書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』97


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第97回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 第93回から、第六章「四‐二 清平の修練会」に関する櫻井氏の記述に関連する内容として、「霊感商法」と「天地正教」と「清平役事」の関係について、相違点と共通点、連続性と非連続性の両面から4回にわたって考察を行ってきた。これは櫻井氏のテキストの逐語的な批判という本来の「書評」の目的からすれば「寄り道」や「逸脱」であったかも知れないが、寄り道ついでにもう一つの櫻井氏の批判の観点について掘り下げて考察してみたいと思う。その観点とは、清平修練会の特異な環境と一種の異常心理状態である。

 櫻井氏のこうした批判の観点は、以下のような記述の中に見いだすことができる。
「夜中までの説教や役事、粗食、シャワー・雑魚寝で長期間を過ごす清平修練会は体力的にきついものと思われる」(p.288)
「壇上には興奮した(霊に憑かれた)若手の信者が上がって踊りだしたり、精神的に不安定な人が泣き叫んだり、まさに悪霊が飛び交ってでもいるような情景が現出する。従軍慰安婦の霊がよく女性信者に憑いたという。」(p.297)
「夜中の二時三時まで数時間にわたって語り続け、信者はその言葉に感情を揺さぶられながら聞き続けるのだ」(p.298)
「筆者がインタビューを行った高齢の元信者は、2001年には4回、2002年にも4回の修練会に参加し、役事を受けている。彼女の思考の枠組みが、清平の修練会に参加する信者同様、霊界における先祖の苦しみ、悪霊の障り、役事による霊界への働きかけ、そのための献金、信仰生活という具合に固定化され、ここから逃れることは困難だったろうことが推測される。清平での生活は、滞在期間中を通して儀礼に参加しているのも同然であり、その儀礼においては悪霊や霊界の働きが、極めてビジュアルな形で統一教会によって現出され、それを信じ切る同信の信者数千名の集団的感応が元信者達にも及んでいた。統一教会における実践的な信仰とは、霊界への恐怖に動機づけられて、教団本部の指示に従うことである。」(p.300)

 櫻井氏がこうした批判の中で言いたいことは、清平の修練会は統一教会が人工的に作り出した特殊な環境であり、それは信者の中に一種の異常心理状態を作り出すことによって信仰を強化したり維持したりする装置なのだということだ。こうした主張は、統一教会を元信者らが訴えた民事訴訟の中でもなされたことがある。その主張においては、清平の修練会は「人為的に『霊体験』を参加者に引き起こすためのものであり、そのことによって、参加者の統一協会的人格をあと戻りが不可能なものに深化させるためのものである」とか、「変性意識状態(ASC)を意図的に作り出し、禅に言う『魔境』=一種の幻覚体験を意図的に作り出すための装置なのである」といったことが述べられ、心理学の権威を借りて清平の修練会の異常性を立証しようという試みがなされた。こうした「えせ心理学」の主張が裁判において功を奏することはなかったが、一種特殊な宗教的修行の環境やそこで起こる現象に対して違和感や嫌悪感を感じる人々にとっては、こうした主張は一定の説得力を持つ可能性がある。そこでこれからしばらく、宗教的修行と「異常心理」の問題について掘り下げて考えてみたい。

 本題である宗教的修行と「異常心理」の問題に入る前に、大前提としての清平修練会の環境について、客観的な事実を押さえておきたい。そもそも宗教的修行というものは、それが自発的に行われるものである限り、いかに肉体的に過酷なものであっても非難されるいわれはない。しかし、これは私自身も参加したことがあるので自信を持って言えるのだが、清平の修練会は客観的に見て、それほど肉体的に過酷なものであるとは言えない。

 裁判において過酷さの根拠としてよく主張されるのが「睡眠時間の短さ」だが、櫻井氏が掲載している修練会のスケジュール表でも、睡眠時間は6時間が取られている。これは裁判に提出された証拠資料でも同様である。はたして一日6時間という睡眠時間はそれほど短いと言えるのであろうか。NHKが2015年に行った国民生活時間調査によると、日本人の平均睡眠時間は平日で7時間15分であり、年代別では30代男性が6時間59分、40代男性が6時間50分、40代女性が6時間41分、50代女性が6時間31分と、働き盛りの男性と中年の女性は特に睡眠時間が短いという結果が得られた。これらの平均睡眠時間と6時間の間にはそれほど大きな開きはない。

 よく、理想の睡眠時間として「1日8時間」という数字があげられるが、これは医学的根拠があるわけではなく、多くの人の睡眠時間が6~9時間の間という統計から出された平均的な睡眠時間であり、あくまでも一つの目安にすぎない。睡眠時間にはかなりの個人差があり、6時間よりもっと少ない3~4時間の睡眠で十分な人もいれば、9時間以上の睡眠が必要な人もいる。

 これらのデータから、清平で一日6時間の睡眠を40日程度続けることは、とりたてて異常なこととは言えないことが分かる。睡眠時間は個人差が大きいものであるから、6時間睡眠でまったく平気な人もいれば、寝不足と感じる人もいるであろう。清平の修練会は、起床と就寝の時間こそ決まっているものの、毎日昼食後に90分間の「自我省察」と呼ばれる自由時間があり、週に一度は午後の時間がまるまる「自我省察」の時間に当てられている。眠気を感じる者は、こうした時間を利用して仮眠を取ることができるので、睡眠不足を解消することができるのである。

 また、「役事」と呼ばれる全身を手で叩く行為も、外形的に見れば軽い有酸素運動のようなものである。また、スケジュール中の「聖地祈祷」というのは、「祝福の木」と呼ばれる木が植えられている山の頂上まで、片道15分~20分程度の軽い登山をした後にお祈りをする行為である。美しい山の景色を見ながらの登山は、気分を爽快にしてくれる。加えて、清平修練会の食事は野菜中心の粗食であり、これらの組み合わせはメタボリック症候群に代表される生活習慣病を抱えた現代人にとっては、極めて健康的な生活である。実際に、清平の40日修練会に参加して減量に成功したとか、糖尿病が治ったという信者も多数存在する。このことは、統一教会を相手取って裁判を起こした元信者の陳述書にさえその根拠を発見することができる。こうした陳述書には、「何故、清平に行くと信者は元気になるのか」という項目があり、「実際に景色がとても綺麗だ」とした上で、「(または、科学的にも体を叩いて刺激を加えることは、血流を良くする効果等が多少あるのかもしれませんが)体が軽くなったように感じるようです」と述べ、最終的には「心も身体もリフレッシュして日本に戻ってくることになるのだと思います」と述べている。

 体と叩くといっても、実際には血行が良くなる程度のマッサージのような行為であり、激しい痛みを伴うものではない。これらの描写から浮かび上がってくる清平修練会の特徴は、人工的に恐怖体験を作り出すようなグロテスクなものではなく、美しい自然の中で健康的な生活を送りながら行われる、非常にすがすがしいものであるということが分かる。清平修練会に繰り返し多くの信者たちが参加する理由の一つは、こうした「リフレッシュ効果」にもあるのであり、これは定期的に禅寺に通って座禅を組み、心の垢を落とそうとする人々の動機と似通ったものであるといえるだろう。このような清平の修練会のあり方が、全体として過酷なものでも、社会的相当性を欠く異常なものでもないことは明らかである。

 ところが、櫻井氏は自分が実際に参与観察したわけではないこの「役事」を、想像力をたくましくして、異常な強さで叩くものであるかのように描こうとしている。そこで利用されたのが、宗教的儀礼として信者と叩いた結果、死に至らしめてしまったという「例外的な事件」に関する情報である。櫻井氏が著書の中であげている以下のケースは、清平の修練会とはまったく関係のない別の宗教の事例である。
「1995年、福島県須賀川市の女性祈祷師宅で信者6名の死体が発見され、信者の筋肉を壊死させるほど太鼓のバチで信者を殴打し続けた事件があった。事件の首謀者とされる祈祷師には2008年最高裁で死刑が確定した。この祈祷師に命じられて信者を叩き続けた信者もまた被害者というべきであり、祈祷中の異常な状況の中で悟性が働かなくなったものと思われる。」(p.300)

 櫻井氏は一応「清平の祈祷室ではここまでは至らなかった」と断ってはいるものの、まったく無関係の極端な事例をわざわざ挿入するあたりは、清平の修練会の実態をできるかぎり異常でグロテスクに描写しようという「印象操作」の意図があると思われる。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳43


第5章 祝福:準備とマッチング(12)

