ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳61


第7章 分析と発見(4)

 加えて、「儀式を通じて人々は純粋に感情的な方法で一体感を覚える機会を持つ。」(注24)さらに、これが祝福の儀式に大きく関係するのである。
「ピーター・ウォーリーは、・・・感情的熱狂は慣習を意図的に破ることによって高められると示唆している。これが、『熱心な信者たちを、古い社会の最も神聖なルールを意図的に嘲った人々による新しい兄弟関係として一つにまとめるのである。彼らは罪悪感と取り返しのつかない反抗によって、互いに結び付けられているのである。』『彼らは、いまだに古い信仰を持ち続けている者たちに対する、共通の罪と相互支援によって一つに結び付けられているのである』」(注25)

 祝福の儀式は、終末論的共同体としての統一運動の統合性と結束を劇的なやり方で象徴的に表現する。それらを通して、いくつかのレベルで結束が確認され実現される:
1.カップルと真の父母の間に血縁関係が確立される。
2.永遠の絆が夫と妻を結び付ける。
3.カップルは共同体全体と新しい特別な関係を結ぶ。
4.各合同結婚式に参加したカップルはお互いに特別な関係となり、それは毎年グループの記念晩餐会で祝賀される。
5.各カップルは原罪から解放され、それによって霊的領域、すなわち神ならびに霊界にいる彼らの先祖に近づく。
6.結婚を成就させる三日行事は、性と霊性の統合を象徴する。

 宗教の歴史において、祝福に関連した儀式に匹敵するような、人生における多くの別個の側面を包括し統一する一連の儀式を見いだすのは困難であろう。さらに、統一運動の結婚の型破りな性質、とくに配偶者を文師が選ぶことは、確実にグループの一体感を支持するような過激な性質をその儀式に与えるのである。

 統一運動の性と結婚に対するアプローチが感情的献身を育むように機能していることは、このように非常に明らかである。さらに、ユートピア的グループのメンバー同士の強い感情的絆は、「・・・たとえ運動の信条に対する不信感に直面したとしても、献身を育み維持することができるのである。」(注26)この洞察は、統一運動がいかにその神学と性的役割分担に関する多様な解釈を許容しながらも、高いレベルのグループの結束を保っていられるのかを説明するのを助けてくれる。

 カンターの第三の形態である道徳的献身は、「・・・グループのメンバーであることの力と有意性に基いて・・・その人に新しいアイデンティティーを提供する・・・」(注27)「無力化」のプロセスと、メンバーが偉大な力と究極的な重要性を保有するものとして共同体を経験することを可能にする「超越」のメカニズムを必然的に伴う。

 カンターは、告白と相互批判、逸脱に対する制裁、霊的な差別化、脱個別化メカニズムという四つの無力化のプロセスに言及している。

 われわれは既にマッチングを受ける資格のあるメンバーたちが、実際の儀式の前に自らの罪(特に性的な性質の罪)を告白する機会があることを示した。公式的に要求されているものではないにせよ、多くのメンバーが聖酒式で起きると言われる霊的な変化のための準備として、実際に告白を行う。(注28)

 逸脱に対する制裁は統一運動においては非常に非公式的であり、同僚や指導者からの圧力として示される。修練期間中に独身の誓いを守ることに対するグループの誘因は非常に強力なので、実際にそれを破るメンバーは非常に少ないように見える。それをする者は、普通は自らの意思でグループを去る。

 非常にまれな場合だが、例えば、重要なリーダーが不倫を犯したり運動を離れたりしたときには、その行為に対する公的な非難があるであろう。

 無力化は霊的な差別化を通しても実行されているが、それはグループの宗教的価値観を反映していると同時に、主として結婚と家庭に関して行われる。差別化のパターンは、下から上まで以下のような順序になっている:
1.未婚のメンバー
2.マッチングを受けたメンバー
3.祝福家庭
4.国際祝福家庭
5.祝福家庭(子女のいるカップル)
6.「長老会議」
7.真の父母

 カンターは19世紀の成功したユートピアの半分に類似したパターンを発見しており、こうしたパターンを持つ組織で成功しなかったのは15%に過ぎなかった。統一運動におけるより高い階級に伴う報酬は、より高い社会的地位、リーダーシップの機会、および結婚における性の表現である。統一運動のメンバーシップに関連する公的に認められた地位は、基本的にはこれ以外に存在しないというのも事実である。

 統一運動は、その構造の中で機能している脱個別化メカニズムをいくつか持っている。例えば、メンバーは地味な服装をしており、寝食を共にし(とりわけ未婚者はそうであるが、多くの祝福家庭も共同生活をしている)、私的な時間は非常に少ない。また、各カップルが文師と個別に行う聖酒式を除いて、祝福の儀式はもっぱら共同体のイベントである。画一性と統一性はおそらく、結婚指輪において最も象徴的に示されているであろう。それらはどのカップルでも同じであり、統一運動のロゴマークが刻まれている。

 超越は個人の古い個人的なアイデンティティーの無力化にとどまらず、以下のものを含んでいる。
「・・・運動の中に宿っているより高い力と意味の経験、一人の人間の生命の外にあり、それを越えた力および出来事とのつながりを感じること。それはアイデンティティーと意味の新しい起源を提供する。」(注29)

 マックス・ウェーバーはこの経験はカリスマを通して伝えられると提言しているが、彼のカリスマの定義は以下のようなものである。
「そのおかげである人が普通の人間から区別され、超自然的、超人間的、あるいは少なくとも特別に例外的な力や性質に恵まれているものとして扱われるような、個人の人格がもつ特定の性質。これらは普通の人間には到達できないものであり、神に起源を持つものあるいは模範的なものとみなされ、それらを基盤として当該の個人は指導者として扱われるのである。」(注30)

(注24)前掲書、p. 234。
(注25)前掲書、p. 235。
(注26)前掲書。
(注27)カンター『献身と共同体』p. 103。
(注28)相互批判は地方の統一運動のセンターで実践されており、そこではメンバーたちは毎週行われる一緒に過ごす夜にリーダーたちによって評価される。
(注29)カンター『献身と千年王国運動の内的組織』p. 238。
(注30)ウェーバー『社会的・経済的組織の理論』pp. 358-359。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』139


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第139回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 「六 統一教会の教化方法の特徴」の分析の5回目である。今回は、「2 献金と判断力」において櫻井氏が述べている内容を検証することにする。これはなぜ統一教会信者がそれほど熱心に献金し、中には自己破産に追い込まれるまで献金を継続する者がいるのかという疑問に、彼なりに答えたものであり、「統一教会の献金強要」(p.396)に対する説明であると主張されているものである。まずは彼の議論に耳を傾けてみよう。
「まず、霊能師が新規の信者に対して一万円の献金をさせ、一ヶ月ごとに同じく一万円の献金を要求するとする。初回はまるまる一万円を出すのであるから信者にとってゼロから一万円への飛躍は無限大ともいえる。信仰があったとしても大いに悩む。ところが、二回目であれば一万円出したところから二万円目を出すのであるから、差額は一万円分であるが、心理的には一万円から二万円となって二倍の飛躍といえる。これが三回目となると同じく差額は一万円であるが、二万円から三万円となって1.5倍の飛躍でしかなくなる。

 この調子で献金を出し続けていくと何回目かには、一万円というのは心理的には実にたいした金額ではなくなってしまうのである。心理的負担は実額ではなく、その都度参照される金額からの相対的な比較によって決まる。・・・

 霊能師は、最初に信者に献金させることさえできれば、後は同じ説得の労力をかけずとも同額の献金を得られるようになる。信者にとって献金への心理的負担はどんどん鈍感になっていくからだ。」(p.396)

 はたして櫻井氏の言うように、ひとたび献金してしまえばその後からは献金に対する心理的負担は鈍感になり、簡単に献金させられるようになるものなのだろうか? さらに、献金に対する心理的な負担の感じ方は誰でも同じであり、感じ方に個人差はないのであろうか? 櫻井氏の説明はどうも机上の空論か頭の中だけの計算のように聞こえ、あまりリアリティを感じない。それは、実際に献金をする人がそのように感覚が麻痺していき、鈍感になっていったという実証的な証拠がないからである。実は、櫻井氏の主張とは全く反対のことが、ちょっと視点を変えるだけで頭の中ではすぐに組み立てられて計算できてしまう。例えばこんな感じだ。
「まず、霊能師が十万円の財産を持っている新規の信者に対して一万円の献金をさせ、一ヶ月ごとに同じく一万円の献金を要求するとする。初回は十万円の中から一万円を出すのであるから、信者にとって一万円の価値は全財産の十分の一である。まだまだ余裕である。ところが、二回目であれば残金が九万円の中から一万円を出すのであるから、同じ一万円でも全財産の九分の一になるため、心理的負担は増大する。

 この調子で献金を出し続けていくと、その度に献金する一万円が全財産に占める割合は大きくなっていくので、心理的には大きな金額であると感じられるようになってしまうのである。心理的負担は実額ではなく、その都度参照される残りの全財産との相対的な比較によって決まる。・・・

