神学論争と統一原理の世界シリーズ25


第六章 歴史について

1.歴史は発展か循環か?

ギリシア、ユダヤ・キリスト教の歴史観
世界の文明における歴史観には、大きく分けて二つあるといわれている。一つはギリシアの歴史観に代表される「円環的歴史観」と呼ばれるもので、歴史は人間の力ではどうすることもできない運命によって動いており、「永劫回帰」と呼ばれる永遠なる円環運動を繰り返しているというものである。もう一つはユダヤ・キリスト教的な「直線的歴史観」で、歴史は神の創造をもって始まり、未来における神のみ御旨の成就という目標に向かって、直線的に進んで行く。

キリスト教における歴史の終末は、天変地異による世界の破壊を意味する場合もあるので、必ずしも「歴史は理想に向かって進歩していく」ということを意味しない。しかし近世以降の理性的なキリスト教は、人間社会の合理的な発展の延長線上にキリスト教の理想である「神の国」があるのだという、楽観的な「進歩史観」を支持するようになった。このような歴史観は第一次世界大戦という悲劇が起こることによって一度は大きく挫折したが、概して現代人の精神にマッチするものとして、今でも広く受け入れられている。

日本人の歴史意識
日本人の歴史意識は、伝統的には円環的歴史観に近いものであったといえる。それは日本の伝統的な宗教である仏教が、ギリシアに通じるような円環的な歴史観をもっていたからである。誰でも中学や高校の国語の教科書などで、『方丈記』や『平家物語』の冒頭部分を読んだ記憶があるだろう。「ゆく河のながれは、絶えずして、しかももとの水にあらず。澱に浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、ひさしく留まりたるためしなし」。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。奢れる人も久しからず、只春の夢のごとし」。
これら二つの文学の背景にある共通のテーマは、仏教的な「無常感」である。すなわち人間の一生というのははかないもので、水面に浮かぶ泡のように現れては消え、同じことを繰り返しているというのだ。たとえ今は意気盛んで登り坂にある人も、やがては花が散り、木が枯れるようにして滅び、死んでいく。これは人間も自然の一部であるから、ちょうど春夏秋冬の変化が毎年同じように繰り返されるがごとく、人間も栄枯盛衰を繰り返す運命の網目から逃れることはできないのだという考え方だ。
人間の一生や、歴史というものが同じことの繰り返しであるならば、そこには進歩というものはあり得ない。したがってこれは悲観的な歴史観といえる。日本にも近代化の波が押し寄せ、科学文明の恩恵を享受するようになってから、西洋的な進歩史観が広く受け入れられるようになり、仏教的な無常感は古くさいものとして風化しつつあった。しかし、西洋においても日本においても近代化の行き詰まりと弊害が次第に強く認識されるようになったため、単純で楽観的な進歩史観もまた説得力を失いつつある。世界は今、自分たちのいる場所を教えてくれる歴史観を見いだせずにさまよっているといっても過言ではない。

統一原理による歴史観
【図9】「統一原理」の歴史観は、これらの円環的歴史観と直線的歴史観の二つを統一したユニークな歴史観である。まずこれを視覚的にイメージするために、螺旋階段を思い出してほしい。人が螺旋階段を登っていく様子を上から見れば、それは同じ所をグルグル回っているように見える。しかし横から見ればその人はどんどん上に登っていくのである。この例えにおいては、上に登っていくということが目標に向かって進んでいくという歴史の「直線性」に該当し、同じ所をぐるぐる回るということが同じパターンを繰り返す歴史の「円環性」に該当すると思っていただければ良い。すなわち歴史は同じパターンを繰り返しながら目的に向かって発展していくので、直線運動と円形運動を合成した螺旋形運動として表現されるというのが「統一原理」の歴史観である。したがって歴史を直線的に見るか円環的に見るかというのは、このような視点の違いによって生じたもので、どちらも一面の真理をとらえているというわけである。【図9】
それでは螺旋形の歴史とは具体的にはどういうことを意味しているのだろうか? 「統一原理」において歴史の「直線性」の根拠となっているものは、「神の摂理」という概念である。この点はキリスト教的な歴史観と一致するものだ。神の摂理の目的は、歴史の初めから既に決定されており、絶対に成し遂げられなければならない創造の理想である。神は人間に対してそのような一つの理想を抱いて天地を創造した。しかし、人類始祖アダムとエバの堕落によってその理想は成し遂げられなかった。神はそれでもその創造の理想を決して放棄することなく、アダムとエバの後孫である人類にその理想を完成させるべく、救いの摂理を始められた。したがって歴史は、「神の創造理想の完成」という明確な目標をもっており、それに向かって直線的に進んで行く。これが「統一原理」における歴史の直線性の根拠である。
一方で歴史の「円環性」の根拠となっているものは、人間の失敗による摂理のやり直しである。神の摂理は神ご自身の力によってのみ成就されるのではなく、あくまでも人間の協力が必要である。神は摂理の中心人物を立てて、アダムとエバが失敗した内容を取り戻すべく、使命と責任を与える。その人物がその使命を全うできるかどうかは、あくまでその人個人の責任にかかっているので、当然失敗することもあり得るわけだが、もし失敗すれば神は別の人物を立てて同じことを繰り返させ、前の失敗を取り戻させなければならない。これが似たようなパターンの歴史が繰り返される理由となるのである。これは人類の拡大に伴って個人から家庭、民族、国家、世界的なパターンへと広がっていき、諸々の文明が栄枯盛衰を繰り返す歴史を形成してきたのである。これが「統一原理」における歴史の円環性の根拠である。
以上、歴史が繰り返しながら目標に向かっていくという概念をその基本法則のみ説明したが、それでは具体的にどのようなパターンで繰り返しているのかという点については、詳しくは『原理講論』の「復帰原理」と「歴史の同時性」の部分を読んでいただきたい。なお次の節には、「歴史の同時性」の内容が簡単に説明してある。いずれにしても「統一原理」の歴史観は、神の摂理と人間の責任分担という観点から、歴史を直線的な前進運動と円環運動という二側面をもった運動、すなわち螺旋形運動としてとらえており、従来の歴史観の二大潮流を統一する歴史観であるといえるのである。

カテゴリー: 神学論争と統一原理の世界 パーマリンク