書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』205


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第205回目である。

「おわりに」

 第201回から本書全体のまとめにあたる「おわりに」の内容に入り、前回までは「1 統一教会における信仰のリスク」の分析を行ってきた。今回から「2 韓国の祝福家庭」の内容に入る。櫻井氏はこの節の冒頭で以下のように述べている。
「従来の新宗教研究やカルト研究においては、『なぜ入信したのか』が根本的な問いであり、それに答えることはそれほど難しいことではなかった。本書でも、統一教会特有の勧誘・教化システムとしてその複雑なプロセスを明らかにしている。それ以上に重要な問いが、なぜ信仰を維持できるのかである。」(p.557)

 新宗教研究において「なぜ入信したのか」を問うのは、櫻井氏の言うように一般的なことである。イギリスの宗教社会学者アイリーン・バーカー博士の著書『ムーニーの成り立ち』は、まさに「人はなぜ統一教会に入るのか」という問いを立てて行った研究であった。しかし、「それに答えることはそれほど難しいことではなかった。」という櫻井氏の言い方は非常に傲慢であり、学者としての良心が感じられない。実は人がなぜある宗教に入るのかを解明することはそれほど簡単なことではない。それは「洗脳」や「マインド・コントロール」などの概念で「説明し去って」しまい、「分かった気になる」ことが多いからである。少なくともアイリーン・バーカー博士は、自分で作り上げた論理的な枠組みに断片的な現象を当てはめて分かった気になるという宗教学者の陥りがちな罠に対して、常に警戒しながら研究をした。すなわち、統一教会に入信する者にある特徴があったとしても、必ずそれを「対照群」と比較して、統計的に有意な特徴であるかをチェックしようとしたのである。入信の理由を過度に一般化することに対しても、常に禁欲的であった。彼女の研究には科学者としての良心が感じられた。

 しかし、櫻井氏は本書において人が統一教会員になる理由を、統一教会特有の勧誘・教化システムのみに帰して「説明し去って」おり、伝道された者がもともと持っていた気質や性格、将来に対するビジョンといったような個人的なファクターが、その人が伝道される要因の一つとなる可能性については一顧だにしていないのである。そのことを論じると、どうしても「本人の自己責任」を認めざるを得ないので、議論を封印しているのだ。「なぜ入信したのか」が櫻井氏にとってそれほど難しいことでないのは、最初から結論を決めてかかっているからに他ならない。

 同様に、「なぜ信仰を維持できるのか」という問いかけに対しても、日本の統一教会の信者たちが教会の中で「救いを感じている」「幸福である」「やっていて楽しい」「自己実現できている」「良好な人間関係を築いている」「自己の成長を感じている」などのポジティブなファクターに対しては一顧だにせず、「リスク認知能力が組織的に剥奪された結果である」(p.557)というようなネガティブな理由だけで「説明し去って」いるのである。これも最初から結論ありきの分析である。

 中西氏も本書において、「脱会する信者がいる一方で、現役信者が信仰を保ち続けていられるのはなぜかが問題となる。」(p.403)と述べており、同じ問いの立て方をしている。櫻井氏と中西氏に共通する前提として、「普通の人であれば統一教会を脱会して当然であるにもかかわらず、現役信者として信じている奇特な人々がいる。どうして信じ続けることができるのか、その理由を解明しなければならない。」という考え方がある。普通の宗教団体に対しては、このような考え方はしないであろう。「現役信者として信仰を保ち続けている者たちがいる一方で、脱会する信者がいるのはなぜかが問題となる。」と考えるのが普通である。現存する宗教団体に現役信者がいるのは「当たり前」である。その中で、信仰を続けられなくなる人が出てくるのであって、その事情を分析することを通して、人が信仰を棄てる理由について考察するのが通常のアプローチであろう。しかし彼らは、辞めるのが当たり前であるのに、統一教会のような宗教をどうして信じることができるのか、というバイアスがかかった発想で議論を展開しているのである。

 韓国に嫁いだ日本人女性が信仰を維持できる理由として櫻井氏が挙げている内容は、基本的に中西氏の所見を繰り返しているに過ぎない。①天国に近いアダムの国である韓国の安定性(経済的には不安定でも精神的には楽)、②統一教会の教説は良妻賢母教育と同じで、結婚や子育てに宗教的意義づけがなされるので満足感が大きい、③日本では心身共に疲弊する献身生活だったが、韓国では信仰生活の休息期に入る、④『本郷人』のような機関紙の購読と清平修練会への参加――などの理由により、日本よりも韓国では信仰が維持しやすいという分析である。

 本書の基本的な枠組みとして、「普通な韓国統一教会」と「異常な日本統一教会」、あるいは「ゆるい韓国統一教会」と「強烈な日本統一教会」というというステレオタイプが存在する。韓国統一教会のイメージは中西氏の現地調査からくるものであり、日本における統一教会のイメージは、実際に現役信者を調査して得られたものではなく、櫻井氏が統一教会反対派から提供された裁判資料からくる「虚像」である。これらを短絡的に比較することによって、二人は共通の結論を出そうとしているが、論理的には破綻している。

 そもそも、日本での信仰生活が心身をすり減らすようなものであるのに対して、韓国ではそうではないから彼女たちが脱会せずに信仰を続けていられるのだとすれば、日本の統一教会信者たちがなぜそのような信仰生活を継続していられるのかが説明できない。櫻井氏の言うように、単に「リスク認知能力が組織的に剥奪された」だけで、数万名もの人々が数十年間にわたって心身共に疲弊するような信仰生活を継続できると言うのであろうか? 私の信仰暦は現時点で37年になるが、私以上に長く信仰している日本人の信者は多数いる。本当に心身をすり減らすような信仰生活をしているのなら、日本においてはそんなに長く信仰を継続できないはずである。事実がこのことを反証している。

 実際には、日本における統一教会の信仰生活も心身をすり減らすようなものではない。櫻井氏自身が認めているように、「楽しくなければ続けられない」(p.342)のである。さらに日本の統一教会信者の生活も韓国と同様に、破綻するような状態にはなっていない。日本の統一教会信者の実際の生活は、櫻井氏が描写した脱会者たちの生活よりもずっと多様である。教会員の中には医者も、弁護士も、大学教授も、会社の役員もおり、地方議員や地方自治体の首長を務めている者もいる。特に社会的な地位の高い者でなかったとしても、普通の会社員、公務員、自営業者、あるいは主婦として社会生活を送っている者が大多数である。日本でも大部分の信者が無難に暮らしているとすれば、渡韓した女性たちが信仰を続けていられる理由として、「韓国の安定性」をあげる意味はなくなってしまう。

 そもそも信仰とは、無難に暮らしているからとか、暮らしやすいから続けられるというようなものではない。宗教の歴史をひもとけば、迫害の中でも信仰が力強く燃え盛った事例は数えきれないほどあるし、迫害によって逆に信仰が強化されたことさえある。逆に、江戸時代の仏教や中世ヨーロッパのカトリックのように、権力と一体化して優遇されてしまうと信仰が形骸化してしまうということもある。楽だから、暮らしやすい環境だから、社会から受け入れられているから信仰を維持できるという彼らの論法は、こうした信仰の本質を見落としていると言えるだろう。

 櫻井氏は在韓日本人信者の信仰生活を「安定期」としたうえで、それが揺らぐ可能性を三つ指摘している。①夫婦関係や家族関係が行き詰まった日本人女性が、夫のもとを去って日本の実家に戻る、②日本に帰国した際に脱会カウンセリングを受けて信仰をやめる、③子供が就学年齢に達し、教育投資が必要になる時期に現在の生活環境に対する不満が生じる――といった内容である。このうち、②は安定していた信仰が「揺らぐ」のではなく、人為的に破壊されるということである。「第七章の事例では離婚になった」(p.558)と櫻井氏は言っているから、脱会カウンセリングは安定していた信仰だけでなく、家庭までも破壊したことになる。

 韓日祝福家庭は、いまでは子供たちが就学年齢どころか大学にまで通う段階に入ったと言えるだろう。中西氏が第10章で示したように、韓日祝福家庭の中には経済的に貧しい家庭に加えて、病気、事故、災害、詐欺などで緊急支援を要する家庭も存在した。こうした家庭には「本郷人互助会」が支援を行ってきたことが明らかにされている。このことは、祝福家庭が抱える具体的な問題に対して、統一教会は宗教的・精神的なサポートを与えることにとどまらず、経済的・物質的なサポートもしていることを意味している。統一教会信者の間には互助の精神があり、弱者に対する優しさを持った集団であることが分かるのである。このことは日本でも同じであり、統一教会は「真の愛で結ばれたコミュニティ」を形成することによって、互いの信仰を維持し、高めあっているのである。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』204


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第204回目である。

「おわりに」

 第201回から本書全体のまとめにあたる「おわりに」の内容に入り、前々回からその中の「1 統一教会における信仰のリスク」の分析に入った。ここで櫻井氏が言っているのは、統一教会の信仰を持つことはリスクが伴うということだが、今回は櫻井氏がリストアップするリスクの内容を分析する。
「(1)招待を隠した伝道方法ではリスクが伝えられていない。『ここが統一教会であること、教団の活動内容を予め教えてくれたら入りはしなかった』と脱会者は同じような語り方をする。つまり、ビデオセンターやセミナー、教会内において人間関係が形成されておらず、統一教会の教説が全く入っていない段階で、本書で縷々説明したような統一教会の実態を知っておれば、あえて入信のリスクを選択する人はいないと思われる。」(p.556)と櫻井氏は主張する。

 私は、少なくとも人を伝道する際には、自分が統一教会の信仰を持っており、これから学ぶ内容が統一教会の教理であることを相手に告げるべきであるという点においては櫻井氏と同意見である。これは私の個人的な意見ではなく、2009年3月25日に徳野英治会長による教会員に対するコンプライアンスの指導が出されたときから教会の公式的な方針となっている。しかしながら、櫻井氏が「本書で縷々説明したような統一教会の実態」について、伝道者が相手に伝える必要はまったくないと考えている。実はその内容を、櫻井氏は大畑昇氏と共に編著者になっている『大学のカルト対策』(北海道大学出版会、2012年)という本の中でかなり詳しく述べている。彼が言うところの「予め伝えるべきリスク」とは、以下のような内容である。
「私は統一教会に関しては研究をしていますが、布教の最初の時点から自分たちの名前と活動内容を明かした布教をするのであれば、それは認められるべきだと考えています。つまり、『統一教会でいう教えに従えば、日本はエデンの園において蛇の唆しによって先に堕落したエバの立場に立ち、アダムの立場に立つ韓国に絶対的に尽くすしか日本が霊的に解放される道はない。具体的には、姓名判断、家系図診断、各種物品販売等々に従事して、原価の数十倍の価格で韓国の大理石壺を販売したり、都市近郊の資産家をVIP待遇の信者として時に数億円相当の献金を依頼したりするような宗教活動に従事することになる。その上で合同結婚式に参加することが認められ、日本人のみ多額の祝福献金なるものを出した上で教団が勧めてくれた配偶者と結婚することができ、その場合、国際結婚になる可能性(日本人女性の場合は韓国人男性の確率が大)が高い。合同結婚後も、統一教会が主催する修練会やイベントに参加して献金要請に応えていくのである』ということをあらかじめ学生に対して周知して、それでなお、活動しようとするのであれば、私は認めざるを得ないのではないかと思います。」(『大学のカルト対策』p.160-161)

