解散命令請求訴訟に提出した意見書11


 ②マインド・コントロール論を前提とした説得によるトラウマ
 監禁がPTSDを発症させる条件となることは理解しやすいが、ディプログラミングによるトラウマは監禁という外的要因によってのみ引き起こされるものではない。ディプログラミングの後遺症が、災害や犯罪に巻き込まれたケースなど、他の原因によるトラウマと違う点は、1)信頼関係の基礎である親、兄弟、親族から被害を受けていること、2)信仰というアイデンティティの根幹が揺るがされること、3)社会正義が認められないこと、4)監禁後のケアがほとんど行われていないこと、などが挙げられる。実際、脱出して教会に帰ってきた信者たちに対して、十分な医学的ケアができているとは言えず、脱会して両親のもとに戻った元信者たちも多くは放置されてきた。

 こうした後遺症は、実はディプログラミングを行う側にも自覚されていた。元来、脱会説得は牧師などの宗教家が担当してきた。信者の家族の願いは教団からの脱会だったので、カウンセリングの主要な目的は脱会であった。しかし、その中で脱会さえすれば問題が解決するわけではなく、脱会後にもさまざまな問題を引きずることが分かってきたのである。
そこで1990年代の後半から、牧師の説得によって脱会させた後のアフターフォローとして、臨床心理士やカウンセラーが「カルト脱会者」の心の問題を扱うようになってきた。これは脱会さえさせれば元の幸せな家族に戻るという牧師の主張が、実際にはそうではなく、本人の心にも家族関係にもさまざまな問題が残るので、心理学的ケアが必要であるという現実に、反対派自身が気づいたということである。

 こうした問題を扱っているのが、高木総平・内野悌司編集の「『現代のエスプリ』No.490  カルト―心理臨床の視点から 2008年5月号」である。その中には、「反対牧師」として統一教会信者の説得にあたった豊田通信氏の反省の弁が述べられている。すなわち、自分が「保護説得」の最中に行ったことは、カウンセラーの倫理から見れば違反のオンパレードであり、それゆえに信者たちを傷付けてしまったことを告白しているのである。

 脱会後に多くの元信者にトラウマが残ることを自覚した反対派が、脱会説得のやり方を幾分かソフトにするように改善しようとしたことは事実のようだ。しかし、彼らはやり方が乱暴であるかソフトであるかに関わらず、「マインド・コントロール言説」を根拠とした脱会説得そのものがトラウマを引き起こすことを十分に理解していない。

 この点を鋭く指摘したのが、渡邊太氏による「カルト信者の救出――統一教会脱会者の『安住し得ない境地』――」(『年報人間科学』 21 225-241, 2000)である。この論文の要旨は、「カルト信者」の救出にはディプログラミングや救出カウンセリングといった方法がもちいられるが、元信者たちは脱会後にさまざまな心理的苦悩やコミュニケーションの困難に直面する。脱会者の苦悩は、自己の存在の根本的な安定性が失われることによるもので、その原因は救出カウンセリングにおいてR・D・レインが指摘するような、人を「安住しえない境地」に置くコミュニケーション・パターンが繰り返されるからである、というものだ。(注43)

 この「安住しえない境地」という聞きなれない言葉を理解するためには、レインのアイデンティティに関する議論を知る必要がある。それは以下のようなものだ。人はアイデンティティについての確かな感覚を得るために、他者の存在を必要とする。他者を鏡として私は私であることを確認する。したがって、アイデンティティの確かな感覚をもつためには、自己が他者の中で存在を認められ、居場所を見いだす必要がある。他者から確認されないようなアイデンティティは不安定なものであり、そのとき私は自分の世界にも他者の世界にも居場所を見出すことができないので、「安住しえない境地」または「存在論的不安定」に陥るのである。(注44)
 渡邊氏によれば、家族による救出カウンセリングは人を「安住しえない境地」に追いやるタイプのコミュニケーションに該当するという。その特徴は「無効化」と「属性付与」、そして「自発的であれ!」という命令が組み合わされたものである。(注45)

 「『無効化』とは、ある人の意志を無効なものと見なすことによって実際にその効力を奪うことである。『無効化』は『属性付与』とセットでもちいられる」(注46)

 「要は、『お前は自分がそのように感じていると考えるかもしれないが、お前はほんとうはそのように感じているのではないということを私は知っている』[Laing, 1961=1975, 193]と伝えるようなコミュニケーションの問題である」

 「マインド・コントロールとは、『本人には自分の意志で納得ずくでやっていると思わせながら、その人の心を操ること』[マインド・コントロール研究所編、1997: 103]と定義される。この見方にしたがうと、本人が自分の意志で信仰していたのだと主張することじたいが、マインド・コントロールの証拠になる。救出カウンセラーのスティーヴン・ハッサンは、『私のアプローチは、マインド・コントロール集団にどんなに深入りしたメンバーでも、心の深い深いところでは脱出したいと願っているという信念にかかっている』[Hassan, 1988=1993, 222]と主張する。」

 「ここには、『自発的であれ!』という命令と同型のコミュニケーション・パターンが見られる。『自発的であれ!』という命令はパラドックスになる。命令を実行しようとすると命令に反することになり、したがうことができない。」(注47)

 「『安住しえない境地』に置かれた脱会者たちは、自分のいまいる状況を定義することが難しくなる。自己が自己であるという確かな感覚が得られず、日常的なコミュニケーションさえ困難になる。元信者のEさんは、『人の話が聞けなくなった。いまでも、人の話を聞いていて、ボーッとしていることがある。話が頭に入らないで、抜けていく。集中力が亡くなった』と話している。家族との関係がうまくいかないケースが多い。これらはマインド・コントロールの後遺症というような心理的病理の徴候ではなく、救出カウンセリングのコミュニケーション・パターンそのものの問題である。」(注48)

 渡邊太氏の論文を私なりに解釈すればこういうことだ。「お前はマインド・コントロールされている」という指摘は、当人にとっては、「お前は自分の頭で考える能力を失っている。お前の意志は自分の意志ではなく、誰かに操られているのだ。だからその状態でお前が何を言おうと、一切認めない」と言われているに等しい。これが「無効化」である。続いて、「いまのお前は本当のお前じゃない。本当のお前は教団に入る前のいい子だった頃のお前だ。私はそれが本当のお前であることを知っている。早く本当のお前に戻れ!」と迫られる。これが「属性付与」である。自分が何者であるかを他者に決められてしまうということだ。さらに、「早く自分がマインド・コントロールされていることに気付け。そして教団の影響力から離れて、自分の頭で考えろ!」と叱責されるのである。これが「自発的たれ!」という命令である。

 このようなことをされては、人はいったい何が本当の自分なのか分からなくなり、根源的な不安を感じてしまうに違いない。家庭連合の信者にとって信仰は自己のアイデンディティの中核をなすものである。監禁の有無にかかわらず、主体性を剥奪されて他者から一方的にアイデンティティを付与されるというのは、心をレイプされるのに等しい。脱会者の予後が悪いのは、こうした脱会説得のあり方そのものに原因があると言ってよいだろう。

10.結語
 これまでの議論によって導かれる結論は以下のようなものである。

 アメリカの学会においては「洗脳」や「マインド・コントロール」が疑似科学であることは既に定着している。その結果、アメリカの法廷においても「洗脳」や「マインド・コントロール」の主張は決定的な敗北を喫し、こうした主張をする専門家らは法廷で証言できなくなった。「ディプログラミング」と呼ばれるアメリカの拉致監禁・強制棄教は違法であり、人権侵害であるとの評価が定着している。これを行った実行犯は逮捕され、起訴されて有罪判決を受けている。ディプログラミングの被害者が実行犯を訴えた民事訴訟でも、多額の損害賠償が認められている。この結果、アメリカにおいては「ディプログラミング」は終息し、既に過去のものとなっている。

 日本においても「マインド・コントロール言説」は拉致監禁・強制棄教を正当化するための論理として使われたが、現在に至っても「マインド・コントロール言説」は学問的に確立されておらず、日本の宗教学者も概して「洗脳・マインド・コントロール言説」に対して批判的である。日本の法廷では、統一教会を相手取って元信者が起こした「青春を返せ」裁判で「マインド・コントロール」が主張されたが、法廷はこれを却下した。

 「マインド・コントロール言説」は疑似科学であり、その効果は科学的に立証されていないし、法的にも認められていないにもかかわらず、これを元信者やその家族たちが信じるのは「感情論理」によるものであり、科学的・客観的主張ではない。自然脱会した者に比べて、ディプログラミングされて教団を離れた者は圧倒的に「洗脳」や「マインド・コントロール」を主張する者が多い。これは脱会の過程でそのような理論を教え込まれるからであり、「背教者」の証言は信頼に値しない。

 ディプログラミングは監禁という外的要因に加え、「マインド・コントロール言説」を用いた説得そのものが被害者にとって外傷体験となり、PTSDを発症する要因となっている。以上のことから、「マインド・コントロール」によってディプログラミングが正当化されることはない。

(注43)渡邊太「カルト信者の救出――統一教会脱会者の『安住し得ない境地』――」(年報人間科学 21 225-241, 2000)、p.225
(注44)渡邊太前掲書、p.233
(注45)渡邊太前掲書、p.234
(注46)渡邊太前掲書、p.234
(注47)渡邊太前掲書、p.235
(注48)渡邊太前掲書、p.236-7

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解散命令請求訴訟に提出した意見書10


9.ディプログラミングがもたらす被害の深刻さについて
 ①物理的拘束を伴う脱会説得によるトラウマ
 「マインド・コントロール論」が疑似科学であり、新宗教への入信が本人の自由意思によるものであれば、ディプログラミングが正当化されることはない。それとは別に、ディプログラミングが許されないのは、それが被害者に深刻なトラウマを残すからである。

