書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』143


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第143回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第八章 韓国社会と統一教会」の続き

 中西氏は本章における「一 問題の所在」の「3 韓国における統一教会研究」において、先行研究について簡単に述べている。
「日本や欧米での統一教会研究は櫻井が第一章で述べている通りである。」(p.406)という一文で日本と欧米の先行研究に関しては櫻井氏に丸投げしたうえで、中西氏が自分のフィールドである韓国に関しては詳細に調査を行っているのかと言えば、そうでもなさそうである。もともと中西氏の専門領域は宗教ではなく、統一教会を研究するようになったのも韓国で偶然日本人信者と出会ったことがきっかけであったため、韓国における神学や宗教学の幅広いバックボーンがあったとも思えない。したがって、韓国における統一教会研究といっても通り一遍の紹介をしているに過ぎない。

 まず中西氏は「脱会者や現役信者に聞き取り調査をし、多面的に研究したものはない。しかし、統一教会を新宗教あるいは異端研究として実態を捉えた研究は数多く見られる」(p.406-7)としているが、これはいかにも日本的な視点からの分析だ。これを言うにはまず、韓国における宗教研究全体のマップを示し、それが教義・神学、歴史の研究を超えて、特定の宗教団体に対してフィールドワークに基づく社会学的研究を行うような例があるのかどうかを明らかにしなければ、日本との比較においてものを言ったことにはならないだろう。日本には客観主義に基づく宗教研究の伝統があり、「宗教と社会」学会のような宗教と社会をめぐるさまざまな問題に関心を持つ研究者の集まりが存在する。研究業績も豊富だ。韓国においてこれに該当する研究の伝統がないとすれば、そもそもあまり行われていない研究を統一教会に対してだけ求めることはできない。他方、韓国ではキリスト教の勢力が強いこともあって神学研究は盛んで、議論の中心が教義・神学の方面に偏ることは十分に予想可能である。これは櫻井氏にも言えることだか、「日韓の統一教会の違い」を強調するあまり、「統一教会を取り巻く日韓の社会状況の違い」という視点が欠落しているか、あえて無視しているように思えてならない。韓国における宗教学研究の概略を紹介することなく、このようなことを述べても無意味である。

 続いて中西氏は卓明煥を「最も精力的に研究を行った」人物として紹介している。
「彼の統一教会研究、『統一教、その実相――文教主説教集「マルスム」批判』(卓明煥 一九七八)や『改定版韓国の新興宗教 基督教編第一巻』(卓明煥 一九九二)は、韓国における統一教会の実態についての非常に詳細な研究である」(p.407)と持ち上げているのである。

 しかし、この卓明煥氏は1978年に前者の本を出したのちに、その内容に誤りがあったことを認めたうえで、1979年9月10日付で「統一教会に対する謝罪文」を発表している「いわくつき」の人物である。その内容や背景に関しては以下のサイトで詳細を読むことができるが、念のために謝罪文そのものは転記しておくことにする。
http://ucqa.jp/archives/765

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統一教会に対する謝罪文  -卓 明煥-

 本人は多年の間、新興宗教問題研究所を運営してきながら、統一教会に対し、出版物(統一教、その実相)、スライド(これが統一教だ)、講演会、記者会見等を通して、統一教会が、非倫理的集団、政治集団、新型共産主義、邪教集団であると批判してきました。
 しかし、本人に批判の資料を提供した一部の統一教会離脱者たちが、最近、名誉棄損等、犯罪嫌疑で拘束起訴されたのを契機として、新しい角度から、広範囲な資料を収集、総合検討した結果、本人が統一教会に対し批判した内容中、事実でない部分があることを確認、次のように訂正釈明します。

 1、非倫理的な集団問題
 本人は、統一教会の創始者、文鮮明氏が一九五五年七月四日社会風紀紊乱嫌疑で、拘束起訴されたものと知って、統一教会を非倫理的、淫乱集団と断定、批判してきたところ、調査の結果、当時の事件は兵役法違反嫌疑で起訴されたが、同年十月四日宣告公判において無罪で釈放されたのを知るようになりました。
 これ以外、統一教会をめぐって、問題とされてきた淫乱集団うんぬんは、その根拠がないものと確認、ここに訂正します。

 2、政治集団問題
本人は、この間、統一教会を政治集団と規定、批判してきたが、これは事実ではないことが明らかにされたので、ここに訂正します。

 3、新型共産主義の問題
 本人は統一教会を、新型共産主義集団であると批判してきたが、これは事実でなかったので、ここに釈明します。
 以上、三つの項目以外に、一部の統一教会離脱者たちが提供した資料に、多くの間違いがあり、本人が統一教会を否定的に批判することによって、統一教会に被害を与えてきたことに対して、深甚なる謝罪の意を表し、今後は再びこのようなことをしないことを確約いたします。
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 以上である。この謝罪文は1979年9月10日付朝鮮日報と韓国日報、9月11日付、ソウル新聞二只郷新聞、東亜日報、新亜日報に載せられている。このように一度は非を認めながらも、卓明煥氏は懲りなかったようで、その後も統一教会に対する悪辣な批判を継続したようである。このような人物の著作を、「韓国における統一教会の実態についての非常に詳細な研究である」(p.407)と持ち上げる中西氏は、文献や人物の裏取りが甘いのではないだろうか。あるいは、こうした謝罪文の存在を意図的に隠ぺいしたのだろうか。

 そのほかの「統一教会の実態」について書かれた著作に関して中西氏は、キリスト教関連の書籍の「異端コーナー」に並んでいると紹介している。代表的な二作が以下である。
・イ・デボク『統一教原理批判と文鮮明の正体』(イ・デボク 1999)
・朴焌鉄『奪われた30年、失った30年――文鮮明統一教集団の正体を暴く』(朴焌鉄 2000)

 この二つは、タイトルを見てもキリスト教信仰に基づいて統一教会を異端として断罪することを目的として書かれたものであり、「統一教会の実態」を紹介した本というよりは、神学論争の類であることがことが明らかであろう。これは韓国における統一教会に関する書物の多くが、宗教的な動機と関心で書かれたものであることを示している。こうした特定の宗教的・イデオロギー的バイアスのかかった批判書は、客観主義に基づく価値中立的な宗教研究とは相容れない神学論争である。中西氏は、「日本で見られるような反統一教会の立場にある弁護士や元信者などによる批判的な書物や、脱会信者、現役信者に聞き取り調査をし、社会学的視点から分析を試みるような研究は見られない。」(p.407)と述べるが、そもそも日本にあるものを韓国に求めること自体が見当違いであることに中西氏は気付いていないようだ。

 実はこの結果は、第Ⅰ部第5章の「日本と韓国における統一教会報道」において櫻井氏が行った比較の結果と符合している。それは、日本の朝日新聞と韓国の朝鮮日報における統一教会関連の記事を検索することを通して、統一教会の活動が両国のマスメディアによってどのように報道されてきたかを分析したものだ。櫻井氏が注目しているのは、日本における統一教会報道が「家庭の破壊」や「洗脳」といった社会問題として扱われているのに対して、韓国における統一教会問題は「異端の教えを信じた」という宗教問題として扱われている点である。彼は全般的な傾向として、「日本の統一教会問題とは社会問題であるのに対して、韓国では宗教問題にとどまる」(p.170)としている。この新聞の記事検索を先行研究の著作に置き換えれば、まったく同じ構図になる。

 櫻井氏は、こうしたのマスコミ報道の違いは、日本と韓国における宣教戦略の違いに起因していると主張したが、私はむしろ、日韓における統一教会の相違というよりは、両国のメディアの宗教に対する態度や考え方に起因するのではないかと批判した。(本シリーズ第45回)

 実は、日本でも宗教的動機に基づくキリスト教側からの批判書は多数出版されている。反対するキリスト教牧師がいるという点では日本も韓国も同じである。しかし、日本のキリスト教はマイナーであるのに対して、韓国のキリスト教はメディアに対す影響力がある。キリスト教以外の反対勢力が日本には多いため、教義・神学に基づく批判書以外に社会的な視点からの批判書が日本には多く、こうしたものが韓国に少ないのも事実であろう。両国において不足しているのは、むしろ客観主義に基づく価値中立的な宗教研究である。このような日韓の差異の原因は、日本と韓国における統一教会に対する反対勢力のより詳細な分析から導き出されなければならないが、この点に関しては後日改めて論じることにする。

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ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳64


第7章 分析と発見(7)

 統一運動をその制限された官僚制度および神の真の家庭としての宗教共同体の神学的強調という両方の側面から調べるとき、それが上記の献身構造をどのように効果的に実施できるのかを理解することができるであろう。

 例えば、統一運動は犠牲と投入を奨励することができるのは、ヒエラルキーが比較的「目に見えない」ことがメンバーに対して、グループを代表しての彼らの努力は、その目標を実現するためには絶対的に必要であることを示唆するからである。さらに、リーダーたちは官僚機構の幹部ではなく、統一運動のために大きな個人的犠牲をかつて払い、そしていまも払い続けている「年長の」(年齢的におよび霊的に)兄弟姉妹であるとみなされているのである。彼らもまた三年間の独身生活に耐え、神のみ旨を実現するために、頻繁で痛みを伴う配偶者や子供たちとの別居を経験してきたのである。

