書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』194


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第194回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第一〇章 『本郷人』に見る祝福家庭の理想と現実」

 先回で「第9章 在韓日本人信者の信仰生活」の内容に対する分析を終了したので、今回から「第10章 『本郷人』に見る祝福家庭の理想と現実」の内容に入る。この章は、中西氏自身によるフィールドワークの調査結果を示したものではなく、文献に基づく研究であり、その知見を自身の調査結果と照合しようとしている。中西氏は、この章の冒頭で以下のように述べている。
「本章では、統一教会発行の祝福家庭向け新聞『本郷人(ポニャンイン)』を用いて在韓日本人信者達の全体像を把握し、筆者の調査事例の相対的な位置を確認すると共に、『本郷人』が信者教化に果たす役割を考察したい。」(p.515)

 中西氏の調査対象は農村のA郡、都市近郊のB市、ソウル中心部と、性格の異なる地域にまたがっているとはいえ、サンプルが38名と少ないうえに、ランダム・サンプリングによって得られた調査対象ではなく、別の研究の途中で偶然に出会った信者たちと、そこからの紹介によって出会った調査対象であった。自身の調査対象が平均的なデータだったのか、「はずれ値」だったのかを知るために、文献に登場する統一教会信者の暮らしぶりと比較するという手法は間違っていない。

 一方で、『本郷人』は統一教会が発行している新聞であるため、統一教会にとって都合の悪い内容は削除され、模範的な証しだけが掲載されているのではないかという推測が成り立ち、別の意味で「はずれ値」ではないかという疑いがある、というのもうなずける話である。ところが、実際に『本郷人』を読んでみた中西氏の印象は、むしろ在韓日本人信者の実態をかなり正直に表しているというものであった。その理由として中西氏は、『本郷人』が基本的に内部向けの新聞であるため、外部の目を意識した紙面にはなっていないことと、実際に悩みに直面している信者たちを励まし勇気づけることが証しを掲載する目的であるため、困難な状況を信仰によって克服した証しこそが模範的な証しであると考えられているからであるという。すなわち、『本郷人』にはきれいごとばかりが書かれているのではなく、克服した困難の程度が甚だしいほど良い証しだということで、外部の目を意識していれば掲載を控えるような信者の生活実態までも、むしろ赤裸々に報告されているというわけだ。

 渡韓した日本人信者達は、韓国で家庭生活を送るうえでさまざまな問題に直面する。日本で培った信仰を韓国に渡ってからも継続できるかどうかは、こうした問題に対処できるか否かで決定する。もしこうした問題の解決を個々の信者にのみ任せ、孤軍奮闘するような状況においてしまえば、祝福を受けて渡韓した意義や目的を見失ってしまうことになりかねない。近所の先輩信者からアドバイスを受けるというのも励ましになるであろうが、全国から情報を集めて掲載したものを読めば、苦労しているのは自分だけじゃないんだ、みんな大変な中を頑張っているんだという気持ちになり、勇気づけられる。そういう意味で「『本郷人』は在韓日本人信者にとって信仰強化のテキストといえる」(p.516)という中西氏の指摘は正しいであろう。

 『本郷人』は、韓国家庭連合の家庭局国際部が発行する月刊のタブロイド判新聞であり、その内容は以下の二つに大別される。
①文鮮明師の御言葉、教会関係の大会、修練会、行事のニュース、およびそれらに参加した感想文など、神の摂理の動向を伝える内容。
②信者の証し、インタビュー、家庭生活・夫婦生活のアドバイス、子育て・二世教育に関する内容、韓国文化紹介、読者の投稿など、在韓日本人の生活に即した実践的な内容。

 中西氏は『本郷人』に掲載されている証しをまず400個ピックアップし、そのなかから修練会の感想文を除いた212個の内容を分析している。そのうち家族関係に関するものが76件あり、全体の19パーセントを占めるという。この部分が中西氏の関心事であり、彼女は以下のように述べている。
「家庭関係の証しのかなりの部分が嫁姑、夫婦関係、子供についてであり、『舅姑』は難しい舅や姑にどのように仕え、関係を改善したかが中心である。それに対して『夫婦』の内容は、問題がある夫(喫煙飲酒、家庭内暴力、信仰がない)、夫婦生活(妻が夫を受け入れる、夫が妻を受け入れる)、夫の障害、夫の死亡などについてであり、『舅姑』よりも証の内容が多様である。」(p.519)
「家族関係の証しは家族問題克服の証しといっていい。嫁姑関係、夫婦関係をはじめとして、不妊克服、妊娠・出産、養子などに集中しており、いわばいかにして理想的な祝福家庭になるように努力したか/しているかの証しである。」(p.520)

 中西氏は、信者達の家族関係や生活の様子が書かれている証しの中から、特にその内容がよくわかるものを40個抜粋して、本書の巻末資料4「『本郷人』の証しに見る祝福家庭の様子としてまとめている。その資料を一通り読んでみると、まさに千差万別の人生の記録であり、感慨を禁じ得ない。中西氏は客観的な暮らしぶりを自分の調査対象と比較するために、表面的な事実だけを抽出してまとめているのだが、同じ信者としてこれらの証しを読むときには、頭が下がるような思いになる。中西氏は客観的な社会学者として、あえて距離をおいて感情移入しないようにしているのかもしれない。それくらい、一つ一つの証しは内容が濃いものだ。

 舅姑との関係においては、いじめられたり暴言を吐かれたりしても感謝して仕えたところ、最終的には嫁として認められ、結果的に彼らを伝道することができたというストーリーがいくつか紹介されている。夫の暴力、酒や煙草などの問題に耐えながらも、夫を立てながら歩んでいるうちに夫の問題行動が改善したという証しも見られる。文章にしてしまえば簡単だが、その試練を乗り越えていった女性たちの信仰は驚異的なものである。信仰の力というものを感じさせてくれる証しである。

 夫に特に問題がなくても、夫婦間でお互いを受け入れることができない葛藤の証しも存在した。女性の場合には性に対する潔癖な性格から男性を受け入れることができず、男性の場合には容姿の問題で妻を愛せなかったのを乗り越えていったという証しが見られる。夫が障がい者になったり、亡くなったりした、子供に障がいがある、子供が死んだ、自分がうつ病になった、というような証しもある。掲載されているのは必ずしも成功例やハッピーエンドの話とは限らない。たとえ外的には問題が解決しなくても、それをどう受け止めるかということが信仰のテーマになっているのである。

 祝福家庭は子女を授かることを強く願うものだが、子供を授からない家庭も多い。不妊治療と信仰的な努力によってやっと授かったという証しもあれば、養子縁組を希望するカップルや、養子を授かったカップルの証しも掲載されている。

 婚家によく仕えたり、地域社会に奉仕したりした結果として「孝婦賞」を表彰されたというような証しは、「成功譚」といえる内容である。もし『本郷人』が外部の目を意識した紙面であったなら、おそらく掲載されていたのはこうした証しだけだったかもしれない。しかし実際には、こうした証しの占める割合はそれほど多くはない。

 韓国在住の男性信者の証しが二つほど紹介されている。どちらも高学歴で優れた才能を持ち、韓国社会に定着できた証しである。ところが、社会的に成功することと信仰を維持することは「トレード・オフ」のような関係になると思える事例もある。外的な苦労は多いけれども信仰に燃えて暮らしている女性信者の証しと比較すると、信仰とは何か、幸福とは何かということを考えさせられるような内容になっている。

 韓国に嫁いできた祝福2世の証しには、一世の女性信者のような経済的苦労、夫の問題、舅姑との葛藤というような苦労は見られず、むしろ本人の内面の葛藤や、妊娠しないことに対する不安のような内容が見られた。

 中西氏はこれらの事例に対して、「筆者が調査した事例は韓日祝福家庭のごく一部でしかないが、証しの事例と比較しても大差がない。」(p.521)と結論している。これは外的な事実のみの評価だが、実地調査と出版物の記述に差がないということは、『本郷人』の記述には裏表や粉飾がないということである。これから分かるのは、統一教会が事実を隠蔽・美化・歪曲することなく正確に伝える、正直な団体であるということだ。かつて北朝鮮が「地上の楽園」と宣伝され、実態を偽っていたのとは異なり、教会の発行する新聞は現地の状況を赤裸々に伝えているのである。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』193


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第193回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第九章 在韓日本人信者の信仰生活」の続き

 「第9章 在韓日本人信者の信仰生活」は、韓国で暮らす日本人の統一教会信者に対するインタビュー内容に基づいて記述されている。前回から「五 A郡・B市・ソウルの信者達」の内容に入った。中西氏は農村のA郡、ソウル近郊のB市、ソウルの中心部の三か所に在住する日本人信者を比較して、「信者であることが農村部では顕在化し、都市部では潜在化するということになる。顕在化、潜在化によって信者としての日常生活は異なり、顕在化のA郡であれば、毎日が統一教会の看板を背負っているようなものである。…B市やソウルの信者と比べるとA郡のような農村の日本人女性信者は日常生活と信仰生活が一体化している。潜在化のB市やソウルでは仕事に差し支えないように日常では隠さねばならず、多少の緊張感をもって暮らすようになる」(p.512)と結論している。ここまでは自ら行った調査に基づく客観的な分析であるが、それに続いて彼女自身の主観的な考察を「3 日本と異なる信仰のあり方」という項目を立てて論じている。この部分は極めて問題が多いので、今回特に取り上げて扱うことにする。

 中西氏はこれまでの記述をまとめる意味で、冒頭に「第八章、九章を通じての問題は、脱会者になるか、信仰を保ち続けて信者であり続けるかの違いはどこにあるのかであった。」(p.513)と述べている。この問題意識は、第八章の冒頭で中西氏が以下のように述べているように、彼女の研究の基本的な問いかけであった。
「第六章、七章は信仰をやめて統一教会を脱会した元信者たちが調査対象だったのに対し、第八章から一〇章は信仰を続ける現役信者が対象である。脱会する信者がいる一方で、現役信者が信仰を保ち続けていられるのはなぜかが問題となる。」(p.403)

 そもそもこの書き方には、普通の人であれば統一教会を脱会して当然であるにもかかわらず、現役信者として信じている奇特な人々がいる。どうして信じ続けることができるのか、その理由を解明しなければならないというニュアンスが込められている。普通の宗教団体に対しては、このような書き方はしないであろう。「現役信者として信仰を保ち続けている者たちがいる一方で、脱会する信者がいるのはなぜかが問題となる。」と書くのが普通である。現存する宗教団体に現役信者がいるのは「当たり前」である。その中で、信仰を続けられなくなる人が出てくるのであって、その事情を分析することを通して、人が信仰を棄てる理由について考察するのが通常のアプローチであろう。しかしここでは、やめるのが当たり前であるのに、統一教会のような宗教をどうして信じることができるのか、というバイアスがかかった表現になってしまっているのである。このような問題意識のゆえに中西の分析は、「脱会しないのはなぜか?」という理由を探すという奇妙な論理になってしまっている。通常の思考であれば、「脱会するのはなぜか?」を問わなければならないにもかかわらずである。

