書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』67


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第67回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」の中で、初期段階の教育が行される施設として「3 ビデオセンター」(p.228-9)についてごく簡単に説明している。前回も引用したが、櫻井氏は統一原理のビデオに関して次のように述べている:「この種のビデオ受講で感動する人はほとんどいない。どれも初耳の話である。神がこの世と人間を作り、人間がサタンの仕業で堕落し、その後神の元へ復帰する歴史を歩んでいるのだという話を聞かされても、ふーんというしかない。しかし、『全てわからなくともゆっくり学んでいけばよい。いずれわかるので最後まで見ましょう』と言って、後へ後へと評価を引き延ばす。要するに、何が言いたいんだということは取っておくのである。」(p.229)

 前回に引き続き、今回も自分自身の1990年代の経験に基づいて、ビデオセンターの現実について語ってみたいと思う。櫻井氏と、彼が資料的に依拠している統一教会反対派の主張は、基本的にビデオセンターにおける勧誘教化行為は欺罔であり、ゲストを欺いて特定の宗教的教えを刷り込もうとしている、というものだ。そこには基本的にゲストは教えられている統一原理の内容が理解できないし、納得できないにもかかわらず、巧みな心理操作によって学習を続けさせられ、最終的にはそれを受け入れざるを得ない状態に追い込まれるというものである。しかし、この主張は事実に反している。実際には、ビデオセンターのゲストはビデオの内容に感動して喜んで学習する者と、内容について行けずに途中で離脱する者とに分かれていくのである。それはゲストがもともと持っていた性格や背景によって主体的な選択をしていると考えることができる。

 当時使用されていたビデオソフトは、主に森山操講師のものと、倉原克直講師のものであった。これらの内容は基本的には統一原理の教えを講義したものだが、それぞれの講師が自分なりのオリジナリティーを発揮して、より分かりやすく、かみ砕いた表現に変えられている。ビデオには随所に「神」や「神様」という言葉が出てきて、その内容が宗教的なものであることはもちろん、聖書を引用するためキリスト教的なものであることは誰にでも理解できる内容になっている。創造原理の箇所では三大祝福の説明に創世記1章28節が引用されるし、堕落論では同じく創世記第2章から3章にかけて展開される、失楽園の物語を人間の罪の起源として説明している。続いて出てくる「終末論」「復活論」「メシヤ論」などは、タイトルからして極めてキリスト教的な色彩の強いものであり、頻繁に聖書を引用したり、聖書の物語を説明したりしながら講義を進めて行くものであり、これを聞けば誰しもキリスト教的な背景を持つ宗教の教えについて学んでいることは理解できるはずである。

 私が運営していたビデオセンターにおいては、ビデオの内容そのものに関心を持ち、意欲的に学んで行く人は、早期にツーデーズ・セミナーへの参加が決定するので、ビデオは堕落論くらいまで終わり、後はもっぱら生の講義によって教育されるというケースが多かったことを記憶している。十数巻あるビデオを最後まで見るような人は、ツーデーズがなかなか決まらなかったり、ビデオの内容がよく理解できなかったり、批判的であったりする人の場合が多く、一通り客観的に見て、もうそれ以上は来なくなる人が多かった。

 ビデオ受講に対する反応は、まさに人それぞれであった。受講者が印鑑や念珠を購入した顧客である場合、「先祖の因縁」というような仏教的世界観を持っており、ビデオセンターで学ぶ目的も、因縁を精算するための精神的な修行あるいは勉強として捉えている場合が多いため、キリスト教的な神の概念を教えるのは努力を要した。日本は神仏混淆という宗教的土壌があるので、「神」という概念自体をことさらに否定する人は少なかったものの、なぜ聖書の神なのかという点に関しては納得が行かず、違和感を感ずる人も多くいた。もちろん、最初から神の存在を信じていて、聖書はこれまで詳しく学んだことはなかったが、面白そうだから是非聞いてみたいという反応があったことも事実である。

 青年がビデオを学ぶようになる動機が、自分を高めたいとか、生きる目的を知りたいとか、広く世界を知り教養を身につけたいなどの、どちらかといえば観念的で抽象的なものであるのに対して、既婚の婦人たちがビデオを学ぶようになる動機は、印鑑や念珠を購入した延長線上にあり、夫や姑との関係をはじめとする人間関係、あるいは子供の非行といったような、具体的な問題が解決されるかもしれないという期待に基づいている場合が多く、カウンセラーの主たる仕事は、ビデオで紹介されている統一原理の内容が、それらの具体的な問題解決にどのように役立つのかを結び付けてあげることにあった。

