アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳46


第5章 選択か洗脳か?(9)

四つの基本変数

そのような定義から先に進んで、われわれは、誰かが選択をしたか否かを判断したいのであれば考慮されなければならない四つの変数を取り出すことができる。初めに、現在の傾向(関心、価値観、希望、恐怖など)を持った「個人」が存在する。二番目と三番目は、「選択肢」である。この場合は、これまで彼が歩んできた線に沿った生活(彼にはすでに社会について、およびそのような未来がどんなものかについての前提をもっているであろう)を継続するか、あるいはそれに替わるものとして、統一教会に入教するかのどちらかであろう。四番目に、決断を下すに至る際の「社会的状況」があるだろう。言い換えれば、これらの四つの要素、すなわち(1)個人の傾向、(2)彼の過去の経験と社会への期待、(3)統一教会の魅力(あるいはその他)に対する彼の理解、および(4)彼が身を置いている周囲の環境は、すべて最終結果に影響を及ぼし得るのである。それぞれが、彼を運動に加入したいと思わせる(あるいはそうしまいと思わせる)効果を持っている。

これらの要因を取りだすと、われわれは強制と欺罔との間の重要な区別をすることができる。もし社会的状況が結果に関わる唯一の要因であることが発見されたらなら、――もし統一教会の修練会に参加する人が誰でもムーニーになるなら――その場合には個人の選択が停止されていたと考える十分な理由があるだろう。しかしながら、もし統一教会がその信仰と運動における生活について誤った描写をして、それで回心者がこの運動の提供しているものに対する間違った印象を持ったのなら、その時はわれわれは、彼は選択をしたけれども欺かれたと言うことができるだろう。欺かれてはいたが、それでも彼には決断に至る上で能動的な役割を果たす能力があったのである。もし彼がもっと正確な情報に通じていたならば、彼の決断の結果は同じものにはならなかったであろうが。

モデル

【表4】

【表4】

表4は、これら四つの変数の相対的な重要性が、プラス印の相対分布によって示された九つの状況を示している。強制の程度は表の最上段で最も強くなり、最下段で最も弱くなる。必ずしも全ての論理的な可能性が含まれているわけではないが、このモデルは、他の人々がこれまでに示唆してきたり、あるいは追求する価値があると思われる可能性の大部分を、概念レベルで区別することを可能にしてくれる。もちろん、この表は象徴的な表示に過ぎない。それぞれの変数に与えられた重みを正確に定量化することができると言っているのではない。「心理的な被暗示性」と私が呼ぶものは、個人とワークショップの両方が37.5%、社会が25%の要因を提供してムーニーを作り上げる状況だというのではない。そのような定量化ができないのは、社会的な要因ばかりではない。また最終的な結果を決定する上で重要なのは、単なる総和ではなく、むしろ通常は異なった要因の相互作用なのである(注49)。また、これらの状況はどれもが「純粋な形」では存在しそうもないことを強調しなければならない。これらは単に、実際に存在している状況を比較するためのモデルを提供しているに過ぎない(注50)。

心と体の区別は、実際的問題と哲学的問題の両方を伴っている。ここでそれらを追求する必要はないが、人々がムーニーになる理由を還元主義的に、あるいは医学的に説明しようとする人々もいるので、私のデータ分析では、化学生物的・物質的な実体である「脳」と、主観的に経験され「心」を通じて仲介されると考えられる意味の世界とを区別しようとした(注51)。このようにして、私が調査しようとした種類の強制は、まず第一に、二つの基本的なレベルで区別された。初めに「身体的な強制」の可能性があり、それはさらに表4で示された第一の状況、すなわち私が「肉体の拘束」と呼ぶものと、第二の状況である「脳のコントロール」に細分される。「肉体の拘束」は、それ自体では「選択」をするという個人の能力に影響を及ぼすものではないだろう。それは選択したことを実行する能力を規制するだけであろう(例えば、洗脳が成功せず、去ることを望んだ場合)。しかし、「脳のコントロール」は(例えば、麻薬や催眠術の使用を通じて)個人がよく考える「能力」を奪い取るだろう。そのような状況に彼がいる間は、どこにいたとしても、いかなる選択にも着手することはできないだろう。

