書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』146


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第146回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第八章 韓国社会と統一教会」の続き

 先回は中西氏が「韓国における統一教会研究」と題して紹介した韓国における先行研究、ならびに日本との違いに関する記述を踏まえて、反統一教会運動ならびに反カルト運動の実相について、韓国と米国に焦点を絞って解説した。今回はその続きで、ヨーロッパと日本の状況を解説する。

 新宗教研究センター(Center for Studies of New Religions=CESNUR)は新宗教研究の分野では最も古く、尊敬され、影響力のある学術団体で、1988年にイタリアのトリノで設立された。ICSAが新宗教を「カルト」と呼ぶ批判的な学会であるとすれば、CESNURは新宗教に対して公正で客観的な学会であると言える。CESNURの中心的な学者たちは、アメリカにおけるカルト論争、洗脳論争で新宗教を擁護する重要な役割を果たし、強制改宗の終焉に貢献した。

マッシモ・イントロヴィニエ氏

マッシモ・イントロヴィニエ氏

 CESNURの代表を務めるマッシモ・イントロヴィニエ氏は、ヨーロッパの反カルト運動について以下のように述べている。
「ヨーロッパの反カルト運動は小さいがよく組織されており、資金も豊富で、1970年代初頭から存在した。彼らは80年代に政治的な関心を集めようとしたが成功せず、90年代になって太陽寺院の集団自殺事件が起こってからにわかに注目を浴びるようになった。しかし太陽寺院の事件は単なるきっかけに過ぎない。反カルト運動が勢力を強めるようになった背景には、もう少し実際的な問題が絡んでいるのである。

 一つは、共産圏の崩壊と冷戦の終結によって、フランスやドイツの諜報機関が共産主義者を監視する必要がなくなり、仕事が減ったために、カルトに対する警戒をそれに代わる仕事としてクローズ・アップさせたということだ。ドイツのシークレット・サービスが、大した事件も起こっていないのにサイエントロジーの捜査に総動員体制を引いたのは、その仕事がなければ人員を削減されてしまう可能性が大きかったからである。

 またドイツの教会の職員には、神父や牧師のほかに『カルト専門家』という役職があり、それによって給料をもらっている人々がいる。彼らは常にカルトは重大な問題であると叫び続けなければ、自分たちが職を失ってしまう危険があるので、常に自己宣伝のために『カルトの脅威』を叫ぶのである。

 これに政治的な理由が加わる。フランスにおいては、左翼的な陣営が徹底的に宗教の取り締まりを主張している。彼らは自発的な宗教組織に寛容な米国憲法を徹底的に批判し、世俗の国家が宗教をコントロールするフランス憲法の精神に帰れと叫ぶ。彼らのスローガンは、『もし太陽寺院のような宗教団体が嫌なら、アメリカのようになるな。アメリカのようになればカルトがはびこる』である。このようにフランスでは、左翼的で反アメリカ的な思想の持ち主が、反カルト運動の一翼をなしているのである。」(1998年4月17~19日に米国ワシントンDCで開かれたICRFの国際会議での発言)

 ヨーロッパにおける反カルト運動は、冷戦終結という政治的な状況、「カルトの脅威」を叫ばなければ職を失ってしまう人々の存在、世俗的で反宗教的なイデオロギーの台頭など、新宗教そのものが原因というよりも、それを取り巻く社会の事情によって突き動かされていることが分かる。

森山諭牧師

森山諭牧師

 日本における統一教会反対運動は、大きく分けて三つの勢力からなっている。その勢力の一番目は、既成キリスト教の牧師たちである。彼らの反対の動機は、異端との闘争にある。彼らの視点からは統一教会は異端の信仰であるため、その信仰を棄てさせなければ救われないと考えているのである。日本において拉致監禁を伴う強制改宗を最初に行ったのは、日本イエス・キリスト教団荻窪栄光教会の森山諭牧師で、1966年早春のことだった。森山牧師は1976年に八王子の大学セミナーハウスで「異端問題対策セミナー」を開催し、それまでの10年間の経験を元に、身体隔離を手段とした脱会説得法を他の福音派の牧師たちに伝授した。その後、強制改宗事件が増加するようになる。

 森山牧師とその薫陶を受けた牧師たちは、聖書を文字どおりに解釈する「福音派」と呼ばれるグループの牧師たちだったが、統一教会に反対する牧師たちは必ずしも福音派というわけではなく、むしろ自由主義神学を信奉する、日本基督教団の牧師たちもいる。その中にはキリスト者でありながら左翼的な思想をもつ人物もおり、一口に「反対牧師」と言っても、その思想的傾向は必ずしも同じではない。

