書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』03


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第三回目である。

「はじめに」(p.i-xvii)の続き
 櫻井氏は冒頭の「はじめに」で、統一教会を「④宗教調査が難しい新宗教」としたうえで、その理由を以下のように説明している。

「この教団が調査されない理由は、統一教会が極めて社会問題性の強い団体であり、研究者として教団と適切な距離がとれないこと、教団からの研究者に対するコントロールも予想されることにあり、学術的な調査研究は最初から諦められてきた。」(p.viii)

 本当にそうだろうか? 既にこのブログで全文訳を掲載したように、イギリスの統一教会に関してはアイリーン・バーカー博士が統一教会と適切な距離を保ちながら社会学的に優れた著作『ムーニーの成り立ち』を発表しているし、ジョージ・D・クリサイデスも邦訳名『統一教会の現象額的考察』(新評社、1993年)という本を出版している。イタリアの宗教学者で新宗教研究センター(CESNUR)の代表理事を務めるマッシモ・イントロヴィニエも、『統一教会:現代宗教の研究2』という本を2000年に出版している。彼らはいずれも評価の高い宗教学者であり、その著作が統一教会との適切な距離を保っていないとはみなされていない。

 「教団から研究者に対するコントロールが予想される」というのはどういう意味だろうか? 研究者が教団にとって都合の悪いことを書かないように脅したり圧力を掛けたりすることを指すのであれば、その事実を暴けばよいではないか。教団が組織的に研究者を騙す可能性に関しては、バーカー博士は著書の中で繰り返し述べており、個々のムーニーが嘘をつくことはあっても、組織的に騙そうとした事実はないときっぱり否定している。こうした問題をクリアーしていくことは、フィールド・ワークを手法とする宗教社会学者ならば、どんな教団を相手にするときにも必ず通過しなければならない道であろう。それを挑戦もしないで初めから諦めるというのは、研究対象とまともに向き合っていないと言われても仕方がない。

「虎穴に入らずんば虎児を得ず」というように、統一教会について本当に知りたければ、教団の中に果敢に飛び込んで行かなければ何も分からない。アイリーン・バーカー博士はそれをやったが、櫻井氏はそれをやらなかった。この違いは大きい。「それは西洋ではできても、日本では難しいのだ」と彼は言い訳するであろう。しかし、「社会的問題性」という点では統一教会とは比較にならないほど危険な団体であるオウム真理教でさえ、飛び込んだ研究者は存在した。私は一度だけ日本宗教学界の研究会(場所は国学院大学)に参加したことがあるが、そこでオウムの道場で信者と一緒に修行しながら調査している日本の研究者のプレゼンを聞いたことがある。それもオウム事件の直後のことである。彼は公安関係者から何度も「やめた方がいい」と注意されたという。

 要するに、問題は教団と適切な距離を取ること自体が難しいのではない。学問的には適切な距離を取って調査研究を行ったとしても、それを世間一般や統一教会反対派から「適切な距離である」と評価してもらうことが、日本社会においては難しいのだ。日本女子大の教授をしていた島田裕巳は、オウム真理教に対して好意的な評価をしたということで、地下鉄サリン事件後に大学から休職処分を受け、最終的には辞職へと追い込まれた。同じように、もし日本の宗教学者が統一教会に入り込んで情報提供してもらい、それをもとに統一教会について客観的な記述をしたら、「統一教会に対して好意的すぎる!」「統一教会の広告塔!」などと、反対勢力から一斉にバッシングを受けるような社会情勢が出来上がってしまっているので、宗教学者はうかつに手を出せないのである。日本では宗教学者にも「政治的正しさ」が要求されるということだ。そこには、学問の自由や独立性は事実上存在しない。これがオウム真理教事件以降に日本における新宗教研究が事実上死滅してしまった大きな原因であった。あからさまに批判的な立場をとる以外に、物議を醸している新宗教を調査研究することを世間は許容しないのである。

 櫻井氏は調査方法と資料の収集に関して以下のように述べている。

「筆者の櫻井は脱会した元信者からの資料と証言を集め、中西は韓国で祝福家庭を営む現役信者から証言を得ることができた。従来の研究は脱会者の証言に軸足を置く批判的な研究、あるいは現役信者の証言から描かれる教団像の研究に区分されたが、本研究では双方の調査資料を合わせて、統一教会信者の信仰を総合的に考察しようとしている。その点では、日本はおろか世界的に見ても例のない調査研究といって過言ではない。」(p.viii)

