書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』117


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第117回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 元統一教会信者の信仰史の具体的な事例の分析の中で、第113回から「三 学生信者 学生と統一教会」に入ったが、今回は元信者D(男性)の事例の三回目である。Dに関しては櫻井氏自身の記述が長いこともあるが、彼のキャラクターがなかなか濃くて面白いため、私の書評に割く回数も結果的に三回になった。今回は「原理研究会で生き抜く方法」というセクションで彼が展開している論理を分析してみよう。
「統一教会では、何かにつけ、うまくいっていないことは全て蕩減のせいにされ、世界的なレベルでうまくいかないことは全て日本のせいにされる。当事者の責任がどこにもない。○○大の伝道が昨年ふるわなかったのは、Fのときにメンバーが中心者と一体になっていなかったからだと言われた。各人に霊界と一体化することが求められた。個人の努力に霊界が応えてくれない。これは霊界が晴れていないからだとも。」(p.350)

 この部分に対しては、櫻井氏がさらに詳しく、統一原理の論理的欠陥といったような主旨で説明を加えている。少し長くなるが、その部分を引用してみよう。
「原理研究会では、霊界が働くとFの実績が出るといわれる。霊界は一方的に働く。霊界が働くような行いをすることがよいことだとされる。実績が上がったのは霊界が働いたからだ。しかし、実績が上がらないのでは霊界のせいだということにはならず、本人の責任にされる。つまり、手柄は霊界に、責任は本人にという論理である。

 これは矛盾している。霊界の方が現実界に優先しているのであれば、なぜ本人の小さな努力を超えるような強大な霊界の力が誰に対しても同じように働かないのかとDは考えた。おそらく統一教会の論理では、現実界で信仰の条件を立てなければ霊界は動きたくとも動けない、神も先祖もあなたに条件を積ませるために苦難の道に耐えるあなたの姿を見ながら泣いているのだというだろう。ほとんどの信者はこれに納得して、神や先祖の悲しみを知るためにFをやるようになる。Fを一生懸命やっていれば、霊界が働き、実績が出るようになることを実感することこそ信仰なのだという言葉を信じて。」(p.352-3)
「結局のところ、統一教会の論理は循環論法であり、疑問には答えきれていない。霊界の働きには信者の信仰が、神や文鮮明の御旨が成功するためには信者の蕩減条件が十分でなければならないという命題を立てているにもかかわらず、成功のための必要十分条件は明示されない。常に後知恵として失敗を説明するときにのみ、不十分さが問題にされる。成功したとしても手柄は神と真の父母の偉大さに帰されるだけだ。信者側の信仰や努力はいくら積み上げられても、文鮮明の事業計画が失敗に終われば吹き飛んでしまい、マイナスの段階からさらなる積み上げを要求される。」(p.353)

 ここでDや櫻井氏が主張している統一教会の論理の欠陥は、要するに「反証可能性がない」ということだ。この反証可能性という言葉はカール・ポパーが提示したもので、科学と非科学を区別する際の基準として語られることが多い。反証可能性とは、ある仮説が実験や観察によって、反証される可能性があるかどうかである。ポパーは、反証する方法がない仮説は、科学ではないとしている。一般に占いや宗教的言説は科学的でないとされるが、それはある命題に対してどんな結果が出たとしても、外れたとか間違っていたという結論が出ないような構造になっているからである。具体的な例で説明しよう。

 例①:ある占い師が、「あなたの今日の運勢は東の方面で最高で、きっと良いことがありますよ」とAさんに言った。それを信じて東方面に行ったAさんの身には特別なことは何も起こらなかった。帰ってきて占い師に「あなたの占いは外れた。なにも良いことなどなかった」と文句を言った。しかし占い師は、「何もなかったことが良かったのです。もし西の方面に行っていたら大きな災難に遭うはずでした。その災難を避けることができたということが、最高に良かったことなので、私の占いは当たったのです。」と答えた。こう答えれば、占いは外れる可能性はないので、反証可能性がない。当たったのか外れたのかを観察によって判断する客観的な基準がないので、占いは科学的ではない。

 例②:ある自称超能力者が、透視能力の検査を受ける際に、「私の能力を疑う者がいると、うまく能力が働かない」と言った。検査の結果は、彼の透視能力を否定するものであったが、彼は「私は実際に超能力を持っているが、それは信じる心を持った人にしか現れない。私の能力を疑う心をもって検査が行われたので、それが妨げとなって能力が発揮できなかったのだ」と言った。検査の結果が否定的でも、彼の超能力を否定できない論理構造になっているので、彼の主張は反証不可能であり、科学的でない。

 例③:ある宗教指導者が、「迫りくる神の怒りのゆえに、20XX年X月X日に人類を滅亡させる大惨事が起きる。信徒たちはこの世との交わりを避け、世界の終末を防ぐために祈らなければならない。」と予言した。しかし、その日が来ても何も特別なことは起こらなかった。その宗教指導者は信徒たちに、「あなたがたの熱心な祈りにより、神は怒りをしずめられ、人類の滅亡は回避されたのだ」と説明した。これも予言が当たったか外れたかを客観的に判断する基準がないので、このような宗教的言説は科学的ではない。逆のパターンでは、「祈れば願いが叶えられる」と教えられて熱心に祈ったが、願いはかなわなかった。それに対して「祈りが足りなかったから、願いが叶えられなかったのだ」と理由を説明された、ということもあり得る。つまり、どちらに転んでも最初の命題が間違っていることが証明される可能性がない場合には、反証可能性がなく、科学的言説とは言えないのである。

 宗教は科学ではないので、宗教的言説にはこのように反証可能性がないものが多い。統一教会において語られる教えや、指導者たちによるその解釈も、基本的には宗教的言説であるため、科学のように実験や観察によって客観的に正誤が判断できるような性質の命題ではないのである。統一教会の事業が成功すれば、それは「神が共にあるから」「霊界が働いたから」「真の父母様の勝利圏によって」という説明がなされ、逆に失敗すれば「サタンが妨害した」「蕩減が重い」「人間の責任分担の失敗によるものだ」などの説明がなされ、どちらの結果が出ても宗教的言説そのものの正しさが否定されることはないような論理構造になっているのである。このことは、アイリーン・バーカー博士も以下のように述べている。
「『統一教会の成功は、神がわれわれの側におられることを証明している』とか、『統一教会が直面している後退は、神がわれわれの側におられることを証明している。なぜなら、サタンがわれわれに激しく反対しているからである』といったような発言を、社会科学者が裁定することはできない。なぜなら、そうした発言を反証する方法が存在しないからである」(アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』第一章「接近と情報収集」より)。

 しかし、こうした反証不可能性は統一教会の教えに限ったことではなく、多くの宗教の教えに当てはまるものである。キリスト教における神の天地創造、人間の堕落、キリストの十字架による罪の贖罪、ヒンドゥー教における輪廻転生、仏教における因果応報、そして多くの新宗教が説く先祖の因縁や死後の世界などの教えは、実験や観察によってその正誤が客観的に判断できるような性質の命題ではない。だからこそ、それらは科学的言説ではなく宗教的言説であると分類されるのである。しかしこれは、科学的で反証可能な言説にしか価値がないということではなく、人間社会には宗教以外にも正誤を客観的に判断できない価値観、習慣、伝統、イデオロギー、信念、主義主張といったものがあふれておあり、たとえ科学的にその正しさが証明されなかったとしても、一定の役割を果たしているのである。すべてのことに科学性を求めるのは逆にナンセンスである。

 一般に、「あきらめなければ夢は叶う」と信じることは良いことだとされる。しかし、どこまで頑張り続ければ夢が叶うのかを客観的に判断する必要十分条件があらかじめ分かっていることは、実際の人生においてはむしろ少ない。「精一杯努力したのに、夢は叶わなかった」と言う人に、「あなたが途中であきらめたから叶わなかったのだ。もっと頑張っていれば夢は実現した」と言えば、そうした可能性はゼロではないので、これは反証不可能な命題となる。そもそも人は、「あきらめなければ夢は叶う」という信念に対して、科学的であることを求めてはいない。それは生きるための指針であり、信念であり、その正しさは自分の生き方そのものの中で証明されると理解されているのである。それは科学的であるとか、反証可能であるとか、客観的であるとかいうことを超えた次元にある命題なのである。

 元信者Dや櫻井氏は、宗教的言説である統一教会の教えに対して、科学的な反証可能性を要求することによって、その価値を否定していることになる。要するに彼らはカテゴリーを誤っているのである。それでは、統一教会の信者たちはいわゆる「原理の正しさ」というものを、どのようにして判断しているのであろうか。それは自分の実存をかけた神や原理との出会いである。神が存在することや、原理が真理であるということを、自分自身の人生体験として正しいと感じたかどうかである。この点に関してアイリーン・バーカー博士は以下のように述べている。
「しかし、『原理講論』がもっているその真理性のさらなる証明が一つある。それが『作用する』という主張だ。統一神学は、それが経験的に現れると信者たちが信じているという点において、実用的な神学である。それを信じ、それに従うことによって生じる目に見える結果のゆえに、それは真理に違いないと理解するのである。ある程度までそのような証明は、その形態はどうであれ、裏付けになり得る。もしその運動が成功しつつあれば、これは、その運動が神の望まれることを行っているがゆえに、神は彼らの側におられるということを示している。もし、その運動が激しい敵意と反対に直面しているのであれば、これは、その運動が神の望まれることを行っているがゆえに、サタンが懸念しているということを示しているのである。もちろん、歴史上には、自らの位置を裏付けるためにそのような論理を用いた多くの宗教が存在してきた。しかし、神の真理とこの世に起こっていることとの関係を認めるいかなる『実践神学』もまた、その反証になると思われる証拠を人々が見いだすであろうというリスクを負っている。多くのムーニーたちが彼らの周囲で起こっているあらゆることを解釈することによって、自らの信仰を強くしてきたということには疑いの余地がない一方、その実践的な神学は運動にとって両刃の剣であることを証明してきた。そのメンバーの多くは、原理が『作用する』ということを信じなくなったか、あるいはそれが作用する方法をもはや歓迎しなくなったがゆえに、脱会した。」(アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』第三章「 統一教会の信条」より)。

