アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳47


第5章 選択か洗脳か?(10)

手順

変数を分離することは、実際には理論ほど簡単ではない。私は、変数の全てが、多少の差はあれ、特定の結果に関与して(そして実際には、相互に作用して)いるらしいということはよく分かっていた。にも関わらず、私が四つの変数から構築したモデルは、それらの間に起こり得るさまざまな関係の概略を描く限りにおいて、私が従うことのできる手順を示唆していると思われた。初めに、私は社会的状況の重要性を評価しようとするであろう。次に、これが回心の主な原因となるには不十分であることが発見されたら、どのような種類の人がムーニーになったのか、そして統一教会が彼らに提供していると思われるものが何であれ、彼らがどのように特にそれに影響を受けやすいのかを見いだすことが必要になるであろう。これをするために、私は対照群を用いて、ムーニーは果たして同年代の者よりも、次の三つの基本的なタイプの感受性が強いかどうかを評価するであろう。第一に、環境の身体的または生物学的な影響に対する感受性、第二に、暗示に対する一般的な感受性、そして第三に、統一教会の選択肢に対する感受性である。これらの区別や、このモデルによって提起されたその他の質問についてのより詳しい議論は、関連するデータを見るまで待つことにする。私は、入教の決断がなされる際の社会的条件の重要性に対する予備的評価をもってこの章を終えることにする。私はこの評価によって、それらが統一教会の環境が何らかの意義を持つ「唯一」の変数である状況を示している限りにおいて、表4に示された最初の三つの可能性を排除することができると論じるであろう。またそれは、第四の状況である「生物学的な感受性」を裏付ける重要な証拠も全く存在しなかったことの重要性を指摘する。私は身体的強制に関わる状況を見ることから始めるが、まずは外的な肉体の拘束によるもの、次に脳の内的な機能障害によるものを見ていこう。

 

統一教会の環境の重要性を評価する

ムーニーについて知っていることを尋ねられると、犠牲者を洗脳するだけではなくて、誘拐するという情報を差し出す人もいる。このような主張を追跡していくと大抵は、ムーニーをワゴン車に押し込んで、ホテルの部屋やその他の監禁場所に閉じ込める「ディプログラマー」たちの活動が報道されていることに起因する、混乱が生じていることが分かった(注52)。有刺鉄線を張った柵、門を警備するガードマン、ドアの施錠に関する話も報道されている。私がいつ統一教会のセンターを訪問したときでも、望んだときに抜け出すことに困難を感じたことは一度もなかった。より大きなセンターのいくつかでは、メンバーたちは外出前に記帳することが求められるが、内側からドアを開けることは極めて簡単であり、たとえ鍵がかけられていたとしても、私は常に近くの釘にその鍵がかかっているのを見つけた。修練所のいくつかは田舎にあったが、それらは人里離れた孤立した場所ではなく(明らかに、ガイアナのジョーンズタウンにあった人民寺院の潜伏場所のような所ではなかった)、主要幹線道路から歩いて数分以内の所にある。キャンプKのわきのマッカマ川が氾濫して、住人が孤立してしまうという異常な状況もあった。しかし1マイル上流まで歩けば、そこで道路に出ることができた(注53)。通常なら、脱出したい者はズボンの裾を濡らすだけで川を歩いて渡ることができただろう。しかし、橋を歩いて渡っていくことは完全に可能だったし、より簡単だったであろう。

セキュリティに気を付けているのは、報道関係者やディプログラマーなどの望まない侵入者たちを立ち入らせないようにするためであり、無力な捕らわれ人を内部に留まらせるためではない、とムーニーたちは主張している。私の研究の期間中ずっと、彼らが修練会や統一教会のセンターを立ち去ろうと望む者を物理的に阻止した証拠を見いだすことはできなかった。さらに、統一教会を訴えた二人の原告は、とりわけ「不当に監禁された」と主張しているが、彼らも、彼らの知っている者たちも誰一人として、ムーニーによって物理的な強制を受けたことはないし、物理的な強制の脅しを受けたことさえないことを認めている(注54)。

