書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』134


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第134回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 元統一教会信者の信仰史の具体的な事例分析の中で、第125回から「五 壮婦(主婦)の信者 家族との葛藤が信仰のバネに」に入った。今回は元信者Iの事例の5回目である。前回は慶応義塾大学大学院教授の前野隆司氏の著書『幸せのメカニズム:実践・幸福学入門』(講談社現代新書、2013年)の中で紹介されている「幸せの因子」に基づき、信仰を持つことによってなぜ幸福感がアップするのかを解説した。その結果、統一教会における信仰のあり方が人の幸福感を増す多くの因子と関係していることが分かった。したがって、Iの信仰が彼女の幸福感を増大させていたのであり、それが彼女の信仰の動機となっていたという結論を導いた。

 しかし、これは宗教一般に広く当てはまることであり、統一教会固有の信仰の喜びに絞り込まれたものではないし、Iがなぜそれほど高額の献金をしたのかについては十分に説明しているとは言い難い。そこで今回は、統一教会信者が持つ固有の特徴について研究したアイリーン・バーカー博士の『ムーニーの成り立ち」に基づいて、さらなる分析を行うことにする。

 バーカー博士によると、ムーニーになりそうな人は以下のような特徴を持っていた:①「何か」を渇望する心の真空を経験している人、②理想主義的で、保護された家庭生活を享受した人、③奉仕、義務、責任に対する強い意識を持ちながらも、貢献する術を見つけられない人、④世界中のあらゆるものが正しく「あり得る」という信念を持ち続けている人、⑤宗教的問題を重要視しており、宗教的な回答を受け入れる姿勢のある人々。

 一方、以下のような特徴を持つ人はムーニーになりそうもないという:①宗教問題や社会問題に関心がない人、②神が存在するという考えを全面的に否定する人、③聖書が神の啓示であることを否定する人、④特定の信仰や世俗的なイデオロギーを堅く信奉している人、④すでに人生に明確な目的を持っている人、⑤物質的な成功を収めることに関心のある人、⑥自分自身の内的意識に集中するために世俗的な追求から身を引くことに関心のある人、⑦幸福な結婚をしているか、ボーイフレンドやガールフレンドとの安定した満足な関係がある人。

 バーカー博士は著書の中で、統一教会の信仰がムーニーたちに与える満足感について、以下のように説明している。
「それは日々の生活の中心に神が存在する宗教的共同体を提供する。神は、各個人が個人的な関係を持つことができる生きた存在である。それは各個人が愛なる神の慰めを感じることができる共同体であるだけでなく、各個人に神を慰める機会を与えている共同体でもある。それは会員たちに温かみや愛情を与えるだけでなく、他の人々のために愛し犠牲になるチャンスをも与える、愛と思いやりに満ちた環境を提供する。・・・

 統一教会は新会員候補に、世界の状態について心配し、高い道徳水準を受け入れてそれに従って生き、神の天国を地上に復帰することに献身している、同じ志を持ったファミリーの一員となるチャンスを提供する。それは「帰属」する機会を提供する。それは価値あることを『行う』機会を提供し、それによって価値ある『存在』となる機会を提供するのである。

 これは、『何か』に対するうずくような真空を経験している人々の一部にとっては、極めて興奮させる内容である。・・・奉仕、義務、責任に対する強い意識を持ちながらも、貢献したいという欲望のはけ口を見つけられない人々。世界中のあらゆるものが正しく『あり得る』という信念を、子供の頃に幻想を打ち砕かれてひねくれてしまった友達よりも長く持ち続け、彼らと共通点を見つけることが難しい人々。宗教的問題を重要視しており、宗教的な回答を受け入れる姿勢のある人々。」(アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』第10章 結論より)

 バーカー博士の研究したムーニーたちは主として青年であったので、壮婦であり未亡人であったIには直接当てはまらない属性もある。しかし、年齢や婚姻状態によって大きく変化する属性を除けば、Iもまた統一教会の信仰を受け入れる基本的な素養を備えていたと言ってよいであろう。

 バーカー博士の研究対象の中で、Iの立場に近いのが当時のイギリスではまだ初期の段階であった「ホームチャーチ会員」である。それに関する記述を拾ってみると:
「ホームチャーチ会員がいるということは、統一教会がフルタイムのムーニーの出身階級よりも、もっと幅広い顧客層にアピールできるということを示唆している。だがそれは、若い未婚のムーニーだけが捧げる覚悟ができている、絶対的献身と犠牲的なライフスタイルを要求しない限りにおいて成功しているのである。そうした生活はある面で『普通の』教会員というよりも、修道士、尼僧、あるいは神父に対して期待されるような献身の基準なのである。にもかかわらず、ホームチャーチ会員がしばしば与える印象は、自分たちは孤独で満足感の得られない生活を送ってきたし、おそらくいまなお送っているというものであった。彼らは関わりたいし、支援したくて仕方がないのである。実際、最もよく聞かれる不満の一つは、運動が自分たちを十分に用いてくれないということであった。」(アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』第9章 感受性より)

 これらの記述から、Iが高額の献金をした動機が浮かび上がってくる。もともと統一教会に入会するような人は、奉仕、義務、責任に対する強い意識を持ちながらも、貢献したいという欲望のはけ口を見つけられない人、理想主義的で世の中のあらゆるものが正しくあり得るという信念を持った人、高い道徳水準に従って生きる共同体への「帰属意識」を持ちたいと思っている人、価値あることを行い、それによって価値ある存在となることを願っているような人である。青年の場合には、自分自身の人生そのものを捧げ、禁欲生活を送り、一切の所有物を持たずに、朝から晩まで献身的に活動に没頭することによって、その欲求を満たすことができる。しかし、ホームチャーチのメンバーやIのような壮婦は、それと同じ生活をすることができないので、欲求不満に陥るのである。「関わりたいし、支援したくて仕方がない」のにもかかわらず、その道を与えてくれないとすれば、それは彼らの宗教的欲求に応えていないということだ。

 内心では自分自身の全生活を捧げて、神のために献身的に働きたいにもかかわらず、事情によってそれができない人がなし得る教会のための貢献とは何だろうか? それ以外のやり方で、自分が持っている物を捧げることである。Iの場合には多くの財産を持っていたので、自分がこの共同体のために、そして神の摂理のためになし得る貢献が何であろうかと真剣に考えたとき、それはできるだけ多くの財産を神に捧げることだという結論にならざるを得なかったと思われる。そして献金をする度に霊の親、カウンセラー、そして責任者から褒められることにより、それが喜びとなり、自分は価値あることを「行い」、それを通して価値ある「存在」となっているという実感を高めていったのである。

 櫻井氏はIが資産家であるがゆえに統一教会の若手女性信者による接遇を受けながら、ろくに伝道活動もせずにイベントに出かける程度の「微温的な状況」の中で信仰生活を送ってきたと批判的に記述しているが、信仰の表現の仕方は人それぞれであり、IはIなりに自分のできる精一杯の貢献をすることを通して宗教的欲求を充足させていたと言える。

 それではなぜ、Iは統一教会の信仰を棄てたのであろうか? それは一言でいえば、帰属すべき「共同体」の相克が生じたからである。Iは個人としては統一教会という信仰共同体に帰属していることに満足し、それに貢献することに喜びを感じ、教会の人間関係も良好で感謝の思いを持っていた。しかしIは教会に貢献したいと思うあまり、本人名義の預金以外に、子供や夫の兄弟の名義、あるいは積み立てや保険等の取り崩しを、子供たちや親族に内緒で行っていたのである。本人の動機としては子供たち、孫たちのためにと思ってやってきたことが、肝心の子供たちや孫たちから感謝されるどころか、逆に非難されるという現実に直面したとき、統一教会という信仰共同体と、子供や孫という血縁共同体のどちらを選ぶのかという二者択一を迫られたのである。Iが信仰を持つようになった元々の動機は子供や孫のためであったから、それらを切って捨てて信仰の道を選ぶことはIにはできなかった。結果として、信仰共同体よりも血縁共同体の方を選択したので、Iは信仰を棄てたのである。これは統一教会の教理が間違っているとかいないとか、統一教会の信仰の善悪や是非の問題というよりも、価値観の異なる二つの共同体のどちらに帰属するかに関する、個人の選択の問題であったと言えるだろう。

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ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳55


第6章 祝福:聖別期間と同居生活(11)

 そして運動は母親が使命のために遠くに行っている子供たちに対しては無料の保育サービスを提供するのだが、これらのカップル(特に女性)が経験する精神的な苦悩は非常に耐え難いものである。

