神学論争と統一原理の世界シリーズ02


プロローグ02

すでに「統一原理」を学んでいる方へ

 「反ユダヤ主義(anti-Semitism)」の問題というものをご存じだろうか? この言葉は、ユダヤ教徒およびユダヤ人に対する敵意や迫害を意味するのであるが、現在ではその多くが不当な偏見に基づくものであると理解されている。我々日本人は実際にユダヤ人と接する機会が少ないので、「反ユダヤ主義の問題」といわれてもピンと来ないかも知れないが、ユダヤ人の多いアメリカや、アウシュビッツの悲劇を経験したヨーロッパにおいては、ことユダヤ人に関する発言には慎重な態度が必要であることは広く理解されている。しかし日本にいる限り、そのことを肌で感じることはできない。言ってみれば、このユダヤ人問題の根深さや複雑さを理解するだけの国際感覚が日本人には欠如していたために、あの『マルコ・ポーロ』が数年前に廃刊に追い込まれたような事件を引き起こしたともいえるのである。(注1)

 しかし欧米で「反ユダヤ主義」が批判され、重大な問題として取り上げられているということは、逆にいえば、それだけ深刻な差別や偏見が実際に存在するのだということを物語っている。すなわち欧米でなされている反ユダヤ主義に対する非難の動機には、長い間ユダヤ人を迫害してきたことに対する「後ろめたさ」があるのである。日本ではオウム真理教が妄想的な「ユダヤの陰謀説」を信じていたことが記憶に新しいが、多分あれなどはアメリカのニュー・エイジ運動などに流布していた流言飛語の請け売りであろう。そしてこの「反ユダヤ主義」のルーツをたどっていくと、やはり西欧文明の基盤であるキリスト教に行き着かざるを得ないのである。

ヨーロッパのユダヤ人隔離地区(写真はポーランドのゲットー)

ゲットー2 ヨーロッパのユダヤ人隔離地区(写真はポーランドのゲットー)

 

ユダヤ人偏見のルーツは『新約聖書』

 ユダヤ教徒は歴史的に「キリスト殺し」の烙印を押され、キリスト教徒から攻撃され続けてきた。そしてキリスト教徒は、それを「イエスの敵に対する復讐」という意味づけをして、正当化してきた歴史がある。これは、現実に存在するユダヤ人に何か具体的な欠陥があるから攻撃するというよりは、キリスト教徒がもっている「ユダヤ人に関するお決まりのイメージ」がまず存在し、それを現実のユダヤ人に投影して嫌悪するという傾向が強い。得てして宗教的・人種的偏見とはそんなものだが、このクリスチャンのユダヤ人に対する偏見のルーツをたどっていけば、それはやはりキリスト教の聖典である新約聖書に行き着かざるを得ないのである。

 キリスト教徒は、新約聖書に描かれているパリサイ人や律法学者、あるいはイエスを「十字架につけよ!」と叫んだ群衆の物語などを通して、ユダヤ人についての最初のイメージを形成する。そこに描かれているのは、ゴリゴリの律法主義に凝り固まり、形式にとらわれて神の言葉に耳を傾けようとしない、傲慢で腹黒いユダヤ人の姿だ。しかしこれは歴史的に正しいユダヤ人の描写なのだろうか? そうとは思えない。キリスト教は自分の母胎宗教であるユダヤ教から独立して、民族の枠にとらわれない世界宗教へと脱皮していくために、ユダヤの律法を無益なものとして否定し、その宗教的価値を引き下げる必要があった。したがって福音書の中に描かれているユダヤ人の描写には、ちょうど勝者が敗者についての歴史を書くときのようなデフォルメ(変形)が加わっていると見なければならない。しかしこの歪んだ像は、キリスト教の拡大とともに「普遍的な」ユダヤ人のイメージとして世界中に広められたのである。

『原理講論』の普遍と特殊の部分

 ここまで書くと、皆さんの中には、統一教会もユダヤ人と同様にキリスト教会から誤解と偏見をもって見られ、悪いイメージが世界に宣伝されていると思った方もいるかもしれない。しかしここで私が言いたいのは、それとは全く逆のことだ。実は我々こそキリスト教を誤解してはいないか? と言いたいのだ。特に日本人の場合には、私を含めて統一教会に来る前にキリスト教というものをほとんど知らなかった人が多い。我々のキリスト教についての知識は、主として『原理講論』から得られたものだ。したがって、ちょうどクリスチャンのユダヤ教理解に新約聖書が決定的な役割を果たしたのと同じように、我々のキリスト教理解においては『原理講論』が決定的な役割を果たしているのである。そして問題は、それが正しい理解かどうかということだ。

