日本仏教史と再臨摂理への準備シリーズ09


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 浄土系の流れをくむ鎌倉新仏教の一つが、一遍(1239~1289)を開祖とする時宗です。この人は鎌倉時代の人で、伊予松山で武家に生まれたんですが、14歳で浄土宗の僧になりました。彼は35歳から遊行僧として、一所不在の流浪の生活を送りました。彼は念仏を唱えながら布教をしたわけですが、「踊り念仏」を広めました。彼の教えはもっとシンプルになります。親鸞は信仰を強調し、信ずれば救われると言ったわけですが、一遍の場合には、信仰があるなしにかかわらず、「南無阿弥陀仏」と名号をとなえれば救われるんだと説いたわけです。このように、かなり極端にシンプルになっていきます。これが浄土系の流れなんですが、鎌倉新仏教にはもう一つの流れがあります。それが禅系の流れです。

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 禅系の鎌倉新仏教の一つが、栄西(1141~1215)を開祖とする臨済宗です。栄西自身もまた比叡山で天台教学を学んだのでありますが、27歳のときに宋に渡ります。その当時、中国では禅が非常に興隆していました。彼はこの禅こそが国を救うんではないかと考えて、47歳で再び宋にわたり、臨済宗の修行を5年間続けて、それを日本に持って帰って、九州で布教活動を開始しました。すると例によって比叡山から弾圧を受けるわけです。彼は『興禅護国論』を著して、禅を広めることが国を救うんだということを主張するんですね。当時、京都と対立関係にあったのが、新しくできた鎌倉幕府でありました。そこで栄西は、鎌倉幕府の庇護を得て日本臨済宗を開宗していくことになります。

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 さて、禅には臨済宗と曹洞宗があるんですが、臨済宗の特徴というのは「看話禅(かんなぜん)」と言って、「公案」を使って修行をすることにあります。「公案」というのは師匠が弟子に出すなぞなぞのようなもので、例えば「両手を合わせるとパチンと音が出る。それでは片手ではどんな音が出るか?」といった問いかけをするわけです。それに対する正式な答えというものはありません。それを弟子が一生懸命に考えて、こういうことを悟りましたと師匠に報告するわけです。それが満足のいく答えであれば、合格ということで次の公案を与えるという感じです。有名な一休さんがやっているようなやり取りをしながら修行するのが臨済宗の修行法です。

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 もう一つの禅宗が、道元(1200~1253)によって開かれた曹洞宗です。この人も比叡山で天台教学を学びます。彼は24歳で宋に渡り、天童山の如浄(にょじょう)のもとで座禅をし、「身心脱落」の境地を体験します。これを言葉で表現するのは難しいのでありますが、いわゆる執着を完全に捨て去った悟りの境地に至ったのだと思います。それを体験した彼は、これこそ仏教の本質だと確信し、帰国して禅の道場を開きます。例によってまた比叡山の弾圧を受けて、越前の国に永平寺を開くことになります。

 「只管打坐(しかんたざ)」という言葉があります。修行とはただひたすら座禅に打ち込むことだという意味です。ですから鎌倉新仏教の開祖たちは、どうしたら救われるかという問いに対して、「念仏だ!」「唱題だ!」「座禅だ!」と、それぞれシンプルな一点を追い求めていくようになったわけであります。道元の場合には末法思想も否定して、ただひたすら座っておれば救われるんだと説いたわけです。

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 曹洞宗の禅は「黙照禅(もくしょうぜん)」と言って、ただひたすら座り続けることを強調しました。ずーっと瞑想していると、「魔境」に入ることがあります。いろんな声が聞こえてきたり、悪魔が現れてみたり、「お前は悟った」という声が聞こえてきたりするわけですが、そういうのは全部ダメで、それを乗り越えたところに「即身是仏」という悟りの境地があるんだと教えています。これが曹洞宗の禅の特徴です。

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 鎌倉仏教の最後に現れたのが日蓮(1222~1282)です。彼は安房国(千葉県)で漁師の子として生まれて、天台宗清澄寺(せいちょうじ)に出家したのでありますが、「法華経こそ真実の教え」という確信に至り、32歳で日蓮宗を開きました。日蓮というのは日本の仏教史においては大変カリスマ的で預言者的な人でありまして、最も迫害にあった人です。仏教では迫害のことを「法難(ほうなん)」と言います。彼は権威筋から迫害されることにより、何回も死にそうになります。しかし、彼は多くの法難に遭えば遭うほど、この道こそ正しい道であると確信していくという人で、日蓮のストーリはまるで信仰者の鑑のようです。彼は、自分こそ末法の世に現れる法華経の行者、上行菩薩の生まれ変わりだと確信するようになり、迫害されればされるほど自分の正しさを確信するようになります。彼は自分の受けている法難も、法華経の中で予言されていると解釈しました。

 彼は『立正安国論』を著しますが、その内容は法華経を信じることによって初めて国が正しく立つんだということです。彼は非常に強烈な信仰者であったわけですが、同時に非常に排他的な人でもありました。法華経のみが人々を救うとして、念仏、禅、密教などの他の教えを激しく攻撃したわけであります。

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 この写真で示されているのが「文字曼荼羅」と呼ばれるもので、真ん中に「南無妙法蓮華経」と書いてあります。これが基本的には日蓮宗のご本尊となります。日蓮宗の教えの特徴とは何かというと、浄土宗と比較することによってはっきりしてきます。浄土宗では阿弥陀如来の恩恵によって救われると教えるわけですが、それは来世で救われる、死んだら救われるということです。ですから、浄土宗の教えでは亡くなる瞬間に阿弥陀如来がやってきて自分の魂を救ってくれるという、極めて来世主義的な傾向が強いのに対して、日蓮は「南無妙法蓮華経」をとなえることで、現世で救済される道を説いたわけです。

 そして日蓮宗では、個人だけでなく、国家や世界も法華経で救われるとします。日蓮が1260年に著した『立正安国論』は、法華経のみが国を護ると主張し、鎌倉幕府に対して「日蓮宗に改宗せよ!」と迫ったんでありますが、これは幕府から黙殺されました。日蓮が預言者的な人物であると言ったのは、当時、さまざまな天変地異や蒙古襲来などの国難が起こりましたが、「その理由は人々が邪宗を信仰しているからだ、自分の日蓮宗を信ずれば国は安泰だ!」と言った姿が、旧約聖書に出てくる預言者にそっくりだからです。内村鑑三も、この日蓮を代表的な日本人の一人に挙げています。

 この日蓮系の教えの中から、日本の巨大な新宗教が出発しています。霊友会、立正佼成会、創価学会などがそうです。ですから、多くの新宗教を出したのもこの日蓮系の教えの特徴だと言えます。これらの新宗教は基本的には戦後の高度経済成長期に大きく教勢を伸ばした教団ですが、努力すれば自分の生活も世の中もどんどん変わって発展していくという当時の風潮が、現世における救済を説いた日蓮の教えと相性が良かったということは言えるかもしれません。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』49


櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第49回目である。

「第Ⅰ部 統一教会の宣教戦略 第5章 日本と韓国における統一教会報道」の続き

この章は日本の朝日新聞と韓国の朝鮮日報における統一教会関連の記事を検索することを通して、統一教会が両国のマスメディアによってどのように報道されてきたかを分析することを目的としている。櫻井氏は1950年代から2000年以降に至るまでの期間を5つに区分して、新聞の見出しを紹介する形で報道内容を時系列的に分析してきたが、最後に「四 日本と韓国の統一教会報道の差異」と題して、全体の総括を試みている。初めに彼は、朝日新聞と朝鮮日報における統一教会関連の記事を、それぞれ以下のように大まかに整理している(p.190~191)。

【朝日新聞に見られる統一教会関連の記事】
①統一教会を相手の提訴および判決(霊感商法、「青春を返せ」裁判)、婚姻無効の確認を認めた訴訟。
②被害弁連の集会やそこで明らかにされたこと(被害実態、元信者の証言など)
③統一教会に無関係であるが、関与した団体、人物に対して被害弁連が行った調査依頼や抗議行動。
④父母の会の抗議や活動。
⑤国家秘密法制定への関与や自民党との関係。
⑥合同結婚式。
⑦文鮮明や関連企業、団体の動向。

【朝鮮日報に見られる統一教会関連の記事】
①アメリカにおける統一教会の動向。
②韓国における統一教会の動向。
③韓国や諸外国における統一教会関連企業、団体の動向。
④文鮮明の動向(北朝鮮訪問、ゴルバチョフとの会談など)。
⑤合同結婚式。
⑥世界各国における統一教会の社会問題化。
⑦韓国におけるキリスト教団体による反統一教会の動き。
⑧統一教会関係者による事件(乱闘騒ぎ、殺人、抗議行動)。
⑨統一教会の是非をめぐる論争。

これらを総括して、櫻井氏は以下のように述べている。
「第一に気づくことは統一教会を相手に起こされた裁判関連の記事が、『朝鮮日報』には一切ないことである。」(p.192)韓国での反対は主にキリスト教関係者によるもので、父母の会や弁護士集団による損賠賠償請求訴訟はないというのである。櫻井によれば、韓国内では統一教会を「反社会的」集団とみなす考え方は共有されていないという。その理由に関して、彼は以下のような点を挙げている。
①韓国において統一教会は、様々な関連企業や団体を有しており、統一教会と利害関係を持つ一般人が少なからずいるので、教団批判は関係者批判につながる。
②韓国では統一教会は農村の未婚男性に結婚相手を世話してくれる団体ととして認識されており、韓国社会に損失のみをもたらす教団ではない。
③統一教会はキリスト教から見れば異端だが、朝鮮民族のナショナリズムを前面に出しているため、反民族的・反国家的団体ではない。したがって、統一教会を批判することは愛国主義に対する批判につながる。
④韓国社会では、統一教会は資金力を背景にして政界・経済界とパイプを維持している可能性が高い。