 中西氏は一つ目の理由として、調査対象者の中には脱会カウンセリングを受けたものがいなかったことをあげている。これは逆に、櫻井氏の調査対象となった元信者のほとんどが、脱会カウンセリングを受けていたということを示している。このことは櫻井氏自身が認めているのだが、こうした経験をした人々の数は、統一教会信者の数全体に比べれば少数派であり、統一教会を脱会する人の中に占める割合においても少数派である。つまり、脱会カウンセリングによって教会を去るというのは特殊ケースであり、「外れ値」なのであって、それを基本に統一教会の信仰について普遍的な発言をすることはできない。言い換えれば、統一教会を離れる人の大多数は、拉致監禁を伴うや強制改宗や脱会カウンセリングを受けた者たちではなく、自由意思によって離れる者たちである。彼らが信仰を辞める理由こそが脱会の本質的理由なのであって、特殊なカウンセリングを受けた人々が離れるのは、「特殊な理由」によるものであるということになる。中西氏の理由付けは、脱会カウンセリングによって離教した櫻井氏の調査対象と比較したときにのみ言えることであって、脱会者と信仰を続ける者の差異を普遍的・本質的に分析したことにはならない。

 中西氏の上げる第二の理由は渡韓後の生活である。
「調査対象者達の生活は女性の場合経済的に楽ではないが、何とか無難に暮らしており、生活を破綻させるような状況になっていなかった。このことが信仰を続けている直接的な理由であろう。」
「韓国における信仰生活自体も、日本とは異なっており、心身をすり減らすようなものではない。家庭を築き、日曜日に礼拝に出席し、何かの行事には出かけて行く程度である。献金のノルマも日本のように厳しくない。・・・特に農村では統一教会が結婚相談所のように受けとめられ、嫁いだ日本人女性信者達が信者であることも自明視されている。彼女達は結婚難の農村に嫁いできてくれた存在として地域に受け入れられている。・・・韓国は日本人信者にとっては暮らしやすい環境にある。在韓の日本人信者が信仰を維持している背景には、韓国社会で統一教会が社会問題化していないという点もあるだろう。」(以上、いずれもp.513)

 ここで中西氏の「普通な韓国統一教会」と「異常な日本統一教会」、あるいは「ゆるい韓国統一教会」と「強烈な日本統一教会」というというステレオタイプ的な枠組みが再登場する。繰り返して言うが、中西氏の頭の中にある日本統一教会のイメージは、櫻井氏から提供された大量の文献と、櫻井氏自身の記述によって作り出された「虚像」である。

 中西氏は韓国の統一教会を日本の統一教会と比較して結論を下しているつもりになっているが、実際には論理的に破綻したことを言っていることに気付いていない。そもそも、日本での信仰生活が心身をすり減らすようなものであるのに対して、韓国ではそうではないから彼女たちが脱会せずに信仰を続けていられるのだとすれば、日本の統一教会信者たちがなぜそのような信仰生活を継続していられるのかが説明できない。私の信仰暦は現時点で37年になろうとしているが、私以上に長く信仰している日本人の信者は多数いる。本当に心身をすり減らすような信仰生活をしているのなら、日本においてはそんなに長く信仰を継続できないはずである。中西氏は日本の信仰生活を実際に観察したことがないので、「虚像」に基づいたイメージだけで推論しているにすぎないのである。

 実際には、日本における統一教会の信仰生活も心身をすり減らすようなものではない。櫻井氏自身が認めているように、「楽しくなければ続けられない」(p.342)のである。さらに日本の統一教会信者の生活も韓国と同様に、破綻するような状態にはなっていない。日本の統一教会信者の実際の生活は、櫻井氏が描写した脱会者たちの生活よりもずっと多様である。教会員の中には医者も、弁護士も、大学教授も、会社の役員もおり、地方議員や地方自治体の首長を務めている者もいる。特に社会的な地位の高い者でなかったとしても、普通の会社員、公務員、自営業者、あるいは主婦として社会生活を送っている者が大多数である。日本でも大部分の信者が無難に暮らしているとすれば、渡韓した女性たちが信仰を続けていられる理由として、特にそのことをあげる意味はなくなってしまう。

 そもそも信仰とは、無難に暮らしているからとか、暮らしやすいから続けられるというようなものではない。宗教の歴史をひもとけば、迫害の中でも信仰が力強く燃え盛った事例は数えきれないほどあるし、迫害によって逆に信仰が強化されたことさえある。逆に、江戸時代の仏教や中世ヨーロッパのカトリックのように、権力と一体化して優遇されてしまうと信仰が形骸化してしまうということもある。楽だから、暮らしやすい環境だから、社会から受け入れられているから信仰を維持できるという中西氏の論法は、こうした信仰の本質を見落としていると言えるだろう。

 驚いたのは、在韓の日本人信者は無難に暮らしているから信仰を維持できているという主張をした後で、中西氏がそれをひっくり返すような奇妙な議論を展開している点だ。
「しかし、祝福で結婚し、韓国で家庭を築き、無難に暮らしているとしても、統一教会の信仰が特異なものであることには変わりない。アダム、エバの堕落した血統が連綿と受け継がれ、神の血統への転換が唯一祝福であるとする。韓国とアダム国家、日本をエバ国家と規定し、日本が韓国に贖罪すべきとして、祝福で結婚難にある農村男性のもとへ日本人女性信者を嫁がせる。家庭を築くことで、信者は人生全てを教団組織に絡め取られるという他の新宗教には類を見ない特殊な信仰となっている。」(p.514)

 日本人女性が韓国で無難に暮らしているなら、それでよかろうと言いたくなるのだが、それでは批判したことにならず、統一教会を利する記述になってしまうことを心配したのか、取ってつけたように宗教的言説を批判してみたり、「特異な信仰」という根拠不明の主観的価値判断を押し付けたりしている。結果的に、特異な信仰を持った人が無難な生活をしているという、ちぐはぐな主張になってしまっているのだ。自分の書いた文章に統一教会反対派が文句をつけないための「忖度」によって、論理的な破綻をきたしてしまったとしか思えない。このまとめの部分における中西氏の主張は、まさにブレまくっていると言ってよいだろう。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』192


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第192回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第九章 在韓日本人信者の信仰生活」の続き

 「第9章 在韓日本人信者の信仰生活」は、韓国で暮らす日本人の統一教会信者に対するインタビュー内容に基づいて記述されている。今回は「五 A郡・B市・ソウルの信者達」の内容を扱うことにする。これは一言でいえば、統一教会の在韓日本人信者の信仰における地域差を扱った部分である。A郡は農村であるが、B市はソウル近郊の都市であり、ソウルの中心部はまさに首都のど真ん中である。こうした地域の違いが信者の信仰生活にどのように影響しているのかを中西氏は分析している。結論的に言えば、韓国における信仰生活の地域差は日本よりもはるかに大きいということになる。

 まず学歴であるが、A郡とB市に比べてソウルの信者は高学歴である。性別においては、ソウルには男性信者もいるがA郡とB市は女性のみである。農村であるA郡においては、日本人と言えば統一教会信者しかいないため、彼女たちが信者であることは近隣の人々は誰もが知っており、彼女たち自身も信者であることを隠そうとはしていない。彼女たちは地域社会に対して「統一教会で結婚したので韓国に来た」とはっきり伝えており、統一教会の「看板を背負っている」ようなものだという。したがって、「生活自体が伝道。仲のいい家庭を築くことが伝道」であると思っている。彼女たちは頻繁に教会に集まり、信者同士の結びつきは非常に強い。このように、信仰をはっきりと明示しても地域社会から受け入れられているのが、A郡における信仰生活の特徴である。

 ソウル近郊のB市は、2000年のデータで人口約250万人ほどの市である。ソウル近郊でこれだけの人口を有する市と言えば仁川以外にはないのだが、本書では市の名前は伏せられている。B市でも、仕事が不安定な夫がいるという点ではA郡とあまり変わらないという。ここでは、家計を支えるために家庭日用品等のネットワークビジネス「アムウェイ」の仕事をしている日本人女性信者たちが中西氏の調査対象になった。アムウェイの仕事をしていると、日曜日に所属教会に行って会う信者仲間よりも、同じ仕事をする信者仲間の結びつきが強くなる傾向にあるという。そして会社の同僚や顧客の中にはクリスチャンもいる可能性があるので、彼女たちは統一教会の信者であることを積極的に明かそうとはしていない。統一教会信者であることが自明であるA郡とは勝手が違うようだ。教会との距離感も、A郡ほどには密接な関係ではない。

 一方で、ソウル中心部にあるC教会の日本人信者はA郡やB市と比べて社会的階層が高い。韓国の大学で教員をしている者や会社経営者がおり、同様に韓国人信者の社会的階層も比較的高いという。ソウルには韓国人女性と祝福を受けた日本人の男性信者がいるのが特徴的で、これは農村のA郡には見られないことだという。大学で教員をしている男性信者は、仕事に支障が出ることを恐れて、統一教会の信者であることを隠しているという。

 中西氏がインタビューした1962年生まれの6500双の男性信者は、私とほぼ同世代(2歳年上)であり、経歴も一部重なっている。「一九八八年に祝福を受け、大勢の信者がまとまってソウルの教会所属になる。三ヶ月間、語学堂(大学付属の日本語学校)で韓国語を学び、その後、日本に戻り四〇日間のマイクロをして再び渡韓した。『世界日報』が創刊されたときで、任地生活をしながら一日に二〇〇部の配達を担当した。支局(『世界日報』の販売店)を任されると同時に家庭出発をする。このとき所属教会でくじ引きをして、そのまま韓国にとどまることになった。」(p.510)というものである。

 私も1988年に6500双の祝福を受けて「コリア人」(渡韓した日本人に対する当時の呼称)として渡韓しており、語学堂で韓国語を学んだり、『世界日報』の配達をしたりした部分はまったく同じ体験をしている。私の場合には、ソウルの城東区にあった城東(ソンドン)教会に40名ほどの日本人信者が共同生活をする中で活動した。当時は24歳であった。毎朝4時に起床して『世界日報』を配達し、昼間は新聞の拡張と伝道をし、週に3回は語学堂に通って韓国語の勉強をした。当時は全体で約4000名の日本人が渡韓し、『世界日報』の配達を担当したと聞いている。世界日報の配達は1989年2月1日から始まったが、夏になると突如として4000名の日本人のうち3000名が日本に帰るようにという指示が出され、私も8月にはソウルを後にして東京に戻り、日本で活動することになった。韓国で活動した期間は実質で7カ月ほどに終わった。私の所属していた城東教会でも10名ほどが残ることになったが、私は帰国組になった。このときに残った者と帰国した者を分けた基準が何であったかは分からないが、少なくとも城東教会ではくじ引きは行われなかった。韓国で『世界日報』の配達や伝道活動を行いながら、具体的にケアーすべき伝道対象者が韓国にいた者、あるいは相対者が韓国人であり、今後韓国で生活することを前提としている者などが残ったと記憶している。私の場合には相対者が日本人であったため、日本人同士で韓国で生活する必然性が薄かったことも、帰国組になった理由の一つであったかもしれない。