 『原理講論』がキリスト教に対する憎悪や悪意に基づいて書かれているわけではない。それは基本的に「統一原理」という普遍的な真理を表現することを目的としている。しかし「統一原理」がキリスト教の伝統に根ざし、それに新しい洞察を吹き込むものである以上、既存の神学に対する批判という側面がその中に含まれていることも事実である。そしてそれは、具体的には1950~60年代に、統一教会を迫害していた韓国のキリスト教会の教義に対する「反論」として表現されているのである。その韓国のキリスト教とは、基本的に聖書を文字どおりに解釈しようとする「根本主義者」たちであった。だから『原理講論』には、根本主義的な聖書解釈に対する批判が多く出てくるわけである。しかしこのような批判は、もともと聖書を文字どおりに信じていないリベラルなキリスト教にとっては、あまり意味のないものだ。

 したがって我々は、『原理講論』の中の普遍的な真理の部分と、当面の論争の相手としてあった根本主義に対する批判という、時代的・文化的制約を受けている部分とを分けて読み取らなければならない、ということが分かるだろう。そうしなければ『原理講論』に表現されている根本主義的なキリスト教が、キリスト教のすべてであるかのような誤解を生じることになる。今日、世界的に見れば、根本主義は決してキリスト教の主流とは言えず、特に神学の世界ではその地位は極めて低い。(注2)したがって「クリスチャンは聖書を文字どおりに信じている」というようなレベルの認識をもってキリスト教と対話しようとすれば、笑われるのが落ちなのである。

「一つの宗教しか知らない者は、いかなる宗教も知らない」

 そこで本書は、もうすでに「統一原理」を知っているという人にとっては、西洋を中心とした世界的なキリスト教の伝統の中で、『統一原理』がどのような位置にあり、またどんなところが優れているのかを解説するという意味を持っている。「私は『統一原理』さえあれば十分! これが最高なんだから、他の宗教や思想は聞いても意味がない」と思っている人は、次の二人の賢人の言葉の意味を考えてみてほしい。かつて「一つの言語しか知らない者は、どの言語も知らないのだ」という逆説を述べたのはゲーテであった。これは日本を離れて外国に留学し、外国語と格闘した経験のある私にとっては非常に深い意味を持つ言葉だ。このゲーテの言葉を宗教にも当てはめて「一つの宗教しか知らない者は、いかなる宗教も知らない」と言ったのが、比較宗教学の創始者といわれているマックス・ミューラー(英国1823~1900年)である。

 

マックス・ミューラー

マックス・ミューラー

 自分の属する宗教伝統に対して強い確信を持つのは素晴らしいことだ。しかしそれだけしか知らないのでは、その宗教の真の価値を知ったことにはならないのではないか。それは外国に出てみて、あらためて日本の素晴らしさに気づくのに似ている。そういう意味で、「すでに『統一原理』を知っている」と言う方、あなたは本当に『統一原理』を知っているのだろうか? じっくり考えてみてほしい。

 

<以下の注は原著にはなく、2014年の時点で解説のために加筆したものである>

(注1)雑誌「マルコポーロ」は文藝春秋が発行していた男性向けビジュアル月刊誌(1991年6月号~1995年2月号)。同誌の1995年2月1日号に「ナチの『ガス室』はなかった」と主張する記事が掲載されたことに対し、海外のユダヤ人が猛抗議し、その結果として文藝春秋社が謝罪した上で「マルコポーロ」を廃刊にし、花田紀凱編集長を解雇した事件について言っている。原著が出版された1997年の時点では、まだ「数年前」と言うことができた。

(注2)キリスト教根本主義(Christian fundamentalism)は、歴史的には19世紀から20世紀初頭にかけてイギリスとアメリカで展開された保守的なプロテスタントの運動を指す。彼らは自由主義神学に対抗して、①聖書の霊感と権威(聖書の無誤性)、②キリストの処女降誕、③代償的贖罪の教理、④キリストの体の復活、⑤イエス・キリストの再臨――などをキリスト教の「根本的な(fundamental)信条」として主張した。その意味で「ファンダメンタリスト」はもともとは誇り高い名称であったが、今日ではこの言葉はしばしば、レッテル張りのため攻撃的な侮蔑語として用いられるようになったため、根本的な信仰を持つ者でも、蔑称としてこの語で呼ばれるのを拒否するようになった。「福音派」「福音主義」(Evangelical)という言葉は、内容的には「根本主義」と近いが、今日でも肯定的な意味で用いられる。現在では、アメリカにおいては福音派の信徒数は拡大しており、数においてはリベラルを圧倒するようになり、「主流」と言ってもよいほどの勢力になっている。

 

 

 

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