実況:キリスト教講座12


キリスト教について学ぶ意義(12)

 次に、カトリックとプロテスタントの違いについて説明します。そもそも、プロテスタント教会のカトリックからの分裂を引き起こした人物は、マルチン・ルターという人であります。

実況:キリスト教講座挿入PPT12-1

 ローマ・カトリック教会が、いまもローマにあるサン・ピエトロ大聖堂を改修する資金集めのために、罪の赦しを約束する贖宥状(しょくゆうじょう)をドイツで販売したわけです。これは日本語では「免罪符」と言われていますが、正確な訳は贖宥状です。これに対して、「お金で罪の許しが買えるものか!」ということで、ヴィッテンベルグ大学の聖書教授であったルターが怒って、同地の教会の扉に「95カ条の提題」を提示して、これに対して神学的な疑問を突き付けたのがきっかけです。いわゆる「抗議」をしたわけですが、プロテスタントというのは「抗議する人々」という意味で、まさにルターの「抗議」から始まったわけです。それでは、プロテスタントとカトリックの信仰はどこが本質的に違うのでしょうか?

実況:キリスト教講座挿入PPT12-2

 これはプロテスタントの「三大原理」に集約して理解することができます。プロテスタントの三大原理とは、「信仰のみ」「聖書のみ」「万人祭司」のことを言います。

 「信仰のみ」とは何であるかというと、人は信仰によってのみ救われるということです。これは、修行や善行等によっては救われないということを同時に意味しています。カトリックではここまで極端には信仰を強調しておりません。信仰も重要だけれども、善い行いや修行をすることも救いにとって必要であり、意味があると言っているわけです。ところが、プロテスタントではそういう自力的なものは一切否定します。信仰という他力によってしか救われないということです。

 次に「聖書のみ」とは何であるかというと、プロテスタントにおいては聖書の記述こそが信仰の基準であって、その他の文書の権威を否定するわけです。ところがカトリックにおいては、教皇を初めとして、教会の偉い方々が語った言葉である教会の伝承なども権威があるとするわけです。さらに、カトリックには「煉獄(れんごく)」という教えがあるんですね。この煉獄というのは、地獄ではないんですけれども、罪の清算のために苦しんでいるところで、原理的にいうと「中間霊界」の低いところのようなものです。カトリックではこういう所があると教えているわけです。ところがこの煉獄で罪を清めるという考え方に対して、プロテスタントは聖書的な根拠がないということと、この煉獄での苦しみから逃れられるという「トーク」で贖宥状が販売されたことに対する反発から、その存在を否定しています。

 組織論的には、「万人祭司」というのがプロテスタントの考え方です。カトリックには基本的にヒエラルキー、位階制というものがあります。つまり、ローマ教皇がトップにいて、その下に枢機卿がいて、さらに司教、司祭、助祭というピラミッド構造になっています。このトップに神が働いて、ピラミッドを通して組織的に神が働くというように考えているわけです。これが何を意味するかというと、平信徒は直接神に出会えないということです。神父様や司祭様のところに行って初めて神につながることができる。それを飛び越えて神に直接つながるということはないわけです。ところがルターは、それはおかしいじゃないかと言ったわけです。聖職者だけが神に通じることができるなどということはない、キリスト教徒はすべて神の前に平等であって、一人ひとりが直接神につながれるんだという意味で、万人が祭司なんだと主張したわけです。これがプロテスタントの教えの原則となっています。これら三つがプロテスタントとカトリックの大きな違いということになります。

 次に終末論についてお話をしますが、この終末論はキリスト教においては非常に大きなテーマです。この終末論が登場したのはユダヤ教からです。ユダヤ教の聖典である旧約書聖書の中には、「黙示文学」と呼ばれるジャンルが存在します。これにはエゼキエル書の一部やダニエル書が該当しますが、その中に「世界の終わり」という考え方が出てきます。すなわち、世が終わって滅びるという考え方が聖書の中に登場したのは、この「黙示文学」においてであるということです。

 イエス様の「神の国の到来」という教えは、この「黙示文学」の思想を受け継いでいたと言われていて、イエス様の当時には、天変地異が起こって神の国が来るという期待感が相当あったと言われています。そうした中でイエス様の十字架と復活がありました。初期の教会においては、そのような天変地異を伴って神の国が到来するということに対する非常に大きな期待感がありました。そして、イエス様が「私は再び来る」と言われた再臨も、そのような劇的な形ですぐに来るものであると期待していたわけです。ですから、キリスト教の初期に書かれた福音書、パウロの手紙、ヨハネの黙示録などを読むと、すぐにでも終末が来そうな切迫した雰囲気に満ちているわけです。

 ところが実際には、いつまで待っても再臨は来ませんでした。この再臨の遅延というものに直面したとき、切迫した終末観というものは次第に薄れていきます。そこで登場したのが、「実現された終末論」という再解釈です。これは何かというと、終末とはこれから来るものではなくて、私の心の中に、あるいは教会という共同体の中に、もうすでに来たんだということです。イエス様が十字架にかかって復活したことによって終末は既に実現したんだ、という考え方になったわけです。こうして、終末が未来において、すなわち歴史上のどこか一点に起こる出来事ではなくて、来世において起こることであるというように再解釈されたということです。