 つまるところ、統一原理によって自分自身の人生や、自分の身の周りで起こっている様々な現象がうまく説明できると感じているときには人は信仰を保っているのであり、逆にそれらをうまく説明できると感じられなくなってしまったときに、人は信仰を失うのである。そもそも宗教的信仰とはそのようなものだ。Dの場合には、統一原理によって自分自身の人生や身の周りの出来事がうまく説明できるとは最後まで確信することができず、世界観の受け入れ方としては中途半端なままであった。信仰に対するあこがれや兄弟姉妹に対する愛着ははあったものの、彼が本当の信仰を獲得することは最後までなかったのかもしれない。

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韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ19


 先回まで共産主義者たちによる韓国独立運動の歴史を述べてきました。李東輝、呂運亨、朴憲永などのリーダーがいましたが、彼らの運動は日本の当局による激しい取り締まりと、内部抗争により、韓国の国内でも、ソ連でも、中国でも衰退してしまい、民族の独立のために力を発揮することはありませんでした。実は共産主義者の中で結果的に最後まで生き残ったのが金日成だったということになるのですが、彼の話に入る前に、東満におけるパルチザンについて少し説明をします。

 韓国人の共産主義者が中共党に吸収されることになり、中共磐石県委に加入すると、その勢力は一挙に強化されました。この合流を組織指導したのは、中共党中央から派遣された韓国人党員である呉成崙(오성륜)という人です。この中共磐石県委の主力は韓国人であり、党幹部には呉成崙らの韓国人がいました。この人の別名は「全光」と言って、もともと金日成の上官だった人です。この呉成崙は、初めは義烈団に属しており、上海で田中義一狙撃事件の犯人の1人となり、捕まったのですが脱獄します。後にソ連を訪れて、共産党に入党して各地で活動し、東北抗日聯軍の軍需処長を務め、若き日の金日成の上官だったということが歴史的事実として分かっています。しかし、北朝鮮の歴史ではこうしたことは一切触れられません。なぜかと言えば、「偉大な首領様」が誰かの部下だったということが、あり得ないことであり、許されないことだからです。北朝鮮では、金日成主席は若い頃から独立したトップリーダーだったことになっています。

 東満におけるパルチザンの背景として、反満抗日運動と「共匪」について説明します。1932年に満州国の建国が宣言されますと、「反満抗日」の旗を掲げた武装集団が全満に荒れ狂いました。これは主に中国人による反乱ですね。その数は20万人とも36万人とも算定されました。日満側(日本の支配下にある満州国の当局のこと)はこれらの団体を押しなべて「匪賊(ひぞく)」と総称しました。匪賊とは通常、「集団をなして、掠奪・暴行などを行う賊徒」を指す言葉です。その中でも共産主義を信奉する思想的な匪賊は共産主義の匪賊という意味で「共匪(きょうひ)」と略称されました。

 この「共匪」という言葉は、当初は朝鮮共産党の各派に属する赤衛隊、突撃隊、遊撃隊などを指していましたが、韓人共産主義者が中国共産党に吸収されて、前記の部隊が「東北人民革命軍」に編入され、ついで「東北抗日連合軍」に編入されてからは、これらの部隊が「共匪」と呼ばれ、討伐の対象となりました。

 それではこの「東北人民革命軍」とはどんな組織だったのでしょうか? これはあくまでも中国共産党の党軍であり、韓国の独立を志向した武装集団ではありませんでした。軍の行動綱領には「中華祖国の擁護」とか「失地東北の回復」という言葉はありましたが、韓国に関するものは一字も入っていませんでした。しかしその骨幹は韓国人であり、特に第1~第4軍、および第7軍の兵員はほとんど韓国人でした。ただし、その組織の頂点の地位は中国人が握っていました。その活動の実態は、日満との戦いよりも、生存のための略奪に明け暮れるというものでした。これは正式な国家の軍隊ではないので、自分たちで物資の調達をしなければならなかったのです。日満側は治安のために「共匪」の討伐に当たり、東北人民革命軍と治安部隊との間に死闘が演ぜられたということです。

 このように、東満におけるパルチザン部隊と日本の治安部隊が激しく闘争している状況下で、日本側の資料の中に、金日成(キム・イルソン)という名前が登場しはじめるのが1935年末ごろのことです。国内では早くからキム・イルソンという韓国語読みで、日本の官憲の間ではキン・ニッセイとかキン・イッセイという日本語読みで、神出鬼没ぶりを知られた人物がいました。その人物の漢字名が、「金日成」として日本側資料に現れたのが1935年末だったということです。東北人民革命軍の第2・第5混成部隊組織票の中に政治委員と100名ほどの部隊の責任者として、「金日成」の名前が出てくるのです。北朝鮮の金日成は1912年生まれなので、1935年には23歳になっています。これは遊撃隊の隊長ぐらいになっていてもおかしくはない年齢です。

 この「東北人民革命軍」は、「東北抗日聯軍」に発展していきます。これは、満州に展開した中国共産党指導下の抗日パルチザン組織のことです。パルチザンとは非正規の軍事活動を行なう遊撃隊のことで、ゲリラの類義語です。それまで満州で活動していた共産党系の朝鮮人・中国人のパルチザン部隊「東北人民革命軍」が門戸を広げ、右派抗日武装団も受け入れて、1936年から再編成されていきました。「右派」も受け入れたということですから、その中には民族主義者も入っていたということです。中国共産党が国民政府に「第二次国共合作」を呼びかけた結果、共産主義者と民族主義者が一緒になって日本と戦うようになったのですが、実権は共産党が握っていました。ですから、名前は「抗日聯軍」であっても、実質は共産党軍でした。その抗日聯軍の骨幹を形成していた幹部のほとんどは韓国人でした。しかし、抗日聯軍の組織条例は中国共産党の目的そのものであり、韓国の解放とか光復については一言も触れていません。これは、屈辱的な条件で中国共産党の下に入りながらも、心の中では韓国独立を目指していた韓国人がたくさんいたことを意味しています。

 このころに、「金日成師長」が日本側の資料の中に登場します。1936年ごろから、東北抗日聯軍の第二軍では、「金日成部隊」と呼ばれる100人ほどの部隊を基幹として、第三師を編成していました。そこに「金日成師長」という名前が登場するのです。これは日本軍が敵の情報を調べて作成した、日本側の資料が残っているという意味です。第一軍と第二軍が統合されて第一路軍が編成され、金日成は第六師長となったと記録されています。この「第六師長・金日成」が、日本側の記録では初出となります。西間島の北部で、金日成が率いた部隊がすばしこいゲリラ活動を展開したという記録が残っています。その目標の選定と戦闘ぶりが非常に積極的で、金日成の名は日満軍の注目を集めると同時に、韓国内の新聞でも報道されました。韓国人はキム・イルソン将軍の健在を知って喜んだと言われています。

 もともと、「伝説の金日成将軍」というのは、このときよりもはるか前、1919年から20年ごろに活躍したという伝説があったのですが、それが1936年になっても、「ああ、まだあの金日成将軍が生きて闘争を継続しているのだ」と、多くの韓国人が信じたのだということです。しかし、その「初代・金日成」は、このときにはとっくに死んでいた可能性が高いのです。

 こうした中で、「普天堡(보천보)事件」が1937年に起こります。1937年6月4日午後10時頃、満州国境沿いの咸鏡南道「普天堡」を、金日成が率いたとされる共産主義者武装集団が襲撃した事件を、「普天堡事件」と言います。この武装集団は、駐在所を襲撃して銃器と弾薬を奪い、他に試験場、営林署、森林保護区、消防署を襲撃しました。これは日本側にとっては青天の霹靂でした。この襲撃隊はビラを撒いて撤退しました。そのビラには襲撃目的が書いてあったのですが、「日帝を追出して独立し、二千三百万民衆のための大衆政府を樹てるため」と説明しており、末尾に「東北抗日連軍第六師北朝鮮遠征隊金日成」の名が書いてありました。すなわち、ビラに「金日成」という名前が書いてあったので、これを日本側が資料として押収して記録に残しているということです。

 普天堡事件の翌日の6月5日、日本の警察が追撃を開始したところ、金日成部隊は引き返し交戦に至り、警官隊は死者7名・負傷者14名を出しました。これらの事件により、金日成の名が朝鮮領内で報道され、日本側官憲もこの事件を重要視して賞金が賭けられたたことから、金日成の名は知られるようになりました。

普天堡の金日成像

普天堡戦闘の歴史的な勝利を記念して普天堡に建てられた金日成大元帥の銅像

 さて、この「普天堡」という場所は、現在は北朝鮮にあります。現在、北朝鮮では将軍様が最初に偉大な功績を残したところだということで、聖跡として国立公園に指定され、巨大な金日成の銅像が立っています。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』116


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第116回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 元統一教会信者の信仰史の具体的な事例の分析の中で、第113回から「三 学生信者 学生と統一教会」に入ったが、先回に引き続いて、元信者D(男性)の事例を分析する。Dは原理研究会の学生信者だったが、「初期から中期はホーム生活がとりあえず楽しかった。」(p.347)と述べている。もう一人の学生信者C(男性)は原理研究会での生活について、「楽しくて楽しくてしょうがないって感じ。」「原理研究会の熱さは自分に合っていた。」(p.341)というように、まるで青春ドラマの一コマのような描写をしている。そして櫻井氏自身も、「これが統一教会における信仰生活の一側面を示していることは事実である。楽しくなければ続けられない。」(p.342)と認めている。合理的で批判的な性格の持ち主であるDにとっても、心許せる同世代の仲間たちとの共同生活は楽しかったようだ。

 もともとDは原理研究会の勧誘方法に対しては懐疑的で、常に予防線を張っていたし、リーダーの言うことを額面通りに信じたり実践したりすることもできなかったのであるが、それでも原理研究会に入った理由は、単純に同世代の仲間たちといることが楽しかったし、「リーダーは信じられなくても仲間たちは純粋な人間で信じられる」と感じていたからではないだろうか。アイリーン・バーカー博士は人がムーニーになる動機として、①統一原理の神学に魅力を感じた者と、②共同体の人間関係の中に愛情を感じた者とがいると大別しているが、Dの場合には原理に対して多くの疑問を持っていたことから、後者の動機に近かったのではないかと推察できる。

