解散命令請求訴訟に提出した意見書02


3.概念の定義:洗脳、マインド・コントロール、ディプログラミング
 初めに、「洗脳」と「マインド・コントロール」の違いについて簡単に説明したい。人の心を操作する技術という意味で最初に使われた言葉は「洗脳」で、英語では Brainwashingと言う。この言葉はアメリカで生まれた。朝鮮戦争の捕虜収容所で行われた思想改造についての米国中央情報局(CIA) の報告書がきっかけとなり、ジャーナリストのエドワード・ハンターが、中国共産党の洗脳テクニックについて著書で紹介して以来、一般によく知られるようになった。その後、精神科医のR・J・リフトンが、中国共産党の収容所から帰還した米軍兵士への詳細な聞き取り調査に基づいてまとめた大著が『思想改造の心理』(1961)という本で、これは洗脳理論の古典として知られる著作である。このように「洗脳」はもともと、共産主義者が米軍の兵士に対して試みた思想改造を意味していた。

 リフトンは著書の中で、「洗脳」を構成する8つの要素をまとめた。それが、①環境コントロール、②密かな操作、③純粋性の要求、④告白の儀式、⑤「聖なる科学」、⑥特殊用語の詰め込み、⑦教義の優先、⑧存在権の配分である。リフトンの著作により、これらのテクニックを用いれば、いとも簡単に人の心を操れるという神話が生まれ、敵対国等に対する非難や冗談に多用されるようになった。

 しかし、これらの手法を使えば、人の心を自由に操ることができ、その人の思想を永続的に変えることができたのかと言えば、実はそうではなかった。洗脳の効果について、リフトンは「彼らを説得して、共産主義の世界観へ彼らを変えさせるという観点からすると、そのプログラムはたしかに失敗だと判断されなければならない」(Lifton 1979, p.253)と述べている。(注1)すなわち、中国共産党の拘束下にあったアメリカ人は、一時的あるいは表面上の服従を示していただけで、心の底から共産主義者になったわけではなかった。収容所から解放されてアメリカに戻れば、彼らは元の人格を取り戻したのである。

 実はそれくらい、精神操作に抵抗する自我の力は大きいということが分かったのである。まずここに大きな問題がある。洗脳やマインド・コントロール理論を唱える論者のほとんどは、マインド・コントロール理論の先駆的業績としてリフトンの研究を参照しているのだが、洗脳の有効性を否定するリフトンの結論については触れずにすませているのである。

 それでは「洗脳」と「マインド・コントロール」の違いとは何だろうか。洗脳とは物理的監禁や、拷問、薬物や電気ショックなどを含めた強制的な方法で、人の信念体系を変えさせる手法を指す。しかし、どの研究報告も、洗脳は「一時的な、行動上の服従しかもたらさなかった」と結論している。

 一方でマインド・コントロールとは、身体的な拘束や拷問、薬物などを用いなくても、日常的な説得技術の積み重ねにより、しかも本人に自分がコントロールされていることを気付かせることなく、強力な影響力を発揮して個人の信念を変革させてしまう、「洗脳」よりもはるかに洗練された手法を指すと解説されている。(注2)問題は、洗脳のように強制的な手段を用いても人の信念体系を変えさせるのは困難だとされているのに、日常的なコミュニケーションの積み重ねだけではたして精神操作が可能なのかということだ。後述する実証的研究によれば、それは不可能である。

 「マインド・コントロール」は「洗脳」よりも後から出てきた概念であり、その意味するところは上記のように区別されているのであるが、しばしば混同して用いられることがある。

 ディプログラミング(Deprograming)とは、「カルトによって信者に植え付けられた思考プログラムを解除する」という意味で、これを専門的に行う者をディプログラマーという。もし「カルト信者」が「洗脳されている」のであれば、彼らは「脱洗脳」されなければならないということになる。「ディプログラミング」の創始者と言われているテッド・パトリックは、カリフォルニアの公務員だったが、彼の息子が「神の子供たち」という論争のある宗教団体に出会って入会してしまった。そこで彼は「脱洗脳」の技術を編み出したのだが、それは新宗教運動の成人したメンバーを路上で拉致し、彼らをモーテルなどに監禁し、彼らの所属する団体に対する否定的な情報を浴びせ続け、彼らが降参して信仰を棄てるまで責め立てるというものであった。こうして彼は最初の職業的な「ディプログラマー」となった。

