書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』82


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第82回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」において、統一教会信者たちの信仰や思考のあり方を分析する目的で、「12 演繹的思考と帰納的思考」という議論を展開し、一般的な人間の思考が帰納的であるのに対して、統一教会の学習方法はすべてを演繹的発想によって説明しようとしている点で「極めて特異な学習過程」(p.252)であると主張している。これに関する彼の説明を前回まで二回にわたって批判してきたが、今回はそのまとめである。

 櫻井氏による「統一教会の学習方法」を簡潔にまとめると以下のようになる。①統一教会の学習方法はすべてを演繹的発想によって説明しようとする。受講生はその論証の過程に圧倒されて結論を承認せざるを得なくなる。②堕落論と復帰原理では救済史という目的論により歴史を説明しようとするが、受講生には宗教や歴史に対する学問的知識や、物事を批判的に見る精神が不足しているため、それを否定することができない。③統一教会の教説は演繹的で目的論的なものでありながら、自然科学や社会科学の認識にも通じるかのように語られているため、両者の間に齟齬が生じた場合に、受講生の思考には著しい負担がかかる。

 これらの分析から櫻井氏が導き出す結論は、「受講生たちの対処方法としては、これ以上考えることをやめるのが手っ取り早いやり方だろう」(p.254)という驚くべきものだ。櫻井氏の主張によれば、統一教会への回心は「思考を停止することで、統一教会の教説は討議すべき課題ではなく、事実として受け入れられるべき事柄になっていく」ことによって生じるというのだ。さらに彼は、「じっくり考える思考力も体力もなくなってくる」とか、「もはや自分で判断することはなくなり、委ねるかどうか、ひたすら信仰的であろうとするかどうかだけの問題になる」(p.254)といった状況に受講生たちが追い込まれていくと主張している。要するに、受講生たちの主体的な判断によって信仰を獲得するのではないという姿勢を貫いているのである。これらはすべて、「青春を返せ」裁判で原告たちが主張していることの繰り返しに過ぎない。彼らは自らの宗教的回心に主体的な動機があったことを認めてしまうと、教会に対して損害賠償を請求できなくなってしまうので、教会の巧みな誘導によって説得され、納得させられた「受動的な被害者」として自らを描写する必要があった。こうした目的に基いて書かれた歪んだ描写を基礎資料としているため、櫻井氏の描く回心は悲壮な雰囲気に満ちているのである。しかし、彼は参与観察を行っていないので、新生トレーニングや実践トレーニングの現場の雰囲気や、受講生が原理を受け入れていく様子を直接観察しているわけではない。すべては教会を訴えている元信者の証言というフィルターを通して結ばれた像なのである。

 一方で、人が伝道され回心していく過程を直接観察したイギリスの宗教社会学者アイリーン・バーカー博士はまったく違う結論を下している。まず、食事、睡眠時間、疲れなどの修練会の環境が脳の機能を低下させることによって「洗脳」されるのだということは伝統的に主張されてきたが、彼女は自らの参与観察に基づき、修練会の環境はどの点においても普通であり、環境的要因によって脳の機能が低下することはないと結論している。

 こうした「生理的な強制力」の存在を否定したうえで、彼女は「マインドコントロール」が意図しているような、より内面的な強制力が働いているかどうかも検証している。これは統一教会の修練会に参加した人は誰でも、その人の持つ背景、個性、経験などに関わらず、全員が統一教会式の世界の解釈をするように誘導され得るのか、それとも自分の考えに照らして統一教会の世界観を拒絶したり受け入れたりするという、主体的な選択を行うのかという問題だ。彼女は修練会の参加者たちの感想文を基礎データとして、修練会に対する反応は人それぞれであり、非常に多様性があるという事実を明らかにすることにより、内面的な強制力の存在を否定している。要するに統一教会の修練会は、ある人にとっては非常に興味深く魅力的なものであるのに対して、別の人にとっては非常に退屈で受け入れがたいものであり、個人がどう感じるのかを主催者側がコントロールできるわけではないということだ。さらにバーカー博士は「被暗示性」について論じた章の中で、言われたことを何でも受け入れてしまうような説得に弱いタイプの人も、ムーニーにはなりにくいと分析している。したがって、参与観察を伴う社会学的な研究によれば、説得された「受動的な被害者」というのは、回心の実像とは合わないのである。

 それではバーカー博士の研究においては、統一教会の神学の真理性はどのように正当化され、論証されると分析されているのだろうか? この点についてバーカー博士は第3章の「統一教会の信条」において詳しく論じている。彼女が第一に挙げているのは「聖書」であり、原理講義をする際にはその論拠として聖句が引用されることを指摘している。これはキリスト教文化圏であるヨーロッパやアメリカにおいては説得力のある根拠として機能することだろう。しかし、日本においては「聖書がこう言っているから真理だ」という主張はごく一部の人にしか通用しないであろう。

 次にバーカー博士が挙げるのは、「霊界からの証し」であり、これは霊能者や霊媒者が原理や文師のメッセージが正しいことを証しすることを意味する。そうした実例として、アメリカのアーサー・フォードやサー・アンソニー・ブルックなどの名前が挙げられている。さらには、修練会のゲストも夢を見たり啓示を受けたりすることがあるという。こうしたことを根拠に、原理が真理であると確信する人がいてもおかしくはないだろう。次にバーカー博士が挙げるのが科学であり、統一神学は科学と宗教の間にあるギャップに橋渡しをすると主張し、その真理性の証明のために科学に訴えることがあると指摘される。

 こうした議論はある程度の納得がいくものだが、統一教会の信者が「原理は真理である」と認識するメカニズムとして一番腑に落ちたのは、バーカー博士の次の記述であった。
「しかし、『原理講論』がもっているその真理性のさらなる証明が一つある。それが『作用する』という主張だ。統一神学は、それが経験的に現れると信者たちが信じているという点において、実用的な神学である。それを信じ、それに従うことによって生じる目に見える結果のゆえに、それは真理に違いないと理解するのである。ある程度までそのような証明は、その形態はどうであれ、裏付けになり得る。もしその運動が成功しつつあれば、これは、その運動が神の望まれることを行っているがゆえに、神は彼らの側におられるということを示している。もし、その運動が激しい敵意と反対に直面しているのであれば、これは、その運動が神の望まれることを行っているがゆえに、サタンが懸念しているということを示しているのである。もちろん、歴史上には、自らの位置を裏付けるためにそのような論理を用いた多くの宗教が存在してきた。しかし、神の真理とこの世に起こっていることとの関係を認めるいかなる『実践神学』もまた、その反証になると思われる証拠を人々が見いだすであろうというリスクを負っている。多くのムーニーたちが彼らの周囲で起こっているあらゆることを解釈することによって、自らの信仰を強くしてきたということには疑いの余地がない一方、その実践的な神学は運動にとって両刃の剣であることを証明してきた。そのメンバーの多くは、原理が『作用する』ということを信じなくなったか、あるいはそれが作用する方法をもはや歓迎しなくなったがゆえに、脱会した。」(アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』第3章「統一教会の信条」より)

 バーカー博士のこの記述は、統一原理の学習は単なる理論の習得ではなく、体験学習であるという事実を正確に見抜いているように思われる。宗教的真理というものは座して学ぶだけの理念体系ではなく、それを実践し、全人格をかけて生きるときにその真理性が実感できる「体験的真理」であるということだ。人が伝道される過程においては、いかなる学問的検証よりもこうした生きた体験が回心の決め手となる。統一原理という世界観を自分の「生き方」として採用するかどうかを決定する、実存的な出会いが必要なのであり、単なる知的学習では回心は起こらないのである。一方で、こうした体験は基本的に主観的なものであるため、自分のまわりに起きている出来事が原理によって「説明できる」を感じているときにはその真理性が証明されることになるが、「説明できない」と感じたときには、人はその世界観を捨てることになるのである。

 このように統一原理を受け入れて回心していく過程においては、受講者の主体的な意思が大きな役割を果たしているだが、櫻井氏の記述にはその重要な部分が抜け落ちており、回心の原因をもっぱら伝道する側の意図やテクニックに帰属させている点において片手落ちであると言える。

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ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳28


第4章 性的役割分担(5)

 女性のリーダーシップと摂理的役割について扱う前に、筆者によってなされたいくつかの観察の中で、性的役割分担の違いの問題と関わりがあるものを紹介する。最初の例は、運動内部における男女の葛藤に関わるものだ。調査者である私は、統一運動のセンターのキャビネットの中にあるいくつかの「内部」文書を読む許可を与えられていた。そのセンターの男性リーダーは留守にしていたので、私のために資料を入手してくれると言ったアシスタントの女性に話した。彼女がファイルのキャビネットに行ったとき、事務所で働いていた若い男性が彼女に対して、彼がそこにいる唯一の男性(主体)であるため、彼のみがその文書を見せる許可を与えることができのであり、彼はそれをしないと主張したのである。その二人はリーダーが不在のときに誰が責任者であるかに関して、活発な議論を展開した。私の元に戻ってきたその女性は怒っており、外部の者が彼らの争いを目撃したことを明らかに恥ずかしく思っていた。彼女は、あの男性は「信仰的に幼く」、まだ自分の男らしい自己像を超克できていないのだと説明した。彼女は、彼に対して「上司風を吹かす」よりも、後日リーダーがいるときにもう一度来てもらった方が賢明だと言ったので、私はその通りにした。この事件が似たような観察や記録(注34)に関連付けられたとき、そして独身の男性と独身の女性が性的役割分担に対して異なるアプローチを支持しているという事実に鑑み、統一運動の男性と女性は、彼らの仮想的な家族的役割にもかかわらず、両性の間の長年の緊張関係を完全に解消しているわけでないことは明らかである。メンバーたちは概してこのような葛藤がグループの中に存在することを認めており、それは信者たちの一部がまだ精神的に成熟していないためであるとしている。