さて、櫻井氏はこうした報道のあり方の違いの原因を、韓国と日本における統一教会の「宣教戦略の相違」に求めている。彼自身がこれまで用いてきた言葉で表現すれば、韓国の統一教会は「花形スター」であるのに対して、日本の統一教会は「金のなる木」であり、両国における教団のあり方がまったく違うので、マスコミの報道内容も違うと言いたいのである。はたして本当にそうであろうか? 私はそうは思わない。日韓における報道の相違は、日韓における「統一教会自体」の差異に起因するというよりも、それらを見つめる一般社会やマスコミの意識や捉え方の違いに起因する部分の方が大きいといえる。繰り返しになるが、統一教会は韓国にとっては「自国の宗教」であり、日本にとっては「他国の宗教」である。日本社会にとって統一教会は「異物」であるのに対して、韓国社会にとって統一教会は自分たちの「一部」なのである。

このことは、統一教会に対する断罪的なメディア報道が、日本のみならず西洋の国々にも存在することからも傍証可能である。櫻井氏によれば、「金のなる木」として経済活動に邁進させられているのは日本統一教会のみであり、それが日本において統一教会が「反社会的団体」と認識されている理由だということになるのだが、そうした使命や活動が存在しないはずの西洋諸国においても、統一教会は「反社会的団体」としてマスコミから攻撃されてきた。このことを証明するには、アイリーン・バーカー博士の著書『ムーニーの成り立ち』から一段落を引用するだけで十分である。
「今日の西洋で、誰かに『ムーニー』という名前を言えば、恐らく帰ってくる反応は、微妙な身震いと激怒の爆発の中間あたりに属するであろう。世界中で報道の見出しは一貫して断罪調である。『奇怪なセクトによる「洗脳」と闘う父母たち』『文師の世界制覇計画が語られる』『ロンドン警視庁による「洗脳」への徹底的調査に直面するムーニー・カルト』『家庭崩壊の悲劇』『ムーン教会で集団自殺があり得る、と語る3人』『洗脳された娘の所にかけつける母親』『ムーニーが私の息子を捕まえた』『ムーニー:マギー(注:マーガレット・サッチャーの愛称)が行動要請』『オーストラリアの「狂信的」カルト』『神ムーンが我々から子供を引き離す』『1800組のカップルとレバレンド・ムーン』『日本で500人の父母がセクト活動に抗議』『ムーン信奉者への警察捜査』」(序文より)

西洋においても、統一教会は「他国の宗教」であり、「異物」である。それがマスコミの攻撃を受ける理由は日本とさほど変わらない。韓国だけが、統一教会発祥の国として特別なだけである。

さて最後に、櫻井氏の分析に対する私なりのまとまった反論として、日本のマスコミがなぜ統一教会を執拗に叩くのかを以下にまとめてみたい。

第一に、マスコミ人には左翼的・唯物論的思想の持ち主が多いことが挙げられる。基本的に左翼的な思想の持ち主は統一教会が嫌いである。戦後、マスコミの左翼思想をけん引してきたのはいわゆる「全共闘世代」であった。若い人たちのために解説すれば、この言葉は1965年から1972年までの、全共闘運動・安保闘争とベトナム戦争の時期に大学時代を送った世代を指す。この世代の者は15%が学生運動に関わっていたと言われており、学内ではこうした左翼学生は原理研究会と対立していた。彼らは1941~49年ごろに生まれた世代であり、統一教会に対するマスコミのバッシングが激しく行われた1980年代後半から1990年代前半には、ちょうど40代~50代で、報道の現場で意思決定権を持っていた。つまり、左翼活動の夢破れて、マスコミの世界に入って行った者たちが統一教会報道の論調を決定したのである。したがって、日本のマスコミによる統一教会バッシングの背後には、イデオロギー的な理由があるのである。

しかし、日本においては左翼的なマスコミばかりでなく、右寄りのマスコミも統一教会に対して批判的である。右寄りのマスコミが統一教会を嫌う理由は、民族主義がその背景となっている。統一教会は韓国発祥の宗教なので、韓国に対する偏見がそのまま統一教会に対する偏見に直結するのだ。彼らには「統一教会は韓国の手先」と見えるのである。また、統一教会は国家民族の壁を超えた世界主義を標榜しているので、日本民族の伝統を第一と考える彼らとは、左翼とは別の意味で思想的に相容れないのである。

第二に、マスコミ人は世俗的であり、宗教の価値や信仰者の内面を理解しようとする姿勢がないことが挙げられる。これは統一教会のみならず、新宗教一般に対する批判的な報道にも当てはまる理由である。彼らは神や霊界の存在を認めないので、高額の開運商品を買う人は騙されたか脅されたに違いないと認識する。彼らは信仰心の価値を認めないので、宗教は弱い人が依存する組織であり、宗教を信じている人はマインド・コントロールされているという認識に立って報道する。また、宗教を理由に親子が対立した場合には、親の言うことを聞かずに宗教に走った子供が悪いという立場を取る。さらに、一般社会からは奇異に見える現象であっても、そこに宗教的意義があるという見方ができない。統一教会の合同結婚式に関する報道姿勢などは、その最たるものである。

マスコミの体質は基本的に商業主義とのぞき趣味である。週刊誌のセンセーショナリズムによる売上第一主義や、テレビ局の視聴率至上主義などはその一例である。彼らは事実や真実を伝えることよりも、いかに売り上げや視聴率を伸ばすかに関心があるので、どうしても興味本位の面白おかしい報道になる。誇張、歪曲、捏造も平気で行う。高邁な理想を説く宗教をこき下ろし、スキャンダルを暴露することに快感を覚えるのがマスコミの体質なのである。こうしたマスコミの問題点が、統一教会報道には凝縮されている。

櫻井氏は、「社会の公器であるマスコミが、反社会的な団体である統一教会を批判する」という構図で日本における統一教会報道を分析しているが、これはマスコミの側の思想、好き嫌い、体質といった重要な要素を一切考慮していないという点において、片手落ちの分析であると言えよう。

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日本仏教史と再臨摂理への準備シリーズ08


 平安時代中期になりますと、日本の仏教にある大きな変化が起こってきます。「末法思想」と呼ばれるものが生まれるようになり、「浄土信仰」というものが出現します。平安時代中期になりますと、僧の世俗化が進み、天変地異も頻発したことから、人々は「末法の世」であることを強く意識するようになりました。この「末法の世」とはどういう考え方であるかというと、お釈迦様が亡くなってから2000年経つと「末法の世」に入ると信じられていたわけです。当時の計算では永承7年(西暦1052年)に末法の第一年を迎えるんだと信じられていたわけです。この計算法で行くとお釈迦様が紀元前9世紀くらいの人物になってしまい、いまの学問的定説とはだいぶ違うのですが、当時の計算法ではこのように考えられていたので、1052年が近づいてくるとだんだん末法の雰囲気が当時の日本に満ちていったわけです。

 938年頃には空也という人が都の市中で念仏信仰を広めました。985年には源信が『往生要集』を著しました。このようにして、浄土信仰と末法思想が民衆の間に広まっていくことになります。では浄土信仰とは一体何かといえば、念仏を唱えることによって、阿弥陀如来の極楽浄土に往生できるという信仰のことです。もともとあった仏教とどこが違うかというと、そもそも仏教は修行をして悟りを開くという自力型の宗教でした。ところが末法になりますと、まともに修行ができる人はいないし、僧も堕落しているという状況ですから、ましてや一般大衆は絶望的だということで、ここから救われるのに、自力で救われるということはほぼ考えられなかったわけです。そこで、なにか簡単な行をする、たとえば念仏を唱えるというような一つの行をすることによって、他力で救済されるという考え方が受け入れられるようになったわけです。つまり、このときから個人の救済を説く民衆の宗教に仏教が変わっていったということです。

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 平安中期に現れた有名なお坊さんに源信という人がいます。この人は比叡山で天台教学を学んだ人ですが、高位の僧になるよりも、仏の教えを学びたいと遁世しました。彼は山を下りて、念仏と写経の日々を送り、43歳で『往生要集(おうじょうようしゅう)』という本を書きます。この『往生要集』とは何であるかというと、仏教にはたくさん経典がありますが、160余りの経典から極楽浄土について書いてあるところを抜き出し、さらに地獄について書いてあるところを抜き出したわけです。それを分かりやすくまとめて、極楽浄土はこんなところですよ、地獄はこんなところですよ、と教えたわけです。『往生要集』が有名になったのは、その冒頭に生々しい地獄の様子が書いてあったからなんですね。そしてこの地獄を逃れるためには、念仏しかないと勧めました。こうして彼は浄土教が発展する基礎を築きました。それが後に法然や親鸞に影響を与えました。

 平安末期から鎌倉時代にかけて現れた「鎌倉新仏教」と呼ばれる一連の現象の背景と特徴をまとめると以下のようになります。11世紀中頃から、政治形態が変化し、武士政権へと移行して行きます。その中で権力闘争が激化し、殺し合いがたくさん起こったので、人々の不安が増したという社会背景がありました。そうした中で、それまでの官僧を中心とした仏教から脱却し、国の護持から民衆の救済に仏教の目的が移っていったのです。そして比叡山で仏教を学ぶんだものの、その比叡山が世俗化して堕落していたという現実に幻滅して、「遁世僧」となった者たちを中心として、日本人を宗祖とする新しい仏教が出現したわけです。それらを一般に「鎌倉新仏教」と呼んでいるわけです。

 鎌倉新仏教には大きく分けて三つの流れがあり、浄土系と日蓮系と禅系に分けられますが、どれも非常にシンプルになっていくという特徴があります。これを「易行の専修」といいます。何か一つのことに集中すれば救われるんだ、ということです。ですから多くの戒を守り厳しい修行をして悟りを開くというような複雑なことは言わないで、「これさえやれば大丈夫!」ということを多くの人が主張するようになるわけです。浄土系は何と言ったかといえば、とにかく「南無阿弥陀仏の念仏を唱えよ!」と言ったわけです。念仏に集中したわけですね。日連系の場合には、「南無妙法蓮華経のお題目を唱えよ!」と言ったわけです。「南無妙法蓮華経」は、念仏ではなく「お題目」というんですね。とにかくお題目を唱えれば救われると言いました。禅宗の場合には、ただひたすら座って、「座禅に専念せよ!」と言いました。