 よくもここまで本音を言ったものだと思うが、これが櫻井氏の言うところの「リスクを伝える」ということであり、「宗教的なインフォームド・コンセント」なのである。これは要するに、宗教の伝道者は自分の教団の教義を相手に伝える前に、教団に関するありとあらゆるネガティブな情報を予め伝え、信仰のリスクを十分に認識させたうえでなければ、教えを伝えることができないと言っているのに等しい。

 そもそも、宗教団体の信者が伝道や布教を行う際に、基本的な教えを述べる前に、自らの教団の戒律やネガティブな内容を積極的に開示することが期待されており、そうしなければ「信仰のリスク」を十分に伝えていないとみなされるのであろうか? 例えば、イスラム教徒は、「私たちの宗教では、メッカの方角に向かって1日5回の礼拝をし、ラマダンには1ヶ月間の(夜間)断食をし、生涯に一度はメッカに巡礼に行かねばならず、酒は飲めず、豚肉も食べられず、女性には男性と平等な権利はなく、姦淫の罪を犯したら死刑で、他宗教に改宗しても死刑で、場合によってはジハード(聖戦)に参加して殉教していただきます」と最初の段階で言わなければ、人をモスクに誘うことはできないのだろうか? またイスラム教徒は、9.11の同時多発テロやパレスチナで爆弾テロを行ったのは私たちの仲間だが、それでも話を聞いて欲しいと最初の段階で言わなければならないのだろうか?

 キリスト教徒は、毎週日曜日の礼拝参加や十分の一の献金、洗礼や聖餐式などの情報、および信徒としての義務をすべて最初の段階で開示しなければ、聖書の話をしてはいけないのだろうか? カトリック教徒は、十字軍や異端審問などの過去の暗い歴史についてすべての情報を開示し、一部の司祭や修道者による児童への性的虐待問題について最初に説明しないと伝道できないのだろうか?

 こうした主張がナンセンスであることは、米国版の「青春を返せ裁判」とも言える「モルコ・リール対統一教会」の民事訴訟において、米国キリスト教協議会(NCC)がカリフォルニア州最高裁判所に提出した法廷助言書で、以下のように皮肉たっぷりに示されている。
「結婚しようとする男女は結婚許可証を受け取る前に、お互いの最悪な欠点を述べ合うことを要求されているだろうか。弁護士事務所の雇用担当者は法学部卒業生に対して面接時、雇用契約の前に弁護士事務所の欠陥や問題点を述べるよう義務づけられているだろうか。海兵隊の志願者募集で、担当官は訓練キャンプの最悪の悲惨さと、軍隊生活の危険性のすべてを分類して入隊前の志願者に話すよう求められているだろうか。」

 数多くある社会の団体の中で、宗教団体だけが自らに対するネガティブな情報を積極的に開示されることが求められているとしたら、それは深刻な差別であると言わざるを得ない。櫻井氏が統一教会に要求していることを一般企業に例えてみれば、「会社説明会」の場において、テレビ朝日は1985年に『アフタヌーンショー』という番組で「やらせ報道」をしてプロデューサーが逮捕されたことを、リクルートは1988年の贈収賄事件を、味の素は1997年に起きた総会屋への利益供与事件を、三菱自動車は2000年に起こしたリコール隠し事件を、雪印と日本ハムと伊藤ハムは2001年に起こした牛肉偽装事件を、石屋製菓は2007年に起こした「白い恋人」の賞味期限改ざん事件を、三菱東京UFJ銀行は2012年に起こした112万人もの顧客情報紛失事件を、シャープは2012年に起こした誇大広告事件を、すべての入社志願者に積極的に情報開示することが求められ、それを十分にしないと「リスクヘッジが十分になされていない」と言われなければならない。

 大学は「学校説明会」の場で、自らのネガティブな情報を積極的に開示しているのだろうか? 櫻井氏の所属する北海道大学の不祥事をネットでちょっと検索しただけで、以下のような記事を見つけることができる。
「北海道大は2009年8月27日、2007、2008年度に大学院生の論文を審査した5人の教授が現金や商品券、衣料品などの謝礼を受け取っていたことが新たに発覚したとして、5人を訓告処分にした。」
「札幌・中央署は2012年4月13日、児童買春・ポルノ禁止法違反(買春)の疑いで、北海道大学職員の福井将大容疑者(27)を逮捕した。逮捕容疑は1月25日夜、札幌市北区のホテルで、携帯サイトで知り合った無職の少女(16)に現金1万5千円を渡す約束をしていかがわしい行為をしたとしている。 」

 こうした内容を、学校説明会の時に積極的に開示しなければ、「リスクヘッジが十分になされていない」のであろうか? そんなことは、社会のどの団体もやっていない。それを統一教会にだけ要求するということは、明らかな差別にほかならない。要するに自分たちがやってもいないことを一方的に要求しているに過ぎないのである。

 それ以外に櫻井氏が指摘するリスクは、以下に列挙するように基本的に同じ内容である。
(2)統一教会の信仰においてはリスクをリスクとして認識しないように導かれる。
(3)統一教会の信者には、リスクを低減させるよりも、リスクを一挙に解消することを求める志向が強い。・・・それは自己や他者への配慮(リスクの低減)よりも、神、霊界、お父様が後日(あるいは天国で)全てを解決してくれるという期待があるからである。
(4)統一教会は長らくリスクへの認識や管理を行わないことを宗教伝統としてきた。
(5)統一教会の信者はリスク認知を持つ能力を剥奪されている。

 どれも似たような内容だが、実は櫻井氏は「リスク・ヘッジを許さない発想やシステムは統一教会に限らず、他の宗教運動や宗教組織にも大なり小なり見られることではある」(p.557)ということは認めている。これは私が前回述べたように、およそ信仰者というものはリスクを承知で神との契約にかけてみようと決断した人々のことを言うのであるから、リスクの存在そのものは信仰を妨げる要因にはならないと言ったのと本質的には同じ内容である。つまり、統一教会信者の発想はどの宗教にも見られるものなのだ。にもかかわらず櫻井氏は、「ここまで徹底した教団は特筆に値する」と念を押している。

 いったい、いかなる比較によって櫻井氏は統一教会信者のリスク認識が他の宗教団体の信者のリスク認識に比べてとりわけ低いと言っているのであろうか? その具体的な根拠を彼は示していない。彼がそう感じるのは、統一教会に入信したことを後悔し、教会を裁判で訴えた元信者の証言ばかりを資料として、統一教会信者の信仰について理解しているからに他ならない。要するに、資料の偏りによってそのようにに見えるということであって、客観的なデータの比較によってそう言っているわけではないのである。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』203


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第203回目である。

「おわりに」

 第201回から本書全体のまとめにあたる「おわりに」の内容に入り、前回からその中の「1 統一教会における信仰のリスク」の分析に入った。ここで櫻井氏が言っているのは、統一教会の信仰を持つことはリスクが伴うということだが、前回は宗教的言説に対して論理的証明を求めることの問題点と、信仰者にとってのリスクとは何かという点について掘り下げて考察した。今回はより具体的なリスクの内容に入っていくことにする。櫻井氏の指摘する統一教会のリスクとは、主としてあまりに活動に没頭しすぎて健康を害するリスクと、献金をしすぎて多重債務者になったりする経済的なリスクである。彼は以下のように述べている。
「宗教的な救済は世俗的な価値を超えるものだとはよく言われることだが、日本の統一教会信者は信仰的である人ほど全てを出し切る生活を送っている。献身者は医療保険や国民健康保険もかけずに教会生活を送るが、病気や大けがをしたら自宅に戻されるだけである。全てを献げ切った老年の信者達は生活保護を申請するしかないだろう。統一教会がいう天国(天一国)への入籍証をもらうためには献金が必要とされ、今後とも様々な形でお金が必要であることは地上でも天国でも統一教会員である限り変わらない」(p.554)

 以前、統一教会信者の一部が国民健康保険や社会保険に代表される公的医療保険制度に入っていなかったというのは事実であるが、これは既に昔の話である。櫻井氏の言うところの「献身者」は宗教法人統一教会の職員ではなく、信徒の組織の中で活動をしていた者を指すが、そうした組織がまだまだ未成熟で未整備だった時代の話である。コンプライアンスの徹底の中で、現在では宗教法人の職員は社会保険と厚生年金に加入するようになっているし、関連団体の職員も同様である。宗教法人は信者を雇用しているわけではないから、基本的に統一教会の信仰と保険との間には関係がない。関係があるのはむしろその人の職業である。信者の中には、会社員も公務員も自営業を営む者もいるのであるから、それぞれの職業にふさわしい保険には入っているのである。

 それ以外の櫻井氏の発言は大雑把な推測に過ぎず、明確な根拠が示されていない。生活に困窮するようになった信者が生活保護を申請するのは国民としての権利である。生活保護を支給する側は、その人が実際に保護を必要とするかどうかを調べるのであって、そうなった理由を問うたり、その理由によって差別をする立場にはない。櫻井氏の言う「地上でも天国でも」という言葉は意味が不明であり、何が言いたいのかよく分からない。普通、「地上」と対比されて用いられる「天国」という言葉は霊的な世界のことを指すが、霊界は物質的な世界ではないので、そこでお金が必要であるとは統一教会は教えていない。死後天国に入るための条件として地上での生活において献金が必要であるという話と、死後天国でもお金が必要だという話はまったく別の話であり、論理的に破綻した内容を櫻井氏は語っている。どうやら櫻井氏は統一教会を揶揄することに頭がいっぱいで、論理的思考ができなくなってしまっているようだ。

 続いて櫻井氏は、日本の女性信者は韓国の男性と祝福家庭を持つ可能性が高く、韓国に嫁げば経済的に余裕のない厳しい生活を送るようになるリスクがあると主張する。さらに恋愛感情なしに結婚した日本人女性たちが信仰を失った場合、家庭を継続することが難しくなるリスクもあるという。通常リスクとは、自分では回避しがたい危険や困難に関することを言う。しかし、韓国の男性と祝福を受けるかどうかは本人の意思によって選択可能なので、これは「回避可能なリスク」ということになる。櫻井氏は、統一教会では結婚する相手の国籍は選択できないかのように書いているが、実際には祝福の面接の際にどの国の人を希望するのかが確認され、それに反して相対者が選択されることは基本的にはない。むしろ、本人が国際祝福を希望したとしても、両親や家族の事情などをよく聞いて、慎重に判断するように諭すことの方が多いのである。