 アメリカの研究によれば、強制改宗を受けた人たちは自発的に新宗教から離教した者たちと比較して、はるかに多く感情的傷害状況を表しているということが分かっている。自発的に「カルト」を辞めた者と、ディプログラミングを受けた者との比較研究がなされているが、一般に前者は精神の健全度を維持できている者が多いが、後者の場合には強度の不安や精神不安定に脅かされている者が多いという結果が出た。

 ブロムリーとルイスの研究は、カウンセリングなし(自発的脱会者)、自発的に脱会カウンセリングを受けた者、非自発的カウンセリング(ディプログラミング)を受けさせられた者を比較検討し、自発的か否かを問わず、むしろ脱会カウンセリングを受けた者の予後が思わしくないことを示している。以下の表に示されているように、自発的脱会者(カウンセリングなし)の数値がすべて11%以内なのに対して、自発的にせよ強制的にせよ、脱会カウンセリングを受けた者は、絶対的に数値が高い。(注37)「カルト」の脱会者の精神状態が不安定なのは、「カルト」にいたときの体験がトラウマになっているのだと反カルト運動は主張してきたが、自発的に離れた者には問題が少なく、脱会カウンセリングを受けた者は予後が悪いという事実は、元信者のトラウマは脱会させられた時に生じたものなのではないか、という結論に導くこととなる。

表3

 日本における学術的報告としては、池本桂子と中村雅一による「宗教からの強制脱会プログラム(ディプログラミング)によりPTSDを呈した一症例」(『臨床精神医学』第29巻第10号 2000年 1293-1300)がある。この症例は、家族と牧師による脱会プログラムを受けた後にPTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症した女性(32歳、信仰歴7年、精神科的遺伝負因なし)のケースである。論文の記述から、女性はエホバの証人の信者であると推察される。具体的症状としては、以下のような記述がある。
「監禁の体験を突然思い出し恐怖にとらわれる、他の人の平坦な話し方で牧師を連想し恐怖感を覚えるといったフラッシュバックと、再監禁を怖れ職場に行けないという回避によるひきこもりは特に強く、少なくとも七カ月持続した。」(注38)  

 監禁がPTSDを発症させる条件となることは広く知られているが、このケースでは自己決定権の剥奪もトラウマとなる可能性が指摘されている。
「本症例は、強制的脱会を目的とした監禁という状況因に加え、宗教的信条に関する自己決定権を近親者から一時的にでも剥奪されたことによるトラウマがPTSDを引き起こしたと考えられる。」(注39)

 渡邊太氏は「この症例では、家族と牧師は、マインド・コントロールを前提として、本人の元の人格を取り戻すために救出カウンセリングを実践している。しかし、そのことは信者にとっては、自分の自由意思を認められず強制的に脱会を迫られる状況であり、ひどい外傷体験になる。」(注40)と解説している。

 こうしたPTSDを発症した元信者についてジャーナリストとして発信したのが米本和広氏である。もともと米本氏は『カルトの子』や『教祖逮捕』など、新宗教に批判的な本を書いてきたルポライターであった。その彼が『月刊現代』2004年11月号に、「書かれざる『宗教監禁』の恐怖と悲劇」と題する記事を掲載し、拉致監禁によって統一教会を脱会した宿谷麻子さんのPTSDの問題を取り上げた。2008年7月にはさらなる取材の成果として、『我らの不快な隣人』を出版した。

 この本は拉致監禁問題を、監禁された人々へのヒアリングだけではなく、両親や元信者、韓国での現地取材に至るまで詳細な取材を行い、総合的に分析したものである。監禁された人物として、宿谷麻子さんほか、多くの人々が登場する。宿谷さんは家族による拉致監禁の後脱会したが、PTSDやそれを原因とするアトピー性皮膚炎を発症した。親は、子どもを取り返そうとして拉致監禁をした結果、子どもに心と体の傷を負わせ、取り返しのつかないことをしたと激しい後悔の念に襲われるようになった。

 宿谷さんは精神科にかかっており、精神科医が下した診断名はPTSDである。飲んでいる薬は導眠剤、睡眠薬、安定剤、抗鬱剤など10種類に及び、公的な精神障害認定も受けている。宿谷さんの主治医である「めだかメンタルクリニック」(横浜市)の担当医は、「麻子さんの場合は、災害のようなワンポイントの出来事による単純性のものとは異なり、長期に持続・反復する外傷体験(心が傷づく衝撃的な体験)によってもたらされる、より重度の『複雑性PTSD』だと考えます」(注41)と診断した。
宿谷さんの複雑性PTSD発症の原因を担当医は次のように見ている。
「本人の意志に反し拉致監禁されるという身体的自由の拘束とともに、信仰の自由を強制的に、昼夜を問わず奪われ続けたこと、さらにはもっとも近しい肉親に監禁されたという、信頼感の崩壊、裏切られた体験も加わっていると考えます」(注42)

 なお、宿谷麻子さんは被害者として拉致監禁問題と正面から闘っていたが、2012年10月15日にクモ膜下出血のため逝去された。心よりご冥福をお祈りする。

(注37)James R. Lewis and David G. Bromley, “The Cult Withdrawal Syndrome: A Case of Misattribution of Cause?” Journal for the Scientific Study of Religion 26/4 (1987): 508-22
(注38)池本桂子・中村雅一「宗教からの強制脱会プログラム(ディプログラミング)によりPTSDを呈した一症例」『臨床精神医学』第29巻第10号 2000年、p.1296-7
(注39)池本・中村前掲書、p.1297
(注40)渡邊太前掲書、p.226
(注41)米本和広「書かれざる『宗教監禁』の恐怖と悲劇」(『月刊現代』2004年11月号)、p.285
(注42)米本前掲書、p.302-3

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解散命令請求訴訟に提出した意見書09


 ②ディプログラミングされた元信者はなぜ「マインド・コントロール」言説を信じるのか?
 ディプログラミングによって新宗教から脱会した元信者たちは、「自分は教団によってマインド・コントロールされていた」と主張するケースが多い。そうした元信者の中には自分の所属していた団体を相手取って損害賠償請求訴訟をおこす者たちがおり、その代表例が統一教会を相手取った「青春を返せ」裁判である。こうした裁判が起こされる理由は、反カルト運動の戦略の一環として、脱会したことを証明するための「踏み絵」として元信者に訴訟の提起が要求されるからであるが、中には本気で自分はマインド・コントロールされていたと信じている元信者もいる。彼らが自分の入信体験を「洗脳」や「マインド・コントロール」などの概念で説明するのは、彼らを脱会させる過程において、まさにそうした概念が教え込まれ、それによって自分の入信体験を説明するように認識が再構築されるからである。この因果関係は海外の研究によって立証されている。

 アイリーン・バーカー博士は、『ムーニーの成り立ち』の中で、トルーディ・ソロモンら複数の学者が行った元統一教会員へのアンケート結果を紹介し、以下のとおり、「洗脳」や「マインド・コントロール」の説明をする元会員たちに対して、反カルト運動との接触がいかに影響を及ぼしているかについて指摘している(同書のタイトルにおける「ムーニー」は、英米における統一教会員の蔑称である)。
「トルーディ・ソロモンによる元統一教会員100人へのアンケート結果の分析を見ると、反カルト運動との接触が、元会員たちが洗脳やマインド・コントロールの説明にどの程度依存するかに影響を与えていることがわかる。
『教会内で洗脳やマインド・コントロールが行われているという証言の大部分は、ディプログラミングまたはリハビリテーションを受けた元信者か、あるいは反カルト運動に携わっている個人によってもたらされているので、これらのデータは、元会員がどのようにしてそうした考えを抱くようになったか、そしてさらにそれがどのように存続されてきたかについての説明を提供し始めている。』

 ソロモンの回答者の大多数はディプログラムされていた。そして7人を除く全員が、統一運動から脱会するとき、あるいはその後に、何らかの組織的な支援(リハビリテーションまたはセラピー)を受けていた。疑いなく、これは彼女のサンプルがおもにアメリカの反カルト・ネットワークを通じて集められたという事実が主因となっていた。別の研究でスチュアート・ライトは、統一教会、ハリクリシュナ運動、神の子供たち(または愛の家族)からの『自発的な』脱会者45名にインタビューをした。彼がインタビューした者の中で、洗脳されていたと主張したのは4人(9%)だけだった。彼のサンプルの残りの91%は、自分の入会は全く自発的なものだったと述べた。そしてまた別の研究でマーク・ギャランターは、ディプログラミングを経験しなかった47人の元ムーニーと経験した10人を比較した。彼はその中で、ディプログラミングを経験した者たちのほうが、運動にとどまるよう説得しようとしたムーニーからプレッシャーを受けたと報告する傾向があることを見いだした。『事実、ディプログラムされた回答者(10人のうち8人)だけが、脱会した後、依然として統一教会で活動している人々の行動の自由をあからさまに制限して、彼らを脱会させようとしていた。』」(注33)

