として神が内在していることを強調しているのは、いくつかの点でアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの思想と似ている。(彼の『宗教とその形成』[ニューヨーク:ワールド出版社:1954]、pp.107-115を参照のこと。)
(注12)『統一原理解説』、pp.14-15
(注13)前掲書、p.20
(注14)『原理講論』、p.31
(注15)このことは『原理講論』の組織的構造において明らかなだけでなく、運動のその他の出版物、および私がインタビューした人々によってこの教義が強調されたことによって立証された。
(注16)『統一原理解説』、p.21
(注17)統一神学は、人間が神を必要とするという西洋の概念を保持しつつも、神が人間を必要とするという東洋の概念をも強調する。この神と人間との相対的関係は、『原理講論』における一般的な傾向の一例である。一方で、その多くの言葉遣いと主張は神と被造物は明確に異なる存在であるという西洋的な理解の様式を示しているが、他方で、『原理講論』には東洋の流出説の痕跡が十分にある。
(注18)「原理」という言葉は、宇宙における自然の秩序に内在する神の法則を指しており、神の新しい啓示としての『原理講論』とは区別される。(訳注:英語で表記するとどちらも「Divine Princile」となるため、グレイス博士は下線なしを神の法則を意味するときに、下線ありを書物を意味するときに用いることによって差別化を図っている。)
(注19)例えば、創世記2章17節。
(注20)創世記1章28節の解釈において、統一神学はより標準的なキリスト教の釈義から逸脱している。それは「生めよ、ふえよ」を繁殖に対する単独の祝福であると見ている。『解釈者の聖書』1(ニューヨーク:アビングドン出版、1952年):485-486を参照のこと。
(注21)『原理講論』、p.48-49
(注22)前掲書、p.49

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』62


櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第62回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

櫻井氏は本章の「4 イベントの時間的経緯」の中で、自らの調査対象となった元統一教会信者の入信期間の長さ、伝道から入信、献身、脱会に至るまでの時間的経緯などをグラフにして分析している。それによれば、「元信者の入信期間は半数が四年未満であり、ここまでが一年刻みで十数パーセントずつ、四年以上が一年刻みでほぼ数パーセントずつの割合になっている(図6-9)。」という。入信して10年以上の者は数パーセントに過ぎない。これをもって櫻井氏は「入信後数年間は、それ以上の年月を統一教会で過ごしているものよりも脱会しやすいということがいえる」(p.214)と述べている。これはその通りであると言えるが、理由については若干の補足説明が必要である。私なりにその理由を分析してみると、以下のようになる。

まず、拉致監禁による強制改宗を受けなくても、自然脱会する者が最初の数年で相当いると思われる。これは宗教的回心を経験して新しいアイデンティティーを獲得したとはいえ、その人がもともと持っていたアイデンティティーがまったくなくなるわけではないので、二つのアイデンティティーの間に価値観や文化の違いが大きい場合には、個人の中で内的葛藤が生じるからである。この葛藤を乗り越えてアイデンティティーを安定させなければ、信仰を継続することができない。その意味で、信仰初期は脆弱な時期であると言える。これは統一教会に限らず、多くの宗教における回心者の経験することであろう。しかし、教会の中で過ごす期間が長くなってくると、その中で培われた価値観や文化が大きな位置を占めるようになり、アイデンティティーは落ち着きを見せるようになる。個人差が大きいことは考慮しなければならないが、だいたいそれまでに数年かかるとみてよいだろう。

一方で、拉致監禁による強制棄教の被害に遭うのも信仰初期が多い。入信してしばらくすると、信者は両親に自分の信仰を告白することになる。祝福を受ければ、結婚の報告をしたり許可をもらったりするために信仰を明かす必要も出てくるだろう。親は驚き慌て、牧師や弁護士などに相談することになる。そこから脱会説得を決行するまでのプロセスが入信後数年以内に起こるケースが多いのは、親から見れば手遅れにならないうちに何とかしなければならないという動機があるためだ。20代前半で伝道されたとすれば、まだ親が元気で影響力があり、子供の信仰も確立されておらず、祝福を受けて家庭を持つ前に決行しなければならないと考えれば、そんなに長く待っていられないのである。櫻井氏の調査対象は脱会説得による棄教者がほとんどなので、二番目の理由が大きく働いていると思われる。

続いて櫻井氏は、伝道されて二年を経過して信者として残っているものは数パーセントだったというバーカー博士の研究を紹介して、日本における状況もこれと同じようなものであると推察している。バーカー博士が実際に示した数字は4%であり、私自身が著書「統一教会の検証」で提示した日本の数字は3.5%である。その意味でこの部分に関する櫻井氏の分析は正しいと言えるだろう。10年以上信仰継続する者の割合が1~2%程度ではないかという分析も、それほど外れていないだろう。しかし、その数値の評価に関する以下の記述は、論理性と実証性を欠くものであると言わざるを得ない。
「こうした数値から、従来、宗教社会学では、バーカーをはじめとして統一教会によるマインド・コントロールの影響は抗いようがないものではなかったと結論づけた。それに対して、統一教会を批判する日本の弁護士達は、その一、二パーセントの人達が深く統一教会に囚われ、霊感商法等の違法活動に従事させられ、なおかつ合同結婚式といった選択の余地のない結婚により著しく人権が侵害されている点を問題にした。確かに、最後の一、二パーセントの人達は統一教会の幹部になれば生活保障をはじめとする恩恵に与れるが、その数倍に達する一般信者は生涯尽くし続けるだけの信仰生活を送ることになる。この点をどう評価するか。」(p.214)

統一教会に反対する日本の弁護士たちの議論は、論点のすり替えまたは混同である。そもそもバーカー博士の研究は、統一教会の修練会に洗脳の疑惑がかけられていたため、その効果を科学的に計測するために社会学的調査を行ったものである。これは客観的な数値に関わる問題であり、人権侵害の問題とはそもそも関係がない。その結論は、統一教会に入信した人々は強制によってではなく自らの選択で信仰を持つようになったということであり、その信仰の真偽・善悪に関しては判断を差し控え、価値中立的な立場に立った科学的研究なのである。そこに弁護士たちは自らの価値観を持ち込んで批判しているわけだ。

次に、最終的に統一教会に残った「一、二パーセントの人達」が人権侵害を受けているという点について、あたかも自明のことであるかのように述べているが、それに対する証明は何らなされていない。統一教会の信仰を持っている現役信者にインタビューを行い、その過半数が「教会の中で人権を侵害されていると感じている」と答えたのであれば、こうした主張はできると思われるが、そのようなことは一切行われていない。むしろ、統一教会自体が信徒たちに対して行った「幸福度調査」によれば、統一教会信者の幸福度は平均よりも高いという結果が出ている。

弁護士らが「人権侵害」を訴える根拠は、統一教会に青春を奪われたと主張する元信者らが、教会を相手取って損害賠償訴訟を起こし、その一部が勝訴しているという点である。これは本人が「人権侵害」を自覚している事例だが、その原告の数は1991年に提訴された東京の裁判までの合計が174名であり、その後の第二次札幌青春裁判の原告63名のうち元信者が40名であることから、総数は237名となる。そのうち、勝訴したのは108名であり、残りは敗訴または和解である。これを統一教会の信者数である公称60万人で割れば、告発したものが、0.039%、勝訴したものは0.018%にしかならない。信者の実数に近いとされる7万人で割っても、告発したものが、0.34%、勝訴したものは0.15%にしかならない。櫻井氏は別著『カルトを問い直す』の中で、統一教会が拉致監禁の被害者数として5000名を主張している(実際には世界日報の記事に過ぎない)わりに、そのうち告発された事件は30例に満たず、1%以下の割合に過ぎないことから、「事例数が少なすぎる」と批判しているが、その論法で言えば人権侵害を受けたと主張する元統一教会員の割合も、「事例数が少なすぎる」と言える程度のものなのである。

要するに、統一教会の信者は自分の意思で入信を決意し、教会の中で一定の満足と幸福を感じているからそこに留まっているということである。しかし、その中のごく一部の人々が親族によって拉致監禁されて信仰を失い、統一教会を相手取って民事訴訟を起こした。しかしその数は、訴えた者も勝訴した者も、統一教会全体の信者数に比べれば1%にも満たないということなのである。

さて、櫻井氏は統一教会の幹部は生活保障をはじめとする恩恵に与っているが、その数倍に達する一般信者は生涯尽くし続けるだけの信仰生活を送っていると主張する。いったい彼は、いかなる資料や数値的根拠に基づいてこれを言っているのであろうか? そもそも統一教会の幹部とは誰を指すのか、彼は明確にしていない。統一教会の職員は「幹部」よりも広い概念と言えるが、その中核が教会長や教区長などの役職のついた「牧会者」と呼ばれる人々であり、その上に全国の会長がいて、本部の職員がいる。果たしてこれらの人々は統一教会の特権階級なのであろうか? もしそれを主張したいのであれば、櫻井氏は統一教会の職員の給料や待遇に関するデータを数値で示し、それが一般信徒の生活と比べてどのような特典があるのかを明らかにすべきであろう。実際には、統一教会の牧会者や職員の生活こそ、「生涯尽くし続ける」生活である。そして、牧会者であろうと一般信徒であろうと、「生涯尽くし続ける」生活は、信仰者としての理想の姿である。