 そして九回目に献金させるときには、全財産の半分を捧げることになるので、心理的負担は相当なレベルに上昇する。そして十回目には、全財産を捧げてゼロになることを意味するので、その飛躍は無限大となり、献金に対する心理的な負担は極限に達する。

 霊能師は、最初に信者に献金させることができたとしても、それと同じ献金を継続してさせるためには、説得の労苦はどんどん大きくなっていく。信者にとって献金への心理的負担はどんどん敏感になっていくからだ。」

 どうだろう。櫻井氏の「作文」と私の「作文」のどちらにリアリティがあると読者は感じられたであろうか? これはどちらも人の頭の中がどうなっているかを想像して書いた作文に過ぎない。実際に人が献金するときにどのように感じるのかは、こうした「作文」で一般化して語れるほど、単純なものではないのである。

 現実には、新規信者がひとたび献金したからと言って、その次からはさしたる説得の労苦もなく「やすやすと」(p.396)献金するようになるというようなことはない。その人が献金することに対する意義を感じ続けない限りは、どこかで熱意が冷めてしまうからである。特に献金することによって財産が目減りしていったような場合には、献金に対する心理的な負担はどんどん大きくなっていくのが普通である。

 献金を継続して出し続けるということは、ビジネス用語で言えば「リピーター」になっているということである。新規の顧客をつかんだとしても、その人が一回限りの顧客で終わってしまい、リピーターにならないケースの方が圧倒的に多いため、その人をリピーターにするためのさまざまなテクニックが研究され、実践されている。

 ビジネスの世界では、新規顧客をリピーターにするためには「バイヤーズリモース」に対処することが重要であると言われている。バイヤーズリモースとは、大きな買い物をしたときに、買った直後に感じる後悔の感情のことである。人はものを購入するプロセスの中で、どれを買うか迷いながら徐々にテンションをあげていき、購入の瞬間が最も満足した状態になるという。しかし、車や家などの大きな額の購入ほど、その後すぐに後悔を始めるというのである。

 それは具体的には、「買ってみたら他の車の方がよく見えてきた」「この担当者で本当に良かったかな」「理由はないけど、もう少し検討すれば良かったな」といったような感情に襲われるということである。こういった感情には、購入商品の品質はほぼ関係なく、どんなに品質が良くても、購入後にはバイヤーズリモースが起こるという。こういった感情になるのは、「この購入という自分の決断が正しかったのか?」という不安が生じるからであり、この不安を解消してあげれば、顧客は自分の判断が正しかったと感じて満足するという。

 ビジネスのアドバイスを掲載したインターネットのサイトには、そのための具体的なテクニックが以下にあげる例のように紹介されている。
「リピーターを獲得する為の3つの集客方法:①次回来店のきっかけを作る。(例:2~3回目の再来店を促す特典やイベントを用意する。見送り時に「次回は~」「また来てください」など、再来店を促す言葉を付け加える。)②サプライズ(特別感)を演出する。(例:味見やプチギフトなどのサプライズで、お客さまの記憶に残る演出をする。)③お客様にダイレクトに情報を届ける手段をゲットする。(例:DMやメルマガ、店舗アプリなどを活用し、直接的に再来店を促す連絡ができるようにしておく)」
「①お客さんが価値を感じる商品、②ミッションを載せた冊子、③会員証や会員バッジなどの”しるし”、④リピーターだけが分かる共通言語、⑤限定イベント、⑥会報やブログ・SNS発信、⑦感情を動かす特典」
「①優良リピーターはとことん優遇する、②メールマガジンやダイレクトメールで、お客様とコンタクトを取り続ける、③他にはない目玉商品を作り、キャンペーンを行う、④1回目の来店と2回目の来店で、対応の仕方を変える、⑤ホッとできる環境づくりに全力を注ぐ」
といった具合である。要するに、新規顧客を放っておいただけではリピーターにはならず、相当な努力をしない限り顧客は自然に離れていくのである。その努力のポイントを一言でいえば、顧客の満足度を上げることである。

 これと同様に、初めて献金した信者は、「バイヤーズリモース」に該当する「ドナーズリモース」が生じる可能性がある。人は献金を決意するプロセスの中で、献金することの意義について真剣に悩み、献金するかしないか迷いながら徐々にテンションをあげていき、献金する瞬間が最も満足した状態になる。しかし、献金の額が大きいほど、その後すぐに後悔を始めるという現象が、「バイヤーズリモース」と同様に起きる可能性がある。それに対処する唯一の方法は、ビジネスにおける顧客のケアーと同じように、献金という決断が正しかったことを相手に繰り返し伝え、信仰生活の満足度が上がるようにさまざまなサービスをすることである。これはビジネスにおけるリピーターの獲得と同じである。新規の信者は良くケアーをしないとすぐに信仰を失ってしまうのであり、櫻井氏の言うように「お金をやすやすと出す」ようにもならないし、最初に献金させることさえできれば献金への心理的負担はどんどん鈍感になっていくというような、簡単なものではないのである。

 櫻井氏がここで述べていることは全くの机上の空論であり、現実から乖離している。それは彼が実際に献金を継続している現役信者に対するインタビューや参与観察を行っていないがゆえに書ける、「想像の産物」に過ぎないのである。

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ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳60


第7章 分析と発見(3)

 感情的献身は、拒絶、すなわち潜在的にグループの団結を破壊する可能性のあるあらゆる関係性の放棄と、親交、すなわちメンバーの感情的愛着と満足をグループ全体に集中させることを伴う。「彼(メンバー)のグループ内における満足の可能性は、その他の関係性に対する選択肢が減少するときに増大する。そして彼には事実上、他に向かうべき場所がないのであるから、彼はグループと和解しなければならない。」(注18)前世紀の成功した共同体は、拒絶が外の世界、カップル、家族の三つの領域で実践されるようなやり方で構造化されていた。統一運動のメンバーは回心の際に彼らと外の世界との基本的な関係(例えば、彼らが生まれ育った家庭や友人たち)を絶つ。さらに、グループはその信者たちに対して、「内側」と「外側」の間の明確に述べられた概念的境界線、独特の言語体系とライフスタイル、必要とされるあらゆる支援の提供、そして最後に、包括的な親族制度を示すことにより、「組織的完全性」(注19)を提供する。さらにまた、統一運動のメンバーになるということは、(例えば、婚前の恋愛関係の禁止、文師による配偶者の選択、宗教共同体に従属するものとしての結婚)などの、性と結婚に関する一連の価値観を必然的に採用することであるが、それらは明らかにグループをアメリカ社会全般と区別するものであり、それを通して統一運動は復帰された統一世界の文化の基礎としての神を中心とする家庭を確立しようとしているのである。アメリカ人が伝統的に自分の夫または妻を選択できることに対して持って来た誇りを考慮すれば、圧倒的大多数の統一教会信者がこの主要な人生の選択を文師に委ねているということは、彼らの拒絶の程度が高いことを証明している。

 統一運動が婚前の恋愛活動を(および同性愛の活動も)禁止していることは、カンターが「カップル」と呼ぶところの拒絶を示している。ユートピア的共同体における排他的な二者の絆は、グループの団結に対して4重の脅威をもたらす。(1)それらはメンバーの忠誠心とエネルギーをグループからそらす、(2)それらは愛情を含めてすべてのものが共有されるべきであるという原則を弱体化させる、(3)激しい個人的な二人の関係は…、潜在的にグループを離脱する可能性がある単位である、(注20)(4)そのような愛着はしばしば共同体に葛藤をもたらす嫉妬や敵意を引き起こす。(注21)非常に単純に言えば、統一運動のメンバーは「カップル」を拒絶して共同体を得るのである。

 最後に、より大きな共同体とは異なる社会単位としての家族の拒絶がある。シェイカーズとオナイダ完全主義者たちは、もちろん、家族という概念そのものを否定したのであるが、その一方で、
「生物学的な核家族を生活の単位として保存したこれらの共同体にとっては、親密さ、感情、そして家族の機能が共同体のあらゆる場所に拡散されることによって、その重要性は低下していたのである。外の世界で家族によって担われていた多くの機能は、購買、消費、子供の養育も含めて、共同体によって代替されていたのである。」(注22)

 神学的には家庭が価値視されているにもかかわらず、統一運動は家族が一緒に過ごすことに優先順位を与えるような構造を提供してこなかった。夫と妻はしばしば異なる「使命」のために別居していたし、その子供たちは運動が提供する保育所に預けられていた。より従来型の生活を送っている少数の家族であっても、住居と財政に関してはグループに大きく依存しており、運動の活動にあまりに深く関わっているため、彼らには夫婦間や家庭内のことにほとんど時間を割けずにいるのである。そのような構造は、家庭をグループの生活と仕事のなかに没頭させることによって、グループの結束を強める働きをしている。したがって、共同体に対する非常に高い感情的献身を祝福家庭の中に発見することは驚くに値しない。

