書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』17


櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第17回目である。

「第Ⅰ部 統一教会の宣教戦略 第2章 統一教会の教説」のつづき
『原理講論』の批判的解説を一通り終えた櫻井氏は、『聖本』や『天聖経』に見られる文鮮明師が直接語った言葉の分析に入る。既にこのブログの第14回で述べたように、どうも櫻井氏の日本統一教会史の理解には、顕示的な学生運動であった1960年代と70年代から、正体を隠して「霊感商法」を行う組織宗教へと姿を変えた1980年代以降という基本的な図式があるらしく、教義や神学の問題も無理やりそれに当てはめて理解しようとする。「顕示的な学生運動」「キリスト教的」「普遍宗教」といった概念で代表されるのが『原理講論』に見られる教説であり、「韓国民族主義」「シャーマニズム」「霊感商法的」といった特徴を持つのが『聖本』や『天聖経』で説かれている教説であると言いたいようである。しかも、もともと統一教会の本質は韓国のシャーマニズムに近いものだったが、日本宣教の初期においてはキリスト教的装いで普遍宗教に擬装して大学生信者を獲得し、基盤を築いた後に1980年代に「霊感商法」という形でその本性を表したという理解である。その証拠が、後に出版された『天聖経』や『聖本』に多く見られる、霊界に関する教説だというわけである。

 この分析は事実に反している。統一教会は韓国においても日本においても、キリスト教的であり、普遍宗教であると同時に、霊界に関することが教義の中心的な内容を占める宗教であり続けているのである。これらは矛盾のない一貫した宗教理念として継続しているのであり、時代によって変化したのでもなければ、ましてや擬装されていた正体が後から出現したのでもない。既にこのブログの第14回で紹介したように、1960年代から1970年代の日本統一教会草創期の信者の証しの中にも「霊界」という言葉は頻繁に出てくるのであり、1980年代になって突然出てきたものではない。櫻井氏は、そもそもキリスト教信仰と東アジア的な霊魂観は相容れないものであるという偏見を持っているために、統一教会の信仰を正しく理解できないのだと思われる。

 この節のタイトルは「『天聖経』に見る霊的世界」となっているが、実際に櫻井氏が「初期に比べて霊界に大きくシフトしてきた」(p.67)という根拠にあげている本は『聖本』である。その根拠は、『原理講論』において霊界にふれている箇所は、項でいうと「肉身と霊人体との相対的関係」(85-89頁)、「霊人に対する復活摂理」(224-232頁)の12頁(2パーセント)に過ぎないのに対して、『聖本』では全体の56.4パーセントが霊界に関わる記述であると指摘している。これは学術的研究書の分析としてはデータの偽装に近いものである。その根拠を示そう。

霊界 霊人体 悪霊 霊的
総序 1 0 0 5
創造原理 4 49 0 7
堕落論 1 3 5 25
終末論 3 3 1 10
メシヤ論 2 0 2 12
復活論 14 30 18 9
予定論 0 0 0 0
キリスト論 2 4 0 11
緒論 2 0 0 0
復帰基台摂理時代 0 0 0 2
モーセとイエス 1 6 0 78
同時性 1 3 0 32
メシヤ再降臨準備時代 1 2 0 10
再臨論 4 1 1 8

 この表は、原理講論の各章で「霊界」「霊人体」「悪霊」「霊的」などのキーワードが何回登場するかをカウントしたものである。このことから分かるのは、「霊界」に関係するキーワードは『原理講論』のほぼ全域において広く使われており、全体の2%でしかふれられていないという櫻井氏の分析は明らかに間違っているということだ。

 さらに詳しい用語検索としては、光言社のウェブサイトに掲載されている『原理講論』の索引を利用すれば可能である。以下のURLからPDFファイルを開き、74~76ページ(38~39枚目)を見ていただければ、霊界や霊的現象に関わる様々な用語が『原理講論』全体に幅広く分布していることが分かるであろう。

https://book.kogensha.jp/ps/shop/images/uploads/sakuin.pdf

 また、私自身の講師経験からしても、櫻井氏の挙げている「肉身と霊人体との相対的関係」(85-89頁)、「霊人に対する復活摂理」(224-232頁)の12頁以外にも、すぐれて霊的な事柄を扱っている個所は『原理講論』の中に多く存在すると言える。代表的なものとしては、堕落論の第四節(二)の「人間世界に対するサタンの活動」(p.116)、(四)善神の業と悪神の業(p.120)、終末論の第三節(二)の「(3)墓から死体がよみがえる」(p.153)、同じく第四節(一)第一祝福復帰の現象の「心霊復帰」(p.158)などである。また復活論の第二節(二)復活摂理(p.216-236)は、櫻井氏の指摘する部分だけでなく第二節全体が極めて霊的な事柄について扱っている。