 二つ目の観察は、1979年の文師からのメッセージに関連するものである。その中で彼は大学連合原理研究会(CARP)と共に大学のキャンパスで「開拓の仕事」をするように既婚の女性たちに呼びかけたのであるが、彼女たちの大部分は幼い子供を抱えていた。この「使命」を引き受けることは、一年間も家族と離れることを意味したので、かなりの数(注35)の女性たちが師の呼びかけに反応しなかったのである。文はその状況を受け入れて、CARPに加わらなかった女性たちには、加わった女性たちのために祈るよう求めただけだった。一方、運動のセンターで著者は二人の女性メンバーがCARPについて議論しているのを聞いた。そのうちの一人は、見たところ未婚のようであったが、反応しなかった女性たちには失望したと言った。彼女は、いまは世界を復帰するために個人が大きな犠牲を払うべき時だと言った。二人目の女性は幼い少女の母親であったが、それに同意せず、神中心の結婚を実現し、母乳を与えている自分の子供の世話をすることが世界に対する最高の奉仕であると主張した。(注36)この若い母親は、本質的には文師の意志および運動の組織的なニーズのどちらよりも、自分の家庭を優先していたのである。事実上、彼女は自分の家庭を自らの「使命」として選んだのである。(注37)

 今日、統一運動の最高位のリーダーの位置は、ほぼ独占的に男性によって占められており、リーダーが主に女性によって占められていた1960年代から見れば激変している。文師が1971年に米国に移住したときから、既に述べたように、ヒエラルキーの権威ある位置により多くの男性を配置する流れが始まった。デビッド・G・ブロムリーとアンソン・D・シュウプJrが『アメリカのムーニー』のために調査をした1977年には、「長老会議」(金永雲博士は例外であった)、統一運動の会長およびそのスタッフ(広報部長は例外)、州の指導者、移動ファンドレイジング・チーム(MFT)および統一十字軍(WOC)の責任者の大半は男性であった。(注38)

 新設された家庭サービス局の責任者に女性を任命したことは別として、そのシナリオはそのときから今に至るまで大きく変わっていない。(注39)ヒエラルキーの中間地点では、女性たちはリーダーとしてより目につきやすい。例えば、統一神学大学院(UTS)の学部長、『原理生活』と『季刊祝福』の編集者、『トゥデイズ・ワールド』の寄稿編集者はみな女性である。もちろん、運動の有力な神学者もまた女性である。

 公式的なヒエラルキー以外の場所で、メンバーたちが極めて重要な非公式的リーダーシップであると認識していることを、女性たちは行っている:
1.女性のメンバーは疑いなく男性たちよりもファンドレイジングの実績を挙げている。1973年に運動はファンドレイジング・コンテストを開始したが、その年の優勝者は一日に合計612ドルを集めた女性であった。後にその同じ女性は「・・・数年間破られることのなかった教会記録を打ち立てた。彼女は極端に赤信号が長く青信号が非常に短いニューヨークの信号機の場所で、信じがたいことに一日に1000ドルを集めたのである」(注40)このコンテスト以外には、女性のファンドレイジング能力に関してグループ内で公式に認定している例は少ない。しかしながら、メンバーと同様にリーダーもそのことは認識しており、女性のメンバーたちはこの実績に対して誇りを持っている。
2.女性はまた運動によって非常に良き「開拓者」であるとみなされている。すなわち、彼女たちは新しい宣教地にセンターを立ち上げることにおいて非常に有能なのである。この事実は文師が彼自身のスピーチの中で認めている:「エバが堕落したので、女性たちは開拓者として働かなければなりません。女性の方が新しいセンターを開拓するのが得意なのでしょう? それは本当ですか? (ノー![聴衆の反応]) それは韓国でも日本でも、女性に関する真実です。正直に言ってみなさい。女性は男性よりも優秀です。」(注41)
3.さらに、女性たちが運動の出版物においてかなり目覚ましい働きをしていることは明らかである。『原理生活』(1979年4月から1980年8月)に女性の著者は27個中7個の記事を寄稿しているし、『季刊祝福』(1977年春から1979年冬)のちょうど半分のエッセーを寄稿している。彼女たちはまた、統一運動の日刊紙であるニューズワールドにも重要な貢献をしている。
4.最後に、ある特定の女性たちは「霊的に開かれた」人物として、霊界から文師へのメッセージを伝えたり、個々のメンバーに「内的な指導」を提供したりして、相当な影響力を行使している。金永雲はこの役割で有名であるが、これは一部には、女性は生来男性よりも霊的に覚醒されているという統一教会の信仰に基づいている。この信仰については以下により詳しく論ずることにする。

(注34)両性の葛藤について元メンバーが書いた記事としては、ウッド『ムーンストラック』、p.115、アンダーウッドとアンダーウッド『天国の人質』、p.6を参照のこと。個人的な交流の中で、元メンバーのワイン氏がカリフォルニア州の指導者に任命された男性リーダーと、夫のモーゼと共にオークランド・センターの責任者であったオンニー・ダーストとの間の葛藤について語った。ワインはこの「権力闘争」ではその男性のリーダーはダースト夫人にはとても歯が立たなかったと主張した。
(注35)反応しなかった者の正確な数は分からないが、それは疑いなく文師とその他のリーダーたちが予想した以上であった。
(注36)この会話は、運動における「集産主義」と「家族主義」の緊張関係を典型的に表している。【訳注:集産主義(collectivism)は、経済思想の用語の一つで、生産手段などの集約化・計画化・統制化などを進める思想や傾向を指す】
(注37)現在(運動によって定められた)「使命」を持たない既婚女性との会話の中で、あなたは母親としての役割を使命としてみることができるかと著者は尋ねた。明らかに残念そうな声で、彼女は「そうだったらいいんですけど。」と答えた。インタビュー:エンゲル夫妻。
(注38)個人的交流:デビッド・G・ブロムリー
(注39)イギリスにおいても一人の女性がこの役職についている。
(注40)ブロムリーとシュウプ『アメリカのムーニー』、p. 123。
(注41)文鮮明師「トレーニング計画に関する無題の演説」『マスター・スピークス』(MS-363、1973年5月7日), pp. 3-4。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』81


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第81回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」において、統一教会信者たちの信仰や思考のあり方を分析する目的で、「12 演繹的思考と帰納的思考」という議論を展開し、一般的な人間の思考が帰納的であるのに対して、統一教会の学習方法はすべてを演繹的発想によって説明しようとしている点で「極めて特異な学習過程」(p.252)であると主張している。これに関する彼の説明は、明らかに事実と異なり、偏見に満ちたものになっている。前回は創造原理の理解に関する部分を批判したが、今回は堕落論と復帰摂理に関する部分から検証することにする。
「(2) 堕落論と復帰原理では救済史という目的論により歴史を説明しようとする。」(p.253)これに関しては、櫻井氏がその直後で「創造説を採用する限り、自然にも歴史にも目的が付随するのは当然であり、それ自体問題というわけではない」と認めているように、堕落や救済史という考え方そのものがユダヤ・キリスト教的なものである。それは演繹的な思考ということにはなるだろうが、統一教会だけに見られる「極めて特異な学習過程」ではなく、非常に古くからキリスト教神学の中に存在する歴史解釈だ。歴史に目的があるという主張はすぐれて宗教的なものであり、それを受け入れて自分の信仰として採用するかどうかは受講生の判断にゆだねられているのであり、学問的な論証を求められている内容ではない。しかし、櫻井氏はそこに学問的な論証を要求して批判するのである。

 櫻井氏はここで、受講生にキリスト教的な原罪理解や歴史学による古代や近代の事実理解などの知識、あるいは自然や歴史に目的があることの論証に対する批判的思考能力がないために、原理の結論を受け入れてしまうかのような議論を展開している。「しかし、そこまで考えが及ぶ受講生はほとんどいない」(p.253)という櫻井氏の上から目線の発言には、「統一教会に入信した若者たちは、私のように宗教や歴史に対する広範な学問的知識や、物事を批判的に見る精神が欠如していたために、いい加減な教義に騙されてしまったのだ」という含意が読み取れる。しかし、もとより受講生たちは学問的な探究心を動機として統一原理の歴史論を学んでいたわけではないだろう。もしそうであれば、歴史学を教えている大学の講座を聴きに行けばよいからである。受講生たちは自分の人生の指針になるような世界観を探していたからこそ、ビデオの受講を始めたのであり、それは学問的探究心というよりも自分の人生にとってどんな意味があるのかという、実存的な問いかけが動機となっていたと思われる。要するに櫻井氏の批判は「畑違い」なのである。
「(3) 統一教会の教説は、自然の様子や歴史の出来事を説明領域に加えているために、自然科学・社会科学の認識にも通じるものがあるように統一教会員はもとより受講生も錯覚している。」(p.253)この問題は、宗教と科学の関係という古典的で重要なテーマに関わるものであり、櫻井氏のように「錯覚」などという簡単な言葉で片付けられるものではない。一般に、科学は合理主義に基づくものであり、啓示を無条件に受け入れる宗教とは対立関係にあると理解されることが多い。しかし、宗教と科学、信仰と理性の関係はもっと複雑なものであり、櫻井氏のような二分法で解決できるような問題ではない。
『キリスト教大事典』(教文館)の「科学とキリスト教」の項目は、「近代自然科学は西欧キリスト教社会のなかから生まれた」とした上で、科学の発達の背景にキリスト教信仰があったことを以下のように述べている:「古来、物質や人間が容易に神格化される汎神論的な世界観のもとでは自然科学は生まれてこなかった。キリスト教信仰は天地万有の創造主なる神を示すことによって、自然を究めて、その創造主なる神の御業をあがめる意欲を人々のうちに起した。中世末期の近代科学の創始者たちは、そのような意欲に燃えた人たちで、その多くは聖職者であった」(p.202)。このように、近代自然科学がキリスト教文化圏である西欧から生まれたという歴史的事実から見ても、キリスト教信仰と科学を二分法で分けて、対立関係にあるという見方は浅薄であることが分かる。