 マッシモ・イントロヴィニエ氏は、人権と信教の自由に関するウェブメディア「Bitter Winter」において、「背教者は信頼できるか?」というタイトルの記事を5回シリーズで掲載した。ここで「背教者(Apostate)」の意味について定義しておきたい。「背教者」はもともと自分が所属していた宗教から離脱した人という意味では「元信者」に含まれるが、必ずしもすべての元信者が「背教者」なのではない。元信者の大部分はもともと自分が所属していた宗教に対しては良い面もあったが悪い面もあったというような両面性のある感情を抱いており、その団体を積極的に攻撃する人は割合的には多くない。その中にあって、自分が所属していた団体に対する批判や暴露を公的な活動として行う一部の元信者のことを「背教者」という。彼らは元信者の中では少数派でありながら、マスコミに取り上げられることによりあたかもすべての元信者が怨み深い「背教者」であるかのような印象を一般大衆に与えている。イントロヴィニエ氏がこの記事で明らかにしたことは、「背教者」の中には反カルト運動と関りを持った者が多く、彼らの中には自分が「洗脳された」と主張する者が多いという事実である。以下、イントロヴィニエ氏の記事の引用である。
「これが事実であるという経験的証拠がある。1999年に私はフランスの秘教運動ニュー・アクロポリスの元メンバーを対象に調査を実施した。ニュー・アクロポリスは自分たちを宗教団体だとしていなかったおかげで、プライバシーの懸念が払拭され、元会員リストの提供を受けることができた。これは匿名のアンケートを送るためにのみ使用した。120件の回答を集めたところ、サンプルの16.7%が脱落者、71.6%が普通の離教者であったのに対して、背教者は11.7%であったことが分かった。」(注34)
「私は前回の記事で、フランスのニュー・アクロポリスと呼ばれる秘教グループの元メンバーについて自身が行った定量的研究について述べた。私のサンプルの8.3% は、反カルト組織との接触が自身の脱会プロセスにおいて役割を果たしたと報告した。背教者の70%は反カルト組織と接触していた。そのような接触を持つ人々の90%は、ニュー・アクロポリスを『カルト』だと考えているのに対し、その他の人々は10.3%であり、80%が自分は「洗脳」されていたと信じているのに対し、その他の人々は6.7%だった。もちろん、一部の元信者にとって背教は心理的に好都合である。その理由は、元信者から見れば、今となっては間違っていたり愚かにさえ思える行動や信念に対していかなる非難を受けても、彼らを『洗脳』あるいは『奴隷化』した『邪悪な』運動に責任転嫁できるからである。」(注35)

 イントロヴィニエ氏が指摘するように、元会員たちが「洗脳」や「マインド・コントロール」の説明を受け入れる動機は、自己の責任を回避できるということに尽きる。通常、両親は多額のお金を払ってディプログラマーを雇い、多くの時間を「カルト」や「マインド・コントロール」に関する勉強に費やし、犯罪になりかねないリスクを負ってまで、ディプログラミングを実行する。信仰を失った元信者は、そこまでの犠牲を払って自分を教団から救い出してくれた両親に対して心理的負債感を負うようになる。こうした状況下で、入信の責任を自分自身で負うのは辛いことである。脱会説得をした両親自身が、「あなたの入信は自分の意思ではない。教団によってマインド・コントロールされていたのだから、悪いのは教団であってあなたではない」と言うのであれば、それを受け入れた方が自身の責任が回避されて都合が良いのである。

 大田俊寛氏は、元信者のこうした姿勢もマインド・コントロール論の弊害であると指摘している。
「信者は、カルト的団体から脱退しようとするときにしばしば、入信の原因を『マインド・コントロールされていた』ことに求めようとする。それによって一時的に自分自身の責任を免れることができるが、それは同時に、自身の根本的な主体性を否定することにも繋がる。カルトから本当に脱却するためには、それに関与したことが自らの主体性に基づくものであったことを認め、自らの主体性においてそこから離れなければならないが、マインド・コントロール論を受容すると、知らず知らずのうちに主体性を喪失すると同時に、すべての責任を当該団体に負わせようとする歪な思考回路が生じる。」(注36)

(注33)Eileen Barker, “The Making of a Moonie: Choice or Brainwashing?” Blackwell Publishers, 1984, p.129
(注34)MASSIMO INTROVIGNE, Bitter Winter 11/23/2023, 背教者は信頼できるか? 4.元信者全員が背教者というわけではない
(注35)MASSIMO INTROVIGNE, Bitter Winter 11/24/2023, 背教者は信頼できるか? 5.なぜ背教者になる人がいるのか
(注36)大田前掲書、p.61

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解散命令請求訴訟に提出した意見書08


7.日本における「マインド・コントロール言説」に関する判決
 ①「マインド・コントロール」言説が否定され、統一教会が勝訴したケース
 「マインド・コントロール」なる概念が日本の法廷で初めて争われたのは、いわゆる「青春を返せ」裁判においてである。これは、統一教会を脱会した元信者らが統一教会を相手取って起こした集団訴訟であり、原告らの主張の内容はおよそ以下のようなものである。
「われわれは統一教会の名前も実態も知らされないまま虚偽の勧誘を受け、正常な判断能力を奪われて入信させられた。その結果、長期にわたって精神的に抜き差しならない状況に置かれ続け、違法な行為(いわゆる霊感商法をはじめとする経済活動)に従事させられ、この間ただ働きであったので、その逸失利益、慰謝料等の請求をする」。

 こうした訴訟は札幌、東京、新潟、名古屋、神戸、岡山など全国各地で起こされたが、全国で初めて下された判決が、1998年3月26日の名古屋地裁判決であった。この訴訟では、統一教会を相手に元信者の女性6人が総額6千万円余の損害賠償を求めていた。これに対して稲田龍樹裁判長は原告側の請求を棄却する判決を下し、「マインド・コントロール」に関しては以下のようにはっきりと否定している。
「原告らの主張するいわゆるマインド・コントロールは、それ自体多義的であるほか、一定の行為の積み重ねにより一定の思想を植え付けることをいうととらえたとしても、原告らが主張するような効果があるとは認められない。」

 その後、控訴審で原告側と教会は和解している。

 続いて、1999年3月24日の岡山地裁判決でも統一教会側が勝訴し、この判決は確定している。

 さらに、2001年4月10日の神戸地裁判決でも統一教会側は勝訴しており、原告がいわゆるマインド・コントロールを受けていたかに関しては以下のように判断している。
「(原告らが)信仰に至る過程において、被告あるいは被告の教義の内容及び入信後の信者の生活や活動についての情報が不足していたとは認められず、外部との接触も遮断されておらず、被告あるいはその信者による原告らに対する勧誘、教化行為が詐欺的、洗脳的であるとはいえず、原告らは自己の主体的自律的判断において信仰を持つに至ったものであり、被告や信者らの勧誘、教化方法は違法とはいえない」
「(原告らは)主体的自律的意思決定をなしえない心理状態にあったとはいえない」

 このように、「マインド・コントロール」を完全に否定し、統一教会が勝訴した判決が複数存在するのである。

 ②統一教会は敗訴したが、「マインド・コントロール」言説を認めなかった判決
 1998年6月3日にもう一つの「青春を返せ」訴訟に対して岡山地裁が下した判決が存在する。これは、統一教会を相手に元信者の公務員男性が200万円の損害賠償を求めた裁判であった。この判決で小沢一郎裁判長は、「原告図子は最初に勧誘を受けてから棄教・脱会に至るまで約1年5カ月の期間を要しているが、その間、被告法人の教義、信仰を受容する過程において、その各段階毎に自ら真摯に思い悩んだ末に、自発的に宗教的な意思決定をしているというほかはない」と述べ、勧誘や教化のあり方についても「社会的相当性を逸脱したものとまではいえない」として、原告側の訴えを退けている。つまり、一審判決は名古屋地裁判決と同様に「マインド・コントロール」を否定し、統一教会が勝訴していたのである。

 しかし、原告は控訴審で逆転勝訴し、これが最高裁でも認められて、統一教会の敗訴が確定することとなった。この判決において、広島高裁は「マインド・コントロール」なる概念に対して判決で以下のように判示した。
「なお本件においては、控訴人がマインド・コントロールを伴う違法行為を主張していることから、右概念の定義、内容等をめぐって争われているけれども、少なくとも、本件事案において、不法行為が成立するかどうかの認定判断をするにつき、右概念は道具概念としての意義をもつものとは解されない(前示のように、当事者が主観的、個別的には自由な意思で判断しているように見えても、客観的、全体的に吟味すると、外部からの意図的操作により意思決定していると評価される心理状態をもって『マインド・コントロール』された状態と呼ぶのであれば、右概念は説明概念にとどまる)。」

 「道具概念」とか「説明概念」というような難解な用語を用いており、素人には何を言いたいのか分かりにくいのであるが、難しいものの言い方をかみくだけば、マインド・コントロールという概念(考え方)は心理状態を説明しているだけで、不法行為が成立するかどうかを判断するときの道具には使えない、と言っているのである。

 結局、広島高裁判決は「マインド・コントロール」概念を採用せず、それは脇に置いておいて、布教行為や勧誘行為の目的、方法、結果が社会通念上認められる範囲を逸脱しているかどうかを判断し、この個別の事件に関してのみ、不法行為として認定したに過ぎない。裁判所は一般論として「マインド・コントロール」の存在とその違法性を認めたわけでもなく、統一教会の勧誘行為が「マインド・コントロール」であると認めたわけでもない。

 実は、名古屋地裁における敗訴と、この広島高裁での判決をきっかけとして、元信者が統一教会を訴える「青春を返せ」裁判はその戦略を大きく転換することになる。すなわち、原告側は「マインド・コントロール」といったような法律用語として成立しない漠然とした主張をやめ、「正体を隠した伝道」や「不実表示」を理由に法的責任を問う戦略に切り替えたのである。

 結局、「マインド・コントロール」の存在やその効果は立証できないので、勧誘の目的、方法、結果の各要素の具体的な反社会性、違法性を主張する方向に方針を変え、「青春を返せ訴訟」は「違法伝道訴訟」と呼ばれるようになった。その結果、札幌「青春を返せ」裁判で、原告側が勝訴し、東京「青春を返せ」裁判で統一教会側が和解金を支払う形で和解が成立するなど、原告にとって有利な展開となった。しかしこれは、「マインド・コントロール」の主張をやめたからこそ得られた結果であるといえよう。その後も、少なくとも統一教会を相手取った民事訴訟では、「マインド・コントロール」を違法性の根拠とした判決は出ていない。

8.なぜ「マインド・コントロール言説」を信じる人がいるのか?
 これまで述べてきたように、「マインド・コントロール言説」は疑似科学であり、その効果は科学的に証明されていないし、裁判において違法性を裏付ける根拠としても認められていない。にもかかわらず、「マインド・コントロール」なるものが存在するとかたくなに信じる人々がいるのはなぜかをここでは扱いたい。

 すでに述べたように、「ディプログラミング」を実践する反カルト運動が「マインド・コントロール」を主張するのは、新宗教への入信過程が自由意思によるものであった場合には、自分たちのやっていることは単なる誘拐と監禁になってしまうので、自己正当化の論理として、「マインド・コントロール」が必要なのである。これはビジネス目的ということになる。しかし、こうした反カルト運動の論理を、新宗教に入信した若者たちの両親や、ディプログラミングを受けた信者自身が受け入れてしまうのはなぜなのだろうか? 

