書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』105


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第105回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 今回は第六章「五 統一教会の祝福」の分析の6回目であり、「3 祝福の教団組織上の機能」に関するの櫻井氏の記述の批評の2回目である。

 櫻井氏は、「統一教会の組織構造は、東アジアの宗族に見られる族長支配と王朝による臣民統制をかけ合わせたようにも見える。」(p.314)と述べた上で、「もちろん、この王朝は李朝や北朝鮮の金日成ー金正日親子の体制以上に強力な王朝であることはいうまでもない。政治的支配は、従わないものには暴力をも含む権力的支配を行うが、家族的領域には介入しない。北朝鮮の金体制は完全な思想統制を行うが、男女の性愛を支配下に治めるまでのことはしなかった。できなかったといってもよい。統一教会は人間の根源的な欲望と根源的な関係形成の仕組みまで支配しようとし、それに成功した。したがって、これほど強い支配構造はない。」(p.314-5)という、情緒的で混乱した主張をしている。

 そもそも、国家による支配と宗教による支配のどちらが強力であるかを比較して論じること自体がナンセンスであり、とても社会学者の主張とは思えない。櫻井氏が「政治的支配は、従わないものには暴力をも含む権力的支配を行う」という通り、政治学や社会学において国家の物理的強制機能を指す用語として、「暴力装置」という言葉が用いられることがある。これは国家権力によって組織化され、制度化された暴力の様態を意味する言葉であり、具体的には軍隊や警察の持つ実行力のことを指している。したがって、北朝鮮のような「ならず者国家」でなくとも、国家である以上は「暴力装置」を持っていることになる。そして、これは「聞こえが悪い」という問題はあるものの、必ずしも悪い意味で用いられている言葉ではない。戦争や犯罪が現実に存在する以上、国の独立や社会の秩序を守るために、国家が暴力装置を合法的に独占・所有することは不可欠であり、それこそが国家の本質的機能であると考えられるからである。

 一方で、男女の性愛や家族的領域を伝統的に支配してきたのが宗教であった。統一教会の祝福について研究を行った米国の宗教社会学者ジェームズ・グレイス博士は、著書『統一運動における性と結婚』において、以下のように述べている:
「長年にわたって宗教と社会と性の関係について調査した結果、私は宗教が持つ非常に重要な社会機能のひとつが、結婚生活が人間の共同体のさまざまなニーズに役立つように、結婚生活における性的表現を形成する役割であるという確信を持つようになった。この『形成』が、個人をグループに適合させ、『真正な』メンバーとしての彼または彼女の活動をコントロールするプロセスを促進するのである。・・・私は以下のことを主張する。そしてこれらは本研究の基本的な前提となっている。(1)そのメンバーの性や結婚に関する生活をコントロールすることのできる社会やグループは、彼らの生活全般をも相当にコントロールすることができる。(2)歴史的にみて宗教的信仰の形成は、共同体がそのメンバーの性と結婚に関する活動を規制するための最も効果的な手段であることが証明されている。」(『統一運動における性と結婚』p.8)

 櫻井氏もこのことを知らないわけではないので、本書の中で「歴史的には宗教が性を統制してきた。」「宗教制度は女性・男性のセクシュアリティやジェンダーを規定し、安定的な家族の再生産を方向づけてきた。」「統一教会による性の統制、家族の形成も、宗教としてありえないものでも例外的なものでもない。」(p.314)と述べている。櫻井氏が大げさに「これほど強い支配構造はない」と述べている統一教会の支配は、実は歴史的に宗教が果たしてきた役割と同じなのである。国家は法と暴力装置によって人を「外側から」支配しようとするが、宗教は権威と価値観によって人を「内側から」支配しようとする。そしてその価値観は男女の性愛や家族のあり方と密接に結びついていることが多い。要するに宗教と国家では人の支配の仕方が異なるということなのであって、「どちらが強力か」という比較自体がナンセンスなのである。

 強制力という観点からすれば、暴力を持って人を従わせる力を持った国家権力の方が強力であることは明らかである。暴力には人を意思に反して従わせる力がある。しかし、暴力をもってしても、人を自発的に従わせることはできない。その意味で、人を自発的に従わせることのできる宗教には、暴力以上の力があると論じることは可能かもしれない。しかしながら、宗教によって自発的に従う人の割合は、暴力によってしぶしぶ従う人の割合に比べて著しく低い。要するに「どちらが強力か」という議論は、ものの見方によって結論が変わるのであり、本来は比較の対象にならないことを論じているのである。

 櫻井氏はあたかも見てきたかのように、李朝や北朝鮮の体制以上に統一教会の支配は強力であると主張するが、果たして彼が李朝や北朝鮮における結婚のあり方についてきちんとした調査をしたうえでこうした主張をしているのかは怪しい。李氏朝鮮時代の家父長的家族制度は、政教の根本理念に採択された儒教によって厳格に統制され、生活の規範と儀式は全て儒教の教えによることを強要されていた。家長の権威は国家によって保障されていたのであり、家長は内では先祖の祭祀を主宰し、家族の管理と扶養、分家や養子縁組、子女の婚姻・教育・懲戒・売買などに関する全権を持って家族を統率していた。また、外では民間の契約は家長の署名なしには成立しなかったし、官庁でも家長を相手に全てのことを処理した。その意味で李朝は家父長的家族制度によって民を統治していたと言っても過言ではない。「家族的領域には介入しない」のではなくて、王朝の支配が家族制度を通して個人にまで及んでいたのである。そして家族のあり方を支配していた価値観は、儒教の教えであった。

 北朝鮮もまた、単に「暴力装置」によって外側から国民を統治するだけでなく、思想統制によって内側から国民を支配しようとするため、それは時として性愛や結婚の領域にまで及ぶことがある。北朝鮮には全人民を網羅する監視統制システムがある。北朝鮮の国民は、小学校2年生から「朝鮮少年団」に入り、満14歳になると金日成・金正日主義青年同盟に加入する。その後は年齢や職業によって細分化された組織に加入し、死ぬまで何らかの組織に所属するのである。そして「生活総和」という定期的に行われる思想教育の行事で、他人の批判と自己批判を繰り返すことによって統制される。したがって、国民を監視統制し徹底的な思想教育を行う北朝鮮が、「結婚も党や国家のためにするもの」という考えを持ったとしても不思議ではない。

 北朝鮮の結婚や恋愛のあり方がどうなっているのかは、実際には正確な情報は分からず、インターネットに流れている情報から推察するしかない。それによると、以前は労働党や親が決めた人と結婚する例が多かったが、最近は自由恋愛が許されるようになったという。ネットの情報の中には、北朝鮮の政府が男女の性愛や家族的領域にまで介入した事例として、政治犯収容所における「表彰結婚」の話が出てくる。

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北朝鮮収容所、肉体的拷問より残酷な「表彰結婚」(1)

 男女の愛、子どもの出生さえも北朝鮮の政治犯収容所では「計画管理」に含まれる。男女模範囚を選んで子どもを産ませる「表彰結婚」がそれだ。 こうした方法で政治犯収容所で生まれ、脱北に成功したシン・ドンヒョクさん(30)が28日、脱北者の人権について口を開いた。韓国に定着した脱北者のうち、政治犯収容所の「表彰結婚」で生まれたのはシンさんが唯一だ。

シンさんは完全統制区域である平安南道价川市(ピョンアンナムド・ケチョンシ)の「价川14号管理所」で生まれた。出生から政治犯として烙印を押されたまま24年間暮らし、06年に脱出した。

 この日、中国大使館前の脱北者送還反対デモに参加したシンさんは、政治犯収容所の肉体的拷問よりも残酷な人権じゅうりんは「感情拷問」と述べた。 シンさんは「表彰結婚」を例に挙げた。遅刻もせず熱心に働き、「生活総和(お互い監視させる自我批判の場)」に誠実に臨んだ模範囚の男女を、金日成(キム・イルソン)や金正日(キム・ジョンイル)の誕生日に選び出し、5日間ほど同じ部屋に同居させて子どもを産ませる制度だ。2人の看守が収容所内の2500人ほどの収監者を監督しているが、男女の相手は看守によって決められる。 シンさんは「政治犯収容所10大原則に男女接触禁止があるが、表彰結婚はこれを許す唯一の窓口」とし「こうした環境の中で、人間の原初的な感情である家族、愛、友情のような概念自体を理解することができなかった」と告白した。

(http://japanese.joins.com/article/747/148747.htmlより引用)
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 シンさんの証言が事実であるとすれば、北朝鮮の金体制が男女の性愛を支配下に治めるまでのことはしなかったという櫻井氏の主張は誤りであることになる。北朝鮮における結婚事情について社会学的な調査をすることもなく、イメージだけで比較をする櫻井氏の態度は、とても学問的とは言い難い。

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韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ07


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 次にアメリカでの独立運動を見ていきます。アメリカにおける独立運動の草分け的存在が徐載弼という人です。彼は1864年生まれですから、李承晩よりも11歳年上です。彼は幼い時から金玉均と親交があり、開化派の思想に傾倒するようになります。1883年に日本へ留学し、慶應義塾で日本語を学んでいます。そして1884年に金玉均と共に帰国し、その直後に「甲申政変」というクーデターを起こします。これは韓国の歴史では非常に有名な事件です。この金玉均のクーデターは失敗し、徐載弼は日本へ亡命しました。さらに彼はアメリカに移住し、キリスト教に入信し、コロンビア医科大学夜間部に進学します。そして、在学中にアメリカの市民権を得て1893年に卒業します。

 彼はクーデター失敗により韓国を離れ、アメリカに移住していたため、韓国人としては先駆けてアメリカで基盤を作った人になりました。彼は1895年に帰国して「独立協会」を組織し、独立新聞の発刊にも尽力しました。このころ李承晩がこの運動に参加しています。徐載弼は李承晩より11歳年上ですから、彼が起こした運動に若き李承晩が加わってきたという状況です。この「独立協会」とは何かといえば、李氏朝鮮時代の開化派の運動団体のことで、朝鮮における主制導入を目指しました。当時の朝鮮国王は専制的な昔ながらの王権だったのですが、日本のモデルに従って、近代化して立憲君主制にしようと徐載弼は主張したわけです。ところが当時の国王であった高宗と保守勢力は、絶対王政を維持しようとして「独立協会」を弾圧しました。その結果、1898年に皇帝勅令によって「独立協会」は制解散となります。徐載弼の運動は、皇帝によって潰されたわけです。