 犠牲が大きければ大きいほど、宗教共同体がそれを説明し、緩和させ、是認するための論理的根拠を提供する必要性が大きくなる、というのが基本原則であるようだ。統一運動においては、この必要性に応えるために6つの基本的な正当化が出現した。
1.最も重要な是認は、期待される通り、終末論的なものである。別居したカップルは自分たちのしていることを国家および世界の復帰のための犠牲であると見ている。彼らはまた、近い将来自分たちは家族たちと比較的普通の生活をすることができるであろうという望みを抱いて暮らしている。
2.文師によれば、別居しているカップルが現在はらっている犠牲は、近い将来神によってより多くの埋め合わせがなされるという。彼によれば、「たとえ皆さんがこの地上で二度と夫あるいは妻と一緒にいることがなかったとしても、皆さんの神への愛が強烈であれば、神は皆さんを永遠に一つに溶かすことでしょう。それは皆さんがこの地上で家族と一緒に普通の生活をした場合よりも、はるかにそうなのです。(注77)
3.別居している配偶者たちは、本当の親密さは本質的に霊的なものであるという信念によって慰められるているという。ある夫は以下のように言った:
「私はいつも彼女が一緒にいるかのように感じます。彼女が自分のすぐ傍らにいるようです。私たちが離れているときにいつも感じるのは、この霊的なリアリティーこそがまさに私たちの合一の基盤であるということです。(注78)
4.メンバーたちはまた、彼らの犠牲は運動のすべてのカップルが共有しているものだという考えによって慰められる。
「ですから、人々は常にその状況にあるのです。ある瞬間は彼らは犠牲を払い別居していますが、次の瞬間はそうではありません。誰か別の人がそうしているのです。ですから、・・・(彼の妻が)家を出ているとき、誰かが帰ってきて子供たちと住んでいるのです。そして次の瞬間には彼らが家を出て、・・・(彼の妻が)帰ってきて子供たちや家族と一緒に住むのです。」(注79)
 実際には、相当数の女性たちが別居を伴う「使命」を受け入れるのを断ったが、彼女たちの決定が与えた影響は、グループの持続的な共同体的理想を弱体化させるほどに強いものではなかった。(注80)
5.若干の既婚カップルは、より若い祝福家庭は将来そのような試練を経験しなくてもすむであろうから、彼らの犠牲は天国実現という観点から実り多いものであるという考えをもって、「結婚後の別居」を正当化した。
6.そして最後に、「結婚後の別居」のやや洗練されていてあまり一般的でない正当化はダースト教会長によって信者たちに示された。彼は重要なのはカップルが共に過ごした時間の長さではなくて、関係の質なのであると示唆した。
「私もまた約婚して祝福されましたが、私の人生がまるでハリウッド・ロマンスのようになったと感じました。私はシカゴの空港で妻に会い、「ハイ、元気かい? チューチューポウ」(訳者注:この意味不明な呪文のような言葉は、アイリーン・バーカー博士の『ムーニーの成り立ち』にも登場し、モーゼ・ダースト夫人が言い出したものだと説明されている。夫であるダースと博士との会話の中で、自然に使われていたと思われ、メンバーにも馴染みのある呪文であった可能性がある)と言って、いなくなるのです。私たちはパサディナで一晩会って、それで終わりです。神の御心のままの、一夜限りの関係です。それはエキサイティングでロマンティックです。世の中では不倫の愛でハイになろうとしますが、私たちは神の愛によってハイになるのです。それは私には想像もできなかった偉大なドラマです。一瞬だけ妻に会うというのは、最も貴重でエキサイティングなことです。皆さんはその瞬間を熱烈につかまえて深く抱きしめなければなりません。なぜなら、明日がどうなるかはまったく分からないからです。」(注81)

 統一運動の結婚は神に根差しており、したがって永遠である。不倫の愛が人間始祖の堕落の原因であるため、姦淫は最も重大な罪であり、本質的に悪であるとみなされる。それはまた、その結果という視点からも究極の悪であるとみなされている。信頼されていたリーダーの情事が明らかにされた直後の説教で、文師は以下のように宣言している:
「・・・姦淫は殺人よりも悪いのです。もし皆さんが人を殺したとすれば、一人を殺すだけです。しかしこのことを行えば、皆さんは子孫と血統を殺しているのです。・・・一つの罪の行為が、皆さんの先祖と、先祖の結実である皆さんの未来の後孫に影響を与えるのです。皆さんが自分の子供を持ったときには、それがどれだけ愛らしいかを知るでしょう。そしてそのとき、この種の行為は彼らに毒を与えるようなものなのです。皆さんはとても注意深くなければなりません。」(注82)

 文にとって、姦淫の主要な目に見える結果は離婚である。「彼ら(統一運動のカップルであると推察される)が離婚する理由は、ほとんど例外なく、通常は男女間の問題であり、愛の習慣なのです。」(注83)メンバーたちは一般的にこの罪の深刻さに関する師の見解を共有しているけれども、彼らは姦淫を犯した者がグループから破門されることはないだろうと主張する。(注84)

(注77)文鮮明「真の父母の日と私たちの家庭」『マスター・スピークス』(番号79-03-28, 1979年3月28日)、p.9。若干のメンバーは、もし世界宣教のために必要とあらば普通の結婚生活を全くしないことも覚悟していると言ったが、大多数は「結婚後の別居」が終わることを切望していた。
(注78)インタビュー:キーン氏
(注79)インタビュー:ショー夫妻
(注80)統一運動には、人が霊的に成熟に近づけば近づくほど、とりわけ祝福を受けて結婚した後には、彼もしくは彼女はより大きな個人的自由に対する権利を持つようになる、という旨の「口頭伝承」がある。おそらく、CARPに加わるようにという文師の呼びかけを拒否した女性たち(およびその夫たち)は、この自由を行使したのであろう。しかしながらそのような個人主義は、統一運動の結婚は(グループに奉仕することを通して)世界に奉仕するものだという考えに反するため、この自由を行使し続けることは、良心の呵責に対処するのが非常に困難であるに違いない。これらの既婚女性たちは、自分たちが払おうとしていない犠牲を他の「姉妹たち」が払っているのだ、ということを痛みをもって自覚していた。
(注81)モーゼ・ダースト博士「高貴な人生を生きる」p. 21。ロマンティックなレトリックはダーストにのみ典型的なものではなく、統一運動の共同体生活に広く浸透しているスピリットである。それは特に彼らの音楽に対するアプローチにおいて顕著である。
(注82)文鮮明「男と女の関係」p. 2。
(注83)前掲書
(注84)罪を犯した配偶者はおそらく自らグループを離れるであろうから、通常は破門または除名は考慮されることもないであろう、ということに留意すべきである。これは筆者の側の純粋な推論に過ぎないのだが、ある人が(運動を)離れるための反論の余地のない根拠を与える方法として、不倫をするかもしれないと考えることは合理的である。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』133


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第133回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 元統一教会信者の信仰史の具体的な事例分析の中で、第125回から「五 壮婦(主婦)の信者 家族との葛藤が信仰のバネに」に入った。今回は元信者Iの事例の4回目である。前回からIが統一教会の信仰を持つに至った動機の部分に関する分析に入ったが、その際に参考にしたのが最新の幸福学の研究成果であった。慶応義塾大学大学院教授の前野隆司氏の著書『幸せのメカニズム:実践・幸福学入門』(講談社現代新書、2013年)は、幸福と相関関係にある様々な要素について分析を行っているが、前野氏によればアメリカでも日本でも一定の水準を超えると年収や財産と幸福感の間には相関関係がなくなるという。したがって資産家であったIは、財産によっては得られないより精神的な幸福感を求めて統一教会の信仰を持つようになったのであるという分析を行った。

 今回は前野氏の著作で紹介されている「幸せの因子」に基づき、信仰を持つことによってなぜ幸福感がアップするのかを解説することにする。前野氏の研究グループが日本人1500名に対してアンケート調査を行い、幸せの心的要因を因子分析した結果、以下のような4つの因子が浮かび上がってきた。要するにこうした特性を持っている人はより幸せになる傾向があるということだ。
第一因子「やってみよう!」因子(自己実現と成長の因子)
・コンピテンス(私は有能である)
・社会の要請(私は社会の要請に応えている)
・個人的成長(私のこれまでの人生は、変化、学習、成長に満ちていた)
・自己実現(今の自分は、「本当になりたかった自分」である)
第二因子「ありがとう!」因子(つながりと感謝の因子)
・人を喜ばせる(人の喜ぶ顔が見たい)
・愛情(私を大切に思ってくれる人たちがいる)
・感謝(私は、人生において感謝することがたくさんある)
・親切(私は日々の生活において、他者に親切にし、手助けしたいと思っている)
第三因子「なんとかなる!」因子(前向きと楽観の因子)
・楽観性(私はものごとが思い通りに行くと思う)
・気持ちの切り替え(私は学校や仕事での失敗や不安な感情をあまり引きずらない)
・積極的な他者関係(私は他者との近しい関係を維持することができる)
・自己受容(自分は人生で多くのことを達成してきた)
第四因子「あなたらしく!」因子(独立とマイペースの因子)
・社会的比較志向のなさ(私は自分のすることと他者がすることをあまり比較しない)
・制約の知覚のなさ(私に何ができて何ができないかは外部の制約のせいではない)
・自己概念の明確傾向(自分自身についての信念はあまり変化しない)
・最大効果の追求(テレビを見るときにはあまり頻繁にチャンネルを切り替えない)
(以上、前野隆司著『幸せのメカニズム:実践・幸福学入門』p.105-111)

 それでは、統一教会の信仰とこれらの因子がどのように関係しているのかを見てみよう。

1.自己実現と成長の因子
 統一教会の人間観は、「神の子女としての人間」が基本にあり、これは個人に対して肯定的なアイデンティティーを与える役割を果たしている。人生の意味が分からない、自分自身の存在に価値を感じられないといった悩みを抱えた人々に対して、「自分は神様の子供だったんだ」という回答を与えることは、その人の幸福度を上げるのに貢献する。

 さらに、「氏族のメシヤ」というアイデンティティーは、個人に対して一種の使命感を与え、自分は氏族を救うべき特別な存在であるという自覚を与える。これはその人のコンピテンスを上昇させると考えられる。