 ①親や親族はなぜ「マインド・コントロール」言説を信じるのか?
 この点に関して島田裕巳氏は興味深い指摘をしている。
「娘や息子が宗教団体に走ってしまったことに困惑した親たちは、自分のかわいい子どもが自発的に宗教団体に入信したとは考えない。そして、子どもたちは宗教団体の巧みな勧誘のテクニックによってだまされて入信したのだという結論を下す。洗脳とかマインド・コントロールということばが持ち出されるのも、子どもたちがだまされたということを強調するために都合がいいからである。」(注30)

 渡邊太氏はこの指摘を敷衍して、親はご都合主義的にマインド・コントロール論を使っているわけではなく、親の視点からは子どもが本当にマインド・コントロールされているに違いないと感じられるのだということを、「感情論理」という概念を用いて説明している。これはF・ハイダーのバランス理論によって説明できる対人関係の認知と感情のメカニズムで説明できるということだ。

 要するに、親と子どもと「カルト」という三者の関係において、親の視点から見ると、子どもと「カルト」の関係は親が直接関与できない領域なので、想像や空想が投影されやすい。一方で子どもに対する感情と「カルト」に対する感情は自分の直接体験である。親が子どもを愛しており、かつ「カルト」に対して不信の思いを抱いているとすれば、親としては愛する子どもがいかがわしい「カルト」を本気で信じているというのは、心理的なバランスが悪いのである。それで「親から見ると、子どもはカルトに救いを求めているが、カルトの方は子どもたちを騙して搾取しているのだ、と感じられるのである。」(注31)

 これは男女の三角関係でも同様のことが起こるであろう。例えばA君がB子さんを好きだったとする。ところがB子さんがプレイボーイとして評判の悪いC君のことが好きなようだという話を聞けば、A君は素直にその事実を受け入れられず、B子さんが本当にC君のことが好きなはずがない、純真なB子さんは言葉巧みなC君に騙されているに違いないと考えるであろう。このように人間の認識には常に「感情論理」が関わってくるのである。
渡邊太氏は、「洗脳やマインド・コントロールといった概念は、何かを説明する科学的概念というよりは、感情論理にしたがって腑に落ちるという感覚をもたらすイデオロギー的な概念といえる。価値多元主義的な社会状況において、単純で分かりやすい理解の枠組みとして、洗脳、マインド・コントロール理論は機能する。」(注32)と結論づけている。

(注30)島田裕巳「マインド・コントロール社会の到来」『imago』第4巻9号 1993年、p.227
(注31)渡邊太前掲書、p.231
(注32)渡邊太前掲書、p.233-4

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解散命令請求訴訟に提出した意見書07


 島田裕巳氏は「宗教とマインド・コントロール」と題する論文の中で以下のように述べている。
「洗脳が批判の対象とされたとき、洗脳そのものが問題にされたわけではなかった。ある集団が洗脳を行っていると批判したのは、その集団とイデオロギー的に対立している側の人間たちであった。つまり、洗脳は敵対する集団を批判するための道具ないしは武器として使われたことになる。これは、マインド・コントロールについても共通している。マインド・コントロールの疑いをかけられるのは、社会的に問題があるとされている教団であり、そういった非難を浴びせるのは、教団からの脱会者や脱会工作に従事している人間たちだからである。彼らは、マインド・コントロールの事実によって、その教団を批判しているわけではなく、教団に対する批判を広く社会に受け入れさせるためにマインド・コントロールが行われていると告発しているのである。

 実際にマインド・コントロールが行われているかどうかが問われる前に、まず、教団についての評価が前提とされている。問題があるとされている教団が説いているのは、まちがった教えであり、普通の人間はそれを信じたりはしない。にもかかわらず、そういった教団に入信する人間が生まれるのは、その教団が巧みなマインド・コントロールによって、勧誘の対象となった人間の心をあやつり、だますようにして入信させているからだというのである。脱会工作が正当化されるのも、マインド・コントロールの存在が前提とされている。」(注23)
「マインド・コントロールということが事実として存在するのか。それは、洗脳以上にあやしい。ハッサンなどのように、マインド・コントロールの危険性を訴える人間たちは、問題となる宗教団体では人間の心を支配する巧みな方法を開発しているかのような印象を与えようとしているが、実際にそれほど効果的な方法が開発されているようには思えない。
破壊的カルトとして批判されている宗教団体であっても、信者を入信させるため行っている研修会などのプログラムは基本的に単純である。教団の教師や先輩の信者が行う教義の講義が中心で、途中に歌や祈りがはさまれる。教える側はきわめて熱心であり、それが勧誘の対象となる人間に伝わることはあるが、それ以外に特殊な方法が用いられるわけではない。」(注24)
「マインド・コントロールの問題について議論する際には、どの教団が対象となっているかが重要である。マインド・コントロールの有無よりも、その教団に対する社会的評価の方がはるかに重要な意味を持っている。社会に定着した既成教団の場合には、信仰の選択が制限されたとしても、マインド・コントロールの批判が寄せられることはない。むしろそれは、信教の自由として保護の対象とさえ見なされるのである。
マインド・コントロールということばは、結局のところ、きわめて便宜的に使われていると考えざるをえない。マインド・コントロールの方法も効力もあいまいなうえ、多くは特定の教団を批判するための道具として使われる傾向がある。」(注25)

 櫻井義秀氏は、「マインド・コントロール言説」について分析した論文の中で、「以上の考察で、カルトが本来的に人を騙す組織であり、参加者は多かれ少なかれマインド・コントロールされ、被害者になっているというのは、主観的にも客観的にも事実そのものではなく、そのようなものとして認識するという構図から構成された評価的事実であることが明らかになった。反カルト運動家や職業的ディプログラマー(脱洗脳家)が自己の行為を説明するためにマインド・コントロール論を用いるのは当然であろう。」(注26)と述べている。

 櫻井氏のマインド・コントロールに対する批判は、実は手厳しい。
「最後に、マインド・コントロール論の騙されたという言い方に筆者が徹底してこだわりたい理由を述べておきたい。マインド・コントロールとは、自己の経験を自分と第三の社会的勢力が二重に解釈した語り口でしかない。騙されたと自ら語ることで、マインド・コントロール論は意図せずして自ら自律性、自己責任の倫理の破壊に手を貸す恐れがある。信仰者は、教団へ入信する、活動をはじめる、継続する、それらのいずれの段階においても、認知的不協和を生じた諸段階で、自己の信念で行動するか、教団に従うかの決断をしている。閉鎖的な、あるいは権威主義的な教団の場合、自己の解釈は全てエゴイズムとして見なされ、自我をとるか、教団(救済)をとるかの二者択一が迫られることがある。自我を守るか、自我を超えたものをとるかの内面的葛藤の結果、いかなる決断をしたにせよ、その帰結は選択したものの責任として引き受けなければならない。その決断の時点で、当人に責任能力があったか、なかったかという証明をその時点に遡って行うことは不可能である。むしろ、決断の自由、自己責任を認識、倫理上考慮することで、人間の自律性という主張ができると考える。そのような覚悟を、信じるという行為の重みとして信仰者には自覚されるべきであろう。」(注27)

 大田俊寛氏は、西田公昭氏の「マインド・コントロール理論」はカルトのみならず宗教的回心の全般に当てはまってしまうのではないか、と批判している。そもそも「マインド・コントロール」が可能なのかについても、「現実的には、本人に動機・関心がないにもかかわらず、カルト的団体に加入するということは、少なくとも管見の限りでは、まったくあり得ない」「マインド・コントロール論者はしばしば、自らの理論が『科学』的であり、『再現性』によって裏づけられていると主張するが、それは明らかな虚偽であると言わなければならない。」(注28)と述べている。

 大田氏はさらに、マインド・コントロール論の弊害として、法秩序の崩壊を挙げている。
「裁判で扱われる様々なケースにおいて、当人の行動の一つ一つに対し、『マインド・コントロールされていた』可能性を考慮に入れ始めると、審理をスムースに進めることは著しく困難になる。また、そういった理由から犯罪への処罰が減免されるということになれば、個人の主体性に立脚する近代の法秩序は、根底から瓦解することになる。」(注29)

(注23)島田裕巳「宗教とマインド・コントロール」『季刊AZ』33、1994年11月、p.126-7
(注24)島田前掲書、p.128
(注25)島田前掲書、p.129
(注26)櫻井前掲書、p.91
(注27)櫻井前掲書、p.94-5
(注28)大田前掲書、p.60
(注29)大田前掲書,p.62