 中西氏がインタビューした日本人の男性信者が韓国に残ったのも、『世界日報』の支局を任されるなどの責任が大きかったことと、相対者が韓国人の女性であったことも理由としてあったのではないかと推察される。韓国に残ったこの男性は、日本語学校で教師の職を見つけて経済基盤を作っていく。日本人男性が韓国で職に就くのは容易ではなく、誰もが上手に日本語を教えられるわけでもない。この男性信者はとりわけ能力が高かったために、韓国社会に適応して500万ウォンもの月給を手にするようになったのであろう。韓国における代表的な成功例と言えるのではないだろうか。しかし一方で、勤務先の同僚には自分が統一教会の信者であることを明かしてはいない。韓国でも都市部では社会に順応するために信仰を隠す必要があることを意味している。

 中西氏は自分が調査した三つの地域を比較したうえで、「信者であることが農村部では顕在化し、都市部では潜在化するということになる。顕在化、潜在化によって信者としての日常生活は異なり、顕在化のA郡であれば、毎日が統一教会の看板を背負っているようなものである。・・・B市やソウルの信者と比べるとA郡のような農村の日本人女性信者は日常生活と信仰生活が一体化している。潜在化のB市やソウルでは仕事に差し支えないように日常では隠さねばならず、多少の緊張感をもって暮らすようになる。」(p.512)と結論している。

 こうした地域による信仰の違いは、日本では見られないものだ。日本国内において、北海道、東北、首都圏、中部、関西、中四国、九州では、それぞれの地方の文化の違いのようなものはあるだろうが、統一教会の信仰生活そのものが大きく変化するわけではない。同じように、韓国の全羅道、慶尚道、忠清道、京畿道、江原道で土地ごとの文化の違いがあったとしても、信仰生活そのものが大きく変化するわけではないが、信仰の顕在化・潜在化という点では大きな違いが出るというのである。農村部のA郡では信者であることを明かさずとも周囲の韓国人は「日本人女性=統一教会信者」と認識しているが、B市やソウルでは言わなければ分からないし、むしろ隠す傾向にあるということだ。日本における統一教会の信仰では、韓国のA郡のような状況は存在しないか非常にまれであり、全国的にB市やソウルのような状況にあるということになるだろう。

 中西氏の研究は、三つの地域における統一教会信者に対してインタビューを行った結果を客観的に分析したものであり、特段に事実が歪曲されたものであるとは考えられない。ただし、彼女の分析は在韓の日本人信者を対象としたものであり、韓国人を含めた韓国統一教会の全体像をとらえたものではないことは留意しておかなければならない。すなわち、信者であることが農村部では顕在化し、都市部では潜在化するという傾向は、日本人信者には当てはまるかもしれないが、韓国人信者にも同じことがいえるとは限らないということである。韓国の農村にお嫁に来た日本人女性は、ただでさえ地域社会で目立つ存在である。その理由を問われれば、統一教会の信仰を明かさないわけにはいかないであろう。しかし、田舎であったとしても地域社会に溶け込んでいる韓国人の統一教会員がことさらに信仰を顕在化する必要があるとは思えない。

 日韓を本格的に比較するのであれば、同じ韓国人と日本人のカップルであっても、日本に嫁いだ韓国人女性の信仰生活のあり方と日本社会との関係、さらに日本在住の韓国人男性の信仰生活のあり方と日本社会との関係、およびその地域差などを合わせて比較すれば、面白い研究になるかもしれない。しかし中西氏はそこまで問題を掘り下げることなく、韓国における日本人信者の信仰生活と、自らは直接調査していない日本における統一教会の信仰生活を比較することで終わっているため、研究に深みがなくなってしまっている。この点に関しては次回扱うことにする。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』191


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第191回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第九章 在韓日本人信者の信仰生活」の続き

 「第9章 在韓日本人信者の信仰生活」は、韓国に嫁いで暮らす日本人の統一教会女性信者に対するインタビュー内容に基づいて記述されている。第185回から「四 日本人女性にとっての祝福家庭」の内容に入った。中西氏によれば、この部分は日本人女性信者たちが祝福や韓国での家庭生活にどのような意味づけをしているかを、彼女たち自身の口を通して語らせることにより、彼女たちが「主観的にどう捉えているか」を見ることを目的としているという。そしてそれを通して、なぜ彼女たちが韓国にお嫁に来て統一教会の信仰を維持できるのかを明らかにしようとしているのである。

 中西氏は「5 信仰のない夫や舅姑との関係」と題する項目を設け、篤信の信者である日本人の妻と、信仰がほとんどないか、あっても熱心ではない夫や舅姑との間で信仰をめぐる葛藤が起こらないのかどうかを分析している。中西氏によれば、日本人の妻にとって祝福は結婚であって結婚ではなく、むしろ結婚という形をとった社会変革運動であり、宗教実践であるというものであった。それに対して韓国人の夫は田舎における嫁不足を解消するために祝福を受けたのであり、目的は宗教ではなく結婚そのものであった。舅姑も、息子を結婚させたくて祝福に申し込んだのであり、信仰は二の次である可能性がある。そのようにして成立した結婚には、信仰の違いによる葛藤が生じるのではないかと中西氏は予想したのである。

 ところが、中西氏の聞き取りによれば、それは双方にとってそれほど深刻な問題ではなかった。まず、日本人女性たちの夫の信仰に対する評価であるが、夫に信仰がないことを妻は十分に承知しているという。夫は礼拝には出てこないか、出たとしても妻が喜ぶからという程度の動機なのだが、それでも「信仰なしとは言えない」と彼女たちは解釈しているというのである。すなわち、韓国人はたとえ原理を知らなくても、韓国文化そのものの中に原理が根付いていて、「為に生きる」生活ができているというのである。

 この語りは、以前に紹介したことがある韓日祝福を受けて韓国にお嫁に行った知り合いの姉妹の言葉とほぼ同じ内容である。彼女の主体者は親戚に教会員がいて、その人から「統一教会に入れば結婚できる」と言われ、それを動機として入教し、祝福を受けた韓国人であった。こうした場合、祝福を受ける動機は結婚そのものにあるので、宗教的教育は一通りの原理講義を聞いて終わりという場合が多い。『原理講論』を読んだこともなく、その内容を細かく覚えてはいない。伝道される過程で原理講義を何度も受け、『原理講論』を熱心に読む日本の統一教会信者から見れば、「本当に原理を分かっているのかしら?」と思うかも知れない。

 ところが、彼女のとらえ方は違っていた。主体者の両親と同居しながら結婚生活をする中で、主体者が両親に親孝行する姿に感動したのである。主体者はいわゆる優秀で社会的地位のある人ではなかったが、思いやりがあり、人に尽くす人であった。その姿を通して彼女が感じたのは、「自分は『原理講論』の内容を頭で知っているけれども、実際には人の為に生きる生活が出来ていない。しかし、彼は教理としての原理は良く知らないかもしれないけれども、生活の中で自然に親孝行し、人の為に生きている。彼は心で原理を知っているのであり、彼の生活は私よりも原理的かもしれない」ということであった。日本人は信仰をとかく理論理屈でとらえるのに対して、韓国人にとってそれは生活の中で自然な情の発露として現れるものであるという、典型的な例であった。彼女はそうした夫を尊敬し、愛し、二人の子供に恵まれて韓国で幸せに暮らしている。

 それでは舅姑との関係はどうだろうか? 中西氏は、韓国には「シジプサリ(嫁暮らし)」という言葉があり、夫や舅姑に無条件に仕えて暮らす嫁のあり方は韓国の女性にとっても大変辛いものなので、韓日祝福の日本人女性にとってはなおさらであるとしている。私の知り合いの中にも、韓国に嫁いで舅姑と同居している日本人女性がおり、彼女たちが「シオモニ(姑のこと)に侍るのがすごく大変だ」という話を聞いたことはあるので、シジプサリが大変だというのは事実なのであろう。にもかかわらず、本書では日本人妻が舅姑と比較的良好な関係を築いていることが紹介されている。

 統一教会では先祖を大切にするので、儒教の伝統行事である先祖祭祀の時に嫁としての役割を果たすことに対して、日本人の女性信者は抵抗がない。家族や親族が集まる祭祀のときに食事の準備などの手伝いを頑張れば、嫁としての評価も上がるという語りが紹介されている。一方で、長男のお嫁さんはクリスチャンであり、先祖祭祀は偶像崇拝に当たるとして来ないので、むしろそちらの方が信仰に起因する葛藤を引き起こしそうだというわけである。

 統一教会の日本人妻は、夫や舅姑と信仰を共有していなかったとしても、妻の信仰が家庭に支障をきたすようなものでない限り、宗教をめぐる葛藤は起こりにくいと中西氏は分析する。むしろ、日本人女性信者たちにとって信仰実践とは、夫や舅姑によく尽くし、子供を産み育て、家庭をうまく切り盛りすることにあるので、信仰に忠実であればあるほど良妻賢母となり、夫や舅姑に気に入られ、周囲も感心する良い嫁になるというのだ。

 ここで中西氏は、以前このブログで私が紹介した2006年3月号『月刊新東亜』の記事を引用している。その記事は韓国でたくましく生き、社会的にも活躍している日本人の祝福家庭婦人について書いたものだ。
「最近、農村社会で膾炙する話題の中の一つは、韓国農村の独身男性に嫁いできた統一教を信じる日本の嫁である。彼女達は地方各地で数々の団体が授与する孝婦賞をさらっている。……KBSの全国のど自慢の番組にときどき出演して韓国歌謡を歌う農村の日本女性や、光復節にあたって放送や新聞を通して日本の韓国侵略に対して謝罪する日本人の嫁達はたいてい韓国に嫁ぎ、『婚家の方をより愛するように』なった日本統一教信者である」(イ・ジョンフン 二〇〇六)」(p.504)

 この「孝婦賞」というのは、親孝行を実践した模範的な女性に与えられる賞だが、里長や老人会長、地域の人々などの推薦により、郡、農協、赤十字、老人会などの団体が授与するという。祝福家庭の日本人婦人の場合には、農村に嫁いで言葉や生活習慣が違う中で、慣れない農作業や家事育児をきちんとこなし、舅姑が寝たきりになれば下の世話も嫌な顔をせずにするという姿が評価されて受賞するのである。

 このように中西氏は、信仰のない夫や舅姑との関係をいたずらに歪曲して葛藤に満ちたものであると描くことなく、比較的良好な関係になるように日本人女性がうまく適応している現実をありのままに描いており、この部分の記述に関しては好感が持てる。

 にもかかわらず、信仰のない夫や舅姑との関係は必ずしも楽なものではなく、多くの日本人女性が苦労している部分であることを、ここではあえて紹介しておく。それは私が実際に知っている日本人女性信者から聞いた内容でもあり、以前にこのブログでも紹介した、国際家庭特別巡回師室編『本郷人の道』の記述の中にもそうした内容が見られるからだ。