 次に、櫻井氏が「教説の変遷」を読み取っている『天聖経』の中身について見てみよう。2003年に発行された『天聖経』に収録されているのは、①真の神様、②真の父母、③真の愛、④真の家庭、⑤地上生活と霊界、⑥人間の生と霊魂の世界、⑦礼節と儀式、⑧罪と蕩減復帰、⑨祝福家庭、⑩成約人への道、⑪宇宙の根本、⑫環太平洋摂理、⑬真の神様の祖国光復、⑭真の孝の生活、⑮天一国主人の生活、⑯真の家庭と家庭盟誓というタイトルのついた一群の内容である。この中で櫻井氏の指摘するところの「霊界に関わる記述」の部分は、⑤と⑥しかなく、全体として霊界に関する内容に偏重しているとはいえない構造になっている。むしろ、統一教会の神観、罪観、救済観、メシヤ観、家庭観、来世観、摂理観、信仰生活のあり方などの広範なテーマについて、文鮮明師のみ言葉をバランスよく編纂した本であると言えるであろう。したがって、「『天聖経』に見る霊的世界」という櫻井氏のタイトルはミスリーディングであり、学者として不誠実である。

 ここで話のつながりという観点から、「3 統一教会の教説と東アジア文化」(p.72)の部分に少し飛んで解説してみたい。彼は以下のように述べている。
「原罪は先祖からの血統で伝えられる、救済は再臨主を中心とした聖なる結婚とその結果としての子孫繁栄からもたらされるという教説は、東アジアの祖先崇拝、性的繁殖力に神秘的力を見いだす道教やシャーマニズムの色彩が濃厚である。『原理講論』は聖書の独自な解釈であるだけにキリスト教の新説という印象を受けるが、文鮮明の説教集や霊界から様々な指令が下りたり、先祖の怨念等を強調したりする一般信者向けの教説からは、むしろ、韓国の民俗文化に根ざした宗教観が窺える」(p.72)
「朝鮮半島に土着化し、変容も遂げたキリスト教には、民俗的霊魂観や疾病観、災因論を織り込んだ教義や儀礼を開発するものが統一教会以外にもある。統一教会の霊界に関わる文献を何度も読み返していると、われわれになじみの深い民俗宗教が見えてくる。霊の動きを中心に据えた教義や儀礼は、祟り信仰に慣れた日本人には現実味があり、霊に対する畏怖の念が、信者の教会にすがる態度、逆らうことの困難さを増幅していたと考えられる。統一教会の信者に対する説得力がここにある。中高年世代、主婦層が統一教会の信仰として抱いていたものは、この種の祟り信仰と理解することができ、彼女達が『原理講論』を通じてキリスト教的な信仰にまで至ったケースは少なくないのではないか。」(p.72)
「このように東アジアの宗教文化と統一教会の教説の類似点を指摘することで、この教説を成立させ、また受容せしめる文化的背景が理解できたかと思われる」(p.73)

 私は櫻井氏のこのような主張を全面的に否定するつもりはない。このブログにおける神学論争と統一原理の世界シリーズにおいて、私は「キリスト教はなぜ日本に根づかないのか」というタイトルでこの問題を論じたことがある。その中で韓国におけるキリスト教の土着化の問題を論じており、統一教会が日本で成功した理由として、「キリスト教信仰と東洋思想のみごとな融合」を挙げており、その具体的な中身としては、陰陽思想、家庭倫理や家族主義、先祖供養の神学的受容などを挙げた。また、「霊感商法とは何だったのか」というシリーズの中では土着化論を展開し、「霊感商法」とはキリスト教的な教えである『原理講論』の内容を日本に土着化させる過程で生じたシンクレティズムであるという主張をした。関心のある方は、以下のリンクから読んでいただきたい。

http://suotani.com/archives/1084
http://suotani.com/archives/1586

これらの論点の中には、櫻井氏の分析と相通じるものがある。しかし、櫻井氏の記述の中にはキリスト教は普遍宗教で高尚なものであり、東アジアの霊魂観は低俗で迷信的なものであるので、これらは本来相容れないものであるという世界観が透けて見える。だからこそ、統一教会はもともとは韓国のシャーマニズムに近いものだが、キリスト教的に擬装することによって理性的な日本の大学生を引き付けることができたのだというような議論になるのである。

 統一原理はユダヤ・キリスト教を選民圏の宗教であり、神の摂理の中心宗教であるととらえているため、キリスト教が民俗宗教の上位にあることを否定しはしない。しかし同時に、統一原理の持つ「宗教統一」の理想により、キリスト教以外の諸宗教に対しても神が与えた歴史的・地域的役割があるととらえているので、そうした宗教を蔑むような態度も正しくないと考えている。むしろ西洋のキリスト教と東洋の諸宗教は相互補完的な関係にあり、それらが融合したものが「統一原理」であるととらえているのである。

 したがって、仏教や民俗宗教的な理解から出発した日本の壮年壮婦たちも、『原理講論』に基づいてみ言葉を学び、心霊が成長していくにしたがって、キリスト教的な信仰の本質を理解することができるようになるのである。櫻井氏の物言いは、統一教会の壮年壮婦の信者たちに対して極めて失礼である。統一教会の教説と東アジア文化の関係は、むしろキリスト教の土着化の成功例としてとらえるべきであり、従来の西洋型のキリスト教がなしえなかった宣教の道を開拓したと理解すべきであろう。

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