 この章で提示されたデータを分析する前に、最後の問題を議論する必要があるが、それはすなわちマッチングのプロセスに関わる恋愛感情の問題である。統一教会の理想は、マッチング以前には運動の内部に恋愛感情を伴う排他的な愛情表現が存在する余地はないというものである。あるメンバーが言ったように、恋愛感情は結婚の前ではなく、後に来るものである。(注68)この理想が必ずしも実現されないことは、とりわけグループが結婚相手の選択を完全に「お父様」に委ねる東洋的なやり方に近づいた1975年以降は、マッチングの際に明らかに分かるようになった。今日では、この問題に関しては文師の知恵を信頼するように、リーダーおよび同僚から相当のプレッシャーがある。にもかかわらず、マッチングを受ける前に恋に落ちるメンバーも実際にはいるのである。恐らく彼らは自分が熱をあげていることを秘密にしたまま、文師が自分の望む結婚相手と結んでくれることを望みながら、マッチングに行くであろう。これが起こらなかった場合には、恋に落ちた人は「お父様」が選んでくれた最初の人を、あるいは二人目の人でさえ「拒否」する傾向にある。ある男性のメンバーは、女性から断られた自分の経験について話してくれた。彼女が彼に示した理由は、彼らの間に7歳の年齢差があるというものだった。しかし、マッチング以前に彼女のことを知っていたので、彼は「・・・彼女には結ばれたい人がほかにいたのだ」(注69)ということに気付いていたのである。最終的にはこの女性は(彼女が自分の愛する人とマッチングされなかったと仮定すれば)文師によって選ばれたほかの誰かを受け入れたか、単にプロセス全体から離脱したかのどちらかである。愛が阻止されることは、人が運動を離れる決断をする一つの要因ともなってきた。(注70)

 聖別期間、祝福式、および結婚生活を第6章で論じた後に、われわれは第7章を統一運動における性と結婚に対する包括的な社会学的分析に費やすことになるであろう。われわれはここでは、マッチングの儀式のために準備し、それに参加することが、メンバーの献身を維持し強化するためのグループの努力にどのように作用するのかに関する、いくつかの予備的な観察を行うことにする。ブロムリーとシュウプは、統一運動への加入に関する役割受容プロセスの研究において、彼らが「相互作用的な全体主義」と呼んだものを、「互いに補強し合う、志を同じくする者同士が活動に集中すること」と定義し、「団結と献身の雰囲気を育成した」(注71)グループへの適応であると描写した。この全体主義は、メンバーとしての多様な役割の中で表現され、「個人が次第に巻き込まれていく一つの包括的なサブカルチャー」(注72)を作り出した。本章でわれわれは、統一教会員の信仰歴が2~3年になり、彼らの霊的・道徳的理想を実現するための神によって定められた機会としての結婚を期待するようになると、マッチングへの準備と参加が統一教会員たちの主要な関心事になることを示した。大部分において、メンバーたちが結果的にマッチングを受けて祝福されることにつながる役割を受容するとき、信仰と献身を維持する包括化のプロセスがさらに発達し強化されることは明らかである。以下においてわれわれは、メンバーの献身を強化する「求心性の社会要因」と、それを弱体化させる「求心性の社会要因」の両面から、包括化を議論するであろう。

 本章で提示されたデータは、個人のグループに対する関わりを維持し促進する6つの要因を指摘している。最初の現象は、統一運動の親族関係のネットワークに関わるものである。マッチングを受けるためには、メンバーは霊の子女を伝道して育てることが要求されている。したがって結婚のための個人の準備は、特定の若い兄弟姉妹との特別な関係を通して、グループと分かちがたく結びついているのである。さらにまた、そしてこれが非常に重要なのだが、聖酒式とその後の結婚を通して、メンバーの仮想の親族関係は真の父母および彼または彼女の相対者との「血縁関係」に変容するのである。後者に関しては、相対者は霊的にだけでなく、非常に具体的で社会的に受け入れられる意味において、夫または妻なのである。メンバーが結婚するとき、彼または彼女はおそらくグループに加入して以来初めて、統一教会の原理だけでなく、高い離婚率にも関わらずいまだにアメリカ社会全体で高く評価されている理想に適っているという感覚を経験する。(注73)(この親族関係の変容がグループの団結に対して持つ更なる含意は、第7章において論じられるであろう。)ここでは、統一教会の結婚が非常に現実的なやり方でメンバーを宗教共同体に結びつける絆であることに留意するだけで十分である。このことは、過去十年間にわたって統一運動を離れた数百名のメンバーの中で、マッチングと祝福を受けた者はごく僅かしかいないという事実によっても裏付けられている。(注74)

(注68)ケベドー「ライフスタイル」p. 8。
(注69)インタビュー:リギンズ氏
(注70)また一方で、ある人が彼または彼女が恋愛感情を抱いた誰かとマッチングされたときには、その結果は必ずしも運動のためにはならないが、そのことについては次の章で見ることにする。いずれにしても、社会集団の構造にとって恋愛感情が潜在的に破壊力になり得るというグードの理論は、統一運動の事例によって裏付けられている。ウィリアム・J・グード「愛の理論的重要性」『アメリカン・ソシオロジカル・レビュー』(第24号、2959)、pp. 38-47。
(注71)ブロムリーとシュウプ『たった数年・・・?』、P.175。
(注72)前掲書、p. 178。
(注73)相当数のメンバーが、マッチングを受けてまもなく実の両親との和解を果たすことができたと報告している。
(注74)著者は既にメンバーではない人々に関する公式的なデータを統一運動から入手することはできなかった。メンバーおよび元メンバーとの会話に基き、彼は以下の情報を得た。(1)数名の結婚した男性が運動を離れ、それと同時に彼らの妻を「見捨てた」。(2)また、子供のいるカップルが2~3組、例えば1970年代後半に起きた「韓国化」のような、特定の運動の方針に反対であるという理由で脱会した。(3)1969年に祝福を受けた13カップルの一部を除くほとんどが現在は(敵対的ではないものの)活動をしていないのだが、その理由を著者は知らない。

カテゴリー: ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』96


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第96回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 第93回から、第六章「四‐二 清平の修練会」に関する櫻井氏の記述に関連する内容として、「霊感商法」と「天地正教」と「清平役事」の関係についての考察を開始した。今回はその4回目である。先回から「霊感商法」および「天地正教」と「清平役事」との間にある共通点についての解説を開始し、第一のポイントとして「霊障からの解放」について述べたが、今回はその続きである。

(2)先祖の救いと解放
 私はかつて「霊感商法とは何だったのか?」という自身のブログのシリーズにおいて、「蕩減」と「因縁」の違いについて分析し、「先祖の因縁」が自分の家系に関心の中心を置いているのに対して、統一原理の「蕩減」はそれを超越するものであることを指摘した。『原理講論』に述べられている「蕩減」の概念は、われわれ自身の血統的な先祖に対してはさほどの関心を払っておらず、むしろ聖書に記されたアダム、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、イエスなどの歴史的な中心人物たちの成し遂げることのできなかった使命を果たすことに重点がおかれている。これらの人物はわれわれの血統的な先祖ではないが、神の摂理という観点からみたときに、われわれに先駆けて歩んだ「信仰の祖」としてとらえられているのである。

 『原理講論』における「蕩減」の概念は、私の家庭や血統的な先祖というレベルを超越して、全世界や歴史にまでその関心が及んでいる。これはもともと統一教会の理想自体が家庭の次元にとどまるものではなく、それを超えて社会、国家、世界の為に生き、人類が一つの家族として幸福に暮らす世界を目指しているためである。すなわち私の家庭は自分の血統的な先祖の供養や家族の幸福のみを追求するのではなく、より大きな共同体に奉仕する生き方をしなければならないと教えているのである。

 しかしながら、「霊感商法」や「天地正教」の関心は、もっぱら自分の血統的な先祖の解放と、それによる霊障の除去に置かれていた。これは、自己の血統圏を越えて、より広い社会、国家、世界にまで関心を持ち、統一原理のみ言葉に直接相対することのできないレベルの人々に対するアプローチを目的としていたためであった。

 清平役事は、『原理講論』の記述と比較すると、より自己の血統的な先祖に強い関心を抱いている。このことは、清平役事の出発点が先祖解怨式であったことに理由があると思われる。これは、統一食口になった後にも、自己の血統的問題のために悩み苦しみ、より大きな国家や世界に関心を持つことができない者が実際には多数いるためであり、そのような人々は、まず自己の血統的な問題を解決して楽になった後に、より公的な世界に関心を持つことができるようになるのである。
「先祖解怨式とは、祝福家庭の先祖の霊人体を絶対善霊にする役事である。」 (『成約時代の清平役事と祝福家庭の道』成和出版社、2000年、p.87)
「真の御父母様はその勝利圏によって復帰摂理を終結させ、清平役事を通して、まず祝福家庭の先祖解怨式をしてくださった。先祖解怨式というのは、罪悪歴史の終結であると同時に、新しい世界を開く血統転換式である。解怨された直系の先祖は、霊界の興進様の百日修練会を通して自犯罪、連帯罪、血統罪を精算し、光を放つ明るくて美しい善霊へと変わります。そして地上に降りて『霊人祝福』の恵みを受けて原罪を清算し、絶対善霊になる。この先祖は祝福家庭として40日間の家庭教育を受けて、天国にとどまることのできる創造本然の姿に生まれ変わって、地上の子孫が祝福を受けながら幸福に暮らせるように協助してくれるようになるのである。 (前掲書、p.96)

