ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳21


第3章 性に関する価値観:婚前の性行為と同性愛(5)

 婚前交渉の禁止は、神学的な理想によって正当性を与えられ、家族的な役割と共同体での活動によって支えられているとはいえ、それは独身の男性と女性の間に恋愛関係や性的関係が生じる事例がまったくないということを意味しない。逆に、それ(特に恋愛感情のレベルにおいては)は極めてよくある問題であり(注43)、運動は状況と関わった特定の個人に応じて、さまざまな方法でそれを処理している。通常はその二人が自分たちの行動が不適切であることを自ら認めて、彼らの関係を完全に切ってしまうか、お互いに友人であり続けられる程度にまでその感情を克服するのである。前者の解決法は、しばしばどちらか一方の個人の「使命」または場所の変更を必要とする。カップルが自分たちの問題に対処する意思がないか、それができないときには、年長の兄弟または姉妹(おそらく彼らのセンターのリーダー)がしばしば介入して、そのカップルを神の前に正しい役割に復帰することを目的として、霊的な指導または支援を提供するであろう。もしこれが成し遂げられなかった場合には、通常はどちらか一人もしくは二人ともが運動を去るだけであろう。(注44)このように、恋愛関係や性関係を解消するには相当程度の個人の自由が存在するのであるが、運動は断固として神の教えに忠実であることと、本質的にそのような関係を排除する家族の役割を強く主張するのである。

 兄弟姉妹の役割が男性と女性の関係を構築するが、同性愛の問題はそうした社会的取り決めによっては触れられないままになっている。また、同性愛は原理講論および運動のその他の主要な神学的著作の中で特に言及されていない。文師の72の説教(そのタイトルがこの研究に関連すると思われたので選ばれた)を注意深く調査してみたが、出てきたのは「もっとも不自然な愛」(注45)というたった一つの発言であった。

 同性愛に関しては、確かなことは二つだけである。一つ目は、かなりの数の同性愛者が運動に加入したということであり(注46)、二つ目は、グループによるその神学の解釈は、男性の同性愛も女性の同性愛も排除するということである。最初のポイントに関しては、信仰歴6年のメンバーが以下のように説明した:
「実際、統一教会に入教した同性愛者は多い。たくさんだ。私がMFTチームにいたとき、私のチームの一つでは、4人が入教した当時はそうだった。主に男性の同性愛者だ。・・・私が知っているのはそれだけだ。」(注47)

 若干の統一教会信者が、運動に加入したレズビアンを知っていると言ったが、ほとんどが男性の同性愛者について語った。(注48)

(注43)運動内部における恋愛の発生に関しては、メンバーの報告は一般的に元メンバーの発言と一致する。エドワーズ(『神に狂って』、pp.153; 198-200)とウッド(『ムーンストラック』、pp. 7; 104-108; 124; 167)は共に恋愛関係に言及するが、一方でアンダーウッド(『天国の人質』)は言及しない。 エルキンズ(『天的詐欺』、p.57)は、年長の兄弟がグループにはデートもその他のいかなる男女の恋愛関係もないと述べたことを示しただけである。私がインタビューした元メンバーは、それは特に運動に入って比較的日の浅いメンバーの間の問題であると言った。
(注44)J・スティルソン・ジュダは以下のように報告している:「ある若い女性が教会を離れた理由として以下のような事実を教えてくれた。彼女は同僚の一人に恋をしたのだが、彼はそのことで彼女を叱っただけでなく、彼のために選ばれたある韓国の女性と結婚してしまったのである。」J・スティルソン・ジュダ「新宗教と宗教の自由」、ジェイコブ・ニードルマンとジョージ・ベイカー編『新宗教を理解する』に掲載、p.207。
(注45)なぜ印刷された説教に同性愛に対する言及が一カ所しかないのかについては、推察することしかできない。可能性がある理由が二つ思いつく。(1)おそらく実際の説教ではもっと言及していたのだが、それを読むメンバーたちが、これは重大な問題だと考えないように、編集者によって削除された。(2)あるいはおそらく、そのような事柄は一対一で扱うのが統一運動のポリシーであるということだ。運動における自分の生活について書いた元メンバーの中では、ウッドだけがこの問題を扱っているが、彼の記事はいささか理解困難である。他のメンバーと一緒に文師の話を聴いていたとき、ウッドは「お父様、同性愛の問題について我々はどうしたらよいでしょうか?」と尋ねた。文の答えは、「もしそれが本当に問題になるなら、それを切り取って、丸焼きにして、靴箱に入れて、私に郵送しなさい」(『ムーンストラック』、p.163)。私たちはこれから同性愛者の扱いに関する一般原則や規範を引き出すべきであろうか? あるいは文はそれを、ウッドに対する個人攻撃を意図して言ったのであろうか? 彼自身の証言によれば、ウッドは性的に不適切なメンバーたちのリーダーであると疑われていたという。あるいはそれは文の非常に不可解なユーモアの一例だったのだろうか? ウッドの報告が正確であると仮定したとしても、私は文の答えにどんな意味を付与してよいのか分からない。この韓国人シャーマンのしゃべり言葉を解釈しようとする部外者は、不可能な使命を担っているのかもしれない。メンバーたちでさえ、ときとして彼の言うことを理解するのは難しいと感じるのだ。
(注46)統一運動が同性愛者たちを引き付ける理由は、いかなる決定的な方法によっても説明することは難しい。ある者は同性愛者であると名乗るのを避けるために関わったのかもしれないし、またある者はすでに社会から「逸脱者」としてのレッテルを張られていたために、不人気な宗教グループに入ることにあまり抵抗を感じなかったのかもしれない。
(注47)インタビュー:マレー女史
(注48)女性の同性愛者にメンバーが気付いていないのは、単にこのグループが、女性同士の親密な接触は男性同士の同じような行動パターンに比べてより受け入れやすいという、アメリカ社会の傾向を反映している一例に過ぎないのかもしれない。さらに、統一運動の男女比は2対1であるため、おそらく女性の同性愛者よりも男性の同性愛者の方が多いのであろう。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』74


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第74回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」の「フォーデーズセミナー」の説明の中で、「お父様の詩」(p.239-241)の内容を取り上げ、「この詩において文鮮明は統一教会信者に信仰のエッセンスを語っている」(p.241)と述べている。この詩の内容は、文鮮明師が直接語ったものではなく、日本の統一教会の食口の誰かがなんらかの啓示かインスピレーションを受けて書いたものと推察されることは、既に前回述べた。したがって、この詩は統一教会における権威ある文書となることはできないし、この詩の朗読も統一教会の正式な儀礼となることはできない。ましてや、「この詩において文鮮明は統一教会信者に信仰のエッセンスを語っている」などと断定できる資料でもない。その詩の内容を分析して統一教会の信仰の本質に迫ろうというのであるから、櫻井氏の資料批判はかなり甘いと言わざるを得ないであろう。

 しかし一方で、この詩の内容を分析することを通して統一教会の信仰の本質をとらえようとする櫻井氏の論理展開の中に、彼独特の発想法や誤解、あるいは悪意ある恣意的描写を垣間見ることができるので、今回はその点を指摘してみたい。

 櫻井氏はまず、「(1)神と人間の互酬的関係を最初に確認している。しかもその間柄は親子だとされる」(p.242)と分析する。「互酬」(ごしゅう)とは、文化人類学、経済学、社会学などにおいて用いられる概念で、英語ではReciprocityという。人類学においては、義務としての贈与関係や相互扶助関係を意味するのであるが、統一原理の用語ではReciprocityは相対性や相対的関係という意味で使われる。したがって、「相対的関係」も「互酬的関係」もほぼ同じ意味であると考えられる。櫻井氏がこの言葉を選んだのは、「私があるからお前があり、お前があるから私があるのだよ」という「お父様の詩」の一節から連想したものと思われる。

 西洋的なキリスト教神学においては、神と人間の関係が互酬的関係として捉えられることは少ない。神は創造主であり、人間は被造物である。神は偉大であり、人間は卑小である。神は神聖であり、人間は罪深い。神は与える存在であり、人間は受ける存在であるため、その関係は互酬的というよりは一方通行の関係だ。「神があるから人間がある」のみであって、「人間があるから神がある」という発想はないのである。「お父様の詩」における「お前があるから私があるのだよ」という一節は、創造の秩序を逆転させるような存在論的な主張であると捉えるよりは、親子の心情的な関係を表現していると見た方が良いであろう。このことは、人間の行動が神に影響を与え得るという統一原理における神と人間の関係性が、西洋のキリスト教神学とは異質なものであることを物語っている。統一原理の神と人間の関係の方が、むしろ「親子関係」と呼ぶにふさわしい親密なものであると言えるだろう。そしてこれが、「神様のために親孝行したい」という統一教会信者の信仰の動機に直結しているのである。

 続いて櫻井氏は「(2)子供は罪人である」(p.242)という点が普通の親子関係とは異なると主張するが、人間は罪人であり、親なる神の前に負債のある存在であるというのはキリスト教の基本的な人間観である。人間がその罪を償い、原罪から脱却するために努力することが神から期待されているというのは、西洋のキリスト教神学に比較してみたときに統一原理が強調しているポイントではある。というのは、原罪の清算に関しては「神とメシヤによる一方的な恩寵によって人間が救われる」という中心ポイントは一般のキリスト教神学においても統一原理においても同じだが、統一原理においてはメシヤを迎えるためには人間が自らの責任分担として「蕩減条件」を立てなければならないという観点があるからである。救いは何もしないでも無償で与えられるものではない。人間には責任分担があり、努力が必要だというのは統一原理の基本的な人間観である。