 徐載弼は再びアメリカに亡命し、フィラデルフィアで医業に従事する傍ら「大韓僑民会」を組織するようになります。1910年に日本による朝鮮の併合がなると、彼はアメリカに基盤を持っていたので、活動家をアメリカに呼び寄せて援しました。そして1919年の三・一独立運動をきっかけに独立運動を再開し、アメリカ国内に韓国人団体を結成してロビー活動を積極的に行いました。

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 徐載弼がアメリカに呼び寄せた優秀な人材の一人が安昌浩でした。彼は李承晩と共に「独立運動の双璧」と言われた人物です。彼は李承晩より3歳年下だったんですが、非常に有能なクリスチャンでした。彼は朝鮮の平安南道に生まれ、キリスト教徒になります。彼は独立協会が解散させられたとき、巧みに逃れて渡米し、徐載弼の指導でサンフランシスコに「共立協会」を設立します。それを「大韓人国民会」に発展させ、安昌浩は「運動の巨頭」と仰がれるようになります。彼は組織づくりの天才と言われ、独立運動の展開に大きく貢献した人でした。やがて三・一独立運動が起こり、上海臨時政府が成立すると、安昌浩は運動の場を上海に求めるようになり、アメリカから上海に移ります。

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 こうしたアメリカにおける運動の最終段階で登場したのが李承晩だったのです。ここに移っている写真はすべて李承晩です。一番左は1910年にプリンストン大学で学位を受けたときの写真です。真ん中の写真で一緒に移っている女性は奥さんで、フランチェスカ・ドナーというオーストリア国籍の女性です。彼はアメリカで結婚しており、国際結婚だったんです。一番右が晩年の、大統領をやっていたころの写真です。この李承晩は、日帝時代にはおおむねアメリカに留まっており、8・15の解放まで運動を持続したので、アメリカにおける独立運動は李承晩を軸として展開されたということになります。

 それでは李承晩の生い立ちと思想形成から説明しましょう。まずは系譜でありますが、李王朝の祖である李成桂(太祖)の嫡孫であり、李芳遠(太宗)の長男である譲寧大君の16代末裔に当たります。ですから、李氏朝鮮王朝の李氏であり、王家の血統なのですが、彼が生まれたころには家系は没落して両班とはいえ幼少時代は非常に貧しかったと言われております。

 韓国では、子供の頃は徹底した儒教教育を受けます。李承晩は幼少時に「千字文」を暗誦したという話があります。私は朴普煕先生の『証言』という著書を訳しましたが、朴先生の幼少期にもこの「千字文」を暗誦したという話が出てきます。李承晩は次いで「童蒙先習」「資治通鑑」などの古典を学び、18歳までに書堂で中庸、論語、孟子、詩経、周易を修めました。このようにして18歳までに儒教的教養を徹底的に身につけました。

 しかし、21歳の時に西洋文明との出会いをなします。1896年にアメリカ人のキリスト教宣教師アペンセラーが設立した「培材学堂」というところで学び始めるのです。そこで彼は英語、キリスト教、民主主義について初めて学ぶことになったのです。

 同じ1896年に、彼は徐載弼の「独立協会」の結成に中心メンバーとして加わります。李承晩は当時21歳だったんですが、既に有力な弁論の闘士として活躍していました。1897年には、高宗退位要求の檄文散布に加わり投獄されてしまいます。当時絶対王権を持っていた高宗に対して退位を要求したわけですから、重罪ということで無期懲役刑を受けます。しかし、恩赦によって7年目に出獄することになるわけです。実に李承晩は若い頃に7年間も投獄されているんですね。そして彼は、投獄中にプロテスタントの監理教に入信しました。韓国でいう「監理教」とはメソジスト教会のことです。

 佐々木春隆の著書には、このときから「彼が70歳を過ぎて解放の夏を迎えるまで終始一貫して節を曲げず、祖国の独立到来のために尽力したのは、それが神意であると信じ切っていたからであろう」(佐々木、p.356)と書いてあります。これは摂理史的に見ても非常に重要なことであると思います。すなわち、李承晩にとって韓国の独立とキリスト教信仰は完全に結びついていたということです。「祖国を解放することが神の御旨なんだ」という絶対信仰を持っていたという点において、私は李承晩は摂理的な人物であったと思います。つまり、個人の意地でもなければ民族主義でもなく、神に対する信仰が動機となって、祖国独立のために一生を捧げるという決意を、日帝36年の間ずーっと持ち続け、ずーっと戦い続けた、まさに「頑固一徹」の人が李承晩だったということなのです。もし信仰がなかったら、途中であきらめていたかもしれません。

 1904年に、特赦による出獄をした後、李承晩はアメリカに渡ります。これはまだ日露戦争が始まる前であり、乙巳保護条約や日韓併合条約が締結される前のことです。しかし、韓国に対する日本の支配は日増しに強くなっていったので、李承晩はアメリカで韓国の独立を守るための活動を開始します。このままでは韓国が日本に飲み込まれるので、アメリカが助けて欲しいということを訴えたわけです。当時の韓国は「米朝修好条約」(1882年に締結)という条約をアメリカとの間に結んでいました。それを根拠として、李承晩は米国大統領に対して日本との調停役を依頼するための密使として働いたのです。

 1905年7月6日、李承晩はセオドア・ルーズベルト大統領に接見し、日本の対韓政策を抑制し、①韓国の独立を全うするに必要な外交措置を講ずること、②日露の講和会議に韓国代表が参席できるよう取り計らうこと、の二つを要請する陳情書を手渡しました。

 ところがルーズベルト大統領はそれを受け取ると、「陳情書が公式の経路を経ていない以上、対処できない」と回答したのです。つまり正式な外交ルートできたものではなく、あなたの私的な文書として来たものだからダメだというのです。しかし李承晩は、金潤晶という名前の在米韓国代理公使とあらかじめ親交を深め、1882年の修好条約の発動を正式に米国政府に要請してもらうように約束を取り付け、その上でルーズベルト大統領に会っていたのです。李承晩は外交的準備をしてから接見に臨んだはずでした。

 しかし、金代理公使が裏切り、「本国からの指示がないとできない」と拒否したので、李承晩の密使としての努力は水泡に帰したのです。実際には、金代理公使は日本と通じていて、李承晩を欺いていたのです。このように同胞に裏切られることによって交渉は失敗しました。ところが、たとえそれがなかったとしても、ルーズベルトが李承晩の陳情を聞き入れていたかどうかは疑問です。ルーズベルトが李承晩に同情的な態度を示す一方で、タフト長官は、桂・タフト秘密協定に調印して、韓国を日本に委ねるかわりに、フィリピンにおけるアメリカの権益を守る密約をしていたのです。すなわち、ルーズベルトの同情は単なるリップサービスに過ぎなかった可能性があり、国際関係の冷徹さを物語る一例であるとも言えます。ともあれ、これが李承晩がアメリカに渡って最初に祖国のためにした仕事でした。結果は失敗でした。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』104


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第104回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 第100回から第六章「五 統一教会の祝福」に入り、四回にわたって「1 祝福の原理的意味」と「2 祝福の過程」についての櫻井氏の記述を分析してきた。今回は「3 祝福の教団組織上の機能」について扱う。

 櫻井氏は、「統一教会の組織構造は、東アジアの宗族に見られる族長支配と王朝による臣民統制をかけ合わせたようにも見える。つまり、祖先を同じくする人々が宗族の長に従いながら、宗族内の利益を最大化するように協力行動を行い、他の宗族と勢力を張り合う。族長は宗族内の婚姻関係を統制する。宗族は一般に外婚制(同じ姓同士は結婚しない)だが、統一教会は信者のみの内婚制をとる。その代わりに韓国人男性と日本人女性のような国際結婚という外婚制に似た仕組みで教団の国際的なネットワークを形成しようとする。また、王朝支配というのは文鮮明自身がこの世と霊界の王を自称している点からも妥当な形容であり、臣民である信者達は王のために王の命じる使命を全うするのである。」(p.314)という、いささか矛盾した奇妙な主張をしている。これは組織構造の社会学的な分析というよりは、イメージに基づく連想という程度のものであり、仮にも社会学者の主張としては乱暴な印象論に過ぎないというそしりを免れないであろう。

 櫻井氏はこの本の別の章において、統一教会を「コングロマリットといって差し支えがない業態・組織形態を有している」(p.132)と論じている。コングロマリットとは、直接の関係を持たない多岐に渡る業種・業務に参入している企業体のことで、「複合企業」とも言われる。彼が統一教会をそう規定する主な理由は、統一運動が実に多種多様な領域に関連団体をもっており、多角的な活動を行っているためだ。多角経営を行う複合企業と、東アジアの宗族や王朝の組織構造は本来なら似てもにつかない姿であると思われるが、それが統一教会という同一団体の組織構造を分析するために両方とも使われているというのは実に奇妙な話である。どちらも乱暴な印象論ということであれば、「勝手気ままな連想」ということで片付けることは可能かも知れない。

 そもそも、東アジアの宗族に見られる族長支配は、同一の価値観が支配する社会の中にあって、生物学的な血統を共有する人々の間にのみ成り立つものである。社会全体が「親や年長者の命令には従うべき」「個人は一族の名誉や利益のために生きるべき」という価値観を共有しており、本家の分家に対する優位性が確立されており、それが幼い頃から道徳的価値として叩き込まれ、その社会から抜け出すことが極めて困難であるからこそ、そうした支配は成り立つのである。そこに生きる個人にとって、自分の生物学的な出自とアイデンティティーは分かちがたく結びついており、それを否定することは自分のそれまでの全人生を否定するのと同じ重みを持つと同時に、社会的制裁をも覚悟しなければならなかったのである。

 それに比べれば、統一教会の祝福家庭になることは、自分の生物学的な出自によるものではなく、個人の自由意思によって選択したものである。祝福家庭として教会の中で生きる以上は、その価値観に従って生きることが求められるが、ひとたび教会の外に出てしまえばそれに従う義務はなく、外の世界に脱出することは、その意志さえあればそれほど困難なことではない。統一教会の価値観は、広い社会全体を覆っているものではなく、自分の所属する宗教コミュニティーの中でのみ通用する価値観である。そしてほとんどの祝福家庭が、教会という宗教コミュニティーと一般社会という外の世界で「二重生活」を送っている。そうした状況における支配が、東アジアの宗族に見られる族長支配ほど強力なものになることはありえない。教会による祝福家庭の支配は、櫻井氏が想像しているよりももっとずっと緩いものなのである。もし教会の価値観が個人や家庭に深く浸透しているケースがあったとしたら、それは組織的な支配力によるものではなく、個人の信仰の力によるものである。