 また、信仰を失ったときに家庭を継続することが難しくなるリスクに関しては、基本的には「心変わりのリスク」ということになり、これは統一教会の韓日祝福だけでなく、どんな結婚にも存在するリスクであると言えるだろう。たとえ恋愛結婚をしたとしても、結婚後に相手に幻滅したり、相手の心が自分から離れてしまった場合には、結婚生活を継続できなくなるリスクは存在する。どちらかが浮気をするというリスクも存在する。夫婦の愛情がなくなり、お互いに相手を憎むようになっていたとしても、子供がいるから家庭生活を継続している夫婦はいくらでも存在するのであるから、「心変わりのリスク」が存在しない結婚はないと言える。信仰を動機とした結婚が、信仰を失うことによって危機に瀕するのも、恋愛感情を動機とした結婚が、愛情がなくなることによって危機に瀕するのも、どちらもうつろいやすい人の心によって生じるリスクであり、統一教会の結婚だけが特別にリスクを背負っているのではない。

 櫻井氏は続いて、「筆者が最終的に答えなければならない質問は、これほどのリスクを抱えながら、なぜ、統一教会の信者達は信仰生活を継続できるのだろうかという問題である。」(p.555)と述べている。彼の答えは、現役の統一教会信者はリスクの存在についてよく理解できていないから信仰を継続することができ、脱会カウンセリングを受けた者たちは信仰のリスクについて理解することができたからやめたのだ、というものである。そもそも現役の信者はやめるリスクとやめないリスクとを比較考慮しながら信仰を継続するかどうかを決めているわけではなく、そうしたことを考える余裕すらないというのである。櫻井氏は統一教会を信じることのリスクを5つの項目に従って解説しているが、その細かい内容に入るのは次回に譲ることにして、宗教を信じる者のリスクに対する認識についてもう一度確認しておこう。

 前回述べたように、およそ信仰者というものはリスクを承知で神との契約にかけてみようと決断した人々のことを言うのであるから、リスクの存在そのものは信仰を妨げる要因にはならない。リスクを気にかけることは、むしろ信仰が薄い証拠であると考える傾向が強いのである。このことを典型的に示している新約聖書の逸話が、マタイ伝14:26-31に出てくる物語である。この物語では、イエスが湖の上を歩いているのを見た使徒ペテロが、「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」と言うと、イエスが「おいでなさい」と言われたので、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行ったとされている。しかし、風を見て恐ろしくなり、おぼれかけたので、彼は叫んで、「主よ、お助けください」と言ったのである。イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言った、という物語である。

 ここではイエスに対する信仰があれば、水の上を歩いて渡るという危険なことさえできるのに対して、風を見て恐ろしくなるというような、現実的なリスクを意識したとたんに水の上を歩くことができなくなってしまい、おぼれてしまったのだという理解がされている。すなわち、リスクについて思い煩うことは信仰の妨げになるので、すべての思い患いを捨てて純粋にイエスを信じれば逆にリスクから守られると教えているのである。

 このことは、イエスがあらゆる思い煩いを捨て、ただ神の国とその義とを求めよ、そうすればその他すべてのものは添えて与えられるであろうと教えたことと通じている。神を信じ、神のみ旨の為に生きることによって自分自身が守られるというのがキリスト教信仰の本質である。そこにはリスクヘッジという発想そのものがないのである。こうしたクリスチャンの精神を表現した讃美歌が「神はわがやぐら」である。その日本語の歌詞と、ドイツ語のオリジナルの翻訳を以下に掲載する。それを読めば、神に対する信仰こそがあらゆるリスクを遠ざけるというキリスト教信仰の神髄を知ることができるであろう。

<日本語歌詞>
1.神はわがやぐら わが強き盾 苦しめるときの 近き助けぞ
  おのが力 おのが知恵を たのみとせる よみのおさぞ げにおぞましき
2. いかに強くとも いかでか頼まん やがてはくつべき 人のちからを
  われとともに たたかいたもう イエスきみこそ 万軍の主なる あまつおお神
3.悪鬼は世にみちて よしおどすとも 神のまことこそ わがうちにあれ
  よみのおさよ ほえたけりて せまりくとも 主のさばきは なが上にあり
4.くらきのちからの よしふせぐとも 主のみことばこそ すすみにすすめ
  わがいのちも わが妻子も とらばとりね 神の国は なおわれにあり

<ドイツ語歌詞翻訳>
1.私たちの神はかたいとりで よい守りの武器です。
  神は私たちを苦しみ、悲惨から 助け出してくださいます。
  古い悪い敵はいま必死にあがいており、その大きな勢力と策略を用いて
  攻撃してくるので 地上の存在でこれに勝てる者はおりません。
2.私たちの力は無にひとしいのです。私たちは立ちえません。
  けれども私たちに代わって戦ってくださる方がおります。
  それは神ご自身が立ててくださった戦士であられます。
  そのお名前を尋ねますか? その御名はイエス・キリストです。
  万軍の主なるお方であり、神ご自身であられるお方です。
  主は敵に譲ることはありません。
3.悪魔が世に満ちて 私たちを飲み込もうとするときも 
  私たちは恐れなくてもいいのです。私たちは敵に勝利します。
  この世を支配するサタン、悪魔がたけり狂っておそってくるときも
  彼の手は私たちにとどきません。
  彼は神のみことばの一撃で、打ち倒されてしまいます。
4.世人たちがみな神のみことばをあざけり、
  みことばをふみにじっておそれをしらないときであっても
  主は私たちと共に戦ってくださり、聖霊と賜物を与えてくださいます。
  世人たちが地上のいのち、財産、名誉、妻子を奪いとろうとしても
  世人たちは何も得ることは出来ません。
  神の国は永遠にクリスチャンのものであります。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』202


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第202回目である。

「おわりに」

 前回から本書全体のまとめにあたる「おわりに」の内容に入った。前回は櫻井氏による冒頭の言葉を、宗教学の作法という観点から分析し、さらにオウム真理教事件が日本の新宗教研究に残したトラウマという観点から、櫻井氏の研究者としての立場性の問題を指摘した。今回からは櫻井氏の具体的な批判内容に当たる「1 統一教会における信仰のリスク」の分析に入る。ここで櫻井氏が言っているのは、統一教会の信仰を持つことはリスクが伴うのだが、伝道の際にそのリスクが伝えられていないし、入信した後にはそのリスクをリスクと認識しないように教化されているので、結果的に信徒たちにとって有害であるということだ。

 櫻井氏が第一にあげているリスクとは、「『原理講論』に決定的に欠落している論証、すなわち文鮮明が再臨主であることが何ら証明されていないということ」(p.553)だという。これは宗教学者の発言としては驚くべきものだ。なぜなら信仰とは通常、告白すべきものであって証明すべきものではないからだ。新約聖書はイエスがメシヤであることを証しているが、それは論理学的な意味で論証しているわけではない。同様にコーランはムハンマドがアッラーから啓示を受けたことを証しているし、仏教の諸経典は釈迦が悟りを開いたことを証しているが、それらも同様に万人が正しいと納得できるような「証明」ではない。キリスト教神学は歴史的に神が存在することを論理的に証明しようと試みてきたが、万人の納得する神の存在証明はいまだに存在しない。聖書が神の啓示の書であることも、証明することはできない。証明なしに受け入れるからこそ「信仰」なのである。ある宗教の信者が、自らの信仰の正しさを証明したと主張することはあるが、それは信じる者にのみ通じる証明であって、信仰を共有しない者から見れば「護教的な発言」に過ぎない。

 人がイエスをキリストとして受け入れるということは、合理的な分析によるものではなく、聖霊体験に代表されるような宗教体験に基づくことが多い。新約聖書にはイエスのメシヤ性が理路整然と証明されているわけではなく、彼の言葉と行動が物語として書き記されているだけであり、使徒たちが「イエスはキリストである」と証しをするだけである。同様に、統一教会の修練会においては、「原理講義」の後に、通常「主の路程」というタイトルで文鮮明師の生涯に関する講義がなされる。講師は「文鮮明先生こそメシヤです」と証しするかもしれない。これを聞いて修練生たちは、この人がはたして私の救い主であるかどうかを自分で判断するのである。メシヤを受け入れるプロセスは本質的に宗教的回心のプロセスであり、そこには理性では説明できない宗教的体験がともなうことが多い。文鮮明師が再臨主であるというような宗教的なテーゼに対して、櫻井氏が本気で合理的な証明を要求しているとすれば、もはや彼は宗教学者ではあり得ない。

 彼は宗教学者として、宗教的言説に対して論理的証明を求めることはできないことは百も承知のはずである。にもかかわらず、ここで「文鮮明が再臨主であることが何ら証明されていない」と主張しているのは、統一教会の現役信者たちがこれを読むことを想定して、彼らの信仰に挑戦しているとしか考えられない。実はこれは「反対牧師」と呼ばれる人々が監禁された統一教会の信者たちに対してやってきたことと同じである。彼らは「統一教会の信仰が正しいなら、それを証明して見せろ」と迫り、証明できなければ信仰を棄てるしかないと脅してきた。しかし、人には証明できないものを信じる権利があり、それこそが「信教の自由」と呼ばれるものだ。

 信仰は証明できないことを信じるのであるから、いかなる信仰でもリスクを伴う。どのような信仰であっても、お金を入れれば必ず商品が出てくる自動販売機のように、信じれば必ず恵みや救いに預かることができる、というようなものではない。信じても救われないリスク、何も変わらないリスク、予言が外れるリスク、信仰によって逆に迫害やトラブルなどの悪いことが起こるリスクなどを抱えながら、多くの人は信仰しているのである。それでも人はなぜそのようなリスクを取ってまで目に見えない神や霊的な世界を信じようとするのであろうか?このことを理解するためには、そもそも人生そのものがリスクに満ちているのだということを知らなければならない。

 自分の未来や運命を100%予想できる者はいない。自分が選んだ道が本当に正しいのか、間違っているのかも、選んだその時点では分からない。自分の行く道が安全なのか危険なのかも、あらかじめ分かっているわけではない。そこでそうしたリスクに備える方法を人は考えるようになる。お金さえあればとりあえず何とかなるだろうと考える人は、貯金をしたり保険に入ったりするであろう。しかし自分の人生が本当に正しく安全なものとなるためには、もっと大きな力とつながり、その加護を得なければならないという発想をする人々がいるのである。そうした人々は占いによって自分の行くべき道を決めたり、信仰を持つことによって神の守りや導きを得ようとしたりするのである。

 ユダヤ・キリスト教の伝統には、神と人間が契約を結ぶという考え方があり、契約を結ぶ際の人間の側の動機は、人生におけるリスクを回避することにあった。このことは、旧約聖書に登場するアブラハムの孫ヤコブが、ベテルという場所で神に出会ったときに語った内容に典型的に現れている。
「神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主をわたしの神といたしましょう。またわたしが柱に立てたこの石を神の家といたしましょう。そしてあなたがくださるすべての物の十分の一を、わたしは必ずあなたにささげます。」(創世記28:20-22)

