解散命令請求訴訟に提出した意見書07


 島田裕巳氏は「宗教とマインド・コントロール」と題する論文の中で以下のように述べている。
「洗脳が批判の対象とされたとき、洗脳そのものが問題にされたわけではなかった。ある集団が洗脳を行っていると批判したのは、その集団とイデオロギー的に対立している側の人間たちであった。つまり、洗脳は敵対する集団を批判するための道具ないしは武器として使われたことになる。これは、マインド・コントロールについても共通している。マインド・コントロールの疑いをかけられるのは、社会的に問題があるとされている教団であり、そういった非難を浴びせるのは、教団からの脱会者や脱会工作に従事している人間たちだからである。彼らは、マインド・コントロールの事実によって、その教団を批判しているわけではなく、教団に対する批判を広く社会に受け入れさせるためにマインド・コントロールが行われていると告発しているのである。

 実際にマインド・コントロールが行われているかどうかが問われる前に、まず、教団についての評価が前提とされている。問題があるとされている教団が説いているのは、まちがった教えであり、普通の人間はそれを信じたりはしない。にもかかわらず、そういった教団に入信する人間が生まれるのは、その教団が巧みなマインド・コントロールによって、勧誘の対象となった人間の心をあやつり、だますようにして入信させているからだというのである。脱会工作が正当化されるのも、マインド・コントロールの存在が前提とされている。」(注23)
「マインド・コントロールということが事実として存在するのか。それは、洗脳以上にあやしい。ハッサンなどのように、マインド・コントロールの危険性を訴える人間たちは、問題となる宗教団体では人間の心を支配する巧みな方法を開発しているかのような印象を与えようとしているが、実際にそれほど効果的な方法が開発されているようには思えない。
破壊的カルトとして批判されている宗教団体であっても、信者を入信させるため行っている研修会などのプログラムは基本的に単純である。教団の教師や先輩の信者が行う教義の講義が中心で、途中に歌や祈りがはさまれる。教える側はきわめて熱心であり、それが勧誘の対象となる人間に伝わることはあるが、それ以外に特殊な方法が用いられるわけではない。」(注24)
「マインド・コントロールの問題について議論する際には、どの教団が対象となっているかが重要である。マインド・コントロールの有無よりも、その教団に対する社会的評価の方がはるかに重要な意味を持っている。社会に定着した既成教団の場合には、信仰の選択が制限されたとしても、マインド・コントロールの批判が寄せられることはない。むしろそれは、信教の自由として保護の対象とさえ見なされるのである。
マインド・コントロールということばは、結局のところ、きわめて便宜的に使われていると考えざるをえない。マインド・コントロールの方法も効力もあいまいなうえ、多くは特定の教団を批判するための道具として使われる傾向がある。」(注25)

 櫻井義秀氏は、「マインド・コントロール言説」について分析した論文の中で、「以上の考察で、カルトが本来的に人を騙す組織であり、参加者は多かれ少なかれマインド・コントロールされ、被害者になっているというのは、主観的にも客観的にも事実そのものではなく、そのようなものとして認識するという構図から構成された評価的事実であることが明らかになった。反カルト運動家や職業的ディプログラマー(脱洗脳家)が自己の行為を説明するためにマインド・コントロール論を用いるのは当然であろう。」(注26)と述べている。

 櫻井氏のマインド・コントロールに対する批判は、実は手厳しい。
「最後に、マインド・コントロール論の騙されたという言い方に筆者が徹底してこだわりたい理由を述べておきたい。マインド・コントロールとは、自己の経験を自分と第三の社会的勢力が二重に解釈した語り口でしかない。騙されたと自ら語ることで、マインド・コントロール論は意図せずして自ら自律性、自己責任の倫理の破壊に手を貸す恐れがある。信仰者は、教団へ入信する、活動をはじめる、継続する、それらのいずれの段階においても、認知的不協和を生じた諸段階で、自己の信念で行動するか、教団に従うかの決断をしている。閉鎖的な、あるいは権威主義的な教団の場合、自己の解釈は全てエゴイズムとして見なされ、自我をとるか、教団(救済)をとるかの二者択一が迫られることがある。自我を守るか、自我を超えたものをとるかの内面的葛藤の結果、いかなる決断をしたにせよ、その帰結は選択したものの責任として引き受けなければならない。その決断の時点で、当人に責任能力があったか、なかったかという証明をその時点に遡って行うことは不可能である。むしろ、決断の自由、自己責任を認識、倫理上考慮することで、人間の自律性という主張ができると考える。そのような覚悟を、信じるという行為の重みとして信仰者には自覚されるべきであろう。」(注27)

 大田俊寛氏は、西田公昭氏の「マインド・コントロール理論」はカルトのみならず宗教的回心の全般に当てはまってしまうのではないか、と批判している。そもそも「マインド・コントロール」が可能なのかについても、「現実的には、本人に動機・関心がないにもかかわらず、カルト的団体に加入するということは、少なくとも管見の限りでは、まったくあり得ない」「マインド・コントロール論者はしばしば、自らの理論が『科学』的であり、『再現性』によって裏づけられていると主張するが、それは明らかな虚偽であると言わなければならない。」(注28)と述べている。

 大田氏はさらに、マインド・コントロール論の弊害として、法秩序の崩壊を挙げている。
「裁判で扱われる様々なケースにおいて、当人の行動の一つ一つに対し、『マインド・コントロールされていた』可能性を考慮に入れ始めると、審理をスムースに進めることは著しく困難になる。また、そういった理由から犯罪への処罰が減免されるということになれば、個人の主体性に立脚する近代の法秩序は、根底から瓦解することになる。」(注29)

(注23)島田裕巳「宗教とマインド・コントロール」『季刊AZ』33、1994年11月、p.126-7
(注24)島田前掲書、p.128
(注25)島田前掲書、p.129
(注26)櫻井前掲書、p.91
(注27)櫻井前掲書、p.94-5
(注28)大田前掲書、p.60
(注29)大田前掲書,p.62

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