最後に細かい点をいくつか指摘しておく。櫻井氏は「入信者は教団のセミナー、トレーニングを経て、五七・九パーセントが献身するに至った。しかも、伝道から入信へは平均五ヶ月、入信から献身へは平均七ヶ月しか要していない。短期集中型の信者養成システムである。」(p.215)と述べている。しかし、回心の起こる速度や生活の変化の度合いが洗脳説を裏付ける根拠にならないことは、既にこのシリーズの第56回で述べたとおりである。短期集中型の信者養成システム自体は善でも悪でもない。

また櫻井氏は「統一教会信者の信仰生活は、教団の介入で始められ、家族の介入で終わるパターンとして理解できる」(p.215-6)と述べているが、これはあくまで説得によって脱会した元信者のパターンに過ぎず、統一教会信者の信仰生活のパターンではない。実際には多くの人々が数十年にわたって信仰を維持し、生涯信仰を継続するのである。統一教会の信仰を「いつかは脱会するもの」として描いている櫻井氏の分析は、極端な偏見もしくは悪意に基づいていると言えるだろう。

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ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳08


第2章(1)

統一運動の神学は、このグループの性と結婚に対する理解に思想的枠組みを提供している。このグループにとっての神学の重要性は、いくつかの点で明らかである。(注1)第一に、メンバー候補者や新しいメンバーに対してなされる講義は、その性格において本質的に神学的であり、それは古いメンバーのための修練会やセミナーにおいても同様である。第二に、この運動は1975年にニューヨーク州ベリータウンに神学大学院を設立している。第三に、本研究において行われたすべてのインタビューは、メンバーの性と結婚の理解において神学が決定的な役割を果たしていることを示唆している。そして最後に、ユートピア主義的性格を持つ新興の社会運動においては、一般的にイデオロギーそのものが重要なファクターであると信じるに足る理由があるからである。(注2)しかしながら、神学がこの運動において高く評価されているとはいえ、それが信奉している考えは「(社会学的な)真実ではなく、理想化として認識されなければならない」(注3)ということを指摘しておくのは重要である。さらに、神学的な考えは統一教会の性と結婚に対する理解を、それらを実現する上で適切な社会的役割を伴って規定し承認する働きをするが、この洞察はメンバーが彼らの役割を本質的に神学的でない理由によって実現する可能性を排除するものではない。

本章の目的は、統一神学における性と結婚の中心的な位置を明らかにすることである。したがって、これから述べることは統一思想全体の解説であるとさえ理解されるべきではない。むしろ、私のしたことは、その主要な教義の中に性と結婚に関わる構成要素が内在していることを強調するようなやり方で、それらを分析することである。

統一神学は、性と結婚がその神、創造、堕落、そして復帰の教義の不可欠な部分であるという点において、過去および現代のキリスト教神学の中でもユニークである。したがって、統一教会の神学者はより主要な神学的モチーフから派生させた性に関する神学を形成する必要がなかった。むしろ、性と結婚は、神の被造世界に対する計画と目的に関するこの運動の基本的な理解の中に、本来的に備わっているのである。

統一運動の神学は、相互に関わり合う創造、堕落、復帰の三つの教義からなる三部構造として理解するのが最適である。以下に、人間の性および結婚の経験の意義という観点から、それぞれの教義について説明する。この解釈の基本資料は、「ブラウン・ブック」と呼ばれている『原理講論』(注4)であり、これがこの運動の主要な神学的論文であることは疑いがない。解釈学的には、私は運動のメンバーによって共有された解釈上の提案と視点に従った。この神学的記述は、文師の説教やその他の関連する一次資料を参照することによって肉付けされ補足されるであろう。これはこの運動の自身の神学に対する理解を提示しようとするものであるため、私は意図的にすべての批判的で分析的なコメントを脚注に置くことにした。

創造に関する教義

原理講論によれば、神に関する知識は、被造物に関する知識にしっかりと基づいている。それはロマ書1章20節のパウロの言葉を参照して、「作品を見てその作者の性稟を知ることができるように、この被造万物を見ることによって神の神性を知ることができるのである。」(注5)と述べている。神の性質はおもに二種類の「二性性相」として被造物の中に表れている。第一の、そしてより根本的な二性性相は形状もしくは「外形」および性相もしくは「内性」からなっており、前者は後者に似ており、後者が原因で前者が結果である。結果としての外形は対象の位置にあるのに対して、内性は原因として、主体の位置を占める。内性である心の外形が体がであるのと類比的に、宇宙は内性としての神の外形なのである。

第二の二性性相は陽性と陰性からなり、それは内性と外形と同様に、常に動的な相互依存関係をもって存在している。人間の生活においては、この二性性相は男(陽性であり主体)と女(陰性であり対象)として理解されている。男性と女性は相対的存在なので、両者はお互いにとって不可欠な存在であり、存在論的に彼らは同じ価値を持っている。さらに、易経と道徳経の精神に基づき、「男性には女性性相が、女性には男性性相が各々潜在しているのである。」(注6)

被造物における二性性相に対するこうした理解に基づき、神の性質に関して以下のような結論が提示されている:
「神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体であると同時に、本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体としておられ、被造世界に対しては、性相的な男性格主体としていまし給うという事実を知ることができる。」(注7)

神の本性相もしくは神の心は、情、知、意、および観念と法則を含むが、その最も本質的な属性は、「対象を愛し、また一つになろうとする情的な衝動」(注8)であると定義される「心情」である。一方で、神の「外形」(本形状)の本質的属性は、質料と万有原力である。

すべての被造物は神の二性性相を反映しており、神の実体対象であると見られている。人間は神のかたちとして創られ、「形象的実体対象」と呼ばれるのに対して、万物は「象徴的実体対象」と呼ばれる。(注9)したがって被造世界は神に対して形状的女性格対象として立つ。「神は性相的な男性格主体であられるので、我々は神を父と呼んで、その格位を表示するのである。」(注10)

(注1)運動のメンバーによる未発表の調査において、彼女自身がメンバーであるノーラ・スパージンは、彼女に回答した者たちの59.4%が、その神学に魅力を感じたので運動に加わることを決断したと報告している(ノーラ・スパージン「統一教会員の心理社会学的プロフィール」[未発表の原稿、1976年])。テキサス大学の二人の社会学者の研究は、彼らがインタビューした「かなりの割合の」メンバーは、神学的な理由で入会したと報告している。(デビッド・G・ブロムリーとアンソン・D・シュウプ, Jr. 「たった数年がい一生のようだ:宗教運動への加入の役割理論アプローチ」、ルイス・クリーズバーグ[編]『社会運動の調査』第2巻に掲載、p.171)
(注2)カンター『献身と共同体:社会学的視点から見たコミューンとユートピア』、pp.32-57.
(注3)前掲書、p.54
(注4)世界基督教統一神霊協会『原理講論』(ワシントンDC、1973年)
(注5)前掲書、p.20
(注6)前掲書、p.21
(注7)前掲書、p.25.この一節によって、統一神学が認識論的に類比法(via analogia)を採っているが明らかになる。それは構造においてトマス主義に似ているが、被造物の側面(例えば、内的と外的、男性と女性)を中心としており、道教の哲学においてより典型的にみられるものである。
(注8)世界基督教統一神霊協会『統一原理解説:レベル4』(ニューヨーク:1980年)、p.13。この本は『原理講論』のアップデート版であり、教育を目的としたより効果的な道具として企画されているように見える。
(注9)前掲書、p.13
(注10)『原理講論』p.25

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』61


櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第61回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

櫻井氏は「献身した信者」の仕事内容として、典型的な移動経路を「ある献身者(女性)の配属先と業務」というタイトルで掲載している。(p.212-13)経歴を見る限りでは、この元信者は筆者とほぼ同世代であり、6500双の韓日祝福を受けた女性信者であったと思われる。櫻井氏は彼女の脱会の経緯に関して、以下のような興味深い記述をしている。
「本データにおいて自然脱会は一例のみだから、信仰生活の活動を継続している途中でどのようにして脱会したのかが問題となろう。結論的に言えば、家族との話し合いによって統一教会の活動実態を知り、脱会した。」「子供が祝福に参加するべく渡韓のためのパスポート申請が必要になり、戸籍抄本を求めに来たり、あるいは両親の理解を得ようと帰省したりした折に、家族が徹底した話し合いの機会を元信者に求め、彼らは応じた。」「元信者達が受けた脱会カウンセリングの中身、及びその方法に関わる議論は別著で既に論じた(櫻井 二〇〇六a)。ここれは統一教会の信仰生活が突然断念されるという形で終結したことのみを確認しておきたい。」(いずれもp.213)

