書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』46


櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第46回目である。

「第Ⅰ部 統一教会の宣教戦略 第5章 日本と韓国における統一教会報道」の続き

この章は日本の朝日新聞と韓国の朝鮮日報における統一教会関連の記事を検索することを通して、統一教会が両国のマスメディアによってどのように報道されてきたかを分析することを目的としている。先回は①1950~60年代と、②1970年代の両国における新聞報道を扱ったが、今回から第三の年代区分である1980年代を扱うことにする。櫻井氏はこの年代を「経済活動(霊感商法)の活発化」というタイトルで特徴づけている。この時期は私が原理研究会を通して統一運動に出会った時期であるので、これ以降の日本における報道はリアルタイムで経験したものが多い。

1980年代の前半には、櫻井氏のいう経済活動や「霊感商法」に関する記事はない。この時期の新聞報道では、アメリカで文鮮明師に脱税の容疑がかけられて裁判が始まり、1984年に最高裁が上告を却下して文鮮明師の収監が決定したことが日本でも韓国でも大きく取り上げられている。教会内では「ダンベリー収監」と呼ばれる事件である。米連邦最高裁の上告棄却により文鮮明師の敗訴と収監が決定したのは1984年5月14日であるが、日本では翌日の新聞に「文鮮明師収監へ」という見出しのついた比較的小さな記事が掲載されたのを今でも覚えている。当時の私は信仰歴が1年未満で年齢が19歳であったため、ことの重大さや意味をそれほど深く理解していなかったと思うが、それでも大きなショックと悲しみを感じたものである。文鮮明師のダンベリー収監は、私が大学2年の夏から大学3年の夏にかけて起こったことであるが、当時はその1年を随分と長く感じたものである。文鮮明師は1985年の8月に釈放されたので、それ以降はこの問題が新聞記事になることはなくなった。

代わって1980年代の後半に朝日新聞に取り上げられるようになったのが、国家秘密法(スパイ防止法)に関する問題であり、その中で統一教会が取り上げられているという。1986年になると朝日新聞の記事の「10件中7件が国家秘密法関連の記事であり、その中で統一教会関連団体の国際勝共連合が取り上げられている」(p.179)という。1987年になると朝日新聞の記事が一気に増加し、「2月14日に霊感商法被害救済担当弁護士連絡会(以下、被害弁連)が結成され、霊感商法の実態や被害、提訴を伝える記事が中心となる」(p.180)と櫻井氏は分析する。後ほど詳細に説明するが、新聞記事を時系列的に検索すると、奇しくも国家秘密法の問題と霊感商法の問題が、朝日新聞という媒体を通してリンクしている構図が浮き彫りになるのである。

櫻井氏は、「日韓報道の差として、日本で被害弁連が結成され、続々と明らかになる霊感商法の被害実態や提訴が、『朝鮮日報』で一切報じられていない」とか、「87年の日本における反統一教会の動きをなぜ『朝鮮日報』は一切取り上げていないのだろうか。」(p.180)と書いているように、朝鮮日報の報道姿勢に対して疑問を感じているようである。韓国では反統一教会の立場を明確にしているのはキリスト教であり、そのことが宗教問題として新聞で取り上げられることはあっても、日本のように社会問題として取り上げられることはないという点に、櫻井氏は「日韓の新聞報道の差」を見ているのである。はたしてそうだろうか?

私は「霊感商法」の問題に、櫻井氏の言うような「社会問題」としての側面がまったく無いというつもりはない。商品が高額であったことや、販売方法に疑問を感じた顧客がいて、それがクレームにつながったという部分はたしかに「社会問題」ということができるであろう。しかし、1986年という特定の時期に、朝日新聞という特定の新聞がなぜあれほどまでに大々的に「霊感商法」を叩いたのかという問題は、単に商売のやり方という問題だけでは説明できないのである。朝日新聞が「霊感商法」を叩いたのは、単に社会の公器としての新聞が悪徳商法を叩いたということではなく、政治的な裏があったのである。それがまさに「スパイ防止法」(国家秘密法)を巡る攻防であった。櫻井氏の分析には、こうしたマスコミ報道の背後にある政治的動機という視点が欠落しているのである。

