神学論争と統一原理の世界シリーズ27


第六章 歴史について

3.なぜ歴史は繰り返すのか?

「統一原理」は、歴史は繰り返すということを主張しており、これを「歴史の同時性」と呼んでいる。「歴史の同時性」という言葉で思い出すのは、日本でも非常によく知られているイギリスの歴史家、アーノルド・トインビー(1889~1975年)だ。

アーノルド・トインビー

アーノルド・トインビー

彼は十二巻に及ぶ膨大な『歴史の研究』を1934年から1961年にわたって著し、世界の諸文明の成立と展開の様相を分析しようとした。このトインビーの思想と「統一原理」は、両方とも「歴史の同時性」ということを主張しているが、実はその内容は表層的には似ているように見えても根本的なところで違っている。同じように歴史が繰り返すといっても、一体どこが違うのだろうか?

トインビーの歴史観

オズワルド・シュペングラー

オズワルド・シュペングラー

トインビーの思想の直接的な背景となっているのは、第一次世界大戦後、当時のベスト・セラーであった、民間哲学者オズワルド・シュペングラー(1880~1936年)の『西洋の没落』という書物である。

シュペングラーは歴史の基礎は文化であると主張し、それは一種の有機体であるととらえた。有機体である以上、それは生まれ、成長し、滅びるというサイクルを繰り返すのであり、文化の死滅は不可避的な運命であると考えたのである。

トゥキュディデス

トゥキュディデス

このシュペングラーの背景となっているのが、実はトゥキュディデス(BC460ごろ~BC400年ごろ)に代表されるようなギリシアの歴史観である。ギリシア人は国家や文明の成功と没落は、ある種の法則のようなものに支配されると考えていた。それは人間の世界、さらには自然界を支配している上昇と下降、成功と没落の法則であり、さまざまな文明の興亡は、その一つの典型的な現れであるととらえたわけだ。したがって人類の歴史は、自然の栄枯盛衰のリズムの中に部分的に組み入れられているということになる。

シュペングラーは、ギリシア・ローマの没落の徴候と同じものを西洋文明の中に見いだして、西洋の没落を予言した。それと同様にトインビーも、ギリシアの歴史は確かに古いことではあるけれども、それは類比的に現代にも当てはまるという発想に立って、世界史を分析したのである。トインビーによれば、世界史を構成する究極的な単位は文明であり、文明は誕生、成長、挫折、解体、消滅の段階を繰り返していくという。彼は人間の自由意志の存在を認めているので、その歴史観は決定論ではないが、基本的には循環モデルであり、悲観的なトーンであることは否めない。これは歴史の究極的な目的を設定しないためである。

旧約と新約をつなぐ統一原理
「統一原理」は「地上天国の実現」という歴史の究極的な目標を設定しており、歴史観としては非常に楽観的であるという点において、前出のシュペングラーやトインビーとは大きく異なっている。それでは「統一原理」の主張する「歴史の同時性」の直接的な背景となっているものは何であろうか? それは聖書の「予型論的解釈」と呼ばれるものだ。これは聖書解釈法の一つとして古くからある方法で、具体的には旧約聖書の人物・事物・出来事の中に、新約聖書の、特にイエス・キリストに対する約束預言や雛型を見いだすことである。

【図11】

【図11】

実は新約聖書自体の中に、この予型論的な解釈が含まれている。イエスがルカによる福音書においては平原で説教しているのに対し、マタイによる福音書では山上で説教しているのは、マタイによる福音書がイエスを第二のモーセとして描こうとしているからに他ならない。マタイによる福音書はそれほど、イエスを旧約聖書において預言されたメシヤであると主張したかったのだ。予型論的解釈においては、歴史的には旧約聖書の出来事のほうが先に起こったが、神の摂理においてはメシヤの出来事がまず前提としてあり、そのことをあらかじめ象徴的な形で見せるために旧約聖書の出来事があったのだと理解される。すなわち、旧約の出来事はすべてイエス・キリストの出来事と関連づけて解釈されるのである。【図11】