 二つ目の事例は、「最上部で」なされた重要な決定に対するメンバーの反応にとって、制限された官僚制度が持つ価値を明確に示している。1979年に、文師はグループの結婚に対するアプローチにおける基本的な構造変化に着手した。それ以前には、メンバーたちは最初にマッチングされ、(ほとんど間髪を入れずに)祝福され、続いてカップルが夫婦として一緒に住むことができるようになるまで、長期にわたる別居期間が来る。新しい順番はマッチングと祝福の間に、聖別・約婚期間の3年間を置いた。メンバーたちは全般にこの変化を、賢明で愛に満ち、神を中心とするお父様によるご自身の家族の幸福に対する配慮を表現したものであると理解した。彼らは常に私に対して、この変更には「深い摂理的意味」があるのだとと断言した。(注39)大部分において、彼らはこの変化が非常に実際的なやり方で結婚のプロセスをグループ内においてより実行可能なものにする可能性に気付いてさえいなかった。私のような部外者にとってはこの変化が、その摂理的な意味がどうであれ、新しい順序が聖別・約婚期間に「ミスマッチ」を解消する余地を残しているという点において、非常に実際的な動きを示していることは一目瞭然であった。それはまた、より広いアメリカ社会に幾分近いパターンを確立した。人は「巨大な」官僚機構に参加する者は意思決定を実践的で良識的なものとして理解することを期待するかもしれないが、統一教会の信者たちは、神を中心とする共同体に焦点を合わせているため、霊的で家族的なカテゴリーのヒエラルキーから変化を解釈するのも、もっともなことである。

 上述の分析は以下のことを示している。(1)カンターが成功した19世紀のユートピアにおいて有効であることを発見した献身メカニズムの多くは、統一運動の性と結婚に対するアプローチにおいても機能している。(2)統一運動はこれらのメカニズムの実行を促進するようなやり方で組織されている。したがって、組織構造のレベルにおいては、性と結婚は統一運動における献身を強化し維持する働きをしているように見える。祝福家庭たちがより従来型の結婚と家庭のあり方に定着するようになった場合、またはその時には、彼らがより伝統的な家事に関心を持つようになることにより、彼らの共同体に対する献身のレベルは低下すると仮定するのが当然であると思われる。よって、このグループが将来において結婚と家庭生活をどのように構造化していくかは、統一運動が21世紀に生き残ることができるかどうかを決定するであろう、非常に重要な事柄なのである。(注40)

 したがって、組織構造は統一運動における性と結婚が献身を維持する上でどのように機能しているかを理解する上で非常に重要である。しかし、グループの生活のこの側面を草の根レベルのメンバーたちの態度や実践という立場から見ることもまた重要である。よりふさわしい名称がないため、われわれはこの第二の分析レベルを「現象学的」と呼ぶことにする。ここでの基本的な意図は、ピーター・バーガーとハンスフライド・ケルナーが都会の中産階級の西洋社会における結婚に、知識の社会学を挑発的なやり方で適用したのと似たような路線のデータを分析することにある。(注41)私は彼らの方法論的な原則には厳密に従うつもりだが、結果は統一運動と西洋社会における結婚の間の著しい対象を示すであろう。また、私の分析の範囲は必然的にバーガーとケルナーのそれよりも大きくなり、統一運動における生活の結婚前と結婚後の現実を包括するものとなる。

 ウェーバーの意味のネットワークとしての社会の概念、ジョージ・ハーバート・ミードの社会現象としてのアイデンティティーの見解、およびシュッツの社会的構成概念としての現実の視点を組み合わせることにより、バーガーとケルナーは結婚がいかに西洋世界において不可欠な「規範構築の手段」、すなわち「個人がその中で自分の人生を意味あるものとして経験できるような秩序を創造する社会的仕組み」として機能しているかを記述している。(注42)彼らの論旨を表現した言葉によれば、
「・・・われわれは結婚が、われわれの社会における成人の関係を認証するものとしては、特権的地位を占めていると強く主張する。少し違った表現をすれば、結婚は私たちの社会における極めて重要な規範的手段である。われわれはさらに、この事実が認識されなければ、この制度が持つ本質的な社会学的機能を完全に理解することはできないと論じる。」(注43)

 次に著者は、それに含まれる不可欠の特徴を抽出することにより、結婚の「理想型」分析を展開する方向に進む。結婚はわれわれの社会に残っている数少ない通過儀礼の一つであるが、彼らはその特徴を以下のように記述している。
「・・・二人の他人が一つになって彼ら自身を再定義する劇的な行為である。この行為のドラマは、個人の経歴においてそれが起きるはるか前に内面において期待され、社会的に正当化され、浸透している思想によって増幅される。その主要なテーマ(恋愛、性的充足、自己発見、愛と性を通しての自己実現、これらのプロセスの社会的場所としての核家族)は、われわれの社会のあらゆる階層のすべてにおいて発見することができる。(注44)

(注39)彼らはその意味が何であるか分からなかったので、単純にお父様の判断を信頼したのである。
(注40)文師とその他の主要リーダーは結婚と家庭構造が運動の未来にとっていかに重要であるかに気付いているように見える。数年間にわたって祝福家庭を定着させるという話があったが、いまだにそれが何を意味するかに関する最終的な発言はなく、「定着」は結婚後の別居の終わりを意味するであろうという満場一致の思い込みがあるだけである。3カップルが同じ場所に一緒に住む「三位基台」と呼ばれるものについて語られることがときどきあるが、このアイデアは公式プランの位置づけを与えられてはいない。
(注41)バーガーとケルナー『結婚と現実の構築・・・』pp. 49-72。
(注42)前掲書、p. 50。
(注43)前掲書、p. 53。
(注44)前掲書、pp. 53-54。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』142


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第142回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第八章 韓国社会と統一教会」

 中西氏は自分が担当する第8章から第10章までの構成を概略で述べた後に、調査の経緯についてかなり詳しくいきさつを語っている。
「筆者が大学院博士課程のとき所属ゼミで『家族意識と高齢者問題に関する国際比較研究――韓国・タイ・日本』という調査を行うことになり、韓国を担当することになった。韓国の農村部に行ったことがなかったので、1996年12月、韓国の大学で教員をしている知人に協力を依頼し、調査地として候補に挙げてくれたA郡の2、3のマウル(ムラ)を一緒に回った。その時訪れたPマウルで、高齢の韓国人女性に『うちに日本人がいるからおいで』と声をかけられた。『こんな田舎に日本人が?』と半信半疑でついて行くと、赤ちゃんを抱いた若い日本人女性(G)がいた。話を聞くと統一教会の合同結婚式で結婚したと教えてくれた。日本人が住んでいそうにない農村で日本人女性に会ったこと自体驚きであったが、『合同結婚式で結婚した』と聞いて信じられない思いであった。少し立ち話をして名前と住所を聞いて村をあとにした。」(p.405)

 これが最初のきっかけである。要するに最初から統一教会の日本人妻を調べようと思って韓国を訪れたわけではなく、別の調査目的で行ったときに偶然出会ったということである。中西尋子氏は私と同じ1964年生まれだ。1996年であればこの調査をしていたときは32歳になっていたことになる。大学院博士課程の学生としては高齢である。もっとも、私自身も1997年に東京大学大学院の宗教学専攻を受験しており、通常より10年遅れて大学院で宗教学を勉強しようと試みたわけであるから、人のことは言えない。彼女の経歴にもいろいろと紆余曲折があったのだろう。私が問題にしているのはそのことではなく、中西氏と韓国に嫁いだ日本人女性の年齢の関係である。

 二世でない限り、祝福を受けて訪韓し、韓国で家庭を持っている女性信徒であれば30代以降である可能性が高い。赤ちゃんを抱いた若い日本人女性であればまだ家庭をもって間もない頃である可能性が高く、20代後半から30代前半くらいであろう。この年齢は当時の中西氏と同世代の女性というイメージになる。中西氏が『宗教と社会』第10号(2004年)に寄稿した「『地上天国』建設のための結婚ーある新宗教教団における集団結婚式参加者への聞き取り調査からー」という論文では、「聞き取りをした日本人女性たちの生年は、1956年から1978年である」(p.55)と明かされているが、これは中西氏から見れば8歳年上から14歳年下までを含んでいる。それほど大きな年齢の乖離はない。インタビューされる方としても、同世代の女性研究者ということであればあまり警戒感を感じることなく話ができた可能性が高い。しかも彼女は初めから統一教会について調べてやろうとか、実態を暴露してやろうという動機を持っていたわけではないので、自然な形で統一教会の現役信者に接することができた。このことが韓国に渡った日本人女性信者の実態を知る上では有利に働いたと見ることができる。

 中西氏は、統一教会信者に出会ってすぐに調査を始めたわけではない、「やはり統一教会を調査するにはためらいがあった」(p.405)というのがその理由である。要するに、世間的評判の良くない宗教について調査することに対する不安や恐ろしさ、それを発表した際の学会や世間の反応などが気になって、すぐに取り組む勇気がなかったということなのだろう。少なくとも、世間が何と言おうと学問的真実を追求し、それを曲げずに発表するという信念はあまり感じない。このあたりに、あまり思想性のない平凡な研究者としての中西氏の人物像がうかがえるが、これは中西氏の専門領域のとの「ずれ」も関わっているのであろう。家族や高齢化の国際比較を中心的なフィールドとしていた彼女にとっては、直接宗教の問題に触れていくのはやはり新しい領域の開拓であり、ましてやそれまで取り立てて統一教会に深い関心を持っていたわけではない彼女にとっては、「手に余る相手」と感じられたのかもしれない。結果的に調査を始めたのは、最初の出会いから5年後だった。これは2001年ということになり、中西氏は37歳になっていたことになる。