 分離した個人主義的な愛着を放棄したメンバーたちは、グループの集団としての一体性の中に新しいアイデンティティーを見いだす傾向にある。統一運動のように事実上あらゆる活動が共同で行われるようなグループにおいてはなおさらである。「自己とグループが混ざり合うこと」は運動における生活の顕著な特徴であり、それはメンバーの間に強力な「われわれ感情」を引き起こす現象である。この深い親交の感覚がさまざまな構造によって育まれ、その多くは統一運動の性と結婚に対するアプローチを反映しているのである。全メンバーが兄弟姉妹であり真の父母の子女であるという仮想の親族ネットワークは、婚前の男女交際を阻止するだけでなく、グループの一体性を促進する。聖酒式を通してマッチングされたカップルは文師夫妻と「血縁関係」に入り、お互いに対してもそうなる。夫と妻の間の特別な関係は彼らによって疑いなく高く評価されているが、さまざまな別居期間が、カップルをグループから後ずさりさせ、あるいはグループを去る方向にさえ導きかねないような二人の絆を低減させるのである。

 この研究のためにインタビューを受けた統一教会の信者たちは、彼らと相対者の間にある多くの個人的・文化的な違いを、いかに彼らの信仰によって乗り越えることができたかを強調した。そのような違いは疑いなく存在するが、これらの男女は共通の関心を彼らの結婚に持ち込んだと信じるに足る理由がある。グループに入る以前から、おそらく彼らはアメリカ社会からの共通の疎外感、理想主義的な結婚観、そして世界を変えたいという思いを抱いていた。また、統一運動の包み込むようなサブカルチャーのなかで世界の救済者としての3年間をすごした後、彼らは結婚するにあたって、彼ら自身が意識的に自覚している以上に多くの共通点を疑いなく有するほどまでに、運動の価値観を内面化していたのである。そのような均一性は、カンターが調査したグループ内の親近感を増大させるものであることが発見されている。

 祝福に伴う儀式(マッチングと聖酒式、「公的な」祝福式、および三日行事)はすべて統一運動内部における親交を促進する機能を果たしている。カンターが正しくも述べたように、「儀式はグループに対する忠誠心が高揚され、祝賀され、教化される象徴を提供する。ここで、宗教は直近の社会集団の崇拝であるというデュルケムの古典的命題がさらに強化された。」(注23)

(注18)前掲書、p. 83。
(注19)前掲書、P. 88。
(注20)前掲書、p. 86。
(注21)前掲書、pp. 86-87。
(注22)前掲書、pp. 90-91。
(注23)カンター『献身と千年王国運動の内的組織』、p. 233。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』138


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第138回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 「六 統一教会の教化方法の特徴」の分析の4回目である。前回は、統一教会は献金を要請する度に畏怖困惑に追い込む心理的プレッシャーをかけていたのではなく、心理的圧力によって不安状態に追い込み、認知的枠組みの転換に成功した後には、儀礼や統一教会の専門用語を通じて、不安や恐怖が持続され、固定化されるので、指導者の一声でなかば条件反射的に献金してしまうようになるだという櫻井氏の主張を紹介し、これが現実とはかい離した裁判のための理屈に過ぎないことを指摘した。続いて櫻井は、統一教会信者が信仰を獲得し、維持するプロセスについて以下のように論じている。
「統一教会のセミナーやイベントにおいて、信者は常時不安を生み出すような映像、説教、信者同士の語りにさらされている。そこで本来欲してもいなかった救済を求める心境に追い込まれ、救済の方法に関しても特定の方法しかないように思い込むに至る。統一教会において、信者は特有の言語により会話し、感情・意志を伝えるようトレーニングを受ける。特定のボキャブラリーを駆使して状況を切り抜け、展開できる信者こそ信仰のレベルが高いと評価される。そのため、古参信者や幹部はもとより、新参の信者もまたコミュニケーションする中で、一つの言語に一つの感情、一つの言い回しに一つの論理が自動的に連結するようになる。」「統一教会は特段の威迫・強迫的言動を用いずとも、信者達にとって救済のキーとなりうる一押しの言葉を語ることで様々な活動をさせることができた。」(p.395)

 ここでも「パブロフの犬」のように条件反射的に行動する哀れな統一教会信者像が語られている。いったい櫻井氏は、そうした現場を見たとでもいうのであろうか? この櫻井氏の記述でまず問題となるのは、統一教会に伝道される過程の求道者たちを常に受動的な立場としてとらえ、伝道する側によって事実上操作されているかのように描いていることだ。「統一教会の教化方法の特徴」というタイトルからも分かる通り、人が統一教会に伝道される原因は、もっぱら統一教会側の教化のテクニックに帰されており、それに対応する求道者の側に何らかの原因があるとか、それに反応する潜在的な要素があるとは前提されていない。統一教会は主体であり、求道者は客体であって、統一教会が一方的に求道者を操作してその認識の枠組みを変容させるというモデルである。これでは洗脳論やマインドコントロール論とさして変わらない。櫻井氏は人が統一教会に伝道されるということは、「本来欲してもいなかった救済を求める心境に追い込まれ、救済の方法に関しても特定の方法しかないように思い込むに至る」ことであると言いきっているが、いったい彼はいかなる根拠をもってこのようなことを断言するのであろうか?

 統一教会の伝道方法について徹底的な社会学的調査を行ったアイリーン・バーカー博士は、「ムーニーの説得力が効果を発揮するのは、ゲストがもともと持っていた性質や前提と、彼に対して提示された統一教会の信仰や実践との間に、潜在的な類似性が存在するといえるときだけだ」(「ムーニーの成り立ち」第10章 結論より)と結論している。すなわち、操作されることによって「本来欲してもいなかった救済」を求めるようになったのではなく、もともとその人が求めていたもの、あるいはそれに類似したものを統一教会が提供したので、両者が合致して信仰を持つに至ったということである。そこには求道者の主体的な取捨選択という要素があり、もし求道者がもともと求めていたものと統一教会の提示する選択肢が合致しなかった場合には信者にならないのである。そして、実際には両者が合致せずに信者にならないケースの方が圧倒的に多い。実は、このことに櫻井氏が気付いていないわけではない。櫻井氏自身が書いた論文「オウム真理教現象の記述をめぐる一考察ーマインド・コントロール言説の批判的検討ー」(『現代社会学研究』1996年9 北海道社会学会)の中に以下のような記述があるからである。この論文では、西田公昭氏のマインド・コントロール理論が批判されている。
「西田もハッサンも、誰もがマインド・コントロールを受ける可能性があることを強調する。『いかなる人も例外ではない』と。ここに疑問がある。特殊な状況の下で一面的情報提供を受けたり、行動を支配されると、人はその信念まで支配されると、一般的に言い切れるのだろうか。・・・より深刻な問題は、実験結果から『人は』という主語で命題を構成するために、人間一般の認知・行動を説明することになり、誰しもがその対象になってしまうことである。しかし、社会学の理解に従えば、社会過程に登場するのは普通的な人間ではなく、地域的規定性(地理的風土)、社会的視定性(生育歴、学歴、職業歴〉、文化的アイデンティティ(エスニシティ、サブカルチャー)、政治体制等の様々な影響力の結節点として個人の生き方が現れると考えられている。個人特有の信念、社会構造的規定性が、同じ条件下の人間の行動様式を差異化させる。つまり、勧誘されても入信しないもの、加入しても信し切れずに脱会するものが出るのはなぜかという問いに答えなくては、入信行為の説明にならない。」(前掲書、p.88-89)

 ここで櫻井氏はアイリーン・バーカー博士と同じく、同じように勧誘されても入信しない者がおり、個人が持つ特性によって人は異なる反応をするものであること十分に理解している。にもかかわらず、本書においてはあたかも全員が統一教会に一方的に心理操作された被害者のように描かれており、その人たちの個性や主体的な意思が統一教会の信仰を持つようになった原因であるという可能性は初めから排除されているのである。

 こうした「心理操作モデル」は、宗教社会学の世界では批判されており、むしろ回心する側の主体的な役割が強調されている。キース・A・ロバーツの『社会学的視点から見た宗教』は、アメリカの大学および大学院において宗教社会学の教科書として広く用いられている。この教科書の第五章「回心と献身:社会学的視点」は、宗教的回心の問題を取り扱っているが、その中の「実践主義者としての回心者」というタイトルのもと、以下のように述べられている。
「歴史的に、ほとんどの社会科学者は人間の行動のやや受動的なモデルを使って回心を説明してきた。回心とは、無意識の心理的プロセスや強制的な社会的緊張のゆえに個人に引き起こされる出来事であった(リチャードソン、1985)。確かに、“マインド・コントロール”の仮説はこの見方と矛盾しない。ロフランドその他によるプロセス・モデルは、いくぶんかこうした決定論からの脱皮を意味した。一連の出来事が働きかけ、それらの出来事の中で参加者はなんらかの選択の余地をもっており、何らかの決断をするものであると信じられている。しかし、幾人かの研究者はこれらのモデルでさえ回心者に対してあまりにも受動的な見方をしていると信じている。彼らは、これらのモデルでさえ回心を個人の外側にあるさまざまな社会的圧力の結果として描写していると感じるのである。