 合理主義とキリスト教信仰の関係についても同じことが言える。そもそも、信仰と理性がどのような関係にあるかという問題は、キリスト教神学の世界において古代より現代にいたるまで様々な議論が展開されている複雑な問題である。A.リチャードソンとJ.ボウデンの編著による『キリスト教神学事典』(教文館)の「理性」の項目は、信仰と理性の関係について、以下の4つの立場が存在することを解説している:①対立の関係、対極的な関係、②同一のものとは言わないまでも、調和した関係、③理性はある種の信仰の決断を基礎とするか、または啓示の枠組みのうちでしか機能しない、④理性と信仰は相互に独立したものであって、優劣の比較もできない。以下にこの4つの内容を敷衍する:
①「対立の関係、対極的な関係」にあると説く立場は、信仰と理性は水と油のように分離していると説き、理性を排除し、信仰を重んじる立場である。この代表者は、聖パウロ、テルトリアヌス、ルター、カント、ヒューム、キルケゴールなどである。特に2世紀から3世紀に活躍したテルトリアヌスの「不条理なるがゆえに私は信じる」という言葉は、この立場を代表している。
②「調和した関係」を解く立場は、18世紀合理主義のライプニッツやスピノザ、19世紀のヘーゲルなどに共通した見解で、これは「キリスト教合理主義」と呼ぶことのできる立場である。イギリスの哲学者ジョン・ロックは、1695年に『キリスト教の合理性』という本を著し、「理神論」への道を開いた。「理神論」においては、啓示を認めず、理性のみを信頼し、宗教的真理も理性にかなったものだけを認める立場をとった。このように、キリスト教信仰のなかにも、人間の理性の働きだけによって神について知り得るという立場があり、これに基づいてさまざまな「神の存在証明」が試みられた。こうした立場においては、キリスト教信仰と合理主義は対極どころか完全に一致する関係にある。
③「理性はある種の信仰の決断を基礎とするか、または啓示の枠組みのうちでしか機能しない」と説く立場は、理性を少しは評価しているが、信仰がその基礎となっているときに限るという見解である。すなわち、まず信仰があった上で理性が働くという見解である。この代表者は、アウグスチヌス、カンタベリーのアンセルムス、カール・バルトなどである。特に11世紀から12世紀初頭にかけて活躍したアンセルムスの有名な言葉「理解するために、わたしは信じる」は、この見解を端的に表明している。
④「理性と信仰は相互に独立したものである」との見解は、13世紀に活躍した神学博士トマス・アクィナスの立場であり、神学を「自然神学」と「啓示神学」の2つに分け、前者が理性によって神を知る道であり、後者が信仰によって神を知る道であるとした。すなわち、信仰と理性は各々独立した領域を持ちながらも、お互いに矛盾はせず、かえって役立つという立場が存在するのである。

 このようにキリスト教の伝統の中にも、宗教と科学、信仰と理性の関係に関しては多様な見解があり、櫻井氏が主張するように、その間に通じるものがあるという認識が「錯覚」であるなどと簡単に片づけられる問題ではない。それでは、この問題に対する統一教会の見解はどのようなものだろうか? 『原理講論』は総序において、「宗教と科学とが統一された一つの課題として解決され、内外両面の真理が相通ずるようにならなければならない」(『原理講論』三色刷、p.24)と述べているので、少なくとも対立関係にあるとする①の立場でないことは明らかである。かといって啓示を否定するほど合理主義に徹しているわけでもないので②の立場でもない。宗教と科学、信仰と理性の親和性を主張している点で、③と④のどちらかの立場になるのであろうが、そのどちらにより近いかは、個人の個性や信仰観・世界観によって異なるというのが実情であろう。

 櫻井氏は統一教会信徒の思考法は、「全て原理原則、目的に遡って考えなければならず、最終的な結論と事実的事柄の齟齬から論理そのものの妥当性を判断できないために、思考に著しい負荷がかかることになる。」(p.253)と主張しているが、これは信仰に基いた宗教的な思考と、事実に基づいた合理的な思考との間に生じる齟齬や葛藤を意味していると考えられる。だとすれば、それは古代より現代に至るまで多くのキリスト教の信仰者や神学者たちが悩み苦しんできた問題であって、統一教会信徒に固有の葛藤ではない。信仰を持って現実世界に生きるものであれば、程度の差こそあれ誰でも感じることであり、知識の多い者や知的に優れた者であるほどその試練は大きいであろう。

 このように櫻井氏の統一教会に対する批判は、そのまま既存の宗教や伝統宗教にも当てはまる内容が多く、彼の主張するような「極めて特異な」「統一教会特有」の問題とは言えないものである。

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ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳27


第4章 性的役割分担(4)

 ミス・アボットの言葉は、大多数の未婚の女性メンバーの考え方を代表するものである。
「私は、文字通り女性またはエバが対象で、男性やアダムが主体であるととらえるのはとっても有害だと思うわ。だって、どちらも両方の性質を自身の中に持っているんだから。あなたは自分の個性によって対象になることができるけれども、別の方法では主体になることもできるの。」(注27)

 他の女性は、両性の間のいかなる存在論的な区別をも取り除く解釈をした。
「・・・それ(主体と対象の区別)は、非常に相対的で相互的な関係、・・・授受作用なの。その図が描かれるとき、そこには授受作用があり、主体と対象の間に矢印があるわ。それは常に回転しているものなの。それは固定されたものではなく、二つの間に分割点はないの。それらは常にお互いに循環しているの。だから両方が実際には主体であり、両方が実際には対象なの。それらはお互いに反応し合っているだけなの。でも、ある時点での対象はやがて主体になるの。なぜなら、それらはこのように(彼女は自分の手を互いに回転させる)常に循環しているの。そしてそれは私にとっては、それが始まるとき、それが愛、原理講論の言っている愛なの。」(注28)

 運動における女性のロールモデルとしての文夫人に関しては、女性たちは「教会全体の母親役」としての彼女の役割に対して称賛の意を示したが、概して彼女の生き方を真似しようとは思っていなかった。「・・・彼女は愛情深い人のモデルではあるけれども、ライフタイルに関しては、彼女も私も同じ女性だから同じようなタイプの人生を歩まなければならないとは私は思わないわ。」(注29)これらの女性たちは、文師とは異なり、東洋のやり方を天のやり方と同一視していない。このことは、彼女たちが文夫人について語るとき、彼女の韓国的性質(例えば、受動性と家庭第一主義)と彼女のより精神的で普遍的な性質(例えば、人格や愛の強さや祈りの生活)を慎重に区別していることからも明らかであった。

 既婚のメンバーの性的役割分担に関する見解は、一つの顕著な例外はあったが、夫と妻の両方が相互関係、役割の交換、および彼らの関係性において愛がカギを握る力学であることを語った点において、独身女性の考え方に非常に近かった。彼は原理講論における主体・対象の図式を、「深い内的な意味」があるとみなしていたが、結婚における性的役割分担や社会を組織する上での基礎として「外面化」することに対しては反対であった。実際、私に伝えられた全般的な意味は、この図式が意味しているのは、まさにこれらのカップルが結婚において共に経験したことを示しているのだと言いたいということだった。彼らにとって重要なのは、夫や妻がどうあるべきかや何をすべきかではなく、いかにして互いに有効で調和的に関わるかということだったのである。性的役割分担の問題そのものは、関係をうまくやっていくうえでは明らかに二次的なものであり、それと同時に、彼らの神に対する信仰を反映し、彼らの個人的なニーズや個性を尊重していたのである。

 性的役割分担に関する見解の多様性は、二つの非常に異なるカップルをさらに詳しく調べることによって一番うまく説明される。最初のカップルであるランサム夫妻は、統一運動の中で「国際結婚」と呼ばれるものをしており、女性は極東の出身で男性はアングロサクソンである。ランサム夫人は、彼女の背景と気質に照らせば、彼女が夫を支配したり、夫とあらゆる点で平等な結婚では、自分は幸せを感じないだろうと説明した。一方で、彼女が統一運動に入会する以前に結婚しなかった理由として挙げたのは、彼女の国では男性が非常に強くて女性は家庭内奴隷に過ぎないからというものだった。彼女は全生涯を誰かの僕として過ごしたくはなかったし、インタビューをしている間は、彼女の夫ほど積極的ではなかったものの、まったく卑屈な様子はなかった。ランサム氏は、男性はリードしなければならないが、「東洋の文化のように支配的なやり方ではだめだ」と言った。彼によれば理想的には、「主体と対象が調和的な相互作用をなし、最終的には彼らは一体化してより高次の存在となる。その相互作用はダンスのときに起きることに似ている。初めにパートナーの一人がリードし、次にもう一人がリードするというように、ダンサーは常に位置を変え続ける。」(注30)

 我々の目的からすれば、ランサム夫人は東洋文化の産物でありながら、女性の従属的な役割を拒否したことに留意するのは重要である。さらに、彼女の夫の態度は、伝統的なアングロサクソンの男性に対して予想されるよりも、はるかに柔軟であった。ランサム氏はもちろん結婚において主体の役割を果たすのであるが、それを彼と妻の間の独特な人格的関係を反映させるような方法で適応させたのである。

 エンゲル夫妻は統一教会のカップルだが、彼らの性的役割分担に対するアプローチはランサム夫妻のものとはまったく似ていない。彼らは二人とも13年間にわたって統一運動に所属している。エンゲル氏は組織の中間管理職であり、エンゲル夫人はグループの初代家庭局長であったが、現在は老人ホームのソーシャルワーカーとして外部で働いている。彼女が世俗世界でこの位置に着いたのは、彼女と夫が二人の子供のために経済的な安定性を考慮したためである。エンゲル夫人は、およそ言葉に詰まるということのない、たくましくて社交的な人物である。彼女は、「対象」の役割により満足しているように見える夫の影を簡単に薄くしてしまう。彼は、家族にとって重要な決定をするときには、彼よりも妻の方がより大きな影響力を持つことを認めたが、これは彼にとって問題ではないという。彼も妻も、原理講論における主体・対象の枠組みは、人間関係に対する数多くの異なるアプローチを考慮に入れることができるくらいに一般的なものであり、彼らの結婚においては規定された性的役割分担よりも、愛と互いに対する尊敬の念の方がより重要であると示唆した。(注31)