 清平の恵みに関する証しの中にも、興進様、大母様、訓母様が地獄にいる先祖たちを探しに行かれる場面や、泥沼の中で苦しみ、子孫が自分を捜して救ってくれることを待ち望む先祖の姿を幻の中で見た、という話が多数存在する。また、先祖たちが近くにいるよう感じ、その先祖たちが解怨をどれほど切実な思いで待ち焦がれているかを思った、というような証しも多数存在する。

 先祖に対する関心は、日本人の宗教性の中核部分をなすものである。したがって、直接の血統的先祖の解放を強調する清平役事は、日本土着の宗教的欲求にマッチしていると言える。日本から多くの食口たちが清平に訪れるのは、このためである。

(3)病気の癒し
 「霊石愛好会」が出版した『霊石の恵み』には、霊石を授かることによって、病気の治癒という恩恵を受けたことが体験談として綴られている。「天地正教」においても、病気の治癒は祈願の内容の重要な位置を占めていた。病気の治癒という「奇跡」は、東西を問わず、民衆の宗教の中心的なテーマであった。これは高度な倫理や形而上学的な神学を特徴とするエリートの宗教とは異なる、非常に具体的で分かりやすい大衆の恵みなのである。

 清平役事もまた、病気の治癒という具体的で分かりやすい恵みを前面に押し出している。按手によって霊が分立されて病気が治るほかにも、生命水や天神水の恵みによって病気が治癒するという証しも存在する。清平で病気が治ったという証しは数限りなくあり、出版された証し集はそのような事例で溢れている。

 このように、病気の治癒という具体的で分かりやすい恵みを前面に押し出した清平役事は、日本土着の宗教性とマッチし、日本における統一原理の土着化プロセスにおいて重要な役割を果たす可能性を持っている。

 統一教会は、土着化に失敗して宣教が進まないキリスト教の諸教派の中では、最も健闘している教団の一つである。その成功のポイントは、キリスト教信仰と東洋思想の融合にあり、特に家庭倫理や家族主義の強調と共に、先祖の救いという日本人の宗教性の中核部分に神学的な意義付けをなしたことにあった。

 しかしながら、このような融合にはプラスの側面だけでなく、マイナスの側面もあった。その代表例が「霊感商法」であり、私はこの現象を、統一原理の教えと日本の土着の宗教文化が融合することによって起こったシンクレティズムであると分析した。これは、統一原理の「蕩減」の概念を「先祖の因縁」に引き寄せて解釈することにより、その本来の意味を歪めてしまうという弊害も生み出した。

 「天地正教」は、「霊界商法」が日本において社会的批判を浴びた後に、「霊石愛好会」を経て創設された、弥勒信仰に基づく仏教教団であったが、これは本質的には統一原理の仏教的解釈と展開による土着化の試みであった。それは一定の成功を収める可能性を秘めていたが、結果的には1999年に消滅してしまった。しかしながら、先祖供養や霊障からの救いに代表されるような、土着の宗教的欲求に応えるための別の装置がそれに代わって準備されたわけではなかった。

 現在、「霊感商法」や「天地正教」を通して満たそうとした日本土着の宗教的欲求を現在満たしているのは、清平役事である。清平役事は、「霊感商法」や「天地正教」のように日本土着の宗教伝統と統一原理の習合の結果として生じたものではないし、これらとの間には直接的な因果関係はないが、それらが満たそうとしている宗教的欲求は非常に近いものであることをこれまで述べてきた。清平役事は、霊障からの解放、先祖の救いと解放、病気の癒しという特徴を持ち、これらは日本土着の宗教的欲求に応える内容を持っているのである。

 統一教会において、日本文化への土着化の要求が何によって満たされてきたのかを時系列的にまとめると、以下のようになる:
・1958年から1970年代まで:シンクレティズム以前の草創期
・1980年から1987年まで:霊感商法の時代
・1988年から1998年まで:天地正教の時代
・1998年から現在まで:清平役事の時代

 清平役事は、霊感商法や天地正教と異なり、天の摂理によって出発したものであり、教会の正式な公認を受けた宗教行事である。権威という観点から見て、清平役事はそれ以前の土着化の試みよりもはるかに確固たる基盤と安定性を有している。その意味で、日本土着の宗教的欲求は、清平役事において最良の落ち着きどころを与えられたとみることができるであろう。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳42


第5章 祝福:準備とマッチング(11)

 より一般的な霊的変化の経験以外には、非常に個人的な性格の経験がある。われわれはこれを特別な個人的経験と呼ぶことにする。これらはすべてマッチングの儀式の直前もしくは最中に起きた。それらはメンバーたちの意識的な期待とは相反するものであるという意味において特別である。中身においては、それらは偶然の一致から奇跡(であると信じられているもの)にいたるまで実に幅広い。それは、何が経験されたかに関しては尋常ではないものの、それらが起こる頻度は高かった。

 特別な個人的経験は、天啓、先祖に関わるもの、肯定的なものに分類することができる。天啓の経験は主として、その人がマッチングされるであろう人物の性格やタイプに関する「知識」が伝えられることに関連するものである。ある年配の女性メンバーは、以下のようなマッチング前の経験について語った:
「そのとき、私はカンザスシティで働いており、在米韓国人宣教師のキム博士が私の所に訪ねてくるというのです。私は彼女が祝福のことを話すつもりだと知っていましたが、私の心に何が去来したかあなたは想像できないでしょう。私は本当にこれに対して私の心を準備しなければなりませんでした。・・・ですから私はそれについて祈り、二人の名前が心に去来したのです。それは私の知っている二人で、心地よく感じていた人達でした」(注61)

 その後、彼女に名前が啓示された男性の一人は、文師によって彼女の夫となるよう推薦されたが、最近運動を去ったことをその女性は知ったのである。彼女は二人目の男性の名前をキム博士に告げ、その選択は文師によって承認されたのであった。(注62)別のメンバーは、天啓の経験がいかに彼の結婚相手に関する好みを変えたかについて語った。人種関係に関心のある白人アメリカ人として、彼は黒人の女性と結婚することを望んでいた。マッチングの儀式の前の夜、彼は夜遅くまで彼自身および彼の親族の人種差別的な態度を悔い改める祈りをした。祈祷を通じて、彼に対する神の意思は、黒人ではなく東洋人の女性と結婚することであると彼は悟ったのである。(注63)ときにはこの種の啓示は他のメンバーの経験を通じてくることもある。スマート夫妻の場合には、お互いの友達が彼らが文師によってマッチングされる夢を見たのである。(注64)

 二つ目のタイプの特別な経験は、霊界における自身の先祖との接触に関わるものだ。運動の信仰によれば、先祖の霊たちは地上の子孫たちの行いを通してのみ、完成に向かって進歩することができるのである。したがって、これらの霊は彼らの子孫の霊的成長に対して「既得権」を持っており、前者は後者の人生における決定的な出来事において自らの存在を知らせることができるし、また実際にそうするのである。まさにマッチングされる直前に起きた、先祖との接触に関する特に分かりやすい報告は、アダムズ氏によって提供された。彼は儀式が始まったとき、以下のような感情に守られて非常に心穏やかであったと言った:
「・・・お父様は正しい人を選んでくださるだろう。そして私がマッチングされる直前、私は非常に強い感情を抱いた。お父様が私を選んだその瞬間、そうだ・・・だから私がマッチングされた人と組み合わされたのは、単なる偶然じゃないんだ。それは単なる無作為の選択ではなかった。霊的に何かが起こっていたのだ。」(注65)

 インタビューを行った者は「非常に強い感情」を、アダムズの信仰を弱らせようというサタンの試みを意味するものであると誤って解釈した。アダムズは、サタンは何か悪いことをしたり、することを考えたりするときにのみ攻撃することができるので、この場合はそうではないと説明した。その瞬間の彼の「心情は正しかった」ので、サタンは介入する「基台」がなかったのである。むしろ、その強烈な感情は彼の先祖の霊の臨在によって引き起こされたのであった。
「私たちの先祖の霊人は、過去に生きた人々であった。・・・彼らは本当に実在して、あなたに、あなたの心に影響を与えることができる。そうだ、なぜなら彼らはそこにいて、何が起こっているのかに非常に強い関心を持っているからだ。だから、あなたが突然何かに引かれたり反発したりする非常に強い感情を感じるときには、何か先祖に関わること、何か霊的なことが起こっているのだ。」(注66)

 三番目のタイプの特別な体験は肯定的なものである。ここで個人は霊的・直感的に「お父様」の推薦してくれた人は、彼または彼女にとって「正しい」または「完璧な」結婚相手であることを理解する。それは瞬間的な洞察であり、文師の知恵を即座に肯定する。あるメンバーは、文師が彼に現在の妻となっている女性を推薦したとき、それは文字通り「一目惚れ」の状態であったと報告した。彼はそれ以前に彼女を見たこともなかったが、彼は霊的に(すなわち、絶対的に)彼女は彼に相応しく、またその逆も真であると確信していたのである。もう一人のメンバーも似たような経験を語った:
「それは、私の所にやってきて、まるで『オーケー、これだよ』とでも言っているかのような、霊的な愛の感情だった。そして、それはある種の神秘的な経験だった。それは私が関わることのできる他のどんなものとも違っていて、まるで神が『私はこの女性を愛している。だからいま彼女をあなたにあげよう。これからはあなたが彼女を愛するのだ・・・』と言っているようだった」(注67)