 統一教会を一つの社会ととらえたとき、信者はその中で使命や役割を与えられ、それに応えることによって自分自身の価値を感じることになる。献金を通して経済的に貢献したり、伝道して人を増やすことによって教会に貢献すれば、その人は教会から価値を認められ、讃美されることによって喜びを感じ、幸福感が増すのである。Iの信仰の動機においては、自分の財産を献金することによって教会に貢献し、そのことを感謝され讃美されることがIにとっての大きな喜びであったことが、重要な要素であった。前野氏は著作の中で、「お金を他人のために使ったほうが、自分のために使うよりも幸せ」という研究結果を報告している。(p.152)献金にはIの幸福度を増大させる効果があったのである。

 統一教会では人間には成長期間があり、個人は信仰生活を通して霊的に成長して行くと教えている。その究極的な目的は個性完成、人格完成であるが、日々の様々な経験を通して自分がどのように成長したかを常に内省するのが統一教会の信仰生活である。Iも霊の親やカウンセラーから見守られ、指導されるかなかで自分の成長を実感していたのである。

2.つながりと感謝の因子
 宗教ほど感謝することの大切さを説くものはない。自分は偉大な存在によって守られ、導かれながら生きていることに気付くことが信仰の出発点であり。そうした感覚を持たない人に比べ、信仰を持っている人は日常の様々な出来事に感謝する傾向が強い。これは統一教会においても同様であり、「感謝」を口癖とする教会員は多い。

 統一教会では、伝道される過程において「霊の親」やカウンセラー、教育を担当するスタッフからたっぷり愛情を注がれ、大切にされる。それは西洋においては「愛の爆撃」と呼ばれて洗脳やマインドコントロールの根拠として挙げれらたこともあるほどである。他人から本気で心配され愛される体験がその人の幸福感を増すことは疑いがない。このことは櫻井氏自身も認めていて、Iが自分のことを本気で心配し、気にかけてくれた霊の親からの手紙を大切に保管していたことを紹介している。(p.380)

 統一教会の信仰のモットーは「為に生きる」である。人は自分の為ではなく、他者のために生きたときに本当の幸福を感じることができるというこの教えにより、統一教会の信者は愛されるだけの立場ではなく、愛する立場に立とうと努力する。これは日々の信仰生活の中で兄弟姉妹に親切にし、喜ばせることも含まれるが、最も大切な信仰実践は人を伝道することである。伝道するときには、自分は霊の親として徹底的に霊の子を愛する側に回る。それを通して、人を愛する喜びを感じるのが統一教会の信仰生活の醍醐味である。Iの日記の中にも、CB店に「百合子さん」を誘って指輪を授かったことに対する喜びの心情が記されている。(p.387)Iにとってこれは、愛されるばかりではなく、自分から愛情を注ぐ対象が生まれたことに喜びを感じる貴重な体験であった。

 こうした人間関係がIにとって喜びであり、信仰の動機付けになっていたことは、櫻井氏自身も以下のように認めている。「Iの信仰心を持続させた要因は二つあり、・・・もう一つは、Iをとりまく統一教会信者達による励ましや人間的ふれあいだった。これは確かにIにとって新鮮な出会いであり、人間交際の喜びでもあった。」(p.392)

3.前向きと楽観の因子
 一般に信仰を持つ人は楽観的である。それは人知を超えた偉大なる存在が自分の人生に介入し、自分を保護しているという信念があるからである。例え客観的な状況が厳しかったとしても、それに心を奪われず希望をもって生きていく力を宗教は与えるのである。統一教会の信仰の特徴は、生ける神が自分の人生にダイナミックに関わっており、自分の身の回りに起きるさまざまな出来事が、神や霊界の働きであるととらえることにあると言ってよい。

 また宗教的儀礼は、人のネガティブな気持ちを癒し、前向きに変えていく効果があることは多くの社会学的研究で指摘されている通りである。毎週礼拝に参加することを通して一週間の嫌な出来事や感情を整理し、信仰に基づいて再出発していくという「気持ちの切り替え」を信仰者は常に行っているのである。また、定期的に集会に参加して御言葉を受けたり、清平の修練会に参加したりすることも精神的な「リフレッシュ効果」がある。そしてその中で確認するのは、たとえ多くの問題を抱えた自分であったとしても、神は変わらずに自分を愛し続けているのであるから、自分自身を受け入れて前向きに歩んでいいこうという「自己受容」の感覚である。

 教会における人間関係は、利害や損得の入り混じった世俗社会の人間関係とは異なり、神を中心とする兄弟姉妹の関係であるため、私心がなく、純粋で濃密な人間関係を構築することが可能である。それは統一教会の魅力の一つとなっている。

4.独立とマイペースの因子
 統一教会のように共同体に対する所属意識が強く、人間関係が濃密な組織においては、独立とマイペースの因子は他の因子に比べるとさほど強く作用しているとは思われない。統一教会に所属する人々は、どちらかといえば「自由」よりも「絆」を求める人々である。にもかかわらず、統一教会の教えや実践の中には、この因子に該当する部分も存在することを指摘しておく。

 統一教会では天使長ルーシェルの堕落が「愛の減少感」であったため、他人と自分を比較して嫉んだり嫉妬したりすることを戒めている。他者との「横的」な関係ではなく、神との「縦的」な関係を重要視せよという教えである。これは社会的比較志向を抑制する効果があり、幸福感の増大に寄与するものと思われる。

 また、信仰を持つということ自体が「自己概念の明確傾向」を高めることになり、周りのさまざまな状況の変化に影響されずに自分自身についての信念を安定させる効果がある。
 以上のように、宗教的信仰が一般的にそうであるのと同様に、統一教会における信仰のあり方が人の幸福感を増す多くの因子と関係していることがわかるであろう。したがって、Iが統一教会の信仰を持っていた当時に、その信仰が彼女の幸福感を増大させていたことは疑いがなく、それがまさしく彼女の信仰の動機となっていたのである。

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ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳54


第6章 祝福:聖別期間と同居生活(10)

 この経済的課題に関する運動のヒエラルキーからの唯一の声明は、『季刊祝福』の「サローネン会長インタビュー」の中に発見することができる。1979年までアメリカの運動の運営上のトップであったサローネンは、この研究のためにインタビューを受けたカップルによって提起されたものと明らかに同様の懸念に対して答えている。彼の言葉は運動においてはあまり聞かれないテーマ、すなわち、自立を伝えるものであった。
「私たちの教会に対する関係について言えば、私たちの責任は自分自身を捧げることです。そこにつきものなのは、私たちが必ずしも明確に理解してこなかった概念です。皆さんが最低限のレベルで自分自身に責任を持った後にはじめて、自分が持っているものや自分自身を捧げることができるのです。」(注71)

 既婚のカップルの状況について直接語った部分では、彼は自立について以下のように語っている。
「・・・それは多くの祝福家庭が自分たちの経済を支えるためにパートタイムの仕事をしなければならないという意味かもしれません。現実的な点としては、それは私たちの運動がまだ比較的小さいからであり、センターの指導者たちやその他の責任ある者たちは、彼らがフルタイムで教会の仕事をしているという事実により、彼らの住居や基本的な食糧や医療費などに関して、運動から最低限の直接的あるいは間接的な助成金を受けているだけからです。しかし、私はこれさえも将来変わるだろうと思います」(注72)

 サローネンは、これらの問題を文師は理解していると報告し、
「・・・運動の全般的な活動のための利益を生み出すだけでなく、たとえそれがパートタイムや一時的なものであっても、祝福家庭に仕事を提供し、彼らが自立することができるようないくつかのビジネスを創り出すために一生懸命努力しておられます。・・・私はこれが彼の計画であると思いますが、それが実現する前であっても、私たちは自分自身に責任を持つ意思がなければなりません。」(注73)

 これらの発言は1977年になされたものだが、今日わずかなカップルが運動のビジネスで働いており、ある者は運動に関連した使命にフルタイムで従事しており、その他の者たちは世俗社会で仕事を見つけなければならない。にもかかわらず、彼らの多くは将来に関しては非常に不安定であり、とりわけ経済的な生き残りに関してはそうである。

 これと密接にかかわっているのが、大家族の適切な居住空間の問題であることは明らかだ。祝福を受けたカップルに関する限り、統一運動は厳格な共同体生活から、いまだ出来上がっていない在り方への移行状態にあるように見える。現時点では、統一運動が所有したり賃借している家やアパートメントに自分たちだけで住んでいるカップルがいる一方で、大多数の未婚者と一緒にセンターで共同体生活をしている者もいる。文師は祝福を受けたカップルが近い将来「定着」することについて語っているが、サローネンは彼らのために家を建てるのは聖殿や大学を建設した後になるであろうと語っている。(注74)このように、これらの家庭が将来どこにどのように済むのかに関しては、多くの不確実性があるように見える。

 筆者は統一運動の夫と妻の個人的なやりとりをインタビューの場面以外で観察することはできなかったため、このプロセスに関する議論は、統一運動の結婚の宗教共同体内部における位置と、アメリカ社会においてカップルが通常下すべき決定との関係に関する、いつくかの観察に限定されるであろう。まず明らかなのは、統一運動のカップルは典型的なアメリカのカップルに比べて基本的な選択肢がより少ないということだ。後者がなさなければならないいくつかの重要な選択、すなわち家族計画(子供の数)、職業の選択、居住する場所などの決定は、前者においては事実上宗教共同体によってなされているのである。もしこれが正確な描写なら、統一運動のカップルは外の世界のカップルほど多くの重要な共同の意思決定を行うことを要求されていないと想定することができる。したがって夫と妻のやりとりのプロセスは、より大きな社会におけるよりも幾分シンプルなのである。