 結婚における性的役割分担に対するより「オープン」なアプローチを志向する上述の「顕著な例外」は既婚の神学生で、彼の妻は一時的にヨーロッパに住んでいた。この研究のためにインタビューを受けた40名のメンバーのうち、性的役割分担に関する立場が頑固な教条主義であると分類することができたのは、キーン氏ただ一人だけであった。
「性的役割分担は明らかにある。男と女には違いがある。そして役割もそれから自然に形成されるものだ・・・。だから、ほら、私は子供に授乳したりしない。私の妻がそれをするだろう? そして彼女が家にいてそれをしている間、私は外に出て新聞配達をしたり、ニューズ・ワールドで働いたり、神学校に行ったり、他のことをしたりする。だから、性別に基づく基本的な性質の結果としての明らかな役割というものがあるのだ。」(注32)

 彼によれば、生物学が無条件に運命を決定するようだ。すべての女性は理想的には家に属している。今日の運動において女性がリーダーの位置についているのは、一時的な手段に過ぎず、摂理歴史のこの決定的瞬間における方便に過ぎない。ひとたび天国が地上に確立されたら、男性だけが支配するのであろう。(注33)

 キーン氏を除いて、ランサム氏とエンゲル氏は、インタビューを受けた8つのカップルの中では、二つの相異なる視点を代表している。前者はやや伝統的な夫婦関係を反映しており、後者は配偶者の性格やニーズに強く基づくアプローチである。その他の6つのカップルはこれらの両極の間のどこかに位置している。これらのインタビューに基づき、筆者は統一運動の結婚における性的役割分担のパターンは、おそらく米国におけるカップルのランダム・サンプルから得られるものと大差ないのでははないかと思った。独身の女性と既婚のカップルから得られた情報のより包括的な社会学的分析は、この章の最後に示されるであろう。

(注27)インタビュー:アボット女史
(注28)インタビュー:マリー女史
(注29)インタビュー:アボット女史
(注30)インタビュー:ランサム夫妻
(注31)インタビュー:エンゲル夫妻、インタビュー:エンゲル氏、個人的交流:エンゲル氏
(注32)インタビュー:キーン氏
(注33)キーン氏は、私が会った中でニュースメディアや反カルトの文献によって描かれたステレオタイプを完璧に表している唯一のムーニであった。他の問題に関する彼の考え方も同様に頑固であり、おそらくこれは根本主義のキリスト教徒としての背景が表れたものと思われる。

カテゴリー: ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』80


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第80回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」において、統一教会信者たちの信仰や思考のあり方を分析する目的で、「12 演繹的思考と帰納的思考」という議論を展開している。演繹とは与えられた命題から論理的形式に頼って推論を重ね、結論を導き出すことであり、帰納とは個々の具体的な事例から一般に通用するような原理・法則などを導き出すことを意味するのは、いわば常識である。櫻井氏は、自然科学や数学は演繹的思考を用いるのに対して、人文学・歴史学・社会科学などは帰納的方法が多く使用されるという。厳密にはどの学問にも演繹的思考と帰納的思考の両方が用いられるが、櫻井氏はかなり大雑把な手法で学問を二つの分野に分けている。

 しかし、櫻井氏が演繹的思考を用いる学問として見落としている、あるいは意図的に避けていると思われるものがある。それは神学である。神学とは信仰を前提とした上で、神をはじめとする宗教概念についての理論的考察を行う学問である。一般的なキリスト教神学においては、神が存在すること、聖書が神の啓示の書であること、イエスがキリストであることなどは、人間の帰納的な思考の結果として導かれる結論ではなく、学問の大前提として予め与えられている「真理」なのである。つまり、それを信じる立場で出発する学問であり、データを取ることによってその真偽を検証しようというような発想はしないのである。キリスト教神学は、こうした大前提のもとに個々の教義の詳細を論ずる学問であるという点において、徹底した演繹的思考を用いる学問である。しかし、神学は自然科学に分類されることはなく、哲学や宗教学に類似するものとして、人文学に分類されるのが普通である。櫻井氏は人文学においては帰納的方法が圧倒的に多く使用されると述べているので、彼の論法によれば、神学はその中の異端的学問ということになるであろう。

 櫻井氏がこうした神学の特徴を知らないわけはないが、彼があえて神学に触れることを避けたのは、神学的思考とはすなわち宗教的思考であるため、それについて説明してしまえば、統一教会信者の発想や思考とほとんど区別がつかなくなってしまうからである。櫻井氏としては、統一教会信者の思考法を非科学的で異常なものとして描きたいのであるから、それとそっくりな思考法が「神学」という伝統ある学問として存在していることが分かってしまえば都合が悪いので、あえて触れていないものと思われる。

 櫻井氏はこうした学問的思考法をモデルとして、人間観、歴史観、社会観の獲得に話を進める。彼によれば、一般の人達は具体的な事柄から認識を導き出す帰納的方法を使っており、それによって人間観・歴史観・社会観を作り上げるという。これが彼の言う「人間の諸科学の営みや日常生活の思想」ということになるのだが、それに比べると統一教会の学習法は「極めて特異な学習過程」(p.252)であるという。一般的な人間の思考が帰納的であるという彼の前提もかなり大雑把で怪しいものだが、統一教会の学習方法の特異性に関する彼の説明は、明らかに事実と異なり、偏見に満ちたものになっている。その一つ一つを検証してみよう。
「(1) 演繹的発想により自然を説明しようとする。」(p.252)ここでは創造原理の二性性相の部分が取り上げられているが、『原理講論』をよく読めば、帰納法と演繹法の両方がこの議論では用いられていることが分かるはずだ。『原理講論』は、神の性質について知るために、被造物の中に潜んでいる普遍的な共通の事実を発見しようとする。その結果、人間には男と女があり、動物には雄と雌、植物にはオシベとメシベ、分子・原子・素粒子にはプラスとマイナスの電荷があることが分かったので、そこから一般的な法則として「陽陰の二性性相」を導きだし、その原因的存在である神もまた「陽陰の二性性相」を持った存在であると論じている。これはまさに帰納的な論理展開である。そして、それはそもそも神ご自身が陽陰の二性性相の中和的主体であるため、それに似せて創られた被造物はすべて二性性相になっているのであるというとき、それは演繹的な論理展開である。

 創造原理の二性性相に関する議論は一種の自然神学であると言えるが、神についての認識を啓示によらず、理性によってのみ探究していこうとするため、自然神学は基本的に帰納的方法を用いる。しかし、理性的な観察によって得られた法則を一般化して世界に当てはめようとするときには、その発想は演繹的となる。これは科学の分野でも同じであり、データの分析から得られた法則性を仮説として立て、それを一般化してより広範な事象を説明しようとするとき、帰納法と演繹法を交互に用いながら思考していることになる。これは人間の思考の基本パターンであって、櫻井氏の言うように学問によって単純に分類できるものではない。『原理講論』の説明の中にも、その学習過程にも、統一教会の信徒の思考の中にも、帰納法と演繹法は混在しているのであって、「統一教会の信徒は演繹的な思考法しかできない」などということはあり得ないのである。

 宗教を信じる者の日常生活においては、信仰を中心として発想しているときには人は演繹的になる。疑うことの許されない大前提が存在し、そこから「こうあるべきだ」という思考をするのが信仰というものである。しかし、宗教を信じる者も日常生活のすべてのことを信仰に基づいて演繹的に思考しているわけではない。信仰とは本質的に関係のない日常生活の雑事は経験に基づいて判断していることがほとんどであり、人は時と場合に応じて帰納法と演繹法を使い分けているのである。問題は、信仰を中心とする演繹的思考と、経験に基づく帰納的な思考が矛盾・対立するときであり、こうした瞬間は常に信仰者に訪れる。それは時には信仰の危機になり、時には信仰の飛躍にもつながるという両面性を持っている。この問題は、「信仰と理性」「啓示神学と自然神学」の内容にも通じる神学の古典的なテーマだが、どうも櫻井氏にはそのような神学的センスが欠如しているようで、極めて乱暴で大雑把な議論になってしまっている。

 櫻井氏の記述によれば、創造原理の説明では陰陽説の二元論を仮定として、そこから霊肉二元論が演繹的に導かれるかのような説明がなされているが、実際には創造原理がこのように教えられることはない。創造原理で説明している二性性相には「陽性と陰性の二性性相」と「性相と形状の二性性相」の二種類があり、霊と肉は後者に属するものであるから、両者に直接的な因果関係はなく、「陽陰の二元論があるから霊肉の二元論も正しい」というような説明がなされることはない。人間に男と女がいることは客観的に観察可能な事実であるが、霊魂や霊界があるかどうかは我々の五官で経験的に観察できるものではないので、「人間には男と女があるのだから、霊と肉もあるはずだ」というような議論に説得力がないことは誰の目にも明らかであろう。こうした稚拙な議論ができるのは、櫻井氏が原理講義を直接聞いたことがないためであると思われる。あきらかな取材不足だ。

 また、受講生が創造原理を受け入れていく理由に関して、「陰陽説の二元論を仮定とする以上、霊肉二元論の結論だけを否定しても、導出の論理自体が正しいために理解不足という指摘をされてしまう。陰陽説の根本原理まで遡って否定できる人は極めて少ないために、受講生の多くは直感的にはひっかかる事柄があっても、論証の過程に圧倒されて疑問を出せないまま、結論を承認せざるをえないという心境に至るのである。」(p.252)と記述しているが、これは宗教的回心というものに対する彼の根本的な無知あるいは偏見を表明しているような文章である。

