書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』01


「統一教会」

 今回から、櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評をシリーズでアップする。以前にこのブログで櫻井義秀氏、大畑昇氏編著の『大学のカルト対策』(北海道大学出版会、2012年)の書評を長いシリーズでアップしたことがあったが、そのときと同じように批判的な立場からの書評となる予定である。ただし、批判のための批判や、揚げ足取りのようなものになることは避け、本質に迫りたいと思っている。

 櫻井義秀氏は北海道大学の教授で、現在「大学のカルト対策」に積極に取り組んでいると同時に、統一教会に対しては極めて批判的な立場に立っている。中西尋子氏は関西大学の非常勤講師で、韓国に嫁いだ日本人の祝福家庭夫人の調査研究を行った人物である。初期の研究ではこうした夫人たちに対して好意的な記述を行っていたが、統一教会反対派の圧力によって批判的な立場に転じ、櫻井氏と共に批判的な本の共著者となった。この二人がどうして統一教会に対して批判的になったのかに関しては、私の過去の投稿で説明しているので、詳しくはそちらを参照していただきたい。

http://suotani.com/archives/349
櫻井義秀氏と中西尋子氏の豹変(2012年10月24日)

 なお、世界基督教統一神霊協会は日本においては2015年8月26日をもって世界平和統一家庭連合に名称変更されたが、このブログでは「統一教会」と呼ばれていた時代に書かれた本について論ずる都合上、煩雑と混乱を避けるために「統一教会」という呼称をそのまま用いることにする。

 本書は580ページからなる大著である。第I部と第Ⅱ部が櫻井氏によるもので、全体の約七割を占める。残りの三割を占める第Ⅲ部が中西氏によるもので、共著とはいえ、この二つは事実上全く別の研究である。したがって、研究全体を鳥瞰的に見て批評するのは不可能ではないにしても極めて困難である。そこでこのブログにおいては、本書を1ページずつめくりながら読み進め、要所要所で問題となる箇所を抽出して検討を加えるというスタイルを取りたいと思う。前置きはこれくらいにして、さっそく「書評」に入ろう。

「はじめに」(p.i-xvii)
 櫻井氏は本書の冒頭の「はじめに」で、この本の構成や中身について説明している。大著であるため、親切な処置と言えるだろう。と同時に、この「はじめに」で自身の研究の方法論やスタンスの取り方についても言及しており、かなり本質的な問題を投げかけているといえる。自分の研究の方法論を開示するのは学者として当然の作法であるが、その出発点において根源的な問題が存在することを示しているのが、この「まえがき」である。その詳細については、後ほど詳しく説明する。

「はじめに」の1ページ目で、櫻井氏は統一教会に関して以下のように説明している。すなわち、統一教会は「宗教学的には新宗教と定義して構わないし、再臨主を自称する教祖を信奉する少数者の集団という意味では、宗教社会学的にはカルトと類型化される。但し、日本だけでも数万人の信者を擁し、世界中に宣教活動を展開する中規模な組織宗教であることから、教団類型論としてのカルトの呼称はふさわしくない。しかし、統一教会の宣教には社会の規範意識や法律と齟齬を来す部分が少なくないため、社会問題化した宗教という意味で、日本や欧米ではカルト視されている」(p.i-ii)

 統一教会を「新宗教」に分類することには全く異論はない。しかし、この記述には「カルト」概念に関する混乱が見られる。善意に取れば、そもそも「カルト」なる概念は多義的で定義がはっきりしないので、用法によって統一教会に当てはまったり当てはまらなかったりするということが言いたいのかもしれないが、宗教社会学的な教団類型論における「カルト」と一般社会で用いられる通俗的な「カルト」の区別をもう少し丁寧に説明すべきであろう。