 ところがDのホーム生活は「後半になると辛くなった」という。彼の信仰生活は少し特殊であった。「アパートでごろごろして、夜10時頃に学舎に帰った。アパートは原理研究会に入ってからも引き払わないでいた。それを学舎長に咎められたがつっぱねていた。自分の戻るところを確保しておきたいという気持ちもあったのだろう。」(p.348)と述べている。筆者の場合には、原理研究会のホームに入寮すると同時にアパートを引き払った。その行動には、自分の戻るところを確保しておかず、退路を断ってこの道を行くという決意も込められていた。その意味で、Dは本当の意味で信仰の道を行く決断はできておらず、どこかに逃げ道を残しておきたいという中途半端な状態であったことが分かる。

 学舎長に注意されても態度を変えなかったというから、学舎の中で彼は「問題児」として認識されていたのではないかと推察される。実際、こうした問題児はいつの時代にも、どこの学舎にもいたのであろうが、だからといって彼らを見捨てるのではなく、成長するまで暖かく見守りながら導くというのが基本的なリーダーの態度であった。これもまた一つの原理研究会の「リアル」であり、メンバーは誰もが判で押したような従順で画一的な行動をとるわけではない。人それぞれ個性があるのであるから、リーダーはそれに合わせて個別の対応をする必要があるのである。実際に「マインド・コントロール」というようなことが可能であったら、統一教会のリーダーはどれほど楽か分からない。しかしそれができないからこそ、リーダーの人間としての成長があるのだ。

 Dは「自分にとってFはきつかったし、伝道実績もたいしてなかったので、プレッシャーは相当あった。」(p.348)と言っているので、少なくとも模範的なメンバーではなく、彼が存在することで組織が利益を得るようなメンバーではなかった。彼が「初期から中期はホーム生活がとりあえず楽しかった」と述べているのは、まだ幼い頃には一方的に愛されることが許されるからであり、それがある程度の期間を過ぎると今度は後輩が入ってくるなどの変化が起こり、組織に対して何らかの貢献をしない限りはいづらくなってきたために、「辛くなった」ということなのであろう。よくあるケースである。

 それでもDがなぜ原理研究会に残っていたのかは、彼自身の言葉を引用するだけでは第三者には理解し難いであろう。「ただ、それはやめるきっかけにはならなかったし、やめるという選択肢がなかった。ここにいるためにはどうしたらよいのかと常に頭をひねっていた。これは霊界の祟りを恐れたためではないし、氏族メシヤといった使命感のためでもない。なぜ、やめるということを思いつかなかったのか、いまだにわからない。最後の頃には学舎から出てしまえば立ち直れるかなと漠然と思っていた程度だった。」(p.348)

 Dの記述は、元信者Aの氏族メシヤという「使命感」や、元信者Bの辞めたら何か悪いことが起きるのではないかという「恐怖」とも異なる動機によって、彼が組織に所属していたことを物語っている。これは地区教会と原理研究会の違いというよりも、Dという人間の個性なのであろう。Dにとっては使命感も恐怖も心には響かず、それが信仰の動機となることはなかった。それでは何が動機になったのかという点に関しては、実はD自身もよく理解していなかったことが彼の記述からはうかがえるのである。

 そもそも、辛かったし相当なプレッシャーを感じていたにもかかわらず、「ここにいるためにはどうしたらよいのかと常に頭をひねっていた」というのは矛盾である。それは辛いとう感情と同時に、「ここいたい。離れたくない」という感情が彼の中に存在していたことを意味している。原理に対してもリーダーに対しても批判や反発をしていたDが愛着を持っていたものは何だったのだろうか。それは学舎にいた兄弟姉妹たちへの愛着であり、彼らの純粋な生き方に対する憧れのようなものであったはずだ。Dは本心では他の兄弟姉妹たちのように純粋な信仰を持って生きることに憧れていた。しかし、その一方でそうはなりきれない批判的で分析的な自分自身がいて、それを否定することもできない。そうした自己矛盾の中で苦しみ続けたのが彼の原理研究会での生活だったのではないだろうか。「なぜ、やめるということを思いつかなかったのか、いまだにわからない。」というのは、本心ではやめたくないと思っていたからにほかならない。

 純粋な信仰者にはなれないが、それでも原理研究会を離れることができない彼は、さまざまな原理的な屁理屈を駆使して自己正当化しながら、組織に居座るようになった。「学舎での生活も自分の行動に原理的なこじつけができるよういなってから楽になった。伝道の実績が上がらないことに対して、Fも勝利してないのに、伝道できるわけがないと弁明した。自分は10分程度しか祈禱をしなかったが、長い人は40分も祈る。祈禱が短いと批判されたときには、聖書に短く祈れと書いてあるではないかと逃げた。断食をしないのかと尋ねられたときには、断食しているか、していないのかをなぜ見せつけようとするのかと逆に質問した。信仰は人に見せつけるものではないだろうとも。」(p.348)

 彼はなかなかの屁理屈の名人である。純粋な兄弟姉妹はこう言われれば反論できなかっただろうし、学舎長でさえ彼の説得には手を焼いただろうと思われる。しかし、辛ければやめてしまえばよいものを、彼がここまで屁理屈をこねながら自分を正当化した理由は、少しでも心を楽にして原理研究会に留まりたかったからなのである。この辺の心理は、信仰を持ったことがない者には分からないかもしれないが、彼は心の奥底では何かを信じていたのであり、兄弟姉妹と一緒にいたかったのであり、できれば彼らと同じように純粋に信じられればいいと思っていたのである。しかし、実際にはそれができないので、周りに壁を作り、悪ぶって反抗しながらも、愛されることを期待していたのである。

 彼は自分自身が熱心な信仰者として燃えているわけではないにもかかわらず、「最近は原理研究会のメンバーが多様になり、みな、あまり燃えていないという印象がある。同じ統率を加えても、対応は人様々だ。無理が来ている。メンバーがこの活動にのめり込もうとしない。燃える派と燃えない派が対立し、熱くない人が多い。これは今の学生のタイプかも知れない」(p.348)などと評論家のような立場で語っている。彼自身が燃えていないにもかかわらず、燃えているメンバーが原理研究会の理想であると言っているのである。

 さらにDは、ヤコブや祝福二世がカープに入って来ることによって、たたきあげの信仰を持った原理研究会のメンバーとの間で価値観の齟齬が生じ、それが問題になっていることなども語っている。彼は自分のことは棚に上げて、いまの原理研究会は問題が多いと評論をしているのである。

 こうしたDの態度を見れば、彼に本当に信仰があったのかどうかは疑わしい。この団体には何かあるということを漠然と信じていて、信仰に対する憧れはあったかもしれないが、自分の心でしっかりとみ言葉と向き合ったのかと言えば、どこか逃げていたし、どこか斜めから見ていたところがあったと言えるであろう。こうした彼自身の課題を克服してみ言葉と真剣に向きわない限りは、原理研究会に残っていても彼の精神的な成長はなく、いつかは離脱する運命にあったのかもしれない。

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韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ18


 先回は韓国独立運動の共産主義者たちの経歴を詳しく述べたので、時間が1945年まで進んでしまいましたが、ここで少し時間を戻して、高麗共産党の内部分裂について話します。高麗共産党は1921年にレーニンから支援を受けた李東輝によって創党されました。
 韓国の民族主義の独立運動も分裂し闘争していたんですが、同じように、共産主義の独立運動の中にもいろんな派閥があり、内部分裂して闘争していました。大きく二つに分ければ、「上海派」と「イルクーツク派」に分かれます。

韓国の独立運動と再臨摂理PPT18-1

 上海派のリーダーが李東輝です。イルクーツク派のリーダーが呂運亨と朴憲永ということになります。上海派はどちらかというと、共産主義でありながら民族解放が第一の課題であるという、民族主義に近い立場であったのに対して、イルクーツク派は完全にソ連の手先と言いますか、社会主義革命を優先させるという考え方をしていましたので、お互いに次のような非難をし始めるわけです。

 イルクーツク派は上海派に対して、「民族資本主義的な機会主義グループである! 彼らの運動は、世界平和のための共産主義の大義に基づくものではなく、ロシアの援助を得る手段として共産主義の仮面を被っているだけだ。偽者だ!」と非難します。

 一方で上海派はイルクーツク派に対して、「彼らは共産主義運動の正統にはずれた反党グループに他ならぬ。コミンテルンの承認と資金援助を受けているわれわれこそ真の共産主義政党である!」と主張し、お互いに正統性を主張して闘うことになります。

 この二つの派閥があったので、大同団結するために行われたのが1921年の高麗共産党大会です。これはコミンテルン極東書記部のタルピロという人が開催を指示したのですが、彼には極東における共産主義運動を調整する任務があったため、両派の統一を図るために、1921年3月に高麗共産党大会を開くように指令しました。コミンテルンにとって最も大事なことは、ソ連に忠節を尽くすことを本分とした党を育成することであり、民族的色彩を帯びたと噂された上海派に韓人共産主義者を牛耳られることは、ソ連にとって好ましくないことでした。ソ連の国益を優先させるこの考え方により、高麗共産党大会の主導権争いは、イルクーツク派の勝利に終わり、主導権を握ったイルクーツク派は、共産党特有の粛清を定石通り敢行しました。

 このように上海派とイルクーツク派の抗争はイルクーツク派の完勝に終わり、イルクーツク派を中心とする高麗共産党が誕生しました。こうして一度はソ連の完全指揮下にある高麗共産党ができたのですが、やがて時流が変わり、生みの親であり育ての親でもあるソ連共産党から、高麗共産党が裏切られることになってしまいます。1925年1月に、日本がソ連邦を承認して国交が樹立すると、ソ連は日本との間に結んだ条約に基づいて韓国人の独立運動を禁じ、韓国人の共産主義者はすべて各県の高麗部所属となりました。つまり、韓国人の党は完全に解体されたわけです。それはソ連の国益のためでした。

 この時点でソ連は日本と一度国交を結ぶわけですが、日本政府から韓国の独立運動をなんとかしてくれと頼まれて、自分達が育てた韓国人の独立運動家を見捨てて、それをつぶしてしまおうとしたわけです。これに憤慨した李東輝は、スーチャン近くの寒村に遁世して再び世に出なかったと言われております。彼は10年後の1935年1月に死んだということですから、非常に淋しい最後だったと言えます。