ここで櫻井氏が「別著」と表現したのは、このブログの第52回で紹介した、『「カルト」を問い直す』(2006年、中公新書ラクレ)である。統一教会を離れた元信者で、自身の拉致監禁体験をブログでつづった故・宿谷麻子さんが、この著作における櫻井氏の記述を批判していたことは既に紹介した。そこで、この「別著」の第3章「宗教をやめない自由vs.やめさせる自由――脱会カウンセリングへの告発」の内容をしばらく検証することを通して、身体の拘束を伴う説得による「脱会」の問題に関して櫻井氏がどのようの考えているのかを分析することにする。

櫻井氏は、統一教会信者が自分を監禁して脱会説得を行った両親や牧師を訴えた民事訴訟に関して基本的な事実を抑えており、少なくとも裁判所が違法性ありと認めた脱会説得のケースがあることを承知している。しかし一方で、「拉致監禁ではなく保護説得だ」という両親の側の主張をそれに対置させ、「本章では、どちらが正しいというような判断はしない。」(「『カルト』を問い直す」p.81)と述べ、あたかも中立的で客観的な立場であるかのように装っている。そして拉致監禁の事実を報告したジャーナリストの室生忠氏や米本和広氏の報告に対しては終始批判的に取り上げ、自分は「室生が原告の心情や立場を縷々代弁したような形で、被告側の事情を代弁することはしない。」(同書p.92)とまで言っている。しかし、実際には櫻井氏の記述は明らかに「宗教をやめさせる側」である両親に感情移入し、その心情や立場を縷々代弁するような内容になっている。

櫻井氏は、妻を拉致監禁されたアメリカ人の統一教会信者であるクリス・アントール氏(彼は筆者の知人であり、監禁の被害者である夫人にも会ったことがある)が主張する「信教の自由」に対して、日本における統一教会の違法伝道と霊感商法の問題によってこれを相殺しようとしている。そして、クリスは好青年だと持ち上げておきながら、「彼も教団に翻弄される信者の一人なのだろう」(同書p.98)という、いかにも上から目線の偏見に満ちたコメントをしているのである。

彼の脱会カウンセリングに対する最も率直なコメントは以下のようなものである。
「脱会カウンセリングの外形的側面(脱会させるための手段)に注目すれば、家族とはいえ、信者を拘束していることに間違いない。ただし、その目的は、原告に信者をやめてもらうことだけであり、その説得によって被告となった家族が金銭的報酬を得たり、原告に何らかの奉仕や返礼を期待したりするわけではない。原告に人並みの幸せを得てほしいと望んでいるに過ぎない。それは原告の宗教に対する無理解であると言えばその通りである。」(同書p.101)

櫻井氏は、動機が金銭的報酬、奉仕、返礼に対する期待でなければ、「信者をやめてもらいたい」という願望を成就するために、親が子供の身体を拘束して説得することが正当化されるとでも言いたいのであろうか? それは単なる「宗教に対する無理解」を超えており、信教の自由に対する侵害であることを、敢えて櫻井氏は認めようとしない。

さらに櫻井氏は、統一教会信者が親や牧師を訴えた民事訴訟の事例は、最終的に脱会しないという選択をした信者の事例なので、「この結果から言えば、『強制棄教』させられたものはいない。」(同書p.100)という奇妙な論理を展開している。これは言葉の遊びにすぎない。結果的に信仰を棄てようと保とうと、身体を拘束された状態で「棄教を強要された」という事実に変わりはなく、それ自体が違法であることにも変わりはない。

しかし櫻井氏の論法によれば、信仰を棄てた人々は「話し合い」の結果として「脱会」の選択を自己決定したことになり、信仰を棄てなかった人は結局脱会しなかったのだから「強制棄教」は成り立たないことになってしまう。これはいずれの場合にも「強制棄教」という概念を成り立たなくするための詭弁にすぎない。問題は結果として信仰を棄てたか保ったかではなく、説得のための手段が身体の拘束を伴う違法なものであるという事実であることに、櫻井氏は敢えて目をつぶろうとしているのである。ある人を拉致監禁して脱会説得を開始する時点では、その人が脱会するかどうかは分からない。その同じ行為が、首尾よく脱会すれば「自己決定」であり合法であり、逃げ出して親を訴えれば「棄教の強要」であり違法であるとすれば、同じ行為の法的評価が180度異なることになってしまう。これは反対派をして、「逃げ出して訴えられると裁判で負けてしまうので、信仰を棄てるまで監禁し続けなければならない。脱会してしまえば監禁も合法だ」という発想をさせる、危険な論理である。

櫻井氏は、「強制棄教」によって教会をやめた元信者たちが、なぜ家族を「拉致監禁」「強制棄教」の容疑で訴えないのかという無理な注文をして、そんなものは存在しないのだと強弁する。しかし、彼らは家族によって説得され、最終的には屈服した者たちなのだから、その家族を訴えるなどということは力関係から言ってもあり得ない。さらに統一教会が主張する拉致監禁のケースが数千件に及ぶわりには、家族や牧師を告発したケースが少なすぎることを挙げて、「事例が少なすぎるのではないか」(同書p.101)と難癖をつける。しかし、自分の両親を訴えるということは、勇気のいることであり、裁判となればお金も時間も労力もかかるうえに、それによって個人的に得るものは非常に少ない。私は両親や牧師を訴えた拉致監禁の被害者たちに直接会って話した経験を多く持つが、彼らが多くの時間と労力を投入して、傷付きながらも裁判で戦ったその動機は、自分と同じような体験をする人がこれ以上増えないようにという「公的精神」に基づく義憤であった。自分のことだけを考えていたら、敢えて裁判を起こすことはなかったであろう。拉致監禁のトラウマで傷付いて精神的に立ち上がれないような人や、そんなことは忘れてしまいたいと思うような人は、そもそも裁判を起こさないのである。櫻井氏の主張は、監禁という心の傷を残す体験をした人に対するデリカシーがあまりにもなさすぎる。

櫻井氏は、親族に身体を拘束されて棄教の説得を受けるという全く同じ体験をしたにもかかわらず、それに対して真逆の評価した2人の著作を取り上げている。一方は脱会して統一教会を告発した南哲史氏の著作『マインド・コントロールされていた私――統一協会脱会者の手記』(1996年、日本基督教団出版社)であり、もう一方は信仰を貫いて監禁から脱出した小出浩久氏の著作『人さらいからの脱出――違法監禁に二年間耐えぬいた医師の証言』(1996年、光言社)である。櫻井氏は、この二つの著作のどちらを支持するのかという問いに対して、「筆者は統一教会に批判的な立場に立つ以上、南の主張を最終的には支持する」(p.109)と述べ、小出氏の体験に対しては、一応リアルなものとして「否定することはできない」という消極的な態度である。

最終的に櫻井氏はこの問題を、「一般読者にとって、どちらの議論に正当性を認めるかは、畢竟、統一教会という教団への評価如何によるのではないか。研究者、ジャーナリストといっても、この問題に対して何ら特権的地位から客観的評価を下せるものではない。」(同書p.114)という不可知論・相対論に棚上げして逃げている。そして自分は統一教会に対して否定的な評価をしているから、「拉致監禁」や「強制棄教」を認めない立場なのだと開き直る。挙句の果てには、室生氏や米本氏が提示した「信教の自由」や人権の概念を抽象論として切って捨てる始末である。これは極論すれば、自分が否定的な評価をした団体の信者に対しては、人権や信教の自由が侵害されているという主張を、その否定的な評価の故に否認することができると言っているに等しい。人権や信教の自由は本来普遍的な概念であり、所属している団体の評判が善かろうが悪かろうが、すべての人が享受すべき基本的な権利であることを、櫻井氏は事実上否定していることになる。

こうした複雑な議論を本書『統一教会』の中で展開すれば、統一教会信者が身体的拘束を受けて脱会説得されている事実を読者に知らせなければならない。それは統一教会を利することになるばかりか、統一教会を糾弾する論調が鈍る恐れがあるため、櫻井氏はあえて本書の中では詳細を避け、「家族との話し合い」とか「信仰生活が突然断念されるという形で終結したことのみを確認しておきたい」といったような抽象的な表現で済ませているのである。

しかし、このシリーズの第53回で明らかにしたように、櫻井氏の調査対象の中には、自らが文字通りの「監禁」を伴う脱会説得によって教会を離れたことを裁判の場ではっきりと認めている者が最低でも5名は含まれているのである。そして、櫻井氏の調査対象となった札幌「青春を返せ」裁判の原告に限って言えば、全体の86%が物理的な拘束を受けて脱会したことを証言の中で認めており、軟禁も含めれば全員が何らかの意味で拘束された状態で脱会を決意した者たちなのである。こうした都合の悪い事実には蓋をして、脱会の経緯に関しては抽象論で済ませ、「家族との話し合い」で済ませるのが櫻井氏の手法である。「研究者、ジャーナリストといっても、この問題に対して何ら特権的地位から客観的評価を下せるものではない」というのが櫻井氏の主張なので、批判的な立場で論じている自分の立ち位置としては、「これでいいのだ!」というわけだ。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳07