 宗教社会学的なカルト概念には大きく分けて二つあり、その一つが「緩やかな組織」を特徴とするカルト概念である。これはアメリカの宗教社会学者ハワード・ベッカーによって提示された概念であり、カルトとは「緩やかで散漫な組織をもち、明確な境界線がないことを特徴とする宗教団体」と定義される。これは中央集権化された権威主義的な指導体制や、明確な会員資格、および統一された教義がない集団のことであり、例としては心霊術、占星術などの信者集団が挙げられる。これは宗教の発生過程でいえば極めて初期の少人数の段階でしかありえないことであって、教団が成長して教義や組織を整えるてくるともはや「カルト」の段階は卒業するということになる。

 櫻井氏が言うように、統一教会は「日本だけでも数万人の信者を擁し、世界中に宣教活動を展開する中規模な組織宗教」であり、極めて明確な教義体系と組織を有した団体であるから、この意味での「カルト」の概念はまったく当てはまらない。また、1950年代ならともかく、現在の統一教会には「少数者の集団」という表現はまったく当てはまらない。日本のキリスト教の諸教団およびキリスト教系新宗教の中に位置づけてみても、統一教会は、カトリック、エホバの証人、日本基督教団、モルモン教に次いで第5位の信徒を擁するメジャーなキリスト教系新宗教なのである。純粋に信徒数だけが「カルト」の基準であるならば、統一教会やエホバの証人を「カルト」呼ばわりしている多くのプロテスタント教団の方がはるかに小さいのである。したがって、数や規模を基準として「カルト」視することは不可能である。

 もう一つの宗教社会学的なカルト概念は、「異質あるいは革新的な信仰」を特徴とする概念である。この定義は、集団としての構造的な要素ではなく、その世界観や信仰内容によってカルトを判別しようとする。すなわち、カルトは周囲の社会における支配的な宗教伝統と激しく断絶しているところにその特徴があるというものだ。この定義では、周囲の主流の文化との相対的関係によってカルトであるかないかが決定されるので、一つの宗教そのものをカルトかどうか即座に判別できない。すなわち、仏教やイスラムなどの古い宗教も、西洋では周囲のキリスト教文化と断絶しているからカルトになってしまうのだ。たとえば統一教会なら、「韓国ではカルトではないが、ヨーロッパではカルトである」というように、国や文化圏によってカルトであるかないかが変わることになる。

 上記二つの宗教的社会学的なカルト概念の特徴は、いずれも価値中立的な学問的概念であって、カルトという言葉自体には侮蔑的な意味はなく、それに分類された宗教の善悪、是非、優劣といったものを論じているわけではないということだ。宗教社会学は通常そのような価値判断を慎むのである。

 こうした宗教的社会学的なカルト概念のほかに、非学問的なカルト概念が存在する。そのうちの一つが「福音主義的なカルト概念」であり、これはキリスト教の文献の中に発見することができる概念であり、キリスト教の福音主義的な正統から逸脱した、「異端」のキリスト教団体を指す。当然そこには宗教的な否定や断罪が含意されている。もう一つの非学問的なカルト概念が、「通俗的でジャーナリスティックなカルト概念」である。これはマス・メディアや大衆的な文献に多く見られる概念で、全体主義的で権威主議的な指導体制を持つ宗教団体を指す。しかしアメリカの宗教社会学者のジェームズ・T・リチャードソン博士は、こうした「カルト」概念の意味するものは、「自分とは相容れないもの」「嫌悪すべきもの」に過ぎず、特定のグループを攻撃するための「ラベル」となり、「社会的武器」となってしまったと批判している。

 櫻井氏が「社会問題化した宗教」という意味で用いている「カルト」の用法は、まさにこの「通俗的でジャーナリスティックなカルト概念」にほかならない。これは非学問的であいまいな概念であるにもかかわらず、そのような用法をあえて並列で用いているところにある意図を感じざるを得ない。宗教社会学者である櫻井氏が、教団類型論としての「カルト」の概念を知らないわけがないし、それに統一教会が当てはまらないことは明らかなのだが、それではまるで統一教会が「カルト」であることを否定しているかのように受け取られるので、わざわざ非学問的な「カルト」概念を持ち出して統一教会を貶めているとしか考えられないのである。

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