 ここで韓国国内の共産主義者の動きについてもおさえておきましょう。上海派とイルクーツク派のほかに、ソウル派という国内の共産党が生まれました。1921年1月末、「ソウル青年会」という共産主義運動が旗揚げをしましたが、これは韓国の国内に自然発生した共産党です。これは李東輝(上海派)の援助を受けていました。これに対抗して、イルクーツク派は「火曜会」を立ち上げます。これはレーニンの誕生日が火曜日だったことに因んだ名前です。火曜会は、いわばイルクーツク派の国内支部であり、幹部は金在鳳、朴憲永らが務めていました。

 一方で東京の留学生は、これらと全く無関係に運動を開始し、帰国するとソウルに「北風会」を結成して活動を開始しました。これによって、「木曜会」(イルクーツク派)、「ソウル派」(上海派)、「北風会」(東京留学生)の三派が鼎立するようになりました。このように、共産主義者たちも一体化できずに派閥争いをしていたのです。

 この三派が合同して結成されたのが、1925年4月18日に結成された「朝鮮共産党」(第一次党)でした。しかし、結党後わずか半年で「治安維持法」によって壊滅的な検挙を受けることとなります。以後、分裂と闘争を繰り返しながら、第四次党まで自壊と検挙を繰り返し、次第に朝鮮共産党は衰退していくわけです。このように内部闘争に明け暮れている韓国人の共産党を見て、コミンテルンは愛想を尽かしてしまいます。1928年12月にコミンテルンは「12月テーゼ」と呼ばれるものを出し、「朝鮮共産党は分派闘争に没頭し、実際闘争をしない」という理由のもとに、その承認を取り消してしまったのです。ということは、共産主義の総本山であるコミンテルンの支援を失い、国際的な援助を受けることができなくなってしまったということです。

 その後も、共産主義運動は細々と続くわけですが、その一つが「コム・グループ(Communist Group)」です。1939年に出獄した朴憲永は、コム・グループの指導者となりました。これはソウルに潜んでいた超派的な組織で、朝鮮総督府のあらゆる局に同志を送り、電気、通信、放送機関に潜入し、地下に潜む党員の大部分を組織しました。さらに全国の主要都市に支部を設けました。党再建の最後の努力となったコム・グループは、太平洋戦争の勃発まで生き延びて、インテリ学生層に浸透していたと言われています。

 派の統合に成功した朴憲永は、「赤い星」と呼ばれていました。しかし1941年12月までに大多数の国内共産主義者が検挙され、朴憲永は逃れて光州の煉瓦工場に身を潜めるようになりました。そして、太平洋戦争がはじまり、コム・グループが壊滅した後は、共産主義運動は衰退の一途をたどったのです。この時期の国内共産主義者は、獄中に呻吟するか、転向するか、転向を装うか、地下に逼塞(ひっそく)するか、満州に逃亡するか、延安に行くか、ほそぼそとサークル活動を続けるかのいずれかで、ほとんど息の根を止められていました。非常に厳しい日本の弾圧によって、韓国国内の共産主義運動は追い詰められていったわけです。

 それでは共産主義運動が残ったのはどこだったかと言えば、中国でした。1928年に第四次党が崩壊した後には、海外における朝鮮人の共産主義運動は上海、延安、満州で個々別々に展開されることになりました。それでは上海派がどうなったかと言えば、結局は四分五裂して延安に逃れ、活動を休止してしまいました。延安派は「朝鮮義勇軍」と呼ばれていましたが、少人数で武装し、終戦後に北朝鮮に入って要職に登用されるようになりました。

 一方で満州の運動は、内部抗争を繰り返した後、組織を解体して中国共産党に合流するようになりました。これは韓国人の組織を解体し、中共党の審査を受けて個人的に入党できるということですから、韓民族のアイデンティティーを完全に否定して中国共産党に屈服するという屈辱的手続でありました。しかし、彼らはそれにも甘んじて従い、中国共産党に入党したのです。彼らは中国共産党の支配下で、いつの日か祖国を解放することを誓って忍耐していたということになります。この人たちが、「パルチザン闘争」を行っていきます。その中の一人が金日成だったわけです。

 さて、これらの共産主義運動は、民族の解放のために何か成し遂げたといえるのでしょうか。結果的に、韓国人の共産主義運動は国内でも、ソ連でも、中国でも崩壊し、独立のために力を発揮することはありませんでした。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』115


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第115回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 元統一教会信者の信仰史の具体的な事例の分析の中で、第113回から「三 学生信者 学生と統一教会」に入ったが、先回の元信者C(男性)の事例に続いて、今回から元信者D(男性)の事例を分析する。Dは1999年6月から2000年8月まで北日本にある総合大学の原理研究会で活動したという。私から見ればかなりの後輩にあたる。彼のインタビューの特徴は、単に自身の入信から脱会までの経緯を事実に基づいて話しているだけでなく、原理研究会の勧誘テクニックや、原理研究会と地区教会の違い、学生新聞会の舞台裏、自分自身が原理や組織に対して感じていた矛盾や疑問など、持ち前の分析力を働かせて、主観的な世界についても雄弁に語っている点である。

 Dの思考は批判的・分析的であり、これは頭の良い男子学生にはよくあるパターンである。私も学生時代には同じような思考をしていたために、ある意味で親近感がわく性格である。彼はいわゆる「マインド・コントロール」されている人間とは程遠く、現役の信者だった頃から自分なりに批判的に考える能力を持っていたことが、インタビューから明らかになってくる。櫻井氏自身が「これだけよくわかっていて、統一教会に疑問を持ちならやめずに四年も続けていたのはなぜだろうと脱会カウンセラーでなくとも考えてしまう。」(p.352)と表現しているほどに、彼は“批判的な思考能力を奪われ、画一的な思考しかできない”という一般的な統一教会信者のイメージとは程遠い人物なのである。櫻井氏は、おそらくこれは原理研究会の知的な学生に固有の性格なのであると言いたいのであろう。しかし、実際には彼のような信仰上の疑問を持った人は統一教会の中に多数いると思われ、またそれが原因で教会を離れる者も多数いると思われる。その意味で、彼は特別な存在ではなく、程度の差こそあれ統一教会信者の中に一定の割合で存在するタイプなのである。彼がこうした批判的な思考をしながら4年間も原理研究会にいたということは、批判的で合理的な思考と、それを超越した信仰とが、一人の人間の心の中に共存しえることを示している。そしてそれこそが、統一教会信者の「リアル」なのである。「マインド・コントロール」された統一教会信者というステレオタイプを打破する意味も込めて、彼の批判的な思考を紹介してみたい。

 Dは1996年に自分がカープに勧誘されたときの様子を簡単に描写した後で、「勧誘される側の自分」から「勧誘する側の自分」へと視点を変え、「手付け金をその場でもらうことが重要だ」「男子学生は女子学生からの働き掛けに弱い」(p.344)といった勧誘テクニックの解説を入れ、同時に中心(学舎長)のやり方に対して自分が疑問を感じていたことにまで言及している。彼はこの「勧誘」という場面を中心として、①勧誘される受講者、②勧誘する霊の親、③それを指導するリーダー、という三つの視点からそのプロセスを分析し、三者の間にある意識や認識の違いにまで言及している。つまり、彼は一つの視点からしか物事を見られないのではなく、複数の視点から立体的に事態を分析する能力を持っているのである。

 Dは原理研究会のシックスデーズセミナーに参加したとき、レクリエーションで班長から川に飛び込むよう誘われたが、その場の雰囲気に溶け込めなかったので、飛びこまずにそのまま見ていたという。彼は進行役のスタッフから、「なんで飛びこまなかったの? 自分の枠を超えることも大事だよ」と言われた。Dはこの出来事に関して、「周到に準備されていたように思われる。川の中に入るというのが原理研究会に入るという象徴的な行為のように思われ、ノリでそこまで行かせるのがねらいと思われる。」という冷めた分析をしている。一般的に「マインド・コントロール」とは、本人に自分がコントロールされていることを気付かせることなく、強力な影響力を発揮して個人の信念を変革させてしまうことであると説明される。その定義に基けば、Dはコントロールしようとする側の意図を見抜き、それに抵抗しているという点において、「マインド・コントロール」された状態にはなく、それを回避しようという主体的な意思を発揮していることになる。彼は「マインド・コントロール」の手口を見抜き、それには引っかからなかった。にもかかわらず、彼は原理研究会に入会を決意したのである。これはDが原理研究会の勧誘テクニックに対しては批判的な姿勢を貫きながらも、何か別の理由で信仰を受け入れたのだということを物語っている。

 櫻井氏は「第6章 統一教会信者の入信・回心・脱会」において、統一教会信者が勧誘されるときの状況を、睡眠不足や緊張感や疲労と闘いつつ、朦朧とした意識の中で決断を迫られるものであると描写した。Dはそれを裏打ちするかのように、「この説得はOKと言わない限り、明け方まで説得が続き、よほど体力があるか、気力のある人間でない限り、眠気と朦朧とした意識の中でOKしてしまう」(p.345)と述べている。しかしその直後に、「しかし、ここでOKしたもの達でも、実際に夏の新人研に参加するかどうかはそのときになってみないとわからない。統一教会が嫌だ、ついて行けないと脱落するものも多い」とも書いている。彼は自分が勧誘される側の立場だったときの描写としては、眠気と朦朧とした意識の中でOKしてしまったという自覚があったのであろう。しかし、勧誘する側に回って同じことをしてみた場合には、それが必ずしも有効であるとは限らないという体験をするのである。Dは自分の体験と他者の体験を相対的に比較し、同じ状況下に置かれたとしても、人は必ずしも同じ反応をするものではないことを冷静に観察している。要するに、眠気や根負けで一時的に説得を受け入れたとしても、それが永続的な回心であるとは限らず、最終的にはその人自身の心が決めることだと彼は知っていたのである。