 これはキリスト教における「十分の一献金」の起源とされている箇所だが、ここでヤコブはまだ神を完全に信じてはおらず、「本当に私の神になって下さるのなら、十分の一をささげます」という「契約のオファー」をしていることになる。すなわち、「神が私の神となって、約束を実行してくれたなら、私は十分の一を捧げます。私の神になって下さらなければ、十分の一は捧げません」と言って交渉しているわけである。ここでは神に対する一定の奉仕(財産を捧げること)を条件として、その見返りに加護を求め、人生のリスクを回避してもらうという「契約関係」が想定されているのである。この時点では相手が契約を本当に守ってくれるかどうかは分からず、リスクが存在する。しかし、どのみち彼の行く道はリスクに満ちた険しいものだったので、ヤコブはリスクを承知で神との契約にかけてみようと思ったのである。およそ信仰者というものは、このヤコブと同じように、リスクを承知で神との契約にかけてみようと決断した人々のことを言うのである。

 櫻井氏は、「仮に文鮮明のメシヤ性に疑義が生じたとすると、地上天国実現のため、あるいは先祖の解怨のために、青年達や壮婦達が死線を突破する思いで伝道や献金に明け暮れていることにどういう意味があるのかということになる。」(p.554)と述べ、統一教会を信じることのリスクの大きさを強調する。しかし以下に示すように、こうしたことは他の宗教にも同じように当てはまることだ。

 仮にイエスのメシヤ性に疑義が生じたとすると、世界宣教のため、あるいは人々の魂の救済のためにキリスト教の宣教師が死線を超えてアフリカの未開の地に入って行ったり、禁教下の日本に潜入して殉教したことにどういう意味があるのかということになる。

 仮にムハンマドが神の啓示を受けておらず、コーランが偽物だったとすると、一日に五回もメッカの方角に向かって祈りを捧げ、一か月にわたるラマダンの断食を実行し、ジハードの名のもとに異教徒を殺したり、逆に殉教したりすることにどういう意味があるのかということになる。

 仮に釈迦の説法に疑義が生じ、修行をしても悟りが得られないとすれば、7年にもわたって比叡山の山内を歩き回る「千日回峰行」を苦労して達成することにどういう意味があり、さらには途中で行を続けられなくなって自害した修行僧の死にどんな意味があるのかということになる。

 激烈な信仰は、それだけ多くの恩恵が得られるということを前提にしている。いわばハイリスク・ハイリターンの信仰である。生ぬるい信仰は、ローリスク・ローリターンの信仰ということになる。櫻井氏は統一教会の信仰について「死線を突破する思い」といういささか大げさな表現しているが、実際に死線を突破することはほとんどない。上記のキリスト教、イスラム教、仏教の事例は、実際に死線を突破する事例が歴史的に多数存在しているのであり、その意味では統一教会に比べてはるかにハイリスクの信仰であると言えるだろう。いずれにしても、どのような信仰を持つかはその宗教の個性であると同時に、信じる人の内面がその激しさを決めるのであり、神と人との契約関係に、第三者が口をはさむべきではない。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』201


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第201回目である。

「おわりに」

 先回で本書のすべての章に対する批判的分析を終えたので、今回から全体のまとめにあたる「おわりに」の内容に入ることにする。この書評もあとわずかで終わりということだ。思えば2016年3月16日にこのシリーズを開始して以来、途中何度かの休憩を挟んで、既に4年以上の歳月を費やして書き続けたことになる。ある意味で感慨無量だ。言うまでもなく、このブログの中では最長のシリーズとなった。本書の「おわりに」は櫻井氏が執筆しているが、彼はその冒頭で以下のように述べている。
「統一教会とはつくづく不思議な宗教だと思う。調べれば調べるほど魅力が増すという意味ではない。むしろ、なぜ、信者達はこのような信仰を維持していられるのか、筆者の想像を超える信仰生活という意味で感嘆せざるをえないのだ。このような言い方は宗教学者として不遜な言い方、あるいは冷静さや客観性を欠く言い方だと思われるかもしれない。宗教には、実践しないものには容易に知りえない世界があることを承知しているし、信仰者の世界に土足で踏み込んだり、外部からとやかく言ったりすべきではないという正論も承知している。」(p.553)

 櫻井氏が「宗教学者として不遜な言い方、あるいは冷静さや客観性を欠く言い方」というのには訳がある。それは宗教学者は研究対象である宗教に対して敬意をもって接し、冷静かつ客観的な、あるいは価値中立的な立場で分析すべきであるという、学問としての作法が存在するからだ。これは、現代の宗教学が神学からの解放を通じて自らを確立してきた歴史を持つことと深く関係している。宗教を研究する学問としては、宗教学よりも先に神学があり、宗教学は神学に下属する学科として理解されていた時代があった。したがって、そこからの自らの解放、すなわち「脱神学化」こそが宗教学の目標であったため、その方法論はしばしば神学との対比において語られてきた。神学が規範的な学問であるのに対して、宗教学は経験的で記述的な学問であるとされる。この「規範的」対「経験的・記述的」という言葉は、「主観的」対「客観的」という表現に置き換えることも可能である。要するに、主観的研究が信仰の立場からの研究であり、宗教がいかにあるべきかを問うものであるのに対して、客観的研究は宗教をあるがままの姿で、実証的かつ価値中立的に取り扱うものであるとされているのである。

 宗教学は「比較宗教学」として始まり、さまざま宗教を比較研究するところから始まったが、近代的な宗教学が確立される以前の宗教の比較は、「護教論的な比較」と言ってよいものだった。その比較は、善悪や優劣などの価値判断をすることを動機あるいは目標としていた。宗教の世界における比較は、つねにある特定の宗教を有する人々が、異なる人々に出会ったときに始まるが、そこで人々は自他の宗教について異同や優劣を論じたり、その違いの原因を探ろうと努めたりする。そこにおいては、多くの場合、自身の属する宗教が暗黙の、または明白な基準として立てられ、他の宗教が「異教」「外道」ないし「異端」などとして批判されるのが常である。このように自らの宗教の真理性を明らかにするために行う比較は、自己中心的であることを免れず、客観的とは言いがたい。

 近代的な宗教学においては、特定の宗教の優越というような、信仰に基づく判断を差し控えることが根本のたてまえとなっている。それは自己の宗教の絶対化を避け難い神学からの漸進的な解放によって、はじめて独立しえたものだからである。それでも、近代的な宗教学の草分け的存在であるといえるミューラーやタイラーにおいても、経験科学としての宗教学と、宗教の起源および進化という思弁とが混在しており、諸宗教の「相対的優劣」という間接的な価値判断がまぎれ込んでいたことが指摘されている。しかし今日に至っては、宗教学は諸宗教の「相対的優劣」はもちろんのこと、その起源を論ずることをも、ほとんど放棄するにいたった。そうしたことを論じるのは実証的でないと考える、客観的な経験科学としての宗教学の立場が主流になったからである。

 こうした宗教学の伝統から見れば、本書における櫻井氏の立場は異端的であり、あきらかに逸脱していると言える。櫻井氏の批判は特定の信仰に基づく神学的な批判ではないが、彼は明らかに「宗教は本来こうあるべき」という規範を持っており、それに基づいて統一教会はとんでもない宗教だと批判しているからである。さらに彼の批判は、ときに宗教社会学の範疇を逸脱して神学的な領域にまで到達することもある。批判できるものならどんな情報も、どんな手法も使ってしまおうという節操のなさがあり、冷静さや客観性を欠いているのである。

 日本の宗教学の歴史の中には一時期、宗教者の体験的身体的理解を重んじる「体験的身体的理解」や、信仰世界に対して共感的でありながらも、その信仰の営みを時代的状況との対応関係の中で位置づけ直そうとする「内在的理解」といった手法がもてはやされた時代があった。これは研究主体とその対象という二分法を克服し、研究対象に認識主体が接近しようとい動機に基づくものであり、両者ともに宗教的世界に対して極めて好意的な姿勢を示していた。ところが、こうした手法でオウム真理教の研究に関わった宗教学者たちが、オウムの中に潜む闇を見抜くことができなかったことが批判されるようになり、こうした研究手法は「宗教に対してあまりにも肯定的すぎる」と批判されて大きく躓くこととなったのである。オウム事件が日本の新宗教研究に残したトラウマはあまりにも大きく、いまだにそこから立ち直っていないと言っても過言でないほどである。

 櫻井氏の研究手法は、こうした「体験的身体的理解」や「内在的理解」に対する反動として位置づけることができる。一言でいえば、研究対象である宗教の内面世界に対しては一切の共感を拒絶し、ただひたすら批判することを目的とした研究であるということだ。その意味でこれは規範的で主観的な研究であり、記述的で客観的な研究ではなくなってしまっているのである。なにがなんでも批判してやろうという姿勢は、冷静さも失っていると言える。
「宗教には実践しないものには容易に知りえない世界がある」という正論を櫻井氏は承知していると言っている。しかし現実には、櫻井氏は統一教会信者の内面世界を共感的に知ろうとしていないばかりか、むしろ「絶対に共感しないぞ」という決意で観察しているのである。「筆者の想像を超える信仰生活」なのではなく、そもそも共感的に想像しようとはしていないのである。「なぜ、信者達はこのような信仰を維持していられるのか」に関しても、共感しようとしないから分からないのである。逆に彼が積極的にやろうとしていることは、「信仰者の世界に土足で踏み込む」ことであり、「外部からとやかく言ったりする」ことだ。冒頭の彼の言葉は、おそらく自分の研究態度が伝統的な宗教学の作法から逸脱していることに対するある種の「後ろめたさ」から来ているのであろうが、それでもそれを貫徹しているところが櫻井氏の確信犯たるゆえんである。

 事実、彼は「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」の「第七章 統一教会信者の信仰史」に「3 研究者の立場性」という項目を設けてこのことを論じており、研究者は研究対象である教団や信者・元信者に対して、無色透明な客観的第三者として関わることは不可能であり、教団に対して親和的であるか、あるいは元信者や教団の反対勢力に対して親和的であるかといったような、何らかの「立場性」を取らざるを得ないという趣旨のことを述べている。「虎穴に入らずんば虎児を得ず」というように、統一教会について本当に知りたければ、教団の中に果敢に飛び込んで行かなければ何も分からないはずである。しかし、櫻井氏は統一教会と適切な距離を取るためにはそれができないという。そこで櫻井氏は「虎穴に入る」ことを拒否し、安全圏から相手を砲撃するという研究方法を採用した。日本社会において統一教会と反カルト運動を比較すれば、後者と一体化し、そこに身を置いた方がはるかに安全である。その意味で彼は「第三者」ではなく、対立構造にある一方当事者と同じ立場に立って研究をしているのであるが、それによって自分の身を安全地帯に置いているのである。これはある意味でオウム真理教事件以降の新宗教研修者が取るようになった、一つの処世術であると言ってよいであろう。