 そもそも人は、理路整然と教義を説明され、それに対して反論できなかったり、反論しても論破されてしまったからという理由で、その宗教に回心するのであろうか? 回心とは、理論的に反駁できない教義の結論をしぶしぶ承認することなのだろうか? そんなことはない。筆者はこれまでに、原理に反論できずに悔しい思いをして、それでも原理を受け入れずに去って行った修練生をたくさん見てきた。理論的に圧倒したからといって人は伝道されるものではないのである。人が原理を真理であると受け入れて回心する理由は、それが自分の過去の人生や現在の状況、あるいは自分の理想とする生き方に対する「説明理論」として納得できるからであり、そのことに感動するからである。宗教とは自分自身や世界について説明する「物語」であり、人が回心するということは、ある宗教が説いている物語を、「自分の物語」として採用することを意味する。それは単に教義に理論的に反駁できなかったからといって起こるものではなく、自分の人生と宗教的教義の間に何らかの実存的な出会いがなければ起こらないものなのである。

 宗教学者であるはずの櫻井氏に、なぜこのことが分からないのであろうか? それは資料に問題があるためである。櫻井氏が調査対象とした人々は、「青春を返せ」裁判で統一教会を訴えている原告たちが中心である。彼ら(彼女ら)は一度は統一教会に入信し、熱心に活動までしたのであるから、何らかの宗教的回心を体験しているはずである。ところが、彼らは自らの宗教的回心が真正なものであることを認めてしまうと、主体的な信仰を動機として活動したことになってしまうために、教会に対して損害賠償を請求できなくなってしまう。それでは訴訟が成り立たないので、自分が回心した過程を正直に描写するのではなく、教会の巧みな誘導によって説得され、納得させられた「受動的な被害者」として描写する必要があるためだ。こうした目的に基いて書かれた歪んだ描写を基礎資料としているところに、櫻井氏の研究の致命的な欠陥がある。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳26


第4章 性的役割分担(3)

 もし文師の精神的な教師および(文夫人と併せての)ロールモデルとしての影響力が、統一運動における性的役割分担のすべてを物語るのであれば、男性と女性の適切な行動様式に関するグループ内での多様性などというものを期待することはまったくできないであろう。しかしながら、実際にはそうではなく、アメリカにおける運動のメンバーの間には、性的役割分担に関する理解に極めて広い多様性があることをデータは示しており、その見解は文師の韓国的姿勢に対する文字通りの無批判的な忠誠から、女性に関するいくつかの誤解を明確にするために原理講論は現在のものから改訂されなければならないと発言した女性信徒の見解に至るまで、実にさまざまである。(注19)インタビューを受けた統一教会の女性には「過激なフェミニスト」に分類される者はいなかったが、運動内部の未婚の女性たちと既婚のカップルは、アメリカの文化を背景にして、彼らにとって神学的にも実存的にも意味をなす適切な性的役割分担を決定するために葛藤している、と信じるに足る理由がある。(注20)興味深いことに、文師の立場と調和する傾向にあるメンバーは概して未婚の男性である。

 統一運動における性的役割分担について考えることは、男性が主体であり女性が対象であるとする原理講論の一節を巡って展開する(注21)。標準的な英語においては、「対象(object)」という言葉が人間に当てはめられたとき(例えば「性の対象=sex-object」)には否定的な意味合いがあるため、対象の立場に立った者が主体の立場に立った者と等しい価値を持ち得るということ理解するのに、この研究者は非常に困難を感じたのであるが、すべての情報提供者がそれは本当だと言ったのである。等しい価値を持った主体と対象ということが意味しているのは、統一原理に基づいた神を中心とする文化においては、現代の世俗化された世界においてはしばしば過小評価される受動性、従順、養育、およびそれに類似した態度は、より自己主張的で積極的な態度と同じくらいに重要であるとみなされるということである。したがって、新しい理想的な文化の脈絡の中においては、メンバーたちにとってはその文化の発達段階の核が統一運動なのだが、主体の役割と対象の役割の等しい価値について語ることは意味をなすのである。

 上述のように未婚の男性は、文師によって支持され原理講論において強く示唆されている韓国モデルをより厳密に順守しているように見える。彼らは男性と女性に異なる存在論的な像を描くことによって性的役割分担を描写する。ボーデン氏は、「女性はリードされたいし、男性はリードしたいのだ」という見解を示した。そればかりか、これは彼の側の主観的あるいは道徳的な判断に過ぎないのではなく、「物事の真の姿」であると彼は信じているのである。(注22)男性と女性は生まれながらにして異なっており、したがってある程度固定された特定の役割に本質的に引き付けられるのだという概念は、未婚の男性との会話において頻繁に登場した。
「原理講論は女性の心の構造は(男性とは)異なっていると教えている。例えば、男性は抽象的に思考して新しい考えを展開するのを容易だと感じるのに対して、ほとんどの普通の女性はそれができない。同じ教育レベルの男性と女性を比較すれば、男性が自然に支配するようになるのに対して、女性は強制しないとできない。」(注23)
「私は、男性が女性以上に果たすべき一定の役割があり、女性が男性以上に果たすべき一定の役割があると思う。なぜって、ほら、私たちは家庭をとても強調するので、もちろん女性は子供を育てるうえでより多くの役割がある。そして外で仕事をして、世界と関わるのがより男性的な性質であると思う。」(注24)
「おそらくリーダーシップを発揮する位置は、その性質ゆえに男性がより能力を発揮すると私は考える傾向にある・・・家庭を営むという観点からは、男性は赤ん坊に乳を飲ませることはできないし、子供を育てることはしない。女性の生活の中心部分は家庭生活であるべきだ。」(注25)

 事実上これらすべての男性は、文師がアメリカ人の男性をリーダーの位置に復帰させる努力を始めた年である1971年以降に統一運動に入会している。1970年代の多くのアメリカ人男性と同様に、これらの若い男性たちが我々の社会の中で数を増大させつつあった解放された女性たちと関わろうとする中で、男性としてのアイデンティティー・クライシスを経験したと考えるのはもっともらしい。これが本当であることは、彼らの多くが統一運動に回心する前に経験した女性との親密な関係は、不満足なものであったと語った事実に暗示されている。運動は彼らに明確に定義された男性の役割を提供したのかもしれない。そしてそれは、世俗社会において機能している、より曖昧でより高度に分化した役割よりも、彼らにとってより心地よい役割だったのかも知れない。さらに、統一運動が家庭の神聖性を強調していることを考えれば、全般として非常に保守的・伝統的な価値観を持っているメンバーを魅了すると信じるに足る理由がある。それに加え、統一運動は組織において男性がリーダーシップを発揮することを強調しており、これにより彼らがなぜ自身の社会的位置を具体化するような方法でその神学を解釈する傾向にあるのかが明らかになるのである。

 未婚の女性メンバーは、運動における性的役割分担の理解において、男性の同僚たちと極めて対照的であった。彼女たちは原理講論の中の男性が主体で女性が対象であるという一節を知っていたが、彼女たちは独身の男性たちよりも、もっとダイナミックで実存主義的な方法で人間の役割と関係性を解釈したのである。彼らは自分たちにとってカギを握る原理講論の一節を特に強調したのだが、それは「男性には女性性相が、女性には男性性相が各々潜在しているのである」(注26)という部分であった。

(注19)インタビュー:マリー女史
(注20)これはある社会運動が一つの文化から他の文化に移植されたときに、その中に生じる緊張の典型例である。私がアメリカのメンバーたちと接触する中で、彼らの多くが文師の性的役割分担に関する見解を(例えば清めの儀式に塩を使うことや、まぶたを攻撃する眠りの悪霊を追い出すといったような、いくつかの韓国の風習と共に)、本質的に文化的なものであり、したがって、彼らの信仰の本質的な部分ではないみなしている、という印象を強く受けた。あるメンバーはこれらの韓国的要素に言及するとき「キムチ」という言葉を用いた。キムチとは、文字通りの意味はスパイスを施した白菜のことだが、韓国の食事においては必需品である。
(注21)「神が男性であるアダムの肋骨を取って、その対象としての女性であるエバを創造された・・・(創二・22)。我々はここにおいて、神における陽性と陰性とを、各々男性と女性と称するのである。」『原理講論』p.24。p.33、pp.48-49、および特にp.91も参照のこと。
(注22)インタビュー:ボーデン氏
(注23)インタビュー:ボルトン氏
(注24)インタビュー:アダムズ氏
(注25)インタビュー:リギンズ氏
(注26)『原理講論』p.21

カテゴリー: ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』79


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第79回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」において、「11 実践トレーニング」(p.249-251)の内容について説明している。彼によれば、実践トレーニングの講義内容は以下の通りである「一 公式七年路程、二 万物復帰・伝道(実践)、三 展示会思想(実践)、四 祝福の意義と価値、五 反対派」(p.249)。

 このうち、一と二と四は統一教会の教義の説明であると考えられ、教会で用いられている用語と一致している。「展示会思想」は統一教会の教義には存在しない言葉だが、櫻井氏によると「信者の家族・親族・友人を宝飾品・着物・絵画等の展示会に誘う等、販売促進員となることだ」(p.249)という。これは要するに営業活動なのであるが、当時は連絡協議会の信徒たちがこうした商品を扱う会社を設立して販売を行っていたため、現場の信徒たちがその営業活動に宗教的な意義付けをして教育を行っていたと考えられる。「反対派」というのは、拉致監禁を伴う強制改宗を行う「反対牧師」と呼ばれる人々が実際に存在するため、それに対する対策の講義として行ったものであろう。こうした迫害から信徒を守るための教育を行うことは当然である。

 櫻井氏は、「実践トレーニングの講義題目が、統一教会員のなすべき全ての信仰実践を示している。」(p.249)と述べている。それでは、ここまで来るのに通常どのくらいの時間がかかるのであろうか? 櫻井氏の記述によれば、勧誘されてから統一教会の信者になることを決意するまでの期間は4ヶ月が突出して多く、それはフォーデーズセミナーを終えた時点であるという。(p.211)その後に一ヶ月の新生トレーニングが続き(p.245)、その後さらに数ヶ月の実践トレーニングが続く(p.249)ことを考慮すると、受講生が統一教会とはどんなところであり、どのような信仰実践があるのかを知るまでにかかる時間は、出会ってから半年ほどということになる。しかも、新生トレーニングと実践トレーニングにおいては、いま自分が学んでいるのは統一教会の教義であるということを知った上で学んでいるのである。櫻井氏は「正体を隠した伝道」を強調するが、多くの受講生は出会って4ヶ月で自分の学んでいるものが何であるかを知り、半年でそこで行われている活動の中身を知るようになるのである。つまり、その時点で自分が聞いてきた宗教的な世界観や実践を受け入れるか否かを判断するための、基本的な情報をすべて与えられるわけだ。人生の中において、これは決して後戻りできないほどに長すぎる時間ではないし、実際に「いい勉強だったが自分には合わない」と言って、トレーニング終了後に関係を絶ってしまう受講生も多数いるのである。