 Dはまた、原理研究会の学生たちが休み期間中に行っていたF(fundraisingの略。資金稼ぎ)についても語っている。「自分は疲れて休むことが多かった。」「自分はFに熱心ではなく、一、二万円分を売って、後は公園で寝たりしていた。売れないと電話で報告する際に班長に叱られ、歌いながら売ってみろとか言われたこともあったが、やらなかった。」(p.346)などと自分の歩みを振り返っている。彼はもともと合理的で批判的な性格の持ち主だったため、おそらくリーダーの言うことを額面通りに信じたり実践したりするのが苦手だったのであろう。このような内的な葛藤を抱えていたり、命令に従わずに活動をサボったりする信者も統一教会には一定数いるのであり、誰もがアベルに言われたことを純粋に信じて歩んでいるわけではない。それでも彼は信仰を持っていた。こうした現役信者が存在するということは、統一教会の信者の実像が、通常考えられているような「マインド・コントロールされた状態」とは程遠いことを示している。

 Dは原理研究会のメンバーが特別なエリート意識を受け付けられていたことを以下のように証言している。「原理研究会は地区教会とは関係なく、日曜礼拝は原理研究会だけだ。『原理研究会はエリートであり、世界のことを考え世界を救うためにやる。地区教会は、先祖のため、家族のためにやっている人が多い。レベルが違う」と教えられた。原理研究会出身者と地区教会出身者では意識と体力・気力が違うという自負があり、Fをやるにしても実績の水準が違う。」(p.347)

 おそらく原理研究会のリーダーたちが学生たちに対してエリート意識を植え付けて信仰を鼓舞したというのは事実であろう。私の時代にも同じようなものの言い方はされていた。しかし、自分の所属する部署や組織が特別な使命を持っているという意識(うちの部署こそが神の摂理の中心であるという意識)は、おそらくどの部署にもあったのであり、原理研究会に固有のものではないだろう。それはメンバーを激励し、やる気を促進するという効果がある一方で、「井の中の蛙」的な発想でもある。私も原理研究会出身者なので同じような傾向があったと思うが、ひとたびそこを出てしまえば、それは全体の中のほんの一部に過ぎず、規模からすればかなり小さな組織であったことに気付いた。

 原理研究会の出身者が、地区教会の出身者と比較して意識や体力・気力において優れているとか、信仰姿勢においてより高度で高邁であるなどということは、おそらく客観的には言えないであろう。ただ一つ、客観的に言えることがあるとすれば、より知的に優れた集団であるということだ。原理研究会のメンバーは、旧帝大を含む国立大学の学生や、有名私立大学の学生によって構成されているのだから、国民の平均値よりもかなり知的水準が高く、それは統一教会内においても同じであろう。もともと社会のエリートになるような大学生を伝道しているのが原理研究会であり、就職した後の男性を伝道するのが難しいという日本の社会状況もあいまって、統一教会の幹部候補生を輩出してきたのが原理研究会であるとも言えるのである。ただし、それは「原石」や「可能性」としての話であって、原理研究会の出身者が本当に統一教会のリーダーになれるかどうかは、その人の実力次第であったと言える。

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韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ17


 韓国独立運動の中で共産主義運動とはどのようなものであったのか、最初に概観を説明します。朝鮮共産党(「第一次党」と呼ばれる)が結成されたのは、1925年4月18日のことでした。しかし、同じ月に治安維持法が公布された関係もあって、間もなくその大部分が日本政府によって検挙されてしまいます。事後第四次党まで再建が試みられたのですが、都合6回に及ぶ大検挙を受けて党は若芽のうちに崩壊してしまいました。したがって、共産主義運動が国内の独立運動そのものに実効を挙げた形跡は、ほとんど認められないわけです。しかし、上海臨時政府に与えた李東輝一派の影響など、海外における独立運動に与えた影響は計り知れないものがあります。影響と言っても、マイナスの影響がものすごく大きいのではありますが・・・

韓国の独立運動と再臨摂理PPT17-1

 その中心人物を三名挙げるとすれば、一人目がこの李東輝(이등휘)という人であります。この人は、韓国の共産主義者の草分けのような人であります。咸鏡南道の端川というところに生まれ、旧韓国武官学校を出て軍人となるわけでありますが、1907年の韓国軍解散の時には江華島鎮営にあって叛乱を指導しました。後に、安昌浩の啓蒙思想に感化され「新民会」に加盟しました。1910年の日韓併合後は寺内総督暗殺未遂事件に関与し、検挙の手が伸びると、シベリアに逃れて付近の居留民や政治亡命者らの指導者となっていきました。

 やがて1917年にロシア革命が起きて、レーニンの労農政府が成立しますと、ボルシェビキ(注:ロシア社会民主労働党が分裂して形成されたレーニン率いる左派の一派のこと。ロシア語で「多数派」の意)がやってきて、李東輝は彼らから共産主義の理論を注入されて熱狂的な信者となり、かつその援助の申し入れに勇気づけられました。彼はロシアの援助によって朝鮮を独立させることを決意するわけです。

 そして1918年6月には、李東輝らがハバロフスクで「韓人社会党」を結成します。1919年3月に「三・一独立運動」が起こると、シベリアの運動家はウラジオストックでシベリア政府の樹立を決議したんですが、間もなく上海臨時政府が誕生したので、李東輝も一派を率いて上海に移動することとなりました。そして、そこで混乱を引き起こすわけです。

 李東輝は「臨政」の国務総理に就任し、主導権の掌握と運動路線の左傾化に努め、結果的には「臨政」内部の紛争を助長しました。コミンテルンは1920年秋に一時金として臨政代表の韓馨権に金塊60万ルーブルを与えました。そのうち40万ルーブルが李東輝の秘書をしていた金立に渡されたのですが、李東輝は「臨政」に一文も入れず、それを資金として翌年(1921年)、上海で「高麗共産党」の創党を宣言したのです。ですから、彼は「臨政」のためというよりは、一貫して共産主義の目的のために動いていたと言えます。しかし、可哀想なことに、李東輝はソ連に忠誠を尽くしたにもかかわらず、最終的にはソ連に裏切られて1935年に失意のうちに死んでいったということです。結局、彼は第二次大戦後まで生き延びることができなかったので、戦後の北朝鮮の指導者になることはできませんでした。

韓国の独立運動と再臨摂理PPT17-2

 二人目の共産主義運動の指導者が、朴憲永(박헌영)という人です。この人はモスクワのレーニン大学で学んだインテリであり、エリートでした。上海の共産青年運動幹部として知られ始め、韓国の国内で「高麗共産党青年同盟」を組織して、「赤い星」と呼ばれたくらいでありますから、共産主義者のスターだったわけです。しかし、韓国の国内で活動していたため、日本の官憲によって逮捕され、解放までに通算10年の獄中生活を送ることになります。やくざの世界でも何年ムショに入ったかで格が決まるわけでありますが、政治的な理由で弾圧されて10年刑務所に入っていたということは、共産主義者としては「勲章」であるわけです。したがって彼は、共産主義者としては尊敬される経歴の持ち主であり、レーニン大学で学んだエリートであったため、本当はこの人が北朝鮮の指導者になってもおかしくなかったわけです。でも、ならなかったということなのです。

 彼は1945年9月12日、これは第二次大戦終了後のことでありますが、朝鮮共産党を再建して書記長となり、1946年10月には朝鮮労働党を創党します。彼は半島の南側で共産主義運動を開始したわけです。しかし、解放直後の韓国ではアメリカが軍政を敷いており、共産主義者を取り締まっていました。1946年8月に軍政法違反の疑いで彼に対する逮捕状が出たため、彼は地下に潜って活動し、10月には追求の手を逃れて越北しました。北に移動したということですね。有名な共産主義者が南からやってきたということで、彼は北で受け入れられます。

 1948年9月、朝鮮民主主義人民共和国が独立を宣言すると、朴憲永は副首相兼外相に就任したのですが、もうこのときには既に金日成が実権を握っていて、南で活動していた朴憲永は、北では何の基盤もない「根無し草」であったのです。彼は有名で尊敬されていた共産主義者だったので、次第に金日成にとって目障りな存在となっていきます。そして1953年、「反動分子・米帝のスパイ」の罪名を着せられて逮捕され、55年に処刑されてしまいました。共産主義の世界というのは恐ろしいですね。

韓国の独立運動と再臨摂理PPT17-3

 三人目の共産主義運動の指導者が、呂運亨(여운형)という人です。この人も、中国に亡命して、南京の金陵大学で学んだということですから、かなりのインテリですね。彼は上海で設立された大韓民国臨時政府に参加し、上海の高麗共産党に入党することにより、共産主義者としての実績を積んでいきます。1923年に上海で逮捕され、韓国の国内で獄中生活を経験しています。1933年には朝鮮中央日報社の社長に就任したということですから、言論の分野で活躍したインテリということになります。

 1945年8月15日の日本敗戦の報を受けて、その日のうちに彼は安在鴻などとともに「朝鮮建国準備委員会」を結成しました。しかし、この独立宣言は連合軍によって否定されてしまいます。連合軍は韓国人による政府の樹立を認めずに、アメリカ軍による軍政を開始したのです。最終的に彼は1947年7月19日に暗殺されたため、戦後の国家樹立まで生き延びることはできませんでした。

 これら韓国独立運動の共産主義者のリーダーたちは、実は金日成よりも年上で、はるかにインテリ(モスクワや南京に留学)で、共産主義者としての実績も上だったのです。にもかかわらず、彼らは解放後に共産主義の国として建てられた北朝鮮の指導者になることはありませんでした。金日成の抗日独立運動の実績は、実は大したことがなかったにもかかわらず、結果的には彼が北朝鮮の指導者になりました。どうしてこうなったのかについては、後に説明します。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』114


