神学論争と統一原理の世界シリーズ18


第四章 救いについて

3.なぜ神は今すぐ世界を救わないのか?

聖書によれば、人類始祖アダムとエバが、禁断の木の実を食べることによって堕落したことが罪悪の始まりとされている。しかし、それから救世主であるイエス・キリストが来るまで約四千年もかかっている。イエスは再臨の約束をして昇天したが、それから現代までさらに二千年もかかっている。この間神はいったい何をしておられたのだろうか? 少々うがった見方をすれば、神は何千年も人間を罪悪の中に放置しておいて、ある日突然メシヤを遣わして審判するような無慈悲な方だとも思える。もし神が人類の親ならば、罪悪に苦しむ子供たちを何千年も放置しておかないで、瞬時に救ってくださればいいのにとも思える。

しかし聖書をよく読めば、その中には神が歴史を通して人類救済の業を押し進めてきたという思想、すなわち「救済史観」が存在する。救済史は神の天地創造に始まり、未来に来るべき終末によって完結するが、その間にはアダム、ノア、アブラハム、モーセ、そして預言者たちなど、さまざまな人物が登場する。キリスト教の救済史観においては、これら旧約聖書に記述されている全てのことは、イエス・キリストを迎えるための準備であったと理解されている。しかし神の摂理がなぜそれほどまでに長い年月を要したのかということ関しては、今までの神学では明確に説明されていない。メシヤの到来の時期は、まさに神のみぞ知るミステリーなのである。

 

歴史は神のシナリオどおりに動くという考え

アウグスチヌスの『神の国』の写本

アウグスチヌス『神の国』冒頭部分、1470年製作本

キリスト教には、歴史は神の摂理によって動いているという「摂理史観」があるが、これを最初に体系化した人物が、アウグスチヌスであった。彼は歴史を神を愛する人々の霊的共同体である「神の国」と、悪魔に誘惑された人々の住む「地の国」の闘争の歴史として描き、最後には「神の国」が勝利して永遠の平安を得るとした。すなわちアウグスチヌスにとって歴史とは、二つの国が互いに闘争しながら発展し、やがて最後の審判の日には「神の国」が「この世の国」に対して最終的な勝利を収めることによって終結する、「壮大なドラマ」なのである。

 

このドラマは、神、すなわち永遠の作者によって起草されるのであるが、人間によって演じられる。ドラマの個々の面にはさまざまな矛盾や不合理もあり、とても神の摂理とは思えないような出来事があったとしても、最終的な神の勝利として全体を見つめてみたときに、そこには美しさがあるとアウグスチヌスはいう。したがって、なぜ神は今すぐ世界を救わないのか? といった疑問は、人間には計り知れない「神の摂理の神秘」という概念によって、棚上げにされているのである。

ジャン・カルヴァン

ジャン・カルヴァン

これをさらに発展させたのが、カルヴァン主義者たちの「二重予定論」だ。厳密にはカルヴァン(1509~1564年)の弟子たちが主張した「カルヴァン主義」なるものの予定論は、カルヴァン本人の意図とは違っていたという指摘もあるが、それはさておいて、一つの極端な摂理史観の代名詞になっている「カルヴァン主義」について知っておくのも悪くないだろう。

カルヴァン主義は神の絶対的な権威を強調し、神は被造世界と全歴史を支配する全能の統治者であると見る。すなわち神は天地創造の以前からすべてのことを定められたので、世界とすべての人間の運命は永遠の昔から予定されているというのだ。しかし、このように神がある人は天国に、ある人は地獄に行くように予定されたとすれば、人間には自由意志がなく、また倫理も責任も必要なくなってしまうという問題が生ずる。
現代は人間の自由意志を礼賛する時代であるから、このようなカルヴァン主義者たちの二重予定論を受け入れる神学者はほとんどいない。今日カルヴァン主義を批判することは、書庫で長年ほこりをかぶっていた文献を引っ張り出して、現代的な価値観で非難するようなものだ。このアウグスチヌスとカルヴァンの摂理史観を見れば、今すぐにでも人間を救おうと必死になっている神の姿を、キリスト教における神の救済摂理の中に発見するのは難しいことが理解できるだろう。

人間と共に働き続ける神

これに対して「統一原理」の救済史観には、今すぐにでも人類を救いたいという切々たる神の心情が描かれていて、日本人には理解しやすい浪速節的な世界がある。「統一原理」が見た歴史の意味は、一刻も早く人類にメシヤを遣わして救済しようとする神の摂理の軌跡である。それによれば、人類が堕落したまさにその瞬間から、神は救いの摂理を開始したとされている。しかし相次ぐ人間の失敗により神の摂理は延長に延長を重ねてきた。

「統一原理」は各時代における神の摂理の目的が何であり、なぜその時の摂理が失敗したのかを明確に説明している。それを詳しく学べば、神の摂理がこれほどまでに長い年月を必要としたのは、神が怠けていたからではなく、むしろ万策を尽くして人間を救済しようとしてきたにもかかわらず、度重なる人間の失敗により摂理が今日まで延長してきたことが分かるだろう。それは病気にかかった子供を何とか救おうとしてあらゆる策を講じているにもかかわらず、その子供は親の気持ちを理解せず、拒否し続けているようなものだ。そのような神の心情を理解するとき、今もなお必死に世界を救おうとしている神の姿に対し、同情を禁じ得なくなるはずだ。

「統一原理」によれば、創世記におけるアダムの家庭の物語の意味は、そこにメシヤを遣わすための神の摂理であったとされる。本当なら神は人間の堕落直後にメシヤを送りたかったのだが、この摂理が失敗することにより、ノア、アブラハム、モーセの時代へと次々に摂理は延長されていく。この具体的な摂理の展開についてはあまりにも膨大な内容なので、『原理講論』の「復帰原理」を読んでいただくしかないが、とにかく神はイスラエル民族を導きながら、なんとかイエス・キリストを遣わすところまでこぎつける。しかし、その頼みのイエスは、イスラエル民族に不信されて殺されてしまう。そこで神は仕方なくイエスの弟子たちであるキリスト教徒を立てて、メシヤを再び地上に送る準備を始めたのである。これがいわゆる「キリストの再臨」である。

このように「統一原理」は人間を一刻も早く救おうとする神の心情を明らかにすると同時に、なぜそれが今まで実現しなかったのかという謎を具体的な歴史に基づいて解明しているのである。

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