 以前に一度紹介したが、東京における「違法伝道訴訟」に原告側が提出した証拠(甲第57号証)には「4DAYS現状調査」という、フォーデーズ参加者の追跡調査を行った表がある。これは連絡協議会傘下の東東京ブロックの青年支部が行っていた伝道活動に関する資料であるが、1988年の11月から1989年の3月までのフォーデーズ新規参加者数が438名となっている。そのうち新生トレーニングに進んだのが288名で、実践トレーニングに進んだのが165名、その中で「フリーになる」、すなわち仕事を辞めて連絡協議会で専従的に活動するようになった者(いわゆる「献身者」)は18人となっている。この数は実践トレーニング参加者の11%に過ぎない。櫻井氏は「正体を隠した伝道」と巧みな誘導によって受講生は統一教会の命ずるがままに行動するしかない状態に追い込まれていくかのような記述をしているが、勧誘する側の目的が「献身者」を生み出すことだったとすれば、実際には大多数の人が実践トレーニングを終えた時点で、それに対して「ノー」と言える判断力を持っていたことをデータは示している。ここでも我々が認識するのは個人の自由意思の存在であり、受講生たちは教えられた内容に対して十分な抵抗力を持っていたことが分かる。その中で信仰の道を行くことを選んだ人は、圧力の犠牲者ではなく、自らの自由意思によって主体的な決断したということである。

 さて、櫻井氏は「一連のトレーニングにおいて、教義の学習を終えてから最後に実践内容を語るというのは筋が通ってるように見える。」(p.250)ということを認めておきながら、それを語学の学習になぞらえて、「学び始めるものが何を学ぶことになるのかを最初に教えられていない」と批判した上で、その言語がどこで使用され、話者はどのような文化・歴史・国家を持った人かを知らないまま、ただひたすら文法の学習を泊りがけで行い、特定言語を母語に優先して用いるという選択を最終的に迫られるという経験をすることになるという、荒唐無稽な例え話を展開している。そもそも、何語であるか分からない言語の文法をひたすら学び続け、それを母語に優先して用いるようになるというような状況は実際に起こりえないことなので、例え話として意味をなさないであろう。

 しかし、あえて櫻井氏の強引な例え話に合わせてストーリーを作ればこういうことになるだろう。ある人が、何語か分からない意味不明の言語を用いて会話している人々に出会った。その人は日本語も喋れたが、そのグループの人だけが理解する言語で会話しているときの様子はとても楽しそうで生き生きとして見えたので、よく分からないがその言語を学んでみようという気持ちになった。言語の習得は一筋縄ではいかず、泊りがけの合宿に参加することでようやく身に付いてきた。やがて少しづつ自分もその言語を使えるようになってくると、その言語でしゃべることが嬉しくなり、その言語でしか体験できない仲間意識や共同体意識というものが芽生えてきた。そしてある日、その言語は自分たちが理想とするある外国の言葉で、その国の国民となるためには言語の習得が義務付けられていることを初めて明かされる。そして、あなたも母国を捨ててその国に移住してみないかと誘われる。すると、その言語を通して得られた仲間意識や共同体意識に強烈に魅了された一部の者は移住を決意したが、残りの者はやはり日本での生活に未練があり、見たこともない外国に行くのは不安だということで言語の学習を辞めてしまった。ここで「言語」を統一原理に、「理想とする外国」を天国に置き換えれば、伝道されるということがどんなことかを、一つの例えとして表現していることになるであろう。この例えが荒唐無稽だと思った人がいたとすれば、それは櫻井氏の最初の例えに無理があったということだ。

 さすがにこの例えは飛躍があると思ったのか、櫻井氏は「言語と宗教では比較の次元が異なるかもしれないということであれば」(p.250)という言い訳をしたうえで、異なる宗教間の対比へと話を持っていく。彼は特定宗教の中身を知る方法として、①出版物による教説の理解と、②指導者や信者に宗教活動や信仰生活の実態を尋ねる、という二つの方法をあげ、既成宗教においては①と②の両方とも誰でも可能だが、統一教会においては一般市民は①も②もほとんど機会がないと言っている。これは単に、仏教や神道などの日本のメジャーな宗教と、比較的小規模な新宗教である統一教会では、一般市民が持っている情報量が異なると言っているに過ぎない。そしてその結論として、「要するに、宗教実践に関わる何の情報も持たず、与えられることもなく、ひたすら教説の学習を繰り返されてきたのが統一教会の入信者達である。」(p.251)というような無理な結論を導き出している。確かに統一教会の教義や信仰生活の実態は、多くの日本国民に知られていないであろう。しかし、そのこと自体が悪いのではない。知らないからこそ、興味や関心を持った人はそれを学ぶのである。

 櫻井氏の論法は、特定宗教に対する前知識のない人は、その宗教について正しい判断ができないという結論に持っていこうとしているが、人は必ずしも前知識や冷静で客観的な比較検討によって宗教を選択するわけではない。たまたま出会った見ず知らずの人と恋に落ちることがあるように、前知識のない宗教にいきなり出会って、それを一生信じるようになる人もいるのである。そもそも世にあるすべての宗教の教義や実践内容を知ることはできない以上、人はたとえたまたま出会ったとしても、自分に合っていると信じられる宗教を選択するのである。そしてそのときに判断材料として、まずはその特定宗教の教説を知的に一生懸命学ぶことは至極まっとうな方法である。

 ひたすら教説の学習を繰り返した後で初めて実践内容を教えられるという櫻井氏の批判についても、「教義が先か? 実践が先か?」という選択の問題であり、科学の教育における「座学が先か? 実験が先か?」と似たようなテーマである。人にはいろいろなタイプがあり、理論面から関心をもって実践に移っていく人もいれば、体験を重視して理論は後からついてくるという人もいる。宗教団体の個性も同様にさまざまで、まずは教義を理解することを重要視する主知主義的な宗教も存在すれば、「考えるよりも先に体で感じなさい」という体験重視型の宗教も存在する。櫻井氏の調査対象となった元信者たちは、前者の体験をした者が多かったというだけのことであろう。これが教会内で生まれ育った二世信者になれば、事情はまったく異なる。彼らにとって統一教会の信仰は生まれたときから生活の一部であり、教説について本格的に学び始めるのは中高生程度まで成長した後である。実際には、ひたすら教説を叩きこまれなければ統一教会の信徒になれないというわけでもないのである。

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ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳25


第4章 性的役割分担(2)

 文夫人の「天宙の母」という高貴な地位は、現在進行形の運動の生活において実際に彼女が果たしている役割とは、むしろ著しい対照をなしている。彼女の夫はその時間とエネルギーのほとんどをメシヤとしての使命に捧げているのに対して、彼女はほとんど背景にとどまっており、主人の家を管理し、12名の子供たちの世話をしているのである。(注9)その点において、彼女は妻と母親の適切な役割に関する文自身の教えを反映しているのである。運動の母親たちとの会合において、彼は以下のように説明している。
「原理によれば、男性を堕落させた責任はエバにあったので、母親は子女たちの正しい教育に対して責任を持たなければなりません。・・・ですから、母親の役割に革命を起こさなければなりません。第一に、彼女たちは子供たちをよく育てなければならず、第二に彼女たちは夫によく仕えなければなりません。」(注10)

 さらに、「教会に対する母親の責任に関して言えば、彼女は自分の夫に仕える以上に教会の指導者たちに仕えなければなりません。なぜなら、彼らは神の位置に立っているからです。」(注11)子供たちと夫と運動に奉仕することにおいて、文夫人はこれらの理想を具現化しており、また一部の女性メンバーにとっては役割モデルとなっている。

 文夫人の役割は現在変化の過程にあると信じるに足るいくつかの理由がある。1977年以降、彼女は運動の生活においてより積極的な役割を担うようになり始めた。「子羊の婚姻」の17周年記念式典の場において彼女は最初の「公的な」証しをしたが、その短い話の中で彼女は再臨主の花嫁として選ばれたことの霊的な意味について話した。彼女は、神の道に従う立派な信仰者となるための自身の葛藤について語ったとき、翻訳者のコメントによれば、しばしば感極まって涙を流したという。(注12)彼女のスピーチが終わると、文夫人がアメリカを代表する5組の祝福家庭に対して、さまざまな用途に使える銀の洋食器のセットを授けるというアナウンスがなされた。司会の朴普煕は、この贈り物は二つのことを象徴しており、一つは祝福家庭の「定着」に対する真の父母の願いであり、もう一つは「教会におけるお母様の公的役割の増大」(注13)であると説明した。この新しい役割の性格はまだ明らかになっていないが、文夫人の子供たちが成長するにしたがって、彼女が家の外での活動により多くの時間を投入することができるであろうと理解することはできる。著者が対話したアメリカのメンバーたちは、彼女がグループのより多くのメンバーたちと接するようになり、また運動の外部の人々にもより広く認知されるようになってほしいという強い希望を表明した。