 第二に、統一運動の結婚は宗教的信仰によって創られ、維持され、正当化されるのであり、それはカップルにとっては潜在的に関係を破壊しかねない配偶者のいかなる個人主義的な関心よりも強いものであるとみなされている。世界の救済者としての役割の核心である犠牲というテーマは、「結婚の救済者」としての役割の一部として、統一運動のカップルの共同生活にまで延長されているのである。夫婦間の葛藤は統一運動においては主要な問題ではないように見える。それはメンバーたちが自分の相手がどのように自身の個人的な性格を補完し完成させるかに関心を集中させるよう訓練されているからである。これは統一運動のカップルが決して言い争わないということを意味しているのではなく、そうした訓練が融和的であるよう彼らを動機づけているということだ。そして最後に、彼らは自分たちの結婚が永遠であると信じているため、その関係における主要な葛藤を解決するために多大なる努力を投じるであろう。(注75)

 この終末論的共同体における結婚のもう一つの側面が、夫と妻のやりとりが激しくなることを抑制している。私がここで言っているのは、頻繁で、長く、そして時には痛みを伴う結婚後の別居のことである。これは「聖別・約婚期間」よりも多くの犠牲を要求する。なぜなら文師は既婚女性たちに対して、夫だけでなく(就学以前の)小さな子供たちのもとを離れるように招集したからである。もっとも最近の招集は、母親たちに大学のキャンパスで原理研究会(CARP)と共に活動するようにというものであった。こうした別居は、統一運動における極めて高い結婚と家庭の理想と鋭く対立している。
「神様のみ旨は、皆さんが決して分かれることなく、どこに行くときも一緒ににいることです。夫と妻が真に一つとなり互いに愛し合うとき、神様は最も大きな喜びを感じるのです。そのようなカップルになるために、努力しなければなりません。そのような関係は自動的には実現できません。一つひとつのカップルがそうなるように全身全霊を傾けなければなりません。」(注76)

(注71)「サローネン会長インタビュー」『季刊祝福』(第1巻3号、1977年秋)p. 24.
(注72)前掲書
(注73)前掲書
(注74)前掲書 、p. 26。
(注75)この研究のためにインタビューを受けた祝福家庭は主として年長(30代および40代)であり、お互いに対する非常に良い関係を築いているように筆者にはみえた。
(注76)金栄輝「神様が望まれる家庭」『季刊祝福』(第1巻第1号、1977年春)pp. 23-24。

カテゴリー: ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』132


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第132回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 元統一教会信者の信仰史の具体的な事例分析の中で、第125回から「五 壮婦(主婦)の信者 家族との葛藤が信仰のバネに」に入った。今回は元信者Iの事例の3回目である。Iは統一教会を相手取って計5億4700万円の損害賠償を求める民事訴訟を起こし、このうち2億7600万円の支払いを命じる判決が東京高裁で下された。そのため先回までは、Iに対する勧誘行為の違法性や裁判所の判決といった、法的な問題を中心に解説してきた。そして、損害賠償の額の大きさと違法性との間には直接的な相関関係は存在しないものの、捧げた献金の額の大きさが裁判官の判断に影響を与える可能性があることを指摘した。今回からは法律の問題を離れて、Iが統一教会の信仰を持つに至った動機の部分に関する分析を進めることにする。

 まず、個人としてのIの際立った特徴は、資産家であったということである。損害賠償の請求額が合計5億4700万円であるという数字は、一般庶民からはちょっと想像のつかない金額であり、それだけで統一教会は反社会的団体であり、Iは統一教会によって騙されたのではないかと常識的には思いたくなる数字である。恐らく櫻井氏が元信者Iの事例をこの本で扱ったのは、「統一教会からこれほど大きな被害に遭った人がいる」ということを読者に見せつけ、統一教会の反社会性を示す格好の例としたかったからではないかと推察される。

 一般に、財産のある人は幸福であるという社会通念がある。単純にこの図式に従えば、「統一教会に出会う前のIは多くの財産を持つ幸福な人であったにもかかわらず、統一教会に出会うことによってその財産を奪われ、不幸のどん底に叩き落された。その被害の一部を裁判を通して取り戻したのである。」というストーリーになる。裁判所の判断は客観的で世俗的な価値観に基いて行われるため、こうした目に見える客観的な「モノサシ」をもって被害というものを判断する傾向にある。しかしそれでは、なぜ幸せであったはずのIが統一教会の信仰を持つに至ったのかという動機の部分は見えてこない。

 実は、「財産のある人は幸福である」という前提自体が不確実なものであり、幻想であるかも知れないということに気付かなければ、Iの信仰の本質は見えてこないのである。これは私が苦し紛れに勝手に言っていることではなく、最新の幸福学の研究成果を基にした主張である。慶応義塾大学大学院教授の前野隆司氏の著書『幸せのメカニズム:実践・幸福学入門』(講談社現代新書、2013年)は、最新の幸福学の成果に関する易しい解説書だが、前野氏は幸福と相関関係にある様々な要素について分析を行っている。その中で特に興味深かったのが、年収や財産と幸福感の関係であった。

 調査会社カンター・ジャパンが16歳以上の男女を対象に、財産の所有と幸福感に関し、2012年に21カ国で行った調査によると、「もっと多くの財産があれば幸せなのに」と思う人は、日本人では65パーセントに達したという。この数値には国ごとに大きな差があり、日本は欧米諸国に比べてかなり高い数字になっているという。しかし前野氏は、人が「もう少し収入や財産が多ければ幸せなはずだ」と思ってしまうのは「フォーカシング・イリュージョン」であり、要するに幻想に過ぎないのだという。

 この言葉は、プリンストン大学名誉教授でノーベル経済学賞受賞者でもあるダニエル・カーネマンが編み出した言葉であり、前野氏の解説によると以下のような意味である。
「フォーカシングとは焦点をあわせること、イリュージョンは幻想。だからフォーカシング・イリュージョンとは、間違ったことに焦点を当ててしまうという意味です。つまり、『人は所得などの特定の価値を得ることが必ずしも幸福に直結しないにもかかわらず、それらを過大評価してしまう傾向がある』[Kahneman, et al., 2006]ということ。『目指す方向が間違ってるよ』です。」(前掲書、p.63)

 カーネマンらは、「感情的幸福」は年収7万5千ドルまでは収入に比例して増大するのに対し、7万5千ドルを超えると比例しなくなる、という研究結果を得ているという。これを日本円に換算し、購買力の比で補正すると、ざっと1千万円くらいになるので、日本に当てはめれば、年収が1千万円だろうと、1億円だろうと、10億円だろうと、感情的幸福とは関係がないということである。カーネマンの結果はアメリカのものだが、実際に前野氏が日本人1500名に対して行った調査の結果を見ても、年収の高い層では、年収と感情的幸福には相関がなかったという。にもかかわらず、人は更なる高収入を目指してしまうところが「フォーカシング・イリュージョン」なのだと前田氏は指摘する。

 なぜ、ある年収までは収入と感情的幸福が比例し、それ以上になると相関しないのかに関しては複数の理由が考えられるが、最も大きな理由は以下のものである。年収が低いときに住居や食事や身の安全といった最低限の欲求が危険にさらされる可能性があるので、年収を上げることによってそれらの危険を回避することができて幸福度が上昇するが、ある程度の収入を得ると、基本的な生活には支障がなくなるので、愛情・所属欲求、尊厳欲求、自己実現欲求などのより高次の欲求を満たしたいと思うようになり、それは収入の上昇によっては得られないものだからである。

 このように考えると、5億を超える資産を持っていた元信者Iは、1千万円の資産を持っている人の50倍の幸福を感じていたかといえばそうではなく、感情的幸福度において両者にさほど差はなかったのだということがわかる。すこし乱暴な言い方をすれば、Iの基本的な生活に支障をきたさない限りは、5億円の財産が1千万円に減ったとしても感情的幸福度においてはさほど大きな変化はないのだということになる。さらに、より高次の欲求である愛情・所属欲求、尊厳欲求、自己実現欲求を満たすために、5億円の財産を犠牲にしたとしても、Iの感情的幸福度は低下するどころか、むしろ上昇するという結論になるのである。このように、感情的幸福度の視点から見れば、愛情・所属欲求、尊厳欲求、自己実現欲求を満たすためにその対価として5億円を支出することは合理的な判断であるとさえ言えるのである。ところが、お金の量に比例して幸福度が上がるという「フォーカシング・イリュージョン」に陥っている人には、そのことが理解できないのである。

 前野氏は、人間の幸福に関して「地位財・非地位財」というもう一つの面白い視点を紹介している。地位財とは、所得、社会的地位、物的財のように周囲との比較により満足を得るものであるのに対して、非地位財とは健康、自主性、社会への帰属意識、良質な環境、自由、愛情など、他人が持っているかどうかとは関係なく喜びが得られるものであるという。そして、地位財による幸福は長続きしないのに対して、非地位財による幸福は長続きする、という重要な特徴があると前野氏は解説する。平たく言えば、目に見えて他人と比較できるような地位財によって得られる幸福は長続きしないのに対して、目に見えないより本質的な非地位財によって得られる幸福は永続性がある。にもかかわらず、目に見えて分かりやすい地位財を人は追い求めやすいの傾向にあり、それがまさに「フォーカシング・イリュージョン」だというわけだ。