 1979年までに、パトリックだけで、ハレ・クリシュナ運動、統一教会、神の子供たち、サイエントロジー教会、ディバイン・ライト・ミッション、新約宣教師会、ワールドワイド・チャーチ・オブ・ゴッド、その他の信者約1600人をディプログラミングしたことを自慢していた。他にも何十人もの強制棄教業者がパトリックと同じような活動を始め、その業者の多くは過去にパトリックにディプログラミングされた元信者だった。

 著書『マインド・コントロールの恐怖』で有名になった元統一教会員スティーヴン・ハッサンもディプログラマーの一人である。著書によれば、ハッサン自身はディプログラミングによって統一教会を離れたわけではなく、事故で入院したことがきっかけとなって自然脱会したと言っている。ハッサンは著書の中で、1976年ごろに約一年間、ディプログラミングに携わっていたことを告白しており、「さいわい、私は一度も訴えられなかった。私の事例の大部分は成功した。しかし私は、強制的な脱洗脳のストレスが楽しくなかった」(注3) と言っている。

4.アメリカにおける「洗脳・マインド・コントロール言説」の終焉
①アメリカの学会における「洗脳」「マインド・コントロール」に対する評価
 本意見書においては、まずアメリカの学会における「洗脳」や「マインド・コントロール」に対する評価を紹介する。

 キース・A・ロバーツの『社会学的視点から見た宗教』は、アメリカの大学および大学院において宗教社会学の教科書として広く用いられている。この教科書の第5章「回心と献身:社会学的視点」は、宗教的回心の問題を取り扱っているが、「洗脳」および「マインド・コントロール」の問題、および宗教的回心における個人の主体的判断の問題に関して、以下のように述べている。

 「多くのアメリカ人が洗脳という言葉を使うとき、彼らの頭の中には何らかの形態の催眠術的トランスか、神秘的なマインド・コントロールがある。それが示唆しているのは、カルトは潜在的な新入会員の精神を操作しているのであり、したがって後者(潜在的な新入会員)は知らず知らずのうちにプロセスの受動的な犠牲者のごときものになっている、ということである。しかし、回心と献身の実際の研究は、違った結論を示している。たとえば、ロジャー・ストラウスはカルトの新入会員は回心を選択することに積極的に関わっていると主張している。『回心という行為は、われわれの発見によれば、最終的行為ではない。むしろ、変えられるための道は変えられた行動をすることだという原理に導かれて、新しい回心者は、自己と他者にとって回心が行動的にも経験的にも真実であるようにするために働くのである。…回心者が変容した生活を経験できるようにするのは、最初の行為によるものではさほどなく、むしろそれに従って生きようとする日々の行動である』(1976:163)。研究結果が示唆していることは、新入会員は受動的な犠牲者というよりは、むしろ回心の経験を欲している能動的な探求者であり、それを起こさせるために相当な努力をしている、ということである(ステイプルとマウス、1987;ストラウス、1976;1979;ジュダー、1974;バルク、1980)。要するに、概して“新宗教”は催眠術的洗脳によるトランスに人々を陥れることに関わってこなかったということである(ベックフォード、1985;レヴィネ、1984b;ブロムリーとシュウプ、1981;バトソンとヴェンティス、1982;バーカー、1984;スタークとベインブリッジ、1985)。」

(注1)渡邊太「洗脳、マインド・コントロールの神話」(宗教社会学の会編)『新世紀の宗教――「聖なるもの」の現代的諸相』所収)、創元社、2002年、p.210
(注2)西田公昭『マインド・コントロールとは何か』1995、紀伊國屋書店, p.51-52
(注3) スティーヴン・ハッサン『マインド・コントロールの恐怖』 恒友出版、1993年, p.67
(注4)Keith A. Roberts, “Religion in Sociological Perspective,” second edition, Wadsworth Publishing Company, 1990, p.102-3.

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