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解散命令請求訴訟に提出した意見書06


②西田公昭氏の「マインド・コントロール言説」
 立正大学心理学部対人・社会心理学科教授の西田公昭氏は日本における「マインド・コントロール理論」の第一人者であると言われている。彼は全国霊感商法対策弁護士連絡会とも密接に連携して活動をしているが、彼の役割はマインド・コントロール理論の学問的構築にあると思われる。ここでは彼の二つの著作『マインド・コントロールとは何か』(1995、紀伊國屋書店)と『信じる心の科学』(1998、サイエンス社)に基づき、その「マインド・コントロール言説」を分析する。

 西田公昭氏がこれらの著作の中で言っていることは、まとめてみれば非常にシンプルである。まず彼は社会心理学の研究者として過去の文献を読んで、その理論を勉強した。この理論をAとする。次に彼は「破壊的カルト」と呼んで批判している団体の元信者から聞き取り調査を行っている。この情報をBとする。そしてAの理論をBに当てはめて解釈し、「マインド・コントロール」に関する理論構築を行った。要するにこれだけである。

 西田氏は著書の中で、社会心理学の多種多様な理論や実験に関する情報を紹介している。例を挙げれば、フェスティンガーの認知不協和理論、チャルディーニの影響力論、バーノンの感覚遮断実験、ジンバルドーの監獄実験、プライミング効果論などである。一方で彼は「カルト」と目される諸団体にまつわる多種多様な事例を引き合いに出し、それらに関して同じく多種多様な社会心理学的テクニックを参照しながら説明するのである。それらを結び付ける根拠は、単に「やり方が似ている」ということである。彼がやっていることは、単に「解釈」によってそれらを結び付けているだけで、実際には何も検証していないのである。

 西田公昭氏の研究の欠陥とは何であろうか。第一に、偏向した情報源による方法論の欠陥をあげることができる。西田氏の著書『マインド・コントロールとは何か』の冒頭には、「東北学院大学の浅見定雄教授、全国霊感商法対策弁護士連絡会の方々、全国各地で活躍されている脱会カウンセラーの方々、そして元破壊的カルトのメンバーたちには、多くの貴重な資料を提供していただいた」(注16)という記述がある。

 要するに、教会を離れた元信者からしかデータをとっておらず、現役信者に対する調査は行っていないのだ。しかも、家庭連合反対派の人脈から紹介された元信者たちなので、彼らは基本的に自然脱会者ではなく、拉致監禁を伴う強制改宗を受け、教会に対する敵意を植え付けられた人々である。こうした人々は、家庭連合およびその伝道方法に対して、きわめて強いネガティブ・バイアスがかかっている可能性が高いので、情報源として公平でない。

 さらに、現役信者も元信者も、基本的には勧誘を受けて一度は入信した人々という点では同じカテゴリーに入るが、実はそれ以上に多いのが、勧誘されても結局入信しなかった人々なのである。こうした「説得されなかった人々」も調査しなければ、マインド・コントロールの効果を測定することはできない。渡邊太氏は、この点について、「入信過程におけるマインド・コントロールの効果を証明するためには、入信した人たちだけでなく、勧誘されても入信しなかった人も含めた被勧誘者全体を調査対象にする必要がある」(注17)と批判している。

 西田理論のもう一つの問題点は、実験室での結果をそのまま現実の社会過程に適用してしまっているということだ。実験室という特殊な環境で得られた知見が、そのまま現実の社会に当てはまるという保証はない。この点についても渡邊太氏は、「現実の社会においては無数の媒介変数が存在し、さらに媒介過程が急速に変化する可能性がある・・・現実の社会は極めて複雑であり、実験室の知見を適用した説明がそのまま有効である保証はない」(注18)と批判している。

 この点に関しては櫻井義秀氏も同様の批判をしている。彼は、「複雑な社会過程を極度に抽象化したモデル及びその実験結果から得た結果を、もう一度社会的事実へ還元して事実を解釈する方法それ自体に問題がある。実験で得た結果はあくまでも実験空間内での信頼性であり、その空間が社会空間の写像として妥当かどうかは別問題である。西田がいくら実験データを挙げたとしても、それが宗教教団の勧誘手法そのものであるとは言えないし、ましてその布教・入信過程を説明することにはならないのである」(注19)と手厳しく西田言説を批判している。

 西田氏の主張する「マインド・コントロール言説」の致命的な欠陥は、社会心理学者を自称する者ならば絶対に避けて通れないはずの数値的なデータによる裏づけが欠如しているという点である。西田氏は自説を補強するために、さまざまな実験データを引っ張り出してはいるが、そのほとんどが宗教とは直接関係のない実験結果ばかりであり、肝心の彼が「破壊的カルト」と呼ぶ宗教団体の説得術がどのくらい効果的であるかを、数値に基づいて検証したデータは一つもない。つまりこれは実証的研究ではなく、「解釈」にすぎないのだ。

③宗教学者は概して「洗脳・マインド・コントロール言説」に対して批判的である
 西洋において統一教会の伝道方法に関して社会学的な調査を行い、「洗脳」や「マインド・コントロール」の存在を明確に否定した代表的な研究が、イギリスの宗教社会学者アイリーン・バーカー博士の『ムーニーの成り立ち』(1984)であった。

 日本においては、国士館大学教授の塩谷政憲氏(当時)が、1974年の春に原理研究会が主催する3泊4日の修練会に自ら参加し、そのときの体験を「原理研究会の修練会について」という論文で報告している。塩谷氏の関心は、果たしてこの修練会が洗脳を施すものであるかということであり、この観点から修練会の詳細なスケジュールや雰囲気を描いているが、結論として、洗脳といえるほど激しく態度変容を迫るものではないと述べている。
「決定的なことは、研修生は修練会に強制的に拉致されてきたのではなく、本人の自由意思によって参加したのであり、中途で退場することも可能だったということである。従って、洗脳されたのではなく、自らの意思で選んだのである。人間をそうやすやすと洗脳することはできない。」(注20)
「統一教会の運動にのめりこんでいった人々とは、どんな若者なのだろうか。これを一概に言うことはできないが、真面目で誠実感にあふれているという印象は、統一教会に対して批判的な人々も容認するところである。その運動への献身ぶりは、けなげで、ときには、いたいたしげですらある。それだけに、教外者からは、誰かにあやつられているのだと解釈されたり、あるいは、洗脳されてしまったのだという風にみられたりもする。しかし筆者は洗脳説はとらない。そのような見方は彼らの主体性を一切認めていない考え方である。彼らは手あたり次第の勧誘のなかで改宗したごく少数の人達なのである。それはやはり本人なりの、ゆきつもどりつの結果の決断だったのである。」(注21)

 塩谷氏はこのような自分の目による観察のほかに、具体的なデータからもこの修練会は洗脳とは言い難いと分析している。それは修練会に参加した15名(男9・女6)のうち、次の七日間の修練会への参加に応じたのは男子2名(約13%)に過ぎなかったという事実である。「したがって、洗脳を思想の強制的な画一化と定義すれば、筆者が体験したところの修練会は、洗脳よりも選抜することの方に結果したといえよう」(注22)というのが彼の結論である。

(注16)西田前掲書、p.10
(注17)渡邊太前掲書、p.217-8
(注18)渡邊太前掲書、p.218
(注19)櫻井義秀「オウム真理教現象の記述を巡る一考察」『現代社会学研究』、1996年9月、北海道社会学会、p.88
(注20)塩谷政憲「原理研究会の修練会について」『続・現代社会の実証的研究』東京教育大学社会学教室 1977年、p.131
(注21)塩谷政憲「宗教運動をめぐる親と子の葛藤」『真理と創造』24 1985年、p.60
(注22)塩谷政憲「宗教運動への献身をめぐる家族からの離反」(森岡清美編『近現代における「家」の変質と宗教』新地書房 1986年)p.159

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解散命令請求訴訟に提出した意見書05


 1990年代にはディプログラミングはすでに衰退していたが、ジェイソン・スコット事件は、米国におけるディプログラミングの終焉を決定的なものにし、CANを破綻させた。1991年にリック・ロスというディプログラマーがジェイソン・スコットという若者を「ライフ・タバナクル教会」から脱会させるためにディプログラミングを施そうとしたが、彼は脱会せず、逆にロスとCANを相手取って損害賠償を求める民事訴訟を起こしたのである。ジェイソン・スコット氏の両親から息子の脱会について相談され、ディプログラマーとしてリック・ロスを紹介したのはCANであった。1995年9月、法廷は総額約500万ドルの損害賠償をスコット氏に支払うよう被告側に命じた判決の中で、このディプログラミングの責任がCANにもあることを認め、懲罰的罰金100万ドルを含む合計109万ドルの賠償金を支払うようにCANに命じ、CANはこの判決により破産を余儀なくされた。

 こうした経緯により、アメリカでは既にディプログラミングは犯罪であるという評価は定着しており、すでに過去のものとなっている。アメリカにおける強制改宗をめぐる民事訴訟の詳細は省くが、被告側が強制改宗を正当化する法廷での抗弁は、大きく分けて以下のようなものになる。1)子の幸せを願う親の愛情が動機となって行われたものであるため、不法監禁の罪から免責される。2)より大きな悪を防ぐためにより小さな悪を行うことは正当化されるという「悪の選択」の抗弁。3)強制的に監禁された状況下で相手に同調すると、合意の上での滞在とみなされる。