 祝福は、本来は男女とも信仰を動機としてなす結婚であるべきである。しかし、韓国統一教会には日本人女性の相手となる十分な数の男性信者がいなかった。そこで日本人の女性信者の相手を探すために、結婚難に苦しむ田舎の男性に声をかけるということを始めたのである。信仰のない男性に嫁がせることに対する不安や批判は当然あったと思われる。しかし日本の女性信者は優秀で信仰が篤いので、そうした男性をも教育して最終的には教会員にすることを期待して、これらのマッチングが行われたのであろう。しかし、そもそもの動機が信仰ではなく結婚にあった夫を伝道するのは容易ではなく、妻が夫よりも教会を優先する姿勢を見せれば、夫は機嫌が悪くなり、教会に対する反発や不信感をいだくようになる。このことは『本郷人の道』の中で以下のように書かれている。
「任地生活は本来、夫婦が一つの心情で共に行くべきものです。私たちが陥ってはいけない立場は、相対者に向かう横的情を犠牲にして信仰生活に投入する、といっては、『教会活動』を理由に相対者の意識を無視してしまい、結局、相対者の中に教会に対する不信感を抱かせてしまうことです。本来教会によって得た祝福であって、常に私たちを通して相対者が教会を理解し、教会に感謝し、そこから喜びを持って信仰生活ができるようにしていかなければなりません。時々、韓国の相対者に『あなたは教会と私のどちらを取るのか』などの思い詰めたことを言われてしまう例があります。結局、その『教会』と『私』を一つにできなかったということは、任地を共に勝利したということにはならず、家庭出発後も変わらずみ旨を中心に生活していくということが難しくなってくるのです。」(『本郷人の道』p.323)

 信仰のない夫や舅姑との関係は容易なものではなく、多くの日本人女性が理想と現実の狭間で苦労している問題である。にもかかわらず、多くの日本人女性たちが自らに課せられた試練を乗り越えて、夫や舅姑と良好な関係を築き、地域社会から「孝婦」として表彰されているというのは驚くべき事実である。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』190


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第190回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第九章 在韓日本人信者の信仰生活」の続き

 「第9章 在韓日本人信者の信仰生活」は、韓国に嫁いで暮らす日本人の統一教会女性信者に対するインタビュー内容に基づいて記述されている。第185回から「四 日本人女性にとっての祝福家庭」の内容に入った。中西氏によれば、この部分は日本人女性信者たちが祝福や韓国での家庭生活にどのような意味づけをしているかを、彼女たち自身の口を通して語らせることにより、彼女たちが「主観的にどう捉えているか」を見ることを目的としているという。そしてそれを通して、なぜ彼女たちが韓国にお嫁に来て統一教会の信仰を維持できるのかを明らかにしようとしているのである。

 中西氏は「4 祝福と結婚生活の本質」と題する項目を設け、聞き取り調査の結果得られた知見に対して自分なりの解釈を施している。そこで彼女が下している結論は、祝福は結婚であって結婚ではなく、むしろ結婚という形をとった社会変革運動であり、宗教実践であるというものである。これは暴言に近いものの言い方であり、他者の結婚の本質をこれほどまでに断定的な物言いで規定する資格が一宗教社会学者にあるというのだろうか、と思わざるを得ない内容であった。

 前回はこれに対して、彼女の結婚の定義そのものが現代社会に特有の世俗的で、個人主義的で、(「上昇婚」という言葉に代表されるような)自己中心的な動機に基づくものであることを説明した。たしかに祝福結婚はこうした結婚の定義に収まらないかもしれない。しかし、伝統的な社会においては、結婚は個人の欲望のためにするというよりは、家や血統の存続のため、種族や社会の維持のためといったより公的な目的を持っていた。中西氏の結婚の定義によれば、こうした近代以前の結婚もまた、結婚ではなくなってしまう。

 渡辺京二の著作『逝きし世の面影』は、幕末・維新の時代に訪れた外国人が見た古きよき日本の姿を、彼らが残した文献をもとに再現した本であるが、彼は江戸時代の日本が「子供の楽園」であり、当時の日本人の親子の情愛の深さは、西洋人たちが羨ましがるほどであったことを報告する一方で、夫婦の愛情に関しては日本人にはまったく見るべきものがなかったと述べている。彼はプロイセンの軍人であり外交官であったラインホルト・ヴェルナーの以下のような言葉を引用している。
「わたしが日本人の精神生活について知りえたところによれば、愛情が結婚の動機になることはまったくないか、あるいはめったにない。そこでしばしば主婦や娘にとって、愛情とは未知の感情であるかのような印象を受ける。わたしはたしかに両親が子どもたちを愛撫し、また子どもたちが両親になついている光景を見てきたが、夫婦が愛し合っている様子を一度も見たことがない。神奈川や長崎で長年日本女性と夫婦生活をし、この問題について判断を下しうるヨーロッパ人たちも、日本女性は言葉の高貴な意味における愛を全く知らないと考えている」

 日本の上流階級の女性たちは、しあわせな少女時代を過ごすが、そのしあわせは結婚とともに終わったという。結婚は個人と個人の精神的な結びつきというよりも、家と家の結合であり、実家を離れて夫の属する家に入ることであった。家の支配者である舅姑および夫に対する奉仕者として、徹底した忍従と自己放棄の生活をするのが新婚生活だったのである。昔の日本の女性たちが余裕や自由が持つことができたのは、舅姑が亡くなり、子供が一人前になった後の晩年だけであり、「甘い新婚生活」などというものはそもそも存在しなかったのである。もし中西氏がタイムスリップして江戸期から明治期にかけてのこうした結婚のあり方を調査したならば、彼女の記述は以下のようなものになるだろう。これは統一教会の祝福に対する彼女の評価を、そのまま近代以前の結婚に対して当てはめたものである。
「聞き取り調査から近代以前の日本人女性達は、婚家での生活を『家』を存続させるための義務であるとして受けとめていることが窺われる。彼女達にとっては結婚と結婚生活はこのためにあり、愛情や精神的安定を求めて結婚したのではないことは明らかである。結婚に愛情や精神的安定を第一に求めたのならば、近代以前の結婚は到底受け入れられない。彼女達は儒教的な近代以前の価値観を内面化し、惚れたはれたで一緒になることはふしだらなことであり、親の命令に従うことが娘としての道理であると受け止めることで、親が決めたどこの誰ともわからない相手と愛情もないまま、大変な生活になることを覚悟の上で結婚することができた。

 さらにいえば、近代以前の結婚は結婚であって結婚ではない。結婚をどのようにとらえるかにもよるが、男女の愛情と合意、全人格的な結びつきという点を強調するなら結婚とはいえない。むしろ結婚という形をとった『家』という社会単位の存続であり、儒教的価値観の実践と見る方がわかりやすい。」(以上、魚谷による書き換え)

 こうして比較すると分かることは、中西氏は統一教会の祝福のあり方を否定することを通して、伝統的な社会における結婚をも否定することになってしまっているということだ。しかし、彼女が当然のものとして肯定する世俗的で個人主義的な現代の結婚観は、欧米社会や日本にみられる離婚率の上昇によって破綻しかかっており、再考を求められていることは既に前回説明したとおりである。

 さて今回は、これまで韓国在住の日本人女性に対する聞き取り調査をもとに客観的な記述に努めてきた彼女が、この部分でなぜ「本質」と銘打って批判的な記述をしたのかを分析してみたいと思う。

 そもそも、中西氏が最初に書いた論文「『地上天国』建設のための結婚一ある新宗教教団における集団結婚式参加者への聞き取り調査から一」(「宗教と社会」Religion and Society 2004, Vol.10: 47-70)には、こうした批判的な記述はなく、以下に示すような共感的な記述が見受けられる。
「韓国の男性と結婚し、夫や夫の父母に尽くすこと、子どもを生み育てることは、結婚生活それ自体が、贖罪となり、理想世界『地上天国』建設への実践となる。それは、彼女たちが入信前から求めていた生きる意味や世界平和への思いを満たすことにつながる。彼女たちは、もともと現実の結婚に対して夢や希望を持っていなかったが、生きる意味や世界平和への思いをかなえるという限りにおいて、統一教会における結婚は受け入れられるものとなった。…そこに恋愛感情は必要なく、結婚相手の男性が自分の好みに合うかどうかも問題ではない。日本と韓国の歴史的な関係に照らし合わせるなら、むしろ合わない相手と一緒になることこそ意味がある。結婚生活を続ける中での苦労もやりがいのある苦労となり、乗り越える力を彼女たちに与える。統一教会の結婚は、男女が好意をよせ合った結果の結婚とは異なるが、彼女たちにとって自己実現となり得るものであった。

 最初に述べたように、本稿は、統一教会や合同結婚式の是非を問うものではない。韓国に嫁いだ日本人女性たちの語りから、合同結婚式をとらえ直す試みであった。彼女たちの語りから構成してみると、合同結婚式を受け入れ、韓国での結婚生活を継続できるのは、彼女たちが元来もっていた欲求と統一教会の結婚観が一致した結果であると解釈できるものとなった。もちろん、彼女たちが統一教会の教えを内面化した結果の結婚にすぎないという解釈もできる。ただ筆者は、欲求と統一教会の結婚観とに一致がなければ、彼女たちがA郡に暮らすまでに至らなかったのではないかと感じる。A郡で暮らすとなると生活環境は激変する。田舎暮らし、交際したこともない韓国人男性との結婚生活、場合によっては夫の父母やきょうだいと同居、言葉は満足に通じない、決して豊かとはいえない生活、三食がキムチを中心とした唐辛子味の食生活など、実生活の現実に直面する。欲求と結婚観の一致がなければ、到底A郡では暮らせないのではないかと感じるのである。」(p.64-65)

 この文章からは、統一教会の女性信者達はもともと統一教会の結婚観に一致するような内面の欲求を持っていたことが強調され、それが彼女たちの自己実現となるものであることが肯定的に評価されている。しかし、後に書いた本書の分析では、教団の教えを内面化された結果とし、組織の一員として動いているだけだという否定的な記述に書き換えられているのである。いったいその間に何があったのだろうか? 実はこのことは、米本和広氏の著書『われらの不快な隣人』の中に、以下のように書かれている。
「宗教社会学者の中西尋子が、『宗教と社会』学会で、<『地上天国』建設のための結婚ーある新宗教団体における集団結婚式参加者への聞き取り調査から>というテーマの研究発表を行なった。…その会合に出席にしていた『全国弁連』の東京と関西の弁護士が詰問した。『霊感商法をどう認識しているのか』『(日本の)統一教会を結果として利するような論文を発表していいのか』。出席者によれば、『中西さんはボコボコにされた』という」。