第1章(5)

因果律の問題に加えて、この仮定の三つの重要な言葉をさらに明確化する必要がある。「性(Sexuality)」という言葉は厳密な生物学的意味で使われているわけではなく、また例えば性交のような特定の性的活動のみを指しているのではない。むしろ、私がこの言葉を使うときには、人間の実存に「現実の」結果をもたらす、あらゆる種類の感情、価値観、および行動を包含している。性(sexuality)の定義そのものではないが、以下の文章は我々の仮説において用いるときのこの言葉の意味をよく表現している:
「性(Sexuality)は、人間が社会に影響を与え、また社会から影響を与えられるときの感情、思考、および行動の全体的構造を含んでいる。我々はみな自分自身を男性として、また女性として見るし、我々は社会的にも感情的にも自身の性的役割分担に影響され、性的で生殖的なパターンを形成する。セックスは例えば食事のような他の基本行動とは異なり、延期したり避けたりすることができると論じる人々もいる。しかしながら、性交をせずに生きている人々であったとしても、その他の方法で性的であることを避けることはできない。食事との比較は良い例である。人は肉を食べなくても、一日に一食でも五食でも生きていけるが、それでも食べなければならない。人々は彼らの性を制限したり拡大したりするかもしれないが、それでも彼らは性的なのである」(注22)

このように我々は、性(sexality)というものが人間の実存にとって決定的な性質であり、その表現は必然的にあらゆる所与の社会の構造および規範の影響を受けると仮定する。

社会学的概念として、『結婚』は以下のことを示している:
「・・・社会によって承認された配偶関係、とりわけ夫と妻の関係の取り決めを含み、家庭の社会的機能にとって不可欠な権利と義務の制度の中でその関係を承認する社会機構である。一般的に、公的に行われるなんらかの儀式が新しく結婚したカップルの地位を社会に対して告知し、またそれがその新しい地位に対する社会的な承認と支持を意味する。」(注23)

さらに、本研究において結婚とは、現代の西洋世界におけるそれと同様に本質的に二者間のものであり、一夫一婦制の配偶構造を指すのであるが、これから見るように、統一運動における結婚の機能は社会全般において機能しているものとはかなり異なっているのである。

社会現象としての献身に関する社会学的研究はごくわずかしかないが、おそらくそれはこの言葉が第一に心理学的な性格を持つものであるととらえられているためであろう。ロザベス・モス・カンターが19世紀のユートピア主義共同体の研究のためにこの概念を操作可能なものとすることに成功したのであるが、我々は彼女の以下のような理解を厳密に順守するであろう。
「ある人があるグループやある関係に献身しているのは、彼自身がそれに完全に投入されており、彼自身の内的存在の維持がその社会秩序を支持する行動を必要とするときである。献身的な人は、忠実であり夢中になっている。彼は帰属意識を持っており、そのグループが彼自身の延長であり、また彼がグループの延長であるという感情を持っている。献身によって、人とグループは表裏一体となる。」(注24)

献身に対するこの視点は、グループのイデオロギーに対する個人の賛同だけでなく、彼または彼女がその社会システムに残ろうとする意欲と、グループの他のメンバーとの間に積極的な情の絆を形成しようとする意欲をも含んでいるという点において包括的である。性と結婚に対する統一教会のアプローチが、このような献身の形成にどのように作用しているかが、この研究の残りの部分を通して取り組まれる主要な理論的疑問である。

この研究のデータは、三つのむしろ標準的な質的方法を手段として得られた:(1)すべての入手可能な文書資料の慎重で批判的な研究;(2)42名の統一運動のメンバーと8名の元メンバーに対する構造的インタビュー(注25);および(3)さまざまなグループ活動に従事しているメンバーの観察。これら三つの方法が情報を生み出し、その情報が分析され評価されたとき、この研究の実証的基礎となった。

第2章から第6章まではデータに基づいており、おもに性と結婚に対する統一運動のアプローチを明瞭かつ正確に記述することを意図している。第2章がこのアプローチの神学的基礎を確立しているのに対して、続く4つの章は、婚前交渉と同性愛に関する価値観、態度、および慣習(第3章)、運動における男女の役割分担(第4章)、サクラメントとしてのマッチングの儀式の準備と参加(第5章)、および統一教会のカップルにとっての約婚と結婚という生きられた経験(第6章)を扱う。第7章は、関連する社会学的理論
の枠組身の中でのデータの分析と、調査結果の要約を提供する。最終章は個人的な性格の章であるが、統一運動における結婚の将来についての考察と、統一教会の結婚の理想が現代アメリカ社会に対して持つ妥当性について扱っている。

(注22)ミルトン・ダイヤモンドとアーロ・カレン「性的決定」(ボストン:リトル・ブラウン・アンド・カンパニー、1980年)、p.8
(注23)『社会学百科事典』(ギルフォード、コネティカット州:ダッシュキン出版グループ、1974年)、pp.165-166
(注24)ロザベス・モス・カンター『献身と共同体:社会学的視点から見たコミューンとユートピア』(ケンブリッジ、マサチューセッツ州:ハーバード大学出版、1972年)、p.67
(注25)統一教会信者に対するインタビューは、おもに東海岸における三つの主要な統一教会のセンターで行われ、独身のメンバーと結婚したカップルの両方が含まれていた。ある個人やカップルは二回、ときには三回インタビューを受けた。本文におけるインタビュー対象者の名前はすべて仮名である。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』60


櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第60回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

図6-6 櫻井氏は本章の「4 イベントの時間的経緯」の中で、調査対象となった信者たちの「入信時の年齢」を棒グラフにした図6-6を示し、入信時の年齢が20代に集中していることを根拠に、「こうしてみると統一教会の信仰というのは若い世代特有のものだということがわかる。壮婦の事例は統一教会系列会社の商品を購入した人が信者になるとい副次的なコースであり、統一教会はあくまでも祝福に連なる若い人達を求めていた。しかし、これは近年変化し、伝道と資金調達を一挙に行うために中高年主婦を対象とした姓名判断・・家系図鑑定の伝道方法にかなり力がそそがれるようになった。」(p.211)という分析を行っている。前回は、櫻井氏の情報源となった母集団自体が、青年層にある程度限定される本質的特徴を持っており、統一教会全体のデータから見れば偏ったものであることを指摘したが、今回はそこから敷衍した彼の分析、すなわち統一教会の青年信者と壮年壮婦の間に価値的な序列をつけ、壮年壮婦は価値がない副次的な存在であるかのような結論に対して反論することにする。これは統一教会の歴史を紐解くことによって分かる。

文鮮明師に従った韓国の初期の弟子たちの中には、既成教会で重要な枠割を果たしていた中年の婦人たちやお婆さんも多く含まれており、草創期の韓国統一教会は全体として若者ばかりの宗教というわけではなかった。梨花女子大の若い学生たちが多く入教したときでさえ、当時大学の教授をしていた年配の女性たちも同時に入教したのである。

統一教会草創期に韓国で行われた祝福式には既婚の壮年壮婦が「既成家庭」として参加していたし、日本統一教会の最も古い祝福双にも既成家庭がいるように、もともと統一教会は若者だけを対象にした宗教ではなかったし、祝福を受けるのも若者だけではなかったのである。したがって、教義神学の面から言って、統一教会の伝道対象者は未婚の若者だけではない。年配の既婚者も祝福を受けることは最初から可能だったのである。

しかしながら、教義信条の面において万人に対して救いの道が開かれているということと、事実として一つの教団に若者が多く集まっているということは全く別の問題である。前者は神学的な問題で、後者はより現実的な集団の特性の問題である。とりわけ西洋と日本においては、初期の統一教会信者となった人々は多くが若者たちであったということもまた事実である。櫻井氏の誤りは、現実的な集団の特性を教義信条の問題にまで拡大解釈して信仰の本質を歪めているところにある。

図6-6は、入信するときの年齢層が10代後半から20代前半に集中していることを示しているが、これはアイリーン・バーカー博士の研究した初期のイギリス統一教会と似たような状況である。バーカー博士が研究していた当時、イギリスの統一教会に入教するメンバーの平均年齢は23歳であった。そして1978年における英国と米国のフルタイムのムーニーの平均年齢は26歳であり、1982年の初めの英国の会員の平均年齢は28歳だったということなので、イギリスの統一教会はまさに「若者の宗教」だったわけである。日本でも「親泣かせ原理運動」と叩かれた時代には大学生が多く伝道されたし、1980年代にも多くの若者が入教した。これは統一教会が宗教として若者たちを惹きつける魅力を持っていたということであろう。バーカー博士は、西洋の若者たちが統一教会のような宗教に魅かれていく理由を以下のように説明している。
「青春は理想主義と、反抗と、実験の時代である。たまたま恵まれた中産階級の出身であれば、理想を追求しながら、自分自身に対して贅沢を禁止するという贅沢をするだけの余裕がある。青年期の健康を享受し、差し迫った責任からも解放されていれば、物質的な利益を放棄することができる。それは少なくとも、その人がばかげた幻想を捨てるぐらいまで『成熟』し、落ちついて、伝統的な社会の営みや価値観を受け入れ、そして恐らくそれらを支持するまでの間であるが。」(「ムーニーの成り立ち」第十章「結論」より)