 これらの特別な個人的経験は、もちろん、「事後に」語られたものであり、したがって、それ自体はメンバーのその後の運動との関わりを反映している。特に天啓型は、啓示された知識が実際に正確なものであったという事実に照らして評価される必要がある。メンバーはマッチングの時に確認されなかった啓示を覚えていたり語ったりすることはなさそうである。にもかかわらず、これらの体験が運動の結束にとって、そして特にその結婚に対するアプローチにとって重要であることは、少なくとも二つの点で明らかである。第一に、そのような経験をすることは、個々のメンバーに対して、彼または彼女が最も重要な信仰の出来事に対して神を中心とする態度を取っていることを実証するのである。言い換えれば、統一運動における生活が、彼または彼女が結婚というより大きな責任のために準備する上で成功であったということだ。第二に、これらの経験はマッチングのプロセス、そしてとりわけ「お父様」のマッチ・メイカーとしての役割を正当化する機能を果たしている。宗教的な表現をすれば、神(または霊界)がその代身者である文師によってなされた決定を、個人に対して直接的に裏付けているのである。

(注61)ブライアント「祝福に関する神学者の会議」p.22。
(注62)これはこの国の統一運動が比較的小さかった1970年のマッチングプロセスにおいては典型的であった。当時は資格ある結婚相手の数が限られていたので、部外者から見ればこの状況はなんら特別なものではないだろう。しかし信仰的で祈りに満ちたメンバーにとっては、それには深い霊的な意味があるのである。
(注63)インタビュー:スミス氏。
(注64)インタビュー:スマート夫妻。
(注65)インタビュー:アダムズ氏。
(注66)同上。著者が「非常に強い感情」について誤解した理由は、アダムズ氏がそれをその前の静寂な状態を邪魔するような何かとして認識したからである。心理学的には、特定の精神状態を先祖の霊が臨在しているためであるとすることは、そのような状態は無意識の心が意識的に表れたものであるという、より伝統的な心理学的見解に対する興味深い代案を提供するものである。別のレベルでは、われわれは統一神学の世界観の中に統合されている韓国の先祖崇拝の再解釈をここにみる。
(67)インタビュー:スマート夫妻。

カテゴリー: ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』95


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第95回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 前々回から、第六章「四‐二 清平の修練会」に関する櫻井氏の記述に関連する内容として、「霊感商法」と「天地正教」と「清平役事」の関係についての考察を開始した。今回は3回目である。先回までは、「霊感商法」および「天地正教」と「清平役事」との間にある相違点や非連続性について述べてきたが、今回からそれらの共通点について述べることにする。

 既に前回までに述べたように、霊感商法および天地正教と清平役事の間には直接の因果関係はなく、両者の間にはあきらかな非連続性と相違性がある。にもかかわらず、それらが扱う分野においてはいくつかの共通点が見出され、特にそれが日本における土着の宗教性の欲求に応える役割を果たしているという点において、特筆すべき内容がある。そこで、前回までに述べた相違点と非連続性を前提としながらも、両者の間にある共通点を以下に分析することにする。

(1)霊障からの解放
 既に述べたように、「霊感商法」の世界観の特徴は、先祖の霊やその他の邪霊によってもたらされる霊障が人生における様々な不幸を生み出しているのであり、その霊障を取り除くことによって救済が得られることに力点が置かれていた。実際の霊感商法のトークにおいては、「解放されていない先祖の霊が悪さをしているので、家系にこのような問題が起こるのである、だからその先祖を解放するためにこの壷を授からなければならない」というような話し方が典型的であった。

 同様に、清平役事も、祝福家庭に起こる様々な不幸の原因を、食口たちの体の中に巣食っている悪霊であるとし、それを分立することによって、食口たちを霊障から解放することに救済の中心をおいている。このことは、清平役事に関する解説書や証し集にはっきりと記載されている。
「清平役事は一言で、『悪霊分立の役事』だということができる。」(『成約時代の清平役事と祝福家庭の道』成和出版社、2000年、p.64)
「食口たちの体中には霊がたくさんいます。それらの霊は食口たちの先祖と関係のある霊たちであり、恨みが多いのです。それで暇さえあれば食口たちを悪い方向に連れて行こうとしているのです。そういう霊たちが食口たちの体中に蟻の卵のように、また砂のように積まれているのです。それで、フォーククレーンで掘り起こすかのように霊を分立してあげたいと切実に思うのです。その霊を掘り起こさなければ、食口たちが生きていくのに困難が伴うのは当然のことです。自分の本性とは違った生き方をしなければならないので、天国にも行けない姿になるのです。また、近くにいる食口たちが若くして病気で死亡したり、事故が起こることがありますが、これらの原因の大部分が恨みの多い悪霊の役事なのです。」(前掲書、p.26)
「真の御父母様のみ言葉によれば、大母様の偉大な点は、天使を連れてきて地上で霊を分立するという点である。」(前掲書、p.63)

 清平役事における悪霊分立の意義は、統一原理における罪の概念と結び付けられ、さらには病気の治癒と結び付けられている。すなわち、血統的な罪や連帯的な罪があるので悪霊がついているのであり、それによって病気が引き起こされている。よって、その原因である悪霊を分立し、解放することを通して、血統的な罪が清算され、その霊障である病気も癒されていくという構造を持っているのである。霊障としての病気の中には、胎児の障害や奇形児、アトピーなども含まれており、これらは基本的に悪霊の仕業であるとされている。
「多くの霊が分立されて、血統的な罪と連帯的な罪が整理されていき、病気が治療されていくという驚くべき恩賜を受けた。」(前掲書、p.27)
「私たちの体から悪霊を分立させなければならない理由の一つは、悪霊が私たちを病気にさせ、死の道へと引っ張っていくからである。」(前掲書、p.66)
「ある食口の胎児の脚を悪霊がしっかりとつかんで離すまいとしているのだが、そのようにして生まれた赤ん坊は歩くことができなくなる。悪霊たちが胎児の中に入って、脳をつかむならば、生まれてきた子供に脳性マヒや自閉症の症状が現れるなど、様々な問題が起こることになるのである。」(前掲書、p.67)
「お腹の中の子供が障害児になり得る要素は多いのです。妊婦を霊的に見てみると、胎児が正常でない場合が少なくありません。これは本当に驚くべきことです。特に体の中にいる悪霊は、お腹の中で胎児の首をつかんでいたり、慰安婦の霊が胎児をびっくりするほどに苦しめていたりしていました。」(前掲書、p.202)
「特に日本の食口の場合は、胎中からアトピーになっていく場合が多くあります。子供たちを苦しめる霊がお腹の中にいるときは、アトピー、自閉症、奇形児などが誕生する確率が高いのです。これらはシバジの霊、慰安婦の霊、淫乱の霊たちが、体の中の深い所に侵入していることが原因です。しかし、清平で熱心に霊を分立すれば、それらがだんだんとよくなるのを見ました。」(前掲書、p.203)

 清平役事は、韓国の宗教伝統である「ムーダン」と呼ばれる厄払いをする巫女の働きに似ている。ムーダンの役割は基本的に様々な霊障から人々を守ることにあった。これは金孝南氏自身の話の中にも出てきて、清平役事を始める前に、ムーダンの祈祷を見にいった話が紹介されている。
「大母様はいろいろな山に通いながら私に祈祷されました。ムーダン(厄払いをする巫女)が祭壇を築いて祈祷する所にも、夜連れていって見せてくださいました。なぜそれを見せたかというと、ムーダンがお払いをするときに霊がどこまで行き、どのようにして再び戻ってくるのか、また霊界と霊的役事に関してより詳しく分からせるために、そういう所にも連れていって見せてくださったのです。」 (前掲書、p.58)

 韓国のムーダンの厄払いは、日本における神道や民間信仰の厄払いと多くの類似点を持っており、歴史的につながっている可能性は高い。これらは東アジア一体に広く分布する宗教現象であり、日本人の宗教性とも親和性の強いものである。日本人の信仰の根本をなす行為は「お参り」と「お祓い」である。聖地である清平に「お参り」をし、役事によって「お祓い」をしてもらうと理解すれば、これらは日本人にとっては極めて理解しやすい宗教行為であるといえる。

 しかし、清平役事において解放される霊の中には、韓国固有のものもあり、日本的な霊障に限定されていた「霊感商法」の霊障とは異なるものも含まれている。例えば、「シバジ」と呼ばれる、子が授からない夫人に代わって子供を産む女性の恨みにより、おなかが痛くなる、というような霊障は、日本人にはなじみのないものである。また、日本に強制連行された韓国人や、慰安婦の霊障が起こす霊障も、国境を超えている。清平役事で解決される霊障の中には、慰安婦の霊が韓日家庭や日日家庭に入り、子供を生めないようにしたり、乳ガンや子宮ガンにかからせている、といった内容が多い。また、日本食口たちの証しの中にも、慰安婦や強制連行された霊たちの話が出てくる。これらは、韓日・日韓祝福によって、祝福家庭が国境を超えたために、霊障も国境を超えるようになったものと理解できる。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳41


