神学論争と統一原理の世界シリーズ16


第四章 救いについて

1.信じるだけで救われる?

道端でプラカードと拡声器を持った人が叫ぶ。「皆さん、主イエスを信じましょう。信ずる者は救われます。信じない者は神の裁きに遭い、地獄で永遠の火の刑罰を受けるでしょう」。暑い寒いにかかわらず、街頭に立って宣教する姿は非常に立派だと思うが、果たしてあれでどれくらいの伝道効果が期待できるのかな? と思ってしまう。信仰をもっている人なら別だろうが、ごく一般的な日本人がこれから受ける印象は、一つの抗し難い「違和感」や「拒絶感」ではないだろうか?

罪の報いは死

罪の報いは死

死後さばきにあう

死後さばきにあう

日本にも「鰯の頭も信心から」という言葉があるが、信仰をもっている人というのは、どこか他人からは理解しがたい独特の観念に取り付かれているというイメージがある。これが「盲信」とか「狂信」とかいわれて非難されるゆえんである。街頭で叫ばれている言葉を素直に聞けば、「信じる」ということが救いに至る唯一のパスポートであり、それがない人は地獄行きを運命づけられているかのように聞こえる。つまり「信じれば救われる」という言葉は、同時に「信じなければ救われない」ということも意味しているのだ。

これを逆から見れば、「信じる」人にとっては宗教的なドグマが「自分は救われる側に属している」という安心感を与えるための、一種の精神安定剤のごとき役割を果たしていることが分かる。世界は「信じる人」と「信じない人」に二分されており、その間に対話の余地はない。あたかもノアの箱船のごとく、受け入れないものは滅びる運命にあるのである。このような偏狭な態度こそ、人に「違和感」や「拒絶感」を与える主要な原因なのではないだろうか?

 

「愛の神」と矛盾する「永遠の地獄」

正統的なキリスト教の教理では、天国と地獄とは共に究極的現実であると教えている。したがって最後の審判の時が来れば、信仰者たちは永遠なる天の祝福を受け、罪人たちは地獄の炎の中で永遠の刑罰を受けて苦しむだろうということになっている。しかしクリスチャンの中には、この教えを「全き愛の神」という教えと矛盾すると考える人々もある。そもそも永遠の地獄などという観念は残酷で非道徳的であり、神の救いの権能を不完全にするものだというのである。さらに、たとえ自分自身が天国に入ったとしても、ほかに入れない人がいるとすれば、救いの喜びも神の救いも完全なものではあり得ないと主張する。
このような主張は「万人救済説」と呼ばれるもので、実はキリスト教の歴史と同じくらい古くから存在するのだが、どちらかといえば非正統的な流れの中に属していた。ところが近代になって、この「万民救済説」は急速に支持者を拡大し、今日では多くのクリスチャンたちが、すべての人が救われることが神の意志であるという意見に同意するようになった。万人救済論者は、神の救いが教会内にしかないとは考えておらず、すべての人々に与えられると信じている。したがって他の宗教に対しても寛容な態度を取るのが普通である。

ところがこの万人救済説にも批判はある。その中でも最も本質的な批判は、万人救済説を信じることは、「人間の自由意志を否定し、道徳観念を不必要なものにする」というものだ。すなわち、個人の信仰にかかわりなく神がどのみち万人を救済してくれるのであれば、何も熱心に信仰する必要はなく、天国に入るために努力する必要もないのだから、結果的に人々は不信仰で怠惰になるというのである。

このような発想の問題点は、「救い」というものを、信じることや善行に対する「報酬」として与えられるものとしてしかとらえていないところにある。「救われるため」とか「天国に入るため」の条件として信仰や善行がなされているとすれば、それは究極的には自己中心的な動機でしかない。このような信仰によってイメージされている神は、人間の生涯における善行と悪行を計算して、その人間が天国へ行くのに値するか、あるいは地獄へ行くのに値するかを決定する厳格な裁判官のようである。そこにおいては信仰も、善行も、救いも、すべて受動的なものでしかない。

 

「天国に行く人」から「天国を築く人」へ

「統一原理」は、このような受動的な救いの概念を乗り越えていく。信仰は救われるための条件ではなく、親なる神の呼びかけに対する子としての自然な応答である。そして善行も兄弟としての隣人に対する自然な愛の発露であり、同時に、全人類を救済しようという神の願いを、一日も早く実現してあげたいという、子としての積極的な働きかけなのである。したがって統一教会のメンバーにとって万民救済説は、より信仰的で道徳的な生活を送るための刺激となっている。文鮮明師の「皆さんは天国に行ける人よりも、天国を築ける人にならなければならない」という信徒たちに対する呼びかけの中に、「統一原理」の救済観が集約されているといっていいだろう。

最後の審判①
バチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂の祭壇に描かれたミケランジェロの「最後の審判」。
中央では再臨したイエス・キリストが死者に裁きを下しており、向かって左側には天国へと昇天していく人々が、右側には地獄へと堕ちていく人々が描写されている。

 

最後の審判②
ドレの版画「最後の審判」。ミケランジェロの「最後の審判」とコンセプトや構図は基本的に同じである。
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