 このように、従来の貴族や僧侶にのみ可能な複雑な理論や修行が廃されて、念仏や唱題のように易しい行に専念することで十分とされ、それによって仏教が民衆のものとなっていくわけです。すなわち、民衆を相手にしているので、救いの方法が単純化され、シンプルになっていったというのが鎌倉新仏教の特徴ということになります。

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 さて、法然と浄土宗について簡単にまとめます。法然(1133~1212)は平安末期から鎌倉時代にかけて生きた人で、例によって、比叡山で天台教学を学んだのでありますが、『観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうしょ)』を読んで、念仏こそ救いの原点であると確信するようになり、「専修念仏」という考えに行き着きます。そこで43歳で比叡山を下山して、浄土宗を開きました。1198年『選択本願念仏集』を著して、念仏を体系化しました。ところが、この新しい仏教は、ちょうどプロテスタントがカトリックから迫害されたのと同じように、権威である比叡山から迫害されるわけですね。法然が74歳のとき、既に彼の晩年でありましたが、比叡山から弾圧を受けて、朝廷によって讃岐の国に追放されてしまいました。このように、法然の浄土宗は大変大きな迫害を受けます。

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 この法然の弟子が親鸞(1173~1262)という人です。親鸞は法然よりも30歳年下です。ということは、法然は晩年になって迫害を受けるわけでありますが、親鸞自身が迫害を受けたときはまだ若かったわけです。この人はもともと比叡山で20年間修業した人だったんですが、法然の「専修念仏」の教えに感銘を受けて弟子入りしたところ、念仏に対する弾圧に巻き込まれ、越後の国(現在の新潟)に流され、強制的に還俗させられるわけです。「還俗」というのは僧侶を辞めて一般の衆生に戻るということです。彼は結婚して妻子を持つようになります。

 僧侶でありながら妻子を持つということは、当時はものすごいスキャンダルなんですね。言ってみれば「堕落した」という感じです。その体験、すなわち自分は僧侶でありながら妻を持ってしまった、そして子供をつくってしまったということで、僧でもなければ俗人でもない、「非僧非俗」という矛盾に満ちた生涯を迫害の中で送っていくわけです。そうすると、修行をすることによって自力で悟るという考え方にはならないで、こんなに罪深い自分でも救ってくださる阿弥陀如来様の大きな恩恵を強調する、「他力信仰」に傾いていくわけです。「絶対他力」って聞いたことありますか? この「絶対他力」というのは、迫害によって強制的に還俗させられて、僧侶でありながら結婚してしまったという、いわば親鸞の罪意識のようなものから芽生えてきた信仰であると言えます。すなわち、他力と信を重んずる信仰ということになります。親鸞の話を聞いていると、キリスト教でいえばアウグスティヌスのような感じがします。

 浄土真宗の特徴は、「絶対他力」にあります。この講義の初めに私は、仏教は自力型の宗教であると言いました。それが1000年をかけて日本にやってきて、紆余曲折を経ながら、最後は「絶対他力」まで行ってしまうのでありますから、宗教とはどれほど変わるものなのかという良い例だと思います。

 親鸞は、他の宗派の開祖たちと違い、救われるべき衆生と同じ俗世間に身を置き、凡夫の苦しみを味わいました。そこから「絶対他力」の信仰が生まれたわけです。阿弥陀如来の立てた本願により、阿弥陀如来を信じたその瞬間に極楽往生が決定する、という信仰です。親鸞といえば『歎異抄』が有名ですが、これは親鸞自身の著作ではありません。彼が90歳で没した後に、弟子である唯円によってまとめられた法語集です。親鸞の人間的魅力が現れている本です。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という言葉は非常に有名です。これを悪人正機説といいます。阿弥陀仏が衆生を救おうとする願いは、善人でさえ成仏させるのだから、他力本願を信じる悪人は当然成仏できるという意味です。善人は自力で悟ろうとしますが、悪人は他力に頼るしかないので、もっと成仏できるのだということです。

 このように仏教は浄土真宗に至って、修行型・自力型の宗教から救済型・他力型の宗教に完全に変容してしまいました。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』48


櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第48回目である。

「第Ⅰ部 統一教会の宣教戦略 第5章 日本と韓国における統一教会報道」の続き

この章は日本の朝日新聞と韓国の朝鮮日報における統一教会関連の記事を検索することを通して、統一教会が両国のマスメディアによってどのように報道されてきたかを分析することを目的としている。先回までは、1980年代後半に朝日新聞で頻繁に取り上げられるようになった「霊感商法」問題の背後にあった政治的攻防を解説したが、今回は第4期と区分される「1990年代」を扱う。櫻井氏はこの時代を「教勢の停滞・カルト問題化」と特徴づけている。

1990年代前半の朝鮮日報の記事は、文鮮明師の古希記念式(1990年2月1日)、モスクワでの世界言論人会議とゴルバチョフ大統領との会談(1990年4月11日)、文鮮明師の北朝鮮入りと金日成主席との会談(1991年12月6日)のニュース、さらには金日成主席が死去した際に朴普煕・韓国世界日報社長が弔問のために北朝鮮入り(1994年7月13日)したことなどを取り上げている。教会員の立場からは、摂理史の一幕を一般の新聞が報道しているといった感じだ。

文鮮明師とゴルバチョフ大統領の会談は、実は韓国のマスコミでは高く評価されていた。韓国の時事問題専門週刊誌「時事ジャーナル」は4月29日号でこの会談について、「ソ連の最高指導者が韓ソ修好や韓半島の安全保障に関して、このように明確にその政策を明らかにしたのは前例がない」と絶賛した。同誌は、文鮮明師の世界言論人会議を通してのソ連へのアプローチは、金永三氏(後の大統領)、朴哲彦氏(ハンガリーなどの東欧諸国との外交樹立に尽力した外交密使)よりも一次元高い成果を上げたと評価した。ゴルバチョフ大統領が直接、韓ソ修好の意向を表明したのはこの時が初めてだったからである。(朴普煕『証言』下巻、p.260)その後まもなく、1990年9月30日に、ソ連と韓国の国交が樹立されたのは周知の通りである。

文鮮明師と金日成主席との会談は、さらに韓国社会の関心が高かったと思われる。朝日新聞では、文鮮明師の北朝鮮入りを扱った記事は5件に過ぎなかったようだが、朝鮮日報では北朝鮮訪問の事実だけではなく、それをめぐる韓国社会の反応を連日にわたって報じたことによって、記事が一気に増えたとされている。やはり韓国人にとって文鮮明師の北朝鮮訪問という事件は、自国民が敵対関係にある同一民族の国を訪問したという性質上、日本人よりもはるかに関心のある出来事であったのだろう。

一方、この時代の朝日新聞は、元信者らが統一教会を相手取って起こした裁判の記事や、文鮮明師が日本に入国できたのは金丸信氏が法務省に圧力をかけたからではないかという一連の記事が見られる。この新聞記事は、1992年3月26日から4月1日にかけて、文鮮明師が約13年半ぶりに来日したことに関連している。それ以前の来日は1978年9月であり、その後も聖和されるまで来日は実現しなかったので、結果的にこれが最後の来日となった。文鮮明師はアメリカで禁固刑1年6カ月の有罪判決(ダンベリー刑務所に服役)を受けていたため、入管法の規定により、通常は日本に入国できないことになっていた。このときの来日は、「北東アジアの平和を考える国会議員の会」の招聘があり、北朝鮮を訪問した文師と日本の国会議員が北東アジアの平和について話し合うことは公益性があると法務省が認めたので入国が許可されたということであって、日本の法的手続きをきちんと踏んでいるため、違法行為でも超法規的措置でもない。それを反対派が騒ぎ立て、朝日新聞が報道したというだけのことである。文師が入国目的の通りに、実際に国会議員と懇談したことは『日本統一運動史』(光言社)の中に以下のように記録されていることからも明らかである。

「1992年3月31日、真の御父様は、閣僚経験者を含む31人の国会議員が参加して行われた『北東アジアの平和を考える国会議員の会』主催の歓迎晩餐会に招かれ、約1時間の講演をされました。講演内容は、『共産主義崩壊の一方で民主主義世界でも問題が山積し、収拾のつかない状況になっている。この問題を解決するには神の存在をはっきり知らなければならない』と強調され、『世界平和のためには統一が必要であり、統一は神を中心とした真の愛によって成し遂げられる』と語られました。」(『日本統一運動史』p.457)

1992年という年は、マスコミによる統一教会報道という観点からすれば特筆すべき年であった。この年の8月に行われた3万双の合同結婚式に、新体操のオリンピック選手だった山崎浩子さんや女優の桜田淳子さんが参加することにより、統一教会の祝福式がいわゆる芸能人ネタとして大々的に報道されるようになったためである。週刊誌のスクープで火がついて、連日のようにテレビのワイドショーで統一教会の問題が扱われるようになった。これは新聞報道よりもテレビ報道がメインであったため、朝日新聞を検索しただけでは到底このころの過熱ぶりは理解できない。

これが結果的に統一教会の宣伝になることを危惧したのか、反対派はテレビを使って一気に巻き返しに入った。反対派は拉致監禁によって教会を離れた元教会員をテレビに登場させ、「自分は霊感商法をこんなふうにやってました」と証言させる反対キャンペーンが繰り広げられたのである。この1992年の3万双のころが、日本における反統一教会報道のピークであり、ワイドショーがほぼこの話題でジャックされて、日本中で統一教会を知らない人がいないというくらいに有名になった。この年に山崎浩子さんや桜田淳子さんの合同結婚式参加を巡ってマスコミから統一教会が大々的に打たれる前は、日本国民の中で「統一教会って知ってますか?」と言われて「知らない」と答える人は結構な割合で存在したはずである。しかしこのときには、統一教会について聞いたことがないという人は、テレビを見たことがない人ではないかというくらいに有名になった。まさに1992年はマスコミによる統一教会バッシングのピークだったといえる。そして1993年には、山崎浩子さんの脱会記者会見(4月21日)の様子も報じられている。朝日新聞は、そうした過熱報道ぶりを間接的に記事にしているのであって、実際に人々に与えたインパクトはテレビのワイドショーの方がはるかに大きかったと言えるであろう。