 つまり、彼女は弁護士たちに徹底的に糾弾され、結局はその圧力に屈して、櫻井氏と一緒にこの本を書くことになったのである。このように、いまの日本の宗教学界では少しでも統一教会に有利なことを書こうとすると、たとえその内容が客観的で中立的なものであったとしても、統一教会に反対する人たちから圧力がかけられてしまうのである。それまで聞き取り調査に基づく客観的な記述を行っていた中西氏が、突如として「4 祝福と結婚生活の本質」と題する項目を設け、祝福結婚を一刀両断に切り捨てるかのごとき表現を不自然にしているのは、こうした圧力が背景にあったからであると思われる。
 

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』189


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第189回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第九章 在韓日本人信者の信仰生活」の続き

 「第9章 在韓日本人信者の信仰生活」は、韓国に嫁いで暮らす日本人の統一教会女性信者に対するインタビュー内容に基づいて記述されている。第185回から「四 日本人女性にとっての祝福家庭」の内容に入った。中西氏によれば、この部分は日本人女性信者たちが祝福や韓国での家庭生活にどのような意味づけをしているかを、彼女たち自身の口を通して語らせることにより、彼女たちが「主観的にどう捉えているか」を見ることを目的としているという。そしてそれを通して、なぜ彼女たちが韓国にお嫁に来て統一教会の信仰を維持できるのかを明らかにしようとしているのである。

 中西氏は「4 祝福と結婚生活の本質」と題する項目を設け、聞き取り調査の結果得られた知見に対して自分なりの解釈を施している。これまでの客観的なデータの記述からここでまとめに転じることになるわけだが、「本質」と銘打って行う彼女の分析は、彼女が執筆した部分の中で最もひどい内容になっている。いったい、他者の結婚の本質をこれほどまでに断定的な物言いで規定する資格が一宗教社会学者にあるというのだろうか、と思わざるを得ない。以下に主要な部分を引用する。
「聞き取り調査から韓日祝福の日本人女性達は、韓国での生活を地上天国の実現と罪の清算として受けとめていることが窺われる。彼女達にとっては結婚と結婚生活はこのためにあり、愛情や精神的・物質的安定を求めて結婚したのではないことは明らかである。結婚に愛情や精神的安定を第一に求めたのならば、祝福は到底受け入れられない。彼女達は統一教会の教説を内面化し、恋愛結婚は堕落した結婚であり祝福こそ理想の結婚と受け止めることで、教団が決めたどこの誰ともわからない相手と愛情もないまま、大変な生活になることを覚悟の上で結婚することができた。

 さらにいえば、祝福は結婚であって結婚ではない。結婚をどのようにとらえるかにもよるが、男女の愛情と合意、全人格的な結びつきという点を強調するなら結婚とはいえない。むしろ結婚という形をとった社会変革運動であり、宗教実践と見る方がわかりやすい。」(p.500)
「祝福と結婚生活は地上天国の実現と罪の清算のための社会変革運動である。彼女達は結婚しようと思って祝福を受け入れたのではなく、統一教会による社会変革運動に共感して身を投じた。したがって祝福に恋愛感情は必要なく、下降婚になっても構わない。信仰のない夫は同志にはならないが、神の子を生むためには必要である。経済的に楽でなく、苦労の多い生活も社会変革運動であり、そのための宗教実践だから受け入れられるものになる。」(p.500-1)
「統一教会の女性信者はみな文鮮明の花嫁の立場にある。夫は文鮮明の身代わりで種を与えるだけにすぎず、彼女達は夫を通して文鮮明の姿を見ている。本音をいえば、大切なのは夫よりも文鮮明であって、彼女達は文鮮明に付き従って共に運動を展開しているのである。彼女達の生活は実態として見るならば、国際結婚をして韓国で生活しているだけだが、彼女たち自身にとっては日本にいたときと変わりなく、文鮮明を頂点にした組織の一員として理想世界を作るため、罪の清算のために邁進する毎日なのである。」(p.501)

 彼女たちが結婚した動機が恋愛感情になかったことは確かだが、だからと言って彼女たちの結婚生活に愛情や人格的な結びつき、あるいは精神的な安定といった要素がないとどうして言い切れるのであろうか。ましてや「祝福は結婚であって結婚でない」という言い方は暴言に等しい。中西氏は恋愛感情と夫婦の愛情を同一視しているようだが、これらは多くの場合別物である。恋愛感情は男女を互いに引き付け、結婚の動機となりえるものであるが、それが一生涯継続することは少ない。通常の結婚生活においても3年程度で熱烈な恋愛感情はなくなり、その後はより穏やかで持続的な夫婦の愛情に変わっていくものである。これは現代の恋愛結婚の場合だが、昔の見合い結婚の場合には親が決めた相手と恋愛感情もなく結婚し、夫婦になることも珍しくなかった。それでも長年連れ添っているうちに徐々に夫婦愛が培われていったのである。統一教会の祝福家庭にもこのような夫婦の愛が育つということを、中西氏は想像できなかったのだろうか。

 この問題に対して、「サイコロジー・トゥデイ」の元編集長であるロバート・エプステイン博士は以下のように述べている。(以下、ビデオ映像からの書き起こし)
「世の中には見合い結婚をして徐々に夫婦間の愛情が成長している例が多くあります。私は2003年からそのような人々を探し出し、幅広い聞き取り調査をしてきました。そもそもの問いかけは見合い結婚の夫婦の間で愛がどのように成長していくのか、愛が成長するのに何が必要だったのかを見つけようとしたのです。と言うのも現在の私たちの婚姻スタイルは機能していません。米国では初婚のほぼ半数が離婚に終わっています。再婚の3分の2が壊れていきます。そして三度目の結婚も75%が離婚しています。今の結婚文化が全くうまく行っていないのは明らかです。

 安定した結婚生活を送れないことによって離婚前後の実に長い期間、様々に惨めな思いを味わい、苦しみを経験するのです。つまり離婚調停とか子供に対する親権の争い、弁護士の加入など、多様な事柄が横たわり私たちを苦しめています。ですから新たな結婚モデルが必要なのは明らかですが、私達が適用できる別のモデルが実は世の中に存在しています。

 私たちが調査のために見合い結婚のサンプルとして選択した夫婦の約28%が統一教会信徒の家族でした。それで若干の比較調査をすることができたのですが、統一教会の夫婦はみな、それ以外の見合い結婚の夫婦と同様に時間と共に愛情が成長しています。統一教会以外の文化を背景にした見合い結婚も、同じように愛情が成長しているのです。

 すなわち見合い結婚が西洋社会の典型的な結婚スタイルと比べて全体的によい傾向が見られ、質的に異なるものになっているのです。例えば典型的な西洋社会の結婚モデルでは、夫婦の間の愛情の度合いを示す曲線は下降線をたどります。見合い結婚の夫婦を見れば、多くの場合に愛情曲線は上昇線をたどるのです。最新の調査によれば、見合い結婚当初の夫婦の愛情度が10点満点中平均5.3点だった夫婦たちに、平均14年後に改めて聞き取りをした際、彼ら夫婦たちの愛情度は平均9.3点でした。これは非常に劇的な上昇傾向と言えます。

 つまり時間と共に愛情を高めていくことは可能なのです。統一教会の信者の場合も、同教会以外の文化を背景にした見合い結婚の夫婦に見られたのとほぼ同じ傾向を見ることができました。」

 日本でも伝統的な見合い結婚が衰退し、欧米流の恋愛結婚が主流となったが、その結果は欧米の現実と同じ離婚率の上昇であった。すなわち、恋愛結婚が必ずしも安定した結婚生活をもたらすとは言えず、むしろその逆であることをデータは示しているのである。

 また、統一教会の祝福結婚について研究した米国の宗教社会学者ジェームズ・グレイス博士は、著書『統一運動における性と結婚』において、統一運動においては結婚前の独身生活においては恋愛を全面的に禁止しているが、マッチングを受けて相対者が決定した者たちは、「聖別・約婚期間」に徐々にお互いに対する恋愛感情を育てていき、夫婦になった後にも互いに対する愛情を育てていることを認めている。これが事実であれば、韓国人と日本人のカップルにのみこうした夫婦の愛情が育たないということは考えられない。

 「祝福は結婚であって結婚でない」という中西氏の発言は、彼女自身が言う通り、結婚をどのようにとらえるかによって規定されている。中西氏は結婚を、男女の愛情を動機として、精神的・物質的安定を求めてするものだと定義しているが、これは極めて現代的で世俗的な結婚の定義である。一言でいえば、個人主義的で(「上昇婚」という言葉に表現されるような)自己中心的な動機に基づく結婚が当たり前であるという時代の結婚観である。しかし、伝統的な社会においては、結婚は個人の欲望のためにするというよりは、家や血統の存続のため、種族や社会の維持のためといったより公的な目的を持っていた。中西氏の結婚の定義によれば、こうした近代以前の結婚は結婚でなくなってしまう。

 ジェームズ・グレイス博士は、現代アメリカ人の結婚に対する価値観は、個人主義的な幸福の追求に重きを置くあまり、社会全体の利益に対する深い関心をまったく欠いた状態になっており、これが離婚の増大に代表される現代社会の病理の原因であると分析している。そして社会に貢献することを主要な目的とする統一教会の結婚観から、アメリカ社会は多くを学ぶことができると評価しているのである。

 中西氏は、祝福は結婚であって結婚でなく、社会変革運動であり、宗教実践であるとしているが、そもそもこれらを分離して考えること自体が彼女の分析の限界である。統一教会の祝福は紛れもなく結婚であり、それと同時に社会改革運動であり、宗教実践でもあるのだ。端的に表現すれば、宗教的信仰を動機として、社会を変革するための結婚なのである。彼女が「祝福は結婚であって結婚でない」と主張するのは、彼女の結婚の定義が世俗的で個人主義的なものであるため、その定義に統一教会の祝福が当てはまらないということに過ぎない。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』188


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第188回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第九章 在韓日本人信者の信仰生活」の続き

 「第9章 在韓日本人信者の信仰生活」は、韓国に嫁いで暮らす日本人の統一教会女性信者に対するインタビュー内容に基づいて記述されている。第185回から「四 日本人女性にとっての祝福家庭」の内容に入った。中西氏によれば、この部分は日本人女性信者たちが祝福や韓国での家庭生活にどのような意味づけをしているかを、彼女たち自身の口を通して語らせることにより、彼女たちが「主観的にどう捉えているか」を見ることを目的としているという。そしてそれを通して、なぜ彼女たちが韓国にお嫁に来て統一教会の信仰を維持できるのかを明らかにしようとしているのである。

 中西氏によれば、韓国で暮らす日本人女性信者たちの結婚生活を下支えしている統一教会の教えは、①地上天国の実現と、②罪の清算であるという。前回から②の「罪の清算としての生活」に関する記述に入ったが、今回はその続きである。

 中西氏は「日本人女性信者達は韓国での生活を罪の清算として受け止めていると同時に、もう一つ、別の受け止め方もある。離婚、脱会で韓国の生活をやめることは逆に『蕩減が重くなる』という理由である。」「韓国での生活を続けることは罪の清算になるが、逆に離婚や脱会をして韓国での生活をやめることは罪を増すことになる。だから韓国での生活をやめられない、離婚も脱会もできないということである。」(p.498)と述べている。