バーカー博士は、理想主義的な若者がムーニーになる動機をやや批判的に突き放してとらえているが、これは西洋における初期の統一教会がちょうど青年のような「若い宗教」であり、エネルギーにあふれてはいたが、まだまだ組織としては未熟であったためである。実際には、理想主義的な青年たちが成熟してくれば、「ばかげた幻想」を捨ててしまうのではなく、信仰の核心部分は維持しつつ、教会全体も社会との関係において成熟していき、個々の信徒たちも大人になっていくのである。

日本統一教会においても、初期は若者たちが多かったものの、1980年代以降に壮年壮婦と呼ばれる層が増えてきたのは、統一教会が教団として成長し、成熟した大人さえも魅了し包容することのできる団体になったことを示しているのであり、決して櫻井氏の言うような資金調達を目的とした副次的なコースなどではない。それでも、まだまだ統一教会は勢いのある若い宗教である。そのエネルギーが若者たちを魅了し続ける限り、これからも10代後半から20代前半の若者たちが伝道され続けるであろう。すべての世代の人々にとって魅力的であることが教団としての理想の姿である。

櫻井氏は「信仰には加齢効果が認められ、若い人よりは中高年期に信仰を持ち始めるのが一般的である。・・・肉体的に頑健で自分の力と自分の将来を信じられる若い世代は、願うよりは実践する。近現代において理想主義的な若者は宗教運動よりもイデオロギー運動に身を投じたものだ。」(p.211)というが、理想主義的な若者たちを魅了する宗教運動も存在し、宗教運動に魅力を感じるようなタイプの若者たちもまた存在するのだという事実を彼は見落としている。日本の伝統宗教や新宗教に加齢効果が見られるからと言って、それをすべての新宗教に当てはめることはできないし、若者が多いことを統一教会に特有の現象であると断ずることもできない。事実、西洋では若者たちがなぜ新宗教に魅力を感じて入信するのかに関するさまざまな議論がなされてきたのである。その代表的な研究が、バーカー博士の「ムーニーの成り立ち」であった。

図6-7 櫻井氏は、調査対象となった信者たちの「伝道から入信までの期間」を棒グラフにした図6-7を示し、「勧誘されてから統一教会の信者となることを決意するまでの期間は人様々だが、四ヶ月間が突出して多い」とし、「これは、統一教会が教団名をライフトレーニングにおいて被勧誘者に初めて明かし、将来献身することを誓わせるフォーデーズセミナーまでの期間である。学生の場合は卒業までに時間がかかることもあり、決意表明を短期間に迫られることはないが、独身の社会人の場合は短期間に決意させることを目標にしたプログラムが組まれる」(p.211)と説明している。

図6-8 櫻井氏は、調査対象となった信者たちの「入信から献身までの期間」を棒グラフにした図6-8を示し、「入信から献身を決意するまでの期間を見ると、これは数ヶ月から1年間、複数年まで散らばりがある」としている。

どうやら櫻井氏は、統一教会への伝道・入信・献身までの期間が極めて短いことを理由に、信仰の獲得が本人の主体的な意思ではなく、プログラムや説得による受動的なものであると言いたいようである。これは統一教会への回心が「洗脳」や「マインド・コントロール」という非難を浴びてきた理由とほぼ同じである。すなわち、外部の世界との接触や情報が制限された環境の中で、極めて短期間のうちに入会していることから、大事な決断をさせるのに十分な時間と情報を与えていないのではないかということだ。

実際には、入会に至るまでの時間の長さは地域によって大きく異なる。バーカー博士によれば、「オークランド・ファミリー」と呼ばれるカリフォルニアの運動では、大部分のメンバーが運動に出会って、2~3週間以内に入会しており、しかもその間は修練会にどっぷりと浸かっていたという。それに比べれば4ヶ月という日本の最短コースは十分に長いとも言えるし、社会人であれば職場に通いながらのトレーニングであるため、外部の世界との接触が完全に分断されているわけではないという意味では「ゆるい」とさえ言えるではないだろうか?

櫻井氏は「献身することを誓わせる」「決意表明を短期間に迫られる」「短期間に決意させる」といった表現を多用することによって、あたかも伝道する側の思い通りに相手をコントロールできるかのような印象を与えようとしているが、結果としての入信までの期間や献身までの期間に大きなばらつきがあることは、それほど思い通りにコントロールできわけではなく、最終的には本人次第なのだということを物語っている。

1983年に原理研究会で伝道された筆者の場合、霊の親に出会ったのが5月で、しばらく週一回のペースでビデオを聴講し、7月に7日修、8月に新人研、9月には入教というCARPの新入生伝道を絵に描いたような「最短コース」をたどり、4カ月で下宿を引き払ってホームに移り住む入教生活を始めた。だからといって、私は何かを決意させられたとか、迫られたとは感じなかった。入信までの期間が短い人は、それだけ本人が納得していたということであり、長い時間がかかった人は、納得するのに時間がかかったというだけのことである。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳06


第1章(4)

統一運動もまた、19世紀の先駆者たちのように、アメリカの伝統からすれば際立った、独自の複雑な性と結婚に対するアプローチを形成した。上記のルカ伝の聖句(訳注:「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、かの世にはいって死人からの復活にあずかるにふさわしい者たちは、めとったり、とついだりすることはない。」<ルカ20:34-35>)に対するその解釈によれば、イエスが意図したことは、「彼の時が来るまで」、復活の状態において結婚はないということであった。もしイエスがユダヤの指導者たちによって拒絶されて十字架にかからなかったならば、彼は弟子たちの永遠の結婚を祝福し、それが地上に神の国を実現するための要石となったであろう。これが起こらなかったため、そのような結婚を実現することは、ほとんどの統一教会信徒が再臨主として崇めている、文鮮明の仕事となったのである。これらの祝福された関係は、モルモンと同様に、完全な救いにとって不可欠なものであり、これから見るように、神と世界の救済者としての宗教共同体の目的に奉仕するために主に機能しているのである。

本研究の主要な目的は、統一運動における性と結婚について事実に基づいた「客観的な」説明を行い、それがグループ内でどのように機能しているかに関して、実行可能な社会学的説明を提供することにある。我々の記述は、統一教会の神学の社会学的な意味を大いに強調するであろう。この思想的な構成要素をもっぱら独立した変数または原因としてのみとらえることは誤りであろうが、この研究が基礎としている証拠が強く示唆しているのは、統一教会の信徒たちにとっての神学的拘束力というものは、アメリカ社会の主流の宗教団体や教派におけるそれよりも、もっと重要であるということだ。

統一運動の性と結婚に対するアプローチは、それ自体が世の中の議論の的になるものではないが、神学的・歴史的・社会学的に見て、このグループの最も顕著な特徴である。そのうえ、メンバーの視点からすれば、それは彼らのムーニーとしての「生きられた経験」(注17)の最も意義深い側面の一つなのである。さらに、統一教会員の生活のこの側面に関する学問的調査は、たとえあったとしてもほんのわずかしか行われていない。(注18)そして、最後に、私の調査データは、このグループがメンバーの献身を維持し強化する能力は、何らかの方法でその性と結婚に関わる慣習と密接な関係にあることを示唆しているのである。

この研究を始めるに当たって、統一運動における性と結婚に関していまだ重要な研究がなされていないという事実を踏まえ(注19)、私は「一連の特定の仮説を持って状況に入っていくことは、状況に対して先入観を、そしておそらくは誤解を押し付けることである」(注20)というボグダンとタイラーの警告に留意するのが適切であると決断した。実際においては、私はデータそのものから仮説を出現させる方法を選んだ。その時点で入手可能な関連する文献資料を注意深く研究し、統一教会のメンバーと三日間にわたって形式ばらない議論をしたところ、社会学的視点から、グループの性と結婚に対するアプローチの重要性を、メンバーの献身を維持し持続させるという現在進行中の作業の観点から調べることが有益である、ということが明らかになり始めた。そのような作業を最小限成就することは、いかなる人間集団においても、そして特に統一運動のように新しくて社会学的に逸脱した団体においては不可欠であると仮定して、私は以下のような仮説を立てた:統一運動の性と結婚に対するアプローチは、メンバーの献身を維持し強化するうえで極めて有効である。