 ここまで説明すると、Iがなぜ信仰を持つようになったのか、その動機の部分がかなりはっきりしてくる。Iは資産家であったため、住居や食事や身の安全といった最低限の欲求が危険にさらされることはなかった。そこでIの幸福度は財産という「地位財」によってはそれ以上高まることはなく、Iはより高い次元の幸福を求めて、「非地位財」を探し求めていたということになる。

 一般に宗教の役割は、目に見えて他人と比較できるような地位財に対する執着を捨てさせ、目に見えないより本質的な非地位財によって得られる幸福に焦点を当てさせることによって、人間に永続的な幸福をもたらすものであると言える。一部の宗教における現世否定や物欲の否定は、地位財に対する執着を捨てろということである。それは統一教会においても同じであり、Iは統一教会と出会うことを通してより本質的で永続的な価値観に目覚めたため、地位財に対する執着を捨てて献金したと考えられるのである。

 前野氏の著作の中でも、宗教的信仰を持っている人はより幸福度が上がるという調査結果を報告している。それは宗教が人の人生観を地位財中心から非地位財中心にシフトさせる役割を果たすので、永続的な幸福度が増すからであると考えられる。このように考えると、元信者Iが統一教会に対して5億円を超す献金を行うことによって得た幸福感は、幸福学の見地からすれば5億円という金額と比較しても、十分に対価性のあるものであったという結論になる。ところが、こうした主観的な幸福感は世俗的で客観的な視点からは過小評価される傾向にあるので、Iが信仰をもつようになった動機の部分を正当に評価することができず、騙されたとか脅されたのだと推論してしまうのである。裁判所が下した判断は、まさにこのような「フォーカシング・イリュージョン」に基づくものであった。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳53


第6章 祝福:聖別期間と同居生活(9)

 妻が妊娠できる時にだけカップルが性交をするという考えに関して、あるメンバーが興味深い洞察を提供した。
「統一教会のカップルは子供が欲しいのですが、彼らはまた運動に奉仕もしたいのです。それは必要か有益とあらば別居を伴ったとしてもです。ですから、彼らは一緒にいるときには、このときが妊娠が起きそうなときであるということを確認したいのです。そうしなければ、彼らは常に妊娠可能期間を逃してしまい、三年経っても家族が増えないかもしれません。」(注64)

 この説明は、一貫した噂をむしろ裏付けているが、納得のいくものである。ただし、この著者は特定のアメリカのリーダ―たちとの接触を通して、避妊の問題は性的役割分担の問題と同様に、双方が文師の知恵と一致していると主張し合っている、運動内部における東洋とアメリカの勢力争いと関係していると確信したのであった。ケベドーの主張は基本的に本当だが、なぜ多くの影響力ある東洋のリーダーたちがすべての結婚におけるセックスは繁殖を目的としたものでなければならないと主張しているのかについては、にわかに理解しがたい。これらの人々の多くは文師に従う前は根本主義のクリスチャンであったか大乗仏教の信者であったため、おそらく彼らの見解はこうした運動以前の影響を反映しているのかもしれない。(注65)

 東洋の指導者たちの見解は一部は理解が困難である。それは祝福された結婚における神を中心とする性交は、文師自身によって神学的に最も重要なものであるとみなされているからだ。彼は非常に明確に「性行為はカップルの横的なレベルの愛における最高の形なのです。」(注66)と語っている。そして別の説教では、
「天宙はいつ一つになるのでしょうか? 世界の中心は人間であり、それは男性と女性を意味します。男性と女性が天宙の中心であり、全天宙に住み、そしてそれを代表するのです。[#傍線]男性と女性が愛で一つになったとき、その結果として全天宙の統一が起きるのです[#傍線終わり]。そこが天宙が一つとなることのできる一点なのです。」(注67)

 これらの引用や特定のメンバーの発言の中に暗示されているのは、一種の神学的な性のダイナミズムであり、それは神の性質の顕現もしくは実現としての結婚という考えと関係している。一人の非常に鋭敏なメンバーの言葉は、この理解を反映している。
「・・・神の中の合一はどういうわけか多くの神の愛と多くの神のエネルギーを作り出し、その合一を(神を中心とする性交において)反映することは、それは一種の人間の目標であり、神のインスピレーションと人間の間のエネルギーを作り出せるものであり、それは一体となるようなものであり、ある意味では神と霊的に一つになり、神を反映することを物理的に顕現させることである。」(注68)

 この非常に洗練されたアプローチはおそらく運動の中で広く知られてもいないし、受け入れられてもいないであろう。しかしそれは、統一神学は結婚における性交を徹底的に肯定する可能性を潜在させていることを示しているのである。

 実際的なレベルにおいては、統一教会のカップルは一般的にどのような形の避妊も行わなず、それをする者たちは主として周期避妊法もしくは禁欲に頼っている。これには三つの理由があり、それらはすべて来たるべき千年王国のために祝福の子女を作りたいというメンバーの強い欲求を反映している。第一に、統一教会の結婚は通常カップルが30歳になるまで家庭を出発しない。第二に、既に示唆してきたように、(そして間もなく全てを見いだすように)結婚したカップルはしばしば運動の仕事をするために長期間にわたってお互いに別居する。そして第三に、子供がいるカップルは、社会的地位の向上という点においても、比較的永続的な場所に定着する機会を与えるられるという点においても、組織から報いを受ける。この最後のポイントの証拠として、文自身が運動の母親たちに対する話の中で、「これからは、祝福家庭に3名の子供が生まれた場合には、両親は自由に定着して自分の手で子供たちを育てて構いません」(注69)と語っている。

 上記のすべての証拠に照らして、統一運動の結婚におけるセックスに対する見方について以下の一般化がなし得るであろう。

1.アメリカ人のメンバーの一貫した立場は、避妊を行わないということである。これは統一運動の神学が家族を非常に強調しているためであり、一部のクリスチャンのように、性的な喜びがそれ自体において罪や誤りであるとみなしているからではない。
2.特定の有力な東洋のリーダーたちは、結婚におけるセックスの唯一正当な目的は繁殖であるという考えを持っているようである。これは、夫婦の性交は繁殖と、喜びと、親密さのためであり得ると考えるアメリカ人のカップルの見解と矛盾する。

 統一運動がカップルに対して避妊を行わないよう奨励したことは、あるメンバーが祝福家庭にとっての「ダブルバインド」と呼んだものを生じさせた。(注70)一方で彼らは多くの子供たちを持つべきなのだが、他方では彼らは大家族を経済的にどのように支えるのか、そしてそれに関連した懸念として、彼らの家族がどこに住むべきなのかという問題に関して、相当な不確実性に直面しているのである。第一に、経済的な安定性の問題である。フルタイムの使命に携わっている統一運動の未婚のメンバーは、地方のセンターに住んでおり、部屋と食事はもちろん彼らの共同体的生活環境の一部であるが、彼らの個人的なニーズを満たすための最低限の俸給を受け取っているだけである。独身者にとってこれは適切な支援であろうが、結婚したカップルにとっては、その大多数が子供を持っていることもあり、経済的な安定性は難しい問題となってきた。当然のことだが、彼らは未婚の兄弟姉妹に比べれば将来のことをより深刻に考えている。

(64)前掲書。
(65)セックスを繁殖目的に限定するもう一つの説明は、メンバーが修練期間を過ごしていたころの気分の残余意識が反映して、彼らが直観的に自己を抑制する可能性である。心理学的に、「最も酷いもの」であるセックスを「最も聖なるもの」に移行させていくのは、彼らにとって簡単ではないだろう。
(66)文鮮明「祈祷と霊界について」『マスター・スピークス』 (MS-3, 1965), p. 21。
(67)文鮮明「最も偉大なものは愛」(下線は著者)。
(68)インタビュー:リントン氏。
(69)文鮮明「母親たちとの会合」『季刊祝福』(第2巻、1号、1978年冬)p. 29。
(70)インタビュー:エンゲル夫妻

カテゴリー: ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』131


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第131回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 元統一教会信者の信仰史の具体的な事例分析の中で、第125回から「五 壮婦(主婦)の信者 家族との葛藤が信仰のバネに」に入った。今回は元信者Iの事例の2回目である。Iは統一教会を相手取って計5億4700万円の損害賠償を求める民事訴訟を起こし、このうち2億7600万円の支払いを命じる判決が東京高裁で下されたことは、既に先回説明した。(判決は最高裁でも維持され確定している)今回は、なぜ裁判所がこのような判断をしたのかについて詳しく説明することにする。

 裁判所が統一教会に対して損害賠償を命じたということは、統一教会の信者がIに対して行った勧誘行為に違法性があったことを認定したということだ。ここで問題となるのは、どの部分に違法性があると認定したのかということだ。そもそも、「宗教団体が信者から献金を募るのは違法か?」と言えば、その答えは明白である。宗教団体は信者からの献金によって成り立っているので、これを否定したら宗教団体は存在することができない。伝統宗教でも献金は義務であり美徳であると教えられている。例えば、神道の賽銭は「祈願成就のお礼として神や仏に奉納する金銭」という意味があり、「賽」とは神から受けた福に感謝して祭るという意味がある。仏教の「布施」の中には「財施」という概念があり、これは金銭や衣服食料などの財を施すことを言う。キリスト教の献金は、収入の十分の一を捧げることが伝統になっているし、イスラム教においても喜捨(ザカート)が重要な信仰実践として位置づけられている。すなわち、献金そのものに違法性はないのである。

