神学論争と統一原理の世界シリーズ17


第四章 救いについて

2.信じるだけで救われる?(その2)

「信じる者は救われる」という宗教の主張に対して、一般人が違和感や拒絶感を抱く理由の一つは、その発言によってその宗教の外部にいる人々の倫理や道徳、および善行などの価値が否定されているように感じられる点にある。特にプロテスタント系のキリスト教における「信仰」という概念は、「行い」に対立する概念として語られる場合が多いので、それは人間の倫理・道徳や善行は救われるためには何の役にも立たない、救われるにはただ神の恩寵を受け入れる「信仰だけ」が必要なのだというメッセージに聞こえる。そこで、もしそのような一元的な価値によって全てが決定されれば、一種のアナーキズム(無政府主義)に陥るのではないかということである。さらにそこには「他力」を強調する宗教を信じる人は、自分では何も努力しないでただ天から恵みが降ってくるのを待っているだけの、怠惰な人々なのではないかというイメージもまとわりついている。

 

信じる者は行動する

しかしキリスト教の歴史において人間の罪深さを強調し、神の恩寵と信仰の重要性を説いた人々は、ただ黙って天を見上げて恵みが降ってくるのを待っているような人々ではなかった。人間の罪深さと信仰の重要性を説いたキリスト者の代表的な人物としては、パウロ、アウグスチヌス、ルター、バルトなどが挙げられるが、これらの人物はその時代の抱える問題に対して真剣に取り組んで戦った「行動の人」であった。逆にだからこそ「信仰」を強調する彼らの教説がよけいに光り輝いて見えたのである。私は神の恩寵を強調する神学がキリスト教の主流を占めたのは、多分にこれらの人々が魅力的で、かつ優れた著作家であったことに原因があると思っている。

彼らに共通するものは強烈な神体験と、人間の「傲慢性」に対する鋭い嗅覚である。彼らは自分自身を含めた人間の罪性、特に自己義認と傲慢の罪に対して人一倍敏感であった。そしてそのような人間を罪の中から救ってくださる神の恵みを身を持って体験したとき、その恩寵に比べ人間の努力などあまりにも小さいと感じられたのである。人間が神から召命を受けるとき、何か自分の意志とは違う逆らい難い巨大な力によって自分の運命が動かされていることを感じるという。そのような体験に基づいて、彼らは「救いは恩寵のみによってなされる! そしてそれを受けとめるのは律法でも、修道生活でも、善行でも、理性でもない、ただ信仰のみ!」と言ったのである。ここで彼らの言う「信仰」とは、全身全霊をかけて真の神を求め、すべての偶像の誘惑を排してただ神のみを信頼するという、大変厳しいものであった。

 

「ペラギウス主義」というレッテル

このことから我々が知らなければならないのは、「信仰のみ」という言葉は神の恵みを実感した者の歓喜の叫びであり、実存的な発言であるということだ。つまりこの言葉は一種のレトリック(修辞法)であって理論ではない。したがってそのような信仰的実存を共有することなしに、この言葉を額面通りに受けとって「教義」にしてしまえば、たちまちにしてその真の意味は死んでしまうのである。実はプロテスタント教会はルター以後この過ちをたびたび犯してきた。

 ディートリッヒ・ボンヘッファー


ディートリッヒ・ボンヘッファー

そのことを鋭く批判したのが、殉教したドイツの神学者、ディートリッヒ・ボンヘッファー(1906~1945年)である。彼はナチスによるドイツのキリスト教会支配に抵抗して最後まで戦い抜き、1945年の4月に処刑されたことで有名な神学者だ。彼は「安っぽい恵み(cheap grace)」という印象的な表現で当時のルーテル教会を批判した。それはある教義を信ずるならば、我々の側における何らの努力もなしに罪が許されるかのように教えていた当時の教会に対する痛烈な皮肉であった。悔改めもなしに赦しは宣告され、教会訓練もなく洗礼が与えられ、罪の告白もなしに聖餐が与えられる。そのようにして与えられる恵みは安っぽいものでしかない。キリストと信じるということは、キリストに従うことであり、使徒としての高い代価を払って初めて高価なキリストの恵みを受けることができる、と彼は説いたのである。

このように救いにおける人間の責任を説いたのは、何もボンヘッファーが初めてではない。むしろカトリックの説いていた「善行」の必要性をプロテスタントが否定して、極端に走ってしまった結果生じた弊害を是正するという意味があったのだろう。事実カトリックの伝統的な贖罪論である報償(reparation)神学は、人間の責任を説いている。それによれば人間は神に反逆して罪を犯したがゆえに、本来の友好的な関係を回復するためには、罪の賠償をしなければならないという。キリストは人類を代表して罪の償いのために十字架にかかったのであるが、クリスチャンたる者はすべてこのイエスを模範として、報償の道を歩むように召命を受けているのだという。だからこそ自己犠牲や愛の実践は彼らの義務とされているのである。

ペラギウス

ペラギウス

これを素直に受け取れば、カトリックが決して自力のみによる救済を主張して神の恩寵をおろそかにしているのではないことぐらい、普通の人だったら分かるはずだ。ところがゴリゴリの恩寵論者は、救いにほんのちょっとでも「自力」とか「努力」とか「善行」などがかかわっていると言ったとたんに、「ペラギウス主義だ」というレッテルを張る傾向にある。ペラギウスというのはアウグスチヌスと論争したイギリスの修道士で、アウグスチヌスが人間の「原罪」と「神の恩寵による救い」を強調したのに対して、ペラギウスは「人間の本質的な善性」を主張して原罪を認めず、修道によって罪を克服できると主張したことから、それ以来「ペラギウス主義」というのが自力信仰の代名詞のようになったのである。

 

「自力」と「他力」を統合した統一原理

「統一原理」はしばしばプロテスタントのクリスチャンから「ペラギウス主義である」といって批判される。それは「統一原理」がやはり救いにおける人間の責任を説いているからで、神の救いの摂理が成就するためには、神の責任分担が95パーセント、人間の責任分担が5パーセントである、という表現がされている。これを神の責任分担が「恩寵」や「他力」に該当し、人間の責任分担が「努力」や「自力」に該当すると解釈してもいいだろう。つまり人間の救済が成し遂げられるためには、神の恩寵だけでは不十分で、どうしても人間の協力が必要になる。だからペラギウス主義だ! というわけである。

しかしこの95パーセントと5パーセントという表現は、神の恩寵に比べて人間の責任は取るに足らないほど小さいが、それでもやはり必要なのだということを表そうとした一種のレトリックに過ぎない。べつに数字は99パーセントと1パーセントだっていいのだ。さらに人間の責任は5パーセントだから軽いもので、いい加減な努力でかまわないということを意味しているのではなく、人間の側からすればそれは100パーセントの人事を尽くすことを意味している。

要するに「信仰のみ」にしても「人間の努力が必要だ」という表現にしても、それはある特定の状況の中で人間が体験した世界を表現したレトリックであるということを我々は知らなければならないのであり、その信仰的実存を抜きにして言葉のみで争うのはまったくもって不毛な行為なのである。

パウロも、アウグスチヌスも、ルターも、バルトも、ボンヘッファーも、「統一原理」も、実は本質的には同じことを言っているのである。真に神を体験した人にはそれが分かる。しかし表層的な言葉だけをとらえる人には、その奥にある真実が見えないのである。

カテゴリー: 神学論争と統一原理の世界 パーマリンク