 しかしながら、これは簡単な仕事ではない。目の前の悩みを解決するのに、なぜ神について学ばなければならないのか、すぐには結びつかないからである。こんなことを学んでも意味がないと言って途中でさじを投げてしまう方も大勢いた。そのようなときカウンセラーは、「いま現実問題として起こっている数々の悩みには、もっと奥深い原因があり、その原因を突き止めてそこから直していかなければ根本的な解決にはならない。あなたの問題はあなた個人に特有な内容ではなく、人類に共通した普遍的な悩みの一つであるから、その根源にある人類共通の罪の原因について知っていかなければならない」と説明して、さらにビデオの内容を学ぶように勧めることになる。しかしながら、この説明も同様に、必ずしも功を奏するとは限らず、もっと簡単で対処方的な手段で悩みが解決されることを期待していたのに、抽象的な話ばかりだといって途中で受講をやめる方もたくさんいた。ビデオの内容と自分の具体的な悩みや生活を結びつけて捉え、学ぶことの意義を感じることのできる人は、かなり宗教性のある洞察力に優れた人であると言える。

 統一原理の内容は、いかに講師がかみ砕いて表現しようとしても、初めて聞く人には複雑で難解であり、すぐに理解できるものではない。そこで、カウンセラーはビデオで学んだ内容の一つ一つを復習しながら、それをゲストの悩みと結びつけながらカウンセリングを行う必要がある。とりわけ聖書の物語を素材とした堕落論や復帰原理の内容は、日本人には馴染みが薄いために理解しづらいようだ。堕落論に登場する天使の存在を受け入れるのがまず大きなハードルとなるし、復帰原理に登場する聖書の人物の名前だけを挙げても、アダム、エバ、カイン、アベル、セツ、ノア、セム、ハム、ヤペテ、アブラハム、サラ、ハガル、イシマエル、イサク、リベカ、ラバン、ヤコブ、エサウ、レア、ラケル、ジルパ、ビルハ、ヨセフ…と数多いので、誰が誰の親であり、妻であり、子であるかというその関係性や時代を覚えるだけでも一苦労ということになる。内容に興味を持てない人がこうした学習を継続することはまさに苦痛であり、途中でやめたくなるのは必然である。しかし、逆にいままで知らなかった聖書の世界に興味を覚え、そこで繰り広げられる人間ドラマに自分の人生を重ね合わせ、自分と関係のある物語として捉えることができる人は、喜んで学習を続けることになる。すなわち、学習を続けるかどうかは、ひとえにその人の宗教性が左右するのである。

 櫻井氏は、ゲストがビデオの内容を理解できなかったとしても、「ともかくここは自分の居場所だと被勧誘者に感じてもらえばいい。下にも置かない態度に誘われたものは悪い気がしない」(p.229)として、統一原理の内容が理解できなくても人間的な情によってつなぎとめられていることを批判的に記述している。しかし、家庭や社会において孤独を感じたり、居場所がないと感じている若者や主婦が、自分の話を熱心に聞いてくれる人々に魅力を感じてそこに通うようになることは自然なことであり、とりたてて悪いことであるとは言えない。多くの新宗教運動に参加する人が、その教えそのものというよりは人間関係に引かれて入信するようになるのと変わらない現象が、ビデオセンターにおいても起こっていたということである。

 さて、このビデオセンターで学ぶようになった人が、次のステップであるツーデーズセミナーに参加する割合はどのくらいなのだろうか? これに関しては、拙著『統一教会の検証』において、以下のように紹介されている。
「日本においては外部の学者による統計調査は存在しないが、統一教会の信徒団体が1984~93年にわたって一部地域で行ったサンプリング調査がある。それによれば、その10年間に伝道されて定期的に統一原理を学習するようになった者36913人のうち、二日間の修練会に参加した者が14383(39.0%)…」(『統一教会の検証』p.32)

 すなわち、ビデオセンターでコース決定をして学習を始めたとしても、次のステップに進むのは四割弱であり、半分以上がこの段階で離脱するということなのである。その後も、ステップを踏むごとに離脱者が出て、最終的に残るのは数パーセントという結果になるのだが、これもまたゲストが自由意思によって主体的な選択をしている証拠である。

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