 次に、「宗教団体が、神、霊界、サタン、罪、地獄、蕩減、因縁などの教えを説くのは違法か?」という問題がある。この答えも明白である。憲法第20条で「信教の自由」が保障されているので、こうした言説を説くこと自体に違法性は全くない。また、これらの宗教的概念の正しさを証明する義務も、宗教団体にはない。さらに、政教分離原則により、宗教的信念の真偽や是非を国家が判断することは禁止されているので、こうした言説が間違っていると裁判所が判断することもできないのである。現実問題として、もしこうした教えを説くことが違法なら、ほとんどの宗教は存在できないであろう。ただし、統一教会では神、霊界、サタン、罪、地獄、蕩減などの概念は教えているが、原理講論には「先祖の因縁」という言葉は存在しない。

 さて、上記の二つを組み合わせたものが、「宗教団体の信者が罪や霊界について語って献金を勧める行為は違法か?」という問いになる。これも原則としては信教の自由が保障する範囲内であり、一般的には合法と言えるが、実際の裁判においては、献金を勧めるときのやり方や捧げた金額などの「社会的相当性」が問われ、民法上の不法行為と判断されることもある。統一教会が民事訴訟において損害賠償を命じられるケースというのは、こうしたケースがほとんどである。

 こうした事態を受けて、2009年3月25日の徳野会長による教会員に対するコンプライアンスの指導の中で、以下のような注意がなされるようになった。
①献金と先祖の因縁等を殊更に結びつけた献金奨励・勧誘行為をしない。
②霊能力に長けていると言われる人物をして、その霊能力を用いた献金の奨励・勧誘行為をさせない。
③信者への献金の奨励・勧誘行為はあくまでも信者本人の信仰に基づく自主性及び自由意思を尊重し、信者の経済状態に比して過度な献金とならないよう、十分配慮する。
④献金は、統一原理を学んだ者から、献金先が統一教会であることを明示して受け取る。

 要するに、献金を勧誘する際には、その目的をきちんと開示し、「威迫・困惑」や「不実告知」とされるような行為を行ってはならないという通達である。

 しかし、「献金の額に限度や『社会的相当性』はあるか?」という問いかけは、一般論としてはかなり難しい問題をはらんでいる。その一例が、「イオン布施目安提示事件」だ。2010年5月に大手流通のイオンが、自社カード会員向けの葬儀紹介サービスにおいて「布施の価格目安」を打ち出した。これに対し、8宗派、約600の日本国内の寺院の協力が得られた一方で、全日本仏教会などの一部の仏教団体は「布施に定価はない」「企業による宗教行為への介入だ」と反発したのである。この施策に対しては、「消費者の立場からすれば明瞭な布施価格の明示はありがたい」との評価と、「今後これが『定価』として一人歩きしてしまう」と懸念する意見があった。その後、2010年9月10日にイオンは「布施の考え方にはさまざまなものがある」として、この布施の価格目安をサイトから削除した。布施や献金の「妥当な金額」を決めるのはやはり難しいようだ。

 こうした問題を考える上では、「宗教的価値観」と「世俗的価値観」という二つの異なる価値観が対決することになる。それは以下のような対立構造を持っている。

宗教的価値観 世俗的価値観
神や霊界は存在する 神や霊界は幻想
人間には罪がある 犯罪者にしか罪はない
献金は善である 献金は宗教団体の搾取
多額の献金も当然 多額の献金は暴利
神のために献身的に働くことは美徳である 宗教団体に唯働きさせられるのは人権侵害だ
宗教的価値観や行動を世俗の法では裁けない 宗教的行動といえども、世俗の法に服する

 実際の裁判の場では、統一教会は宗教的価値観に基づき、「御言葉に感動し、神の摂理と世界平和のために全財産に近い献金をしようと短期間で決意することは十分にありえるし、実際にあった。献金の多寡を世俗的な価値基準で判断すべきではない」と主張することになる。一方、反対派は世俗的価値観に基づき、「出会って短期間のうちに全財産に近い献金を捧げるというのは、因縁や地獄の話によって脅されて献金を決意したとしか考えられない。宗教的献金にも『社会的相当性』の範囲がある」と主張することになる。裁判官はどうしても「世俗の価値観」に基づいて判断するので、反対派の主張を認めてしまうという傾向がある。

 それでは元信者Iが献金を捧げたときの様態はどのようなものであり、そこには社会的相当性を逸脱する要素があったのだろうか? 客観的な事実からすれば、Iは出会って短期間のうちに「威迫・困惑」によって全財産に近い献金を捧げたわけではない。最終的にIが統一教会に求めた損害賠償は計5億4700万円であった。これが全財産にあたるかどうかは不明だが、1991年4月にIが初めて統一教会信者に出会って、翌月にIが決意したのは献金ではなく、1000万円の借用であった。そして年内には400万円が返金され、残りの600万円を献金することを決意した。この時点で出会って8ヶ月程度であり、しかも出会って3ヶ月目には統一教会であることを明かされているので、献金を決意した時点で既に事実を知らされて5ヶ月ほど経過していることになる。仮に5億4700万円を全財産とすれば、最初の借用の1000万円は1.8%、600万円は1.1%に過ぎない。Iが資産家であったため、献金の額は一般常識から見れば大きく感じるが、これは「全財産」とは程遠い割合である。また、借用の中から一部を献金し、一部を返金してもらうなど、Iは合理的な思考をしており、平常心を失っていたとは考えられない。

 櫻井氏が提示したIの日記は、2002年7月から2003年6月までの約1年間の出来事を綴ったものだが、その間に5回ほど献金したことが記されている。この時点で信仰を持って11年以上が経過しており、その年月の長さを考慮すれば「短期間のうちに捧げた」とは到底言えないような時期に献金を行っているのである。しかも、日記には献金の記述に合わせて「感謝」という言葉が記されており、「威迫・困惑」によって献金を捧げたわけでもないことは明白である。

 このことは櫻井氏も認めており、「このような分析的知見からIの信仰を捉えると、Iに対して統一教会が献金を要請する度に畏怖困惑に追い込む心理的プレッシャーをかけていたのではないことがわかる。統一教会に関わる過程において強迫・恫喝といった外形的な心理的圧力が常にかけられていたとすれば、Iの精神はストレスで疲弊し、精神的な疾患に追い込まれるか、統一教会を去っていたはずである」(p.393)とまで述べているのである。

 だとすれば、「社会的相当性」の根拠となるような、「威迫・困惑」によって出会って短期間のうちに全財産に近い献金を捧げたという事実は、Iのケースにおいては存在せず、事実としてはみ言葉を信じて感謝して献金していたことになる。にもかかわらず、裁判所がこの献金勧誘に違法性を認め、損害賠償の支払いを統一教会に命じたのは、億を超える金額を社会的評判のよろしくない宗教団体に捧げた信者が、それを取り戻せないという判断を裁判所がしたとなると、世間の批判を免れないという「世俗的・常識的判断」が先にあり、違法性の根拠は後付けの解釈によってこじつけたからにほかならない。これは純粋に法的に見れば不条理な判決だが、これもまた裁判所の現実なのである。判事も人の子であり、判決には「世間体」が影響するのである。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳52


第6章 祝福:聖別期間と同居生活(8)

 これらのすべては、結婚における性はそれ自体で善であるという主張を幾分かは支持するが、そのような証拠は、避妊に関する運動の一貫した準公式的見解となっていることに照らして考察されなければならない。初めに、文師が彼の「公的な」(すなわち、メンバーが読むために文字に起こしたもの)説教の中で何を語っているかと見ることによって、この見解について調べてみよう。1977年のやや個人的な発言の中に、以下のようなものがある。
「男性と女性は愛を完成させるために結婚するのです。どの時点で母親の生命と私の生命は一つになるのでしょうか? 一緒に良いものを食べたときでしょうか? お金をやり取りしたときでしょうか? 私たちが愛において愛において一つになったときでしょう? [#傍線]私たち二人の間に愛が統一と調和をもたらしたときに生命が始まるのであり、生命が出現するときに私たちの理想が開花するのです。[#傍線終わり]」(注54)

 「生命が出現するときに私たちの理想が開花する」という言葉の意味は隠喩的に理解することが出来るであろう。例えば、文はオーガズムを伴う性交がカップルの結婚に活気を与える効果について語っているのかもしれないが、ここでの「生命」はより文字通りに受胎を意図していると見た方がよさそうである。1965年に避妊について尋ねられたとき、師は「神様は世界の人口過剰を心配しておられないので、私たちも心配する必要はありません。私の観察では、アメリカは全世界の30億人類を養うことができます。」(注55)と答えている。この回答は間接的であるが、メッセージは明確に描かれている。加えて、メンバーたちは師による同様の発言について報告した。
「文師は、教会のメンバーがいかなる手段の避妊も用いることがないよう明確に断言しています。・・・教会の家庭は大家族で、楽しく、神を中心としています。新しい生命の創造を妨げるのは間違っています。結婚における性の最も重要な目的は繁殖です。文師は1980年2月の祝福カップルへのスピーチでこのことを明確にしましたが、このスピーチは文字に起こされることはないでしょう。」(注56)
「文師は、統一教会には避妊はないと言いました。」(注57)

