書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』02


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第二回目である。

「統一教会」

「はじめに」(p.i-xvii)の続き
 櫻井氏は冒頭の「はじめに」で、「本書は、社会学的な調査に基づいて日本における統一教会の宣教活動を学術的に論じた日本最初の書籍である」(p.ii)と言っている。なるほどそうかもしれない。これまで日本において統一教会や原理研究会を扱った社会学的な研究は存在したが、それらはいずれも短い論文であって、一冊の本をなすほどの本格的な研究は存在しなかった。しかし、本書の「社会学的な調査」や「学術的」の中身については、私は問題なしとしない。櫻井氏は「独自の調査研究によって得られた資料と調査対象者の証言を用いながら、統一教会の全体像を明らかにしようというものである」(p.ii)と述べているが、その資料と調査対象者の選択に問題があるからである。これについては、これから先の投稿において詳述する。

 次に櫻井氏は、「先入観を持たずにこの教団が行ってきたことをそのままに見ていこう」と前置きして、「1 顕示的布教から正体を隠した勧誘へ」という項目と立てて、以下のように論じている。

「一九六〇、七〇年代に統一教会の学生組織である原理研究会は大学構内で堂々と示威的な布教活動を行っていた。・・・彼らが左翼系学生と論戦を交わしたり、路傍で黒板を立てて講義したりする姿は、確かに異様ではあったが自信に満ち、活動を誇示しているようでもあった。」しかし、「一九八〇年代から統一教会は宣教戦略を大きく転換し、世界宣教の活動資金を調達するために、いわゆる『霊感商法』と批判される物品販売を大々的に行った」「また、この時期から統一教会はビデオ教材を用いた教養講座を装うビデオセンターを各地に設置し、統一教会を隠して一般市民を勧誘するようになった。」「要するに、統一教会は自覚的な参画者からなる宗教運動から一般市民の動員と資金調達を戦略的に行う組織宗教となった。」(p.ii-iii)

 この説明の中で櫻井氏は、統一教会に献身する行為と、新左翼の活動に出会って学生の人生が変わることを、「ユートピア的な社会改革を求めて」運動に飛び込むという点で同じようなものであるととらえている。だからこそ、左翼のセクトが1970年代までしかオルグに成功しなかったのに、統一教会は現在まで活動を継続している理由として、「顕示的布教から正体を隠した勧誘へ」方向転換したことを挙げているのである。

 この論法には本質的な難点がある。まず「新左翼」と呼ばれる運動は基本的に政治的運動であり、社会の改革を目指していた。それゆえ、日米安保条約やベトナム戦争などの具体的な出来事に触発されて起こっているし、暴力的な手法を用いて目に見える形で社会を変革しようとした運動であった。したがって、こうした運動は社会情勢の変化や、革命の挫折体験に大きな影響を受け、70年代以降は急速に衰退することになった。

 一方、当時の統一教会や原理研究会は「ユートピア的な社会変革」を求めていたという点で新左翼との共通点は認められたとしても、目に見える現実世界の変革だけを求めていたのではなく、より本質的には目に見えない内的世界を志向する宗教運動であったのである。それは神の存在とその摂理、自己の中に存在する罪の克服、自己の魂の浄化と成長など、目に見えない内面世界を見つめていた。統一教会や原理研究会が扱っていたテーマは、「新左翼」と呼ばれる運動が扱っていたテーマに比べれば、より社会的・政治的な環境変化の影響を受けない、普遍的で永続的なものであったために、時代の変化を超えて人々を惹きつけてきたのである。この違いは大きい。また、統一教会や原理研究会は、革命の失敗や「連合赤軍事件」「あさま山荘事件」といった新左翼の挫折体験を共有していない。これらの事件が新左翼に壊滅的な打撃を与える役割を果たしたのに対して、統一教会や原理研究会にとっては、共産主義の間違いと自らの正しさを証明する肯定的な出来事として映ったのである。このような本質的な違いを無視して、新左翼と統一教会や原理研究会を十把一絡げにして論じる櫻井氏の論法は、およそ宗教社会学者とは思えない乱暴さである。