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第114回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 元統一教会信者の信仰史の具体的な事例の分析の中で、前回から「三 学生信者 学生と統一教会」に入ったが、櫻井氏はまず統一教会の学生信者を「原理研究会の学生」と「地区教会の学生信者」に分け、両者の待遇や性格の違いを強調してみせた。このコントラストはいささか極端で、ステレオタイプ化されたものであるが、それは櫻井氏のインタビューした原理研究会に所属していた元信者の経験が、櫻井氏の描いてきた悲惨な統一教会の信仰生活とかけ離れたものであったため、「これは特殊な組織における特殊な経験に過ぎない」「楽しい信仰生活は、原理研究会の学生時代にしか存在しない」という差別化を行い、統一教会全体の信仰生活に関する自らの主張が崩壊しないように予防線を張ったものであると私は推察した。今回は元信者C(男性)の事例を扱うが、櫻井氏をしてそうした予防線を張らしめるほどに、原理研究会における彼の信仰生活は楽しいものであったのだ。これがリアルな体験であることは、私も同じ組織の出身者として納得できる。Cは1995年から97年にかけて関西の大手私立大学の原理研究会に所属していたということであるから、私よりも10年以上後輩に当たる。以下に原理研究会に関するCの描写を抜粋するが、それは嘘偽りのない言葉であると思われる。
「宗教的な話には抵抗感もあり、文鮮明がメシヤかどうかもよくわからなかったが、合宿が楽しかった。」「学舎長は父親役、母親役の女性リーダー、信仰歴ごとに分けられた兄弟姉妹の関係の中に収まり、そこは家族の雰囲気だった。」「あの頃が一番勉強したと思うくらい。大学の講義以上に難しい。勉強しているというよりも、楽しかった。もっと聞きたい。もうほとんど麻薬に近い状態。」「こうして1996年の夏には学舎に入り、原理研究会にどっぷり浸かっていく。」(p.340)
「学舎では一日20人分の食事代を2000円で切り盛りするほど貧乏で、給食センターからパンの耳を安く分けてもらったり、時には廃棄されたドーナツをホームレスの人達と争ったりもした。」「学舎に入りたての頃は、メンバーがみな子供じみて見えた。取るに足りないことを喜んだり、皆で笑ったりと。しかし、長くそこにいると『自分の価値観が変わり、また生まれ直すという感じで、子供みたいになる』。そのため、大学生の男女が一緒に暮らしているにもかかわらず、異性に対する恋愛感情などは起きず、むしろ、原理研究会のスケジュールの中で一緒にやっている同士のような愛情で満たされているように思われた。」「貧乏で、本当に貧しくて、いつも腹減っていたけれども、楽しくて楽しくてしょうがないって感じ」「新人を誘うために、それまで手紙など書いたことのないCが、何枚も手紙を書けるようになった。」「自分は尽くしてもらえたから、相手にも尽くせるようになった。」「学生の一人暮らしをやっていて友達とも話すが、上滑りの会話が多いわけで、濃密な人間関係の中で自分のこと、家族のこと、将来の夢とか、しっかり話し込めるとどんどん入っていった。」「原理研究会の熱さは自分に合っていた。」(p.341)

 Cの証言にはまるで青春ドラマのような熱さがある。それは彼にとっては楽しかった青春時代の一コマとして、今も記憶されているのであろう。通常、裁判の原告になった元信者はこうした信仰生活の「リアル」を陳述書に書いたり、法廷で証言したりしない。それでは被告を利することになってしまうということで、こうした記述はことごとく弁護士の指導によって削除され、受動的な被害者を演じるように矯正されるからである。ところがCは裁判の原告ではなく、自由な立場で純粋に櫻井氏のインタビューに答えたため、原理研究会での信仰生活が楽しくて仕方がなかったことを正直にしゃべっているのである。そこに、彼の証言のリアリティーがあり、裁判資料では隠されている信仰生活の真実がある。こうして櫻井氏の著作全体を俯瞰してみれば、裁判資料を基に構築した「受動的な被害者」としての統一教会の信者像と、直接のインタビューから得られた、楽しい信仰生活を送っている能動的な信者像との間に、齟齬が生じてしまっているのである。そしてこの楽しい信仰生活を送っている信者像は、櫻井氏が特別な組織であると主張している原理研究会にとどまらず、すべての統一教会員に共通する「リアル」なのである。

 しかし、この「リアル」が普遍的な信仰生活の真実であると読者に思われてしまっては困るので、櫻井氏はこれがあくまでも「特殊な体験」であることを再度念押ししている。
「大学時代に運動部にでも所属し、辛いけれど楽しかった練習と合宿所での共同生活を物語るようなCの回顧談を怪訝に思う読者もいるかもしれない。原理研究会主催のセミナーを『修学旅行の夜』と評した塩谷政憲の研究(塩谷 1986)にも通じるものだが、これが統一教会における信仰生活の一側面を示していることは事実である。楽しくなければ続けられない。」「しかしながら、既に述べたように原理研究会は統一教会にあって特別に保護された空間であり、伝道や経済活動において厳しく実績を追求されることはない。勧誘からツーデーズセミナー、シックスデーズセミナー、新人研修までは一気に進むが、これを終えれば後は大学の学事歴に沿って年間のスケジュールをこなしていけばよい。大学卒業までに普通に就職して通教するか、献身者になるかを決定すればよいので、セミナー後、新生トレーニング、実践トレーニングと矢継ぎ早に教義と実践を教え込まれ、一気に献身まで詰められるということも行われていない。そうした余裕の中で学生同士の屈託ない会話や寝食を共にする生活が楽しめる。」(p.342)

 ここで櫻井氏が、共同生活の楽しさを統一教会における信仰生活の一側面であることを認めているのは重要である。彼の言うとおり、「楽しくなければ続けられない」のであり、それが現実の信仰生活である。これは櫻井氏が紹介している塩谷政憲氏の研究でも指摘されていることだ。塩谷氏は統一教会の魅力を、同じ目標を共有する若者たちが互いに競争し合い、励まし合いながら共同生活をする「青年集団」であるという点に見た。古来より、子供が大人として社会化する際には、一定期間親元を離れ、「若者組」などと呼ばれる青年集団で同じ世代の若者たちと共同生活をする風習が多くの文明圏に存在し、これが若者たちの自立を促進してきた。しかし現代社会においては親離れ・子離れがスムーズにできない場合が多く、その結果、子供たちは親からの精神的独立を求めて青年集団としての統一教会を必要とする、というのである。
「U会(統一教会)のもっている魅力は、単に宗教団体ということではなく、まずは青年集団だということである。この青年集団が若者達に与えてくれるのは、心許せる仲間達との暖かい雰囲気、同じ目標を共有する仲間達との競争、自己の潜在的エネルギィを引き出し方向づけてくれる使命とその使命にもとずく実践的な体験、その体験の世界へと導いてくれるアイデンティティモデルたる身近な指導者、そしてそれらを説明してくれるトータルで対抗的な世界観である。」(塩谷政憲「宗教運動への献身をめぐる家族からの離反」森山清美編『近現代における「家」の変質と宗教』p.170)

 櫻井氏がインタビューしたCの体験は、奇しくも塩谷政憲氏による研究を裏打ちするような内容となった。しかし櫻井氏は「第6章 統一教会信者の入信・回心・脱会」において、統一教会信者の信仰生活を実に悲壮なものとして描いたので、齟齬が生じてしまった。彼の描いた典型的な統一教会の信徒像は、組織に巧みに勧誘されて教育された受動的な被害者であり、常に睡眠不足や緊張感や疲労と闘いつつ、朦朧とした意識の中でただひたすら苦難に耐え続け、常に実績の追求と精神的な打撃を受けながら、勝利か敗北かという二者択一を突きつけられて、決死的な決意で教団から要求される活動を行い続ける悲惨な者たちであった。それがここへきて、「楽しくなければ続けられない」ことを認めたのであるから、そのギャップは甚だしい。

 この矛盾をカバーするために、櫻井氏は原理研究会が特別に保護された空間であり、彼らは余裕の中で楽しい信仰生活を送っていた、統一教会の中にあっては特異な存在であることを強調するのである。実はこれは、統一教会と原理研究会の違いなのではなく、裁判で主張されている歪めれらた信仰生活の描写と、リアルな信仰生活の描写の違いなのである。実際にはCの体験の中にも貧乏で辛かったことが語られており、地区教会の信者であったAの体験の中にも、同世代の仲間との共同生活の楽しさは語られているのである。どちらの信仰生活においても、辛いことと楽しいことの両方があるのが現実なのであり、地区教会の信仰生活は辛いことばかりで、原理研究会の信仰生活は楽しいことばかりということはあり得ない。しかし、裁判の主張においては辛かったことばかりが強調され、楽しかったことは削除されるのである。リアルな信仰生活の証言の前に、裁判資料によって形作られた虚像がまた一つ崩壊したと言ってよいだろう。

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韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ16


 先回は、1921年にロシアの赤軍と朝鮮の独立軍が衝突して、朝鮮の独立軍が壊滅するという悲劇的な事件、すなわち「自由市事件」の経緯について説明しました。これによって抗日武装勢力は日本と戦う前に内紛によって大打撃を受け、バラバラになってしまいました。独立運動に共産主義者が加入したことによって、運動の戦線は却って四分五裂してしまったわけですが、「自由市事件」の生き残りは再び満州に移動して、活動を再開することになります。今回は「自由市事件」以降の武装闘争について説明します。

 「自由市事件」以降の武装闘争は大きく三つの流れに分かれます。「新民府」という独立団体は、自由市の難を逃れて帰満した金佐鎮らが北満州で大同団結を提唱して結成したものです。「参議府」という団体は、上海臨政の承認の下に、白時観らが創設したものです。また「正義府」という団体もあり、これは高麗革命党の党軍であり、共産主義の団体です。このように分かれて、それぞれ活動していたわけです。

 これに対して日本側は、「三矢(みつや)協約」によって掃討しようとします。1925年6月11日、朝鮮総督府警務局長であった三矢宮松と張作霖の間に、「在満韓国人取締り協約」(三矢協約)が結ばれました。その目的は、独立武装闘争の再燃を防ぐためであり、中国官憲が韓人独立運動家を逮捕して日本領事館に引き渡せば、賞金を支払うという協約でした。これは実はかなり有効でありまして、お金欲しさに韓国人の独立運動家を売る中国人が現れるようになりました。これにより独立運動は打撃を受けるようになっていきます。独立運動を取り巻く環境はかなり厳しかったと言えます。しかし、このころはまだ満州にいれば独立運動をすることができたんですが、やがてさらにひどい状況になります。それが満州事変です。

韓国の独立運動と再臨摂理PPT16-1

 すなわち、韓国国内では独立運動ができないので、「東辺道」と呼ばれる満州の一部に拠点を作って軍を組織していたわけですが、今度は日本がその満州を取ってしまったのです。1931年9月18日に満州事変が勃発し、1932年3月1日に日本は満州国の建国を宣言しました。日本が満州国を建ててそこを治めるようになれば、満州に拠点を構えていた独立運動はその基盤を失ってしまうのですが、まだ満州を取ったばかりの頃は、満州の中国人も日本に対して反感を持っているわけです。それで反満抗日連合軍が燎原の火のように燃え広がって、韓国独立団体はこれら不満を持っている中国人と連合して戦うことにしたのです。

