7.日本における「マインド・コントロール言説」に関する判決
①「マインド・コントロール」言説が否定され、統一教会が勝訴したケース
「マインド・コントロール」なる概念が日本の法廷で初めて争われたのは、いわゆる「青春を返せ」裁判においてである。これは、統一教会を脱会した元信者らが統一教会を相手取って起こした集団訴訟であり、原告らの主張の内容はおよそ以下のようなものである。
「われわれは統一教会の名前も実態も知らされないまま虚偽の勧誘を受け、正常な判断能力を奪われて入信させられた。その結果、長期にわたって精神的に抜き差しならない状況に置かれ続け、違法な行為(いわゆる霊感商法をはじめとする経済活動)に従事させられ、この間ただ働きであったので、その逸失利益、慰謝料等の請求をする」。
こうした訴訟は札幌、東京、新潟、名古屋、神戸、岡山など全国各地で起こされたが、全国で初めて下された判決が、1998年3月26日の名古屋地裁判決であった。この訴訟では、統一教会を相手に元信者の女性6人が総額6千万円余の損害賠償を求めていた。これに対して稲田龍樹裁判長は原告側の請求を棄却する判決を下し、「マインド・コントロール」に関しては以下のようにはっきりと否定している。
「原告らの主張するいわゆるマインド・コントロールは、それ自体多義的であるほか、一定の行為の積み重ねにより一定の思想を植え付けることをいうととらえたとしても、原告らが主張するような効果があるとは認められない。」
その後、控訴審で原告側と教会は和解している。
続いて、1999年3月24日の岡山地裁判決でも統一教会側が勝訴し、この判決は確定している。
さらに、2001年4月10日の神戸地裁判決でも統一教会側は勝訴しており、原告がいわゆるマインド・コントロールを受けていたかに関しては以下のように判断している。
「(原告らが)信仰に至る過程において、被告あるいは被告の教義の内容及び入信後の信者の生活や活動についての情報が不足していたとは認められず、外部との接触も遮断されておらず、被告あるいはその信者による原告らに対する勧誘、教化行為が詐欺的、洗脳的であるとはいえず、原告らは自己の主体的自律的判断において信仰を持つに至ったものであり、被告や信者らの勧誘、教化方法は違法とはいえない」
「(原告らは)主体的自律的意思決定をなしえない心理状態にあったとはいえない」
このように、「マインド・コントロール」を完全に否定し、統一教会が勝訴した判決が複数存在するのである。
②統一教会は敗訴したが、「マインド・コントロール」言説を認めなかった判決
1998年6月3日にもう一つの「青春を返せ」訴訟に対して岡山地裁が下した判決が存在する。これは、統一教会を相手に元信者の公務員男性が200万円の損害賠償を求めた裁判であった。この判決で小沢一郎裁判長は、「原告図子は最初に勧誘を受けてから棄教・脱会に至るまで約1年5カ月の期間を要しているが、その間、被告法人の教義、信仰を受容する過程において、その各段階毎に自ら真摯に思い悩んだ末に、自発的に宗教的な意思決定をしているというほかはない」と述べ、勧誘や教化のあり方についても「社会的相当性を逸脱したものとまではいえない」として、原告側の訴えを退けている。つまり、一審判決は名古屋地裁判決と同様に「マインド・コントロール」を否定し、統一教会が勝訴していたのである。
しかし、原告は控訴審で逆転勝訴し、これが最高裁でも認められて、統一教会の敗訴が確定することとなった。この判決において、広島高裁は「マインド・コントロール」なる概念に対して判決で以下のように判示した。
「なお本件においては、控訴人がマインド・コントロールを伴う違法行為を主張していることから、右概念の定義、内容等をめぐって争われているけれども、少なくとも、本件事案において、不法行為が成立するかどうかの認定判断をするにつき、右概念は道具概念としての意義をもつものとは解されない(前示のように、当事者が主観的、個別的には自由な意思で判断しているように見えても、客観的、全体的に吟味すると、外部からの意図的操作により意思決定していると評価される心理状態をもって『マインド・コントロール』された状態と呼ぶのであれば、右概念は説明概念にとどまる)。」
「道具概念」とか「説明概念」というような難解な用語を用いており、素人には何を言いたいのか分かりにくいのであるが、難しいものの言い方をかみくだけば、マインド・コントロールという概念(考え方)は心理状態を説明しているだけで、不法行為が成立するかどうかを判断するときの道具には使えない、と言っているのである。
結局、広島高裁判決は「マインド・コントロール」概念を採用せず、それは脇に置いておいて、布教行為や勧誘行為の目的、方法、結果が社会通念上認められる範囲を逸脱しているかどうかを判断し、この個別の事件に関してのみ、不法行為として認定したに過ぎない。裁判所は一般論として「マインド・コントロール」の存在とその違法性を認めたわけでもなく、統一教会の勧誘行為が「マインド・コントロール」であると認めたわけでもない。
実は、名古屋地裁における敗訴と、この広島高裁での判決をきっかけとして、元信者が統一教会を訴える「青春を返せ」裁判はその戦略を大きく転換することになる。すなわち、原告側は「マインド・コントロール」といったような法律用語として成立しない漠然とした主張をやめ、「正体を隠した伝道」や「不実表示」を理由に法的責任を問う戦略に切り替えたのである。
結局、「マインド・コントロール」の存在やその効果は立証できないので、勧誘の目的、方法、結果の各要素の具体的な反社会性、違法性を主張する方向に方針を変え、「青春を返せ訴訟」は「違法伝道訴訟」と呼ばれるようになった。その結果、札幌「青春を返せ」裁判で、原告側が勝訴し、東京「青春を返せ」裁判で統一教会側が和解金を支払う形で和解が成立するなど、原告にとって有利な展開となった。しかしこれは、「マインド・コントロール」の主張をやめたからこそ得られた結果であるといえよう。その後も、少なくとも統一教会を相手取った民事訴訟では、「マインド・コントロール」を違法性の根拠とした判決は出ていない。
8.なぜ「マインド・コントロール言説」を信じる人がいるのか?