 櫻井氏は、子供が親を裏切り、親の思いに気づかないまま自由放縦に生きたことが罪であり、その親の期待に応えることこそが人の生きる道であるとする統一原理の世界観に対して、「孝行を要求する神」(p.238)などというタイトルをつけ、文中でもで「親孝行の押しつけ」「献身を求めている」「コミットメントを要求」(p.242)などという極めて穿った表現で描写している。しかし、ことさらに「超越神」を強調する西洋のキリスト教神学を除けば、神や仏などが人間に「恩」を与え、人間がそれに「報恩」することが期待されているのは宗教における一般的な関係であり、特に珍しいものではない。そして神と人間の関係をどのように描こうと、それは信教の自由によって保障された宗教的世界観の表現なのであり、それを受け入れて信者になるかどうかも、個人の信教の自由である。

 続く一節は、櫻井氏の宗教学者としての見識を疑うような内容になっている。
「筆者が最も驚いた発想は、この詩が『お父様の詩』とされていることにある。文鮮明が自分の意志を信者に伝えているわけだが、神の立場に立ってこれを語っている。イエスであっても自分の心を神の心として語ってはいないし、聖書の執筆者もイエスを神そのものとして描くことはなかった。文鮮明は再臨主だから神でもあるということなのだろう。」(p.243)

 櫻井氏は新約聖書の中で、イエスが自分を神のごとく語った部分があることをまさか知らないわけではないだろう。代表的なイエスの言葉だけでも以下のものを挙げることができる「わたしと父とは一つである」(ヨハネ伝10:30)、「わたしを見た者は、父を見たのである」(ヨハネ伝14:9)、「わたしが父におり、父がわたしにおられる」(ヨハネ伝14:11)。これらの言葉は、当時のユダヤ人からすれば神を冒涜する言葉として捉えられたため、彼らはイエスを殺そうとしたほどだったのである。その理由は「あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。」(ヨハネ伝10:33)とユダヤ人たちは述べている。

 後のキリスト教神学は、こうした聖書の記述以上にイエスを神格化している。彼は「神のロゴスが受肉した存在」であり、「神が人となられた方」である。キリスト教の三位一体の教理においては、父と子と聖霊のすべてが神であるとされており、ここでいう「子」とは歴史的人物としてのイエス・キリストのことである。西暦325年に開かれたニケア公会議と、451年に開かれたカルケドン公会議で、三位一体論とキリスト論に関するキリスト教の正式な見解がまとめられたわけだが、このニケア・カルケドン信条を受け入れるかどうかが、今日に至るまで正統的なキリスト教であるかどうかを見きわめる重要な試金石になっている。ニケア信条は、父と子は「同質」であるとしているし、カルケドン信条は、イエス・キリストは「真に神であり真に人である」としている。イエス・キリストが神であるというのは、キリスト教の正統神学の重要な部分なのである。宗教学者である櫻井氏がこうしたキリスト教の基礎知識を知らないはずはない。だとすれば、彼の著書における描写はこうした事実を隠ぺいして、伝統的なキリスト教と比較して文鮮明師が自らを異常に神格化しているかのような印象を与えようとする悪質なものであると言える。

 「お父様の詩」は、統一教会の公式的な神学を表明したものではなく、信徒の間に流布していた宗教文学に過ぎないが、統一教会の神観やメシヤ観をそれなりに表現している。それは、「お前と二人で天のお父様の前に報告に行ける日を私の唯一の楽しみにしているよ」(p.240)という言葉が示しているように、「天の父」である神と自分自身が存在論的に同一であるということを主張しているのではなく、自分が神と同じ心情で子供を見つめていることを訴える内容となっている。神とメシヤが存在論的に一体であると主張する伝統的神学のキリスト論に比べるならば、統一教会における「再臨のメシヤ」は苦悩する一人の人間として描かれており、神格化の度合いは低いとさえ言えるだろう。

 最後に櫻井氏はこうした「お父様の詩」の内容に関して、「正統派のキリスト教であれば腰を抜かしかねない教説」(p.243)と揶揄した上で、それがいともたやすく統一教会の信者たちに受け止められていくのは、この詩を朗読する儀礼によって受講生の感情が揺さぶられ、正常な判断力を失ってしまうからだと主張する。はたしてこの詩には、それほど魔法のような効果があるのだろうか?

 実はこれと同じことを札幌「青春を返せ」裁判の原告たちも主張していたのだが、これに対して教会側は、「この詩が朗読されると、内容に感動して号泣する受講生が出ることは事実のようである。しかしながら号泣した人が、文師をメシヤとして受け入れるとは限らない。情緒的な人は一時の感情の高まりで涙するが、セミナー後にはその感情もすっかり冷めて、やめる人も多いという。原告らの言うような『その様な情緒に訴えられた結果、文師をメシヤと受け入れさせてしまう、認識が変えられるのである』ということはない。却って、冷静で詩の朗読の時にあまり感動しない知的な人の方が、その後の学びを進めていくとも言われている」と主張している。実際にフォーデーズに出て信者になる人の割合が4.1%~15.4%(データによって差異がある)というかなり低い数字に留まっていることも、この詩の「効果」がそれほどのものではないことを物語っている。櫻井氏はこの詩の内容に感情を揺さぶられてその効果を過大評価するのではなく、もっと社会学者らしく数値によるデータに基づいてその効果を測定した方が良いのではないだろうか?

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ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳20


第3章 性に関する価値観:婚前の性行為と同性愛(4)

 淫行を犯したということだけでは、メンバーをグループから追放するための十分な理由にはならない。そればかりか、インタビューを受けたメンバーは、運動において「破門」という言葉は意味がないし、全く機能しないと説明した。(注29)ときには性関係を持った独身のメンバーが個人の選択によって運動を離れることはあるが、これはそうしなければならないということではない。なぜなら神は愛の神であり、運動は悔い改めて復帰されることを望むすべての人にその愛を差し伸べるからである。(注30)

 神の意思に反するということに加えて、婚前の性行為が悪であるのは、神が世界を愛するのと同じように他者を愛することのできるような人に個人が成長していく能力を損なうからである。言い換えれば、婚前のセックスはパートナーに対する真の愛が心理学的に不可能な、未熟なセックスなのである。あるメンバーは、彼女が回心する以前に「非常に不満足な多くの性関係」を持っていたことを話した:
「私は、彼ら(彼女のパートナー)と関係を持つときに、なんらかのかたちで彼らを利用していること常に良心の呵責を感じていたし、どういうわけかその関係そのもの、性そのものが、私たちがお互いに本当に愛し合うことと、お互いに本当に親しくなることを妨げていたの。」(注31)

 彼女と他のメンバーたちは、一時的な禁欲期間を感謝していると言った。なぜならそれは、お互いを単なる性の対象としてでなく、人として愛することを学ぶための時間と機会を彼らに与えてくれるからである。(注32)現段階では、運動に関わる以前の自らの性関係について自発的に情報提供してくれた全てのメンバーが、これらの経験をはかなく、罪作りで、全般的に不満足なものであったと描写した点に留意することは重要である。(注33)
「私は結婚したくなかった。私自身が女性と様々な関係を結んでいたし、私は結婚する必要はないと考えていた。とはいうものの、私は自分の人生には理想がないし、私の人間関係は不愉快なものだと感じていた。」(注34)

 最近アメリカの若者たちの間で婚前の性交渉が増加しているのは、「性革命」の主要な特徴の一つである。メンバーたちが統一教会の価値観を、外の世界で起こっていることに対する彼らの認識と比較するとき、彼らは通常この現象に焦点を当てた。この問題についての運動と社会の間の大きな違いを強調しつつ、彼らの関心ごとはいかに「フリー・セックスる」が道徳的責任を無視し、個人の成長を妨げるかという点に主として向けられた。
「しばしばその関係は、深い尊敬や関心というよりは、性的な快感に基づいている。」(注35)
「私たちの西洋社会は、責任という事実をあまりにも無視している。楽しみのためだけに、他者と関わり、異性と関わっている。他者に対して果たすべき責任というものを考えない。」(注36)

 外国に住んできたときに運動に入ったある女性メンバーは、そこで人々が非常に若年で結婚するのは、通常はその女の子が妊娠しているからだと指摘した。その結果、彼女たちの「人格が成長できない」のである。一般的に、外の世界は「物質的なことばかりが強調されて霊的なことが十分でない」と彼女は思っている。(注37)

 外の世界における婚前の(および婚外の)性行動の増加は、統一教会の信者たちによれば、解放ではなく服従の兆しなのである。「我々が今日の性革命を見るとき、我々はそれによって自由ではなくむしろ隷属をもたらしたのだ。少なくとも私の経験ではそうだった。」(注38)神学的にはその隷属はサタンに対するものだが、心理学的には人々は「知られざる罪悪感に縛られ、内面における整合性と人格の強さを欠いているのだ。」(注39)

 運動の婚前のセックスに対する否定的な評価は、個人の信者に対してだけでなく、その共同体的構造と究極的な目標を前提とすれば婚前の愛情が奨励されないという点において、組織に対しても重要性を持っている。兄弟姉妹の役割は、実際は架空のものだが、性的活動と同時に、より穏やかな恋愛に対する願望をも抑止するインセスト・タブーを作り出している。(注40)全ての活動は本質的に共同体的なものであり、高度に定型化されているため、恋愛関係や性的関係に先立つ男性と女性の個人的な出会いが制限される傾向にあるのである。(注41)ブロムリーとシュウプによって報告されたこれらの抑止力の一般的な有効性は(注42)、この筆者の観察によって三カ所の異なる運動の拠点で裏付けられた。そこでは独身の男性と女性の間には身体的接触はなく、歓迎の抱擁さえない。