 中西氏は、最初に出会ったHやGに連絡を取り、「日曜日の礼拝に誘われて行ってみると、何人もの日本人女性達がいた。以後毎年A郡を訪れ、聞き取り調査を続けた。」(p.405)という。中西氏は、自分がHやGに出会ったのは偶然であることを前置きしたうえで、自分の研究目的について、「日本では統一教会の信者はマインドコントロールされて入信したと言われるが、実際に会ってみると、それだけではないように感じる。統一教会との出会いから現在に至るまでの経緯を聞かせてほしい。」(p.406)と説明したそうだ。この説明自体は、その時点における中西氏の偽らざる動機であったと思われる。

 中西氏の調査依頼は、当の日本人女性たちからも、韓国の牧師たちからもさして警戒されることなく受け入れられた。「調査に教団が介入し、調査対象を紹介、推薦するようなことは一切なかった」(p.406)ことから、偶然の出会いと人脈による紹介に依拠した自然体の調査だったと言えるだろう。この点は教団から全信徒の名簿を入手し、ランダム・サンプリングを行って調査をしたアイリーン・バーカー博士とは全く異なる研究手法であるが、少なくとも教団側がインタビューさせたい対象だけに絞られるといった「情報統制」がまったくない状態で行われた調査であるため、地域限定とはいえ、客観的な情報源を確保できていると見てよいであろう。

 中西氏は、「第6章で櫻井は社会問題化している教団は正面から正攻法で調査できない場合が多いと指摘しているが、筆者が現役信者を調査できたのは、教団を介さずに偶然の出会いで信者と接触できたこと、またその出会いが日本ではなく韓国であったことによるのだろう」(p.406)と述べている。私はこの見解には必ずしも同意しない。批判的研究を最初から目的とした調査依頼に教団が協力しないのは当然であろう。客観的で価値中立的な研究を教団本部の協力を得てやりたいのであれば、かつてアイリーン・バーカー博士がやったように、その旨を誠意をもって丁寧に説明すればよい。偶然による出会いから信徒に直接インタビューするというやり方も、サンプリングの問題は残るとしても、より実現可能性の高い研究としては悪くないだろう。しかし、それが韓国でのみ可能であって、日本では難しいという理由はない。

 中西氏が述べる如く、「韓国では統一教会が日本ほど問題視されていない」(p.406)ので調査者を警戒しないということは、程度問題としてはあるかもしれない。しかし、日本において偶然出会った末端信徒のすべてが警戒心に満ちていて、調査に協力してくれないという根拠は一切示されていない。そのようなことに挑戦してみたという形跡すらない。要は日本では難しいが韓国では可能だったということではなく、偶然韓国でやってみたらできただけの話であり、日本ではやってみもしなかったということである。そこには比較は成り立たない。

 私は日本にも、偶然の出会いから社会学的調査に協力してくれる統一教会の信者は一定数いると思っているし、その情報から客観的で中立的な研究を行うことは可能だと思っている。それは日本の末端信者の中には、マスコミの偏向報道によって統一教会信者の実像は世間に正しく伝えられておらず、もし良心的な学者がその役割をしてくれるなら協力したいと思っている者が一定数いると思われるからだ。しかし、彼らの声を拾い上げようとした調査者はいないのである。

 中西氏が韓国に嫁いだ日本人女性から快く調査協力を受けることができた主な理由は、彼女たちと仲良くなり、信頼関係を築いたからであると言える。そして中西氏が『宗教と社会』第10号(2004年)に寄稿した「『地上天国』建設のための結婚ーある新宗教教団における集団結婚式参加者への聞き取り調査からー」の内容を見る限りでは、彼女たちの現実に対する不当な歪曲は見られず、その主観的な宗教観、結婚観に対する一定の理解が示されている。この時点では信頼関係は傷付いてはいなかったであろう。しかし、その後中西氏の研究は統一教会反対派の攻撃を受けることとなり、その圧力に屈した彼女は反統一教会勢力に利用されることになる。

 そして2010年に発売された「週刊ポスト」(6月4日号)に掲載された「〈衝撃リポート〉北海道大学教授らの徹底調査で判明した戦慄の真実」「韓国農民にあてがわれた統一教会・合同結婚式 日本人妻の『SEX地獄』」という記事の内容に中西氏の提供した情報が利用されたとき、韓国に嫁いだ日本人女性と中西氏の間に築かれた信頼関係は崩壊することとなる。この下品な記事の内容が中西氏の本位でなかったことは想像に難くない。しかし、裁判の場において、週刊ポスト側は櫻井氏および中西氏に対しては原稿を送信して確認を受けていることが明らかになっている以上、中西氏が責任を免れることはできないであろう。仮にも祝福家庭婦人と実際に出会い、事実を知っている彼女が、あのような虚構と歪曲に満ちた記事を世間に流布することに自分が加担してしまったことに対して良心の呵責を感じないとすれば、学者として、そして同じ女性としての人間性を疑う。それは一つの裏切りであった。

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ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳63


第7章 分析と発見(6)

 平均的な統一教会信者にとっては、家族としての生活とそれに伴うすべての受容、暖かさ、安心感があまりに主要な関心事であるため、彼らは統一運動の権力構造に対してはほとんど意味を見出さない。また彼らは一般的に、ヒエラルキーの性質、国家及び州レベルにおけるその機能と、その決定の多くの健全性について決してよく知っているわけではないであろう。この件に関する私の観察は、ジェームズ・ベックフォードの英国における統一運動に関する報告と一致する。
「イギリスにおける統一家族のメンバーは通常、世界的な運動の組織構造については非常に貧弱な知識しかもっていないし、自国における職員と権威の分布に関しても非常にぼんやりとした理解しかしていない。確かに、統一家族のリーダーたちはこの組織の骨格構造を偽装し、その公的な重要性を軽視するために苦心している。彼らはグループ内におけるあらゆる関係は個人的で、暖かく、いかなるヒエラルキー的な意味における構造も持たないという見解を広めるのを好む。したがって、『一体感』がグループのイデオロギーにおいて鍵となる構成要素なのだが、実際には権力と権威の配分における明確な差別化という現実を隠しているのである。」(注33)

 私の分析にとっては、この時点で統一運動の官僚制度の性質、特にさまざまな献身のメカニズムを実行する能力に関連する側面について記述することは不可欠である。以下の表は、アメリカにおける統一運動の概略である。

第7章(6)の図

 ブロムリーとシュウプは、彼らの資源動員理論の視点からの統一運動の研究に基づき、その組織形態を「制限された官僚制度」と特徴づけた。それは、その性質そのものにより、本当に重要なのは信仰者の共同体であるという平均的メンバーの考えを強化する傾向にある。(注34)この著者らは、理想的社会を築く方法に関する文師の継続的な啓示のゆえに、いかなる統一運動の職務であろうと取り下げられたり、新しい一連の優先事項に取って代わられたりするか分からないと記している。さらに、いかなる個人も組織上の地位を3年以上にわたって占有することを許されていない。またさまざまな地位のリーダーたちが、統一運動の日刊紙であるニューズワールドの編集者がニューヨーク市の街角で新聞を売ったりするように、最前線の活動に参加するためにしばしばその公式的役割から降りている。(注35)最後に、統一運動の官僚制度は非常に少ない永続的スタッフによって機能しており、(注36)これが構造的成長の初期の官僚主義的傾向と、機能の明確化が進むことによる差別化と闘う組織の能力の主要な要因となっている。
「統一運動は最小限の永続的スタッフを維持し、・・・そして特定の仕事にマンパワーを提供し、永続的なスタッフによって緩やかな監督を受ける一時的な特別委員会を作ることによって、この流れに抵抗した。そのような委員会のメンバーは統一運動のいかなる部局からも引っ張ってくることが可能であろう。・・・このようにして、プロジェクトは実行可能であり、彼らをコーディネイトする少数の永続的なコアスタッフのみによって資源は動員されるのである。」(注37)

 国家会長の事務所は主として行政的役割があり、統一運動の事業と宗教的な事柄を運営しているとみられる。一方で文自身と影響力のある彼の長老会議は支持を与え、グループの重要な政策決定を行う。このカリスマ的指導者と長老たちは、メンバーたちからは神の啓示の伝達者であるとみなされており、官僚組織の一部であるとはみなされていない。これらの先人たちが韓国における統一運動の草創期にいかに戦い、苦労し、そして最終的に勝利したかに関する伝承的な物語は、平均的なメンバーが自分自身を彼らと重ね合わせる能力を高める傾向にある。

 統一運動の制限された官僚制度がこの研究に対して持つ意義は、それが階層構造としては比較的見えにくいことにある。永続的なスタッフが少数であることにより、資金調達と伝道のほかに統一運動のためになさなければならない多くの仕事はメンバーたちの犠牲的な努力によってなされなければならない。さらに、リーダーたちがしばしば非公式的な役割を担うことにより、彼らは最前線で同僚たちと隣り合わせになることとなる。そして最後に、「上から」くる決定はほとんど常に解釈されるが、それは実用的で堅実なものではなく、本質的に霊的で摂理的なものである。