 しかし、統一教会の二世となると少し事情は異なってくる。彼らにとっては自分の生物学的な出自と宗教コミュニティーの価値観、そして自己のアイデンティティーは分かちがたく結びついており、それは個人の自由意思によって選択したものではない。彼らは幼少期から教会の価値観を教えられるのであり、親の信仰を素直に相続した二世信者にとっては、そこから離脱することは自分のそれまでの全人生を否定するのと同じ重みを持つであろう。にもかかわらず、現実には二世信者たちも宗教コミュニティーと外の世界での「二重生活」を送っているのであり、その間で揺れ動き、どちらの世界で生きるかは自分の意思で選択しているのが現実である。その結果、親の信仰を相続せず、教会の祝福を受けずに一般社会での結婚を選択する祝福家庭の二世も多数存在するのである。これは教会員の立場としては悲しい現実ということになるが、事実を客観的に直視すれば、二世信者に対してさえ、教会による支配はかなり緩いものであると言わざるを得ない。

 統一教会の組織構造と東アジアの宗族の構造とは、社会学的に見て明らかに異なっている。その違いは、櫻井氏自身が指摘しているように、宗族が一般に外婚制を取るのに対して、統一教会は内婚制を取っているという現象に最も端的に表れている。東アジアの相続の外婚制として最も有名なのが、本貫が同じであれば結婚できないという韓国の風習である。東アジアの宗族が外婚制を取っている理由はさまざまな説明が可能だが、①近親相姦禁忌が一定の方向へ拡大された、②集団内部での婚姻を禁じることにより、他の集団との間に婚姻を通じての社会関係をつくりだすため、③男子の血統の拡大を重要視するため、他の宗族との間で女性を交換する必要があるーーといった説明が一般的である。一方で、統一教会の組織構造にはこの3つはいずれも当てはまらない。

 まず、統一教会は宗教的回心によって信者となった者たちの集団なので、信者間には生物学的な家族・親族関係はない。したがって、信者同士が結婚する内婚を行っても、近親相姦にはならないのである。信者が「お互いに兄弟姉妹」であるという認識を持ったり、「祝福によって真の父母の血統に生みかえられ、同じ血族となった」という信仰を持ったとしても、それは霊的・精神的な意味であって、生物学的に家族になるわけではない。したがって、信者同士が結婚しても近親相姦にはならない。

 統一教会では、信者を非信者と結婚させることによって他集団との社会関係を作り出すということは一般的に行われない。信者同士、祝福の子女同士というように、同一のアイデンティティーを持つ者同士が結婚することによってそれを強化・維持しようとする傾向があるためである。教会の外の世界との関わりという点では、婚姻によって社会関係を作り出そうというよりは、外の世界の人間を伝道して信者にすることによって、内婚をさせることで組織を拡大しようとする。これはイスラム教徒と結婚しようとするときに、非信者がムスリムになることを求められるのと似ていると言えるだろう。

 また、統一教会の祝福家庭は男子の血統の拡大にはこだわらない。祝福を受けて生まれた子供は、男子も女子も「天の血統」を持って生まれたと信じられているため、男子の祝福の子女の配偶者をあえて非信者の女子の中から求めようとはしないし、女子の祝福家庭の子女を敢えて非信者の男子に嫁がせるというようなこともしないのである。男子も女子も共に「天の血統」を持って生まれたのであるから、二世信者同士が結婚することが理想とされているのであり、非信者と結婚することはそうしたアイデンィティーの喪失として否定的に捉えられているのである。

 こうして見ると、東アジアの宗族の構造と統一教会の組織構造とは、根本的に異なっていることが分かるであろう。統一教会においては、たとえ韓国人男性と日本人女性が結婚しようと、それは信仰を共有する者同士の「内婚」なのであり、教会の外の社会との関係を作り出すための「外婚」とは根本的に異なっている。その意味で櫻井氏の主張する類似性は破綻していると言えるだろう。

 最後に「王朝支配」について簡単に整理すれば、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの一神教の伝統においては、神を「王の王」として崇めることがあるという事実を抑えておく必要がある。これらの宗教では、ヤハウェ、イエス・キリスト、アッラーを指して「王の王」と呼ぶことがある。このときの「王」とは、政治的な権力を持った存在を意味するのではなく、それ以上の権威と力を持った至高の存在であるという、宗教的・理念的意味合いで言っている言葉なのである。統一教会でも、確かに文鮮明師を「平和の王」と呼ぶことがあるが、それは教団や信徒に対して政治的権力をふるっているという意味ではなく、真の愛によって子女を治める父母なる存在という意味で言っているのである。

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韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ06


 金九を中心とする独立運動がどうしてもやりたかったことは、独自の軍隊を持つことでした。韓国独立運動が組織した軍隊を「光復軍」と言います。1940年と言えば、第二次世界大戦が終わる5年前のことです。このころに、金九が「韓国光復軍」を組織して蒋介石の中国国民党政府とともに抗日活動を行うようになります。大韓民国臨時政府が重慶にあった頃のことです。

 そもそも韓国が独立を果たすには、日本の軍事力を撃破しなければならないわけですが、そのためには「臨政」の軍隊が必要です。他国の軍事力に頼って独立しても、結局はその国の支配下に入ることを余儀なくされて、真の自主独立は望めません。自力で解放してこそ、真の独立が叶えられるのです。そこで「臨政」は、在華韓国軍人を集めて「光復軍」を創設することを決議しました。これがどういう意味かと言えば、当時は日本軍の中に血統的には韓国人である軍人がいて、彼らは「日本兵」という立場で中国で戦っていたわけですが、祖国に対する愛国心はあるので、そういう人々をスカウトして「光復軍」を作るという意味です。これを蒋介石総統が認めて、臨政の創軍を認めたわけです。

韓国の独立運動と再臨摂理PPT06-1

 実はこのときが「臨政」が国際的な承認を得ることのできる絶好のチャンスでした。

 1941年に中国の国民政府野中で「臨政」を正式政府として承認する動きが高まりました。蒋介石には「臨政」を認めようという気持ちがありました。もし中国が臨時政府を承認すれば、同じ連合国側にある英・米・ソも承認せざるを得なくなります。そうすれば「臨政」と「光復軍」は連合国の戦列の一員とみなされて、戦勝の暁には容易に主導権を行使して独立への道を歩むことができると考えられたわけです。その意味で、この「光復軍」の創設と「臨政」の承認は、韓国独立運動にとっては非常に重要なポイントだったのです。

 しかし、ここで茶々が入ってしまいます。現在の「臨政」が承認されれば、そこから分裂した民族革命党や朝鮮民族解放同盟(いずれも共産主義の組織)は冷や飯を食わなければならなくなるので、共産主義者たちは中国政府が「臨政」を認めないように徹底的な妨害工作を開始したのです。すなわち、「臨政は挙国的な統一政府ではなく、一部の党派だけで作ったものだから、承認を保留にすべきだ」と蒋介石や中国政府に進言したのです。そこで中国政府はやむなく承認を延期し、韓国人の紛争を静観することにしました。

 アメリカの議会でも承認の動きがあったのですが、中国が見送るとこれも諦められ、「臨政」はついに大国の承認を得ることができませんでした。したがって、1945年に戦争が終わって、故国に帰るに当たっては、「大韓民国臨時政府」という国際的承認の下で帰ったのではなくて、私人の資格で帰らざるを得なくなりました。ですから祖国が解放された後に、独立運動家たちは「臨政」としての発言権を失って、政治的中心勢力として活動する機会はなかったのです。

 しかも、一生懸命に努力して「光復軍」を創設し、一度でも日本と戦ったという実績を残したかったんですけれども、最終的に「光復軍」は戦機を逸してしまいます。1944年3月1日、第25回三・一運動記念日に盛大な式典を挙行して、駐米外交委員部代表・李承晩の声明を発表して、韓国民主共和国の創立と対日宣戦を決議しました。参戦したか否かが、戦後の発言力を左右するからです。彼らは「私たちは国を持っているんだ、日本と戦ったんだ」という歴史を残したかったわけです。

 1945年6月と言えば終戦直前のことになりますが、このときに金弘壹という人が蒋介石と交渉して、光復軍に対する臨時政府の総帥権を確立しました。そして中国軍の、王耀武兵団長と合作して光復軍は第74軍と共に武漢奪還作戦に参加することを計画しました。これがもし実行されていれば、「臨政」の下にある「光復軍」が日本との戦争で具体的に戦ったという実績を残すことができたはずでした。そうすれば、「自分たちは連合国の一員だった」と言えなくもないわけです。しかし、訓練した韓国光復軍が実際に戦闘する準備を整えたまさにそのときに、8月15日の終戦を迎えてしまったのです。結局、戦うことなく終わってしまったのです。

 終戦に際して金九は次のように言っています。「嬉しいどころか、天が崩れた感じであった。苦心惨憺の努力を費やして参戦を準備したのに、すべてむだとなったのだ。・・・せっかくの苦労が勿体ない気がしたが、それよりも心配だったのは、われわれがこの戦争でなんの役割も果たさなかったために、国際的な発言力が弱くなるだろうということだった。」

 そして金弘壹将軍は以下のように述べています。「日本の敗北は目に見えていた。・・・嬉しければ嬉しいほど、私の心の片鱗がうつろになる。ついにわが光復軍は、連合軍の一員となって日帝と戦う機会を永遠に失った。日帝は敗亡したが、わが国の将来はどうなるのだろうか、という不安感が胸をさいなんだ。」

 こうして、「臨政」の26年間の光復の努力は、実ることなく終わりました。韓国には何らの発言権も与えられず、大国の勝手に任されるようになりました。軍事力で寄与しなかった者には国際社会は発言権を与えようとしない、というのが現実でした。

 韓国を占領した米軍からは「ソウルには米軍政府がある。2つの政府は不必要だから、臨時政府としての入国は認めない。また光復軍としての入国も認めない」と通達してきました。「臨政」の独立運動家たちは仕方なく個人の資格で帰国することにしましたが、これで26年間も独立の法燈を守り続けてきた辛苦がすべて無に帰したのです。法燈が消えることにより、韓国には政治活動を指導する中心勢力がなくなってしまいました。