(注29)運動の元メンバーは、統一教会の性に対するアプローチに多くのネガティブな感情を抱いている。しかしながら、私の調査によって明らかになったのは、一人の男性と数名の女性が不道徳な性的行動によって「追放された」と主張する記事が一つあるだけであった。ウッド『ムーンストラック』、p.98を参照のこと。
(注30)したがって、淫行はある意味で不倫(祝福を受けた統一教会のメンバーによる唯一の「本物の」形の不貞行為)とは異なるものである。不倫は許されない。文鮮明師『男と女の関係』、p.8を参照のこと。
(注31)インタビュー:ウォール女史。メンバーが運動以前の経験について話すときには、「その当時」と「今」の違いを誇張する傾向があるかもしれないということを筆者は認識している。しかし、このような研究においてこれらの要因を制御する手段はない。
(注32)この成長期間の性格については、第5章でより詳しく議論されるであろう。
(注33)運動は公式的にはメンバーに対して入教以前の性生活について話さないように奨励しているが(筆者はインタビューにおいて積極的に調査しないことによってこの原則を尊重した)、独身メンバーの半分以上が実際にそのような情報を提供した。
(注34)インタビュー:リギンズ氏
(注35)インタビュー:バークレー氏
(注36)インタビュー:リントン氏
(注37)インタビュー:ソーヤー夫人
(注38)インタビュー:バークレー氏
(注39)個人的交流:ショー夫人
(注40)この筆者が行った調査は、運動に対するより初期の研究の観察を裏付けた。「我々のIOWCの厳格に守られた禁欲は、セクト主義的な宗教グループにおいては珍しいものではない。しかし、この性に関する禁制は家庭的状況の中でさらに強化されており、(未婚の)メンバーの間における異性間の活動に対して、インセスト・タブーに類似したなにかを作り上げていた。」デビッド・G・ブロムリーとアンソン・D・シュウプJr『たった数年・・・?』、p . 179 ).
(注41)「どのセンターのどのグループのどのリーダーであっても、男と女が二人っきりになる状況を避けるようにしなさい。あなたはそこにいなければなりません。少なくとも一人の男性と二人の女性、あるいは二人の男性と一人の女性です。」文鮮明師『男と女の関係』、p. 1.
(注42)ブロムリーとシュウプ『たった数年・・・?』、p. 183.

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』73


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第73回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」の中で、ライフトレーニングの次の段階としての「フォーデーズセミナー」(p.235-245)について説明している。前回はその説得力の数値的評価と、「イエス路程」の講義が受講生の感情を揺さぶるものであるという彼の主張を検証したが、今回はフォーデーズセミナーで朗読されるとされる「お父様の詩」と、「恨プリ」の概念に注目してみたい。

 櫻井氏によれば、多くの宗教は儀礼によって強い情動を誘発しているが、立派な大聖堂や荘厳な雰囲気を醸し出す儀礼が存在しない統一教会では聖なる雰囲気を出すのが難しいため、研修会の中では「お父様の詩」と呼ばれる文鮮明師の教説を示すときに、唯一の儀礼的空間が作られるのだという。このときにはセミナー室の明かりが消され、班長達がロウソクをもって並んでいる中で、「お父様の詩」が朗読されるのだという。この「お父様の詩」の全文はここでは掲載しないが、以下のURLで見ることができる。
http://www.glo.gr.jp/uta.pdf

 さて、この詩は櫻井氏の言うように「文鮮明の教説」(p.237)と呼べるものなのであろうか? この詩の出典はいずれの資料にも明記されておらず、これを一体誰が書いたのかは実は不明である。文鮮明師の語った内容であれば、通常は語った年月日が記載されていたり、マルスム選集の巻数や項数、講演文のタイトルなどが出典として記載されているはずだが、そうしたものが一切ないということは、文鮮明師が直接語ったものではなさそうである。文体や表現からしても文鮮明師の言葉とは考えられず、日本語としてあまりにこなれすぎているために、韓国語からの翻訳でもなさそうである。出所は日本に違いない。

 この「お父様の詩」と呼ばれる内容は、日本の統一教会の食口の誰かがなんらかの啓示かインスピレーションを受けて書いたものではないかと思われる。それはそれで一つの宗教的文学としての価値はあり、この詩を聞いて感動したり、原理の奥深さや神の心情を悟ったり、宗教的回心を体験したりすることはあるかも知れない。しかしそれでも、文鮮明師の語った言葉でないものを、そうであると語っていたとすれば、それは問題である。「誰かがお父様の心情を祈って尋ね求めた結果、与えられた啓示的な詩です」と紹介するのであれば、問題はないと思われる。

 しかしそうした性質上、この「お父様の詩」は統一教会における権威ある文書となることはできないし、この詩の朗読は統一教会の正式な儀礼となることはできないのである。これはある特定の時代の、ある特定の地域の研修会において、現場で用いられていた一種の宗教的文学なのであって、それを読み上げる行為も、統一教会の儀礼というよりは研修会のイベントの一つといった方が良いであろう。私自身、伝道されたときに修練会でこの詩が朗読されるのを聞いたことはなかったし、伝道する側に回ってもこれを朗読したことは一度もなかった。

 統一教会の儀礼と呼べるものには、もっと普遍的で公式的なものがたくさんあるのだから、櫻井氏も宗教学者であればそうしたものをもっと研究すべきであろう。主要なものだけを列挙しても、①毎週日曜日の礼拝、②安侍日、月初め、名節、記念日などに行う敬礼式、③家庭盟誓の唱和、④祝福式、⑤聖和式、聖和祝祭、⑥聖別式や奉献式、⑦清平における役事など、これら一つひとつの儀礼的意味を記述しただけでも大論文になるはずである。こうした教会の公式的儀礼には一切触れることなく、「お父様の詩」などという公認されていない研修会の行事を「儀礼」と呼ぶ櫻井氏の記述は、宗教学者として最低限の調査さえしていないことを明らかにするものである。これも「青春を返せ」裁判の原告側の資料にのみ依存しているために起こる根本的な理解不足であると言えるだろう。

 さて、櫻井氏はこのイエス路程の解説の中で、統一教会の救済観を韓国の「恨プリ」と関連付けて解説している。それは以下のような記述である。
「文鮮明は説教集の中で、神というのは一人子を亡くされた悲しみの恨を深く心にとどめた悲しみの神様であり、人間の生の目的とは神様の恨を解くことなのだと何度も繰り返す。日本の信者は韓国風の恨プリ(恨を解く)の儀礼を知らないために神の無念さに心を痛めるだけだが、韓国の信者達はこれほどの恨を解かないでおくことができようかと考えたに違いない。冷静に考えれば、全知全能の神でも恨みを抱くのだろうかと首を傾けざるをえないが、旧約聖書には嫉む神というイスラエル民族の神観が出てくるので、韓国に土着化したキリスト教において神様が恨を抱き恨プリを求めていると文鮮明と彼の弟子達が考えたとしても自然なことだ。」(p.238)

 櫻井氏は「恨プリ」という韓国の土着の宗教的概念によって聖書を解釈した統一教会の救済観をやや批判的に解説しているが、こうした理解の仕方自体は神学的・宗教学的には間違いではなく、かなり本質的なところをとらえていると評価してよいであろう。「恨を抱いた神様」というのは統一教会の独特な神観の一つであり、統一教会の信徒の信仰生活を動機づけるものとして大きな役割を果たしているからである。この問題に関する文献としては、古田富建の「『恨』と統一教」という論文がある。以下のサイトで全文を読むことができるので、関心のある方はご一読いただくとして、ここではその要点を簡単にまとめることにする。
http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/36069/1/rel027004.pdf

 「恨」と言えば、韓国人にとっては民族が持つ固有の情緒や美意識として理解されており、韓民族の代表的な民族性の一つとして、日本でもよく紹介される言葉である。それはしばしば日本や中国の「怨」とは違ったものと説明され、その中心的要素は「悲哀」の感情であるとされる。これはもともとは巫俗(韓国のシャーマニズム)の用語であり、「死者のやるせない思いや、やり残したこと」を意味し、「恨プリ」はその恨みを解くこと、すなわち「恨み解き」を意味する鎮魂儀礼の一つであった。この概念は韓国の宗教史に大きな影響を与えているが、その中でも統一教会の教義は「恨」を一つのキーワードにしているという。すなわち、神やイエスは「恨」を抱いており、それを解くことが教義の核心となっているというのである。

 それでは神の「恨」とは何であろうか? 統一教会では、神を人間とまったく変わらない喜怒哀楽を感じる存在としてとらえ、人間の堕落のゆえに神はこれまで悲哀の感情に支配されてきたとする。神と人は元来「親子の関係」であったのに、堕落によって「親子でない関係」になったことが神の哀しみであり、元の「親子の関係」に戻りたいと願い続けてきた。神は「あるまじき姿」から「あるべき姿」へと戻りたいという切なる願望を抱いており、それが果たされない神は「解くべき恨」を抱えた存在なのである。したがって人類歴史は、神の理想を成就するための「神の恨プリ」の歴史として理解される。統一教会の教義における最終目的は、悲しい歴史の清算と「恨の神」の解放である。

 一方、「イエスの恨」は、「結婚して神の血統を残すべき」であったのに、家族やイスラエル民族の迫害によって、「結婚できずに(血統を残せずに)死んだ」という「恨」である。こうしたイエス像は、韓国の宗教伝統を背景として理解できるという。韓国の伝統社会は「儒教と巫俗の二重構造」として語られることが多い。すなわち、国家運営から民衆の倫理道徳に至るまで、表向きの価値観は儒教が支配していたが、その深層部には古 来からの巫俗の伝統が横たわっており、儒教とは相互補完的な関係にあったという。儒教的な倫理によれば、「子を残さず死んだ者」は祭祀を受けられず怨霊となるのであるが、一方で巫俗が儒教的価値観では引き受けられない死者を一手に引き受けて、巫俗式の鎮魂祭や死後結婚を行ってきた。こうした宗教伝統を背景としてイエスを見るとき、そもそも結婚して血統を残すことを理想とする儒教社会においては、独身を貫いて死んだイエスの生涯は望ましいものではない。そして「巫俗」の観点から見ると、イエスは未婚で哀れな死を迎えた若者であり、その恨を解くための「鎮魂の対象者」となるのである。