 組織的にみて、そのような「控えめな」ヒエラルキーは、運動のために二つのことを実現している。それは、グループが官僚主義的な成長と硬化をほとんど伴わずに多くの必要な仕事を成し遂げることを可能にし、メンバーたちの間に、統一運動がそうであると主張しているもの、すなわち、神を中心とした家族であるという考えを永続させる働きをする。献身の問題に特に関係があるのはこの後者の機能である。なぜなら、私が明らかにしたメカニズムは、メンバーたちが強い親族意識とお互いの同一性の感覚を持っているグループにおいてのみ、よく機能するようなものだからである。これらの固有のメカニズムが、ものみの塔聖書冊子協会のような、権威構造が階層的で非常に可視的で硬直しており、メンバーと信者たちの関係が普通は法律尊重主義的で形式的なやり方で営まれる組織において、首尾よく実行されるというようなことはほとんどありそうもない。
「証人たちの『横的な』関係は、権威関係の著しく『縦的な』次元に、意図的に従属させられている。ものみの塔運動は、・・・その形式においては『大衆』組織のそれに非常に近い」(注38)

(注33)ベックフォード『セクト組織の二つの対照的なタイプ』p. 77。
(注34)ブロムリーとシュウプ『アメリカにおけるムーニー』 pp. 135-138。
(注35)前掲書、p. 190。
(注36)「1978年の夏の時点で、全国本部には二十数名以下の永続的スタッフしかいなかった。」 (前掲書、p. 136)。
(注37)前掲書
(注38)ベックフォード『セクト組織の二つの対照的なタイプ』p. 75。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』141


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第141回目である。先回で櫻井義秀氏が執筆を担当した第Ⅰ部と第Ⅱ部に対する検証が終わり、今回から中西尋子氏が執筆を担当した第Ⅲ部に入ることになる。実は、櫻井氏と中西氏には共通点がある。それは初期の段階では統一教会に対する客観的で中立的な論文を書いていたにもかかわらず、それが統一教会をあまりにも肯定的に評価していると反対派から批判され、その圧力に屈服して批判的な論調に転向したという点である。

 既に紹介したように、櫻井氏は1996年に北海道大学の雑誌の中の『オウム真理教現象の記述を巡る一考察』という論文の中で、西田公昭氏の「マインド・コントロール理論」の問題点を次のように鋭く指摘していた。「騙されたと自らが語ることで、マインド・コントロールは意図せずに自らの自律性、自己責任の倫理の破壊に手を貸す恐れがある。…自我を守るか、自我を超えたものを取るかの内面的葛藤の結果、いかなる決断をしたにせよ、その帰結は選択したものの責任として引き受けなければならない。…そのような覚悟を、信じるという行為の重みとして信仰者には自覚されるべきであろう」。

 要するに、「マインド・コントロール」とは責任転嫁の論理であることを櫻井氏は指摘したのである。しかしながら、後に彼は統一教会を反対する立場に転向する。櫻井氏が豹変した背景には、この論文が統一教会を相手取った民事訴訟である「青春を返せ」裁判の際に、被告側弁護団によって引用されたことがある。それが原因で、原告側弁護団から「あなたの論文が『統一教会』擁護に使われているが、それを承知で『マインド・コントロール論』の批判をされたのか」と糾弾されてしまったのである。さらに、元ジャーナリストの藤田庄市氏からは「統一教会の犠牲者たちをうしろから切りつける役割をあんたはやったんだよ」と忠告されたのである。これらの様子は岩波講座の『宗教への視座』という本の中に書いてある。

 櫻井氏は、自分の書いた「マインド・コントロール」批判の論文が、まさか統一教会を擁護するために使われるとは思っていなかったようで、彼のホームページの中に以下のような表現があった。「『マインド・コントロール』論争と裁判−『強制的説得』と『不法行為責任』をめぐって」というタイトルのもと、「2000年12月5日、札幌地裁の上記公判において、教会側証人として、『カルト』『マインド・コントロール』問題の専門家として魚谷俊輔氏が出廷した。…証言において、あろうことか、筆者の『マインド・コントロール論』批判の論文を引用されたが、主旨を取り違えていたように思われた。筆者の意に反して、筆者の1996年の論文は『統一教会』側が『マインド・コントロール論』を否定する際に、日本の研究者による証拠資料として提出された。だから私はこれと闘わなければならない」と述べている。

 結局、櫻井氏は最初は「マインド・コントロール論」に対して批判的だったものの、「青春を返せ」裁判の原告側弁護士による圧力に屈してしまい、統一教会を批判する代表的な学者になってしまったのである。本書『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』はその集大成と言える作品だが、その共同執筆者に選ばれた中西尋子氏も、最初は統一教会に対して好意的な人物だったにもかかわらず、同じようなパターンで豹変した人物である。

 中西氏は韓国で研究していたのだが、そこで偶然田舎にお嫁に行った祝福家庭の日本人女性に出会った。そして、彼女はその祝福家庭の婦人に好感を持ち、その後礼拝に参加したり、婦人にインタビューをしながら研究を続けていた。しかし、あるきっかけから彼女も櫻井氏と同じように統一教会に反対する立場に立つようになった。実はそのことは、米本和広氏の著書『われらの不快な隣人』の中に、以下のように書かれている。「宗教社会学者の中西尋子が、『宗教と社会』学会で、<『地上天国』建設のための結婚−ある新宗教団体における集団結婚式参加者への聞き取り調査から>というテーマの研究発表を行なった。…その会合に出席にしていた『全国弁連』の東京と関西の弁護士が詰問した。『霊感商法をどう認識しているのか』『(日本の)統一教会を結果として利するような論文を発表していいのか』。出席者によれば、『中西さんはボコボコにされた』という」。つまり、彼女は弁護士たちに徹底的に糾弾され、結局はその圧力に屈して、櫻井氏と一緒に本を書くことになったのである。このように、いまの日本の宗教学界では少しでも統一教会に有利なことを書こうとすると、たとえその内容が客観的で中立的なものであったとしても、統一教会に反対する人たちから圧力がかけられてしまうのである。

 中西氏のこうした事実関係を背景として、個々の内容の分析に入ることにする。「第8章 韓国社会と統一教会」の冒頭部分で彼女は以下のように書いている。
「第6章、7章は信仰をやめて統一教会を脱会した元信者が調査対象だったのに対し、第8章から10章は信仰を続ける現役信者が対象である。」(p.403)

 この部分は、本全体の客観性や公平性を担保するために中西氏の研究が位置づけられていることを物語っている。これまで再三述べてきたように、櫻井氏の研究は脱会した元信者の証言に依拠した研究であり、一宗教団体の信仰のあり方について研究しているにもかかわらず、現役信者に対する聞き取り調査を全く行っていない。これではいくらなんでもサンプリングが偏っているというそしりを免れないので、もともと全く別の研究をしていた中西氏を共同研究者として巻き込んで、「現役信者の証言も聞いていますよ」というアリバイを作るために、彼女の調査結果を利用したということだ。しかし、本書における現役信者と元信者を比較する彼女の記述は奇妙な論理になっている。
「脱会する信者がいる一方で、現役信者が信仰を保ち続けていられるのはなぜかが問題となる。」(p.403)

 この書き方には、「普通の人であれば統一教会を脱会して当然であるにもかかわらず、現役信者として信じている奇特な人々がいる。どうして信じ続けることができるのか、その理由を解明しなければならない。」というニュアンスが込められている。普通の宗教団体に対しては、このような書き方はしないであろう。「現役信者として信仰を保ち続けている者たちがいる一方で、脱会する信者がいるのはなぜかが問題となる。」と書くのが普通である。現存する宗教団体に現役信者がいるのは「当たり前」である。その中で、信仰を続けられなくなる人が出てくるのであって、その事情を分析することを通して、人が信仰を棄てる理由について考察するのが通常のアプローチであろう。しかしここでは、辞めるのが当たり前であるのに、統一教会のような宗教をどうして信じることができるのか、というバイアスがかかった表現になってしまっているのである。中西氏は続けて以下のように述べる。
「調査対象は祝福により韓国人の配偶者を得て韓国に暮らす日本人信者である。脱会信者と現役信者の対比ならば日本にいる現役信者を対象としてもいいのだが、おそらく日本で現役信者を調査しようとしても困難だったのではないかと推察される。問題視される教団だけに正攻法で調査ができたのかどうか、できたとしても逆にデータの信憑性が問われかねない。」(p.403)

 これは完全な後付けの説明であり、「おそらく」とか「ではないかと推察される」などといった自信のない表現からも分かるように、挑戦してみることさえしなかった事柄に対する勝手な想像にすぎない。中西氏自身が調査の経緯について説明しているように、彼女は最初から在韓の日本人統一教会信者を調査しようと思っていたわけではなく、家族意識と高齢者問題に関する国際比較研究のために韓国の農村を訪れていたときに、そこで偶然に統一教会の信仰を持つ日本人女性に出会い、そこで得た知見を論文で発表したに過ぎない。ましてや櫻井氏の研究には現役信者に対する調査が欠けていたために、それを補う目的で調査を開始したわけでもない。脱会信者と現役信者の比較という視点は、中西氏自身に動機があったのではなく、櫻井氏が中西氏の研究に目を付け、自分の研究の欠陥部分を補うのに好都合だということで利用されたにすぎないのである。したがって、第8章のこの冒頭の言葉は、中西氏自身による自己の研究の位置づけというよりは、櫻井氏が描いた本全体の構成の中における中西氏の調査部分の位置づけを、そのままなぞって表現したものとみることができる。