 しかし、1932年には36万人いると見積もられていた反満抗日部隊は、日満軍警察の絶え間ない粛清作戦によって討ち減らされ、民族派の団体は比較的早期に壊滅し、代わって中国共産党に加入した朝鮮人パルチザンが登場するようになります。そのうちの一つが金日成部隊でありました。北満の韓国独立軍は1933年ごろ、南満の朝鮮革命軍は1938年の秋ごろに闘争を継続できなくなり、日韓併合後28年間続けられた民族主義者の武装闘争は終わりを告げることになりました。残ったのは何かと言えば、共産主義の運動だったわけです。

韓国の独立運動と再臨摂理PPT16-2

 この当たりで「キム・イルソン」が登場するわけでありますが、実は「キム・イルソン」を巡っては分からないことがたくさんあります。これが「キム・イルソン将軍」の伝説ということなんですが、韓国の成均館大学の教授で李命英博士という人が書いて有名になった著作に「金日成は四人いた」という本があります。これは、金日成であるとされている人物は数えると全部で四人いて、その人たちの功績を全部自分のものだと言って奪って、北朝鮮の主席になったのが後の「金日成」だということで、要するに本物の金日成は別人だったという話なんです。

 一番最初の「キム・イルソン将軍」の伝説は、かなり早い時代に存在していました。三・一運動が挫折する頃でありますから、1919年から20年ごろに、武装独立運動のシンボル的な存在として、「キム・イルソン将軍」の名が韓国人の間に広く深く伝承され始めました。イメージとしては、「白馬にまたがり、神出鬼没して日本軍を悩ましている名将が東満やシベリアで戦い続けている」という噂が、口伝えであったわけです。それでは後の北朝鮮の主席になった金日成がこのころ何歳だったかと言えば、まだ8歳~9歳くらいの子供だったわけです。ですから彼がこの伝説の「キム・イルソン将軍」であるということは、年齢からしてあり得ないわけですが、その伝説もすべて自分のものにしてしまったわけです。

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 では、この伝説の「キム・イルソン将軍」の正体は誰だったのでしょうか? さきほど説明した「新興武官学校」の教官の一人に、金光瑞(김광서)という人がいました。この人は1909年に東京に留学し、陸軍士官学校第23期生となりました。そして1911年5月に士官学校を卒業し、同年に任官します。ですから、一度は日本軍の軍人になるのです。ところが1919年にソウルに帰り、三・一独立運動を目前にした彼は、抗日独立運動への参加を決意し、国境を越え満州へ向かいました。そして、南満州の新興武官学校の教官となるのです。このときに、金擎天(김경천)という名前に改名しています。それが後に金日成(김일성)という名前に改名したわけです。写真が残っていまして、この人ですが、北朝鮮の金日成主席とは年齢も顔も全く違います。この人が「初代キム・イルソン」と言いますか、もともとの伝説の「キム・イルソン将軍」ではないかと言われています。

 まもなく金擎天は独立運動の舞台をシベリアに移しました。白馬に乗って独立闘争をしていたこと、「金将軍」と呼ばれていたことなどから、彼こそは金日成将軍伝説のモデルだったのではないか、とされています。もしこの金光瑞が1945年の解放の年まで生存していれば、そのとき57歳になっていたはずでした。しかし金光瑞は1942年に亡くなっています。

 日本の敗戦後、朝鮮半島の北部がソ連によって支配され、1945年10月14日に平壌で開催された「ソ連解放軍歓迎平壌市民大会」において、金日成が初めて朝鮮民衆の前にその姿を現したとき、多くの者が「若すぎる」と言って、彼が偽物であることを疑った、という話が残っています。当時の金日成は、まだ33歳だったのです。

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 これがそのときの写真でありますが、ソ連の高官が後ろにいて、「彼こそが伝説の金日成将軍である」と紹介されました。人々は「伝説の金日成将軍」を初老の男性であると想像していたのですが、ソ連の高官たちに紹介された金日成は33歳の青年であったので、「彼は偽者ではないか」という噂は当時からあったわけです。

 ここで疑問となるのは、どうしてわずか33歳の青年が一国の指導者になりえたのかということです。ほかに独立運動で活躍した共産主義者はいなかったのでしょうか? 実はいたのです。その代表的な3名を次回から紹介しますが、どうして彼らが北朝鮮の指導者になれなかったのかということも、あわせて説明します。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』113


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第113回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 第108回から元統一教会信者の信仰史の具体的な事例の分析に入り、元信者AとBの事例を扱ったが、今回から「三 学生信者 学生と統一教会」に入る。

 櫻井氏は統一教会の学生信者を「原理研究会の学生」と「地区教会の学生信者」に分け、両者の待遇や性格の違いを強調する。これは私にとって個人的に興味深いテーマである。私は「原理研究会の学生」の出身者であり、地区教会の学生信者という立場を経験したわけではないが、櫻井氏によって強いコントラストを施されて描かれたこの二つの立場は、いささか極端で、ステレオタオプ化されたものであると感じる。これが櫻井氏による意図的な差別化なのか、それともたまたまインタビューした学生信者の性格が極端だったのかは定かでないが、私は前者の可能性が高いと思っている。原理研究会と地区の学生部の間に文化の違いがあるのは事実であろう。しかし、原理研究会の学生と地区教会の学生信者の性格や待遇が、櫻井氏が強調するほど大きく異なっているわけではない。

 原理研究会の紹介の冒頭に、櫻井氏は文顕進氏の掲げる「核心的価値」(Core Values)の中身を紹介している。これは私が学生だった時代にはなかったものだが、2008年ごろには原理研究会の中で強調されていた価値観である。いまやその文顕進氏は統一教会(家庭連合)本体とは袂を分かっているので、一種の「隔世の感」を禁じ得ない。櫻井氏はこの内容に関して、「アメリカ流のポジティブシンキングをまとめたもので、特に統一教会の活動に即して語っているわけではない。ここだけ見れば青年にとっては非常に有益な心構えを教えているということになる」(p.336)と評論している。

 櫻井氏はファンダメンタリスト的なものよりもリベラルなものを好む傾向にあるので、文顕進氏のアプローチは肌に合うのかもしれない。もとより宗教の教えには普遍的な部分と個別的な部分があるが、リベラルな宗教の特徴は、個別的な部分を極力削ぎ落として普遍的な部分を強調するところにある。例えばキリスト教においては隣人愛などは普遍的な部分だが、十字架による贖罪などは極めて個別的な部分であろう。同じく統一教会の教えにも、「為に生きる」とか「家庭の価値」といったような普遍的な部分もあれば、「真の父母による血統転換」というような極めて個別的な部分もある。もし櫻井氏が統一教会の教えの普遍的な部分を正確にキャッチできたならば、同じように「ここだけ見れば人間にとって非常に有益な心構えを教えているということになる」というような評価を得ることも可能であろう。しかし、櫻井氏には統一教会の教えの個別的な部分があまりにも鼻について、普遍的な部分が見えなくなっているようだ。

 それに対して、文顕進氏の掲げる「核心的価値」(Core Values)の中身は普遍的な部分を前面に押し出しているため、櫻井氏から「青年にとっては非常に有益な心構え」という評価を得るに至った。今になって思うと、文顕進氏の抱えていた問題というのは、統一教会の教えの中から普遍的な部分のみを抽出して強調するあまり、個別的な部分を軽視し、アイデンティティーが希薄になってしまったことにあるのではないかと思われる。

 この「コアバリュー運動」について櫻井氏は、「正体を隠した勧誘だからサークルへの誘い込みには成功するし、ボランティア活動等への動員も一定程度の効果を上げている。しかし、文科系サークルから原理研究会への移行が必ずしもうまく進まず、サークルのメンバーは多いが、原理研究会は少数という状態が生じているらしい」(p.338)と評論している。これは原理研究会の元メンバーの証言に基づいたものであるから、客観的な状況分析として信用してよいかどうかは疑問だが、この「コアバリュー運動」が現在は継続されていないことから判断して、それほど成功した運動であるとも評価できない。

 これはリベラルなキリスト教の教派が社会に迎合するあまりキリスト教の本質を見失いやすい傾向にあるのとよく似ている。現代社会においては、概してリベラルな教派は教勢を伸ばしておらず、逆に個別性を強烈に主張する福音派や根本主義の教団の方が成長する傾向にある。リベラルな教団の方が一般社会に迎合しているから人気が出てもおかしくなさそうだが、実際はその逆なのである。宗教の中にある一般常識に通じるような普遍的価値観に共鳴したからといって、その人が宗教的回心に至るとは限らないのである。

 櫻井氏は、「原理研究会の活動は、年間を通した新人開拓と夏季・春季休暇におけるキャラバン(物品販売による信仰強化・資金調達)に分けられる。地区教会との違いは、大学の学事歴に従って活動がスケジュール化されていることと、日本の統一教会に割り当てられた資金調達のノルマが原理研究会には直接課せられないということである。そのために、原理研究会における信仰生活には、ある種体育会的で濃密な共同生活の楽しみがある。地区教会信者のように通教からホーム生活、献身、そして祝福へという一直線の信仰生活を求められるのではないために、卒業後に就職して通教者となるか、統一教会を離れるか、統一教会の献身者として全国大学連合原理研究会の業務に就くか、様々な道が選択可能である。」(p.338)という分析を行っている。これはおそらく原理研究会に所属していた元信者から聞き取った内容をそのまま記述しているのすぎないと思われるが、極めて限定された知識に基く偏った分析であると言える。一つひとつ検証してみよう。

 まず、原理研究会の活動が主に新入会員の勧誘と夏季・春季休暇の経済活動によってなりなっているというのはほぼあっている。しかし、大学の学事歴に従って活動がスケジュール化されるのは学生である以上は当たり前であり、これは地区教会に所属する学生でも同じことであろう。原理研究会における信仰生活には、ある種体育会的で濃密な共同生活の楽しみがあるというのは、私自身が経験したものであり、本当である。しかし、それは志を同じくする若者たちが共同生活をすれば必然的に生じるものであり、原理研究会にあって地区教会にないものではない。櫻井氏自身が地区教会の女性信者Aについても、「東京に出て心を許せる友達がなかなか得られなかったこともあり、同じ志を持った仲間と暮らせることが嬉しくて仕方なかった。」(p.326)と記述しているがように、これはどちらの組織でも共通して感じる喜びなのであり、ましてや資金調達のノルマがあるかないかなどということとは全く無関係である。