 幾人かの社会科学者が述べてきた回心に対する見解においては、個人は目的を持って選択を行い、回心を求める積極的な行為者としてとらえられている(ストラウス、1976, 1979;バルク、1980;バルクとテイラー、1976, 1977;リチャードソン、1985)。実践主義者の見解は、個人は人生の意味を求めており、彼らは自分たちのニーズを満たしてくれるであろうと信じるグループに意識的に参加する、ということを強調する。その信仰に公平な機会を与えるために、彼らはそのグループにおける役割と行動に自分自身を押し込むのである。

 この視点は、続いて、役割理論に焦点を当てる。人々は回心者の役割を果たしているうちに、ときどき役割の報酬を感じるようになる。彼らはグループに投入し、彼らはその役割をうまく果たしていることによる自己満足を得るようになり、そして彼らはそうした役割を正当化し説明している思想を信じるようになるのであろう。本質的に、新入会員は自分自身を回心させるのである。しかしながら、参加した者の中には報酬に価する役割を見出せなかったり、その信仰が彼らの意図するニーズに合致しないと思ったりする者がおり、彼らは脱退する。それでも他の者はしばらくの間は期待に適った役割を見出しているが、やがて役割のパートナーが変わったり組織が進化すると、その役割は満足できないものになる。こうした人々は、その時にグループから離れていく。

 この実践主義者の視点は、必ずしも後に論ずる所属グループ・モデルと矛盾するものではない。それは一つの矯正として働くに過ぎない。回心者は受動的参加者であり、彼らは自分たちのコントロールを超えた社会的圧力による無意識の「犠牲者」であると見ることは誤りである。新入会員は、彼ら自身の状況を決定する参加者である。ほとんどの社会学者は、人間を外的な刺激によって完全にコントロールされるロボットとしては見ていない。人間は自分の環境を形成するのを助ける積極的な行為者である。」(Keith A. Roberts, Religions in Sociological Perspective 2nd Editionより日本語訳、p.101-103)

 宗教社会学者である櫻井氏が、回心に関するこうした学問的業績を知らないはずはない。にもかかわらず彼は、むしろ「洗脳論」や「マインド・コントロール論」に近いような受動的なモデルで統一教会の回心を描き切った。なぜか? それはこの分析の部分が櫻井氏が裁判に提出した「意見書」と深く関わっており、そこでの主張と一貫性を持たせるためであると推察される。裁判の必要上、統一教会信者は哀れな「受動的犠牲者」でなければならないのである。櫻井氏が裁判のために宗教社会学の一般的見解を捻じ曲げ、また過去において自らが書いた主張とも矛盾した内容を本書で書いていることは、学者としての良心や貞操観念の放棄であると私は考える。

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ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳59


第7章 分析と発見(2)

 あるグループがそれによって三つのタイプの献身を全て構築する原動力は、ある人をグループの外の選択肢から「引き離すこと」と、彼または彼女を共同体の関心事に「引き付ける」ことの両方を伴っている。「引き離し」と「引き付け」は以下のようなときに有効であると見られている。
「人は、彼の内面における満足がよりグループに依存するようになり、ほかの選択肢を選んだり追求したりする機会が減少するときに、ますます献身的になっていく。・・・一連の行動は、彼が意識的に捧げようとした以上に、その人の資源、評判、あるいは選択肢を巻き込むかもしれないが、その結果としてその行動指針は同時に、他のどこかに彼自身を捧げる機会を彼自身から切り離してしまう。」(注11)

 カンターの図式においては、このプロセスは彼女が「献身のメカニズム」と呼ぶ特定の組織構造を通して実現される。各々の種類の献身に対してこれらが二つあり、一つ目は分離を促進し、二つ目は愛着を強化する。以下は図式全体の概要である。6つの基本的なメカニズムには下線が引かれている。

I. [#傍線]道具的献身[#傍線終わり]
A. 犠牲
1. 禁欲
2. 質素な生活
B. [#傍線]投資[#傍線終わり]
1. 不可逆性
II. [#傍線]感情的献身[#傍線終わり]
A. [#傍線]拒絶[#傍線終わり]
1. 外の世界
2. カップル
3. 家族
B. [#傍線]親交[#傍線終わり]
1. 均一性
2. 共同体における共有
3. 共同作業
4. 規則化されたグループの接触
5. 儀式
6. 迫害と社会的予防注射
III. 道徳的献身
A. [#傍線]苦行[#傍線終わり]
1. 告白と相互批判
2. 制裁
3. 霊的差別化
4. 非個性化のメカニズム
B. [#傍線]超越[#傍線終わり] (“制度化された畏怖”)
1. イデオロギーによって
2. 権力とリーダーシップによって
3. 神秘
4. 助言
5. 思想的転向
6. 伝統(注12)

 カンターの主要な結論は、成功した19世紀のユートピアは、比較的短命に終わったグループよりも、これらの献身メカニズムをかなり多く用いていたということだ。(注13)われわれの調査においては、統一運動の性と結婚に対するアプローチは主として献身を促進する求心的な社会力を作り出すように機能すると論じてきたので、われわれの予備的な判断をカンターの図式の観点から「テスト」することは適切かつ必然的であると思われる。これは、これまでの章において示されたデータの中で機能していた様々な献身メカニズムの特定を伴うであろう。

 カンターの最初の形である道具的献身は、犠牲(引き離し)と投資(引き付け)を通して実行されており、それらはメンバーの犠牲が大きければ大きいほど、彼または彼女がグループのために費やされる時間、エネルギー、資源をより貴重視するようになるという点において、一緒に機能している。(注14)われわれはこのメカニズムが、三年間の独身期間、聖別・約婚期間、および結婚後の別居を正当化するものとして、統一運動の性と結婚に対するアプローチの中で繰り返し機能しているのを見てきた。犠牲はまた、とりわけ性的な意味における禁欲を通して実行されてきた。(注15)カンターは最も成功した19世紀の共同体は、少なくともその歴史の一部においては独身主義であったのであり、独身のメンバーは結婚したメンバーよりも一般的に高い霊的な地位を与えられていたと指摘している。一方、統一運動は修練期間中は独身を支持するものの、祝福を受けたカップルの方が独身の信者よりも霊的に高い存在であるとみなしている。しかしながら、頻繁で長期にわたる結婚後の別居のゆえに、多くの祝福を受けたメンバーがいまは事実上の独身状態にあることを理解するのは重要である。前世紀の類似したグループに関して言えば、この性的表現の犠牲は運動に対して「そうしなければほかの所に投資されていたであろう、一定量のエネルギー」(注16)を提供する。さらに、配偶者や子供達との生活を完全に犠牲にする意思のあるメンバーがいるということは、彼らにとって最も重要なのは組織のプログラムでありゴールであるという結論にならざるを得ない。祝福を受けたメンバーの極めて低い離反率は、統一運動における道具的献身を促進する手段として、犠牲と投資が有効であることを裏付けている。(注17)

(注11)前掲書、pp. 70-71。われわれがこれから見るように、他の選択肢を排除するような選択をすることは、統一運動の結婚ととりわけ関連が深い。
(注12)前掲書、pp. 76-123。
(注13)カンターの業績には三つの批判が可能であり、それがなければ極めて優れているであろう。(1)三つの内容からなる彼女の「献身」の分析は、あまりに抽象的であると論ずることができるであろう。(2)「成功した」ユートピアに対する彼女の量的な基準(例えば16年間)に対する疑問を呈することも可能だろう。(3)彼女が様々な共同体の献身メカニズムと権力構造の関係を示していないのは明らかである。最初の二つの懸念は、私が彼女の調査結果を用いる上では重要ではなかった。三番目の弱点は重要であり、私は統一運動における献身メカニズムを明らかにした後に、この問題に取り組むであろう。
(注14)「犠牲は認知的整合性理論から来るシンプルな原理を基盤として機能する。ある人が何かをするために払う犠牲が大きいほど、彼はそれに対して『価値』を感じるであろう。それは心理的な負担を正当化するためであり、内面の一貫性を保つためである。」(カンター『献身と共同体』、p.76)
(注15)統一教会の信者は禁酒、禁煙も守っている。
(注16)前掲書、p. 78。世界の救済者の役割の顕著な特徴である質素なライフスタイルの中にも、明らかに犠牲が表れていることに留意すべきである。
(注17)統一運動のメンバーが寄進した所有物や財産はグループのものであり、それらはメンバーが離れるときには返却されない。そのような投資は不可逆的であり、カンターの見解においては、道具的献身を促進する。

カテゴリー: ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』137


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第137回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 「六 統一教会の教化方法の特徴」の分析の三回目である。櫻井氏は、人が統一教会に伝道されるプロセスに関して、以下のような非常に分かりづらい内容を書いている。
「一般市民が統一教会の信者になる過程は、心理的圧力→認知のゆがみ・不安状態→正常に戻る→心理的圧力→認知のゆがみ・不安状態に陥るというプロセスの繰り返しではない。心理的圧力→不安状態→認知枠組みの揺れ→問題解決の指針の提示→認知枠組みの転換といった一連の過程により、徐々に当人の思考方法の基盤が変容していくのである。」(p.394)