 性的役割分担に対する文師の態度は、彼がアメリカの文化に徐々に明るくなっていった結果として変化しているという一般的な感覚を、多くのメンバーが抱いている。彼と彼の家族は1971年に米国に来て、永住ビザで留まっている。その時以来、彼は運動における女性の役割に関してはより「リベラル」になったきたと著者は告げられた。彼がどのように変わったのかを尋ねられると、情報提供者は具体的な例を二つだけ挙げた:
1.彼は女性が高等教育を受けるという考えを是認した。統一教会のメンバーの36%が女性であるという事実に照らしてみると、神学校に行ったり大卒の仕事をしている全メンバーの約三分の一が女性であるというのは興味深い。また、真の父母の長女は、東部の一流の小規模な大学の教養課程で学んでいる。
2.文師はいま、夫人から長年にわたって受けてきた足のマッサージを、お返しに夫人にしてあげているが、これは韓国の慣習に反することである。

 女性に対する高等教育を支持するということは、何世紀にもわたって女性に家の中の仕事だけを命じてきた文化に深く根差した一人の男にとっては、大きな変化であるように見える。しかしながら、「お父様」はそれでも本質的に神を中心とする男性優位の文化を確立しようとしていることを、大部分の証拠は示唆している。1965年3月から1979年5月までの日付のついた文の説教とスピーチを著者が調査した結果、文の女性観が変わったという主張を確証することはできなかった。彼の基本的な視点は、この14年間一貫しており、以下に示す1974年の説教の引用の中に見出すことができる。
「西洋の女性たちは東洋のやり方を学ばなければなりません。もし皆さんの夫が西に行けば、皆さんも西に向かわなければなりません。彼が北に向かえば、彼に従っていかなければなりません。[#傍線]これは東洋のやり方ではなく、天のやり方なのです[#傍線終わり]。」(注14)

 一年後の別の説教では、文は性的役割分担における「天のやり方」に対する神学的で準経験的な議論を展開している。彼の見解では、「愛の根源はもちろん神様であり、神様からそれは男性を通して降りてきて、女性に至るのです。」「愛の秩序」の「証明」は三つの現象の中に発見することができる:(1)男性は天を象徴し、女性は地を象徴する;(2)性行為において男性は女性を見下ろし、女性は男性を見上げる;(3)人体の構造において、男性は肩幅が広く、女性はおしりが大きくなっている。(注15)

 女性の役割に関する文の見解が大きく変わっていないことは、この国に住居を定めて以降、彼が運動におけるリーダシップの大きな変更に対して主要な責任を負っているという事実に示唆されているとみることができる。1971年以前は、アメリカのリーダーは主として女性であり、その中でも注目すべきは金永雲であった。米国の運動の初期において女性のリーダーシップが優勢であったというロフランドの参考文献(注16)は、「古い」メンバーへのインタビューによって繰り返し確認されたが、彼らはみな1970年代におきた男性優位のヒエラルキーへの変化は、この国に文師がいたことが原因であるとした。(注17)文師はアメリカ人の男性がリーダーになることを学ぶ必要があると信じているのだと彼らは説明した。「神の御旨に対する代価」という1974年の説教の中で、文自身が以下のように説明している。
「創造原理によれば、男性は主体の位置にいるのです。あなたがたの国はレディーファーストの国なので、アメリカ人の男性はそれに慣れているのです。誰が主体ですか? 男性です。男性たち、答えてみなさい。」(注18)

 著者はこの問題に対する直接的な証拠を持たないが、男性に指導者への道を開いたことが、現時点で運動には女性のメンバーより男性のメンバーの方が相当多いことを説明するかもしれないと仮定するのは合理的である。この説明が正しいかどうかは別として、文師が女性に対する高等教育を是認したこと以外は、性的役割分担に関する彼の立場が伝統的な儒教およびキリスト教の男性優位の視点を反映していることは、実証によって明らかである。

(注9)運動の文献、とりわけ一般大衆に向けられた出版物において文夫人が目立つようになったのは、ほんのここ数年のことである。
(注10)文鮮明師「母親たちとの会合」朴普煕による通訳と一部要約、『季刊祝福』(第2巻、1号、1978年冬)
(注11)前掲書、p.30。
(注12)「お母様の証し」『季刊祝福』(第1巻、2号、1977年夏)、pp. 18-22。
(注13)「真の父母の日記念」『季刊祝福』(第1巻、2号、1977年夏)、p.68。
(注14)文鮮明師「道」、『マスター・スピークス』(MS-423, 1974年5月30日)、p.7、(下線は著者による)。
(注15)文鮮明師「家庭生活の真のパターン」『マスター・スピークス』(MS-459, 1975年3月7日)、p.4。
(注16)ジョン・ロフランド「終末論を解くカルト」, pp. 212-216。
(注17)10チームのI.O.W.C. (国際統一世界十字軍)が伝道活動のために1972年から1974年にかけて編成された。指揮官は全員が男性であり、これらのチームに任命された56名のうち女性は3名だけであった。デビッドS.C.キム (編)「希望の日レビュー」 (ニューヨーク:統一教会、1977年):p.404-409。
(注18)『マスター・スピークス』(MS-452), p. 10。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』78


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第78回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」において、新生トレーニングにおいて説かれる実践的な信仰規律について説明しているが、前回は「(2)カイン・アベルの教訓」に対する彼の批判に反論した。今回はその続きである。
「(3)イサク献祭の教訓。一〇〇歳のアブラハムと九〇歳のサラとの間に生まれた子がイサクで、神は彼と契約を立てるとまで言った。しかし、神はイサクを燔祭に献げるようアブラハムに言い、アブラハムはイサクに手をかけようとしたとき、神はアブラハムが神を畏れるものであることを知ったと言った。ここから、最も大切なもの、我が子すら神のものであり、神にお返しすることが信仰、義とされるという。この世のものは全て神のものであり、神は万物を主管される方であることを強調する。実践信仰としては、自分の所属するもの全てを神に捧げることが信仰の始まりとされる。」(p.248)

 ここで述べられている「イサク献祭」は、聖書の物語を題材とした宗教的言説であり、こうした言説自体は信教の自由によって保証された領域に属することは言うまでもないが、櫻井氏によるこの教説の解説は誤っている。「イサク献祭」の教訓は万物を神にお返しすることではなく、神の命令に絶対的に従う信仰の重要性を説いているのであり、その点で既存のキリスト教の聖書解釈と相通じるものである。神がアブラハムに「イサク献祭」を命じた動機に関しては、「イスラエル民族から人身御供の習慣を絶つため」といったものも含めて、複数の解釈が存在する。しかし、最も主流の解釈はアブラハムの信仰心を試すためであり、このような事態に陥っても動じなかった彼の偉大な精神を公にするためでもあったというものだ。そしてこの試練を乗り越えたことにより、アブラハムは模範的な信仰者としてユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒から今日でも「信仰の祖」として讃えられているのである。この点に関して、原理講論は以下のように述べている。
「アブラハムはその絶対的な信仰で、神のみ言に従い、祝福の子として受けたイサクを燔祭としてささげるため殺そうとしたとき、神は彼を殺すなと命令されて『あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った』(創22:12)と言われた。神のみ旨に対するアブラハムの心情や、その絶対的な信仰と従順と忠誠からなる行動は、既に、彼をしてイサクを殺した立場に立たしめたので、イサクからサタンを分離させることができた。したがって、サタンが分離されたイサクは、既に天の側に立つようになったので、神は彼を殺すなと言われたのである。『今知った』と言われた『今』という神のみ言には、アブラハムの象徴献祭の過ちに対する叱責と、イサク献祭の成功に対する神の喜びとが、共に強調されていることを、我々は知らなければならない。」(「原理講論」p.327)

 ここで強調されているのは、万物を神に帰すことでも、息子を殺すことでもなく、神に対する絶対的な信仰であり、それによってサタンを分立することにある。聖書に「あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげてもあなたは喜ばれないでしょう。神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。」(詩篇51:16-17)という言葉や、「わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。」(ホセア6:6)という言葉にあるように、神が望まれるのはいけにえを捧げることではなく、私たちの心からサタンが分立されることであると統一原理は教えているのである。

 さらに、「イサク献祭」のような聖書の物語を題材とした宗教的言説を聞いたからといって、即座に自分の一番大切なものを捧げなければならないと決意するほど人間の心理は単純なものではない、ということも抑えておく必要がある。実際には、こうした教義を聞いても自分の大切なものを捧げたりあきらめたりすることを拒否する人は数多くいるのである。「イサク献祭」のような宗教的言説を聞いて感動する人は、もともと自己犠牲的な生き方を理想とする宗教性を備えた人であると言える。

 櫻井氏は続いて以下のように述べる。
「心情解放展と呼ばれるイベントでは、イサク献祭同様に自分にとってかけがえのないものを献げることが求められる。具体的には、受講生がこれまでの人生における異性関係を告白して罪を悔い改めること、現在交際中の人とは別れること、個人の貯金などを統一教会に献金することだ。神の祝福によらない結婚は罪と頭で理解していても、この教えを徹底すれば自分が恋人と別れることになるとまでは考えてはいなかったろう。この辛い決断をしてしまうと最も親密な人間関係が失われるために、これまでの自分ではなくなってしまう。」(p.248)

 ここで言われている「心情解放展」なるものは、統一教会の公式の儀礼には存在しないが、札幌「青春を返せ」訴訟の原告たちはそうしたイベントがあったと主張しているようであるから、信徒たちが現場で行っていた行事をそのように呼んでいた可能性はある。問題は名称よりもその中身だが、ここでの中心ポイントは統一教会の信仰を持った結果として、交際中の恋人と別れる場合があるということである。櫻井氏は恋人と別れることによって「これまでの自分ではなくなってしまう」といういささかオーバーな表現をしているが、これを文字通りに受け取れば、人は恋人と別れるたびに違う人間になってしまうことになる。こうした大げさな表現はとても冷静な社会学者の文章とは思えない。

 信仰を持つことによって異性のとの関係に問題を来すようになるという事例は一般のキリスト教にもあるようで、以下のような問いと答えが『クリスチャン生活事典』には掲載されている。

