アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳45


第5章 選択か洗脳か?(8)

朝鮮人や中国人の戦争捕虜に引き起こされたイディオロギー的変化(注42)や、麻薬の使用、トランス状態、催眠、宗教的なエクスタシーを通じて起こり得る変化について論じた文献がかなりの量に上っているという事実を踏まえ(注43)、また多くの人が抱いている、ムーニーは実際にその犠牲者たちを洗脳しているという信念が及ぼす広範囲な意味合いや結果を考慮して(注44)、自由意思と社会的条件付けまたは洗脳が両方とも存在し得るという可能性を初めから否定せずに、その見解を真摯に受け止めることが重要であると思われる。パンドラの箱は開けられたのであり、われわれの目を閉じたり蓋を閉めたりしても、問題を片づけることにはならない。

自由意思を「救いの神」――すなわち何らかのかたちで取り去られるまで、神秘な力で人々に独立した決断をさせるもの――として持ち出しても、それは役に立たないであろう(注45)。また「究極的に」全てのことは(精神的あるいは肉体的な)原因によって決定されているという立場に反対する議論に入っていくのも役に立たない。私がやりたいのは、自由意思と決定論の論点を避けて、より有益な二分法であると私が信じる、選択と強制を採用し、それほど野心的ではないがより実用的な区別を試みることである。それは、異なった影響が一人の人に及ぼす時の違いを考慮し、さらにこれらの異なった影響がどの程度合わさって最終的な結果を生み出すかを考慮するものである。

われわれの人生は必然的に他人によって影響されていると考えることは、意味があるということを認めることから始めよう。人間は社会的な存在である。幼少の頃から、彼らは周囲の人々の信念や慣習を「取り入れる」だろうし、そうするに違いない(注46)。好むと好まざると関わらず、彼らが身を置く社会は、自分という存在の可能性と束縛の両方を、彼らに提示するであろう。彼らが世界をどのように見るかは、少なくとも部分的には、他者が彼らに何を見るよう教えたかに依るであろう。カトリックの家庭に生まれた子供は、ムスリムの家庭に生まれた子供とは異なった信念や態度にさらされるであろう。これは彼らが異なった種類の人間として成長する理由の一つである。もちろん、彼らが子供時代の信念や態度を拒絶することもありうる。だが、そうした拒絶自体がこれらもしくはその他の環境(あるいは遺伝的である可能性もある)の影響の特定の組み合わせによって引き起こされた、と論じることは常に可能である。それではわれわれは、誰かが外部の影響(あるいは本人の遺伝的な性質)によって「押され」たり「引かれ」たりして何かをすることと、周辺の環境によって提供されたことを拒絶または受容することを選択したがゆえに何かをすることを、いかにして区別できるだろうか? 確かにその「選択」は、それ以前の影響と現在の環境の組み合わせの結果だったかもしれないが、だからといって、それが選択だったと言えないことはない。事実、現在の性格に寄与した以前の影響が何らかの強制的な技術によって「迂回」されたとするなら、選択がなされたと言うことはもっと意味がなくなるだろう。このことから以下のような結論が導き出される。われわれの目的に最も役立つと思われる哲学的人類学(人間性のモデル)とは、人々は他者との相互作用を通じて、生来の思索能力を発展させると仮定される、というものだ(注47)。したがって、人々は「情報配センター」と見ることができる。すなわち、彼らの気質と蓄積された経験に「照らして」、彼らに提示された数々の選択肢の中から「選別する」うえで、積極的な役割を演じることができるのである(注48)。

 

選択の作業定義

この一般的な視点から、われわれは選択が何を意味するかについての作業定義を提案することができる。選択は、(現在の)考え、(過去の)記憶、そして(起こりえる将来についての)想像と関わっているだろう。人は二つかそれ以上の可能な選択肢の存在が予想できるとき、それらの中から決定を下す能動的な行為者であり、またそうする際に、彼は以前の経験と以前に形成された価値観を利用して判断を下すのである。

その人が、ある特定の記憶や性質をもったいまの人間にどのようにしてなったかは、ここでは問題にしない。私が示唆しているのは、彼の蓄積した「インプット」を積極的に参照し、それを利用することができる限りにおいては、彼が選択をしていると言うことは理にかなっている、ということだけである。もし他の誰かが何らかの形で、自身の過去の経験に照らして彼が判断することを妨げているならば、――あるいはそうしなければ得られるであろう未来(例えば彼が勉強を続けること)について考えることを妨げているならば――そのときわれわれは彼の選択する能力が取り除かれたと言うことができるだろう。

 

(注42)特に次のものを参照せよ。リフトン「思想改造と全体主義の心理」;マッコビーほか編『社会心理学読本』、第7節;シャイン「戦争捕虜に対する中国の教化プログラム」;シャイン「強制的説得」;D・ウイン「操作された心:洗脳、条件付けおよび教義の植え込み」ロンドン、オクタゴンプレス、1983年
(注43)特に次のものを参照せよ。C・T・タート編「意識の変容状態」ニューヨーク、ワイリー、1969年;サーガント「精神のための戦い」ロンドン、ハイネマン、1957年;W・サーガント「とりつかれた心」ロンドン、ハイネマン、1973年;I・M・ルイス「恍惚状態の宗教:霊の憑依とシャーマニズムの人類学的研究」ハーマンズワース、ペンギン、1971年
(注44)特に次のものを参照せよ。J・G・クラーク「カルト・メンバーの照会の問題」;R・デルガド「宗教的全体主義:米国憲法修正第1条の下での優しい説得と粗野な説得」『南カリフォルニア法律評論』第51巻、1号、1977年;R・W・デリンジャー「カルトと子供たち:強制の研究」ボーイズタウンセンター、ボーイズタウン、ネブラスカ州、日付無し;R・エンロス「青年、洗脳および過激派カルト」グランド・ラピズ、ミシガン州、ゾンダーバン、1977年;ヘフトマン「ムーニーたちの暗部」;スワトランドとスワットランド「ムーニーたちからの逃亡」
(注45)私はいまだかつて、社会学者が(あるいは実際どのような人でも)どのように実体としての自己、超越的自己、機械の中の幽霊(訳注:心と体を二元論的に分離したデカルトの人間観に対するギルバート・ライルの批判的表現)、魂、またはその他の人間の自由意思の担い手を、「操作可能にする」かを見たことがない。
(注46)特に次のものを参照せよ。P・L・バーガーとT・ラックマン「リアリティのの社会構造:社会で知識として通じる全てのこと」ガーデン・シティ、ニューヨーク、ダブルデイ、1966年
(注47)G・H・ミード「社会行動主義の立場から見た心、自己および社会」C・W・モリス編、シカゴ/ロンドン、シカゴ大学出版、1934年、の言葉で、「私」は「私」について考えることができる。
(注48)もちろん、人々が常にこの能力を利用できるとか、彼らの選択することの全てが常に(あるいは普通は)理性的なやり方でなされている、ということを示唆しているのでもない。われわれは積極的な役割を放棄することもあり得るし、極めて非理性的になることもあるということは、火を見るよりも明らかである。われわれは能動的になり、ときには理性的な存在となるための潜在能力を持っている、ということが示唆されているに過ぎない。B・R・ウイルソン編「合理性」オックスフォード、ブラックウエル、1970年を参照。

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