 二番目の勢力は、「反対父母の会」(全国原理運動被害者父母の会)である。統一教会に自分の息子・娘が入信した親たちの立場からは、我が子は統一教会にだまされている、洗脳されているとしか考えられなかったので、「子供を返せ!」と叫びながら反対運動をするようになった。これが反対父母の会が結成された背景である。

 統一教会に対する「反対父母の会」が結成されるようになった背景には、マスコミの報道がある。1967年7月7日付朝日新聞夕刊に、「親泣かせの原理運動」の記事が掲載され、これによって不安をかきたてられた統一教会信者の親たちが、やがて「反対父母の会」につながって教育されるようになったのである。

 「反対父母の会」は、統一教会信者の父母たちが子供のことを心配して運営している組織というよりは、「統一教会に反対する」という思想的な目的をもって活動している組織であると言える。その役割は、①統一教会に関する悪い情報を社会に宣伝する、②統一教会信者の父母に連絡を取り、統一教会に対する悪い情報を提供して不安をあおる、③「保護」(実際には監禁)して脱会させなければ子供の人生が台無しになると説得する、④強制改宗を行う牧師や脱会屋を紹介する、などである。

 三番目の勢力は、共産党や旧社会党に代表されるような左翼勢力だ。統一教会が共産主義に反対する保守勢力であったため、彼らはイデオロギー的対立を動機として統一教会に反対してきた。彼らの台頭は、国際勝共連合の設立とその活動と切っても切れない関係にある。国際勝共連合が推進したスパイ防止法制定運動、レフチェンコ事件、そして「全国霊感商法対策弁護士連絡会」(被害弁連)設立の間に密接な関係があることは、既にこのブログの第34回目で詳細に述べているのでここでは繰り返さない。関心のある方は以下のURLを参照のこと。
http://suotani.com/archives/1997

 結論だけを述べれば、「被害弁連」はレフチェンコ事件によって危機感を募らせた左翼勢力によって組織され、スパイ防止法制定運動の支援組織である国際勝共連合と統一教会の壊滅を目的として、「霊感商法」反対キャンペーンを展開するためにつくられた組織だったということだ。その中心人物が山口広弁護士であった。

 これら三つの勢力は、もともとお互いに接点がなく、それぞれバラバラに統一教会に反対してきたが、1980年代初頭より「統一教会潰し」という目的のもとに結束し、いまやスクラムを組んで反対運動を展開する状態になっている。そこには以下のような共闘関係があった。

 統一教会信者の親は、反対牧師に報酬を払って指導を仰ぐ。反対牧師は親に具体的な拉致監禁のやり方を指導し、親が子供を監禁したら、監禁現場を訪問するなどして信仰を棄てるよう説得を行う。この説得を受け入れて信仰を棄てれば、親の目的は達成されるが、それで終わりではない。元信者は反対牧師の活動に協力させられ、さらには左翼弁護士を紹介されて、統一教会を相手取った損害賠償請求訴訟を起こすように説得されるのである。こうして起こされた訴訟の代理人を左翼弁護士が務めることにより、彼らは弁護士として報酬を得ることができると同時に、統一教会の社会的評価にダメージを与えることができる。さらに、こうした訴訟の情報はマスコミを通して社会に宣伝され、親の不安を煽るために利用される。このように反対運動は、両親、牧師、弁護士、マスコミなどがそれぞれの立場と職能を生かして統一教会を窮地に追い込もうとする、プロ集団の複合体となっているのである。しかし、後藤徹事件の判決以降(2015年9月29日、最高裁で判決確定)は、拉致監禁は事実上できなくなった。

 日本における統一教会批判文献は、主としてこうした反対運動の主導者によって生産されてきたと言ってよい。したがって、それは日本における統一教会の特徴というよりは、むしろ反統一教会運動の特徴を色濃く反映しているのである。

 翻って、櫻井氏や中西氏に決定的に欠如している視点とは何だろうか? それは「統一教会と社会」という対立軸を作り、欧米、日本、韓国における統一教会の性格の違いから、それに対する社会の反応を分析するという単純な枠組み設定をしているため、反対勢力の存在を見落としているか、あるいは意図的に無視している点にある。そもそも、無色透明で抽象的な「社会」などというものはどの国にも存在しない。統一教会に反応するのは社会一般ではなく、具体的な利害関係者である。彼らが書いた文献は、決して社会一般の見方を代弁するものではなく、自分たちの利益を主張するために書かれたのだという「相対化」の視点を持たなければ、「社会が統一教会の問題点を指摘している」というナイーヴな受け止め方になってしまうのである。

 韓国においても、米国においても、ヨーロッパにおいても、日本においても、統一教会に反対する人々にはそれぞれの立場、思想・信条、そして動機がある。それを分析することなく結果としての文献だけを並べて、そこから各国・地域における統一教会の性質を分析しようとしても、本質は見えてこないし、統一教会に対する「先行研究」を正しく理解することもできないのである。

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