 もし連合国が「臨政」を認め、国際的承認のもとに韓国に帰ってきたならば、この「大韓民国臨時政府」がそのまま解放独立後の政府になっていたはずです。ところが、「臨政」と戦後の韓国の政治は分断されてしまったのです。ただ憲法で、現在の政府は「大韓民国臨時政府の法統を受け継ぐ」ものであると宣言しているという状態です。

 それでは光復後の金九はどうなったのでしょうか。1945年の光復後、朝鮮を占領した連合国は軍政を敷き、「臨政」を朝鮮の正式な亡命政府として承認しなかったので、「臨政」最後の指導者であった金九が、独立した大韓民国の初代大統領になることはありませんでした。しかし、それでも彼は独立運動の実績から、米軍軍政庁統治下の南朝鮮において有力な政治家の一人であり続けました。

 冷戦激化の影響から、朝鮮はソ連占領下の北朝鮮と米国占領下の南朝鮮とで分裂が深まり、アメリカ政府は自国軍の軍政下にある南朝鮮だけで独立政府を樹立する方針で動き始めました。このときから南北分断は固定化され始めました。

 そのような中、米軍軍政庁は南朝鮮単独で国会議員の選出総選挙を準備し始めますが、金九は南朝鮮だけでの単独選挙実施に反対し、あくまで南北統一を進めるべきという立場から活動しました。彼はわざわざ北まで行って金日成と会ったりしますが、結局は決裂して帰ってきます。金九のこの活動は、反共姿勢を優先する李承晩らとの確執を深め、彼は李承晩の最大の政敵とみなされるようになりました。

 金九の最後がどのようなものであったかというと、1949年6月に面会と称してソウル郊外の自宅を訪れた33歳の韓国陸軍少尉・安斗煕に短銃で射殺されました。これは李承晩の指示で暗殺された可能性が非常に高いです。安斗煕は現場で逮捕され、無期懲役の判決を受けましたが、わずか1年後には特赦されて韓国軍に復帰し、李承晩の庇護のもと中領(中佐)にまで昇進しました。そして1992年、安斗煕は金九の暗殺は李承晩の部下の金昌龍の指示であったとする証言を出版しました。

 それではこれまでの流れを総括して、「臨政」とは何だったのかを考えてみましょう。『韓国独立運動の研究』の著者である佐々木春隆は以下のように言っています。
「一言で表現するのは至難の業である。『臨政』が三・一独立運動の法統を守った、あるいは門札を掲げ通したと評価できるとしても、別にそれが解放を促進した一臂の力となったわけではない。だから、外国人の物差しでは、その功の計りようがない。けれども、8・15解放を迎えた韓国民がまず想起したのは、独立精神の法統を守りぬいた『臨政』であった。韓国民は、『臨政』の偉い人たちがやがて還国し、中心となって自由かつ統一された国家を築き上げてくれるであろうと期待した。名分を重んずる韓国民はすべてそう意識したに違いない。」(p.340)

 「臨政」が存在したことによって、韓国の独立に具体的に貢献したかといえば、そう言うのは厳しいわけです。しかし韓国人としては、あれだけ日帝にやられて植民地支配をされた中で、「臨政」で独立国家を叫びながら、その法統を絶やすことなく頑張り続けた偉い独立運動家の先生方がいたということが、心の燈火となって戦後「大韓民国」という国が建てられたのであると解釈をして、憲法にそのことを書き込んだという話なのです。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』103


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第103回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 第100回から第六章「五 統一教会の祝福」に入り、過去三回にわたって①写真マッチング、②約婚式、③聖酒式、④結婚式(祝福)、⑤蕩減棒、⑥聖別期間に関する櫻井氏の記述を分析してきた。今回はその続きで、⑦三日行事について扱う。

 古来より宗教には秘儀や奥義と呼ばれ、非信者はもとより、信者の中でも一定の資格を有する者にしか公開しない教えの内容や、参加することはおろかその存在さえ知らされない儀式というものが存在した。こうしたものが存在する主たる理由は、その教えや儀式に何かやましいことがあるからではなく、「教育的配慮」や「誤解を避けるため」というものであった。これは真理の段階的開示ということである。宗教的真理というものは、客観的な情報として存在するというよりは、それを聞く人の前知識や心の姿勢が伴ってこそ正しく理解されるという性質を持っている。したがって、その教えを受ける準備が出来たとみなされた者のみが、奥義を明かされたり、それに基づく宗教的儀式に参加する資格が与えられたりするのである。このように真理を段階的に開示することもまた、信教の自由の一部として尊重されるべきである。

 三日行事に関する詳細な内容は、統一教会の秘儀または奥義に該当するもので、広く一般に公開されていない。独身時代はもとより、祝福を受けた後も、家庭を出発する直前に参加する「家庭修練会」に参加するまでは、この内容が信徒に知らされることはなく、家庭修練会の中で特別な講義として語られるのが一般的である。先輩信者に聞いたりしてその内容を知ることができないわけではないが、「時が来るまで知らない方が良い」内容として伝統的に扱われてきたのである。櫻井氏はこうした性格を持つ三日行事の詳細を、誰でも読むことができる書籍の中で、統一教会に許可を取ることもなく、無断で全文公開している。もとより彼には統一教会に礼儀を尽くすつもりは毛頭ないのかもしれないが、これは統一教会に対して極めて失礼な行為である。

 櫻井氏は305ページから312ページにかけて、「三日行事式次第」「三日行事失敗の対処法」の内容を掲載し、その内容に以下のようなコメントを行っている。少々長くなるが、引用することにする。
「統一教会の堕落ー復帰を再現するシンボリズムが、強烈なイデオロギーとして信者たちに内面化されたことはいうまでもない。信者の精神と肉体を根本的に組み替える強烈な儀式の力は、マインド・コントロールという言葉では弱すぎるとさえ思う。

 この儀式は、イデオロギーの注入にとどまらず、文鮮明の霊肉によって罪の解放を実現するという実質的効果を信者に経験させるために、性を用いる。この儀式書が性的結合に至るプロセス(体位を含めて)を念入りに規定し、例外は許されないこと、性器の挿入に至らなければ儀式の効能が現れないことなど縷々述べているのはそのためだ。儀礼であれば、類似行為によって代替可能だが、三日行事においては性行為の実践がなければならない。

 信者達は、献身生活中の数年間、極度に性的な緊張や禁欲を強いられてきた。異性への感情の揺れはアダム―エバ問題として原罪の根拠として否定され、唯一性愛の夢想が許されるのはメシヤが用意した祝福に関わるものだった。思春期・青年期にある若い男女が、共同生活を送りながら相手への好意すら禁じられ、三〇歳近く近くまで身体的接触が全く許されない環境にあった。これは驚くべきことだ。性的衝動を抑圧すると同時に解放のチャネルを用意して信者を方向づけている教化システムは極めて堅固なものだ。祝福の最終的な儀礼として、性愛への衝動やエネルギーは堕落からの復帰という性行為に注ぎ込まれる。

 この性行為は恋人や夫婦間の私的な秘められたものではなく、真の父母が写真を通して監視しているところでなされる公的で摂理的な儀礼なのである。人が宗教的信念ゆえとはいえ、自分の意思や好みで最も親密な関係を構築することができない。本来最高度に親密な関係ですら、メシヤとの霊的結合や堕落からの復帰といったシンボリズムにより統制を受け、教会本部から行為のやり直しを命じられることすらある。」(p.313)

 櫻井氏の言いたいことは、要するに三日行事を含む祝福のプロセスは性を通して信者をコントロールするシステムであり、本来極めて私的なものであるはずの性に関する権利を、信者たちは教会によって侵害されているということである。しかし実際問題として、三日行事を行うことが信徒の宗教的アイデンティティーの形成においてどの程度の効果を有するのかは、より厳密な調査が必要である。櫻井氏は三日行事に関する書類を見ただけで想像をたくましくして、「信者の肉体と精神を根本的に組み替える」とか「マインド・コントロールという言葉では弱すぎる」などという大げさな表現をしてるが、現実には三日行事を行った後で教会を離れる信者は多数いるのである。この行事がそれほど強力な拘束力を持つものであれば、その後の信者の離脱ということをうまく説明できない。

 祝福について研究を行った米国の宗教社会学者ジェームズ・グレイス博士は、著書『統一運動における性と結婚』において、祝福の行事が持つ役割について櫻井氏の主張と同じような分析を行っているが、そのことに対する価値判断においては真逆の主張をしている。グレイス博士が同書で掲げているテーゼは、「統一運動の性と結婚に対するアプローチは、そのメンバーの献身的な姿勢を維持し、強化するのに非常に有効に機能している」(p.31)というものであった。すなわち、「社会学的には、結婚前の禁欲生活、マッチング、聖別期間、祝福の儀式、家庭出発のための儀式、および夫と妻としての家庭生活は、個々のメンバーの教会に対する献身を強めるための求心力として働いている」(p.115)というわけである。しかし、彼はそもそもそれをネガティブなこととは考えておらず、ある意味で宗教においては当然のことであると考えている。
「長年にわたって宗教と社会と性の関係について調査した結果、私は宗教が持つ非常に重要な社会機能のひとつが、結婚生活が人間の共同体のさまざまなニーズに役立つように、結婚生活における性的表現を形成する役割であるという確信を持つようになった。この『形成』が、個人をグループに適合させ、『真正な』メンバーとしての彼または彼女の活動をコントロールするプロセスを促進するのである。・・・私は以下のことを主張する。そしてこれらは本研究の基本的な前提となっている。(1)そのメンバーの性や結婚に関する生活をコントロールすることのできる社会やグループは、彼らの生活全般をも相当にコントロールすることができる。(2)歴史的にみて宗教的信仰の形成は、共同体がそのメンバーの性と結婚に関する活動を規制するための最も効果的な手段であることが証明されている。」(p.8)

 そもそも結婚とは社会的に承認された男女の結合であり、勝手気ままな男女の性交とは区別されるものである。婚姻は当事者の男女に対して「夫」「妻」という地位を与え、当事者の性関係に社会的承認を与えるとともに、婚外の性関係を制限し、この統率を通じて社会の基本構成単位である家庭の存立と、社会そのものの安定に寄与するという機能がある。したがって、いかなる文化圏にも結婚が成立するために必要なさまざまな規制や条件があり、それらはいずれも基本的にはその社会や文化を維持し、発展させるために形成されたものである。このような視点からすれば、統一教会も一つの社会である以上、その結婚制度がその共同体を維持・発展させるために機能しているというのはごく当然のことであると言えるのである。