 このように、「神の恨プリ」「イエスの恨プリ」として歴史をとらえる統一教会の教説は、キリスト教神学の中では特異なものであるが、韓国の宗教的伝統を背景として理解すると、ごく自然な発想であることが理解できるであろう。しかし、「全知全能の神」という西洋的で合理的な神観からは、こうした発想はまず出てこないだろう。日本人にとっては、「統一原理」の救済史観は今すぐにでも人類を救いたいという切々たる神の心情が描かれており、一種の浪速節的な世界があるので理解しやすいのではないだろうか。そしてこれは、統一教会信者の「救済観」にも大きな影響を与えている。一般のキリスト教においては神は全知全能の存在として、罪深い人間を一方的に救ってくれるものと捉えているが、統一教会においてはむしろ恨を抱えた可哀想な神様を解放して差し上げたい、慰めて差し上げたいという心情が、信仰の動機となることがあるのである。こうした神観や救済観は、統一教会が持つ独創性の一つの根拠となっている。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳19


第3章 性に関する価値観:婚前の性行為と同性愛(3)

 統一運動で性的感情がどのように扱われているのかを説明する上で役に立つのが、「年長の」兄弟ボルトン氏に関する逸話である。彼は性に関する悩みを相談しにきた若い男性のメンバーについて語った。その若い男性は、自分は頻繁に勃起をするので「サタンに侵入される」危険があると考えていた。その古いメンバーは、それは彼の年齢の者としては「完全に自然な」ことであり、「性欲」が問題となるのは人がそれを楽しみ、そのことを考え、それに従って行動することを考えるときだけだ、と彼に説明した。同じ話し合いの後半に、ボルトン氏は筆者に対して「成熟したクリスチャンはそれ(性欲)を自然なものとして受け入れ、その上で神を中心とした生活を送り続ける」(注19)と語った。

 上記に照らして明らかなことは、運動のメンバーは性欲は自然なものであり、人間性に対して神が与えた属性であるのに対して、情欲は神を中心としない方法で特定の欲望を「楽しむこと」であるという、かなりはっきりとした区別をしているということだ。何人かの回答者が、マタイ伝5章27-28節のイエスの教えを解釈する上で、そのような区別をしていた。(訳注:「『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」というイエスの言葉を指す)社会学的な視点からは、性的な感情に執拗に「こだわる」ことは、メンバーが宗教的共同体の忠実なメンバーとしての自身の役割あるいは「使命」に完全に献身するのを妨げるだけである、ということも明らかであった。

 性欲に対する統一運動のアプローチは、性というものは創造における善の一部であるというグループの信仰に対する忠実さを表している。同時に、性欲と情欲の区別は、個々のメンバーが、とりわけ未婚の者において、グループにおける自身の適切な役割と使命に集中することを促すように機能している。性欲に夢中になることは、明らかに組織の共同体生活にとって有害であり、兄弟姉妹の関係を破壊し、神学的に正当とされる目標の追求を損ねるのである。(注20)

 「祝福」を受けて結婚を成立させる前に、統一教会の信者たちは3年間から7年間にわたって独身生活を送る期間を通過する。この一時的な禁欲は、第一祝福である個性完成を実現する努力の不可欠かつ重要な一部をなしている。この習慣が含意しまた支持しているのは、婚前の性交渉は神の目から見ても、また人間関係に有害な影響を及ぼすという点からも間違っているという統一教会の信条である。第二章で示したように、統一神学は霊的堕落と肉的堕落はアダムとエバの婚前の性行為の結果として起きたと教えている。人類始祖は神の戒めに従わなかっただけでなく、彼らは霊的にも心理的にも、愛のある親密な性関係に入るほどには「成熟」していなかったのである。神の命令と人間の成熟という二つの焦点が、運動が「淫行」(注21)に反対する基準を提供しているのである。婚前の性関係は神の意思に反し、個人と社会にとって破壊的なものである。

 神の戒めに関しては、インタビューを受けたすべてのメンバーが「婚前のセックスはそれ自体で悪である」(注22)という立場を取ったと同時に、彼らの道徳的な視点を明らかにして説明するいくつかの洞察を紹介した:
「・・・それ(性交)が神の祝福を伴うまでは、それはサタンの我々に対する支配を強化するものだ。」(注23)
「知っての通り、確かに人々は過ちを犯す。それは我々が厳しい裁きを受けるということではない。多くの人々は違った見方をしているということは分かっているけれども、私は客観的に見てそれは悪だと思う。」(注24)
「誰もが結婚に対して純潔の理想を抱いているが、誘惑と社会がそれを大目に見ることが足を引っ張るのだ。」(注25)
「そうだ、統一原理によれば(婚前の性交渉は悪だ)。しかし、私は神に同じ質問をして、神のこの問題に対する考えを聞きたい。ときどき私自身も疑問に思う。」(注26)
「一般的には、そうだ、婚前のセックスは悪だ。しかし、このことは(統一)教会は堕落した世界の根本原理には同意しないという考えによって制限されるべきだ」(注27)

 運動のメンバーは神の戒めを忠実に守っているが、彼らはこの価値観を支持する理由を提示したいという欲求と、また理解と同情によって彼らの視点を和らげようという意思を示した。
 結婚前の純潔が絶対的な価値であるか否かは、前段落の最後の引用において示唆されていた。多くのメンバーが婚前のセックスに対する反対を、運動は堕落した世界の絶対原理には固執しないという考えによって制限した。しかし、これらの人々が婚前のセックスが悪だとみなされない場合について説明してほしいと尋ねられると、唯一の事例として挙げられたのはイエスの母親であるマリヤであった。(注28)だとすると、婚前交渉の禁止は絶対的でないという主張は、純粋に神学的なものであると思われる。実際には、婚前の性関係は無条件に禁止されている。

 しかしながら、このことは淫行が許し難い罪であることを意味しない。神学的に正当な結婚は祝福のみであるため、入教するはるか以前に「結婚した」カップルは、実際にはすでに淫行を犯しているのである。純潔を守ることをルールとする聖別期間を過ごし、性的な罪を含む過去の罪に対する蕩減が支払われた後、これらのカップルは文師夫妻によって祝福されるのである。また、多くの未婚のメンバーも入教前には性的に活発であったのだか、彼らももちろん最終的には祝福を受けるのである。性関係を持った独身のメンバーに関しては、彼らもまた、信仰を刷新し適切な厳しさの蕩減条件を全うすることにより、許されて最終的には結婚を祝福されることが可能であると信じるに足る理由がある。

(注19)インタビュー:ボルトン氏
(注20)いかにして「エロティシズムの勢力が救済宗教と特定の緊張関係に入る」かについてのウェーバーの洞察に満ちた議論を参照のこと。(『宗教社会学』pp. 236-242)
(注21)回答者たちはかなり一貫してこの言葉を、より一般的な「性的不道徳」という意味よりも、より限定された「婚前の性交渉」という意味で使用した。
(注22)インタビュー:メイ氏
(注23)個人的な交流:ショー夫人
(注24)インタビュー:スマート夫人
(注25)インタビュー:スマート氏
(注26)個人的な交流:エンゲル氏
(注27)インタビュー:ボーデン氏
(注28)ボーデン氏とのインタビュー:統一教会の教えはイエスの誕生が神の摂理的計画の一部であったことを信じているが、処女降誕を文字通りにはとらえていない。金(永雲)によれば、年老いた祭司ザカリアがイエスの生物学的な父親である。(『統一神学』pp. 194-197)

カテゴリー: ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』72


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第72回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」の中で、ライフトレーニングの次の段階としての「フォーデーズセミナー」(p.235-245)について説明している。これは4日間の泊まり込みの研修会のことだが、櫻井氏によればそのスケジュールは「基本的にツーデーズセミナーと同じだが、研修内容として、文鮮明の生涯、統一教会を取り巻く国際情勢や反対運動をそれぞれ半日かけて学習することが加わる」(p.235)とされている。

 櫻井氏は冒頭で、「このセミナーの目的は、受講生に統一教会の信者として献身生活を決意させることにある」(p.235)と断言しているので、まずはその目的がどの程度達成されているかを数値に基づいて分析することにする。拙著『統一教会の検証』(光言社)によれば、「日本においては外部の学者による統計調査は存在しないが、統一教会の信徒団体が一九八四~九三年にわたって一部地域で行ったサンプリング調査がある。それによれば、その十年間に伝道されて定期的に統一原理を学習するようになった者三万六千九百十三人のうち、二日間の修練会に参加した者が一万四千三百八十三人(三九・〇%)、四日間の修練会に参加した者が八千二百五十八名(二二・四%)、そしてその中から実践活動を行う信者になった者が千二百七十四名(三・五%)であるという結果が出ている」(32頁)。ここでフォーデーズに参加した8258名のうち、最終的に実践活動を行うほど献身的な信者となった者が1274名であることから、櫻井氏の記述する「フォーデーズの目的」に基いて事実を分析すると、目的の達成率は15.4%に過ぎないことになる。

 また、東京における「違法伝道訴訟」に原告側が提出した証拠(甲第57号証)には「4DAYS現状調査」という、フォーデーズ参加者の追跡調査を行った表がある。これは連絡協議会傘下の東東京ブロックの青年支部が行っていた伝道活動に関する資料であるが、1988年の11月から1989年の3月までのフォーデーズ新規参加者数が438名となっている。そのうち新生トレーニングに進んだのが288名で、実践トレーニングに進んだのが165名、その中で「フリーになる」、すなわち仕事を辞めて連絡協議会で専従的に活動するようになった者は18人となっている。この数はフォーデーズの全参加者の4.1%に過ぎないことになる。これは私の著作の15.4%よりかなり低い数字である。統一教会の伝道方法が「強制的」なものであることを主張するためには、セミナーに出た人のほとんどがフリーになると主張した方が説得力がありそうなものだが、実際の数値は驚くほど低いものとなっている。この証拠は、統一教会を訴えた原告側が提出したものであるため、敢えて嘘をついて低い数字を示す理由はなく、実際のデータを提示したものであると考えられる。