 櫻井氏自身が統一教会信者の内面世界に対して一切の共感を拒絶するという姿勢で本書を執筆し、同じ原理で「おわりに」を書いている以上、少なくとも統一教会の現役信者が彼の記述に共感を覚えることはあり得ない。その意味では、櫻井氏自身が言う通り、彼の記述は「統一教会信者達には余計なこと」(p.553)に過ぎないのである。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』200


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第200回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第一〇章 『本郷人』に見る祝福家庭の理想と現実」の続き

 第194回から「第10章 『本郷人』に見る祝福家庭の理想と現実」の内容に入った。この章の目的の一つは、『本郷人』が信者教化に果たしている役割を分析することにあったが、「五 統一教会的思考の枠組みの維持・強化に果たす『本郷人』の役割」は、まさにこの目的のために設けられた節である。『本郷人』には、中西氏が「4 証し、カウンセリング記事」に分類している内容がある。これは信徒たちの悩みや問題に対する教会のアドバイスであり、それを読めば①信徒たちが現実に抱えている問題がどのようなものかと、②教会はそれに対してどのような指導をしているのかを垣間見ることができる。中西氏はそれをもとに①祝福家庭における理想と現実の違いを指摘したり、②問題に対する教会の信徒指導のあり方を批判したりしている、というわけだ。信徒たちが具体的に抱えている問題の中でも特に大きな比重を占めるのが、夫婦関係に関することと、二世(子供)に関することである。先回までは夫婦関係に関することを扱ってきたが、今回は二世の教育に関することを扱う。

 中西氏によれば、『本郷人』の記事から以下のような韓日祝福家庭の子女の問題が垣間見られるという。
①言語能力や学力面での遅れや、情緒が安定しない二世が見られる。具体的には、話し始めの遅れ、会話水準の遅れ、先生の指示を聞き取ることができない、日常的な会話がまともにできない、などの問題がある。
②自信感の欠如、コミュニケーション能力の不足、学力不足。具体的には、他人との意思疎通がうまくできない、落ち着きがない、集中力がないなどの問題がある。
③韓日家庭の二世たちが、どこのクラスでも下から五番以内を占めてしまっている。

 子供の言語発達や学力の問題は、なにも統一教会の家庭だから起こるということではなく、実は国際結婚家庭の子供に共通して見られる問題であると中西氏は解説する。母親が外国人であるため、韓国語が流暢にしゃべれないことが、子供の言語能力の発達を遅らせるということである。

 しかし、単に国際家庭であるという理由にとどまらず、統一教会の韓日家庭に特有の問題により、子供に問題が生じる可能性も中西氏は指摘している。
①「にわか信者」の韓国人男性と日本人女性のカップルが多数出現することにより、その家庭の問題がそのまま二世教育の問題となった。具体的には、両親の不和、経済的困難、父親のアルコール、暴力などの問題、それによる母親の精神的葛藤やストレスが原因となって子供が情緒不安定となり、それが子供の学力やコミュニケーション能力の低さの原因となっている。
②母親が「二世はほうっておいても立派に育つ」という信仰観を持っていたり、信仰教育には関心があっても学力、能力面の教育には無関心であったり、夫が教育に無関心であったりするため、子供の学力が低くなる。

 こうした事例を取り上げることが差別や偏見であるという非難を受けないように、中西氏は「もちろんこれらは極端な例であって、韓日祝福の二世がみな言語発達に遅れがあるというのではない」(p.547)と断ったうえで、韓日のバイリンガルで成績優秀な子供や、社会で活躍する二世たちも『本郷人』の中で紹介されていると述べてはいる。そして中西氏自身が調査地で接した二世たちには、こうした問題は特にみられなかったという。

 私自身、韓日家庭や日韓家庭の二世たちは知っており、特に鮮文大学で学んでいたり、卒業した学生たちとは一緒に仕事をしたこともある。彼らは日本語と韓国語を自由に操るバイリンガルであり、さらには英語に堪能な者もいて、仕事ぶりは優秀であった。やはり『本郷人』で相談の事例に上がるようなケースは、全体の中では特に問題のある子供に関する情報が集められたと理解すべきであろう。

 にもかかわらず、中西氏は「原罪のない祝福二世は本来いろいろな面で一般の子供よりも優れているとされ、清平の大母ニム(大母様)によれば、二世はみな『クラスで五番以内に入る能力を天から祝福されている』という。教説上はそうであっても実際は国際結婚家庭が抱える問題を統一教会信者の二世も同じく抱えている。・・・国際結婚は国家・民族・宗教を超える最も理想的な結婚とされているが、現実問題として乗り越えなければならない課題は数多い。二世の育児、教育関連の記事は韓日祝福という国際結婚の理想と現実のギャップを如実に表すものとなっている。」(p.548)というような批判的なまとめ方をしている。こうした問題に対して、教会が具体的なサポートを提供することによって対応しようとしていることを紹介したうえで、「子供の言語、学力の問題は信仰だけではどうにもならないということだろう。」という皮肉も忘れていない。

 韓日祝福家庭の子供たちの中に言語や学力の面で問題を抱えた者がいることは事実であろう。しかし、同時に優秀な子供も、平均的な子供もいるのであって、その割合が一般の子供に比べて高いとか低いとかいったような統計的なデータは存在しない。統一教会の価値観は、祝福二世は学校の成績に代表されるような外的な能力において優れているから素晴らしいということなのではなく、彼らの血統的な位置、神の子女としての存在そのものに価値があると考えているのである。外的な能力において優れている祝福二世がいたとすれば、それは神の恩寵によってそうなったのであり、それによって彼らの価値が決定するとは考えていない。二世の中には障碍者もいるし、能力の劣る者もいるし、逆に優秀な者もいる。それでも彼らは等しく「祝福二世」としての価値を有しているというのが、基本的な考え方である。

 日本の祝福二世も、国際結婚であるとないとにかかわらず、さまざまな問題を抱えている事例はあり、そうした問題は教会本部の「総合相談室」が対応している。日本における教会関係の出版社である光言社のウェブサイトの中に、「総合相談室Q&A」というシリーズの動画があり、臨床心理士の資格を持つ教会員である大知勇治講師が16回にわたって祝福二世の様々な問題に対して答えている。そのタイトルと内容を列挙すれば以下のようになる。
・なぜ祝福家庭に問題が起こるのですか
・二世の心の問題にどう対処したらいいですか(二世のストレスの問題)
・二世の心の問題に“家庭”ではどう対応したらいいですか(心が癒される家庭とは)
・子供の不登校をどのように理解し、対応したらいいですか
・二世の非行をどう理解し、対応したらいいですか
・二世の障害をどう理解し、対応したらいいですか(身体障害、知的障害、発達障害)
・発達障害をどう理解し、対応したらいいですか①(学習障害)
・発達障害をどう理解し、対応したらいいですか②(ADHDとアスペルガー症候群)
・発達障害をどう理解し、対応したらいいですか③(二次障害)
・精神疾患をどう理解し、対応したらいいですか①(精神疾患とは何か)
・精神疾患をどう理解し、対応したらいいですか②(統合失調症)
・精神疾患をどう理解し、対応したらいいですか③(うつ病)
・精神疾患をどう理解し、対応したらいいですか④(適応障害)
・精神疾患をどう理解し、対応したらいいですか⑤(嗜好と依存)
・精神疾患をどう理解し、対応したらいいですか⑥(ひきこもり)

 こうしたビデオ教材を研究対象とするときには、研究者の態度によって取り扱い方は大きく変わるであろう。好意的にとらえれば、統一教会は宗教団体でありながら具体的な問題の解決においては医学的・科学的アプローチをきちんとしている団体であるという評価になろう。しかし批判的にとらえようとすれば、「祝福二世は原罪のない神の子でありながら、現実には様々な障がいや疾病を抱えていることが分かる。これは祝福家庭の理想と現実のギャップを如実に表している」というような論評をすることも可能であろう。中西氏が『本郷人』の記事に対して行っていることは、まさに後者と同じである。

 一部の祝福二世に問題があることが事実であったとしても、それは祝福二世全体を代表する存在ではないし、そうした問題を受け止めて真摯に対応しようとする教会の姿勢は肯定的に評価するのが常識的な対応であろう。にもかかわらず中西氏は、そうした一部の問題をとらえて「宗教的な理想と現実のギャップである」と批判しているのである。彼女のこうした扱い方は悪趣味であり、非人格的であり、研究者としての良識が疑われるものである。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』199


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第199回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第一〇章 『本郷人』に見る祝福家庭の理想と現実」の続き

 第194回から「第10章 『本郷人』に見る祝福家庭の理想と現実」の内容に入った。この章の目的の一つは、『本郷人』が信者教化に果たしている役割を分析することにあった。この章の「五 統一教会的思考の枠組みの維持・強化に果たす『本郷人』の役割」は、まさにこの目的のために設けられた節である。『本郷人』には、中西氏が「4 証し、カウンセリング記事」に分類している内容がある。これは信徒たちが具体的に抱えている悩みや問題に対する教会のアドバイスであり、それを読めば①信徒たちが現実に抱えている問題がどのようなものかと、②教会はそれに対してどのような指導をしているのかを垣間見ることができる。中西氏はそれをもとに①祝福家庭における理想と現実の違いを指摘したり、②問題に対する教会の信徒指導のあり方を批判したりしている、というわけだ。信徒たちが具体的に抱えている問題の中でも特に大きな比重を占めるのが、夫婦関係に関することと、二世(子供)に関することである。

 前回は、夫婦関係に関する部分を特にクローズアップさせて扱った。それは『本郷人』のアドバイスやカウンセリングの記事に対する中西氏の批判の中心が、夫婦関係や妻としての姿勢に関するものに集中しているためである。『本郷人』のアドバイスは、基本的に「夫を立てること」「夫を受容すること」「妻が下がること」「妻が変わること」などを求め、たとえ夫に問題があっても問題の所在を妻に求め、妻に忍耐と努力を求めるものになっている点を中西氏は批判している。中西氏でなくても、フェミニズムの影響を受けた者であれば、『本郷人』の女性に対するアドバイスは旧態依然とした家父長制社会を背景としたものであり、到底受け入れられるものではないだろう。しかし、中西氏の批判はそこにあるのではなく、そもそも韓日祝福家庭の形成には統一教会が深く関わっており、大変な夫婦関係を作り出した主要な責任は統一教会にあるのだから、それは個人の処世術というよりは、教団運営の都合から来ているのではないかということだ。すなわち、韓日祝福家庭を存続させるために、日本人女性信者に対して現状受容と自己否定を要求しているのではないか、ということだ。