これまで述べてきたように、「マインド・コントロール言説」は疑似科学であり、その効果は科学的に証明されていないし、裁判において違法性を裏付ける根拠としても認められていない。にもかかわらず、「マインド・コントロール」なるものが存在するとかたくなに信じる人々がいるのはなぜかをここでは扱いたい。
すでに述べたように、「ディプログラミング」を実践する反カルト運動が「マインド・コントロール」を主張するのは、新宗教への入信過程が自由意思によるものであった場合には、自分たちのやっていることは単なる誘拐と監禁になってしまうので、自己正当化の論理として、「マインド・コントロール」が必要なのである。これはビジネス目的ということになる。しかし、こうした反カルト運動の論理を、新宗教に入信した若者たちの両親や、ディプログラミングを受けた信者自身が受け入れてしまうのはなぜなのだろうか?
①親や親族はなぜ「マインド・コントロール」言説を信じるのか?
この点に関して島田裕巳氏は興味深い指摘をしている。
「娘や息子が宗教団体に走ってしまったことに困惑した親たちは、自分のかわいい子どもが自発的に宗教団体に入信したとは考えない。そして、子どもたちは宗教団体の巧みな勧誘のテクニックによってだまされて入信したのだという結論を下す。洗脳とかマインド・コントロールということばが持ち出されるのも、子どもたちがだまされたということを強調するために都合がいいからである。」(注30)
渡邊太氏はこの指摘を敷衍して、親はご都合主義的にマインド・コントロール論を使っているわけではなく、親の視点からは子どもが本当にマインド・コントロールされているに違いないと感じられるのだということを、「感情論理」という概念を用いて説明している。これはF・ハイダーのバランス理論によって説明できる対人関係の認知と感情のメカニズムで説明できるということだ。
要するに、親と子どもと「カルト」という三者の関係において、親の視点から見ると、子どもと「カルト」の関係は親が直接関与できない領域なので、想像や空想が投影されやすい。一方で子どもに対する感情と「カルト」に対する感情は自分の直接体験である。親が子どもを愛しており、かつ「カルト」に対して不信の思いを抱いているとすれば、親としては愛する子どもがいかがわしい「カルト」を本気で信じているというのは、心理的なバランスが悪いのである。それで「親から見ると、子どもはカルトに救いを求めているが、カルトの方は子どもたちを騙して搾取しているのだ、と感じられるのである。」(注31)
これは男女の三角関係でも同様のことが起こるであろう。例えばA君がB子さんを好きだったとする。ところがB子さんがプレイボーイとして評判の悪いC君のことが好きなようだという話を聞けば、A君は素直にその事実を受け入れられず、B子さんが本当にC君のことが好きなはずがない、純真なB子さんは言葉巧みなC君に騙されているに違いないと考えるであろう。このように人間の認識には常に「感情論理」が関わってくるのである。
渡邊太氏は、「洗脳やマインド・コントロールといった概念は、何かを説明する科学的概念というよりは、感情論理にしたがって腑に落ちるという感覚をもたらすイデオロギー的な概念といえる。価値多元主義的な社会状況において、単純で分かりやすい理解の枠組みとして、洗脳、マインド・コントロール理論は機能する。」(注32)と結論づけている。
(注30)島田裕巳「マインド・コントロール社会の到来」『imago』第4巻9号 1993年、p.227
(注31)渡邊太前掲書、p.231
(注32)渡邊太前掲書、p.233-4