 すなわち、いくらセミナーに参加させたとしても、全員に「献身」を決意させられるものではなく、大部分の者はそれを拒絶しているというのが事実なのである。そこには明らかに本人の自由意思が働いており、教えを受け入れない人に無理やり「献身生活」を決意させることなどできないのである。したがって、櫻井氏がいかにフォーデーズの様子を情緒的に描写してその説得力を強調したとしても、その効果は客観的な数値によって反証されてしまうのである。櫻井氏は社会学者なのであるから、裁判の原告側が主張する情緒的な説得力を鵜呑みにするのではなく、客観的なデータに基づいてその効果を評価すべきではないだろうか。

 しかし、櫻井氏はこうしたデータには触れることなく、以下のような表現で「フォーデーズセミナー」が人の情緒を揺さぶるものであることを強調する。
「宗教的行為は、知情意のうちで情に関わる部分が著しく大きいという点で、他の社会的行為と異なる。どんなに崇高な教えや徳目であっても、頭で理解し、強い意志をもって行為せよと命じただけでは人は動かない。自ら動きださざるをえないような強い情動が必要である。多くの宗教では儀礼に参加することでそうした情動を得ることができる。儀礼は荘厳な雰囲気の中、伝統的なやり方で執行することで、儀礼参加者は過去現在未来永劫に変わらない普遍的な聖なる時間に生きることができるのである。ヨーロッパの大聖堂において荘厳なミサに出席すれば誰しも敬虔な気持ちになるだろう。」(p.237)

 ここまでは教科書的な「儀礼の効果」の説明に過ぎないのだが、問題は次の記述である。
「日本の統一教会のように建物を飾らず、聖なる象徴物も置かない研修施設では、聖なる雰囲気を醸し出すのが難しい。したがって、ここが聖なる空間であることを統一教会では能弁に物語る必要性が出てくる。唯一、儀礼的空間を作り出しているのが、『お父様の詩』いう文鮮明の教説を示すときである。」「イエスはメシヤであることが認められなかったばかりか、惨めで無念な死を遂げたことを講師は泣き出さんばかりの無念さを持って語るのである。」(p.237)
「ここまで二時間あまりもこの種の話を聞かされれば、女性の受講者は大半が泣き出してしまう。あまりに臨場感のある説明のために受講生たちは自分がイエスを十字架につけたという気になっている。感情が盛り上がってきたところで、聖歌、祈祷がなされ、講師は退席する。」(p.238)「ありとあらゆる音響がこだまする中で受講生達の感情は抑制が完全に外された状態になる。」(p.241)

 イエスの生涯を感動的に語るというのは私自身がやってきたことなので、櫻井氏の描写する「イエス路程」がそれほど事実と異なっているとは思わない。むしろ女性の受講生の大半が泣き出してしまい、受講生たちに自分がイエスを十字架につけたのだと思わせることに成功したとすれば、それは素晴らしい講義なのではないかと思う。これがキリスト教の礼拝でなされたら、最高の説教として礼賛されることだろう。言葉をもって人を感動させるのは宗教の王道であって、なんら批判されるべきものではない。

 宗教が人を感動させる方法はさまざまある。立派な聖堂や伝統的で荘厳な儀礼によって聖なる雰囲気を醸し出す宗教もあれば、能弁な語りによって感動させる宗教もある。修行などの体験を重視するものもあれば、最近はハイテクの演出効果によって雰囲気を盛り上げる宗教もあるだろう。キリスト教の中では、カトリックが立派な聖堂や荘厳な儀礼によって宗教的雰囲気を醸し出すのに対して、プロテスタントの礼拝堂はむしろシンプルで飾りが少なく、「神の言葉」を語ることが重要視される傾向にあることはよく知られている。統一教会の研修会の伝統は、どちらかといえばプロテスタント的だということであり、それも含めて宗教の個性だとしか言いようがない。もっとも、最近は統一教会も清平に巨大な宗教施設を立てたり、「按手」や先祖解怨などの偽礼を通して信仰心を高めるというようなカトリック的要素を取り入れてきていると見ることもできる。いずれにしても、それは「信教の自由」の範疇に属すると言え、善悪・優劣をつけられるものではない。

 櫻井氏はあたかも自分が見てきたかのように、フォーデーズの講義が一種異様な感情に受講生たちを追い込むものであると主張するが、実際には彼は研修会の参与観察を行っていない。一方で、実際に統一教会の修練会を参与観察したアイリーン・バーカー博士はその様子を以下のように描写している。
「講義は、高等教育の多くの場所で毎日(同じかそれ以上の時間)なされているものよりもトランスを誘発するものではない。さらに、私が観察したことは、入会する者たちは講義の内容が面白くて刺激的であると感じたらしく、また積極的に聞き耳を立て、ノートをしばしば取っており、そして(講義の後で質問をすることから明らかなように)自分自身の過去の体験と関連づけているのである。統一教会の修練会では、お経や呪文のようなものが唱えられることはほとんどない。仮にそれが行われるところでも(欧米では、主にカリフォルニアであったが)、ゲストに関する限りは非常に限定された性格のものである。確かに、それはクリシュナ意識国際協会の寺院を訪問したときに参加するように勧められるお経や、実際に、より伝統あるヒンドゥー教の寺院で通常行われているものほど激しくはない。統一教会は恍惚状態を志向する宗教ではないし、通常の活動の一部として、信者たちを熱狂に駆り立てることはしない。・・・意識の変容状態または催眠については、そのような言葉が全く空虚な意味で適用され、同語反復的に用いられるか、普通の、日々起こっていることを描写しているのでない限り、統一教会の修練会に参加したことのある者なら誰にでも明らかなように、こうしたことは全く起こっていない。」(『ムーニーの成り立ち』第5章 選択か洗脳か?より抜粋)

 この違いはどこにあるのだろうか? バーカー博士が客観的な第三者として自らの目で統一教会の修練会を記述しているのに対して、櫻井氏の記述は裁判で争っている一方当事者の主張を再構成しているのに過ぎない、ということである。それは彼自身が見聞きしたファーストハンドな情報ではなく、あくまで脱会した元信者の目を通して観察されたフォーデーズセミナーの描写をトレースしているだけである。そしてそれは、裁判において損害賠償を請求するための、戦略的に変形された描写なのである。こうした偏った資料に依存し、研修会の様子を自分の目で実際に確認しようとしないのは、櫻井氏の研究方法の致命的な欠陥である。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳18


第3章 性に関する価値観:婚前の性行為と同性愛(2)

 統一運動における性欲に対する理解は、この宗教共同体の性に関する価値観に対するアプローチに非常に重要な洞察を与える。性欲をそれ自体で原罪の結果として見るアウグスティヌス主義とは異なり、インタビューを受けたメンバーは全員がそれを「自然な」ものであり、「神が与えた」人間性の側面であるとみなしていた。以下は典型的な反応である:
「私は性欲は私たちの性質の一部であり、とても重要な部分だと思う。それは私たちの愛の身体的側面だ。だから、私はそれは本当に自然なものだと思う・・・」(注10)

 この性欲に対する肯定的な評価は、共同体の日々の生活の脈絡の中で理解される必要がある。ここでは、全メンバーが最初の(少なくとも)三年間の独身期間を、異性のメンバーと常に関わり合う状況下で経験することを要求されていることを心に留めておくことが肝心である。男性と女性は日常的に一緒に伝道し、ファンド・レイジング(運動内の専門用語)をし、働き、食事をし、礼拝をするのである。性欲を本質的に善であるとみなす人が、そのような環境において「純潔」を守ることがいかにして可能なのであろうか? 独身のメンバーたちは、彼らがいくつかの方法で性欲に対処していることを示唆したが、それらはすべて非フロイト的(非ライヒ的と言った方が良いかもしれない)な性に対する理解をある程度反映している。個人が性欲をコントロールする方法として最も頻繁に言及されたのは以下の三つである:(1)祈祷:「私は常にこれらのことに関して、天の父である神からの評価を確認する。私は自分の生活が神を中心としたものとなることを望んでいるので、それらが起こるときとその後に、私は常にこの経験について内省する。」(注11)(2)自己鍛錬:「私たちは神の祝福の適切な時期が来るまで、性欲を含む自分の欲望を自己管理することを学ばなければならない。その時が来たら楽しむことができる。」(注12)自己抑制の重要な役割モデルが文師であり、彼自身の言葉によれば、彼は大学時代に強烈な性的誘惑に抵抗したという。(注13)他の関心事に集中する:「欲望についてくよくよ思い悩んでも、それを強くするだけだ。私は常に活動的であるように努め、神のための仕事に自己を投入する。」(注14)

 性欲をコントロールするためのこれらの戦術は主として個人の努力であり、それは各人が自らの霊的・道徳的成長に対して責任を持てるようにするという統一運動の関心を反映している。この仕事に対する共同体の役割は以下の三つである:(1)統一教会の信者になるということは、その人の性的生活に関する限り、過去との完全な決別を伴うものである。それ故に、メンバーたちはグループに加入する前の自身の性体験については、話すことはおろか考えることさえもしないように奨励されている。(注15)このことを強調する目的は、メンバーが性的な感情についてくよくよ考えるのを妨げるためである。なぜならそれは、彼らが回心する以前の生活を特徴づけるなんらかの不純な考えや行動パターンを助長するだけだからである。(2)未婚の男女の相互関係を統治している兄弟姉妹の役割は、比較的「純粋な」環境を作り出す傾向にある。信者たちによれば、そこでは性的誘惑が少なく、したがって個人が自らの性的感情をコントロールするのも容易であるという。(3)運動の大部分の人員を収容する地方のセンターでは、共同体の生活は厳密に守られたスケジュールによって統制されており、そこでは性的感情を育むような時間、機会、あるいはエネルギーを持つ余地はほとんどない。(注16)