 グレイス博士は、統一教会における結婚の最も顕著な特徴の一つは、個々の家庭の目的と共同体全体の目的が分かち難く結び付いており、さらにそれが世界全体の救済というより大きな目的へとつながっている点にあると指摘する。このように個々の家庭と社会全体の目的が強く結び付いている結婚の形態は、極度に個人主義的になったアメリカ人の結婚に関する価値観に対する一つのアンチ・テーゼとして理解できる、とグレイス博士は論ずる。社会学者たちは総じて、性と結婚についての価値観に関する限り、アメリカ人は極度に個人主義的になっていると指摘している。そしてアメリカ社会における婚約破棄、別居、離婚の増加は、この問題が顕著に表れたものであり、統一教会の結婚はこのようなアメリカ社会における結婚の危機に対して、一つの解決の選択肢として考慮すべきものであると述べているのである。

 櫻井氏も、宗教が性を統率してきたという歴史的事実を知らないわけではないので、著書の314ページにおいてその事例を並べた上で、「その意味では、統一教会による性の統制、家族の形成も、宗教としてありえないものでも例外的なものでもない」こと自体は認めている。しかしそれでも、「近現代では宗教による性への統制が抑圧的とみなされて批判されてきた」「このように性行為まで支配する教団は、近代社会では稀といわざるをえない」「現代日本において一宗教団体が信者の性と家族形成を完全に統制していることの問題性は大いに議論されるべき」(p.314)などと、批判の手を緩めることはない。

 この問題は、最終的には宗教が性を統制することを是とするか非とするかという、価値観の戦いとなるであろう。櫻井氏はこの問題に関しては個人の権利を主張するリベラル派であり、三日行事は性を利用した教団による信徒の抑圧であるとしか考えない。一方、グレイス博士は保守派であり、過度の個人主義に陥った結婚や家庭はやがて崩壊する運命にあるのであり、宗教が性と結婚のあり方を規定し、それを通して個人と共同体を結び付ける役割は尊重されるべきであると主張しているのである。櫻井氏のような考え方の持ち主には、三日行事を含む祝福の意義が正当に評価されることはないであろう。

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韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ05


韓国の独立運動と再臨摂理PPT05-1
韓国の独立運動と再臨摂理PPT05-2

 臨時政府の中で活躍したもう一人の在米運動家が安昌浩という人でありました。1919年6月、安昌浩が在米国民会の代表として上海に到着し、内務総長に着任し、政府と国内の連絡組織を整備し、機関紙『独立新聞』を発行して宣伝活動を展開しました。この「独立新聞」は、韓国語と中国語で発行され、国内と中国の両方で宣伝活動が行われました。彼は各国代表を歴訪して韓国独立の援助を要請する「請願運動」を展開しました。しかし、当時の日本は5大強国の一つであったので、各国代表は個人的には同情を示しましたが、日本を敵に回してまで、この弱小民族を助けようとする者はいませんでした。それが当時の現実であったのです。

 さてここで、当時の上海臨時政府が抱えていた問題を整理してみましょう。一つは財政問題です。当時の上海在住の韓国人は約700人です。そのうち200人が職業的独立運動家でした。したがって、上海は「臨政」の財政基盤たり得なかったのです。500人で200人を養い、かつ資金を提供することは不可能です。われわれで言えば、500人の教会員が200名の献身者を支えているようなものです。そこで韓国内、満州、米州からの献金に頼ったわけですが、間もなく財源を失い、それが運動の衰微と内紛につながっていきました。これが財政問題です。

 もう一つの問題が派閥抗争です。上海臨政に集まった人々は、あらゆる思想と抱負をもった運動家たちで、それぞれ一家を自負していた人たちであったので、派を立て、党をなして自己を主張しました。これによって臨政は分裂していくわけです。それでは上海臨政の中にどのような主義主張があったのでしょうか。それを整理すると以下のようになります。
①委任統治論:李承晩が唱えたもので、即時独立を叫んでも結果は出ないし、出来ても自立する能力がない。そこで国際連盟に一時の統治を委任し、その間に実力を涵養して独立を果たす。李承晩はこのようにリアリスティックな戦略を主張しました。
②文治派:安昌浩が唱えたもので、過激な行動を避け、心から日本の統治を嫌い独立を熱望している旨を列強とくに米国の同情に訴え、その後援を得て徐々に独立を果たす。
③武断派:李東輝派の主張で、日中、または日米、または日露を戦わせ、その機に独立を図る。特にロシアの過激派と結び、日本と開戦し、その戦争を機に韓国が独立するという考え方です。

 このような思想的戦いがあったわけですが、財政的にも、李承晩らはアメリカに頼ろうとし、李東輝らはソ連に頼ろうとしました。このとき既に李東輝は熱心な共産主義者でした。上海の臨政においては、各派が他の主張を認めあって止揚された統一方策を創造し、団結して事に当たろうとする努力の跡がみられません。これでは最初から分裂する運命にあったと言っても過言ではないでしょう。

 李承晩は公認の大統領に推戴されましたが、上海に赴任することなく、アメリカで財政固めに専念していました。彼は総額500万ドルの公債を発行して一挙に資金を集める案を立てました。公債は、韓国が独立した暁に高利で償還するという計画でした。一方、李東輝はボルシェヴィキから受けた激しい革命的情熱を朝鮮民族主義運動に吹き込むためにアジテーションと宣伝のための出版活動を要求しましたが、李承晩は穏健な手段、例えば民族自決権を諸国、国際機関に訴える外交的手段で日本に対抗することを主張しました。ここでも、武力によって独立を勝ち取るのか、外交によって勝ち取るのかで意見が分かれたわけです。

 武断派の李東輝にとっては、李承晩のやり方は臆病で卑屈なものに過ぎず、彼のことを 「第二の李完用」だと非難しました。この「李完用」というのは、乙巳保護条約の調印に賛成し、これを推進したので国賊と呼ばれた人です。既にレーニン政府と紐帯があった李東輝は、臨政国務総理の名で得たレーニンの援助金40万ルーブル(当時の日本円で40万円に相当)を1920年に入手すると、金立という部下に密かに持ち込ませ、それを資金として「高麗共産党」を組織して、「臨政」を度外視するようになったのです。つまり、「臨政」の名で借りた資金を政府には一円も入れず、勝手に私物化したわけです。そこで激怒した金九の刑務局員が金立を殺す事件が起こり、内紛が極に達しました。

 実は李東輝は、レーニン政府と次のような密約を交わしていました。
①韓国政府は共産主義を採択して宣伝活動を展開する
②ソビエト政府は韓国独立運動を支援する
③ソビエト政府は、シベリアにおける韓国軍の訓練及び集結を許容する。補給はソ連政府が担当する
④韓国軍は指定されたソ連軍司令官の指揮にしたがう

 この密約があったということは、李東輝は完全にレーニンの手下になっていたということを意味します。レーニンは、「東アジアを赤化するには、いつかは必ず日本と戦わなければならぬ。そのため韓国人を主体とする革命軍を編成して有事に備えなければならぬ」という遠大な構想を抱いていました。この構想は李東輝の歓迎するところであったので、二人は完全に結びついていたとうことです。

 このように「臨政」の内紛が激しくなる中で、李承晩は1920年12月に上海に密航し、正式に大統領に就任しました。彼が上海に行った目的は、派閥を調停して運動を促進するためでした。しかし、1921年1月には李承晩に反対する勢力が立ち上がり、李東輝は辞職して、レーニンからもらった資金で高麗共産党の創設に専念するようになったのです。一方、李承晩は現実的視点から「独立はアメリカの委任統治下においてのみ可能である」と主張しましたが、民族主義者が多かった「臨政」内部では、多くの者がこれに反発し、李承晩排斥運動が始まりました。

 これによって李承晩は完全に政府から浮き上がり、1920年12月8日に上海に入ったばかりでしたが、怒号と脅迫にいたたまれなくなって、1921年5月に逃げるように上海を去ったのです。こうして「臨政」は最大の実力者と資金源を失ってしまいました。このようにして李承晩を追い出した上海では、「臨政」の分裂、無政府状態、そして再建へと険しい道が続きました。特に、1923年の国民代表会議の決裂以降は、急速に「臨政」の勢力が弱まっていきます。そして1925年の李承晩大統領の弾劾以降、金九が指導者の地位に就きました。このように、初めの頃は李承晩が「臨政」の代表だったのですが、分裂と闘争の結果、金九が指導者になっていくのです。

 それでは金九が何をやったかといえば、テロをやったのです。すなわち、武力闘争によって独立を勝ち取ろうとしたのです。金九は命がけの青年80余名を集めて、「韓人愛国団」というテロ団を組織し、部下に命じて昭和天皇暗殺を狙った桜田門事件、尹奉吉による上海天長節爆弾事件などを起こしました。これらのテロはすべて未遂に終わっています。

 ところがこのテロは金九を助けたのです。この事件により、中国人の対韓国人感情は一変し、中国人の支持を得て臨政の財政事情は一気に好転したというのです。中国も日本と戦っているので、韓国人が爆弾テロで日本と戦い始めれば、「敵の敵は味方」の論理によって、中国人から支持されるようになったのです。

 このようにテロによって得たものもありましたが、逆に失ったものもありました。これらの事件に衝撃を受けた上海の日本領事館警察は、「臨政」のテロとみて、フランス租界を中心に大捜査網を張りました。その捜査で安昌浩が逮捕され、京城に送られました。安昌浩という人は非常に有力な指導者で、生き残っていれば大統領になったかもしれない人物でしたが、獄中で病気が悪化して解放前に死んでしまいました。1938年のことでした。

 累が人に及ぶのを恐れた金九は、二つのテロ事件の首謀者は自分である旨をアメリカの通信社に通知しました。これで金九の名声は一朝にして世界に知れ渡り、一躍名士となって、中国要人の面会要請が相次ぎ、献金が流れ込んできました。これは良かったのですが、このテロが原因で上海を追われることになります。上海の日本領事館警察は、ついに金九の隠れ家を突き止めました。フランス租界当局は立ち退きを望み、金九は上海を脱出しました。テロ事件は「臨政」の存在と独立精神の健在を誇示し、財政難を救いましたが、運動の中心である上海を失う結果となったのです。そして、日本と中国の戦火が広がるに伴って、「臨政」も次々と移動するようになります。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』102