第二の強制のタイプは、「精神的な強制」ほどには身体的な強制を伴わない。この第三の状況の極端な例である「マインドコントロール」は、ある人の過去の経験の記憶と将来について思い描くことが、ムーニーによって全面的に再解釈され操作されるという結果をもたらすだろう。このように、表4に示された最初の三つの状況では、統一教会の環境以外の変数は、個人が統一教会にいることを説明する上で、実質的に重要性はない。第四の状況である「生物学的な感受性」においては、ここでもワークショップが非常に重要ではあるが、(脳のコントロールの状況とは違って)、不慣れな食事などの要因に対して異常に感受性の高いというような生物学的状況を持った個人に対してのみ、効果があるであろう。そして、個人の社会における経験と統一教会が示す選択肢の内容は、いずれも関連がないだろう。

「生物学的な感受性」が「脳のコントロール」の弱くなった型を表すのと同じように、第五の状況の「心理的な被暗示性」は「マインドコントロール」の弱くなった型を表している。ここでは、ある種の個人は特別に暗示にかかりやすい性格をもち、ワークショップの説得的な力に異常に弱いのである。彼らの社会における経験は、少なからず彼らが選択肢を受け入れる素地になったかもしれないが、しかしその選択肢がいったい何であるかは、ほとんど関係ないだろう。選択肢の内容は、第六の状況、すなわち「社会からの避難」でわずかながらより重要になっている。それが、提示された他の選択肢よりはひどくなさそうに見えるというだけのことである。しかしながら、前の状況とは違って、決定的なのは個人の弱さではなくて、十分な成功や満足を得られなかった彼の社会経験が、ある選択肢を試してみる価値があると思わせたのである。第七の状況である「ユートピアの約束」では、より広範な社会が「プッシュ(押し)」を提供しているのではなく、統一教会の選択肢が「プル(引き)」を提供している。おそらくこれが、何が起こっているかについてのムーニーたち自身による理解に最も近いだろう。彼らは運動が個人(および世界)の諸問題に素晴らしい回答を与えていて、参加しないのが狂っていると信じているのである。

最後の二つの状況は、問題となる個人がどの程度はっきりと異議を唱えることができるかによって異なっている。しかしそれは、私が観察していたプロセスのある側面を解明するために必要であるとみなしたものである。私の選択の定義からこの区別にアプローチすれば、これら二つの状況では、ともに個人の傾向と社会の経験が最終的な決定を下す際に「用いられる」と言うことができるが、第八の状況である「無意識の適合」においては、第九の状況である「意識的な決定」に比べて、彼がそれを用いていることを意識している程度はより少ないであろう。

(注49)例えば重回帰分析などの、さまざまな多変数分析が、何らかの相対的な重みを発見するのに役立つかも知れない。しかし私は自身の分析において、いくつかの統計技術を利用できる立場にあったにもかかわらず、四つの変数の相対的な効果を分離して定量化することはできなかった。そのような試みをすると、変数それぞれがどうしようもなくゆがめられてしまうだろう。
(注50)言い換えると、この状況は社会学者が理念型と呼ぶものである。以下を参照せよ。マックス・ウエーバー「マックス・ウエーバーから:社会学評論集」H・H・ガースとC・ライト・ミルズ編、ニューヨーク、オックスフォード大学出版、1946年;マックス・ウエーバー「社会組織および経済組織の理論」編集・翻訳タルコット・パーソンズ、トロント、フリープレス、1964年、(初版はニューヨーク、オックスフォード大学出版、1947年)
(注51)これは、ポパーが第一世界と第二世界の間を区別するときと類似した区別である。カール・R・ポパー「客観的知識:漸進的アプローチ」オックスフォード、クラレンドン・プレス、1972年を参照。

カテゴリー: 「ムーニ―の成り立ち」日本語訳 パーマリンク