 性欲と折り合いをつけることは個人の側における相当な努力を伴うが、この葛藤は運動の人間の心およびそれと生物学的動因としての性の関係に対する理解によって、いくらか和らげられている。彼らの心理学によると、それは仏教の思想と共通点があるのだが(注17)、性欲というものは個人がそれと「授受作用」をする度合いに応じて強くなったり弱くなったりするものなのである。肯定的な意味であれ否定的な意味であれ、性的な感情について思い悩めば悩むほど、それはより強くなり、人の生活により大きな影響を与えるようになるのである。おそらくこれが大多数の未婚のメンバーが、彼らは通常は他のメンバーと性的感情について話をしないと示唆したことを説明するであろう。(注18)なぜならそのような授受作用はこうした感情を強め、霊的な問題と実際的な問題の両方を生じさせる可能性があるからである。

(注10)インタビュー:カービー夫妻
(注11)インタビュー:ヒューレイ氏
(注12)インタビュー:ショー夫妻 。このような自己鍛錬は個々人によって異なるが、全員が一般的に考えていたのは、神を中心とする心が強い決意をもって性欲を克服するということであった。このことが含意しているのは、フロイトやライヒのカテゴリーはサタンを中心とする心にのみ当てはまるということである。
(注13)「私は大学時代に、異性を引き付けないように、静かで醜い男を装っていました。私が道を歩くときには、多くの誘惑がその途上にやってくるので、いつも下を向いて歩いていました。若い女性の中には、永遠の愛を願って血書で誓いを示す者もいました。このようなことが起こったのです。私が大学時代にたまに一人でいたときには、女性たちが私のところに入ってくるのです。分かりますか。そのような誘惑さえあったのです。私はそれを拒否しました。自分自身を訓練したのです。・・・たとえ100名の美しい女性たちが、しかも裸で現れたとしても、私は(神様と)一つになっていたので誘惑されず、つかまりませんでした。」 (文鮮明師、第4回ディレクター会議でのタイトルのない夜の講話、「マスター・スピークス」、1973年7月4日、p.6)[訳注:英語の原文は通訳の言葉を書き起こしたものであるため、文師を「彼」と三人称で表現している。しかし、これは文師の直接のスピーチであるため、日本語では第一人称に書き直した]
(注14)インタビュー:ベルマン女史
(注15)比較的大きな統一教会のセンターでメンバーたちにインタビューする許可を得ようと試みる際に、一人の重要なリーダーがインタビューの調査票に異議を唱えた。なぜなら、それはインタビュー予定者に対して、運動に加入する前に「性的に活発」であったかどうかを尋ねる質問を含んでいたためである。この質問はイエスかノーかを答えるだけのものであったが、そのリーダーがあまりに強く反対したため、もしある女性リーダーが強力に支持してくれなければ(この件と他の理由により、私は彼女を尊敬し称賛するようになった)、彼らが「それは想定外だ」と言っていたように、このプロジェクトは決して実現しなかったであろうと思われるほどであった。後に、その男性リーダーが反対した理由の一部は、メンバーによれば非倫理的な手段で行われた調査とされている、ジョン・ロフランドの「終末論を説くカルト」を筆者が称賛したことにあったということを、私は発見した。別の理由は、神は過去に不純な生活を送ってきた者たちに対して厳格な期待を持っておられるが故に、「神様はあなた方に、過去の誤った愛を完全に忘れてしまうほどに自分自身を刷新することを願っておられる」という文師の発言であった。「イエス様の復活と私たち自身」マスター・スピークス、番号77-04-10、p.13を参照のこと。
(注16)ヒューレイ氏とのインタビューの中で、彼は統一神学校に来て以来、自分の性欲をコントロールするのが難しくなったと言った。なぜなら、いまはそれについて考える時間が増え、姉妹たちと形式ばらずに関わる機会が増えたからだという。彼が地方のセンターで「現場にいたとき」には、性欲はそれほど大きな問題ではなかった。
(注17)「ありとあらゆるものごとは、私たちの思いの結果生じる。思いに因よらぬことはなく、思いに成な らぬものもない。」(法句経、相似詩)原文の英訳は、アービング・バビット訳のThe Dhammapada (New York: New Directions, 1965), p. 3.
(注18)性的な感情について話し合うことは、運動のいかなる公式的なやり方でも禁止あるいは抑制されてはいないことは指摘されなければならない。性は私たちの社会のほとんどの人にとって微妙なテーマなので、そのことについて話すメンバーは、彼らがとりわけ近しく感じている人と話すのである。

カテゴリー: ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』71


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第71回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」の中で、ツーデーズセミナーの次の段階としての「5 ライフトレーニング」(p.233-235)について説明している。これは簡単に言えば、学校帰りや仕事帰りに1日4時間余りの教育を受けるために、二週間から一カ月間通いで行うトレーニングのことである。講義内容はビデオセンターやツーデーズで聞いた内容を繰り返したうえで、それを実践する内容が含まれてくるという。

 こうした合宿のセミナーと通いのトレーニングの組み合わせによる教育は、日本における青年伝道の特徴のようである。アイリーン・バーカー博士の「ムーニーの成り立ち」に出てくる西洋の伝道プロセス、特にカリフォルニアの事例に比べると、日本における伝道活動はじっくりと長い時間をかけて伝道するのが特徴であり、しかも世俗の社会における勉強や仕事を継続しながら教育を受けるため、受講者は日々の時間の大半をどっぷりと宗教的環境に浸かっているわけではない。

 西洋において、統一教会への回心が「洗脳」や「マインド・コントロール」という非難を浴びた理由の一つに、外部の世界との接触や情報が制限された環境の中で、極めて短期間のうちに入会しているという点が指摘された。つまり、大事な決断をさせるのに十分な時間と情報を与えていないのではないかということだ。とくに、カリフォルニアの「オークランド・ファミリー」と呼ばれる運動の伝道システムは、2日修、7日修、21日修と、比較的短期間に集中的に修練会に参加させて、一気に教会員にしてしまうというスタイルだったようでだ。そこでは、大部分のメンバーが運動に出会って2~3週間以内に入会しており、しかもその間は修練会にどっぷりと浸かっていたというのだから、はた目には「洗脳」と映ったのかもしれない。

 時代によって異なると思うが、日本ではこれほど短期間に伝道されるケースはまずないだろう。1983年に大学一年で伝道された私の場合、霊の親(紹介者のこと)に出会ったのが5月で、しばらく週一回のペースでビデオを聴講し、7月に7日修、8月に新人研、9月には入教というCARPの新入生伝道を絵に描いたような「最短コース」であったが、それでも4カ月はかかっている。櫻井氏の調査対象となった元信者たちの場合、伝道から入信に至るまでの期間は4ヶ月が突出して多く、これもカリフォルニアに比べれば十分に長いとも言えるし、社会人であれば職場に通いながらのトレーニングであるため、外部の世界との接触が完全に分断されているわけではないという意味では、「ゆるい」とさえ言えるのではないだろうか?

 ライフトレーニングにおいては、一般的に受講生たちは昼間は学校や職場などに出かけて通常の社会生活を行っており、夜だけ講義による研修を受けたり、信仰生活の初歩的な手ほどきを受けるという生活をする。一日のうちで宗教的理念に触れたり宗教的な環境下で生活するのは数時間であり、言ってみれば世俗世界と聖なる世界を行ったり来たりするような環境のもとで教育がなされることになる。

 こうした中で受講生は、櫻井氏が指摘するように「再臨論」や「主の路程」に関する講義を受けるようになる。彼らの多くが、この時点でメシヤが文鮮明師であることと、自分が学んできた内容が統一教会の教えであることを知るようになる。これを信者たちは「主を証される」とか、「主の証しを受ける」と言ってきた。泊まり込みのセミナーに比べるならば、研修の途中でライフトレーニングを離脱しようとすることはより容易である上に、これまで日常生活を送ってきた一般社会との接触が常に存在するために、世俗的な誘惑がより働きやすい環境下にある。したがって、ライフトレーニングにおいて「主の証し」を受けるときの受講生の心理状態は、泊りこみの研修会よりもはるかに冷静で客観的な状態にあると推察され、世俗的情報と宗教的情報の両者が拮抗する環境下で、文鮮明師や統一運動に関する情報を提供されることになる。しかも、ライフトレーニングの会場となる施設は通常駅の近くなどの便利な場所に位置しているため、自分が関わっている団体の背景を知った時点でそこを離脱することは、その意思さえあれば非常に簡単である。

 ライフトレーニングの参加者のうち、どの程度の割合の者が次の段階である「フォーデーズ」に参加することになるかは確たるデータがないが、全員が参加するわけではないことは「青春を返せ」裁判の原告たちも認めている。拙著『統一教会の検証』(光言社)のデータによれば、二日間の修練会に参加した者14383人のうち、四日間の修練会に参加した者は8258名であるから、この間の離脱率は42.6%ということになる。このことは、ライフトレーニングを前後して少なくともツーデーズ参加者の40%が離脱することを意味している。それほど効率が良いわけではないのである。