 「虎穴に入らずんば虎児を得ず」というように、統一教会について本当に知りたければ、教団の中に果敢に飛び込んで行かなければ何も分からないはずである。しかし、櫻井氏は統一教会と適切な距離を取るためにはそれができないという。実際には、教団と適切な距離を取ること自体が難しいのではない。学問的には適切な距離を取って調査研究を行ったとしても、それを世間一般や統一教会反対派から「適切な距離である」と評価してもらうことが、日本社会においては難しいのである。そのリスクを敢えて犯す勇気は、櫻井氏にはなかった。だからと言って中西氏にあったわけでもない。彼女には最初から統一教会を調査してやろうなどという動機はなかったからだ。しかし韓国で偶然出会ったために、彼女は統一教会の現役信者に関心をもって聞き取り調査を行った。それがバッシングを受けたことでショックを受けるのだが、その研究に目を付けた櫻井氏に利用され、結果的には統一教会を批判することを目的とした本書の共同執筆者となったのである。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳62


第7章 分析と発見(5)

 文師がそのようなカリスマ的人物であることは疑念の余地がなく、彼の人格と超人的であるとみなされているその資質は、ほとんどの統一教会信者のグループに対する継続的な献身において重要な要因となっている。完璧なマッチングを行う能力があると彼が主張していることは、確かに統一運動のカップルたちが彼らの結婚をうまくいかせようと熱心に努力する動機付けとなっている。彼の力は絶対と言ってもいいくらいで、多くのメンバーたちが日々の生活の困難とグループの中に生じる葛藤の両方に耐えることができるのは、主として彼の故なのである。後者に関しては、現在見受けられる最も重要な葛藤は極東とアメリカの代表の間の葛藤である。これら両方の聴衆にアピールする文の能力が無かったら、この東西の勢力争いは疑いなくグループ内の公然の論争として表面化し、修復不能な分裂に至るかもしれない。それが文の故意によるものなか否かは別として、より多くの国際結婚(とりわけアメリカ人と東洋人)を作り出そうという彼の努力によってもたらされる結果は、この内的葛藤を克服し、それによって彼自身のカリスマ的重要性をグループ全体に拡大させることであるように思われる。それはカンターが「制度化された畏怖」の形成と言っているプロセスである。(注31)

 カンターの成功した共同体は、彼らの創設者のカリスマ的重要性を越えて先に進むことができた。彼らにとってはグループそのものがカリスマ的になった。統一運動は、1981年に文師が彼の21年路程を完了し、グループにおける「公的な」役割から引退することを公表したという点において、新しい社会運動としての発展の決定的な瞬間にある。61歳でいまだに頑強で健康であるため、彼は間違いなくしばらくの間は組織全体に対する相当な影響力を行使するであろう。しかし、グループがこれ以上の東洋とアメリカの論争を避けるためには、祝福家庭、特に国際祝福を受けた者たちは、夫婦一体の模範を示すだけでなく、グループを一つにまとめることのできるリーダーシップの力を提供しなければならないであろう。このプロセスは、影響力のある日本人女性と結婚したアメリカ人であるモーゼ・ダースト(訳注:この部分は間違いで、ダースト夫人は韓国人である)をアメリカの組織の会長に指名したことによって、既に始まっているように見える。他の国際カップルがグループの団結につながるリーダーシップの役割を果たすようになるか否かはまだ分からないが、統一運動における制度化された畏怖の創造は、その結婚の実験がさまざまな組織のニーズとの関係においてどのように機能するかによって大きく決まるであろう。

 リーダーシップとグループの力に関する疑問に加えて、カンターは成功したユートピアにおいては、4つの決定的な特徴を有するイデオロギーを信奉する結果として、超越が形成されたと指摘している。
1. 超越を引き起こす教義は現在の力の秩序を説明し、目前に迫った広範な世界の変化を約束する。
2. その教義における考えは、その真の意味が選ばれた少数者によってのみ知られているという点で排他的である。
3. そのイデオロギーは、新しい時代の到来が単なる可能性ではなく不可避なものとなるよう、グループを何か力強く成功したものと結びつける。
4. 超越を含むイデオロギーは、包括的であるとともに個別的である。(注32)

 統一運動の神学はこれらの特徴を全て共有しており、われわれはこの研究の中でグループの性と結婚に対する方向性の正当化にとってそれが如何に重要であるかを見てきた。禁欲の期間は堕落の教義によって是認されており、三日行事を通して行われる夫婦の性交はカップルの神聖な行為としての信仰と結び付けられている。神学的には、第二祝福としての結婚は救済論的であると共に終末論的な出来事であり、前者においてはそれは個人が完全な救済を得るために不可欠であり、後者においては統一原理によればそれは世界の復帰の要となるものである。

 われわれは、統一神学は基本要綱に関しては明確で完全であるものの、リーダーシップによって霊感を与えられた解釈や、運動がアメリカで発展するときに不可避的に訪れる変化を包摂するためにグループがその聖なる天蓋を拡大することを可能にするような「新しい」洞察の発展を許容し得るほどに曖昧であることを指摘してきた。この曖昧さはすでに、統一運動における多様な性的役割分担の理解や、マッチング・祝福・聖別・家庭出発から、マッチング・聖別・祝福・家庭出発への結婚の順序における重要な変化へと導いた。グループの組織的中心が米国に留まるのであれば、長い目で見れば統一神学の性と結婚に対する理解は次第にアメリカ文化の影響を反映するようになるだろうと予測することは合理的である。

 これまで私はユートピア的共同体に関するカンターの調査を、統一運動における献身のメカニズムを明らかにするための鍵として用いてきた。これらのメカニズムの多くがこの運動の性と結婚に対する理解を反映していることは明らかであるが、それと同時に、メンバーとグループの関係を強化するのに役立っているのである。構造レベルにおける分析を完全なものとするためには、単に献身のメカニズムを明らかにすることを越えて、この特定の組織がなぜ、そして如何にこれらの個別の構造を効果的なやり方で実行することができるのかを説明することが必要である。これを行うためには、最初に宗教的団体または任意団体としての統一運動に関するある程度の一般的な観察を提供する必要がある。

 組織的に最も顕著な統一運動の特徴は、共同体または拡大家族として存在していることである。その仮想の親族ネットワークの中で、メンバーたちは兄弟姉妹として共に生き、共に働き、その最も重要な忠誠は神と彼らの真の父母である文師夫妻に向けられている。メンバーたちがさまざまな世界の救世主としての役割を担うのはこの統一された家族の一員としてであり、それはグループに対する献身を内面化する上では非常に重要である。家族のメンバーとして生活を共にする中で、最初は単なる服従だったものが最終的には統一運動とその世界変革の理想に対する個人的な献身になるのである。理想的な神を中心とする「家族」であるという自覚が、メンバーに究極的な重要性を有する社会的現実(宗教的な用語では、終末論的共同体)に参加しているという感覚と、個人的な自由の感覚を与えるのである。後者に関しては、メンバーたちは一般的に彼らが統一運動に関わっていることを、彼らの入教以前の生活を特徴付けている束縛状態とは際立って対照的に、一つの解放感を覚える経験として認識していることが重要であると私は思う。同様に重要なのが、この自由は共同体に参加することを通して得られるということだ。

(注31)カンター『献身と共同体』p. 116。
(注32)カンター『献身と千年王国運動の内的組織』、pp. 240-241。

カテゴリー: ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』140


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第140回目である。区切りのよい140回目で、櫻井義秀氏が執筆を担当した第Ⅰ部と第Ⅱ部に対する検証が終わることになり、次回からは中西尋子氏が執筆を担当した第Ⅲ部に入ることになる。2016年3月16日に始まったシリーズだが、毎週アップし続けて140回に至るのに2年8ヶ月を要したことになり、ある意味で感慨深い。統一教会の現役信者でこの本をこれほど愛して読み込んだ者は他にいないであろう。今回でこのシーリーズが終わるわけではないが、一つの区切りを迎えたことは確かである。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 今回は「六 統一教会の教化方法の特徴」の分析の5回目であり、「3 信仰生活・宗教行為と記憶」において櫻井氏が述べている内容を検証することにする。櫻井氏はこれまで30名近くの統一教会の元信者に対する聞き取り調査をしたとのことだが、その中で一つの発見があったという。それは、「入信までと脱会までの心理的葛藤や経験はよく記憶されているのだが、献身者となって全ての時間を教会に捧げていたような元信者は、日常的な教会生活をあまり明確に記憶していないということ」(p.398)だそうだ。その理由としては、統一教会信者の生活は画一的に管理されているため、「およそ自分で考え、判断する余地もなければ、必要もない」ため、「ルーティーン化された日常生活と宗教生活に関わるところの記憶は曖昧である」(p.398)からであるとされる。

 まずはこの記述が元信者AからIまでの記述と比較して、正しいのかどうかを評価してみたい。つまり、本当に統一教会の信仰生活に対する記憶が曖昧なのかということだが、細かく検証してみると櫻井氏の一般化は当てはまらないことが分かってくる。