 これと同様の抗弁は、日本における脱会強要をめぐる民事訴訟でも主張された。アメリカの民事訴訟では、一時的に原告側が負けることはあったにせよ、こうした抗弁は最終的にすべて排斥されたことを指摘しておきたい。

6.日本における「マインド・コントロール言説」と強制改宗
 ①脱会カウンセリングの根拠としての「マインド・コントロール言説」

 洗脳に代わる最新の理論としてのマインド・コントロール概念が日本に輸入されたのは、スティーヴン・ハッサンの著書『マインド・コントロールの恐怖』の翻訳(1993年)によってである。ハッサンの著書は、1995年に出版された西田公昭の『マインド・コントロールとは何か』と併せて、脱会活動を実践する人々の間でよく読まれている。(注13)

 家族に脱会の支援をする「反対牧師」は、信者の両親に対して子どもはマインド・コントロールされた状態にあることを徹底的に教育するという。この結果、親や家族は、子どもが自分の意思で「カルト」に入ったのではなく、マインド・コントロールによって騙されて入信させられたのだと考えるようになる。「カルト」に批判的な立場の心理学者や精神科医の「マインド・コントロール言説」は、この見方に権威付けを与える役割を果たす。

 渡邊太氏は、「マインド・コントロール理論がもっとも影響を及ぼしているのは、カルト信者の救出活動の実践に対してである。ディプログラミングや救出カウンセリングといった取り組みは、カルト信者がマインド・コントロールされているということを前提にしている。救出カウンセラーは、マインド・コントロール理論を説得教材として使う。家族はハッサンの著書『マインド・コントロールの恐怖』や西田の『マインド・コントロールとは何か』を読んで、カルトに入った娘や息子が、マインド・コントロールされた状態であることを学ぶ。救出カウンセリングを受ける本人も、読むことをすすめられる。脱会した後も、いろいろ本を読んで、自分がマインド・コントロールされていたことを確認する。」(注14)と述べている。

 大田俊寛氏はこうした教育について、「マインド・コントロールを解くためには、それを受けている場から遠ざけなければならないという理由から、信者を暴力的に拉致する、さらには『マインド・コントロール』を解く(ディプログラミング)という名目のもとに、長期にわたって監禁・説得する、強制脱会行為がビジネス化するというケースも引き起こされる。」と批判している。(注15)

 こうして拉致監禁による強制脱会を強いられた元信者たちが、「自分は統一教会によってマインド・コントロールされた」と主張して、教会を相手取って損害賠償を請求する訴訟が、「青春を返せ」裁判である。その一例として私は、札幌における「青春を返せ」裁判の原告となった元信者たちの裁判調書を分析し、彼女たちの多くが身体を拘束された状態で説得され、脱会に至った事実を発見した。

 札幌地裁における審理は1987年3月から2001年6月まで14年3カ月という長期間にわたる裁判であった。原告は最終的には21名となり、全員が女性である。結果は、2001年に一審判決で原告の元信者らが勝訴し、2003年3月に控訴審(札幌高裁)で統一教会の控訴が棄却され、同年10月に最高裁が統一教会の上告を棄却したことにより、元信者らの勝訴が確定している。裁判所が認めた損害賠償の額は、請求額のおよそ三分の一であった。

 札幌「青春を返せ」裁判の原告が教会を離れるようになった状況は、統一教会の代理人である弁護士が、原告らに対して行った反対尋問によって明らかになった。21名の原告の証言は、以下の4つのカテゴリーに分類することができ、その人数と比率は以下の表のとおりである。

表2

 この円グラフが示しているのは、証言において文字通り監禁されたことを認めている者が8名おり、「監禁」という表現は認めていないが部屋には内側から鍵がかけられており、部屋から自由に出入りできなかったことを認めた者が8名おり、軟禁状態にあったと証言している者が2人いるということである。ここでいう軟禁とは、鍵は掛けられていなかったものの、常に誰かが見張っていて逃げ出せる状態ではなかったことを指している。残りの3名が、「監禁」という言葉を否定し、出入りの制限もなかったと証言している者たちである。物理的な拘束が事実上あったことを認める証言が全体の75%を超えていることは特筆に値する。また、全体の86%の原告が、何らかの意味で拘束された状態で脱会を決意したことになる。

 実は、文部科学省が提出した陳述書の中には、この札幌「青春を返せ」裁判の原告が含まれており、その中には自分が教会を脱会する際に身体的な拘束を受けたと証言している者が含まれている。ORさんは反対尋問において、両親が統一教会から脱会させる目的で自分を監禁していたことを文字通り認めている。UTさんは脱会を決意した際の両親との話し合いの状況として、事実上の身体拘束があったことを認めている。具体的には部屋に鍵がかかっており、部屋から自由に出入りできなかったと証言している。OTさんも同様に事実上の身体拘束を認めている。マンションには鍵がかかっており、そこから自由に出入りできなかったと証言している。高田めぐみさんは自分が軟禁状態だったことを認めている。

 このように、①「マインド・コントロール言説」によるディプログラミングの正当化→②ディプログラミングによる脱会者の生産→③脱会者の訴訟による「マインド・コントロール言説」の主張、という悪循環が作られているのである。

(注13)渡邊太前掲書、p.215
(注14)渡邊太前掲書、p.223-4
(注15)大田俊寛前掲書、p.61

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解散命令請求訴訟に提出した意見書04


5.アメリカにおけるディプログラミングの終焉
 アメリカにおけるディプログラミングは、以下の表が示すように1970年代がピークであり、1980年代にほぼ沈静化し、1990年代にはほぼ事件が起こらなくなった。(注11)

表1

①政府による合法的「ディプログラミング」の企て
しかしながら、アメリカ政府のディプログラミングに対する初期の対応は、日本以上に厳しいものであった。それは「反カルト運動」の言説をマスメディアがたれ流し、「カルト」は危険であり、取り締まりの対象とすべきであるという世論が盛り上がり、一種の社会的ヒステリー現象を引き起こしたためである。

 1976年及び1979年に行われた連邦議会による特別公聴会(ロバート・ドール上院議員開催)では、反カルト論者による主張に公的機会が与えられ、カルトを抑制するか、ディプログラミング活動に法的許可を与える法律制定の必要性が一方的に強調された。カリフォルニア、イリノイ、メリーランド、ペンシルベニアなどの各州でも同様の公聴会が開かれた。

 1980年にはニューヨークの州議会に、刑法を改定し、疑似宗教的カルトを助長する行為は重罪にすべきであるとのラッシャー反改宗法案が提出された。同様の反改宗法は、コネティカット、カンザス、メリーランド、オレゴン、ペンシルベニア、テキサス、イリノイ、オハイオ、ミネソタ、マサチューセッツ、ネバダ、その他の州で検討されたが、議会内では一般に「ムーニー法案」と呼ばれ、主として統一教会員をターゲットにしたものであった。もしこれらの法律が制定されていたなら、信者は精神的無能力者として保護者権を発動され、権力による合法的なディプログラミングが行われることになっていた。

 こうした公聴会や立法化の動きに対して、合衆国憲法修正第一条違反、市民的自由の侵害であるとの広範な批判が巻き起こり、伝統教会を含む宗教界全般からの反発、有識者や各種学会の反対が起きた。これによりニューヨーク州のニュー・ケアリー知事は1980年7月1日、立法化は憲法違反であるとして拒否権を発動した。(注12)

 ディプログラミングを合法化するという企ては未遂に終わったものの、個々のケースにおいては統一教会信者の両親が「成年後見命令」を裁判所から認定してもらい、子供に対する「法的監護権」を獲得し、いわば「合法的な強制改宗」を行った事例は存在する。こうしたことがアメリカでは実際に行われたのである。私は2012年にカナダのモントリオールで行われたICSA(国際カルト研究協会)の国際会議で、米国の友人であり統一教会信者のダン・フェッファーマン氏からこの話を聞いた。彼自身が経験したケースでは、こうした権利を獲得した両親が警察を動員して、成人した息子の身柄を拘束しようとしたので、彼が必死になってその男性を隠してディプログラミングから守ったという話であった。

 カール・トリンブルという統一教会のメンバーが、1976年のワシントン大会の真最中に、成年後見命令に基づいて警察によって「保護」された様子を、当時の新聞が写真付きで報道している。大勢の警察官がよってたかって捕まえる、事実上の「拉致」である。両親の依頼を受けて警察が直接拉致してしまうということなので、国家権力による合法的な強制改宗の幇助ということになる。アメリカではこのような成年後見命令が信教の自由を侵害する違法なものであるという判決を、後に統一教会が裁判で争って勝ち取っているが、それまでに多数の犠牲者が出てしまったということだ。

 サンフランシスコ郡上級裁判所のリー・バブリス判事は、5人の統一教会成人会員について、その親を暫定後見人として任命し、統一教会によって吹き込まれたという考え方についてディプログラミングを許可した。5人は後見人が強制改宗を行わないよう特別救済措置を求めて提訴した。1977年にカリフォルニア州控訴裁判所は「下級裁判所が強制改宗を目的にして、親を成人の暫定後見人に定めたのは宗教の自由の権利の侵害であり、後見人の任命は正当化できない」と判決で判示した。 この「カッツ」対「上級裁判所」判決以降は、合法的ディプログラミングはできなくなったのである。

②宗教団体と市民自由団体の役割
 米国においてディプログラミングを終焉させる上において、宗教団体や市民自由団体が果たした役割は大きい。ディプログラミングの被害者が監禁から脱出しその経験を語るようになると、米国の主流派宗教団体や市民自由団体はディプログラミングに対する反対声明を出すようになった。「全米キリスト教会協議会(NCC)」は、こうした強制棄教活動は宗教の自由に対する深刻な脅威であると結論し、1974年2月28日に、こうした活動を非難し、力づくの拉致、個人の宗教信仰を変えるための長期的監禁は宗教の自由の著しい侵害であるという決議を理事会で採択した。NCCは、棄教を強要するための拉致の活用は犯罪として訴追されるべきであると非難した。