 まず、韓国での生活をやめれば「蕩減が重くなる」という表現は、『原理講論』の中に出てくる蕩減条件の立て方に関する記述に基づくものであり、宗教的教義の理解としては正当なものであることを確認しておきたい。そもそも「蕩減」とは、罪を償うためにそれを埋め合わせるに足るだけの条件を立てることを言うのだが、原理講論ではその程度として「同一の条件」「より小さな条件」「より大きな条件」の3種類が紹介されている。このうち、「より大きな条件」をもって償うことを「増償法」と呼び、以下のように説明されている。
「これは、小さい価値をもって蕩減条件を立てるのに失敗したとき、それよりも大きな価値の蕩減条件を再び立てて、原状へと復帰する場合をいう。例えば、アブラハムは鳩と羊と雌牛とをささげる献祭において失敗をしたため、彼の蕩減条件は加重され、一人息子のイサクを供え物として、ささげるようになった。また、モーセのときには、イスラエル民族が四十日の偵察期間を、天のみ意にかなうように立てることができなかったために、その蕩減条件が加重され、彼らは一日を一年として計算した四十年間を、荒野において流浪しなければならなかったのである」(『原理講論』後編 復帰原理・緒論より)

 したがって、こうした教義を理解している在韓の日本人女性信者が、「祝福破棄したらなおさら蕩減が重くなる」(p.498)というような捉え方をするのはある意味で自然なことである。しかし、このことを中西氏は青春を返せ裁判の資料から引っ張ってきた「いったん原理に出会い、これを知った者が、原理を捨てることは、原理を知らない者以上に罪深いことであり、その者は霊界において、永遠に責め続けられる」といった証言を引用しながら、「この教えを植え込まれ、恐怖心ゆえに脱会できなかった」というような解釈と結び付けている。

 祝福の破棄や離婚によって蕩減が重くなるという宗教的言説が、韓国での苦しい生活を忍耐していくうえで心の支えになったり、励ましになったりした可能性はあるであろう。しかしながら、その恐怖のゆえに離婚や脱会ができない心理状態に追い込まれていたというのは、まったく別の話である。なぜなら、実際にそのような言説を聞いていても脱会する信者が日本に多数いるのと同様に、祝福を破棄して離婚、日本への帰国、脱会といった選択をする信者は渡韓した日本人女性の中にもいるからである。このことは櫻井氏の示した事例によっても、中西氏のインタビューによっても示されており、こうした宗教的言説は信者の自由意思を拘束して脱会を阻止することはできないことが証明されている。したがって、こうした宗教的言説を信じるか信じないかは、最終的には個人の自由意思に基づく選択によって決定されるのであり、その効果を過大評価することはできない。

 中西氏はこうした宗教的言説による恐怖や忍従という要素を指摘する一方で、信者達の現実の信仰生活を観察すれば、それだけで韓国にいるわけではないことを認めている。少々長くなるが、その部分を引用してみよう。
「日本人女性信者達は韓国での生活に地上天国の実現という希望的な意義を認めながら、その一方で罪の清算や棄教の恐怖を併せ持って生活を続けている。夫や舅姑に仕え、口答えもせずに耐え忍ぶだけの生活をしているように見えるかもしれないが、実際に接した日本人信者に限っていえば、経済的に楽ではなくとも忍従の日々を送っているようには見えなかった。教会に集まると『うちのシオモニが』『うちの主体者が』と、姑や夫の話をして楽しそうに笑っている。調査地滞在中、彼女達の家に訪問することがしばしばあった。『一人で食事するんでしょ』『何もないけど、よかったら食べに来たら』と家の夕食に誘ってくれたり、こちらからいきなり訪ねて行って家に上がって聞き取りをしたりした。途中で夫や姑が帰宅することもあったが、彼女達はいっこうに気にする様子はなかった。ある女性の家で聞き取り調査をしているところに夫が帰宅したことがあった。夫は気遣ってくれたのか、着替えるとすぐに子供を連れて散歩に出かけた。夕方だったので筆者の方が調査を切り上げて帰るべきだが、彼女は『いいの、いいの』と夫に遠慮する様子もなかった。もし彼女達が夫や舅姑に遠慮しながら暮らしていたら、筆者を家に誘うことはないだろうし、こちらから訪問するのも嫌がったと思う。」(p.499)

 中西氏が罪の清算や棄教の恐怖を強調する割には、実際に彼女が出会った日本人女性たちの生活は楽しくて生き生きとしたものであったし、韓国人の家族との関係も気兼ねのない和気あいあいとしたものだったようである。統一教会反対派は、韓国に渡った日本人女性たちは苦労ばかりの多い生活を強いられているかのように主張しているが、実際には彼女たちは韓国でたくましく生きており、現地に適応して充実した生活をしている場合が多いのである。このギャップの原因としては二重の要素が考えられる。

 第一に、彼女たちの生活を支えているのは確かに統一教会の信仰だが、その中における創造原理的な部分と堕落論・復帰原理的な部分のバランスである。中西氏の表現によれば①地上天国の実現と②罪の清算という二つの動機のバランスになるのだが、人はネガティブなことを中心とするよりも、ポジティブなことを中心として生活した方が前向きで積極的な生き方ができるものである。日韓の壁を越えて理想家庭を作り、神の子を産み育てるという創造原理的な希望の方が彼女達の信仰生活の中でより大きな部分を占めているということではないだろうか。自分の置かれた環境が「罪の清算」のためであるという認識は、彼女達が乗り越えるべき試練や苦労に立ち向かっていくときにはクローズアップされたかもしれないが、幸福な家庭生活を送っている場合には無理にそのことを意識する必要はないのである。

 もう一つの要素は、宗教的な教えと現実の生活とのギャップである。在韓の日本人女性信者たちは俗世間と隔離された修道生活を送っているわけではなく、世俗の世界の中に身を置いて生活しているわけであるから、四六時中宗教的なことだけを考えて生活しているわけではない。実際問題として、いかに篤実な信仰を持った人だといっても、常に「罪の清算」のことだけを考えて生活しているわけではないだろう。

 さらに、同じ宗教的教えを信じているといってもその解釈の仕方は人それぞれである。例えば、統一教会の祝福について研究を行った米国の宗教社会学者ジェームズ・グレイス博士は、著書『統一運動における性と結婚』において、男性が主体であり女性が対象であるという『原理講論』の公式の教えがあるにもかかわらず、実際の夫婦関係における男女の役割分担に対する考え方は祝福家庭のカップルの中でも様々な解釈が存在すると分析している。すなわち、文字通り女性は男性に従うべきであるという考え方をする者もいれば、主体と対象はより実存主義的な意味であり、役割分担を固定化しないより開かれた解釈をすべきだと考える者もいたということだ。

 このことから敷衍すれば、韓国における祝福家庭の夫婦関係や嫁姑の関係においても、日本人が贖罪のために一方的に夫や舅姑に仕え、忍従しなければならないという考え方はあまりにも文字通りの「根本主義的」な教義の理解であり、実際の家族関係はより柔軟で開かれたものであるべきと考える者がいても不思議ではない。宗教的な教えが存在することと、それを実際の生活に適用して実践することは別の話であり、両者の間には常にギャップがあることは理解しておかなければならないであろう。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』187


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第187回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第九章 在韓日本人信者の信仰生活」の続き

 「第9章 在韓日本人信者の信仰生活」は、韓国に嫁いで暮らす日本人の統一教会女性信者に対するインタビュー内容に基づいて記述されている。第185回から「四 日本人女性にとっての祝福家庭」の内容に入った。中西氏によれば、この部分は日本人女性信者たちが祝福や韓国での家庭生活にどのような意味づけをしているかを、彼女たち自身の口を通して語らせることにより、彼女たちが「主観的にどう捉えているか」を見ることを目的としているという。そしてそれを通して、なぜ彼女たちが韓国にお嫁に来て統一教会の信仰を維持できるのかを明らかにしようとしているのである。

 中西氏によれば、韓国で暮らす日本人女性信者たちの結婚生活を下支えしている統一教会の教えは、①地上天国の実現と、②罪の清算であるという。前回は①の「地上天国実現のための家庭生活」という側面を分析したので、今回は②の「罪の清算としての生活」に関する記述を扱うことにする。

 中川氏は495-6ページにかけて統一教会の来世観について『原理講論』の記述に基づいて解説している。その中には堕落論に基づく罪の清算に関する記述も含まれており、肉身生活を通して罪の清算がなされることや、「蕩減」の概念が説明されている。さらに、統一原理における原罪、遺伝罪、連帯罪、自犯罪の概念が説明される。ここまでの説明は原理講論の記述に基づくものであるため、概ね正確な記述となっている。

 中西氏は、「このうち原罪は祝福を受けることによって清算される。残りの三つ、遺伝罪、連帯罪、自犯罪は善行の積み重ねによって清算しなければならない。日本人女性信者達の韓国での生活はこの三つの罪の清算のためにある。」(p.497)と説明したうえで、彼女たちが韓国における生活の苦労を罪の清算として捉えていることを紹介している。例えば以下のような語りである。
「(韓国に)嫁に来るのは、恨みを解くため。嫁に行って、いい嫁になって、日本の嫁はいい嫁だ、日本人はいい人だというようになっていく」(一九七八年生まれ、四億双・二次)
「(家事が下手、料理が下手など口うるさい夫に文句を言われ)むかつくが、日本が犯してきた罪、先祖が韓国人に言ってきたのかなーと、罪滅ぼしで来ているんだろうな、と思って我慢している」(一九七二年生まれ、四〇〇〇万双)(p.497)

 統一教会の教化プログラムでは、日本が韓国に対してなした36年間の植民地支配のことが語られ、その蛮行に対する償いとして、日本人女性が韓国に嫁いできて韓国人の夫やその家族に尽くすことが求められており、したがって結婚生活における苦労は贖罪のためであるという意義付けがなされているというのである。さらに贖罪の範囲は文禄慶長の役にまでさかのぼって理解されていることが紹介される。この辺まではインタビューに基づく日本人女性信者の「主観的理解」の解説にとどまる内容なのだが、そこから中西氏は突如としてこうした宗教的世界観に対する自分自身の論評を開始するのである。これは客観的な立ち位置を守るべき宗教社会学者としては逸脱行為である。
「朝鮮出兵も植民地支配も事実であり、日本の過ちだったことは認めるが、日本人女性が韓国人男性に嫁いで夫や夫の家族に尽くさないと罪は清算されないという論理はいかがなものか。キリスト教なら罪人は赦される、イエスは私達の罪を贖ってくださったと考える。統一教会において文鮮明は再臨のイエスであって真の父とされるが、贖い主とはなっていない。原罪は文鮮明の司る祝福によって清算されるが、残りの罪は全て信者自らが背負って自分で清算していかなければならないことになる。」(p.498)

 この記述は、本来ならば価値中立的な立場で記述すべき宗教の世界観に対して、私的な価値判断を持ち込んでいるものであり、しかも中西氏の専門分野である社会学的なテーマではなく、神学的なテーマに関することである。この点に関しては中西氏は専門外の問題に素人として発言していることになり、学者としての良心を疑わざるを得ない。