第5章 祝福:準備とマッチング(10)

 すべての入手可能な証拠を概観すれば、マッチングの儀式は神学的に5通りの意味を持っていることが明らかになる。
1.聖酒式は信者を原罪の力から解き放つ。罪深い習性や傾向性は個人の人格の一部に残っているけれども、彼または彼女はいまや完成に向かって成長していくうえで霊的により自由なのである。
2.その個人はもはやサタンに拘束されていない。彼または彼女はいまや神に属するのである。「いまや皆さんは、神様の目から見て皆さんの血統をお父様が変えてあげる位置に来たのです。いまや皆さんは神様の所属となり、サタンは皆さんに対して所有権を主張することができなくなります。」(注54)
3.マッチングを受けたカップルは共に、神の男性性相と女性性相の完璧な表現である真の父母との合一に入る。
 女性が男性よりも前に復帰されなければならないという考えに従い、エバ・母親である花嫁が、真のアダム・父親から盃を受け取り、次にそれをルーシェル・息子である花婿に渡す。文師はこれを説明し、そうすることによって「公的な」祝福式、床入り、および夫婦としての共同生活の前の聖別期間を見据えるのである。
「この儀式では、花嫁に最初の聖酒が与えられ、彼女自身が清められると、彼女は振り返って男性を神に導く準備をします。したがって、この儀式の後の三年間は、夫はある意味で妻に対して従順でなければなりません。彼の妻は復帰のプロセスを開始したがゆえに、最も重要なのです。彼女は彼の救済の鍵を握るのです。」(注55)
4.聖酒式を通して、カップルは宗教共同体と新しい関係に入り、その中で新しい地位を与えられる。この儀式は終末論的共同体への「通過儀礼」となっているのである。
「完成するためには、祝福を受けなければなりません。したがって、祝福は新約時代の最後に訪れるのです。本当の意味で、祝福の後で私たちは成約時代に入るのです。これが統一教会の段階です。ある意味で、祝福を通して私たちは本物の統一教会のメンバーとしての資格を与えられるのです。」(注56)
 修練期間が終わり、いまや本当のメンバーとしての期間が始まるのであり、それには共同体におけるより高い地位が伴う。郭牧師は、「・・・私たちの真の父母様に次いで最も貴重な人々は、祝福家庭です。」(注57)と指摘する。未婚のメンバーたちは一般に結婚したカップルを大いに尊敬しており、彼らを役割モデルとみなし、しばしば彼らに精神的な指導を求める。統一運動における指導者の位置は、ごく稀な例外を除いて、既婚者にのみ開かれているということもまた事実である。
5.聖酒式の典礼的な性格はしばしば運動によってほのめかされてきた。ある祝福を受けたメンバーは以下のように説明した:「聖餐式においては、クリスチャンはある意味でキリストの霊的な子孫になる。聖酒式においては、教会のメンバーは文師夫妻の霊的な子孫になる。」(注58)そして彼は筆者のノートパッドに以下のような図を描いた:

5章(10)挿入図

 別のメンバーは、統一運動の多くの神学者たちの会議において、マッチングの儀式について以下のように述べている:
「それはいくつかの典礼の要素を組み合わせたものである。例えば、フェアリー(以前に話したメンバー)は聖酒式について話した。儀式の一部にはカップルに水を振り掛けることも含まれている。(実際にはこれは第6章で論じられる「公的な」祝福式において起きる)そして手を重ねる儀式もあり、文師からカップルに何かが伝達される。恐らくそこには叙階のアイデアさえもいくらか含まれているのであろう。そして贖罪の要素もそこにはある。なぜなら手を重ねるのは原罪を取り除く行為であるからだ。」(注59)

 今日の運動が主眼としていることの一つが、正統的な形のキリスト教であると受け入れられることであるため、そのメンバーたちによるマッチングの儀式とキリスト教の典礼の比較は、完全な間違いではないものの、しばしば不自然で大げさである。

 儀式そのものと、それに参加した者たちが経験したと報告されていることの神学的意味のさらに先に進めば、この出来事が個人にとって深遠な実存的意味を持っていることは確かである。以下の段落において論じられるより個人的で特別な経験に加えて、マッチングと祝福を受けインタビューに応じたすべてのメンバーが、聖酒式の最中もしくはその少し後に、運動の理想に従って生きる新しい自由の感覚を経験したと報告している。それを「生まれ変わった」と語る者もいれば、彼らの人生に新しい霊的な力を授けられたと見る者もいた。あるメンバーの発言は典型的なものである:
「マッチングを受ける前は、神を中心とする生活をすることは私にとって非常に困難でした。登り坂を一歩一歩登っているようでした。いまでも困難な時はありますが、以前よりは進歩しています。いまや神様が私の近くにいて、私が成長しようとするときに引き上げてくれているような感じです。」(注60)

 この「新しい自由の感覚」を、厳格でしばしば葛藤を伴う統一教会のライフスタイル(例えば週7日、1日12~15時間のファンドレイジング)に照らして考えてみるとき、メンバーたちがマッチングの儀式の変容させ引き上げる力に高い価値を置いているということは驚くに値しない。

(注54)文鮮明「聖酒式」p.4。
(注55)前掲書、p. 5。
(注56)周藤健「祝福の内的な意味」、pp. 42-43。
(注57)郭「理想家庭になる」p. 28。
(注58)インタビュー:エンゲル夫妻
(注59)ブライアンドとホッジス「統一神学の探求」pp. 19-20。

カテゴリー: ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』94


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第94回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 前回から、第六章「四‐二 清平の修練会」に関する櫻井氏の記述に関連する内容として、「霊感商法」と「天地正教」と「清平役事」の関係についての考察を開始した。今回はその続きである。私の主張のポイントは、霊感商法および天地正教と清平役事との間にある種の共通点や連続性を見出すことは可能であるが、それを過度に強調することもまた誤りであり、それらの間には相違点や非連続性も明確に存在するということであった。そこで議論の順番として、初めに両者の相違点や非連続性について述べ、続いて共通点を詳述することを予言した上で、相違点や非連続性の第一のポイントとして「誕生の経緯と公認の有無」について論じた。今回はその他二つの観点から両者の相違点や非連続性について述べることにする。

(2)対象の違い
 「霊感商法」と「天地正教」は、統一教会に直接伝道することが難しい、日本の中高年層に対するアプローチの仕方として考案されたものであった。したがって、これらがターゲットとしていた人々は、既に統一原理を学び、文鮮明師御夫妻をメシヤとして受け入れている人々ではなく、むしろ将来的にはその段階にまで導いていきたいと願っている、新規の対象者であったと言える。

 「霊感商法」のトーカーは、自分が統一教会の信者であることを明かさなかったし、最終的には統一教会に導くことが目的であることを、販売の最初の段階から相手に告げることもなかった。「天地正教」は、少なくとも初期の段階においては「弥勒仏は文鮮明師ご夫妻である」と伝道の初期段階から相手に告げることはしなかったし、新規伝道のアプローチにおいて強調されていたのは、先祖の供養や弥勒信仰といった、日本人にとってはより一般的に受け入れやすい内容であった。

 「霊感商法」や「天地正教」が懸念していたのは、統一原理が日本人にとっては難解で分かりづらいことと、そのキリスト教的な教理解説が日本人には文化的になじめないことであった。したがって、これらが意図していたのは統一教会の食口以外の日本人一般に対するアプローチであり、すでに統一教会の食口になっている者には、「霊感商法」も「天地正教」も必要のないものであった。

 それに対して、清平役事は初めから統一教会の信仰を前提としたものであり、真の御父母様、興進様、大母様に対する信仰がなければ成り立たないものである。統一教会について何も知らない人を清平役事に参加させることは不可能ではないかもしれないが、何らかの予備知識がなければその恩恵の意味を理解できないであろうし、文化的な違和感を持つ可能性も大である。したがって、基本的には清平役事は統一教会の食口、特に祝福家庭を対象としたものであると言える。

 「霊感商法」や「天地正教」と違って、清平役事はすでに統一教会の食口になっている者には必要のないものなのではなくて、統一食口こそ参加しなければならないものなのである。その意味で、これらの間にはその対象において大きな違いがあるのである。