1990年代後半の記事は両国ともいささか断片的である。朝日新聞ではブッシュ元大統領が世界平和女性連合の行事に参加したこと(1995年9月14日、東京ドーム)に対する批判的な記事、日本ハムの上田監督の娘が統一教会に入ったことを理由に、同監督が退団したこと(1996年9月)、さらには統一教会を被告とする裁判の記事などが並んでいる。一方、朝鮮日報ではフィリピン移民局が合同結婚式に参加する女性の出国を禁止したことに対しての統一教会の抗議についての記事、リトルエンジェルスの平壌公演(1998年5月4日)などが報じられている。リトルエンジェルスの平壌公演は、文鮮明師の訪朝と同じく、南北関係に関わる問題だったので、韓国の国民の関心は高かったのではないかと思われる。こうして新聞報道の見出しを並べてみると、あたかも摂理史の出来事が走馬灯のように映し出されていくのを見るようで、ある種の感慨を禁じ得ない。

櫻井氏は、朝日新聞が統一教会を問題視する立場から扱っているのに対して、朝鮮日報を見る限りは、「韓国では統一教会が問題のある宗教団体として記事になっている様子はない」(p.187)と分析し、両国の認識の違いを強調している。こうした報道スタンスの差異の原因は、一言でいえば、両国のマスコミの関心のあり方が違うということに尽きる。これは統一教会問題に限ったことではなく、慰安婦問題、竹島問題、北朝鮮問題のどれをとっても日本と韓国では報道のあり方が異なることはよく知られている。統一教会は韓国にとっては「自国の宗教」であり、日本にとっては「他国の宗教」である。したがって、韓国の新聞がそれを客観的あるいはやや好意的に扱い、日本の新聞が批判的に扱うのはある意味で当然と言えよう。

さて、5つ目の時代区分である「2000以降」の記述も、基調は同じであって、記事の内容は断片的な内容が雑多に並んでいる感じを否めない。この時代は統一教会を被告とする民事訴訟の判決が多数出た時代なので、朝日新聞ではそうした判決についての報道が多いというのが特徴の一つであろう。

最後に櫻井氏は、朝日新聞と朝鮮日報における統一教会関連の記事を大まかに整理して分析を試みているが、これについては次回扱うことにする。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

日本仏教史と再臨摂理への準備シリーズ07


 さて、日本における仏教受容の一つの特徴として、「神仏習合」があります。これは、もともとあった日本の神道と、外国からやってきた仏教が混ざり合っていくことです。仏教が日本に受容される過程において、土着の信仰である神道としだいに融合していき、神と仏を一緒に祀るようになりました。これが日本では古来からずーっとあるんですね。一神教の人からすればとても信じられないことなんでありますが、「神仏習合」が日本の伝統です。

 8世紀ごろから、神社に付属して「神宮寺」という仏教寺院が建てられるようになりました。一つの敷地の中に、神社とお寺が両方あるということです。何の違和感もなくそういうことをやっていたわけです。平安時代中期になると、仏と神の関係に関する新しい解釈が生まれて、「日本古来の神々は、仏が衆生救済のために姿を変えて顕われた存在である」という考え方が一般的になってきました。これを「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」といいます。「本地」とは本体あるいは原型という意味で、「垂迹」とは化身あるいは変形という意味です。すなわち、「本来は仏であったものが、日本人の前では神に形を変えて現れて、仏教が伝来する前から信仰されていたんだ。したがって、仏教と神道は根っこは同じなんだ。」という理論構築をしたということです。

 これにより、日本の神道と仏教はずーっと共存体制のまま、江戸時代が終わるまで来るんですね。ところが明治時代になると急に、「天皇陛下の宗教は神道である、仏教と混ざってはいけない!」ということで、いきなり「神仏分離令」が出されるようになります。これは神道と仏教の人為的な分離です。ですから、日本の伝統というのは結構、宗教を人為的にいじる伝統だったということになります。

日本仏教史と再臨摂理への準備挿入PPT07-1

 さて、このように中国ならびに朝鮮半島から仏教を学んだ日本でありましたが、平安時代になると、日本独自の仏教の展開というものが現れるようになります。平安時代の代表的な僧侶といえば、平安初期に現れた二人の天才僧侶として、最澄(767~822)と空海(774~835)が有名です。最澄と空海は、実は同時代の人物です。最澄の方が7歳ほど年上です。実は遣唐使と共に唐に渡ったときも、二人は同じ船に乗っていました。それぐらいに近い関係だったわけです。私が復帰されたのが1983年なんですが、1984年に「空海」という映画が公開されました。当時、私は関心があって見に行きました。空海は北大路欣也が演じていて、最澄は加藤剛が演じていました。

映画「空海」

映画「空海」

 さて、同じ遣唐使船で唐に渡ったとき、最澄は空海よりも7歳年上であったために、既に空海よりも僧としての身分が高かったんですね。そのため最澄は唐に短期間しか滞在することができず、当時求められていた密教の経典や秘儀を完全に習得して日本に持ち帰る時間がなかったんですね。一方で空海は当時は無名の僧であったため、無期滞在ということで好きなだけ唐にいてよいということになったわけです。そこで彼は留学僧として長期滞在し、本格的な密教の経典と秘儀を会得して帰国したわけです。当時、日本で求められていたのは、密教の秘伝を持って帰ることでした。最澄が中途半端なものを持って帰ってきたのに対して、空海は完全なものを持って帰ってきたので、ここで空海の株が上がってしまうわけであります。そこで最澄は、年も身分も下である空海のもとに行って頭を下げて教えを乞い、密教の灌頂を受けるわけでありますが、やがて二人は袂を分かっていくことになります。後に最澄が開いたのが天台宗となり、空海が開いたのが真言宗となり、平安初期における日本の仏教の二つの大きな柱となるわけです。

 さて、ここで最澄の歩みについてまとめておきましょう。彼は14歳で出家し、19歳で東大寺で受戒し、本格的な僧となります。彼は官僧として南都六宗の教義を学ぶのでありますが、それに満足できず、比叡山にこもるようになります。いまでこそ比叡山には延暦寺という立派なお寺がありますが、当時は山籠もりするところだったわけです。804年、36歳のときにに遣唐使と共に唐に渡り、天台山で天台教学を学び、大乗仏教の戒律である菩薩戒を受けます。その後、不完全ながら密教を修め、約1年間留学した後に帰国します。帰国後、天台宗を開宗し、僧侶に菩薩戒を授ける大乗戒壇を設けるために朝廷に働きかけるわけであります。

 当時はまだ、奈良の仏教が権威でした。ですから、最澄は奈良の仏教である南都の諸宗と対立して激しく論争しました。奈良時代に鑑真がもたらした戒律は上座部仏教のものだったので、細かくて厳しく、一般大衆には到底守れないものでした。そこで最澄は、より簡略化された菩薩戒を授けることを主張したわけです。その主張は最澄の没後まもなく認められ、比叡山に戒壇が設立されます。こうして天台宗の伝統が出発します。

 さて、天台宗とはどういう宗派であるかといえば、中国にもともとあった天台教学を基に、密教の要素、禅の要素、および戒を融合した、とても総合的な仏教であると言えます。主な経典としては、「法華経」(妙法蓮華経)があります。本山は大変有名な比叡山延暦寺で、滋賀県にあります。比叡山延暦寺は長らく日本の仏教界における最高権威として君臨し続け、後に法然、親鸞、道元などの「新仏教」の開祖は、みな最初はこの比叡山で学びました。その意味で、比叡山延暦寺と天台宗は日本仏教の母胎であり、ゆりかごのような存在であるということになります。

 天台宗の教えは、誰もが仏になれる種を持っているという「悉有仏性」(しつうぶっしょう)を基本としています。さて、やがて比叡山は南都(奈良)と並ぶ仏教勢力となり、平安時代に発展して大きな権威を持つようになります。権威を持つと大体どうなるかというと、次第に他宗を弾圧したり、僧兵を持つ武力勢力になったりするわけです。ですから天台宗のイメージというのは、日本仏教におけるカトリック教会みたいな感じですね。最も伝統と権威があって、そこからいろんな宗派が分派して出てくるということです。

 次に空海の歩みについてまとめてみましょう。実は、空海の幼いころのことはあまりよく分かっておりません。讃岐国(香川県)の豪族の家に生まれ、若き日は私度僧として、すなわち官僧ではなく、衆生の僧として修行を積んだと思われます。804年、31歳のときに唐に渡り、3か月で梵語を修め、密教の第7祖・恵果(けいか)の下で学び、密教のすべてを伝授されました。そして、恵果から譲られた多くの経典、仏像、仏画、法具のすべてを船に積み込んで帰国しました。帰国後、密教を体系化し、真言宗を開きました。816年には、高野山の金剛峰寺を開きます。ここを本山として日本の真言宗が出発するわけです。823年には、嵯峨天皇より京都に東寺を賜わり、真言密教の拠点としました。

 空海は仏教だけではなくて、唐の最新技術を駆使した土木事業まで学んで来るんですね。それで多くの土木工事を指揮することを通して社会貢献をしました。日本最大の溜池である満濃池の改修工事も、空海が持って帰った技術によってなされました。真言宗では、弘法大師・空海は死んだのではなくて、62歳のときに高野山で「入定(にゅうじょう)」したと考えられています。すなわち、永遠の禅定(瞑想)を奥の院でやっているのだということです。

日本仏教史と再臨摂理への準備挿入PPT07-2

 真言宗とはどういう宗教かというと、本尊は大日如来です。これは宇宙そのもの、万物の源であると信じられています。主な経典は、大日経と金剛頂経です。教えの中心は「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」です。これは、人間が現世においてそのまま仏になれるんだという教えです。真言宗の実践として非常に有名なのが護摩供養です。「護摩(ごま)」というのは、「焚く」という意味の「ホーマ」の表音であって、日本語では「ごま」と言います。この写真にありますように、護摩を焚いて祈祷することによって願いをかなえるのが、密教の代表的な祈祷法であると言えます。