 もし1980年代以降の統一教会の宣教戦略に変化が生じたとすれば、その原因は学生や若者たちに焦点を絞った伝道活動から、「壮年・壮婦」と呼ばれる既婚のより年上層の伝道活動へとその版図を広げたことにあり、その過程で純キリスト教的な宣教活動から、日本人の宗教性や文化に寄り添う形での宣教活動、すなわち「土着化」路線をとったことにあると言える。しかし、対象や戦略が変化したとしても、その中心目的が「伝道」であったことには変わりがない。統一教会が伝えようとしたメッセージは1960年代からいまに至るまで本質的には変化しておらず、それは基本的に宗教活動であった。したがって、統一教会にはそもそも新左翼のように1980年代以降に衰退する理由がないのである。

 なお、過去において統一教会の一部信者が、最初から統一教会の伝道活動であることを明かさない「正体隠し」の伝道を行ったことは事実である。しかしその目的は、櫻井氏の言うような「世界宣教の活動資金を調達するため」や「一般市民の動員と資金調達を戦略的に行う」ためといったことではなく、マスコミ等によってあまりにも悪い噂が広められたため、最初から正体を明かせば話の内容を聞く前から拒絶されることを懸念して、教義の内容を一通り聞いてもらった後で正体を明かすという方法を考案した信者が出現したためである。現在ではコンプライアンスの観点から、こうした「正体隠し」の伝道は行わないように信者に対する指導がなされている。

 櫻井氏は「統一教会を研究する意義」として、以下のように述べている。

「統一教会は宗教社会学の対象として興味深い宗教運動を展開した。だからこそ、統一教会の調査研究は学問的に価値あるものになる」(p.v)

「誤解を恐れずにいえば、戦後の外来宗教の中で統一教会ほど日本社会に深く刺さり込んだ新宗教はない。社会的評価があまりにも低いために社会的影響力が軽視されがちだが、政治家との強い関係や経済組織を持つこと、数十万人の日本人を活動に巻き込み、現在も数万人もの篤実な日本人信者を獲得したことなどは特筆に値する。統一教会をキリスト教系と捉えれば、他のどの国のミッションよりも教勢を拡大している。しかも、韓流ブームなどが起こるはるか前に日本に入った韓国系宗教である。在日韓国・朝鮮人の人権、社会権の確立が長らく政策課題となるような社会において、どのようにして宣教に成功したのか。これは大きな宗教学的・社会学的問いになるだろう。」(p.vi)

 櫻井氏に肯定的な評価をされるのは、なにやらこそばゆい感じがしないでもないが、このあたりの統一教会に対する評価と認識はおおむね当たっていると言えるだろう。

 続いて櫻井氏は、「マインド・コントロール疑惑」に言及している。これまで統一教会の布教や教化活動がなぜ成功したのかを直接問うた研究が存在しなかったのは、かつては洗脳、現在はマインド・コントロールと捉えられる、通常ならざる方法をとって信者を集めていると考えられていたからだというのである。ここで櫻井氏は、この問題に関して学問領域によってまったく異なる主張が存在することを説明している。

 マインド・コントロール言説を支持するのは通常、臨床心理や社会心理学の立場である。それに対して従来の宗教研究や宗教社会学では、統一教会が事例であっても、信者は自発的に入信、回心したとして、マインド・コントロール言説を否定する立場をとった。私がこのブログで紹介したアイリーン・バーカーの『ムーニーの成り立ち』などは、海外におけるそうした研究の代表と言えるだろう。日本国内でも、塩谷政憲や渡邊太の研究はこの部類に属する。櫻井氏自身もかつて、統一教会の事例ではないが、マインド・コントロール言説を批判する論調で、『オウム真理教現象の記述を巡る一考察』(1996年)という論文を北海道大学の雑誌に掲載している。一般的に、宗教社会学はマインド・コントロール言説に対しては否定的なのだ。

 にもかかわらず、櫻井氏は統一教会への入信が自発的な入信、回心であるという立場を受け入れがたいようで、「本研究は宗教社会学的な認識論や調査方法を用いているが、従来の自発的な入信論を完全に再考する証拠を提示する」(p.vii)と宣言している。はたして彼がそれに成功しているかどうかについては、本論に入ってから検証することにする。

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