 私自身は、「東京第7地区」において、壮年壮婦に対するライフトレーニングの講師も担当していた。これはツーデーズを受講した者の中で、さらに深く学びたいという意思のある者に対して、週に2回くらいづつビデオセンターのある施設に通ってきてもらい、一連の講義を聞くというものである。私の行っていたライフトレーニングは、①緒論・アダム家庭、②ノア・アブラハム家庭、③メシヤの降臨とその再臨の目的、④再臨論の五コマの講義からなっており、受講生は各々のスケジュールが空いている時間に昼間ビデオセンターを訪れ、講義を受けたら感想文を書き、カウンセラーと話をして帰宅するということを繰り返す。仕事を持っている婦人の場合には夕方6時以降に講義することもあった。これも合宿ではなく通いの講義であるが、教育効果はさほど変わらない。本質をつかむ人は、普段の生活の中で通って講義を聞いても、よく内容を理解した。ライフトレーニングを通過して、最後の再臨論の講義を聞いた者は、その時点でメシヤが文鮮明師であることを明かされることになる。その意味では、青年のライフトレーニングも、壮年壮婦のライフトレーニングも講義の詳しさが違うだけで、教育内容は同じである。

 さて、櫻井氏はライフトレーニングの教育内容について批判的に記述しているので、その内容について検証しておきたい。

「受講生には歴史的・摂理的必然ということが先行して教えられているために、なぜ文鮮明がメシヤなのかと、逆に彼から歴史をたどる発想は生まれてこない。」(p.233)
「どんなことがあってもメシヤを受け入れなければならないのだという心構えが重視され、まさにその心的態度をビデオ学習やツーデーズセミナー、ライフトレーニングという三段階の研修を通して養成しようとするのである。」「日本の統一教会は、信じがたさという弱点を強みにする論理を強調する。」(p.234)
「ここで再臨主に関わる一般的な理解の問題が個人の信仰の問題に置き換えられていることを確認しておきたい。・・・文鮮明を明かすまで、人間の不信仰による摂理の失敗、人間と世界に関わる諸問題は全て不信仰が原因で生じたということを繰り返し説かれている。そういう認識の枠組みがある程度できあがった段階で文鮮明をメシヤと明かされると、信仰的によく生きることを考え始めた受講生は受け入れようかなという心境になる。」(p.235)

 統一教会の信者たちが行ってきた伝道の方法において、最初から文鮮明師をメシヤであるとか教会の創設者として紹介するのではなく、教理を説明する中で「メシヤ」という抽象概念を理解してもらい、それを受け入れ易いように一定の教育を施した土台の上で、最後に「再臨のメシヤは文鮮明師である」という結論を告げていたことは事実であろう。しかし、宗教の世界においては、「奥義」や「秘儀」などと呼ばれる奥深い真理を伝える際に、最初からすべての情報を開示するのではなく、段階的に情報を開示しながら、求道者にその真理を受け止める心構えができたときに初めて秘密の内容を伝えるということがある。そうした教え方も「信教の自由」の一部であり、世俗の論理で「最初から全情報を開示すべきだ」と強要できるものではないと私は考える。

 櫻井氏は、「再臨主に関わる一般的な理解の問題が個人の信仰の問題に置き換えられている」と批判するが、メシヤを受け入れることができなかったという過去の歴史の教訓を、個人の信仰のあり方と関連付けるのは当然のことであり、それを通して過去の物語が私にとって「生きた物語」となるのである。キリスト教の礼拝において語られる説教は、そのほとんどが聖書の物語を単なる過去の出来事として教えるのではなく、自分がその時代、その場所に生きていたらどう振舞ったであろうかという「実存的問題」として教えようとする。統一教会の信徒たちが再臨主を受け入れていく際にも、これと同様の理解がなされていると言える。

 にもかかわらず、そうした教育によって全ての人が文鮮明師を再臨主として受け入れるようになるわけではなく、むしろ受け入れない人の方が多いという事実は、こうした教育が必ずしも奏功するわけではないことを示している。櫻井氏の言うように、文鮮明師をメシヤとして受け止める「認識の枠組み」を受講者の中に形成しようという努力がなされたとしても、願った通りの認識を受講者がしてくれるとは限らないのである。こうした教育によって、「なぜ文鮮明がメシヤなのか」という批判的な思考をする能力が受講生から剥奪されるわけではなく、そのように考えて結論を受け入れない受講生も多数いるのである。最終的には、受講者が文鮮明師をメシヤとして受け入れるかどうかは、もともとその人に宗教的な素養があるかないかによって決定されると言っていいだろう。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳17


第3章 性に関する価値観:婚前の性行為と同性愛(1)

 統一運動の倫理的価値観、とりわけ性に関する価値観はその神学から導かれ、またそれによって正当性を与えられる。伝統的なキリスト教道徳の全般的な遵守に加えて、グループの良き生活に対するアプローチは、道徳的行動の二つの基本的特徴を強調する。すなわち、個人が「何か」をする動機と、「何か」をした結果である。ほとんどどんな場合でも、「何か」あるいは特定の道徳的行為は以下の二つの基準によって(運動の教えにおいてだけでなく、メンバーの視点によっても)評価される。(1)「何か」をした動機または理由は、神を中心としているか?(2)「何か」をした結果や帰結は、地上天国の実現に貢献しそうであるか。(注1)これらの基準に合致する行動は善と判断される一方で、合致しない行動は悪とみなされる。神学的な言葉で言えば、「個人が創造目的を成就するのを助けるものが善であり、その反対の方向に向かうものが悪である。」(注2)運動の著名な神学者である金永雲のこの見解は、著者とメンバーとの議論の中ではっきりと述べられるか、もしくは暗示されたのであった。

 道徳的価値に対するこのアプローチが含意していることの一つは、行動そのものは良くも悪くもないということである。すべては個人の「目的」によって決まるのであり、この言葉は動機と意図された結果の両方を含んでいる。したがって、同じ行為でもその目的が神を中心としているか否かによって道徳的に善にも悪にもなり得るのである。運動の神学者たちは、彼らの視点が状況倫理に似ているということを否定するものの、同時に「過渡期(現代の世界)においては、純粋な善というものはしばしば決定不可能であり、実践することは非常に難しい」(注3)ということは認識している。

 実践のレベルにおいては、倫理に対するこのアプローチは、布教活動や資金調達の行為において機能していた悪名高い「天的詐欺」の教義に見られるように、時として運動の外の世界に対する関係を曖昧で脆弱なものとした。文師は、「もしあなたが人を利用しようとして嘘をついたならば、それは罪になります。しかし、彼に良いことをしようとして嘘をついたのであれば、それは罪ではありません。」(注4)と言ったとされている。

 この発言に含意されている倫理的相対主義は、グループの経済活動および伝道活動において詐欺的実践を助長したことは疑いがないと思われる。運動の本部は不実表示に対して公式に遺憾の意を表し、「・・・資金調達活動における『情報開示』についてのメンバーに対する一連の明確な指示」(注5)を発表したとはいえ、神を中心とする動機にこだわる運動の倫理的立場が、一般的に意思決定におけるある程度の融通性を許容するのではないかという若干の疑いが残る。

 統一運動の倫理的価値観に関する上記の議論は、この運動における性に関する価値観には直接当てはまらない。性はグループの堕落の教義のまさに中心に位置するものであり、メンバーたちに主として義務論的指向性をもった絶対主義として認識される傾向にある。例えば、中央の指導者たちは資金調達活動における天的詐欺の使用を遺憾に思うかもしれないが、各地方のセンターが持っている相対的自律性と、原理講論に表現された価値観、および上記の引用された文師の言葉の故に、草の根レベルにおいてはこの実践を大目に見ることもあり得るかもしれない。同じ中央の指導者たちが、そのような個人の自由を性に関する価値観の領域において大目に見るということはあり得ないのである。以下に記述するように、統一運動の性倫理においては絶対主義が支配的なのである。

 性に関する特定の価値観を調べる前に、グループの道徳的理想全般に対するアプローチの「精神」をとらえる上で役に立つ、三つの基本的なポイントを認識しておくことは重要である。第一に、運動の道徳的価値観から導き出される理想が、すべてのメンバーによって同じように理解されているわけではないということは明白である。あるメンバーが「西洋的アプローチ」と呼ぶものをとる者がいる。彼らは理想を、無条件に縛り付けるものであるとみなす。もしこれらの個人が特定の理想を実行しなければ、彼らはフラストレーションや罪悪感を経験しがちである。ほとんどのアメリカ人のメンバーがおそらくこのケースであろう。一方で、「東洋的アプローチ」をとる者もいる。彼らは理想を、拘束するものではあるが、特定の個人に対して現実的に何が期待できるかを意識することによって、彼らの熱望を修正するものでもあるとみなすのである。文師(およびおそらく極東出身のメンバーたち)はこの後者のアプローチをとるが、アメリカの信者たちは「お父様」が何を意図しているのかを常に理解できるとは限らず、その結果として、ときには自分たちが運動の理想を実現できないことに困惑したりするのである。

 第二に、運動の道徳的価値観は書面形式で明記されているわけではなく、メンバーがなすべきこととしてはいけないことを規定した公式の規則は存在しない。(注7)あるメンバーはこのことを次のように表現した:「それは、人々が統一原理を聞いたときに、彼らは高い生活基準で生きるべきだということを知るというだけのことだ。」(注8)社会学的な視点からは、このことは新しいメンバーはグループへの参加を通して、ある道徳的期待を「つかもうとする」ときに、価値観を学ぶということを意味している。非公式的な道徳的指導が、そしてより重要なのは、年長の兄弟姉妹の実際の行動が、初心者が見習うための規範と役割モデルを提供するのである。

 最後に、運動の中には、全メンバーが忠実に守ることを期待されている規定された行動と、個人の側で判断可能な選択の余地を残した、望ましい行動という区別があるように思われる。(注9)婚前の純潔は全メンバーに絶対的に要求されており、規定された行動の主要な例である。一方で、結婚したカップルは避妊を行わないように奨励されてはいるが、彼らには家族計画の問題に関しては自分自身で決定する自由がある。これが望ましい行動の例である。