 確かに統一原理には「遺伝罪」という概念があり、先祖が犯した罪が子孫に影響を与えるという教えがある。しかしこれは世界の諸宗教の経典の中にみられる、一つの普遍的な観念である。また、日本の新宗教の中には「先祖の因縁」を説くものが多い。具体的には霊友会、大本教、真如苑、解脱会、天照皇大神宮教、世界真光文明教団、阿含宗、GLAなどを挙げることができるであろう。これらの教団は多くの場合、宇宙を目に見えるこの世界すなわち現界と、目に見えない神や霊の世界すなわち霊界の二重構造からなると考え、それら二つの世界の間には密接な交流影響関係があるとしている。すなわち現界で生起するさまざまな事象は、実はしばしば目に見えない霊界にその原因があるのであり、その働きは「守護霊」や「守護神」などによる加護の働きだけにはとどまらず、「悪霊」や「怨霊」などによって悪影響が及ぼされることもあるととらえられている。むしろ実際に霊界の影響がクローズ・アップされるのは、苦難や不幸の原因について説明するときの方が多いくらいである。

 統一教会においても同様に、身の周りに起こる事故や病気などの苦難を霊障、すなわち先祖の罪などの霊的な原因によって引き起こされる災いであるととらえたり、人間関係の軋轢や家庭の問題を先祖の罪の影響ととらえたりすることがある。そして「蕩減」とは先祖の因縁を清算することであり、自分自身が苦難を乗り越えることを通して先祖も救われると考えられることもある。さらに、罪の清算が国や民族の壁を超えるときには、「遺伝罪」というよりも「連帯罪」の清算として意識されるようになるのである。韓日家庭における夫婦の葛藤や嫁姑の葛藤などは、こうした脈絡の中で理解され、信仰を動機として乗り越えようとする信者がいることは事実であろう。

 こうした罪に対する理解は、自分の身の回りに起きる不幸や災難をどのようにとらえ乗り越えていくかに関する極めて宗教的で内面的な性格のものであり、その信仰を共有しない第三者が「いかがなものか」というような評論をするのは、極めて無礼で不謹慎な行為である。それを言い出せば、あらゆる宗教における罪や贖罪の概念に対して同じことが可能になってしまう。これは宗教的な世界観に対して世俗的な価値観を押し付けているにすぎないのだが、中西氏と同様に多くの場合、伝統的で社会的に受け入れられている宗教に対してはこうした態度はとらないにもかかわらず、非伝統的で社会的評価の低い宗教に対しては平気でやってのけるというダブルスタンダードを犯してしまうのである。

 また、イエスは全ての罪を赦してくれる贖い主であるのに対して、文鮮明師は原罪の清算しか行わず、残りの罪は信徒の自己責任で清算しなければならないというような比較をなし、あたかも統一教会よりもキリスト教の方が恩寵が大きいかのような似非神学を中西氏が展開している点も、専門外の問題に対する素人発言であるというそしりを免れない。

 そもそも一般的なキリスト教神学には原罪、遺伝罪、連帯罪、自犯罪といったようなシステマティックな罪の分類概念がない。したがって、イエス・キリストの十字架の恩寵によってどこまでの罪が許されるのかということは、キリスト教神学と統一原理を詳細に比較したうえで論じなければならない極めて神学的なテーマである。それを中西氏はさしたる知識もなく簡単に片づけてしまっている。

 またこの問題は、救いにおける「他力」と「自力」の問題と深くかかわっている。キリスト教は基本的に他力型の宗教であり、人間の努力によらず、神の恩寵によって救われることが強調される。したがって、人間の犯したあらゆる罪を償うためにイエスが十字架の道を行かれたので、それを信じて受け入れるだけですべての罪が赦されると考える傾向が強いのである。それに対して統一原理は人間の責任分担を主張し、キリスト教の中にあっては自力の要素を強調する傾向の強い宗教である。こうした神学の違いは、キリスト教と統一教会の個性というべきものであり、価値中立的な宗教学者が優劣をつけるべき問題ではないのである。専門知識もなくこうした問題に軽率な判断を下す中西氏の態度は批判されてしかるべきである。

 中西氏が持ち上げる「贖い主」としてのイエスの愛も、捉え方を間違えれば一種のモラルハザードに陥る危険性がある。それは「保険によって事故が補償される」という考えが醸成されることにより、加入者の注意義務が散漫になり、かえって事故の発生確率が高まるのと同じように、「どんな罪を犯してもイエスの十字架の贖罪によって赦される」という考えが醸成されることにより、罪を回避しようとするクリスチャンの意識が薄れ、かえって道徳的に好ましくない生活を送るようになる危険のことである。

 ドイツの神学者ディートリッヒ・ボンヘッファーは、このような恩寵の理解を「安価な恵み(cheap grace)」と呼んで批判し、逆に「高価な恵み」とはわれわれをキリストに従う者へと造り変える恵みであると説いた。韓国に嫁いで苦労の多い生活を送ることをあえて選択した統一教会の日本人女性信徒たちは、一方的な神の恩寵によって罪を赦してもらおうとしたのではなく、メシヤに従って自ら贖罪の先頭に立って歩もうとした点において、ボンフェッファーの言う「高価な恵み」を受け取ろうとした者たちであったと言えるのではないだろうか。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』186


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第186回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第九章 在韓日本人信者の信仰生活」の続き

 「第9章 在韓日本人信者の信仰生活」は、韓国に嫁いで暮らす日本人の統一教会女性信者に対するインタビュー内容に基づいて記述されている。前回から「四 日本人女性にとっての祝福家庭」の内容に入った。中西氏によれば、この部分は日本人女性信者たちが祝福や韓国での家庭生活にどのような意味づけをしているかを、彼女たち自身の口を通して語らせることにより、彼女たちが「主観的にどう捉えているか」を見ることを目的としているという。そしてそれを通して、なぜ彼女たちが韓国にお嫁に来て統一教会の信仰を維持できるのかを明らかにしようとしているのである。

 中西氏によれば、韓国で暮らす日本人女性信者たちは統一教会の信仰ゆえに今の夫と夫婦になり、韓国での生活を続けていると自覚しているという。それではその信仰とはどのようなものであり、「どのような教説が特異な結婚と結婚生活を成り立たせているのだろうか」(p.493)という問いを中西氏は発している。この問いに対する彼女なりの回答は、「一つは理想世界『地上天国』の実現であり、もう一つは罪の清算である。」(p.493)ということになる。中西氏は実際に女性信者たちに対してインタビューをしたうえで、この二つの教えが彼女たちの韓国での結婚生活を下支えしていると結論したのであるから、現実との間にそれほど大きな齟齬があるとは考えられない。統一原理の立場からしても、最初の理由は「創造原理」に関わるものであり、二番目の理由は「堕落論」と「復帰原理」に関わるものであるため、おおよそ妥当な動機付けであると考えられる。今回は最初の理由である「地上天国実現のための家庭生活」という側面を見てみよう。

 中西氏は広島県出身のJという信者の語りを引用し、「家庭生活を地上天国実現への実践と捉えている」事例であるとして紹介している。
「祝福は日韓の関係。韓国は謝罪しろと言い、日本は過ぎたことだと言う。それでは接点がない。真の愛で両方の民族が一つになるしかない。生まれた子供には国境がない。すばらしいことだと思う。ここで言われていることは理想的だなと思った。実現されたらすばらしい。希望、理想があって、目指そうとしているものがあるから、力がわく。その一部を実践している。」(p.493)

 Jは広島で生まれ育ち、小学生のときから平和教育を受けながらも、いつか戦争が来るかもしれないという不安感を持っていたという。彼女は聞き取りの中で「A郡に来てなかったら、原爆ドームの前で『核兵器反対』とかしてたかもしれない」(P.494)とも語っていたくらいであるから、入信前から世界平和に対する強い意識を持っていたことが窺える。その彼女が統一教会に出会うことにより、実践の方法が「市民運動」から「祝福と家庭形成」に取って代わったということだ。中西氏はこうした信者の動機をかなり内在的かつ肯定的に理解している。例えば以下のようなくだりがある。
「統一教会が目指す地上天国は国家・民族・宗教が垣根を超えて一つになった平和な世界とされる。現実には国家・民族・宗教の違いによる紛争は後を絶たず、一つになるなら平和が訪れるという論理は分からないわけではない。韓国と日本の男女が結婚をして家庭を築き子供を生み育てれば、家庭の中では国家や民族の壁がなくなる。地上天国の実現は夢のような話だが、少なくとも家庭の中ではささやかな地上天国が主観的には実現される。また子供は原罪のない神の子であり、地上天国の担い手とされる。子供を生み育てることは地上天国の担い手を生み育てるという意味づけがなされ、出産育児は崇高な宗教実践と意識されることになる。実際、韓日祝福の家庭は子沢山の傾向がある。」(p.494)

 Jの生い立ちと入信前の価値観、そして祝福を受けるようになった動機に関する話は、イギリスの宗教社会学者アイリーン・バーカー博士が著書『ムーニーの成り立ち』の中で描いている西洋の典型的な統一教会信者の像と重なる部分がある。バーカー博士によると、もともと統一教会に入会するような人は、奉仕、義務、責任に対する強い意識を持ちながらも、貢献したいという欲望のはけ口を見つけられない人、理想主義的で世の中のあらゆるものが正しくあり得るという信念を持った人、高い道徳水準に従って生きる共同体への「帰属意識」を持ちたいと思っている人、価値あることを行い、それによって価値ある存在となることを願っているような人であるという。こうした若者たちは、いまある現実の世界に幻滅し、戦争の恐怖を感じ、未来に対する悲観的な予測をしていた。

 バーカー博士は、ムーニーたちに外部の世界がどのように見えていたかということを幾分戯画化して描いている。それは人種差別、不正、権力や快楽の追求、拝金主義などがあふれる混沌とした世界であり、絶対的な価値観のない相対的な世界である。世界は差し迫った大惨事に向かっているように感じられ、テロや戦争の恐怖におびえている。家庭は崩壊して愛がなくなり、人々は孤独の中で生きることを強いられている。

 もともと理想主義的で奉仕の精神にあふれた彼らは、こうした現実の世界の不安や絶望を感じ、統一原理に出会うことによって長年探し求めていた答えを見つけ出したと感じて入会を決意した。そして教会の中で活動し、祝福を受けて家庭を築くことを通して、自分なりに世界平和のために貢献しているという実感を持つことができるようになったのである。その意味でJはバーカー博士の描く「典型的なムーニー」と同じ心性を持った人であり、統一教会に来るべくして来た人であったといる。