 元信者Aは、3年間のマイクロ生活というそれこそルーティーン化された生活を送っていたわけだが、この頃のことを「毎日が辛い日々で泣かない日はなかった」と鮮明に記憶している。そうした限界状況の中でAは神の声を聞くという宗教体験をしたのであるが、統一教会を脱会した後のインタビューにおいてさえ、それを「神体験」としてはっきりと覚えている。元信者Bも、「伝道でも経済活動でも常に葛藤を抱えながらの歩みでどうしようもなく辛かった。マイクロでは実績を上げないと負債になった。」というネガティブな記憶として鮮明に覚えている。

 一方、元信者Cの場合には原理研究会における信仰生活を、青春ドラマのような熱く楽しい思い出として記憶している。「あの頃が一番勉強したと思うくらい。大学の講義以上に難しい。勉強しているというよりも、楽しかった。もっと聞きたい。もうほとんど麻薬に近い状態。」「貧乏で、本当に貧しくて、いつも腹減っていたけれども、楽しくて楽しくてしょうがないって感じ」「学生の一人暮らしをやっていて友達とも話すが、上滑りの会話が多いわけで、濃密な人間関係の中で自分のこと、家族のこと、将来の夢とか、しっかり話し込めるとどんどん入っていった。」「原理研究会の熱さは自分に合っていた。」といった具合である。同じく原理研究会の学生であった元信者Dは、単に自身の入信から脱会までの経緯を事実に基づいて話すだけでなく、原理研究会の勧誘テクニックや、原理研究会と地区教会の違い、学生新聞会の舞台裏、自分自身が原理や組織に対して感じていた矛盾や疑問など、持ち前の分析力を働かせて、主観的な世界についても雄弁に語っている。彼も当時考えていたことや、疑問に思っていたことを鮮明に記憶している。

 地区教会所属の学生信者E(女性)の場合には、信仰生活の途中で健康を害したためにネガティブな記憶が多いが、その一方で神体験らしきものもしている。これはかなり自覚的な体験だったようで、脱会後にも彼女はそれを明確に覚えていた。

 韓国に嫁いだ元信者FとGの記憶は、韓国人の夫の親族や韓国統一教会との間に感じたカルチャーショックに関するものがほとんどである。日本における信仰生活の記憶が曖昧では韓国との比較はできないから、彼女たちもはっきり覚えていたことになる。

 壮婦である元信者Hの記憶は、もっぱら夫との葛藤の記憶である。たとえ教会における信仰生活のあり方がパターン化されたものであったとしても、「殉教精神」に近い彼女の信仰の記憶は鮮明なものとして描かれており、明確に記憶していないとは言い難い。もう一人の壮婦Iの場合には、信仰生活の日記がこまめにつけられていたために、いつどこで何をしたというような記憶は、その日記を見れば記憶が蘇るようになっている。

 AからIまでのインタビューとは別だが、櫻井氏は霊能師役をやっていた元信者にインタビューしたことがあるらしく、彼女について「統一教会脱会後十数年を経過しても、霊能師役をやっていた元信者達は、基本的なトーク例を立て板に水のごとく語ってくれた。」(p.286)という観察を披歴している。すごい記憶力である。

 これらを概観して言えることは、それぞれ自分の感情に深く関わるような重大な事柄は、たとえ教会生活がルーティーン化していた時期であったとしても、よく覚えているということである。そもそも人の記憶とはそのようなものだ。自分にとって重要だと思われることは良く覚えていて、そうでないものは忘れるものなのである。入信と脱会は自分の人生の方向性を大きく変えた出来事であるため、よく覚えているのは当たり前である。しかしそれ以外にも、信仰生活の中で感動したというポジティブな思い出や、辛かったというネガティブな思い出は、記憶に鮮明に残っていることが分かる。

 これは信仰があるなしに関わらず、人の記憶の一般的な性質であろう。櫻井氏自身が「なお、社会調査に係る一般論を付け加えると、中年期から老年期にかけての日常生活に関する出来事を詳細に回想できる人は少ない」(p.399)と認めているように、単にあまり刺激的でないことは人の記憶に残らないということを言っているにすぎない。

 2018年7月20日放送のNHKの人気番組「チコちゃんに叱られる!」では、「大人になるとあっという間に1年が過ぎるのはなぜ?」という疑問が取り上げられていた。それに対するチコちゃんの答えは、「人生にトキメキがなくなったから」というものだった。千葉大学の一川誠教授の解説によると、時間の感じ方には心がどの位動いているかが重要だということだ。言い換えると、「トキメキをどのくらい感じるかで変わる」という。例えば同じ食事をしても、子供は「今日のご飯は何かな?」「どんな味かな?」「作り方は?」「ニンジンが星形に切ってある!」「大好きなポテトサラダだ!」と食事中に発見、疑問、驚きなどの多くのトキメキがあるに対して、大人はただ食事をするという作業になってしまう。子供の場合にはさまざまな感情が生まれているために長く感じるのに対して、大人の場合は食事をしただけなので短く感じるのだという。

 大人になると毎日同じ作業の繰り返しに感じられ、印象に残る出来事は少なく、トキメキが少ない。トキメキやワクワクを忘れてしまった大人たちの1年はあっという間に過ぎていってしまうわけだ。子どもと大人のトキメキの数を比較するためにそれぞれに「昨日は何をしましたか?」「去年何をしましたか?」という質問すると、子供の方はさまざまなトピックが溢れてくるの対して、大人はほとんど思い出せないという。これもトキメキがないことが原因だというのだ。結局、櫻井氏が「気づいたこと」は、統一教会の信仰に固有なことではなく、せいぜい「チコちゃんレベル」の、人の記憶に関する一般的傾向に過ぎなかったというわけだ。「ボーっと生きてんじゃねーよ!」とチコちゃんに叱られる櫻井氏の姿が目に浮かぶようだ。

 櫻井氏は第Ⅱ部の最後に当たる400ページで以下のように書いている。
「本章を終えるにあたって、統一教会元信者の人生を聞き取り、分析した作業に若干の感想を付記しておきたい。学生を含む青年信者が人生の最もいい時期をひたすら統一教会の伝道やマイクロに費やした時間、祝福家庭の信者が一生の一大事である結婚を統一教会でした経験、壮婦の信者が捧げた献金や労力、そして失ってしまった家族との絆。取り返しがつかないものだ。わずか九名の人生を記述することですらこれほど重いのに、七〇〇〇人あまりの女性信者が渡韓して祝福家庭を築き、日本でも数万人の統一教会信者が活動し、多くの人達を巻き込んでいる現実を考えると、言葉も出ない。」(p.400)

 「言葉も出ない」と言いながら櫻井氏はかなり雄弁に自分の主観を吐露しているが、はっきり言わせてもらえば「大きなお世話」である。信仰を棄てた元信者に対するインタビューを重たいと感じたなら、それは元信者の過去の重さに限定して理解すべきであり、それを現役信者に投影すべきではない。彼はすべての統一教会信者は哀れで不幸な存在であり、いまも取り返しのつかない人生の浪費をしていると一方的に決めつけ、「救わなければならない」という上から目線の使命感を勝手に持ち、それができない自分の無力さに絶望している。これは完全に彼の独り相撲であり、「私は幸せだからほっといて!」というのが現役信者の率直な感想であろう。少なくとも私はそうである。

 最後にもう一度繰り返すが、こうした櫻井氏の研究の独善性は、もっぱら情報源を脱会した元信者に頼り、現役の統一教会信者の「リアル」と向き合うことをが意図的に避けてきたことに原因がある。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳61


第7章 分析と発見(4)

 加えて、「儀式を通じて人々は純粋に感情的な方法で一体感を覚える機会を持つ。」(注24)さらに、これが祝福の儀式に大きく関係するのである。
「ピーター・ウォーリーは、・・・感情的熱狂は慣習を意図的に破ることによって高められると示唆している。これが、『熱心な信者たちを、古い社会の最も神聖なルールを意図的に嘲った人々による新しい兄弟関係として一つにまとめるのである。彼らは罪悪感と取り返しのつかない反抗によって、互いに結び付けられているのである。』『彼らは、いまだに古い信仰を持ち続けている者たちに対する、共通の罪と相互支援によって一つに結び付けられているのである』」(注25)

 祝福の儀式は、終末論的共同体としての統一運動の統合性と結束を劇的なやり方で象徴的に表現する。それらを通して、いくつかのレベルで結束が確認され実現される:
1.カップルと真の父母の間に血縁関係が確立される。
2.永遠の絆が夫と妻を結び付ける。
3.カップルは共同体全体と新しい特別な関係を結ぶ。
4.各合同結婚式に参加したカップルはお互いに特別な関係となり、それは毎年グループの記念晩餐会で祝賀される。
5.各カップルは原罪から解放され、それによって霊的領域、すなわち神ならびに霊界にいる彼らの先祖に近づく。
6.結婚を成就させる三日行事は、性と霊性の統合を象徴する。

 宗教の歴史において、祝福に関連した儀式に匹敵するような、人生における多くの別個の側面を包括し統一する一連の儀式を見いだすのは困難であろう。さらに、統一運動の結婚の型破りな性質、とくに配偶者を文師が選ぶことは、確実にグループの一体感を支持するような過激な性質をその儀式に与えるのである。