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第102回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 第100回から第六章「五 統一教会の祝福」に入り、過去二回にわたって①写真マッチング、②約婚式、③聖酒式、④結婚式(祝福)、⑤蕩減棒に関する櫻井氏の記述を分析してきた。今回はその続きで、⑥聖別期間について扱う。

 櫻井氏は⑥聖別期間に関する説明で、「四〇日間を聖別期間として別居する(家庭を持つ前の準備を行う)のが本来の決まりである。しかも、祝福の相手はその場で初めて会った相手であることからいろいろな問題が生じてくるとして、さらに三年間を独身の状態で信仰生活を継続することが求められる。この期間は、韓国人男性と日本人女性の組み合わせの場合は、韓国人男性の霊的優位が認められてこれほどの期間をおかずに韓国で結婚生活に入ることもある。」(p.304)と記述している。ここにも誤解や説明不足が含まれているので細かく分析して行きたい。

 まず、統一教会の信徒が結婚式を終えた後に40日間の聖別期間(すぐに新婚初夜を迎えるのではなく、お互いに純潔を守って家庭出発の準備をする期間)を持つというのは、教義的な根拠を持つ原則である。したがって、これに関しては国や民族の違い、あるいは個人の抱える事情などに起因する差異は存在しない。誰もが40日の聖別期間を通過するのである。しかしその40日を超えた後に、具体的にいつ家庭を出発するかに関しては、時代により、国により、個人の事情により異なるというのが実際である。

 この問題は、マッチングによって相対者が決定してから家庭を持つまでの期間という観点まで含めて考えた場合にはより複雑になり、中にはマッチングを受けてから家庭を持つまで10年を要したというカップルも存在するのである。祝福について研究を行った米国の宗教社会学者ジェームズ・グレイス博士は、著書『統一運動における性と結婚』において、アメリカにおける祝福のプロセスが変化したことを以下のように分析している。

 1978年までのパターンは、①マッチング、②祝福式、③聖別、そして④家庭出発というものだった。しかし、文師は1979年に新しいパターンに着手し、そのとき資格のあるメンバーはマッチングを受けたが祝福式を受けなかった。これらのカップルはその後は聖別をし、1982年の式典で祝福された。この新しいパターンは、①マッチング、②聖別(これを「約婚」と呼ぶアメリカのメンバーもいた)、③祝福式(その後に絶対的で摂理的な40日間の聖別が続く)、そして④家庭出発という順序に従う。グレイス博士は、この新しいパターンは、結婚の前に婚約期間を置くという伝統的なアメリカの慣習に運動が適応したのではないかと分析している。

 このマッチングと祝福式の間に時間を置くというやり方は、日本では1610双のマッチングと6000双の祝福式の関係が有名である。1978年9月22日に日本で1610双のマッチングが行われたが、彼らが祝福式に参加したのは1982年10月14日の6000双の祝福式の時であり、実に4年間も祝福式まで待ったことになる。しかし、マッチングから祝福式までにこれほど長い期間を置いた例はその後には見られない。私が祝福を受けた6500双ではマッチングはまさに祝福式の直前であったし、その後の祝福式においてもマッチングから祝福式まで1年以上待ったという例は聞かない。したがって、これは1970年代後半の特別な状況ではないかと推察される。

 さて、櫻井氏は祝福後の40日の聖別期間を過ぎた後でも、さらに3年間を独身状態で信仰生活を継続することが求められ、その理由は祝福の相手とはその場で初めて会ったばかりなので、いろいろな問題が生ずるからであるとしている。ここにも誤りがある。まず40日の聖別期間を過ぎた全員がさらに3年間の独身生活をするわけではないし、家庭出発を遅らせるのは必ずしもカップルの相性の問題が理由ではない。実際には、40日の聖別期間は普遍的なものだが、家庭を出発するまでにその後どのくらいの期間を置くかは、さまざまな理由や事情によって異なってくるのである。

 実は最も重要な理由は年齢である。統一教会では結婚したら子供を生むことが奨励されているので、祝福を受けた時点でカップル(特に女性)の年齢が高い場合にはできるだけ早く家庭を持つことが奨励される。女性の妊娠適齢期は限られているからである。この点に関する方針は万国共通である。逆に、カップルの年齢が20代の前半である場合には、お互いが精神的にさらに成長するためという理由とともに、お互いを人間としてもっとよく知るために、家庭出発までの期間が長くなる場合が多い。

 次に、家庭を出発するために満たすべき条件に関しては、国ごとに方針や基準が異なるということはあるだろう。日本においては、家庭を出発する前にまず個人路程を勝利しなければならないという考えが強く、修練会に出たり、実践活動をしたりといった様々な条件が求められ、結果として家庭出発の時期が遅れる傾向があった。これは「祝福家庭とはかくあるべき」という理想が高いためにそうなったという側面と、より現実的には独身のマンパワーをできるだけ多く確保するという組織的な理由の両側面があったように思われる。日本の統一教会には、天の祝福を受けたとはいえ、家庭に関することは私的なことで、教会のために奉仕することが公的なことであるため、より公的な目的のために家庭を犠牲にすることが美徳と考えられる傾向は確かにあった。

 日本人と韓国人が祝福を受けた場合、こうした日本固有の祝福に対する考え方を理解できないために、韓国人の側に不満が生じるということはあったであろう。その際の現実的な処理の方法として、韓日カップルの場合には日本人同士のカップルよりも少し早めに家庭出発を許可するということはあったと思われる。しかしそれは、櫻井氏の言うように「韓国人男性の霊的優位」が理由なのではなく、カップルの幸せのために現実的な判断をしたという方が妥当である。

 櫻井氏はこの聖別期間に対して、家庭を持つことを待たされるというネガティブな評価しかしていないが、実際に祝福を受けたカップルに対する聞き取り調査を行ったグレイス博士は、この聖別期間が宗教的な意味を持つ肯定的なものとして個々のカップルに受け取られていることを明らかにしている。彼の分析によれば、マッチングを受けてから家庭をもつまでの聖別期間は、共同体の価値観を夫婦生活にいかに活かしていくかという「翻訳作業」を行う期間であり、これによって共同体の価値観が結婚という場に結実するのだという。すなわち、それまで個人的に積み上げてきた信仰を、家庭生活という場でどのように実らせるかについて、カップルが話し合って準備する期間だというわけだ。

 家庭をもつまでの聖別期間は、メンバーにとって多くの意味をもっている。その内の一つに地上天国実現というより大きな目的のために捧げる「犠牲」であるという意義づけがある。すなわち世界の救済のために自分自身を捧げるのである。さらにそれは、神を中心とする家庭を築くための基礎固めの期間であると意義づけられている。すなわち、この期間、自己犠牲的な奉仕の生活をすることにより、自己の精神的・情緒的成長をはかり、理想的な家庭を築くための準備をするのである。

 これに加えてグレイス博士は、極めて現実的な意味合いとして、聖別期間は、多くの場合、結婚する直前まで見知らぬ同士だったカップルが、文通などを通してお互いをよく知り合う期間として機能していると分析している。とりわけ言語や文化の異なる国際カップルの場合にはこの期間は重要であるという。

 グレイス博士が多くのメンバーと接して得た印象としては、統一教会における結婚は永遠のものであるため、聖別期間にあるカップルはお互いにより良い関係を築くことに対して真剣であるという。この期間のカップルの交際の手段として最もポピュラーなのが文通であり、その内容はいわゆるラブレターというよりは、お互いが今まで歩んできた人生の紹介や、信仰的価値観に基づいて将来どのような家庭を築いていくかという理想を語り合うものが多いという。多くのカップルの証言によれば、お互いに対する恋愛感情はこの聖別期間中に徐々に芽生えるという。神の目から見れば自分たちは夫婦であると認識してはいるものの、この期間におけるカップルの交際は、とりわけ身体的接触という点に関しては非常に制限されている。このようにして聖別期間を通じて育まれた二人の愛は、やがて三日行事を通して実体的に結実し、一つの家庭を形成するようになるのである。

 こうしたグレイス博士の分析は、日本の祝福家庭にもほぼそのまま当てはまる。聖別期間は単に家庭出発を待たされている期間なのではなく、お互いの成長と関係性の構築という積極的な意味を持っているのである。

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韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ04


 先回は上海市で結成された大韓民国臨時政府まで話をしました。今回はこの「臨政」についてさらに詳しく説明します。当時の「臨政」に対して、列強はどういう態度を取っていたのでしょうか。

 まず中国はどうかというと、中国と朝鮮の間には2000年の宗属関係がありましたし、どちらも日本と敵対していたので、「敵の敵は味方である」という論理から、中国は韓国の独立運動に対して終始同情的でした。しかし、この時期の中国は、清朝末期以降の内戦と対日戦に明け暮れて、実力をもって支援する力を欠いていました。

 それではソ連はどうでしょうか。レーニン政権はその世界戦略に基づいて積極的に朝鮮人を支援し、かつ利用しました。例えば、上海臨時政府の李東輝派に対する200万ルーブルの資金援助、高麗共産党の育成と承認、遠東革命軍の編成・抗争などを行っています。またシベリア在住の朝鮮人部隊を赤軍に編入し、対日戦を遂行しました。つまり、ソ連は韓国独立運動を共産党側につけて利用し、日本と戦って勝利した暁には、朝鮮半島を共産化したいと考えていたわけです。その意味では臨政を助けたわけですが、それはあくまで自分の野望のためでした。

 それではアメリカはどうでしょうか。韓国の独立運動家が終始頼りにした国はアメリカでした。アメリカは、対日不和を招かない範囲で終始同情的であったと言えます。最終的には日米は戦争になるんですが、それ以前は日本に対する配慮もあって、同情的であったけれども助けてはくれないという状態でした。民間レベルでは、韓国に根づいた米国のキリスト教宣教師は、伝道的見地と人権的見地から韓国独立運動への支援を惜しみませんでした。アメリカは独立運動の資金源として重要視されました。つまり、アメリカに渡った独立運動家が、韓国の独立のために寄付を集めたわけです。アメリカは独立運動にとって宣伝の場であり、外交の最前線でありました。