 また韓日祝福に対するJの理解も、アメリカにおける祝福家庭を研究した宗教社会学者ジェームズ・グレイス博士が著書『統一運動における性と結婚』の中で述べていることと一致している。彼は、多数の国際マッチングは「人種と文化が全く異なる人々を結婚で一つにすることにより世界の統一をもたらそうという文師の努力の直接的な結果であると見られるべき」(『統一運動における性と結婚』第5章より)と評価している。そして人種問題に関心のある白人アメリカ人の男性が黒人女性と結婚することを望んだ話や、祈祷を通して東洋人の女性と結婚することが自分に対する神の意思であると悟った白人男性の話などが出てくる。さらに、こうした国際マッチングは「グループの最も高い理想を示しているので、これらのカップルは同じ国籍・同じ人種同士のカップルにはない特別な地位を運動の中で与えられる」(『統一運動における性と結婚』第6章より)とまで述べているのである。これは韓日カップルに特別な使命があり、特別な恩恵があると信じられていることと同様の現象であり、どちらも教会の理想を体現したマッチングであることにその根拠がある。結婚観においてもJは典型的な統一教会信者である。

 もう一人の信者Nの語りでは、この結婚が恋愛結婚でないところに価値があるという認識が示されている。
「ただ単に好き嫌いを超えた、怨讐を超えているから深みが違うというか、恋愛で結婚したのとはわけが違うような気がする。そういう意味で頑張れているんじゃないかと思うんですよね。」(p.495)

 統一教会では恋愛結婚を「自分の欲望を中心としたもの」「堕落によってつくられた結婚の形態」として否定しているため、恋愛感情を動機としない結婚であることからこそ祝福に価値があるという意味である。

 こうした価値観を彼女たちが受け入れるようになった背景には、やはり現代社会の結婚のあり方に対して不安や不満を持っている若者たちが相当数いることを理解する必要がある。現代の日本の若者たちの中には、社会全般に蔓延する「性の乱れ」に幻滅し、不満や不安を感じている人が多い。そこで性的な事柄に対して潔癖な価値観を持っている人は、統一教会の教えに魅力を感じるのである。「清い結婚がしたい」「不倫や離婚などの不安のない、幸福な家庭を築きたい」というニーズを持っている人に対して、「祝福式」という形で示された統一教会の結婚の理想は、一つの魅力的な回答を提示していると言えるのである。

 祝福式は「自由恋愛至上主義に対するアンチ・テーゼ」としての意味を持っている。そもそも、デートとプロポーズを経て結婚に至るという方法は、特に20世紀のアメリカで発達し、それが日本に輸入されたものである。しかし、欧米諸国の高い離婚率や、日本における離婚率の上昇などを考慮すれば、それは必ずしも理想的な配偶者選択の仕組みと言うことはできない。一時的な恋愛感情が幸福な結婚を保証しないならば、もっと堅固な土台の上に結婚を築きたいと願う者が現れても何ら不思議ではない。統一教会の信徒たちは、「信仰」という土台の上にそれを築こうとしているのである。

 JとNの語りから分かることは、一見「特異な結婚と結婚生活」に見えるものも、彼女たちがもともと持っていた問題意識と統一教会の示す理想が合致し、自分にとって意味ある結婚のあり方であると感じられたからこその選択であったということだ。それは統一教会の教説だけによって成り立つものではなく、彼女たちの個性と自己実現の方向性、そして主体的選択があって初めて成り立つものであることを見逃してはならない。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』185


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第185回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第九章 在韓日本人信者の信仰生活」の続き

 「第9章 在韓日本人信者の信仰生活」は、韓国に嫁いで暮らす日本人の統一教会女性信者に対するインタビュー内容に基づいて記述されている。今回から「四 日本人女性にとっての祝福家庭」の内容に入る。中西氏によれば、この部分は日本人女性信者たちが祝福や韓国での家庭生活にどのような意味づけをしているかを、彼女たち自身の口を通して語らせることにより、彼女たちが「主観的にどう捉えているか」を見ることを目的としているという。そしてそれを通して、なぜ彼女たちが韓国にお嫁に来て統一教会の信仰を維持できるのかを明らかにしようとしているのである。

 この説の冒頭に中西氏は「1 理想と現実」という項目を設けて、統一教会の教説における祝福の理想と、韓日祝福の実態にはギャップが存在することを強調している。すなわち、「在韓の日本人女性信者達は教説的に見ると再臨のメシヤの国で、あこがれの韓国人男性と最も理想的な韓日祝福でもって怨讐を超えた家庭を築いたことなる」(p.490)という理想がある一方で、「夫は結婚目的で信者になっただけであり、夫婦で信仰を共有しているわけでもない」うえに、「愛も経済力もない相手との結婚」(p.491)であるという現実があるというのである。

 中西氏が調査したA郡に嫁いだ日本人女性の学歴は高校卒、専門学校卒、短大卒、大卒が含まれており、これは同年代の日本人女性の学歴と比較すれば平均よりもやや高い傾向にあることはすでに紹介した。それに比べると「韓国人の夫は聞き取りした範囲でいえば高校卒と同数程度に中学校か小学校卒がおり、大学卒は通信制大学が一名いるだけ」(p.491)であるという。すなわち、韓日祝福は日本人女性の高学歴に対して韓国人男性の低学歴という、格差婚になっているというのである。韓国は日本以上に学歴社会であることから、夫たちの仕事はおのずと制限されるため、比較的安定した職業に就いている夫がいる一方で、就労が不安定な夫もいるという。このことは韓国の祝福家庭の経済状況に直結しているようで、中西氏は経済的に苦労しているという女性信者の語りを引用している。同時に中西氏は、こうした記述が自身の差別や偏見に基づくものでないことを説明することも忘れていない。その原因は夫となった韓国人にあるのではなく、むしろ韓国の社会構造に由来するものであるということだ。「ただこれは彼女達の夫が不真面目で労働意欲がないのではなく、韓国の社会構造的な要因が絡む。」「A郡は特に経済発展から取り残された地域にある」(p.492)という中西氏の指摘は的を得たものであろう。

 中西氏によれば、これは単なる客観的な事実の指摘ではなく、日本人女性たち自身も自分たちの生活が経済的に楽でないことは自覚しており、信仰ゆえにそれを続けていられるのだと自負しているという。だからこそ、その信仰とはいったいどのような信仰なのかという「問い」が生まれ、それに基づく彼女の分析が展開されるのである。彼女の結論は、統一教会の「特異な信仰」ゆえにこうした結婚生活を維持できるのだというものだ。しかしながら、信仰ゆえに「あえて低いところを訪ねていく」という現象は、統一教会に限らず宗教の世界には普遍的にあるのだということを今回は主張してみたい。

 中西氏は「一般に女性は結婚に際して上昇婚を望む。自分や自分の父親よりも学歴や職業的威信の高い相手と結婚することで社会的な階層上昇を図るというものである。韓日祝福で農村の男性と結婚するとなると上昇婚は望めず、下降婚になる。」(p.492)と述べている。ところが、宗教は伝統的に富や社会的地位を否定し、清貧に積極的価値を見出してきたのである。女性が結婚して上昇婚を望むというのは、世俗的な一般論であって、宗教的な動機で結婚する祝福家庭婦人の第一次的な関心事ではない。むしろ彼女たちは「下降婚」に宗教的な意義を見出しているのである。

 古来より宗教は、富と所有物に対する執着は霊的成長を阻む足枷であるとみなし、救済を得るためには富と所有物を放棄することが必要であると教えてきた。「仏教の十戒」には「不蓄金銀宝」があり、金や金銀・宝石類を含めて、個人の資産となる物を所有することを禁じている。キリスト教の新約聖書も、以下のように金銭に対する執着を戒めている。
「金銭を愛することは、すべての悪の根である。」(テモテへの第一の手紙 6.10)
「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」(マタイによる福音書 6.24)
「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。」(マタイによる福音書 6.19-21)
「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。(マタイによる福音書 19.24)
「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。」(ルカによる福音書 6.20)

 富んでいる立場から貧しい立場に降りていくことは「下降」とみなされるが、実はキリスト教神学の中にはこの「下降」そのものに積極的意味を見出す思想がある。それが「ケノーシス」と呼ばれるものだ。キリスト教では、神ご自身が肉をまとって人の姿で顕現された存在がまさにナザレのイエスであると信じているのだが、そうした行為そのものが「下降」にあたるのである。イエスは神としての身分を捨て、あえて貧しい人間にまで自らを空しく低くした。これを「無にする」という意味のギリシア語で「ケノーシス」と呼んでいる。その思想は、以下の聖句の中に端的に表現されている。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピの信徒への手紙 2.6-8)

 イエスは貧しい人間の姿になられただけではなく、十字架刑によって亡くなっている。十字架は犯罪人に対するローマの処刑方法であるから、十字架の死というのは、ただ死んだということではなく、犯罪人として処刑されたということである。キリストは人間の姿になったばかりか、人間から犯罪人として断罪され、拒否され、処刑されてしまったのである。そこまで徹底的に自分を「無にする」ことの中に、人間に対する神の愛を見出すという思想がキリスト教にはある。

 この伝統を受け継ぎ、キリスト教において「聖者」とみなされる人々は、イエスと同じ道を歩もうとした。フランシスコ会の創設者として知られるアッシジのフランチェスコは、自らは裕福な家に生れながらも、それらをすべて捨ててキリストに倣い、「清貧」をモットーとする修道会を創設した。彼の創設した托鉢修道会は私有財産を認めておらず、修道士が托鉢を行い、善意の施しによって生活をするもので、修道士たちは衣服以外には一切の財産をもたなかった。

 マザー・テレサはコルカタで、「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からも世話されない人のために働く」ことを目的とした「神の愛の宣教者会」を設立した。ここで働くシスターたちも、私有財産を持たない清貧の生活を守っている。マザー・テレサは次のように語っている。
「貧しい人に触れる時、わたしたちは実際にキリストのお体に触れているのです。食べ物をあげるのは貧しい人のうちにおられる飢えているキリストに、着物を着せるのは裸のキリストに、住まいをあげるのは家なしのキリストになのです」(半田基子訳『マザー・テレサのことば』、女子パウロ会、44頁)。

 キリスト教社会運動家として有名な賀川豊彦は、自らは裕福な家庭に生れながらも、キリスト教に入信したことをきっかけに、神戸の貧民街に移り住み、救済活動と宣教に努めた。ボランティア組織「救霊団」を結成して本格的な活動を開始するとともに、キリスト教を説き、精魂を尽くした彼は、「スラム街の聖者」と呼ばれるようになった。妻となったハルともスラム街で出会っている。ハルは結婚後、賀川とともにスラムで貧民の救済活動に献身した。不衛生なスラムの環境によりハルはトラコーマに感染し右目を失明したが、救貧活動を続けた。賀川自身も両眼ともトラコーマに冒され、何度も失明の危機を経験している。

 このように宗教の世界においては、豊かさや社会的地位を否定してあえて「下降」し、貧しい人々や社会の底辺にいるような人々の所に出かけて行って、彼らと共に生活することに「神の業」を見出すという伝統がある。祝福を受けた統一教会信者の日本人女性が、自分たちよりも学歴も社会的階層も低い韓国人男性のもとに嫁ぎ、経済的に苦しい生活をあえて受け入れていくのは、こうした宗教的伝統の延長線上にあると理解することができるのである。

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