 このように、天台宗と真言宗が平安初期における日本の仏教の大きな柱として立てられました。

カテゴリー: 日本仏教史と再臨摂理への準備シリーズ

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』47


櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第47回目である。

「第Ⅰ部 統一教会の宣教戦略 第5章 日本と韓国における統一教会報道」の続き

この章は日本の朝日新聞と韓国の朝鮮日報における統一教会関連の記事を検索することを通して、統一教会が両国のマスメディアによってどのように報道されてきたかを分析することを目的としている。先回は、1980年代後半に朝日新聞で頻繁に取り上げられるようになった「霊感商法」問題の背後に、「スパイ防止法」を巡る政治的攻防があったことを解説した。すなわち、「霊感商法」は単なる社会問題ではなく、スパイ防止法制定運動の支援組織である国際勝共連合と統一教会の壊滅を目指して、同法案に反対する勢力がその資金源とみなした「霊感商法」を叩いたという、政治的構造があったということである。今回は、この政治的攻防の背景をさらに掘り下げて論じることにする。

もともと、日本共産党と勝共連合は不倶戴天の敵であった。韓国と日本に国際勝共連合が創設されたのは1968年のことであるが、日本の勝共連合は早くも1970年に武道館で「世界反共連盟(WACL)大会を開催するなど、目覚ましい活動を展開するようになる。その後も街頭で「勝共理論」の講義を継続的に行うなど、勝共連合は共産主義との「思想戦」を展開していく。そして1972年には共産党の宮本顕治委員長(当時)に対して「公開質問状」を送付し、あるテレビ局で「日本共産党」対「国際勝共連合」の公開理論戦を提案した。しかしこの公開理論戦は、共産党が拒否することによって実現しなかった。勝共連合は「右翼団体」とは異なり、共産主義理論を理路整然と批判し、代案まで示すので、理論戦の相手としては手強いと目されたということであろう。

WACL大会

WACL大会

街頭講義

街頭講義

公開討論

公開討論

1978年には、京都で28年間革新府政を続けた蜷川虎三府知事が引退し、その後任を決める京都府知事選挙で、国際勝共連合が蜷川府政を徹底的に批判し、後継の杉村敏正候補を落選させる運動を行った結果として、自民推薦の林田悠紀夫氏が当選し、革新府政が終了するという「事件」が起きた。これを受けて日本共産党中央委員会は、「勝共連合退治の先頭に立つことは、後世の歴史に記録される聖なる闘いである」(「赤旗」1978年6月8日)というコメントを残している。

レフチェンコ

レフチェンコ

一方で、社会党と勝共連合の対立関係を決定的にしたのが、「レフチェンコ事件」である。スタニスラフ・レフチェンコは元KGB少佐で、対日スパイ工作を行っていた。彼は1979年に米国に亡命し、米国の下院情報特別委員会で自らのスパイ活動に関して証言している。彼はこの証言の中で、「日本人の大半がソ連の対日諜報謀略工作の実態や目的について驚くほど無頓着。KGBによる対日工作は執拗かつ周到に行われている。日本には防諜法も国家機密保護法もないため、政府が外国諜報機関の活動に効果的に対処できず、日本人協力者に対して打つ手も限られている」と述べただけでなく、ソ連のスパイとして活動した日本人26名の実名とコードネームを公表したのである。その中には、日本社会党の勝間田清一(元委員長)、伊藤茂(政策審議会長)、佐藤保(社会党左派リーダー)など、日本社会党の大物代議士も含まれていたため、こうした議員たちの政治生命を脅かす内容があった。勝共連合はこのレフチェンコ証言を大きく取り上げて、スパイ防止法の制定を訴えた。

これに対し、1983年5月、社会党の機関誌である「社会新報」に、「レフチェンコ事件は国際勝共連合とCIAが仕組んだ謀略である」と主張する記事が掲載された。これが全くの事実無根であったため、勝共連合は社会党と党機関紙編集長を訴える裁判を起こした。このとき、社会党の代理人を務めた人物が、山口広弁護士であり、彼は後に「被害弁連」を立ち上げるときの中心人物となっている。

この裁判は、1990年11月7日に東京地裁が下した一審判決では勝共連合が勝訴しており、社会新報への謝罪広告掲載と100万円の支払いを命ずる判決が下された。最終的には1994年4月26日、東京高等裁判所で、社会党が国際勝共連合に解決金200万円を支払うことで和解が成立している。勝共連合側の「勝利的和解」に終わったわけだが、こうした闘争の延長として、「霊感商法」反対キャンペーンが「左翼系弁護士」によって行われるようになったのである。「被害弁連」は、中心人物である山口広弁護士が社会党の代理人であったことを筆頭に、呼びかけ人34名中19名が青年法律家協会(日本共産党系)あるいは、社会文化法律センター(旧社会党系)の弁護士であり、「左翼弁護士」を中心とする集まりであった。

要するに、「レフチェンコ事件」により危機感を募らせた左翼勢力が、「スパイ防止法制定運動」の支援組織である国際勝共連合と統一教会の壊滅を目指して「霊感商法」反対キャンペーンを展開したのであり、それは山口広という中心的な弁護士によってつながっているのである。これは政治的動機に基いたキャンペーンであったため、「霊感商法」の被害者は無理にでも作り出す必要があった。彼らはマスコミを通して不安を煽り、被害者を「発掘」し、ときには感謝していた顧客の不安を煽りたてて被害者を「作り出す」ことまでした。「スパイ防止法」に反対する朝日新聞が、こうした「被害弁連」の活動を積極的に取りあげて報道したのは当然である。

マスコミによる統一教会批判で、朝日新聞のほかに特筆すべきものは、ジャーナリストの有田芳生氏による反統一教会キャンペーンである。実は、彼も出自は共産党である。まず彼の父親(有田光雄氏)が共産党京都府委員会副委員長を務めた経歴があり、参院選にも比例で出馬している。いわゆる共産党の「二世」だった有田芳生氏だが、彼自身も学生時代、共産党の学生組織・民主青年同盟(民青)に所属し、その後共産党に入党している。彼は「統一教会に詳しいジャーナリスト」として名を売り、1993年3月の山崎浩子さん失踪事件の際には、その脱会計画を決行以前から知っており、失踪中の隔離先、経緯などもすべて把握していた。彼が「統一教会に詳しい」のは、反対運動を行っている牧師、活動家、弁護士たちと手を組み、そこから情報を得ているからである。その有田氏が2010年から参議院議員になっていることは、ご存知の通りである。
「被害弁連」の弁護士たちが次に着手したのは、統一教会に反対する父母たちやキリスト教牧師との連携である。いまや反対父母、反対牧師、左翼弁護士は、統一教会を窮地に追い込み、壊滅させるという共通の目的を中心として、一つとなって働いている。そしてそれはときとして統一教会信者に対する違法な拉致監禁を伴う活動になっている。弁護士が直接的に拉致や監禁に手を貸すわけではないが、そうした違法行為が行われていることを承知の上で、反対運動の一翼を担っているのである。それは以下のようなプロセスを経て実行される。

統一教会信者の親は、反対牧師に報酬を払って指導を仰ぐ。反対牧師は親に具体的な拉致監禁のやり方を指導し、親が子供を監禁したら、監禁現場を訪問するなどして信仰を棄てるよう説得を行う。この説得を受け入れて信仰を棄てれば、親の目的は達成されるが、それで終わりではない。元信者は反対牧師の活動に協力させられ、さらには左翼弁護士を紹介されて、統一教会を相手取った損害賠償請求訴訟を起こすように説得されるのである。こうして起こされた訴訟の代理人を左翼弁護士が務めることにより、彼らは弁護士として報酬を得ることができると同時に、統一教会の社会的評価にダメージを与えることができる。さらに、こうした訴訟の情報はマスコミを通して社会に宣伝され、親の不安を煽るために利用される。その代表格が有田芳生氏や朝日新聞であるというわけだ。いまや統一教会反対運動は、両親、牧師、弁護士、マスコミなどがそれぞれの立場と職能を生かして統一教会を窮地に追い込もうとする、プロ集団の複合体なのである。この反対運動の全体的構造を見ないで、新聞報道だけを見ていてもその意味は分からない。

したがって、「被害弁連」と朝日新聞を独立した存在としてとらえ、正義の味方である弁護士集団が悪の勢力である統一教会に対する反対運動を展開し、それを社会の公器である新聞が客観的に報道するという図式は、その背後にある政治的構造を無視した、極めて表層的なとらえ方であるということが分かるであろう。櫻井氏はそれを知らないはずはないが、敢えて「政治問題」としてとらえることを避け、「社会問題」として位置付けることにより、統一教会が反社会的団体であるが故にマスコミから叩かれたという図式を頑なに守ろうとしているのである。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

日本仏教史と再臨摂理への準備シリーズ06


日本仏教史と再臨摂理への準備挿入PPT06-1

 ようやく、本題である日本までたどり着きました。この年表は「日本仏教の偉人たち」というタイトルが付けられていますが、最澄、空海、法然、親鸞など、お坊さんを中心として仏教の歴史が語られることが多いです。この表の真ん中あたりに多くの名前が登場しますが、実は12世紀から13世紀にかけて非常に有名なお坊さんがたくさん出ております。これは日本でいうと平安時代の末期から鎌倉時代に該当する時代ですが、皆さんは「鎌倉新仏教」という言葉を聞いたことがあるでしょうか? この時代が、実は日本の仏教では最も創造的な時代であり、新しい宗派が生まれたり、非常に高名なお坊さんが現れたりしています。では、江戸時代以降はどうかというと、新しい宗派はほとんど生まれておりません。

日本仏教史と再臨摂理への準備挿入PPT06-2

 お坊さんを中心として仏教を語るやり方のほかに、仏教を保護した政治家を中心として語るという方法もあります。日本の仏教における最大の功労者と言われるのは、やっぱり聖徳太子です。飛鳥時代に日本に本格的に仏教を取り入れて、日本仏教の基礎を作った人として知られていて、仏教徒であれば誰でも聖徳太子を敬います。次に登場するのが聖武(しょうむ)天皇で、東大寺と奈良の大仏を作った方です。それから、藤原道長という人は、平安時代に仏教をあつく保護したことで有名です。さらに時代が下れば、徳川家康は本末制度や檀家制度を作ることにより、仏教によって国を統治した人であります。いま日本に存在している仏教の形を最終的に作ったのは、徳川家康ということになります。