本研究において用いられている質的方法論の性質を踏まえ、この仮説は性および結婚に関する慣習とメンバーの献身との間に厳格な因果関係を示唆するつもりはない。むしろ、「極めて有効である」という表現は、統一運動のメンバーの視点から見て、また調査データ全体を踏まえて、グループの性および結婚に関する慣習は(それに根拠を与える宗教的信念と共に)メンバーのグループへの依存を高め、グループ外部との有意義な関与の選択肢を排除し、そして統一運動に対する彼らの献身を強化するような社会的役割へと彼らを導いているように見える、という意味で取られるべきである。(注21)

(注17)ここで用いられている「生きられた経験」(Erlebnis)とは、ヴィルヘルム・ディルタイに由来する専門用語である。彼はそれを、人間の外的表現と内的生活の間に存在する「統合」のことであると理解した。ディルタイによれば、「他者に関するすべての知識が依拠している根本的プロセスは、我々の内的生活を自身の周囲の対象に投影することであり、我々自身と構造において類似した精神生活をそうした対象に帰属させることである。」(H・A・ホッジス『ヴィルヘルム・ディルタイの哲学』[ロンドン:ルートレッジとケイガン・ポール、1952]、P.63)。もしディルタイが正しければ、統一運動のメンバーたちの思想と行動を理解する可能性は、「Erlebnis」の普遍性にかかっている。
(注18)「宗教的回心の心理社会学的分析」(M・ダロル・ブライアントとハーバート・W・リチャードソン[編]『考察すべき時』[ニューヨークとトロント:エドウィン・メレン出版、1978]に掲載、pp.82-130)と題する小論の中で、リチャード・デマリアはこの運動における性に関する態度と実践について簡潔に論じている。ジョセフ・フィッチャーの「結婚、家庭、および文鮮明」(雑誌「America」141[1979年10月27日]:226-228)もまた、この話題に関する短い概観を提示している。これら二つの記事は更なる研究のためのいくつかの興味深い提案をしているが、いずれも綿密な実証的調査に基づくものではない。
(注19)統一運動に関してなされた仕事がわずかであることに加えて、文献を注意深く調査することによって明らかになったことは、新宗教における性は、これらのグループがこの点においてアメリカ社会全般とどこか異なっているにもかかわらず、一般的にもあまり注意深く研究されてこなかったということである。これまでに現れた信頼できる研究は二つだけである:ジェームズ・T・リチャードソン、メアリー・W・スチュワート、ロバート・B・シモンズ『組織化された奇跡:現代の若者共同体による根本主義組織』(ニュー・ブルンスウィック、ニュージャージー:トランザクション・ブックス、1979年)、特に第5章;;ロイ・ワリス「救いと抗議」(ニューヨーク:聖マーチン出版、1979年)の第5章「性、結婚、および神の子供たち」
(注20)ロバート・ボグダンとスティーブン・J・タイラー『質的調査方法概論:社会科学への現象学的アプローチ』(ニューヨーク:ジョン・ウェスレー・アンド・サンズ、1975年)、P.27
(注21)ジョン・ロフランド「社会的環境の分析:質的観察と分析の手引き」(ベルモント、カリフォルニア:ワドスウォース出版社、1971年)、pp.59-71における、質的調査者にとっての因果律の代替としての「予備的憶測」に関する秀逸な議論を参照のこと。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』59


櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第59回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

櫻井氏は本章の「4 イベントの時間的経緯」の中で、統一教会信者の信仰に関わる主要な出来事を、①伝道を受けてから入信し、回心へ至るまでの過程、②信仰を強化して祝福を受けるまでの過程、③祝福後の信仰生活――に三分して分析している。この分類自体は妥当なものであり、この部分は客観的な事実やデータの記述が多いのではあるが、ところどころに櫻井氏自身の主観的コメントが書き加えられているので、不適切な部分に関しては指摘したいと思う。

図6-5 櫻井氏は調査対象となった信者たちの「初めて伝道された年」を棒グラフにした図6-5を示し、「裁判資料にある元信者は伝道を受けた年が一九八〇年代、筆者の聞き取り調査を受けた元信者は一九九〇年代が主である。一九八七年から九一年までに伝道され、入信した元信者が多い」(p.209)と分析し、1980年代末と1990年代初頭が統一教会で伝道が進んだピークだったと認識している。脱会者と現役信者の伝道された年が分布的に一致するかどうかは疑わしいが、既にこのブログ(第25回)でも検証したように、統一教会の伝道のピークがほぼこの時代であったことは事実のようである。図6-5に示された「初めて伝道された年」は、1979年から1997年まで18年間にまたがっており、筆者から見れば先輩と後輩の両方がいることになるが、ピークの部分は筆者よりもすこし後輩にあたる。

櫻井氏はここで、統一教会との邂逅に関する次のような興味深い逸話を披瀝している。
「ちなみに筆者の教え子が札幌郊外の支笏湖の施設でツーデーズに参加し、直後に筆者にどうしたらよいかという手紙を書いてよこしたのが一九九二年だった。」(p.209)
宗教学者である櫻井氏が、それまで統一教会について全く知らなかったということはないであろう。事実、櫻井氏は著書の中で大学のキャンパス内で活動する原理研究会のメンバーを目撃したと書いている。しかし、自分の教え子が伝道されるという最初の具体的な出会いが、櫻井氏の統一教会理解に大きな影響を与えたことは想像に難くない。客観的な研究対象としての統一教会ではなく、「教え子をカルトから救い出さなければならない」というより具体的な問題解決の対象としての統一教会に最初に出会ったということである。このことに関して、櫻井氏は別の著作である『大学のカルト対策』(2012年、北海道大学出版会 )の中で以下のように述べている。
「私がカルト問題に取り組むきっかけとなったのは、北星学園の短大で学生に教えていて、その短大を離れた後に、教え子が統一教会に入ったという連絡があり、どうしたらよいだろうという相談を受けたことです。私は社会学や倫理学という授業科目において宗教関連のことを教えていましたし、学生は必修科目としてキリスト教学を履修し、出席を取る礼拝や講話においてキリスト教の素養を持っていたはずなのですが、こうした学生がなぜ統一教会に入っていったのかと非常に気にかかったことがあります。・・・公立大学よりもミッション系の大学でカルトに入る学生は少なくないですね」(「大学のカルト対策」p.218-219)。

1992年は3万双の国際合同結婚式があり、マスメディアを通して統一教会が非常に有名になった年である。その年に教え子が統一教会に伝道されるという経験を櫻井氏はしている。その翌年には3万双で祝福を受けた山崎浩子さんが統一教会を脱会し、記者会見で「私はマインド・コントロールされていました」と発言した。こうした身の回りに起きたさまざまな出来事が重なって、櫻井氏は研究者として統一教会に対する関心を高めていったと思われる。櫻井氏は1996年9月に國學院大学で行われた日本宗教学会の「第55回学術大会」において、「変貌する新宗教集団と地域社会ー天地正教を事例として」と題する発表を行っており、同じテーマの論文を「新宗教教団の形成と地域社会との葛藤――天地正教を事例に――」と題して1998年に学術誌『宗教研究』317号に掲載している。テーマが「天地正教」とはいえ、統一教会について詳しく知っていなければ書けない内容である。1992年に教え子が伝道されるという事件をきっかけに、櫻井氏が統一教会問題に本格的に取り組むようなった流れが理解できるであろう。

図6-6 櫻井氏は調査対象となった信者たちの「入信時の年齢」を棒グラフにした図6-6を示し、「入信時の年齢は高校生からが一名いるほかは、大学の初年度か短期大学の学生時代であり、その後は社会人になった後の二〇代が多い。二〇代後半から三〇代には子育て時期の主婦が壮婦として入信した事例がある。男性は二〇代前後で入信しなければその後あまり入信する機会はない。社会人になると仕事で多忙になるからだ。」(p.210-11)と分析している。ここまではほぼ客観的なデータの分析といえるが、これはあくまで櫻井氏の調査対象となった元信者に関して言えることであり、「こうしてみると統一教会の信仰というのは若い世代特有のものだということがわかる」(p.211)というような、統一教会全体の分析として一般化できるかどうかは疑問である。

なぜなら、櫻井氏の調査対象者においては、横浜、札幌、新潟、東京、奈良、福岡などで「青春を返せ」裁判を起こした原告が66名中53名を占めているからである。しかも、そのうち89%が成年信者であり、11%が壮婦である。これが統一教会全体の人口構成と一致しているのか、もしずれているとすればその原因はなぜなのかを分析しない限りは、社会学的にはこのデータを母集団として統一教会全体の年齢分布についての結論を下すことはできないはずである。しかし櫻井氏はそれを全くせず、脱会した元信者のデータをもとにして統一教会全体についての分析を行っているのである。それでは櫻井氏の調査対象者の何が問題なのだろうか?
「青春を返せ」裁判というのは広報のためのニックネームであり、裁判上は「損害賠償請求訴訟」であるから、法的には年配者であってもこうした訴訟を起こすことは可能である。しかし、「青春を返せ」という裁判を年配になってから統一教会に入信した人が起こすのは、ネーミングからすればはばかられるであろう。若い時期に伝道されたからこそ、「青春を返せ」という訴えができるのである。しかも、裁判の原告のほとんどは親から反対を受けて脱会を決意した人々である。宗教の問題に親が干渉してやめさせるような年代層というのは、やはり20代くらいまでの若い世代となるのではないだろうか。すなわち、櫻井氏の情報源となった母集団自体が、青年層にある程度限定される本質的特徴を持っているのであり、統一教会全体のデータから見れば「はずれ値」である可能性が極めて高いのである。こうした偏ったデータをもとに、「統一教会の信仰というのは若い世代特有のものだ」というような結論を出すのは、社会学者としてはデータの分析の仕方が甘いとしか言いようがない。