「スパイ防止法」を巡る統一教会と朝日新聞の関係をを説明するには、国際勝共連合の創設にまでさかのぼらなければならない。1960年代から1980年代にかけて、日本に共産主義思想が蔓延し、多くの革新自治体が誕生した。そこで文鮮明師は1968年に国際勝共連合を創設し、共産主義勢力との理論闘争を継続的に行ってきた。統一教会の友好団体である勝共連合は、1970年の世界反共連盟(WACL)大会、そして全国各地で行った公開講義などを通じて社会的影響力を拡大させたため、日本共産党は危機感を募らせるようになる。

勝共運動をさらに躍進させたのは、スパイ防止法制定運動であった。1970年代、世界的な「東西デタント(緊張緩和)」の流れの中で、民主主義勢力と共産主義勢力の攻防は、これまでのあからさまな軍事力による対立から、スパイ工作活動が主流になっていった。北朝鮮による日本人の拉致事件が起きたのもこの頃である。しかし、日本には外国からのスパイを取り締まる法律がなかったので、スパイが自由に活動できる「スパイ天国」の状態にあった。

そこで、勝共連合は1970年代の後半からスパイ防止法制定運動に着手するようになる。1978年には、スパイ防止法制定のための3000万署名運動が開始された。1979年2月には、スパイ防止法制定促進国民会議(議長:宇野精一東大名誉教授)が発足し、同年4月にはスパイ防止法制定促進議員・有識者懇談会(会長:岸信介元首相)も立ち上がった。一方、1980年には自衛隊員の防衛秘密漏洩事件が起こり、スパイ防止法の必要性が広く国民に認識されるようになった。そして1986年末までに、28都道府県、1706市町村の、計1734議会で「スパイ防止法」促進決議が採択されたのである。当時は「平成の大合併」の前の時代で、地方自治体数は約3300あったので、全国の地方自治体の過半数を超える数の決議がなされていたことになる。

そして、1986年7月には中曽根政権下で衆参ダブル選挙が行われ、自民党が圧勝した。環境が整ったという判断に基づき、スパイ防止法(国家秘密保護法)案を国会に上程する準備が進められていったのである。そのタイミングで、1986年11月25日付の「朝日新聞」朝刊1面・社会面2面で、スパイ防止法に反対する記事が出されたのである。これは新聞の一面としては異例の内容であった。通常なら朝刊の1面には前日にあった重要な出来事に関する報道がいくつか載るものであるが、この日は一つの法案に反対するという政治的な主張が1面をまるごと埋め尽くし、さらにそれが社会面にまで続いたのである。「スパイ防止法」をなんとしても潰したいという朝日新聞の意気込みを感じさせる紙面構成であった。

こうした「朝日新聞による反対キャンペーン」という逆風の中で、11月26日にスパイ防止法案が提出された。(1985年に続き、再提出であった)朝日新聞は、法案提出の前日を狙って大々的に反対キャンペーンを打ったことになる。このときの「スパイ防止法」は、結果としては審議未了による廃案となった。成立しなかった原因は、朝日新聞を頂点とするマスコミの偏向報道の影響と、自民党内部の分裂によるものであると言われている。このように、「スパイ防止法」は日の目をみなかったが、こうした攻防の水面下で、もう一つの動きが始まっていた。それが芽を出したのは翌年(1987年)の2月であった。「霊感商法被害救済担当弁護士連絡会(被害弁連)」の結成である。
「被害弁連」は、呼びかけ人34名中19名が青年法律家協会(日本共産党系)あるいは、社会文化法律センター(旧社会党系)の弁護士であり、「左翼弁護士」を中心とする集まりであった。当然、「スパイ防止法」には反対の立場である。被害弁連の呼びかけの文書には、「被害者救済と、右翼活動の阻止、特に国家機密法阻止のためにも良いのでぶちあげたい」と書かれていた。
「スパイ防止法」を巡る政治的攻防、法案の提出時期と朝日新聞による反対キャンペーン、それと同時期に立ち上げられた被害弁連による「霊感商法反対キャンペーン」と、朝日新聞による熱心な報道、これらはすべてつながっているのである。すなわち、「霊感商法」は単なる社会問題ではなく、スパイ防止法制定運動の支援組織である国際勝共連合と統一教会の壊滅を目指して、その資金源とみなされた「霊感商法」が叩かれたという、政治的構造があるのである。したがって、朝日新聞の報道はこうした政治的動機に裏打ちされたキャンペーンであったため、それを共有しない韓国の朝鮮日報は関心も持たず、報道もしなかったということではないだろうか。これが櫻井氏が疑問に感じた「日韓報道の差」の背後にあった「政治的事情」なのである。

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