日本仏教史と再臨摂理への準備挿入PPT06-3

 さて、日本仏教の始まりなんでありますが、日本への仏教公伝は538年になります。「公伝」というのは、公式ルートで伝わったということです。私的にはそれ以前に渡来人などと共に伝わっていたということですね。仏教は朝鮮半島から伝わってきました。百済の聖明王が、仏像一体と仏教の経典などを日本の欽明天皇に送ったわけです。欽明天皇としては、仏像と経典を受け取っちゃったんだけど、どうしようかということで、周りにいた貴族たちに相談したんですね。すると、その貴族たちの意見が二つに分かれたわけです。一方を「崇仏派」といって、大陸や朝鮮半島でも仏教を敬っているのだから、日本でも仏を祀ろうと主張した人々です。この勢力は、蘇我氏を中心としていました。それに対抗して仏を祀ることに反対する「廃仏派」と呼ばれる勢力があり、物部氏を中心としていました。このように仏教を受け入れるか受け入れないかで対立したわけです。

 蘇我氏というのは、もともと渡来系の氏族でありますから、仏教になじみがあったわけです。それに対して、物部氏はもともと日本古来の祭祀を行っていたので、外からやって来た神を拝むわけにはいかない、という感覚で反対したわけです。当時の日本人の感覚では、仏は海の向こうからやって来た神であるととらえられました。このような神はマレビト神(客神)と呼ばれ、突然やって来た客神は得体のしれない存在であり、恐ろしい存在と思われたわけです。このように、しばらく崇仏派と廃仏派が争ったわけでありますが、最終的には仏教を敬う方が勝っていくことになります。こうして仏教を柱とした国づくりが始まっていくわけです。

日本仏教史と再臨摂理への準備挿入PPT06-4

 587年に蘇我氏が物部氏を滅ぼして、大和朝廷は本格的に仏教を受け入れるようになります。外来宗教である仏教が日本古来の宗教よりもはるかに高度で強力な宗教であることが分かると、豪族ごとの勢力に分裂していた当時の日本を統一するための力として、この仏教を用いようと試みるようになったわけです。大陸には最新の文化があり、律令制度があったわけですが、そられと一緒に仏教を統一国家のイデオロギーとして受け入れて行ったわけです。ですから、日本が最初に仏教を受け入れていった動機というのは、極めて国家次元の動機であって、国を統一するための新しい理念として受け入れていったわけです。このようにして、仏教を中心とした中央集権型の国家建設に着手しました。その主導的な役割を果たしたのが聖徳太子です。

 聖徳太子は、推古天皇の摂政として蘇我氏とともに活躍した人物です。彼は、朝鮮半島から高僧を招いたり、遣隋使で留学僧を派遣したりして、仏教文化を日本に定着させようとしました。聖徳太子自身が非常に仏教を深く学び、仏教経典の解釈書を書いたり、寺の建立を積極的に行いました。法隆寺や四天王寺は有名ですね。また、有名な「十七条憲法」の背後には仏教思想があると言われています。

日本仏教史と再臨摂理への準備挿入PPT06-5

 このように、国の柱として仏教が取り入れられて、やがて平城遷都ということになりますと、仏教の中心的な役割は「鎮護国家」、すなわち国を守り安定させるための宗教という意味合いが強くなっていきます。701年の僧尼令により、僧侶は鎮護国家を第一とする官僧になります。「官僧」とは、政府に雇われた僧であって、最初のお坊さんは国家公務員だったんですね。つまり、国の安全を守るためにお祈りすることが仕事だったんです。当時、国家から正式に認められた「南都六宗」が日本最初の宗派として存在していました。これはいまのような信仰集団ではなくて、仏教の理論を研究するグループであったようです。この人たちの役割は、遣唐使などによってもたらされた経典を読み解き研究することであって、いわば大学の教授のグループのようなものであると同時に、国家の安泰を祈る役割も持っていました。華厳宗(けごんしゅう)、律宗(りっしゅう)、法相宗(ほっそうしゅう)、倶舎宗(くしゃしゅう)、三論宗(さんりんしゅう)、成実宗(じょうじつしゅう)が「南都六宗」で、このうちピンクで示した上の三つだけがいまも「奈良系仏教」として存在しています。その中で「律宗」というのが、日本に初めて戒律をもたらした鑑真という人が開いた、日本最古の宗派です。唐招提寺が有名ですね。

 当時の僧侶は「官僧」であり、国家公務員だったわけですから、天皇の許可を得ずに勝手に僧尼になってはいけないことになっていました。でも実際にはそうする人たちがいて、そのような僧を「私度僧(しどそう)」といって、違法な存在として弾圧の対象になりました。このように、奈良期の僧侶は国家公務員としての性格が強かったわけです。

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 こうした奈良仏教のピークが東大寺の大仏建立と戒壇設立になります。これを推し進めたのが聖武天皇です。彼は737年に国分寺と国分尼寺創設の詔を出し、743年に大仏建立の詔を出します。国家の安泰のために大仏を建てるんだと宣言したわけです。しかし、実は当時の財政は逼迫しておりまして、政府の予算だけでは大仏を建てられなかったんですね。そこで活躍したのが行基という人だったんです。この人は日本地図を書いたことでも有名ですが、実は行基は官僧ではなくて私度僧だったんです。彼は民衆にものすごく人気があり、民衆に対する影響力が大きくて、いろんな福祉事業や公共事業をやっていたものですから、仕方なく聖武天皇は私度僧である行基に頼り、大仏を建てるための布施を集めてほしいと頼んだわけです。こうして行基が大仏建立の意義を説いて回り、お金を集めて来たので、結果的に752年に大仏が完成します。残念ながら行基自身は749年に大仏の完成を見ることなく死去してしまいます。

 そして753年には、有名な鑑真というお坊さんが6回目の航海で日本に到着します。彼は日本に戒律をもたらすために何回も渡航を試みては失敗し、盲目になった状態でようやく日本に辿り着くわけです。そして、日本初の正式な戒壇が奈良の東大寺に設けられることになります。なぜ鑑真を日本に呼ぶのが重要だったかというと、仏教の正しい修行はまず「戒」から始まるものであり、仏教の僧侶に正式なった人がその弟子に「この戒めを守りなさい」といって戒律を授けないといけないわけです。その戒律を授ける資格のある人が当時はまだ日本に誰もいなかったわけですから、中国から呼んでこなければならなかったわけです。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』46


櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第46回目である。

「第Ⅰ部 統一教会の宣教戦略 第5章 日本と韓国における統一教会報道」の続き

この章は日本の朝日新聞と韓国の朝鮮日報における統一教会関連の記事を検索することを通して、統一教会が両国のマスメディアによってどのように報道されてきたかを分析することを目的としている。先回は①1950~60年代と、②1970年代の両国における新聞報道を扱ったが、今回から第三の年代区分である1980年代を扱うことにする。櫻井氏はこの年代を「経済活動(霊感商法)の活発化」というタイトルで特徴づけている。この時期は私が原理研究会を通して統一運動に出会った時期であるので、これ以降の日本における報道はリアルタイムで経験したものが多い。

1980年代の前半には、櫻井氏のいう経済活動や「霊感商法」に関する記事はない。この時期の新聞報道では、アメリカで文鮮明師に脱税の容疑がかけられて裁判が始まり、1984年に最高裁が上告を却下して文鮮明師の収監が決定したことが日本でも韓国でも大きく取り上げられている。教会内では「ダンベリー収監」と呼ばれる事件である。米連邦最高裁の上告棄却により文鮮明師の敗訴と収監が決定したのは1984年5月14日であるが、日本では翌日の新聞に「文鮮明師収監へ」という見出しのついた比較的小さな記事が掲載されたのを今でも覚えている。当時の私は信仰歴が1年未満で年齢が19歳であったため、ことの重大さや意味をそれほど深く理解していなかったと思うが、それでも大きなショックと悲しみを感じたものである。文鮮明師のダンベリー収監は、私が大学2年の夏から大学3年の夏にかけて起こったことであるが、当時はその1年を随分と長く感じたものである。文鮮明師は1985年の8月に釈放されたので、それ以降はこの問題が新聞記事になることはなくなった。

代わって1980年代の後半に朝日新聞に取り上げられるようになったのが、国家秘密法(スパイ防止法)に関する問題であり、その中で統一教会が取り上げられているという。1986年になると朝日新聞の記事の「10件中7件が国家秘密法関連の記事であり、その中で統一教会関連団体の国際勝共連合が取り上げられている」(p.179)という。1987年になると朝日新聞の記事が一気に増加し、「2月14日に霊感商法被害救済担当弁護士連絡会(以下、被害弁連)が結成され、霊感商法の実態や被害、提訴を伝える記事が中心となる」(p.180)と櫻井氏は分析する。後ほど詳細に説明するが、新聞記事を時系列的に検索すると、奇しくも国家秘密法の問題と霊感商法の問題が、朝日新聞という媒体を通してリンクしている構図が浮き彫りになるのである。

櫻井氏は、「日韓報道の差として、日本で被害弁連が結成され、続々と明らかになる霊感商法の被害実態や提訴が、『朝鮮日報』で一切報じられていない」とか、「87年の日本における反統一教会の動きをなぜ『朝鮮日報』は一切取り上げていないのだろうか。」(p.180)と書いているように、朝鮮日報の報道姿勢に対して疑問を感じているようである。韓国では反統一教会の立場を明確にしているのはキリスト教であり、そのことが宗教問題として新聞で取り上げられることはあっても、日本のように社会問題として取り上げられることはないという点に、櫻井氏は「日韓の新聞報道の差」を見ているのである。はたしてそうだろうか?