 このように、文師が避妊に断固として反対しているのは比較的明らかなのだが、彼の見解に対する理由は、繁殖を目的としない夫婦の性交が罪だということではなさそうだ。むしろ、彼はカップルたちに対して多くの家族を持つよう奨励したいようである。この立場は、「エデンの園においては、神様の主義は『家族主義』です。古くて壮大な大家族主義なのです。」(注58)という彼の見解と一致している。文の見解をこのように説明することは、師の避妊反対を肯定的に解釈する多くのメンバーたちによって支持されている。典型的な例が以下のものである:
「私が感じるのは、基本的に彼の態度は避妊を用いることが罪だということではなく、私たちが多くの家族を持つように奨励する態度だということです。・・・私たちが多くのことを犠牲にしているときでさえ、私たちは子供を持つことを犠牲にはしません。それは非常に肯定的なことなのです。」(注59)

 もしこれが本当に婚姻における性に関する文師の見解であるならば、なぜ統一運動の中に祝福家庭は受胎が可能な期間にだけ性交を行うという根強い噂があるのであろうか?(注60)この問題を理解するために、活発な議論がリチャード・ケベドーによって引き起こされた1979年に開催された統一運動のライフスタイルに関する会議で、それがどのように扱われたかを見てみよう。ケベドー氏は、有料で運動のコンサルタントをしている非メンバーである。
「私はある高位の人物に避妊について尋ねたが、彼はこう言った。『私たちはローマ教皇とまったく同じことを信じている。私たちのポリシーは、人工的な避妊の方法は許容されないということだ。』別の者は『セックスは繁殖のためにだけある』と言った。また、(結婚後の)別居期間に関しては、女性が夫と会うことが許されるのは彼女が妊娠可能な期間だけであるという印象を私は受けた。私は、結婚の外であれ中であれ、性の喜びが善であるとみなされているとは思わない。」(注61)

 ケベドーはさらに、彼のこの主張に関して、韓国と日本のリーダーシップの影響によるものであるとした。
「私は、白人の指導者たちは白人のアメリカ人の問題を理解していると思う。しかし、現時点においては白人の指導者たちは東洋の指導者たちに従っているようにみえる。そしてさらに、白人の指導者たちはこれらの問題に関して東洋の指導者たちとコミュニケーションを取るのが難しいと感じているようだ」(注62)

 ケベドーの主張に対するメンバーの反応は予想通り慎重なものだったが、これは運動に分裂をもたらすような公的発言を避けようとするメンバーの一般的な傾向を反映している。霊的なものが肉的なものを主管しなければならないと文師が教えていることと、「一部のリーダー」(興味深いことに、この回答者は「一部の東洋のリーダー」とは言わなかった)はケベドーが報告したようなことを言ったかもしれないと認めながらも、彼らは喜びと個人の充足感のためのセックスが罪であるとはみなされていないと主張した。
「私は文師が、夫婦間においては、とりわけ復帰のプロセスを通過して一定基準の成熟に至ったときには、相手に対して本当に責任を持つことができ、愛することができるようになるので、そのときにはいかなる制限もないと言ったことを知っています。あなたと相対者は一体であり、相手が自分の一部ではないと感じる必要はないのです。」(注63)

(注54)文鮮明「最も偉大なものは愛」p. 5.(下線は筆者)
(注55)文鮮明「復帰と審判について」、『マスター・スピークス』(MS-4, 1965)p. 10。
(注56)インタビュー:フレイム氏
(注57)インタビュー: ボルトン氏
(注58)文鮮明「地上天国と理想家庭」『マスター・スピークス』 (番号77-01-01, 1977年1月1日) p. 11。
(注59)インタビュー:ショー夫妻
(注60)この「噂」はいくつかのインタビューで出てきたが、インタビューを受けたアメリカの祝福家庭は、これはあるカップルにとっては本当かもしれないが、それは公式的な統一運動のポリシーの結果ではないと主張した。
(注61)ケベドー「ライフスタイル」p. 42。
(注62)前掲書、p. 44。
(注63)前掲書、p. 47。

カテゴリー: ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』130


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第130回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 元統一教会信者の信仰史の具体的な事例分析の中で、第125回から「五 壮婦(主婦)の信者 家族との葛藤が信仰のバネに」に入った。今回は壮婦としては二人目の元信者Iの事例に入る。

 櫻井氏は冒頭、「本事例は他の事例と比べてかなり詳細な記述となる」と前置きし、その理由を「対象者であるIが統一教会相手に計五億四七〇〇万円の損害賠償を求めて訴訟を起こした際に、筆者は彼女の弁護団から彼女への違法な働きかけに関する意見書の作成を求められ、四〇〇字詰め原稿用紙換算で二〇〇枚もの意見書を東京高裁に提出した」(p.377)からであると述べている。

 私はこれまで、元信者AからHまでの事例に関しては、櫻井氏が裁判資料だけに頼るのではなく、裁判の原告になっていない元信者にインタビューをしたことに対して一定の評価をしてきた。なぜなら、統一教会を相手取った民事訴訟に提出される元信者の陳述書や証言は、事実を歪曲している場合が多いからである。

 たとえば「青春を返せ」裁判における原告たちは、自分自身の宗教的回心が真正なものではなく、他者に操られて引き起こされたものであると主張する。彼らは一度は統一教会に入信し、熱心に活動までしたのであるから、何らかの宗教的回心を体験しているはずである。ところが、自らの宗教的回心が真正なものであることを認めてしまうと、主体的な信仰を動機として活動したことになってしまうので、教会に対して損害賠償を請求できなくなってしまう。それでは訴訟が成り立たないので、自分が回心した過程を正直に描写するのではなく、教会の巧みな誘導によって説得され、納得させられた「受動的な被害者」として描写する必要がある。このように、訴訟を有利に進めるための戦略として、あえて事実を歪曲して主張することが裁判資料にはままあるのである。

 ところが、櫻井氏がインタビューしたAからHまでの元信者は、こうした歪曲を行う必要がないので、彼らの証言の中には、人為的な手の加わった裁判資料から作られたイメージには当てはまらない統一教会信者の「リアル」が見え隠れしていたのである。例えば、元信者C(男性)は、原理研究会での信仰生活が楽しくて仕方がなかったことを正直にしゃべっていて、彼の証言にはまるで青春ドラマのような熱さがあった。それは彼にとっては楽しかった青春時代の一コマとして、今も記憶されているのであろう。しかし、元信者Iに関する資料は、既に裁判用に加工されたものであった。櫻井氏は「意見書作成に際して、段ボール二箱分の資料、陳述書、原告側・被告側書面等を参照」(p.377)したと書いているが、経験豊富な弁護士たちによって作成された原告側の裁判資料は、元信者Iの入信から脱会までの過程を、訴訟に有利なストーリーにまとめ上げたものであった可能性が高い。

 このように資料自体に偏りがあることに加えて、櫻井氏は客観的な研究者という立場を越えて、原告側弁護士の求めに応じて「彼女への違法な働きかけに関する意見書」(p.377)を作成しているというのであるから、一方当事者の利益を代弁する立場に立っていることは明らかである。要するに、櫻井氏は元信者Iの弁護団とは緊密な協力関係にあると同時に、統一教会とは敵対関係にあるのだ。資料そのものの偏った性質に加えて、彼の信者Iに対するスタンスや関わり方にも、学問的な中立性を離れた「当事者性」があると言ってよい。

 櫻井氏によると、「この裁判の結果は、二〇〇八年二月二十二日、最高裁がIの上告を退けて東京高裁の判決が維持された。東京高裁では、統一教会の違法な勧誘及び献金強要行為を請求額の二億七六二〇万円分についてだけ認めた。」(p.377)という。三億円近い損害賠償を裁判所が命じたのであるから、事情をよく知らない人は、統一教会は彼女によほど酷いことをしたに違いないと思うかも知れないが、事実はそうではない。損害賠償の額が大きいのは、それだけ彼女が資産家だったために多額の献金をしたことを表しているにすぎず、勧誘行為の違法性の度合いを示しているのではない。しかしながら、捧げた献金の額が大きいということが、裁判官の判断に影響を与え、利益回復のために違法性を認定する傾向にあるという側面もあることは否定できない。

 勧誘行為の違法性とは、端的に言えば、統一教会の信者らがIを騙したり脅したりして勧誘したり、献金させたりしたのかどうかということだ。実はこの点はそれほど明らかではない。もし献金させる側に騙す意思が明らかにあり、それを立証できるのであれば、刑事事件として立件することも可能かもしれないが、事実はそうではないからだ。櫻井氏は宗教的な儀礼を通してIの信仰が強化されたことを説明しているが、それに以下のような解説を加えている。
「このような儀式に登場する先生役の信者やIを始終導いてきた信者にとっても、儀式において霊界を現出する行為は自身の信仰を強化する。『欺しー欺される』関係とは単純に言い切れない『本気』の部分がある」(p.378)

 Iを伝道する側は、自分たちが語っている内容や行っている儀式はまさに真実そのものであると信じているわけであるから、そこに騙す意図がないことは明らかである。したがって、Iは統一教会の信者に「騙された」のではなく、彼らと「信仰を共有するようになった」というのが正しいであろう。実は櫻井氏もこのことは認めている。
「ここで信者となれば、統一教会とIとは先祖の因縁を切るという行為において協働関係に入るのであり、入信すれば、まさに信仰共同体の一員となる。(p.380)

 Iの信仰が形成された背景には、因縁や霊界に対する恐怖だけではなく、霊の親から尽くされたり、教会のスタッフから愛されたことに対する感謝の念があり、そこで築かれた人間関係があったことは櫻井氏も認めている。
「Iの信仰心を持続させた要因は二つあり、・・・もう一つは、Iをとりまく統一教会信者達による励ましや人間的ふれあいだった。これは確かにIにとって新鮮な出会いであり、人間交際の喜びでもあった。」(p.392)
「Iは霊の親だった若い信者からの手紙を大切に保管していた。統一教会の人間として自分を欺したことには間違いないのだが、自分のことを本気で心配し、気にかけてくれた真情に溢れた手紙を捨てるに忍びなかったのだろう。」(p.380)