 統一運動の性と結婚に対するアプローチが感情的献身を育むように機能していることは、このように非常に明らかである。さらに、ユートピア的グループのメンバー同士の強い感情的絆は、「・・・たとえ運動の信条に対する不信感に直面したとしても、献身を育み維持することができるのである。」(注26)この洞察は、統一運動がいかにその神学と性的役割分担に関する多様な解釈を許容しながらも、高いレベルのグループの結束を保っていられるのかを説明するのを助けてくれる。

 カンターの第三の形態である道徳的献身は、「・・・グループのメンバーであることの力と有意性に基いて・・・その人に新しいアイデンティティーを提供する・・・」(注27)「無力化」のプロセスと、メンバーが偉大な力と究極的な重要性を保有するものとして共同体を経験することを可能にする「超越」のメカニズムを必然的に伴う。

 カンターは、告白と相互批判、逸脱に対する制裁、霊的な差別化、脱個別化メカニズムという四つの無力化のプロセスに言及している。

 われわれは既にマッチングを受ける資格のあるメンバーたちが、実際の儀式の前に自らの罪(特に性的な性質の罪)を告白する機会があることを示した。公式的に要求されているものではないにせよ、多くのメンバーが聖酒式で起きると言われる霊的な変化のための準備として、実際に告白を行う。(注28)

 逸脱に対する制裁は統一運動においては非常に非公式的であり、同僚や指導者からの圧力として示される。修練期間中に独身の誓いを守ることに対するグループの誘因は非常に強力なので、実際にそれを破るメンバーは非常に少ないように見える。それをする者は、普通は自らの意思でグループを去る。

 非常にまれな場合だが、例えば、重要なリーダーが不倫を犯したり運動を離れたりしたときには、その行為に対する公的な非難があるであろう。

 無力化は霊的な差別化を通しても実行されているが、それはグループの宗教的価値観を反映していると同時に、主として結婚と家庭に関して行われる。差別化のパターンは、下から上まで以下のような順序になっている:
1.未婚のメンバー
2.マッチングを受けたメンバー
3.祝福家庭
4.国際祝福家庭
5.祝福家庭(子女のいるカップル)
6.「長老会議」
7.真の父母

 カンターは19世紀の成功したユートピアの半分に類似したパターンを発見しており、こうしたパターンを持つ組織で成功しなかったのは15%に過ぎなかった。統一運動におけるより高い階級に伴う報酬は、より高い社会的地位、リーダーシップの機会、および結婚における性の表現である。統一運動のメンバーシップに関連する公的に認められた地位は、基本的にはこれ以外に存在しないというのも事実である。

 統一運動は、その構造の中で機能している脱個別化メカニズムをいくつか持っている。例えば、メンバーは地味な服装をしており、寝食を共にし(とりわけ未婚者はそうであるが、多くの祝福家庭も共同生活をしている)、私的な時間は非常に少ない。また、各カップルが文師と個別に行う聖酒式を除いて、祝福の儀式はもっぱら共同体のイベントである。画一性と統一性はおそらく、結婚指輪において最も象徴的に示されているであろう。それらはどのカップルでも同じであり、統一運動のロゴマークが刻まれている。

 超越は個人の古い個人的なアイデンティティーの無力化にとどまらず、以下のものを含んでいる。
「・・・運動の中に宿っているより高い力と意味の経験、一人の人間の生命の外にあり、それを越えた力および出来事とのつながりを感じること。それはアイデンティティーと意味の新しい起源を提供する。」(注29)

 マックス・ウェーバーはこの経験はカリスマを通して伝えられると提言しているが、彼のカリスマの定義は以下のようなものである。
「そのおかげである人が普通の人間から区別され、超自然的、超人間的、あるいは少なくとも特別に例外的な力や性質に恵まれているものとして扱われるような、個人の人格がもつ特定の性質。これらは普通の人間には到達できないものであり、神に起源を持つものあるいは模範的なものとみなされ、それらを基盤として当該の個人は指導者として扱われるのである。」(注30)

(注24)前掲書、p. 234。
(注25)前掲書、p. 235。
(注26)前掲書。
(注27)カンター『献身と共同体』p. 103。
(注28)相互批判は地方の統一運動のセンターで実践されており、そこではメンバーたちは毎週行われる一緒に過ごす夜にリーダーたちによって評価される。
(注29)カンター『献身と千年王国運動の内的組織』p. 238。
(注30)ウェーバー『社会的・経済的組織の理論』pp. 358-359。

カテゴリー: ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』139


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第139回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 「六 統一教会の教化方法の特徴」の分析の5回目である。今回は、「2 献金と判断力」において櫻井氏が述べている内容を検証することにする。これはなぜ統一教会信者がそれほど熱心に献金し、中には自己破産に追い込まれるまで献金を継続する者がいるのかという疑問に、彼なりに答えたものであり、「統一教会の献金強要」(p.396)に対する説明であると主張されているものである。まずは彼の議論に耳を傾けてみよう。
「まず、霊能師が新規の信者に対して一万円の献金をさせ、一ヶ月ごとに同じく一万円の献金を要求するとする。初回はまるまる一万円を出すのであるから信者にとってゼロから一万円への飛躍は無限大ともいえる。信仰があったとしても大いに悩む。ところが、二回目であれば一万円出したところから二万円目を出すのであるから、差額は一万円分であるが、心理的には一万円から二万円となって二倍の飛躍といえる。これが三回目となると同じく差額は一万円であるが、二万円から三万円となって1.5倍の飛躍でしかなくなる。

 この調子で献金を出し続けていくと何回目かには、一万円というのは心理的には実にたいした金額ではなくなってしまうのである。心理的負担は実額ではなく、その都度参照される金額からの相対的な比較によって決まる。・・・

 霊能師は、最初に信者に献金させることさえできれば、後は同じ説得の労力をかけずとも同額の献金を得られるようになる。信者にとって献金への心理的負担はどんどん鈍感になっていくからだ。」(p.396)

 はたして櫻井氏の言うように、ひとたび献金してしまえばその後からは献金に対する心理的負担は鈍感になり、簡単に献金させられるようになるものなのだろうか? さらに、献金に対する心理的な負担の感じ方は誰でも同じであり、感じ方に個人差はないのであろうか? 櫻井氏の説明はどうも机上の空論か頭の中だけの計算のように聞こえ、あまりリアリティを感じない。それは、実際に献金をする人がそのように感覚が麻痺していき、鈍感になっていったという実証的な証拠がないからである。実は、櫻井氏の主張とは全く反対のことが、ちょっと視点を変えるだけで頭の中ではすぐに組み立てられて計算できてしまう。例えばこんな感じだ。
「まず、霊能師が十万円の財産を持っている新規の信者に対して一万円の献金をさせ、一ヶ月ごとに同じく一万円の献金を要求するとする。初回は十万円の中から一万円を出すのであるから、信者にとって一万円の価値は全財産の十分の一である。まだまだ余裕である。ところが、二回目であれば残金が九万円の中から一万円を出すのであるから、同じ一万円でも全財産の九分の一になるため、心理的負担は増大する。

 この調子で献金を出し続けていくと、その度に献金する一万円が全財産に占める割合は大きくなっていくので、心理的には大きな金額であると感じられるようになってしまうのである。心理的負担は実額ではなく、その都度参照される残りの全財産との相対的な比較によって決まる。・・・

 そして九回目に献金させるときには、全財産の半分を捧げることになるので、心理的負担は相当なレベルに上昇する。そして十回目には、全財産を捧げてゼロになることを意味するので、その飛躍は無限大となり、献金に対する心理的な負担は極限に達する。

 霊能師は、最初に信者に献金させることができたとしても、それと同じ献金を継続してさせるためには、説得の労苦はどんどん大きくなっていく。信者にとって献金への心理的負担はどんどん敏感になっていくからだ。」

 どうだろう。櫻井氏の「作文」と私の「作文」のどちらにリアリティがあると読者は感じられたであろうか? これはどちらも人の頭の中がどうなっているかを想像して書いた作文に過ぎない。実際に人が献金するときにどのように感じるのかは、こうした「作文」で一般化して語れるほど、単純なものではないのである。

 現実には、新規信者がひとたび献金したからと言って、その次からはさしたる説得の労苦もなく「やすやすと」(p.396)献金するようになるというようなことはない。その人が献金することに対する意義を感じ続けない限りは、どこかで熱意が冷めてしまうからである。特に献金することによって財産が目減りしていったような場合には、献金に対する心理的な負担はどんどん大きくなっていくのが普通である。

 献金を継続して出し続けるということは、ビジネス用語で言えば「リピーター」になっているということである。新規の顧客をつかんだとしても、その人が一回限りの顧客で終わってしまい、リピーターにならないケースの方が圧倒的に多いため、その人をリピーターにするためのさまざまなテクニックが研究され、実践されている。

 ビジネスの世界では、新規顧客をリピーターにするためには「バイヤーズリモース」に対処することが重要であると言われている。バイヤーズリモースとは、大きな買い物をしたときに、買った直後に感じる後悔の感情のことである。人はものを購入するプロセスの中で、どれを買うか迷いながら徐々にテンションをあげていき、購入の瞬間が最も満足した状態になるという。しかし、車や家などの大きな額の購入ほど、その後すぐに後悔を始めるというのである。