 こうして、すぐにでも神の国が来るという期待感は教会の中で失われていきます。そして教会が成功して、教会の社会的基盤が確立されるようになると、既存の秩序を覆そうとする極端な終末思想は「異端」として排斥されるようになりました。こうして西洋の教会では終末論を説くと異端視されるようになったのです。しかし、社会不安があったり、世の中が戦乱に満ちたりすると、その度ごとに、聖書の中に「終末」とか「再臨」というメッセージがあるものですから、そのような信仰が復活し、聖書の予言している「千年王国」の到来を説く宗教運動が起こったりしたわけです。このように終末論というものは、聖書の中にその伝統があり、新しい宗教運動を生み出す原動力にもなってきたのです。

実況:キリスト教講座挿入PPT12-3

 さて、現代のキリスト教を理解する上で避けて通れないのが、この「エキュメニズム運動」と呼ばれるものです。エキュメニズムの語源はギリシア語のギリシャ語の「オイクメネ」で、これは「一つの家」という意味です。これは分裂した教会を一つにまとめていこうという運動、すなわちキリスト教の教会一致促進運動のことです。

 なぜこういう運動が起こったかというと、宗教改革以降、さまざまな教派が現れて、ルター派、長老派、聖公会、メソジスト、バプテストなど、さまざまなプロテスタントの教派に分裂していったわけです。こうした分裂の結果、非常に恥ずかしいことが宣教の現場で起こってきたわけです。ヨーロッパで分裂したキリスト教は、そのままアフリカや南米やアジアに宣教師を送ってキリスト教を伝えました。その過程において、宣教師間の競争が起こりました。まだキリスト教というものをよく知らない宣教地に、いろんな教派の人たちがやってきて、「我こそはキリスト教の正統である。うちの教会にしか救いはない」と言いながら、互いに喧嘩し合ったらどうでしょうか? これはキリスト教そのものの信用を失墜させるようなことですね。ですから、ヨーロッパのキリスト教が世界に広がっていく中で、こんなバラバラの喧嘩したままの教会ではいけないのではないかという真摯な反省がなされて、20世紀に入ってから、これらのキリスト教の各教派が、教派の独立性は保ちながらも対話と協力をしていきませんか、という運動が始まったわけです。これをエキュメニズム運動といいます。

 1910年に世界宣教会議が開かれ、1925年にカナダ合同教会が成立します。1941年に日本基督教団が設立されますが、これもたくさんあった教団が一つになったものです。そして1948年に世界教会協議会が成立します。このように20世紀初頭からプロテスタントの間における努力として、エキュメニズム運動が始まったわけです。そして1961年には東方正教会もこれに参加するようになります。さらに1962年から65年にかけて「第二バチカン公会議」というものが開かれて、ローマ・カトリック教会もエキュメニズム運動に参加するようになります。この第二バチカン公会議は、旧態依然としたローマ・カトリックの現代化を目指したもので、その一環として考え方を大きく変えたわけです。それまでプロテスタントはカトリックから見れば単なる異端でした。それをこのときから「分かれた兄弟たち」であると認識するようになったわけです。

 こうしたキリスト教の各教派が統一されたわけではありませんが、プロテスタント、カトリック、東方正教会の間には一定の対話のチャンネルがあり、そのための組織や会議が存在します。現代では、教派間の激しい憎悪とか闘争といったものはかなり収拾されており、エキュメニズムがキリスト教の主流の考え方になっていることは事実です。ということは、「私の教派・教団にしか真理はない。真理は我が教団が独占している」という考えではなく、他の教団にも真理は分け与えられており、対話によって相互理解を深めることができると考えているわけです。

 統一教会は、キリスト教の教派分裂を克服し、諸宗教を統一することを目指しているわけですから、これはグッドニュースであり、こうした運動も神の摂理の方向に沿ったものであると解釈できるかもしれません。しかし問題は、エキュメニズム運動があるからといって、キリスト教が「統一教会さん、あなたも対話に入りませんか」と言ってくれているわけではないということです。つまり、いまだにキリスト教会はこの対話と協力の対象として統一教会を認めていません。「エキュメニズム運動の対象には入らない」と判断しているので、こういう運動があったとしても、統一教会とキリスト教との対話が出来ている状態ではないわけです。本来ならば、そのために神様が準備した運動だったのかもしれませんが、現時点ではそのように機能していません。

実況:キリスト教講座挿入PPT12-4

 非常に大雑把に、キリスト教に関する基礎知識をお話ししてきました。こういうことを知っておくのは、皆さんにとって決してマイナスにはなりません。『原理講論』を通してだけキリスト教を知っておくのではなくて、一般的なキリスト教に関する知識も身に着けておいた方がいいです。そういうときに、いきなり難しい神学の本を読んでも分かりません。どちらかというと入門編の本、たとえば『面白いほどよく分かるキリスト教』(宇都宮輝夫、阿部包著)とか、『これだけは知っておきたいキリスト教』(山我哲雄・編著)などが良いでしょう。こういう本はいわゆる神学の本ではなくて、一般向けの本ですが、書いている人はきちんとした知識を持っている人なので、そんなに間違ったことは書かれていません。ですから、一般的なキリスト教の知識を身に着けようと思ったら、こうした本から入って行ったらよいでしょう。

カテゴリー: 実況:キリスト教講座 パーマリンク