 「自分を欺した」ということと、「自分のことを本気で心配し、気にかけてくれた」というのは論理的には矛盾するのだが、要するにIの発想はこうである。霊の親に個人として自分を騙すつもりがなかったことは明らかだが、その霊の親もより大きな組織としての統一教会に騙されており、その指示に従って自分を導いたのだから、本人にその自覚がなくても結果的に騙したことと同じだ、という論理である。しかし、組織としての統一教会はIや霊の親のような個々の信者の集合体なのであり、その全員が同じ信仰を共有しているとすれば、組織が騙したという論理も成り立たなくなる。要するに、Iはもはや統一教会の信仰を共有できなくなり、信じられなくなった、心変わりした、ということなのだが、自分が信じてしまったことを後悔する気持ちから、「欺された」と言っているにすぎないのである。

 櫻井氏は結論の部分で、「このような分析知的知見からIの信仰を捉えると、Iに対して統一教会が献金を要請する度に畏怖困惑に追い込む心理的プレッシャーをかけていたのではないことがわかる。」(p.393)と述べている。一度、信じる思考の枠組みが出来上がってしまえば、後はそれを維持・教化すれば良いのであって、そうした状態の下では騙したり脅したりしなくても、献金するようになるのだということだ。

 そもそも、こうした状態で献金を行った場合には、それは信じて行ったということなのであるから、違法行為として認定して損害賠償を命じるには無理がある。Iは13年間も信仰を持っていたということであるが、その間に行った献金の大部分は、「信じて」行ったのであり、騙されたり脅されたりして行ったものではない。にもかかわらず献金額の約半分の損害賠償を命じた理由は、勧誘の初期の段階で、宗教であることを明確に述べなかったなどの「瑕疵」があり、その結果として得た信仰を動機として捧げた献金であるから、違法行為の延長線上にあると裁判所が判断したためである。これはかなり強引な論理展開なのであるが、なぜこのような判断がなされるのかについては次回詳しく説明することにする。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳51


第6章 祝福:聖別期間と同居生活(7)

 第二に、統一運動のカップルは結婚というものを、未婚の状態よりも霊的・人格的成長にとってより難易度の高い状況であるとみなしている。彼らは「ふたりはひとりにまさる」(注45)という伝道者の言葉に同意するであろうが、それは二人が自動的により安楽な生活を見いだすからではなく、一緒に住むためにはパートナーの各自が他者を愛し受け入れることを要求されるからである。統一教会の結婚において本物の親密さを実現するためには、(いかなる人間関係においても同様だが)両性の側における本物の努力が求められる。この研究のためにインタビューをしたより年長のカップルは、満足できる夫婦関係を作り出すには何年にもわたる葛藤と成長を経なければならなかったと示唆した。そして彼らにとってこのプロセスは、頻繁な別居のゆえに、統一運動の外のカップルにとって以上に難しかったと言ったのである。後に見るように、これらの「結婚後の別居」は、理想ではないにしても、現在の統一教会の結婚パターンのまさに一部となっている。それ自体は、夫婦の相互作用を妨げ、成長の場としての結婚の理想を実現しようとするカップルの努力を抑制する傾向にある。

 最後に、結婚は世界救済の基礎的な社会単位として理想化されている。ある婚約中の女性が言うには、「私は自分の家庭が、私の心情が成長し、私の世界観が成長するための手段になればよいと思います。そうすれば、私は地域社会に奉仕するために自分の家庭を用いることができます。」(注46)今年祝福を受ける予定の男性はより具体的だった:
「統一運動と外の世界の最も重要な違いは、自分たち自身の家庭のニーズよりも社会のニーズを優先させることを学ぶということだ。私たちの仕事は、より大きな社会善に貢献すること以上に自分の家庭の安寧のためにお金を稼ぐことではない。私の両親の家庭は、それ自体を中心としている。私の将来の家庭は、教会のすべての仕事、とりわけ私たちと共に祝福を受けた他のすべてのカップルの生活との関わりのなかで自身を見るだろう。」(注47)

 統一運動の中で結婚したカップルは、現時点では頻繁で長期にわたり、しばしば痛みを伴うような配偶者や子供たちとの別居を必然的に伴うにもかかわらず、非常に現実的なやり方でこの理想を実現している。彼らは、天国の基礎が築かれた暁には、(注48)夫婦としての理想を彼らが共に生きる共同体の中で成就することができると信じ、希望を持っているのである。

 結婚における性は、この研究の全般的な議論と密接な関係のあるいくつかの問題を提起する。私たちは既に婚前の性交渉の禁止がもつ神学的および社会学的な意義を分析したが、それが堕落と復帰の教理に基いた絶対的なものであり、またグループの団結を促進し信仰を維持する上で肯定的な影響を与えていることを示した。統一運動が性や恋愛に関する表現を規制し最小限にしようとしていることは、これが世界の支配に関心を持つ同じようなグループにも共通する実践であることを思えば、驚くに値しない。(注49)しかしながら、統一運動は結婚における性の表現が神聖なものであるとみなしている点で、そのようなグループとは異なっていると主張する。そこに含意されているのは、夫婦の性交はより大きな目的、例えば繁殖のための手段に過ぎないのではなく、それ自体を目的とし得るものであるということだ。この主張は、被造物が善であることを肯定する運動の神学の中に確かに暗示されている。それは文師のある説教の中でも示唆されている:
「統一教会の祝福は、生命、愛、そして神様の理想が肉的、横的なレベルで顕現したものです。夫と妻が一体となるとき、それは神様の完全なる対象となり、神様とそのカップルの間に授受作用の円環が作られるのです。そのときに神様の真実の恍惚とした喜びが実現されるのです。」(注50)

 さらにまた、インタビューを受けたメンバーたちは祝福結婚における性は「最も神聖なものであり」、神の愛がその関係の中心にあるので基本的に善であるという点においては、ほとんど満場一致であった。そして、最後にアイリーン・バーカーは以下のように報告している。統一教会の信者は、
「・・・独身の修道生活を求めない。愛が最も重要なものであり、神を中心とした関係におけるその身体的表現は、楽しむべき神からの積極的な賜物であると見られている。男性と女性が授受作用の関係の中で完全に一体となり、相互補完的な関係で一つになることができるのは結婚によってのみである。男性は女性と一つになることによってのみ満たされるようになるが、それは神を中心とした合一でなければならない。」(注51)

 もし祝福結婚における性交が真に神聖なものであれば、われわれはそれが、繁殖のような他の目的の手段になることがあったとしても、それ自体で目的であるとみなされるだろうと合理的に期待することができる。この問題に関するグループの神学的立場は、私がインタビューした一人によって非常にうまく表現されたので、私は彼の言葉をある程度長く引用しようと思う。
「統一神学はキリスト教の伝統においてはその意味で非常にユニークだ。その理由は、私が考えるには、それが性行為というものを神が定めた制限の中で行われない場合には最も酷いものであるとみなすとともに、それがその制限の中で行われた場合には最も貴く、最も実りあるものであるとみなしているからだ。」(注52)

 以下に続く内容の目的は、祝福結婚における性が本質的に善であるという統一運動の主張を「テスト」することにある。われわれはこれを結婚における性行為に対するメンバーの期待を調査すること、グループの避妊に対する立場について調べること、そして私がその「宗教的な性のダイナミズム」と呼ぶものについて調べることによって行う。結婚したメンバーたちが結婚における性に彼らが何を期待するかを尋ねられたとき、彼らの反応は非常に肯定的なものであり、熱狂的でさえあった。彼らはそれについて、「親密さの重要な形」「われわれの関係の有意義な部分」「お互いについてより良く知る方法」「喜びの源泉」「あらゆる幸福な結婚に不可欠な要素」などと語った。二人の婚約中の女性は、それが「楽しみ」でさえあるだろうという彼らの希望を表明した。数名のメンバーは、カップルには自分たち自身の夫婦生活のあり方を決定する権利があることを文師が是認していると確信していた。
「私は文師がこのことについて語るのを聞いたが、彼は婚前の性行為や不倫、およびその種の行為に対しては激しく非難していたが、一方で、同じときの同じ話の中で、まさしく(ショー氏の妻が)言っていたようなことについて語っていた。ひとたび結婚すれば、そのときあなたと神と相対者との関係のプライバシーの中で、あなたには自由があるのだと・・・」(注53)

(注45)伝道の書4:9a。
(注46)インタビュー:インタビュー:マリー女史。
(注47)インタビュー:ウェア氏。
(注48)これがいつ実現されるかを知っているメンバーは一人もいない。
(注49)ウェーバー『宗教社会学』、特にp.240、マンシー『ユートピア主義の共同体における性と結婚:19世紀アメリカ』、およびフォスター『宗教と性』を参照のこと。
(注50)文鮮明『祝福』p. 4。
(注51)アイリーン・バーカー『統一原理を生きる』p.88。
(注52)インタビュー: リントン氏。
(注53)インタビュー:ショー夫妻。文師の語った内容の多く、とりわけ論争の多い主題に関するものは、決して文字にされて印刷されないということを、読者が理解することは重要である。

カテゴリー: ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」