「Q:私が教会へ行くようになったら、これまで交際していた男性が『話が合わなくなった』と遠ざかっていきました。とても寂しいことです。
 A:イエスさまは、私が来たのは、人を仲たがいさせるためだ、とさえおっしゃいました。それはだれどでもけんかをしろという意味ではなく、人を神から離したり、罪への誘惑をもたらしたりする人からは、離れてゆかなければならない、ということです。
 あなたがその男性を愛し、どうしてもイエスさまの福音を伝えたい、救われる者になってほしい、という強い願いをもつほどでしたら、追いかけていってでも交際をなさるといいでしょう。しかし、あなため神への思いや信仰の妨げになるような人なら、思いきってあきらめることがよいでしょう。
 主を信じるために寂しい思いをされるなら、神は必ずあなたにもっとすばらしい幸せと慰めを与えてくださいます。『わたしは人よりも主を愛します。』と祈ってみて下さい」

「Q:未信者の異性と交際していますが、やめるぺきでしょうか。
 A:未信者との交際が、必ずしも悪いとはいえません。その人が人間的に誠実な人であり、あなたの信仰をよく理解し、協力さえしてくれるような人であれば、むしろ、その人を信仰に導くよい機会であるかもしれません。
 しかし、その人があなたのどこに魅力を感じ、あなたの何を求める人であるかどのような性質の人であるかを、よく見抜かなければなりません。信仰的なことや精神的なことに理解する心のない人と交際を続け、ついには結婚するようなことになれば、あなたほ非常に苦労するようになります。ついにはあなた自身の信仰さえ、維持することができないようになる危険があります。
 だから今、よく祈り、考え、また信仰の先輩の助言も受けてください。自分ひとりでなく、多くの人の助けもあり、その相手の中にもよい可能性があり、自分も苦労を覚悟してのことなら、むしろ強い信仰に立って、必ず相手を信仰に導く決意で交際してみるとよいでしょう。そうすれば、相手の性質もわかってきます。」(『クリスチャン生活事典』214~215頁)

 これらの信仰指導は、基本的に異性との交際を優先して信仰をやめるべきだとは決して言わない。知恵を持って対処し、基本的には信仰を優先して判断し、できるだけ妥協しないように勧めているのである。とくに信仰に至る可能性のない交際相手に関しては、別れたほうが良いと勧めている点には注目する必要がある。こうした異性の問題に関するキリスト教の信仰指導は、新生トレーニングにおいて行われている指導と本質的に異なるものではない。このように男女の愛よりも信仰を優先させ、交際中の異性と別れるように説得を行うこと自体は、宗教の世界においては一般的なことなのである。特に統一教会においては罪の本質を「愛と性の問題」としてとらえており、祝福による結婚が救いにとって必要不可欠なものであると教えているため、異性の問題は信仰の本質として避けて通ることができないのである。恋人と別れることは、受講生にとって一時的には辛い体験であるかも知れない。にもかかわらず、彼らが信仰を優先して異性関係を断ち切るのは、祝福によってより大きな幸福が得られるに違いないという「希望」があるからである。それもまた一つの合理的な選択であると言えるだろう。

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ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳24


第4章 性的役割分担(1)

 性に関する価値観が明確に定義され、統一教会の信徒たちによって厳密に守られているのとは対照的に、「兄弟」と「姉妹」の性的役割分担の問題は複雑で曖昧な現象であり、単純化した表面的な特徴付けを寄せ付けない。証拠が明らかにしているのは、アメリカにおける一つの宗教団体が、少なくともその神学的伝統と一致し、組織構造の内部で機能し、そのメンバーの圧倒的大多数を占める青年たちの意識に合致した男性と女性の役割を発見し、また実現するために、いまだに葛藤しているということだ。統一運動を、キリスト教と儒教の起源に基いて偏狭主義を容認する男性優位の社会的存在であると特徴付けるのは簡単ではあるが、誤っている。この章の意図はそのようなものではない。むしろ、ここでの目的は以下の三つである:(1)統一運動における性的役割分担に対する複雑で多様なアプローチを記述する;(2)その多様性に対する社会学的説明を提供する;そして(3)この多様性が、兄弟姉妹間の献身を維持するための主要な要因である可能性を示す。

 統一運動は自身を一つの世界家族であると考え、その目標は、普遍的で最終的に全人類を包括することのできる神を中心とした文化(注1)を創造することにあるとしている。この家族には、真の父母と真の兄弟姉妹がいる。真の父母の役割はむしろ明確に定義されているのに対して、以下に述べるように兄弟姉妹の役割は主に以下の4つの基準によって違いが生じているように見える:
1.グループの神学的伝統は、「対象」である女性との関係において、男性に対して「主体」あるいは主導的役割を与える傾向があるものの、いくつかの解釈が可能なほどに曖昧である。
2.男性のメンバーのリーダーとしての能力を伸ばそうという文師の関心。
3.女性のメンバーを加入させ、彼女たちの献身を維持しなければならない組織のニーズ。
4.世界史におけるこの重要な時期に、世界の救済のためにあらゆる努力がなされ、あらゆる手段が講じられなければならないという運動の信念。

 終末論的指向性を持つ「統一家族」(注2)であるという感覚は、メンバーたちが運動に加入する際に自らの血統的な家族と徹底的に断絶することによって高められる。この感覚は、統一運動のセンターにおける実質的にすべての活動がグループ活動であるという事実と、それが多くの点において、本当の家族とはどうあるべきかに関する伝統的なアメリカの理想に近いという現象によってさらに助長される。さらに、未婚のメンバー同士の恋愛と婚前交渉の禁止(すなわち、インセスト・タブー)は、本当の「兄弟」と「姉妹」であるという彼らの意識を強化することに役立っている。また、最終的にはすべての人種、民族、国籍をも包括する兄弟愛と姉妹愛は、ほとんどのメンバーが運動に加入する前に抱いていたという世界の調和という考えと一致するのである。最後に、真の父母としての文師夫妻は、唯一で模範的な家族の団結の象徴をグループに提供している。

 統一教会の信徒たちにとって、文師夫妻は理想的な結婚と家庭を創造したのであり(注3)、それは同時に単一性とパラダイムを構成している。真の父母の関係の特異性は、彼らが救済史の中において果たす摂理的な役割に由来している。文師の最初の妻は、彼自身の証言によると、女性の洗礼ヨハネであると同時に堕落したエバであったが、彼女は自らの親族の支援を受けて、正統的なキリスト教を基盤として彼の使命に反対したのであった。(注4)彼女が彼のもとを離れ、1950年代に離婚した後、彼は1960年に現在の妻である韓鶴子と結婚したのであるが、それは黙示録19章9節に予言されている「子羊の婚姻」であると信じられているという点において、摂理的な出来事であった。(注5)文のメシヤとしての役割は、彼の結婚を人類歴史上特異な出来事としている。それは神の目からみれば最初の真の男女の結合であったのであり、それ自体が彼の信徒たちの間で真の結婚がなされるための終末論的な基盤を据えるのである。(注6)

 結婚のときに韓鶴子は18歳に過ぎなかった(文は40歳だった)。【訳注:韓鶴子総裁の生年月日は1943年2月10日<陰暦1月6日>であるため、成婚式の1960年4月11日<陰暦3月16日>の時点では満17歳だが、韓国式の数え方では18歳になっている。文鮮明師は成婚時の満年齢は40歳だが、韓国式の数え方なら41歳となる。】さらに重要なことは、彼女は霊的に未成熟だったのであり、天宙の母としての役割を担うためには、文により霊的完成に向けて「育てられる」必要があった。

 文が彼の妻を神と彼自身に対する絶対的服従へと導いたプロセスもまた、彼らの結婚に固有の特徴である。他のカップルにおいては、婚約時代に男性を神に向けて育てるのは女性である。文は韓鶴子とのプロセスを以下の言葉で描写している:
「お父様はある意味でお母様を訓練したのです。お母様はしばしばあまりに疲れていて、休みたがりましたが、お父様はただ彼女をあらゆるところに引っ張り回し、ありとあらゆることをしたのです。お母様はほぼ疲れ果てていましたが、常に自分の夫に従おうとし、夫が何をしてもそれをしようとしました。夫がどこに行こうとも、彼女は従ったのです。」(注7)

 このように、夫の導きに従い、文夫人は「復帰されたエバ」となり、ある意味で「女性メシヤ」(注8)にならなければならなかったのである。

(注1)運動の「文化」に対する理解は、クライド・クラックホーンの見解に近いように思われる。彼は、文化とは「厳密な言い方をしなければ、目に見える行動、話し言葉、あるいはそれらが生み出すものである。それは考え方、感じ方、信じ方である。それはさらなる使用のために(人間の記憶、書物、物体の中に)蓄積された知識であり、ある特定の事柄を特定の方法で行うパターンであり、それらを行うことではない。」(クライド・クラックホーン『文化と行動』[ニューヨーク:フリー出版、1962年]p.25)
(注2)これはアメリカで1960年代にグループによって広く使われていた名前であった。
(注3)文師夫妻には13名の子女がいる。
(注4)文鮮明師「子女の日」(マスター・スピークス、MS-441、1974年11月4日)、 pp. 8-9。
(注5)ある著者は文は実際には4回結婚したと主張しているが、この主張を立証する文書を提示していない。J・イサム・ヤマモト『人形遣い』(ドナーズ・グローブ、2:インターバーシティ出版、1977年)、p.21。
(注6)「子羊の婚姻」が行われる以前には、運動の中で祝福結婚が挙行されることはなかった。
(注7)文鮮明師『35双の祝福前のお父様のみ言葉からの抜粋』『季刊祝福』(第1巻、2号、1977年夏)、p.12
(注8)ダロル・ブライアント『祝福に関する神学者の会議1978年11月4日』(未発行の記録)、p.15。「女性メシヤ(woman messiah)」という称賛は、統一神学大学院の学生である男性信者によって示唆された。統一神学においては、完全な(霊肉共の)救いをもたらすメシヤ(すなわち再臨主)は一人だけであるため、頭文字を小文字にした“messiah”という言葉は恐らく霊的な完成に到達した者を意味するのであろう。メンバーたちはときに、誰であろうと、男性でも女性でも、この意味での“messiah”になることができると語る。

カテゴリー: ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」