(3)救済に至るプロセスの違い
 「霊感商法」と「天地正教」と清平役事は、現象として見るときに、救済にいたるプロセスがそれぞれ異なっている。

 「霊感商法」は、開運商品を購入することによって先祖の悪因縁から解放されることを説くもので、多額の金銭を捧げるという犠牲を伴うものの、救済に至るプロセスとしては最も受動的である。すなわち、浄財によって先祖や自己の罪が清算されるという考えに基づいており、それ以上に個人が果たすべき責任はない。だからこそ、開運商品を購入したゲストに対して、「真理を学びましょう」と言ってビデオセンターに誘い、統一原理を教育することによって最終的には食口にする必要があったのである。開運商品を販売していた信者たちは、ゲストが壷や多宝塔を購入するために多額の金銭を捧げることを、統一原理で言うところの「象徴献祭」として理解していたようである。したがって、それは復帰の過程における初期段階の条件として位置づけられており、最終的な救いをもたらすものとして理解されていたわけではなかった。

 「天地正教」は、それ自体として独立・完結した一個の宗教団体としての体をなしていたので、その内部に救いに至る完結したプロセスを構築することが必要とされた。そのために、統一教会の信仰生活を仏教的にアレンジした教義や儀式が開発され、その中で信者たちは信仰生活を送るようになった。しかし、統一教会における信仰生活に比べれば、先祖の供養や祭祀、儀式などに重点が置かれたものであり、その信仰生活はより受動的で緩やかなものであった。これは、土着化戦略の一環として、中高年以上の信徒を対象に考案されたものであるだけに、そうなる必然性があったとみることができるであろう。

 救いへのプロセスにおいて最も問題となるのは、「祝福」をどう受けさせるのかという問題であった。文鮮明師御夫妻を「弥勒仏」という名のメシヤとして受け入れさせれば、当然その先には祝福を受けさせるという段階が待っていることになる。幸いにも1992年の3万双以降は、他宗教の者に祝福を与えることのできる時代になっていたので、天地正教に所属する信者たちが文鮮明師御夫妻から祝福を受けること自体は問題がなかったし、事実、天地正教を通して祝福を受ける者たちもいた。しかし、天地正教が事実上消滅した後には、そうする必要がなくなってしまった。

 清平役事は、一つの現象として見るときに、他の2つと比べて、救いに至るプロセスが最も能動的・主体的であり、内面化されている。清平における霊分立の方法は「按手」と呼ばれるもので、熱狂的な賛美と拍手をしながら、体の各部位を手で打つというものである。これを1日3回実行すると共に、祈祷会、朝の訓読会、天勝山の山頂まで往復するなど、肉体的にハードなものであり、修行に近いものである。

 先祖解怨式に臨むためには、精誠と祈祷の蕩減条件が要求され、21日間にわたる朝食断食と50拝の敬拝、蕩減献金などの準備をしなければならない。最も代表的な修練会は2日修練会であるが、国家メシヤや指導者、さらには妊婦や特別な問題を抱える人にはしばしば40日修練会に参加することが勧められ、中には40日修練会に数次にわたって連続して参加する者もいる。40日修練会のスケジュールは宗教的修行そのものであり、生半可な気持ちでは参加することのできない、かなりハードなものである。

 清平役事は、何かを購入すれば救われるとか、何かの儀式をすれば先祖が救われて運勢がよくなるといった表層的なものではなく、徹底的な内的悔い改めと霊的刷新を迫るものであり、自己犠牲と献身的な姿勢を要求するものである。また、目標としている到達点は、悪霊の分立による自己の内的刷新と、先祖の解怨による血統的罪の清算、先祖の祝福による霊界の救済が前面に押し出されており、統一教会における救いの中心的概念がそこにある。その意味において、清平役事における救いのプロセスは、統一教会の信仰生活と完全に連続している。この点が、「霊感商法」および「天地正教」との大きな違いである。

 清平役事は、霊感商法や天地正教と異なり、天の摂理によって出発したものであり、教会の正式な公認を受けた宗教行事である。権威という観点から見て、清平役事はそれ以前の土着化の試みよりもはるかに確固たる基盤と安定性を有している。その意味で、日本土着の宗教的欲求は、清平役事において最良の落ち着きどころを与えられたとみることができる。しかしながら、清平役事は現時点では統一教会の信仰を前提としたものであり、原理に導くための「入り口」としての機能を果たしているわけではない。今後、原理を知らなくても先祖の解放や病気の治癒といった分かりやすい具体的な恵みから清平につながり、その結果として統一原理のみ言葉を学んでいくような、「信仰の入り口」としての機能を清平役事が持つようになったときには、より大きな土着化の力となることであろう。事実、伝道対象者に「祈願書」を書いてもらうことをきっかけにして清平につなげ、統一原理を学習するよりも先に清平の恩恵を体験的に感じてもらってから徐々にみ言葉の教育に入っていくという伝道の方法も、一部では行われているようである。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳40


第5章 祝福:準備とマッチング(9)

 人類の愛と従順を巡る神とサタンの争いは、統一運動にとって神学的かつ社会学的な意味を持つ闘争であるが、聖酒式を通して神の勝利をもって決着がつく。その勝利は個人のものであるが、それ以上に人間社会全体のための勝利である。それはすべての人々に天の血統を復帰する端緒を開くのである。
「この聖酒を飲むことにより、皆さんは即座に神の子孫に変えられるのです。そして将来、皆さんはこの祝福を世界に広める位置に立つことでしょう。皆さんは単に自分自身のために祝福を受けているのではなく、全世界のために受けているのです」(注43)

 サタンへのくびきは、アダムとエバから全人類に受け継がれている。郭牧師によると、「私たちは、この遺伝的な要素の故に自分自身がサタンと血縁関係にあることを知っています。この特定の要素は、原罪を通じて私たちに遺伝されているのです。」(注44)人は自身の罪に対する蕩減を支払うことはできるが、完全な復帰にはメシヤを通じた神の介入が必要なのである。「人は自分自身の力では原罪を取り除くことはできません・・・万人が原罪を洗い流すことを可能にする人物が、メシヤなのです。」(注45)

 メシヤとしての文師が聖酒式と密接に関わることは、統一運動内で神学論争を引き起こした。それは聖酒そのものの性質に関わる議論なのだが、文師は以下のように述べている。
「(聖酒には)被造物のすべての要素、イエス・キリストの体、そして真の父母の愛が含まれています。聖酒の構成要素には天宙のあらゆる要素が含まれているのです。聖酒を造るのには、三年以上かかるのです。」(注46)

 文師が上記に引用された発言を行った約三カ月後に、『季刊祝福』は周藤健牧師のエッセーを発行したが、その中で彼は「聖酒は、21種類の材料を含んだ特別なワインが用いられ、[#傍線]お父様とお母様の血が入っています[#傍線終わり]」と言った。(注47)これが明らかにされたことは、統一運動のヒエラルキーの中に否定的な反応を引き起こしたに違いない。(注48)なぜなら、1978年の春に発行された次号の『季刊祝福』の中で、周藤牧師は以下のような「訂正」を表明しているからである。
「私は自分が『21種類の材料とお父様とお母様の血を含んだ』と言ったかどうかはっきりした記憶がありません。しかし、もし私がそれを言ったとすれば、それは私の誤りでした。正しくは、その文章は以下のようになります。『聖酒式においては、天の血統を受け継ぎ、サタンを分立するために、さまざまな種類の万物が含まれた特別なワインが用いられます。』
コメント1:「さまざまな種類の万物」は血とは一切関係がありません。
コメント2:聖酒式は象徴的なものであり、それはちょうど聖餐式においてパンと葡萄酒がイエスの体と血を象徴するために用いられるのと同じです。」(注49)

 これは撤回ではなく、「訂正」に分類されている。「それは私の誤りでした。」と言うとき、周藤はあまり明確でない。彼は最初の発言が真実ではなかったと言いたいのであろうか、それとも彼は単にそれを言ったことが間違いだったと言っているのであろうか? どのような意図にせよ、彼はなぜ最初の発言を訂正する必要があると感じたのだろうか?
 真実に関する問題は、1979年6月に、当時のアメリカの運動の会長であったニール・サローネンが以下のように発言したと報告されたとき、一層複雑になった。
「彼の個人的な信仰によれば、1960年の最初の約婚に用いられた聖酒には、文師の血が数滴入っていた。その原酒は将来のすべての儀式のために保存され、希釈されることによって増殖されている」(注50)

 著者の知るところによれば、この報告は運動によって否定されていない。しかしながら、この記事はサローネンの「個人的な信仰」に関するものであり、彼は統一運動を代表しても、あるいは会長としての自らの権限でさえも語っていないことに留意する必要がある。(注51)にもかかわらず、論争はいまだに運動の中で継続している。J・スティルソン博士が著者に提供した情報によれば、韓国のトップリーダーが1981年3月に彼に対して、聖酒の中に真の父母の血が含まれていることをきっぱりと否定したという。(注52)

 われわれは聖酒に関する真実を見いだすことはできないかもしれないが、この問題そのものは、運動の内部に祝福家庭に対する文師の関わりに非常に強い関心があることを示している。たとえ彼の血が含有物でなかったとしても、聖酒をいただく者はまさしく文字通りメシヤとの「血縁関係」に入るという趣旨の「口伝」がグループの中で発達したのである。あるアメリカのリーダーは、この特別な絆について、彼が聖酒式に言及するときに以下のようにほのめかしている。「・・・象徴以上のものです。それは文師の霊性からカップルに至る何かを表し伝えているのです。」(注53)