 一方で中西氏は、「妻が下がる」や「夫を立てる」などは統一教会独自のものではなく、戦後発展した日本の新宗教教団においても説かれた女性の徳目であったことも指摘している。問題は、こうした指導が在韓日本人信者に特有のものであるか、国に関わらず統一教会において普遍的な指導であるかということである。このことを理解する手掛かりの一つに、日本における教会関係の出版社である光言社のウェブサイトの中で、家庭生活の指導に関する内容を分析してみるという手法がある。

 夫婦関係を指導するものとしては、まず男性講師である松本雄司氏(家庭と未来研究所所長)が、「夫婦の愛を育てるために」というビデオ講座を21回にわたって配信している。その内容は多岐にわたっているが、第8回「男と女の違い」、第9回「男らしさ、女らしさ」、第11回「男のプライド」などにおいて、そもそも男性と女性は互いに異なるものであり、女性は男性のプライドを傷付けるような言動をしない方がよいという指導がなされている。松本氏のこの口座の内容は、『夫婦愛を育てる16のポイント』という光言社刊の書籍にもまとめられている。

 女性講師によるものとしては、橘幸世氏の「夫婦愛を育む幸福の基本原則~母のように娘のように~」という、女性信者向けの16回シリーズの動画がある。この中にも第5回と第6回「あるがままを受け入れる」、第7回「長所を見て、感謝する」、第8回「尊敬し、称讃する」、第9回「夫を最優先する」、第11回「主体者を”主体者”らしく」、第13回「男性のプライドを傷つけない」などのタイトルが示しているように、松本氏と同様の女性の側の努力を求めるアドバイスが語られている。この橘幸世氏によるビデオ講座の内容も、『夫婦愛を育む魔法の法則:愛され上手なかわいい妻に』という光言社刊の書籍にまとめられている。

 松本氏のアドバイスも、橘氏のアドバイスも、リベラルなフェミニズムの主張とはかけ離れたものである。そもそも男と女には違いがあり、女性が男性の特徴をよく理解してそれを受け入れ、主体者としての男性を立てることによって夫婦関係がうまく行くと説いている点では、『本郷人』のアドバイスに通じるものがある。このことから分かるのは、少なくとも韓国と日本においては、夫婦関係を良くするためのアドバイスに本質的な違いは見られないということだ。韓日祝福家庭の関係が特に大変だから日本人女性に対して一方的に現状受容と自己否定を要求しているのではなく、そもそも統一教会には「夫婦関係を良くするための女性の心得」という普遍的な信仰指導が存在するととらえた方がよいだろう。これは統一教会の家庭観が、女性の自立やエンパワーメント、男女の役割分担論の否定といった現代フェミニズムの主張とはかなり遠いところにあり、基本的に保守的なものであるということだ。

 日本の祝福家庭は基本的には信者同士の結婚であり、韓国のように非信者である農村男性に信者の女性が嫁ぐということは行われていない。中西氏が観察したような経済的な困難や、夫の酒、タバコ、暴力といった問題も、日本の祝福家庭にはほとんど存在しない。にもかかわらず、アドバイスは「夫を立てて、愛される妻になろう」と説いている点では韓国と同じなのである。中西氏の研究の欠点は、こうした信仰指導が国を超えた普遍的なものなのか、在韓日本人女性に固有のものなのかを比較検討することなく、韓日祝福の特殊性からくる対処療法的な指導であると決めつけている点である。

 一方で、日本と韓国における信仰指導の類似性は、両国が儒教という共通の価値基盤を持ち、同じ東洋の国として、夫婦関係のあり方が似ていることに原因があるのかもしれない。男性が主体で女性が対象という統一原理の教えは、こうした文化圏の女性には比較的抵抗なく受け入れられるかもしれないが、アメリカでは少し事情が異なるようである。

 統一教会の祝福について研究を行った米国の宗教社会学者ジェームズ・グレイス博士は、著書『統一運動における性と結婚』において、男性が主体であり女性が対象であるという『原理講論』の公式の教えがあるにもかかわらず、実際の夫婦関係における男女の役割分担に対する考え方は祝福家庭のカップルの中でも様々な解釈が存在すると分析している。すなわち、文字通り女性は男性に従うべきであるという考え方をする者もいれば、主体と対象はより実存主義的な意味であり、役割分担を固定化しないより開かれた解釈をすべきだと考える者もいたということだ。アメリカ人女性であれば、むしろ後者の解釈をする方が自然であると思う。

 このことから敷衍すれば、韓国と日本における祝福家庭の夫婦関係の関係に関するアドバイスも、時代によって変化する可能性があるということになる。東洋と西洋では夫婦関係のあり方が文化的に異なるので、それを背景として信仰指導のあり方も異なる。同様に、同じ東洋の中にあっても、時代と共に夫婦関係のあり方が変われば、それに従って信仰指導のあり方も変化する可能性はあるのである。そうした意味で、『本郷人』のアドバイスやカウンセリングの記事は、時代的・文化的制約の中で書かれたものであることを理解する必要がある。

 現実問題として、儒教文化が支配的な韓国の田舎において、夫婦関係のあり方に関する指導をフェミニズム的な視点から行えば、夫婦関係を良くするどころかかえって悪化させるような破壊的なものになるであろう。それは韓国の夫や舅姑の中にそのような価値観が全くないのであるから、それをいくら嫁が声高に叫んだところで受け入れらないからである。『本郷人』の信仰指導には、「郷に入っては郷に従え」というプラグマティックな側面もあるであろう。もとより統一教会に入信する女性には、家庭に関しては保守的な価値観を持った者が多い。エバの罪とか、日韓の蕩減というような神学的な意義付けもあるかもしれないが、日本女性が伝統的に持ってきた嫁としての美徳を、一昔前の日本の姿のような韓国の田舎において発揮しているのだと見ることもできる。この点に関しては、神学よりもその地の文化の方がより大きな力として働いていると解釈することも可能であろう。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』198


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第198回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第一〇章 『本郷人』に見る祝福家庭の理想と現実」の続き

 第194回から「第10章 『本郷人』に見る祝福家庭の理想と現実」の内容に入った。この章の二番目の目的は、『本郷人』が信者教化に果たしている役割を分析することにあった。「五 統一教会的思考の枠組みの維持・強化に果たす『本郷人』の役割」は、まさにこの目的のために設けられた説である。中西氏によれば、『本郷人』には①復帰摂理の歩みや原理の確認によって教義面で信仰を強化する役割と共に、②証しやアドバイスによって信者の実生活上の諸問題の解決を示し、信者の精神や生活を安定させる役割があるという。前回は前者の分析を扱ったが、中西氏の批判はあまり意味のない言いがかり的な主張であった。今回扱う「4 証し、カウンセリング記事」に関する批判は、彼女なりの問題意識が表現されており、より読み応えのあるものになっている。

 『本郷人』のアドバイスやカウンセリングの記事に対する中西氏の批判の中心は、夫婦関係や妻としての姿勢に関するものに集中している。
「アドバイスでは、夫を立てること、受容すること、夫を変えるためにはまず妻が変わること、愛される妻になることなどが求められている。」(p.537-8)
「アドバイスの傾向として、夫に変わることを求めるのではなく、妻が下手に出る、妻が変わることによって夫自らが変わるように仕向けるということを説く。たとえ夫に問題があっても問題の所在を妻に求め、妻に忍耐と努力を求める。」(p.540)

 これらは夫の関係を良好に保つための対処法的アドバイスだが、対処する方向には向かわないようなアドバイス、すなわち現状に甘んじるしかない態度を形成するように仕向けるアドバイスも見受けられると中西氏は分析する。

 こうした「妻が下がる」や「夫を立てる」などは統一教会独自のものではなく、戦後発展した日本の新宗教教団においても説かれた女性の徳目であったことは中西氏も承知している。その意味で、これも特に珍しい現象ではないという解釈も成り立つのだが、中西氏はそのようには捉えない。それはそもそも韓日祝福家庭の形成には統一教会が深く関わっており、大変な夫婦関係を作り出した主要な責任は統一教会にあるのだから、それは個人の処世術というよりは、教団運営の都合から来ているのではないかということだ。すなわち、韓日祝福家庭を存続させるために、日本人女性信者に対して現状受容と自己否定を要求しているのではないか、ということだ。

 一方で、厳しい現実のゆえに日本人女性たちは苦労することに慣れた「不幸体質」に陥っており、そこから脱却するための「ポジティブシンキング」を説くようなアドバイスもあるという。生活の中で小さな喜びや感謝を見つけ出し、それをあえて口に出して唱え、そのような感性を増幅させることによって希望を見出そうというような内容である。

 中西氏は、韓日祝福家庭が抱える「生活が苦しい」「夫婦関係がうまくいかない」などの問題は、統一教会における結婚の特殊性と韓国の社会構造に起因するものなので、こうしたアドバイスを日本人女性たちが実践したとしても根本的な問題解決にはならないと批判する。問題解決を日本人女性の忍従と努力にのみ求めるアドバイスか、現状を受容するだけの「諦念のアドバイス」にしかなっていないというのである。

 さらに中西氏は、夫の問題や夫婦生活の問題の解決法において、女性に対して忍従を強いる際に『本郷人』が持ち出す神学的理由づけも気に入らないようだ。それは①人類堕落の原因を作ったのはエバであり、女性であったという観点と、②日本は韓国を植民地支配した国なので、それを償う使命があるという観点だ。日本人女性は、二重の意味で罪を償う立場から逃れられない存在になってしまっている。こうした日本人女性の立場は、中西氏の同情の対象になっており、本章の結論部分である「六 『本郷人』に見る韓日祝福家庭の姿と信仰強化のあり方」において、中西氏は以下のように述べている。
「信仰の自由のもとにいかなる教説であれ尊重されなければならないし、日本人と韓国人が国際結婚をして家庭レベルで日韓のわだかまりを解消しようというのはわかる。しかし統一教会の教説は日本人女性信者にとってはあまりに過酷なものではないだろうか。」(p.551)

 中西氏の思想的傾向はよくわからないものの、フェミニズムの影響を受けた者であれば、『本郷人』の女性に対するアドバイスは旧態依然とした家父長制社会を背景としたものであり、到底受け入れられるものではないだろう。ただし、韓日家庭が両国のわだかまりを解消しようとしている点は評価しており、アンビバレントな一面も見せている。

 中西氏は日本人の女性として調査対象と属性を共有しており、感情移入しやすい立場にある。同じ日本人女性が異国の地で孤軍奮闘しているにも関わらず、韓国人の男性は責任を追及されることはなく、教団も具体的な問題解決を図るのではなく、日本人女性に現状を受け入れるようアドバイスしている状況を理不尽に感じたのであろう。それは理解できる。ただそれは、信仰を共有しないがゆえにそのように見えるのだ、という点を指摘しておきたい。