彼はこうした偏ったデータをもとに、さらに敷衍した分析を行っている。櫻井氏は、通常は信仰には加齢効果が認められ、日本の既成宗教や新宗教においては青年期よりも中高年期に信仰を持ち始めるのが一般的であるにもかかわらず、統一教会の信仰は若い世代特有のものである点を強調する。それを根拠に、「壮婦の事例は統一教会系列会社の商品を購入した人が信者になるとい副次的なコースであり、統一教会はあくまでも祝福に連なる若い人達を求めていた。しかし、これは近年変化し、伝道と資金調達を一挙に行うために中高年主婦を対象とした姓名判断・家系図鑑定の伝道方法にかなり力がそそがれるようになった。」(p.211)と論理を展開するのである。

ここでも櫻井氏は、統一教会の青年信者と壮年壮婦の間に価値的な序列をつけ、壮年壮婦には価値がない副次的なものであるかのように論じているが、これは事実に反する。このことに関しては、次回詳しく論じることにする。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳05


第1章(3)

長年にわたって宗教と社会と性の関係について調査した結果、私は宗教が持つ非常に重要な社会機能のひとつが、結婚生活が人間の共同体のさまざまなニーズに役立つように、結婚生活における性的表現を形成する役割であるという確信を持つようになった。この「形成」が、個人をグループに適合させ、「真正な」メンバーとしての彼または彼女の活動をコントロールするプロセスを促進するのである。性と社会の関係に関するオーソドックスなフロイト的視点を選ぶのではなく、私は以下のことを主張する。そしてこれらは本研究の基本的な前提となっている。
(1)そのメンバーの性や結婚に関する生活をコントロールすることのできる社会やグループは、彼らの生活全般をも相当にコントロールすることができる。
(2)歴史的にみて宗教的信仰の形成は、共同体がそのメンバーの性と結婚に関する活動を規制するための最も効果的な手段であることが証明されている。(注10)

性的規範に根拠を与えるために宗教を用いることはすべての主要な文明において観察することができるが(注11)、社会学的および社会心理学的な力学は、19世紀のアメリカに出現したユートピア的共同体において最も顕著である。これらのグループのうちの三つを大まかに観察するだけで、いかに宗教が各共同体の性と結婚に関する規範に根拠を与えていたかを示すには十分であろう。それは、続いて行われる統一運動の調査のための歴史的背景をも提供するであろう。

19世紀のセクト主義者たちは地上に神の国を実現するための彼ら自身の独特な方法を追求したため、彼らはより広いアメリカ社会から極端に逸脱していた。彼らの生活の革命的指向性のために伝統的な拘束力を剥奪してしまったので、彼らはグループの一体性、そして究極的には生き残りにとって不可欠な強い献身を獲得するために、自身の宗教的イデオロギーに強く依存した。ローレンス・フォスターは洞察力のある方法で、問題となっている三つのグループ(シェイカーズ、オナイダ完全主義者、およびモルモン)のすべてが、ルカ伝20章27~40節を彼らの結婚に対する非正統的なアプローチの聖書的根拠として引用している点を指摘した。(注12)その聖句そのものは、サドカイ人によって提起された仮定の状況に関する問題を扱っている。ある女性の夫が死に、彼女はモーセの律法による「レビレート婚」(訳者注:子がなくて夫と死別した妻は、血筋を絶やさないために夫の兄弟と結婚するという古代イスラエルの慣習)に従って義理の弟と結婚したが、彼もまた死んでしまった。レビレート婚は夫の弟が死ぬたびに何度も繰り返して適用され、その後に女自身も死んでしまった。イエスに対する質問は、来世においてその女は誰の妻になるのかというものであった。彼の答えは巧みであると同時に曖昧であった。
「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、かの世にはいって死人からの復活にあずかるにふさわしい者たちは、めとったり、とついだりすることはない。」(注13)

アン・リー(1736‐1784)

アン・リー(1736‐1784)

シェイカー教徒たち

シェイカー教徒たち

伝統的なキリスト教の解釈に従って、アン・リー(訳注:シェイカーの女性リーダー:1736~1784)とシェイカー教徒たちは、復活した状態では性的関係も結婚もないであろうということをイエスは意図していたと解釈したが、彼らはその上に、真のクリスチャンは天国のモデルに従い、地上では生涯独身生活を実践すべきだと主張した。この後半の洞察がシェイカー共同体に対して、メンバーが利己主義と罪を克服した勝利の主要なシンボルとしての独身生活というモデルを提供した。フォスターは以下のように説明している。
「彼らの独身システムを定めるに当たって、シェイカー教徒たちは自身を神の拡大家族の一員であるとみなした。彼らは『ファミリー』と呼ばれる共同体を作って生活し、そこでは約30~150名からなる男女が一つ屋根の下に住みながらも、すべての活動において注意深く分けられていた。階層的で少数独裁の家庭型の父権主義によって統治され、シェイカーは通常の家庭生活から性的で個人主義的な愛着を取り除いてしまい、彼らの共同体と神に対して完全な忠誠を捧げることができるようにしたのである。」(注14)

ジョン・ハンフリー・ノイズ(1811-1886)

ジョン・ハンフリー・ノイズ(1811-1886)

1865~1875年頃のオナイダ・コミュニティ

1865~1875年頃のオナイダ・コミュニティ

シェイカーと同様に、オナイダ完全主義者たちも「ジャクソン流民主主義」(訳注:米国大統領アンドリュー・ジャクソン<任期:1829~1837>とその支持者の政治哲学のこと。資産階級よりもあらゆる白人男性に参政権を与える政策を打ち出した。)の時代の国家を特徴づけた個人主義に対して否定的な反応を示した。しかし、アン・リーとは異なり、ジョン・ハンフリー・ノイズ(訳注:オナイダ・コミュニティの創設者:1811~1886)はルカ伝20章34~35節においてイエスは復活した状態において結婚が廃止されるであろうということだけを意図したのであって、性的関係そのものの廃止を意図したのではないと主張した。この世の結婚における律法主義的で私事化された関係は天国には存在せず、ノイズの見解においては、そのような絆はすべての聖人の間にみられる普遍的で平等主義的な愛の表現に反するため、この地上にも存在すべきでないものであった。さらに、ノイズの全体的または完全な愛という概念は、天国においても地上においても、肉体的表現の可能性をも包含しなければならなかった。この理想を実現するために、オナイダは物議を醸しだしたが組織的には成功した「複合婚」を実行したのである。
「彼らの『各自が全員と結婚するコミュニティ・ホーム』においては、すべてのメンバーが一つ屋根の下に住み、共に食べ共に働き、日々の宗教および事業のミーティングに参加し、すべての排他的な性的愛着を排除してしまったのである。さまざまな非公式でありながら厳重な制御機構によって生じた制度が、メンバーの主要な忠誠心を共同体および神に集中させ続けることを保証していた。」(注15)

ジョセフ・スミスと初期のモルモン教徒

ジョセフ・スミスと初期のモルモン教徒

「現代の啓示」から生じた、ルカ伝20章34~35節の第三の解釈は、ジョセフ・スミスの指導に従った初期のモルモンに見出すことができる。彼らは、いかなる結婚も来世においては「承認されない」であろうということをイエスは意味したに過ぎないと解釈した。天国において持続する唯一の結婚は、モルモンの司祭職によって公認を受けた結婚だけだということである。このグループにとっては:
「最善の男たちの家庭において多くの義なる子孫を育てることが、結婚の主要目的であった。ヘブライ人の族長たちの慣習に基づいた一夫多妻制は、モルモンの家父長的な指導者たちが最も大きな家庭を持つことを可能にし、それによって彼らは、地においても天においても、最高の地位と権力を手にしたのであった。この複雑な家庭イデオロギーにより、モルモン教徒たちは結果的に多くに西部山間部に入植することに成功し、彼らの共同体および神に対する忠誠心の具体的な証拠を示したのである。」(注16)

(注10)マックス・ウェーバー「宗教社会学」(ボストン:ビーコン・プレス、1964年)pp.236-242の、この現象に関する短いが説得力ある分析を参照のこと。
(注11)最も良い単一の資料は、ジオフェリー・パーリンダ―「世界の諸宗教における性」(ニューヨーク:オックスフォード大学出版、1980)
(注12)ローレンス・フォスター「宗教と性」pp.15-17
(注13)ルカ20:34-35
(注14)ローレンス・フォスター「宗教と性」pp.16
(注15)前掲書p.16
(注16)前掲書p.17