 1977年3月5日、米国市民自由連合(ACLU)の全国理事会が宗教団体の信者の拉致に反対する声明を発表した。同声明は、「少なくとも成年に達した人々に関しては、人々から宗教実践の自由を剥奪する方法として、精神的鑑定手続き、一時的保護権、または政府の保護の否定を用いることに対して、ACLUは反対する。」と述べている。

③ディプログラミングに対する刑事および民事訴訟
 「ディプログラミングの父」と呼ばれたテッド・パトリックは、コロラド州デンバーに市民自由財団(CFF)という組織を創設し、1970年代の終わりには全米50州のほとんどで支部が結成された。パトリックの手法は基本的にターゲットとなる宗教団体のメンバーを拉致・監禁し、彼らがその信仰を棄てるまで長期間にわたって心理的圧迫を加えるというものであった。そのため彼は不法監禁罪、婦女暴行、誘拐、拉致、および暴行などの罪で有罪判決を受けることとなり、長期間の禁固刑に服する結果となった。

 米国においては、ディプログラマーは多くの場合、拉致監禁の実行行為という“汚い仕事”を直接行ったため、彼らを告訴するのは比較的容易だった。パトリックは1974年6月にコロラド州デンバーにおいて不法監禁罪で1年間の禁固刑を言い渡された。これにも懲りず、彼は保護観察期間中にも強制改宗を行ったため、1985年までに合計7つの有罪判決を受け、禁固刑に服している。

 このようにアメリカでは、強制改宗が明確な刑事犯罪として警察によって取り締まられ、起訴され、有罪判決を受けている。その他、民事訴訟でもテッド・パトリックは損害賠償の支払いを命じる判決を受けている。 統一教会関係で有名な民事訴訟が「ウェンディー・ヘランダー」事件である。

 ウェンディー・ヘランダーという若い女性は、統一教会の信仰のゆえにテッド・パトリックからディプログラミングの被害を受けたと主張してパトリックを提訴した。この事件でコネティカット州ブリッジポートのフェアフィールド郡上級裁判所は、1976年9月に判決を下し、その中で、彼女が数週間にわたり囚人同様の状態で拘束されていたと認定し、パトリックに対して5000ドルの支払いを命じた。

 パトリックが創設したCFFは1986年に名称を「カルト警戒網」(Cult Awareness Network:CAN)に変更したが、その暴力的体質はいっこうに改善されなかった。CANの任務は、表向きはさまざまな宗教運動についての正確な情報およびカウンセリングを社会に提供することとなっていたが、その活動の実態はあからさまな誘拐や、被害者の意思に反しての拉致・監禁であったため、CANの活動家たちは無数の逮捕、検挙、裁判起訴、禁固刑を受けるに至ったのである。こうした実態を受け、全米警察署長協会が1992年11月18日に発表した公式文書でも、強制改宗を取り締まる旨を表明し、特にCANの活動を非難した。

(注11)David G. Bromley, Ed. “Falling from the Faith,” Sage, 1988, p.197参照
(注12)中野毅前掲書、p.128-130.

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解散命令請求訴訟に提出した意見書03


 アメリカの宗教社会学者マイケル・W・アシュクラフトは2018年に「新宗教研究の歴史概論」という本を出版したが、この本は新宗教運動の学術的研究の分野では非常に大きな影響力を持っている。(注5)この本の中でアシュクラフトは、いわゆる「カルト研究」と新宗教運動に関する主流の学術的研究とを区別した。「カルト研究」は反カルト運動を支持する学者たちの小さなグループによって推進されているもので、主流の学者たちからは否定されている。

 アシュクラフトは、「カルト研究」とは異なり、主流の新宗教研究は以下の前提に基づいていると論じている。これは少なくとも西洋においては、この分野の大部分の学者たちによって共有された考え方である。

 第一に、一般的に理解されている「カルト」という概念には科学的な中身がなく、特定の団体を差別するために使われる言葉なので、使うべきでない。

 第二に、「洗脳」という概念自体が、不人気な宗教を差別するために用いられる疑似科学である。

 こうしたアメリカの学会の実情は、実は日本の宗教学者たちにも知られており、宗教学者たちは一様にマインド・コントロール理論に対しては否定的または懐疑的である。

 渡邊学氏は「≪カルト≫論への一視点:アメリカのマインド・コントロール論争」の中で、「私がカルトとマインド・コントロールの問題をアメリカで調べはじめてみて、宗教学者の多くがどちらの概念も認めていないという事実が明らかになった。」(注6)と述べている。

 渡邊太氏は「洗脳、マインド・コントロールの神話」の中で、「学術的には、洗脳、マインド・コントロールという概念は様々な批判にさらされている。宗教研究者の多くは、洗脳およびマインド・コントロール概念の学術的価値を否定する」(注7)と述べている。同氏はまた、D・アンソニーによる洗脳およびマインド・コントロール理論を反証する経験的データとして、以下の七点を紹介している。「①勧誘の成功率の低さ、②入信者は探究者的性格をもつ、③信者に認知的・知的能力の喪失はみられない、④自発的脱会者の多さ、⑤カルト入信による心理的・感情的状態の改善、⑥自発的脱会者はカルト体験を肯定的に評価する、⑦ディプログラミングを受けた元信者はカルト体験を否定的に評価する(Anthony, 1999, 435)。」これらを踏まえアンソニーは、「洗脳理論やマインド・コントロール理論は疑似科学である」と結論づけているとのことである。(注8)

 大田俊寛氏は「社会心理学の『精神操作』幻想―-グループダイナミクスからマインド・コントロールへ」の中で、「国内外を問わず、各分野の専門的研究者の多くはマインド・コントロール論に対して批判的・懐疑的であり、その理論を支持したり、何らかの現象の分析に使用したりする者は、きわめて僅少というのが実情である。」(注9) と述べている。

 ②アメリカにおける「マインド・コントロール」をめぐる法廷闘争の結果
 アメリカにおける「マインド・コントロール論」の理論的支柱は、反カルト運動 に専念する心理学者、マーガレット・シンガー博士らの研究であった。彼女の役割は、新宗教への回心を「洗脳」「思想改造」「マインド・コントロール」「強制的改宗」などの用語で、いわゆる科学的に裏付け、ディプログラミングの必要性、有効性を「科学的に証明」することにあった。彼女は著作やマスメディアを通して、さらに新宗教に関連する各種の裁判で宣誓証言者として陳述したり、法廷助言書を提出したりして、新宗教に入信した子供たちは、自由意志を奪われ、カリスマ的指導者に盲目的に従わざるをえない悲惨な羊たちなのだと主張した。(注10)

 しかし、彼女の主張は、モルコとリールという二人の元統一教会員たちが、マインド・コントロールを受けたとして統一教会を相手取って起こした裁判上、1987年に「米国心理学会(APA)」およびイギリスのアイリーン・バーカー博士をはじめとする世界的に著名な宗教社会学者等がカリフォルニア州最高裁判所に提出した「法廷助言書」によって完全に否定された。この法廷助言書を提出した米国心理学会というのは、1892年に設立され、6万人の会員を擁する権威ある学会である。

 もともと米国心理学会は1983年にシンガー博士に対して研究を委嘱し、それに対してシンガー博士は「詐欺的で間接的な説得と支配の方法」(DIMPAC)に関する報告書を提出している。しかし、1987年に米国心理学会は、「彼女の理論は科学的裏付けを欠く」として、報告書を否定した。「モルコ・リール対統一教会」の裁判に提出された法廷助言書はこうした論争のさなかに書かれたものである。

 この米国心理学会の法廷助言書によれば、シンガー博士の主張する「強制的説得理論」は、「科学的概念としては意味を持たず」、その方法論は「科学的学会では否認されている」ものであるために、「科学を装った一つの否定的価値判断」であると判断し、したがって、このような理論を認めることは、信教の自由を保障する憲法修正第一条に違反するとしている。

 さらに、32のアメリカのプロテスタント教会と東方正教会によって構成され、4千万人の教会員を傘下にもつ「米国キリスト教協議会(NCC)」が、同じく1987年にカリフォルニア州最高裁判所に、他の4つの大きな宗教団体とともに提出した法廷助言書では、「シンガー博士は統一教会における『宗教的回心』を『心理学的病理』に置き換えているが、それは統一教会のみに当てはまるのではなく、すべての宗教に当てはまることである」としている。つまり、この法廷助言書では、統一教会の伝道方法や回心の過程が、他の多くの宗教が行っているものと基本的に同じであることを認め、そのうえで統一教会が「マインド・コントロールや洗脳をおこなう」などという非難は、アメリカのすべての宗教活動に対する脅威であると主張したのである。

 さらに、権威ある宗教社会学者および宗教心理学者たちのほぼ全員が会員として参加している「科学的宗教研究学会(Society for the Scientific Study of Religion:略称SSSR)」は、1990年11月の協議会で、マインド・コントロール理論の非科学性を再確認する決議案を、満場一致で採択している。

 アメリカにおいて「新宗教団体がメンバーにマインド・コントロールを行った」と主張して、新宗教団体を相手取って訴訟を起こす戦略は、1980年代終わりまで反カルト団体の常套手段であった。しかし、こうした訴訟は,1990年の「アメリカ合衆国対フィッシュマン」の裁判をもって、事実上の終止符が打たれた。