(注43)文鮮明「聖酒式」p.2。この言葉の意味について、文師が死んだ後には、彼らは自分の子供たちに対するマッチングと祝福を行い、自分自身の「天の氏族」を確立するようになるのだと解釈する者もいた。
(注44)郭錠煥牧師「祝福と理想家庭」『季刊祝福』(第1巻、第2号、1977年夏)p.28。
(注45)前掲書、p. 29。
(注46)文鮮明「聖酒式」p.2。
(注47)周藤健牧師「祝福の内的意味」p.46。下線は著者。
(注48)周藤の発言はおそらく以下の二つの理由によって評判が良くなかったのであろう。(1)それは「外側の」世界からの批判の可能性にグループをさらすことになった。(2)その粗雑な文字通りの解釈は、より洗練られた神学的に鋭敏なメンバーの反感を買った。
(注49)周藤健牧師「訂正」『季刊祝福』(第2巻、第2号、1978年春)、p.31。
(注50)ジョン・モースト「ムーニーたちがカルト監視批評家たちとクロスウィッツをする」pp. 38-39。
(注51)統一教会の信者たちによる多くの発言が非常に個人的な性質のものであることは、(個人のものとは区別された)運動の信仰と実践を理解しようとするあらゆる調査者にとって主要な障害となっている。
(注52)個人的交流:J・スティルソン・ジュダ―博士。『ハレ・クリシュナとカウンター・カルチャー』の著者であるジュダ―博士は現在、統一運動の文化的意味に関する著作を準備している。
(注53)ブライアンドとホッジス『統一神学の探求』、p.19。統一運動が聖酒の性質に関してまだコンセンサスに至っていないことは全く理解可能である。後にローマカトリックの公式的な立場となる見解をパスカシウス・ラドベルトゥスが明記したのは9世紀になってからのことであることを、読者は思い起こすであろう。ウィリアム・カノン『中世キリスト教史』(ニューヨーク:アビントン出版、1960年)、pp.99-100を参照のこと。(訳注:パスカシウス・ラドベルトゥス〔785年 – 865年〕は、『主の肉と血について』という有名な論考において、聖餐において用いられるパンとワインは、文字通りキリストの肉と血に変化するのだという立場を取った。これが後にローマ・カトリック信仰の支配的な信念となった。)

カテゴリー: ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』93


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第93回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 先回まで、第六章「四‐二 清平の修練会」の細かい内容に関して櫻井氏の記述に対する反論を行ってきた。彼の誤解や意図的な歪曲を批判する作業はこのくらいにして、しばらく櫻井氏のテキストを離れ、清平の修練会そのものに対する考察を行ってみたい。櫻井氏は清平の修練会を「四 統一教会における霊界の実体化」という節の中に位置付け、四‐一でいわゆる霊感商法について扱ったうえで、四‐二で清平の修練会を扱っている。すなわち、彼にとってこれら二つは連続性を持った現象として捉えられており、清平の役事は霊感商法の延長線上にあるか、その変形であると考えられているのである。

 私はかつて、「霊感商法とは何だったのか?」という自身のブログのシリーズにおいて、「霊感商法」と「天地正教」と「清平役事」を一つの連続した現象として位置付けたことがった。その連続性を担保する概念は、統一教会の日本への土着化である。統一教会の教義は基本的には聖書に基づくキリスト教的なものであり、そのままでは日本社会に土着化するのは難しい。したがって、先祖の救いや霊障からの解放といった土着の宗教的欲求に答える要素がなければ、日本の土壌において教会を発展させていくことは難しいのである。

 統一原理を日本に土着化させる第一の試みとして信徒たちが行ったのが「霊感商法」であり、私はこの現象を、統一原理の教えと日本の土着の宗教文化が融合することによって起こったシンクレティズムであると分析した。天地正教は、霊感商法が日本において社会的批判を浴びた後に、「霊石愛好会」を経て創設された、弥勒信仰に基づく仏教教団であった。これは本質的には統一原理の仏教的解釈と展開による土着化の試みであり、一定の成功を収める可能性を秘めていたが、結果的には1999年に消滅してしまった。しかしながら、先祖供養や霊障からの救いに代表されるような、土着の宗教的欲求に応えるための別の装置がそれに代わって準備されたわけではなかった。

 現在、「霊感商法」や「天地正教」を通して満たそうとした日本土着の宗教的欲求を満たしているのは、清平の役事である。清平の役事は、「霊感商法」や「天地正教」のように日本土着の宗教伝統と統一原理の習合の結果として生じたものではないし、これらとの間には直接的な因果関係はないが、それらが満たそうとしている宗教的欲求は非常に近いものである。清平の役事は、霊障からの解放、先祖の救いと解放、病気の癒しという特徴を持ち、これらは日本土着の宗教的欲求に応える内容を持っているのである。

 そこでこれからしばらくの間、以前の「霊感商法とは何だったのか?」という自身のブログのシリーズでは詳しく述べることのなかった、「霊感商法」および「天地正教」と「清平役事」の関係について論じることにする。櫻井氏の著作の逐語的な批判をしばらく離れることになるが、彼が清平の修練会を霊感商法の延長線上としてとらえ、批判的に記述していることを踏まえ、私自身の考えをまとめてみたい。

 清平の役事に関しては既に櫻井氏が基本的な事実を解説しているし、統一教会の信徒には広く知られていることであるので、ここではその詳細を繰り返して述べることはせず、霊感商法および天地正教との比較の中で、それらとの相違点と共通点を述べることにする。

 金孝南氏の肉身に再臨した大母様による霊分立の役事が清平修錬院で本格的に始められたのは、1995年1月19日であったとされる。 これは天地正教が消滅する以前のことであり、しかも、ちょうどその頃から二代目教主・新谷静江が「弥勒仏は文鮮明師ご夫妻である」と宣言して、天地正教につながった信者たちにメシヤを受け入れさせる方針を強く打ち出していることから、天地正教の代わりに清平役事が始まったという考えは時系列的に成り立たない。すなわち、天地正教の消滅と清平役事の出発の間には、直接的な因果関係はないのである。

 にもかかわらず、天地正教の消滅によって満たされなくなった先祖供養や霊障からの救いに代表されるような日本土着の宗教的欲求は、次第に清平役事において満たされるようになり、日本から多くの統一教会信者たちが清平を訪れるようになる。このように、霊感商法および天地正教と清平役事との間に、ある種の共通点や連続性を見出すことは可能であるが、それを過度に強調することもまた誤りである、と私は考えている。それらの間には相違点や非連続性も明確に存在するのであって、そのことを見落としてはならないからである。そこで以後の考察においては、初めに両者の相違点や非連続性について述べ、続いて共通点を詳述することにする。

(1)誕生の経緯と公認の有無
 前述したように、「霊感商法」と「天地正教」の間には直系の親子のごとき因果関係があったが、それらと清平役事の間には、直接的な因果関係は存在しない。そもそも、誕生の経緯からしてこれらは異なっており、両者の間には明確な非連続性・相違性がある。

 まず、「霊感商法」と「天地正教」が、開運商品の販売や統一原理の日本への土着化といった、日本固有の、しかも人間の側の事情から出発したものであるのに対して、清平役事は天の摂理によって出発したものであり、日本人のみならず全世界の人々に対して開かれているという点が、大きく異なっている。

 清平役事の背景には、興進様の聖和(1984年)と、大母様の聖和(1989年)という真の父母様の直接の血族に関わる摂理的な出来事がある。そして、現在清平で奇跡的な出来事が起こっているのは決して偶然ではなく、摂理的に意義付けられて必然的な出来事であるとされているのである。
「新約時代である二千年前にイエス・キリストが天使を動員して病んだ者を治した奇跡が、今成約時代には清平修錬院において、真の御父母様に代わる興進様と大母様の役事として起こっている。すなわち、清平で起こる奇跡的なできごとは、実体聖霊の役事の生々しい証なのである。

 真の御父母様は祝福を通して私たちの原罪を除いてくださり、清平役事を通して私たちの体の中にいる悪霊を分立して先祖を解怨し、私たちの連帯的な罪と血統的な罪を除いてくださる。ゆえに私たち食口は自犯罪さえ整理すればよい。」(『成約時代の清平役事と祝福家庭の道』成和出版社、2000年、p.31)

 この記述からは、清平役事が原罪、遺伝罪、連帯罪、自犯罪という統一原理の主要な罪の概念のどの部分を担当するかが分かるし、興進様と大母様が真の御父母様の代身という立場で役事していることも知ることができる。
「したがって、清平役事を通して体の中の霊が分立される過程を経ずに天上天国へ行くのは不可能なことなのである。それゆえ、真の御父母様によって祝福家庭となることが、天国に向かう第一の関門を通過することであるとすれば、清平を通した霊分立は、二次的な関門を通過することになるのである。真の御父母様は早く全人類を祝福家庭にして、清平修錬院に呼んで天国の民に変えたいと考えておられるのである。」(前掲書、p.36)