 それは具体的には、「買ってみたら他の車の方がよく見えてきた」「この担当者で本当に良かったかな」「理由はないけど、もう少し検討すれば良かったな」といったような感情に襲われるということである。こういった感情には、購入商品の品質はほぼ関係なく、どんなに品質が良くても、購入後にはバイヤーズリモースが起こるという。こういった感情になるのは、「この購入という自分の決断が正しかったのか?」という不安が生じるからであり、この不安を解消してあげれば、顧客は自分の判断が正しかったと感じて満足するという。

 ビジネスのアドバイスを掲載したインターネットのサイトには、そのための具体的なテクニックが以下にあげる例のように紹介されている。
「リピーターを獲得する為の3つの集客方法:①次回来店のきっかけを作る。(例:2~3回目の再来店を促す特典やイベントを用意する。見送り時に「次回は~」「また来てください」など、再来店を促す言葉を付け加える。)②サプライズ(特別感)を演出する。(例:味見やプチギフトなどのサプライズで、お客さまの記憶に残る演出をする。)③お客様にダイレクトに情報を届ける手段をゲットする。(例:DMやメルマガ、店舗アプリなどを活用し、直接的に再来店を促す連絡ができるようにしておく)」
「①お客さんが価値を感じる商品、②ミッションを載せた冊子、③会員証や会員バッジなどの”しるし”、④リピーターだけが分かる共通言語、⑤限定イベント、⑥会報やブログ・SNS発信、⑦感情を動かす特典」
「①優良リピーターはとことん優遇する、②メールマガジンやダイレクトメールで、お客様とコンタクトを取り続ける、③他にはない目玉商品を作り、キャンペーンを行う、④1回目の来店と2回目の来店で、対応の仕方を変える、⑤ホッとできる環境づくりに全力を注ぐ」
といった具合である。要するに、新規顧客を放っておいただけではリピーターにはならず、相当な努力をしない限り顧客は自然に離れていくのである。その努力のポイントを一言でいえば、顧客の満足度を上げることである。

 これと同様に、初めて献金した信者は、「バイヤーズリモース」に該当する「ドナーズリモース」が生じる可能性がある。人は献金を決意するプロセスの中で、献金することの意義について真剣に悩み、献金するかしないか迷いながら徐々にテンションをあげていき、献金する瞬間が最も満足した状態になる。しかし、献金の額が大きいほど、その後すぐに後悔を始めるという現象が、「バイヤーズリモース」と同様に起きる可能性がある。それに対処する唯一の方法は、ビジネスにおける顧客のケアーと同じように、献金という決断が正しかったことを相手に繰り返し伝え、信仰生活の満足度が上がるようにさまざまなサービスをすることである。これはビジネスにおけるリピーターの獲得と同じである。新規の信者は良くケアーをしないとすぐに信仰を失ってしまうのであり、櫻井氏の言うように「お金をやすやすと出す」ようにもならないし、最初に献金させることさえできれば献金への心理的負担はどんどん鈍感になっていくというような、簡単なものではないのである。

 櫻井氏がここで述べていることは全くの机上の空論であり、現実から乖離している。それは彼が実際に献金を継続している現役信者に対するインタビューや参与観察を行っていないがゆえに書ける、「想像の産物」に過ぎないのである。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳60


第7章 分析と発見(3)

 感情的献身は、拒絶、すなわち潜在的にグループの団結を破壊する可能性のあるあらゆる関係性の放棄と、親交、すなわちメンバーの感情的愛着と満足をグループ全体に集中させることを伴う。「彼(メンバー)のグループ内における満足の可能性は、その他の関係性に対する選択肢が減少するときに増大する。そして彼には事実上、他に向かうべき場所がないのであるから、彼はグループと和解しなければならない。」(注18)前世紀の成功した共同体は、拒絶が外の世界、カップル、家族の三つの領域で実践されるようなやり方で構造化されていた。統一運動のメンバーは回心の際に彼らと外の世界との基本的な関係(例えば、彼らが生まれ育った家庭や友人たち)を絶つ。さらに、グループはその信者たちに対して、「内側」と「外側」の間の明確に述べられた概念的境界線、独特の言語体系とライフスタイル、必要とされるあらゆる支援の提供、そして最後に、包括的な親族制度を示すことにより、「組織的完全性」(注19)を提供する。さらにまた、統一運動のメンバーになるということは、(例えば、婚前の恋愛関係の禁止、文師による配偶者の選択、宗教共同体に従属するものとしての結婚)などの、性と結婚に関する一連の価値観を必然的に採用することであるが、それらは明らかにグループをアメリカ社会全般と区別するものであり、それを通して統一運動は復帰された統一世界の文化の基礎としての神を中心とする家庭を確立しようとしているのである。アメリカ人が伝統的に自分の夫または妻を選択できることに対して持って来た誇りを考慮すれば、圧倒的大多数の統一教会信者がこの主要な人生の選択を文師に委ねているということは、彼らの拒絶の程度が高いことを証明している。

 統一運動が婚前の恋愛活動を(および同性愛の活動も)禁止していることは、カンターが「カップル」と呼ぶところの拒絶を示している。ユートピア的共同体における排他的な二者の絆は、グループの団結に対して4重の脅威をもたらす。(1)それらはメンバーの忠誠心とエネルギーをグループからそらす、(2)それらは愛情を含めてすべてのものが共有されるべきであるという原則を弱体化させる、(3)激しい個人的な二人の関係は…、潜在的にグループを離脱する可能性がある単位である、(注20)(4)そのような愛着はしばしば共同体に葛藤をもたらす嫉妬や敵意を引き起こす。(注21)非常に単純に言えば、統一運動のメンバーは「カップル」を拒絶して共同体を得るのである。

 最後に、より大きな共同体とは異なる社会単位としての家族の拒絶がある。シェイカーズとオナイダ完全主義者たちは、もちろん、家族という概念そのものを否定したのであるが、その一方で、
「生物学的な核家族を生活の単位として保存したこれらの共同体にとっては、親密さ、感情、そして家族の機能が共同体のあらゆる場所に拡散されることによって、その重要性は低下していたのである。外の世界で家族によって担われていた多くの機能は、購買、消費、子供の養育も含めて、共同体によって代替されていたのである。」(注22)

 神学的には家庭が価値視されているにもかかわらず、統一運動は家族が一緒に過ごすことに優先順位を与えるような構造を提供してこなかった。夫と妻はしばしば異なる「使命」のために別居していたし、その子供たちは運動が提供する保育所に預けられていた。より従来型の生活を送っている少数の家族であっても、住居と財政に関してはグループに大きく依存しており、運動の活動にあまりに深く関わっているため、彼らには夫婦間や家庭内のことにほとんど時間を割けずにいるのである。そのような構造は、家庭をグループの生活と仕事のなかに没頭させることによって、グループの結束を強める働きをしている。したがって、共同体に対する非常に高い感情的献身を祝福家庭の中に発見することは驚くに値しない。

 分離した個人主義的な愛着を放棄したメンバーたちは、グループの集団としての一体性の中に新しいアイデンティティーを見いだす傾向にある。統一運動のように事実上あらゆる活動が共同で行われるようなグループにおいてはなおさらである。「自己とグループが混ざり合うこと」は運動における生活の顕著な特徴であり、それはメンバーの間に強力な「われわれ感情」を引き起こす現象である。この深い親交の感覚がさまざまな構造によって育まれ、その多くは統一運動の性と結婚に対するアプローチを反映しているのである。全メンバーが兄弟姉妹であり真の父母の子女であるという仮想の親族ネットワークは、婚前の男女交際を阻止するだけでなく、グループの一体性を促進する。聖酒式を通してマッチングされたカップルは文師夫妻と「血縁関係」に入り、お互いに対してもそうなる。夫と妻の間の特別な関係は彼らによって疑いなく高く評価されているが、さまざまな別居期間が、カップルをグループから後ずさりさせ、あるいはグループを去る方向にさえ導きかねないような二人の絆を低減させるのである。

 この研究のためにインタビューを受けた統一教会の信者たちは、彼らと相対者の間にある多くの個人的・文化的な違いを、いかに彼らの信仰によって乗り越えることができたかを強調した。そのような違いは疑いなく存在するが、これらの男女は共通の関心を彼らの結婚に持ち込んだと信じるに足る理由がある。グループに入る以前から、おそらく彼らはアメリカ社会からの共通の疎外感、理想主義的な結婚観、そして世界を変えたいという思いを抱いていた。また、統一運動の包み込むようなサブカルチャーのなかで世界の救済者としての3年間をすごした後、彼らは結婚するにあたって、彼ら自身が意識的に自覚している以上に多くの共通点を疑いなく有するほどまでに、運動の価値観を内面化していたのである。そのような均一性は、カンターが調査したグループ内の親近感を増大させるものであることが発見されている。

 祝福に伴う儀式(マッチングと聖酒式、「公的な」祝福式、および三日行事)はすべて統一運動内部における親交を促進する機能を果たしている。カンターが正しくも述べたように、「儀式はグループに対する忠誠心が高揚され、祝賀され、教化される象徴を提供する。ここで、宗教は直近の社会集団の崇拝であるというデュルケムの古典的命題がさらに強化された。」(注23)

(注18)前掲書、p. 83。
(注19)前掲書、P. 88。
(注20)前掲書、p. 86。
(注21)前掲書、pp. 86-87。
(注22)前掲書、pp. 90-91。
(注23)カンター『献身と千年王国運動の内的組織』、p. 233。

カテゴリー: ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」