カテゴリー: ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』58


櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第58回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

櫻井氏は本章の「3 入信の経緯と信者のライフコース」の中で、青年信者と壮婦の大きく二つに分けてそれぞれのライフコースを簡略に示しているが、同じ未婚の青年でも、「大学のキャンパスにおいて原理研究会に勧誘された学生の場合、青年信者と異なる点は、大学卒業まで統一教会の事業専従者になることが引き延ばされている点と、経済活動(訪問形式や各種展示会の物販)に従事させられることが少ないという点である。」(p.206)と述べている。筆者は「大学のキャンパスにおいて原理研究会に勧誘された学生」に属するわけだが、これは学生時代に教会で伝道された青年でも同じであろう。草創期ならともかく、1980年代以降において統一教会の信仰を受け入れた大学生が学業を放棄するように勧められたり、実際に放棄したりした例がそれほど多いとは思えない。筆者の場合にも大学は無事に卒業したが、教会の青年部では大学を中退しているという話は当時も今も聞いたことがない。原理研究会であるなしに関わらず、学生は大学を卒業するまでは進路の問題は引き延ばされているのが普通である。そして大学を卒業した際に、一般企業に就職して信仰を継続するか、統一運動関連の企業に就職するかは、最終的には個々の信者の判断に任されている。

実は原理研究会を通して教会に出会った者と、櫻井氏の提示している青年信者のライフコースの間には、卒業するまで進路の問題が先延ばしにされていることのほかにも、かなり大きな違いがある。櫻井が典型的なライフコースの中で提示しているさまざまな出来事を、筆者は体験していない。「ツーデーズセミナー」は原理研究会にもあったが、「上級ツーデーズセミナー」「ライフトレーニング」「フォーデーズセミナー」「新生トレーニング」「実践トレーニング」などのプロセスは、原理研究会には存在しないものであった。したがって、筆者はこれらがどのようなものであるかを実体験では知らないが、そうしたものが存在したことは知っており、櫻井氏の調査対象となった元信者たちがそれらを体験したことは事実と認めてよいであろう。ただし、これらを通過しなければ統一教会の信者になれないということはないし、祝福が受けられないということもない。これらは日本統一教会全体の典型的なパターンというよりは、ある時代のある組織におけるイベントの記述と考えた方がよさそうだ。

青年信者のライフコースに出てくるこうしたイベントが存在することは事実としても、櫻井氏の記述には多くの表現上の問題と事実の誤認がある。表現上の問題とは、要するに受動態の表現を敢えて多用しているという点にある。例えば、「アンケートをとられる」「面会約束を取り付けられる」「受講することを勧められる」「献身を迫られる」などの表現だが、これらは別に「アンケートに答える」「面会約束をする」「受講することを了承する」「献身を決意する」でもよさそうなものだ。それを敢えて受動態で表現しているところに、本人の主体的な意思で決断したという表現を極力避けたいという櫻井氏の異常なまでの神経の使い方が伺える。事実の記述にまでイデオロギー的な含意が盛り込まれていると言えるだろう。

代表的な事実誤認は、「⑪本部教会員となり、教団から指令された任地へ向かう。」(p.207)という部分である。櫻井氏の調査対象となった元信者たちが、統一教会の本部教会員となったのは事実であろう。しかし、そのことと教団から指令された任地へ向かうこととの間には論理的な関連性はない。宗教法人の教会員として登録されるということは、信者になったということ、すなわち信仰上の所属を決定したということであって、職業上の雇用関係が発生したり、指揮命令関係が生じたということではない。事実、札幌「青春を返せ」裁判の原告となった元信者たちの中で、統一教会の職員として雇用されていた者はいない。教団が彼らを任地に派遣したと主張するのであれば、宗教法人が発行した辞令や人事発令の公文を示すべきであろう。

櫻井氏の調査対象となった元信者の人数は66名だが、青年信者のライフコースとして示されている①から⑬のイベントのすべてを経験した元信者は2名のみであるという。たった2名で典型的なパターンと言えるのか疑問ではあるが、そもそも祝福を受けた者が66名中24名しかいなかったということであるから、彼らは信仰の比較的初期の段階で脱会したために、すべてを経験していない者が多いという解釈は可能である。こうした初期の頃には、教会の組織や実態に関して幅広く正確な知識を有していない場合が多い。彼らの証言に価値がないとは言わないが、極めて限定された知識と理解を持った調査対象から得た情報をもとに、統一教会全体を分析しようとする櫻井氏の手法には限界があり、一面的で偏った描写となっていることは指摘しておかなければならない。

一方、壮婦のライフコースに関する櫻井氏の記述は偏見に満ちている。まず、入口を手相・姓名判断、家系図鑑定などに限定しているが、実際の位置口はもっと多様であり、時代や地域によって入り口はさまざまである。吉相の印鑑、高麗人参茶、高麗大理石壺、多宝塔、弥勒像、あるいは宝飾品・絵画等の商品の販売は統一教会の事業ではなく、連絡協議会の傘下にあった企業が販売していたものだが、いずれもかなり古い時代のものである。こうした商品の購入をきっかけに信仰を持つようになった人がいたことは事実であろうが、それを典型的なライフコースと位置付けるのは言い過ぎであると思われる。

事実としてのライフコースよりも、壮婦の信仰生活の価値に対する櫻井氏の記述はほとんど侮辱とも言えるほど問題の多いものとなっている。以下に引用する。
「壮婦の場合は、青年信者と異なり、祝福後新しい家庭を出発することが実際にないので、信者としてのライフコースに大きな転換はない。統一教会の献身者という身分で専従職員の業務を担うこともなければ、祝福家庭という評価(原罪のない子を生めるという特権等)を得ることもなく、従来通りの奉仕する信仰生活を生涯求められることになる。あがりのない双六のようなライフコースともいえる。しかも、世俗の交わりをした罪深い身にもかかわらず、文鮮明の恩寵によって祝福に加わることが許されたのだからということで、青年信者よりもいっそうの献身と奉仕が求められる。」(p.208-9)

これほど誤解と偏見に満ちた「壮婦」に対する理解があるだろうかと、あきれてしまうような記述である。統一教会の壮婦が青年信者に比べて価値的に劣る存在であり、特権や評価を得ることがないという櫻井氏の理解は根本的に間違っている。統一教会では結婚してからみ言葉を聞いて伝道された壮年壮婦を価値ある存在として認識しており、青年信者との間に優劣は存在しない。むしろ、社会経験が豊富で実力のある壮年壮婦は教会の発展に貢献する存在として大切にされているのである。

実際には壮婦のライフコースには大きな転換点が存在する。それは「夫復帰」と祝福である。女性が最初に伝道されるケースが多く、統一教会における究極の救いは「祝福」にあるので、信仰を持った壮婦は誰もが自分の夫を伝道することを決意することになる。必ずしもすべての夫が妻の信仰を受け入れるわけではなく、実際には厳しいケースが多いのであるが、粘り強く夫に自分の信仰を説明し、最終的に夫を伝道する壮婦は多数存在するのである。夫婦が信仰を持つようになれば、一定の「聖別期間」(夫婦生活を自粛する期間)を経て「既成祝福」を受けるというのが壮婦の理想的なライフコースなのだが、櫻井氏の記述にはこれが完全に欠落している。さらには祝福前に生まれた子供たちも伝道して祝福に導くことや、祝福後に子供を生んで「祝福二世」を生み出すことなど、壮婦の信仰生活も多くの価値あるイベントに満ちており、それが信仰の励みになっているのである。こうした道を順調に歩んだ壮婦は、祝福家庭としての評価を受け、原罪のない子供を生み、さらには婦人代表として牧会者を支えたり、婦人信者のまとめ役をしたりして生き生きと活躍している者が多い。統一教会の壮婦は極めて元気でパワフルな人々であり、櫻井氏の描写するような虐げられた悲惨な信仰生活を送っているわけではない。

櫻井氏は「奉仕する信仰生活を生涯求められる」とか、「献身と奉仕が求められる」という、またしても受動態の表現を壮婦に用いて、それが悲惨なものであるかのように描いているが、そもそも壮婦であると青年であるとに関わらず、献身と奉仕こそが信仰生活の基本姿勢であり、理想である。それは強いられてやるのではなく、宗教的な動機に基づいて主体的に行うものである。献身と奉仕という宗教的な美徳に対してこのような表現しかできないということは、櫻井氏は宗教学者でありながら、根本的な宗教音痴なのではないかと疑いたくなってくる。このような歪んだ表現しかできない理由は、櫻井氏が現役の統一教会信者の壮婦に会って調査を行うという基本的な作業をしていないからである。「悲惨な壮婦」は現実の姿ではなく、裁判資料の歪んだ描写を素材として櫻井氏の頭の中で生み出された想像の産物に過ぎないのである。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』