 にわかに理解しがたい解説だが、要するにここで言いたいのは統一教会の影響力が「その都度型」なのか「永続型」なのかという問題であり、櫻井氏は前者を否定して後者を肯定しているわけである。なぜこんな分かりにくいことを述べなければならないのかと言えば、それは元信者Iが統一教会を相手取って起こした裁判に櫻井氏が関わり、Iの弁護団から依頼されて、Iに対する違法な働きかけに関する意見書を提出したことと関わりがある。

 通常、民事訴訟において損害賠償が成り立つのは、被告側に違法行為があったと認められる場合である。これは犯罪とは異なり、民法上の不法行為であるわけだが、統一教会を相手取った訴訟では、原告は統一教会の信者から先祖の因縁や霊界についてのおどろおどろしい話を聞かされ、「威迫困惑」によって不安な精神状態に追い込まれた結果として、金銭を拠出したと訴えるケースが多い。ところが、そのことを立証するのはそれほど簡単なことではないのである。

 伝道の初期段階において、手相や姓名判断を受けたとか、先祖の因縁や家系の衰退の話をされたとか、その結果として印鑑や念誦などを授かったという事実があった場合には、実際のトークにおいてどんなことが語られたのかについては原告と被告の間に争いはあるかも知れないが、裁判所が「威迫困惑」であると認定するのは比較的容易である。しかし、一通りの教育が終わり、統一教会の信者となった後には、献金を要請される度ごとに「威迫困惑」であるとただちに認定することができるような言説が語られているわけではないという事実が存在するのである。それはそうである。月例献金や、毎週の礼拝で献金をする際には、その都度マンツーマンで心理的なプレッシャーを加える必要はなく、なかば習慣的に献金を捧げているのである。また特別な機会に高額の献金をする場合にも、既に出来上がっている相互の信頼関係に基づいて献金の勧めが行われるため、「威迫困惑」であると認定できるような言説が語られることはないのである。元信者Iは13年間も統一教会にいたのであるから、その間の献金の大部分は信徒として、信仰を動機として捧げたものであった。

 これでは初期に捧げた金銭に対してのみ損害賠償が請求可能であり、信仰を持った後に捧げた献金は自由意思に基づいて行ったものであるから違法性はなく、取り戻すことはできないという結論になってしまう。反対弁護士としてはこれでは困るので、初期に感じた「威迫困惑」を固定化し永続化する装置が存在するので、統一教会に捧げたすべての献金に違法性があることを学問的に立証して欲しいと櫻井氏に頼んできたということなのだろう。それに応えて櫻井氏が書いた意見書に効果があったのかどうかは不明だが、ここで注目すべきことは櫻井氏が純粋に学問的な動機ではなく、「統一教会の勧誘・教化方法の違法性を立証する」という明確な裁判上の目的をもって分析や理論構築をしているという点である。要するに結論ありきの研究であるということだ。彼は裁判で争っている一方当事者の利益を代弁する立場に立っており、既に利害関係者の一部になってしまっている。このことが、彼の学問的主張に深い影響を与えていることは疑いがなく、それは彼の研究の客観性・中立性を著しく損なっていることは繰り返し指摘しておきたい。櫻井氏自身が「もとより、そのようなものはまったく尊重していない」というのであれば、こうした批判も馬耳東風なのかもしれないが・・・

 櫻井氏は元信者Iについて分析した箇所で、「このような分析的知見からIの信仰を捉えると、Iに対して統一教会が献金を要請する度に畏怖困惑に追い込む心理的プレッシャーをかけていたのではないことがわかる。統一教会に関わる過程において強迫・恫喝といった外形的な心理的圧力が常にかけられていたとすれば、Iの精神はストレスで疲弊し、精神的な疾患に追い込まれるか、統一教会を去っていたはずである」(p.393)と述べている。このこと自体は事実の客観的な把握である。しかしそのままでは違法性を主張して統一教会の責任を追及できなくなってしまうので、儀礼や統一教会の専門用語を通じて、不安や恐怖が持続され、固定化されるのだと主張しているのである。その部分を引用してみよう。
「ここで認識の変容を導き、さらに固定化する際に重要な働きをなすのが、儀礼・状況に付随して記憶された感情(畏れ、困惑、依存)、特定の宗教行為(献金の要請)に対して用いられた統一教会の専門用語(解怨、侍る、サタンが讒訴する、自己否定等々)である。認識の枠組みがいったんできてしまうと、統一教会の用語が語られ、信者が口に出して行為する中で、益々このような言語の概念により形作られた特殊な宗教的世界観が強化されていく。そうなれば、特定の行動場面において、特定の言語を指導者が発しただけでも、信者は言葉が語られた場面の記憶と感情を蘇らせ、頭で判断して動くよりも感情に突き動かされて行動してしまうようになる。」

 これはあたかも統一教会の信者が、伝道の初期に埋め込まれた恐怖や不安の感情を儀礼や専門用語によって固定化された存在であり、指導者が一声かければまるでパブロフの犬のように条件反射的に献金するようになるのだと言っているわけで、完全に統一教会信者をバカにしきった分析である。献金をする統一教会信者は「頭で判断して動くよりも感情に突き動かされて行動して」いるというのであるから、理性を失っていることになり、結果的に洗脳やマインド・コントロール論と同じになってしまう。これは櫻井氏が統一教会信者の生の信仰生活を全く知らないから言えることであり、現実とは全く乖離している。

 私は現役の統一教会信者だが、統一教会の信仰を持つようになった主要な感情は恐怖や不安ではなく喜びと感謝であり、儀礼に参加したり専門用語が語られた際に不安や恐怖を感じることはない。そもそも、統一教会信者の信仰の動機が不安や恐怖であると規定すること自体に重大な誤りがある。さらに私はリーダーが語る専門用語を聞いたからと言って、条件反射的に献金することもない。指導者の言うことが本当に正しいのかどうか批判的に聞く耳を持っているし、たとえ指示が正しいものであると思われたとしても、それを実行するのが現実的に難しいと思った場合には従わないこともある。そして、やるべきことがあまりにも多すぎてすべてを実行できないときには、何を重要視すべきかを取捨選択するという合理的な判断をする。理想と現実には常にギャップがあり、それにうまく折り合いをつけていくのが信仰生活の実際である。大枠として信仰を維持しながら、個々の指示に対しては臨機応変に対応しているのが統一教会信者の大半であるし、指導者の言うことを信じられなくなったり批判的になったりした場合には、離教という選択をする信者もいる。これらはすべて条件反射によって行っているのではなく、個々の信者が自分の頭で考えて決断していることなのである。櫻井氏の研究の致命的な欠陥は、こうした現役統一教会信者のリアルに触れたことがなく、裁判資料や脱会した元信者の証言だけに基いて分析と理論構築を行っている点にある。

 かつて櫻井氏は、「信仰者は、教団へ入信する、活動をはじめる、継続する、それらのいずれの段階においても、認知的不協和を生じた段階で、自己の信念で行動するか、教団に従うかの決断をしている。閉鎖的な、あるいは権威主義的な教団の場合、自己の解釈は全てエゴイズムとして見なされ、自我をとるか、教団(救済)をとるかの二者択一が迫られることがある。自我を守るか、自我を超えたものをとるかの内面的葛藤の結果、いかなる決断をしたにせよ、その帰結は選択したものの責任として引き受けなければならない。」(櫻井義秀「オウム真理教現象の記述をめぐる一考察ーマインド・コントロール言説の批判的検討ー」(『現代社会学研究』1996年9 北海道社会学会)、p.94~95)と書いているが、こちらの方がはるかに真実に近い。しかし本書では、それと180度異なる議論を展開している。裁判のために、櫻井氏はかつての信念を放棄したようである。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳58


第7章 分析と発見(1)

 これまでのところ、私は統一運動における性と結婚について、その神学における性の中心的役割、性倫理、男女の性的役割分担、マッチングの準備と参加、そして最後に祝福を受けたカップルの聖別期間と同居生活を中心として、記述的に説明してきた。筆者は定量的アプローチによって得られるような種類の客観性をまったく主張するものではないが、批判的な意見には脚注の地位を与え、分析的コメントをデータから分離することによって、運動内部の人々の視点から主題を理解するためにあらゆる努力がなされた。社会学的な視点から、統一運動の性と結婚に対するアプローチは、この終末論的共同体における献身の発達を強く促進することが論じられた。この最終章の主たる目的は、この基本的なテーゼを先行する社会学的調査の集成、とりわけ統一運動と類似するグループにおける献身の問題と関わりのある研究と理論に結び付けることにある。

 われわれは最初にデータの掘り下げた社会学的分析を提示するであろう。その際、まずは19世紀のユートピア的共同体における献身を構築し維持する機能を果たしていた識別可能な社会構造(「献身のメカニズム」)について調査した、ロザベス・モス・カンターの先駆的な研究を活用する。(注1)カンターのアプローチと同様に、この最初のレベルの分析は、その性と結婚に対する特異なアプローチを反映している統一運動の組織構造に焦点を当てるであろう。これらの制度上の枠組みは、カンターの結論の観点から、それらの献身を誘発する潜在力に関して評価されるであろう。