(注1)このアプローチのより簡潔な表現は、『統一原理解説』、pp.50-51を参照のこと。
(注2)『統一神学とキリスト教思想』、 p .174.
(注3)前掲書、p. 174 .
(注4)B・キム「回心と信仰の維持:統一教会と文鮮明の事例」(1976年の宗教科学研究学会の年次集会に提出された論文)、p.22.
(注5)デビッド・G・ブロムリーとアンソン・D・シュウプ・Jr『新宗教の資金調達』、宗教科学研究誌 19 (3, 1980):p.233。
(注6)インタビュー:ショー夫妻
(注7)このことは、「キリスト共同組織」という根本主義グループの性的なふるまいに対するアプローチとは著しい対照をなしている。そこでは、「肉欲の罪を防ぐために、組織は兄弟姉妹間の相互作用を管理するための明示的なルールを設定した。・・・新しい受講者が訓練期間のために「ランド」(キリスト共同組織の本拠地)に来るとき、・・・牧師はオリエンテーションの時間に彼らに対して、男女の相互作用を管理する非常に具体的な訓令を読むのである。」リチャードソン、スチュワート、シモンズ、「組織化された奇跡」、pp.147-148。
(注8)インタビュー:ショー夫妻
(注9)「規定された活動とは、個人がしなければならない(あるいはしてはならない)ことである。規定を破れば罰を受けるようになる。・・・奨励された活動を行えば個人は報酬を与えられるが、一般的にはそれを行わないことによって罰せられることはない。」(バーナード・ファーバー、『ファミリー:組織と相互作用』[サンフランシスコ:チャンドラー出版社、1964]pp.41-42。)

カテゴリー: ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』70


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第70回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」の中で、ビデオセンターの次の段階としての「4 ツーデーズセミナー」(p.229-33)について説明している。前回までは班長による研修生の管理、無駄話の禁止、外部情報からの遮断、食事、講師の紹介、睡眠といったセミナーの外的な構成要素をアイリーン・バーカー博士の「ムーニーの成り立ち」の記述と比較しながら批判的に分析してきたが、今回は私自身の講師体験をもとにして彼の記述が間違っていることを主張したいと思う。

 櫻井氏は「青春を返せ」裁判の原告の主張に則って、ツーデーズ・セミナーが受講者に寝不足や疲労感をもたらすことによって正常な判断力を減退させ、合理的な判断ができない状態に追い込んで次のステップである「ライフトレーニング」への参加を決意させるものであると主張している。しかし、これは私の講師体験からすれば誤った認識であり、少なくとも著しく偏った主張であると言わざるを得ない。既に述べたように、私は1987~88年にかけて原理研究会の運営するビデオセンターに通ってくる学生に対する講義、原理研究会主催の2日間の修練会の講師、7日間、21日間の修練会の進行係などを担当していた。また、1990年の1月から翌年6月まで、東京の武蔵野市と三鷹市を中心とする、当時「東京第7地区」と呼ばれていた信徒の組織において、教育部の講師、教育部長、ビデオセンターの所長兼講師などを担当した経験がある。原理研究会における2日修は、札幌「青春を返せ」裁判の原告たちが体験したツーデーズ・セミナーとほぼ同じようなスケジュールである。一方で、「東京第7地区」で壮年壮婦を対象として私が行ったツーデーズ・セミナーは、それよりもはるかに緩やかで時間の短いものであった。この二つの体験から、修練会の環境と回心の関係、そして人が伝道されるということの本質について私の考えを述べることにする。

 私が「東京第7地区」で行っていたツーデーズ・セミナーは、自身の運営するビデオセンターに通っているゲストの中から学習の進展度が同じくらいの人を2~4人選んで、ビデオセンターのスタッフが日程を決定して行っていた。既婚の婦人の場合はウイークデーに時間がある場合が多いので、1カ月に1・2回ほどツーデーズの日程を決めておき、堕落論までビデオ学習が進んだ人を対象に、セミナーに参加するよう勧めるのである。ビデオセンターの所長である私が、感想文やカウンセラーの報告などをもとにして、理解が良いと思われる人にツーデーズ・セミナーに勧めるよう、カウンセラーに指示を出した。参加が決定したら紹介者に連絡を入れた。紹介者はゲストがツーデーズに参加すると非常に喜んで、当日プレゼントなどを持ってビデオセンターを訪れることがよくあった。

 壮婦の場合には家庭があるので、ツーデーズ・セミナーは合宿ではなく通いで行われた。一日の講義時間は午前中2時間と午後2時間の2コマで4時間、全体の講義時間は2日間で合わせて8時間ほどである。幼い子供がいる場合は、保育室に子供を預けて講義に参加することになる。これまでビデオを通して聞いてきた内容を同じ建物の中で学ぶのであり、生の講義で聞くということだけが違いで、特に余人を排した閉鎖的な環境の中で行われるわけではない。また普段の生活をしながら通いで講義を受けるわけなので、特に睡眠不足や過労の状態で講義を受けるわけでもなく、時間の関係で青年のセミナーのようにレクリエーションやスポーツなどが行われることはない。にもかかわらず、壮婦のツーデーズ・セミナーが青年の合宿セミナーに比べて教育力が劣っているかといえば、決してそんなことはない。講義時間が短いので獲得する知識の量は減るかもしれないが、しっかりとポイントをつかんで理解し、次の段階に進んで行く人は大勢いたのである。

 原理研究会における合宿型のセミナーと壮婦のための通いのセミナーの両方を担当した私が結論として言えることは、都会を離れた研修所に合宿することや、短期間で数多くの講義を聞くこと、比較的プライバシーの抑制された環境下で集団生活をすること、レクリエーションやスポーツ、班長による面接などは、回心を生み出すための必要条件ではないということである。なぜなら、こうしたものを受けても回心せずに、結局は伝道されずに去って行く人が大勢いる一方で、こうしたものがまったく無くても回心し、伝道される人が大勢いるからである。事実、壮婦のための通いのツーデーズ・セミナーを通して多くの人が伝道され、いまでも信仰を持ち続けている。こうした環境的な与件は、回心の本質的な要因ではなく、結局その人が伝道されるかどうかは、教えそのものを受け入れるか否かによって決定されるのである。

 ツーデーズ・セミナーの講師は私が務めたが、当時の私の年齢は24~26歳であり、そのような若者が30代から40代の家庭の主婦、ときには自分の母親よりも年上の60代の方に説教じみた内容の講義をするわけだから、今になって考えればよく黙って聞いてくれたものだと思う。私はビデオ・センターのカウンセラーから「このビデオセンターの所長です」とゲストに対して紹介された。それ以上に何か大げさな形容をして紹介されたことはない。どんなに権威付けをしても、その人の本質は語る内容や態度を通して現われるものだから、余計なことを言わなくても良いとカウンセラーを指導していたためである。

 私と受講生との年齢的なギャップ、および極めてシンプルな紹介の仕方にもかかわらず、私は多くの受講生に「先生」として受け入れられ、その前で一定の権威をもって語ることができた。それは受講生たちが私自身を見ていたのではなく、私が語る内容に集中していたからであると思う。語る私に人生経験や個人的な内容がなくとも、語られている内容が奥深い真理を含んでいたために、その内容そのものの権威が時として受講生を圧倒し、感動させるのである。私は原理研究会にいた頃から原理講師を幾度も担当してきたが、常に「人の心は神が動かすのであって、小手先の技術によって感動が生まれるのではない」という信念に従って講義をしてきた。したがって、講義のための最高の準備はどのように上手に話をするかという話術の研究ではなく、自我を捨てて、その人に神が語ろうとする内容を伝える通過体となり、媒介となることであり、そのための最高の手段が祈りであった。これが私が講義に望むときの基本姿勢であった。

 講義の内容は、1日目が創造原理の内容であり、二日目が堕落論と復帰原理であった。復帰原理の内容は、「歴史の同時性」の説明をもって終了する。個々の事実と年代を挙げながら、いかに人類歴史が繰り返しているかを説明すると、多くの受講生が感動すると共に、いま自分が生きている時代がちょうど2000年前にイエス・キリストがこの地上に誕生したのと同じような時代なのだということを理解するようになる。ツーデーズの講義を聞き終わって、内容を理解して関心を示した人は、「メシヤ」という存在について関心を示すようになる。メシヤが誰なのか知りたい、メシヤに会ってみたいという欲求を持つようになるのであるが、もちろんすべての人がこのようになるわけではない。ツーデーズ・セミナーに対する反応は人それぞれであり、神にも罪にもメシヤにもまったく関心を示さずに、そこで勉強を中断してしまう人もいる。そういう人をそれ以上つなぎとめておくことは不可能で、自然にビデオセンターには通わなくなってしまう。

 しかし、ツーデーズ・セミナーで感動し、その内容を真理として受けとめた人は、結論を早く知りたいと思うようになる。そういう人に対しては、メシヤに出会うためにはそれなりの心構えがいるから、そのための勉強を継続しましょうと勧める。それは「ライフトレーニング」と呼ばれる一連の講義で、週に2回くらいづつビデオセンターのある施設に通ってきて、一連の講義を聞く約束を取るのである。この「ライフトレーニング」の講義も、私がビデオセンターの所長をいている間は、私自身が担当した。この決定プロセスには、櫻井氏の言う「ノリノリの雰囲気」(p.233)などというものは一切なかったが、関心のある受講者は自らの意思で先に進むことを決定した。

 このように、壮年壮婦と青年学生では、同じ「ツーデーズセミナー」でも環境はまったく異なるが、教えられる内容はほぼ同じで、詳しさや講義時間が異なるだけである。そしてどちらも、関心のある人は学び続け、関心のない人は去っていくという結果となる点でも同じである。人が伝道されるプロセスという観点からすれば、セミナーの外的な環境の差異は、さほど本質的な違いをもたらさないのである。ましてや櫻井氏の言うような寝不足や疲労感などというものは、宗教的回心とは何の関係もないものである。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』