ICRFの秀逸なプレゼンより①


国際宗教自由連合(ICRF)の秀逸なプレゼンより①

世界各地における宗教の自由および人権に対する侵害の状況を報告し合い、これらを保護するための具体的方策を協議する国際会議が、1998年に世界の三カ都市で開催された。第1回目は4月17〜19日にかけて米国の首都ワシントンDCで、第2回目は5月23〜25日にかけて日本の東京で、第3回目は5月29〜31日にかけてドイツのベルリンで行われた。これらの会議は国際宗教自由連合(ICRF、ブルース・カシノー会長=当時)の主導で開かれたもので、いずれも世界各国から約百数十名の宗教家、学者、弁護士、人権活動家などが参加し、活発な議論を交わす実り多い会議となった。

著者は、これら三つの会議すべてに参加するという幸運に恵まれた数少ない者の一人となった。当時、一流の学者たちによって発表された内容を筆者は複数のメディアで報告したが、その中にはいま読んでも説得力のある内容が多い。そこで今回から2回にわたって、ワシントンDCで行われた国際会議で発表された論文の中から、秀逸なものを紹介したいと思う。

<ヨーロッパの反カルト運動>

マッシモ・イントロヴィニエ(CESNUR代表)

マッシモ・イントロヴィニエCESNUR会長

マッシモ・イントロヴィニエ(CESNUR代表:1998年、ワシントンDCで開催されたICRF国際会議にて)

ヨーロッパの反カルト運動は、一般にアメリカから輸入されたものと考えられているが、それは間違っている。実はアメリカでCAN(カルト警戒網)が組織される以前に、既にフランスには反カルト運動があったし、アメリカでサイエントロジーに対する組織的な反対運動が起こる以前に、既にドイツには反サイエントロジーのネットワークがあった。

またヨーロッパ全体に反カルト運動が広がっているというのも間違いだ。イタリアとオランダでは、政府がカルト対策にお金を使う必要はないというのが支配的な世論である。反カルト運動が活発なのは西ヨーロッパのドイツ語圏とフランス語圏の国々、すなわちドイツ語圏のスイス、オーストリア、ドイツ、フランス、ベルギー、およびルクセンブルグである。それ以外の国々では、実はカルト問題にそれほど高い関心は払われていない。

ヨーロッパの反カルト運動は小さいがよく組織されており、資金も豊富で、1970年代初頭から存在した。彼らは80年代に政治的な関心を集めようとしたが成功せず、90年代になって太陽寺院の集団自殺事件が起こってからにわかに注目を浴びるようになった。しかし太陽寺院の事件は単なるきっかけに過ぎない。反カルト運動が勢力を強めるようになった背景には、もう少し実際的な問題が絡んでいるのである。

一つは、共産圏の崩壊と冷戦の終結によって、フランスやドイツの諜報機関が共産主義者を監視する必要がなくなり、仕事が減ったために、カルトに対する警戒をそれに代わる仕事としてクローズ・アップさせたということだ。ドイツのシークレット・サービスが、大した事件も起こっていないのにサイエントロジーの捜査に総動員体制を引いたのは、その仕事がなければ人員を削減されてしまう可能性が大きかったからである。

またドイツの教会の職員には、神父や牧師のほかに「カルト専門家」という役職があり、それによって給料をもらっている人々がいる。彼らは常にカルトは重大な問題であると叫び続けなければ、自分たちが職を失ってしまう危険があるので、常に自己宣伝のために「カルトの脅威」を叫ぶのである。

これに政治的な理由が加わる。フランスにおいては、左翼的な陣営が徹底的に宗教の取り締まりを主張している。彼らは自発的な宗教組織に寛容な米国憲法を徹底的に批判し、世俗の国家が宗教をコントロールするフランス憲法の精神に帰れと叫ぶ。彼らのスローガンは、「もし太陽寺院のような宗教団体が嫌なら、アメリカのようになるな。アメリカのようになればカルトがはびこる」である。このようにフランスでは、左翼的で反アメリカ的な思想の持ち主が、反カルト運動の一翼をなしているのである。

現在ヨーロッパには二つの大きな反カルト文書が存在する。一つは1996年4月にフランスで発行された「フランスのセクト」という120ページあまりの文書だ。もう一つは1997年4月にベルギーの議会が作成した800ページにおよぶカルトに関するレポートだ。これらの文書の構造を研究してみると、四つの柱によって支えられていることが分かる。われわれは、これら一つひとつの柱の信憑性を突き崩していくことによって、これらの文書の虚構性を明らかにしていく必要がある。

第一の柱は、「われわれは宗教の自由を尊重するが、カルトは宗教ではない」というものだ。西ヨーロッパの国々では憲法によって宗教の自由が保証されており、これを真っ向から否定する反カルト運動は存在しない。彼らは宗教とカルトは全く別のものであり、カルトはむしろマフィアや犯罪組織の部類に属すると主張するのである。こうなると当然、いかにして宗教とカルトは区別されるのかという疑問が出てくる。

そこで第二の柱が登場する。それは「われわれは教義信条には関心がない。問題は人々がそこに加入する過程である。宗教は人々が自発的に入るものだが、カルトは心理操作によって人々を加入させるものである」というものである。彼らは「洗脳」という言葉を直接的には使わないが、言いたいことはそれと同じである。

しかし米国心理学会や米国社会学会の学者たちは、洗脳やマインド・コントロールは存在しないという一致した見解を示した。そこで第三の柱が登場する。それは「学者たちの言うことは信用できない。われわれは被害者の言うことを信じる」というものだ。フランスの委員会はいかなる学者の提言も聞き入れないことに決定した。ベルギーの委員会は学者と被害者の両方の意見を検討した結果、被害者の方を信じるという結論を出した。真実を知っているのは被害者であり、学者ではないという訳だ。

しかしこの第三の柱にも問題がある。それは元信者たちの中で信じられる証言をしているのは誰か、という問題である。統計的研究によれば、数多くの元信者たちの中で、自分が所属していた教団に対して敵意を示すのは全体の約15%に過ぎない。しかし彼らは強烈な自己主張をするので人々の耳目を集めやすい。これらの決して主流ではない元信者の発言に基づいて、その教団に対する評価がなされているのである。

そこで彼らは第四の柱として、「元信者のうち誰の発言が信頼できるかは、学者たちの観念的な議論によってではなく、もっと実際的な経験によって判別できる。これによってわれわれは適切な元信者を選択した」という言い訳をするのである。しかし実際にはこの信頼できる元信者というのは、たまたま自分は洗脳されたと強烈に主張するたった一人の証人にすぎないことがしばしばである。

これら四つの柱はことごとく学者たちによって突き崩された。今や反カルト運動は、そのイデオロギーの柱をもう一度初めから立て直さなければならない状態にある。

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