 過言である。なぜなら、既にアイリーン・バーカー博士が既に現役信者と元信者の両方から得られた証言に基づいて『ムーニーの成り立ち』を既に1984年に出しているからである。彼女の研究は、元信者と現役信者だけでなく、修練会に出ても信仰を受け入れなかった「非ムーニー」にもインタビューしている点で、櫻井・中西両氏の研究よりもさらに総合的である。そればかりか、彼女はムーニーの親やディプログラマーなどの反対する人々にもインタビューを行っている。櫻井氏は先行研究としてバーカー博士の研究を挙げているが、本当に全部読んだのかどうか疑わしい。

 櫻井氏の研究は、脱会した元信者の証言に軸足を置く批判的な研究であり、これではサンプリングが偏っているというそしりを免れないので、もともと全く別の研究をしていた中西氏を共同研究者として巻き込んで、「現役信者の証言も聞いていますよ」というアリバイを作るために彼女の調査結果を利用したのである。これは、櫻井氏が「虎穴に入る」ことを拒否し、安全圏から相手を砲撃するというやり方を採用したということを意味する。これが櫻井氏の言う「適切な距離」の取り方なのである。

 この点に関しては櫻井氏は以下のような言い訳をしている。

「しかし、本研究は計量社会学的なサンプリング・分析方法は採用せず、質的調査法による理論的サンプリングや問題発見型の仮説提示を目指した。現実的に、脱会者・現役信者それぞれの母集団を確定する作業は、前者では不可能、後者でも統一教会本部から信者名簿を借りてランダムサンプリングができるのかという意味では不可能である。教団から名簿を借り受けることができるほどの関係を統一教会との間に構築することが、日本の脈絡においてどのような意味を持つのか。考えてみれば容易ならぬことがわかるであろう。本書が収集した資料・証言に関しては、現実に調査可能な範囲でできる限りの調査努力をした結果ということで評価していただきたい。」(p.viii)

 評価できない。アイリーン・バーカー博士の研究は方法論的に完璧な計量社会学的なサンプリング分析だったので、対照群との比較による数的評価を行っていない時点で、櫻井氏の研究は既に劣っている。サンプリングに偏りがあることは否定できないので、それを「質的調査法による理論サンプリング」とか「問題発見型の仮説提示」などという持って回った言い方をしてカモフラージュしているだけである。

 バーカー博士は、イギリスの統一教会本部から信者名簿を借りてランダム・サンプリングを行った。それが可能になるまでには、双方の主張の応酬と駆け引きがあった。バーカー博士は、まず適切な社会学的研究を行うことなしに論文を書くことはできないと説明し、そのために英国メンバーの完全リストを要求した。それは教会が彼女にインタビューさせたいと考えるメンバーだけに会うのではなく、ランダム・サンプル方式でインタビューするためであった。これを英国統一教会の指導者に納得させるのに数週間かかったという。英国教会は、特定可能な個人に関する情報が漏洩することや、メンバーのリストがメディアやディプログラマーに流れることを恐れたからである。こうした双方の隔たりを乗り越え、信頼関係を構築したことによって、『ムーニーの成り立ち』の出版は可能になった。それに比べて櫻井氏は、「考えてみれば容易ならぬ」という一言で諦めて、統一教会の門を叩いてみることさえしなかったのである。これは統一教会とまともに向き合うことを放棄したといっても過言ではない。

 櫻井氏が言うところの、「現実に調査可能な範囲でできる限りの調査努力」(p.viii)とは、主として統一教会に反対している牧師、脱会カウンセラー、弁護士などのネットワークから情報を得るということである。そこは元信者の宝庫であり、「青春を返せ」裁判のための陳述書や証拠書類という形で資料は山のようにある。極めて包括的資料がいとも簡単に手に入り、インタビュー対象も探さなくても紹介してもらえるのである。しかし、それらは裁判に勝つために脚色された可能性の高い偏った資料である。これが櫻井氏の研究における最も重大な方法論的問題である。

 その後、「はじめに」では「4 本書の構成」として著作全体の内容を概観しているが、あまりに簡略な結論のみの紹介になっているため、ここでは扱わず、本論に入った後に詳しく論旨を追いながら検討することにする。

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