 第二のレベルの分析は本質的に現象学的であり、構造を見るのではなく、グループ内部における個人的な交流のプロセスを見るであろう。ピーター・バーガーとハンスフライド・ケルナーによる『結婚と現実の構築』(注2)に掲載されている非常に示唆的な論文から得られた洞察を用い、われわれはより大きなアメリカ社会と対比しながら、統一運動の性と結婚の習慣の「理念型分析」を行うであろう。

 組織構造と対人関係を結び付けるものとしての社会的役割は、第三のレベルの分析のための基礎を提供する。「世界の救済者」の役割は、統一運動の生活様式の事実上あらゆる側面に浸透し、それらを秩序立てているが、とりわけ性と結婚に対するアプローチにおいてそれは顕著である。われわれは兄弟姉妹や夫婦の役割が世界の救済者の志向性から派生したものであり、後者と同様に、神の啓示とカリスマ的リーダーシップによって正当化されているのを見るであろう。これらの役割は、言ってみれば、共同体の構造と規範の中に「組み込まれて」おり、メンバー同士の交流を形作るためのガイドラインを提供している。ブロムリーとシュウプと回心に関する役割理論を踏まえ、(注3)この第三のレベルは、統一運動の性と結婚に対するアプローチによって生じた献身は、還元主義的で心理学的な推論によってではなく、集約的で広範な宗教共同体におけるメンバーの役割という観点から最もよく説明できることを示すであろう。

 「宗教のいかなる社会学的研究においても、宗教組織を無視することは、あらゆる人間の行動に対する最も重要な一連の制約を考慮から除外することである。」(注4)イギリスの社会学者のこの判断は、統一運動のようなグループを正確に理解するために、社会構造が共同体の行動に影響を与える方法を考慮に入れることに対する関心が、多くの学者たちの間で高まっていることを示している。(注5)

 カンターの『献身と共同体』は、19世紀のアメリカにおいて成功したユートピア的共同体の設立にどのような社会的仕組みが必要であったかを解明する上で、本質的に構造上の志向性を取り上げている。ここでは「成功した」グループとは、16年以上継続したものであると定義されている。(注6)9つの成功した共同体を、成功しなかった21の団体と比較しながら、著者は「これら30のグループにおける成功度の違いは、彼らがどれほど強力な献身を生み出せたかにかかっている」(注7)と強く主張している。そしてさらに以下のように述べている。
「一つのユートピア的共同体が持ちこたえるための強さと結束を持つために対処しなければならない第一の問題は、その人間組織である。共同体がグループとして生き残るために必要とする仕事を、人々はどのように配置するのか、そして次にグループがいかに長い期間にわたってそのメンバーを満足させ、巻き込んでいくのか、ということである。」(注8)

 歴史記録の徹底的な分析に基づき、カンターはこれらの共同体の中のある特定の団体がなぜ成功を収めたのかに関する最高の社会学的説明は、メンバーの側における献身を確立し維持する機能を果たす構造的配置を実行することにあると論じている。ここでは「献身」は以下のように定義されている。
「ひとりの人が彼自身を完全にあるグループもしくはある関係性に投入し、それによって彼自身の内的存在を維持するためにはその社会秩序を支持するような行動が要求されるとき、その人はそのグループまたは関係性に献身している。献身的な人には忠誠心と関わりがある。彼は帰属意識を持っており、そのグループは彼自身の延長であり、また彼はグループの延長であるという感覚を持っている。献身によって、人とグループは分かち難く結びついている。」(注9)

 献身はあらゆる持続可能な共同体が持つ三つの基本的ニーズの観点から分析されている。すなわち、メンバーを抱えるニーズ、グループの結束を高めるニーズ、社会統制のニーズである。これらの三つのニーズに対応しているのが三つのタイプの献身である。「道具的」とは、人々がシステムの中に留まり、そこで働き、彼らの役割を継続しようとする意欲を意味する。「感情」とは、人々が「互いにくっつく」能力であり、「互いに引き付けあい、グループの存続に対する脅威に立ち向かうための総合力である」(注10)。そして「モラル」は、メンバーがシステムの命令に従い、その信条と価値観に忠実であろうとする意欲である。

(注1)彼女の二つの論文「献身と社会組織」『アメリカン・ソシオロジカル・レビュー』(第33巻、第4号、1968年8月)、pp. 499-517、および「千年王国運動の献身と内的組織」pp. 219-243、およびいまや彼女の古典的研究となった『献身と共同体』を参照のこと。
(注2)バーガーとケルナー『結婚と現実の構築』
(注3)ブロムリーとシュウプ『たった数年・・・』
(注4)ベックフォード『宗教組織の二つの対照的なタイプ』p. 83。
(注5)アンソン・デビッド・シュウプ・ジュニア「現代の宗教運動の構造的視点に向かって」『ソシオロジカル・フォーカス』(第6巻、夏、1973年)pp. 83-99。
(注6)カンター『献身と共同体』p. 64。
(注7)前掲書
(注8)前掲書
(注9)前掲書、p. 66。
(注10)前掲書、p. 67。

カテゴリー: ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』136


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第136回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 先回から「六 統一教会の教化方法の特徴」に入った。この節の主たる目的について櫻井氏は、「統一教会のマインド・コントロールとして論議されてきた勧誘・教化の技法や心理状態を宗教社会学的観点からどのように解釈できるかを考察してみたい」(p.393)と述べている。櫻井氏はいわゆる洗脳論者やマインド・コントロール論者ではない。これらはどちらかと言えば心理学的なアプローチだが、自分は社会学者なので宗教社会学的なアプローチから人が統一教会に入教するプロセスを分析しようというわけだ。

 櫻井氏は、「統一教会の宣教方法において問題となるのは、心理的なプレッシャー以上に一連のセミナーやイベント、信者同士の交流によって、徐々に信者達の人生観・世界観に関わる認識の枠組みが転換されたという事実である」(p.394)と述べている。ここでは「心理的なプレッシャー」がいわゆる洗脳論やマインドコントロール論において主張されているものであると思われ、勧誘者が被勧誘者に一方的に心理的圧力を加えて、個人の世界観を短期間で変容させてしまうというモデルである。櫻井氏は統一教会の元信者たちに対するインタビューを行った結果、それが事実ではないと判断するに至った。実際には人生観が転換されるプロセスは徐々に漸次的に起きているのであり、それも「騙す・騙される」「加害者・被害者」という単純な図式で起きるのではなく、信徒同士の交流という社会的なダイナミズムの中で起こるものである、という知見を述べていると思われる。これ自体は、事実と乖離している分析であるとは思われない。

 実は櫻井氏自身が「この事態は、統一教会に限らず、他の宗教団体においても見られることだ」(p.394)と告白しているように、セミナーやイベントや信者同士の交流によって人生観や世界観が変わることこそ、まさに人が伝道されるということなのである。したがって、伝道のあり方自体は統一教会においても他の宗教団体においても本質的な差異があるわけではない。このことは、統一教会が「洗脳」や「マインド・コントロール」と呼ばれる何か特殊なテクニックを用いて伝道しているという従来の指摘が誤りであることを櫻井氏が認めたということになり、その点においては評価したい。

 自らの専門領域を「社会心理学」と分類する西田公昭氏(立正大学教授)は、「カルト」と呼ばれる新宗教に人が伝道されていく過程を「永続的マインド・コントロール」と名付けてそのメカニズムをモデル化した。それはビリーフ・システムと呼ばれる意思決定の装置を入れ換えることによって、人を永続的にコントロールする技術であるという。その詳細をここで解説することは避けるが(西田公昭著『マインド・コントロールとは何か』(紀伊國屋書店 1995)を参照のこと)、それは基本的にある人が新宗教に出合い、その教えに共鳴して、教団の中で徐々に自分のアイデンティティーを確立していく過程を、悪意をもって表現したものに過ぎない。

 彼はAさんがもっていた独自のビリーフが、X組織との接触を通して、徐々にX組織のビリーフと入れ替わっていく様子をモデル化して説明しているが、これはウィリアム・ジェイムズ(米国の哲学者、心理学者:1842-1910)による回心の描写に酷似している。ジェイムズは回心の経過を「今までは、当人の意識の外囲にあった宗教的なものが、いまや中心的地位を占め、宗教的目標が当人の精神的なエネルギーの中心として習慣的にはたらくようになる」(小口偉一 堀一郎監修『宗教学辞典』東京大学出版会 1973年 p.84)と説明している。たとえこれが伝道者の働き掛けによって引き起こされたとしても、それはどこの宗教においても日常的に起こっていることであり、あえて「永続的マインド・コントロール」などという仰々しい名前を付ける理由はどこにもない。

 このように、統一教会の伝道方法そのものは他の宗教団体と本質的に変わらないものであることを認めた櫻井氏は、問題点をどこにシフトさせるのかと言えば、「どのような宗教行為をなすように信者達の認知枠組みが転換されたかということである。客観的には青年信者であっても数百万円、壮婦であれば資産に応じて1000万円から数億円の献金を要請されるままに出し続け、それ以外の選択肢がないような精神状態に追い詰められていた」(p.394)ことにあるという。要するに統一教会は献金が高すぎるからダメだという、かなりありきたりの主張なのだが、彼の主張の問題点は「それ以外の選択の余地がないような精神状態に追い詰められていた」という分析がはたして正しいかどうかである。