 韓国に嫁いだ統一教会の日本人女性たちは、「悲劇のヒロイン」ではない。そもそも彼女たちは騙されて韓国に嫁いだわけではなく、苦労を承知の上で自分の意思で韓日祝福を選択したのである。彼女たちはただ苦労するために韓国に嫁いできたのではなく、神によって召命された者として、勝利者になるために韓国にやってきた。それは以下のような統一教会の教義に基づく主体的な決断である。
①幸福の源泉は愛することにあり、それは他者の為に生きることである。
②統一教会の食口は地上天国実現のために召命された者であり、この地上の存在するあらゆる問題を解決する代表的な使命を背負っている。
③自分は「歴史の結実体」であり、歴史的な罪を清算すべき使命がある。
④罪の清算には「蕩減」が必要であり、それは罪の償いのために苦労することである。
⑤日本と韓国の間には、清算しなければならない歴史的蕩減内容がある。
⑥自分は「氏族のメシヤ」であり、家族・親族の中に神を迎える勝利者にならなければならない。
⑦女性は男性の前に対象であり、男性を通して神の愛を受ける立場である。
⑧復帰のプロセスにおいては、女性が男性を生みかえて神のもとに返す使命がある。

 もし彼女たちの韓日祝福が自らの意思に反して強いられたものであったら、中西氏が目撃したような平穏無事な暮らしさえも不可能であっただろう。しかし、統一教会の日本人女性たちの多くは、信仰に裏付けられた主体性を持つ、たくましい人々であった。中西氏自身も認めているように、韓国に嫁いできた目的を見失うことなく努力を重ね、舅姑から良い嫁として認められたり、地域社会から「孝婦賞」を受けた者も多い。大統領賞や法務部長官賞などの名誉ある賞を受けた者もいるし、社会的に活躍している日本人女性も多い。このように勝利した女性たちに対しては、「統一教会の教説は日本人女性にとってはあまりにも過酷なものではないだろうか」という彼女の発言はまったく当てはまらず、「余計なお世話」に過ぎない。むしろ彼女たちは統一教会の教説によって自己実現し、充実した人生を歩んでいるのである。中西氏は、信仰者の主体性と強さを過小評価しているが、これは彼女自身が信仰を共有しないために見えてこない世界なのであろう。

 しかし一方で、中西氏の主張に共感できるような状況を背負った韓日祝福家庭も存在することも事実である。以前も一度述べたが、祝福は本来ならば男女とも信仰を動機としてなす結婚であるべきである。しかし、韓国統一教会には日本人女性の相手となる十分な数の男性信者がいなかったので、日本人の女性信者の相手を探すために、結婚難に苦しむ田舎の男性に声をかけるということを始めた。信仰のない男性に嫁がせることに対する不安や批判は当然あったと思われる。しかし日本の女性信者は優秀で信仰が篤いので、そうした男性をも教育して最終的には伝道することを期待して、こうしたマッチングが行われた。しかし、それにも限度があり、個人としては負い切れないような十字架を背負った女性たちを生み出してしまったこともまた事実である。それは特に36万双(1995年)においては顕著であり、単に信仰がないだけでなく、お酒やタバコの問題、定職がなく経済的に困窮している、夫から暴力を受ける、などのさまざまな困難に直面した女性がいたことも聞いている。結婚難に苦しむ韓国の農村男性に祝福を受けさせる場合には、まず結婚不適合者でないかどうかをきちんと調査し、最低限の原理教育を行ってから祝福を受けさせるべきであったにもかかわらず、祝福の数を追求するあまりに、それをきちんとしなかったことは問題であった。そうしたケースにおいて、個人としては負い切れないような十字架を背負った女性たちの状況は確かに「過酷」であり、『本郷人』のアドバイスの一部は、それに対するフォローアップの役割を果たしていると言える。しかし、それは在韓の日本人女性全体を代表する事例ではないことを理解する必要がある。中西氏の分析は、こちら側の事例を普遍化して韓日祝福家庭全体を論じている点で間違っている。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』197


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第197回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第一〇章 『本郷人』に見る祝福家庭の理想と現実」の続き

 第194回から「第10章 『本郷人』に見る祝福家庭の理想と現実」の内容に入った。この章の二番目の目的は、『本郷人』が信者教化に果たしている役割を分析することにあった。「五 統一教会的思考の枠組みの維持・強化に果たす『本郷人』の役割」は、まさにこの目的のために設けられた説である。中西氏によれば、『本郷人』の役割には以下の三つがある。

「①行事や儀式開催の記事は理想世界実現のための復帰摂理が実際に進行していることを伝える。
 ②行事や儀式で語られた文鮮明の御言葉から信者は家事育児に追われる中にあっても統一教会の教えを再確認できる。
 ③証しは同じような境遇にある信者を勇気づけ、家庭生活や夫婦生活についてのアドバイスの記事は悩みの解決や生活指針となる。」(p.530)

 宗教団体の発行する新聞に教団主催の行事に関する記事、教祖の言葉、信者の証しなどが掲載されるのは当たり前のことなのだが、中西氏はここであえて日本と韓国の違いを強調して『本郷人』の役割を分析している。すなわち、日本では信徒たちは管理された状態にあったが、韓国では「非原理世界に放り出された状態」になっているので、信仰の意味を見失いかねないから、こうした出版物が必要だというわけだ。「教団にとって『本郷人』は在韓日本人信者の思考の枠組みを強化し、日本で培った信仰を維持させる役割を持っている」というわけだ。

 宗教団体が信徒の信仰を維持させようとするのは当然である。統一教会の場合、青年期に入教した者は集団生活を通して信仰を強化していく場合があるが、やがて家庭を持てば家族単位の生活に移っていく。これは日本にいても韓国にいても同じである。その際に信仰を維持するための代表的な手段が日曜日ごとの礼拝の参加と出版物の購読である。日本には光言社という教団の出版社があり、そこから発行される新聞、雑誌、映像ニュースなどを通して、信徒たちは最新情報を入手して信仰を強化している。信仰生活の基本は礼拝に参加することだが、日本にも仕事の都合や地理的な要因で礼拝に出られない信者はいる。そうした場合には出版物を通して信仰を維持強化することはある。韓国にも成和社という出版社があり、同様の機能を果たしているが、『本郷人』の特徴は日本人コミュニティーのために日本語で出版されているということだ。

 したがって、『本郷人』の役割は基本的に日本で光言社が信徒向けに出版している媒体と同じであり、在韓日本人信者だから特別に出版物を必要としているわけではない。韓国教会における『本郷人』の特徴をあえて挙げるとすれば、母国語で書かれているために日本人信者には読みやすく、編集の観点も日本人に合わせているため、成和社の出版物よりも親しみやすい点にあると言える。こうした媒体は、英語圏やその他の言語圏の外国の統一教会の日本人コミュニティーも存在するかもしれないが、在韓日本人は数の上で圧倒的に多いので最も充実した内容になっているのであろう。中西氏は『本郷人』の役割について、「統一教会的思考の枠組みの維持・強化」といった「マインド・コントロール」を匂わせる表現をあえて用いているが、要するにごく普通の教団の出版物に過ぎないのである。

 中西氏が復帰摂理の進行を表している記事として紹介しているものは、2003年から2008年にかけて行われた統一運動の行事に関するものであり、その時代を信者としてリアルタイムで生きた私としては、どれも懐かしいものである。特に私はUPFの事務次長だった時代にこれらの行事の多くに参加しており、復帰摂理の進行をこうした新聞記事ではなく現場で直接感じる側に立っていた。

 中西氏が『本郷人』の第二の役割として挙げている「2 原理の再確認」という部分では、「『本郷人』を読む信者は『原理講論』を開かなくても、礼拝に参加できなくても、『本郷人』を読むことで教説を復習し、韓国に嫁いだ意味を再確認することできる。」(p.532)としている。これも教団の出版物の当たり前の機能である。中西氏は文鮮明師が2003年に語った「真のご父母様誕辰記念式」の講演、さらには2005年に語った「天宙平和連合創設大会基調演説文」を抜粋して紹介している。後者はUPFの創設大会でのメッセージであり、私はこれをニューヨークのリンカーンセンターで直接聞いている。「天宙平和連合」は世界の紛争解決と平和実現には機能不全に陥っている国連に代わって、神の創造理想である平和世界の実現のために「新しい次元でアベル的国連の機能を発揮できる新しい国際機構」とされる、という中西氏の解説は正確な表記だと評価できる。

 中西氏は、こうした講演は信者向けに語られたものではないが、その内容は統一教会の教説そのものであると指摘する。そして信者はこうした内容を『本郷人』で復習することを通して、教祖に対する感謝の念を強くし、統一教会の世界観を強化しているというのである。UPFの創設大会の講演文についても、「現在の国連を『カイン的』、天宙平和連合を『アベル的』と表現し、現実の世界を統一教会の世界観に取り込んで解釈しているが、これは統一教会の世界観の強化として捉えられる。信者は同じ世界に生きながらも、この世はサタンの支配にあると見ているように、同一のものを見ても解釈は教団固有の枠組みでなされる」(p.535)と分析して、あたかもそれが特別なことであるかのように表現している。

 しかし、そもそも「世界観」とはそのようなものではないだろうか? われわれはみな同じ世界に生きながらも、それぞれが独自の世界観を通して世界を見つめており、個人において世界観が異なるのと同様に、集団間の世界観の違いというものが存在する。同じニューヨークに住んでいても、根本主義者のクリスチャンと、無神論者のビジネスマンと、移民のイスラム教徒では全く違った世界の見つめ方をしているであろう。彼らは同一のものを見てもそれぞれ固有の枠組みでそれを解釈し、行動するのである。日本人とアメリカ人と韓国人では同じニュースを聞いても解釈や反応は異なるであろうし、中東や南米の人々はそれとはまた違った見方をするであろう。こうした多様な世界観が存在する中で、統一教会の信徒たちが自らの教説に従って世界を見つめることは至極当然なことであり、教団がその世界観を維持・強化しようとするのも何ら特別なことではない。

 このことはあまりにも当然なので、中西氏はあえて「フォーデーズセミナーでは『お父様の詩』が朗読され、信者は真の父母に対する負債を感じ献身を決意したが、この記事も『お父様の詩』と同じような役割を果たす。」(p.535)と解説して、その特異性を強調しようと試みている。実は、中西氏自身は日本の統一教会に対する調査を行っていないので、この「お父様の詩」に関する知識は受け売りである。これは統一教会信者が伝道されるプロセスについての櫻井氏の記述に登場し、修練会の最中にこの詩を朗読する儀礼が行われると、受講生の感情が揺さぶられ、正常な判断力を失ってしまうと主張されているものだ。実はこれと同じことを札幌「青春を返せ」裁判の原告たちも主張しており、この詩が朗読されると、内容に感動して号泣する受講生が続出し、情緒に訴えられた結果として文師をメシヤと受け入れてしまうようになるのだという。はたしてこの詩にそれほどの魔法のような効果があるのかどうかははなはだ疑問だが、中西氏の主張にはかなりの無理がある。