私は「霊感商法」の問題に、櫻井氏の言うような「社会問題」としての側面がまったく無いというつもりはない。商品が高額であったことや、販売方法に疑問を感じた顧客がいて、それがクレームにつながったという部分はたしかに「社会問題」ということができるであろう。しかし、1986年という特定の時期に、朝日新聞という特定の新聞がなぜあれほどまでに大々的に「霊感商法」を叩いたのかという問題は、単に商売のやり方という問題だけでは説明できないのである。朝日新聞が「霊感商法」を叩いたのは、単に社会の公器としての新聞が悪徳商法を叩いたということではなく、政治的な裏があったのである。それがまさに「スパイ防止法」(国家秘密法)を巡る攻防であった。櫻井氏の分析には、こうしたマスコミ報道の背後にある政治的動機という視点が欠落しているのである。

「スパイ防止法」を巡る統一教会と朝日新聞の関係をを説明するには、国際勝共連合の創設にまでさかのぼらなければならない。1960年代から1980年代にかけて、日本に共産主義思想が蔓延し、多くの革新自治体が誕生した。そこで文鮮明師は1968年に国際勝共連合を創設し、共産主義勢力との理論闘争を継続的に行ってきた。統一教会の友好団体である勝共連合は、1970年の世界反共連盟(WACL)大会、そして全国各地で行った公開講義などを通じて社会的影響力を拡大させたため、日本共産党は危機感を募らせるようになる。

勝共運動をさらに躍進させたのは、スパイ防止法制定運動であった。1970年代、世界的な「東西デタント(緊張緩和)」の流れの中で、民主主義勢力と共産主義勢力の攻防は、これまでのあからさまな軍事力による対立から、スパイ工作活動が主流になっていった。北朝鮮による日本人の拉致事件が起きたのもこの頃である。しかし、日本には外国からのスパイを取り締まる法律がなかったので、スパイが自由に活動できる「スパイ天国」の状態にあった。

そこで、勝共連合は1970年代の後半からスパイ防止法制定運動に着手するようになる。1978年には、スパイ防止法制定のための3000万署名運動が開始された。1979年2月には、スパイ防止法制定促進国民会議(議長:宇野精一東大名誉教授)が発足し、同年4月にはスパイ防止法制定促進議員・有識者懇談会(会長:岸信介元首相)も立ち上がった。一方、1980年には自衛隊員の防衛秘密漏洩事件が起こり、スパイ防止法の必要性が広く国民に認識されるようになった。そして1986年末までに、28都道府県、1706市町村の、計1734議会で「スパイ防止法」促進決議が採択されたのである。当時は「平成の大合併」の前の時代で、地方自治体数は約3300あったので、全国の地方自治体の過半数を超える数の決議がなされていたことになる。

そして、1986年7月には中曽根政権下で衆参ダブル選挙が行われ、自民党が圧勝した。環境が整ったという判断に基づき、スパイ防止法(国家秘密保護法)案を国会に上程する準備が進められていったのである。そのタイミングで、1986年11月25日付の「朝日新聞」朝刊1面・社会面2面で、スパイ防止法に反対する記事が出されたのである。これは新聞の一面としては異例の内容であった。通常なら朝刊の1面には前日にあった重要な出来事に関する報道がいくつか載るものであるが、この日は一つの法案に反対するという政治的な主張が1面をまるごと埋め尽くし、さらにそれが社会面にまで続いたのである。「スパイ防止法」をなんとしても潰したいという朝日新聞の意気込みを感じさせる紙面構成であった。

こうした「朝日新聞による反対キャンペーン」という逆風の中で、11月26日にスパイ防止法案が提出された。(1985年に続き、再提出であった)朝日新聞は、法案提出の前日を狙って大々的に反対キャンペーンを打ったことになる。このときの「スパイ防止法」は、結果としては審議未了による廃案となった。成立しなかった原因は、朝日新聞を頂点とするマスコミの偏向報道の影響と、自民党内部の分裂によるものであると言われている。このように、「スパイ防止法」は日の目をみなかったが、こうした攻防の水面下で、もう一つの動きが始まっていた。それが芽を出したのは翌年(1987年)の2月であった。「霊感商法被害救済担当弁護士連絡会(被害弁連)」の結成である。
「被害弁連」は、呼びかけ人34名中19名が青年法律家協会(日本共産党系)あるいは、社会文化法律センター(旧社会党系)の弁護士であり、「左翼弁護士」を中心とする集まりであった。当然、「スパイ防止法」には反対の立場である。被害弁連の呼びかけの文書には、「被害者救済と、右翼活動の阻止、特に国家機密法阻止のためにも良いのでぶちあげたい」と書かれていた。
「スパイ防止法」を巡る政治的攻防、法案の提出時期と朝日新聞による反対キャンペーン、それと同時期に立ち上げられた被害弁連による「霊感商法反対キャンペーン」と、朝日新聞による熱心な報道、これらはすべてつながっているのである。すなわち、「霊感商法」は単なる社会問題ではなく、スパイ防止法制定運動の支援組織である国際勝共連合と統一教会の壊滅を目指して、その資金源とみなされた「霊感商法」が叩かれたという、政治的構造があるのである。したがって、朝日新聞の報道はこうした政治的動機に裏打ちされたキャンペーンであったため、それを共有しない韓国の朝鮮日報は関心も持たず、報道もしなかったということではないだろうか。これが櫻井氏が疑問に感じた「日韓報道の差」の背後にあった「政治的事情」なのである。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

日本仏教史と再臨摂理への準備シリーズ05


日本仏教史と再臨摂理への準備挿入PPT05-1

 それからもうひとつ出現した仏教の伝統で日本に大きな影響を与えたものが、「禅」であります。日本で禅宗といえば曹洞宗と臨済宗です。これは、中国で発展した禅の伝統を日本に持ち帰ってきたことにより始まりました。「禅」は何かというと、「ヨーガ」と同じ意味でありまして、ヨーガの境地を表す「禅那」(ディヤーナ)から一字をとったものです。これはもともとお釈迦様の教えの中に「禅定」すなわち瞑想修行があったわけですが、それを特に強調する宗派が生まれたということです。

 中国禅の開祖とされる菩提達磨、これは私たちの良く知っている「達磨様」です。この人はもともとインド人なんですが、中国に渡っていきます。彼は520年頃に、南インドから北魏に到着して、有名な嵩山少林寺に入り、禅を教え始めました。少林寺は、少林武術の中心地として有名ですね。そこに慧可(けいか)という中国人の弟子が入って、中国禅の法統が始まったと言われています。こうして中国で禅の伝統が受け継がれていきます。そこに日本から留学して、そこで禅を学んで持ち帰った人が、栄西や道元のような日本の禅宗の開祖になるわけです。

日本仏教史と再臨摂理への準備挿入PPT05-2

 インドで仏教が発生してから日本に伝わってくるまでには、相当の時間と紆余曲折を経ながら伝わってきました。インドで仏教が発生したのが紀元前5世紀から4世紀ごろと言われています。それがやがて、シルクロードを通ってゆっくりゆっくりと伝わってきて、日本に仏教が公式に伝わったのが538年、すなわち6世紀ですから、なんと1000年かかっているわけです。ということは、お釈迦様が法を説いてから1000年かかって日本に到達しているわけですから、その間にかなり変化していったわけです。

 そして経典も、インドの言葉はサンスクリット語とかパーリ語であったわけですが、中国を通過してくるわけですから、それが漢字に訳されるわけです。他の言語に訳されますと、どうしてもオリジナルから遠くなります。インドと中国の間にも文化的違いがあり、中国と日本の間にも文化的違いがありますから、日本に伝わってきた仏教というのは、お釈迦様の説いたオリジナルと比べれば、かなり変質したものが伝わってきたのだということになります。この地図に示された仏教の流れのことを「北伝仏教」と言います。「北伝仏教」は基本的に大乗仏教の流れになります。
 
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 もう一つの伝わり方をしたのを「南伝仏教」と言います。タイとかミャンマーとか、むかしセイロンと呼ばれていたいまのスリランカ、さらにインドネシアに伝わっていったのは、上座部仏教の方でした。ですから、いまでもスリランカやタイのお坊さんは極めて厳しい修行をしているわけです。日本にやってきた仏教は、最初から大衆化された大乗仏教という形で伝わってきたということになります。

 そして、日本に伝わる途中で、中国を通過するわけです。中国を通過したときに何が起こったかというと、仏教が儒教の影響を受けました。ですから、この二つの伝統が混ざって日本に伝わってきたことになります。中国にはもともと「先祖祭祀」の伝統があり、そこから孔子の説く儒教における「孝」の思想が確立していきました。親孝行の「孝」ですね。「孝」とは何をするかといえば、①先祖を祀ること、②親に仕えること、③子孫を残すこと――の三つになります。この三つが儒教においては強調されたわけです。その帰結として、儒教では「葬式」が非常に大切にされましたし、「お墓」が重要視されていました。ところが、インドの仏教の場合にはもともと輪廻転生ですから、家庭というものは煩悩・愛欲の場ということで、あまり重要視されないわけです。ですから、もともとこうしたものを重視しないインドの仏教が古代中国に入ってきても、家庭を重要視する中国においてはあまりにも個人主義的な宗教だということで、なかなか広まらなかったのです。そこで、中国において仏教が受容されていく過程で、いわば仏教が中国化されていくという現象が起こります。

 それが何かというと、目犍連と「盂蘭盆」という話です。目犍連という人は、もともと実在した釈迦の内弟子の一人で、弟子の中で神通力が一番強かったと言われる人です。この人をテーマとして、中国であるお経が作られました。後に中国で作られたので、これは本物ではなくて「偽経(ぎきょう)」ということになるんですが、「盂蘭盆経(うらぼんきょう)」といいます。これは中国で「孝」の倫理を中心にして成立した偽経で、その中に「盂蘭盆」の逸話があります。それは次のようなストーリーです。

 目犍連がある日、亡き母を神通力によって見たところ、生前に子を思うあまりに犯した罪(食べ物を盗んだ罪)によって、逆さ吊りという餓鬼道の責め苦に遭っているのが見えたと言うんです。この逆さ吊りのことを「ウラバンナ」と言ったわけです。ここから盂蘭盆(うらぼん)という言葉が出てきて、それがいまの「お盆」になっていくわけです。ですから、「お盆」というのはもともとは「逆さ吊り」という意味なんです。