韓国の独立運動と再臨摂理PPT04-1

 この大韓民国臨時政府について考えるとき、金九という人物を抜きに語ることはできません。彼はよく「白凡・金九」と呼ばれるのですが、この「白凡」というのは号です。その意味は、白丁のような卑しい凡夫だということです。白丁というのは朝鮮王朝時代の最も低い身分で、「賤民」に属したわけですが、「自分は白丁のような卑しい凡夫にすぎないが、国の為には自分程度の意識水準が必要だ」という意味で「白凡」という号を自分につけたそうであります。

 彼は1876年に黄海道海州(現在の北朝鮮)に生まれました。彼の家系は、李朝初期は両班の家柄だったのですが、11代前に没落して平民に落とされたので、非常に貧しい生活をしていたそうです。金九が生まれたのは1876年ですが、李承晩が生まれたのは1875年ですから、李承晩よりも一歳年下ということになります。この二人はほぼ同い年ですが、ずーっとライバル関係にありました。

 それでは金九の略歴を見てみましょう。
・16歳で東学に転じ、1894年には「東学党の乱」に参加します。この「東学」とは東洋の思想を中心とする宗教で、現在は「天道教」と呼ばれています。
・1905年に乙巳保護条約が締結されたときには激憤して、国権回復運動を志すようになります。
・1910年には日韓併合条約が締結されますが、そのときには地下政府の設立を密議して、黄海道代表に選ばれました。彼はかなり初期の頃から独立運動に参加していたことが分かります。
・1911年には保安法違反の疑いで逮捕され、西大門刑務所に収監されました。
・1917年に出所した後に帰郷し、農村啓蒙運動に励むことになります。
・1919年に三・一独立運動が起こると上海に亡命し、大韓民国臨時政府に参加します。

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 このときから1945年の解放に至るまで、「臨政」は主導権を巡る内紛や暗闘で集合離散しましたが、結局、終始「臨政」に留まり、一貫して「臨政」に尽くしたのは金九ただ一人でした。彼によって、独立精神の法統は最後まで守り続けられたのです。その意味で、大韓民国臨時政府と金九は特別な関係にあると言えます。実は臨政ができたころには金九の役職は「警備局長」であり、その地位はあまり高くありませんでした。ほかに偉い人はたくさんいたんですが、その人たちは喧嘩したり抗争したりして出て行ってしまい、最終的に金九が残ったということです。

 それでは上海臨時政府はどのようにしてできたのでしょうか。三・一独立運動後、京城、シベリア、上海の三カ所に政府が立てられたのですが、やがて上海の臨時政府に統合されていきました。それは、人や資金、地の利の上から、上海が最も政府の樹立に適していたからです。上海には、各地から最も多くの政客が集まりました。

 1919年4月下旬、上海に李承晩を国務総理とする大韓民国臨時政府が樹立されました。この臨時政府は、思想的には混合状態でした。シベリア派の中心人物は李東輝で、彼はこのとき既に共産主義を信奉していました。上海派は民族主義を報じていたので、本来両派は相容れないものでした。しかし、外国の援助を受けやすくするためには一本化が必要であるということで、結果的に上海政府が正統政府となったのです。初期の上海臨時政府の閣僚名簿は以下のようになっていました。
・国務総理 李承晩(在米) → 後に臨時大統領
・国務総理代理 李東寧 → 後に大統領代理
・内務総長 安昌浩(在米)
・外務総長 金奎植(在パリ)
・財務総長 崔在亨
・交通総長 申錫雨
・軍務総長 李東輝(在シベリア)
・法務総長 李始栄

 このように臨時政府の閣僚名簿というものはあったんですが、全員が上海にいたわけではありませんでした。こうした中で、「大韓民国臨時憲章」(憲法に相当)を制定し、国としての体裁を一応整えたわけです。このとき、後の大韓民国初代大統領となる李承晩が、国務総理となり、後に臨時大統領になっているわけですが、なぜ何故李承晩(当時44歳)だったのでしょうか。その理由を列挙すると以下のようになります。

 まず家柄が良かったんですね。李王朝第三代の王・太宗の嫡子・譲寧大君(世宗大王の兄)の直系の家柄です。これを聞いて分かる人は、韓国ドラマを相当見ている人ですね。『流の涙』とか『大王世宗』などのドラマを見たことのある人は、この意味が分かると思います。朝鮮の国を立てたのは太祖・李成桂ですが、その息子である李芳遠が太宗となって王権を確立します。李芳遠の息子の中で、長男は問題児だったんですね。ですから三男の忠寧大君、後の世宗大王に王位を継承しました。長男は王位を譲ったので「譲寧大君」と呼ばれているわけです。ですから、李承晩は朝鮮王朝の極めて初期の段階で王の系譜から外れた人物の直系の家柄であったわけです。

 次に、秀才の誉れ高く、若くして改革運動に身を投じて投獄され、早くから独立運動に専念してきた実績がありました。

 さらにアメリカの有名大学を三つも卒業し、哲学博士の称号を持ち、見識、人物ともに群を抜いていました。

 そして、米国に知己が多く、米国の援助を受けやすい、在米僑胞の声望が高く、資金調達能力が抜群である、年長とカリスマ的魅力などが選ばれた理由にあげられるでしょう。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』101


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第101回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 前回から第六章「五 統一教会の祝福」に入り、①写真マッチング、②約婚式、③聖酒式に関する櫻井氏の記述を分析する作業を終えた。今回はその続きである。

 櫻井氏は④結婚式(祝福)に関する説明で、「文鮮明夫妻を主礼として迎え入れ、聖水と祝禱を受けた後、新郎新婦で指輪の交換がなされ、万歳三唱のうちに終わる。」(p.303)と記述している。重要な儀式の式次第の説明としてはあまりにも簡素な表現だが、実は重要な構成要素を抜かしてしまっている。それは「成婚問答」である。これは神の創造理想を完成するために、永遠の夫婦となることを神様と真の父母様の前に誓う儀式であるが、主礼の問いかけに対して、「イェー」(韓国語で「はい」の意味)と肯定の返事をする形式で行われる。「成婚問答」で主礼が問いかける内容は歴史と共に変化してきたようだが、私が受けた6500双の時の「成婚問答」は以下のような文言であった。
 一、君たちは本然の善男善女として、天の法律を守護し、万一失敗があるならば、自分たちが責任を執ることを宣誓しますか。
 二、君たちは神様が喜ばれる理想的な夫婦として、永遠なる家庭をつくることを宣誓しますか。
 三、君たちは天の伝統を受け継ぎ、永遠なる善の父母として、家庭と世界の模範となる子女を養育することを宣誓しますか。
 四、君たちは理想的家庭を中心として、社会、国家、世界、天宙の前に愛の中心者となることを宣誓しますか。

 6500双の時は、この成婚問答に続いて、以下のような「成婚宣布」がなされた。
「1988年10月30日、6516双が、神と真の父母と、世界と天宙の前に、成婚が成立したことを宣布します。」

 このことから、結婚式がもつ重要な意義は、新郎新婦が永遠の夫婦となることを神様と真の父母様の前に誓い、主礼が結婚の成立を宣言することにあることが分かる。にもかかわらず、櫻井氏は「マスメディアで報道されるのはこの場面だけだが、祝福の実質的な意味は、聖酒式と後に述べる三日行事にある。」(p.303)などという知ったかぶりの解説を行い、あたかも結婚式が対社会的なセレモニーでしかないかのような物言いをしている。

 こうした櫻井氏による結婚式の意義づけは誤りである。確かに聖酒式と三日行事は祝福の一連のプロセスにおいて重要な意味を持っているが、結婚式の意義がそれに劣るものであるということにはならない。結婚式は祝福を構成する重要な一つの要素として、欠くことのできないものである。その原理的な意義は、聖酒式によって神様の神聖なる子女として生まれ変わった男性と女性が晴れて本来の結婚をするということなのである。したがって、聖酒式の後に結婚式が行われなければならないし、結婚が成立しない限りは「床入り」に当たる三日行事も行うことはできない。それぞれに固有の意味があるため、その順番を逆転させることはできないし、個々のプロセスを省略することもできないのである。

 聖酒式も三日行事も人間の堕落によって必要となった蕩減のための行事であるが、結婚式は創造原理的な意味を持つ行事である。本来、人間始祖アダムとエバが堕落していなければ、成長期間を通過した後には神の下で結婚式を挙げて創造本然の家庭を出発するはずであった。しかし、アダムとエバの堕落によりそれが出来なくなったので、統一教会ではそれを蕩減復帰して「真の結婚」をするために合同結婚式を行ってきたのである。したがって、それ自体で宗教的意義を有するものであり、世間一般やマスコミに対するアピールのためにやっているのではない。

 私が参加しが6500双祝福式の時には、「主礼の御言」というものが語られており、その中にこの結婚式の意義と、それに臨む者の心構えが文鮮明師によって示されている。それをいま改めて読むと、新しい人生の門出に立つカップルに対して与えてくださった貴い訓示であることを感じざるを得ない。少し長くなるが、私の人生にとって重要なスピーチであるため、ここで紹介したい。

※6500双祝福式での主礼の御言※

 生命と愛と喜びの源泉としての幸福で、義なる真の家庭を培い、確立するということは、実に神様と人間の歴史的な願いでした。そのような観点から見ると、皆さんがきょう、神様を中心として夫婦の良き契りを結び、成婚式をささげることができるのは、本当に誇るべきことであり、喜ぶべきことであると考えます。
 本来、夫婦というものは、真の愛によって結ばれた一心同体の存在であり、約束する伴侶の関係であるがゆえに、愛の本体であられる神様を中心としなければ、理想的な愛の家庭を興すことはできないのです。
 私たち統一教会の新郎新婦は、正しくこの神様の愛を中心として結ばれた夫婦であり、神様の愛と真理を基盤とした家庭を作り上げるとき、愛と幸福と平和の世界が現れるのです。

 神様は、長い受難の歴史を克服して、人類を一つに束ねる勝利の基盤を整えてこられました。すでに、私たちは、ソウルオリンピックを通して、東西が和合して、全人類が地球村として一家族を成す様相を見ることができます。国境と、血統と、歴史的感情や思想を超越して、一つの世界を指向する外的な摂理の基盤の上に、人類の霊魂と精神を一つに束ねる内的な摂理としての、「世界文化大祝典」を、1990年から3年ごとに開催することを宣布することによって、世界統一国家たる人類大家族主義の社会が到来しているのです。

 玄界灘を越えて、共に手を取り合って茫々たる大海に出帆する新郎新婦の皆さん!