 日本統一教会の草創期には、多くの先輩たちが御旨のために大学を中退して活動に専念した歴史があり、それ故に「親泣かせ原理運動」などと批判されたが、少なくとも1980年代以降は学生は大学をちゃんと卒業することが推奨されるようになった。私の時代の原理研究会もそうであったし、それは地区教会の学生部でも変わらないであろう。どちらの組織においても大学生は少なくとも卒業するまでは「信仰的モラトリアム」を経験するのである。したがって、卒業後に信仰を続けるか辞めるか、就職して一般社会に出て信仰を続けるか、宗教活動に専従するか、じっくり考える時間があるのは何も原理研究会の学生に限らない。

 また、地区教会の信者が通教からホーム生活、献身、そして祝福へという一直線の信仰生活を求められるというのも間違いである。み言に対する反応の良い青年がそのような一直線に見えるコースを行くことがあるかも知れないが、実際には研修生の進路は人それぞれであり、組織の専従者になる人、仕事を継続しながら通教者にとどまる人、一般社会で働きながら祝福を受ける人、信仰を辞める人など、それぞれが自分の進路を自分で決めるのである。

 櫻井氏は、「原理研究会のメンバーには統一教会の次世代における指導者層になることが求められているために、勉学のゆとりが与えられている。核心的価値の教説もそうだが、社会事業や組織活動によって世界に貢献していくという意識が説かれ、エリート意識も強い」(p.339)として、エリート集団としての原理研究会の特殊性を強調する。しかし実際には、原理研究会のメンバーに勉学のゆとりが与えられているというのは怪しい。私の時代には、天の御旨をさておいて勉学に専念してよいなどという価値観はなく、むしろ睡眠時間や個人の時間を極力削って、御旨と勉学を両立することが理想と教えられていた。そして大学の勉強をしっかりやっていれば統一運動の次世代のリーダーになれるなどと考える者はおらず、むしろそのためには信仰の訓練をしっかりやらなければならないという考え方が強かった。私の時代の原理研究会にも、活動のために勉学をおろそかにして留年する大学生はいたのであり、地区教会の学生に比べて「勉学のゆとりが与えられていた」などといえば彼らは怒り出すであろう。

 原理研究会の学生には「未来の指導者たれ」という理想が語られていたため、エリート意識が強いというのはある程度当たっているかもしれない。しかしこれは、一流大学の出身者が持つある種共通の感覚であると言えるだろう。「男性学生が多いせいもあってノリは体育会、臨戦態勢の雰囲気がある」(p.339)という記述も、一部の男子学生から聞き出したことを一般化しているに過ぎない。

 これらは、櫻井氏のインタビューした原理研究会に所属していた元信者の経験が、櫻井氏の描いた悲惨な統一教会の信仰生活とかけ離れたものであったため、「これは特殊な組織における特殊な経験に過ぎない」「楽しい信仰生活は、原理研究会の学生時代にしか存在しない」という差別化を行い、統一教会全体の信仰生活に関する自らの主張が崩壊しないように予防線を張ったものであると解釈できる。しかし現実には、「楽しい信仰生活」は原理研究会にも地区教会にも存在するのである。

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韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ15


 先回は抗日武装組織としての「大韓独立軍」と「北路軍政署軍」を紹介し、その代表的な戦闘としての「鳳梧洞戦闘」と「青山里戦闘」を紹介しました。このように韓国人の武装集団が日本に対してかなり激しく抵抗したことは事実なんですが、その後に一つの不幸な事件が起こります。それが「自由市事件」と呼ばれるものです。

韓国の独立運動と再臨摂理PPT15-1

 「自由市」とは何であるかというと、ロシア語で「スヴォボードヌイ」という市がありそれは「自由な」という意味なので、朝鮮人はスヴォボードヌイを「自由市」と呼んでいました。そこで1921年にロシアの赤軍と朝鮮の独立軍が衝突して、朝鮮の独立軍が壊滅するという非常に悲劇的な事件が起きるわけです。この事件の経緯について説明しましょう。

 1920年10月の青山里戦闘の後、間島地域の朝鮮人武装組織は日本軍による掃討作戦に追われ、ロシアのスヴォボードヌイに移動しました。そこでロシアの赤軍とも連携して、体制を立て直そうと考えたということです。このロシアの「赤軍」とは何であるかというと、共産勢力のことです。当時はロシア革命の直後であり、共産主義の軍隊と、革命に反対して旧体制を守ろうとする軍隊が両方あったんです。旧体制を守ろうとする勢力を「白軍」と呼んで、共産主義側の軍隊を「赤軍」と呼んでいました。この赤軍と連携して、体制の立て直しと巻き返しを図ろうと、韓国の独立運動家たちは考えたわけです。

 しかし、主導権争いを巡って権力闘争が起こってしまい、朝鮮人武装勢力同士で対立するようになりました。そしてロシアの赤軍は朝鮮人武装勢力を武装解除しようとしましたが、朝鮮人武装勢力はこれに応じず抵抗しました。こうした中、1921年6月28日に赤軍と朝鮮人武装勢力の間で戦闘が起こりました。これによって朝鮮人武装勢力は多数の死者を出して、軍隊は壊滅してしまいました。これが概略ですが、なぜこうした不幸な事件が起こったのか、その背景を説明します。

 もともとレーニンの側には、韓国の独立軍を利用しようという意図がありました。これが「遠東革命軍の編成構想」と言われるものです。レーニンの世界革命構想は非常に雄大でした。レーニンは当時、上海臨政の国務総理で高麗共産党上海派を創党した李東輝に独立資金200万ルーブルの供与を密約して、一次金として60万ルーブルを渡していました。レーニン政府は近い将来、日本と戦争することを確信していたので、日・中・韓・蒙古等の革命青年、すなわち共産主義思想を吹き込まれた青年たちによる「国際遠東革命軍」の編成を計画していました。そして韓人部隊をその軍隊の主導勢力とするために、1920年7月に上海臨政の駐モスクワ代表であった韓馨権と以下のような要旨の協定を締結していたのです。
1.労農政府(ソビエト政府のこと)は、韓国独立運動を積極的に支援する。
2.韓国臨時政府は、暫定的に共産主義を採択する。
3.労農政府は、沿海州と満州各地の韓国独立軍がシベリアに結集して整訓することを歓迎し、必要な装備の供与と補給を負担する。
4.韓国独立軍は露領内においては赤軍司令官の指揮を受ける。

 これは、韓国独立運動がソビエトの参加に入るということを意味します。しかしこのとき、日本軍の間島出兵によって苦境に陥っていた抗日武装組織は、上海臨政から遠東革命軍の編成計画を通知されると、これに応じて北上することを決意するのです。

 金弘壹は後の光復軍総司令部参謀長を務めた人物でありますが、彼は「独立を成就するためには、一時的でもロシアの支援を受けるのはやむを得ないという説明を聞いて、シベリア行きを決心した」と回想しています。これにより、それまでバラバラであった民族主義の団体が統合され、「大韓国民軍団」と称し、兵力3500人で三個大隊に編成しました。そこに、高麗共産党イルクーツク派の軍隊「自由大隊」(1000余名)と、韓人パルチザンの「サハリン部隊」(約1000名)などが加わって、総人数が7000名以上に膨れ上がりました。抗日武装勢力が一つにまとまったのは良かったのですが、問題はこれらの部隊をいかに統合するかということでした。

 最大の勢力を持つ大韓独立軍は他団体を解散して軍団に吸収することを考えましたが、共産主義派はその逆を考えたのです。レーニンは韓国の独立のために遠東革命軍を構想したわけではなく、対日戦争のための革命軍の創設を期待していたので、イルクーツク派の将軍を長とする三人軍政委員会を組織させ、革命軍の編成を調整するために自由市に派遣しました。こうして三人軍政委員会による革命軍への改編が始まったのですが、各団体の主張は真っ向から対立しました。やがて主導権争いは血を見る激しさになっていきます。

 レーニンの指示を受けた三人軍政委員会は、最終的に諸団体の現幹部は放逐して、自由大隊(赤軍)に吸収する決定をくだしました。これに「サハリン部隊」が怒りだし、大韓独立軍を誘って自由市からの脱出を計画し始めました。そうした中で、1921年6月28日に自由市で赤軍と朝鮮人武装勢力の間で武力衝突が起こり、大韓独立軍の死者700名、負傷者数百名、伐採労働に連行されたもの1000余人を越える大惨事が発生したのです。民族派が初めて統合して創設した大韓独立軍団は、これによって壊滅的な打撃を受けたのです。これはあまりにも悲劇的な出来事でした。

 佐々木春隆氏は著書『韓国独立運動の研究』において、以下のように述べています。
「革命の歴史は、同床異夢で始まる。革命という大義のために小異を捨てて大同し、既成政権を打倒する。そして政権を握れば小異が吹き出して権力争いになり、粛清が始まる。最後に残ったものが革命の英雄である。フランス革命、ロシア革命、明治維新、中共革命などみなその軌を一にする。すなわち革命成功のポイントは、まず反体制派の大同団結にあることだけは疑いがなく、大同なくして革命が成功した例はないのである。けれども韓国の解放運動では、成功する前に排他運動や内輪の粛清が始まり、果ては同士討ちさえ演ぜられた。」(p.528)

 こうして、念願した抗日大武力育成の夢は水泡に帰す結果となります。すなわち、日本と戦う前に内紛によって大打撃を受け、バラバラになってしまったのです。この「自由市事件」の後にどうなったかと言えば、大韓独立軍団の各代表15人は自由市を離れ、公然と李東輝と決別し、「共産主義者はボルシェヴィキの傀儡であり、ボルシェヴィキは朝鮮独立軍を内乱に利用しているのであって、目的を達成すればお払い箱にするのが目に見えている」と非難しました。これはソ連の本音を鋭く見抜いていたと言えるでしょう。

 結局、独立運動に共産主義者が加入したことによって、運動の戦線は却って四分五裂してしまい、悲惨な状況となりました。「自由市事件」の生き残りは再び満州に移動して、活動を再開することになります。

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