 櫻井氏はあたかも高額の献金が悪であるかのように決めつけ、それを実現するためには教団の要請に抗うことができないような精神状態に信徒を追い込まなければならないと前提している。しかし、こうした前提が正しいことを彼は証明していない。まず、高額の献金を自らの意思で感謝して行う信徒がいる可能性を、櫻井氏は初めから排除している。私は既に元信者Iの事例の分析において、統一教会の信者が高額献金をする動機を以下の三つの観点から分析した。

 まず、最新の幸福度研究によれば、ある一定の収入や財産の基準を越えれば、その人の幸福度がそれ以上に上昇することはなくなるという。したがって、その人の基本的な生活に支障をきたさない限りは、献金によって財産が減ったとしても感情的幸福度が下がることはなく、むしろ信仰を持つことにって、より高次の欲求である愛情・所属欲求、尊厳欲求、自己実現欲求を満たすことで、感情的幸福度が上昇することがあり得るのである。したがって、高額の献金をするのは精神的に追い詰められていたからではなく、こうした喜びを動機とした合理的な判断である可能性があるのである。

 次に、宗教の役割は目に見えて他人と比較できるような「地位財」に対する執着を捨てさせ、目に見えないより本質的な「非地位財」によって得られる幸福に焦点を当てさせることによって、人間に永続的な幸福をもたらすものであると言える。統一教会の信者が高額の献金をするのは、み言葉を通してより本質的で永続的な価値観に目覚めたため、地位財に対する執着を捨てたからであり、これも幸福学の立場からすれば一つの合理的な判断と言える。一般に宗教的信仰を持つことはその人の幸福度を高めることに役立つが、これは統一教会においても同じであり、信者たちはその対価として献金をしているのである。

 最後に、アイリーン・バーカーの研究によれば、そもそも統一教会に入会するような人は、奉仕、義務、責任に対する強い意識を持ちながらも、貢献したいという欲望のはけ口を見つけられない人であるという。青年信者の場合には、自分自身の人生そのものを捧げ、禁欲生活を送り、一切の所有物を持たずに、朝から晩まで献身的に活動に没頭することによって、その欲求を満たすことができる。しかしIのような壮婦は、それと同じ生活をすることができないので、欲求不満に陥るのである。内心では自分自身の全生活を捧げて、神のために献身的に働きたいにもかかわらず、事情によってそれができないIは、できるだけ多くの財産を神に捧げることによって貢献したいと思ったのである。そして献金をする度に霊の親、カウンセラー、そして責任者から褒められることにより、自分自身の価値を感じ、喜びを感じていたのである。

 したがって、いかに高額な献金であったとしても、それを主体的な意思で感謝して捧げ、それによって幸福を感じることは現実としてあり得るのであり、その可能性を最初から排除する櫻井氏の議論は、極めて一方的な決めつけであると言わざるを得ない。

 ではその逆に、自分が教団に所属しているからという理由で、なかば義務的に嫌々ながら献金するケースはないのであろうか? 習慣的に教団に所属してはいるものの、信仰が低下し、感謝の気持ちが薄れた場合には、そうした心理状態になる人は一定の割合でいると思われる。そのような感謝できない状態で献金を勧められたときに、献金をするかしないかの決断は、その人自身の主体的判断によるものか、それとも教会の強制によるものか、その責任はどちらにあるのかという問題が発生するかもしれない。実はこの問題に対する回答は、櫻井氏自身が書いた論文「オウム真理教現象の記述をめぐる一考察ーマインド・コントロール言説の批判的検討ー」(『現代社会学研究』1996年9 北海道社会学会)の中で与えられている。
「信仰者は、教団へ入信する、活動をはじめる、継続する、それらのいずれの段階においても、認知的不協和を生じた段階で、自己の信念で行動するか、教団に従うかの決断をしている。閉鎖的な、あるいは権威主義的な教団の場合、自己の解釈は全てエゴイズムとして見なされ、自我をとるか、教団(救済)をとるかの二者択一が迫られることがある。自我を守るか、自我を超えたものをとるかの内面的葛藤の結果、いかなる決断をしたにせよ、その帰結は選択したものの責任として引き受けなければならない」(p.94~95)

 入信するプロセスにおいても、入信した後の信仰生活においても、その人の自我が完全になくなることはあり得ないし、自由意思が機能しなくなるということもない。したがって、外的な強制力やあからさまな強迫によるものでない限りは、信仰に基づいて献金した責任はその人自身にあると言えるだろう。それを「それ以外の選択の余地がないような精神状態に追い詰められていた」などと教団に責任転嫁する櫻井氏は、自らが1996年に書いた論文をもう一度読んでみるべきではないだろうか?

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ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳57


第6章 祝福:聖別期間と同居生活(13)

7.「結婚後の別居」は、繁殖のためだけのセックスを奨励することはさておき、夫と妻の間の個人的な交流の機会を制限するように機能している。ダースト博士が彼の結婚を「ハリウッド・ロマンス」になぞらえることができた主な理由は、彼とダースト夫人が一緒にいる時間がそれほど少なかったからである。統一教会の信者たちはいまは彼らの結婚が「幸福」だと語ることはできるし、実際に将来もそうであり続けるかもしれない。しかし、統一運動の結婚の本当の「厳密な審査」は、カップルが「定着」して日常生活の中でお互いに顔を突き合わせなければらなくなったときに訪れるであろう。(注88)しかしながら当分の間は、別居がもたらす必然的な結果として、夫婦の役割は、統一運動のより大きな関心事に役立つ世界の救世者の役割に従属することになるであろう。

 メンバーの献身とグループの結束を強化する働きをするこれらの力に加えて、求心的な傾向に背き、統一運動の結婚に対するアプローチに将来悲惨な結末をもたらすこともあり得る三つの現象も存在している。私は以下の三つに言及する。(1)マッチングを受けたカップルの間の葛藤に関連した問題、(2)理想の結婚(夫と妻の一体化)と運動の千年王国主義的な志向性(夫と妻の別居)の間の矛盾、(3)東洋とアメリカのリーダーシップの間の極めて本質的な隔たり。
1.婚約したカップルは、マッチングを無効にするためには運動を離れる以外に道がないと思い込むよう導かれてきた。彼らがカップルとして直面している問題に関わらず、彼らが共に暮らすことに対する強力なグループの圧力が存在し、これらの圧力は文師の優れた能力と聖酒式の神学的な意味によって是認されている。マッチングを受けるメンバーの数が増え、配偶者の選択を文師に完全に委ねることがより強く奨励されるようになるに伴い、婚約したカップルは相性の合わない相手を受け入れるか、運動を完全に離れてしまうかの二者択一により一層直面するようになることが予想される。マッチングを受けた者たちの個人的なニ-ズを考慮し、マッチングを受けたカップルに婚約を解消する真の自由(単に理論的なものではない)を与える手段が開発されない限り、おそらく「約婚・聖別期間」中の離教はより一般的なものになるであろう。
2.夫と妻の一体化という理想と「結婚後の別居」の間の矛盾は、祝福家庭が近い将来に定着しない限り、統一運動から大量の離脱者が出るだろうという状況になっている。既にこの一年間で、二組の非常に活動的なアメリカ人のカップルが、統一運動は組織的に核家族の統合性を弱体化させているという理由でグループを離れることを選択した。一方でいまだグループに留まっている多くのカップルは、近い将来に「結婚後の別居」が終わることに対する強い願望を表明している。文師はこうした状況に対して敏感であり、カップルの「定着」を約束したが、若干の形ばかりの努力を除いて、その種のプログラムはなにも実行されていない。
3.最後に、過去5年間を通じて権力を相当強めてきた特定の東洋人とアメリカのメンバーの間には隔たりがある。この行き詰まりの結果は運動の多くのレベルにおいて見られるが、それは性と結婚の問題になると特に顕著であった。これら日本人と韓国人のリーダーたちが夫婦間の性交は繁殖のためにだけあると信じているのは、彼らが伝統的なアメリカの結婚を低く見ていることの一つの表れに過ぎない。アメリカ人のリーダーたちは一般的にこの問題に直接的に対峙しようとしないが、その理由はグループの結束を思ってのことだったり、自分の地位や立場を失うかもしれないという恐れであったりする。そのカリスマによってこれらの相反する力をまとめている文師がいなければ、今日の統一運動には疑いなく大きな分裂があったことであろう。

 結論として、統一運動の婚約と結婚に対するアプローチはグループの結束と献身を強化するような形で機能していることが議論されてきた。「約婚・聖別期間」「結婚後の別居」「東洋との繋がり」において、潜在的に破壊的な現象が兆候として現れているが、これらはまだ大きな困難を作り出してはいない。