 さて、あの世で苦しんでいる母の姿を見て目犍連は悲しんで、ということでお釈迦様に相談したわけです。「母をどうしたらよいでしょうか。私の母が餓鬼道の責め苦に遭っているので、何とか救ってください」と頼んだわけですね。

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 するとお釈迦様は、「多くの修行僧に食事を施して供養しなさい」と指導し、目犍連がその供養を行ったところ、たちまちのうちに母親は餓鬼道を脱して極楽に往生し、歓喜の舞を踊りながら昇天した、という話なんですね。本来の仏教においてはこういうことはあり得ないんですけど、中国に伝わって、親孝行が大切なんだという価値が入り込んできたもんですから、お経の中にこういう教えが入ってきたわけです。

 民間伝承の世界では、現在行われている盆踊りは、この目犍連の母親が天へ昇る姿を象形したものであるとされています。このように、仏教にはもともと先祖供養という発想はなかったんですが、中国に伝わった際に先祖供養を受け入れ、中国の宗教的伝統と慣習を受容した形の仏教が日本に伝来してきました。ですから、いわば中国化された仏教を日本は受け取っているということになるだろうと思います。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』45


櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第45回目である。

「第Ⅰ部 統一教会の宣教戦略 第5章 日本と韓国における統一教会報道」

今回から新しい章に入る。第5章の「日本と韓国における統一教会報道」は、日本の朝日新聞と韓国の朝鮮日報における統一教会関連の記事を検索することを通して、統一教会の活動が両国のマスメディアによってどのように報道されてきたかを分析することを目的としている。櫻井氏が両国の報道を比較して明らかにしたいのは、「日本と韓国における統一教会の活動内容の相違であり、それに応じた社会の反応、及びメディア報道の差異」(p.170)であるとされる。彼は全般的な傾向として、「日本の統一教会問題とは社会問題であるのに対して、韓国では宗教問題にとどまる」(p.170)と分析している。櫻井氏によれば、こうしたのマスコミ報道の違いは、日本と韓国における宣教戦略の違いに起因しているのだが、そのことはこれまで十分に明らかにされてこなかったという。要するに自分の新しい発見だと言いたいのだが、こうした彼の結論が正しいかどうかはこれから順を追って分析することにして、まずは分析の方法論の問題から検討することにする。
統一教会に関する新聞報道の分析をすること自体は、有意義な調査であると言える。しかしながら、より客観的で公正な分析をするためには、たとえ手間暇がかかったとしても、例えば五大紙すべてを検索して論調を比較するなどの手広い調査を行うべきだったのではないだろうか。櫻井氏が日本における新聞報道を朝日新聞に限定して調べている時点で、そこに「なにか作為的なものがある」とか、少なくとも「偏った分析である」という誹りは免れないであろう。

櫻井氏が日本の朝日新聞を資料として選んだ理由としては、「日本での統一教会問題を最初に報じており、一九八〇年代に『朝日ジャーナル』でも統一教会特集を組むなど、他紙よりも積極的に取りあげている」(p.172)ことと、データベースでの検索のしやすさなどの技術的な理由を挙げている。韓国の朝鮮日報を選んだ理由もほぼ同様である。私は韓国の新聞が統一教会についてどのように報じているかを比較検討したことがないので、朝鮮日報のチョイスに関してはコメントできないが、少なくとも朝日新聞に関しては、日本において統一教会を最も批判的に扱ってきたメディアと言って差し支えないだろう。

1967年7月7日付朝日新聞夕刊の「親泣かせの『原理運動』」という見出しの記事が、日本で初めて統一教会を取り上げた新聞報道であることに象徴されるように、朝日新聞は一貫して反統一教会の立場で報道し続けてきた代表的なメディアである。日本におけるマスコミの統一教会報道は全般的に厳しく批判的であるとはいえ、朝日新聞は群を抜いているといってよいだろう。そうした特徴を持つ朝日新聞を資料として報道の分析を行えば、統一教会に対して批判的な報道ばかりが出てくるのは至極当然であると言える。櫻井氏はこれを、社会的に問題のある統一教会を社会の公器である新聞が叩いたという構図でとらえようとしているが、これは物事の一面しか見ていないと言える。朝日新聞が統一教会を批判する背景には、イデオロギー的な動機があることを見落としてはならない。

朝日新聞はリベラルで左寄りの新聞である。統一教会は反共主義を掲げる宗教であり、冷戦時代には徹底して共産主義と戦ってきた。したがって、朝日新聞と統一教会はイデオロギー的な敵対関係にあったのである。特に「スパイ防止法制定運動」を巡っては、統一運動と朝日新聞は明確な対立関係にあった。イデオロギー的に敵対する相手に対して批判的な報道をするのは常識であり、朝日新聞の統一教会報道は少なくとも社会の公器としての新聞の平均的な報道内容とは言えないものである。

こうした問題点を前提として、時代を追いながら展開される櫻井氏の新聞報道分析を評価してみることにする。最初の年代区分は、1950~60年代である。日本で統一教会問題が最初に新聞記事となったのは、前述の「親泣かせの『原理運動』」という見出しの記事(1967年)であり、「家庭を破壊された」「子供が洗脳された」という親の訴えが紹介されている。この年代区分の韓国における報道は1955年5月の梨花女子大事件に関する記事なので、日本と韓国では初めての報道に12年の開きがあることになる。統一教会が日本に宣教されてしばらくは開拓期であり、目立たない小さな集団であったことから、マスコミの注目を浴びることもなかったのであろう。このような時間差はある意味で当然と言える。梨花女子大事件は韓国社会に大きな衝撃を与えた事件であったが、朝日新聞はこれを報じていない。理由は、当時まだ国交のなかった隣国の宗教問題にまで関心がなかったのではないかと推察される。逆に日本に統一教会の宣教がなされ、そこで社会問題化していることを、韓国の朝鮮日報は報道している。アメリカで教勢を拡大していることも朝鮮日報では報じられており、自国が生み出した宗教が世界でどのように受け止められているのかに関心があったと思われる。

櫻井氏が注目しているのは、日本における統一教会報道が「家庭の破壊」や「洗脳」といった社会問題として扱われているのに対して、韓国における統一教会問題は「異端の教えを信じた」という宗教問題として扱われている点である。朝鮮日報の記事には、既存教会と統一教会の対話に関する記事もあり、「異端」という認識はあるものの、統一教会を基本的に宗教として扱っている点が日本と異なるのだという。朝鮮日報の記事の中には、キリスト教神学と関連付けて統一教会の是非を論じたものもあるという。日本では神学論争の内容が一般紙の記事になること自体が珍しいばかりか、統一教会の問題を神学的な問題として論じたような記事は皆無であると言えよう。その意味で、朝鮮日報の記事の内容は櫻井氏にとっては新鮮に映ったようだ。

これは日韓における統一教会の相違というよりは、両国のメディアの宗教に対する態度や考え方に起因するのではないかと思われる。そもそも日本では、キリスト教の神学論争が新聞のネタになったり、ある宗教が正統か異端かといったようなことが、メディアで問題にされること自体が考えられない。日本のメディアは徹底した世俗主義を貫いているので、宗教の最も本質的な部分である教えや神学の内容には踏み込まないという暗黙のルールをもっているように思われる。櫻井氏自身がこの章の冒頭で認めているように、日本のメディアが新宗教を扱うときには、宗教的世界観そのものを扱うのではなく、新宗教が社会との間で起こしている軋轢の部分に注目し、「社会問題」や「カルト問題」という切り口で批判的に扱うのが常であった。要するに日本のメディアは教義や神学にはハナから関心がないのである。

これに比べると、韓国のメディアは宗教問題の本質に迫る報道を積極的に行っているように思われる。神学的なテーマが韓国の新聞で取り上げられるのも、キリスト教徒が人口の約4分の1を占め(1980年代にはこの数値に達していると言われていた。現在は三割に達すると言われている)、牧師の社会的地位や発言力・影響力が日本よりもはるかに大きい国柄を反映しているのかもしれない。キリスト教の牧師が社会に向かって発言する以上、正統か異端かという問題は重大な問題であり、新聞記者も彼らの主張には耳を傾けることになる。その意味で、韓国では統一教会問題はまさに「宗教問題」なのである。

さて、櫻井氏は2つ目の年代区分を「1970年代」として、この年代の統一教会の特徴を「政治領域への参入」と位置付けている。韓国では朝鮮日報が「政治性おびる統一教会 勝共運動を標榜 農村・軍隊・公務員など 特殊地域で啓蒙も」という記事を出していることが紹介されている。一方、朝日新聞のこのころの記事は、統一教会とKCIAの関係を巡る記事が多いという。このころ米国では、ドナルド・フレーザー下院議員が統一教会を追求する議会活動を行っており、その中で彼は統一教会がKCIAの手先であるかのような主張を行っていたため、アメリカ発の話題を日本でも取りあげたものと思われる。櫻井氏は、朝鮮日報がフレーザー議員による統一教会の非難を報道しながらも、統一教会とKCIAの関係に関する記事が一切ないことを「不思議に思う」(p.177)とか「報道規制か自粛があったのだろうか」(p.178)などと述べている。

フレーザー委員会による統一教会に対する追及は、一つの迫害の事例として統一教会史の中で講義される内容となっており、特に朴普煕氏の証言を記録した『真実』という映像資料で記憶している教会員も多いであろう。もとよりKCIAと統一教会の間には組織的な関係はなく、フレーザー氏の主張は事実無根であった。それをもとに報道されたアメリカの情報に、統一教会に敵意を持っていた日本の朝日新聞が飛び付き、攻撃の材料として報道したという構図がある。ところが本国の韓国ではKCIAと統一教会には関係がないことは分かっており、フレーザー委員会の主張は信憑性がないと判断したからこそ、敢えて報道しなかったのではないだろうか。このように、各国における報道のあり方は、その国における統一教会の実態以上に、その国のメディアの関心のあり方や報道姿勢によって大きく左右されるととらえた方がよさそうである。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』