 この裁判では、反カルト側の2名の主要な専門家が,重窃盗罪に問われていたスティーブン・フィッシュマンがマインド・コントロールの影響下で行動したと証言しようとしていた。彼らはサイエントロジー教会が、フィッシュマンが脱会して数年たった後もマインド・コントロールを続けていたと主張した。これに対して北カリフォルニア連邦地方裁判所のローウェル・ジェンセン判事は2名の専門家が科学界で合意された意見を代弁していないことを理由に、彼らの洗脳またはマインド・コントロールに関する証言を認めない判断を下した。フィッシュマンは有罪判決を受けて刑務所に服役した。

 この2人の専門家とは、マーガレット・シンガー博士とリチャード・オフシェ博士のことである。彼らはこの判決以降、米国の裁判で「洗脳」や「マインド・コントロール」に関する専門家として発言できなくなった。これは「マインド・コントロール理論」が米国の法廷で決定的な敗北を喫したことを意味する。

(注5) W. Michael Ashcraft, “A Historical Introduction to the study of New Religious Movements,” Routledge, 2018.
(注6)渡邉学「≪カルト≫論への一視点:アメリカのマインド・コントロール論争」南山宗教文化研究所 研究所報 第9号 1999年、p.83
(注7)渡邊太前掲書、p.209
(注8)渡邊太前掲書、p.219
(注9)大田俊寛「社会心理学の『精神操作』幻想―-グループダイナミクスからマインド・コントロールへ」『心身変容技法研究』第8号 2017年、p.51
(注10)中野毅『宗教の復権―グローバリゼーション・カルト論争・ナショナリズム』東京堂出版、2000年、p.126-7

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解散命令請求訴訟に提出した意見書02


3.概念の定義:洗脳、マインド・コントロール、ディプログラミング
 初めに、「洗脳」と「マインド・コントロール」の違いについて簡単に説明したい。人の心を操作する技術という意味で最初に使われた言葉は「洗脳」で、英語では Brainwashingと言う。この言葉はアメリカで生まれた。朝鮮戦争の捕虜収容所で行われた思想改造についての米国中央情報局(CIA) の報告書がきっかけとなり、ジャーナリストのエドワード・ハンターが、中国共産党の洗脳テクニックについて著書で紹介して以来、一般によく知られるようになった。その後、精神科医のR・J・リフトンが、中国共産党の収容所から帰還した米軍兵士への詳細な聞き取り調査に基づいてまとめた大著が『思想改造の心理』(1961)という本で、これは洗脳理論の古典として知られる著作である。このように「洗脳」はもともと、共産主義者が米軍の兵士に対して試みた思想改造を意味していた。

 リフトンは著書の中で、「洗脳」を構成する8つの要素をまとめた。それが、①環境コントロール、②密かな操作、③純粋性の要求、④告白の儀式、⑤「聖なる科学」、⑥特殊用語の詰め込み、⑦教義の優先、⑧存在権の配分である。リフトンの著作により、これらのテクニックを用いれば、いとも簡単に人の心を操れるという神話が生まれ、敵対国等に対する非難や冗談に多用されるようになった。

 しかし、これらの手法を使えば、人の心を自由に操ることができ、その人の思想を永続的に変えることができたのかと言えば、実はそうではなかった。洗脳の効果について、リフトンは「彼らを説得して、共産主義の世界観へ彼らを変えさせるという観点からすると、そのプログラムはたしかに失敗だと判断されなければならない」(Lifton 1979, p.253)と述べている。(注1)すなわち、中国共産党の拘束下にあったアメリカ人は、一時的あるいは表面上の服従を示していただけで、心の底から共産主義者になったわけではなかった。収容所から解放されてアメリカに戻れば、彼らは元の人格を取り戻したのである。

 実はそれくらい、精神操作に抵抗する自我の力は大きいということが分かったのである。まずここに大きな問題がある。洗脳やマインド・コントロール理論を唱える論者のほとんどは、マインド・コントロール理論の先駆的業績としてリフトンの研究を参照しているのだが、洗脳の有効性を否定するリフトンの結論については触れずにすませているのである。

 それでは「洗脳」と「マインド・コントロール」の違いとは何だろうか。洗脳とは物理的監禁や、拷問、薬物や電気ショックなどを含めた強制的な方法で、人の信念体系を変えさせる手法を指す。しかし、どの研究報告も、洗脳は「一時的な、行動上の服従しかもたらさなかった」と結論している。

 一方でマインド・コントロールとは、身体的な拘束や拷問、薬物などを用いなくても、日常的な説得技術の積み重ねにより、しかも本人に自分がコントロールされていることを気付かせることなく、強力な影響力を発揮して個人の信念を変革させてしまう、「洗脳」よりもはるかに洗練された手法を指すと解説されている。(注2)問題は、洗脳のように強制的な手段を用いても人の信念体系を変えさせるのは困難だとされているのに、日常的なコミュニケーションの積み重ねだけではたして精神操作が可能なのかということだ。後述する実証的研究によれば、それは不可能である。

 「マインド・コントロール」は「洗脳」よりも後から出てきた概念であり、その意味するところは上記のように区別されているのであるが、しばしば混同して用いられることがある。

 ディプログラミング(Deprograming)とは、「カルトによって信者に植え付けられた思考プログラムを解除する」という意味で、これを専門的に行う者をディプログラマーという。もし「カルト信者」が「洗脳されている」のであれば、彼らは「脱洗脳」されなければならないということになる。「ディプログラミング」の創始者と言われているテッド・パトリックは、カリフォルニアの公務員だったが、彼の息子が「神の子供たち」という論争のある宗教団体に出会って入会してしまった。そこで彼は「脱洗脳」の技術を編み出したのだが、それは新宗教運動の成人したメンバーを路上で拉致し、彼らをモーテルなどに監禁し、彼らの所属する団体に対する否定的な情報を浴びせ続け、彼らが降参して信仰を棄てるまで責め立てるというものであった。こうして彼は最初の職業的な「ディプログラマー」となった。

 1979年までに、パトリックだけで、ハレ・クリシュナ運動、統一教会、神の子供たち、サイエントロジー教会、ディバイン・ライト・ミッション、新約宣教師会、ワールドワイド・チャーチ・オブ・ゴッド、その他の信者約1600人をディプログラミングしたことを自慢していた。他にも何十人もの強制棄教業者がパトリックと同じような活動を始め、その業者の多くは過去にパトリックにディプログラミングされた元信者だった。

 著書『マインド・コントロールの恐怖』で有名になった元統一教会員スティーヴン・ハッサンもディプログラマーの一人である。著書によれば、ハッサン自身はディプログラミングによって統一教会を離れたわけではなく、事故で入院したことがきっかけとなって自然脱会したと言っている。ハッサンは著書の中で、1976年ごろに約一年間、ディプログラミングに携わっていたことを告白しており、「さいわい、私は一度も訴えられなかった。私の事例の大部分は成功した。しかし私は、強制的な脱洗脳のストレスが楽しくなかった」(注3) と言っている。

4.アメリカにおける「洗脳・マインド・コントロール言説」の終焉
①アメリカの学会における「洗脳」「マインド・コントロール」に対する評価
 本意見書においては、まずアメリカの学会における「洗脳」や「マインド・コントロール」に対する評価を紹介する。

 キース・A・ロバーツの『社会学的視点から見た宗教』は、アメリカの大学および大学院において宗教社会学の教科書として広く用いられている。この教科書の第5章「回心と献身:社会学的視点」は、宗教的回心の問題を取り扱っているが、「洗脳」および「マインド・コントロール」の問題、および宗教的回心における個人の主体的判断の問題に関して、以下のように述べている。

 「多くのアメリカ人が洗脳という言葉を使うとき、彼らの頭の中には何らかの形態の催眠術的トランスか、神秘的なマインド・コントロールがある。それが示唆しているのは、カルトは潜在的な新入会員の精神を操作しているのであり、したがって後者(潜在的な新入会員)は知らず知らずのうちにプロセスの受動的な犠牲者のごときものになっている、ということである。しかし、回心と献身の実際の研究は、違った結論を示している。たとえば、ロジャー・ストラウスはカルトの新入会員は回心を選択することに積極的に関わっていると主張している。『回心という行為は、われわれの発見によれば、最終的行為ではない。むしろ、変えられるための道は変えられた行動をすることだという原理に導かれて、新しい回心者は、自己と他者にとって回心が行動的にも経験的にも真実であるようにするために働くのである。…回心者が変容した生活を経験できるようにするのは、最初の行為によるものではさほどなく、むしろそれに従って生きようとする日々の行動である』(1976:163)。研究結果が示唆していることは、新入会員は受動的な犠牲者というよりは、むしろ回心の経験を欲している能動的な探求者であり、それを起こさせるために相当な努力をしている、ということである(ステイプルとマウス、1987;ストラウス、1976;1979;ジュダー、1974;バルク、1980)。要するに、概して“新宗教”は催眠術的洗脳によるトランスに人々を陥れることに関わってこなかったということである(ベックフォード、1985;レヴィネ、1984b;ブロムリーとシュウプ、1981;バトソンとヴェンティス、1982;バーカー、1984;スタークとベインブリッジ、1985)。」

(注1)渡邊太「洗脳、マインド・コントロールの神話」(宗教社会学の会編)『新世紀の宗教――「聖なるもの」の現代的諸相』所収)、創元社、2002年、p.210
(注2)西田公昭『マインド・コントロールとは何か』1995、紀伊國屋書店, p.51-52
(注3) スティーヴン・ハッサン『マインド・コントロールの恐怖』 恒友出版、1993年, p.67
(注4)Keith A. Roberts, “Religion in Sociological Perspective,” second edition, Wadsworth Publishing Company, 1990, p.102-3.

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