次に考慮すべき問題は、ゲストが能動的に思考する能力を大幅に減退させるほどまでに、修練会の状況が彼の体の身体的状態に影響を及ぼしたかどうかである。

統一教会の施設では、(滅多にいない逸脱者か非会員がこっそり持ち込むない限りは)麻薬やアルコールが摂取されることはない。新会員になる可能性がある人は、特別にそれらを控えるよう求められる(時折、地元のパブやバーに出かけることが知られていないのではないが)。「砂糖による興奮状態」、トランスを誘発する講義、睡眠不足、あるいは催眠術が精神機能を劇的に麻痺させるので、「犠牲者」は正常に機能できなくなるといった申し立てを裏付ける証拠を見いだすことは困難である。統一教会の修練会での食事は必ずしも一流の料理人が作ったものではないが、ほとんどの大学の学生寮のものに比べて決して悪くはないし、おそらく多くの大学生が自分で用意するものよりは、はるかに栄養があるだろう(注55)。修練会のゲストたちは、七時間ほどの睡眠が許される(注56)。彼らは必ずしも常にこれを利用するわけではないが、学生たちが試験の準備をするときにはもっと少ない睡眠しかとらないこともまれではないし、結果としてその試験で十分よい成績を挙げている。講義は、高等教育の多くの場所で毎日(同じかそれ以上の時間)なされているものよりもトランスを誘発するものではない。さらに、私が観察したことは、入会する者たちは講義の内容が面白くて刺激的であると感じたらしく、また積極的に聞き耳を立て、ノートをしばしば取っており、そして(講義の後で質問をすることから明らかなように)自分自身の過去の体験と関連づけているのである。統一教会の修練会では、お経や呪文のようなものが唱えられることはほとんどない。仮にそれが行われるところでも(欧米では、主にカリフォルニアであったが)(注57)、ゲストに関する限りは非常に限定された性格のものである。確かに、それはクリシュナ意識国際協会の寺院を訪問したときに参加するように勧められるお経や、実際に、より伝統あるヒンドゥー教の寺院で通常行われているものほど激しくはない(注58)。統一教会は恍惚状態を志向する宗教ではないし(注59)、通常の活動の一部として、信者たちを熱狂に駆り立てることはしない。(文と一部のカリスマ的な指導者たちは、ときどきムーニーたちに熱狂的な大衆反応を引き起こすことができるけれども。)意識の変容状態または催眠については、そのような言葉が全く空虚な意味で適用され、同語反復的に用いられるか、普通の、日々起こっていることを描写しているのでない限り、統一教会の修練会に参加したことのある者なら誰にでも明らかなように、こうしたことは全く起こっていない(注60)。

新宗教運動の信者の信仰や態度から、彼らが「中枢神経系の機能不全」に陥っていると推論した医師たちもいるが、ムーニーあるいはそのゲストたちの脳や中枢神経系に機能不全が誘発されたという直接的な医学的証拠は存在しない(注61)。直接的な証拠がない中で、修練会の影響下にあった脳の非常に高いパーセンテージが、彼らの持ち主をしてムーニーにはなりたくないという決定をせしめるほど、十分有効に機能することができたという間接的な証拠がある。もし統一教会の修練会によって人間の脳が本当に機能できなくなるのであれば、その能力を奪う力がなぜ、そのような影響にさらされた脳の中のごく少数に対してしか機能しないのかについて知る必要がある。

(注52)特に次のものを参照せよ。テッド・パトリックとトム・ダラック「私たちの子供たちを去らせよ」ニューヨーク、ダットン、1976年;H・リチャードソン編「ディプログラミング:問題の文書化」米国市民自由財団(ニューヨーク)と宗教的なディプログラミングについてのトロント神学校会議(1977年)のために準備;M・D・ブライアント編「カナダにおける宗教の自由:ディプログラミングと新宗教についてのメディア報道」ドキュメンテーション・シリーズ第1号、宗教の自由擁護のためのカナダ人、トロント、1979年
(注53)統一教会ニュース、1983年4月、p.16
(注54)「デビッド・モルコとトレーシー・リール」対「世界基督教統一神霊教会」、カリフォルニア上級裁判所、サンフランシスコ市郡、769-529号事件での原告の宣誓証言を参照せよ。1983年10月20日に被告勝訴の略式判決が下された。
(注55)北アイルランドの国会議員ボビー・サンズがハンガーストライキの62日目に、メイズ刑務所にいた彼を労働党議員の代表たちが訪れたとき、彼は「精神的に非常に機敏」であり、彼らと政治的な議論をすることができたとメディアで報じられたことは、おそらく全く無関係ではないだろう。K・メランビー「人間モルモット」ロンドン、メリルプレス、1973年(初版1945年)を参照せよ。
(注56)それは会員たちが常に十分な睡眠を得ていると言っているのではない。
(注57)さらに、オークランド・ファミリーの会員たちは、ときには2日間にわたって、ゲストが原理を受け入れることを願って聖歌を歌うだろう。また周藤健「120日修練会マニュアル」(未刊の複写物、ニューヨーク、世界基督教統一神霊協会、1975年)p.338を参照せよ。
(注58)クリシュナ意識国際協会は、信奉者たちが唱えるお経のゆえに「ハレ・クリシュナ」として広く知られている運動である。
(注59)M・ダグラス「自然のシンボル:宇宙論の探求」ロンドン、バリー&ロックリフ、1970年;I・M・ルイス「恍惚状態の宗教」を参照せよ。
(注60)催眠術の定義は曖昧なことで有名であるが、この問題についての現代の理論のいくつかを概観する上で役立つものとして、ウインの「操られた心」を見よ。
(注61)J・G・クラーク「カルト・メンバーの照会の問題」p.27;以下の文献における「医療問題化」に関する議論を参照せよ。アイリーン・バーカー「回心の回心」、A・R・ピーコック編「還元主義:知識の統一の探求」ロンドン、NFER-ネルソン、近刊予定、に掲載;B・キルボーンとJ・T・リチャードソン「多元的社会における心理療法と新宗教」『アメリカン・サイコロジスト』(近刊予定);H・リチャードソン編「新宗教と精神衛生」ニューヨーク、エドウイン・メレン・プレス、1980年;R・A・クルツとH・P・チャルファント「医療と病気の社会学」ボストン、アリン&ベーコン、1983年、第2章;ロビンズとアンソニー「逸脱した宗教の医療問題化」

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