このような予型論的解釈は、古代の教父たちには好んで用いられたが、聖書の歴史的・実証的研究が進むにつれて否定されるようになってきた。これは旧約聖書を将来に対する予言としてではなく、それが書かれた当時の状況に照らし合わせて読むことにより、その著者がもともと意図していた内容はなんだったのかを探求しようとする立場だ。
それによると旧約聖書の預言者たちとは、未来を「予言する者」ではなく、神の言葉を「預かる者」であり、その当時ユダヤの国で起こっていた問題について、神からのメッセージをによる伝える代弁者であったととらえられている。すなわち彼らはいわば宗教的な時事評論家として社会で起こる具体的な問題に対して関心を持ち、それに対する神の意志を語っていたのであって、決して遠い未来のキリストについて語っていたのではなかった。それをイエスについての預言ととらえるのは、キリスト教の勝手な解釈だというのである。

にもかかわらず「統一原理」は、この聖書の予型論的解釈を現代に復活させる。それは旧約聖書を単なるユダヤ民族の歴史を記した文献としてではなく、あくまで神の摂理について教えてくれる啓示の書として読むからである。「統一原理」は聖書に登場する人物一人ひとりの生涯に関する記録を、単にその人個人の歴史としてでなく、将来メシヤが歩むべき道、そしてメシヤに従って全人類が歩むべき道を示した典型路程としてとらえている。実際アダムの家庭から始まって、ノア、アブラハム、モーセと、旧約聖書に登場するすべての人物は、将来メシヤの行くべき道を先駆けて歩み、メシヤ降臨の準備をした人々であるととらえられている。「統一原理」ほど新約聖書と旧約聖書の間に緊密な関連を徹底して見いだす神学は珍しいといえるくらいだ。

旧約聖書の中の出来事は来たるべき歴史の予型であるから、当然その後の歴史において起こる出来事は、前の時代の出来事を繰り返すようになる。すなわちこれは神の予定による、一つの目的を持った繰り返しなのである。ただ従来の予型論的解釈と「統一原理」の異なっている点は、前者がイエス・キリストの「十字架と復活」を一つの原型としながら、その予型となるものを旧約聖書の中に見いだしていくのに対して、「統一原理」はあくまでメシヤは生きてこの地上に天国を建設するために来たという観点から、その勝利の典型的なパターンを旧約聖書の中に見いだそうとしている点だ。これが同じ予型論的解釈でもその内容が大きく異なってくる理由である。

聖書と現代生活をつなぐ統一原理
神はメシヤを地上に遣わして人類を救済するための勝利のパターンを、堕落した人間たちに身をもって体験させ、それをメシヤが来たときの指針とし、教訓としてのこすために人類を導き、訓練してきた。これは本番を成功させるためのリハーサルのようなものだから、当然成功するまで何度も同じことを繰り返すようになる。しかしリハーサルといってもそれが成功して初めて本番が迎えられるという点では、それは本番と同じくらいの真剣さを必要とするものだった。これが旧約の歴史の内容である。
しかし人類はなかなか神の意図を悟れず、同じような失敗を何度も繰り返したきた。そしてメシヤが本当に地上にやってきた時にもそれまでの教訓を生かせずに、十字架につけて殺してしまった。これがシュペーグラーが見たように、歴史が進歩せずに同じようなことを繰り返しているかのように見える理由である。

しかしその繰り返しも、無目的な循環によるものでなく、ある目標に向かってのトライ・アンド・エラーであるならば、失敗の中にも何らかの教訓が得られるはずである。「統一原理」はこのような歴史の繰り返しの中に、将来地上に天国を建設する目標に至るための教訓を読みとろうとする。だからそれは一つの目的観をもった繰り返しなのであり、決して悲観的な循環論ではない。過去の出来事が神の摂理の目的を我々に教え、それが、我々が現在なさなければならない使命と、我々の行くべき未来を指し示している。そのように聖書を読むとき、それは我々の日々の生活を導いてくれる啓示の書となるのだ。

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