 この記述によれば、清平役事に参加することは統一教会の食口が天国に行くための必要条件であり、真の御父母様の願いであるということになる。清平役事には、霊の分立、解怨だけでなく、霊人の祝福も含まれている。すなわち、統一原理において説かれている復帰のプログラムの一環として清平役事は位置づけられており、摂理的に必然の出来事とされているのである。

 文鮮明師は1999年1月29日、漢南洞の公館において、「全世界の食口たちは必ず先祖解怨式をしなければなりません。先祖解怨式というのは、真の御父母様の時代においては、7代までの先祖を探して解怨式をしてこそ、家庭圏を越えることができるのです。したがって、皆さんが新しい成約時代に入籍するには、必ず1代から7代までの先祖から、120代の先祖まで解怨しなければなりません」 と述べている。

 このような公認を「霊感商法」や「天地正教」が真の御父母様もしくは統一教会から与えられたことは一度もなかった。「霊感商法」に対する統一教会の公式見解は「一切関係がない」であるし、「統一教会と天地正教は全く別法人であり、また、霊石愛好会は宗教法人ではない任意団体であり、いずれも統一教会とは何ら関係のない団体である」(1994年5月27日 福岡地裁判決における統一教会側の主張)という主張は、現在でも変わっていない。

 1999年の「和合宣言文」にしても、天地正教側が統一教会側に対して交流を求め、信徒の教育を依頼したのに対して、統一教会側が「来る者は拒まず」という形で受け入れたのであって、なにか摂理的な必然性があって起こった出来事とは位置づけられていない。すなわち、「公認」という観点からすれば、霊感商法および天地正教と清平役事との間には、天と地ほどの差があるのである。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳39


第5章 祝福:準備とマッチング(8)

 読者がマッチング・セレモニーの意義を完全に把握するために(注38)、この節は(1)儀式の描写を提供し、(2)この出来事の宗教的意味を論じ、(3)マッチングの儀式の前あるいはその最中にメンバーが持った特別な体験の回想録を提示することにする。実際の儀式についての我々の描写は暫定的かつ不完全なものである。その主な理由は、それを通過したメンバーたちは、彼らが人の一生において最も神聖な出来事であると信じていることに関する詳細な記述を著者に提供することをためらったからである。この儀式は非常に特別なものであるがゆえに「私的」なものであるとみなされる。それが意味するのは、そこに参加できる統一教会の信者は(もちろん、文師夫妻と特定の手続き上の事柄を補佐するために指名されたリーダーを除けば)、マッチングを受ける資格があると認定された者だけだからである。どんなメンバーでも、第6章において描写されている「公的な」(すべての統一教会信者に対して開かれているという意味において)祝福式または結婚式に参加することができるが、マッチングの儀式には参加できない。マッチングと聖酒式の神聖で秘密主義的な性格は、「74双」に対して彼らのマッチングの日に語られた説教の中で、文師によって強調されている。
「きょう、お父様は皆さんに天の秘密を明かしているのです。神様がそのようなことを明らかにするのに相応しい唯一の場所は、その王宮です。ある意味で、きょう皆さんは神の王宮に立っているのです。皆さんは原理の核心を聞いているのです。これまで秘密にされていたことが、きょう皆さんに明かされたのです。」(注39)

 したがって、以下の素描はインタビューやさまざまな出版物から集められたデータの「断片」を、[#傍線]典型的なマッチング・セレモニー[#傍線終わり]の分かりやすくて願わくば正確な描写になるように、著者が整理したものである。マッチングの告知は実際の出来事のほんの少し前(二週間もしくはそれ以下)にしかなされない。(1979年には祝福委員会によって、あるいは1980年には現場のリーダーによって)選抜され資格ありと認定された候補者は、世界の様々な場所からニューヨーク市にある世界宣教本部に駆け付ける。彼らの最高の服に身を包み、指定された時間にセンター・ボールルームに入る。彼らは片方が男性、もう片方が女性に分かれて大勢で立っており、椅子も通路もない。

 文師夫妻が数名のトップリーダーたちと共に候補者の前に現れる。セレモニーは彼らに対する文師のスピーチによって始まり、その内容は統一運動における結婚の深い霊的な意義に関するものであり、真に神を中心とした人は誰とでも結婚する準備が出来ていることを強調する。

 この冒頭の言葉に続いて候補者たちの実際のマッチングが始まり、文師は東洋人とのマッチングを望む白人のメンバーに対して部屋の前方に出てくるように指示する。すると彼は各人に対して東洋人の相対者を一人ひとり「推薦」する。白人と黒人のマッチングを望む者に対しても同じプロセスが進行する。「この障害を持った者と結婚する意思のある者はいないか?」とか、「この女は以前に結婚していて子供がいる」とか、「精管切除術を行ったこの男を受け入れらる女はいるか?」というような、特別なケースも扱われる。(注40)

 二人が文師によって組み合わされると、彼らはボールルームを離れて隣接した部屋に行き、マッチングを受け入れるか否かを決定するために、15分から20分にわたって個人的な話をする。もし彼らが文師の選択を肯定すれば、彼らはボールルームに戻ってきて、初めに文師の前に、次に聴衆の前に頭を下げることによって受け入れたことを示す。マッチングを拒否したわずかな者は、リーダーの一人にただその決断を告げて、再びマッチングを受けるためにボールルームに戻ってくる。

 マッチングのプロセスが終わると(注41)、聖酒式が始まる。各カップルは文師の前に現れ、復帰されたアダムまたは真のアダムである彼は、聖酒の小さなカップをエバである女性に授ける。彼女はワインの一部を飲み、そのカップをルーシェルとしての男性に渡し、彼は残りを飲む。第二のレベルのシンボリズムも機能している。父としての文師、母としての花嫁、そして息子としての花婿である。カップが空になったら、カップルは手を合わせ、文師は彼らの手の上に自身の手を重ねて、短い祈祷をする。個々のカップルが聖酒をいただいたら、マッチングを受けたカップルに対する文師の総括的な祈祷をもって儀式は終わる。

 われわれのやや簡素な儀式の記述には、記録としての価値はあるが、参加者の強烈で恍惚とした感覚をまったく伝えていない。統一教会信者の人生における中心的な出来事として、式典全体(そして特に聖酒式)は深い宗教的意味を持っている。信仰深いメンバーにとって、男性と女性のマッチングは宇宙の統一を象徴し、そしてある意味において実現するのである。この非常にシンプルな式典の中で、「聖なる天蓋」が言葉の最も広い意味において現実を包含するのである。

 マッチングの霊的な意味は『原理講論』においては暗示されているだけなので、それをより完全に説明するために、著者は3名の統一運動の指導者たちのより具体的な教え(牧会学)を利用した。その3名とは文師自身、郭錠煥牧師、周藤健牧師である。この資料のほとんどが、祝福家庭にのみ入手可能な『季刊祝福』に見いだされるものであることに、ここで留意しておく必要がある。疑いなく、ほとんどのメンバーはマッチング前にこれらの教えに多少は気付いているが、おそらくマッチングまでは彼らはそれらを完全に認識してはいないだろう。

 この式典の意味に関する文師の最も完全な発言は、1977年のマッチングおよび祝福の日に語られた演説の中に見いだすことができる。
「第一に、私たちは自分がサタンの血統から来たものであることを悟らなければなりません。それが私たちの起源であり背景なのです。聖酒式はサタン的な起源から神を中心とした起源へと血統を変えることを象徴するのです。」(注42)

(注38)私は、1979年にマッチング・聖別・祝福式・家庭出発の公式に変化して以降に統一運動内で使われている証言を用いている。その時以前は、「祝福」という言葉は(結婚生活というよりもむしろ儀式に対して用いられたときには)、「私的」なマッチングの儀式(それは聖酒式をもって完結する)と「公的」な祝福式または結婚式の両方を包含していたのである。したがって、この節において引用されている資料のいくつかは、祝福について語っているけれども、マッチングの儀式にのみ当てはまるものである。
(注39)文鮮明「聖酒式」『季刊祝福』(1巻1号、1977年春)
(注40)儀式のこの部分は、普通は決まったパターンに従うものではなく、その行動が極めて予想し難い文師の霊感的なリーダーシップによって導かれる。外部の者にとっては、彼のすることは衝動的で気まぐれに見えることであろう。ある元メンバーは、彼自身はマッチングを目撃したことはなかったが、「・・・文が祝福を受けたカップルの鼻を組み合わせるのはどれほど衝動的に見えたことだろうか」と書いている。(ウッド『ムーン・ストラック』、p.106)
(注41)私には完全には理由は分からないが、資格を持って儀式に参加したすべての者がマッチングされるわけではない。1979年には、1500名がボールルームに入り、1410名がマッチングされた。これは資格のある女性の数が不足していたことによって説明可能かもしれない。また、参加者の中にはボールルームの中に入った後でプロセスから離脱する者もいるであろう。
(注42)文鮮明「聖酒式」pp. 1-2.

カテゴリー: ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」