 きょうまで、全世界の耳目が、私たち統一教会に集まってきました。しかし、今からは皆さんと皆さんの家庭に一層視線が注がれるようになるでしょう。それゆえに、皆さんは全生涯を通して次の三つの事柄を特に心に銘記しなければなりません。

 第一に、祝福を受けた夫婦は、永遠に一つにならなければなりません。皆さんの結婚は、「死が私たちを引き離すときままで」というのではなくて、永遠に共に行くのです。真の幸福というものは、永遠に変わらない愛の夫婦によってのみ成り立ち、また享受することができるのです。きょうの新郎新婦の皆さんは、今から皆さんの家庭に、神様の愛を実現することによって、神様に侍り、私たち人間世界に神様をお迎えするようにしなければなりません。

 第二に、家庭的な愛の伝統を確立しなければなりません。この理想的な結婚をした後には、公的な約束を守って、子女たちを原理的にも、道徳的にもりっぱに養育しなければなりません。皆さんは、責任分担と使命を完遂するために、一切の精誠を傾けるばかりでなく、特に子女教育に対して、父母としての責任を果たすことに格別に尽力すべきです。

 第三に、神様の理想世界を建設するために全力を注がなければなりません。天国は、万民が互いに信じ合う、愛で結ばれた心情の世界であります。霊的にも、肉的にも、空虚と困ぱいと苦痛がある限り、真なる天国は実現されません。皆さんはすべて、神様の愛を共有する福なる天国を建設する天国の市民として、責任を果たすだけでなく、この伝統と遺産を、皆さんの子女と後孫に相続できるよう、全力を尽くさなければなりません。

 どうか、きょう祝福を受けられた皆さんが、天の模範的な家庭を築き上げるよう尽力してくださることを願っています。

※引用終わり※

 このメッセージから、結婚式に重要な宗教的意義があることと、神を中心とする夫婦の因縁を結ぶことがその中心テーマであることは明らかであろう。

 続いて櫻井氏は⑤蕩減棒について説明しているが、興味本位で書けば面白いかもしれないこの行事の記述において、櫻井氏はどういうわけか深堀りせず、通り一遍の解説で終わっている。この場面を「奇行」「野蛮な暴力」「韓国の土着の文化」という視点で描こうと思えばいくらでも膨らませることは可能なのかもしれないが、それはあまり櫻井氏の興味をひかなかったのであろうか?

 一方、⑥聖別期間と⑦三日行事に関する櫻井氏の記述は多くの問題を含んでいるが、それは次回以降に扱うことにする。

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韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ03


 前回は「三・一独立運動」について解説し、それに対して日本政府が取った「文化政治」までを説明しました。すなわち、1919年までは「武断政治」といって力で韓国人の抵抗を抑えていたのですが、三・一運動以降は言論・結社の規制の緩和や学校の拡充を図るなど、ある程度の自由を認める形で懐柔しようとしたのです。

 日本政府がこの文化政治を行うことによって生まれたのが、「親日派」と呼ばれる人たちです。この人たちはより現実的な思考をした人たちであって、独立運動を継続しても、到底日本の統治を脱することは不可能であると自覚して、産業の発達や教育の振興に尽くして、民族自立のための基礎的発展を遂げ、実力を養成しようと考えました。その親日派の代表が、李光洙や崔南善といった人々でした。

韓国の独立運動と再臨摂理PPT03-1
韓国の独立運動と再臨摂理PPT03-2

 実は李光洙は「二・八独立宣言文」を書いた人ですし、崔南善は「三・一独立宣言文」を書いた人です。こうした独立運動の指導者自身が何と言いだしたかといえば、「武力や抗争による独立は不可能である。独立は日本によって遂行しなければならぬ。」「民族のために親日するのである」と言ったわけです。つまり、「いまの韓国人の実力ではとても独立なんてできないんだ。日本の下でもっと実力をつけない限り独立は果たせない」と言って、むしろ積極的に日本と協力する人々が出てきたわけです。こういう人たちのことを「親日派」と呼びます。当時の彼らの意識としては、おそらく愛国心に基いて「親日」したんだと思います。ところが今日の韓国では、彼らは「変節した」「裏切り者である」と評価されています。今日の韓国では「親日派」といえば犯罪者のように考えられています。

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 それではほかにどんな運動があったかと言えば、朝鮮共産党の結成がありました。1918年6月に、李東輝らがハバロフスクで韓人社会党を結成します。その李東輝が大韓民国臨時政府に参加したことから韓人社会党は拠点を上海に移し、1921年に「高麗共産党」に改称します。そして1925年4月18日には、韓国内で朝鮮共産党が結成されます。しかし、それとまったく同じ月に「治安維持法」が公布され、共産党員の大部分が検挙されてしまいます。これによってできたばかりの朝鮮共産党は壊滅的な打撃を受けます。事後、4次党まで共産党の再建が試みられましたが、治安当局の大検挙を受けて崩壊してしまいます。ですから、韓国の国内においては共産党は日本当局の徹底的な弾圧によって潰されてしまったわけです。ところが、その中心人物である李東輝は、上海の独立政府に加わって、大きな影響を与えるようになっていきます。

 そうした中で、「新幹会」(1927~1931)という組織が生まれます。1920年代の朝鮮では、民族主義者の間で「妥協派」と「非妥協派」の分裂がみられるようになっていました。前者は朝鮮総督府の統治下で自治の実現を目指そうとするものであり、後者はあくまで総督府を否定して独立を達成しようとするものでした。後者に属する安在鴻(안재홍)らは、同じく総督府との一切の妥協を望まない共産主義勢力との連携を模索するようになり、両者が結びついて「新幹会」が発足しました。ところが、だいたい共産主義勢力と協力しようとした団体は、それに乗っ取られるようになっているのです。やがて「新幹会」は共産主義者に乗っ取られ、左翼団体に変容しました。結局、運動内の左右対立によって、「新幹会」は1931年に解散してしまいます。

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 このころから独立運動の中で、テロ行為が行われるようになります。テロ闘争の代表的な組織が「義烈団」でした。これは1919年11月10日に朝鮮独立活動家の金元鳳(김원봉)を中心として結成された民族主義的な武装テロ組織です。この人たちは、三・一運動の非武装路線を「なまぬるかった。武器を持たずに万歳だけやっても独立なんてできっこない」と批判しました。三・一運動が鎮圧されて失敗した後に、国外での武装闘争を模索していた金元鳳ら13名によって、「義烈団」が吉林省で結成されました。

 このように「非暴力運動」ではなく、武力闘争を中心とする民族主義的な独立運動が起こってきます。義烈団は正義と猛烈を朝鮮独立精神の基軸に置き、「日本帝国主義の心臓部に弾丸を撃ち込む」必殺主義を掲げました。彼らは暴力を唯一の手段とすることを誓約し、ソウルと東京での暗殺を目的に活動しました。義烈団は、釜山警察署などの警察機関を爆破(1920年)したり、朝鮮総督府爆破を実行(1921年)したり、上海へ立ち寄った田中義一陸軍大将狙撃未遂事件(1922年)を起こしたりしました。こういう人たちはいまでも韓国で「英雄視」されています。主権を奪われているのだから、テロは悪くないという考え方です。ちなみに、金元鳳は解放後、北朝鮮にわたって幹部になっています。

 これに対して日本がどのように対処したかといえば、徹底的な同化政策の強化によって抑え込んでいきます。1931年9月に満州事変が起こり、1932年3月に満州国が成立すると、日本は「文化政治」から再び「武断政治」へと方向転換するようになります。

韓国の独立運動と再臨摂理PPT03-5

 1936年8月に第七代総督・南次郎が着任すると、同化政策が強行されるようになりました。具体的には、官製以外の韓国人の団体は、解散させられました。日本政府が主導して作った韓国人団体以外は認められなくなったのです。そして皇民化運動が進められ、日本語が公用化され、創氏改名が行われました。このような凄絶な弾圧策によって民族文化は窒息し、非妥協の消極的抵抗さえ困難になったので、すべての運動は地下に身を隠し、逮捕を免れる道を探すしかなくなりました。ですから、少なくとも朝鮮半島の内部では日本の徹底的な弾圧と統治により、ほぼ独立運動はできない状態にまで追い込まれていったということになります。このころからは外国における運動、海外に避難した人々の独立運動しか生き残れない状態になっていったのです。

 その海外における独立運動の中心が「大韓民国臨時政府」でありました。これは三・一独立運動の後に、海外で独立運動を進めていた活動家らによって、中華民国の上海市で結成された臨時政府のことです。「三・一運動で独立を宣言したからには政府がなければ恰好がつかぬ」という論が盛り上がって、各地の独立運動の闘士たちが上海に集まって、4月13日に「大韓民国臨時政府」の成立を宣言しました。これは三・一運動が起きてから一か月半足らずのことでした。これは初めは上海にあったので、「上海臨時政府」と呼ばれていたのですが、日中戦争勃発後は所在地を転々と移動し、最終的に重慶に落ち着きました。

韓国の独立運動と再臨摂理PPT03-6

 上の地図にあるように、上海→杭州→鎮江→長沙→広州→柳州→綦江→重慶と目まぐるしく移動していますが、これは日本の治安当局の捜査と中国国内の戦乱によって場所を転々とせざるを得なかったということです。

 この臨時政府の位置づけなんですが、韓国の主張と国際的承認の間には齟齬があります。現在の韓国政府は、大韓民国臨時政府の正統性を主張しており、大韓民国憲法の前文には「我々大韓国民は3・1運動で成立した大韓民国臨時政府の法統と、不義に抗拒した4・19民主理念を継承し…」と書かれているのです。しかし、韓国の憲法にも書いてあるこの主張は、国際的に認められていません。すなわち、連合国からも枢軸国からも、韓国は第二次世界大戦の参戦国として認められることなく、サンフランシスコ講和条約への署名も認められませんでした。その当時、この大韓民国臨時政府を承認した国は一つも存在しなかったということなのです。

 これは韓国にとっては大きな問題であり、このことの故に、日本に対する戦後補償の要求を「連合国」側に立ってすることができなかったのです。韓国の側には、自分たちはちゃんと「臨時政府」を作って連合国側で日本と戦っていたのだという自意識があるのですが、それを国際社会が認めてくれないことが韓国人にとっての「恨」になっているのです。

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