 櫻井氏の記述によれば、この「お父様の詩」はフォーデーズセミナーにおいて「イエス路程」の講義が終了した後に、セミナー室の明かりが消され、ろうそくを持った班長達が並ぶ厳粛な雰囲気の中で、荘厳に朗読されるものであるという。修練会という特殊な環境の中で、感情が盛り上がってきたところで演出効果を伴って読まれるので、感情が揺さぶられるというのが櫻井氏の主張である。そして詩の内容は情緒的なものだ。

 一方で、中西氏が引用している「真のご父母様誕辰記念式」(2003年)の講演と「天宙平和連合創設大会基調演説文」(2005年)は、対外的に開かれた場で非信者の聴衆に向かって語られた講演である。私は後者の講演が行われたニューヨークのリンカーンセンターにいたが、参加者は世界各国の政界、宗教界、学界、言論界、およびNGOなどの指導者たちであった。日本からもこうした人々を連れて行き、彼らのケアーをするのが私の役割であった。つまり、この講演文は文鮮明師の信念や世界観を表明したものであるとはいえ、信者に対してではなく広く一般社会に向けて発信した内容なのである。このようにまったく状況の異なる場で語られたスピーチを、「お父様の詩」と呼ばれる出典不明の文章と同じ役割であると強弁するのは、あまりにも無理がある。あえてそうしなければならなかった理由は、出版物の購読というどこの教団でもやっているごく一般的な宗教実践に、「洗脳」や「マインドコントロール」の匂いを吹きかけるための装飾が必要だったということだろう。姑息で稚拙な小細工としか言いようがない。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』196


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第196回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第一〇章 『本郷人』に見る祝福家庭の理想と現実」の続き

 第194回から「第10章 『本郷人』に見る祝福家庭の理想と現実」の内容に入った。この章において中西氏は、韓国家庭連合が発行する新聞『本郷人』に掲載されている信者の証しを分析することを通して在韓日本人信者の全体像を把握し、それを自身のフィールドワークによる調査結果と比較している。その中で中西氏は、「3 本郷人互助会の援助対象者」という項目を設けて、祝福家庭の中でも特に困難な状況にある家庭の状況を一覧表にして掲載している。互助会の援助を受ける者たちは、病気、事故、災害、詐欺などで緊急支援を要する祝福家庭である。中西氏が出会った在韓日本人信者の中にはこれほど困難な状況にある祝福家庭はいなかったため、これらは特殊事情と言える。

 実は中西氏は本章と同じ内容を「韓国に渡った統一教会日本人女性信者の実態」と題して『宗教と現代がわかる本2011』(平凡社)に掲載しているが、これに対して統一教会広報局が2011年6月13日付で「抗議及び謝罪要求」を出している。抗議の趣旨は、中西氏が『本郷人』の証しの中から「過去の困難な状況」の部分だけを抜き出し、みんなで助け合った結果「今は幸せになりました」という、事実伝達で最も重要な結論部分を意図的に省いている点だ。これは「韓日祝福家庭は困難な状況にある」という印象を読者に与えようとする悪質な情報操作であり、侮辱であるというわけだ。しかし私は、本章を全体として見るとき、問題点は個々のデータよりもむしろ「4 調査事例との比較」と題した価値判断の部分にあると思ったので、今回はこの点について分析を行いたい。

 中西氏が『本郷人』に掲載された信者の証しを分析した目的は、彼女の調査対象が「はずれ値」ではなく、在韓日本人信者の平均的な姿であるかどうかを確認するためであった。この問いに対する中西氏の結論は、「調査事例は、ソウル中心部での事例を除けば、在韓の韓日祝福家庭のほぼ平均的な姿と見て差し支えないだろう。」(p.528)というものである。社会学的な調査結果の報告であれば、これで目的を達成したはずであり、それ以上の記述は必要ないはずである。ところが中西氏はまたしてもここで主観的な価値判断が込められた評価を行っている。調査の結論は、大多数の在韓祝福家庭婦人は経済的には楽でなかったとしても何とか平穏無事に暮らしており、一部に特別な支援を受けなければならない困難な家庭が存在するが、彼らは信徒の互助組織から援助を受けているというものであった。しかし、これでは「統一教会に対する批判的な研究書」であるという本書の目的が果たせないと感じたのか、いきなり以下のような記述が始まるのである。
「調査事例や『本郷人』の事例から浮かび上がってくる韓日祝福の家庭の様子は、日本人女性達が生まれ育った家庭よりも経済的・社会階層的に下降移動した暮らしである。もし彼女達が統一教会に入信せずに日本で一般の結婚をしていたならば、おそらく経験せずに済んだ暮らしぶり、生活水準であろう。経済的安定や都市部に暮らすことだけが幸福の基準になりえないにしても、彼女達の韓国での暮らしは信仰のもとに強いられたものである。統一教会では、韓日祝福は怨讐を超えた理想の結婚であり、自分で望んでできるものではなく神の召命であると教える。韓日祝福は最も理想の結婚と強調しながら、現実はその逆である。それでも困難を乗り越えてこそ神に嘉される理想家庭となると説き、日本人女性達に忍耐と努力を求める。」(p.529)

 農村に嫁いだ日本人女性達の結婚が「下降婚」であったことが客観的な事実であったとしても、それが信仰のもとに強いられたものであるという彼女の主張には全く根拠がない。以前にも紹介したが、中西氏が最初に書いた論文である「『地上天国』建設のための結婚一ある新宗教教団における集団結婚式参加者への聞き取り調査から一」(「宗教と社会」Religion and Society 2004, Vol.10: 47-70)においては、「統一教会の結婚は、男女が好意をよせ合った結果の結婚とは異なるが、彼女たちにとって自己実現となり得るものであった。…。彼女たちの語りから構成してみると、合同結婚式を受け入れ、韓国での結婚生活を継続できるのは、彼女たちが元来もっていた欲求と統一教会の結婚観が一致した結果であると解釈できるものとなった。…筆者は、欲求と統一教会の結婚観とに一致がなければ、彼女たちがA郡に暮らすまでに至らなかったのではないかと感じる。」(上記論文のp.64-65)と書いてあるように、調査直後の記述においては、この結婚が強いられたものであるとはひとことも言っておらず、むしろ肯定的な評価をしているのである。それが本書においては「信仰のもとに強いられた」という真逆の評価に差し替えられているのだ。このような主張の「ブレ」を見ても、彼女のこの記述はをそのまま信じることはできない。そもそも、「信仰のもとに強いられた」という表現自体が矛盾をはらんでいて意味不明である。信仰に基づく行為であれば、それは本人の主体的意思であるはずだ。強いられるとは本人の意思に反して強制されることだが、中西氏の記述する日本人信者たちの生活の様子には、強制の要素は一切見当たらない。中西氏は「自分で望んでできるものではなく神の召命である」という教えをその根拠にしていると思われるが、神の召命は個人の内面における宗教体験によって主観的に感じられるものであり、他者が強制できるものではない。こうした発言は中西氏が「宗教音痴」であり、宗教的な事柄に対しては専門的な発言をする資格がないことを示している。

 もう一つの中西氏の問題は、「韓日祝福は最も理想の結婚」であるという統一教会の宗教的観念と、韓日祝福家庭の現実の貧しさをごっちゃにして「逆である」という価値判断をしていることである。日本人女性達は経済的な豊かさを求めて韓日祝福を受けたのではないし、韓国の田舎の現実を知らないわけでもなかったにもかかわらず、そこに宗教的な意義を見出して韓国に嫁いできたのである。彼女たちが思い描いていた「理想の結婚」は、経済的な豊かさを求めるという世俗的な「理想」とは全く関係がない。それを「逆」であると同一次元で対比させる中西氏の論法は、統一教会の宗教的価値観に対して世俗的な価値観を押し付けて批判していると言える。中西氏は続けて以下のように書いている。
「証しに綴られている内容も舅姑に仕えた、問題ある夫だが夫に感謝し立てるようにした、自分に問題があったと改心した、夫が失業したときは働いて生活を支えたなど、現状をそのまま受けとめ、耐えて頑張ったという話が中心である。よく耐えて暮らしているものだと思うが、統一教会では人類始祖の堕落によって世界はサタンの支配となったのだから苦労するのは当然と考える。堕落で人間が背負った原罪、自犯罪、遺伝罪、連帯罪は、苦労することで清算、すなわち蕩減になるとされる。苦労は意味づけされることによって宗教実践となる。在韓の日本人信者は、苦労を地上天国のため、霊界で幸せに暮らすためには必要な宗教実践と受けとめて暮らしているわけである。人間だれしも苦労したくはないが、同じ苦労であっても意味がある苦労なら耐えられるのと同じで、彼女達も蕩減という意味づけによって苦労を甘受している。」(p.529)

 自分の身の回りに起こる苦労が罪の清算であるとか、先祖の因縁であると捉えるのは、統一教会に限らず多くの宗教の教えに共通している。苦労が意味づけされることによって宗教実践となるというのも同じである。中西氏はそもそもそういう考え方一般をどう評価しているのだろうか。記述を見る限りでは、彼女の主張には一貫性がなく、ブレまくっていると言えるだろう。彼女は、そうした生活をしている女性に直接インタビューをしたわけであるから、ある意味で同じ女性として、苦難に立ち向かう彼女たちのたくましい姿に敬意を抱いた面もあったのだろう。その一方で、「日本人女性信者達だけが地上天国を目指して孤軍奮闘しているように思えてならない」(p.529)という批判も忘れない。日本人女性そのものを責める気持ちにはなれないので、その周辺にいる夫や舅姑、統一教会、韓国社会の構造などターゲットにせざるを得ないのであろう。しかし、犠牲者たる日本人女性たちが感謝してたくましく生きているのであれば、この主張も説得力がない。

 この項目の最後の記述もまた、中途半端な内容になっている。
「結婚難にある地方の男性やその家族にとっては、嫁いで来てくれて、経済的に貧しくても不平不満を言わずに尽くしてくれる日本人の妻はありがたい存在である。また証しにあるように、周囲の人々との交流を通して日韓の不幸な歴史のわだかまりが解消されるならば、それに越したことはない。この点は認めるにしても日本人女性達が払っている代償(彼女達は代償とは思わないだろうが)もまた大きい。」(p.529)

 中西氏の主張は、一言でいえば「アンビバレント(ambivalent)」ということになるであろう。これは同じ物事に対して、相反する感情を同時に抱くことであるが、中西氏が研究の最初の段階で日本人女性たちに抱いた感情は、最初は驚きと好奇心であり、それが次第に共感と感服に変わっていった。信仰を共有しないまでも、こうした人生もあるのだといったんは受け入れたのである。にもかかわらず、その後の統一教会反対派からの批判を受けて、彼女は韓日祝福を批判しなければならない立場に追い込まれ、そうした義務感から取ってつけたような批判を展開しなければならなくなったのである。これは彼女自身の保身のためでもある。中西氏の客観的な調査研究に比べて、主観的な評価の論理が破綻したり矛盾したりしているのはそのためである。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』