(注88)統一教会の信者は、世俗の世界の離婚率が33%であるのと比較して、彼らのグループでは1-2%であることに誇りを持っている。しかしながら、社会学的にはこの種の比較はまったく妥当ではない。カップルが離婚するのは、彼らが結婚したからではなく、夫と妻の継続的関係の中で生じた葛藤によるものであることは自明である。

カテゴリー: ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』135


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第135回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 元統一教会信者の信仰史の具体的な事例分析の部分を終えて、今回から「六 統一教会の教化方法の特徴」に入る。これは第7章の中で記述してきた元信者のライフストーリーのデータをもとに、櫻井氏なりの総合的分析を試みた節であると言える。と同時に、本書において櫻井氏が執筆する前半部分の最後にあたるので、まとめ的な意味を持っている。

 櫻井氏はこの節の冒頭で、「全員が規格化された統一教会の勧誘・教化コースを通過して信者になったことがわかる。信仰の持ち方は、個々人の状況に応じて若干の相違点はあるが、伝道やマイクロ、献金の儀礼や決断といった局面において信仰を深めてきた過程は共通しており、特に家族との葛藤(元々葛藤があるのではなく、活動により発生・深刻化させられる)が信仰のバネとなるというカルト教団特有の特徴を示していることにも注意したい。」(p.393)と述べている。この櫻井氏の分析が正しいかどうかを評価することから始めよう。

 まず、統一教会の信者となった者が規格化された勧誘・教化コースを通過しているという指摘であるが、これは統一教会に限らずどの宗教でも当たり前のことであるし、とりたてて問題視されるべきことではない。宗教の教理について全く学ぶことなく信者になるということはあり得ないので、入信の過程において求道者はある程度規格化された研修課程を通過するのが普通だからである。キリスト教ではこれを「カテケージス(catechesis)」と言い、日本語では「入門教育」や「要理教育」と訳される。伝統的には、こうした教育は洗礼や堅信礼といったサクラメントの前に行われることが多く、その際に用いられるキリスト教の教理をわかりやすく説明した要約ないし解説のことを「カテキズム (Catechism)」と言う。このカテケージスに当たるものが統一教会の「修練会」であり、カテキズム (Catechism)」に当たるものが原理講義であると言っていいだろう。こうした入門講座はキリスト教のみならず、伝統仏教にも新宗教にも存在し、それは子供向けや大人向けといったバリエーションはあるものの、基本的にはその宗教の教えに基いて規格化された教育である。

 櫻井氏は、これらのインタビューを受けた者たちが伝道された過程に一定の共通性があることから、それこそが彼らが伝道された主たる原因であると言いたいようだ。しかし、この分析の視野が極めて狭いことは、アイリーン・バーカー博士の研究と比較してみたときに明らかになる。バーカー博士は、「人はなぜムーニーになるのか?」という問いを立て、それを決定する変数として、①個人の持っている素養や特性、②周りの社会、③統一教会の選択肢が持つ魅力、④修練会の環境、という4つの変数を提示した。いわゆる洗脳論は、①や②や③の要素に関わりなく、どのような人でも④だけの要素で強制的に入信させられてしまうというものだが、実際に参与観察してみれば、そのような事例は一つも存在しないということを根拠に、バーカー博士は洗脳論を却下している。それでは①から④のどれが入教を決定するのかを探求した結果、バーカー博士はこれら4つの要素が総合的にバランスよく働いた結果として人はムーニーになるのであり、その中のどれか一つが欠けてもムーニーになる確率は著しく低くなるという結論を出している。

 櫻井氏は、統一教会信者の信仰史を分析する際に、入信過程における統一教会の勧誘・教化の方法にばかり着目して、それがもっぱら入信に決定的な役割を果たしたのであると短絡的に結論しているが、実際にはそのような勧誘・教化のプロセスを通過したとしても信者にならない者は多数いるのであり、むしろ信者になる人の方が少数派であるという事実をすっぽりと見落としている。それは彼が結果的に信者となり、さらに脱会した者に対するインタビューしか行っていないからであり、信者にならなかった人々がその勧誘・教化にどのように反応したのかを全く知らないために、あたかもそれが抗し難いほどの威力を持っているかのように過大評価してしまっているのである。櫻井氏自身は洗脳論やマインドコントロール理論の信奉者ではないが、結論的にはそれと大差ない主張になってしまっているのはこのためである。

 実際には、統一教会の勧誘・教化が説得力を有するのは、ごく一部の人に対してのみである。それはバーカー博士が指摘するように、①もともとその個人が宗教的な内容に反応する素養を持っており、②自分のまわりの社会や人間関係に何らかの不満や不適合を感じており、③統一教会にその人を引き付ける魅力があり、④修練会という環境の中でそれを受け入れるようになった、という4つの要素がかみ合わない限りは人は伝道されないのである。そしてその4つがかみ合って入教する割合は、バーカー博士の分析では多く見積もっても10%程度であり、一度伝道されても時間の経過とともにその割合はさらに減っていくというのである。

 同じ「人はなぜ統一教会の信者になるのか」について分析していても、バーカー博士と櫻井氏の視野の広さには雲泥の差があり、櫻井氏は全体像のごく一部分しか見えていないことが分かるであろう。それは、研究対象との向き合い方が全く異なっているのと、それに起因して資料の入手方法が全く異なっているからである。この研究のスタンスと資料の偏りこそが櫻井氏の研究の致命的な欠陥であると言える。

 また櫻井氏は、「伝道やマイクロ、献金の儀礼や決断といった局面において信仰を深めてきた過程は共通」しているというが、こうした一般化に当てはまらない事例が存在していることも指摘しておきたい。まずCとDは大学生であったため、そもそも高額の献金を行っておらず、そのことを決断するための儀礼にも参加していない。彼らは金銭的には失うもののない者たちだったのであり、その代わりに自分たちの青春時代と体力を投入した者たちであった。一方で、壮婦であったHとIは熱心に献金は行ったが、マイクロには乗っていない。このように、伝道されたときの立場によって入信過程には個人差があり、櫻井氏が強調するほど規格化されているものではないのである。

 さらに、家族との葛藤が信仰のバネとなるという現象はカルト教団に特有のものであり、しかもそれは元々葛藤があるのではなく、活動により発生・深刻化させられるのであるという彼の主張も誤りを含んでいる。彼は「カルト」の信仰は異常で家族関係を破壊する有害なものだと言いたいようだが、子供が宗教に入ったことに親が反対したり、妻が信仰を持ったことに夫が反対するというのは、新宗教においては良くあるケースであり、その際に家族の反対を受けることで余計に信仰が強化されるというのも珍しい話ではない。既に多くの事例を挙げて説明してきたとおり、迫害を信仰の糧とする伝統は多くの宗教に見られ、それは家族からの迫害であっても同様である。

 そのことを抑えた上で、個々の事例について指摘すれば、元信者Fの母親は現在も壮婦の信者であり、彼女は母親の強い勧めによって統一教会に入信したのであるから、F自身は信仰のことで家族から反対されたことはなく、櫻井氏の主張はまったく当てはまらない。彼女が経験した「家族との葛藤」は、むしろ祝福を受けて訪韓した後に、夫の親族との間に生じたものであった。そしてこの葛藤は信仰のバネになるどころか、結果的には離婚と棄教という、信仰を破壊する方向に作用したのである。

 わざわざ櫻井氏が「家族との葛藤が信仰のバネに」というサブタイトルをつけている壮婦のケースにおいて、元信者Hの事例はもともと夫との関係に葛藤を抱えていたケースであった。実は櫻井氏自身がそのことをほのめかしている。「Hは入信前に夫との関係に悩んでいた。家庭内暴力に近いものがあった。こうした状況でHが積極的に問題の打開策を求めていったともいえるし、統一教会の伝道者がつけ込んだともいえる。」(p.375)という記述がそれだ。

 櫻井氏は家族側の立場に立って記述しているので「家庭内暴力に近いもの」という曖昧な表現をしているが、実際には家庭内暴力そのものがあったのであろう。要するにHが統一教会に救いを求めなければならない状況に追い込んだのは、夫自身であったということだ。だとすれば、「元々葛藤があるのではなく、活動により発生・深刻化させられる」(p.393)という櫻井氏の主張も、Hには当てはまらないことになる。

 同じく壮婦の元信者Iの事例においても、夫は既に亡くなっていたため、家族と言えは子供たちだったのだか、「子供達は母親の統一教会における活動を当初は世間一般の宗教と同様に考え、母親の気晴らしになるのであればと気楽に捉えていた」(p.391)とあるので、家族との葛藤が信仰のバネになったとは到底思えない。彼女は家族の反対によって信仰を強化するどころか、息子たちとの話し合いによって比較的あっさりと信仰を棄ててしまったのであり、信仰を巡って子供たちと激しく闘った様子は見られない。

 総じて、櫻井氏の分析は個別の事例が持つ多様性を無視した無理な一般化が多い。偏ったサンプルにもかかわらず彼の一般化が当てはまらない例外が多いのであるから、もしこれをより広く公正なサンプルに照合した場合には、彼の一般化はほとんど現実を反映しない思い込みであることが明らかになるであろう。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』